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横浜地方裁判所 平成7年(ワ)1625号 判決 1996年4月30日

原告

米元清

右訴訟代理人弁護士

岡田尚

杉本朗

被告

株式会社藤沢医科工業

右代表者代表取締役

小寺真一

右訴訟代理人弁護士

佐藤利雄

神崎直樹

松下勝憲

主文

一  原告が、被告に対し、雇用契約上の権利を有する地位にあることを確認する。

二  被告は、原告に対し、金一〇万九三九二円及び平成六年一一月から毎月二五日限り金一六万七六〇〇円を支払え。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決は、二項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一本件請求

原告は、被告に雇用された労働者であるところ、被告は原告との間の雇用契約の存在を否定して就労を拒否していると主張して、被告に対し、原告が雇用契約上の権利を有する地位にあることの確認を求めるとともに、平成六年一〇月分の未払賃金一〇万九三九二円を支払うこと及び同年一一月分以降の賃金として月額一六万七六〇〇円ずつを約定の支払日である毎月二五日限り支払うことを求めている。

第二事案の概要

一  当事者間に争いがない事実

1  被告は、訴外医療法人直源会(直源会という。)が設置している相模原南病院(南病院という。)の病院施設の警備等を目的とする株式会社であり、原告は、平成六年四月一一日に被告との間で期限の定めのない雇用契約(本件雇用契約という。)を締結し、南病院の警備の業務に従事していた。

2  被告は、原告に対し、原告が平成六年九月三〇日をもって退職しているとして、同日からの就労を拒否し、賃金を支払う意思のないことを明言した。

3  原告の平均賃金は一六万七六〇〇円であり、本件雇用契約によると、賃金の支給は毎月一五日締切りの当月二五日払いである。被告は、平成六年一〇月分(同年九月一六日から一〇月一五日までの分)の賃金のうち、同年九月三〇日までの分五万八二〇八円を支払ったのみで、残金一〇万九三九二円を支払わない。

二  争点及びこれに関する当事者の主張

原告と被告との間で、本件雇用契約を解除する旨の合意が成立したか、否か。

1  被告の主張

(一) 原告は、平成六年八月九日、口頭で被告に対し、同月三一日をもって退職する旨申し出た。被告は、右の申し出自体は承諾したが、後任者が決定するまで退職日を遅らせてもらいたい旨を申し入れたところ、原告は、これを承諾した。被告が後任者を募集して、同年九月八日に訴外中嶋繁(ママ)光(中嶋という。)を後任者として雇用した上、その後原告と話し合った結果、原告の退職日を同月三〇日とすることを合意した(第一次合意という。)。

(二) 仮に、右(一)の退職日の合意が撤回されたとしても、原告と被告は、同年九月二七日及び三〇日の協議により、同年一〇月一五日を退職日とすることを合意した(第二次合意という。)。

2  原告の主張

被告の右主張は、いずれも否認する。

第三争点に関する判断

一  証拠により認められる事実

証拠〔<証拠・人証略>〕によれば、以下の事実が認められる。

1  被告は、直源会の警備、清掃部分の受託業務をしており、被告の人事等に関する事務は、被告の代表取締役小寺真一及び被告の取締役であり直源会の事務局長でもある石川直正(石川という。)の指示の下で、直源会の事務局事務課の職員である本荘邦彦(本荘という。)が掌握していた。

2  原告は、試用期間を経た後、平成六年七月一日付けで本採用辞令を受けた。同年七月当時、直源会の警備業務は、三人が午前八時四五分から翌日の同時刻までの一日二四時間勤務を三日に一回ずつ交替で(つまり、一人は一か月で合計一〇日間)勤める体制であり、右警備業務に従事していた者(警備職員という。)は、原告、吉沢三郎(吉沢という。)、秋元盛(秋元という。)、柏西緑夫(柏西という。)の四名であったが、その中で日中の警備業務である日勤と夜間の警備業務である当直の両方を二四時間勤務で行っていた者は原告及び吉沢の二名であり、秋元は身体の具合が悪かったため当直だけのことがあり、柏西は日勤だけであった上に病気のため休みがちであったので、事務職員が日勤を代行したりするような状態であった。

なお、柏西は、病状が悪化して同月下旬に入院し、同年八月中旬に被告を退職した。

3  原告の賃金は本採用後も試用期間中のそれと同額であり、七月の賞与も支給されなかった。また、南病院の警備業務は二四時間勤務で仮眠時間が設定されているにもかかわらず、死亡者が出て一晩中眠れないことがあり、日曜・祝祭日に出勤しても割増手当が支給されないことなどの待遇に不満をもっていた原告は、同年八月三日、本荘に対し、「今の賃金では生活が苦しいので何とか方法を考えてもらえないか。でなければ辞めざるを得ない。」「他にも来てくれというところはある。」旨話した。これに対し、本荘は、「賃金は安いかもしれないが、急に言われても困る。上の人に相談してから返事をする。」旨返答した。

そして、同月中旬ころ、原告は本荘に対し、給与が安いので勤務時間を増やして欲しい旨要望したが、本荘は応じなかった。その後同年九月二二日にいたるまで、原告の退職問題について原告と本荘が話をしたことはなかった(中嶋を原告に紹介した際、退職問題を話した旨の<証拠略>記載の供述は信用しない。)

4  本荘は、石川の承認を得て、同年八月一七日までに新聞の折り込み広告会社である株式会社アイデムに対し、求人案内紙に職員募集広告の掲載を申し込んだ。右広告は同月二一日及び二八日の二回にわたり求人案内紙に掲載され、被告は、これに応募してきた者を同月下旬から同年九月上旬にかけて面接した上で、同月八日中嶋を新たに警備職員として雇用した。

5  同月二日、本荘は原告に対し、「募集で一人入ってきたが、まだ細かい話もしていないし、定着するかどうかわからないのでしばらく様子をみたい。」旨話したが、原告が辞めるかどうかということは何も話に出なかった。

6  同月二一日、原告は夜勤明けで千葉にある実家に帰っていたところ、母親の具合が悪くなったので、翌二二日の昼ころ、本荘に二三日の勤務を休みたい旨電話で連絡したところ、本荘は、「急に言われても困る。」「九月末日で退職してくれるんでしょうね、退職してもらわないと困るんですよ。」と言い出し、さらに、「とりあえず一〇月の勤務ローテーションからはずします。」と言ったので、原告は、その話は出勤してからにしたい旨述べた。

7  同月二四日及び二五日は、原告は出勤を要しない日であった。

8  同月二六日、原告は出勤したが何事もなかった。しかし、その次の原告の出勤日である同月三〇日の夜勤明けの際、本荘から「九月二二日に電話で話したとおり、本日付で退職してもらえるんですね。」と言われた。原告は、本荘から、同月二日に原告と話した時に九月一杯で退職する旨確認をとったと言われたが、「一切そのような話をした記憶はないし、九月一杯で辞めるつもりもない。」と返答し、今辞めても失業保険が出るわけでもないし、九月二四日に労働組合を結成し、今後賃金や職場環境の改善が行われていくので、当面は我慢して夜勤ができなければ日勤だけでも続けていくという話もした。これに対し、本荘は、失業保険の受給資格があれば退職届を出すのかと尋ねたが、原告は、煩わしくなり返事をしなかった。

9  同年一〇月一日、本荘から原告の自宅に電話があり、上司と相談した結果、同月一五日までの延長を認められたので返事をもらいたいと言うので、原告は、「退職するつもりはないので三日(次の原告の出勤日)に話をしよう。」と答えた。

10  原告は、同月三日に出勤し本荘と話したところ、本荘は、あくまで同月一五日付けで退職してもらいたいと言うので、原告は、四日に神奈川県地方労働委員会のあっせんによる団体交渉が予定されており、原告の問題も提起されているのでその後でなければ回答するつもりはない旨述べ、本荘が今日は帰ってよいと言うので帰宅した。また、同日本荘は原告に対し、同月一五日まで有給休暇をとって休むよう言った。翌四日の午後以降、原告のタイムカードがはずされた。

11  原告は、同月六日、相模原労働基準監督署(労基署という。)に行って本件について説明し、被告に対する行政指導を求めたところ、労基署から、一五日まで有給休暇で休んでよいということは原告の在職を被告が認めているということであり、雇用が確定している段階では指導する立場にないと言われ、今の段階で文書で退職しない旨の申し出をしておくとよい旨助言された。

12  そこで、原告は、同月一二日、相模原南病院労働組合(南労組という。)委員長今市一雄の立ち会いの下で、原告には退職の意思がない旨記載した被告宛の書面(<証拠略>)を本荘に手渡した。

右書面は、同月一八日原告宅へ返送されてきたので、原告は翌一九日、直源会理事長及び石川宛に退職意思がない旨、内容証明郵便をもって通知した。

13  以上の経緯の中で、退職届等原告の退職意思を明確にする旨の書面は作成されておらず、被告あるいは直源会の側から原告に対しその提出を求めたこともない。

14  なお、直源会では、その職員の一人である大島照子の配転問題を契機に、石川の運営方針に不満をもつ職員らの中で組合結成の気運が高まり、同年九月二一日の昼休み時間内に、南病院の全職員宛に労働組合の結成を呼びかける「相模原南労働組合ニュース」が南病院内の職員食堂前で配布され、同月二四日南労組が結成された。原告もこれに組合結成呼びかけ人として名を連ねており、本荘は右ニュースを同月二二日までには見ていた。右の動きを知った直源会側は、同月二四日に臨時の朝礼を開き、そこで石川は、「民間病院で組合を作ったら病院は伸びない。こういうことをやる職員はいい職員ではない。」旨の発言をした。

その後、同月下旬から翌一〇月上旬にかけて、本荘らによって相模原南病院職員組合の結成が呼びかけられ、本荘を委員長とする同組合が同月二二日に結成された。

二  ところで、本件では、原告と直接やりとりをした本荘が、当法廷において証言したほか、神奈川県地方労働委員会における不当労働行為救済申立事件の審問において被告の主張にそう証言をし(<証拠・人証略>)、陳述書(<証拠略>)も作成している(以上の各証拠をまとめて本荘証言という。)。また、本荘証言を裏付けるがごとき証拠も存在する(<証拠略>)。しかし、いずれも供述証拠の類であり、しかも原告と直源会側とが南労組の結成をめぐって対立関係にあったと窺われること(第三の一の14に認定の事実)を考えると、本荘証言及び(証拠略)の供述記載をうのみにするのは危険であり、右各証拠を子細に検討すれば、以下に述べるとおり、いずれも被告の主張を認めるには足りない。

1  まず、争点に関する被告の主張(一)(平成六年八月九日における原告の退職申し出と第一次合意の存否)について検討する。

(一) 本荘は、本件に先立って申し立てられた仮処分事件の審理において、平成六年一二月二〇日の時点では、原告から最初に退職申し出があったのは同年八月一〇日であるとしており(<証拠略>)、その後平成七年二月八日になって、原告の退職申し出の日は平成六年八月九日であったと訂正し(<証拠略>)、当法廷において、(証拠略)の陳述書は(証拠略)に基づいて時間の流れに従って作成したこと、(証拠略)は同人の備忘録として直源会に勤務して以来つけているもので、同人の業務の上の出来事で忘れてはいけないこと、記録しておかなければならないことを随時記入しているが、事柄によっては日付が前後する場合があること、原告の退職申し出の日を同月九日に訂正したのは、同月一〇日は原告の勤務日ではないのでその日に原告と本荘が話しているはずはない旨原告に指摘されて事実を確認したところ、原告の指摘が正しかったからであると証言している。

(証拠略)をみると、同月一〇日に記載した部分に続いて何の日付もなく「米元氏より退職申し出、今月一杯で―守衛室」との記載があり、次のページに同月九日付けの記載、続いて同月一一日付けの記載がなされているのであって、仮に本荘証言を信用するならば、右退職申し出の記載は、申し出があった当日である同月九日に記載されず翌一〇日以降に記載されたものであると理解するしかない。しかし、本来三人で交替でなすべき警備業務であるのに二四時間勤務できるのは原告を含めた二名だけで、不足を補うために事務職員が日勤をすることがあったという状況(第三の一の2に認定の事実)下において、原告に退職されてしまうのは被告及び直源会にとって重大事であること、右退職申し出の記載の次のページに同月九日付けの記載があることを考えると、退職申し出があった当日に記載せず翌一〇日以後に何の日付もつけずに一〇日の出来事とまぎれて記載したというのは理解に苦しむところであって、右記載が本荘の経験した事実を正確に記載したものかどうか疑問がある。

(二) しかも、原告が転職を真剣に考え、後任者が得られるまで退職の日を延ばしていたにすぎないのであれば、後任者の手配等に気を掛けるのが通常であるのに、同年九月二二日ころまで原告が本荘に対し自分の後任者はどうなっているのか等と尋ねて退職問題をむしかえしたこともないというのである(これは本荘自身も認めている)。また、原告は、直源会の職員の待遇改善等を求めるため南労組の結成に加わっているが、これも近々退職を予定した人物の行動とは考えにくい。更に、確かに被告は、同年八月に警備職員を募集して同年九月八日に中嶋を雇用している(第三の一の4に認定の事実)ものの、前述のとおり、本来警備業務に従事しないはずの事務職員が日勤を手伝う状態であったことに加えて同年八月中旬に柏西が退職して更に警備業務が人手不足になったこと(第三の一の2に認定の事実)を考えると、中嶋が原告の後任者であったとする本荘証言及び(証拠略)の供述記載をそのとおりには信用することはできないし、本荘が同年九月二二日ころまで原告の退職問題を持ち出したこともなく、被告は原告の退職申し出について何ら書面を要求していないことも、退職予定の職員に対する雇用主の対応としては不自然であるといわねばなるまい。

(三) なお、(証拠略)についてであるが、吉沢は、本荘を通じて同年八月三一日付けでの退職を承認された旨原告から聞かされたこと及び原告の勤務時間中の態度が悪かったこと等を述べているが(<証拠略>)、第三の一の2に認定の警備職員の勤務体制からいって、原告の勤務態度を吉沢が的確に認識し得たとは考えにくいし、また同日付けでの退職を承認したなどとは原告の供述はおろか本荘証言にも全く出ていないことであって、(証拠略)は信用できない。

また、中嶋は、同年九月一一日原告の後任者として引き継ぎを受けた旨述べているが(<証拠略>)、前述のとおり中嶋が原告の後任者であったと認定するに足りないことを考えると、これも信用しがたい。

また、石川も、八月一一日に本荘から原告の退職申し入れについて報告を受けた旨述べているが(<証拠略>)、前述のとおり本荘証言が信用できないことに加え、石川が、第三の一の14に認定のとおり、原告ら南労組の批判の対象として原告と対立する立場にあったと窺えることを考えると、これも信用しがたい。

(四) 以上、同年八月九日における退職申し出と第一次合意についての被告の主張にそう各証拠はいずれも右主張事実を認めるに足りず、他に右各事実を認めるに足りる証拠はない。

2  次に、争点に関する被告の主張(二)(第二次合意の存否)について検討する。

(一) 被告の右主張にそう主な証拠としては、本荘証言がある。また、原告は同年一〇月一五日まで本荘に言われるまま有給休暇をとっていたこと及び同年九月三〇日の原告と本荘との話し合いで雇用保険のことを言いだしたのは原告であることが認められるところ(第三の一の8及び10に認定の事実)、原告は被告に雇用される前の職場を退職する際にやはり有給休暇をとっていたこと(原告本人)を考慮すれば、原告は右有給休暇の意味を理解していたのであり、雇用保険の受給資格が生じる同年一〇月一一日より後の同月一五日付けの退職に同意していたのではないか、という疑問が生じる。しかし、右の事実一事をもって第二次合意があったと認めることができないのはいうまでもない。

(二) そして、前説示のとおり、そもそも同年八月九日の原告の退職申し出の事実が認められないのであり、そうである以上、それを前提とする退職の日についての合意は、被告主張の第一次合意であれ、第二次合意であれ、たやすくこれを認めることはできない道理である。

しかして、同年九月二四日に原告が呼びかけ人の一人である南労組が結成されたのに、その数日後に原告が本荘に退職を申し出て退職の合意をしたとは考えにくい。しかも、原告は同年一〇月六日に労基署に相談に行き、同月一二日、一九日の二回にわたって退職意思がない旨の書面を被告と直源会側に出しているが(第三の一の11及び12に認定の事実)、これも退職の合意をした者の行動としては甚だ不自然である。

(三) また、仮に本荘証言を信用するならば、同年八月九日から同年九月三〇日にいたるまで少なくとも四回は本荘と原告の間で原告の退職をめぐって、話し合いがなされ、いったん成立した第一次合意を撤回して再度第二次合意が成立し、その間、原告も呼びかけ人となって南労組が結成され、最終的に第二次合意が成立するに際しては原告の雇用保険の受給も考慮されたというのである。このように最終的な合意に至るまで何度ももめたのならば、雇用主である被告あるいは直源会の側としては、後日の紛争を防止するためにも、原告に退職願等の退職意思を明確化した書面を要求するのが通常と考えられ、原告とのやりとりを記載した記録を残すことを考慮するのが当然であるし、せめて雇用保険関係の書類だけでも作成していて然るべきである。それなのに、右のような書面が何ら作成されていないというのは、雇用主の態度としては理解に苦しむというほかない。

(四) したがって、以上の諸事情を考慮すれば、原告が九月二二日以前はもちろんのこと同日以後も退職の意思を有していたと認めることはできず、同年一〇月一五日を退職日とする旨の第二次合意も成立したと認めることはできない。

三  以上、争点に関する被告の主張はいずれも理由がないので、原告と被告との間の本件雇用契約は終了しておらず、原告は、右契約に基づく雇用契約上の権利を有する地位にあるというべきである。

第四結論

以上により、原告の各請求は理由があるのでこれをいずれも認容し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡邉等 裁判官 間史恵 裁判官木下秀樹は、転補のため署名、捺印することができない。裁判長裁判官 渡邉等)

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