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横浜地方裁判所 昭和62年(わ)1121号 判決 1992年5月13日

《目次》

(項目)

主文

理由

(犯行に至る経緯等)

第一 両被告人及び被害者の身上経歴等

一 被告人甲

二 被告人乙

三 被告人D

第二 昭和六二年二月上旬ころまでの経緯

(罪となるべき事実)

(証拠の標目)

(弁護人の主張に対する判断)

第一 弁護人の主張

第二 当裁判所の認定事実

一 甲の成育歴

二 甲の高校卒業後の生活状況

三 殺害行為の補足

四 死体損壊行為の詳細

五 逮捕直後の甲方居室の状況

六 両被告人の取調べ及び供述状況

七 甲の乙への一五万円の差入

八 乙の検察官及び弁護人宛の電報発信

九 甲の入信、予言、救いの垂示等について

一〇 同六二年二月の「神の命令」について

一一 両被告人及びDの性格

一二 本件各犯行の動機及び故意

1 悪魔祓い等と整合しない言動等

2 逮捕直後の居室の状況

3 悪魔に関する甲の供述

4 悪魔概念、悪魔騒ぎ等の検討

5 「塩揉み」の開始とその本格化ないし殺害に至った動機

6 乙における「悪魔」の観念

7 死体損壊中の状況等

8 悪魔祓い後を考えていない言動

9 小結

一三 Dと両被告人三名間の人間関係

一四 甲の現在の精神状態について

1 「ひとりでの発語」等について

(一)当公判廷における「ひとりでの発語」等の状態について

(二)各鑑定中に生じた「ひとりでの発語」等について

2 「健忘」について

(一)当公判廷における「健忘」の状態について

(二)各鑑定中の「健忘」について

3 「ジストニー様動作」、「開口動作」及び「喀出行為」について

(一)当公判廷における「ジストニー様動作」等

(二)各鑑定中の「ジストニー様動作」等

4 甲の供述状況の検討

(一)入信、予言及び「神の命令」等について

(二)Dが「神の曲作曲」を首唱したとの供述

(三)神棚作りについて

(四)その他

(五)甲には神憑り的供述をした殺人犯人の事例の知識があったこと

(六)小結

第三 甲の責任能力に関する判断

一 鈴木鑑定の概要

1 精神分裂病について

(一)縦断的考察―精神身体的病像の変遷

(二)横断的考察―現在症

2 側頭葉てんかんについて

二 鈴木鑑定の検討

1 「精神身体的病像の変遷」について

2 他の二鑑定からの批判

3 小結

三 中田鑑定(甲分)の概要

1 D及び両被告人の状況

2 本件の概要

3 甲の神秘体験

4 Dが「神の曲」作曲を志すまでの経緯

5 「三人精神病」の形成

6 本件犯行の動機等

7 殺意について

8 死体損壊行為について

9 映画「エクソシストⅠ、Ⅱ」について

10 悪魔祓いと関連しない諸行為

11 精神分裂病否定の根拠

12 側頭葉てんかん否定の根拠

四 中田鑑定(甲分)の検討

五 福島鑑定(甲分)の概要

1 動機の形成

2 狂信とその共有

3 殺害・死体損壊

4 逮捕後

5 側頭葉てんかん

6 宗教的支配観念

7 犯罪心理

8 精神分裂病の否定

9 三人精神病の否定

六 福島鑑定(甲分)の検討

第四 乙の責任能力に関する判断

一 中田鑑定(乙分)の概要

1 家族歴

2 本人歴

3 身体的既往歴

4 信仰

5 犯行当時の精神状態

二 中田鑑定(乙分)の検討

三 福島鑑定(乙分)の概要

四 福島鑑定(乙分)の検討

第五 弁護人の主張に対する判断のまとめ

(法令の適用)

(量刑の理由)

主文

被告人甲を懲役一四年に、被告人乙を懲役一三年にそれぞれ処する。

未決勾留日数中、被告人甲に対し五〇〇日、被告人乙に対し八〇〇日をそれぞれその刑に算入する。

理由

(注)以下本文中における証拠の引用については別紙「証拠の引用例」にしたがう。表記について、「昭和六二年」及び「神奈川県」は、これを原則として省略することとする。

(犯行に至る経緯等)

第一  両被告人及び被害者の身上経歴等

一  被告人甲(以下、「甲」という。)は、神奈川県内の米国赤十字関係施設に勤務していた父A、母B(旧姓乙・以下「B」という。)の次男として出生し、小学四年時父母の離婚により、兄とともに、一時、母方祖母に預けられ、母の異父弟C(以下「C」という。)夫婦に養育され、その子D(本件被害者・以下「D」という。)とも同居していたが、昭和三三年ころ、千葉県の父方親族に預けられ、小中学校を卒業後、都内の中華料理店に就職したものの、職場の人間関係に適応しかねて健康を害したことなどから辞め、同三八年ころ三浦郡葉山町で不動産ブローカーをしていた母の許に身を寄せ、同三九年横須賀市内の定時制高校に入学し、一時除籍されたが復学して同四四年同校を卒業し、運転手などをしてBの仕事を手伝い、右高校卒業後まもなく宅地建物取引主任の資格を取得すると、不動産会社に勤めあるいは有資格者としての名義を貸すなどし、母や兄らと相次いで不動産会社を設立して役員となったが、いずれもまもなく営業不振となった。同四九年ころ、甲は、母が共同経営するラーメン店で働き始めたが、不真面目で数か月すると店に出れなくなった。他方、甲は、約一一年間空手道場に、約三年間茶道教室に通い、空手一級、茶道の引次(ひきつぎ)となった。甲は、その後再び母の仕事を手伝ったが、同五四年ころ、ダイヤモンドの詐欺事件で母と共に逮捕・勾留・起訴され、同五八年東京高等裁判所で懲役八月執行猶予三年の判決が確定した。甲は、この件で息子の自分を共犯者に仕立てたとして、Bを強く恨むようになり、その度重なる謝罪も受け付けず、これを許さなかったため、その後、同女は甲に対し非常に気を遣うようになった。また甲は、その後も蓄膿症や痔の手術を受け、胃や腸、喉などの不調を訴えて漢方薬を服用し続け、マッサージ等を頻繁に受けるなどしていた。甲は、Dに誘われて藤沢市藤原所在の宗教法人大山命神示教会(「」は作字。以下、「神示教会」という。)鵠沼分教所(以下、「鵠沼分教所」という。)に赴き、その代表者であったE(以下「E」という。)の話を聞いたが、悪態をついて帰り、本件犯行当時まで入信したことはなかった。甲は、高校在学中から同六〇年に転居するまでの間、C方の隣家に居住し、日常的にDらと遊ぶこともあったが、前記詐欺事件の際に甲らの保釈保証金をCが貸さなかったため、異父弟にしてはあまりに非情だとBらは怒ってC方家族とは交際しないようになり、Dと被告人乙(以下、「乙」という。)の結婚式にも誰も出席しなかった。

二  乙

乙は、秋田県で時計の修理販売業を営んでいた父と母の第二子として出生し、同県内の中学校在学中、父の転居に従って神奈川県内に転校し同五〇年横浜市内の中学校を卒業し、鎌倉市内の病院などに勤務しながら、技術専門学校、県立高校定時制、高等看護専門学校を経て同五九年に正看護婦となり、同五二年ころ、勤務先病院の男性患者と恋愛関係になったが、同五三年八月ころ、右病院に入院した弟を見舞いに来たDから神示教会の教えを聞き、占ってもらうなどして同五四年、その勧めで鵠沼分教所に赴き、右教団に入信して布教活動等に励み、右恋人にも入信を勧めたが反対されて不和となり数年後に別れた。乙は、Dに右恋人との関係などについて相談を重ねるうち親密度が増し、同五八年ころからは、同人とも肉体関係を持つようになり、同六一年四月、同人と婚姻した。その際、Cらの勧めを断って看護婦を辞め、Cに同居しながら、家業のビル清掃業を切り盛りする姑のFに代わって家事一切と家業の一部を処理し、家業の収入に乙の失業保険金の一部を加えた金員でC夫婦との生活を営むようになった。

婚姻後乙は、強く慕っていたDが意思薄弱で人に影響され易く、優柔不断で男らしさに欠けることに気付いて歯痒く思え、また、その慢性アルコール中毒等を自ら治癒させようと意気込んでいたCも、殆ど一日中飲酒し続け、うわごとのようにものを言い、大小便をこぼし歩き、相当酩酊して酒を買いに出掛け、道路等ですぐ寝てしまう同人の世話自体が大変であった上、同人が家事の不手際を強く責めたりするので急速に熱意を失い、同六一年夏ころにはその治療を諦め、同人を嫌悪するようになった。更に、気丈なFにも心底からは融け込めなかった。加えて、C方は、京浜急行電鉄逸見駅から徒歩約二〇分の崖や雑木林に囲まれた窪地にある敷地四〇坪、建坪一三坪の木造平屋建で、六畳二間、便所、台所、風呂場、4.5畳間(D夫婦の居室)の間取りであったが、同間は箪笥等家具も置いたため狭く、出入口にはドア等の遮蔽物もない上、風呂場への出入口があって家人が入浴の際に出入りする上、終戦直後ころの急造建物で玄関ドアはガムテープで補修し、畳は波打ち、屋根は雨漏りするのでシートがかけてあり、庭の草も伸び放題という荒れ果てた状況であったため、乙は、転居等を強く望むようになってDに訴えたものの、同人の態度が煮え切らないため不満を募らせていたが、それをDの親族はもとより、実家の父母にも零すことはなかった。なお、後記のとおり、乙も、Dに影響されて次第に宗教活動をしないようになり、同六一年二月二四日、神示教会から離籍され、翌六二年ころからは、朝夕の礼拝もしないようになっていた。

三  D

Dは、清掃業手伝いの父Cと母Fの長男として東京都荒川区内で出生し、同四三年ころ、横須賀市に転居し、県立高校に進んだが、いわゆるロックのドラム演奏に興味を抱いて練習に熱中するようになり、同県内の私立大学進学後も、これを休学して都内の音楽学校でドラムの勉強をし、同五五年に同大学を中退し、Cが反対するのを説き伏せて鵠沼分教所に所属する若手信者らで構成するアマチュアロックバンドに加入して、そのリーダーとなり、「スピッツ・ア・ロコ」(以下「右バンド」という。)と改名して、ドラム演奏及び作曲を担当し、都内や神奈川県内などで演奏活動をするようになった。右バンドは、同五八年ころ、デビュー曲のレコードが五〇〇〇枚程売れただけで、翌五九年にはプロダクションやレコード会社との契約も更新できず、新規の契約先も見つからず、客の入りも悪くて演奏会のたびに右バンドのメンバー(以下「メンバー」という。)が費用を負担しなければならない状況で、大半の者が信仰の関係等もある横浜市中区の日本照明器具株式会社(以下、「日本照明」という。)等でのアルバイトを余儀なくされていたがDは、右不振の理由をメンバーが、自分の曲を歌いこなしてくれないからだと考えていた。その間、Dは、同四九年ころ、鵠沼分教所に行くBに同道した際、そのEに気に入られ、その勧めを受けて神示教会に入信し、その後、両親や友人などを次々と入信させたことから、同五四、五年ころには、鵠沼分教所で有力信者と目されるようになった。しかし、かねてリューマチを患っていた右Eが、神示教会の指導者の指示に従った治療を受けていながら、同五九年四月ころ死亡する際に大変に苦しんだことを聞知して右教団に疑問を抱き、また、そのころ、右教団において進められていた全国の分教所・支部を廃止して本部に統合する動きに反発を感じたことなどから、次第にその信仰から遠ざかり、同六〇年六月三〇日には離籍された。ところで、Dは、甲に、子供のころから圧迫感を感じ、成長してからも「兄貴」と呼んでいたが、その反面、甲の言動、就業状況のほか、かねて警察に逮捕されたことなどから、甲を軽んずるようなところもあった。

第二  同六二年二月上旬ころまでの経緯

同五九年一一月ころ、C方隣の甲らの居住建物が競売にかけられ、翌六〇年五月、Bは横須賀市長井に転居したが、甲と兄Gは、同女と同居せず茅ケ崎市内の借家に転居し、同年一二月ころ、Gが仕事の関係でBの許に戻った後も甲は独りで住み続けていた。この間、甲は、殆ど仕事もせずに五万ないし一〇万円の小遣いだけを時折Bからもらって生活していたところ、同六一年一月、C方を訪れた際に初めて乙に会い、同年一〇月ころ、B方に宿泊して時折C方を訪れるようになったが、乙からC夫婦との同居生活の苦労や別居等の希望とDの優柔不断な対応などについての愚痴を聞かされて同情し、その希望に協力することにした。

それ以来、甲は、Dの様子を知人にそれとなく尋ねたほか、頻繁にC方に赴き、家人の前で「一〇年前に鵠沼分教所のEから甲の将来に関する予言を受けたが、みんな当たった」旨本当に感心したように話し、Dには、「切りたいメンバーは切れ。お前はすぐ売れる。右バンドはすぐ世に出る。俺には神の声が聞こえる。その声は、お前は神様の歌を作れる人で何百人に一人しかいない。お前は俺が守るから、いい曲を作れ。」などと話した。一方、メンバー達は、レコード会社も決まらず、同六一年九月ころには、今年一杯頑張っても駄目なら解散しようと考え、同年一〇月ころから月二、三回のライブコンサートを開き、更に、右バンドの後援者の好意で、同年一一月から翌六二年二月にかけて、Dが作詞作曲し右バンドの演奏するCMソングがその名称及び演奏風景とともに全国ネットのテレビ番組等の際に放送されたりもしたが、Dは、右バンドの低迷を気に病んであれこれ考え悩み、占いの本で運勢を見たり、運を招くと言われる植木を庭に植えるなどした。また、乙も、同年一二月六、七日ころ、占い師から「FやDとの喧嘩は駄目、同六五年に子供が誕生する。同六三年ないし六五年が天中殺である。同六三年六月、一〇月に仕事の迷い、変化が生ずる。同六五年二月以降に仕事が決まる。同六二年二月、五月、一二月が最後のチャンスである。」などと占ってもらい、手帳にメモした。

同六二年一月二七日ころ、Dは、占いがよく当たると聞いた神官Sの著書を読み、二月一日乙とともに、Sに前記の悩みごとの占いを求めたところ、「音楽をやる場所がある、プレーヤーにいいのが集まっていない、Dには編曲はできるが本当の作曲はできない、バンドではお金が稼げない、グループはDの編曲したものでやって行けるのではないか、ヒット曲を出して一稼ぎするのは無理、バンドの収入は望めない。」などというもので、Dの苦悩は軽減されず、帰途乙から、占いは作曲がDの天職という趣旨ではないかなどと言われたので、自身の作曲力についてはともかく、右バンドの活動を断念しなければならないのかと困惑した。一方、甲は、乙から「Dと同じレベルの人がバンドにいないからDの曲で他の人を食べさせていくことになる、Dは神の世界で作曲家として登録されているようだ、雑音を取り払わなければ神の曲は書けない、神の世界の音楽を人間界に出すのが神の選んだ作曲家である。」と占われたと聞かされた。右バンドは、前記のような売り込みにもかかわらず、契約先が全くないため、二月八日のライブの際、Dがメンバー各人の意向を確認し、既定の三月一五日までのスケジュールを消化して解散しようと合意した。

甲は、一月下旬ころ、D夫婦から、C方の売却と転居の斡旋を依頼されたため、二月九日ころ、知合の「H不動産」(経営者H)にD夫婦とともに赴き、Dが条件と希望などを述べたが、Hは売値が高過ぎ、希望するような物件は見出し難いと応えたので、甲が、売買は不動産屋に任せた方がよく、Dのいう条件は適当でない、物件を一度見てもらった方がいいなどと口を挾み、HがC方を見分してから話を進めることになった。そして三人で午後四時ころ、C方に戻り、同人に対し甲が、「俺に、神が降りて来た、乗り移った。」などと言い、D夫婦に、「これからDがやっていく仕事は作曲家一本だ。Dは作曲家としてやって行くと神様から言われた。作曲家としてやって行くなら今の環境から脱出しなければならない。家にいると○○商店という家業のことや父親がアル中で暴れたりするので曲が書けなくなる。この家を出て三人で作曲活動をやろう。」などと語り、これを聞いたDは、考え込んでいたが、「殆どの世界で善が負けている。残るのは歌の世界のみだ。善の曲を広めなければ、核戦争のボタンが押される。僕が神の曲を書きバンドで演奏し世界に広めて悪を封じるため作曲家としてやって行くと分かった。」と答えた。その後、甲が、「Dは心はきれいだが、物事をやり遂げる男らしさがない。俺が教育する。」と言うとDは、お願いしますと応じ、乙に「甲さんを信じろ。」と言うなどし、甲が主に話手となってD夫婦と一晩中話し合い、翌日午前九時ころ話し終えて帰る際に甲は、「これからのことは神様からまた指令がくるから待ってろ。俺を信じて作曲活動すれば、必ずいい曲が書ける。これは何処まで俺を信じるかにかかっている。」と言い残した。DはCに話しの内容を聞かれたが、何でもない、俺を信じてくれと言うだけで答えなかった。甲は、B方で小遣い一〇万円をもらいながら、Dが家を出る決心をしたので今後は金が必要になると考えて三〇万円を無心したが、同女からその使途を尋ねられると言葉を濁した。Dと乙は、かねて、甲が自分の決意を試すために牛乳だけで一週間過ごすなどしていると聞いていたため、そのころから、食事を満足に取らない生活を続けた。

二月一一日午後七時ころ、甲がC方に来て、「神が俺に移った。わかるだろう。」などと言ったり、軍隊の話を一方的にし、D夫婦は頷いているだけであった。三人は、その夜一睡もせず甲は、翌一二日朝帰って行った。午後一時ころ、再び甲が来て、前日と同様、一方的に話し、同じことを何回も言っていた。同日午後八時五〇分ころまで右バンドが横浜市内でライブ演奏した際、客に対し、三月二日の都内及び同月一二日の横浜市内でのライブ演奏を最後に解散する旨を発表した。同夜の演奏を右バンドの後援者Iの紹介で音楽関係ビデオ演出業のI2が聞きに来ており、演奏終了後、I2がDに対し解散の理由を尋ねた上、もう一度やる気があるなら協力してもいい等と提言すると、Dは「もう一度やります。」などと答え、Iの依頼もあって、I2は今後のライブ演奏の際、レコード会社のディレクターを連れて来るよう努力すると応じた。その帰宅途中、DはI3に「I3はバンドのマネージャーではなく僕を世に出すためのマネージャーで、僕が神の心で神の曲を書き、それをバンドで演奏して世界中にヒットさせ世の中を平和にすると甲から言われていたが、僕はそれが今までよく分からなかった。今日I2の話を聞いてやっと全てがわかった。この事を甲は神から聞いて教えてくれた。甲はすごい霊感の力を持っている。」などと語った。翌一三日午前二時ころ、I4がキーボードを返しにDの許に立ち寄った際、Dが「Iに紹介された芸能界の有力者のI2から解散はもったいない。やるなら協力させてもらうと言われたのでバンドは解散しない。同じメンバーでもう一度やる、実は、甲から、バンドは解散しないようになると言われたことがあったが、そのとおりになった。本当に不思議だ。」などと語り、乙も「実は私も前からそう思い、甲と同じ考えだった」旨述べた。これを聞いてI4は、D夫婦が甲を予言者のように思っていると感じた。午後二時ころ、甲が来てDに曲を作るために部屋を探さなければいけないと言い、HがC方に来て、土地の便も良くないことから売るにも限度があり、二〇〇〇万円の物件を買うなら一〇〇〇万円は借り入れとなるが、それが可能かと尋ね、当座必要となる住いとしてHが購入した家屋を賃貸してもよいと言い、D夫婦、甲を伴ってその見分に行き、甲は良いと考えたが、Dが方位が悪いと断ったため、結局、話はまとまらなかった。そして三人は午後七時ころ、C方に戻り、Dらは一二日のライブ後の出来事などを語り、甲の言ったとおりになった、バンドは解散しないなどと言ったが、甲は、方位などにこだわって自らの骨折りやHの好意を無にし、作曲に専念するという決意を簡単に変えてしまうDの煮え切らず、意志薄弱な態度に腹を立て、「この前の約束はどうしたんだ。神の曲を作曲するんだ。作曲活動に専念しろ。俺を信用しろ。Dどうするんだ。」と怒鳴り付けた。Dは、横須賀市浦賀のI4方住居前の家屋(J所有)が空いていたことを思い出し、I4方に行くため、甲とともに午後八時前ころ、車で出掛けたが、右車内で、Dはたまたまやってきた神示協会関係者で右バンドの後援者であるI5に対し、無神論者だった甲の体に急に神が降りたと言い、乙も伴ってI4方に赴き、DがI4に対し、作曲に専念するため部屋が欲しいとしてI4方前の家を短期間借りる交渉方を依頼し、同人は、その後、Jに連絡して賃貸の承諾を得た。四人は、I4方からの帰途、居酒屋に立ち寄って翌一四日午前零時ころまで飲食したが、その際、乙が、Dに悪気(あっき)が付いていると言ったので、甲がDに「お前の目に悪が付き始めた。うちに帰りたくなるような気持にさせるようなものが付き始めた。この世の中には悪魔がいて、お前を世の中に出さないようにしている。お前の両親には悪魔が憑いているので、このまま家を出て二度と両親の元には戻るな。家に帰ったら、せっかく家を出て作曲活動に専念すると意思を固めたのに、また元に戻されるから帰らない方がいい。」などと言い、乙も賛同したが、Dは、親は敬うもので育ててもらった恩がある、家に帰りたい、バンドも解散したくないなどと応じた。しかし甲は、「お前にそう言わせているのは、悪魔が言わせているんだ。」と畳みかけたため、Dも遂に同調し、作曲をするためには両親を捨ててでもという意気込みを見せるようになった。

同月一四日午前一時ころ、右四人でI3方を訪れ、甲が自己紹介をし、DがI3に対し、家を出てきて二度と戻らない、I4の家の前にある空き家に乙と住むように決めてきたと話し、甲は「Dの両親は悪魔で、あの二人がDを駄目にしている。今戦って封じ込めて二人を連れ出して来た。」と言った。午前二時ころ、I3が、Dの車を運転し、I5と甲を乗せてDの家に向かったが、途中、甲は、やはりDがかわいそうだから帰らないと言ってI3方に戻り、「自分がいない間にDが悪に取り戻されそうで心配だ。」と言って朝方まで居続けた。その間、甲、乙とI3が、すぐには曲が浮かばないので作れないというDを、「そんなことはない。絶対いい曲が書ける。」と激励するなどし、乙とDは朝方寝た。甲はアパートに帰り、自室でしばらく眠ったが、夕方、再び、I3方に赴き、D、乙の目を見つめ、「俺を信じろ。三人で信じ合って最後までやって行こう。」と言い、Dは自分を不安にさせるものが襲いかかって来ている気がするなどと応えていた。午後七時ころ、I3から電話で呼び出されたI4がI3方に来て、Jの家が借りられるとDらに伝え、甲は、「バンドはやって行く、Dは作曲に専念する。Dは神が作曲者としてこの世に送った人間だ。その作曲をこの世に悪魔がいて邪魔しようとしている。俺はDを悪魔から守らなければならない。」などと言い、DはI4もマネージャーとして頑張るように言い、乙は甲の言に頷いていた。I4は、甲の言に神示教会の教義に通じるものがあったので、甲にその教義中の神が憑いたのかも知れないと思ったが、「悪魔が憑いた。」という点は教義にもないので不審を抱き、また、バンドと無関係な筈の甲が、バンドの続行を述べた点も訝しく感じられた。I3は、午後一一時ころ、Kに、「Dが神の曲を書き、その曲をバンドが演奏して世界中にヒットさせこの世を平和にする、両親が悪魔でそのことを妨げていると言ってた。」と話したところ、言っていることがおかしいとKに指摘され、初めて甲に惑わされていたと気付いた。

その後、甲と乙は、翌一五日朝方まで寝ずに、時に「実家に戻りたい。」「神の曲などは作れない。」などと言うDを説得し作曲させようとしたが意欲を示さないので、乙が、神示教会の教義上、神が降りて来るとされていた午前六時ころになれば作曲するのではないかと考え、「六時ころが勝負よ。」などと甲に言った。I3がアルバイトを終えて午前五時五五分ころ帰宅すると、テーブルに向かい、レポート用紙に五線譜を書いたものの前で考え込むようにしているDの背後から、甲、乙が、こもごも、「早く書けよ、早く神の曲を書け。」と責め立てており、三〇分位してDが書き始め、三〇分位で一四節を書き上げたが、甲が歌えと言うと、Dは分からないと応え、甲が自分で書いたのだから分からない筈はないと迫っても、依然分からないと言うので、甲が強く「じゃもう一回書けよ。」と迫り、Dは、レポート用紙に向かってしばらく考え込んでいたが、疲れを訴え、甲も了承したので、Dは、I3のベッドに横になった。その後乙は、甲に「Dは気が狂うようになると神の曲が書ける。三年前に夢を見た。この人の父が交通事故か何かで死体がバラバラで、その際、Dが気が変になったようになって曲を口ずさんでいる夢を見た。」と語り、甲が「気持ちの悪い話だな。」と応じていた。I3は、やりとりを聞いて恐ろしくなり、両被告人には早くI4の前の空き家に行ってもらおうと強く思った。そのころ、甲は、L1とL2に電話し、かねて約束していた同日正午ころの待合せには行けない旨早口で伝え、一方的に切った。午前一一時ころ、乙が、I4方に電話してJ所有家屋が午後零時ころに空くと分かりDを起こしたが、同人は無表情で声をかけても応答がなかった。引越しのため甲の車に向かう時に雪が降り、乙には、自分らの旅立ちを清めるために神が降らせているように思えて泣けてきて、Dが宥めたが、泣き止まなかった。Dを作曲活動に専念させるため、ステレオ一式、キーボード、布団一組、衣類のバッグを運んだ。Dの車をI3が運転し、引越し終了後、これをC方に運転して行ってくれるよう頼んだ。乗車後Dがカセットに「旅立ち(仮題)」という曲を吹き込んだ。午後零時ころ、J所有家屋に到着し、甲は午後二時ころ、B方で三〇万円をもらい、Gが甲を引き止めたが、真っ赤な寝不足の目をして急いでいたので、Bがなぜそんなに急ぐかと問いながらその目を見つめると、甲は、慌てて目を逸したので、それまで同女を睨み付けることはあっても自ら目を逸らすことなどなかった甲のそのような態度に、同女は強い不審の念を抱いた。乙は、昼食後、I4らと浦賀市内の「流通センター」へ赴き、石油ストーブ、炊飯ジャー等の台所用品、食料品、掃除用具などを買い、I4から鍋、釜を借り、夫と二人だけの生活ができると思ったが所持金は一〇〇〇円となってしまったが、戻ってきた甲が、乙に一五万円渡したので、乙はその親切を有難く感じた。午後六時少し前ころ、Dは、甲に付き添われて行った銭湯の帰り「ハンバーガー屋で見たテレビでサイロから核弾頭がビーンと出てくる情景を想い出した。近い将来に起きることだ。僕を風呂屋に行きたい気にさせたのは、神様がさっきのテレビを僕に見せるためだったんだ。」と語り、帰宅後乙に対しても、核戦争を防止して人類を破滅から救うには神の曲を作り、それを世界中に広めなければ駄目だと話した。

同月一六日午前三時ころ、I4が仕事を終えて帰宅し、D方に顔を出すと、Dが作曲している様子はなく、D夫婦と甲が話をしており、I4も加わったが、甲に「疲れているから寝た方がいい。」と言われ、すぐに辞去した。甲は、そのころまでに、右家屋が古かったため、同所でD夫婦と夜を過ごすには抵抗があったが、乙が同所に落ち着くつもりであり、甲には早く帰ってもらいたいと思っていることを察知して焦り、D方を出るI4を追いかけ、I3を電話で呼び出させたところ、不在であるようだったが、I4は、甲がI3になんとか連絡したい様子であったので、Mに電話してI3のところへ行くよう依頼した。Mは、これに応じてI3の許に行きI4が電話でI3に来てくれと言っていたと伝えたので、I3は、午前四時ころ、D方を訪れたが、屋外で三〇分位待たされた後、甲から「今大変だった。物凄い悪魔と戦って、今それを封じ込めた。その間、外で待って貰った。これが今封じ込めた悪魔だ。この邪悪さがわかる。」と告げられた。そこには、昔破られた跡のような一〇センチメートル位の斜めに破れた跡が一箇所あるだけであったが、甲は、「この家は悪魔だらけだ。その悪魔の出入口を見せてあげる。」と言い、破れていない方の襖を開け、押入の天井の隙間を指さし、「あそこから悪魔が出入りしているからこの部屋も早く出なくてはいけない。」と言い、一方、DはI3に対し、「僕はもうドラムを弾かず、作曲だけをする。バンドはスピッツ・ア・ロコで、僕の芸名を金沢春秀と決めた。今、世の中では核戦争が始まる寸前で、これを阻止するため僕の作った曲がビルボードで一位にならなくてはいけない。僕は表面には一切出ない。僕と乙がこの世に存在していた痕跡すら消さなくてはいけないから、後は全てI3に任せる。兄貴は僕を守るため僕のそばを離れない。ここを引越すから新しいアパートを探してくれ。」と語った。甲は「アパートはすぐに見つからないから、とりあえず夜が明けたら僕のアパートに行こう。」と誘い、Dはこれを承諾したが、乙の賛成はなかった。午前五時一五分ころ、I3が帰り、メンバーやその後援者、DやI4の親などの関係者に状況を説明して回った。一方、その朝、甲は、I4に対し、「あの部屋には悪魔がいる。作曲ができない。I4の両親も悪魔に取憑かれている。お前もここにいたら取憑かれるぞ。こいつは駄目だ。本当はDを救うのだけれど、救える者はみんな救わなければいけないな。」と言い、Dも「そんなこと言っても、今、I4には分からない。俺にだって分からないもの。とにかく作曲もバンドもやりたい。I4、力を貸してくれ、一緒に行こう。」と頼んだ。I4は一〇年来の友人Dが言うので力になろうと考えた。午前七時ころ、四人は甲の運転で出発し、甲は途中で降りたがるI4の態度やDの口添えを無視し、午前九時ころ、藤沢市亀井野所在のアパート「××荘」に着いた。乙は、今後落ち着けるアパートを借り、夫と二人で生活し、作曲活動について甲が時々来て男心を教えてくれるものと考えていたが、甲がI4に「今の世界は悪魔に占領されそうになっている。いつ核戦争が始まってもおかしくない。核戦争のボタンが押されんとしている。それをなくすためには世界中に大ヒットするような、例えば、アメリカのビルボード誌の一位になるような曲を作り、人の気持を和やかにしなければいけない。この曲はDしか作れない。バンドはスピッツ・ア・ロコだ。ここで三人で曲を作る。お前はその曲をもってバンドに行き演奏してくれ。マネージャーだから、パイプ役になってくれ。」などと言うのを聞いて、甲は三人で共同生活をするつもりであることを知ったが、Dは甲の言動に反発もせず信じ切っている様子であった。午前一〇時半ころ、乙が甲の預金通帳と印鑑で約二〇万円を下ろしてきて、所持金は合計約三八万円となった。

甲は、神の色は白といい、I4に部屋を掃除させ、壁についているコンセントや通気孔などを半紙で覆わせ、箪笥や本棚に白いシーツなどをかけさせた。乙には、そのような行為がうさん臭く感じられ、甲の命じることに対しても神様がやれと言うならやるなどと口答えし、Dも家へ帰って相談してみると言ったり、「神の曲」が作れるか不安だと訴えるなど、動揺し、不安と猜疑心で、甲の言葉も信じ切れない様子であったが、甲は「俺を信じていれば絶対に大丈夫だ。」と説得した。夕刻、甲の指示によりI4がダブルカセットレコーダー等や、握り寿司等を買って来た。午後九時ころ、甲が右寿司を手に取り「臭い臭い、悪魔が付いている。外に出せ。」と言ったので、I4は、訳も分からないまま、寿司を廊下に出した。その後、四人は夕食を食べ終わり、炬燵の回りで横になったり座ったりしていた。

翌一七日午前零時過ぎころ、突然、甲が起き上がり、炬燵で横になっている乙の横に来てその顔を覗き込み、顔の中に鬼がいると言い出し、人差し指を乙の顔に突きつけるようにして「鬼出て行け。」と何遍となく押し殺した声で言い始め、乙が眠りかけると、頬を掌で叩いて目を覚まさせながら、約一時間位これを繰返した。I4は、気味が悪かったが、Dは炬燵で寝ていた。乙は、シーツかけなどを素直にできない気持を持っていると甲やDから指摘され、頬を叩かれたりするのも、そのような自我がなくなる方法かと思い、されるがままになっていた。甲の指示によりI4がI3方を訪ねたが、不在だったので、ヘッドホンと食物を買って、午後二時ころ戻ると、甲が、炬燵の脇で横になっている乙の頭の方で、「鬼出て行け。」と繰返しており、Dは布団で寝ていた。食事後にも、I4がまどろんでいる時、甲が炬燵にいた乙に、「鬼出て行け。」と繰返し、乙が目を瞑りかけると頬を叩き、目を開けさせていた。暫くして、甲が傍らのI4に「こういう風にしていると人間がどうなるか知っているか」と普通の会話調で訪ねたので、I4は、「おや、人が違うな。」と思い、「わかりません。」と答えると、甲は何も言わなかった。午後七時ころ、甲が、「D君が作曲し易いようにしなければいけない。D君の好きなようにしてやれ。」と言い、Dが模様が気に入らないと言うコップを捨てろと命じ、I4が、コップを台所の一個所に集めると、水道の蛇口や押入の天井の節を紙で塞げ、台所のシミを拭き取れ、と矢継ぎ早に命令した。その後、I4は甲の指示により、シャンプー等やDの希望したヨーグルトなどを買ってきたが、再び甲に命じられて買い物に出た。午後八時三〇分ころ、Dが、神の曲の一つ「風呂上がり(仮題)」を作曲した。I4が買物から帰ると、ほかの者達は入浴を終っており、甲がI4に風呂に入れと言った。それまでに甲がDと向かい合い、「悪魔がいる、鬼がいる。これが邪魔して作曲ができない。」と言って、無言で同人の目を見つめるということがしばしばあり、I4には何のためにやっているのか分からなかったが、薄気味悪くて理由を聴けなかった。また、甲が乙に「絶対俺はDを守る。絶対だ。」と話して乙が頷くこともあり、Dに「俺を信じ込め。」と繰り返し、Dが「分かった。」と応じることもあった。一方、Dが「風呂上がり」を作曲したころ、乙が、甲とDの親密さを嫉妬するような態度を示し、Dが、乙の顔を二度平手打ちし「手が自然に動いた。きっと神様が動かしたんだ。」と言ったりした。また、同日昼ころ、I3は、電話でEの遺児E2を呼び出し、同女が日本照明に行くと、I3は「甲が最近、近くに悪魔がいる。悪魔が東逸見の家にいるので出なければならない。悪魔がDを狙っているから、どこかに家を移さなければいけないなどと変な事を言っており、D夫婦を甲の所から、連れ戻さなければならない。リーダーがこんなことでは、バンドも考えなければならない。」と言い、その後、メンバーとその後援者らが集まり協議の上、午後一〇時ころ全員で甲のアパートに赴いたところ、部屋には電気が付き人の気配がしていたものの、I3やE2がノックしても開かず、I3が呼びかけると、ドアが開き、乙が「ああ良かったI3さんで。」と言ったが、背後の人々に気付くやドアを閉め、甲が玄関に出て来て「I3君だけ中に入って戸を閉めろ。」と言い、I3が台所まで入ると、甲が立ちはだかり、威嚇するようにI3の顔を覗き込み、目をじっと見つめたので、同人は一瞬怯んだが、続いて玄関に入ったE2が「私はEの娘だ。会いたい人がいるんだよ。」と叫ぶと、甲は驚いた風で、E2の顔を見た後、またI3を見つめようとした。そこでE2が大声で「会いたい人がいるから上がらせてもらうわよ。」と言うと、甲は「ここは俺の家だ。出て行け。」と言い、同女が出て行かないのを見ると「乙、警察に電話しろ。」と叫んだが、E2は、「電話するならしなさい。」と応じ、後から入って来た者達も「そうだ、そうだ。」と言った。これに対し、甲は何の反応も示さなかったので、E2が玄関すぐ右手のガラス戸を開けると、布団の上にDが胡座をかいていた。乙と甲がガラス戸を閉めようとしたが、E2が、「もう大丈夫だよ。何もしなくていいんだよ。」と言うと、乙は何も言わず首をうなだれ、左右に振っていた。その時、Dが、「皆、入ってもらって。話せば分かってもらえるから。」と声をかけ、甲も「どうぞ入って下さい。」と言って招き入れたので、メンバー等は、Dを囲むように座り、Kが「俺のこと分かる。」と声をかけると、Dは「分かるよ。」と応え、E2が「ただ狂っているふりをしているだけじゃないの。」と言うと、Dは黙って首を横に振った。室内にはDのハミングをエンドレステープに録音した曲(「旅立ち」)が、大きな音で流れており、Dが、「今できたばかりの曲を聞いて下さい。」と言い、同人のハミングを録音した曲を流すと、甲が大声をあげて泣き出し、Dが、この曲は核戦争をなくして平和な世界にするためのもので、この曲を右バンドで演奏する、などと音楽のことを話し始め、話し終わった後、E2の顔を見るや、胸を押さえて俯き、「いや、迷っているんだ。今ここにいる人達の気持を動かせないで納得させられないのなら、私達がやっていることは間違っているのかもしれない。」と語ったが、乙が近寄り耳元で「だめよ言葉を聞いては、音を聞くのよ。」と言い、Dのハミングのテープに合わせてリズムを取り始め、甲の方を指さして、「あの人の事だけを信じていればいいのよ。」と言った。そのころI4は入浴していたが、OやI3に声をかけられ、風呂から上がって来た。E2が、甲と話をしようとすると「あんたは黙っていて。今違う人の話を聞いているんだから。」と言い、Oも、甲に話すように促したが、甲は手を使ってしゃべる格好をし、「私はこっちの方は全然駄目ですよ。」と言っただけであった。甲と乙は、Dを中に挾んで手を繋ぎ、甲はDの肩も抱くようにしてリズムを取り続け、甲が笑いながら、「どうぞ続けて下さい。話して下さい。」と言った。Oは、テープを止めろと要求したが、甲は、「止められない。」と繰返すだけであったので、I4が音量を小さくした。OがDに「親が心配している。家に帰れ。バンドはどうするんだ。リーダーなんだからちゃんとしろ。」と言ったが、Dは、「バンドはやります。タイコはやらず、作曲に専念します。」と応えて、話は噛み合わず、仕方ないからI4だけ連れて帰るというOの提案に皆が同調し、I4を連れて部屋を出た。三人の中に見送る者もおらず、両被告人は「やっぱりこれがよかったね。」「最高だよ。」と話していた。

翌一八日、乙は午前一〇時ころ起き、昼近くに有合せのものを三人で食べ、日中は、「家に帰りたい。自分には神の曲は書けない。」などと弱音を吐くDに、甲が、「自分を信じれば神の曲が書ける。自分を信じろ。俺を信じ込め。」などと繰り返していた。また、甲は乙の肩の凝っているところを指で押しながら、「これは夫を独占したいという自我の塊だ。」と言い、心を言い当てられた乙は甲の神憑りの話も本当なのかと思ったりした。一方、連れ戻されたI4は、疲れている様子が感じ取れただけで、従前と変った様子はあまりなかったが、午後三時ころ、Dの弟D2に対し、Dが死ぬぜ、と言い出し、メンバーとO、Cらは、D夫婦を気遣い、甲から引き放そうと考え、午後一一時ころ、再び、甲のアパートに赴いて、D夫婦を連れ出し、近所のファミリーレストランで、Oらはドラムを辞めて作曲だけに専念すると言うDに対し、ドラマーがいなければバンドの活動ができなくなるし、三月一五日までのスケジュールが決まっているのでリーダーとしてのけじめを付けるように説得したが、Dは「今は曲を作るのが先だ。このままでは核戦争が起きてしまう。核戦争をなくすために曲を作るんだ。」と応えるなどしていた。翌一九日午前一時ころになって、ようやくDが実家に戻ることを承諾し、Dが甲に一遍、家に帰って整理してまた来ると話し、MがD夫婦をその実家まで送った。乙は、言葉の意味を十分理解している様子であったが、下を向いて何も話さなかった。午前二時ころ、D夫婦はC方に帰り、乙が食事の用意をしていると、Dがいきなり「神の世界に行ってきたよ。」と言い、D夫婦はそれぞれご飯、味噌汁、おかずを食べた。DはD2に対し「こういう形でお前に会えたから言うけれど兄貴として何もやってやれなくてすまなかった。生きて行く上での勇気を教えてやる。もうこの家には帰ってこない。アパートを借りて夫婦で住む。この家にいると世に出られない。おやじとお袋は悪魔だから一緒にいても駄目だ。世の中は善と悪で成り立っているので、善の曲を作り人の心を慰めてやるため、『上を向いて歩こう』の様な曲を作る。俺は表に出ては駄目なんだって。」などと言ったが、本当は、まだドラムをやりたいという雰囲気を漂わせており、D2から今日が一八日だと教えられて「もう一〇日も過ぎたのか。甲は他人からみれば変に見えるかもしれないけれど、何でも見えているんだよ。○○商店のことはI3に頼んである。よろしく頼む。これからも迷惑を掛けると思うが頼む。」などと言った。その間、乙は目をつむり頻りに頷いていた。乙は、家を出てDと二人で暮らすつもりで、収入が途絶えたら病院に勤めても二人なら生活できると思っていた。食後D夫婦は寝室に入ったが、乙がFの制止も無視して鼻歌を歌い続けた。その夜、乙は生理中であったが、一三日以来初めてで最後の肉体関係をDと結んだ。一方、独り残された甲は、これまでの努力にもかかわらず、Dが甲を信用しようとせず、あるいは、一旦は信用したようになっても簡単に気持を変えることや、乙が、自分に反発するような態度を取り続けたことを思い返して苛立ちを覚えるとともに、独り取り残されたことに、割り切れなさを抱き、午前九時三〇分ころ、C方を訪ね、同人に「部屋が汚れているから片づけてもらっていいだろう。」と言うとともに、D夫婦に対し「藤沢のアパートがあのままじゃ困るから、片付けに来てくれ。」と言って強硬に同意を求め、CがDは請求書を書かなければならないと断ったが、Dに「家にいるのが嫌ならD2の店で書いてくれ、三時ころには戻れるだろう。」と言い、念を押して甲にもその旨承諾させ、請求書の伝票用紙の入った紙箱を乙に手渡した。甲は、D夫婦を車に乗せて自己のアパートに向う途中、Dの心をより強く自分へ引き付けるためにはもっと強烈な何かが必要だと考え、「人間界のことは一切してはいけない。」と言い、乙に命じて六会駅前のタバコ屋でDの持って来た紙箱をC方に返送させ、同駅付近で浮浪者が歩いているのを見つけるや、「あいつがずっと見ている。悪魔の回し者かもしれない。D、あの男と目を合せては駄目だ。」と言い、しばらく周辺道路を車で走り回った後、乙に薬局で買わせた包帯でDに目隠しをした上、乙にDを抱えるようにさせて甲の部屋へ入った。その後、部屋を片付け、改めて、シーツや紙を貼り、午後一時ころ、甲が食物を買って来た。一方、午前一〇時過ぎころ、Cから、甲がD夫婦を連れて行った旨連絡を受けたOは心配し、乙の母N2にも連絡し、D2の経営する喫茶店「ブラッサム」に関係者が集合して協議した上、午後五時ころ、C、O、I3、I4、Kらが、甲のアパートに赴くと、Dは、敷き布団の上に座っており、甲が、○○商店の書類は送ったなどと言ったが、Oが乙の両親が来ているから、とにかく来てくれと言うと、甲が「私はOさんを信じています。Dは脅えているのであまり手荒なことはしないで必ず帰して下さい。」と言い、Oは帰る帰らないはこれから話し合って決めることだと応え、D夫婦は渋々付いて行き、再び独り取り残された甲は、割り切れなさとともに、メンバーや父が来るとすぐに帰ってしまう意思の弱いDに強い苛立ちを覚えた。午後七時ころ、D夫婦が右喫茶店に到着し、母N2が見ると、乙の顔は普段通りであった。同店で関係者が協議し、D夫婦を当分の間それぞれの実家に離して生活させることになり、別々に連れ帰ろうとした時、Dが「俺には乙が必要なんだ。乙がいなければ作曲ができない。」と言い、自分の手をフォークで刺すまねをしたが、乙の父N1は、「作曲は家でもできるじゃないか。今の君はちょっとおかしい。乙を連れて帰るから二、三日落着いて考えてくれ。落着いたら乙を返すから、いつでも迎えに来てくれ。」と応じ、また「分かんないのか。」と言いながら乙の顔を叩いた。その後乙は、午後七時三〇分ころ、両親とともに横浜市港北区の実家に戻り、食事を摂って午後九時ころ寝た。一方、Dとメンバー達は、日本照明に向ったがその車中でE2に対し、Dが「お前を救わなければ。お母さんに恩を返さなければ。お前は恩人だから。」などと言った。同社で話し合った上、更に同市鶴見区の同社社長P方で話し合うことになったが、P方への車中、DはE2に対し甲は若いときから凄く苦労している、母が詐欺師でひどく裏切られた事があるが、甲は自分から裏切るようなことはしない、甲に神様が降りている、僕にこの世を善にする曲を作るよう命じた、僕が作った歌が本物だと甲は泣き出すんだ、などと語った。E2がそれは違うと反論すると、Dも自分の発言内容に少し疑問を抱いたようだったが、「胸の辺りが押されるようでつらくなってくるから、E2あまり言わないで。」と言った。P方では、Dとメンバー達が今後の活動について話し合った結果、三月二日と一〇日のライブを実行し、その後の事はそれが終わってから考えることになったが、メンバーらがP方に泊めてもらえばよいと勧めるのを聞かず、Dは、「藤沢へ帰り早く作曲したい。藤沢に帰らなければ駄目だ。」などと言い出し、Oやメンバーらは、もう仕方ないと諦め、E2が「甲の所に戻って歌を作るから、もう会えないね。」と言うと、Dは「皆、心がきれいだから、また会えるよ。」と応え、Oが、Dを甲方へ送り届けた。戻って来たDは、青黒く目がつり上がり、眼は赤黒くなっている自分の顔を鏡で見て、自分の顔が気違いに見えると愚痴を言い、甲にも、「兄貴には魔神が降りているんじゃないか。」と挑戦的に言った。これに対し、甲は、Dらのため、莫大な手数料のかかった取引も度外視し、また預金の全部も乙に委ねるなど非常な努力をして来ているとの強い思いを抱いていたためDの右のような言動は甲を侮辱するものと考えて強い怒りを覚え、「何を言っているんだ。俺はお前を男にしてやろうと命をかけてやっているんだぞ。何でそんな勝手なことを言うんだ。」と応じた。一方、乙は、午後零時三〇分ころ起床したが、両親も乙が疲れていると思って話をすることも控え、夕食後になり、N1が「乙、落ち着いたらアルバイトでもするか。」と話しかけると、「お父さんがここにいろと言えばいるよ。いいよ。」と応じた。一方、Dは、午後二時か三時ころ、D2の店に電話し、「昨日はすまなかった。○○商店はお前に任せる。」と言い、乙の実家の電話番号を聞き出し、夕方「乙がいないと部屋が汚い。そういう環境は気に入らない。乙がいないと作曲できない。」などと不平をこぼし、午後九時ころ、乙の実家に電話し、N1に対し、バンドの方は話を付けて来た、○○商店は弟にやってもらい、自分は作曲の方をやることにしたから、乙を返してくれなどと言ったが、N1に、もう少し時間をおいてからにしてくれと言って断られると、「もうやることをやったので、あとはお父さんの心が変わるのを待つだけです。」と簡単に引き下がり、傍らで聞いていた甲には、このような対応が、種々の骨折りをして来た自分の面前では不平不満を口にしながら、義父らに電話すると、柔弱なことしか言わない、ひどく煮え切らないものに感じられ、乙がいつ帰って来るかも分からず、強い苛立ちの念を抱いた。

そこで甲は、翌二一日午前八時ころ、Dに電話させて、乙が出るとすぐ電話を替わり、「今すぐに来い。昨日Dは動揺して『自分が気違いに見える。』とか、『兄貴に魔神が降りている。』とか言い出した。このままではDが駄目になるからすぐに来い。神に誓って来い。」と強く言い、乙も同意した。右電話後N2が、乙に対し、Dは何と言っていたか尋ねると、「早く起きろと言ってたよ。」と答え、朝食を摂った後、仕事場のN1に、「内職の仕事を探しに行ってくる。」と言ったが、同人から「行かなくていいよ。内職はお母さんのやるのを手伝えばいい。」と言われ、N2が、内職のやり方を教えようとすると、内職はやらないと拒み、全くやる気を見せなかった。その後、乙は、部屋の中で立ったり座ったり外を見たりと、落ち着きなく動き、N1が外出した隙を見計って、N2に対し、自分らのやっていることが他人に迷惑をかけていることは分かっており、人の道を犯して悪いと思うが、自分はDの妻だからDの言うことを聞いてDのところへ行く、そうしないとDが駄目になる、今日すぐにでも行きたいなどと涙ながらに訴え、同女から一万二、三〇〇〇円をもらって家を出て、午後一時過ぎころ甲方に戻った。一方、甲は、自室で上半身裸となったDの背中を塩で揉むという行為を開始し、乙が戻った際には、炬燵の上に、塩の入った皿と水の入ったコップが置かれ、Dの背中の上方、首の後ろ辺りに汁の出ている縦横一、二センチメートル位の楕円形の傷跡があり、甲は、Dの背中の骨の部分に悪魔の素があるようなので塩で揉み、汁を出したと説明した。乙には、甲の言葉が信じ切れず、そのような加虐行為は不愉快なものであったが、Dが甲の言うなりになって抵抗しない上、乙に対し、「甲さんを信じなさい。痛いけど我慢する。」などと言うので、甲の行為を制止できなかった。乙は、買い物等をした後、午後三時ころ、Dの傷の手当をし、午後五時ころ、甲の買ってきた夕食を摂り、夕食後、甲は、身体の悪魔が出ると言って、俯せになったDの脇に座り、首の後辺りから腰付近までの背骨の上をほぼ等分する四箇所に対し、示指等に唾液や塩を付けて擦る行為(以下、右のような行為を「塩揉み」という。)やそのような「塩揉み」で赤くなったDの皮膚の一部を体液が出るまで両手拇指の爪で強く挾みつける行為(以下、このような行為を「液出し」という。)を繰り返した。甲は、乙にも自我の塊が両肩と右膝にあると言ってこれらを指で押すなどしながら、乙も甲と同様に塩揉み等をするよう迫った。乙は、悪魔と言われても目に見えず、半信半疑の状態にあり、むしろそのようなことをするのは意に反するものであったが、Dが右の状況である上、乙には、かねてから頑固な肩こりがあり、甲がこれを見通しているようにも思えたため、容易には逆らい難く、息苦しさを覚え、また、涙も流しながら、「塩揉み」や「液出し」を始めた。両被告人は、「塩揉み」、「液出し」を数時間続け、背骨上の皮膚の四箇所に縦横三ないし五センチメートル大の赤い傷跡が生じたところで、これを止め、乙が、薬局から買って来ていた消毒液などで消毒するなどの手当をした後、午後九時か一〇時ころ、三人で炬燵に足を突っ込んで一緒に寝た。翌二二日、三人は午前九時三〇分ころ起きた後、甲に指示されて乙が買い物に出かけたが、日曜日で殆どの店が休みで缶コーヒーだけを買って来た。午前一〇時ころ、前日食べ残したおにぎりやパンなどを三人で食べた際、乙はDには心遣いを見せながら、甲に対しては、同人のDに対する前日からの挙動への不信・不快の念が強かったため、食事も甲が自分で適当に食べれば良いという態度を示したため、甲は、Dのみならず、乙までもが自分をないがしろにすると激しく立腹し、乙に「俺はDのために色々やっているのに、乙は俺に感謝するという気持がない。この膝にそういう自我があるんだ。」と言って乙の右膝を伸ばさせた上、指で押さえた。乙は、そのような甲の態度に威圧され、Dへの接し方に気を遣うようになった。その後、午前一一時半ころ、乙は消毒液、滅菌ガーゼ等の買物に出て、午後零時ころ帰り、残っていたカップうどんを食べたが、三人とも食欲がなく半分位残した。甲が、Dのティーシャツを脱がせ、敷いた布団の上に、俯せに寝かし、前日塩揉みした背骨上の四箇所から絆創膏を取って液出しを加えた後、背中に馬乗りとなり、手にした塩の袋から塩を振りかけ、首から肩胛部を経て肩胛下部付近に至る広い範囲に対し、両手指の爪全部を用いて強力にかきむしる塩揉みをし、塩揉み跡の赤い部分が急速に広がった。

乙は、塩揉み跡への液出しを繰返していたが、甲が、前日より数段激しく塩揉みをし、Dの背中で表皮の剥がれた赤い部分が一気に大きく広がったのを見て、気圧された上、手加減していた液出しを、甲にこれをやらなきゃDが駄目になるから、真剣にやれなどと言われて、力を入れてするようになった。そのころDは、苦痛を訴えながら暴れ、手を床について立ち上がり、中腰の姿勢にまでなったが、両被告人に、同室直下の者らも驚くほどの音を立てて押し倒された。甲はDに「俺を信じているんだろう。」と言い、信じているけど痛いから我慢できないかも知れないと言うDに、乙も涙を流しながら、「私には最後まで甲さんを信じて付いて行けと言ったけど、あれは嘘なの。」などと言い、Dは痛さに負けそうだと訴えて手足をバタつかせていたが、やがて痛くても我慢すると言い、その後はあまり暴れず、息を吐くだけになった。両被告人は、その後も背中への「塩揉み」、「液出し」を続け、甲がDの後頭部にも悪魔がいるなどと言い、乙が左右の耳を結ぶ線より下方の髪を切った上、剃刀でそり、その部分にも「塩揉み」「液出し」を加え、Dを仰向けにし、首及び肩胛部から両乳の下付近に至る範囲にもこれらを加えた。その結果、Dは、身体背面の肩胛下部から首及び肩胛部を経て両乳の下付近に至る広い範囲の皮膚をむかれた姿で、手足を真っ直ぐ下方に延ばし、敷布団の上に仰向けに横たわって、「ハアハア」と息を立てるだけの状態となった。

(罪となるべき事実)

被告人甲は、そのように無残な状態になったDを見て、加虐的な心理が著しく募るまま、これまでに味あわされた憤懣と強い苛立ちの念を一気に払拭してしまいたいという強い衝動に駆られるとともに、このまま同人を殺害してしまえば、自分のみならず乙もDの優柔不断さに金輪際悩まされることはなくなるなどと考えるに及び、そのころ「これ」と言って、Dの喉仏を左手押さえ、「これを締めてしまうと終わりなんだ。これをやらないといけないんだ。これをすると完璧なんだ。」と告げて、乙の対応を窺った。

被告人乙は、甲の意図を察して気持が乱れたが、Dが無力な状態となって、甲には脅威を感じるようになっていたことのほか、これまで、乙がDのためになそうとしたことが、当のD本人の優柔不断さのために度々果たせなかったばかりか、同人から賢しげに甲を信じるよう諭され、Dから甲の前で顔を叩かれるなどして強い苛立ちの念を抱いていたところ、右塩揉み等を続けるうち、甲と同様の加虐的な心理が募るまま、右苛立ちの念を払拭したい気持に駆られたこと、Dはかくも無残な姿となるまで甲を信じていたのかと失望の思いのほか、これでは、もはや、神の曲はもとより、通常の作曲も不可能であろうと思われたこと、更に、甲の言葉に最後まで従うことがDも望んでいるところではないかなどとの思いもあったことから、甲とともにDを殺害しようと決意し、ここに被告人両名は共謀の上、

第一  乙の夫D(当時三二歳)を殺害しようと企て、昭和六二年二月二二日午後三時ころ、神奈川県藤沢市<番地略>××荘二階二〇三号室の当時の甲の居室西側六畳間において、甲がDの首を掴んで絞め付け、乙がDの大腿、膝、足首を甲の使用していたベルト、付近にあった腿引き等で緊縛した上、Dの上に馬乗りとなり、手を掴んで押さえ付けるなどし、よって、そのころ、同所において、同人を窒息死させて殺害し、

第二  右記甲方居室内において、右殺害の約三〇分後ころから同月二五日午後六時ころまでの間、断続的に、Dの死体を俯せにし、甲が、鋏(<押収番号略>)で死体の後頭部を切り、乙が、右切り口の皮膚を引張りあるいはその肉を押さえ、甲が、前同様の方法により死体の後頚部を切開して頚椎を取り出したのを初め、被告人両名が協力して、その死体の皮膚を剥ぎ、眼球や内臓を取り出し、脳を水道の水で流して捨て、骨を切断するなどし、もって、死体を損壊し

たものである。

(証拠の標目)<省略>

(弁護人の主張に対する判断)

第一  弁護人の主張

弁護人は、本件犯行当時、被告人らは、いずれも、悪魔に憑かれたDからこれを払う意思を有していたものの、一種の幻覚に見舞われ、すべてその幻覚に導かれて行動したもので、殺人の故意も死体損壊の故意もない、甲の各犯行は自己の行動に対する自覚的な意識がなく、したがって任意の意思に基づき自己の行動を抑制支配し得る余地も存しない意識状態の下でなされたものとの疑念をぬぐい得ず、殺人罪の構成要件該当行為といえないのみならず、およそ刑罰法規の対象となり得る行為そのものにも当たらない、仮に心身喪失状態になかったとしても甲は、三人精神病の心因反応状態に陥っていて心身耗弱状態にあった、乙は三人精神病の心因反応状態にあり、心身喪失もしくは心身耗弱状態にあった旨主張し、両被告人の供述中には右主張に沿うかのごとき供述部分も存するほか、両被告人の犯行当時の精神状態に関する後記の各鑑定はそれぞれ結論を異にするので、以下、判断を示す。

第二  当裁判所の認定事実

一  甲の成育歴

A員面、B検面及び員面等関係各証拠によると、次の事実が認められる。

甲の父Aは、銀座の洋菓子店に勤務していた昭和一二年ころ、同店の会計係をしていたBと婚姻し、終戦後復員し米国赤十字のゴールデンドラゴンクラブに勤務していたとき甲が生まれた。同三〇年、A夫婦が離婚し、甲ら兄弟はAが引き取ったが、実際には、Bの実母に預けられ、同居していたC夫婦に養育された。同三三年、甲らは、Aの甥に預けられ、甲は、転校させられた上、兄Gの通学のため、同人ともあまり遊べず、Aとは夏休みや冬休みに会うだけで、Bとは会うこともなく、同三四年ころ、BがAに断りなく、引き取りに来た際も、甲はこれを拒んだので、承諾したGだけを連れ帰った。中学卒業後、甲は、新橋の中華料理店に住み込みで見習いとして働いたが、約一年後、胃腸が悪くなったとして同店を辞めてBに引き取られたが、Bが多忙なため、お手伝いのQに養育され、甲は、年齢などを考慮し、横須賀学院定時制に入学した。

甲は、小学校の欠席日数は、四日ないし二一日であり、知能検査の結果は、田中B式偏差値で四七ないし六九である。成績は五段階評価で五年次の図画工作が1、一年次の国語(書く)及び五年次の音楽が2、三年次の図画工作(表現)及び四年次の図画工作が5であるほかは全て3ないし4である、行動の評価については、一年次の持久力と物事を大事にする点がやや劣るほかは、すべて中ないし上である。担任教諭の所見は、四年次「父母と別れて生活している割には明朗で元気」五年次「わがままにして社会性なし。」六年次「両親と離れて生活しているが明るさは失わない。考え方に早熟なところがある。軽率さを直してほしい」というものである。

甲の中学校時代の欠席日数は、五日ないし一五日、知能検査の結果は、知能指数一〇九ないし一〇五、偏差値五五ないし五四であり、成績は五段階評価で音楽、図画工作(二、三年)、外国語(一、二年)が2であるほかは3ないし4であり、行動の評価では、二年次の責任感及び根気強さが劣るほかは、上ないし中であり、中学校時代の担任教諭が見ると、おとなしいが明るい感じで友達と仲良く野球などをしており、物事や道徳に関する理解力は通常であった。

甲の高校の欠席日数は、一六日ないし五六日であり、成績は五段階評価で一年次の古典乙Ⅰ、数学Ⅰ、英語、聖書、二年次の数学Ⅱ、三年次の化学、四年次の物理が2、四年次の英語が5であるほかはいずれも3ないし4であった。担任教諭から見ると、理解力は普通だが、努力不足で、ホームルームの時間に何回か注意したことがあったが、道徳的な面の理解力も普通と思われ、気が強く、明るい感じだが、自己中心的で、教員に反発的な態度を取っており、同級生とよく喧嘩しているとの噂を聞くこともあった。同級生の評価では甲の授業態度は真剣に見えた。行動の評価は三段階で指導性が劣るほかは上か中で、二年次の所見ではよく努力し情緒も安定してきたと評定されている。

二  甲の高校卒業後の生活状況

前示のとおりの経歴のほか、後記関係者らの各供述調書等関係各証拠から認められる、甲の高校卒業前後ころから同六二年二月一五日までの、生活状況、関係者らとの交流状況等の詳細は次のとおりである。

1 甲は、同四〇年代半ばころ痔や蓄膿症の手術を受けた。同五一年一一月、Bが資本金一〇〇〇万円を捻出し、Gを代表取締役、甲を専務取締役とする株式会社「小宮山物産」を東京都中央区築地に、同五四年五月、Bを代表取締役とする丸正商事株式会社を各設立したが、詐欺事件で同年一〇月二二日、Bと甲が逮捕され、翌五五年二月六日にBが、同年三月二〇日に甲がそれぞれ保釈されるまで勾留された。

2 甲は、同四一年ころから同五四年ころまで実戦的な空手を習ったが、負けず嫌いで普段は口数が少なく、真面目に練習をし、後輩には、何時間でも相手が分かるまでしつこく説明していた。筋は良く、形は美しかったが、自由組手の練習で後輩を相手にするときは、目の色を変えて痛めつけることが多く、勝負ばかり気にして相手かまわず攻撃していたため、指導者から実力は初段だが、武道に必要な心が不足していると見られ、初段の昇級試験を受けさせてもらえなかった。掃除や上級者に対する礼儀などはきちんとし、普通の弟子以上に理解も速く、研究熱心でもあったが、指導者に、車で横浜の風俗産業に行って遊んだという話を何回もしたり、ともに飲みに行ったときも飲み代は絶対に払わなかった。また、茶道を、三〇人位の弟子のうち男一人で、毎週一回一時間、和服を着て習い、飲み込みは早く、真面目でおとなしく、明るく、他の女性達より熱心で、指導者からは若いのに常識があると思われていた。

3 エリカ産業株式会社に二〇歳位で勤めたが、上司の注意にも「はい」と返事し、てきぱきした態度で、他の従業員よりもよく働き、夜も顧客と接触するなど、言われた以上の仕事を一生懸命にやっていた。仕事内容は土地の測量と売買で、仕事を速く終えて帰社し仕事を要求することさえあった。素行等もよく、他の同僚が飲み歩くときも同道することなく、月平均七万円の安月給でありながら若い者の中で一生懸命働いており、性格も明るかったが、一身上の都合により辞めた。社長は、甲がその後もしっかりとした仕事をしていると思っていた。赤城商事代表取締役のL1は、同四七年ころ、知り合ったが、甲は、年齢の割には言葉使いもよく、礼儀正しいしっかりした考えを持っていると思えたので、高校受験を控えた子供の勉強を見てもらったこともあった。不動産業を営むL3は、同四六、七年ころから宅地建物取引主任の資格なしに横浜市内で営業するようになったが、仕事の関係でBとその使走りをしていた甲を知ったが、同五一、二年ころ、Bと土地の買主との間で紛争が生じ、同人との話合に同席していた甲が買主の態度に怒り出し、ヤクザ者のような口をきいて殴りつけようとしたことがあり、その場はL3が中に入って収めた。L3は、同五三年一〇月から一一月まで、宅地建物取引主任として甲の名義を借り、Bに対する貸金の取立て等の関係で、B方に電話することもあったが、殆ど甲が居留守を使うなどして巧妙に応対していた。

4 横須賀市内で不動産業を営んでいるL4は、同四七年ころ、仕事の関係でBと甲を知った。当時、甲兄弟は何も仕事をしておらず、自由気儘に育てられた様子であったので、同四九年ころ、舩木駅前の店舗を手に入れた際、Bと相談の上、資本金二〇〇万円、代表取締役L4、取締役甲として有限会社「廣正」を設立し、「カントリーラーメン」の屋号でラーメン屋を出すことにした。同店は、食品会社のチェーン店で材料、スープなどは同社が作るので、素人でもできることに着目し、店舗の改造費、資器材の購入のため、L4が七九〇万円、Bが五〇万円を各出資し、同五〇年一月三〇日から営業を始めた。しかし、甲は、午前一〇時の出店時間を度々守らず、土日には横浜市内へ場外馬券を買いに抜け出て、店の後片付けも中途半端で段々汚くなって行ったため、客足も減り、甲は、一か月で店に出難くなりL4のところに顔を見せるのも、Bの使いで書類を持って来る時位となった。

5 日成建設株式会社のL5は、同五一年秋ころ、同社に出入りするBの使走りをしていた甲を知った。同五三年ころ、取引先を招待して韓国旅行を催したが、その際、甲は女遊びをしていた。同五四年一月、同社の宅地建物取引主任の有資格者が辞めることになったので、甲から同月二五日から同年一〇月二〇日まで、その資格を借りた。仕事上、甲は物件明細書を難なく作成し、中でも計算の難しい建ぺい率計算を問題なくやっていた。L5は、同六〇年五月ころ、Bへの電話に出た甲にGへの電話連絡を依頼し、実行してもらった。同年夏ころ、Gが来社した際、甲が車を運転して来ていたので、L5が声をかけると、甲は、それまでと同様に明るい感じで対応し変ったところは何もなかった。

6 L6は同四九年ころ、Bと取引して、その手伝いをしていた甲を知り、Bらとは一一回取引したが、殆どは甲が持ち込んだ話で、「お袋には内緒にしてくれ。お袋に知れるとぶっこわされる。」と言っていた。L6が、同五八年ころ、Bに静岡県清水市内の山林一万坪を五〇〇万円で売る話を紹介すると、同女がこれを買って手付一二〇万円を支払い、一か月後に残金を支払う旨の契約をしたが、半年経ってもその支払わなかったため、手付流れの解約扱いとしたところ、甲から「あれは手付流れではない。残金の支払いが遅れただけだ。」と執拗に責められ、昼夜の別なく電話で「一二〇万円を返さないと告訴するぞ。」と脅かされた。L6も、右詐欺罪で検挙された後、地元の不動産業者等から信用されなくなるなど甲母子の窮状を知っていたので、結局、甲の言い分を容れ、右手付金返還に代える措置としてL6が同五八年ころ、乗用車を一五〇万円位で購入し、甲に使用させたが、甲らがL6の取引先を食い物にしている様子なので、同六〇年ころから会っていない。

7 横須賀市内のサウナでマッサージ師をしていたL7は、同五二年ころ、客の紹介で、胃腸が悪く疲れやすいと言う甲を知り、一回三〇〇〇円(一年位現金払い)で三、四日に一度の割合で甲方へ行っていたが、甲は笑顔を絶やさず、人当たりが良く、Dを含め客を何人か紹介してくれた。同五七年ころ、甲に「L7さんはいい腕をしている。このまま埋れさせてしまうのはもったいない。俺が資金を出すから、一緒に治療院を出そう。」と言われ、それを信じて仕事を辞めたところ、甲はこれを具体化せず立ち消えとなり、甲にうまく丸め込まれた感じがした。同五八年ころから、マッサージ料の支払いが急に悪くなり、同五九年ころ、未払い料金を、毎日の様に請求して、言い逃れる甲からようやく一〇万円の内払いを受け、その後も請求しているが、支払うと言いながら仲々支払わない(同六二年現在、未払い分三〇万円)。同六〇年ころ、L7がソープランド嬢と一年位同棲した際、甲が、「奥さんや子供がありながら無責任じゃないか。」と説教めいたことを言ったこともあった。L7が最後に会ったのは、同六一年の五、六月ころで、茅ケ崎の家に遊びに行き、マッサージをしてやった。

8 詐欺事件で保釈後、Bは何回も謝罪したが、甲は許そうとせず、性格が暗くなり家の中でも笑顔を見せず、自分の部屋に閉じこもるようになった。L7は、同事件で拘置所に面会に行った際や釈放された後、甲から、「俺はこの事件に関係ない、お袋に利用されただけだ。あのばばあに一〇〇〇万円使われた。」などと聞かされ、甲方で、母、兄と良くしていた麻雀もしなくなったことを知った。保釈後、L3にも母親を恨んでいる、俺は関係ないと言っており、暗い感じで笑顔も見られなくなっていた。右事件後、Bが頼んでも車に乗せず、仕事らしい仕事もせず、Bから五万円とか一〇万円の小遣いを貰って生活するようになったが、そのころ、BはCと喧嘩して没交渉となり、Dの結婚式には誰も出ず、祝い金も出さなかった。同五六、七年ころ、甲は、映画館で「エクソシストⅠ、Ⅱ」を三回見た。同六〇年暮ころ、Bは、Gを通じて甲を同女方に呼んだが、来なかったので、同女は、一二月三一日Gに正月料理を持たせて甲方に届けさせたが、その数日後、B方に来た甲は、「あんな物全部捨ててしまった。」と言った。

9 B方で同三五年ころから家事手伝いをし、甲の養育もして来たQが、同五六、七年ころ甲に対し、小学校の同窓会に行ってチークダンスをしたと語った数日後、甲が、わざわざ同女の目に入るような格好で、陰茎を出して見せ、同女が、「子供じゃあるまいしなんてことするの。女が欲しければ遊びに行ってきなさい。」と言うと、黙っていたが、その二、三日後、甲がまた陰茎を出し、同女はこれを無視した。次の日、また陰茎を出したので、同女が、「私はあなたが嫌いよ。」と言うと、その後は、そのようなことはしなくなった。

10 同五八年一二月七日夜、甲に心臓発作があり、救急車で病院に搬送され、心電図などには異常がなかったものの、甲は、医師に呼吸が苦しいと訴えた。同月二二日夜、甲がテレビを見ていたところ、再び急に血の気が抜ける感じがするとともに腰から手足が痺れ出し、呼吸困難となって、救急車で病院に搬送され、診察を受けたが、やはり心電図には異常がなく、問診及び触診から精神病とは関係のない、心因性の「過換気症侯群」と診断された。その後、甲は、Cの紹介で、同五九年一月七日と一二日に内科を専門とする医師の診察を受け、右過換気症侯群の発作の際の症状を告げ、胃痛、耳なり、息切れ等を訴えたが、触診では、腹部に圧痛を訴えることもなく、尿・血液に関する諸検査の結果にも異常は全く認められなかったので、医師は、胃潰瘍や胃炎の軽い症状の患者に出す消化剤的な薬剤を一週間分出しただけであった。甲は、同五八年一〇月七日漢方薬局に行き「風邪を引き、痰が出て咳が仲々止らない。」と訴え、薬剤師が気管支炎と判断して薬一五日分を調合し、その後も、同六〇年四月までに一四回来店し、合計一二万四七〇〇円の薬(ただし、同五九年一一月一五日は痔の薬)を調合してもらい購入した。

11 甲は、同五九年二月末、いわゆるサラ金の「プロミス」から二五万円、「ジャックス」から三〇万円、同年一〇月三〇日、「武富士」「アコム」の両社から二〇万円を借り受けたが、プロミス分四万円(同六二年三月三日現在)、ジャックス分同五九年一一月以降未払い、「武富士」分三五万円(同六一年四月四日現在)の残債務がある。

12 L8は、同五五年ころから五七年までの間に三回、甲から戸塚区内と大船市内の造成地の擁壁造り、山林伐採の仕事を回してもらったほか、同五六年ころ、甲と組んで不動産の仕事をした。同五九年ころには、L8が甲に紹介した西浦賀の土地の売買契約が成立し、甲の依頼で、同年一一月から翌六〇年二月ころまでの間に造成をした。同六一年一一月ころ、甲がL8会いに来て、「もっと良い仕事がないかな。」と言い、L8が紹介した土地の草木の伐採を依頼し、翌日、伐採していると、甲が来て、手間賃として五万円をくれた。

13 右事件の際、L9は甲らの保釈保証金を立替えて、四年位かけてその返済を受けたが、甲はL9にBを自分がしたことを甲がしたように言ったと恨み、機会ある毎に「あのクソババア」と罵っていた。L9が甲と最後に会ったのは、同六二年二月一四日で、Bに貸金の催促に行き、甲と顔を会わせた際、「元気か。」「何とかやってるよ。」といった言葉を交わした。

14 L10は、同五七年三月ころ、仕事の関係で甲母子と知り合ったが、主に母が話し、甲は単に同席しているだけという感じであった。その後、甲が不動産ブローカーとしてL10の会社に出入りしたが、不動産関係の話をするだけで、生真面目かと思った。初めは年二回位の出入りであったが、六〇年ころからは出入りが多くなったものの、持ち込む物件は半端で、成約に至ったものはなかった。同六一年八月ころ、食事を奢った際は礼を言うなど常識的であったが、いつも金を持っていなかった。会社に来た時は、にこやかな感じであった。L10は、甲につき、母親に操られて独りでは何もできず、人を頼りにする性格で、仕事のできない人間と思った。

15 東京都杉並区在住で、宅地建物取引主任の資格なしに不動産ブローカーをしているL2は、同五九年九、一〇月ころ、不動産仲間の紹介で知ったGからBの手伝いをしていた甲を紹介され、甲の方が仕事が真面目で人間性があるように思えた。Gとの取引が不成立に終わって、L2が今後は取引を断つ旨言ったところ、その数日後、甲から謝罪と取引依頼の電話があり、L2が承知すると、その後、甲から月に一、二回の割合で電話が入るようになり、同六〇年ころ、熊谷市内の土地を見分に行った際、L2は甲から同市内の不動産業者赤城商事のL1を紹介された。そのころ、甲が見つけて来た横須賀市内の一〇〇〇万円位の土地を、L2が他に紹介したところ、甲が手数料として三〇万円を渡してくれた。同年五月ころ、甲から、兄弟で引越した旨の連絡が入り、その約一か月後、甲から電話が入り、「今何をしていますか。食事はもう終わりましたか。(創価学会の)勤行は終わりましたか。集会はありますか。(兄は)帰って来たり来なかったりしている。独りで寂しい。」などと、取留めない話をし、「L2さんと話ができてすっきりした。」と言って電話を切った。引越の一か月後、甲から電話で呼び出され、新宿区歌舞伎町の喫茶店で会った際、甲は、「独りで寂しい。」と言い、L2は、何かいい仕事があったら、不動産とは別の仕事をした方がいい、仕事を一生懸命やれば元気も出てくるからと励まし、甲は、「L2さんと会っているだけですっきりして気持が落ち着くし、L2さんの顔を見ているだけでいい。」と語った。その後も甲は、三日に一回位、L2に取留めもない電話をかけて来た。L2は同六〇年七月ころ、甲から電話で招待を受け、その案内で甲方を訪れ、鉄板焼料理の歓迎を受けた後、甲が、「家ではテレビを見ない。新聞は取っていないので読みたい時には喫茶店に行く。」などと話した。その後も甲からは、三日に一回位取り留めもない電話があった。同年八月、甲からの電話で、再び甲方を訪れたL2に対し、甲が、「新兵さんが古兵にいじめられた話は本当か。叔父から戦争の話を聞き一緒に軍歌を歌ったことがある。前にテレビで右翼の永田正義の人柄にひかれた。L2さんの知合なら是非一回会いたい。僕は右翼が好きで本を読んでいる。」などと話し、L2が甲が仕事をして金ができた時に会わせてやると言うと、大変に喜び、L2が二・二六事件のことをまともに答えられずにいると、甲は右事件関係の書物数冊を貸し与えた。L2が右翼とは国家のために自分の慾を捨てて働く人で今の暴力団右翼は本当の右翼ではない、と話し、また、不動産取引について、人に迷惑をかけてはいけない、土地売買の話は人から聞くだけでなく自分の目で確認してから商談しなければならない、どんなことでも真面目にやらなければいけない、いい加減なことでは駄目だなどと言うと、甲は素直に聞いていたが、「自分はやっていないのに、母親に共犯にされてしまった。親は子供を庇うのが本当なのに、反対に親が子供を売るようではどうしようもない。もう事件に巻き込まれるのはいやなので、母親とは一緒に仕事しない。自分は無罪なのに、母親の犠牲になったので、精神的にずいぶん貸しがある。そのうち、母親にまとまった金が入ったらもらう。」などと愚痴をこぼし、L2が、「まず自分自身がしっかりして心の持ち方を大きくすると、母親のやったことが馬鹿らしく思えて来てかわいそうになり、母親を恨む気持を持たなくなる。」と言うと、甲は、「そうですね。そういう様になるように心掛けます。」と答えた。甲からの電話は、その後も同様にかかって来た。L2は、甲が、腰の具合が悪いと言っていたことから、「身体が治ったら何か別の仕事を見つけて働きなさい。」と諭すと、甲は、「運転手しかやれない。」と応えたこともあった。同六〇年秋ころ、甲は仕事もせず、母から金をもらっているが、もらえない時は一〇〇〇円で五日間を凌いだこともあった等とL2に話した。同六一年八月ころ、甲の招待でL2が茅ケ崎の家に遊びに行くと「寝ていて金縛りにあった。便所に行くと後に人が立っているようで気持が悪い。」と言い、L2が気の性だと言うと甲も納得した様子を示した。

16 L11は、甲が、同六〇年五月ころから同六一年一〇月ころまでの間に居住した家屋の隣家に住んでいたが、同六〇年九月ころ、甲母子が来て掃除し、一、二日後、Gが鍋を手土産に挨拶に来た。Gから、弟の甲だとの紹介があった。甲は、午前中部屋の掃除や洗濯をし、二階のベランダで干し物を干しており、家にいることが多く、殆ど毎日近くのスーパーに買物に行き、ビニール袋を下げて帰って来ていた。夕方、家の前で甲が笑いながら、実は兄と喧嘩して兄は母のところに行ってしまったと言い、L11が兄弟喧嘩はいいものですよと言うと、甲は笑いながら家の中へ入って行った。同六一年九月下旬ころ、甲方の窓が閉まり、カーテンも閉じたままになっていることが多く見られるようになったが、夕方買物の帰りに、甲と会うことがあると、いつもと変りなく、「今日は」と挨拶していた。L11の夫が車を駐車場に入れるのに、甲の車が邪魔な時もL11が車をどけてくれと言うと、謝罪して快くすぐにどけてくれていた。甲は、近所の主婦達とも、「今日は。」「今晩は。」と挨拶を交わし礼儀正しかった。同年一〇月上旬ころ出会った際、L11に、「奥さん、この家は競売のケリがついたのでやっと引越しができます。今度は藤沢の六会の方に行きますから。」と話し、四、五日して引越した。

17 L12(同一六年生)は、甲が同六〇年から翌六一年ころまで居住していた家屋の近所で喫茶店「アン」を経営していたが、甲は、同六〇年六月から翌六一年九月までの間、開店中は殆ど毎日のように「アン」に来ており、来始めて間もなく、甲が、「お母さんと呼ばせて下さい。」と言い、一緒に来店したことのあるL7と事業を始めてもいいと思うかとか同人と川崎のソープランドの入ったビルを買うべきかなど、何かに付けて相談してくるようになり、同女の助言に従っていた。甲は、「中学校もろくろく出ずに中華料理店に住み込みで働いた。仕事が辛かったので逃げ出し母親の所に行った。不動産関係の手伝いをさせられた。母親のせいで警察に捕まったことがあり母親を憎んでいる。寂しがり屋だから空手をやったこともあるが、仲間はできなかった。母親から何回も逃げ出したが、そのつど連れ戻されている。母親は男好きだから大嫌いだ。」と言い、L12にマザコンではないのと言われると黙り、母親は大事にしなさいと言っても、「嫌いなものは嫌いだ。いくら言われても嫌いだ。」と言って聞き入れず、「人を怒ることのできない性格だ。横須賀中央駅前でラーメンの店をやったが売上げが上がらずやめた。もう少し従業員を怒っていれば良かったと思う。五〇万円を出資したがこの金も戻らなかった。」とも語っていた。同年九月下旬ころ、甲が来て「お母さん、今度引越そうと思っている。どっちの方角に引越せばいいか教えて下さい。」と言い、同女が東がいいと言うと、甲は、「やはり藤沢の方がいいんだなぁ。」といい、礼を言って帰った。

18 同六一年九月末ころ、甲はGに対し、茅ケ崎の家は広過ぎて一人で住んでいても大変なので、もっと便利の良い一部屋のアパートに住みたいと言い、同年一〇月四日、六会駅前の不動産屋で、Gに連帯保証させ、賃借期間三年の約で、××荘を賃借した。同月一〇日ころ、甲がBに「お袋、あの茅ケ崎の家は変なんだ。寝てると誰かが胸に乗ってくるような気がする。足を引っ張られ金縛りにあうようで、怖くて仕方がない。一生懸命お念仏を言うと解けるんだ。」と不安そうに言い、Bが、「そんなところに帰るの止めて家に泊まっていなよ。」と応えたが、Bには甲が、前記事件以前の明るさを取り戻したように感じられた。Bは、甲名義にしておいた横須賀市平作の土地を後記のようにL13に売却し、その代金から同年一二月一日までに小切手、現金合計一七〇万円を、甲に与えた。甲は、これらを北海道拓殖銀行六会支店に預金した。

19 同年一〇月一三日、甲は××荘に荷物を入れただけで、アパートには、昼間片付けに行き、夜はB方で過ごすようになった。同年末までの間、甲がアパートに泊ったのは一日か二日程度であり、××荘居住中に使用していた前記六会支店の甲名義普通預金口座の同六一年一〇月一五日から同年一二月二九日まで約二か月半の入出金状況は、入金総額が二六四万円、出金総額が二四八万一三四八円であって、右入金は、いずれもBが甲に渡した小遣いである。同年一二月三一日から翌六二年一月七日まで、甲は、B方で、同女、Gと正月を過したが、その間、甲がBに、「Gに言い寄られて困っている。Dはどうしようもない男だ。嘘ばかり言う。乙もDを嫌がっている。」と語ったことがあり、Bが、「何を悩んでいるんだ。あんなDと結婚した女は馬鹿な女だから。」と応えると、甲は、むきになって、「いやあれはDがいけないんだ。乙が悪いんじゃない。」と応え、黙った。Bは、なぜ、乙を庇うのかと不審に思い、乙と甲には肉体関係があるのではと心配したが、聞くこともできず、話題を変えた。同六二年一月二日、甲は靖国神社に初詣に行った。甲の求めに応じてBは、同月下旬ころ、五万円、同年二月七日六万円、同月一〇日にも、一〇万円を与えたが、更に三〇万円の無心をしたので、同女がどうしてそんなに金がいるか尋ねても、甲は話そうとはしなかった。同月一四日、GがBから言われて、甲のアパートに電話したが出ず、翌一五日朝、Bが甲のアパートに電話を入れたところ、最初Dが出たようだったが、直ちに甲に替わった。Bは、甲に今のはDではないかと尋ねたが、言葉を濁したので、金の用意ができたから取りに来るように言い、午後二時ころ、甲に三〇万円を渡した。その際、甲は、いつものように家の前でなく、離れたところに駐車して歩いて来て甲に懐いていた猫が抱かれようとせずすぐに逃げ、真っ赤な寝不足の目をして何やら急いでいる甲を見て、Bが「何でそんなに急いでいるの。」と言いながら甲の目をじっと見ると、今まで、Bの顔を睨み付けこそすれ、目を逸らすなど決してしなかった甲が、慌てて目を逸らした。Bがそんなに金がないのかと聞くと、D夫婦のことで大変だというようなことを言ったので、BがDとは付き合ってはいけないなどと言い、居合せたGが泊まって行けよと勧めたが「人と待合わせしているんだ。」と言ってすぐ帰った。

20 ××荘を斡旋した有限会社「六会不動産」の事務員L14は、甲と一〇回位道路等で行き会っているが、甲は必ず笑いながら挨拶し、礼儀正しかった。本件犯行現場である××荘二〇三号室の隣室居住者L15は、同六一年一〇月中旬の午後八時ころ、缶入りコーヒー二ケースを手土産に挨拶に来た甲に会ったが、甲は「今度隣に引越してきた甲ですけどよろしく。」と言い、一見してサラリーマン風で、常識のある丁寧な人に思えた。同荘の所有者L16は、同月一〇日、甲が背広を着て服装の整った男で契約書の職業が不動産業となっていたので入居させることとした。家賃月額四万二〇〇〇円はいつも約定の月末までに支払われていた。同荘一階(甲方直下)で蕎麦屋を経営するL17は、甲が引越以来、二日に一回位の割で、開店直後の午前一一時過ぎころや午後七時ころ来ることが多く、主に鍋焼うどんを注文し、ここのうどんはうまいと言われたこともあり、普段は話好きで明るい性格に思え、パート店員に道で会っても挨拶をしていたが、話していると、時折、急に目付きが鋭くなることがあり、また、何か威圧感があって、カッとなったら止らないという印象を受けた。右店員も「怖そうな人だ。」と言っていた。××荘付近で六会鍼灸院を営むL18は、甲が、同院に同六一年一一月五日ころから、翌六二年二月一〇日までに一六回治療に来て、来院時褌を締めているのを見た。L18が甲に、「こっちを向いて。」などと指示すると、おどおどすることが何回かあった。治療代の支払いは良く、話好きで感じの良い古風な人と思った。

21 L19は、同六一年一〇月上旬ころ、前記横須賀の土地を売却の申し入れを受け、その購入の際、Bの車を運転して来た甲に会い、服装、態度はしっかりしているが、陰のある口数の少ない人に思えた。Bが甲に頼むと、「はい」と言って、すぐ応じる風で、母親には絶対服従する男だとも思った。L19は、同月一〇日、Bから横須賀市平作の山林約百坪を八三〇万円で買い、同月三〇日、手付金二〇〇万円を支払い、残金は土地所有権登記時に支払う旨の契約を結んだ。同日L19は、東海道線戸塚駅前でL20、甲と会って現金二〇〇万円を甲に渡し、その後、B方で、同年一一月七日額面三五万円の、同月二二日、額面一七万円の各小切手をそれぞれ同女に渡した。同年一二月一日L19は、横須賀市日ノ出町の司法書士の事務所で、B、甲らと落ち合い、書類一切のやり取りをし、残金五七八万円は、甲の車の中で授受した。

22 L20は、同五〇年三月ころ、Bと事務所に来た甲を知ったが、甲から、同五九年ころ、しつこく「飲みに行こう。」と誘われ、断ったところ、かっとした甲から殴られそうになったことがあり、甲は相当短気な男と思った。同六一年一二月二〇日、茅ケ崎市内の顧客から売却する都内赤坂の土地の代替地斡旋の依頼を受け、専任委任契約を締結し、不動産屋に当たったが適当な物件がなかったので、同月末ころBに話をし、翌六二年一月七日ころの夕方、B方で甲に会うと、「専任委任のついた代替地を探す仕事をやらせて欲しい。」と言って来た。L20が、一五億円位の物件を藤沢か大船駅周辺で探していると言うと、甲は、「今は大きな土地は一般に出回っていない。いい土地は殆ど銀行が中に入っているので、銀行に顔の効くL2を通してやらなければ優良な物件はない。L2に聞いてどこかいい銀行を紹介する。」と話していた。専任委任の写しを甲にやり、代替地を探すことも頼んだ。同六二年一月一〇日、L20は、甲からL2を紹介されて同月一二日午後一時ころ、東京駅八重洲口で待合わせ、L2の案内で中央信託銀行の関連会社という新泉都市開発株式会社に行き、同社常務L21の紹介を受けた。一方、L20は、一五年位前から趣味で陶器等を収集しており、同六一年一二月ころ、Bから茶碗売却の仲介申出があり、同人はこれに応じた。同六二年一月中旬ころ、L20がB方を訪れると、甲がL20に対し、Bが売れなければ自分が売ると言い、L20は同意したものの、多くは期待していなかった。同年二月六日午前中、甲から、L2の知合で茶碗を見たい人がいるので連れて行くと電話があり、L20は来訪を承諾した。同月九日、甲はL20の許に連絡を入れた上、午後一時ころ、L20が専任委任契約を結んでいた代替地の関係で、L20とともに中央信託銀行藤沢支店に赴き、L21と同所で同店不動産担当支店長代理L22に会い、同人の案内で物件を見分に行った。その後、四人で暫時談笑した。

23 L2は、同六一年一一月ころ、甲の案内で××荘の甲方を訪ねた。その部屋はテレビもなく殺風景で、女性の衣類や化粧品の匂いもなかった。同月三〇日ころ、甲から電話でお金ができたというので、窮迫していたL2は借りることとし、桜木町駅改札口で午後九時ころ、甲と落ち合うと、「お金ができたので使って下さい。」と言ったので、L2は金ができた時に返すと言って三〇万円を受け取った。同年一二月ころ、甲から、話があるから来てくれとの電話があり、甲方に行ったが、甲にも特に話すことはなさそうで、L2が気分はどうだと聞くと、甲は「気分はいいですよ。」と言い、早く身体を治せと言うと、分かりましたと応え、取留めもない話を二〇分位してL2は辞去したが、その際、甲には、全く変ったところはなかった。同六二年一月一〇日午前九時ころ、甲からL2に、「今度はL20さんという人の堅い物件があり、L20さんに専任委任が出ているので、間違いないのでお願いします。午後から新宿に出るから会って下さい。」という電話があったので、午後一時か二時ころ、指定された歌舞伎町の喫茶店に赴くと、茅ケ崎の客が二五億円で売る赤坂の土地の代替地として二〇億円相当の更地を大船、鎌倉、藤沢付近で探して欲しいとのことであった。L2は「素人が駅周辺で土地を探すことは難しく、よほどうまく大手に入り込まなくいけない。」と言い、L2が甲とL20を中央信託銀行に紹介するということになった。午後三時ころまで話してから、付近のいわゆる回転寿司屋に行ったが、L2は体調がすぐれず、一皿食べたところで気分が悪くなったので、甲が心配してL2をその自宅近くまで送り届けた。その数日後、L2は甲及びL20と東京駅で待ち合わせ、新泉都市開発株式会社に行って中央信託銀行藤沢支店を紹介してもらい、甲とL20は藤沢へ向った。

同月下旬ころ、甲からL2に遊びに来て欲しいと電話があり、途中から甲の迎えを受けて、××荘一階の蕎麦屋で食事をし、L2が仕事をしなさい、身体を治しなさいなどと話し、食事代は甲が払った。同月末ころ、甲からL20の骨董品の買い手を探して欲しいとの依頼があり、L2は、東京都中野区在住の知人にL20の骨董品を見る承諾を得て甲に電話し、六会の駅で車で待ち合わせることになった。同年二月七日、L2が知人らと三人で六会駅に赴くと、改札口で甲が待っており、その車でL20方に午後三時ころ着いた。L2の知人らは、骨董品(売値合計二〇〇〇万円)を見て回ったが、結局、買わずに帰った。甲とL2は車で客を送った後、L20に戻って代替地の話をした。L2は、銀行に任せておけば心配ない、私たちに任せてくれと言い、その後、L2も甲に藤沢駅まで送ってもらった。同月一〇日、甲からL2に、熊谷市内のL1がゴルフ場の売物を欲しがっているので、L2からゴルフ場所有会社に話をしてL1に売るように動いて欲しい、一五日にL1と会って欲しい旨電話して来た。L2は「よくL1に話を聞いて取引の内容等を確認して来てくれ。」と言って、L1と会うことは承諾した。同月一五日午前七時ころ、甲からL2に電話があり、いつもより早口で、「身体の具合が悪いので今日行けない。悪いけど、L1さんと上野の公園口の改札口の手前で会うことになっているのでL2さん独りで行ってL1さんと会ってよく話を聞いて欲しい。」と言うと一方的に切ってしまい、L1からも電話があって甲がL1にも電話したことが分かった。そして、同日午後一時ころ、待合せ場所でL1と会ったが、甲がいないので話にならず別れた。同日午後五時ころと七時ころ、L2が甲方に電話をしたが、誰も出なかった。

24 同五六年以来、夫と藤沢市亀井野で喫茶店「アメリカーノ」を経営していL23(同一一年生)は、同六一年一一月初旬の午後一時ころ、甲が、にこにこしながら来店し、L23が以前来店したことがあるかと尋ねると、初めてであり、ハンク・ウィリアムスの曲をリクエストした。L23が探したところなかったので、謝まり、次来るまでに録音しておくと言うと、甲は了解しこれからよく来ると愛想よく応じた。その後、甲は、よく来店するようになり、そのリクエストに応えると、普段と表情が変わって、すっかり満足し切った表情で熱心に聞いており、L23の夫は、甲に「ハンク・ウィリアムス」というニックネームを付けた。同年一一月下旬か一二月上旬ころ、L23の夫が、タミー・ワイネットの曲をかけたところ、甲が非常に気に入り、「これから俺はタミー・ワイネット一本にします。」と喜んでおり、L23は、甲が、人なつこいけれども影響され易く、のめり込むタイプだと思った。同年一二月一〇日ころ、甲は、同店のカウンターで飲みながら、右隣の二〇歳位のピンク色の眼鏡をかけた女性に、「おもちゃみたいな眼鏡をかけているけど、ちゃんと見えているの。」と言ってからかうなどして同女とはしゃいでいた。その後約二か月ぶりに、甲は、L23に手を挙げ「やあ」と声をかけながら、笑顔で同店に入って来た。その日、甲は「自分達人間は、必ず死ぬけれど、絶対に生まれかわってくると俺は思う。お母さんはどう思う。」と尋ね、L23がこれに賛成すると、甲は「今ちゃんと人間として生きておかないと、この次死んで生まれかわってくる時、何になるか分からない。友達のある宗教を信仰している奴が、一生懸命拝めば人は必ず救われ、物事はうまくいくと教えてくれている。お母さんはどう思う。」と尋ね、L23が、「そのような宗教なら一生懸命拝むのもいいんじゃないの。」と応えた。甲は、うつ病について先天性のものと後天性のものがあり、先天性のものは治らないが、後天性のものは治ると説明し、「今の若い人は喜怒哀楽が激しく、我が儘だが、こういうのは先天性のうつ病ともいうべきもので、まず治らない。」などと語った。その後、甲の隣に座った客が、「テレビの時代劇などで刀で人を何人も切り殺す場面がよく出て来るが、実際あんなに人を切り殺せるものではない。人を切った刀には死霊が憑くから縁起が悪い。」などと言うと、甲は、相槌を打ち、頷き、二人で背後霊は存在するかなどと話していたが、甲は、次第に考え込むようになり、口数も少なくなって来て、突然、「お母さん、もう帰るわ。」と言って、午後四時ころ帰った。

25 L24(同一二年生)は右店のパート従業員であるが、甲は、同六一年一一月上旬ころ同店に寄り、「近くに引越して来たが、こんないい店があるとは知らなかった。カントリーミュージックが好きなのでこの店が気に入った。」などと言い、その後同六二年二月初めころまで、五日に一度位の割合で、いつも午前一一時半から一二時位に来て、一時間か一時間半で帰って行った。コーヒーは殆どブラックで飲むが、二、三度、今日のコーヒーはちょっと苦い、ミルクを入れると苦みも治まるし体にもいいから、今日はミルクを入れて飲むことにすると言ったこともあり、L24は、コーヒー通だが自分の健康管理にも気を配っているしっかりした人だと感じた。甲のリクエストに応えてL24がハンク・ウィリアムス及びタミー・ワイネットの曲をかけると、心酔しているようで、同女に微笑みかけ、片肘をついてその上に顔を乗せ、コーヒーを飲みながら満足し切った表情をしており、時には、首を小さく左右に振って調子を取りながら聞いていた。二月九日午後零時ころ、甲が来店し、いつもと同じ表情で、L24に「昨日の夜は、日曜日でママがいたが、陰気な客が横に座り、色々と宗教の話などをしたが、宗教を信仰している人は、目が生き生きしてて、そうでない人と全然違うね。」と言い、一時間位で帰って行った。

26 L25(同一七年生)は藤沢市亀井野で「トリイレコード」を経営しているが、甲は、同六一年一二月ころから同六二年二月三日ころまでの間、三、四日に一度位の割合で来店し、比較的ハイテンポで外人女性歌手が歌っているポピュラーな曲の挿入されたミュージックテープを合計一二、三巻買い、「今住んでいる所は仮住いだからプレイヤーは持って来ていない。」と話していた。初めて来店した際、「『アメリカーノ』で本場のカントリー音楽を聞かせてくれる。この店の主人はいい人で面白いから行っているんだ。カントリーの音楽テープありませんか。」と言い、「カントリー&ウェスタン」というミュージックテープを注文し、L25が在庫はないが三日位で届く旨返事した。甲は、「今身体が悪いから静かな曲やセンチメンタルな曲では心が沈んでしまうので、明るい曲のものはないですか。」と言い、別の陳列棚を探していたので、L25の勧めたシェリル・ラットのミュージックテープを買った。同六一年一二月二七、二八日ころ、甲が、「この前買ったのは良かったですよ。注文してもらったのは届いていますか。」と言って入って来た。L25がまだ届いていない旨応えると、甲は、「カントリーウェスタンぽい曲はありませんか。」と言うので、L25がクリステー・マグリのミュージックテープを勧めると、「正月は横須賀に帰りますから、一月五日ころ取りに来ます。」と言い、ミュージックテープを買って帰った。同六二年一月五日昼ころ、甲が来店し、注文して届いていたミュージックテープを買った。同月二二日午後八時ころ、甲が、レコード専門店でミルバのレコードジャケットを見て来たが、同じジャケットのテープを注文し、同月二五日、取りに来たが、ミルバの顔の向きが希望したものと違うため、「これは違う。でも注文したんでしょ。買って行きますよ。」と言ったが、L25がもう一度探してみる旨応えた。同年二月三日、甲が注文したテープを取りに来たが、そのテープに日本の歌が一緒に録音されていたので、気に入らない様子ではあったが「しようがない。注文したのだから買う。」と言い、L25が「これだけは見つからないから勘弁して。どこかの店で見付けたら買って下さい。」と言って断ったところ、甲は来店しなくなったが、右ミュージックテープの件では、甲が、「面倒臭い客だと思うでしょ。」などと言っていた。甲は、同店の数軒隣の「六会鍼灸院」に通っており、昼ころ来た際は、「通院の予約時間が何時ころだから、そのころ来ます。」と言っていた。L25が鍼の方がいいのではないかと言うと、「いや、温布じゃなければ駄目だ。」と言い、L25が仕事に話を向けると、「仕事の話はしないでよ。今、身体を治すためこっちに来ているんだから。」と言っていた。甲は、一時間位同店で話をしていたこともあり、「従弟は音楽をやっているんだ。この前の曲を従弟に聞いたら知っていた。仕事は不動産屋をやっているが、身体を悪くして休んでいる。」と言っていた。

27 L21は、新泉都市開発株式会社常務であるが、同六二年一月中旬、L2に、「俺の不動産売買をする手先で、東久商事のL20さんのところの番頭をしている。」と紹介されて、甲を知った。初対面の時、甲は笑顔を作り、静かで穏やかな感じがして、服装等もきちんとしていた。同年二月九日午後一時ころ、中央信託銀行藤沢支店前でL20と待合せの際、甲も来た。右支店で不動産担当のL22と会って、L21が二人を紹介した後、L22の案内で目的物件を見分に行き、その所有者が経営する喫茶店で、四人で暫く壺や書道の話をし、L21が伝票を持って会計しようとすると、甲が「私が払います。」と申し出たが、結局、L21が支払った。甲は、グレーのコートと背広上下、ワイシャツを着てネクタイを締め、頭髪はきちんとし髭もそっていた。言葉使いも丁寧で四人の中では一番落ち着き、ゆったりとした態度であり、話題も豊富で会話の運びも的確であった。L22には、甲は、態度が紳士的で、動作も落ち着いている上に視線もあまりキョロキョロせず、服装、頭髪等も整っており、温和な、物腰の柔らかい、人の良い、程度の良いブローカーではないかと感じられた。

28 L1は、ゴルフ場の経営を志し、売物の仲介者を探していたが、かねて、甲から大手の会社にも顔が効くと紹介されていたL2を思いつき、同月一〇日甲方のアパートに電話してL2との顔合せの斡旋を依頼し、甲の承諾を得たが、何の音沙汰もなかったので、同月一三日に甲に電話すると、甲が二月一五日午後零時ころ、上野駅の公園口改札の手前での待合せを申し出たので、L1はこれを承諾した。ところが、同日午前七時ころ、甲から「今日は急に行けなくなったので、L2だけをやる。」と電話が入り、一方的に話をして切った。L1は、L2と一度しか会ったことがなかったため、L2方に電話して、互いの特徴等を確認の上、同日午後一時ころ、同人と上野駅で会ったが、甲がいなかったため、互に話すこともなく、短時間で別れた。翌一六日午前九時半ころ、甲方に電話すると、女性が出て、甲は留守であると言い、L1は、女性が出たことに驚き、その旨をL2などに電話した。同日午後九時ころ、再び甲方に電話すると、今度は男が出て、甲はいないと応え、同人は、「従兄弟のものです。」と応えた。L1は、その後も数回電話をかけたが、応答はなかった。

以上のように、甲の高校卒業以降本件犯行の直前までにおけるC、D、乙、右バンドメンバー及びその関係者以外の者達との交流状況を見ると、その対応や言動は正常であって、相手に異常さを感じさせるような行動は全く認められない。

三  殺害行為の補足

甲は、Dの左肩付近に座り、左手で同人の咽喉部を順手に掴んで下に押さえるようにして力を加え、首を締め始めた。甲は、「完全に死ぬという瞬間に暴れるかも分からないから、押さえてくれ。」と乙に言い、乙は、Dが苦しがって暴れては殺せないと思い、Dの身体の上に馬乗りになり、両手でDの肩付近を押さえたり、同人の手と自分の手とを組み合わせて上から押さえ付けたりして、甲を手伝った。Dは、苦しがり、口から唾を吐きながら、手足をバタ付かせて逃れようとした。乙は、同人を暴れさせないように、その両肩付近を、手で強く押さえ付け、甲は、左手で喉仏を締め続けながら、右手でDの頭を押さえたり、時々は両手で首を締めていた。乙は、Dの首の方はあまり見ず、胸や腹の方を見ながら、「これからどうなるのかな。主人は肉体が死んでしまうのだから、どうやって神の曲を書くのかなぁ。このまま死んでしまっても、心や魂だけが残り、曲を書いて何らかの方法で人間界へ出されるのかな。」などと考えた。そのころ、甲と乙は、音と匂いで、Dが脱糞したことが分かった。甲が、「もしかしたら息の根が止まる時に暴れるかも知れないから、足を縛っておいてくれ。」と言うので、乙は、まず、足首を包帯で縛り、次いで、「膝は何でやろうかな。」と尋ね、甲が「俺のバンドを使え。」と答えたので、甲の腰からバンドを引き抜き、これで膝を強く締め付けて縛り、大腿部は甲のもも引きで縛り、最後にバスタオルを大腿部に巻いて縛った後、また馬乗りになってDの手を掴んで押さえた。甲が二、三分間、Dの首を締めていると、同人が口から唾を吐き始め、乙が汚らしいと思って、「唾をタオルで拭いた方がいいんじゃないですか。」と言うと、甲がすぐ「そうしよう。」と応えたので、乙は、近くの白タオルを甲に手渡した。甲は、それを八つ折りにしてDの口に載せ、絞頚を続けた。その後、甲は、炬燵上のコップに汲んであった水を、「それは神様の水だから、悪魔は神の水でもっと早く死ぬから、取ってくれ。」と乙に言い乙がそれを渡すと、甲は、口の上のタオルに水を垂らし、その後も時々乙が水を汲み、合計コップ四杯位をDの口の中に入れた。甲が締め始めてから約五分後、甲は左手を喉からその上の顎のすぐ下に移し、頚動脈のところを順手に掴んで体重を乗せるようにして力一杯に締め上げ始めた。右手は順手で後頭部や首を掴んだりし、Dが死ぬ時は閉じている同人の左目を右手で開かせ、これを覗いていた。その間、Dは、苦悶の声を上げながら、両手をバタバタと動かしたが、左手は、甲が右膝で押さえ付け、右手はDに馬乗りとなっている乙が両手で押さえ付けた。Dの顔色は青白くなったかと思うと、赤色から紫色になり、更に青黒くなったが、甲は、これにかまわず、約一〇分間締め続けた。すると、Dは「ウーッ」という声にならないような声を発して息もしなくなり、体内から力の抜けて行くのが、両被告人にも分かった。

四  死体損壊行為の詳細

1 Dが死亡したと分かった時、乙は、「何でこうなってしまったのか。最初の目的は神の曲を書くことなんだが、こういうことがそうなのかな。」と思い、甲の脇に座って途方に暮れ呆然としていた。甲は、「こいつは、神様がくれた心以外は肉体そのものが悪魔の固まりだったんだ。だからこうなったんだ」と言ったものの、「これからどうすんのかな。」と言って黙った。乙は押入れの方へ行き、死体に背を向けて泣いていた。甲には、乙が自分の夫が死んだので悲しくなったと思われ、乙には声もかけずにDの死体を凝視していた。乙は、「主人の肉体に付いていた悪魔も死んだから主人を生き返らせてくれるのかなぁ。夫を殺してしまったし、後は警察に捕まろうが、どうなっても仕方がない。もう行く所がないし、甲の言いなりになるほか方法がない。何も考えずに甲の言うとおりにしていればいい。主人も最後まで甲を信じろと言っていたのだから。」などと思ったりしていた。そのころ、甲が乙に、「これをどうしよう。」と言い、乙は当惑して答えずにいた。約三〇分経ったころ、甲が、「体の中に何か悪魔の痕跡が残っているみたいだから、それを神様が出せと言っている。体の中にある血を出してしまわないといけないから一寸切ってみるけどいいな。」と言い出し、乙は甲を信じて付いて来るか、それでいいかと聞いているものと理解し、既にDを殺している上、Dも最後まで甲を信じろと言っていたことを想い起し、「はい、今までどおり、言うとおりにやって行きます。」と答えた。甲が、「自分達がやっているのは悪魔祓いだから、映画のエクソシストなどからすると、人が死んでからも、悪魔がまた動くかも知れない。考えられないような恐ろしいことが起きるかも知れない。」と言うので、乙は、死体の両手を前で合わせて手首をタオルで縛り、その上から包帯で縛った。甲がDの首の後を指して、「首のここを切ってみるから。」と言うので、乙はDを俯せにするのを手伝った。甲が、鋏〔1〕で切り、「一寸この肉引っ張ってくれ。」と言い、乙はこの部分を取れば終わると思い、我慢して甲が切り易いように両手で皮膚を引っ張ったり、肉を押さえたりして傷口を広げてやった。一〇センチメートル位まで切ったところ、傷口から吹き出るように出血し始めた。甲は、「仲々切れないなぁ。汚いな。」などと言いながら、鋏の先端を傷口の中に指し込んで肉をほじくり、取り出した肉片を乙に見せて、「悪魔の顔をしている。」などと言った。甲は、そのころから、室内にあったマスクを着用しており、「もっと奥の方にも腐った血がある。」と言い、首の後の傷を鋏でつつき、もっと傷を大きくしなければいけないからと、四方に鋏を入れたが、乙が気持が悪いなどと言って目を逸らすため、「見てて大丈夫か。」と聞き、乙が、「わかんないけど。」と答えると、甲が「じゃあいいよ。見ていなくて。一人でできないとき手伝え。」と言った。乙は枕を持って来て、切り易いようにしてよと言いながら、俯せのDの喉の下付近に入れ、押入の方に座って、パジャマで顔を覆い目を瞑ったが、夫を殺した挙句、首まで切って夫に済まないという気持が起こり、悲しくなって急に涙が出て来た。甲が鋏で深く切り、首の肉を三分の二位取り出し「こんな奥まで腐っている。」と言い、頚椎を二、三個取り出した。そして、頚椎の周りの肉を削り取り、中の骨随を箸で取ろうとして手こずっていたので、乙が取ってやった。甲は、頭の方を切り、「耳へ繋がる穴、鼻へ続く穴だ。」と言い、延髄の左側部分を切っていて、「あっ、これ切っちゃった。」と言い、神の曲を書けるようになる部分を見つけて、そこを切ったと説明した。乙は、半信半疑であったが、「そうか、ここまでやる必要があったんだ。これで、私たちのやるべきことは終わった。」との思いもあり、泣けて来て、拍手を打ち「自分では、今まで甲の言葉を神様の言葉として信じてやってきました。これでよかったのですね。」と拝んだ。祈りから暫くしたころ、甲が、「体中にまだ悪魔が残っている。もっと全身の凄い所までやらなきゃいけない。手伝ってくれ。」と言い、乙は驚き、「今終わった筈なのになぜだろう。」と不審に思ったが、ここまで信じて来たのだからと思い直し、「甲さんがそういうなら、そうします。」と答えると、甲は、頭の骨と皮を外すのを手伝えるかと聞き、乙が、夫の顔なので自信がないと答えると、一人でやるから乙は見てなくても良いと言い、鋏を使って、一人で顔や頭の皮を剥し始めた。乙は、怖いので、炬燵と反対側の押入の前で後ろ向きになって目を伏せていた。甲は、顔や頭の皮を剥がしたが、目を取らないと自分をじっと見ている感じがして気持ちが悪かったので、両眼球の縁から鋏を入れ、目の回りを一周するように切り、鋏に引っかけて、両目を取り出し、乙に「終わったから、見るか。」と言った。乙が見ると、Dの頭と顔それぞれの皮及び両眼球が洗面器内に入れてあった。甲が、「映画のエクソシストみたいに首が回るようになるぞ。」と言い、乙は、看護学生のころ解剖実習をしていたこともあり骸骨になった後は、夫の顔と分からず、そんなに怖くは感じられなくなった。甲が「肉を削り取るから、押さえていてくれ。」と言ったので、乙は、皮を剥ぎ取ったDの頭部に滑り止めの塩を振りかけてから押さえ、甲が鋏で肉を削り取り、その肉片と眼球は白色買物袋に入れた。甲は、頭の周りの血などをティッシュで拭き、頭、顔それぞれの皮を元のように被せ直した。

午後一二時ころ、甲が神様にお参りして、Dの死体をどう始末するのか尋ねると言い、乙も共に祈った後、甲が「分かった。シーツでくるめばいいんだ。」と言い、血などが付着したタオル、ゴミなどをゴミ袋四個に入れ、Dの死体を乗せていた布団を押入の前に寄せ、死体を別のシーツ上に移した。首の骨が取り出されていたので、死体の顔と体を別に仰向けにした。Dの死体の上半身は裸、灰色ジャージを付けた下半身及び両手は従前通り縛ったままであった。頭と顔の皮は甲が頭蓋骨上に被せ、眼球は付けないまま、乙が皮がずれないようにタオルで巻いた上、シーツでくるみ、その端を絆創膏で止めた。甲は右絆創膏が封印だと言っていた。Dの死体の下に敷いていた布団、シーツは血で汚れていたので、死体横の布団カバーに入れ、その袋に肉片を入れた黒色ビニール袋も入れた。両被告人は、掃除の後シャワーを浴び、血で汚れた洋服を着替えて、脱ぎ捨てた衣類を黒色ビニール袋に入れて片付け、午後一二時ころ、一つの布団に二人で寝た。甲は、不安や心細さから乙の手を握っていた。乙は、死体の横で気味悪く、寝られるか心配であったが、明朝起きると、神様がどうにかしてくれているのかななどと思いながらじっとしていると、寝入った。

2 甲は、翌二三日午前八時ころ、乙は、午前九時ころ起きた。甲が、「内臓を出してしまわなければならないみたいだ。もう一回解いてみるが、塩が足りないから買って来てくれ。」と言い、乙は、夕べで終わったのではないのか、またやるのかと疑問に思ったが、甲の言うことは神様の指示かも知れないとの思いも幾分かはあり、甲を信じろというDの言葉が想い起こされたことから、疑問を打ち消し、やらなければならないと考え、アパートの前の米屋で五キロ入り塩やその時食べたかった梅干を買って来た。甲が、シーツや死体の手首を縛っていた包帯を解き、鋏で首の付け根から正中線に沿い、下腹部までまっすぐ切り下げると腸が見えた。甲が、「心臓はどこだ。」と聞き、乙の指示に従って左胸の肉を肋骨から切り離し、臍付近で左右に鋏を入れ、「どうやれば、内臓が取れるか。」と乙の指示を仰ぎながら内臓を取り出し、肛門付近で腸を切った際、緑色をした下痢ぎみの便が飛び散り、耐え難い異様な臭いがした。更に、乙の指示に従って鋏で突いて、横隔膜を破り肺を縮め、心臓の回りの靭帯、血管を切り、肺と心臓を引っ張り出すなどして午後一時ころ内臓を取り出し終り、その内臓をボールに入れ、塩で揉み、匂いと血が畳などに染みるのを防ぐため、黒色のビニール袋を重ねて入れた。胸腔、腹腔内の血をタオルやちり紙で拭き取り、体内側の表面にも塩を塗した。乙は、悪魔祓いというからには、内臓を取り出し、腹内の血などを拭き取ってから取り出した内臓を戻すものと思っていたので、「内臓を戻さないでもいいんですか。」と尋ねると、甲は、「ああ、戻さなくてもいいんだよ。」と言って、これを右のようにゴミ袋に入れてしまった。これを見て乙には、甲が、Dの死体をバラバラにして捨ててしまうつもりであることが分かり、Dがかわいそうに思われたが、甲と二人で殺してしまったので、自棄的な気持ちから、甲の言うとおりにしようと考え、そのまま手伝うことにした。内臓を入れたビニール袋、血の付いたタオルを入れたビニール袋、死体の下に敷いていたシーツは、ゴミ袋を入れた前記布団カバーに入れた。死体の下に敷いていた掛け布団は、二つ折りにして台所洗濯機置き場部分に置いた。炬燵掛けに血などが付いていたので、取り外して部屋の隅に置き、炬燵板と炬燵は、南側の窓のところに、その赤外線ランプが北を向く形に立てかけて置いた。死体の両手を包帯で縛り直し、頭や顔の皮は付けないで、洗面器に入れたまま、死体をシーツか布団カバーの大きな白い布で包み、右カバーから血がにじみ出て来たりするので、血の色が外に出ないように半紙などを絆創膏で何枚も張り付けた。これは悪魔を封じ込める封印の意味だと甲が説明した。午後五、六時ころ、死体の片付けをした後、甲が、「部屋を全部封印するんだ。」と言い、一七日までに貼ってなかった入り口ガラス戸と押入前に白色敷き布団カバーを貼り四方を白く囲んだ。その後、甲は、乙の顔中心部の膿が出そうになっているニキビに指を当て、「これは悪魔の痕跡だ。塩で揉めばすぐに分かる。揉んだ後が赤くなれば悪魔がいるんだ。塩で揉むのを繰り返せばいなくなる。」と言い、そこに塩揉みを始めたため、膿が飛び出し、ひりひりして痛み、その上、擦った跡に塩を乗せてカットバンでとめられたので、乙は、痛くて堪らなかったが我慢した。その後、着衣が汚れていたので、乙は、脱いだものを黒色ビニール袋に入れシャワーを浴びた後、全て新しいものに着替え、甲は、下着のみを着替えた。午後九時ころ、乙が顔の塩揉み跡にカットバンを貼ろうとすると、甲が乙の顔をじっと見た後、「まだほかにもありそうだ。ここに寝ろ。」と言って押入前の布団に横にならせ、「これは、悪魔が痕跡を残して行ったんじゃないか。」などと言いながら、額から両頬にかけて塩揉みをした。乙は、甲が全身に悪魔がいると言い出して自分をも殺すのではないかと不安になったが、甲一人で二人の死体を処理することは不可能なので殺すことはあるまいと考え、「ウッ」とうなったり歯ぎしりしながら、四、五分間、合計八箇所位の塩揉みや塩を置いてカットバンを貼ることによる激痛を必死に我慢した。乙は甲が、時々、「乙のために頑張る。」と口にするようになっていたので、Dのためにしていた筈ではなかったかと思ったものの、Dの悪魔が甲に乗り移ったせいではないかなどと考えて自らを納得させようとした。乙が、痛さのため、手で顔を押さえて横になっていると、甲が、乙の右乳房付近を指して、「ここにもいるような気がする。ここもやらなきゃいけないような気がするんだけど、いいか。」と言い、乙が、「甲さんがそういうんだったら、どうぞ。」と言うと、甲は、着衣やブラジャーを上に捲り上げ、右乳房を握って揉みながら、「こういうことをしてもまだ俺を信じるのか。」と言い出し、乙は肉体関係を迫って来ていると直感したが、自棄的な気持ちと拒むと殺されるのではないかとの恐怖から、「今まで、甲さんを信じて来ました。」と答えた。甲は、乳房を二、三分間揉み、乙は恥ずかしかったが、目を瞑ってじっと我慢していた。甲は、乙の服を元に戻し、「悪かった。何でだろうな。」と言った。同夜、乙は顔が痛くて、なかなか寝付かれなかった。

3 同月二四日、両被告人は、昼ころ、相前後して起き、甲は、室内にたまねぎが腐ったような異臭を感じ、乙も起きるなり、「やはり臭いね。」と言った。甲が乙に、「これからまた肉とか皮をはがなきゃいけないので、臭いもするから、マスクを買って来てくれ。」と言い、乙は、すぐスーパーの薬局からマスクなどを買って来た。乙が帰ると、神にDを供養してもらおうという心境の甲が、「神棚を作ろう。」と言ったので、窓側に立てかけた炬燵台の裏側から取り出した炬燵板を畳の上に置き、その上に水を入れたコップ、塩を入れた皿、洗い米を入れた皿と皿の上に蝋燭を立てたものを並べ、乙は、神様にDを供養してくれるよう祈った。寒かったので、窓側に立てかけておいた炬燵のスイッチを付けたものの、あまり温まらなかったが、両被告人には炬燵の赤外線ランプの光が神秘的に感じられた。乙は、午後三、四時ころ、死体を包むシーツのほか日用品、食料を買ってきて、甲と食事をとり、食べ残しの赤飯、ジュースなどは炬燵板の上に乗せて置いた。前日台所に置いた黄色掛け布団の表面が血で汚れていたので、二つ折りにして敷き、その上に死体を布団カバーごと置き、カバーを開いて解体を再開した。下半身を縛っていた足首の包帯、膝のバンド等を取り、着衣を鋏で切り、矧ぐようにして脱がせ、死体から取った物等は、黒いビニール袋に入れた。乙が胸の切り口を両手で引っ張り、その下の右胸部の肉を肋骨上から甲が鋏で脇腹付近まで剥ぎ、「脳味噌を先に出してしまわないと駄目だ。」と言い、鋏だけで、首に残っている肉を切り取って胴体から切り放し、下顎部も鋏で顎の付け根を切り刻んで頭蓋骨から切り放し、「脳味噌はどこから出すんだ。」と尋ね、看護婦として知識のある乙の指示どおり、鋏で頚椎の入る穴(大後頭孔)を突いたり切ったりした後、自分で台所から菜箸を持って来て頚椎の穴から脳に入れ、かき回してから台所に行き、水道の水を流しながら脳を水で流して捨てた。乙は、夫の頭蓋骨で気味が悪かったので手伝わなかった。甲が、空になった頭蓋骨を六畳間に持って来て、「塩を中に入れる。」と言い、白い厚紙を上戸のように丸めて大後頭孔に当て、乙が塩の袋を持ち、何のためにそんなに塩を入れるのかと思いながらも、穴が塞がるまで一杯に塩を入れた上、穴に布切れを詰めた。甲は、果物ナイフを持って来て眼窩部を突き抜こうとしたが、刃が立たなかったので断念した。乙には甲がなぜそのようなことをするのか理解できなかった。甲は、「肉には血が混じっているから骨だけにする。」と言い、鋏で左右肩のところから腕内側の橈骨側を手首まで縦に切り、骨から肉と皮を剥ぎ取り、更に、腰部から左右内側大腿部を足首にかけて鋏で縦に切り、その肉と皮も剥いだ。乙は、鋏〔4〕で両手首、両足首から先の肉と皮を剥ぎ取った。死体を仰向けにした状態で正面の肉と皮を剥ぎ終わると、甲は「俯せにするから手伝ってくれ。」と乙に頼み、甲が上半身、乙が下半身を持って、死体を俯せにした。甲は更に、背中、両腕、臀部、両大腿部、両下肢の順に肉を皮を剥ぎ取った。乙は、両手両足の肉と皮を剥ぎ取り、殆どをゴミ袋に捨てた。甲は、首から下の両手首、両足首までの肉や皮を丸め、ボールに入れ塩を振りかけて揉んでから黒色ビニール袋に入れた。上体の肉や皮は腹部で切り離し、背中を切り込んで取った。下半身は全部を前に切り開き、他はそのまま肉と皮を剥ぎ取った。二人ともマスクをしていたが、乙は、「ひどいなぁ、こんなことまでなんでするのかな。」と思うこともあった。切り離してできた肉の大きな塊二、三個を、甲が、二、三重にしてその口を乙が開けて持つ、黒色ビニール二袋に入れ、その口を丸めてきつく男結びに結んだ。右二袋は重かったので、死体の傍らに置いたまま、両被告人は、骸骨様になった死体からまだ残っている肉片を鋏で切り取り、鋏の刃で削り取ったりした。乙は、もう殺人犯には変わりないとの思いから、「この先どうなるんだろう。」などという疑問が頭に浮かんでも直ちに打ち消して考えないようにし、心の中で、「神様お守り下さい。」などと言い続けた。そのような作業中の午後八時ころ激しく玄関ドアを叩く音がして、乙の母N2、K、Oらの「開けろ。」「開けなさい。」との声がしたが、開けずにいると、「流しの所に電気が付いているからいる筈なんですよ。」とKが言い、乙は、「神様、ドアを開けられませんように。」と祈る気持で「大山命」と唱え続け、甲も、「声を出すな。じっとしていろ。」と言い、両被告人は、黙って、身動きせずにいた。約一五分後「出て来ないと明日は警察を連れてくるからな。」とKが言って階段を降りて行った。乙は、安堵して、やっぱり神様が守ってくれたんだと思った。その後、骨に付いていた肉片を取り続け、翌二五日午前零時前後、大まかな肉片を取り終わった。

4 同月二五日午前零時前後ころ、骨だけとなった死体の足首、膝、手首を白いシーツを裂いて作った紐で縛り、頭部は白いタオルか何かを巻いた上から白いシーツを裂いて作った紐でバラバラにならないように縛り、新しい敷布団カバーか毛布カバーに包み、ビニール紐を布団カバーの下に通し、二人がかりで縛った。死体の下に敷いていた掛け布団は丸めてビニール紐で縛り、黒いビニール袋に入れて台所前に出し、死体から剥いだ肉と皮を入れた二つの黒色ビニール袋は、重かったので死体の傍らに置いたままにした。その後、シャワーを浴び、汚れた衣類は全部黒色ビニール袋に入れ、乙は着替え、食事をしたが甲は、おにぎり一個を食べ、ジュース若干を飲んだだけであった。食事後乙が、前夜甲に塩揉みされた部分を消毒液で手当しようとすると、甲が、「消毒液なんか使わずに塩を付けた方がいいんだ。」と言い出し、更に塩揉みを加え、塩を乗せた上、カットバンを貼り付けた。乙は拒めなかったが、前日よりも痛みがひどく、「あぁ痛い。」と叫んだまま、午前二時ころ、押入前の布団に入り、じっと顔を押さえているうちに眠った。甲も同じ布団に寝た。午後零時ころ、乙は、甲に起こされた。甲は、「早く内臓を流さなければいけないんだ。内臓をとにかく今すぐ流さなければいけないんだ。」などと言って、食事もせずに台所の白色布団カバーの中から内臓を入れた黒色ビニール袋等を取り出し、流台右側の調理台上にボールを置き、右袋の底を破いて内臓等をボールの中にあけ、水道の水を全開にしたまま、ボールから内臓を掴み出し、鋏で適当な長さに切った後、一、二センチメートル大の小片に細断し、三時間以上かけて流し、眼球も流した。乙は、疲労感が強かったが、前夜母やKが警察を連れてくると言ったので甲が急いでいるものと考え、こうなったら手伝うしかないと覚悟し、白色ジャージーズボンでは汚れるので、Dの使用していた灰色地白色縦じまのパジャマズボンに履き替え、調理台前に頚椎と下顎骨を持って行き、座布団を敷いて座り、甲の言うとおり、これらの骨から肉片をきれいに取った。午後四時ころ、甲が乙に、「また封印を解いて始めるから、昨日と同じものを買って来い。」と言い、乙は、前夜甲が焦っている様子であったので、早く買い物を済ませようと考え、甲から腕時計を借りて外出し、死体を包むための敷布団カバー、汚れた手を拭くタオルや両被告人の下着等を買って帰った。午後四時三〇分ころ、乙が帰ると、甲が、「ここまで来たらそんなに焦ることはないから、少し休んでやろう。」と言ったので、室内の外れそうなシーツを洗濯鋏で止め直して、甲は、パン二個とジュースを摂ったが、乙は、内臓を流すのを見たり、買い物に忙しかったので、おにぎり一個とジュースを摂っただけであった。午後六時ころ、部屋の隅に寄せていた炬燵掛けを敷き、その上に白いシーツに包んだ死体を乗せてシーツを解き、両被告人がそれぞれ鋏を用いて骨の間に挾まっている肉片を取り始め、数分程経って甲が、「背中の中にも血が入っているだろうから、背骨を外す。」と言い、乙の指示に従って、甲が菜切り包丁〔2〕を持って来て、死体の上体を起こし、背の方に布団か毛布を当て、膝で前に押し込んで折り、腰椎のところで離断し、折れた椎孔の腰の方に乙、胸の方に甲がそれぞれ菜箸を突っ込み、組織をつぶして中に塩を入れ、液や血を出した。午後七時前後ころ、鋏で骨の間に挾まっている肉片を取っていた時、玄関ドアが叩かれ、「開けてくれ。」と声をかけられた。両被告人は、聞き覚えのない声でもあり、無視して作業を続け声の主は立ち去ったようだった。午後八時過ぎころ、再び、玄関ドアが激しく叩かれ「甲さん、大家だけどいますか。」と声をかけられたが、両被告人は黙ってじっとして六畳間のガラス戸を開けずにいると、ドアの鍵を開け中を覗いたようだったが、施錠して階段を降りていく足音が聞えた。五分か一〇分後、再び大家が来て玄関の鍵を開け、「何してんですか。」と声をかけた後、ガラス戸を開け、部屋内のシーツを捲り「エッ、何してるんですか。」とだけ言って戻りかけた。乙は、目を瞑り、手を組んで、みじろぎもせずにいると、今度は「ワァー、大変だ。マーちゃん殺されている。バラバラだ。警察だ。」とKが言ったが、乙は背中を向けたまま、姿も見なかった。捕まる、もう逃げられないと思い、何も話さず黙っていて精神病と思われて精神病院に入れられるのがいいか、それとも、正直に話して刑務所に入った方がいいかなどと考えていた。両被告人は、その後も骨の肉を削り続け、約五分後、警察官らが来た時も、乙は鋏で左足大腿骨に付いている肉片を削り取り、甲は首の骨についている肉片を削り取っていた。警察官が「どうしたんだ。」と声をかけたが、乙は、目を瞑って黙り、甲は、警察官から「鋏を放せ。」と言われていた。

5 以上の状況を見ると、本件死体損壊は、極めて手際良く、しかも、徹底して行われているが、これには、元看護婦で解剖学の知識、実習経験等のある乙の教示及び分担が大きく寄与しており、また、警察官等に発見される前に解体を完遂すべく作業を急いでいることも明らかである。

五  逮捕直後の甲方居室の状況

<書証番号略>等関係各証拠によると、両被告人逮捕直後の本件殺人、死体損壊の犯行現場××荘二〇三号室(以下、「甲方居室」という。)の状況の概要は別紙図面のとおりである。

1 甲方居室は、××荘二階西端(アパート通路一番奥)の部屋で、同室には約三畳の台所と六畳間(一間半の押入付)があり、右押入上部には天袋が、西側と南側には腰高窓がある。六畳間西側に、腰高窓の南側約半分と西側壁を背にしてサイドボード、その南側に洋服箪笥、その向かいに、本棚が置かれていた。

2 玄関ドア上の明かり取り窓(ガラス窓)には、半紙三枚が、白色ビニールテープでその上及び左右から窓ガラスの一部を見ることができる程度に貼られている。玄関ドアの透視鏡及び換気口には、折られた半紙が貼られている。玄関の天井付近のブレーカーは、半紙が貼られて隠されているが、数個のスイッチ類は覆われておらず、玄関壁の電気スイッチ、水道の蛇口、壁面のコンセントとアース線接続部、風呂併用便所入口部のスイッチ等には、いずれも半紙等は貼付されておらず、風呂併用便所内の洗面台及び浴槽の各水栓はいずれも抜かれていて、半紙等も貼付されていない。玄関たたきに段ボール箱が置かれ、その上に空箱二箱、手提げ紙袋、黒色ビニール製等のゴミ袋、紙袋等が多数山積みされ、右各袋内には、神示教会の経典「大山命神示直伝聖書第一八一号」が、包装紙や使用済み生理用品などとともに、また、「お守り札」が生ゴミなどともにそれぞれ捨てられ、玄関脇には、ビニール紐で梱包され、数枚の半紙を並べて貼り付けてある布団カバー、台所の床面には血痕が付着した布団カバーの大きな袋(黒色ビニール製ゴミ袋五袋、白色ビニール製手提げ袋三袋、白色紙製袋のほか丸められた布団カバー等在中)があり、右ビニール袋等の中には、割り箸二本を十字架様に組んだ物、血痕様のものや肉片様のもの等が付着するなどしたジャンパー、ブラウス、トレーナーズボン等の着衣、ブリーフ、パンティ等の下着類、切断された着衣片、タオル類、布団、マスク類等のほか、乙のメモ、ティッシュペーパーの空箱、セロハンの空袋、カレンダーを破ったもの、ビニール袋、包装紙、ちり紙片等があり、冷蔵庫前には黒色ビニール製ゴミ袋があり、その中には、白色ビニール製手提げ袋が八袋存する。台所ガス台上のピンク色バケツ内には、口元を結節した数枚重ねの黒色ビニール袋があり、その底はいずれも破れている。

3 出入りするガラス戸を除く六畳間のなげし下に、白色シーツ、白色布団カバー等が張り巡らされており、右シーツ類は、なげし、洋服箪笥、本棚を利用し、大小の洗濯鋏、画鋲、テープを用いてそれぞれの一部を固定し、シーツなどの合わせ目も洗濯鋏等で接着してあるが、北側押入襖の下半分、サイドボードの下半分は、覆われていない。右なげしの上には、白布は張られていない。本棚近くのなげし上方の壁のチャイム器はその全体を完全に覆うように、洋服箪笥近くのなげし上方のテレビアンテナ線取入口及び本棚近くの壁の下方の電話機コード差込口にはそれぞれその口部分だけを隠すように、折られた半紙がビニールテープで貼付されている。右白布に覆われた洋服箪笥の扉には十数枚の半紙が貼付されている。出入口のガラス戸が南側に開放され、その付近に、布団一組分が敷布団を上にして二ツ折に無雑作に畳まれていて、室内への出入りが困難となっている。六畳間の中央付近に炬燵掛布団の裏地を上にして二つ折りにしシーツを敷いた上に肉や臓器等を取られて解体された人骨が横たえられ、その頭骨部分の南北側、各一枚の座布団が向い合うように置いてある。人骨の状況は、ほぼ別紙図面⑱のとおりであり、この人骨全体には塩がかけられ、頭蓋骨には下顎骨が欠け、頭骨部と第一頚椎骨の関節部で離断され、頭皮は剥がされ、左右眼球はくり抜かれ、上顎骨の右四、五、六、八番の歯が欠損し、頭骨は、大後頭孔を上にして置かれ、頭蓋内には塩が詰め込まれた上、大後頭孔に布片が詰め込まれている。右座布団東側に布団に接して大きな黒色ビニール袋があり、これにかけられている敷布団カバー、はんてん等を除くと、その東側にもう一つの大きな黒色ビニール袋がある(別紙図面⑮⑯)、黒色ビニール袋⑮の口は、口元のビニールで男結びにされ、その内部上方には、左胸部を含む大きな肉片と右胸部を含む大きな肉片があり、その下方には更に同種のビニール袋があり、その中には、顔面の皮膚片を含む大小の肉片が存し、更に、その下方には、在中物のない黒色ビニール袋がある。同⑯の口も、前同様に男結びにされ、その内部には、左右の各大腿部及び各下肢部分の大きな肉片と白色ビニール袋があり、白色ビニール袋内には細かく刻んだ肉片が多数あり、その下方には空の黒色ビニール袋がある。南側隅に、炬燵板が置かれ、更にその南側には、炬燵本体が、弱のスイッチの入った赤外線ランプを死体のある北側に向けた形で壁面に立てかけてあり、右炬燵板上には、中央部の半紙の上に、一握り程の塩様のものの入ったガラス小皿、水様のものの一杯入ったガラスコップ、一握り程の米の入ったガラス小皿、その北側には燭を立てたガラス小皿三枚があり、炬燵板の東側の縁には順次、、逆さにした透明ガラスコップ二個一リットル用紙パックの牛乳等四個があり(二個は未開封)、同南側の縁には順次、未開封のマーマレードカップ、同食パン一斤、オレンジ色の液体が極くわずかに残っているガラスコップ二個、未開封の赤飯一パック、黄色液体の入ったタッパウェア容器、西側の縁には、順次、おしぼり、うす黄色した液体の入った透明ガラスコップ二個、女物角型時計が置いてある。炬燵板西側には半紙が置かれ、その上には下顎骨と第一ないし第四頚椎までの骨が置かれてある(別紙図面⑲)。死体のあった布団の下の畳上には、切り開かれた黒色ビニール袋が二枚並べて敷かれてあるが、頭骨部及び胴体部に相当する部分の畳は茶色に変色している。

4 以上のとおり、甲方居室内には、多数のビニール袋が遺留され、その在中物は、Dの肉片や血痕の全面に付着した衣類等から食品等の包装紙、使用済み生理用品等完全にゴミと認められるものまで種々様々であるが、その口元付近の状況を子細に見ても、特別のものが施されているのは、白色布団カバーだけで、その他のビニール袋類の口の縛り方等は、Dの顔面、頭部、上体、下体、両上下肢等の皮、肉や、内臓を入れたビニール袋等も含め、要するに、通常のゴミ袋のように、男結びや一重結びにされているのみであって、その他のゴミ袋も、口を結ぶことが不可能な場合には、セロテープで止められているが、それ以外は、在中物が小肉片、Dの衣類、あるいは、一部宗教的な物を含む場合であれ、非宗教的な単なるゴミであれ、通常のゴミ袋と同様に結んであるだけである。また前記布団カバーに貼られた半紙も、血痕を目に触れないようにしたかったためのものと理解し得る。

六  両被告人の取調べ及び供述状況

1 甲

<書証番号略>、15回横平供述(公四三三丁以下)並びに勾留質問調書(<書証番号略>)中の甲の供述部分、<書証番号略>及び「本件被疑者の自筆手紙受領について」と題する書面(<書証番号略>)、医師金田英雄作成の診断書(<書証番号略>)等関係各証拠によると、甲に対する取調べ及びその供述状況は次のとおりと認められる。

(一) 二月二五日午後九時三五分ころ、甲は死体損壊罪による現行犯逮捕直後、その弁解を録取された際に、「読み聞けのとおり、一緒に住んでいたDの死体を損壊したことは間違いない。私は神の意思に従ってやったことであるから、弁解することはない。弁護士は頼めることは分かったが不要である。」と弁解し、末尾に通常の大きさの漢字の署名をし、同日中に、「私しは62年2月22日頃自分の部屋で一緒に住んで居たDを殺しました。殺した方法は悪魔をDの体から追い出そうとして馬乗りになって首をしめました。のどぼとけを左手でつかんでしめたら死にました。その後、紙バサミで首を切って血を出しました。血を出してから首の骨を三個取り出しました。翌日になってハサミで内臓を取り出しました。内臓はビニール袋に入れておいて今日ハサミできざんでながしに捨てました。体についていた肉は昨日ハサミで骨からはがしてビニール袋に入れました。骨は今日乙にてつだってもらって私しがおりました。包丁で骨をきろうとしたのですが切れなかったのでふたつにおったのです。今日ハサミと千枚通しを使って頭の肉をけずったり歯を取っている時警察官につかまりました。頭の骨をけずる時カッターとくだものナイフをつかってます。同六十二年二月二十五日 甲」という文面の上申書を、通常の大きさの文字で作成した。

(二) 翌二六日午前八時四〇分、司法警察員警部補横平好充(以下「横平」という。)が、藤沢警察署で取調べたところ、甲は、死体損壊に用いた凶器及びその所在等について約一時間位非常に良く供述し、更に、「一番初め青い柄の鋏を使い、刺し、そのまま切裂いた。顔も丸く切った。」と供述したところで、急に天井を仰ぎ、全身の力を抜き、椅子にもたれ、両手をダラリと下げ、そのまま重心を失い、床面に崩れるように倒れ、目を開いて白目を出し、放心状態になり、更に、両手両足にけいれんを起こし始めた。その状況につき、同日、藤沢市の湘南第一病院で、「痙攣発作の疑い。頭部CT検査・心電図・生化学的検査・血圧に異常所見認めない。脳波に異常所見認められるが、抗痙攣剤投与した。留置取調べには充分耐えられる」旨の診断が下され、右診察後、取調べを行なったが、甲は黙りこくっていた。

(三) 同月二七日、死体損壊の被疑事実に関し、横浜地方検察庁で弁解録取、横浜地方裁判所で勾留質問の各手続が施行されたが、甲は、全く供述しなかった。

(四) 同月二八日午後四時二五分から、横平が、横浜拘置支所(当時)取調室で取り調べた際、甲は、母親の住居について尋ねられたところで、身体中に力を入れ、俯いたまま涙ぐみ泣き出した。同四〇分ころ、横平をじっと見つめたままで何も話さなかったが、「人間らしく、償いをしなければいけないよ。自分のために話すべきだ。」と諭しても、俯いたまま、涙ぐんでいた。同五時三五分ころ、甲が椅子に仰け反るようにして座り、腕組みをし、その後、小さな声で、「目を覚ませ、目を覚ませ。チュン、チュン、チュン」と言った。横平が止めるように言うと、すぐ止め、その後、机上に頬杖をつき、横平を見つめていた。同六時四五分ころ、机上に両肘をついて合掌し、涙ぐんだまま泣き出した。同七時三五分ころ、「ものを頼む時は母親でよいか。」と尋ねると、「うん。」と言って泣き出し、その後、机上で合掌しており「誰に祈っているのか。」と聞いても応えなかった。同七時五〇分ころ、「子供じゃないのだから、責任はとらなくてはいけないよ。」と諭すと、「うん」と応えたが、Dの年を尋ねても答えなかった。同八時ころ、甲は、紙と鉛筆を要求し、相当大きな字で「Dのにくたぃおころした。乙わわたしのしじにしたかっただけです Dおたすけるためにあくまおころした あれわあくまです Dのたましいおたすけた。Dはあくまにからだおのつとられた。しようわ62.2.28 甲」と記載した書面(<書証番号略>)を、殊更椅子から立ち上がって中腰になり、右手を激しく左右に大きく振りながら、一つの字を書くのに三分位かけたり、あるいは、すらすらと書いたりして、作成した。

(五) 三月一日午前九時二〇分から、横平が、同所で取り調べたところ、甲は、数回「うん」と言っただけで、午前中は殆ど何も答えなかった。午後一時一〇分ころ、取調べを再開し、「これから何でも話してみよう。」と言うと、甲は「うん」と答え、しばらく黙っていたが、涙ぐみ、声を出して泣き始めた。同二時一五分ころから同三時四五分ころまでの間、何を質問しても甲は応えなかった。同五時ころ、夕食後の取調べを開始し、同三〇分ころ、甲は、紙と鉛筆を要求し、「おかあさんきようまでそだててくれてありがとうにくんでもうしわけありませんでしたかんしやしてます。甲より しようわ62.3.1」「わかる あいたい ちかいうちに」「ことばがでない」「Dのつま」と記載した各書面(<書証番号略>)を作成した。

(六) 同月二日午前九時ころ、横平が取調べを始めたところ甲がトイレに行きたいというので、横平がトイレに連れて行き、甲が手を洗って手洗場の水を飲み、水が口許からだらだらと垂れたため、横平が、「これで拭きなよ。」と言いながらハンカチを貸すと、甲が「どうもありがとう。」と言い、横平が「なんだ、お前喋れるじゃないか。なんで今まで喋らなかったんだ。」と尋ねると、甲は、「いや、どうもすみません。今、聖水を飲んだら喋れるようになりました。」と、それまではしかめ面をし、目と眉を寄せるような風にしていた表情も晴れやかにして言った。そこで、横平が、「それだったら話しなさいよ。」と言ったところ、それからは、うるさい位に供述し、上申書も甲自ら「書きます。」と言って書いた。横平は、甲のこれまでの、言葉が出ない、あるいは、文字を書く際に手が激しく振るえるなどの諸状況が、仮にある種の疾病に基づくものであるとすると、単に水を飲んだ位で治るのが不自然に思え、それらは罪の重大さに思いを致した甲による仮病ではないかと考えた。

(七) 同月三日午後二時一〇分ころからの横平による取調べの問答(「」内が甲の供述)は次のとおりである。

Dの家は近いのか「隣です。」Cとは付き合いがあったのか「そりゃあ、隣だからね。」、Dを可愛がっていたのはいつごろか「Dが二〇歳位のころです。」、家族の付き合いはどうだったのか「挨拶程度です。」、Cの家庭はどんな家庭だった「皆、自分勝手。」、君の収入はどの位「不動産業ではあるが、身体をこわしてしまっていたので、生活費は母からもらっていた。生活は苦しかった。」、韓国旅行に行ったことがあるか「二五歳ころ、アキラという人と兄と三人で行った。その後、三〇歳頃、ツァーで行ったことがある。」、競馬はやるのか「最近はないが、若い頃、伊東と大井に兄貴達と行ったことがある。」、横平が首を絞めてからと言うと、甲は両手で耳を覆い「ちょっと待って下さい。」と言い、暫く黙ったままであった。首の後に穴を開けたのはなぜか「人間の目みたいな塊があった。その悪魔を出すためです。」、両手で首を絞めたのか「左手が上。右手が下。」と言いながら、甲は横平の首に手を回した。塩をなぜ使ったのか「清めるためです。」、バラバラにした理由は何か「神のお告げであった。」、他に友人はいるかとの問に対し、数人の名を挙げた。同四時二五分ころ、甲の夕食の為、横平はその身柄を看守に引継ぎ、同六時一〇分ころ、同拘置支所保安課会議室で取調べを再開した。その問答は次のとおりである。

身体の具合が悪い時、何か治療したか「六会の鍼灸院に週一回行っていた。名前はL18と覚えている。」、いつころ行ったのか「同六一年一一月初旬から行っていた。」、治療費はどうしてたのか「茅ケ崎の競売の金を使った。」、その金はいつからあったのか「六一年九月に五〇万。一〇月に五〇万入った。取引銀行は北海道拓殖銀行六会支店でした。」、首筋の悪魔の顔はどんな顔か「目が吊り上がり、髪の毛はこういう形をしています。」と応えて(員)3.3報・添付書面の図(ビデオテープ二巻〔1213〕によると、この図は、映画「エクソシストⅡ」で「悪魔」とされ、「大気の悪霊の王バズズ」と称されている「イナゴ」に酷似している。)を書いた。部屋に目張りをしたのはなぜか「外から悪魔が入ってこないようにしたのです。」、骨はどうするつもりだったのか「儀式のあと埋葬するつもりでした。」、なぜビニール袋に入れたのか「血や染みが出ないように。畳が汚れないように。匂がしないように。借りてる部屋だから。」、今の気持は「殺してしまい大変申し訳なく思ってます。」、マスクはどうしてあったのか「近くの薬局か相鉄ローゼンで買った。」こう応えた後、暫く黙ったままであった。

(八) 同月四日午後三時半ころ、甲は殺人罪で再逮捕され、司法警察員による弁解録取の際、「逮捕状の被疑事実を読んでもらい、そのとおり間違いない。弁護人を選任できることは知っている。今頼んでいる三島弁護士をお願いする。」旨供述し、通常の大きさの漢字で署名した。

しかし、同月六日、殺人の被疑事実について横浜地方検察庁で弁解録取の際、再び全然喋らなかった。検察官は横平にその取調べ時の状況を尋ね、甲を説得するよう依頼し、横平は、これに応じて、検察官取調室で甲に、「昨日話したことを話してみなさい。」と言うと、甲は横平は神の使いであるが、検事は悪魔の兵隊・悪魔のスパイだから話さないと応えた。そこで、横平が自分の前で話したように話すよう説得し、更に、「検事も別に悪魔じゃないんだからちゃんと話しなさいよ。」と言って退室したところ、甲は検察官に、「Dを殺したことは間違いない。弁護士は頼んだ」旨供述し、通常の大きさの漢字で署名した。同日横浜地方裁判所における勾留質問の際、当初は、検察庁の状況と同様であったので、裁判官からの依頼に応じて横平が前回同様の説得を行ったところ、甲は裁判官に、「読まれた事実は、包帯を巻いたり頚部を絞めたりして窒息死させた事は間違いないが、悪魔を追い払うつもりでやったもので殺すつもりはなかった。」旨供述し、通常の大きさの漢字で署名した。

(九) その後の横平の取調べに対して、甲は、朝さんさんと太陽が出た日は気持ちがいいと言って、全て自ら積極的に供述したが、曇った日、風の強い日、スチームが効いて「シューッ」という音のする場合は、机の下に隠れるような動作をしながら、「今日は駄目だ。悪魔が俺を迎えに来た。ああ、あそこに悪魔がいる。」などと言いながら両手を組み、両手の人差し指を取調室壁面の染みに向ける動作をし、横平が、「なんだ、俺には見えないぞ。」と言うと、甲は「俺には見える。ああ、今死んだ。」などと二、三回言った。横平は、甲が自分をからかい、あるいは、確かめているのではないかと感じた。

(一〇) 横平が甲を取り調べるに当たり、二月二八日から三月一一日までの間は、藤沢北警察署司法警察員巡査部長寺園和朗が補助者として立合っていたが、その最終日である同年三月一一日、甲は、通常の大きさの字で「寺園部長さんへ色々お世話になりました。D君には人の道として深くお詫びして供養する気持でいっぱいです。深く反省しております。ああするより手段がなかったのかと今は思っております。部長さんのおかげです。本当にありがとうございました。部長さんのきれいな心を信じております。感謝しております。同62年3月12日 甲寺園部長殿」と記載した寺園宛の手紙を作成し同人に渡すよう右横平に依頼した。

(一一) 同日、甲は「一、私しがDを殺した時のじようきょうをきおくにもとずいて書きます。二、人間は呼吸しています。Dも呼吸している人間でした。三、私しはDがあくまに取りつかれていると思いました。四、Dを殺さなければあくまは死なない。五、Dの体の中からあくまを取り出す時つまりDを殺す時最後のあがきをするだろう『あばれるだろう』と思いました。六、だから乙と二人であばれないようにするため足をしばりました。しばったものはほうたい、ももひき、バンド、を使い足首、ひざ、ももをしばりました。七、しばってから順番ははっきりおぼえておりませんが、左手でのど仏を順手でつかみました。八、あくまを殺して追い払うため左手をのど仏からはずして広く手を広げけいどうみやくの所を上から力いっぱいしめました。九、タオルを四つ折ぐらいにして聖水をたらしました。それは口から体内に聖水を入れようとしてやったのです。十、この前は両手で首をしめたときおくして話しましたが、良く考えると色色の治療をしましたので首からうしろにも右手を廻しもんだりもしました。だから両手で首をしめたと話したが『七、八、項目』で話した通り左手だけでしめました。訂正致します。十一、乙に命令した事や会話した事 ①チリ紙やタオルを持ってくるように足をしばるように食べ物やシーツを買ってくるように命じました。悪魔を殺すぞと命じました。十二、Dに対して詫びて供養して人間として深く反省している気持です。右甲 S623月11日」と記載した上申書を作成した。

(一二) 三月一七日、甲は、「一、Dを殺す時の姿勢はあおむけになっているDの左側に位置して肩の部分に自分が中腰になり右足は立て左足はDの左うでをおさえるようにして右手はDの左目をのぞいたりしていました。左手は初めのうちはのど仏を順手でつかみ次にはあごのすぐ下側をつかんだのです。そしてけいどう脈を力いっぱいしめあげました。」と記載した上申書を作成した。

(一三) 横平は、甲の供述に疑問があっても特段の反問もせず、そのまま録取する態度を取り続け、甲の各供述調書中には、その供述が変遷するまま録取され、非現実的な供述もそのまま録取されている。

2 乙

16回高橋供述(<丁数略>)及び乙の各検面・員面によると、乙を取調べた司法警察員警部補高橋幸男は、本件犯行の争点の一つが責任能力であると推測されたことから、乙が供述するところを、疑問があっても格別な反問や論争もせずにそのまま録取する態度を取り続けたこと(右各供述調書の分量が多く、その各供述内容も、供述が変遷するところは変遷するまま、検面と員面で食い違うところ、非現実的な供述、他の関係各証拠に照して明らかに虚偽と認められる供述もいずれもそのまま、それぞれ録取されており、右高橋供述は十分信用できる。)が認められる。

七  甲の乙への一五万円の差入

21回B供述(<丁数略>)、横浜拘置支所歳入歳出外現金出納官吏所属出納員作成の受領書(<書証番号略>)及び25回乙供述(<丁数略>)によると、本件起訴後の同六二年七月一六日、甲はその弁護人を通じて、乙に一五万円の差し入れを行ない、乙は、これを受領して、拘置所内で必要な日用雑貨品や本等の購入に当てたこと、乙は、甲が、同年二月一五日、いったんくれた一五万円を再度差し入れてくれたものと考えたことが認められる。なお、右差入の事実は、右二五回公判期日(平成二年一二月一三日)において初めて判明した。

八  乙の検察官及び弁護人宛の電報発信

電報三通(<書証番号略>)によると、乙は、平成元年九月二五日一五時二五分、当時の公判立会検察官淡路竹男に対し、「事件のことを思い出しました。今まで言わなかったことも全部お話ししたいので、すぐに会いに来てください。甲よりも先に私に会ってください。お願いします。」との、同二八分弁護人に対し、「事件のことを思い出しました。甲のお兄さんに死なないで待っているように伝えてください。どうかお願い致します。本当のことをこれからお話し致しますので。」との、翌二六日一五時一八分、前同検察官に対し、「私がこの世の巨悪です。一日も早く再逮捕してください。お願いします。」との各電報(原文はいずれも全文かなで句読点なし。)を発し、これらが、それぞれそのころ、各名宛人に到着したことが認められる。

そして10回乙供述(<丁数略>)中には、右のような電報発信の理由として、そのころ甲が自殺するのではないかと強く思えて、これを阻止するため、検察官や弁護人に来てもらおう考えて電報を打った、検察官は来なかったが、弁護人が接見に来て、甲は自殺するような状況にないことを知らせてくれたので、右のような懸念を払拭することができた、電文を右のようにしたのは、弁護人や検察官に甲の自殺を思い止まらせてもらおうと考え、これらに接見を求めるのに効果的と思われる文言を用いたに止まり、「事件のことを思いだした」「この世の巨悪」「再逮捕」との文言も本件犯行とは無関係である旨の部分が存する。なお、右電報発信の事実は、平成二年四月二六日公判期日に初めて明らかにされた。

九  甲の入信、予言、救いの垂示等について

1 甲3.10検面(<書証番号略>)及び同3.3員面(<書証番号略>)には、次のような部分が存する。すなわち、

昭和四九年ころ甲がよくけがをするので、心配したBが甲を神示教会のEがいた支部へ連れて行った。Bの知人の紹介で、Bと一緒に甲も右教団の信者となった。Bを安心させることになるならという程度の軽い気持ちで、半年ほどEの許に通った。通っている間にEから「あんた、うんと気になるからこっちにおいで。」と声をかけられ、その後一〇年間に経験するとして「病気になった時に、猫が身代わりになって死ぬ。年輩で身なりは貧しいが、心の豊な人が現れて感化してくれる。靖国神社に参拝に行くことになるだろう。指圧の人が二回にわたって治療をしている風景が見える。」と教えられた。そして、これらの予言が悉く当たった。すなわち、同五九年一月二四日に可愛がっていた猫タマが死んだ。それから、過換気症侯群の発作に襲われる不安がすごく減少した。同年夏ころ、精神面での支柱となったL2と出会った。同人は、年輩で身なりは貧しかった。同人の教えは、男というものは、信義が大事だ、信義とは、生死を超えたところに自分の心を置き、無となることであるというものであった。甲は、そのように心掛けてきた。一方、同六〇年九月ころ、甲の全身が動かなくなり、血便が出て一週間くらい寝っぱなしの状態になったものの、医者に行く金もないくらい貧乏になり、八日間を一〇〇〇円の金で過ごしたことがあったが、その時、Eが瞼に浮び、「何も心配することはない。必ず救ってくれる。病気は必ず治る。そして、運が向いてくる。」と言った。そこで、苦しい生活を我慢していると、Gが七万五〇〇〇円を持って来てくれ、助かったということがあり、このようなことから、甲は、神様が守っていてくれるのかなという気になって行った。

また神示教会責任役員E3作成の回答書(<書証番号略>)、E4員面二通(<書証番号略>)等関係各証拠中には、かってのいわゆる会田支部関係者には、甲が入信したこともあったとの噂が存するかのような記載部分等が存する。

2 しかし、21回B供述(<丁数略>)からすると、同女が神示教会のお札(いわゆる「御身体」と推測される。)をもらって来た時、同女を車に乗せて行ったのはDであり、占ってもらいに行っただけで、入信するつもりはなかったので、そのお札は約一週間後に返したこと、同女は、甲が右教団に入信したことも、半年間Eのもとに通ったこともないと考えていること、甲の兄Gは甲が宗教というものには一切入っていない旨供述していること(<書証番号略>)、B方のお手伝いをし甲らを養育してきたQは、Bが葉山町に住む知人から勧められ、戸塚のEのところに行った、そのころ、運転手をしていた甲が、交通事故で運転できないのでDが運転して行った、Bは運勢を見てもらいに行ったが、言われるままに金を払ったら大山命のお札をもらって来てしまった、その後、Qの身体の具合が悪くなったので、同女は、Qの実家の稲荷とBの稲荷と大山命の霊が自分の一身にかかったためであると考え、Bに頼んで右お札は二、三日後に返してもらったと供述していること(<書証番号略>)。E2の検面・員面によると、甲がDに連れられてEの分教所へ行ったことはあるものの、その際も悪態をついて帰っただけであること、11回B供述中にも「甲は入会していない」旨の部分があること(<丁数略>)、<書証番号略>によると、同四九年ころ入信したD及びその両親は右教団総本部の信者等関係資料に登載されており、しかも、Dの関係では、その紹介者として「○○ユキエ」と登載されている(<丁数略>)にもかかわらず、同人と同じころ入信したという甲は前同資料に登載されておらず(<丁数略>)、Eの関係で入信したという甲供述は不自然というほかない。更に、前掲「回答書」、E4の員面においても、甲が入信したことがあったと噂している者の氏名や入信したという年月日が不明であるなど、その信用性は低いと認められる。このような諸事情にかんがみると、甲の右供述は信用し難く、甲が神示教会に入信したことはなかったと判断するのが相当である。

3 Fの供述中には、同六二年一月四日、同女が帰宅すると甲が、「一〇年前にE代表から『あなたは母と一緒に仕事しているといずれ警察につかまってしまう。』と言われたが、E代表の言ったことはみんな当たったよ。」と本当に感心したように話していたとの部分があるが、この予言の内容は、前記の甲供述中の内容と異なっているなど、甲の予言内容についての話には変遷も認められること、

甲の供述する予言は、その内容もさほど気にかかる程のものではなく、これまでに生じた事柄を用いれば容易に作話できるものであるところ、関係各証拠によれば、同五九年ころの飼い猫タマが死んだこと、甲は、同五二年ころからL7の指圧マッサージを受けており、同六〇年から六二年までの間、初詣に靖国神社に参拝していること、L2からは、同六〇年八月ころ、甲の茅ケ崎の家屋で、「人を裏切ってはいけない。筋を通さなければ駄目だ。」などと諭されたことが認められ、これらを併せ考えれば、同六〇年八月ころには、前記予言の内容が全部が生じているので、甲供述のとおり、予言が的中したためEに感謝の念が生じたのであれば、すでにそのころこれが生じていて然るべきである。しかも、同年九月ころの不調時に、Eが瞼に現れて、上記のような救いを垂れ、それも後に現実化したというのであるから、六〇年暮ころには十分過ぎるほどの感謝の念を抱いていて然るべきである。ところが、関係各証拠に徴すると、甲がEによる予言及びこれが的中したというようなことを言ったのは同六一年暮ころが初めてであったと認めちれ、感謝の念を抱いたであろう時点から約一年数か月を経たころからようやくこれを口にし始めたものであって、不自然な印象を免れない。更に、関係各証拠によると、甲が、DにEの骨の所在を尋ね、DからE先生の遺骨はE家の墓ではなく教会の人がどこかへ持って行ったと聞いている(<書証番号略>)のに、神示教会総本部に入信手続きもせず、また、甲がE方を訪れて遺児のE2に直接埋葬場所等を尋ねたこともなかったと認められること、また二月一七日夜、E2が甲方を訪れた際に、甲がE2をEの娘と知りつつ、追い返そうとしたことに徴しても、甲にはE2を尊重しようとする気持がなかったことが明らかである。

一方、<書証番号略>(<丁数略>)中には、「Dのためにと思い、Eのことを話した。Eは同五九年四月二九日に死亡したが、Dは看病をして、すごく苦しんで死んでいった様子を見ており、そのことを話していたので、それに絡めて、Dに、『Eは欲と感情に負けた。Dを可愛がり、徳間音工からのレコードもEの力添えだ。そういう甘やかしがDを駄目にした。』などと言った」旨の供述があるが、その予言が当たったこと等から相当に感謝の念を抱いていたとすれば、このように言動が一変するのは理解し難く、甲が、真実、Eに対して感謝の念を抱いていたとは認め難いと言わざるを得ない。

4 以上のとおり、甲が神示教会に入信した事実はなく、Eに予言されたこと自体が疑わしく、その予言内容が変遷していること、右予言内容実現の時期及びEが瞼に出現したという時期と、甲が、同女の予言が悉く的中した、同女が瞼に現れたなどと言い出した時期との間隔が不自然に長期にわたっていること、Eの遺児E2と知りながらの同女に対する甲の異様に乱暴な態度、Eに対する評価も容易に一変したことなどの諸事情にかんがみると、甲がEに感謝の念を抱いていたとの甲の供述は信用できず、むしろ、甲の目的は他に存し、右のような話はC方家人の気を引くための単なる手段であったと見るのが相当である。

一〇  同六二年二月の「神の命令」について

1 両被告人の供述内容の要旨

(一) <書証番号略>二月初め、夢枕で神が私に、神の曲を作れと命令した。ここで、初めて自分は神を信じ、神の命令であれば、自分は無になり、神の曲を作る作業に入らなければならないと思った。私は、夢枕で神の曲をつくれと命令された時、自分には作曲の才能もないし、神はDに作曲させろと命じたのだと思った。自分の役割は、Dが作曲し易いようにするため環境作りとDが悪魔に取憑かれないようにDを守るボディガードでなければならないと誓った。そこで、夢枕に出た神の話を現実にやらなければ世界の平和はあり得ないと自分なりに解釈してこの話をDに教えなければならないと決心してDの家へ行った。その日は特定できないが確か二月九日夜と記憶している。Dの家へ行き、Dと乙に対して、神の曲を作曲してくれないか、作曲家としてやって行くなら、今の環境から脱出しなければならない、バンドでは食べれず、家にいると○○商店の跡継ぎをしなければならないだろうし、この家を出て三人で共同して作曲活動をやろう、Dは作曲に専念しろ、俺はお前の作曲作業がうまく行くような環境を作るから、乙も協力してくれと話した。

(二) <書証番号略>私が「神の曲」を作れと神から命令を受け、その話をDに伝えに行った、この日が二月九日夜で、私が、この話を伝えるため自分のアパートから自分の車でDの家まで行った。家に着くとDは留守でいなかった、居間では叔父のCが乙と雑談をしていた。Cが居間から用事があったのか立ち去り、私と乙が二人になった時、私は乙に「実はDに『神の曲』を作れと神から自分に命令が来た、この件をDに伝えに来た。」と話した。すると乙は「やはりそうか、予言が当たった。」と言った。私は乙に「その意味は何だ。」と尋ねると、乙は「実は、最近東京大森に住んでいる占い師のところへ行き、現在のバンドを解散して新しいバンドにした場合成功するかどうかを占ってもらった。すると、占い師はDに『君は神の世界で作曲家として登録されている。作曲活動に専念すべきだ。』という意味のことを予言してくれた。甲も同じ様なことを言ったので、だから、『予言が当たった。』と言った。」ということでした。こんな話をしていたところ、Dも帰って来たので、乙に話した内容と同じことを伝えた。そして、「親と一緒に住んでいると雑念が入り、いい曲はできないだろうし、現在の環境が悪いのでどこかへ引越して三人で曲を作ろう。乙はDの身の回りの世話をする。私はDに男心を教えしっかりした信念を持たせるためボディガードをする。環境作りもやってやる。俺を信じて作曲活動に専念すればいい曲が必ずできる。これは俺をどこまで信ずるかにかかっている。」と話した。

(三) <書証番号略>二月初めころ、Dから「作曲家としてやって行く。」と聞いた。以前Eに言われたことがあるし、この間占い師のところに行くと、Dは神の世界に作曲家として登録されていると言われたとのことであった。同月九日ころ、アパートで就寝中、バンドのKがステージで歌っている情景、洋風の家の回りを子供達が飛び跳ねている平和の場面、最後に「心」の大文字。Kの曲を聞いた時には涙が出、神のお告げと確信した。神の心を音に出すということをDにすぐ伝えなければいけないと思った。Dから先に聞いていたし、神の曲を作れるのはDしかいないと思った。すぐ六会から横須賀のDの家に車で行き、まず、乙に夢の話をした。すると、乙が、「お兄さんの話は思い当たる。」と言い、Dが占い師のところで作曲家として登録されていると言われたことを改めて話してくれた。

(四) <書証番号略>その後、甲と三人で話し合い、夫が、作曲一本でやると言い出したのは、二月九日で、この日、甲が午後五時ころ来て、翌朝八時ころまで寝ないで話し合った結果である。甲が夫に「お前は作曲家としてやって行くように神様から言われた。」と話し、夫も占いで作曲家として成功すると言われたのを何で神様が知っているんだろうと不思議がり、私もそう思った。

(五) <書証番号略>二月六日(後に<書証番号略>で「九日」と訂正)甲に、「H不動産」に連れて行ってもらった。社長は、二、三日のうちに見に行くとの返事であった。帰途午後九時半ころ、ファミリーレストランに立ち寄って食事中、夫が甲に、L8のところで神学の歴史の話を聞いたことやL8に占ってもらったら作曲家になるのは天職だという話をしたような気がする。このあと、二月九日午後五時ころ(前記の訂正及びHの供述を勘案すると、三人は九日午後「H不動産」を訪れているから、午後五時ころ、甲が来たという、この供述全体が疑わしいと見るべきであろう。)、甲が私方に来て、翌朝八時ころまで三人で寝ないで話し合った時、甲が夫に、「お前は作曲家としてやって行くように神様かち言われた。」と話し、夫もL8の占いで作曲家として成功すると言われたことから、「何で神様も知ってんだろう。」と最初のうちは不思議がり、私も不思議に思った。

(六) <書証番号略>二月九日に甲が来て、私に、「これからDがやっていく仕事は作曲家一本だ。」と言った。夕方四時ころ甲が来たが、それから帰って来たDを交え、一晩中話した。甲は主人にも、「神様から、お前は作曲家としてやって行くんだと言われた。」と言った。私は、二月一日にL8に主人が作曲家として登録されている、という話を聞いたこともあって、甲の言うことを信じた。

2 右各供述の検討

(一) 乙供述中には、L8の占いの結果を、二月九日(<書証番号略>中には食事の日も九日と訂正するとあるから、Dが話したという日も九日と訂正するものであろう。)にDが甲に話したかのような部分がある。しかし他方、乙供述中には二月九日夜、甲から「作曲家一本でやって行く。」と言われたDが、「何で神様も知っているんだろう。」と不思議がった旨の部分も存する。ところで、E2の検面、員面によると、Dは、L8の占い結果につきほぼL8供述のとおりに理解していたと認められるから、Dが乙供述にあるようなことを自ら甲に告げたか疑問であること、及び、乙供述によると、Dが二月九日L8の占いの結果を甲に告げた際、甲も神様の命令があったと言うと、Dが、「神様がなぜ知ってるんだろう。」と不思議がったということになるが、これも不自然であること、これらの疑問からすると、L8の占いの結果を「二月九日Dが甲に告げた。」との乙の供述は、その日時と主体の点で信用できない。

(二) 一方、甲供述中には、二月九日までに、L8の占いの結果については聞いていなかったかのような部分が存するが、乙供述に対する右のような疑問と、「二月初めころ、Dから『作曲家としてやって行く。』と聞いた。」との甲供述(<書証番号略>)からは、乙が、甲にそれ以前に告げていた可能性も存するのではないかと疑われ、甲の右供述も直ちに信用することはできない。

(三) また、甲の右各供述からすると、結局、二月九日、夢の中で神の啓示と考えられるようなものがあったことになる。ところが、関係各証拠から認められる二月九日の甲の行動を要約すれば、同日午後零時ころ、甲は、××荘付近の喫茶店「アメリカーノ」を訪れ、いつもと同じ表情でL28と一時間位話をして帰り、その後午後一時ころL20と中央信託銀行藤沢支店前に赴き、右支店でL21から不動産担当支店長代理のL22を紹介してもらい、その後、L22の案内で目的物件を見分に行き、そして、その所有者が経営する喫茶店で、他三人としばらく世間話をし、午後二時ころ同店を出た、その後C方を訪れ、D夫婦とともに午後三時ころ、横須賀市内の「H不動産」に赴いた、同店でDが買い替えの条件として、「現在の住居を中心とする東南方向に幅三〇度の範囲内にある」ことを挙げたところ、甲は、東南三〇度の範囲内という限定は適当でないなどと言った、帰途、三人は、ファミリーレストランに立ち寄り、同所で、L8方での出来事などについてしばらく話し合った、その後、場所をC方に移し、そこで、居合せたCに対し、甲は、「俺に神が降りて来た。俺に乗り移った。」などと言ったということになる。

そして、このような状況は、甲供述中の、神の啓示を受けたと感じて直ちにC方に赴き、乙と、思い当たるなどという話をしたという相当に緊迫、興奮したかのような状況とは多いに異なると言わざるを得ず、前示のとおりの犯行に至る経緯等に照らすと、両被告人の右各供述は、信用し難い。

3 Bらへの対応

関係各証拠によると、B、Qらは、自ら妖気を感じると言うなど、かなり神秘的な感性を持つ者であることが認められ、これらに神秘的な事象を告げるのに何ら躊躇しなければならない事情は窺われない。現に、関係各証拠によると、甲は茅ケ崎の家で生じたとする金縛りなどの事象をBに告げている。他方、甲は、Bからそれまでに相当多額の金をもらっていたのに、二月に入ってからも、同女に無心し続けていたため、同女に不審を抱かれ、その使途を質されるなどしたが、その際、漫然と自ら使用するのではなく、D夫婦のために使用するのであるというようなことを匂わせつつ、言葉を濁していたことが認められる。

甲が、真実、神から命令を受けたというのであれば、Bの右感性に徴しても、そのような曖昧な態度を取る必要は毛頭なかったと推測される。無論、これまでのBとCの姉弟関係からして、甲が真実を告げた場合、Bが不愉快な感情を示すことも容易に予測されるところであるが、命令の事実が真実であれば、そのような反応を予想、躊躇するいわれは全くない筈であり、金員の使途に関する同女の疑惑を一掃するためにも、最良の方法であったと認められる。しかるに、甲は、本件犯行に至るまでは勿論、その後今日に至るまでも、Bらにこれを告げた形跡は窺われず、単に、これまでの態度を詫びるばかりである。

4 このように、前掲甲供述と、客観的に認められる甲の当日の行動には大きな違いが存することのほか、甲の、命令を受けた、あるいは、神が降りたという言動の対象がかなり限局されていることなどの諸点に照らすと、二月九日に甲供述中に存するような神の命令と目される現象があったとは容易に認め難いと言わざるを得ない。

一一  両被告人およびDの性格

1 甲

前示経歴、交流のあった者らの甲に関する印象、学校での評価、後記各鑑定中の心理検査結果等を総合すると、知能は普通範囲(むしろ上)にあり、性格特徴としては、外的刺激に動かされて強まってくる内的不安や行動をコントロールすることができず、生じる原始的な幼い感情をそのままの形で表出するなど、衝動の統制が悪く、ものの考え方は非常に主観的、独特で、外的対象の見方は感覚的、直感的傾向が強く、瞬間的に感じたものをそのまま再検討することなく反応する、社会的規範に対する無関心が見られ、社会性、常識性にかなり問題を持っている、自己中心的な内的世界を形成しており、現実を自分の願望や恐怖に無理に一致させようと歪曲し、細かい部分にとらわれ易く視野が狭くなる、一つの主題にとらわれると、それに固執して現実に適応できなくなるなど現実吟味能力に問題があり、性的適応、自己内省、客観性などの面における偏りは大きい、繊細・豊かな情操に欠け、愛情欲求も未熟で、対人関係は温かさや優しさに乏しく、相手に対する配慮を欠き、適切な距離を保てず、葛藤を生じやすいなど精神的未熟性があり、欲求不満場面においては、自分の欲求に固執し、自己中心的で他者への思いやりに欠ける、意思薄弱性・無力性を主徴とする異常性格であり、一方では自己中心的で、人や物に対する好悪が極端であり、自立性、責任感に乏しいものと認められる。

2 乙

前示経歴、交流のあった者らの印象、学校での評価、後記各鑑定中の心理検査結果等を総合すると、知能は普通域にあり、性格特徴としては、手際よく物事を迅速・的確に処理する能力に優れているが、一般的世間的常識を欠く面があり、内向的で、興味や関心の幅が狭く、問題の解決方法は硬化し、対人関係が困難であるため、現実を回避して自分の世界に閉じ篭ろうとする空想的・主観的な傾向がある、内省力や洞察力は殆ど欠如しているため、葛藤が少なく、不適切な行動に赴く可能性があり、現実を客観的に把握することが困難で、物事を主観的に見過ぎる傾向がある、柔軟性に乏しく、自己主張の能力は弱く、主導的な役割よりは受動的・服従的な役割を取り易い、また、前示のような神秘主義・オカルト的な傾向も有していると認められる。

3 D

関係者の供述等によると、派手好きで自己顕示性が強い反面、自立性に欠け、気が小さく意思も弱く、雷同的で人の言うことに左右され易い、常識的であるが、主観的で、思い込みが激しい面もあり、自分でいいと思ったことにはのめり込み、神秘主義・オカルト的な面が強い性格であったと認められる。

一二  本件各犯行の動機及び故意

甲の各員面・検面、甲(上)等には、随所に本件各犯行の動機が、悪魔祓いにあった旨の供述部分が存し、また、乙の各供述中にも、甲が、しきりに「悪魔」ないし「悪魔祓い」という言葉を用いており、乙も甲の言動を信じ込んでいたとも受け取られるような供述部分が存するので、本件各犯行の動機等について検討する。

1 悪魔祓い等と整合しない言動等

(一) 前示のとおり、犯行前における、甲のBに対する一連の行動を見ると、金を異様にしばしば無心しながら、その使途に不審を抱かれ、これを問われても説明せず、甲の供述によっても、神が降りた、あるいは神の曲を書けとの命令を受けたという時期の後であるのに、C方家人に対するのと異なり、同女にはそのような類のことを一切言わず、かえって、甲の目が赤いことに不審を抱いた同女の視線を避けようとしたなど、「神の曲」作曲を目指し、かつ、悪魔祓いを試みていたというにしては不可解な、そして、Bにおいて不審を抱くのももっともと思われるような諸事実が認められる。

(二) また、前示の殺害に至るまでの経緯からすると、殺害により悪魔祓いが完成した筈であるが、殺害直後、乙が呆然としていたという、経験則上も通常の殺人事件の場合によく見られる状況が存するにとどまっており、更に甲も、「こいつは、神様のくれた心以外、肉体全部が悪魔の塊だったんだ。だからこうなったんだ。」と言い捨て、「これからどうすんのかなぁ。」と言った状況が認められるが、これらは、悪魔祓いという目的完成時の言葉として不自然である。

(三) 前示の二四日午後八時前後ころ、甲方玄関に、乙の母N2、K、Oらが訪れた際の両被告人の狼狽した状況、翌二五日午後零時ころからの内臓等の処分等の行為に関して(<書証番号略>)及び(<書証番号略>)等関係各証拠によると、Dの死因の確定には、甲方居室流しから排水升に流出していた細断された諸臓器、殊に肺臓の小片と眼球が重要な契機となったと認められ、これからすると、甲の前記内臓流出行為等が、客観的に罪証隠滅行為であったことは疑いない。そして、前夜、Kが警察を連れて来る旨言い残して立ち去ったこと、内臓流出後、それまで乙をも督励して作業を急いでいた甲が、「ここまで来たらそんなに焦ることはないから、少し休んでやろう。」と乙に語ったことなどを総合すると、甲が主観的にも罪証隠滅の意思を有していたことが明らかである。二四日前半の脳の流出と併せ考えると、二五日の時点で、内臓も細かく切れば流出させることができるのではないかと考え付き、それを実行したものと推測される。もっとも<書証番号略>中には、「(Dを蘇らせるためには、)内臓を取らないとだめじゃないかと閃いたので、これを取り」(<丁数略>)、また、「内臓をも一緒に封印するのを忘れ、ビニールの袋に入れて台所に置いたままにしてあったことに気付き、だからDが蘇らないんだと思って水道の水とともに流して捨てた」(<丁数略>)旨の<書証番号略>には、「昨日内臓を台所のところに置きぱなしにしていたので、悪魔の使いが来たと思ったから、内臓を捨てないとだめだと感じて捨てた。」旨の各部分が存する。しかし、それらだけでは、<書証番号略>から認められる内臓を流した後、眼球をも流した事実は理解し難い。

(四) 前示逮捕直前の乙の対応状況、すなわち、大家が「エッ、何してるんですか。」と言って戻りかけた際、目を瞑り、手を組んで、身動きもせずにおり、Kの声がした際、声の主を識別しながら、背中を向けたまま、姿も見ず、その際、「捕まる、もう逃げられない。」との思いがあり、「何も話さず黙っていて、精神病と思われて精神病院に入れられるのがいいか、それとも、正直に話して刑務所に入った方がいいか。」などと考えていたこと(この点は、乙は、3.7員面で自認し、これに続けて「精神病院に入れられるのは、自分が看護婦として見て知っており、私は狂っていないので精神病院に入れられたら耐えられないかと考え、正直に話した。」旨述べている。)、警察官が、「どうしたんだ。」と声をかけた際、目を瞑って黙ったことなどは、まさに、逮捕される直前の犯罪者の心理及び処罰等を観念した行動にほかならないと認められ、悪魔祓いあるいは何らかの宗教的観念に基づく神聖な行為中、これを邪魔された者の心理ないし行動とはおよそ考え難い。

(五) 甲に対する取調べ中、その初期の段階においては、前示のとおり、弁解録取手続や上申書中において、「神の意思に従った」(<書証番号略>)、あるいは、「Dを助けるために悪魔を殺した。あれは悪魔です。Dの魂を助けた。」(<書証番号略>)などいう供述をしながら、一方では、甲がしばしば涙ぐみ、泣いていた状況が認められる。これは、真実、神の指示や悪魔祓いの意思で本件犯行を敢行した、あるいは、そう信じていたし、現在も信じている者の態度としては、不自然というほかない。

2 逮捕直後の居室の状況

右居室の状況は前示のとおりであり、悪魔祓いとの関連がありそうなものを検討すると

(一) 炬燵板上の燭等が供物の様であるが、<書証番号略>中には、「食べ物で残った赤飯やジュース等をお供物のように神棚にコタツ板の上に乗せておいた」旨の供述がある(二〇六〇丁表)。しかし、右炬燵板上には前示のとおり飲み残しのジュース等のパック、オレンジ色の液体が極くわずかに残存しているコップ、おしぼり、女物角型時計等も置かれてあって食卓として使用されていた様な状況であり、また、28回乙供述中には、「食事をみな炬燵板でしたと思う。(食べ残しをお供物としたという趣旨ではなく)たまたまそういう形になった、たまたまそこに置いたという感じ、(大山命の信仰のときに神棚に自分達の食べ残しを一寸置いたということは、今までに)ない。(この炬燵板は大山命の神棚よりはもっと違ったものだということになる)かもしれない。」との各部分(<丁数略>)が存することにもかんがみると右炬燵板の供物としての性格も相当に稀薄であると認められる。

(二) 炬燵本体の赤外線ランプが北側の死体方向を向いているが、ランプが室内に向くというのは、炬燵をしまうときの通常の形態てあり、当初、もっぱら暖房のためにスイッチを入れたことは、両被告人の供述からも明らかである。

(三) 室内に白布類が張り捲らされ、各種スイッチ等に半紙の貼付があり、異様な印象を受けるが、これらの多くは、Dの作曲のため施されたものであって、犯行前に甲方居室を訪れたメンバー(<書証番号略>)や、Cも、そのように理解したところも認められ(<丁数略>)、乙供述からも、これによりDが、「だんだん気持が落ち着く」と言って、甲の雰囲気にのめり込んで行ったことが認められる(<書証番号略>)。しかも、その貼り方等はいずれも不徹底であり、人知を超えた超自然的なものに対して万全の防衛策を講じようとしたものとは認め難い。

(四) 布団カバーに貼られた半紙も在中物から滲み出た血痕がかなり濃厚であることから、これを目に触れないようにしたとも考えられる(他の布団カバーの薄い血痕部分には半紙の貼付がないこともこれを裏付けるものといえよう。)。<書証番号略>には、半紙購入の目的につき、「滲んだ血などを隠すため」との供述があり(<丁数略>)、28回乙供述中にも「(滲んだ血などを隠す)それが最初の目的だったと思う。」旨の部分がある(<丁数略>)。また、その他の多数のビニール袋類には、封印等の宗教的な考えに基づくと目すべき特別なものは何も存しない。

総じて室内の状況には「悪魔祓い」を窺わせるようなものは乏しいと言うべきである。

3 悪魔に関する甲の供述(要旨・供述調書の作成日付順)

(一) <書証番号略>「Dは私と乙との気持に反して、優柔不断で、悪魔が宿っているのか、私の考えに仲々同調しなかった。私が悪魔と話していることは、人を信頼することと反対の考え、つまり、人の物欲、名誉欲、嫉妬心、又は、自分勝手、裏切りのことを私は悪魔と話している。Dは、私と乙に、神の曲を作曲するからと言いながらそれを裏切った。Dの肉体の中に入っている悪魔を取り出そうとお互いの目を凝視して追い払うこと、体を塩で清めてもみながら悪魔を追い払うことなどを乙と二人で一晩中続けたが、全然反応がなかったので、Dの身体から悪魔が出て行かないと私は感じた。二月二二日午後三時ころ、Dの背中付近に塩をかけ、自分の爪で背中をかきむしった。これも悪魔を追い出すための行動だったが、その時、Dは、痛い痛いと言って暴れ出した。私は暴れるDを押さえつけ、乙と二人で更に背中を爪でかき続けた。Dは足をバタバタさせ起き上ろうとして抵抗した。私はこの時悪魔がDの肉体に入り込んでしまい、悪魔を殺すにはDを殺さなければ死なないと考えたので、Dは人間だけど、Dが死ななければ悪魔も死なないと思った。」

(二) <書証番号略>「殺す少し前、私と乙は、Dの背中付近に塩をかけ、自分の爪で背中をかきむしると、Dは、痛い痛い、と言って暴れ出した。私は暴れるDを乙と二人で押さえ付け、更に背中を両手の指の爪全部を使い塩をふりかけ、がりがりとかきむしった。塩はお清めのためと自分の指と皮膚との摩擦をより効果的にするため使った。Dは、足をバタバタさせ、両手を床について起き上がろうとして抵抗した。私はこの時、Dを殺す決心をして、Dを仰向けに布団の上に寝かせた。」

(三) <書証番号略>「Dの体内に入り込んだ悪魔を取り除こうと私は雰囲気作りをしたり指圧をしたが、Dは作曲活動に専念するどころか、心の動揺ばかりしているので、私はDの肉体に悪魔が乗り移ったと思い、生きているDから悪魔を取り除くためにはDの命を絶たなければならないと確信し、首を両手で絞めて殺した。」

(四) <書証番号略>「Cの家は、Cはアル中、Fは金儲け主義の欲ばかり、弟のD2は交通事故で足がないので悪魔の家庭だと前から確信していた。」「番屋でのDの態度を見ていると、どうしても悪魔に取り憑かれている、悪魔に身体を乗っ取られると確信したので、このことを乙にも伝えた。二月一四日午後五時ころI3の部屋に行くと、I3が私に、『いいところに来てくれた、Dが動揺していい曲ができないと言っている。』と私に言うので、これは悪魔がDに入っているんだと思ったので、部屋でDの目を凝視した。乙にもDの目を凝視しろと命じ、二人で並んでDの目をお互い凝視した。休み休みだが、相当の時間この凝視を続けた。」

(五) <書証番号略>「私が今回の件で、Dの悪魔がいる、とか、悪魔が取憑いているとかの話」をしているが「悪魔という言葉は、子供の頃から現在まで、本を読んだり、母から教えられたり、テレビや映画を見て自然のうちに知ったが、これは形があるのか、いつも疑問に思っていた。それというのも、江戸時代の地獄の図やおもちゃで悪魔の顔などがあるが、すべて架空のものであり、悪魔などこの世界に存在しているのか疑問だった。ところが、エクソシストの一部、二部の両方を映画館で今から五、六年前に三回位自分一人で見に行っており、その映画の中で、悪魔に取憑かれた子供の顔は、目が吊り上がり、目は赤黒くなり、青黒い顔になる。口からグリーンの液体を出すという光景があった。私がDにお前には悪魔が乗り移っている等と話したのは、悪魔とは、前に話したように欲があり、信念がなく、動揺しており、無心になっていないのではないか、と思ったから、悪魔が取憑いたのではないかなどと言っていたが、その言葉を使ったのは、先程話したとおり、エクソシストの映画の中で見た光景から悪魔という言葉を選んだ。私は悪魔に取憑かれたDを殺した。右映画の中で悪魔に取憑かれた子供の顔は、目が吊り上がり、眼球は赤黒く、顔は青黒くなったが、Dも、二月二〇日午前三時ころ、私のアパートに帰って来た時、『兄貴俺は自分自身が気違いに思える。兄貴にも魔神がおりている』と言い、目が吊り上がり、眼球は赤黒く、顔も青黒くなっており、映画の子供と同じ顔になったので、Dに悪魔が取憑いたのではないかと確信した。その後、乙と二人で色々な治療をしたが、どうしても悪魔はDの体から出て行かず、結果として、映画のストーリーと同じように、Dは人間だけど、Dを殺さなければ悪魔も死なないと考えDの首を絞めて殺した。」

(六) <書証番号略>「番屋の中でDがCが酒を飲むと好んで歌う軍歌を歌い始めた。これを見て私は悪魔に取憑かれているとか、悪魔に身体を乗っ取られていると確信した。この悪魔という言葉は、先程話したように、映画エクソシストの中の言葉を思い出して使った。何故、Dに悪魔が取憑いたとか、悪魔が乗り移ったとか言ったのは、作曲活動に専念させるためで、家に帰ると心変わりして神の曲を作曲しなくなっては大変だ、信念がぐちゃぐちゃになる、と考え、Dが家に帰りたがっているから、帰したくないという理由で、悪魔が取憑くとか、悪魔に乗っ取られるなどと話した。悪魔が完全にDの作曲活動を妨害すると思い始めたのは、I4の離れに引越した夜からで、そのために、Dに悪魔が取憑かないように、悪魔が入り込まないようにするため、ボディガードするために、銭湯へ行っても浴槽に入らず脱衣場から見張り、その後もDのそばをできるだけ離れないように気を遣った。そして、I4のアパートへ引越した日は、悪魔が入って来るような気がして一睡もできずDのことを心配ばかりしていた。次に、二月一六日、Dを私のアパートへ連れて来たが、これも神の曲を作曲させるために良い環境で作曲に専念してもらうためで、Dが家の中を白くしてくれというと、シーツや私の褌を使って部屋の中を白い布で囲んだり、穴という穴に白い半紙やティッシュを貼り封印したりした。また、茶碗の色やポットの色が気にくわないとか言えば、そのとおりにして部屋の雰囲気作りをした。乙も、一緒に来たI4も手伝ってくれた。これもDに神の曲を作曲してもらいたいためにやったことである。ところが、Dは、親が来たり、バンドの仲間が来たりすると、すぐ家に帰ったり、バンドの仲間のところへ行ってしまった。私も神の曲を作曲してもらいたい一心でDを迎えに行ったりもした。そして、Dが二月二〇日午前三時ころ、帰って来た時、顔も青黒く、目が吊り上がり、眼球は赤黒くなり、私に兄貴、俺は自分自身が気違いに思える。兄貴にも魔神がおりている、と言った。私はこの時、悪魔が完全にDの身体の中に入り込んだと確信したので、映画、エクソシストの場面を思い出して、ここから悪魔祓いをしようと映画のストーリーのようなことをDに対してやった。」

(七) <書証番号略>「番屋で飲んでいるうちにDが『歩兵の本領』という軍歌がいい、と言い出した……もともこの歌はDの父Cが好きだった歌で、D自身は軍歌とか演歌など嫌いなのに、こんな歌を歌うのはおかしいなと思った。そして、Dの顔をまじまじと見ていると、その目とか喋りっぷりがCそっくりに見えた。私は、アル中で肝臓を悪くしているCの姿が、昔見た日本画の亡者の姿にそっくりのように思え、悪い因縁のついているCの家から出て行こうとしているDをCが邪魔しようとして、そのためにCの姿がDに出てきたのだな、と思った。家を出るということは、その気があってもタイミングを失すればなかなかできないので、このままDをCの下へ帰せば本当に家を出られなくなると思い、一四日の朝までいて、いったんアパートに私だけ戻って、一四日夕方、再びI3の家に行った。私にはDが両親を捨てて家から出て、神の曲を作ることに専念する、という決意をまだ十分固めていないので、時々不安な様子を見せるのは悪霊とか魔界の者が善の曲をDに作らせないようにして邪魔をしているからだと思ったので、Dから同人を不安にさせる魔界の者を退散させようと思い、にらめっこをしたり、手をつないで座ったり、お互いの信頼関係を強めるのに役立つと思えることをやった。そのままずっと起きていたが、乙が『午前六時が神の降りる時間だから神の曲を作るのは午前六時が勝負よ。』と言ったので、午前五時四五分ころから八時三〇分ころまで、I3の部屋の神棚の前に机を置いてDを座らせ、その後にI3、私、乙の三人が座り、Dに神の曲を書けと言って、レポート用紙に五線をひいて書かせた。(一五日夜)乙とDは寝たが、私はDに悪いものがつかないよう見張るため起きていた。その内、次第に異様な気が感じられて来た。万朶の桜の曲が心の中から突然聞こえて来た。そうすると、物凄く気持ちが不安になった。この曲を頭の中から消そうと思ってもできない。これは悪魔の行進曲だと思った。いやなムカムカした気分になった。私はDのことが心配で、その様子を見に行ったり、また炬燵に戻ったりしていたが、そのうちに襖の破れたところとか壁の染みから妖気が出ている気がした。襖の破れ目のところをずっと見ていると、その回りがキラッと光り、ずうっと見続けていると、その破れたところが、グルグル動いて魚の形をした悪魔の子分のように見えた。その時にふと思いついて、自分の手を組み、人差し指を伸ばして私の気をその襖の破れたところへ送るようにすると、破れ目のところからキラキラと金粉みたいなものが落ちて行くように見えた。……私が悪魔の子分のように見えたものと対決している時に、I3が来たので、しばらく外で待たせたあと中に入れ、アパートをすぐに探せ、それも南面のアパートだと頼み、I3をすぐに帰した。」

(八) <書証番号略>「二月一九日、Dの父親の家からD夫婦を私の車で六会のアパートまで連れ戻した。そのときDは、○○商店の仕事先への請求書の入った箱を車に入れて持ってきた。父親から……言われたからと思う。ところが、途中でDは、『こんなもの俺でなくてもできる。』と言って、六会の駅前から宅急便で送り返した。駅前に車を止めていた時、変な妖気を感じる人間が目についた。顔の色がドス黒く、メガネをかけてびっこをひいている男で、アパートの近くに行くと、その男がまたいたので、その男を避けて車でグルグル回り、Dがそのような男と目を合わせるのを防ぐため目隠しをさせなければ、と思い、ドリームランドと原宿の間の薬屋でマスクと包帯を買い、乙と二人でDに包帯で目隠しをし、マスクをかけさせた。マスクをかけさせたのは、Dが口の横に傷をつけており、その傷からも妖気が入ってはいけない、と考えたからである。」「二月二〇日午前二時半ころ、Dがアパートに帰って来た。その時のDの顔を見ると前のDではなく、邪悪な心に戻ってきたように見え、眉が吊り上がり長髪の髪型も横にふくらんで閻魔大王を思わせる顔つきになっていた。その時か二〇日の夕方がはっきりしないが、Dがトイレへ行って鏡を見たあと、メソメソした雰囲気で、自分の顔は気狂いに見えると言い、私に、兄貴に魔神が降りているように見えると言い出した。これを聞いて私は、こういうことを言わせているのはDが悪魔に乗っ取られているからではないか、と思った。」「二〇日の夕方、Dが、乙がいないと部屋が汚い、そういう環境は気に入らない、と言い出した。私は掃除など全然しなかった。その夜、Dは乙の家に電話をかけ、乙や父親と話をしていた。父親には、『自分の女房だから返して下さい。』と言っていたが、乙に話している中で、『親の許しを得て帰って来い。』と言ったその言葉が私には腑に落ちなかった。そんなことを言うと乙はいつ来られるか分からない。すぐに会いたい、と言っている人間が言う言葉じゃない、と思った。何か悪魔に乗っ取られている感じがした。Dは乙がいないと気が集中しないので曲ができない、とこぼしながら、その反面親の許しを得て来いと言っていた。」「これではいけないと思い、翌二一日朝八時ころ、ダイヤルをDに回させ、Dには乙にお願いしますとだけ言わせてすぐ電話を替わり、私が乙に、今すぐに来い、昨日Dは動揺して、自分が気狂いに見えるとか、兄貴に魔神が降りているとか言い出した。このままではDはだめになるから、すぐに来い、神に誓って来いと話した。」「二一日午後一時過ぎ、乙がアパートに帰って来た。そして炬燵のテーブルの上に乙が洗い米と塩と水を供え、神殿を作った。甲、私、乙の順で風呂に入り、体を清めた。そして、Dの背中にマッサージや指圧の治療を始めた。Dが十二指腸潰瘍を患ったことがあり、ちょくちょく下痢をするので、確かDからやってくれと言われて始めた。布団の上にうつ伏せに寝たDの背骨の上の方から順に押さえて行き、やっているうちに本人が痛いというところが四か所ほどあったので、それが体の悪いところだと思い、集中的にやっていた。そのように指圧をしていると、背中の四か所のところが次第に赤くなり、その内、前に映画や本などで見た地獄の絵の中にあった悪魔の絵のようなものがDの背中に見えてきた。」「私が指圧をして赤くなった部位に現われたが、上から行くと、首の下の背中の出っ張りの下に悪魔の大王、心臓の裏あたりの背骨に悪魔の絵、腰の上の部分に鳩のような鳥が猪のような怪物に食べられようとしている絵、尻の上の部分にかもめみたいな鳥の絵が赤く浮き出ているように見えた。赤くなったところに私の唾と塩を付けてこするとより一層赤く見えるように思えた。このことは乙にも教えたが、ピンとこないようだった。唾と塩を布やティッシュで拭き取り、改めて唾をつけ、塩を一面に強くすりつけ、ガーゼで蓋をして絆創膏でとめておいた。マッサージのやり方は乙にも教えたが、格好から何からなっておらず、だめだった。」

(九) <書証番号略>「私は、Dに悪魔がついたと思い、Dの妻の乙と一緒に悪魔祓いの方法を色々とやった。これもだめだ、これでもだめだとやっているうちに、Dを殺さなければ悪魔も祓えないと考えて、乙と一緒になって、Dの首を絞めて殺した。悪魔を祓えばDがきれいな心になって蘇り、神の曲が書けるのではないかと思ってやった。それから更に、悪魔祓いのために死体を切り刻んでいるが、これももっと悪魔祓いを完全にすればDが蘇って神の曲を書けるようになるのではないかと思ってやった。」「二月二二日、時間ははっきり分からないが、私はDに馬乗りになってうつ伏せに寝たDの首の下の背骨の出っ張ったところを治療していた。治療というのは、両手の人差し指と中指をそろえて押し付けたり、親指で押し付けたりする指圧マッサージをしていた。これも悪魔祓いの方法として私はやっていた。そのときに私が見ていると、Dの首の後の皮膚の下の脂肪のところが海岸の波のように動いているように思えた。そこを爪で掴んで引っかくとどんどん赤くなり、透き通った露のような液が出てきた。それを出すと悪魔祓いに役立つのではないかと思い、馬乗りになったまま背中を引っかいたり胸の方を引っかいたりした。そうして、背中や胸に塩をつけ、Dの体を清めて、ああ、これで悪魔祓いも終わりだ、と思った。」「ところが、しばらくすると、Dは、胸は嫌だ塩を取ってくれと言って嫌がり出した。これまで、清めの塩を取ってなどと言ったことはなかったのに、こんなことを言うのはおかしいと思い、うつ伏せのDの胸に手を入れて触ってみた。すると、Dの胸は油のようなものが出て腫れている感じがした。もう悪魔祓いが終わったと思ったのはまちがいだと思い、両手でDの胸をひっかいた。するとDは、いやだ、いやだ、と言って暴れ、バタンバタンと足を動かし、そのときに仰向けになった。Dは、自分の胸を両手でおおって触らせないようにしたが、私は無理矢理腕の間から手を入れてDの胸の肉をグッと掴んでひっかいた。そのとき、Dの目が赤黒くなってきて、息もすごく臭くなり、悪魔のように思えた。Dの目を見て、悪魔かと聞くとDは自分で悪魔だと言った。私はバタバタ暴れるDの体を押さえ付けながら、Dから出て行けと言って、Dの顔をひっぱたいた。すると一回目のビンタでDは出て行きますと言った。目をグッと見つめてみたが、悪魔がDから出て行ったようには見えなかったので、再度、Dから出てけ出てけと、言った。ところが今度はDが出て行かないと言ったので、またビンタをはった。するとDは目を閉じて静かになった。」「私の右手でDの目を広げてずっと見続けると、Dは目をキョロキョロさせていた。多分そのころだったと思うが、映画のエクソシストで十字架をつきつけて悪魔祓いをしていたシーンがあったことを思い出し、割り箸とテープで乙に十字架を作らせ、Dの目の前に悪魔よ去れと言って見たが、埒があかなかった。そのとき、もう悪魔を祓うためには悪魔に取憑かれたDを殺してしまうしかないと思った。」

4 悪魔概念、悪魔騒ぎ等の検討

(一) 右の各供述を検討すると、その内容は相互に矛盾して一貫性がなく、甲が一体何を悪魔と考えたかなど、全く判然せず、理解し難い。また甲が、Dに悪魔が取憑いた、悪魔が身体に入った、悪魔に乗っ取られたなどと確信するなどした時期が、一三日夜から二〇日夜まで様々であり、甲の言うとおりであれば本件殺人に直結する異常かつ重大な出来事の記憶である筈なのに、甚だ不自然というほかない。

(二) 遂にはDの生命を奪ってまでDから「悪魔」を払おうとした理由も疑問である。本件犯行に至る経緯等を見ても、Dに憑いたという「悪魔」は、Dの身体に対し自傷させるなどしてDを苦しめる等の特段の行為に出た形跡は認められないから、その身体を守る緊急性はなく、また、甲らにおいて、まもなく核戦争が起こるので、これを防止するために神の曲を直ちに全世界にヒットさせようというような、緊迫した観念を抱いていなかったことは、前示のとおり、Dらのことを心配して訪れたバンドのメンバーやOらにすら、作曲した歌の説明を十分しようともせず、喧嘩別れのような形で対応している状況から見ても、明らかであって、右のような悪魔祓いに及ばなければならない理由が判然としない。

(三) <書証番号略>には、J所有家屋で、甲が悪魔の子分と対決し、いわゆる指鉄砲を組合わせたような手つきで気を送ってこれを退治したかのような供述が存する。ところで<書証番号略>等の関係各証拠によると、右「対決」前後の事情として、前示のとおり、二月一六日午前三時近く、I4がアルバイトから帰って来て、J所有家屋から灯りがもれているのを見て顔を出し、約五分後に帰ろうとすると、甲が追いかけて来てI3方に電話するよう依頼し、I4が電話したがI3が出ないと、甲もI3に繰り返し電話し、I4は、I3が寝ているか留守ではないかと言ったが、甲がどうしても連絡したい風なので、更にMに電話し、MにI3の許に行ってもらうなどまでしてI3を呼び出したにもかかわらず、I3がJ所有家屋に来てからは、右悪魔騒ぎ以外には、I3を緊急に呼び出さなければならなかった事情は全くなかったことが認められる。このような点からすると、この時、甲がI3を呼び出そうとした直接の目的はもっぱら悪魔騒ぎにI3を遭遇させること自体であると考えざるを得ない。してみると、右のような悪魔騒ぎは、甲がI3を呼び出そうとした時から既に計画されていた意図的なものであったと解される。また、前示のとおり、当時、乙は右家屋に落ち着くつもりで、所持金をほぼはたいて生活用品を購入しており、右悪魔騒ぎとこれに引続く甲の性急な連れ出しにより、乙は購入した生活用品の殆どを右家屋に残したまま、他のアパートに移るまでの当座の居所にするつもりで、甲方居室に移ったことなどの事情からすると、甲が、I3を悪魔騒ぎに遭遇させることにより達成しようと企図したものは、乙をして、右家屋に落ち着くことを断念させ、一時的であれ、甲方居室に移動させることであったことが窺われる。

(四) 悪魔の回し者と指摘したことについても、そのころのDの視力(0.01)とその時眼鏡をかけていなかったこと(<書証番号略>)並びに当時の同人の精神状態等からして、同人がそのような男に自ら気付いたとは認め難く、また、乙も、甲の指摘なしに、これに気付いた状況は存しなかったと認められ、かつ、乙の見たところ、その男は単なる浮浪者で、ただ、歩いていたに過ぎなかったものであって、乙は、甲だけが「ずっと見ている」などと思っていると考えたことが認められる(<書証番号略>)。

このような諸事実からすると、この時の騒ぎは、要するに、甲だけが、殊更、何も気付かないD夫婦の目の前で、一人の浮浪者を「悪魔の回し者かも知れない。」「あの男と目を合わせてはだめだ。」などと騒いで見せたに過ぎないものと認められ、一五日ころから、かなり脅えた心理状況にあったDに対し、甲が一九日午後ころ、殊更「悪魔の回し者」「目を合せるな」などと騒いで、脅えているDを更に脅えさせ、甲に対する依存心を高めさせて、容易に甲方居室を出て行かないようにしたものと推認される。

(五) 甲3.3員面中には、「塩揉み」を二月二一日から二二日にかけて、徹夜でDに施したかのような供述が存するが、これは、「なお、前日の夜は九時か一〇時には寝た。三人とも炬燵に足を突っ込み一緒に寝た。」(<書証番号略>)、「午後一〇時ころに寝ている。」(<書証番号略>)との各供述と対比して真実とは認め難い。

Dが、請求書の入った箱を六会の駅前から宅急便で送り返したとの部分<書証番号略>は、前示のとおりの当時のDの精神状態及び<書証番号略>と対比すれば、虚偽であることが明らかである。

二一日午後一時すぎ、乙がアパートに帰って来てから、同女が神殿を作ったとの供述部分は、31回乙供述中に、二四日ころより前に、炬燵上に悪魔祓いのため燭を立てたり塩を盛ったということはなかったとの供述(<丁数略>)に反し、乙の供述調書中に、二一日に甲方居室に赴いた際、神殿や神棚を作ったという供述はなく(<書証番号略>)、二四日、買物から帰ってから神棚を作った旨の供述があること(<書証番号略>。この点は、甲の3.8員面一八八五丁表裏とも符合する。)に照らして虚偽である。

その後「乙とともに」初めて「マッサージや指圧の治療」を始めたかのようにいう点は<書証番号略>中の供述(<丁数略>。右供述は、<書証番号略>により裏付けられる。)と異なるところから、虚偽と断じてよい。更に、塩を使用しないマッサージや指圧をしたようにいう供述は、3.3員面の「体を塩で清めてもみながら悪魔を追い払うことなどのこと(<丁数略>)……」との供述部分とも食い違い、虚偽と認められる。

<書証番号略>にも、指圧マッサージの時には塩を用いておらず、かつ、二二日も、両手の人差し指と中指をそろえて押し付けたり、親指で押し付けたりする程度であったかのようにいう供述(<丁数略>)があるが、これは、<書証番号略>、<書証番号略>中の各供述部分(<丁数略>)(<書証番号略>から認められる死体の正面及び背面の表皮剥離の状況にも符合する。)と大きく異なり、虚偽と認められる。

(六) 以上のとおり、甲供述中の悪魔の観念は、非常に曖昧であり、それ自体一貫したものがなく、甲自身が予め「悪魔」として観念していた何らかの特別なものがあったかという点からして疑問であること、更に、甲のいう悪魔の存在を具体的徴表とするものを検討するに、甲が捜査段階で、悪魔の図として書いたものは、映画「エクソシストⅡ」に登場する悪魔の化身の形状と酷似しているところ、一方では、二〇日未明のDに悪魔が憑いたと考えた根拠として、「その時のDの顔が、目が吊り上がり、眼球は赤黒く、顔も青黒くなっていました。映画(「エクソシストⅠ」の子供と同じ顔になったので、Dに悪魔が取憑いたのではないかと確信した(<書証番号略>)」旨を供述していること等に徴すると、甲は、悪魔の図を書く時は、「エクソシストⅡ」の悪魔をモデルにしながら、悪魔に取憑かれた者としては、「Ⅱ」の中の子供ではなく、「Ⅰ」の中の子供を思い描いたということになり、不自然である。結局、甲が「悪魔」の存在、まして、これにDが取憑かれたことなどを妄想したことはなく、このために、甲が、任意の意思に基づき自己の行動を抑制支配し得る余地のない意識状態に陥ったなどということは、到底あり得なかったというほかない。

5 「塩揉み」の開始とその本格化ないし殺害に至った動機

27回乙供述(<丁数略>)及び<書証番号略>等関係各証拠によると、前示のとおり、甲は、二一日、乙が甲方居室に帰り着く前から、独りで「塩揉み」を始め、その時は、後頚部に縦横一、二センチメートル大の楕円形の傷跡を残す程度のもので止めていたこと、同日午後五時ころの夕食終了後から始めた「塩揉み」の態様も、甲がDの頭部かいずれかの肩付近に座り、塩袋から塩を指でつまみ取り、唾なども付けながら、示指か中指あるいはその両指を用いてこするというものであって、午後九、一〇時ころ就寝するまでの四、五時間に背部の背骨に沿った四か所に縦横三ないし五センチメートル大の楕円形の傷跡を残す程度のものであったこと、一方、二二日の朝食前は、甲が乙に、絆創膏など二一日に用いたのと同様の治療用品を買って来るよう指示したことからも、甲自身も前日と同程度の「塩揉み」をしようと考えていたに過ぎなかったことが窺えるが、その後、午後零時ころの昼食終了後から始められた「塩揉み」の態様は、甲がDの背中に馬乗りとなり、塩袋を手に持って塩を背中にふりかけ、両手の指全部を使用してがりがりとかきむしるというものであって、昼食後から殺害直前の午後三時ころまでのわずか約三時間の間に、Dは、身体背面の肩胛下部から首及び肩胛部を経て身体正面の両乳の下付近に至る広い範囲の皮膚をむかれた状態となったことが認められる。

なぜ「塩揉み」を始め、右のように本格化させ、更に殺害するに至ったか、それが「悪魔が取憑いた」などという観念なしに了解可能かが問題であるが、甲の前記供述内容を前提としても、甲は既に、一三、四日ころから、連日Dは「悪魔に取憑かれている」「悪魔がDに入っている」(<書証番号略>)と確信し、そのころから一九日までの五、六日の間、これを祓うために、「凝視」、「手をつないで座る」、「雰囲気作り」、「鬼出て行け」、「俺を信じ込め、俺を信じ込め。」と繰り返す等、Dの身体には接触しないか接触しても苦痛とは無縁の行為を行い、更に、一五日未明の甲の呼び出しに応じてI3が来た際の「悪魔」騒ぎ、及び、一九日、DらをC方から甲方居室に連れ帰る際の、「悪魔の回し者」騒ぎなどを起こしていたのであり、そのような、いわば間接的・心理的にして無痛の行為を五、六日間反復継続していた甲が、突如、その行為態様を一変させ、「塩揉み」という、いわば、直接的・肉体的に激痛を与える所為に及んだというのは、「悪魔を祓う」という一貫した目的に出たものとしては了解し難いと言うべきである。ところで、<書証番号略>等によると、「神の曲」作曲を目指した三人の内、Dの役割はその作曲、甲の役割の一つは右作曲のための環境整備にあったとの供述があるが、Dは、一七日を最後に、作曲はしておらず、(<書証番号略>)、一方、、甲も二〇日ころには、もはや甲方居室の掃除すらしない状態となっていた(<書証番号略>)のであり、これらの事実に照らすと、Dのみならず、甲も、一八日ないし二〇日の間に「神の曲」作曲という当初の目的について、それぞれ、これを断念あるいは放棄した心理状態に陥っていたと推認され、一四日I3方に逗留した当初からDは、甲に対する不審、C方に帰りたい旨及び神の曲作曲に対する自信のなさ等を口にし続けていたこと、一八日夜、Oらが来るとC方へ帰り、一九日にも、甲方居室を容易に立ち去り、二〇日午前三時ころ、甲方居室に戻ったDは甲に対し、甲にとっては、かなり刺激的な言葉を口にし、同日夕方、愚痴をこぼしたこと、一方、そのころ、Dが乙の実家に電話した際の、同人の乙の実父や乙に対する対応は、ごく常識的なものであったことなどの諸事実が認められ、他方、甲は、一五日にL1、L2と上野駅で会う約束を急遽断り、多額の金員を出捐するなどしてD夫婦のために相当に貢献したと自負していたと認められる。そして、このような、甲自身の自負と前記のようなDのこれに対する対応、更に、前示のとおりの甲の性格傾向をも考慮すると、甲3.3員面の「私としては、仕事の約束もあったが、Dを男にしてやろうと心に決め、自分としては命をかけてやる決心でいた。ところが、Dは私と乙との気持に反して、優柔不断で、悪魔がやどっているのか、私の考えに仲々同調しなかった。私が悪魔と話していることは、人を信頼することの反対の考え、つまり、人の物欲、名誉欲、嫉妬心、又は自分勝手、裏切りのことを私は悪魔と話している。」「Dは、私と乙に神の曲を作曲するからと言いながら、それを裏切った。それは、神の曲を作るために家を引越して私のアパートに来たのに、バンドの仲間が来るとすぐ家を出るし、また、親が来るとすぐ親の言う話を信じて家に帰ってしまうというように、心の動揺を示し、私と乙との約束を破った。私はこのようなDの行動に非常に腹が立った。そして、二月二〇日、午前三時ころ、アパートに帰って来て私に、『兄貴、俺は自分自身が気違いに思える。兄貴にも魔神降りているんじゃないか』と挑戦的態度に出た。この時私は、Dに『何を言っているんだ。俺はお前を男にしてやろうと命をかけてやっているんだぞ、何でそんな勝手なことを言うんだ。』と言ってやった。」旨の供述は自然な心理状態を表しており、二〇日の電話を聞いた際の、「何か悪魔に乗っ取られている感じがした。」との供述は、当時の甲の動機形成に関する心理状況として、すわちDに対する相当立腹した状況にあったことについての甲の独特の表現として、これを理解することができる。

このような状況下で、二一日、本件「塩揉み」が開始されたことは、それが、Dに苦痛を与える性質のものであることからして、甲の右のような憤懣と強い苛立ちの念を紛らわせようという動機に出た所為であることは明らかである。

そして、本件犯行は、前示犯行に至る経緯等において判示したとおり、甲が悪魔祓いと称して、塩揉み等を開始したところ、Dがこれを受容し、痛みに耐える言動を示したことから、乙も加わって、これを拡大、継続しているうち、Dが苦痛を訴え、「我慢できなくなりそうだ。」などと言いながら暴れるという甲にとっては反抗的な言動を示したところから、憤懣と苛立ちの念を一層強め、Dを押し倒し、甲を信じるよう申し向けながら、なおも塩揉み等を続け、Dの後頭部の両耳を結ぶ線より下方の髪を切った上、剃刀で剃り、この部分に対しても塩揉み等を加え、更に、首及び肩胛部から両乳の下付近に至る範囲に対してもこれを加え、Dが、これら広い部分の皮膚をむかれた姿で、手足を真っ直ぐ下方に延ばし、敷布団の上に仰向けに横たわり、ハアハアと息を立てるのみという、無残で非力な姿になったのを見て、加虐的な心理が著しく募るまま、同人に対する憤懣、強い苛立ちの念を一気に払拭したいという強い衝動にかられ、ついに、乙とともに、同人を殺害する致命的な加虐行為を敢行するに至ったものとして了解可能である。

6 乙における「悪魔」の観念

二一日、甲方居室に戻ってから、二二日、D殺害に至までの乙の心理状況の変化は、28回甲供述(<丁数略>)、及び、<書証番号略>等関係各証拠によると、前示犯行に至る経緯等のとおりであり、その間の乙の心理状況の変化は、ほぼ通常人が示すであろう範囲に止まっていたと認められる。ただ、殺害の直前、Dが苦痛を訴えて床に手を付き、中腰の姿勢にまでなった際、乙がDに同情して甲の「塩揉み」行為を止めさせようとしなかったばかりか、却って、甲側に立ち、これに協力してDを押さえつけたこと、甲から、D殺害を示唆された際、容易にこれに加担して、Dを押さえつけ、その下半身を緊縛するなどし、Dが唾を吐き始めた際は、乙自ら、唾をタオルで拭いた方がいいのではないかなどと提案した点などは、違和感をも与えるところである。

しかし、乙も、甲の、「悪魔を祓うためにはDを殺さねばならない。」などという言葉を全面的に信じ、何らの感情も交えずに平然としてこれに協力したものではないことは、関係各証拠からも十分認められる。例えば、乙は、3.1員目で「甲と二人で夫Dを首を締めて殺し、死体をバラバラに切り刻んだことは間違いない。夫を殺そうと思い立ったいきさつについては、今では信じられないことだが、甲の話を私は半信半疑で信じたものだが、夫は信じ込んでしまい、反論もせず、言うがままになってしまったことから、もう夫は立ち直れないと思い、甲が首を締めて殺すと言うので、いっそのこと殺した方が夫のためだと考え、殺すのを手伝った。」旨供述し、甲の話については半信半疑であったものの、その述べるような動機で殺人の犯行に及んだ旨を基本的に自認している。また、3.15検面でも、「夫を殺したり、その死体を削ったりしたことが人間として許されないことであるのは初めから分かっていた。やっている時も意識の上でそれが悪いということは分かっていた。捕まった当初から言っているように、法律で厳しく裁かれるのは当然だと思っている。」旨述べている(乙は公判廷で、捜査段階で殺意を認めた点や罪の意識があったことを認めた点につき、そのように述べたのは、捜査官の話に合わせたためである旨を供述するが、乙の捜査段階における供述及びそのように供述した理由を説明する乙の公判廷における供述状況を検討すれば、却って、乙が犯行時自己の行為の意味合いを認識していたことが十分看取されると言わなければならない。)。

元来、乙は、Dと二人で暮らしたいとの気持を有しており、昭和六二年始めころまでに、甲に愚痴をこぼしたのも、そのような心理からであって、甲との三人暮らしを受け入れたつもりはなかったし、甲方居室で暮らすようになっても、これを出て他のアパートなどでDと二人だけの暮らしを営みたいとの思いを抱き続けていたが、Dにこれを言っても反対され、「甲さんを信じろ。」と言われかねないと思われたため、控えていたに過ぎない(<書証番号略>)。このような乙であったから、二一日の「塩揉み」の段階から既に「苦しいのと悲しいのと混じったような(<丁数略>)」感じで泣き始め、これが二二日も続いており、殺意を形成するまでの過程でも、Dの甲を信じるようにとの言動や、甲の乙に対する液出しを督励するような言葉に応じ加虐行為を継続、拡大するうち、無残で非力な状態になったDを見て、乙自身、遂に、「こんなにまで甲の言うがままに、されるがままになってしまい、このままでは夫はこれから先、作曲活動もできないだろうし立直れない。いっそのこと殺した方が夫のためだ。(<丁数略>)」という心理を形成するに至ったが、一方では「悪いことをしている、嫌だ、という気持はあったが、それは表に出さず、言われるとおり行動すればいいんだと自分に言い聞かせた。(<丁数略>)」などという心理的葛藤を経ていたと認められる。このことに加えて、甲がDの咽喉部付近に左手を置き、順手で掴むなどしていた際は、Dに対する情からその顔はよくは見られず、その胸や腹だけを見て様々に思いを巡らしており、甲が左手を咽喉部から下顎直下に移し、渾身の力を込めて絞頚し始めてからは、これとは逆に、ほぼずっとDの顔を見つめ、その変化を克明に記憶していたこと、更に、殺害直後の乙の心理状況や挙動には、通常の殺人事件における殺害直後の状況と類似のものが認められること、これらの諸事情と、前記のような乙の性格傾向を考慮すると、乙による本件殺害行為については、「悪魔」の観念を入れなくとも十分理解できると言うべきである。

なお、乙の公判供述中(<丁数略>)には、殺意を抱く直前直後の心理状況に関する供述調書中の供述は、取調官の話に合わせ、あるいは、警察で供述した内容に符合するよう検察官の面前でも供述したに過ぎず、乙には、真実は、Dを殺す、あるいは、殺したとの感覚や気持、あるいは実感がないとの部分がある。しかしながら、前示のとおり、捜査段階における供述及びこれに関する公判段階の供述を検討すると、却って、乙が犯行時自己の行為の意味合いを認識していたことが看取されるほか、「塩揉み」の段階以降複雑な感情から泣き続けるなどの反応を示していたと供述し、一方、殺害直後は、呆然とし、その後しばらく泣いていた事実も認められる(<書証番号略>)のであって、これらの事情と明らかに矛盾する右公判供述は、信用することができない。

7 死体損壊中の状況等

前示のとおりの、殺害直後及び死体損壊中の両被告人の言動、甲方室内の畳、衣類及び身体の汚損に対する感覚、並びに、室内の異臭に対する対処状況、死体損壊により生じた物及び生活ゴミ等の処理状況、買物時の乙の配慮、死体解剖に対する乙の関心等の諸事情を総合考慮すると、本件死体損壊中の両被告人の心理としては、Dに対する憤懣と加虐的心理(主として甲)、罪証隠滅の意識(同)これらの感情と犯行に至るまでの経緯等に起因する絶望感と自暴自棄的な心理(主として乙)、死体及び死体損壊に対する解剖学的関心(同)、甲に対する恐怖感(同)と死体に対する恐怖心と罪悪感、犯行に至るまでの経緯や殺害行為及び死体損壊を共同で遂行することに伴って生じたと推測される緊密な感情等、それ自体としては矛盾する場合もあるえるような種々の心理、感情が交錯する中で、その時々に優勢なものに従って死体損壊を遂行し、生活し続けたと認められる。もっとも、このような判断の下でも、罪証隠滅等の観点については、死体損壊の態様が異様に、手際よく、かつ、徹底しており、しかも逃走の気配が認められなかったこと、また、通常の神経であれば、ここまでの死体損壊行為には及び得なかったであろうと考えられることなどの点は、疑問がない訳ではない。しかし、乙が元看護婦で解剖学的な知識と関心をもっていたこと、前示のとおりの、被告人らそれぞれ性格傾向、単に罪証隠滅や逃走のみを企図していたものではなく、それぞれの感情の下で共同作業に没頭していたと推認されること、また物理的な罪証隠滅工作としては、流出させ得るものは流出させ、かつ、二四、二五日の両日、訪問者に対し、可能であれば、居留守を使ってやり過ごす意思を有しており、殊に甲は、逮捕当初から精神異常を装ってそれなりに周到な策をめぐらせるなど、可能な限度では罪証隠滅工作に及んでいること、一方、死体損壊の徹底さやその間の生活状況も、甲が早い段階でDの顔面、頭部の皮肉及び眼球等を取り除いて抵抗感を最小限度にし、生活方法としても、マスクを使用し続け、肉片や血痕の付着した物品等は血液等の体液が染み出ることを防止し、かつ、臭気も防ぐため、ビニール袋を数枚重ねるなどしている上、就寝する際は死体を厳重に緊縛してシーツでくるみ、着衣のまま二人寄り添って眠るなど、それなりの努力工夫は重ねていたと認められるのであって、その間の両被告人の心理は、それなりに了解可能である。

8 悪魔祓い後を考えていない言動

悪魔祓いであれば、その対象から悪魔を祓えば、これが正常に戻るということが想定されている筈であるが、両被告人の損壊中の行動からは、Dを正常に戻そうという努力の跡は全く認められず、もはや、Dを捨て去って顧みることはなかった事実しか認めることができない。すなわち、

(一) 前示のとおり、両被告人は、二二日中、及び、二四日、乙が「神棚を作ろう。」と言い、乙が神示教会で定められている供物等を並べた際、それぞれ神に祈った事実が認められるところ、二二日、甲が「神の曲云々」と発言した際の乙の、「自分では、今まで甲の言葉を神様の言葉として信じてやってきた。これでよかったのですね。」という祈りは懺悔というべきであり、解体作業終了後の甲の祈りは、死体を如何に片付ければよいかというもの、二四日の両被告人の祈りは、ともに、Dの供養、すなわち、同人が使者であることを前提とし、その死後の幸福を祈るものであった。

(二) また、前示のとおり、甲方居室内には夥しい数のゴミ袋が遺留されていたところ、その中には、神示教会の経典のひとつで、その表紙扉の裏頁には、「大山命」の姿が印刷されている「大山命神示直伝聖書第一八一号」、「お守り札」、割り箸二本を十字架様に組んだもの(「エクソシストⅠ、Ⅱ」において「十字架」は悪魔と戦う重要な武器とされている。)、乙のメモ(乙が昭和六一年一二月六、七日ころ、占い師に謝金を払って占ってもらったD及び乙の昭和六三年から六五年にかけて運勢などを記載)が捨てられており、両被告人が、死体損壊の過程において、これらのものはもはや不用と判断していた、すなわち、大山命、キリスト及び他の神も捨て、更に、乙においては、Dとの婚姻生活の望みをも捨て去っていたことを雄弁に物語るものと推測される。

9 小結

以上のとおり、両被告人(殊に甲)の犯行時及び犯行後の言動は、「悪魔祓い」を志したというその供述内容に照らして、不自然であること、宗教的な観念に支配されて本件各犯行を遂行していたというにしては、逮捕直後の甲方居室には宗教性が稀薄であること、悪魔に関する甲の供述に照らしてみても、甲が「悪魔祓い」の観念に支配されていたとは認められないこと、本件殺人の犯行に至る直接の契機となったと認められる「塩揉み」の開始とその本格化ないし殺害に至った動機としては、「悪魔祓い」の観念では、説明が付かず、前示のとおり、それまでのDの態度に対する甲の蓄積した憤懣、強い苛立ちの念から塩揉み等を開始し、これに対するDの言動等から、これを拡大、継続するうち、前示の経緯で、加虐的な心理が著しく募り、右の苛立ち等の念を一気に払拭したいという強い衝動にかられるまま殺害の所為に及んだものとして理解するのが、その供述内容に照らしても適切であり、甲の性格傾向に徴して、十分了解可能であること、乙の心理状況として「悪魔祓い」の観念を真実有していたか疑問であり、乙の「塩揉み」への加担の仕方から殺害に及ぶまでの間における、Dの態度を含む種々の状況からすると、乙に「悪魔祓い」の観念が全くなかったとは言えないまでも、これが決定的な動機とは考え難く、死体損壊においてもほぼ同様と認められること、このような諸事情からすると、「悪魔」、「悪魔が憑いた」、「悪魔祓い」などの言辞は、甲がDや乙をして自己の意に従わせる等のため頻繁に口にしていただけであって、そのような観念ないし感情に、両被告人とも(乙が多少これにとらわれていたことはあるにしても)、支配されるまでには至っていなかったと認めるのが相当である。

一三  Dと両被告人三名間の人間関係

前示の諸事実関係、両被告人及びDの性格等を総合すると、右三名それぞれの思惑・心情等には、次のとおり、相当の差異が存在したと認められる。

1 Dにとり、自尊心の満足という観点等からは「神の曲を作れる人間だ」などと言われ、特別な待遇を受けることは心地良かったが、実際にそのような曲を作れるか、C方を出て自活できるかについては自信がなく、相当の逡巡があった。C方を出るなどと言ったものの、具体的な算段があってのことではなく、あくまでも、甲に同調したに過ぎなかった。一方、甲に神が降りたという観念については、主として自分の「神の曲」が作れることの裏付けとしてはこれを信じる気持ちがあり、その限度で、これを否定するかのような態度を示す乙に対し、これを信じるように促す態度を取ったが、全面的にこれを信じていたわけではなかった。

2 乙は、Cらと別居し、Dと二人だけの婚姻生活を営みたいという希望があり、時に、Dを非難あるいは罵倒することはあっても、それは、同人の優柔不断な性格や、乙の希望する婚姻生活を営むために必要・適切な手段を講じようとしないこと等への苛立ちからそうしたまでで、特段、甲を好むというような心情にはなかった。そこで、三人で暮すということも含め、Dが、甲の言うことに殆ど無条件に従うことには反発する気持ちが強かったが、Dの弱音、あるいは、先にした決意を翻すかのような言動には苛立ちを覚えていた。また、甲に神が降りたという点も、時に、自分の弱点を甲から指摘された場合などには、あるいは、そうかもしれないと思うこともあったが、殆ど信じてはいなかった。しかし、Dをもっと男らしい人間に鍛えるという限度では、甲の言動に従う気持ちもあった。

3 甲は、乙から生活の不満やDに対する苛立ちの気持ちを打ち明けられ、乙のC方からの転居・別居の希望については、それなりに協力する意思を持ったが、自らも独り暮しの寂しさから逃れたいとの気持をもっており、これを満足させないまま、自己犠牲的にD夫婦を援助してやろうというところまでの気持はなかった。三人で暮すという提案は、そのような乙と甲の希望を共にかなえるものと考えたが、予想に反して乙はこれに反発した。

4 このように、両被告人は、一月上旬ころから、甲が、度々C方を訪れ、L2から聞いたことやDの作曲能力に対する過大な言葉などを交えて口にし、乙が、甲の右のような言葉に頷くなどの方法により、Dに対する強力な説得を重ねるなどしたため、Dも、二月中旬ころには、半信半疑ながら、心理的にかなり説得された状況となっていた。そして右三名は次第にまとまり、同月一六日からは甲方居室で、特別な目的を掲げて小集団にまとまっていたかのような外観を呈していたものの、それは、概ね対外的な関係で三名の心理等が一致した場合にそう見えたにとどまり、内部的には、「神の曲」作曲等という共通の目的に対する思い入れにもかなり差異があった上、これも次第に変化し、また、それぞれに対する感情等もその時々の種々の状況に応じ様々に変遷していたと見られる。

(一) すなわち、一五日早朝、両被告人がDの後方から「『神の曲』を書け」と急がした状況や一七日夜Oらが来た際、動揺するDの耳元で乙が、「話を聞いては駄目」と囁くなどした状況、更に、二二日殺害の直前に、立ち上がりかけたDを両被告人が強く押さえ付けた状況は、両被告人がDに対する関係で共通の心情を抱いていたことを推測させる。しかし、他方、一七日夜の入浴後、Dの甲に対する従順さ等に嫉妬する乙に対し、Dがその頬を叩いて、甲をまねるかのような言葉を吐いた状況、あるいは、Dが度々乙に対し、甲を信じるように言った状況等からは、乙に対する関係でDが甲寄りの姿勢を取ることもあったことが窺われる。他方、一五日午後、乙がI4らとその後の日常生活に必要な物品を購入に行ったこと、一九日未明にC方に戻った際に肉体関係をもったこと、また、二一日午後、乙がDの治療に必要な物品等を購入に行ったこと、及び、二二日朝食時の状況等は、甲を度外視したD夫婦(殊に乙)の行動と判断される。

以上のとおり、外部から右三名の行動を否定・妨害する働きかけに対しては、甲をあたかも神示教会のいわゆる「使者」とするかのような形で相当強靱そうに見えた右三名間の紐帯も、かなり脆弱なものであって、その間には葛藤も生じていたと見るのが相当である。

一四  甲の現在の精神状態について

甲の状態として、当公判廷で、鈴木鑑定書及び中田鑑定書にいわゆる「ジストニー様動作」、「開口動作」、「ひとりでの発語」等と目される状況の存したこと、また、「喀出行為」、「健忘」等と目される状況の存することは各回公判調書及び右調書中の甲の供述部分からも明らかであるが、当公判廷における状況及び各鑑定書の記載を検討し、これを関係各証拠から認められる諸事実と対比して検討すると、被告人の示す諸症状は、次のとおり、意図的に行われた詐病と認められる。

1 「ひとりでの発語」等について

(一) 当公判廷における「ひとりでの発語」等の状態について

各回公判調書によると、当公判廷において生じた「ひとりでの発語」及びそれに類した行為としては、第一三回公判期日における、証人中田修に対する「馬鹿」との二回の罵声、並びに、第二三回公判期日における、「音がするとひとりでに見てしまう」行為及び「おかしくないが笑っちゃう」行為だけである。

そして、中田鑑定書(甲分)の記載から窺われる鑑定中の面接状況、及び、該公判調書から認められる右罵声発現の状況等を勘案すれば、第一三回公判期日における罵声は、いずれも、甲の同証人及びその証言内容に対する反感に基づいて出たと推測され(同証人もこれを肯定する。)、甲がそのような所為に及んだ点は了解可能であること、第二三回公判期日における「音がするとひとりでに見てしまう」行為は、該公判調書からも認められる右公判期日における公判廷の扉開閉状況とこれに対する甲の反応からは、音がしても見ないことの方が多く、「ひとりでに見てしまう」状況にはなかったと認められ、「おかしくないが笑っちゃう」行為は、該公判調書から認められる質問内容及び甲の供述内容からすると、それ自体甲にとっては笑いの出てしまうものてあったと推測され、その笑いの発生も十分了解可能であることなどが認められる。

(二) 各鑑定中に生じた「ひとりでの発語」等について

各鑑定中に生じた「ひとりでの発語」及びこれに類した行為としては、鈴木鑑定の第四回面接(同六三年四月五日)中、「突然『オニ』と発語したもの」(鈴木鑑定書二九頁)及び同日「唐突に『笑った』」もの(同三〇頁)、並びに、中田鑑定〔甲分〕中、第二回面接(平成元年二月二三日)で、「突然『いいよ』と発語した」もの(中田鑑定書〔甲分〕八七頁)だけである(鈴木鑑定人は、このほか、「立って呼鈴を押す」ことも存したかのように判断している〔鈴木鑑定書三八頁〕が、同鑑定書二五頁からも明らかなように、これは、同鑑定人が実見したものではなく、甲が陳述しているだけであり、右陳述だけから存在したと認められるか疑問であろう。なお、中田鑑定書〔甲分一一一頁〕中には、「興味があるのは、『ひとりでに手が動く』、『ひとりでに喋る』、『突然頭に来る』、『突然泣く』といった訴えである。鑑定人が面接を繰り返していて、ひとりでに立ったり手を動かしたりするのを見たことがない。」との記載がある。)。

まず、鈴木鑑定中の「オニ」の発言であるが、鈴木鑑定書二九頁によると、「オニ」という言葉が発生した前後の問答は、次のとおりである(「」内は甲の答え)。Bは「おふくろ」、乙は知ってる「知らない。裁判官も同じこと訊いていたな。裁判官はもっとあっさりしていたよ」、Dは「知らない。」、乙とDの関係は「知らない」、お兄さんいますね「G」、何してる「不動産屋ですね」、バンドみたいのやってた「やってたね」、Kさんというのは、「知らない」、I4さんは「知らないですよ」、マネージャーいたでしょ「知らないです」、Pさん「知らない(ツバを出す)先生、警察みたいに訊くね」、全部忘れた「そうですね」、母方の祖父「憶えてない」、知っていたけど忘れた「……」(無言)。Bさんという人は全て知らない「Bは知っている」、お母さんの兄弟は「……オニ(大声で)。アッすいません。突然出ちゃうんです。しつこく聞くんで出ちゃったりするんで……」

この状況からすると、「オニ」という発言に至るまでの同鑑定人の質問は、甲には、「警察みたい」と思われるほど執拗と受け取られ、かつ、「オニ」発言後の甲の釈明のとおり、「しつこく聞くんで」、たまりかねて同鑑定人を非難したとも解され、あるいは前示のとおり、昭和五四年ころ、甲母子が詐欺罪で勾留中、「お母さんの兄弟」であるCはその保釈保証金を出さなかったが、これを甲が根に持って、その不快の感情が思わず出たとも解される。なお、中田証言(甲分)中には、「オニ」が甲の意志と関係していることを認める旨の部分が存し(<丁数略>)、鈴木証人も、CがBらの保釈保証金を出さなかった点を全く考慮しなかったこと、右のような事情を考慮すると、甲がCに対し、鬼のような人だというよう気持を抱いており、それが「オニ」という言葉に現われた可能性も十分あることを認めた(20回鈴木供述<丁数略>)。

次に、鈴木鑑定中の「唐突の笑い」であるが、鈴木鑑定書三〇頁によると、「唐突に」笑いの生じた前後の状況は、次のとおりである(「」内は甲の答え)。血を見てどう「いやです。血を見ると貧血をおこすんですから(唐突に笑う)自然に出ちゃうんですね。バクレんじゃねぇって言われるんです。」しかし、前示のとおり、甲は、文字通り血まみれになりながら、Dの死体を四日間にわたり解体し尽くしたものであって、そのような行状には全く不似合いな発言をしたことから思わず笑いが出たということも推測され、これからすると、真実、「唐突」と言いうるか疑問である。

更に、中田鑑定中の「いいよ」という発語についてであるが、同鑑定書(甲分)八五頁ないし八八頁によると、「いいよ」との発語が認められた前後の状況は、次のとおりである(「」は甲の答え)。前に身体が眠っていて、動けないようになったことがあるのか「……ああ、ちょいちょい」、眠りしなか、眠りついたときか「……いや、いや、動けない」、金縛りのようで、目が仲々覚めず、身体が動けない「……あります」、昔あったんでしょう「……昔?向う(横浜拘置支所)にいたときあった」(被告人は横浜拘置支所に入所後のことは少し覚えているとし、それ以前のことは全健忘を訴えていて、ここで昔というのに非常にこだわる。)横浜拘置支所で「……ええ。うんと怒られた」、朝か「……ええ、起きようとして起きられない。口も利けなかった。突っ張ったようになった。昼頃起きた。先生が来て、しばらくおとなしくしていろと言った。突然昼頃手がしびれてひどかった」、いつ頃か「……わからない」、社会にいたときは「……よく覚えていないんです」、今いる房は「……二二房」、四舎一階でしょう「……二舎一階」(後で看守に聞くと、二舎一階という。)昨日、生年月日を教えたね「……」(急に頭を後に反らす)。昨日、生年月日を教えたね「……何かひつこく言っていたね」、覚えたかね「……」、昭和何年何月何日か「……覚えてねぇや」、もう一回言うから、昭和二二年三月三一日ね「……」、前に逮捕された後、湘南第一病院に行ったのを知っているか「……」(咳をし鼻汁をかむ)家ではお母さんがお稲荷さん祀っていたね「……」(「いいよ」という言葉を急に発する。「先生、突然、言葉が出るんです」という)。Eさんを知っているか。宗教をやっている人「……」(首を後に反らし、後弓反張の発作をし、椅子から落ちそうになる。この日の二回目の大きな発作であるが、痙攣はなく意識喪失はない。わざとらしい発作。)」そして、中田証人は、「母のことをいろいろ聞こうとしていたので、当然乗って来ると思ったが、こういう言葉が出たので非常に唐突だと思った。」旨証言した(中田証言〔甲分〕<丁数略>)。

ところで、前示のとおり、同女は甲が小さかったころから稲荷の熱心な信者であったことのほか、<書証番号略>中には、同五四年一〇月ころ、物凄い台風があり、同女方の稲荷の祠に大きな杉の木が倒れかかった、そこでこれを切るために枝を落としたところ、同女、G、Qの三人がものの二分とその場を離れたか離れない内に、該杉の木が真っ直ぐ元に戻っていた、それを見て三人とも唖然としたことがあったとの供述があり、関係各証拠から認められる同女らの人柄からすると、このような現象が同居していた甲にも伝えられていた可能性も強かったと推測されること、このような諸点を考慮すると、中田鑑定人から稲荷のことを問われた甲が、「稲荷はいい神様だよ」などという趣旨で、「いいよ」と答えたというのもごく自然なことと考えられる。

このような諸事情を考慮すると、甲が「ひとりでに」(意志を伴わずに、意欲しないで)、と称する行動の裏には、いずれも甲の意志の存在を認め得ると言わなければならない。

2 「健忘」について

(一) 当公判廷における「健忘」の状態について

第二三回公判期日において、甲は、検察官の質問に対し、ごくごく身近な関係者についてまで記憶がない旨供述し、第三〇回および第三一回公判期日においても同様の供述をしたが、第二三回公判期日の供述状況は、「おかしくないが笑っちゃう」と言いつつ、しばしば笑いを見せながら供述しており、甲が真実記憶がないのか疑問である。

(二) 各鑑定中の「健忘」について

中田鑑定書(甲分。一〇八ないし一一〇頁)では、甲の健忘につき「被告人は、現在、生年月日も知らず、自らの姓は知っているが、学歴、職業歴、犯罪歴、本件犯行、知人、友人全て一切を覚えていないという。ただ知っているのは母の姓名と住所、弁護士三島氏の姓名と住所、兄の姓名だけである。母や弁護人の住所を知っているのは、連絡して差入れなどしてもらう必要があるからである。実に都合のいい健忘である。それから、逮捕されて横浜拘置支所に入所してからのことは、けいれんで倒れたとか、点呼のとき声が出なかったなどという自らの症状(病訴)と関係して少し覚えている。病訴は被告人にとって重大な関心らしい。従って、健忘も意図・目的と関連がある。この健忘で特徴的なことは健忘をまったく苦にしていないこと、記憶を取り戻そうと努力しないことである。本当に健忘がこれほどあれば、当惑し、なんとか健忘から逃れようと努力するのが当然であるのに、そういう様子は微塵もない……健忘に逃避し、健忘を砦としている。……鑑定人が生年月日を教えても覚えようとしない。……これだけの健忘があっても日常生活にそう支障はない。問診からすると、現在の居場所、日時などの見当識はあり、弁護士に面会して必要な物の差し入れを頼み、充分の所持金を持ち、身の回りはきちんとし、精神異常には全く見えない。何回面接しても思考はまとまり、自らが記憶していないとする健忘の範囲は絶対に守りボロを出さない。そこには侵されない知性が、あるいは注意力が持続的に存在していることが分かる。もちろん、いい加減な応答、的はずれ応答はあるが、思考は本質的に崩れてはいない。」と指摘されている。また鈴木鑑定人は「健忘」について疑いを差し挾んでいないが、第三回目の面接(同六三年四月二二)時に次の問答があった旨記載している(鈴木鑑定書二八頁)。お母さんに会いたくない「会いたくない。なんで拘置所に入ったか分からないですもの。弁護士は病気だって言うんだけど……」病気じゃ拘置所に入らないね(ニヤニヤ笑いながら)「弁護士は無罪だって言ってましたよ」、何が「よく分かんないけど。」。右応答内容からすると、甲は鈴木鑑定中も本件犯行を記憶し、かつ、これを前提とした弁護士の話をよく理解していたと推測される。

これらの諸事情を総合すると、甲の「健忘」は、病的なものではなく、本質的に崩れていない思考に基づいた意図的に対応と判断するのが相当である。

3 「ジストニー様動作」、「開口動作」及び「喀出行為」について

(一) 当公判廷における「ジストニー様動作」等

各回の公判調書によると、当公判廷では、第一三ないし一七回公判期日までの間、「ジストニー様動作」か「開口動作」いずれか判然としない(換言すれば、右各動作が混然となった)動作がそれぞれ数回認められたが、その後は全く認められないようになり、「喀出行為」は、第一三回公判期日以降、ほぼ全期日を通じて認められた。しかし、当公判廷の被告人席の形状(背もたれ付きの長椅子)のためか、ジストニー様動作等と目されるものも、「椅子から転倒しそうになる」(中田鑑定書〔甲分〕一〇八頁)ほどのことはなく、開口動作と目されるものも、連続して何回もするということはなく、口を大きく開けて声を出したことが三回程度あったものの、その他は、口を殆ど閉じたまま「ウゥッ」と言う程度であって、「これでもか、これでもかと反復する」(前同頁)ことはなかったと認められ、また、「喀出行為」についても、検察官が証人に「今日は出ないようだが」と尋問するや、やおら、これが出始め、その回数を間違えて尋問するや、右間違いに気付いているかのような挙動を示すなど、相当に意図的なものを窺わせる。

(二) 各鑑定中の「ジストニー様動作」等

一方、中田鑑定書(甲分)によると、甲には、咳をしながら水様の痰を吐いて、それをチリ紙で丁寧に何回となく拭き取る動作、開口動作、首を大きく後に反らしたり、両肩を上げたりすることを繰り返す動作(鈴木鑑定でジストニー様発作と称されている)があったが、いずれも「これらは一見して、不随意的な神経症状ではなく、故意的なものが加わっているのでわざとらしいという印象があり、誇張的・演技的である。そして、鑑定人が注意することによって、著しく減少した。すなわち精神的影響で消長する性質のものである。」と指摘されている(六八頁ないし七〇頁、一〇七頁、一〇八頁)。なお、鈴木鑑定書でも、これらの動作が取り上げられているが、「相当する神経学的所見は認められず」(同鑑定書二〇頁)「精神医学的に言えば、器質的背景のない心因性ジストニーということになろうが、いわゆる衒奇症との関連にも注意しておく必要がある。」(前同三八頁)「幾分演技的な一面も窺われた。」(前同三四頁)などという指摘が存するものの、結論において、これらの点がどう判断されたのか明確にされていない。

4 甲の供述状況の検討

甲の各供述調書等を検討すると、次のとおり、種々の虚偽の供述が認められる。

(一) 入信、予言及び「神の命令」等について

前示のとおり、甲がBとともに神示教会に入信し、予言された、同六〇年九月ころEの救いが顕われた、同六二年二月九日ころ、「神の曲」作曲の命令があったとする甲の供述は、それぞれ容易に信用し難い。

(二) Dが「神の曲作曲」を首唱したとの供述

甲の供述中には(1)二月初めころ、「作曲家としてやっていく」ことをDから聞いた旨(<書証番号略>)、(2)二月一六日、甲方居室に到着した際、Dが「兄貴雰囲気を良くするために白い布を張ってくれ、部屋の中を白くしてくれ」と頼んだ旨(<書証番号略>)、Dが「白、全部白にしろ、服も白にしろ。」と言った旨(<書証番号略>)、Dは(一八日夜)帰る時に「白い布は剥がしておいてくれ」と言ったので、私はD夫婦が帰って行ったあと、壁や窓にかけてあったシーツなどを外した旨(<書証番号略>)、Dが「家の中を白くしてくれ」と言った旨(<書証番号略>)、(3)、Dを殺したのは、Dが悪魔を祓ってくれと言ったので、悪魔を祓ってやるために殺した旨(<書証番号略>)など「Dから言われた」旨の部分が頻出する。

しかし、前示のとおり、二月初めころは、Dは未だドラマーの道を断念すべきか迷っている時期であり、二月一〇日の同人のそれなりの決意も、甲の強力な説得等に基づきようやくなされたというのが真実と認められる。また、二月一六日、甲方居室に到着した後、「神の色は白だ。」あるいは「悪魔が入り込まないよう」と言ったのは、甲であることが、乙の供述(<書証番号略>)からも明らかであり、また<書証番号略>中の「(二月二三日、死体を片付け終わった後、部屋内を封印することにして)白色の布団カバーを入口ガラス戸、押入の前に貼り四方を白く囲んだ。……この二か所以外は二月一七日までに貼った。」旨の供述部分(この点は、<書証番号略>も同旨。)からしても、一八日夜Dが帰った後、甲が壁や窓にかけてあったシーツなどを外した旨の供述が虚偽であることは明らかである。更に、「Dが悪魔を祓ってくれと言った」との点も<書証番号略>中には、甲が、二月二〇日、甲方居室に帰って来たDの風貌と言動から悪魔が完全に同人の身体に入り込んだと確信したので、エクソシストの場面を思い出して「ここから悪魔祓いをしようと映画のストーリーのようなことをDに対してやった。」との供述が存し、これからすると、悪魔祓いの話を持ち出したのは甲であることが明らかと言わなければならない。

(三) 神棚作りについて

警察官調書では、二月一六日甲方居室に到着後の環境作りとして、「電気炬燵も太陽の光を想像させるため、裏返しにして赤外線のオレンジの光が出る様にした」旨(<書証番号略>)、「南側の窓のところに机を置き、カップヌードルの空容器を逆さにして三個置き、その前側に皿二枚置いて各々の皿に清めの塩、水を置いて神棚の様な感じを持たせ雰囲気作りをした」旨(<書証番号略>)の供述があり、二月一九日未明、DらがC方へ帰った後の状況としては、神棚に類する供述は存せず(<書証番号略>)、二月二四日の神棚作りについて、「買物から乙が帰って来てから私と乙は神棚を作った……Dを殺した後、神にDを供養してもらうためあらためて神棚を作った。」旨の供述部分(<書証番号略>)が存する。

一方、検察官調書では、二月一六日の環境作りの状況から神棚作りの供述が消え(<書証番号略>)、同月一九日未明にDらがC方に帰った後の状況として、「何となく気がもやもやし、孤独な感じがしたので、……炬燵テーブルの上にカップラーメンのカラを逆さに三つ置き、塩と水を供えて自分なりの神殿を作った。」旨(<書証番号略>)との供述となり、「二一日午後一時過ぎ、乙がアパートに帰って来た。そして、炬燵のテーブルの上に乙が洗い米と塩と水を供え、神殿を作った」(<書証番号略>)旨の部分も存するが、二四日の神棚作りの供述はない(<書証番号略>)。

しかし、前示のとおり、炬燵を裏返して置いたのは、二月二四日のことと認められ、二月一六日の段階では、神棚を作った形跡は窺われないことからすると、同日の段階での神棚作りの供述は信用できず、また、31回乙供述中には、二四日ころより前に、悪魔祓いのため燭を立てたり塩を盛ったことはなかったとの部分が存し(<丁数略>)、一方、乙の供述調書中には、二一日に甲方居室に赴いた際、神棚を作った旨の供述は存しない(<書証番号略>)ことからしても、甲3・16検面中「二一日に乙が神棚を作った」旨の供述は、その後に続く、「そして、Dの背中にマッサージや指圧の治療を始めた(<丁数略>)」旨の供述を真実らしく見せかけるためのものであって、虚偽と断じて差支えないと認められる。

(四) その他

以上のほか、甲は、前示のとおり、二一日の「塩揉み」は乙とともに始めたが、初めは塩を用いなかった、その開始にあたり、乙が神棚を作り、三人で入浴した旨(<書証番号略>)、「両手の人差し指と中指をそろえて押し付けたり、親指で押し付けたりする指圧マッサージをしていた(<丁数略>)」だけであって、やはり、塩は用いていなかった旨(<書証番号略>)、虚偽の供述を繰り返している。

また、前示のとおり、甲の取調べへの対応状況を見ると、取調官をして詐病の疑いを抱くのも当然と思われる不自然な態度変化をしたことも認められる。

(五) 甲には神憑り的供述をした殺人犯人の事例の知識があったこと

<書証番号略>によると、甲は、いわゆる「相沢事件」の犯人相沢中佐が取調べで「伊勢の大神が相沢の身体を一時借りて、天誅を下し給うた」などと供述した事実を扱った本「落日の序章(昭和陸軍史)」を持っており、一方、前示のとおり、甲は、「僕は右翼が好きで本を読んでいるんです。」と言ってL2に対し二・二六事件のことを尋ね、まともに答えられない同人に、右事件関係の書物を読むことを勧めて、数冊貸したりしているから、右事例もよく知っていたのではないかと推測される。

(六) 小結

以上のとおり、甲の公判段階での異様な言動等は、ほぼ全部が意図的なものと認められること、また、甲は、前示のように捜査段階から、既に自己の刑責を軽くしようとする虚偽の供述をしていることに照らすと、その当時から既にそのような利害得失を冷静に予測判断する能力を維持し、これを働かせていたと認められる上、その供述状況には取調官が直ちに疑問を抱くようなものも存し、過去の殺人犯人が神憑り的供述をした事例もよく知っていたと推測されること等の諸事情を総合すると、甲の現在の様々の状況は詐病と判断して差支えないと認められる。

第三  甲の責任能力に関する判断

甲の犯行当時の精神状態に関しては、1鈴木二郎作成の鑑定書(<丁数略>)、20回鈴木供述(<丁数略>・以下、これらを併せて「鈴木鑑定」といい、各別には前者を「鈴木鑑定書」、後者を「鈴木証言」という。)、2中田修作成の鑑定書(<丁数略>)及び13回中田供述(<丁数略>・以下、これらを併せて「中田鑑定〔甲分〕」といい、各別には前者を「中田鑑定書〔甲分〕」、後者を「中田証言〔甲分〕という。)、3福島章作成の鑑定書(<丁数略>)、同人作成の「甲被告人についての鑑定意見書」(<丁数略>)及び「中田鑑定についての意見書(被告人甲)」(<丁数略>)と題する各書面、証人福島章の当公判廷における供述(<丁数略>・以下、これらを併せて「福島鑑定〔甲分〕」といい、順次「福島鑑定書〔甲分〕」、「福島意見書〔鈴木鑑定分〕」、「福島意見書〔中田鑑定・甲分〕」、「福島証言」という。)が存する。

そして、甲の犯行当時の精神状態につき、鈴木鑑定は、甲の脳波等から側頭葉てんかんを否定し、その既往歴等から精神分裂病の状態にあったとし、中田鑑定(甲分)は甲に対する面接の結果等から精神分裂病を否定し、また、脳波検査の結果から側頭葉てんかんをも否定して、三人精神病の心因反応の状態にあったとし、福島鑑定(甲分)は右中田鑑定と同様に精神分裂病を否定し、また、両被告人及びDら三人の人間関係等から三人精神病も否定して、側頭葉てんかんの状態の下、悪魔祓いの宗教的支配観念にとらわれていたに過ぎないとして、三鑑定は鼎立する状態にある(なお、鈴木鑑定は、甲の訴訟能力を判断するための鑑定命令に対し、「もし犯行時の精神状態によって甲が免責とされれば、本鑑定中訴訟能力云々の論議は現実的に意味を持たなくなる」として、犯行時の精神状態についての判断を「追記」の形で示している。)。

そこで、以下に順次検討を加える。

一  鈴木鑑定の概要

鈴木鑑定によると、本件犯行は、それ以前から精神分裂病に罹患していた甲が、同六一年一〇月ころから神の声幻聴を体験し、神憑り的妄想着想に至り、以後かねて神示教会に入信していたDらに接近し、逆に影響されて宗教的、神憑り的妄想を発展させ、この妄想に基づいて、妄想内容実現のため、幻覚妄想状態の下で悪魔祓いとして殺人を実行したものであり、従って、この犯行時には、道徳的に理非善悪を弁別し、自らの行為を人倫に照して冷静に判断できる自我の能力が障害されていたと結論する(鈴木鑑定書六九ないし七〇頁。)。そして、その概要は次のとおりである(以下、本項及び次項の括弧内の頁数は鈴木鑑定書の頁数である。)。

1 精神分裂病について

精神分裂病とは、「人格の基本的障害と特徴的な思考の歪曲とを伴い、また、しばしば外的な力によって統制されている感じ、奇異な妄想、知覚障害、現実の状況に対応しない異常な感情、自閉(症)などを伴う一群の精神病(国際疾病分類〔ICD―9〕)」をいう(四二頁)。精神医学における診断は、現在における精神症状及び身体症状、つまり横断面である現在の状態像と、異常症状の発端以来の長期経過、すなわち、縦断的病像変遷を総合して行うものであるところ、甲には、精神分裂病との診断に至る次のような精神身体的病像の変遷と現在症が認められる。

(一) 縦断的考察―精神身体的病像の変遷

(1) 周産期 周産期の異常として、七か月の未熟児で生下時体重が六〇〇匁であり、仮死状態を何度か経験しているという。その後の成長発達にさしたる異常は気付かれていないが、思春期以後の精神身体両面の脆弱性、過敏性と全く無関係とは言い切れない。また容易に心因性の反応を来しやすい素質を形成したとも考えられる。

(2) 思春期から同五四年まで(発病―心気症期) 自己の身体を過度に心配する心気症状と、他と接触せず無為に過ごす自閉的、意欲低下症状が三、四年間あったと見られる。

(3) 同五四年から同六一年一〇月まで(心気症―幻覚期) 同五四年、詐欺事件で勾留、有罪判決を受けたことを契機として、一転異常な状態が始まる。「身体がガタガタになった。」という強度の心気症状、母親から見て人格が変ったといい、常時不機嫌で突飛な行動があり、全く無為の生活を送っている。三六歳時(同五八年)には、二度程心因(その内容は明らかでない)による過換気症候群の発作を経験し、そのころ、夜間の入眠時体感幻覚(亡霊が出てきて自分の上にのしかかり体をいじくって行く・B供述)や幻聴(南無妙法蓮華経という声が聞こえる。前同)を訴え、これを防ぐために奇妙な睡眠儀式を始めた。三九歳時(同六一年)ころ、実態的意識性(誰かがきている、自分の後に誰かいる・前同)、注察妄想(しょっちゅう自分のことを見ている・前同)などを訴え、同時に殆ど仕事せず、意欲鈍麻、無為の生活を送っている。ここで、既に精神分裂病の病像を表している(鈴木鑑定書四四、四五頁)。

(4) 同六一年一〇月から犯行をはさんで翌年三月まで(宗教神秘的妄想期)同年一〇月Eの声が聞こえるという現象が始まる。Eの声を聴き(幻聴)姿を見(情景幻視)、更に予言的中という妄想着想が、こうした神秘的異常体験の全体を覆い、以後の甲の行動の発端となった。甲は、この声に動かされて殆ど没交渉だったDに会うに至る。この段階で甲の病的体験に宗教的神秘体験が加わり修飾したと考えられる。甲自身不思議がるこの幻聴が、演奏活動に行き詰まっていたD達のグループに歓迎され、その主催者であるD夫婦の神示教会信仰の昂揚した宗教的雰囲気の中にあり、演奏活動の中止、再開と宗教的啓示待望の熱気が渦巻いていたことによったといえる。甲もDらに接触して、これまた強烈な影響を受け、ついに「神が降りた」「神の曲を書けという声がする」という神憑り的内容を取り込んだ宗教的妄想を確信するに至る。同六二年二月に入り、甲の妄想的確信は一段と強固になり、Dグループは自身の「神の曲」待望の昂揚感と相まって、特にDと乙は甲の意思に従って行動するに至る。この時、D夫婦は、甲と同じ妄想を共有していたのではなく、「この人に任せればいいから」という一種の催眠状態に近い状態―D夫婦が甲の強烈な妄想に影響された心因反応性の状態―であり、感応精神病に近い異常である。しかし、厳密には感応精神病と言うことはできない。そして、「Dが作曲できないのは悪魔が体にいるからだ」という甲の妄想に支配されて犯行に及ぶ。殺人行為の道徳的判断は、「神の国対悪魔妄想」(乙の鑑定人への六月二三日供述一一頁)により全く失われていた(四五ないし四七頁)。

(5) 同六二年三月以降現在までの勾留期間(拘禁反応期) こうした精神状態像は、逮捕後の取調べ中の意識消失発作以後一変した。甲は、取調べ中に自己の犯行を述べているとき、その事の重大さを初めて明確に認識し、驚愕し、そして自分の将来への強烈な不安に襲われたと推測される。この罪責念慮と不安によって、元来不安による過換気症候群を誘発されやすい甲が、ここでも同様の、しかも最も重傷の意識消失を呈する不安発作に陥ったと推定される。三月後半から甲は新しい症状を示し始めた。それは、犯行状況あるいはその前年秋以降の生活、Dらに関する事柄などを記憶していない逆行性ないし部分健忘、言葉を想起できない「換語障害」、声の出ない「失声」、首がひとりでに後屈する「ジストニー様発作」等である。こうした経過は、逮捕後の勾留状況と将来への予期不安とそれに直面する苦痛に対する強烈な心因反応、すなわち、拘禁反応を招来したことは明白である(四八、四九頁)。

(二) 横断的考察―現在症

身体的には、ジストニー様運動が瀕回に見られるが、神経学的基盤のない心因性症状と推測される。器質的に脳に何らかの軽度異常は存すると見られる。精神的には、健忘、出任せ応答等のガンゼル偽痴呆、心因性ジストニーが著しく、その上、表情、態度全般に鈍さ、無遠慮さが目立つ。主観的には、身体に関する多彩な幻覚―幻触、内部体感幻覚、筋感覚幻覚が体験され、更に、顕著な症状は、一種の自動症のような精神運動性幻覚が瀕出し、自我意識障害のあらわれとして注目しなければならない。甲の現在症は明らかな二重構造をなしている。健忘、ガンゼル偽痴呆、ジストニー様運動を主とするヒステリー性心因反応を前景とし、背景に自我意識障害や思考の貧困化、情意鈍麻が存在している。更に、心気症状がそれらすべてにからんでいる。この背景の構造をなしている病像は、精神分裂病によると考察される(五〇頁)。

2 側頭葉てんかんについて(五三頁ないし五九頁)

てんかんの診断は、臨床的な発作と脳波上の突発性の放電の両者が確認されて下されるところ、

(一) 臨床的発作、本例はいわゆる明らかな発作としては、過呼吸発作を少なくとも三回以上起こし、うち一回は脳波記録中に起こしている。さらに意識消失発作を少なくとも一回以上起こし、この時はその直後に注射された状態の脳波記録がある。過呼吸発作は側頭葉てんかんの発作症状に含まれていないが、側頭葉てんかんに合併していると考えることはできる。

(二) 脳波上の突発性の放電 (1)同六二年二月二六日記録からてんかん性の所見を見出すことはできない(福島鑑定書四〇頁二、三行目に『徐波バースト』と記載されている成分はおそらく電極ないしリード線動揺によるアーチファクトといわれる人工雑音で、臨床的意義は持たない。)。(2) 同年四月一〇日記録では、福島鑑定書に述べられている高振幅の徐波群発に関しては、おおむね妥当としても、棘波等に関しては認め難いと思われる。本記録によっても、突発性異常は認め難く、とくにけいれんを伴う過呼吸発作がてんかん性でないことが明らかとなった。

(三) こうして、過去の記録によってもてんかん性の異常発射が見られないことが明確である。また、本例入院後の三回にわたる脳波記録で、何らかの発達遅滞ないしは加齢性の萎縮変化とも考えられる軽度の脳機能異常は考えられる(二三頁)ものの、突発性異常波は認められなかった。発作間欠期の短時間の脳波記録に必ずしも突発性異常波が見られないことはある。しかし、けいれん誘導薬であるメジマイド賦活で、突発性異常波やけいれん出現閾値が通常より高いということは、てんかん性という可能性を全くといってよい位に否定できる。

二  鈴木鑑定の検討

1 「精神身体的病像の変遷」について

(一) 鈴木鑑定書の前記(2)発病―心気症期に関する病像は、中学校卒業後飲食店に住み込み勤務時、鼻出血がひどくなったこと、肋膜炎で辞めたという既往歴から導かれたものである。同鑑定書は、「葉山の母の家の側に内科医院があって、そこで薬をもらってまもなく良くなったと甲は述べている。ただしBは、当時の状態を『かなり精神的に荒れていて、いつも部屋にこもってステレオをがんがんかけていた。』、身体的な病気というより精神的なものだったのではないかと言う。本鑑定時も甲は、身体の事を人一倍心配するたちである由述べているが、この傾向は、東京の料理屋以来のことで、精神医学的には思春期からすでに心気症と、自閉、意欲の低下などの兆候を見出し得る。」(八、九頁)としている。

同鑑定人が、この時期の甲の病像を認定するにあたり基礎としたのは、専ら甲とその母の同鑑定人に対する陳述である。しかし、同鑑定人自ら「Bは、人格面でやや誇大的、自己中心的、顕示的、虚言傾向を示す兆候をそなえ、不出来な息子に対してやや盲目的ともいえる愛情を示す女性であった」(五頁)と判断していたのであるから、Bの陳述内容は慎重に吟味されるべきであり、また甲も刑事被告人という立場にあるので、その陳述についても十分に吟味されるべきであり、前記のとおり、鑑定事項及び時期の制約等から、同鑑定では、甲の高校・中学在学中の学習態度や行動の記録、他の関係者の供述調書、B及び甲の各供述調書の内容等を含めた総合的かつ十分な検討はなされていないと推測され、その鑑定結果の相当性はかなり減殺されると言わざるを得ない。

また、甲と交流のあった者らの各供述調書等から認められる前示甲の、思春期から同五四年ころまでの学校内外における学習・行動状況、空手練習時及び茶道稽古中の状況、稼働状況、甲を取り巻く関係者らとの交流状況などに徴すると、思春期から同五四年ころまでの甲の生活状況として、「他と接触せず、無為に過ごす自閉的、意欲低下症状が三、四年間あった(四四頁)」との認定は、首肯し難いと言わざるを得ない。

(二) 前記(3)心気症―幻覚期に関する病像は、次の既往歴から導かれたものである。同五四年の詐欺事件での勾留生活以後、母にとっては人柄が変ったように映り、甲は身体がガタガタになったと自覚し始める。この事件以後、それまで手伝っていた不動産関係の仕事もせず、心身の不調と、それを理由にした無為の生活に入っていく。母によれば以来、しょっ中不機嫌で、食事をしていてもプイと立ち上がってしまったりするようになった。これについて母は、甲が自分を恨んでいるためだと解釈している(鑑定人への供述)が、甲は鑑定人に「お袋のことを恨んだりしたことはない」といい、現在母の面会を断り続けているのは「理由はどうあれ、拘置所に入っているみじめな自分の姿を見せたくない」からだと述べている。同五八年には、二度ほど「過換気症候群」のため病院で受診している。母によれば、また、この頃より、一七枚も掛け布団を縦、横、縦、横と順次重ねてかけて寝て、部屋を閉め切るという甲の奇妙な睡眠儀式が始まっている。これは当時より夜間の身体の異常体感幻覚、あるいは幻聴と思われる体験があったためで、床に入っていると亡霊が出てきて自分の上にのしかかり、体をいじっていく(入眠時幻覚)と母には言っていた。そのため母は数珠とお札を胸のポケットに入れることを勧めた。年代ははっきりしないが、やはりこの頃「南無妙法蓮華経」という声が聞えると洩らしたことがあり、母も変なことを言うと思った。母の解釈としては、その横須賀の家には確かに妖気が漂っていて、それはもともとその土地が沼だったせいだと思うとのことである。そこで、家を売って、同六〇年五月に母子二人は別居することになり、その後兄が出て行き甲は単身生活をすることになったが、同六一年になると、「誰かが着ている」「自分の後に誰かがいる」「しょっちゅう自分のことを見ている」と言うようになる。これらは、注察妄想、実体的意識性である(一〇頁)。

この時期の病像についても、同鑑定人が判断の基礎としたのは、甲と母の同鑑定人に対する陳述である。ところで、以上の事実関係のうち、甲がその実母を恨みに思っていたか否かについては、前示のとおり、L2及びBの各員面、更に、(員)3.1報添付の書面の一枚目表裏に記載された甲の「おかあさんきようまでそだててくれてありがとうにくんでもうしわけありませんでした かんしやしてます。」との文言等からして、甲が、その当時母を恨みに思っていたことは明白である。にもかかわらず同鑑定人が、甲の面接時の陳述を信用することができるとしている点は首肯し難い。また、甲母子の横須賀からの転居の原因についても、同鑑定書には、Bの陳述のとおり、右土地の妖気のため以外の事由が掲げられていないが、この点も、B2.27員面等関係各証拠からして、同女の商売上の失敗に起因することが明らかである。このような点に照らすと本件記録中の供述調書等に関する同鑑定人の検討も十分とは言えず、鈴木鑑定のこの部分の事実判断は首肯し難い。

一方、関係各証拠から認められる前示のとおりの、同五四年ころから同六一年一〇月ころまでの、甲の関係者らに対する言動の内容、その日常生活の様子及び稼働状況、関係者との交流状況、更に、殆ど仕事らしい仕事をしていなかったと認められる同六〇年五、六月ころから同年一〇月ころまでの間の暮しぶりやL2、L12及びL11らに対する対応状況等に徴すると、「同五四年ころ、全く無為の生活を送った。同六一年ころも、殆ど仕事せず、意欲鈍麻、無為の生活を送っていた。」旨の判断内容(四四頁)は、相当に誇張が入り、かつ、実体からはかなりかけ離れた認定と言うほかなく、鈴木鑑定のこの点の認定は、その内容の点においても首肯できない。

(三) 前記(4)宗教神秘的妄想期に関する判断は、次のとおりの右鑑定書中の生活歴及び既往例に基づくものである。

同四九年ころ、神示教会の分教場へ行って当時の支部長Eに一〇年後の予言((1)将来病気になって死にかけるが死なない。(2)誰かに裏切られて刑務所に入ることになる。(3)一〇年後に予言者は死んでいるが、甲が仏前にお参りに来てくれるから、今から御礼を言っておきたいというもの)を受けた(六月二三日、甲の鑑定人への供述)。これが事実であったのか、追想錯誤なのか今のところ確かめるすべもないが、犯行に至る最初の導火線となっているらしい(七頁)。同六一年一〇月には、「先生(E)の声が聞こえることが始まった」ので、教会のことを想い出し、六一年の暮には永く没交渉だったDに会いたくなって連絡をとった。ところで、「先生の声」は、乙らにとってみれば、まさに神の声であった。Dらのバンドは全員神示教会の信者であり、当時何らかの神からの啓示を待望しており(六月二三日乙の供述)、甲の幻聴は極めて価値のあるもので全く異常なものとは思われることなくたやすく受け入れられた(一一頁)。

乙は、次のように鑑定人に述べた(括弧内は乙の答え)。

六一年の暮に甲が来て何を話していった「一〇年位前に分教所へ行った時、支部長に一〇年後の予言みたいなことをされて、それが全部当っていると言っていた。六一年一〇月頃に、……死ぬほどの病気をしてからその先生の声が聞こえてくることが始まった」、入信するとは言わなかった「はい、でも不思議がっていました。」、その時の彼の態度はおかしかった「いいえ、特別……。私の周囲にはよくある話なんです。」、声が聴こえたりとかいう体験は「よくあるんです。」、甲は神の声などもはっきり聴いた「みたいです。」、神の曲を書けという以外には「神の曲だけがメインなので、……。主人が、もうこの人に任せればいいからといっていました。自分の感性でこの人は信じられるというか、これは本当だな……という感性……。」、甲が悪魔と闘ったのね「そう、神の国ができるので、魔が対抗してやって来たんだと分かりました。」、最初は「外に誰かが来ていると言い出して、古いアパートなので破れたところがあって、あそこに耳があって私たちの話をきいている。……からやっつけなきゃならないと言っていました。こうやって打ち落とす。その時キラキラ、蛾の粉が散らばって落ちて行くようなものが見えて……。」(一一、一二頁)。

これらを受けて同鑑定人は、予言的中の件は、妄想着想と呼ばれ、甲が魔と闘う時に誰かが来ていると言い出し、「あそこに耳があって私たちの話を聞いている」と言ったことは、まぎれもなく注察妄想及び実体的意識性であり、明らかに精神病的である。換言すれば、通常の精神状態では絶対に見られない異常心理であり、その殆どは精神分裂病においてしか見出せないものである。彼らは本事件中、終始見張られている感じ、窓の破れたところなどに封印をしたという。これまでのことを要約するならば、甲はやがて妄想着想を契機に幻聴、不眠が著しくなり、宗教的主題をもった幻覚妄想状態へと移行する。不幸なことに、この病的体験は被害者夫婦らによって価値あることとされ、より一層激化する(一二頁)、と判断している。

この時期の病像について、同鑑定人が認定の基礎としたのは、同鑑定人に対する甲及び乙の各陳述のみである。しかし、甲の陳述を重視することが問題であることは、前示のとおりであり、また乙も犯罪を共同して行った者であって、その陳述についても、まず、その信用性を、他の関係各証拠と対比するなどして慎重に吟味すべきであるのに、同鑑定人は、これを十分履行していないと言わざるを得ない。

すなわち、甲が神示教会に入信したこと、及び、Eの予言を受けた事実は、前示のとおり、否定してよい。同鑑定人は、Eの予言について、「これが事実であったのか、追想錯誤なのか今のところ確かめるすべもない」としている。右予言の内容として同鑑定人は、前示のとおり、乙の同鑑定人に対する陳述中に表われたところを採用しているが、この予言は<書証番号略>に存する予言と、「死にかけるが死なない」という点では共通するものの、その他の二点では内容を異にし、更に、右予言が、乙の同鑑定人に対する供述のとおりであったとすれば、関係各証拠によると、甲は、神示教会本部にEの埋葬場所を尋ねに行くが、結局分からず、一方、甲はEの遺児E2とは、同六二年二月一七日まで会ったことはなく、Eの仏前に参ったこともなかったのであるから、予言のうち3の点は実現していないことになり、これらがみな当たったというのも真実に反する。更に、同鑑定人は、甲3.10検面(一五四四丁裏)中の、茅ケ崎に住んでいたころ、身体を壊し医者に行く金もなく、困窮していた際、瞼に浮んだEから「何も心配することはない。必ず救ってくれる。」と言われたとする時期を、乙の同鑑定人に対する陳述のとおり「同六一年一〇月ころ」と判断しているが、右検面では、その時期を、明確に「同六〇年九月ころ」としており、また、前示L2の員面中には、右困窮した時期を、「同六〇年秋ころ」として右甲検面中の供述と符合する供述が存することに照らすと、右現象が仮に発生していたとしても、その時期は、同六〇年九月ころと見るべきである。そうすると、乙の同鑑定人に対する陳述は更に吟味されるべきであったと言わなければならず、これに基づいてなされた同鑑定人の判断は相当でない。そして、右Eの声を聞いた時期を、同六〇年九月ころとすれば、甲が、その声を聞いてから最も接着したC方訪問(同六一年一月ころ)の際に、右Eの声の体験について何ら語ることがなかった状況にも徴すると、右救いの垂示が、その一年数か月後の同六一年末ころから甲がC方を頻繁に訪れる契機になったとは考え難いと言わざるを得ない。しかるに、右時期を同六一年一〇月ころと誤認したため、同鑑定人は、「この声に動かされて殆ど没交渉だった被害者に会うに至る。」と誤認している。更に、「この段階で甲の病的体験に宗教的神秘体験が加わり修飾し、幻聴が、Dのグループに歓迎され、D夫婦の神示教会信仰の昂揚した宗教的雰囲気の中で甲もDらに接触して、これまた強烈な影響を受け、ついに神憑り的内容を取り込んだ宗教的妄想を確信するに至る。」との判断にも、誤認ないし誇張が存する。

すなわち、右部分の直後に続く「同六二年二月に入り、甲の妄想的確信は一段と強固になり云々」という記載内容から判断すると、鈴木鑑定人は、右のような事実が同六二年一月ころまでに発生したと考えたと推測されるが、一月ころまでに「この幻聴が、演奏活動に行き詰まっていたDのグループに歓迎された。」事実は関係証拠から認められず、そのころまでに、甲からD以外のバンドのメンバーに右幻聴が告げられた事実すら存しない。また、同六二年二月一二日夜遅く、DからIの話やかねてからの甲の話のことを聞かされたI3が、翌一三日午後七時ころ、Mのところに行き、Mに対し「Dが作曲に専念する。バンドをもう一度やろう。M君もやろうよ。」と言ったが、Mは沈黙していたこと(I3検面・員面)、更に、前示のとおり、甲から、神が降りたと聞かされたI3が、同月一四日午後一一時ころ、一緒にアルバイトするK宅に赴き、同人に「Dが神の曲を書く、その曲をスピッツ・ア・ロコが演奏して世界中にヒットさせこの世を平和にする。両親が悪魔でそのことを妨げていると言っていた。」と話すと、Kから、「I3さん、言っていることがおかしいよ。」と言われたこと、更に、その後、I3が他のバンドのメンバーであるR1、R2らにも話して回った結果、Dを取り戻そうということになったことが認められ、これらによると、甲の「幻聴」が「Dのグループに歓迎された。」事実はなかったと認められる。また、「その主催者であるD夫婦の神示教会信仰の昂揚した宗教的雰囲気の中にあり、演奏活動の中止、再開と宗教的啓示待望の熱気が渦巻いていた」とする点も、関係証拠によると、前示のとおり、そのころには、D、乙ともに既に神示教会の朝夕の礼拝もせず、かつ、右教団からは離籍されており、「昂揚した宗教的雰囲気の中にあり、宗教的啓示待望の熱気が渦巻いていた」という事実などは全く認められないというほかない。更に、「甲もDらに接触して強烈な影響を受け、ついに神憑り的内容を取り込んだ宗教的妄想を確信するに至る。」という点も、E2の検面・員面等関係各証拠によると、甲は、Dからその内心では軽く受け流されながら、同人に対し、一方的かつ執拗に、「E先生の俺の将来についての予言が殆ど当たった。」「お前はすぐ売れる。スピッツ・ア・ロコはすぐ世に出るバンドだ。俺には神の声が聞こえるんだ。その声は、お前は神様の歌を作れる人で、何百人に一人しかいないんだ。お前は俺が守るから、いい曲を作れ。」などという話をしていたと認められ、Dが甲に何らかの影響を与えたため、甲が右のような発言をしたという事情は全く認められない。

更に、「同六二年二月に入り、甲の妄想的確信は一段と強固になり、Dグループは自身の『神の曲』待望の昂揚感と相まって、特にDと乙は甲の意思に従って行動するに至る。この時、D夫婦は、甲と同じ妄想を共有していたのではなく、『この人に任せればいいから』という一種の催眠状態に近い状態(にあった。)」との部分も、前示のとおりD夫婦が、甲に対し、「この人に任せればいい」というような心理を抱いたのは全面的なものではなく、かつ、短時間であり、甲の強力・執拗な種々の工作により半信半疑、あるいは、一時的なものとして、甲に従うことにしたものの、右三名間には様々な心理的葛藤が残っていたと認められるのであって、同鑑定人の右のような判断は相当に誇張を含むと言わざるを得ない。

「甲の妄想に支配されて犯行に及ぶ。殺人行為の道徳的判断は『神の国対悪魔妄想』により全く失われていた。」との部分も、前示のとおりの殺害行為前後の状況に照らして全く事実に反し、首肯し難いというほかない。

(四)  以上のとおり、鈴木鑑定書の「精神的身体的病像の変遷」中には、事実関係の判断に際し、その時期や鑑定事項の制約もあって、両被告人や甲の母親等に対する面接の結果を過度に重視し、関係各証拠等の検討が十分でなかったという問題点があり、鑑定の判断の前提とした事実関係にも前示のような誤りが存すると言わざるを得ない。

2 他の二鑑定からの批判

中田鑑定(甲分)一一四・一一五頁は、鈴木鑑定の精神分裂病という結論に対し、甲には精神分裂病らしさ(プレコックス感)がないこと、甲の症状は心因反応、詐病で理解可能であること、鈴木鑑定人のあげる妄想着想、幻聴、注察妄想、実体意識性などは甲やその実母Bの供述に基づくが、それらの信用性が疑問であること、入眠幻覚、睡眠麻痺などの障害は分裂病の症状と異なること、精神分裂病なら日常行動上に異常が見られるはずだが、Bを除いて誰も異常に気付いておらず、同六二年二月一五日にも業務を処理していること、睡眠の儀式(毛布を何枚も重ねて寝る)や詐欺事件の後、人嫌いになったことなどは前科の逮捕・勾留・有罪判決から了解可能であること、精神分裂病の中核症状である感情・意思の鈍麻は、甲が鑑定人の意図を速やかに理解し、自己防衛的に対応するところからも否定し得ることをあげて、これを否定し、また、福島鑑定(甲分)も「鈴木鑑定によれば、甲は、発病後少なくとも七年以上の経過を持った分裂病者である。従って、精神分裂病の基本症状の内の一つ『連想弛緩』(連合障害ともいう)を相当明瞭に示していなければならない筈である。そもそも、ドイツの精神医学者ブロイラーが『精神分裂病』という言葉を作った最大の理由は、彼がこの病気の本質が、『連想能力の弛緩』による精神活動の分裂にあると見たからである。ところが、本件犯行前の甲の言動は普通で、不動産業者としていくつかの活動に従事していたことが明らかにされているが、これらの関係者で甲の言うことがまとまらない、理解が困難であると感じていた者はいない。<中略>更に、鈴木鑑定書に引用されている甲の同六二年三月一七日(犯行後)付母親宛の書簡は『きわめて冷静に自らの行為を判断し』『それなりにまとまり明瞭である』と評価されている(同鑑定書一七頁)。すなわち、理路整然としていて、支離滅裂はもとより、連想弛緩すら認められない立派なものである。以上から考察して、本件犯行前後を通じて、少なくとも拘禁反応を起こす以前には、甲には著名な思考障害(連想弛緩)があったことは明らかに否定され得る。」(福島意見書〔鈴木鑑定分〕一四、一五頁)として精神分裂病を否定している。

3 小結

以上のとおり、前記精神身体的病像の変遷中の諸事実は、関係各証拠から認められるところとかなり異なっており、しかも、それが鈴木鑑定の重要な基礎資料となって、その鑑定結果に重要な影響を与えたと認められること、また、その精神分裂病の判断方法について、中田鑑定〔甲分〕及び福島鑑定(甲分)の判断の方が相当と認められることから、鈴木鑑定は採用できない。

三  中田鑑定(甲分)の概要

中田鑑定書(甲分)の鑑定主文は、「甲は、本件犯行当時、三人精神病の心因反応状態にあり、犯行は悪魔祓いの動機に基づき、責任能力に著しい障害がある。」というのであり、その根拠の概要は次のとおりである(本項記載の頁は同鑑定書の頁である。)。

1 D及び両被告人の状況

(一) Dは、神秘的オカルト的で、他人の顔などを見て因縁や霊が付いている等と見当づける能力を有するところがある。もっとも神の啓示を体験したことはないらしい。同人はバンドの不振にリーダーとして悩み、ボーカルのKが適当でないとして、それに代るべき者を探したりしていたが、結局、解散することになった。

(二) 乙は、全面的に甲に従属しており、また、Dも甲に全面的に従属し、しかもD自身も自らに悪魔が憑いたと信じ、一種の心因反応状態にあり、乙もやはり神秘的な心因反応状態になっており、甲も同様に精神異常状態にあったと考えられ、三人が一緒にお互いに感応しながら精神病状態にあり、これは古くから二人精神病と言われている病態にあったと考えられる。この中で積極的な役割を演じているのは甲である。

(三) 甲は、本件犯行による逮捕後、自己防衛的で、警察官に現行犯逮捕された時、警察官に両脇を抱えられ歩けない様子であった。当日一応調書ができ、犯行を自供しいる。ところが、翌二六日朝の取調べで直に倒れたりけいれんを起こした。これも防衛反応と思われる。しかし、三月三日から取調べが開始され、一九日に終わっていて、員面は、二月二五日付も含む一七通、検面は六通が公判に提出されている。甲には防衛的心構えがあるので、これらの調書の内容が完全に正しいかどうかは問題であるが、その一部である検面の内容を乙に質問しておよそ正しいことが分かり、また、乙の沢山ある取調調書の内容それに基づく鑑定人の乙に対する聴取などによると、内容に大きな差はない。甲本人から直接聴取できなかったが、記録から大まかであるが、甲の本件犯行当時の精神状態を推定することは可能である(一一九ないし一二四頁)。

2 本件の概要

同六一年一二月ころから甲がD宅をしばしば訪れるようになる。同六二年二月一日D夫婦は、東京都品川区内のS方を訪れ、占ってもらう。同月八日メンバーが集まり、解散を決める。同月九日ないし一〇日夜、D夫婦と甲は徹夜で話し合い、Dが「神の曲」を作り、乙、甲がこれに協力することにした。同月一二日横浜「ビブレ21」での演奏でKが代表して右バンドの解散を宣言する。同月一三日夜D夫婦が、甲、I5とともにDの実家を出、空家の件で横須賀市浦賀町のI4方へ行く。I4方を出て、横須賀市内の居酒屋「番屋」に行き飲食する。同月一四日未明I3方へ行き、そこにD夫婦が逗留することになる。同月一五日午前中D夫婦、I4の空家に移り、甲が生活を共にする。同月一六日午前中、D夫婦、甲、I4を連れて甲方居室に移り、共同生活を始める。同月一七日夜O、メンバーらが、甲方居室に赴き、I4だけを連れ戻す。同月一八日夜O、メンバーらほか、甲方居室に赴き、D夫婦を連れ出し、C方へ泊らせた。同月一九日午前中甲がD夫婦を連れ出し、甲方居室に連れ帰る。午後三時ころ、メンバーらが「ブラッサム」に集まり、その後Oらが甲方居室へ赴き、D夫婦を連れ出し、DをP方に、乙を同女の実家に、それぞれ預けた。同月二〇日未明P方に預けられたDは、どうしても甲方居室へ行くというので、I4が送る。同月二一日実家の乙の許へ、二〇日はDから、この日は甲から電話があり、乙は実母を説き伏せて家を出、甲方居室へ赴く。甲、すでにDに対し、悪魔祓いと言ってDの身体に塩を付けて揉んでいる。乙も悪魔祓いに協力する。同月二二日悪魔祓いがエスカレートし、午後三時ころ、甲が乙の強力を得てDを扼殺さる。その後死体解体が始る。同月二三日甲、乙協力してDの死体解体。同月二四日死体解体続行。夜、Oらが来るが、甲ら部屋のドアを開けず、Oら引き返す。同月二五日死体解体続行。夜、Oらが来て、大家に鍵を開けてもらい、犯行発覚し、甲ら逮捕される(一二四頁ないし一二八頁)。

3 甲の神秘体験

甲は、同四九年ころ、Bに連れられて神示教会に赴いて入信し、Eに接した。同女は、当時、一〇年、一二年後の甲の将来を予言した。その後、甲は、同女の予言が当たったと思い、初めて神の摂理を感じるようになった。Eが、このような具体的な予言までしたかどうか確認のしようがなかったが、Eが人相などを見ていろいろ予言したことはあったらしい。もっとも甲の誤想の可能性もあり得よう。

同六〇年九月ころ、当時、甲は実母から離れ、貧しい生活を送っていたが、寝たきりでいた時、Eが出て来て、「病気が治る云々。」と言い、一週間位で身体もよくなり、Gが金を持って来てくれたという。とにかく、Eが救いの神として出現するという体験があった。同六二年二月初めころとも九日ともいうが、二月九日から一〇日にかけての夜は甲、D夫婦が夜を徹して話し合っているので、八日以前と思うが、そのころ、甲は、神が神の心を音に出せ、Dに作曲させろと命じたと理解できる夢を見、これは、神様のお告げと確信した。Dにすぐ伝えなければいけないと思った。なお、その時期について、<書証番号略>では、二月一日か二日にDに会った時、Dから、甲が神の声が聞こえるとか、Dは神様の歌を作れる人で、何百人に一人しかいないんだと言ったということを聞いたという。二月一日ないし二日より前に右のような体験が甲にあったか疑問であるが、すでにそのころ、甲が神がかりになっていたことは、前記の事情から分かる。この時から、Dに神の曲を書かせようと強く意図するようになったらしい。

一方、Dは、バンドの不振をどう打開しようかと心痛しており、同六一年一二月ころから、甲に会う毎に、相談していた向きがあり、同六二年二月一日、乙とともにS師を訪れ、バンドの将来を占ってもらい、作曲家としてやって行くように示唆されたところがあり、事実、同月八日には、バンドのメンバーの話し合いで、解散が決定した。<書証番号略>で、甲が二月初めころ、Dから作曲家としてやって行くと聞いたとあるから、甲は、かねてから、Dが作曲家として立とうかどうか悩んでいるの知っていたので、夢枕で見る体験の時に、Dに作曲させようと確信したのであろう。甲の神の啓示体験は全く無から突如として出たわけではなく、かなり了解できる背景があり、夢で暗示された観念であり正常な心理に近い体験である(一二八ないし一三四頁)。

4 Dが「神の曲」作曲を志すまでの経緯

甲がDに「神の曲」作曲を命じ、Dがただそれに従ったというのではなく、Dの側に甲の説得に応じ、D自身のイニシァチブで、「神の曲」を作曲しようと決意する経緯があったようである。鑑定人が乙から聴取したところでは、Dが本当に「神の曲」(現世と次元の違う世界の曲。Dは神秘家でありそのような世界を信じていた。)を作曲するのを決意したのは、二月九日から一〇日にかけての夜の話合後で、正確には一〇日朝であるという。つまり、バンドの行き詰りで悩んでいたDは、二月一日にSに占ってもらい、「貴方は作曲家として登録されていますか。」と言われ、それまで作曲活動をやったことのあるDは多少とも作曲家としての方向に目覚めたかもしれない。そこへ甲から立派な曲を作るという意味の、神の曲を書くように言われ、その話合の中で次元の違う「神の曲」を書くのが自らの天職であると思ったようである。ここにDの一種の悟りがある。そして、Dが「神の曲」作りに専念し、甲がぐらぐらし易いDの精神的支柱となり、乙はDの身の回りの世話をするという分担ができた(一三四、一三五頁)。

5 「三人精神病」の形成

このようにして「三人の世界」ができ、特に、二月一三日以降、三人の共同行動、共同生活が見られ、ひいては、「三人精神病」が出来上がることになる。

甲らの「三人精神病」では、誰が原発者で誰が継発者かという点で、甲とDとの間に明確な区別がつけられない。啓示体験を持つ甲が原発者のようであるが、Dの神秘性も大きな役割を演じている。もっとも右両名間の親族関係に基づく支配従属関係が、「三人精神病」の成立に役立っている。また、乙はDの妻で、しかも神秘家であり、全面的にDに信服し、Dが信頼する甲にも信服した。このような関係で三人の密接な信頼関係が「三人精神病」を維持発展させ、そして、本件犯行を導くに至る。

乙も、甲やDに影響され、全く甲などの言うがままになり、二月一五日朝、食料品店に買物に行ったが、その途中歩きながら今眠っているDが目覚めると「神の曲」を書ける人間になっている気がし始めた。そうすると泣けて来て一人でずっと泣きながら帰って来たという(<書証番号略>)。従って、乙の心もかなり強く興奮して来たことが分かる(一五二頁)。

Dも、二月一五日夜、I4の空家から甲と一緒に銭湯に行き、その時、テレビを見て、一種の悟りを開いた。即ち、銭湯から帰ってDは、「さっきの店でテレビを見ていて、サイロから核弾頭がビーンと出て来る情景を思い出した。」と言い、核戦争を防止して人類を破滅から救うには「神の曲」を作り、それを世界中に広めなければだめだと言ったという。このころは、Dは作曲に意気込んでいることが分かる。その後、Dは、同日、I3方からJ所有空家に行く途中で「旅立ち」、いずれも、同日から翌日の夜、J所有空家で「悪魔退散のメロディー」、「悪魔封印のメロディー」、二月一七日、甲方居室で「風呂上がり」をそれぞれ作曲した。二月一八日以降作曲されていないのは、Dの心身の状況によるためであろう。

甲は、作曲の環境作りに腐心し、特に二月一六日、同甲方居室に移ってからは、白いシーツ、自らの褌などで壁や窓に覆いをし、電気のコンセント、通気口などはティッシュペーパーなどで覆いをし、電気炬燵を利用して神棚を作ったり、Dの要求をできるだけ入れるようにしていた。そして、乙、I4は買物に走っていた。また、甲は、二月一五日に実母からもらった三〇万円のうち一五万円を乙に渡し、翌一六日には甲は自らの預金通帳を乙に渡して銀行で解約し現金化させている(甲は、同六一年秋に自らの土地を売った金の一部一四〇万円を実母からもらい、それから翌六二年になって何回にもわたって実母から金をもらい、当時、金銭的に余裕があった。)。

このような孤立した三人の生活ぶりは、一部の人にはやはり異常に見えたようである。Oはその供述及び鑑定人への陳述で、甲が異常であったと強調し、鑑定人への陳述では「三人とも完全に狂っていた。お前らは狂人だ。いい加減にしろと言った位である。」という。また、<書証番号略>によると、二月一七日夜の(I4を入れた)四人は何かに取り憑かれていて、顔は青白く、目が吊り上がっている状態であったという。もっとも、二月一七日にI4を迎えに行き、甲の部屋に入ったE2の鑑定人への陳述では、「甲は、芝居じみており、注目されたいと思っているという印象であった。」という。Kの鑑定人への陳述もE2と同様である(一三五、一三六頁)。

6 本件犯行の動機等

記録からも、乙の陳述からも、甲が、Dあるいは乙などに悪魔が憑いたと妄信し、それに相応した幻覚体験もあったことは否定し難い事実であり、Dも一時的に自ら悪魔が憑いたとする憑依妄想をもったことも事実のようである。

(一) 甲が最初に悪魔を体験したのは、二月一三日、横須賀市内の居酒屋「番屋」で飲食した時である。<書証番号略>によると、その時Dが「歩兵の本領」の歌を歌ったが、それはCが平素よく歌っているので、DにCの姿がダブって、Dに悪、悪魔が憑いているように思ったという。当時、Dは「神の曲」作曲の決意はしていたが、自宅から出るという決意にはぐらつきがあり、その様子を見て、DがぐらつくのはCへの未練があると見、Cを悪、悪魔として理解した。このときの悪魔は観念的である。

(二) 甲の悪魔体験がより実体化したのは、同月一五日から一六日にかけての夜である。<書証番号略>によると、その夜、突然「歩兵の本領」の曲が聞こえ、不安となり、悪魔の行進曲に思え、襖や壁から妖気が出、襖の破れ目から魚の形をした悪魔の子分が見え、甲が両手を組み合わせ、人差し指を延ばして気を破れ目に送るようにすると、金粉のようなものが落下したという。甲は、乙に対しても支配的な態度を取り、乙は全面的に甲に従属していたが、それでも乙を圧制する方法として、乙の肩の凝っているところを指で圧したり、膝のところを押し、また乙に悪魔が憑かないように、乙の目をじっと見つめたりしたが、特にD死亡後の二月二三日、乙顔面のニキビを悪魔の痕跡と言って、同所ほか数箇所を「塩揉み」した。二月一九日午前、甲は、D夫婦を甲方居室まで連れ戻す途中、六会駅近くで見かけた浮浪者風の男が悪魔の回し者に見えたようで、種々の方法で浮浪者からの影響がDに及ぶのを阻止しようとした。Dは全く甲に従属的であり、甲がDに悪魔が憑いているなどと言い、色々それに相応した言動をするので、D自身も本当に自らに悪魔が憑いたと思い込んだようである。<書証番号略>によると、二月二〇日午前三時ころ、Dが甲方居室に戻って来た際、Dは、「兄貴、俺は自分自身が気違いに思える。兄貴にも魔神が降りているのではないか。」と言って甲に挑戦的な態度を取ったという。<書証番号略>によると、二月二二日、Dに対する「塩揉み」の最中に、甲がDの目を見て「悪魔か。」と尋ねると、「悪魔だ。」と答え、甲が「Dから出て行け。」と言うと、Dは、「出て行きます。」と言ったと言い、鑑定人が乙に確かめたところ、そういうことがあったという。それゆえ、この時点では、Dが悪魔に変身(人格変換)している状態にまでなっている。

(三) <書証番号略>によると、Dは見つめられると「ああ、自分じゃない変なものが自分の中に入っているのが分かる。」と言ったというので、ここでは、Dの憑依体験は明らかである。

甲がDに悪魔が憑いたと確信したのは二月二〇日であるらしい。<書証番号略>によると、Dが同日、甲方居室に帰って来た時、目が吊り上がり、眼球が赤黒くなり、顔も青黒くなって、ちょうど映画「エクソシスト」の悪魔が憑いた子と同じ顔に見え、Dに悪魔が憑いたと確信したという。その後、二一日、乙が戻らないうちに単独で「塩揉み」を開始した。これを乙と共同で開始したとなっているのは甲の防衛的態度により、甲の供述の信憑性に問題のあることがわかる(一四三頁)。二月二一日から二二日にかけて、甲と乙は、悪魔祓いのためにDの身体の背部、胸部、頚部などに対し、「塩揉み」「液出し」行為を加えたが、悪魔が退散しないために最後の手段として、Dの頚部を扼し、殺害する。

(四) この間の甲の主観的体験は、<書証番号略>各検面によく描かれている。すなわち、「首の下の背骨の出っ張りの下に悪魔の大王、心臓の裏あたりの背骨に悪魔の絵、腰の上の部分に鳩のような鳥が猪のような怪物に食べられようとしている絵、尻の上の部分に鴎みたいな鳥の絵が赤く浮き出ているように見えた。」(<書証番号略>)。また、Dの後頚部に皮下脂肪が海岸の波のように動くところがあり、そこを引っ掻くと悪魔祓いに役立つと思ったという(<書証番号略>)。甲らが「塩揉み」をしていると、Dが痛さのために身体を動かすが、前記のようにDが悪魔に変身し、甲が「悪魔か。」と尋ねると「悪魔だ。」と答え、甲がDにビンタを食らわせると、Dが「出て行きます。」と言ったり逆に甲が、「出て行け。」と言うと、「出て行かない。」と答えたりしたという(<書証番号略>)。もっとも、このような主観的体験と甲とDとのやりとりは甲の員面には出ていない。しかし、甲がこのようなことを創作するとはとても考えられないので、おそらく事実であろう。このようにして悪魔祓いがエスカレートしてD殺害に至ったのであろう(一三七ないし一四七頁)。

7 殺意について

甲がDの前頚部を扼圧するときに、同人の死を予見していたかどうかであるが、<書証番号略>では、「Dが死なないと悪魔も死なない」「私は人を殺すことは当然悪いことであるのを知っていた。」と供述し、殺意のあったことを認めている。他方<書証番号略>では、「Dが私たちの悪魔祓いによって神の曲を書ける人間として生まれ変わることを期待していたのに死んでしまった。」という供述があり、復活を期待していたむきがある(一四五頁)。

8 死体損壊行為について

死体損壊も単なる事後処理ではないようである。甲の供述調書を見ると、死体にも悪魔の痕跡があると思い、それを排除する、つまり、悪魔祓いの動機から死体損壊をやっているむきがある。すなわち、Dの後頚部にほくろのようなものがあり、それが悪魔の眼に見えた、後頚部から三つの椎骨を取り出したが、そこに悪魔が宿っていると思った、頭の皮、顔の皮をはいだのは、顔の色が青黒くて悪魔が乗り移っているように思った、夜、寝る時に死体を白いシーツで包んだのは悪魔封じのためである、全身の皮と筋肉を剥がしたが、それもそうしないと悪魔祓いにならないと思った、股関節や膝間接に悪魔がいると思って、鋏でつついて穴を開けてみた、骨から筋肉を取らないと悪魔祓いが完全にならないと思った、背骨の中の空洞の中の血液に悪魔が潜んでいると思って背骨を二つにへし折り、背骨の空洞に菜箸で塩を入れた(<書証番号略>)。その他腹部内臓を取った後、血液を抜き取ったり(血液の中の悪魔がある)、頭蓋骨から脳を取り出した後、清めに塩を頭蓋骨の中に入れたりしている。二月二三日に内臓を取り出し、二五日にそれを切り刻んで流しの排水口から捨てたのは、一見単なる死体処理のように見えるが、やはり悪魔祓いと関連しているようである<書証番号略>によると、映画「エクソシスト」の中で牧師が悪魔の憑いた子の心臓を取り出す場面があったので、Dの内臓にも悪魔がいると思ったので、体を鋏で切ったという(甲が悪魔が心臓を取り出す場面があったというが、「エクソシストⅡ」を見たところでは、悪魔が心臓を手でいじる、そのためいじられた者が苦しむような場面がある。そして「エクソシストⅠ」の老牧師が、心不全ではなく、悪魔の触手によって殺されたことが分かる。一五〇頁)。また、<書証番号略>には、内臓を流しの排水口から流したのは、二月二三日に取った内臓を放置していたので悪魔の使者が来た(二月二四日、Oらが甲方居室に来たことを悪魔の使者が来たと思ったという。<書証番号略>)と思ったからという。ともかく、甲、乙の供述調書を見る限り、甲らの死体損壊にも悪魔祓いの動機が関与していることは否めない(一四五頁ないし一四七頁)。

死体処理には看護婦で死体解剖の経験のある乙の教示が役立つ(特に腹部胸部内臓の取り出しで)。死体損壊で最後に残されたのは、身体各部の皮膚(これらを縫いあわせると一人の人間の外見が出来上がる。)と全身の骨格である。このような死体処理は通常のバラバラ事件の場合と違うようである。死体損壊に悪魔祓いの動機が関連しているためであろう(一五六頁)。

9 映画「エクソシストⅠ、Ⅱ」について

甲の供述では、「五、六年前」横浜伊勢佐木町でこの映画を三回位見たという。そして、この映画の影響を強く受けて、Dに悪魔が憑いたと確信したり、悪祓いの方法に十字架、聖水を利用し、最終手段として扼頚を用いたところは、「エクソシスト」と同様である。「塩揉み」は映画に出て来ないので、甲がマッサージを受けた経験があり、それで、Dに指圧を試み、塩は清めと手が滑らないために利用したものであろう(<書証番号略>)。<書証番号略>では、Dに頼まれて指圧を始めたようなことを供述しているので、単なる指圧マッサージから「塩揉み」の悪魔祓い行為に発展した可能性もある。甲が悪魔祓いの手段として相手の顔を見つめることをやったが、「エクソシストⅡ」の影響ではないかと思う。とにかく「エクソシスト」という映画に魅せられ、それを三回も観たという甲が、本件犯行で「エクソシスト」の影響を強く受けたことは事実である(一四七ないし一五一頁)。

10 悪魔祓いと関連しない諸行為

甲らは、不規則ながら食事をし、睡眠も不十分ながらとっていた。乙の陳述では、夢も見ないで熟睡した日もあるらしい。<書証番号略>によると、甲は、二月二三日に乙の顔を「塩揉み」した後、乙の右乳房を手で掴み、二、三分(塩も付けずに)揉んだ。そして、「こういうことをしてもまだ俺を信じるのか。」と言ったという。この時、乙は、甲が「肉体関係を迫って来るんだな」と思ったという。甲は、それ以上乙に肉体関係を要求せず、その他にも二人の間には性関係はなかったらしい。また、<書証番号略>によると、甲が乙の乳房揉みの後、「悪かった、何でだろうな。」と言ったという。このような行為はおそらく性欲に基づく行為であると思う。最も<書証番号略>では甲はそれは性欲的な行為ではないとし、乙も現在の陳述では、性欲行為ではないとする。

<書証番号略>によると、二月二二日午後、甲がDを扼殺する前に「どうすればよいのか。」と一人言のように言って考えた後、「これ」と言ってDの喉仏を左手で押さえ、「ここを絞めてしまうと終わりなんだ。これをやらないといけないんだ。これで完璧なんだ。」と言ったという。おそらく、映画「エクソシスト」の影響でこのような考えに至ったのであろう。単なる神の与えた観念ではなさそうである。<書証番号略>によると、右扼殺後甲は、「これをどうしよう。」と言って、「頚の後のところに悪魔のもとがたまってるんじゃないかな。頚を切ってみよう。」と言ったという。<書証番号略>によると、二二日の夜、死体解体が一段落した後、死体の処理に関して、甲は神様に祈った後、「分かった、シーツでくるめばいいんだ。」と言って、死体の封印をすることを決めたという。

従って、逮捕直後の<書証番号略>最後の方の、「私がやったことはすべて神のお告げでやったのです。」との甲の供述は弁解であり、真実ではない。甲自身の着想でやっているのである。そして、たとえば、Dの背中に悪魔の姿が見えたなどというのは、自己暗示によるものであろう。たとえ、神のお告げで行動したと言っても、それも自己暗示的にそう思っているのであろう。実際に、甲の供述調書で具体的な行動で神のお告げで行動したというような供述は殆ど見出せない(一五六ないし一五九頁)。

11 精神分裂病否定の根拠(一一三頁ないし一一五頁)

その根拠は、前記「鈴木鑑定に対する他の二鑑定からの批判(第四・二2)の項で紹介したとおりである。

12 側頭葉てんかん否定の根拠(一一五、一一六頁)

本鑑定で脳波検査をし、メジマイド(ベメグライド)賦活をしたが、突発性異常波の出現はなく、てんかん準備性は存在しなかった。この問題については、脳生理学の専門家である鈴木氏が鑑定し、通常の脳波検査と睡眠脳波、メジマイド賦活、終夜睡眠脳波と、三回にわたって検査し、棘波、鋭波の出現はなく、てんかんを否定した。さらに鈴木氏は、湘南第一病院における脳波検査所見、福島鑑定における脳波所見も脳波記録に基づいて検討し、てんかんの存在の疑わしいこと、まして側頭葉てんかんと言えないことを明らかにした。また、甲に従来てんかんを思わせる発作がなく、湘南第一病院に入院するきっかけになった失神発作も、福島鑑定中の脳波検査時に生じた「強直性けいれん」も、てんかん性けいれんとは異なるように思われる。

即ち、てんかん発作であると、突然、全身を突っ張って硬くなる「強直性けいれん」が来、それに全身をがくがくけいれんさせる「間代性けいれん」が続くのが通例である。ところで、湘南第一病院に入院するきっかけになった失神発作の状態は、全身の力を抜いただらんとした状態で、どうみてもてんかん性の「強直性けいれん」とは違う。その後に両手両足にけいれんが起こったというが、それも全身を律動的にけいれんさせる「間代性けいれん」とは異なるように思われる。更に、普通、強直期から瞬間的に間代期に移り、眼瞼もけいれんさせるので、目を見開いて白目を出すというのは「てんかん性けいれん」では考えられない。しかも、てんかん発作は、刺激によって誘発されることもあるが、尋問が始まってすぐに起こったというのは、心因性のものを窺わせ、意図性・ヒステリー性けいれんの疑いを起こさせる。湘南第一病院で、診察時に、医師の問診に答えず、口を開けたり、眼を開閉させる指示に応じなかったことは、甲の拒否的意図が働いていることが窺われる(四四、四五、四七頁)。

福島鑑定中の同六二年四月一〇日、過呼吸時に手足を緊張させる「強直性けいれん」を起こしたというが、呼びかけなどに対する反応はあり、意識喪失はなかったという。しかし、てんかんの「強直性けいれん」で意識喪失のないことは異例であり、てんかん発作が起こったとは考えられないと思われる。この手足を緊張させるいわゆる発作は、やはり心因性ないし故意の動作である可能性がある(四六、四七頁)

以上より、甲のてんかん、側頭葉てんかんの存在は否定される。

四  中田鑑定(甲分)の検討

1 同鑑定も、その考察の前提となる事実判断に問題があり、これが、鑑定結果に影響していることは否定し難いと認められる。

(一) 同鑑定書中の「乙は、全面的に甲に従属しており、また、Dも甲に全面的に従属し(一二二頁)」(なお、中田鑑定書〔乙分〕における表現では「乙は、従来からDに完全に従属し……夫や甲の言葉に完全な信を措き(四八、四九頁)」「乙が甲、Dの言に忠実に従った(四九頁)」「乙はDと同様に甲の奴隷のように従属し(五三頁)」)との部分であるが、これは、前示のとおりの、犯行に至る経緯からすると、採用し難い。

同鑑定書(甲分)では、右判断の根拠が示されていないが、同鑑定書(乙分)で指摘されている乙が甲の指示で必要な物を買いに行ったのは、主にD殺害後である。Dの生存中は、甲が乙に指図したのは、わずかに、一六日、一七日のシーツ張り、及び、一九日、三人で甲方居室に赴く途中、DがCから預った○○商店の請求書在中の箱を送り返させた程度であり、それ以外は、食事の品物についても、二月一四日の朝食、同月一五日の夕食、同月一九日の昼食、同月二一日の夕食など、甲自身が食品を購入に赴いていることが認められる。なお、同月一五日朝食用の食品は、乙が生理用品とともに購入して来たこと、同月一六日の夕食は、乙とI4が食品を買って来たこと、一八日の朝食は初めて乙が御飯を焚いたことなどが認められるが、D殺害後の乙に対する態度や殺害前のI4に対する態度のように、甲が乙に命じた旨の明確な供述は存しない。

更に前示のとおりの右三人の関係からすれば、乙が甲に「完全な信を措き」、「全面的に」「忠実に」「奴隷のように」従属していたというのは、誇張といわなければならない。

次に、「甲の検事調書の内容を乙に質問しておよそ正しいことがわかった(一二三、一二四頁)」としているが、後記のとおり同鑑定(乙分)時の乙の精神状態、その供述内容、更に、後に判明した前示甲から乙への金員差入の事実及び他の関係証拠を総合して認定された前示の犯行に至る経緯、犯行状況、犯行後の事情等に反する供述は信用できない。

(二) 同鑑定書(甲分)は、甲の神示教会への入信、Eによる予言、同六〇年九月ころの救いの垂示及び同六二年二月九日ころの神からの命令につき、ほぼ肯定するようである。しかし、入信と予言の点は、前示のとおり、存在しなかったと認められ、二月九日の甲の行動状況には、啓示が真実存したにしては、「アメリカーノ」で漫然時を過ごすなど、かなり不自然な事実が存すること、同鑑定人は、三人の話合の事実やE2の供述との絡みにおいて、二月九日という時点だけを疑問としているが、入信・予言がなかったことなどを勘案すると、そもそも、啓示の存在自体疑問であることなどからして、同鑑定人の右の判断は相当でない。

また、同鑑定書では、右啓示も、二月初めころDから、「作曲家としてやって行く」と聞いたことが基底に存したかのように判断する(一三三、一三四頁)ところ、二月初めころDが「作曲家としてやって行く」と言ったことの根拠は<書証番号略>にとどまる。<書証番号略>からは、甲が既に一月中から「神様の歌」というような内容の発言をしていたこと、二月一日の時点では、Dもまだ作曲家としてやって行くとは決めていなかったこと、<書証番号略>では、二月九日の時点でさえ、Dが、まだ作曲家一本でやって行くとは思っていなかったようで、考えに耽っていたと供述されていることからしても、前記甲供述は信用できずこれを前提とした、Dの言葉が甲の啓示の基底にあったかのような同鑑定人の判断も相当とは言い難い。

(三)(1) 同鑑定書中の記載によると、「神の曲」とは「現世と次元の違う世界の曲。Dは神秘家であり、そのような世界を信じていた。」と判断したと推測される。しかし、関係証拠から認められるところによると、前示のとおり、D、一六日午前四時ころ、甲に呼び出されてやって来たI3に対し、「今、世の中では核戦争が始まる寸前で、それを阻止するには、僕の作った曲がビルボードで一位にならなくてはいけない。」旨言ったこと及び、同日、甲方居室に到着した際、甲もI4に対し、Dと同旨の発言をしたことが認められ、これからすると、Dの考えた「神の曲」は、アメリカ合衆国において発行されている音楽雑誌「ビルボード」において一位にランクされるべき優れた、すなわちあくまでも、現世的な曲であり、甲も、その時点では、右のように考えていたと推測される。

もっとも、11回乙供述中には、「神の曲」につき、「人間が考える曲じゃなくて、神の世界にある音楽を書かせてもらうというか、人間が作るものじゃなくて、神の世界にあるものを聴かせてもらって、この世に残すという、そういう意味でそれを神の曲と、こう言ってた」、それは特定の人だけに聞こえるのか。「それを私にとっては登録されているというS先生の言ったことと一致したんで、主人がそうなんだろうと思った」(<丁数略>)、これまで神の曲を書いた人がいるか。「……それは本当のことは分からないが……どこから最初に出てきたのか、主人が最初に言ったと思うが、『上を向いて歩こう』という曲に凄く近いというか、そういう種類の曲だということを言っていた」(<丁数略>)旨の部分があり、換言すると、Sの話を聞く前から、乙は、既に「神の曲」とは、「神の世界にあるものを聴かせてもらって、この世に残す」曲と思っていた、そうしたところ、Sが、Dについて「登録されている」と言ったので、同人が、右のような音楽を作れる者と思った、Dもそのような理解であったということになる。しかし、<書証番号略>など、乙の捜査段階における供述内容は、乙が「神の曲」という言葉を聞いたのはS方における占いの時が初めてであった、二月九日、甲の「お前は作曲家としてやって行くように神様から言われた。」という話を聞き、Sの話との一致を不思議に思い、その話を信じたというに止まる。つまり、Sの話を聞くまでは「神の曲」という観念はなかったしDにそのような曲を作る能力があるとも思っていなかった、Sの話を聞いても半信半疑であった、それが、二月九日の甲の話で確信のような程度に変ったとの供述であったと認められる。

以上のような捜査段階の供述内容を一歩進めたような前記公判供述が、真実、犯行当時乙が抱いていた考えであるかは疑問である。その当時から抱いていたとすれば、なにゆえに捜査段階においてそのように供述しなかった疑問であり、あるいは、乙は公判でも、たとえば「風呂上がり」は神の曲である(ただし、その根拠は分からない)と供述するが、前示のとおり、一七日夜、乙は、右のような曲であることを理解できないメンバーらを前にしてDがぐらつきを見せるや、同人に対し、メンバーらの話を聞かないようにと囁き、甲のみを信じるようにと言っただけであって、たとえば、自らメンバーらに対して「風呂上がり」が神の曲であると訴えたりはしなかったのであって、このような態度は、その理解に比して不自然と言わざるを得ず、真実、しかく理解していたものとは認め難い。このような諸点に鑑みると、右のような想念を乙が犯行時から抱いており、神の曲に対するDの理解も乙のそれと同様であったとの前記供述は信用し難い。結局「神の曲」が「次元の違う神の世界の曲」を指すという乙の同鑑定人に対する陳述は、乙自身のみの、かつ、右陳述時点における想念であったとみるのが相当であろう。

(2) 同鑑定人は、Dが、二月一日のSの質問により、「多少とも作曲家としての方向に目覚めたかもしれない」、「そこへ甲から立派な曲を作るという意味の、神の曲を書くように言われ、その話し合いの中で次元の違う『神の曲』を書くのが自らの天職であると思ったようである。ここにDの一種の悟りがある。」と、甲は、単に立派な曲を書くようにと言っただけなのに、その言葉から、Dが前記のような「次元の違う神の世界の曲」を書こうと決意したと判断している。

しかし、二月一〇日早朝のDによる決意は、まず、「神の曲」を作曲し、その後、これを自分のバンドで演奏するという点、換言すれば、当座はドラマーとしての活動を控えよう、そして、作曲のために乙とC方を出ようと決意した(そして、その結果、乙はCの世話等から免れ得る)という点にあったと見るべきである。そして、このようにDが、高校時代から十数年間練習し実践してきたドラマーとしての活動を控えようと決意するに至る過程においは、前示のとおり、甲が、一月ころから既に、Dに「お前は『神様の歌』を作れる」などと同人の作曲能力に対する過大な評価の言葉を口にしていたこと、Sのところからの帰途における乙の「作曲が天職という趣旨ではないか。」などという発言、更に、二月九日から一〇日にかけて、甲が「これからDがやって行く仕事は作曲家一本だ。」等とドラマーを断念するよう発言したことなど、甲と乙のDに対する一連の働きかけが、相当な影響を及ぼしたと認められ、中田鑑定人の前記のような判断は、首肯し難い。

(四) 同鑑定書中の「三人精神病」の形成に関する記載は、以上に述べたとおり、その考察の前提となる諸事実の認定を異にするため、採用し型い。

なお同鑑定人は、二月一六日の時点で甲が「電気炬燵を利用して神棚を作った」と判断したようであり、右判断に符合する「私のアパートに引越しさせ、すぐ私は部屋に神の曲を作曲し易いような雰囲気を作るために、それに儀式として部屋中に白いシーツなどを張りめぐらせた。電気炬燵も、太陽の光を想像させるため、裏返しにして赤外線のオレンジ色の光が出るようにした。」旨の供述も存する(<書証番号略>)。しかし、前示認定のとおり、甲らが、右のような形で炬燵を置いたのは、二月二三日午後のことで、それまでは、一九日、甲が炬燵上の板に塩を入れた皿などを置いたほか、二一日、就寝する際に右炬燵の中に足を突っ込んで寝る等、炬燵のほぼ通例の用法に従って使い方をしていたに過ぎないと認められる。

(五) 同鑑定書は、両被告人の供述調書からすると、本件各犯行が悪魔祓いに動機付けられていると判断したが、前示のとおり、この点も、他の関係証拠との総合判断により認定した前示諸事実に反するもので、首肯し難い。

2 福島鑑定(甲分)からの批判

そもそも感応精神病(三人精神病と同義)とは、主に家族内において、一人の精神障害者(発端者)の精神症状(とりわけ妄想及び妄想観念)が他の一人以上の人々(継発者)に転移され複数の人々が同様の精神異常を呈する状態をいう」と定義され、感応精神病のケース報告では発端者(原発者)がほとんど精神分裂病など妄想性の精神病者が多い。また継発者(追従者)は真の精神病者でなく、発端者の影響・感応を受けて、心因反応として妄想などを共有し、発端者と引き離すとただちに妄想を失って正常になることが多い。ところが、本件の三人の中には、もともと精神分裂病など真性の発端者であった者がいない。中田鑑定によれば、甲は精神分裂病でもなく、てんかんでもないという。従って、中田鑑定は、発端者であるとされる甲を含め三人すべてが心因反応であるという。しかし、このような事情は、二人精神病(三人精神病)の定義に反する。また従来の内外の数十例の事例報告でも、発端者が真性の精神病でないという例はほとんど類を見ない。またこの集団が殺人や逮捕によって消滅し、両被告人が隔離されても、継発者とされる乙の非現実的な確信が失われず、ますます確信の度を強めている。これは、三人精神病としては考え難い。

3 小結

以上のとおり、中田鑑定(甲分)においては、鑑定判断の前提となる諸事実の認定、判断が、その判断資料の制約、評価の相違等から、本件関係証拠を総合判断した当裁判所の認定と異なり、これが鑑定結果にも影響しており、またD及び両被告人の状況は、通常の感応精神病の場合と大きく異なると認められることなどから、同鑑定(甲分)は、これを採用し難い。

五  福島鑑定(甲分)の概要

福島鑑定書(甲分)の鑑定主文は、「本件犯行当時の甲の精神状態は、側頭葉てんかん患者で、かつ宗教的な支配観にとらわれていた。従って、責任能力は存在していたが、その程度は多少とも低下していたことも考えられる。」というのであり、その概要は次のとおりである(本項記載の頁数は福島鑑定書〔甲分〕の頁数である。)。

1 動機の形成(二一ないし二六頁)

(一) 甲は、かなり迷信的な母親の影響を受けて育ったものの、もともとは無神論者をもって任じていて、特定の宗教に関わることは殆どなかった。同四九年ころ、母親に連れられて神示教会の支部長Eを訪れた時も、四か月ほどで行かなくなった。このころ、Dがこの教会の熱心な信者であり、Eから目をかけられていた。甲は鑑定人に、当時Eが「Dは耳の形が良い。」「神の子である。」というのを聞いたという。これが事実か追想妄想かは分からないが、甲がDを「神の曲を書くべき選ばれた人である。」と見なす観念を持った背景としては、このような経緯も関与していることが考えられる。

(二) 同六〇年から六一年にかけて、甲は、心身面・経済面を問わず、人生のどん底状態だった。甲がEに関する神秘体験をしたのは、そのような人生の谷間においてであった。そして、それは、彼の生き方とアイデンティティを根本的に逆転させた。このころEが甲の夢枕に立って、昔予言したことを彼に回想さたせともいう。同六一年から翌六二年一月までの間に、十数年前に聞いたEの声が突然聞こえ、先生が十年前に予言してくれた通りのことが自分の上に起こったものとしてパノラマを見るようにはっきりと目の前に表われた。更に「声」が「金を持って来てくれる人がいる。」と言ってまもなく兄が土地の金の甲の取り分を持って来てくれるに及んで、甲はEの言葉(と彼が信じるもの)を信じるようになった。これは一種の幻覚体験であったと思われる。Eの幻覚体験がいつかという点についての甲の供述は一定しない。「大体、茅ケ崎の時」というが「昔、E先生と話をしている情景が見えた。」という表現をすることもあり、「藤沢時代にも、E先生が目の前に表われ、ものすごく喜んでいた。」と述べることもあるので幻覚体験が曖昧なのか、複数回であるのか、両方の可能性がある。甲は、鑑定人に「昼間、道を歩いていたら、空にEさんの顔が現われて、ほんわかした気分になっていらいらが安らいで、先生が守ってくれているという気持がした。」「E先生はまた神の戦だとも言った。これは最近になって、拘置所に入ってから思い出した。」などと言った。

(三) Dと甲は、従兄弟同士であり、二人が「三河島にいたころはあの子をおぶったこともあ」り、横須賀では家が隣同士であったこともあって、甲はDに「兄貴、兄貴」と呼ばれるような親しい関係であった。しかし、Dの成人後は、同人が神示教会に熱中したりして、甲の思うようにならなくなったこともあって、殆ど交流がなかった。特に前件で勾留中に、Cが甲母子の保釈金を貸してやらなかったことから両家は交際がとだえ、同五九年に甲母子が東逸見を離れるに及んで絶縁といってもよい状態が続いた。しかし、同六一年末ころ、甲が、「突然Dに会いたくなって」東逸見を訪れた。この時Dに会って、甲は何故か心を動かされるところがあったようである。甲は、「しばらく会わないうちに、すっかり大人になって良い顔になったと思った。E先生が死んでから、この子も苦労して男になったのだと思った。成長して一人前になったと感じた。顔が上気したように赤みがかかって、僕がこの子をなんとかしてやらなければならないと感じた。」と語った。たまたまこのころ、Dは自分がリーダーをしているバンドに行き詰りを感じ、バンドを組み替えたり、ヒット曲を出さねばと思って、「心が揺れていた」ので、甲の相談や援助を受け入れやすい状態にあった。同六二年六月三日、鑑定人の「神様が君に降りたのと、Dに会ってなんとかしてやろうと思ったのはどっちが先か。」との質問に対し、甲は、「会ったのが先ですね。あの子の顔にほてりがあって、私が燃えたんですね。初めは何げなしに行った……その時はまだ神が降りたという気持はなしに行った。」と応え、「それでは神が降りたのはいつか。」との質問に対し、「やはりI4のアパートにいた時かな。あの時は勘がビシビシ冴えていましたからね。無意識に湧いて来るのです。頭で考えるのでない。自分でしたくてするのでなくて、している。I3に何か言ったりしているのも、自然にそういう雰囲気になったんですね。」と応えた。この供述では、神が降りたのは二月一五日になり、Dらの話を記憶している関係者の供述とは時期的にずれる。また、甲自身、同年五月六日には、鑑定人に対し、I3のところに行った時に降りたのですよ。」と言い、一定しない憾みがある。しかし、上記供述からすると、甲の神がかりは、幻覚体験から直接直感したわけでもなく、またいわゆる憑依体験でもなく、自己の直感の冴えや指導性の自覚から、「自分は全能的であり、したがって、自分には神が降りたのだ」と解釈しているようである。いずれにせよ、甲は、同六一年暮ころからD夫婦のもとに度々出入りして、音楽関係や住宅の相談を受けた。甲は、まず、C方が窪地にあって湿気が多く老朽化しているなどのことから、ここを出るべく新しい家を捜す手伝いを熱心にするようになった。

乙は、夫の将来を案じて横浜駅西口相鉄ビル地下の街頭占い師に運命を見て貰ったり二月一日には夫婦で大森にSなる運命判断師を訪問して、Dが音楽家として成功するかどうかを占って貰い、自分の将来を相談している。従って、このころまでに、甲を自分達の唯一無二の救い主と確信していたかどうかは疑わしい。しかし、二月二日ころ、Eの娘E2がDを呼んだ際、Dは、「今、兄貴が頻繁に来てくれている。兄貴は『おれには神の声が聞こえる。神のお告げは、Dは神の曲を作るべき人間で、何百人に一人の人間だと言っている』『お前はおれが守るから良い曲を作れ』と言っている」などと彼女に話した。同月八日、Dはバンドを解散して、新しいバンドを組織することを決意した。

同月九日、甲は、不動産の取引の相談のため、数人の関係者に藤沢駅前のビルの喫茶店などで面談したが、その様子については全く異常が認められなかった。同日甲は、D夫婦とともに横須賀市内の「H不動産」を訪問して、東逸見の家を売り新しい家を買う相談をしたが、この時応対した不動産屋も三人の精神状態に異常を認めていない。同日午後五時、甲はD夫婦とC方に来て「神の曲」について熱心に語り、「良い曲を作るにはここでは駄目だ。三人で家を出よう。」と提案した。Dと乙は、甲の話がこれまでに相談した占い師などの話と極めてよく一致すると思い込み、甲の言説を信頼するにいたった。三人は翌朝まで話し込んでいた。同月一〇日、甲はL2とゴルフ場に関する商談をした。この段階までに、三人に会った人々で、彼等の精神状態に異常を感じた者はいない。Dは甲に神が降りたという意味のことを述べているが、これを聞いた人々がこれを異常と感じたかどうかは分からない。

2 狂信とその共有(二六ないし三二頁)

(一) 前記バンドは、二月一二日のコンサートで、三月一五日に解散することをボーカルのKが宣言した。演奏終了後の仲間らと居酒屋に行ったDは、I3、I2、Iらの仲間に「兄貴は霊感を持っている。」と話した。

(二) 同月一三日夜、D夫婦と甲、I5の四人は、バンド仲間のI4のアパートに部屋があるというので見に行ったが、この時Dは、「兄貴は無神論者だったが、神が急に兄貴に降りた。」と仲間たちに述べた。その後、三人は酒屋「番屋」に赴いたが、Dが飲酒してCの好きな軍歌「歩兵の本領」を歌うと、甲にはDがCそっくりに見えたので、甲は「悪魔がお前を世に出させない。お前の両親には悪魔が憑いている。」「家に帰るな。」と言った。Dは軍歌を歌うなという甲の指示に反抗して、「親は敬うもので、育てて貰った恩がある。」などと述べ、甲は、「お前にそう言わせているのは悪魔が言わせているのだ。」と談じた。Dは説得された。甲はますます、Dに家出をさせて親の影響から引き離さなければならないと思った。

甲は、同六二年六月三日、鑑定人との間に次のとおりの問答をした(「」内は甲の答え)。Dが軍歌を歌ったのはどういう意味があるのか。「あの子じゃない。親父の顔になっていた。親の執念みたいな顔になっていた。」、Dは、親には恩がある、と言ったのか。「そんなことは言わない。しかし何しろこれでは駄目だという感じがした。」、親子の関係を君はあまり好まないのか。「本当の正義、本当の愛情ならよいが、エゴイズムはいけない。」、君はDを自分の思うとおりにしたかったのか。「正義の心ですよ。自分を捨てて無欲でやった。無欲になると全てが見えてくるのですよ。」、全てが見えてきたのはいつか。「二月九日前後。神の知らせが来た。『神の知らせを音に出せ』と。」それでは悪魔の業が最初に見えたのはいつか。番屋で見たのが最初か。「I3の所でも見た。I4のところでは壁に出た。悪魔が姿として見えた。」

(三) 同月一四日未明、三人とI5は、自動車でバンドのメンバーの一人であるI3の部屋に赴いた。これは、「親の許に帰らない。」という意味があったようである。午前八時ころ、甲は藤沢のアパートに戻り、午後五時ころI3方に来た。午後八時、I3はアルバイトに出かけた。

(四) 同月一五日朝六時ころ、I3が帰宅すると、甲と乙がDに、「神の曲を書け。神の曲を書け。」と強要していたという。しかし、午前一一時ころ、三人はI3の家を出て、I4の家の隣りのアパートに移動した。同日午後、甲は長井のB方を訪れ、金を要求して貰っているが、同女は鑑定人に、この時の甲は、「真っ赤な目をしてやつれた感じだった。せかせかして、急いで帰るので、何か変だと思った。」と語った。なお、L2は、この日甲と上野駅で仕事で待合わせる約束をしていたが、電話で一方的にキャンセルされたという。甲は、Dのことで夢中になりながらも、まだ一方では別の社会的・人間関係について配慮し、断りの電話をする能力があったことになる。午後八時ころ、甲はDを銭湯に連れて行き、自分は脱衣場にいて「Dが悪魔に取り付かれないように見張っていた。」この夜、甲は、このアパートの唐紙のしみを悪魔と見て、「悪魔封じの儀式」を行った。「悪魔はキラキラ光って死んでいった。」が、その日、甲は、眠らずに悪魔が出ないようにDを見守り、監視していたという。D、乙、I4の三人は、悪魔に関する甲の言動を真に受けて、甲の命じるままに「悪魔封じ」の手伝いをした。

(五) 一六日朝四時から、Dは「神の曲」を作るよう努力して「かごめ、かごめ」に似た曲を作ったらしい。この一五日ないし一六日の間、Dは一種の心理的退行状態に陥ったようである。即ち、Dは全く受動的になり、甲や乙の言うがままになった。「赤ちゃんのようだった」。また、彼は「核戦争が起こって人類が滅亡するから、僕が神の曲を作って平和にしなければならない。」などと言ったという。

同六二年五月六日、甲は鑑定人の質問に次のとおり応えた。

Dには赤ちゃんのようになった時期があるのか。「一五日だかに、寝て起きたら赤ちゃんのようだった。あれがあの子の本当の姿なんです。」、純粋無垢な感じ。「まったくその通り、素直そのものでした。」、その状態はいつまで続いたのか。「大勢で、皆がワーッと押掛けて来た、あの晩くらいまで。顔は青みがかった蝋のような白さで、乙もそんな顔になっていた。あの時は三人とも神界に入っていた。三人とも欲のない人間の顔で嫌味のない顔だった。」

一六日午前(福島証言<丁数略>で「午後」を「午前」と訂正。)、両被告人とDは、自動車でドライブしながら話し合い、I4のアパートには悪魔がいるから「神の曲」作曲には不適当であるとして、甲方居室に移ることにし午前中に転居した。I4も同行した。午後、甲は自分の預金通帳と印鑑を乙に託して解約・払戻しをさせ、その金を乙に預けた。甲は、彼等三、四人で一種の生活共同体を始めようとしていたようである。

(六) 同月一七日未明、眠りから目覚めた甲は乙の顔を見て「お前の顔に鬼がいる。」と言い、乙の目を見つめて「鬼よ、出て行け。」と言ったという。同夜、甲はI4らに命じて自室に白い布を張り巡らすなどの「環境整備」を行っている。同夜、I3からの知らせで甲らの行動に不安を抱いたバンド関係者やE2が、甲方居室にやってきた。甲は彼等の入室を拒んだが、彼らがI4、D、乙と話すことは禁じなかった。結局、I4は、仲間の説得に従って集団から離脱し、Dは迷いながらも、乙に励まされて甲方居室に残った。

同六二年五月六日、甲は鑑定人に対し、次のとおり応えた。

E先生の娘が他の人達とアパートに来たのは覚えているか。「E先生の娘達は、Dを帰せと言って来た。僕は、本人同士で話せと言ってやった。I4だけ一緒に帰った。何故、皆でワーワー言って来たのでしょうね。」、皆が来ない方が結果が良かったと思うのか。「人間界のことなんですね。違うんですよ、次元が。」

この時点での出来事に対する甲の記憶は正確で具体的であるが、その意味付けが独特である点が注目される。甲は、自分の信念に従って行動しているが、それを他人の目から見てどう見えるかとか、常識的にどういうことかという点については、もう全く考えることがなくなった。精神的視野が狭まって、神や悪魔に関する観念のみに支配されていた(支配観念)。

(七) 二月一八日夜、バンド関係者らから事情を聞いたCや乙の父親もアパートにやって来て近くのレストランにD夫婦を連れ出し、翌一九日午前一時まで二人を説得した。夫婦はC方に帰った。Dは、母や弟に「僕は神の世界に行って来たよ。」と話したがその言葉つきや様子に異常はなかったという。Dのいう「神の世界」とは、退行状態における夢幻的体験を回想したものであろう。関係者の供述などによると、一八日の夜応対に出た甲とDの言動には特別に異常と感じられる点はなかったという。R3も鑑定人に対し「前の夜に行った人から、三人とも顔つきが変って狐みたいに目が吊り上がっていると聞いて行ったが、私の行った時には三人とも普通の落ち着いた様子であった。」と述べた。甲自身も、成り行きの詳細を記憶している。しかし、R4は、一六日ころのこととして、「四人とも両眼が吊り上がっており、本当に狐にでも浸かれたような顔だった。」と供述している。このころ、被告人両名は殆ど眠らず、食事も簡単なものに限られていた。Kも、「Dはおかしなことを言っていたが、甲は、われわれの話をただ笑って、『どうぞ続けてください』というだけであった。」「目がとろんとして普通の顔ではない感じ。」という印象を述べている。Oも、「四人は何かにとりつかれているのではないか。顔色は青白く、目が吊り上がっていた。」と述べている。一四日から一八日ころまでの三人の精神状態には、狂信的な観念(悪魔や神の曲についての非現実的な観念)の共有が認められる。また、睡眠時間の不足や栄養の不足などによって、一種異様が外貌を呈していたことも否定できない。もっとも、その異様な外貌は持続的なものではなかった。

(八) 同月一九日午前九時ころ、甲は、D夫婦を再び自室に連れ戻した。その深夜、関係者が再びD2の店で話合を持ち、DはOの家に、乙は横浜市の実家に引き取られた。しかしDは、Oに懇願し、二〇日午前二時ころ、甲方居室に戻ってしまった。<書証番号略>では、一九日、Dは、「自分が気違いに見える。」とか「兄貴にも魔神がついている。」などと言ったが、この時の顔は目が吊り上がり、眼球が赤黒く、顔は青黒く、映画「エクソシスト」の少女のようであったと供述している。このころから、Dは作曲に対する意欲を失い、甲に対する絶対的信頼が揺らぎ、時には甲の神がかりに疑惑を述べるようになったようであり、これに対し、甲が怒りや焦りを感じたことは想像に難くない。午後九時ころ、Dは乙の実家に電話をかけてきたが、父親が受けて娘に電話に出すことを拒んだ。二一日午前九時ころ、Dは乙の実家に電話をかけ、母親が出ると乙を呼出してもらい、乙が出ると甲が電話口に出て、「夫が神の曲を書くために、妻として一緒にいてやれ。」と命じた。乙は、実家を出て、甲方居室に戻った。同日午後一時ころ、甲は、「悪魔をDから追い出すために」、塩を皮膚に擦り込んで揉んだりした。午後三時ころにはDの目を見つめて「悪魔祓い」を行った。

この間、三人は入浴したり、簡単な食事を乙に近くのスーパーで買って来させて食べたりしている。睡眠時間は相変わらず少なかった。悪魔祓いに用いる塩や、塩の擦り込みによって生じるビランを治療するためなどの薬品類や食物を買うために、甲は乙をしばしば近所の薬屋等にやっている。換言すれば、三人は決して閉鎖的な集団を形成していたわけでも、完全に外界から孤立して閉じこもっていたわけでもない。

3 殺害・死体損壊(三二ないし三七頁)

(一) 同月二二日、甲は、Dについたと信じられた悪魔を祓うために、「塩揉み」などの悪魔祓いを行っていたが、効果はなかった。「塩揉み」による苦痛はDを苦しめたようである。甲は、かつて見たオカルト映画「エクソシスト」ⅠⅡを模倣して、割り箸をセロテープで止めて十字架の形にして振りかざしてみたり、脱脂綿に水道水を含ませて聖水としてDに与えたりしたが、効果はなかった。甲は悪魔がDを乗っ取ったかのように感じた。そこで、甲は、「悪魔を追い出すために、Dの肉体を殺し」、更には、「Dの体から悪魔を追い出して清めるために」死体をバラバラに解体した。同日午後、甲は乙にDの膝・下腿などを縛らせ、押さえさせた状態でDの上に馬乗りになって、その頚部を絞めて殺害し、それからほどなく、甲は「死体の頚部に悪魔がいる。」と言い出し、その皮膚を切り裂き、頚の骨が悪魔だといって頚椎を摘出した。

(二) それから外科の看護婦であった乙と協力して、Dの死体に次々と手を加え、皮を剥ぎ、眼球・脳・内臓などを摘出し、筋肉を骨から削ぎ落とすなどして、二五日午後八時五〇分の逮捕までの二昼夜の間に、死体をほぼ完全に解体してしまった。内臓の一部は細分されて下水に放流され、その余の部分は塩付けにされてビニール袋などに入れられ「封印」されていた。

(三) 同六二年六月三日、甲は鑑定人と次のとおりの問答をした。

殺した時のことはよく覚えているか。「覚えています。」、膝を縛ったのはどうして。「何時結わえたかは覚えていないが、結わえた覚えはあります。」、Dが死んだということはどうして分かったか。「そこの所は覚えていない。」、死ぬ時のDは息をゼイゼイ、スースー言わせて苦しがったのではないか。「そんなことはない。苦しまなかったと思う。」、死体をバラバラにしたのは何故か。「自分は何も考えていない。何も考えないでやった。」、悪魔が見えたのか。「最初に首の所に出た。それから体中に出た。湧くんですよ。今では神の指示があったと思っている。手が勝手に動くんですよ。野球で選手が球を無意識に打てる。お茶でお点前が無意識でできる。ああいう感じですね。」、死体を損壊したのも、そういう君の無意識でやったのか。「無我の境地ですね。」、そんなことしたらまずいんじゃないかとかは全然考えなかったのか。「当時はなかったですね。」、自分のやっていることが重大なことだという認識がなかったか。「ないです。」、Dを殺したんだという認識はどうか。「人間だという意識はなかったですよ。悪魔そのものだと思っていました。」、考えはともかく、死体を扱っていて、感覚的に気持悪いとか吐気がするとかは。「それが全然なかった。」、今はどう。「今でも、人間だと思っていませんから。」、悪魔なのか、それとも悪魔に乗っ取られた人間なのか。「同じでしょう。あの時は、人間でないと思っていた。」、今では、Dさんの死体だったという認識があるのか。「ありますよ。それは皆がそう言うから。その時に『お前は誰か』と聞いたら『私は悪魔だ』と言ったので……(頭を抱えて)……こんがらかってきたなあ。しかし、自分があの子を救ったのだという気持ちがあります。次元が違うんです。ここの法律とは違うんです。」殺してから死体をいじったのは、頚の後が最初か、頚の骨を取ったのはなぜか。「見てて。ポッと湧いたのですよね。それで鋏で切ったら、女の性器に似ていたので……。中に悪魔がいるように見えた。それで、その悪魔を取らなければいけないと。悪魔の顔か何かが見えたから。」、女性性器というのは悪いものなのか。「いやらしい感じだった。」、警察に捕まった時は、人を殺してしまったという意識はあったか。「あの子が死んだという意識はなかった。今では死んだと思っている。肉体はね。でも、あの子はここ(自分の胸を指す)に生きているんですよ。私はあの子の魂を救ったんですよ。」

(四) 両被告人は、二二日夜から二三日朝にかけて死体と同じ部屋で睡眠を取っている。また、甲は、食事、塩、必要品などの買物に乙をスーパーなどに行かせている。甲は、二三日の夜ころから、乙に悪魔が憑いたと言って、顔の八箇所に塩を擦り込んで揉んだ。二四日夜八時ころ、心配したDの母らが甲方居室を訪れ、扉を叩いているが、両被告人は、息をひそめて彼らの立ち去るまで気配を消していた。両被告人は、部屋の外部の出来事を正確に把握し、自分達の行動を妨害されることのないように的確な行動を取っている。しかし、外部からの刺激によって自分の行動の異常さに気付くとか、逃走しようと考えることはなかった。二五日未明、シャワー、食事のあと両被告人はまた就寝しているが、甲は隣に寝ていた乙の右乳房を掴んで揉んだ。この行動について、甲は、胸に「悪魔がいるから」という時と、乙の自分に対する「信―不信」を試すためという時がある。乙は、衣類をまくって、塩は使わずに数分揉まれたと言い、甲は、着衣のまま乳房を掴んだと言う。しかし、二人は相互に恋愛感情を抱いたことはなく、また上記の行動以外には、接吻・性交などの性的・肉体的接触はなかったという。

鑑定人と甲との応答 乙の胸を揉んだりしたのは、やはり悪魔が見えたからか。「そうです。」、それなら、この時だけ塩を使わなかったのはどうして。「あれは、神がやったんです。私がしようと思わないのに、手が自然に動いていたんですよ。あれは神がやったんです。」。ちなみに「発作」に関して聞くと、甲は、「藤沢の移ってから気分が悪くなったり、睡眠中に頬を噛んだりしたことはない。」という。また、共犯者の乙も、「発作らしいものに気付いたことはない。」という。

4 逮捕後

逮捕日の警察官に対して、甲は、「Dが悪魔を祓ってくれというので、祓うために殺した。」「その後、悪魔がいたので頚を切って、骨を出した。翌日、内臓を鋏で切って出した。その後、身体を塩で揉んだ。」などと供述した。同日付の上申書でも、Dを殺したこと、悪魔をDの体から追い出そうとして馬乗りになって首を絞めたこと、その後の死体損壊の順序・方法などについて比較的詳細に、整然と、自筆で書いている。二六日には、死体損壊の用具を答えている時に「発作」を起こし、湘南第一病院に搬送され、その後、横浜拘置支所に移監された。以後も、警察官・検察官に対する供述は順調に進んだが、時に沈黙や拒否を示すこともあった。

5 側頭葉てんかん(五八ないし六二頁)

これは、脳波所見、現在の精神状態、過去の病歴の三つから確実に診断し得る。「側頭葉てんかん」とは、「側頭葉に焦点を持つてんかんをいい、側頭葉発作は精神運動発作とほぼ同様に用いられる。レノックスは自動症発作(各種の自動症を示しあとに健忘を残す発作)、主観性発作・精神発作(錯覚や幻覚を主として夢幻様発作ともよばれるもの)、強直性焦点発作の三者を精神運動発作三型と呼び、これに運動・表出の停止とを加えて精神運動発作あるいは側頭葉てんかんと呼んでいる。側頭葉に焦点を持つてんかんにはこのほか聴覚性発作や臭覚性発作などがある。」「側頭葉は大脳半球のうちでも最も複雑な構造を持ち……焦点の局在部位と発作発射の広がり方によって発作症状が異なる発作発射が側頭葉中・後部、島などに初発し、これが海馬あるいは扁桃核にいたる投射を局在性に侵襲すると錯覚・幻覚が起り、その発作発射が扁桃・海馬系に達すると自動症が起こり、また鈎回・扁桃核・島皮質などに原発する発作発射によっても自動症がおこるといわれる。これらの精神運動発作は、発作発射がさらに移行すると全般性けいれん発作に以降することもある。……発作症状の他、性格異常やその他の持続的精神症状を伴うことが他の発作型より多い。」とされ、また、側頭葉てんかんでは、「多彩な幻覚体験が現われる。幻聴・未視感などの体験とともに、幻味・幻臭・パノラマ様の幻視などがあらわれ、鈎回発作という名称で知られている」とされている。なお、焦点発作を運動性発作と感覚的発作の二つに分け、後者を視覚性発作・聴覚性発作などと分類し、さらにこれとは別に経験的ないし精神的特性をもった発作を別に取りあげ「経験性幻覚」と「経験的錯覚」と呼ぶ立場もあり、それによると、経験的幻覚発作では、意識混濁がきわめて軽く、発作中の出来事(の記憶)がある程度保たれているのが普通で、またこの際現われる幻覚は患者の過去に体験した出来事の再現として現われる特徴を示すとされ、精神運動発作についての研究結果では、この臨床症状を次の四つの相に分類されている。第0相=主観発作相(幻覚・気分変調・夢幻様妄想など)、第1相=精神運動欠神相(身体の硬直、意識喪失)、第2相=口唇自動相(口をモグモグ、ペチャペチャさせる)、第3相=行動自動相(もうろう状態で手足の運動やまとまった運動をしたり喋ったりする)。個々のケースはこの中のどの相の発作を起こすかによって、0型からⅢ型までに分類される。

これまで得られた情報から、甲は主観的発作相と睡眠時の精神運動欠神相を経験しているので、精神運動発作の中ではⅠ型に分類されるであろう。甲の「側頭葉てんかん」の診断では、まず脳波所見が最も重要である。われわれの鑑定における脳波では、右の側頭葉に焦点を示す、棘波徐波結合、過呼吸時に現われる三―五ヘルツ、二〇〇マイクロボルトの徐波バーストは決定的な意義を持っている。更に、このような異常波が二月二六日の湘南第一病院においてもまったく同様に出現していることは、この所見が偶然の産物でないことを証明している。さて、「側頭葉てんかん」という診断のもとに甲の過去の病歴を検討すると、甲本人や家族らの供述がこの疾病の症状としてほぼ完全に証明できることが明らかである。すなわち、「過換気症候群」といわれた症状は、甲が過呼吸によって脳波上に発作波が出現することに厳密に対応する所見である。また、幻聴やパノラマ様幻視などは「経験性幻覚」「主観発作」「精神発作」などとして理解し得るであろう。甲が睡眠中に頬を噛んだり、タオルケットを裂いたりすることがあるという母親の供述が真実であるとすれば、甲には精神的発作だけでなく、睡眠中に強直性けいれん(右第1相)を起こしている可能性も高い。ただしこれは目撃はされていない。会話をしていて、時に虚ろな目をして黙り込んだり、ブツブツ独り言をいうというエピソードも多くの人によって観察されているが、これが軽い精神発作である可能性もある。もっとも、この際に意識の喪失や強直が観察されていないので、口唇自動症である可能性はない。また、甲には行動自動症はない。甲は同四〇年に自動車運転免許を取得し、二〇年以上にわたって自動車運転の履歴を持つ者であるが、この間に事故や重大な違反などは起こしたことがない(例外は同五八年九月のスピード違反程度)ので、覚醒時に発作が頻繁に起こっていたとは思われない。ただし、逮捕後の二月二六日の発作や、鑑定人面接時の緊張や目が開けられない訴えなどは、心理的・感情的刺激とあまりにも密接しているし、少なくとも後者での症状は発作というよりヒステリー的であるので、側頭葉てんかんの症状というだけで片付けることができない。もっとも、学説的にはてんかん発作が情緒的負担・刺激によって誘発されること(情動発作)もあるし、緊張・興奮から無意識的に過呼吸を行うこともありうる(たとえば、いわゆる光化学スモッグにおける集団発作など)から、これが「てんかん性」であることも一概に否定できない。心理的ストレス下で苦悶感・緊張などから呼吸を荒くしたりすれば血液のアルカローシスが起こって精神発作が起こりやすくなることは、脳波検査における過呼吸賦活からも容易に見られるとおりである。なお、二月二六日の症状が真のてんかん性発作であったとすると、その数日前の本件犯行時は、母親の指摘するような、てんかん性不機嫌状態にあった可能性もある。

過去における出眠時幻覚・金縛り体験なども、その生々しい知覚的性質からみて、正常者に見られるそれではなく、やはり、側頭葉てんかんの精神発作の一表現と見るべきであろう。「側頭葉てんかん」によると考えられるこれらの症状は、調査した範囲では、同五八年以降、すなわち、本件犯行四年前から自覚・観察されていて、幼児期・少年期・青年期には出現していない。しかし、頭部レントゲン写真・頭部CT撮影・眼底精密検査などによっては、現在までに脳の腫瘍・血管障害・外傷など重篤・進行性の疾病の存在を窺わせる所見はない。したがって、素質的に潜在していたものが中年期に出現したものと考えざるを得ない。現在の資料から最も考えられる原因は、未熟児として生まれ、仮死のエピソードなども加わり、幼若な脳が酸素欠乏に陥り、脳の一部の発達の障害が生じた可能性である。病因的にいえば、早幼児期脳障害・微細脳障害症候群ということになる。これは、普通、知能障害や神経学的障害を呈しないが、性格形成と行動に問題を示すものである。甲が幼児期に活発過ぎて幼稚園に適応できなかったり(過活動)、小学校で知能偏差値が平均以上あるのに学業成績が中位程度に止まった(学習困難)ことなどは、上記の診断を支持する所見かもしれない。

6 宗教的支配観念(六三、六四頁)

ある思考が感情的に強調され、他のすべての思考に優先し、この優先を長時間持続的に保っている場合、この思考または観念群を支配観念(もしくは優格観念)という。心理学的には探求者による真理への熱烈な追求やあるいは政治的・倫理的確信への情熱と区別できないが、ただ誤謬があることによってそれらの現象から区別するという学説があるが学者によっては、近親者の不幸について頭が一杯になるような、誤謬とも無意味とも言えないような固定観念も支配観念に含める場合がある。支配観念は精神病質者にも健康な人間にも、発明妄想・嫉妬妄想・好訴妄想としてあらわれるが、これらは了解不能な真性妄想とは厳格に区別され、また、支配観念は本人のパーソナリティーと生活体験の競合によって生じる。本人に異質なものと自覚されない点で自生観念と区別され、自ら苦しまない点で強迫観念と区別されるとも言われている。

甲の支配観念の内容は、「自分に神が降りた」「Dは神に選ばれた人間である」「自分はDを悪魔から守る使命がある」という信念である。これは、常識的にみてあまり根拠のない、誤った観念であろう。しかし、甲の側頭葉てんかんの幻覚や、D―甲の人間関係などを考えればその発生が了解できないものでもなく、真性妄想とは断定できない。甲がこの支配観念に熱中して、Dの生命安全も、自分自身の将来も考慮することなく本件犯行を敢行したことはすでに見たとおりである。

7 犯罪心理(六八ないし七一頁)

本件犯行は一言でいえば宗教的ないしオカルト的内容の支配観念・狂信の結果であってそれに付け加えるべきものは余りないように見える。憎悪・嫉妬・怨恨・男女関係、財産上の利益等、この種の重大事件としては考えられがちな世俗的な動機は、その存在の片鱗も見ることができない。逆に言えば、動機と結果の重大性のアンバランスが感じられるので、それだけ異様・不思議に見えるのであるが、宗教的観念とか狂信とかが常識的には考えられないような強い動因として人を駆り立てることがあることは、事実として認めないわけにはいかない。甲の側頭葉てんかんによる幻覚体験と本件犯行の遂行との直接的・具体的関係は、問診を重ねてもあまり明確で具体的な経緯を明らかにすることができなかった。これは甲の内省や応答の不誠実性にも基づいているのであるが、もともと幻覚体験と本件犯行の経過とが直接的に結び付いていないことを示唆する所見とも言える。甲の使命感の形成は、もともとEの幻視によって何かをしようと感じた後で、たまたまDと出会ったという偶然的要素が絡んで発生したものと理解される。

ところで、甲は、もともと主観的・自己中心的・お節介な性格を有し、かつ対人関係では指導的・支配的な傾向を有するので、甲の主導の許で共同生活が開始され、中断を挾みながらも持続されたものと考えられる。なお甲は自分の指導性や直感力を自覚し、信じられないような気持を持ちながらも、この万能感に酔っていたと思われる節もあり、それが「神が降りた」という表現を選ばせたとも考えられる。同六〇年ころ、どん底に落ち込んで負け犬的心境にあった甲は、この観念なり使命感の獲得によって、アイデンティティの一八〇度の転換を成し遂げることができたのであろう。しかし、もとより甲は宗教的素養や霊的能力があるわけではないから「神の曲」をDに作らせることができるわけではない。そこで当然、甲は挫折感なり焦り・苛立ちを感じざるを得ない。甲は自分がこれまで受けた治療(マッサージ)とか、映画で見た悪魔祓いの儀式とか、迷信的なアイデアを動員するわけであるが、この努力は当然不成功に終わる。ここで「悪魔」とは甲の意図を妨げる「もの」「こと」「こころ」など全てを指してそう呼ばれていたように見える。一体、悪魔とは抽象的な概念なのか実体的な存在なのか、現象なのか人格なのか、甲の説明は首尾一貫しない。

ともあれ、甲は、自分の使命感の遂行とその成功を妨げる全てを悪魔と呼び、それと戦い、それをDから分離するために、Dの肉体を痛め付けたり殺したりしなければいけいないと思うに至ったのである。殺人に至る経過で、甲は、底知れない絶望感に脅かされたに相違ないが、彼は自分の信念にますます固執することで、この絶望感を防衛しようとしていたのであろう。したがって、支配観念は常識的・世間的な顧慮を許さない程度のものとなり、甲は、馬車馬的に「悪魔を除かなければならない」「そのためにはDの肉体を殺すこともやむを得ない」「死後も悪魔を除くためには解体しなければならない」という目的のみを追求したのであろう。

甲は、現在、「殺したのは悪魔そのもので、Dではない」とか「悪魔に見えたから殺した/解体した」などと言って、対象の認識の錯誤があったかのように述べているし、心理テストなどでも甲が主観的な対象認知の独特の歪曲を持ち易いことは認められるが逮捕直後の供述調書と上申書とでははっきり「Dを殺しました」と述べているので幻覚や錯覚に基づいてやったとは言えない。Dを殺害し酸鼻な解体に進んだ動機としては、意識のレベルでは上記の「支配観念」しか考えられない。無意識のレベルまでを考慮すれば、自分の意のままにならなくなったDに対する怒りや敵意が考えられるし、その根底には甲の持つ心理的同性愛的傾向が関係しているものと想像されるが、鑑定期間中に得られた所見からはこの推測を確認することはできない。

なお、結果の重大さについては、上記の支配観念とともに、共犯者が外科勤務の経験のある看護婦であって、行為遂行機能に大きく関与したという偶然も大きいであろう。

8 精神分裂病の否定(六七頁。福島意見書〔鈴木鑑定分〕八ないし一六頁)

精神分裂病は内因精神病であり、身体的な疾病・異常などの基礎が現在までのところ証明されていない疾病である。シュナイダーの診断論(意見書13頁)も身体的基礎の除外を要求し、アメリカ精神医学会(APA)の「診断統計マニュアル第3版」(DSM―Ⅲ)の鑑別診断項目にも「器質精神障害(に起因しないこと)」が挙げられている。ところが甲には脳機能の異常(てんかん)があり。鈴木鑑定でも「脳のなんらかの軽度異常」が認定されている(鈴木鑑定書二三、五〇頁)から、「精神分裂病」と診断することは不適切である(意見書八、九頁)。予言的中を妄想着想とし、その他の宗教的神秘体験を精神分裂病でしか起きないとしている点(鈴木鑑定書一二頁)も誤りである(意見書九、一〇頁)。精神分裂病発病の時期に関する診断(鈴木鑑定書五一頁)も疑問である。

以上のほかは、鈴木鑑定に対する他の二鑑定からの批判(第四・二2)の項で紹介したとおりである。

9 三人精神病の否定(六五、六六頁。福島意見書〔中田鑑定・甲分〕二、三頁)

右の根拠については、前記中田鑑定に対する福島鑑定(甲分)からの批判(第四・二2)の項で紹介したほか、次のとおりである。

甲、Dは従兄弟同士で、少年時代に親しい関係にあったが、ここ数年は疎遠であった。二人が同六一年暮ころからまた急速に接近し、本件犯行前には数日間起居を共にする共同生活をして、Dは甲を「兄貴」と呼び、甲はDを現在「あの子」と呼ぶなどかなり親密な関係にあったことは事実であるが、長年生活を共にしてきた家族のような共同体意識があったとは思えない。もっとも今、甲は「今は自分の胸の中に入ってきた。身体の中に生きている」と称しているし、本件犯行前の共同生活の初期には自分の現金や預金を乙に委ねるなど、一体感を抱いているように見える。しかし、典型的な感応精神病に見られるような親密で持続的な長期の関係が彼等三人の間にあったとは言えない。乙とDは夫婦であり、また長年同じ信仰を持つ信者同士の間柄であったが、結婚生活は一年に満たない。夫と甲が急速に接近すると、夫と大体行動を共にして甲と接近し、二月一三日以降は甲と夫との三人の共同生活に入っていたが、その間には婚家や実家に戻るなど中断期間もあり、また甲方居室にいる間もしばしば買物にスーパーなどに出かけているので、三人で外界と隔絶した生活を長期間送ったわけではない。Dも乙も神示教会の信者としての履歴が長く、神の存在を信じており、他方で占い、運命判断など神秘的・オカルト的なものへの関心も強い方であったから、甲の神秘体験や宗教的な言説を比較的抵抗なく受け入れる素地があったと考えられる。従って、本件犯行に至るこの三人の関係は、典型的な感応精神病ということは困難で、むしろ「集団ヒステリー」というに近い。

なお、この感応状況で「発端者」になぞらえうる役割を果たしたのは甲である。甲は、側頭葉てんかんによって体験した幻覚などに基づいて、救世主妄想(メサイヤ・コンプレックス)ともいうべき宗教的妄想を抱きつつあったであるが、当時たまたま音楽活動に悩みを抱いて前途を模索していたD夫婦のニードと偶然にも一致した。そこで彼等三人は「神の曲を書く」とか、その意図・営為を妨害する「悪魔を祓う」という想念の虜になったのである。要するにここで共有された観念とは、感応精神病の定義として要請されるような「妄想」というよりは、宗教的な立場に立てば心理学的に十分了解可能な「支配観念」であったと言うべきであろう。そして、この支配観念は、確かに相互的な共鳴・増幅のメカニズムによって次第に肥大して本件犯行へと駆り立てて行ったのである。

しかし、この集団が殺人や逮捕によって消滅し、両被告人が隔離されても、継発者とされる乙の非現実的な確信が失われず、ますます確信の度を強めている。これは、三人精神病としては考え難いことであり、乙の確信が「感応性」のものというより、むしろ個人的な「支配観念」であったことを示唆する。

六  福島鑑定(甲分)の検討

1 右鑑定は、その判断の前提となる事実関係の大半は正確に把握、分析しているものの内容のうち、前示認定の被告人らの身上経歴等、犯行に至る経緯及び犯行態様に反する部分は、採用し難い。特に、(一)甲の神示教会への入信、(二)甲がEから予言を受けたこと、(三)二月一五日夜、甲がI4方の唐紙のしみを悪魔と見て、「悪魔封じの儀式」を行い、D、乙、I4の三人は、悪魔に関する甲の言動を真に受けて、甲の命じるままに「悪魔封じ」の手伝いをしたとする点、(四)同月二二日、甲はDに憑いたと信じられた悪魔を祓うために「塩揉み」などの悪魔祓いを行っていたとする点、(五)甲は「悪魔を追い出すために」Dの肉体を殺し、更には、Dの体から「悪魔を追い出して清めるために」死体をバラバラに解体したとする点、(六)残された遺体の一部が塩付けにされてビニール袋などに入れられ、「封印」されていたとする点は、関係証拠を総合判断すれば、いずれ首肯し難いと言わざるを得ない。

右(六)の点について補足すると、前示のとおり、逮捕直後の甲方居室に遺留された幾多のビニール袋類の口は、いずれも男結び等にされているだけで、「封印」を思わせる特別なものが施されたものは存せず、また、甲の捜査段階における供述、たとえば、内臓を三重位にして入口を結んだ、口を丸めて締めたなどの各供述が存するだけで、「封印」したという供述は全く存在しない(<書証番号略>)。

結局、同鑑定人は、面接時に甲が同鑑定人にしかく陳述したためか、遺体の残った部分を入れた袋には「封印」があると誤認したものと言わざるを得ない。

2 更に、福島鑑定(甲分及び乙分)は、捜査段階における検察官の鑑定嘱託により施行されたものであって、本件審理開始後のもの等多くの証拠資料を検討し得なかったこと、また、本件殺害の犯行及びこれに至る直接の契機たる「塩揉み」に至るまでの経緯、これに対する甲自身の独特の理解に徴すると、これに基づいて甲が抱いたであろう怒り、忿懣等は無視し難く(これらが犯行の背景にあることは、前記のとおり右鑑定においても示唆されているところである。)、また、関係証拠の総合判断により認定される前示二月上旬頃から二一日までに至る間の両被告人とDの人間関係を検討すると、この三名の間に一つの目的があり、狂信(悪魔祓いの観念)を共有していたとは認め難いことも前示のとおりである。

3 甲に側頭葉てんかんの障害があるとの判断についての他二鑑定からの批判は、前記のとおりである。

4  以上の諸点からすると、福島鑑定(甲分)は、鑑定の時期及び資料にかなりの制約があったことなどから、その判断の前提となる事実関係の認定を異にし、これに基づき結論を導いたことが明らかであり、また、その側頭葉てんかんとの判断も、相当でないと認められるから、これを採用することはできない。

第四  乙の責任能力に関する判断

乙の責任能力に関しては、1 中田修作成の鑑定書(<丁数略>)及び9回中田供述(<丁数略>。以下、これらを併せて「中田鑑定(乙分)」といい、各別には、前者を「中田鑑定書(乙分)」、後者を「中田証言(乙分)」という。)、2 福島章作成の鑑定書(<丁数略>)、福島章作成の「中田鑑定についての意見書(乙)」(<丁数略>)と題する各書面並びに、証人福島章の当公判廷(<丁数略>)における供述(以下、これらを併せて「福島鑑定(乙分)」といい、順次、「福島鑑定書(乙分)」、「福島意見書(中田鑑定・乙分)」、「福島証言」という。)が存し、両者とも、乙の脳波に軽度の異常が存する点では一致するが、中田鑑定(乙分)は、乙が三人精神病の状態にあったとし、福島鑑定(乙分)は、悪魔祓いという宗教的観念に支配されていたに過ぎないとして対立するので、以下に判断を示す。

一  中田鑑定(乙分)の概要

中田鑑定書(乙分)の鑑定主文は、「乙は、本件犯行時、三人精神病の心因反応の状態で、意識は清明であるが、昂揚した気分で、感情、思考が著しく抑制された、意識変容状態にあり、責任能力が欠如していたと判断されても差支えないような状態にあったと思われる。」というのであり、その判断の概要は次のとおりである(本項の頁数は中田鑑定〔乙分〕の頁数である。)。

1 家族歴 乙には、遺伝的には、そう目立ったことはなく、その家系には、調べた範囲では、精神病者、精神遅滞者、犯罪者は見当たらない(三ないし一四頁)。

2 本人歴 (一) 出生時は、満期、正常産。体重3.75キログラム。発語・歩行開始は、普通。大病なし(一四、一五頁)。幼稚園時は、二ツ井の幼稚園から秋田市内の幼稚園に転園、寝ぼけあり。小学校の在学状況。同四一年四月、秋田市立旭川小学校入学、同四一年九月、町立二ツ井小学校へ転入、同四七年三月、同校卒業。学業成績は、四年次の算数が「5」、音楽(二年次、四年次、五年次)と国語(四年次ないし六年次)が「4」、六年次の体育が「2」、その他は「3」。乙の陳述するところでは、四年次ころから赤面症があり。五年次ころから朝礼時に脳貧血でたおれることもあり、中学まで、車酔いの癖があった。両親の陳述するところでは、小学校一年次まで夜尿があった(一五頁)。悩みごとなどを両親に相談したことなく泣き虫。五、六年次のころ犬が死んで悲しんだことがあった(三九、四〇頁)。学校の記録では、一年次、素直、快活さに欠ける。二年次、素直、元気足りない。指しゃぶりの癖あり。三年次、恥ずかしがって発言しない。言われたことは最後までする。四年次、目立たないがしっかりしている。五年次、積極的でない。身の回りはきちんとしている。六年次、だんだん消極的な子供になってきた。休み時間中は楽しそうにおしゃべりし、遊んでいる。

(二) 中学校在学状況は、同四七年四月、町立二ツ井中学入学、同四八年九月、神奈川県綾瀬都立綾北中に転入、同四九年四月、横浜市立舞岡中転入、同五〇年三月、同校卒業。

学業成績は「5」はなく、音楽(全学年)、国語(一年次)、英語(二年次)が「4」、理科(二、三年次)、美術(二年次)、保健体育(二年次)、社会(三年次)が「2」、その他は「3」。性行に関する学校の評価は、一年次、小さいことにあまりくよくよしない。二年次温順。三年次、おとなしい性格だが、自分なりの意見を持ち、芯はしっかりしている。おおらかな性格。各項目の三段階評価では、三年次には、情緒の安定、寛容、協力性が「A」。中学卒業時に看護婦を志望した理由は、「一番なりたいのはコメディアンだが、親が許しそうもないし、素質もなさそう。音楽家・通訳になりたいと思っても、とてもその素質はない。勉強が嫌いだから、高校は無理。経済的にも、親は看護婦になってもらいたがっている。看護婦になると、親元から離れられる。」

(三) 中学卒業後正看護婦資格取得までの経歴 同五〇年四月、鎌倉市大船の大船中央病院に勤務しつつ育生会技術専門学校に通学(二年後に準看護婦の資格取得)、同五二年四月県立湘南高校定時制入学、同五四年九月、大船中央病院辞職、同五五年一月、大船中央病院を退職した医師(吉田元久)が開設した吉田整形外科病院勤務、同五六年三月、県立湘南高校定時制卒業、同五六年四月、湘南高等看護専門学校入学(三月とされているが、四月の誤り。)、同五九年三月、同専門学校卒業、同五九年六月、正看護婦資格取得。

(四) 高校 学業成績は、一年次から四年次まで、合計三八単位のうち、「2」が二単位、「3」が一六単位、「4」が一五単位、「5」が五単位。性行は、協力性が一年と四年次に「A」。

3 身体的既往歴(二三ないし二七頁)

(一) 初潮は一三歳ころ。月経時、頭、腹、腰が痛む。イライラする。小学校高学年から脳貧血。中学では車酔い。一七歳ころから、殆ど毎日午後三時から八時ころまで、頭がずきんずきん痛んだ。特に目の奥が痛い。一七歳ころに気がついたが、低血圧がある。一八、九歳ころ、大船中央病院の夜間の緊急手術に立ち会い、その時は定時制高校から帰って来たばかりで、蒸し暑く、疲労していて、急に失神して倒れたことがあった。同五九年ころバスで網島駅に出たが、その時は非常に暑い日で、日射病のようになって、身体が痺れて歩けなくなった。救急車で病院に運ばれ、点滴注射で回復した。

(二) 同五二年六月、外来患者と恋愛関係。一八歳から二〇歳(同五二年から五四年まで)の間、三回妊娠中絶した。同五三年八月、Dの弟が大船中央病院に入院し、見舞いに来るDと接触。同五四年、Dの勧めで神示教会小雀分教所のEに接して同教会に入信。同五五年七月ころ、吉田医院の寮に男を泊めた(三八頁)。同五七年一一月ころ恋愛相手が信仰に反対したので別れた(二四頁)。同五八年ころ、Dと肉体関係を持つ(二六頁)。前記恋愛相手、D以外にも三名位の男性と肉体関係を持ったことかある。性欲も強くなく不感症であるという(二五頁)。

4 信仰(四一頁ないし四七頁)

(一) 乙の両親には信仰がない。乙に対し、放任的であったので、悩みごとなどを両親に相談することなく、「神様ならきっとなんでも聞いてくれるだろう」と思い、神に対し関心が強かった。

(二) 「私の第一の人生は、中学二年までだと思う。そのとき、秋田県から神奈川県綾瀬町に引越した。田舎はよかった。引越しで好きだったものが全部なくなった。綾瀬にきて絶望感とはいえないが、悲しくてしかたなかった。猫と別れるのが悲しくて一日中泣いた。綾瀬に来たが、どうしても馴れず、水がまずくて一か月くらい飲まなかった。友達も多くできないし、遊び場所もないから、一〇キログラム太るのに、一年もかからなかった。神奈川県に来たため一番人間不信になった。小さいときから人間不信があった。あるとき裏切りのようなものに出会い、それが残り、またどこかで嫌なことがあって、一つずつ積み重なって大きくなって来た。中二のころ人間社会に失望し、神様しかいないと思うようになった。(四二頁)」

(三) 「同五三年にDの話を初めて聞いたとき、ああこの神様が私が思っていた神様だと思った。」「神示教会に入信して初めて神様に出会って安心した。一段落という形。それだけで幸せになったように思った。そのうち、段々自分の思うようにならないこと、仕事の上で嫌な人に当たったり、恋愛相手とのいろいろがあったで、真面目になった。同人と別れた同五七年ころ神様しかいないんだと最終的に結論した。」(四三頁)。

(四) 同五九年四月二九日Eが死亡し、Dは、Eの死でノイローゼ気味(夜寝るとそのまま死んでしまうような不安を訴え)となり、神示教会から離れ、乙も離れた(二六頁)。

(五) 乙には、神の存在の啓示体験はなく、幻視幻聴もない。心因性・人格的発展としての神秘主義・オカルティズムである(四六、四七頁)。

乙の鑑定人に対する陳述要旨。「勤務のときは、普通の人間の顔をしているが、どちらかというと神の世界に生きたいというのが自分の願望である。神を知る媒体はDしかないので、とにかくDのそばにいるのが第一条件である。Dは、自分の知っている世界、自分の想像する世界を分かってくれる。二人では話が通じる。」「それで、それを普通だと思いこんでしまう。自分の神を信じる世界とは、通常人とは次元の違う、夢のような世界。いわゆる奇跡も、自分にとってはよく説明できないが理解できる。すなわち、普通の人が奇跡を魔法だと思うのは、その過程にある構造みたいなものを理解できないからである。自分は今は理解できる。頭の中だけで構造を理解できる。不思議の空間を自分の頭の中で理解している。勝手に理解しているという感じだが、(普通の)の人間の世界には絶対出て来ない部分で、人間の世界にはそういう言葉や表現力はない。自分が人間である以上、その世界を表現できない。自分に昔から知識が一杯あり、教養があれば、説明できるかもしれない。自分の教養では説明できない。」「普通の人とは一つ一つのことを受け取り方が違う。たとえば、犬が死んでも、誰かの身代わりで死んだのだから供養する必要があると思う。しかし、人間が死んでも本当の涙が出ない。」(四四ないし四五頁)。

このような乙の神秘主義は了解困難である。

5 犯行当時の精神状態(四七ないし八五頁)

(一) 犯行の経緯

(1) 犯行の経緯の詳細は中田鑑定書(甲分)記載のとおりであるが、本件犯行の経緯を見ると、甲、D、乙の三人で形成した三人精神病状態が出現し、相互に感応しながら精神異常の世界が発展していった。その中でリーダー役を演じたのは甲であり、甲は神がかり的な使命感に従い、後にはDに悪魔が憑いているとする妄信に支配され、他方、Dも神秘的・オカルト的で甲の示唆もあって「神の曲」を作ると妄信し、その努力のうちに甲の影響のもとに自らに悪魔が憑いたと信じ(憑依体験)、悪魔に変身(人格変換)するような状態になり、乙は、従来からDに完全に従属し、平素から神秘的・オカルト的であり、Dや甲の言葉に完全な信を措き、Dの「神の曲」作曲に協力し、後には甲のDに対する悪魔祓い行為にも協力し、殺人、死体損壊の行為を遂行するに至った。乙が、甲、Dの言に忠実に従ったことは調書のあちこちから知られるところである。甲の指示で必要な品物を買いに行っており、いつ、どこへ何を買いに行ったなどは警察調書に詳細に供述されている。「神の曲」作曲の決意は、同六二年二月九日―一〇日の夜に三人の話し合いの上で、最終的にDによってなされた。その後、「神の曲」作曲には甲と乙はDを支援し、そこには緊密な連帯感ができあがった。三人が相互に励まし合い精神的緊張を高め合い、三人精神病の感性を培ったのである。

(2) 甲が、同六一年一二月ころから、C方を訪れるようになり、甲がDに、自らに神の声が聞こえるとか、Eの予言が当たったというようなことを話しているのを、Dから間接的に聞いた。神の声がいつごろから聞こえるようになったかははっきりしないが同六〇年か六一年の秋ころから聞こえるようになったと言っているのを間接的に聞いた。Dが甲には神が降りたのだと言っていた。同六二年二月一日、Sのところで、SがDに作曲家として登録されているかと尋ね、これを乙は、Dが作曲家として適しているという受け取り方をしたが、それもそんなに強いものではなかった。同月九日―一〇日の夜、三人で話し合い、一〇日になってDが「神の曲」を作ると自らの天職を悟ったという。その前のころに甲が夢の中で神のお告げがあり、Dに「神の曲」を作らせるようにという命令を受けたらしいが、「神の曲」を書くことを甲がDに命令したわけではなく、三人の話し合いの中でDが悟ったらしい(五〇、五一頁)。

乙は、「甲に直接そう言われて気が付いたのはちょっと違う。最初甲からそういうことを言われていたが、主人はそれに気付かなかった。昔から教会の中で生まれたロックバンドであるので、教会のメンバーが何か後に役に立つことをしようというのでやっていたバンドであるので、神の曲と聞いても昔から聞かされていたので、驚くことはなかった。しかし、話を聞いていた一〇日になって、急にDの中でひらめいたのか、意識したのか、ああそういうことであったかと、『神の曲』を作ることを言い出した。」と陳述した(五一、五二頁)。この「神の曲」は、現実的な、優れた曲に単に比喩的に用いたものではなくて、次元の違う神の世界の曲であり、Dにとって「神の曲」を書くということは、すでに現実離れした考えである。甲が「神の曲」をDの考えるように考えていたかどうかは分からないという。

同月一三日、三人がI4方に行き、その空家に住めるかどうかを聞きに行ったが、乙の陳述では、そのときD夫婦は本格的に実家をでるつもりはなかった。帰途、「番屋」で飲食した時、甲がDの両親に悪魔がついており、その家に帰ると作曲ができないと言い出し、D夫婦をI3方に連れて行ったという。したがって、D夫婦を実家へ帰さなかったのは甲であり、その後Oらの奪回作戦に抗してD夫婦を周囲から隔離し、「三人の世界」を作るのに主役を演じたのは甲である。乙は、Dと同様に甲に奴隷のように従属し、「神の曲」を作るなどという非現実的な行為になんら疑問を持たず、甲やDの精神異常に全く気付いていなかったようである。乙によると、同月一五日朝、Dが眠っている間に乙が買物に行ったが、その途中、眠っているDが起きると「神の曲」が書ける人間になっているような気がして自然に泣けて来て泣いて歩いた。帰るとDが無表情で子供のような顔をしているように乙に見えた。I4の空家に移動するため甲の車まで歩いている時、「主人が神の曲を書ける人間に変っているんだと思えこれでいいんだと思った。」という。Dのそのような顔は、同日、空家に移動し、同所で乙が買物に行き帰ったころには自然な状態に近付いていたという。乙によると、同月二一日、甲などから呼び付けられて××荘に戻ったが、そのころから、特に自分が自分でないような興奮状態にあり、後述のようにDを殺したり、死体を損壊しても現実感罪悪感のない状態になっていた。

Dの死体を損壊して、本当にDが「神の曲」を書ける状態になったのだと悟った時がある。<書証番号略>には、Dを殺害した後、その後頚部から頚椎を三個取り出した後、甲が延髄の左側のところを切り、「あっ、これ切っちゃった」と言ったが、同時に甲が、「人間が神の曲を書けるような状態になれるところを見つけて切った」と言った。それで、乙は、Dが肉体の上で「神の曲」を書ける状態になったと思い泣いた。そして、「これまでやる必要があったんだ。これで私たちのやるべきことは終わったんだ」と思ったという。これような悟りは全く非現実的てあるがその当時は、それを不合理だと思えない状態であったようである。乙の場合にも、甲が乙に悪魔が憑いたと言って、乙の眼を長く凝視したり、乙の顔を塩揉みしたが、乙の鑑定人への陳述によると、乙には悪魔が憑いた実感はなく、甲がそう言うからそうかもしれないという感じであったという(五六頁)。

(二) 殺害に関する員面について乙の鑑定人に対する各陳述によると、「員面にあるような『Dが甲のするがままになって、意気地がないから、もう作曲できない、死んだ方がDにとってよいと思った』とか、『Dが頚を絞められて苦しんでいるのを見て、殺すのを止めようと思った』ことはなく、Dが死んだという現実感がなく、罪の意識は全然なく、当時は空っぽで、宙に浮いたようであった」ことが認められ、「そして、犯行当時の警察調書にあるような右のような事実は、取調官に乙が迎合して出来上がったものである」と認められる(六三、六四頁)。「現在の乙の陳述の信憑性に問題はあるが、当時、異常な精神状態にあったことを前提にすると、信憑性が高いと思われる。なお、犯行当時の具体的な行動についての記憶は調書が示すとおりで、詳細に残されており、当時意識障害があったとは考えられない。」(六四頁)。各調書については次のとおり(「」内が乙の陳述内容。)である。

(1) <書証番号略> 二月二一日午後一時ころに××荘に戻った。「ええ」、その時の様子は。「甲がDの背中を塩で揉んで、一か所にガーゼかティッシュか何かを貼ってあった。」、Dは起きていたか。「炬燵に入ってちょっと横になっていた。」、甲はDに悪魔がついているのでそういうことをしたと言ったか。「はい」、このとき夫を見て、こんなにまで甲の言いなりになるのかと思った。主人は甲を信じなさい、痛いけど辛抱すると言っていた。「ええ」、貴方は甲を手伝って塩揉みしたか。「ええ」、貴方も本当に悪魔を払えると思ったか。「ええ」、半信半疑でしょう。「そのあたりから本当に疑うことなく、ただ言われた通りにやるようになった。半信半疑よりもっと上(確信の方へ)に行ったように思う。」、……夫は甲さんに……こんになるまで言うがまま、されるがままになっており、もう夫はこれから先、作曲活動もできず、立ち直れないと思い、いっそのこと夫を殺した方が夫のためだと思い、夫を殺すことを決心した。「……」。夫が甲の言うがままになって、夫が意気地がないので、こんな状態では作曲できない、いっそうのこと殺した方がよい。「ちょっと違う。本当にそうじゃない。」、本当にそうじゃないの。「このときは面倒臭いとかでそう書いた。」、調書では何ヶ所にも出て来る。「調書ではそう言ったと思います(笑う)。本当は違う。」、本当はどう。「成り行きというか(警察の)言う通りにやった。こういう気持ちだろうと言われるともしかするとそういう気持ちもあったのかなという気持ちで結果的にこうなった。」意気地のない主人ならば死んだ方がよい。「現実的な死ぬとか、殺すとかは考えない。」、頚を絞めれば死ぬことになる。「そんなことは全然頭にない。」、甲が頚絞めて殺すと言った。「殺すと言ったわけではない。そういう台詞はない。第三者が見ればそうだなという感じで。」、頚を絞める時、甲はこうするぞと意思表示したでしょう。「殺すとか、言葉だけでなく、そういう意味で言っているとは私は取っていない。」、台詞はどうだったか。「あやふやです。」(五六ないし五九頁)。

(2) <書証番号略> 甲が悪魔を追い払うため、夫の頚を絞めて殺す、これをやれば完璧だと言ったか。「そういう台詞では言っていない。どう説明したらよいか。結局悪魔祓いの方法がひらめいて、順番にやっているんですよね。次に何をすればよいかという感じで、ふっと次の事が閃く、たまたま絞めたらとは言わないが、これをやったらどうかと言った。」、頚を絞めるという意味で分かったのか。「絞めるとは分からない。殺すとか、絞めるとか、息を止めるという意識ではなく、のど仏にも悪魔がいるから、それをやらなければいけないという感じである。こうやったら完璧、これでいいんじゃないかということを甲さんが言った。」<中略>夫は可哀想に思う。このまま殺してよいのかなやめようかなと思った。一瞬戸惑った。「それはないです。」、捜査官が作ったのか。「作ったような感じ。」、やっぱり夫のためなんだ、早く死んでほしいと。「それはない。それは私の情状酌量のために作ったのだと思う。仏心で書いたのだと思う。」、息もせずぐったりした。「ええ」。死んだと思った。「別に何とも思わない。」、思わないのはおかしい。「でも思っていない。からっぽ。宙に浮いただけ。視覚があるだけ。ああ死んだ、ああ怖いということはない。」、甲は。「ああ死んだということは言わないし。」、困ったとか大変なことをしたと。「何も言わない。ただ悪魔祓いとしてこうこうというひらめきしかないと思う。」、死んだ、そして生き返ることは。「今ぐったりしているが、また蘇る、復活することは、連想で、あるかもしれないと頭の中でどこかにあった。」それでは死んだということを考えていたのではないか。「死んだとは思えない。ぐだっとなっているのがまた元気になる。<中略>私はこのとき、夫を殺してしまった、悪いことをしてしまったという気持ちだけで、これからどうしていいか考えられませんでした。「悪いと思ったことはない。警部には悪いが。」、<中略>夫を殺したので悲しい。「そう書かないとお巡りさんが承知しない。お巡りさんもよく書いてくれる。あとあとの私のことを考えてくれて。あのお巡りさんは私を異常だと思っていた。でも措置入院される状態ではないと思う。それでそう書いたと思う。」、我々からすると、このように書いていると正常な状態が残っているように思う。「私も調書を取られている時、私か真人間であれば、そうだと想像されるようなことを書いていると思っていた。本当は違うのだと思っていた。それを言うと取調べが進まない。」(五九ないし六三頁)。

(3) <書証番号略>中の殺意及び<書証番号略>の後悔の供述についても乙は否定した(六三頁)。

(三) 死体損壊行為に関する員面供述についての聴取結果、やはり、異常な精神状態にあったようで、全く無反省に甲の命じるままに行動し、不安、恐怖心など殆どなかったようである。ただ、具体的な事実の記憶は詳細に残っている。死体損壊の事実経過については中田鑑定書(甲分)に記載のとおりであり、各調書については次のとおり(「」内が乙の陳述内容。)である。

(1) <書証番号略> 襖の前に行き後ろ向きになって両手で顔を蔽ったとあるが。「要するに汚いことはできるだけ避けたいため。」「気持悪いから。」、悲しくて泣いたとあるが。「ああこれで『神の曲』が書けるんだと閃き、嬉しくて泣いた。」、夫が死んで悲しい。「そう書かないとお巡りさんが承知しない。」(六五頁、六六頁)。

(2) <書証番号略>について

甲がどんどん深く切って行くので、私は夫の死体であり、あまりにも酷いので見ていられなくなり、目をそむけた。「そういうのでない。そういうのをやるのが嫌、面倒臭いという気。」(しかし、乙も押入の襖のところに行ってパジャマの上着を顔に押し当てていた事実は認める。)、Dが「神の曲」を書けるようになったと乙が思ったというが、生き返らないと書けないのではないか。「そういう現実的なことではなく、頭のここ(後頭部を指す)でひらめいたことです。」、まるで夢の世界だね。「ええ、事件の後一年位もこうだった。(鑑定人が使っているテープレコーダーを指し)こういうのを見ても現実感がない。触って初めてあるのだと思う。」、今は全く正常か。「(机の上一センチメートル離れているところを指し)現実から一センチメートル位離れている。」、甲がDの顔と頭の皮を剥ぎ、眼球を取ったのを見てどう思った。「うー」、調書ではびっくりしたと同時に、こんなことまでしたのか、これからもっとひどくなるのではないかと驚いたと書いてあるが。「(笑う)瞬間驚きました。顔がなくなっていたので、あらっという感じ。それ以上何も。」、ひどいことをしたなと。「そういうのはない。」、おかしいね、普通なら腰抜かすね。「そのころは、殆ど違う世界にいました。」、もうここまで来たら手伝うしかない。「わざわざそう思ったのではなく、成り行きでそうなるだろうという感覚はあった。」<中略>この日(二二日)、これ以上切り刻むのを止めて、死体を新しいシーツや絆創膏でとめて、こういう風に封印すると悪魔は閉じ込められるんだと言う。「そういう台詞はなかった。」<中略>このように封印すれば、夫の魂が出て来ないので安心できると思った。「そういうふうには思わない。何となくそういう付け加えができた。」、甲は悪魔がいるから内臓を取り出すとは言わないでしょう。「ええ。台詞はなかったと思う。」、後始末のために内臓を取ったのではないか。「さあ」、バラバラにして捨てるため。「私はそういうことは考えてなかったから。」、甲が後始末に困ってどうしようかと思っているのかと思ったか。「いいえ。全然。」、一晩明けて、死体を見て何とも思わないか。「ああそうか、昨日の連続かという感覚。」、ひどいことをしたという気持ちにならなかったか。「なりません。」、普通ならばびっくりする。「普通じゃない、異常です(笑う)。」<中略>誰かが来て見つかりはしないかと思わないか。「誰も来ないと思う。そういう感覚が既に異常なんです。人間の考えるようなことはちっとも考えない。心配とかは。」<中略>暇な時は甲と何か話しているか。「臓器取り出しで一日終わった。」、甲と相談するとか。「ない。」、食事の時何か話をするとか。「一切ない。」、甲もびくびくしていないか。「ない。私と同じようである。」(六六ないし七二頁)。

(3) <書証番号略> 腹の中の血を拭き取って取り出した内臓をまた元に戻すと思っていたので、甲に内臓を戻さなくてもいいのかと不信に思って二回尋ねた。「不信という言葉はふさわしくない。内臓を塩で清めてから戻すのでないかという自分勝手な想像みたいなものがあった。それで戻さないんですかと訊いた。」、貴方としては内臓を戻して復活する、生き返るという。「そういう発想ですね。」(別の機会における「復活」の観念についての乙の陳述……復活すること。「そういう連想はふわっとありました。」そうでないと、殺すことまでやるとは考えられないね。「死んでも生き返るというが、死んでもということがない。死ぬなんてことは考えられない。」〔乙の観念では通常の死の観念がなかったという。〕)、(二三日)甲が、貴方に全身に悪魔がいると言い出して貴方も夫と同様に殺されるのではないかと思ったか。「いいえ」、そんなことはない。「ええ」、二人が共犯者であるから共犯者を殺すのではないかと。(笑う)私を殺したら死体を甲だけでは処理できないから、殺さないだろうと。「思っていません。」、警察でこう言っている。「何となくそうなった。」

(鑑定人の判断)乙の現在の陳述には、警察調書の供述に対する否定が多過ぎ、必ずしも全部が納得できない。自己防衛的になっている一面がある。この調書では二三日に甲が乙の右乳房を摩擦したことが供述されており、このことについては、中田鑑定書〔甲分。一五六頁〕で記述し、甲には性的動機があったと判断したが、現在の乙は甲のそういう動機は否定するが、必ずしも説得性がない(七二ないし七五頁)。

(4) <書証番号略>(二四日の)午後八時ころドアを叩く音がし一瞬どきっとした。「ええ」、誰か来たと思う。「ええ」、そのうち開けなさいという声で貴方の母、K、Oなどが来ているのが分かった。「はい」、眼の前に夫を殺し、骸骨だけの状態で開ける訳にいかなかった。「……」、神様どうかドアを開けないようにと祈る気持であった。「はあ」、罪悪感があったのではないか。「……」、どういう考えか。「私たちがやっている悪魔祓いを途中で邪魔されてはいけないという感覚。」、甲が声を出すな、じっとしていろと言ったね。「言ったね。」、それは見つからないようにという気持ちですか。「居留守を使うということです。」、それは正常な感覚で言っているのではないか。「わからない。」、Kの声で出て来ないと明日は警察を連れて来ると言った。「はい」、悪いことをした気はないの。「はい」、それならば出て行けばよいではないか。「……」、何も逃げ隠れしなくて。「そういうのを考えなかった。」(七五ないし七九頁)。

(鑑定人の判断)確かに、乙と甲は、Oらが押し掛けて来た時、ドアを開けなかった。まだ、殺人などやっていなかった二月一七ないし一九日にはともかくOらを迎え入れている。やはり、何らかの罪悪感はあったと思われる。少なくとも、両被告人のどちらかにはあったと思われる。

前日(二四日)Oなど来て甲が死体処理を急いでいると思ったか。「そういうのは思っていない。」、(その日、甲が脊椎を二つに折り、脊髄を二人で菜箸でつついたが乙によると、「煙突掃除みたい」とか「子供が無意識におもちゃで遊んでいる感じ」であり、「死体がDであるなどということは全く念頭になかった」という。二五日夜、警察に検挙されるが、そのときも二人は骨からの肉片取りを続けていたようである。)

調書では、これから黙っていて、精神病院に入れられか、正直に言って刑務所に行った方がよいか迷ったと言っているが。「イメージがわいたというか、人間の世界では、そのなことを第三者が見たら、私はこれから先、精神病院に行くのかも知れないとか、刑務所に行くのかも知れないとか、これが現実的なものであれば、そうでないかと、イメージが浮んだことを言った。」

(鑑定人の判断)二四日の夜、Oらが来た時、確かに二人はドアを開けず、二五日夜も同様であるが、二人が特に犯行を隠蔽しようとはしていない。全く罪悪感がなかったとは言えないが、このような点も二人の異常な精神状態を示唆する。

(四) 乙の一般的回想 「そのころは何も考えない。ただやれということをやっていた。どうしてこうするのかなどと思わない。痛いというのはわかるが、どうしようなど考えない。視覚、聴覚、言語、臭い、胃腸が動いていることだけで、あとはただ言われたことだけやった。考えることはなく、恐怖も全くなかった。」、二二日午後、頚を絞めて殺害したときがありましたね。「自分では殺したとは思わない。殺したという実感がない。」、実際は足を縛ったり、股、膝を縛った。「そういうのは見たりやっているという視覚、聴覚は働いていたが、頭の中で考えることはない。罪悪感はない。」、悪魔祓いで、甲が乙を見つめ、乙も甲を見ることはおかしいと思わないか。「そのときは考えている暇がない。次から次へと何かせっぱ詰まったものがあって、ふと色々疑問に思っても、それを考えている暇がないとか、何か必死というか、気持がはっきりこう思ったというのがない。ただそうしていた。」、いつごろからか。「自分が自分でない、完全に考えることをしなかったのは二月二一日、××荘に戻ってから。それまでも、自宅に戻ったとき、多少、もう殆ど自分たちがやっていることが間違いじゃないかとは考えなかった。」「二月九日からほとんど眠っていない。眠ったのは最後の三日間(二三日―二五日の未明)である。最初の一週間ぐらい本当に眠くない。覚せい剤をやったことはないが、覚せい剤をやったときにすかっとするというが、そういう感じ。興奮状態がひどかったから。」「神経が麻痺したんだと思う。人間として堪えられる神経の域がある。その域がはっと消えたら何も感じない。」「不思議なことに、吐き気、貧血など感じなかった。」、たとえば、貴方は、甲の言うとおりに「ローゼン」に行って買い物をしている。「自分の意思ではなくて、自分ではどうでもよい。見ている聞いている自分はどうでもよい。無である。肉体が甲さんの言う通りにすることは主人の決めたことだから。」、ちゃんと勘定したり支払ったり、品物を選ぶね。「ええ」。他の人から見ると全く正常に見えるね。「ええ」(七九ないし八二頁)。

(五) 勾留当初の興奮状態について 「それまでの殆ど非現実的な世界と、警察に来たという現実的な世界が一緒になっている。すごくすっきりした充実感、すばらしい気分であった。」「逮捕されて一晩眠って、爽やかな気分であった。それこそ、覚せい剤をやっているのではないかとお巡りさんに腕を見せろといわれた位です。それと同じように充実していた。」、逮捕勾留されていたとき、今と同じようにへらへらしていたか。「もっと興奮してもっと操状態であった。何もかもすばらしく、ああ幸せだという感じ。」「逮捕されてからは夢の中に住んでいるようで、実感が全然ない。自分がここにいると言われると、ああそうですかという。」、しかし、大体の記憶はあるね。「夢の中に浮遊している感じ、夢の中で見たことを言っているという感覚で、全く自分という感覚はない。」(八二、八三頁)

以上より、乙は、本件犯行当時、その当時の事柄の記憶に障害はないので、意識障害はなかったが、通常の感覚はあっても感情判断力が抑圧され、昂揚した気分にあり、一種の意識変容状態にあった。逮捕後は更に爽快、多幸、夢幻様の一層昂揚した気分状態にあったようである。犯行は、神の使者と思った甲のあたかもロボットのようになされ、その際、恐怖、罪悪感も殆ど全くなかったようである。このような状態は、心因反応であり三人精神病のカテゴリーに属する(八五頁)

(六) 福島鑑定(乙分)中、乙は「絞殺した時の気持は」と尋ねられて、「無でした。考える力がなかった。殺したという認識はあります。目に見えていることが分かっているが、だからどうだという所まで全然頭が行かないという感じです。」と答えている。(同鑑定書二八頁)。同30頁にも「夫が死んだという認識があったか。」という質問に、「現実的な認識はあった。しかし、神業では信じられないことが起こると思っていた。」と答えている。この点について、乙は、「認識」という言葉を使っているがあやふやなもので普通の意味の「認識」とは違う、と言う。要するに、見たり聞いたりする感覚はあるがそれをたとえば、「死」とか「殺人」と明らかに判断する能力はなかったらしい。

二  中田鑑定(乙分)の検討

1 中田鑑定人は、本件犯行当時の乙の精神状態を判断するにあたり、乙の員面等を検討するとともに、乙から、その作成状況及び供述内容に意味するところ等について聴取し、乙の同鑑定人に対する陳述につき「現在の乙の陳述の信憑性に問題はある(六四頁)」、また、「乙の現在の陳述には、警察調書の供述に対する否定が多過ぎ、必ずしも全部が納得できない。自己防衛的になっている一面がある。(七四頁)」と判断しつつ、結局、「当時、異常な精神状態にあったことを前提にすると、信憑性が高いと思われる。(六四頁)」と判断し、これから、結論を導き出したと認められる。

しかし、同鑑定人に対する陳述の信用性を吟味するには、前示のとおり、当事者らの身上・経歴、犯行に至る経緯、犯行直前の状況、犯行後の事情、当事者らの性格傾向、同鑑定人に対する陳述時の乙の精神状況等を総合考慮して判断するほかないというべきであり、前示認定に反する部分はたやすく信用し難いというべきである。

例えば、<書証番号略>に関する応答中に、甲が「殺すと言ったわけではない。そういう台詞はない。」との部分が存するが<書証番号略>には「これから殺すぞと言っ(た)」との供述があり、また、<書証番号略>に関する応答中に、悲しくて泣いたのではなく、「ああ、これで『神の曲』が書けるんだ、とひらめき、嬉しくて泣いた。」との部分が存するが、<書証番号略>には、「乙は、殺した後押入のある方へ行き死体を見ないで泣いていました。自分の夫が死んだので悲しくなったと思い、私は別に声もかけませんでした。私は殺した後三〇分位(死体を)見ていました。」との供述部分があり、これからすると、乙が押入の前に行き、顔を覆っていたのは、甲が死体損壊の意図を告げる前であり、したがって、甲が、延髄の左側のところを切っていて「あっこれ切っちゃった」(<書証番号略>)などという前でもあったことが明らかであるから、乙が、殺害直後、押入の前で、「汚いことはできるだけ避けたい」とか「嬉しい」などという感情を抱いたという右応答は不自然で信用できない。更に、<書証番号略>の関係で、同鑑定人と乙は、(死体損壊中)暇な時は甲と何か話しているか。「臓器取り出しで一日終わった。」、甲と相談するとか。「ない」、食事の時何か話をするとか。「一切ない。」との問答をしているが、一切話をしなしとの右応答は、<書証番号略>中の「甲はああしろこうしろというだけで、ただ、行動だけを教えてくれました。それに対して私がこういうことだからやらされてるんではないですか、というと、甲は『あ、そうか、これはそういう意味なのか。』とすぐに分かっちゃうんです。〔一六九八丁表)」との部分などに照らして信用し難い。

従って、乙の鑑定人に対する陳述内容では、本件犯行中及びその前後において、乙が示した諸々の状況を説明することができず、これらを総合すると、乙の同鑑定人に対する陳述の信用性は認め難いと言わざるを得ない。

2  中田鑑定(乙分)においても、ほぼ、中田鑑定(甲分)に関し判断したところと同様に、判断の前提となる事実の把握、認定に問題があったものと言うべきである。

3 福島鑑定(乙分)からの批判

三人精神病との判断についての批判は、中田鑑定(甲分)に対する判断のところで示したとおりである。

乙が「意識変容」の状態にあったという断定は誤りであるか、さもなければ、曖昧な判断である。一般に「意識変容」とは、「意識混濁を背景に、不安や緊張、夢幻状態や幻覚、運動不安などの精神的な刺激症状を示す。意識野の挟縮を加える場合もある」と定義されている。精神医学の常識からすると、意識混濁を伴わない「意識変容」とか、意識清明な「意識変容」という精神状態は考えられないので、中田鑑定(乙分)の記述は常識的・理論的に矛盾すると言わざるを得ない。たしかに、乙においては、支配概念にとらわれて他のことが考えられなくなっており、極端な関心の集中や意識野の挟縮は認められた(福島鑑定書〔乙分〕)。そこでは、通常起こるべき罪悪感や抑制心が起こらず、かえって感情的に興奮したり、充実感を感じたり、感受性が高揚したりしていて、異常な精神状態であったことは事実と認められる。しかし、自分のしたことや外界で起こっていることは正確に認識しており、現在もその詳細な回想が可能であり、買物、死体解体などの実務も支障なく行い得たのてあるから、何らかの意識障害があったとは到底考えられない(福島意見書〔中田鑑定・乙分〕4頁)。

4 以上のとおり、中田鑑定(乙分)は、その判断の重要な根拠とされた乙の鑑定人に対する陳述の信用性がかなり低いと認められる上、主要な事実関係の把握や判断、それに基づく推論、診断にも疑問があると認められるから、採用し難い。

三  福島鑑定(乙分)の概要

福島鑑定書(乙分)の鑑定主文は、「本件犯行時の乙の精神状態は、知能は普通域にある分裂気質者であるが、宗教的な支配観念にとらわれて行動していた。従って、責任能力が多少とも低下していたとも考えられるが、それが著しい程度に低下していたとは考えられない。」というのであり、その主要な点は、ほぼ福島鑑定書(甲分)の関係で先に掲載したとおりである。なお、乙に関して特有な判断としては、乙本人歴、Dとの婚姻前後の事情についての判断の記載がある。

四  福島鑑定(乙分)の検討

福島鑑定(乙分)に対する検討結果は、ほぼ福島鑑定(甲分)に対するそれと同様であるが、以下の点を付加する。

「家はボロボロで家の中もジメジメしていた。親も、表向きは人がよいが、心の奥底へ入り込めない変な気持ちが私の中にあった(<書証番号略>)」「Dの家で父Cの面倒を見ることは苦痛でした。看護婦として慣れてはいるものの、精神的には苦痛でした。主人からは親父はもう長くないから、と慰められていた。主人の母は人がよく、なんでも一生懸命やってくれるが、男勝りで、私にとっては心の底からお母さんと呼べないとこがあった。(<書証番号略>)」

「夫のバンドは売れていないために収入は全くない状態でした。家業で……毎月六〇万円前後の金が通帳に振り込まれ、……実収入として残るのは平均一五万円から二〇万円位と聞いている。……預金はいつもない状態であった。電気、水道、電話については自動振込みで時々不足通知があり、そのつど入金したこともあった。この他には、私の失業保険が同六一年八月から本年二月までもらっており、昨年八月は、六万五〇〇〇円位、以後、一三万九〇〇〇円位をもらっていたので、その金で夫と遊びに行ったり衣類などを買って生活していた(<書証番号略>。なお、このようなC方の経済状況については、<書証番号略>からもほぼ裏付けられる。)。」「私としては、夫の親夫婦と一緒の生活より夫と二人だけの生活がしたかった(<書証番号略>)」「親と離れて夫と二人だけで暮らしたいと思っていた。(<書証番号略>)」「番屋という居酒屋に寄った。皆で一つの目的をもってやって行く固めの盃で乾杯しようということだった。これからどうなるのかなあ、というワクワクした気持でいた。(<書証番号略>)」

「I4のアパートに引越したものの、ほとんど着のみ着のままの状態であり、家財道具もないため、I4に鍋や釜などは借りて、その他の掃除用具やマナ板包丁等は手持ちの金が五万円位あったので買った。私はこれでやっと夫と二人だけの生活が出来ると思った。」

「甲のアパートには一時間半位かかったので、午前八時半ころには着いたと思う。持って来たのは、アパートが見つかるまでと思っていたので、着替えと茶碗とバック二個、紙袋一個のみだった。私は、どこかに落ち着けるアパートを見つけて、夫と二人で生活し夫の作曲活動については甲が時々来て夫に男心を教えてくれるものと思っていた。それが、甲のアパートに行ったら、甲がI4に、ここで三人で曲を作る……と話した。このとき私は、夫と二人だけの生活ができると思っていたのが、二人だけではなく、甲と三人で作曲活動するため、三人の共同生活になるんだということが現実として思えた。これに対して、夫は何ら反発もなく甲の言うがままになり信じ切っている感じだった。」

「夫も甲がこのようなこと(壁のコンセントの穴や電気取り付け口などにティッシュを貼り付け、窓にシーツを貼り付けること)をするのに対し、だんだん気持が落ち着く、と言って、甲の雰囲気にのめり込んでいく状態だった。」(<書証番号略>)。

以上の乙の各供述調書等関係証拠から認められる乙の婚姻中の心理及び前示のとおりのC方の状況等によると、乙は、前示のおり、C方から独立しててDと二人で生活したいと考えており、甲を交えた三人で共同生活する意思はなかったものと認められる。

しかるに、福島鑑定(乙分)は、乙の婚姻後の生活状態や心理につき、同鑑定人に対する乙及びDの父母の各陳述(福島証言<丁数略>)等を重視し、乙には、特段別居等への望みはなく、C方を出たのは、もっぱらDをして神の曲を作曲させようとしたためであり、甲方居室へ移動したのも「被告人両名とDは、自動車でドライブしながら話し合い、I4のアパートには悪魔がいるから『神の曲』作曲には不適当であるとして、甲方居室に移ることにし、午前中に転居した。」(福島鑑定〔乙分〕二四頁)と判断しているが、この点は前示認定に反し、その結論についても、全面的には採用し難いと言うべきである。

第五 弁護人の主張に対する判断のまとめ

以上をまとめて言えば、本件においては次の諸事情が認められることになる。

一 甲は、精神分裂病、側頭葉てんかん、その他の真正精神病に罹患していたものではなく、乙についても精神病罹患の事実は存しない上、両被告人につき、出生後本件ころに至るまでの生活歴において特に精神障害を窺わせるような言動を示した事実はなく、現在においても、乙はもとより甲についても精神障害は存しないこと、

二 乙は、犯行に至る経緯、犯行時及び犯行前後の諸状況については極めて清明な記憶を保持し、捜査官に対し相当詳細で筋道の通った供述をなし得たものであり、甲も右諸状況につき概ね記憶を保ち、悪魔祓いの目的に出たとしながらも本件犯行を自認し、虚実を折り混ぜながら右諸状況について詳細な供述をすることができたものであって、両被告人には犯行当時、意識障害も存しなかったこと、

三 甲の捜査官に対する供述中、神示教会への入信の点、Eに感謝の念を抱いていたとする点、同六二年二月九日に神から神の曲を作るように命令を受けたとする点等は信用できず、そのほかにも虚偽と考えられる供述が相当数見受けられることに加え、甲の悪魔に関する各供述の脈絡が相互に矛盾して一貫せず、甲が悪魔と考えたものの実体ないし甲が何を悪魔と考えたのかが全く判然としない上、甲がDに悪魔が取憑いたと考えた時期が供述調書によって区々様々であるなど、甲の悪魔に関する供述は総じて信用性に乏しいこと、

四 甲の供述中、二月一五日から一六日にかけて悪魔の子分と対決しこれを退治したかのように言う点及び二月一九日から六会駅付近で悪魔の回し者らしき者と出会ったとする点は、それぞれ、J所有家屋に安住しようとした乙とDを自己のアパートに転居させる契機を掴もう(前者)あるいは、甲のかねてからの言動により相当程度脅えた心境にあったDをさらに脅えさせ、その自己に対する依存を決定的なものにさせて、同人及び乙がアパートから立ち去ることを防止しよう(後者)などという目的の下に、殊更に悪魔ないし悪魔祓いの観念を利用した意図的な所作であったことが窺われること、

五 甲の取調時の言動からは、甲が罪の重大さに思いを致すことができたため、病気を仮装し、あるいは、取調官をからかい、ないしは確かめようとしたと考えられる挙措も見受けられること、両被告人の犯行時ないしその前後の言動中には、悪魔祓いを志したというその供述にそぐわぬ不自然な諸点が存すること、乙が、悪魔を祓うためにはDを殺さねばならないとの甲の言葉を全面的に信じていたわけではないことは乙自身が捜査官に対して自認しているとおりであると認められること等の諸事情を総合して考慮れば、両被告人は、本件各犯行当時、いまだ悪魔とか悪魔祓いという観念ないし感情に支配されるまでには至っていなかったものと認めざるを得ないこと、

六 一方、客観的な本件犯行に至る経緯に加えて前示のような各被告人の性格(甲については、ものの考え方が非常に主観的で独特、自己中心的、現実を自己の願望や恐怖に無理に一致させようと歪曲する、社会規範に対する無関心、衝動の抑制が乏しい等、乙については、物事を主観的に見過ぎる傾向があり、内省力、洞察力は殆ど欠如している、受動的、服従的な役割をとりやすい上、神秘主義的な傾向を有していること等)を併せ考慮して本件犯行の動機について検討すると、本件は、それぞれ右のような偏倚した性格の持ち主である両被告人が、夫であるDと二人きりの結婚生活を営みたいと願い(乙)、あるいは、独居生活の孤独感を抱いていた(甲)ところ、判示の経緯で、両被告人ともDをして作曲活動に意欲を持たせ、これに専念させたい、また、人間として成長させたいという思いを強くしたことを契機に、甲において、元来、神秘主義的傾向の強いDに対し、神の曲を作るためなどと称し、種々説得してその実家から離脱させ、自己の主導の下に作曲活動に従事させようと努めたものの、Dは、はかばかしい作曲活動をせず、他の者から言われるままに、甲方に来たり、出ていったりして優柔不断な態度を示すのみであるばかりか甲に対し反抗的な言葉を浴びせたりしたことに苛立ち、自己の尽力を無にするものと考えて立腹する余り、心身ともにかなり疲労しているDに対し、同人の身体の悪魔を祓うためと称して判示の塩揉み等の加虐行為に及び、Dがこれを受容し、痛みに耐える言動を示したことからこれを継続し、乙においても、当初はこれを不快に思ったものの、肝心のDが甲の言うがままになって、抵抗しないばかりか、乙に対し「甲さんを信じなさい。痛いけど我慢する。」などと言う状況にあり、また、甲から甲と同様のことをするよう迫られたため、半信半疑のまま自らも右塩揉み行為等に加功し、両名で更にDに対する加虐行為を拡大、継続しているうち、両名とも、無残で非力な状態になったDを見て、加虐的な心理が著しく募るまま、同人に対する強い苛立ちの念を一気に払拭したいという衝動にかられ、乙においては、その他罪となるべき事実第一で示したような気持も手伝って、遂に致命的な加虐行為を敢行するに至ったもの(死体損壊行為は同様の心理と証拠隠滅の目的その他の心理状況下で遂行され、元看護婦の乙の知識等が利用されることによって、一見異常な程徹底して手際良く完遂されたもの)と認め得ること、

七 その他、被告人らの犯行時における精神障害を窺わせるような証跡は存しないこと、以上の諸事実が認められ、これらを総合して検討すると、甲に殺人及び死体損壊の故意があったと認められることはもとより、両被告人は、それぞれ、衝動制御能力の乏しさ、あるいは内省力の欠如などいった性格特性に基づき、加虐的心理を昂進させ、あるいは、悪魔祓いといった観念へのこだわりなどから、本件犯行に及んだものであって、いずれもいまだ事理の弁職能力若しくはこれに従って行為する能力が欠如した心神喪失状態、又はこれらの能力が著しく減弱した心神耗弱状態にはなかったと認められる。

よって、弁護人の前記主張は採用しない。

(法令の適用)

被告人両名の判示第一の所為は、それぞれ刑法一九九条、六〇条に、判示第二の所為はそれぞれ同法一九〇条、六〇条に該当するところ、各被告人について、判示第一の罪につき所定刑中有期懲役刑を選択し、各被告人につき、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第一の罪の刑に同法四七条ただし書の制限内で法定の加重をし、その刑期の範囲内で被告人甲を懲役一四年に、同乙を懲役一三年にそれぞれ処し、同法二一条により、未決勾留日数中、被告人甲に対しては五〇〇日を、同乙に対しては八〇〇日をそれぞれの刑に算入し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項ただし書により、被告人らに負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、以上に述べたような経緯で、両被告人がDに対する加虐行為を継続、拡大しているうち、無残で非力な状態になった同人を見て、加虐的な心理が募るまま、それまで同人に対して抱いていた憤懣や強い苛立ちの念を一気に払拭したい等と考えて、遂に両名共謀の上、判示の態様でDを窒息死させるに至り、次いで、右の加虐的な心理が覚めやらず、また、証拠湮滅の意図等もあって、判示のとおりDの死体を損壊し尽くす所為に及んだという殺人、死体損壊の事案であって、本件犯行に至る動機には、非情かつ残忍なものがあり、酌量の余地は乏しく、犯行の態様は、乙においてDを押さえつけ、甲において首を絞めつけ、二人がかりで同人を殺害するという極めて残虐なものである上、死体損壊の態様は、酸鼻を極めたものである。

犯行後の状況を見ても、甲は、詐病を使い、事実関係については記憶がないかのように装いながら、共犯者の乙には十数万円の金員を差し入れ、その反面、Dの遺族らはもとより、老後のため借金をして建てたアパートに忌まわしい痕跡を刻まれたその所有者や廃業を余儀なくされた階下の飲食店経営者らに対しても、慰藉の措置はもとより、詫びの一言すらないものであり、一方、乙は、それなりに事実関係を供述するものの、主要の点については、曖昧な供述に止まり、反省の情が薄いと言わなければならない。

ひるがえって、被害者Dの事情を見るに、同人自身、三〇歳を超え、かつ、老父が身体に不調を持つ状況にありながら、自らは演奏する度に赤字となるバンドの音楽活動をするだけでまともに働こうとせず、生活の殆どを老母の働きに依存し、また、妻である乙の失業保険などで遊興するなどしていたものであって、その生活態度は必ずしも芳しいものではなかったと認められるものの、特段このような形でその若い生を終わらせなければならない理由は全くなかったものであって、その無残な死には深い同情を禁じえず、遺族が等しく厳罰を望む心情も十分理解し得るところと言わなければならない。

このような諸事情を考慮すると、本件各犯行において主導的役割を果たした甲はもとより、D殺害及び死体損壊の実行行為に直接加担した乙の犯情も悪く、被告人らの刑事責任はいずれも非常に重いと言うべきである。

しかし、他面において、本件においては、既に三〇歳を越えた成人である被害者のDが塩揉み等の加虐行為を受け容れる言動を示したことが犯行の誘因となっている事実はこれを否定し難いこと(ただし、Dが右受容の言動を示したのは、両被告人が、悪魔を祓うためである旨を信じ込ませようと図った上、判示の加虐行為に及んだ結果であるから、この点につき斟酌すべき余地は大きくはない。)、両被告人は、本件犯行当時、加虐行為の継続による興奮(甲)、悪魔祓い等の観念へのこだわり(乙)等から心理的な視野狭窄状態(意識の範囲がかなり狭まった状態)に陥っており、責任能力に影響を及ぼすには至らないものの、ある程度判断力が低下していたものと認められること(ただし、両被告人は、自己らが判示加虐行為を継続しているうち、これに起因して右のような心理状態に陥ったのであるから、この点を過大に斟酌することはできない。)、両被告人の未決勾留が相当長期に及んでいること(ただし、甲の関係では、その相当部分は同被告人の詐病に起因していることが明らかである)、乙には、婚姻の当初はCのアルコール依存症等の治療に心を遣い、自らの失業保険金をDとの婚姻生活等に用いるなどの心配りを示していたことなどの諸点も認められるので、これらの諸事情を併せ考慮し、主文のとおり量刑する。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官坂井智 裁判官石垣陽介 裁判官富永良朗は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官坂井智)

別紙証拠の引用例<省略>

別紙図面<省略>

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