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横浜地方裁判所 昭和52年(ワ)639号 判決

以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。

【判旨】

二そこで、平沢の死亡原因が「急激かつ偶然な外来の事故によつて身体に傷害を被り、その直接の結果として死亡した」ものであるか否かについて検討する。

1 (争いのない事実)

平沢は、小田原市小八幡三丁目一九番一〇号において建材業を営む訴外会社の代表取締役をしていたが、昭和五〇年一〇月当時同人経営の訴外会社は、負債二〇〇〇万円をかかえていたこと、平沢は、同年同月一一日午前六時三〇分ころ大栄興業へ行くといつて家を出、同日午後一一時五〇分ころ大島にいる旨自宅に電話連絡したことは、いずれも当事者間に争いがない。

2 <証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができる。

(一) 訴外会社は、平沢の個人事業を法人化するため、昭和四二年七月一日、資本金一〇〇万円で設立され、平沢が代表取締役となつて、重機械による土木工事の請負、重機械リース業等を営なんでいたものであるが、機械の買替による代金決済や従業員への給料支払のため、昭和四六、七年ころから取引関係に入つた原告から事業資金を借りるようになり、昭和四七年四月三〇日に一〇〇〇万円、昭和四八年九月三〇日に五〇〇万円、昭和四九年二月二八日に五〇〇万円をそれぞれ借受けて事業資金にあて、右二〇〇〇万円の負債を昭和五〇年一〇月当時もかかえていた。平沢としては、右二〇〇〇万円の借受けにあたり、原告から受注予定の小田原駅前地下街掘削工事による収益金をその返済に充てることを予定し、原告の了解も得ていたが、右工事は、昭和四九年初めころに話しがあつてからその具体化が延び延びとなつていたところ、昭和五〇年五月ころからは訴外会社の事業も、リース業の失敗等もあつて思うように行かず、平沢は、会社の経営に苦しんでいた。

(二) 平沢は、予てより「家出したい」などと言つたり、時時家を黙つてあけ、一日、二日して帰るようなことがあつたが、事業が思わしくなくなつたころからは、毎日口癖のように家族に向つて「家出したい、家出したい。」といい、酒を飲んでは、よくそのことを口にし、家族と口論するような状況であつた。なお、平沢の当時の健康状態は普通で、持病などは特になかつた。

(三) 平沢は、昭和五〇年一〇月一一日に家出をし、同日伊豆大島に渡つたが、その前後の事情は、次のとおりであつた。

(1) 平沢は、同日午前六時三〇分ころ仕事の打合せのため熱海にある大栄興業に行くといつて家を出、午前八時ころ同社に立ち寄つたが、特に仕事の話はせず、その後、熱海から午前の船便で大島に渡つた。家を出たときの服装は、作業用ジャンパー姿で、現金一万円位を所持していた。

(2) 同日午後一一時五〇分ころ、平沢は自宅に電話をかけた。同人は、公衆電話からかけている様子で、「もしもし、俺だ。」というだけの平沢に対し、電話に出た妻が「どこにいるの」と何度も問いただしたのに対し、ようやく「今大島にいる。」との返事をしたのみで、たたみかけての「どうして大島なんかにいるの」との妻の問には返事をしなかつた。仕事を放り出して大島に行つている平沢に怒つた妻が、翌日の仕事の予定について一方的に話し、早く帰つてくるようにいつているうちに平沢は途中、一度「わかつた。」といつただけで、終始おし黙つていて、そのうち電話は切れてしまつた。

(3) 翌一二日午前六時ころ、平沢は訴外会社の取引先に電話を入れて、「会社の機械を引き上げてくれ」と伝えた。

(4) その後、平沢からの音信は全くなく、平沢の家族は、同月一五日ころ、小田原警察署に家出人捜索願を出し、同月下旬から一一月上旬にかけて数回にわたり、大島に渡り、地元の警察と連絡をとりながら平沢の捜索をしたが、発見できなかつた。

(5) 地元の警察でも、家出人の捜索ということで、大島の民宿、旅館について、平沢の宿泊の有無を調査したが、平沢が民宿等に宿泊した形跡は認められなかつた。

(四) 昭和五〇年一二月三一日午後三時ころ、平沢が死体となつて発見された場所は、大島元町港から北に一〇〇メートル位離れた地点で、東海汽船のバス駐車場わきの廃材置場として使用されていたところであり、道路から二メートルほど低くなつた土手の下側であつた。発見現場の廃材は、電柱様の太い柱のほかに、重い角材やベニヤ板など木材が主で、それらが入り組み、雑然と積み重ねられているため、廃材を移動させるには二、三人の人手を要し、一人では容易に持ち上がらない状態であつた。

平沢の死体は、廃材の下に隠れ、外部からは見えない状態で発見された。死体のあつた周辺の廃材の状況は、電柱様の太い柱の上に角材やベニヤ板などが積まれていて、右の太い柱付近には地表から高さ約四〇センチメートル位で、人一人がもぐり込み横に寝られる位の空間ができており、死体は、廃材の下敷になることなく、廃材のなかにできている空間に、頭を奥の方に入れ、身体の左側を下にし、左右の足は若干曲げて寝ているような状態で横たわつていた。

発見されたときの平沢の服装は、上半身には作業用ジャンバーを着ており、下半身には白地のステテコをはいていたが、ズボンは身に着けていなかつた。平沢のズボンは、死体発見現場には見当たらず、その付近からも発見されなかつた。なお、両足とも黒色の靴下をはいており、靴はいずれも脱いで死体の近くに置いてあつた。

平沢の所持品は、車検証、平沢名義の印鑑、自動巻腕時計、現金三八一〇円であつた。右車検証は平沢の腰付近に置いてあり、印鑑はジャンパーの内ポケットの中にあり、時計は左腕に付けられていた。

また、廃材の下の死体付近には、カップラーメンの空のカップや罐ビールの空罐などが一、二個置かれていた。

(五) 平沢の死体は、発見当時、すでに顔面及び胸部は骨が露出して白骨化しており、内臓は腐敗して蛆が発生し、下膝部は蝋化していて、死体解剖により医学的に死因を判定しうる状態ではなかつた。

平沢の死体を検案した医師は、死体の状況と骨等に損傷がないことから、他殺ではないと判断したものの、右のような死体の状況からは医学的にその死因を判断することはできないとして、平沢が家出し、旅館にも泊まらずうろついた形跡があるという警察官の伝聞供述に基づいて、死因を栄養不良による病死(衰弱死)と推定した。

(六) 警察では、平沢の死体を変死体として代行検視するとともに、犯罪によるものかいなかを捜査したが、死体の各部に外傷その他犯罪によると認められる痕跡がないこと、廃材の下から発見されたときの状況からみて、他人によつて押し込まれたものではなく、自分から廃材のすき間にもぐり込んだ姿勢であること、また、平沢は会社経営の行詰りから借金を苦にして家出していたものと考えられるものの、平沢は自殺するような性質ではなく、以前から時々家出したこともあり、その際も二、三日もすれば必ず家に帰つて来ていた(長男芳隆の供述によつて認められる。)こと、死亡前に大島から自宅に電話しているが、その後、旅館、民宿等に宿泊した事実はなく、伊豆大島の一〇月の気候からみて野宿していた可能性があることなどから、昭和五一年一月ころ、死因は衰弱による病死として事件処理したこと、しかし一方家出人として平沢の捜索をした際、自殺のおそれもあるとして地元消防団による山狩がなされた経緯もあり、捜査にあたつて、平沢の死因が自殺によるものであるとの可能性も払拭しきれなかつたものであつて、平沢の死因が衰弱死以外にはあり得ないとするものではなかつた。

(七) なお、警察は、平沢の死亡日時について、同人の左腕に着けていた自動巻カレンダー付腕時計が一六日を表示して静止していたこと、自動巻の時計は平沢が死亡してからもなお一日、二日動いているものと推定されること、死体の白骨化状況及び腐敗状況等から死後二カ月以上経過していると認められることなどを総合的に判断して、昭和五〇年一〇月一四日ころと推定したもので、島民から同月一九日ころ野増で平沢に似た人物を見かけたとの供述も得ていたが、これは平沢とは別人であると判断した。

以上の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる的確な証拠はない。

3  本件証拠資料によつて認めうる事実は、以上のとおりであるところ、なるほど平沢が身につけているべきズボンが廃材の中やその付近から発見されなかつた点について一抹の疑問は残るものの、右の一事のみをもつては平沢が急激かつ偶然な外来の事故によつて身体に傷害を被り、その直接の結果として死亡したとの事実を推認することは難しく、その余の諸事実によつてはいまだ平沢の死因が病死その他の自然死以外の急激かつ偶然の外来の事故によつて傷害を被つたことに基因する事故死であることを認めるに足りない。

(小川正澄 三宅純一 桐ケ谷敬三)

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