横浜地方裁判所 昭和51年(行ウ)16号 判決 1979年11月21日
鎌倉市由比が浜二丁目二四番
原告
沼正也
藤沢市朝日町一丁目一一番
藤沢税務署長
被告
下村慧
右指定代理人
藤村啓
同
三上正生
同
水庫信雄
同
石井宏
同
中村政雄
同
金田晃
同
山崎正隆
主文
一 被告が原告の昭和四一年分所得税について昭和四四年七月一五日付でなした再更正処分のうち総所得金額三〇〇万一〇七五円、所得税額五八万九四二〇円を超える部分及び過少申告加算税賦課決定処分をいずれも取消す。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文と同旨。
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 原告は、被告に対し、昭和四二年二月二四日、原告の昭和四一年分所得税について、総所得金額を二九五万五六五九円(給与所得の金額二七〇万九三二〇円、雑所得の金額二四万六三三九円)、所得税額を五七万三六七〇円とする確定申告をしたところ、被告は、同年八月一六日付で、総所得金額を三〇〇万一〇七五円(給与所得の金額二七〇万九三二〇円、雑所得の金額二九万一七五五円)、所得税額を五八万九四二〇円とする更正処分をし、さらに、昭和四四年七月一五日付で、総所得金額を三四二万一〇七五円(給与所得の金額二七〇万九三二〇円、雑所得の金額七一万一七五五円)、所得税額を七四万〇八〇〇円とする再更正処分及び過少申告加算税額を四五〇〇円とする賦課決定処分をした。
2 そこで、原告は、右再更正及び賦課決定処分を不服として、同年八月一二日被告に対して異議申立をしたところ、被告は、昭和四五年四月二〇日右申立を棄却する旨の決定をした。さらに、原告は、同年四月三〇日東京国税局長に対して審査請求をしたところ、国税不服審判所長は、昭和五一年五月二七日審査請求を棄却する旨の裁決をした。
3 しかしながら、被告がした再更正処分のうち総所得金額三〇〇万一〇七五円を超える部分は、原告の所得を過大に認定したものであるから違法であり、右処分を前提としてされた過少申告加算税賦課決定処分も違法である。
よって、右各処分の取消を求める。
二 請求原因に対する認否
請求原因1及び2の事実は認め、3の主張は争う。
三 被告の主張
1 被告がした再更正処分において争いのある雑所得の金額四二万円は、原告が訴外株式会社三和書房(以下「三和書房」という。)から昭和四一年中に受領した六〇万円(三月八日に一〇万円、五月二三日に二〇万円、六月一七日に三〇万円)を、被告において、原告の印税収入と認めて、雑所得の収入金額を六〇万円、右収入金額に係る経費を控除した雑所得の金額を四二万円として加算したことによるものである。
2(一) 原告は、昭和三〇年ころから、三和書房より、法学教科書として「法学序説」、沼正也著作集(以下「著作集」という。)として、著作集1「親族法の総論的構造」、著作集2「財産法の原理と家族法の原理」、著作集3「家族法の基本構造」、著作集4「民法における最善性と次善性」、著作集5「法学へのささやかな接近」、著作集6「民法のうちとそととの小品集」、著作集7「民法におけるテーマとモチーフ」の各書籍を出版していた。
(二) 訴外上京税務署所部の係官が三和書房の法人税及び源泉所得税について調査した際、三和書房が著作集2、4、5、6の四著書に係る印税の内払いとして、昭和四一年中に前記合計六〇万円を原告に支払っていたこと、原告は右印税収入について申告していなかったことが判明したことから、被告は本件再更正処分をしたものである。
3 原告が昭和四一年中に三和書房から受領した六〇万円は、次のとおり、原告の印税収入と認めるのが相当である。
(一) 三和書房は、印税支払に関する事務を、ルーズリーフ式帳簿に出版図書ごとの補助簿(以下「著書別カード」という。)を設け、これに発行年月日、発行部数、小売価格、印税の額及び印税の支払事績を継続して記帳することによって管理している。
(二) これを原告の著書についてみると、次のとおりである。
(1) 著書「法学序説」の出版に係る印税について、同書の著書別カードには、昭和三一年から昭和三八年までの事績が記載されている。
右によると、三和書房は、昭和三一年から昭和三五年までは印税率一七パーセント、昭和三六年以降は一八パーセントの割合で印税を算出し、原告に支払っている。
(2) 著書「親族法の総論的構造」(著書集1)の出版に係る印税について、同書の著書別カードには、昭和三一年から昭和三九年までの間の事績が記載されている。それによると、三和書房は、昭和三一年から昭和三五年までは印税率一七パーセント、昭和三六年以降は一八パーセントの割合で印税を算出し、原告に支払っている。
(3) ところで、著作集2、5、6の各著書別カードには、各著書の発行年月日、小売価格、発行部数の記載はあるが、右(1)、(2)のように具体的に印税の額を算出し、その額を支払った旨の記帳はない。
また、著作集4の著書別カードには、右の記帳もない(なお、同著書は、昭和三八年中には出版されている。)。
(4) しかしながら、著作集2の著書別カードをみると、三和書房は、昭和四〇年五月一四日、昭和四一年三月八日、同年五月二三日及び同年六月一七日に、「著作集2、4、5、6四点込にて、内払」として、右各日付で、それぞれ三〇万円、一〇万円、二〇万円、三〇万円を原告に支払った旨の記載がある。
(三) 右の事実からすれば、右(1)、(2)の事実に比較すると右著作集2、4、5、6の各著書の印税について著書別カードの記帳に不十分な点があるとはいえ、原告が昭和四一年中に三和書房から印税収入として合計六〇万円を受領したことは明らかというべきである。
4(一) ところで、原告と三和書房との間には印税に関する出版契約書等はなく、また、各著作集毎の印税の発生日が明らかではなかった。このような場合には、一般的に著作権者が当該金額を受領した時点にその所得が発生したとみるのが相当であるら、被告は、右印税収入を原告が受領した年度である昭和四一年分の雑所得の収入金額と認定した。
(二) そして、右収入金額六〇万円から通常必要と認められる経費一八万円(収入の三〇パーセントに相当する金額)を控除して雑所得の金額を四二万円と算定した。
5 過少申告加算税賦課決定処分の適法性
被告は、国税通則法六五条一項に基づき、再更正処分による申告納税額二〇万一八〇〇円(所得税額七四万〇八〇〇円から源泉徴収税額五三万八九九八円を控除したもの。百円未満切捨て。)から更正処分による申告納税額一一万〇四〇〇円(所得税額五八万九四二〇円から源泉徴収税額四七万八九九八円を控除したもの。百円未満切捨て。)を控除して算出した(千円未満切捨て。)再更正処分に基づき納付すべき所得税額九万一〇〇〇円に、百分の五の割合を乗じて得た四五〇〇円(百円未満切捨て。)に相当する過少申告加算税を賦課決定した。
四 被告の主張に対する認否
1 被告の主張1の事実は認める。
2(一) 同2のうち、著作集3の出版は否認し、その余の事実は認める。
なお、原告が昭和四一年当時までに三和書房から出版している著書編書には、被告の主張する著書(但し、著作集3は除く。)のほかに、著書としては、著作集1として刊行する以前に単行書として出版していた「親族法の総論的構造」(以下「単行書」という。)があり、また、編書としては、明治前期大審院民事判決録1ないし12がある。右判決録は、名目上は共編著であるが実質上は原告単独のものである。
(二) 同2(二)のうち、上京税務署所部の係官による三和書房の租税調査がなされたこと、原告が被告主張の印税収入についての申告をしていないことは認め、三和書房が印税の内払いとして六〇万円を原告に支払ったことは否認する。
3(一) 同3(一)の事実は争う。
(二)(1) 同3(二)(1)の事実は認める。但し、印税率は二割の約束であった。
(2) 同3(二)(2)の事実は否認する。
なお、被告主張の著書別カードのうち、単行書に関する部分は認めるが、印税率は不知。単行書については、当初売行き良好の場合には印税を支払うという契約であった。
(3) 同3(二)(3)のうち著作集4の著書別カードには被告主張の記帳がないこと、同著書が昭和三八年中に出版されていることは認め、その余の事実は否認する。
なお、著作集2、5、6の各著書別カードにある発行年月日、小売価格、発行部数の記載は網羅的になされていないし、著作集5の著書別カードには原告の関知しない他の著作者に対する支払の記載があるなど、右各著書別カードの記載はあいまいなものである。
(4) 同3(二)(4)の事実は否認する。
著作集2の著書別カードの昭和四一年度の記載は、単に「内払」とあるのみであるから、昭和四〇年度の記載の「内払(著作集2、4、5、6四点込にて)」の括弧内の記載(この記載内容自体正しくはないが)までもが包含されるとみるのは誤まりである。
(三) 同3(三)の事実は争う。
4 同4の事実は争う。
5 同5のうち、計算は認め、処分の適法性は争う。
五 原告の反論
1 被告は、「原告が昭和四一年中に三和書房から受領した六〇万円は著作集2、4、5、6の印税の内払である。」と主張するが、三和書房から出版されている原告の著作集は、現在に至るまで全て無印税で出版されているものであって、原告が受領した六〇万円は、著作集2、4、5、6の印税として支払われたものではない。
2 著作集2の著書別カードの記載等について
被告は、著作集2の著書別カードの記載から著作集2、4、5、6の印税の内払であると認められるという。
(一) しかしながら、前記のとおり、右記載自体の見方に誤まりがあるうえ、出版回数、発行部数、小売価格等が記載されていてはじめて内払金額も算定しうるのであるが、著作集4ないし6の著書別カードには、書名が記載されているのみで著者名の記載は全くなく、その殆んどは出版部数さえ記載されていない白紙のままであり、著作集2の著書別カードの記載も網羅的ではなく(これは、後記のとおり、著作集が無印税であったことによるものである。)、被告は印税であるといいながら、その印税額の計算すらできないのである。
(二) しかも、被告主張の著書別カードは、三和書房東京支店における計表にすぎず、正規の帳簿ではないのである。三和書房東京支店は、支店とはいってもその旨の商業登記はされておらず、その実質は三和書房の東京連絡所にすぎないものであり、支店としての独立した帳簿書類を備えているわけではなく、京都本社において総括して帳簿が作成されてきたものである。被告主張の東京支店にあった著書別カード等の計表類は、右のとおり正規の帳簿ではなく、その記帳も京都本社の連絡指示に基づいてなされ、自主性がないことからしばしば誤まった記載がなされている。なお、原告の編書である明治前期大審院民事判決録は、京都本社において処理していたため、東京支店には、右判決録の著書別カードは一枚も存在しない。
(三) ところで、原告が受領した六〇万円は、後記のとおり、原告が三和書房に代わって支出した立替金の返済として、三和書房京都本社の指示に基づき同書房東京支店から支払われたものであるが、東京支店にはその支払記載帳簿がないため著作集2の著書別カードに便宜記載しておいたものと考えられる。
(四) 以上の事実に照らせば、著作集2の著書別カードの記載は、原告が受領した六〇万円が著作集2、4、5、6の印税の内払であることの証拠とは到底なし得ないものというべきである。
(五) ちなみに、被告が原告の異議申立を棄却した決定書の理由欄において、被告は、六〇万円を「あなたの著書財産法の原理と家族法の原理の出版に対して支払われた原稿料であることが確認されました。」として、他の著書(すなわち著作集4、5、6)を含めての内払とは認定していなかった。
なお、右六〇万円について、原告名による印税として受領した旨の領収書は存在しない。
3 著作集の無印税出版と立替金について
(一) 原告は、中央大学教授として教育、研究に従事しているものであるが、原告の著書の出版として、昭和三〇年ころ、「法学序説」及び「親族法の総論的構造」(単行書)を三和書房から、「法学序説」については印税率二割との約束で、また、単行書については純学術論文であるため売行き良好の場合に印税を支払うという約束で出版し、その後数年間は印税の名目でなにがしかの金員を受け取っていた。
(二) 一方、昭和三〇年ころ、原告らの発案により、明治初年以来明治二八年六月に至るまでの、すなわち大審院判決録第一輯刊行前の全大審院判決を収集刊行すべく、明治前期大審院判決録刊行会(以下「刊行会」という。)との名称で、我妻栄ほか、原告を含めて一一名の学者が明治前期大審院民事判決録(以下「判決録」という。)全二二巻(うち綜合索引編一巻)の刊行を企てたが、当初厖大な赤字が生ずることが必至の右刊行を引受ける出版社がなかった。
そこで、発案者の一人たる原告は、その責任上、当時自からのテキストを刊行していた三和書房に対し、同社が将来出版界に雄飛する一捨石の決意を込めて、この困難な刊行事業の引受に踏き切るよう勧奨し、ようやくにして、編集、出版に係る費用を出版社において負担するという条件で、右三和書房から刊行引受の承諾を取り付けた。
(三) 判決録刊行のための編纂作業は、他にこれを行なう者がなく、発案者である原告がもっぱら一人で担当せざるを得なくなり、原告は、今日まで編纂作業を続けているが、右刊行のために要する編纂費として、資料の謄写(複写機の存在しない時代に事業が開始されたため、判決原本を筆写し、又は、少部分は、通常の写真機を百枚位撮影できるよう改造した写真機によって写したフィルムを引伸し焼付けて原稿を作成した。)、整理等に莫大な経費が必要であった。しかしながら、編纂及び出版に要する費用について三和書房に十分な資金がなかったことから、勢い原告が判決録を継続して刊行するため、編纂費用を立替て行かざるを得ない状況となり、ひとり原告にのみ経済的負担がかかることとなった。かようにして、原告は、判決録各巻出版によって回収した金額等の中から将来清算して支払いを受くべきものとして、編纂費用の立替払をするようになり、その結果、大学から支給された給料、賞与の過半を立替のために投じるようになった。それとともに、当初三和書房から受領していた「法学序説」の印税も自然と右費用の立替金に充てられるようになり、実質的に無印税とすることを余儀なくされ、ついには、三和書房が判決録を出版するための資金に充てるために、無印税の約束で沼正也著作集なるシリーズものを刊行することが企画され、昭和三五年ころから次々と無印税の著作集が刊行されていった。そして、印税のある著作とない著作の両種があると将来トラブルの原因となるので、印税のある著書は他の出版社から刊行することにし、「法学序説」は絶版とし、また、単行書の「親族法の総論的構造」も無印税の著作集1に改版したのである。
(四) 右のように著作集を無印税としたからこそ、それら刊本奥付に著者である原告の検印にかわり、「三和書房」の押印、「検印不要」の印刷がなされ、又は検印欄がなく空白のままになっているのであり、また、著作集4ないし7の著書別カードについても、書名のみ記載され著者名の記載はまったくなく、その殆んどは出版部数さえ記載されていない白紙のままとなっているのであって、三和書房から出版している原告以外の他の著者には、右のような奥付や著書別カードの記帳の仕方はまったくみられないのである。
(五) なお、右無印税の措置等判決録編纂に必要な厖大な経費の支出方法に関して、原告は、被告に口頭での了解を求めたり、また年度によってはその旨の書面を提出し、あるいは確定申告書に付箋をつけ、又は申告書の欄外余白に直接その旨記載して、昭和三八年ころまで被告に申告しており(毎回、判決録の刊行事業は一〇年位かかる旨強調しており、その後は右念押しはしていなかった。)、被告からこれに対し、特に異論は出されなかった。
4 立替金の返済
原告は、判決録編纂等に要した経費の立替金を返済するよう、当初から三和書房に請求していたが、三和書房からの右立替金の返済は、判決録各巻出版後、その売上代金の中から同書房の資金繰りに応じ、しかも、判決原本のコピー代等に限ってなされていたに止まり、その支払もとかく遅滞気味であった。かようにして、昭和四一年一月一日現在の立替金総額は八一〇万余円にも及んでいるはずであり、原告が昭和四一年中に三和書房から受領した六〇万円は、右立替金の返済金である。
5 損害賠償金
(一) 京都市上京区所在の三和書房本社社屋は、昭和四〇年五月二三日の火災(類焼)により焼失したが、その際、著作集3の生原稿が焼失し、その回復が困難なため、著作集3は未刊のままであり、また、著作集2、4等の紙型、造本の殆んどが焼失し、著作集2、4は今日なお、絶版のままであり、著作集5、6については、紙型を部分的に傷めたため、その損傷部分について新たに活字を起こし、火災により紙型が著しく縮み不体裁ではあるがその後も版を重ねている。
(二) 三和書房は、右火災の直後、原告に対し、右火災によって原告が蒙った損害を調査したうえ、その弁済をする旨口頭による申入れをなし、さらに、その損害額を二五〇万円と算定し、その金額を分割して支払う旨の昭和四〇年六月一〇日付「弁済誓約書」なる書面を原告に交付した。
(三) そこで、昭和四一年中に原告が三和書房から受領した金員が内払となっているのは、この弁償金の内払をも含めての、あれこれの内払とも思われる。
六 原告の反論に対する被告の主張
1 立替金の主張について
(一) まず、三和書房には、原告が主張するような立替金の存在を裏づける関係帳簿上の記載はなく、原告においても支出した諸費用の明細及び三和書房に対する請求の事実関係を明らかにできないのである。
また、三和書房の社長田中健次は、三和書房が昭和四〇年五月二三日の前後ころから原告に対し立替金の内払いを始めており、同年五月一四日支払いの三〇万円も立替金の内払いである旨供述するが、立替金の返済は原告と三和書房の貸借関係を清算する重要な支払いに関するものであるから、仮にそれが事実であるならば、三和書房の関係帳簿にはその旨が明記されているはずである。しかしながら、右田中健次の指示に従って出金の記載がなされていた帳簿(著作集2の著書別カード)の摘要欄には右に関連する記載は何一つ見当たらないのである。
(二) また、刊行会は同会の名称で文部省から補助金を受け、三和書房を発行者として大審院判決録の刊行事業を行っており、判決録の著者並びに著作権者は刊行会である。そうすると判決録の出版に関する法律関係は、刊行会と出版を引き受けた三和書房との間に存在し、刊行会構成員で編集担当者にすぎない原告は、三和書房に対して何ら法律関係を有しないものというべきである。
従って、仮に原告が主張するところの諸費用の支出があったとしても、それは編集担当者としての地位に基づくもので、原告と刊行会との間の内部的な問題であり、刊行会に請求すべきものであって、三和書房に対して請求すべき筋合いのものではない。
(三) 以上のとおり、原告の立替金の主張は、これを裏づける何らの具体的な根拠がなく、理由のない失当なものというほかない。
2 損害賠償金の主張について
(一) 弁済誓約書に記載ある金員は、いかなる評価方法、評価基準で算出されたか明確でない。仮に著書等が複製不可能となったことを前提とするのであれば、三和書房において著書に係わる著作権及び判決録文献資料の買取り(譲受け)を行なったことにほかならないし、また、原告主張の著作集原稿(これは右弁済誓約書には記載されていない。)が損害の対象に含まれているとすれば、それに対する支払いは原稿報酬であり、いわゆる原稿料として課税適状要件を満たす金員である。
このように、個々の焼失物件に対する評価の計算基準及び弁済方法について明確でない以上、本件金員を非課税対象とする原告の主張は理由がないというべきである。
3 以上のとおり、原告が受領した本件金員六〇万円の性質については、立替の返済金若しくは損害賠償金の内払いであるとの原告の主張を裏付ける資料が何ら存在しないうえ、原告と三和書房との間に原告の著書を無報酬、無印税とする契約もなく、また、贈与契約も存在しないから、著書と出版発行人との関係として、その著書が発行され金銭の授受がある場合には当該金員を原稿料又は印税と認めるのが相当であり、著者の地位で受領した本件金員は、原告の印税収入と認められる。
七 原告の再反論
原告の反論に対する被告の主張は争う。
1 被告は立替金について三和書房の関係帳簿上に記載がないと主張するが、被告のいわゆる印税額についても帳簿上計上されていないのであるから、自己矛盾の主張というべきである。なお、原告が支出した諸費用の明細及び三和書房に対する請求の事実関係を証する記録、証憑書類は、昭和四〇年五月二三日の三和書房本社の火災(原告は、請求のたびに、立替金の証憑書類を三和書房京都本社に送付していた。)及び原告が昭和四二年初春チェコスロバキアカレル大学から招聘され昭和四四年までの日本不在中に起きた暴力学生による原告の中央大学における個人研究室の破壊(判決録編纂関係の証憑書類、原稿類を研究室に収蔵していた。)により、そのほとんどが滅失したため、明確になし得ないのである。
2 被告は、刊行会なる団体が実在するかのように主張するが、これは、文部省から出版助成金をうるために便宜そのような名称を付し、我妻栄をその代表者としたものであって、その構成員となっている一二名の学者も、その殆んどはその名を借りているに過ぎない。刊行会には、団体としての定款等の規則は何らなく、また、何らの財源も有しない実体のない団体である。従って、かような刊行会が権利義務の主体として、判決録の著作権を有したり、三和書房と法律関係を形成することはあり得ない。なお、判決録の著作権の帰属は、形式的には、その編集にあたった学者の共同著作権ということで共編著ということになろうが、実質的には、その編集を一人で担当した原告に判決録の編集著作権は属するものである。
第三証拠
一 原告
1 甲第一ないし第八号証の各一、二、第九号証の一ないし四、第一〇号証の一ないし六、第一一号証の一ないし四、第一二ないし第二九号証の各一、二、第三〇、第三一号証、第三二号証の一、二、第三三ないし第三六号証、第三七号証の(イ)ないし(ヨ)((ヘ)については(ヘ)の一、二)、第三八号証の(イ)、(ロ)、第三九号証の(イ)ないし(リ)((ヘ)については(ヘ)の一、二)、第四〇号証の一ないし三、第四一ないし第四三号証
2 証人田中健次、原告本人
3 乙各号証の成立は認める。
二 被告
1 乙第一ないし第四号証
2 甲第三四、第三五号証、第三八号証の(イ)、(ロ)、第三九号証の(イ)ないし(リ)((ヘ)の一、二を含め)、第四〇号証の三の成立はいずれも不知。第一九号証の一、二のうち、各官署作成部分の成立は認め、その余の部分の成立は不知。その余の甲号各証の成立は認める。
理由
一 請求原因1及び2の事実は当事者間に争いがない。
また、被告の主張1の事実は当事者間に争いがない。
二 そこで、原告が昭和四一年中に三和書房から受領した六〇万円が著作集2、4、5、6の印税の内払として、雑所得の収入金額に該当するか否かについて検討する。
1 原告が、昭和三〇年ころから、三和書房より法学教科書として「法学序説」を、また沼正也著作集として著作集1、2、4、5、6、7を各出版していたこと、法学序説の著書別カードには昭和三一年から昭和三八年までの事績が記載されていることは当事者間に争いがない。
2 ところで、被告は著作集2の著書別カード(成立に争いのない甲第三号証の一)の記載により、原告が昭和四一年中に三和書房から受領した六〇万円は著作集2、4、5、6の印税の内払であると主張するので、以下検討する。
(一) 被告は、著作集2の著書別カードに印税の内払と認められる記載があるというのであるが(この記載自体の信憑性については後記(二)のとおりである。)、被告主張の著書別カードの記載(甲第三号証の一)をみても、右カードの記載上は、昭和四〇年五月一四日欄に「内払(著作集2、4、5、6の四点込にて)」として三〇万円の支払になっているのに対し、昭和四一年中の三月八日、五月二三日、六月一七日の各欄は、上記昭和四〇年度欄の「内払」と記載された下欄に「上に同じ」の趣旨を示す符号「〃」が付されているだけであって「(著作集2、4、5、6四点込にて)」の活弧の下欄には右「〃」の符号が付されていないことが認められ、同カードの昭和三八年五月四日欄には「再版(訂正版)」とあり、その下欄には「再版」及び「(訂正版)」の双方に右「〃」の符号が付されていることが認められるのと対比すると、右カードの記載のみをもってしては、昭和四一年中に原告が受領した六〇万円が「著作集2、4、5、6四点込にて内払」されたものと即断することはできない。
なお、後に詳しく認定するように、原告著述にかかる右著作集は、原告と三和書房との間においていずれも無印税の約定で出版されていたものであるから、特段の事情でもない限り右六〇万円に限り印税の内払として支払われたとは考え難いところである。
(二) また、仮に、著作集2の著書別カードの記載を被告主張のようにみるとしても、右記載内容の信憑性は、はなはだ疑わしいものといわねばならない。
すなわち、成立に争いのない甲第一ないし第六号証の各一、二、乙第二及び第三号証、証人田中健次の証言及び原告本人尋問の結果によれば、被告主張の著書別カードなるものは、三和書房東京支店の経理担当者玉木敦の心覚えとしてのメモ書であって、三和書房の正規の帳簿書類ではないこと、一般に、東京支店では出荷書籍の定価の八割で小売店に卸売りし、定価の六割を京都本社に送金し、残り二割が同支店の資金枠として留保され著者に対する印税等の支払に当てられ、昭和三六年ころからは、そのうちの一割(定価の二パーセント)は源泉徴収分として控除する計算をしていたが、著者に対する支払は、京都本社からの一定金額の支払指示に基づいて資金枠の中で支払っていたもので、各著者の印税率は東京支店には知らされておらず、また個々に支払われる金員の性質も知られていなかったこと、昭和三八年に東京支店の支店長になった田中勤は、原告の著作集が無印税であるということを社長から知らされていて、昭和三八年以降原告に印税を支払ったことはなく、三和書房の経理上も他の著者の著作については計上している印税を原告の著作集については計上していなかったこと、昭和四〇年五月一四日に原告に支払われた三〇万円及び昭和四一年中に原告に支払われた六〇万円は、いずれも京都本社からの支払金額の指示に従って支払われたのであるが、右指示をした三和書房の社長は、印税の支払ではなく立替金の返還である旨述べていること、さらに、著書別カードの記載についてみても、従前印税が支払われていて著書については、その記帳内容が詳細であるのに対し(もっとも、記載内容の信憑性については、出版後数年分の記載は信用しうるが、その後の部分の記載は杜撰で疑問の点が多い。)、著作集2、4、5、6の各カードの記載をみると、著作集2のカードでは、同書の初版発行が昭和三五年であるのに、記載の最初は昭和三八年からになっており、しかも本件で問題とされている内払の記載の前には、昭和三八年五月四日欄に改訂再版(同再版は同年一月一五日発行である。)の部数及び定価しか記載されていないし、著作集4のカードでは、同書の初版発行が昭和三八年九月二五日であるにもかかわらず、何らの記帳もない白紙であり、また、著作集5、6のカードでは、いずれも昭和三九年一〇月欄に初版の発行部数及び定価しか記載されていないなど、右各カードには発行部数、定価、印税支払事績の記載を全く欠くか、あっても断片的なものであって、覚え書としても印税支払に関する記帳をしたものとは推測し難く、また同カード中には原告と関係のない他の著者についての記帳があるなど、その記載自体が杜撰であることが認められ、これらの事実によれば、著作集2の著書別カードの記載は到底措信しえないものというべきである。
(三) そうすると、甲第三号証の一の記載は、原告が昭和四一年中に三和書房から受領した六〇万円が著作集2、4、5、6の印税の内払であるとの被告主張事実を証する証拠とはなし得ず、他に右被告主張事実を認めるに足りる特段の事情についての立証はない。
3 そこで、著作集の印税支払に関して原告と三和書房の関係について考察してみることとする。
前掲甲第一ないし第六号証の各一、二、乙第二、第三号証、いずれも成立に争いのない甲第九号証の一ないし四、第一〇号証の一ないし六、第一一号証の一ないし四、第一二ないし第一七号証の各一、二、第二〇ないし第二九号証の各一、二、いずれも官署作成部分の成立は争いがなく、その余の部分の成立は弁論の全趣旨により認められる甲第一九号証の一、二、いずれも原告本人尋問の結果によりその成立が認められる甲第三八号証の(イ)、(ロ)、第三九号証の(イ)ないし(リ)((ヘ)の1、2を含む。)、証人田中健次の証言、原告本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。
(一) 原告は、現在中央大学教授として教育、研究に従事しているものであるが、昭和三〇年ころから、教科書、論文等の著書を三和書房から出版していた。すなわち、教科書として「法学序説」を昭和三〇年五月二五日に、また学術論文として「親族法の総論的構造」(単行書)を同年四月五日に、それぞれ出版した。右出版にあたり、原告と三和書房との間で出版契約書等の書面は特に作成しなかったものの、印税については、法学序説は二割との約束であり、また、右単行書は純学術論文であることから売行き良好の場合に印税を支払うという約束で印税率までは定めなかった。そして、法学序説については、初版から、また、単行書については、昭和三一年末発行分あたりから印税が原告に支払われるようになった。
(二) ところで、原告は、昭和二九年ころ明治初年の大審院民事判決録(稀親書)を研究素材として中央大学内にできた明治初期身分法研究会に参加していたが、同研究会における原告の発言がきっかけとなって、当初稀親書の復刻として明治前期大審院判決録の刊行が中央大学関係者によって計画された。その後、戦禍により滅失したものと思われた明治初中期の厖大な大審院判決原本が保存されていることが判明したことから、これをも含めた明治前期大審院判決録の刊行へと右刊行計画が拡大されるに至った。右刊行には厖大な経費が見込まれたことから、他大学にも呼びかけ、その実現をはかることになったが、最終的には官学を中心とした一二名の学者が刊行委員に名を連ねるようになった。その後刊行会なる名称を使用するようになったが、これは、昭和三一年一一月ころ判決録2巻以降の刊行費用の補助金を獲得するため、文部省の昭和三二年度科学研究費補助金(研究成果刊行費)の交付申請をするに際し便宜付けられた名称で、我妻栄がその代表者ということになり、現在は原告が便宜代表者となっている。ところで、右刊行会なる名称のもとに名を連らねている各委員の役割分担は、主に将来資料編全巻刊行後に作成すべき総索引編と共同研究編を刊行すること及び著名学者委員を構成員とする刊行会の名において補助金等の資金援助を受けることにあって、各委員とも自から判決録刊行に必要な編纂作業を担当し、編集、出版経費を分担するという考えは当初からなく、また、刊行委員の間で経費分担、財産の管理などについての協議や合意がなされることもなく、昭和三〇年ころ一回刊行委員による会合がもたれただけで、その後今日まで一度も会合は開かれていない。右のように刊行委員の大半は、刊行会のメンバーとしての名を貸しているに過ぎない状態にあり(なお、三名の刊行委員が既に死亡している。)、刊行会は、形式的にも実質的にも、団体としての組織、特質を有するものではなかった。
(三) 判決録の刊行には、右のように編集、出版に多額の経費が見込まれるうえ、その販売先は限定されていて採算が合わないことから、判決録の刊行を引き受ける出版社がなかった。そこで、発案者の一人であった原告は、その責任上、当時自己の教科書を出版していた三和書房に右刊行の引き受け方を勧奨依頼したところ、三和書房は、原告に対し著名な学者が名を連らねた判決録を出版すれば会社の広告宣伝にもなるとして、判決録の刊行に必要な一切の編集、出版に要する費用を三和書房において負担し、最後まで刊行することを約束し、右刊行を引き受けた。
(四) 判決録刊行のための実質的な編纂作業は、中央大学関係者にまかせられることになったが、同大学の先輩教授の中にこれを行なう者がなく、当時若い専任講師であった原告が、発案者の一人でもあり、かつまた、先輩教授からこの仕事をなし遂げなければ教授にしないなどと言われたこともああって、もっぱら一人で判決録刊行のための編纂作業を担当することになり、アルバイトの学生等数名を使用しながら、判決原本の謄写、原稿の作成、校正等の作業を、当初から今日まで続ける羽目になった。しかして右編纂には、資料の謄写料(当初は筆写等によっていた。)、校正等に要するアルバイト料、写真のフイルム代、現像代、コピー代、交通費等多額の経費を必要とした。
(五) 昭和三一年度分として刊行予定であった判決録1は、文字鮮明な復刻版刷成に失敗し、その造本は裁断廃棄となり、再度平版から凸版に改め新規に復刻作業を行なうことにより判決録1の改版が昭和三二年三月二〇日発行されたが、右失敗により多額の失費が生じ、さらに昭和三二年ころから、三和書房の資金繰りが急速に悪化し、同社は経営不振に落ち入った。
(六) 判決録1巻の編集、出版は、フイルムの現像等を三和書房で行ない、原告が立替えた若干の費用も三和書房から支払われたが、判決録2巻以降については、右のように三和書房が資金繰りの悪化により事実上編纂に要する経費を出費できなくなったことから、勢い、判決録を継続して刊行していくためには、原告において個人的に三和書房に代わって編纂費用の立替をせざるを得ない状況となり、原告は判決録出版により三和書房が代金を回収したときに、三和書房から立替金の返済を受けるという約定で、前記法学序説や単行書に対して支払われていた印税をはじめ大学から受ける給料、賞与までも右判決録編纂費用の立替のためにつぎ込み、判決録の刊行を何とか継続した。
(七) 右のような情況が続いていたところ、さらに、三和書房は判決録の刊行継続を強く望む原告の了解を得て判決録出版の経費の一助とするため、沼正也著作集なるシリーズものを無印税で刊行することとし、昭和三五年五月二〇日には三和書房から単行本であった「親族法の総論的構造」を著作集1として改版発行し(改正版)、その後、同年一二月二〇日には著作集2が、昭和三八年九月二五日には著作集4が、昭和三九年九月 五日には著作集6が、同年一〇月三〇日には著作集5が、昭和四一年一二月三一日には著作集7がそれぞれ無印税で刊行されており、その後現在まで、著作集は一九巻までが無印税で出版されている(なお、著作集3は、生原稿が三和書房京都本社社屋の火災の際焼失し、その回復が困難なため、未刊となっている。)。
そして、著作集が無印税であるため、三和書房は、著者である原告の検印に代えて、著作集2の奥付には「三和書房」なる押印をし、また、著作集4の奥付には「検印不要」と印刷し、著作集5ないし7の奥付には「著者との協定により検印不要」と印刷して、いずれも無印税である旨示して出版したが、著作集1については、著作集の最初に出版されたこともあって、当初は、従前の印税があったときの慣行のまま原告から検印を受領してこれを奥付に貼っていたが、その後は、他と同様に、「著者との協定により検印不要」と印刷して無印税である旨を示して出版している。
(八) かようにして、原告は、個人的に三和書房に代わって編纂費用の立替をしたのみならず、さらには、三和書房に対し判決録出版に要する紙代等の出版費用までも貸与するなど、ひとり、判決録刊行のために多大の経済的負担を強いられながらも、昭和四一年三月までに判決録2ないし12巻を刊行することができた。その間にあって、原告は貸金の返済は受けたものの、立替金については、アルバイト費用、コピー代等の領収書を添えて三和書房に対し再三その支払を請求したにもかかわらず、三和書房は、その資金繰りが苦しいことを理由に、判決原本のコピー代等に限って一部支払をしてきただけで、その支払もとかく遅れがちであった。そのため、昭和四一年一月現在での原告の立替金総額は数百万円を下らなかったが、その明細記録は、三和書房京都本社社屋の火災及び、原告の大学における個人研究室の学生紛争による破壊などにより、その証憑書類等が焼失あるいは滅失したため、明確にしえない事情にある。
以上の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
4 ところで、原告が受領した六〇万円の性質について検討するに、前項に認定した事実に、前掲甲第一九号証の一、二、証人田中健次の証言及び原告本人尋問の結果を総合すれば、原告が昭和四〇年五月一四日に受領した三〇万円及び昭和四一年中に受領した六〇万円は、いずれも前記判決録刊行にあたり、三和書房が負担すべき諸経費を原告において個人的に三和書房のため立替え支払ってきた金員の一部返済として受領したものと認めることができる。
もっとも、前掲甲第一九号証の二の記載及び証人田中健次の供述中には、右六〇万円のうちには三和書房京都本社社屋の火災により原告が蒙った損害の賠償金としての支払の気持が一部込められている旨の記載及び供述部分があるが、同証人の証言及びこれにより成立が認められる甲第三五号証並びに原告本人尋問の結果によれば、右六〇万円の支払がなされた当時、弁済誓約書に掲げられた損害金額二五〇万円については、いまだ原告了解が得られておらず、損害賠償金債務額について当事者間の合意が成立していなかったことが認められるのであるから、その支払当時右弁済に充当するはずがなく、後に至って、右損害賠償の一部に充当されたいとの自己に有利な願望を述べたに過ぎないものと解され、前記認定の妨げとはならない。
なお、被告は、刊行会が判決録の著者、著作権であり、従って、原告が費用の立替をしたとしても編集担当者としての地位に基づくもので、右立替金の返済は刊行会に請求すべき原告と刊行会の内部的問題である旨主張するところ、いずれも成立に争いのない甲第七及び第八号証の各二によれば、刊行会の名称で文部省から補助金の交付を受け、その関係書類に著者名及び著作権者名を刊行会と記載していることが認められるけれども、原告本人尋問の結果によれば、右記載は補助金の交付を受けるため形式を整えたにすぎないものであることが認められるうえ、前記認定のとおり、刊行会は団体の実体を備えず、権利能力なき社団とも認められないから、判決録の著者及び著作権者は、原則的には現実に編集に関与した刊行委員が共同編集者であり、著作権の共有者であるというべく(前記認定のように編集に関与した刊行委員が原告だけであり、かつ著作権の帰属について特別の約定がないとすれば、原告が単独の編著者及び編集著作権者ということになるのであろう。)、刊行会が刊行委員個人とは別個の存在として判決録の著者及び著作権者であるとする被告の主張は失当である。
5 以上によれば、原告が昭和四一年中に三和書房から受領した六〇万円は印税の内金とは認められず、原告の昭和四一年分の雑所得の収入金額ではないのであるから、これを印税と認め、雑所得の金額四二万円を加算してなした被告の再更正処分には、原告の所得を過大に認定した違法があり、右処分を前提としてなされた過少申告加算税賦課決定処分もまた違法である。
三 よって、被告がした再更正処分のうち総所得金額三〇〇万一〇七五円、所得税額五八万九四二〇円を超える部分及び過少申告加算税賦課決定処分の各取消を求める原告の本訴請求は、理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、注文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 小川正澄 裁判官 三宅純一 裁判官 桐ケ谷敬三)