横浜地方裁判所 昭和30年(わ)409号 判決 1958年6月06日
被告人 上山悦郎
主文
被告人を懲役五年に処する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となる事実)
被告人は上山貞雄(明治二二年一一月五日生)及び上山チヅ(明治二六年一二月一三日生)の長男として出生し、昭和一二年三月東京歯科医学専門学校卒業後、上海で歯科医を開業していた父貞雄のもとで歯科医業に従事していたが、父貞雄が病弱であるため昭和一四年頃からは専ら被告人が患者の診察治療にあたつていた。終戦当時は上海市子路二三六号で開業して居り、同所に両親、実弟節治(大正五年二月九日生)、実妹幸子(大正七年一一月三〇日生)、実妹善子(大正一五年三月一一日生)と居住していたが右節治及び幸子は昭和二一年四月頃帰国し、その後同年六月頃右子路の住居は中国国民政府に接収されたため、被告人等一家四人は同市呉淞路東興里一九号に移転し、同所で歯科医業を継続していた。昭和二二年四月頃中国国民政府により被告人方の歯科医療器械二組を接収されようとした際、父貞雄が同政府係官に家具、金銭等を贈つてその一組の接収を免れ、その後も同所で歯科医業を続けていたところ、その後中共政府治下となり、昭和二七年一月頃から上海地区において同政府はいわゆる三反、五反運動と呼ばれている綱紀粛正に乗り出したため、被告人や父貞雄も同年五月頃から前記国民政府官吏に対する贈賄の件に関し度々公安局へ呼び出されて取調を受けることとなり、被告人としてはくわしい事情を知らなかつたにもかかわらず、知らぬはずがないと問い詰められたうえ、これに関する担白書の提出を命ぜられ、やむなく父貞雄に聞いて担白書を作成しこれを提出すると、今度は他人と相談して担白書を作成したと責められて、係官から「はつきりしないと留置する」と申し渡され、当時被告人としても粛正運動の結果自殺者が出ていることを聞知していたときでもあり、又その頃患者から浪費者も五反運動の追及を受けるということを聞き自己の生活を省みて自ら浪費者にあたるものと考え、結局自分も処罰されるのではないかという恐怖心を持つに至り、更に被告人は、同年七月頃から共産主義思想を研究するいわゆる学習会に週一回参加していたが、その席上婦人を弄んだ者は厳刑に処せられるということを聞かされたので、かつて被告人が二人の中国人女性と交際したことを想起し、この女性達との交際も女を弄んだことになるのではないかとまで心配するに至つた。又学習会に出席しているうちに、両親を封建的独裁的思想の持主と思い込み、共産主義思想と父母の思想との間の板ばさみになりそのいずれに従うべきかを思い悩み、遂に同年八月二六日頃には自分は中国に残留して働いた方が中国のためになると考え、すでに中共政府から被告人等一家四人に対する帰国許可が下りていたにもかかわらず、被告人は帰国しないと言い出したが、結局両親や知人神崎音一郎に説得され、被告人も帰国することになつていた。
元来被告人は内向的粘稠性格で独立性、社会性に乏しく、その人格に軽度の異常性が存していたが、かかる異常性格の上に、前記のような三反五反運動による粛正に対する恐怖感や、学習会で教え込まれた共産主義思想と封建的独裁的と被告人が思い込んでいる両親の思想との間にあつてこれが去就の困難から心的葛藤に陥り反応性抑うつ状態にあつたものであるが、同年八月三〇日前記自宅で午前八時三〇分頃起床し、同日一〇時頃から一時間位かかつて中国人の女の患者の治療をし、昼食後はげしい頭痛を感じて午後からの患者の診察を断わり自宅中二階のベツトに横臥しているうち、同日午後五時頃屋外から聞えた物売の声を中国語で「五時までにやれ」、次いで「えーぞ、えーぞ」と叫んでいるように聞き取り、これと相前後して被告人方西隣の桶屋の竹内方から聞えた音が金槌で釘を打つ音のように感ずるや前記のように反応性抑うつ状態にあつた被告人は衝動的に金槌で両親を殴打しようという気になり、一階技工室へ行き、同室の技工台の上にあつた歯科技工用金槌(太さ二寸、長さ三寸位の金属部分に一尺位の木の柄がついているもの)を持つて隣室居間に至り、同間中央においてあるテーブルの南側に立つて右テーブルの東側に坐していた父貞雄の頭部を右金槌で殴打し、次いで右テーブルの北側に行き同所に坐していた母チヅの頭部を右金槌で殴打し、更に数回に亘り交互に右両名の頭部を右金槌で殴打し、よつて右両名を即死するに至らしめたもので、被告人は右犯行当時心神耗弱の状態にあつたものである。
(証拠の標目)(略)
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は被告人は本件犯行当時心神喪失の状態にあつたものである旨主張するが前掲各証拠によれば被告人の家系の中には精神病者や極端な性格異常者はなく、精神神経病的遺伝負因が認められないほか、被告人自身にも精神状態の異常を思わせるような顕著な既往歴がなく、又歯科医としての診察治療を本件犯行当日まで続けその間特に治療方法を誤つたというような事例もなく、本件犯行直後被告人は保長のもとへ赴き自己の犯行を述べ、警察(公安局)への電話連絡を依頼したうえ保長を伴い犯行現場である自宅へ戻つて来ていることが認められるのである。殊に被告人の検察官に対する昭和二九年八月三日附供述調書によれば被告人は検察官に対し何回か殴つているうちにとんでもないことをしてしまつた、ひどいことをしてしまつたと気付きました。それですぐ技工室へ行つて立つたまま机へ寄りかかつておりましたが自殺しようかという気も一寸おきました。しかしやつてしまつた事だから警察へ届けようと思い直し、中国人の保長の家へ行つて公安局へ電話してもらつたのです。そして保長が自宅へ一緒に来てサムスツーツーとどうしてやつたのかという意味の中国語でたずねたので私は卓上カレンダーの紙に鉛筆で中国語で父母は中国共産党に反対だから殺したという意味のことを書きましたとの旨を供述していることが認められ、被告人の検察官に対する同年六月二八日附供述調書同年七月八日附供述調書によれば右各取調の際も被告人は検察官に対し、前同趣旨の供述をなしていることが認められる。
更に前掲証拠によれば、被告人は本件犯行直後頃(翌日か翌々日頃)の取調の際金槌で両親を殴打したことを認め、右犯行に供した金槌を示されそれを確認していること、犯行当日の午後被告人が特にはげしい頭痛を感じていたにもかかわらず犯行直前の午後四時頃外出した妹善子の外出先、外出目的を犯行直後馳けつけてきた麻生泰範に対し正確に述べていること、犯行後二年近く経過した後においても犯行の模様凶器の形状、犯行前後の行動について追想力を保持し、検察官に対し比較的詳細に且つ整然と供述していること、犯行直後中共政府に身柄を拘束され昭和二九年六月二日釈放されるまでの約一年九ヶ月間のうち精神異常の疑いで入院したのは犯行後一年を経た昭和二八年八月三一日から昭和二九年一月八日頃までの四ヶ月余り上海市内フランス租界にある普慈療養院に入院したに過ぎず、右病院において脊髄液や血液の検査その他歩行や計算をさせられる等の診察は受けてはいるが、電気衝撃療法等精神病に対する特別の治療措置を受けて居らず、被告人も軽症患者であると言われていた旨供述していること、帰国後現在に至るまで被告人の精神状態に異常のないこと等が認められるのである。これら被告人の遺伝関係、既往歴、犯行前後の状況についての叙上認定事実を綜合すれば本件犯行当時被告人は事理の弁識力を全く欠如し、心神喪失の状態にあつたものと認めることはできない。しかしながらすでに判示したように、被告人は本件犯行当時本来の異常性格の上に綱紀粛正運動に対する恐怖感、それに共産主義思想と両親の思想との板ばさみから生じた強度の心的葛藤が重なつて反応性抑うつの状態に陥り事理を弁識する能力が著しく減弱した状態にあつたところ、たまたま「五時までにやれ」とか「えーぞえーぞ」と聞える物売の声、それと相前後して聞えて来た金槌の音のような音を錯聴し衝動的に本件犯行に及んだものであつて、被告人の右犯行は心神耗弱の状態においてなされたものと認められるのである。従つて被告人が本件犯行当時心神喪失の状態にあつたものであるとの弁護人の主張は採ることができない。
(法令の適用)
被告人の判示上山貞雄及び上山チヅに対する各尊属傷害致死の所為はいずれも刑法第二〇五条第二項に該当するところ、いずれも所定刑中無期懲役刑を選択し、被告人は本件各犯行当時心神耗弱の状態にあつたものであるから同法第三九条第二項、第六八条第二号により法律上の減軽をなし、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから、同法第四七条本文第一〇条により重いと認める上山貞雄に対する尊属傷害致死の罪の刑に同法第一四条の制限内で併合罪の加重をなし、犯罪の情状憫諒すべきものがあるから同法第六六条第七一条第六八条第三号により酌量減軽をなし、その刑期範囲内で被告人を懲役五年に処することとし、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文により全部被告人の負担とする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 吉田作穂 鈴木照隆 松野嘉貞)