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横浜地方裁判所小田原支部 昭和46年(ワ)162号 判決 1974年6月05日

原告

水村英世

ほか一名

被告

星野忠芳

主文

被告は、原告水村に対しては金一四四万〇、六〇〇円、同井上に対しては金八九万円並びにこれ等に対する昭和四六年七月三〇日より各右完済まで年五分の割合による金員を夫々支払え。

原告等のその余の請求は、いずれも棄却する。

訴訟費用はこれを四分し、その一宛を各原告の、

その余を被告の各負担とする。

この判決は、右第一項に限り、原告水村において金三〇万円、同井上において金二〇万円を夫々担保に供するときは、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の申立

(原告)

被告は、原告水村英世に対し金三一五万円及び原告井上学に対し金二三九万円並びに右各金員に対する昭和四六年七月三〇日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに仮執行の宣言を求める。

(被告)

原告らの請求はいずれも棄却する。

第二原告らの請求原因

一  被告は普通貨物自動車(相模四ら三二五五号以下加害車と称する。)を保有し、これを反覆継続して運転していた者であるが、昭和四三年二月四日午前〇時二〇分ごろ、右自動車に原告両名及び訴外新井一男を同乗させてこれを運転し、熱海市方面より小田原市方面に向い進行中、神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜一、三九九番地附近において運転を誤り、自車を吉浜橋の左側らんかんに接触させ、さらにこれを右斜めの前方に暴走させて、折柄、対向して来た小倉正運転の乗用自動車(以下被害車と称する)に衝突させ、よつて原告水村に対し脳挫傷等の、原告井上に対し頭蓋骨々折等の傷害を夫々負わせた。

二  右事故について被告は自賠法第三条により、また右事故は被告の過失によつて発生したものであるから、民法第七〇九条により原告等の蒙つた全損害を賠償すべき義務がある。

三  原告等の損害

(一)  原告水村英世の損害は金三一五万円である。

内訳

(イ) 休業による損害(逸失利益) 金六〇万円

原告水村は、当時写真業に従事しており、月収金四万円を得ていたところ、本件事故により、一年七カ月の入院治療し、それに引続いて五カ月間通院治療を余儀なくされ、丸二年間全く収入を得られなかつたので、右期間中の逸失利益は、必要経費を控除して一カ月金二万五、〇〇〇円であるから、合計金六〇万円となる。

(ロ) 入院中の雑費 金五万円

(ハ) 慰藉料 金二〇〇万円

原告水村は、本件事故により脳挫傷、全身打撲等の傷害により、筆舌に尽しがたい肉体的、精神的苦痛を味わつた。

その慰藉料としては、金二〇〇万円が相当である。

(ニ) 後遺症による損害 金五〇万円

原告水村は、本件事故による負傷のため眼筋摩痺(乱視、近視)の後遺症が発生し、常時視力を矯正のため眼鏡を着用せざるをえなくなつた。

右後遺症に対する損害としては、金五〇万円が相当である。

(二)  原告井上学の損害 金二三九万円

(イ) 休業による損害 金三六万円

原告井上は、本件事故により頭蓋骨々折等の重傷をうけ、入院七カ月、再入院二週間、通院加療四カ月を要し、一年間は全く就労不能で無収入であつた。同原告の収入は、一カ月金四万五、〇〇〇円であつたところ、右期間中の逸失利益は、必要経費を控除して一カ月金三万円として合計金三六万円となる。

(ロ) 雑費 金三万円

(ハ) 慰藉料 金二〇〇万円

同原告は前記負傷により、原告水村の場合と同様、筆舌に尽しがたい肉体的、精神的苦痛を味つたので、その慰藉料としては金二〇〇万円が相当である。

四  そこで被告に対し、原告水村は金三一五万円及び原告井上は金二三九万円並びにこれらに対する訴状送達の翌日たる昭和四六年七月三〇日より夫々支払済にいたるまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第三被告の答弁

一  原告の請求原因事実第一項中、被告が昭和四三年二月四日午前〇時二〇分頃湯河原町吉浜一三九九番地付近において、普通貨物自動車を運転していたこと、及び原告水村が同乗していたにすぎないことは否認し、その余は認める。

同第二、第三項はいずれも争う。

二  被告の反論

(一)  本件事故の際、加害車を運転していたのは、被告ではなく、原告水村英世であつた。

被告は、本件事故の際加害車を運転していたものとして業務上過失傷害等の罪で起訴され(昭和四五年(わ)第三二三号、以下本件刑事事件という)、被告の種々の無罪の立証にも拘らず、右無罪の主張ならびに立証に対する何らの判断もなく、有罪の判決を受けた。しかし、右判決は各種証拠の信憑性や証拠価値等の判断を誤つた結果、誤つた事実認定に達したものであつて、以下に述べるとおり、決して被告が本件事故車を運転していたことを示すものではない。

そこで被告は、右第一審判決に対し、東京高等裁判所に控訴の申立をしたが、棄却されたので、更に昭和四七年二月二二日に最高裁判所に上告の申立をなした。

(二)  刑事公判廷における各証人の供述の検討

(1) 各人の関係

<一> 原告水村との関係

(イ) 写真店を経営している原告水村と、自動車修理工場を経営している山本利平とは、山本の母が原告水村の母と従姉妹関係にあり、家族同志のつき合いまでする間柄にあつた。

(ロ) 原告井上は、同工場に勤めており、事故当時まで約八年間、右山本修理工場につとめ、現在も山本利平は同人の雇主であり、原告水村とはその当時からの知り合いである。

(ハ) 新井一男は、事故当時まで約四年間、事故後の七月頃やめるまで山本修理工場で働いており、原告井上とは同一職場の同僚であり、原告水村とは、原告両名が前記の関係にあるので、これを通じて知り合つた間柄である。

<二> 被告との関係

(イ) 事故当時まで、被告と原告水村は顔見知りの程度で、事故当夜初めて一緒にバーに飲みに行つたものである。

(ロ) 新井と原告井上は、被告が車を山本修理工場に修理に行つて、被告の顔を知つている程度である。

(ハ) 山本利平は、被告に被告の購入する自動車の世話とか、修理等で、昭和四三年春頃からの知り合いである。

以上述べた各証人のうち、被告、原告水村および山本利平のいずれとも交友関係にあつた各証人のうち、原告水村又は山本利平に対する親密の度合と、被告に対するそれとは、前記のとおり原告水村又は山本利平に対する親密の度が著しく高く、このことは事件発生が湯河原という土地者とよそ者意識の高い場所で起つたことと相俟つて、原告水村および山本側における、以下に述べるような工作を容易にするものであつた。

(1) 各証人の供述の信憑性

<一> 各人の事故直後の供述

事故発生の直前において、加害車両を運転していた者が果して誰であつたかを目撃した人のいない本件事故においては、この事実を知つている者は、加害車両に乗車していた被告、原告両名および新井の四名である。

そこで、これら四名が運転者は誰であるかについて、外部に表明できた時期は、何時からであろうか。

(イ) 先ず事故現場でこれが可能な者は、一番傷害の程度の軽い新井のみであり、同人は刑事公判廷で、運転者は被告である旨実況見分を行つた警察官に述べたと供述し、右実況見分を担当した宮沢郁夫も、これに沿う供述をしている。

新井は、事故後、原告水村をボンネツト上より引張り出す作業を止め、山本利平に事故を報知すべく、近くの藤池建材に赴いた。電話をかけ、自身の傷の手当てなどしてもらつているうちに、山本利平及びその親族、その他関係者がかけつけ、これ等の人と一緒に再び事故現場に戻り、山本利平に事故現場で事故の内容を同人に話した。警察官が実況見分のため現場に到達したのは、その後である。

このような場合、其の運転者は原告水村であることを秘して、運転者は被告であると申告したとしても、当時、加害車両に同乗していた四名のうち、新井を除く三名は、それぞれ重傷を負つて、生死もわからない状態であることは、自ら各人の所在を見てまわつた新井だけが知つている事実であり、加えて、同人と原告水村との関係は、前示のとおりであり、事故車両の所有者は被告であることから、同人が運転者を被告である旨述べることも充分考えられることである。

(ロ) なお、宮沢も、刑事公判廷において、同人の実況見分の際立会つた新井は、事故現場において、結局運転者は被告である旨申立てたと供述している。宮沢が右実況見分に基き作成した実況見分調書は、右実況見分終了後署に戻り、新井と本件事故車が衝突した車両の運転者である小倉正を取調べ、かつ同人等の調書を作成した後に作成されたものである。従つてまた、事案の内容を見分の際より詳細に知りえた段階においては、右実況見分調書を作成するに当つて、現場において同人等が述べなかつた事項も、見分の際述べた指示説明として、記載される場合も考えられ、夜中から明方近くまで各所を捜査した担当官が、何処で誰が如何なる事項を述べたかの事実を混同し、取調べの際述べた事項も実況見分の際のそれとして処理することはありえないことではない。

(ハ) 仮りに、新井が事故現場において運転者を被告であると申立てたとしても、当該申立の内容について、宮沢の刑事公判廷における供述は、「この自動車の持主だということを言つていました。それで私が持主は誰なんだと言つたら星野さんだと言つていました。」「名前は良く知らなかつたみたいで、星野スポーツの車の人だということを言つていました。星野スポーツの何という人だと聞いたら星野スポーツだから星野という人でしようと言いました。」というのであり、真実被告が運転しているのであるなら、警察官の直接的な質問形式に対して、何故に先ず間接的な回答をしたか、大いに疑問といわざるを得ない。

(ニ) 次に、被告は、事故現場において救急車に乗せられる際抱き上げてくれた人が、露木某であるという意識があつたが、その後再び意識不明となり、病院に入つてから未だ意識の回復していないと思われる医者の診察の際、警察官の質問に対して「俺ではない」と言い、意識を回復したその後の被告の母の「お前がやつたのか・・・」との質問に対し、「俺がやつたのではない。水村さんがやつたのだ」と明確に答えており、その後の警察及び検察庁における取調べ並びに刑事公判廷における供述はすべて終始一貫している。

(ホ) 原告井上が意識を回復したのは、事故後一週間か一〇日後であつて、普通の会話ができるようになつたのは、事故後一カ月位経た頃であり、退院したのは、昭和四三年九月一二日である。同人が最初に警察の取調べを受け、その際運転者は被告であると述べたのは、事故発生から半年を経た同年八月である。同人には、後述のとおり同一職場の同僚である新井及び同人等の雇主である山本利平と、事件の詳細について綿密な検討を行うのに、充分な時間的余裕があつたものといわなければならない。

(ヘ) 最も意識の回復が遅れたのは、傷害の程度の最も高い原告水村であり、同人が意識を回復したのは、二月一五日即ち被告が退院した日であつて、同人は昭和四四年九月四日退院している。同人は、山本一郎の家に集つた以後の記憶を全く喪失しているとして、誰が運転者であるかを表明していない。同人が意識を回復した時点においては、被告から運転者は原告水村であると自己の名を指されていた状況にあつた。

同人は、集会に出席したことは明確に記憶しているが、それ以後衝突までの事柄は、現在に至るも全く記憶を喪失したと述べている。頭部傷害の事故による記憶喪失例として、同人のような事例は全く稀有の例であつて、真偽は疑わしい。なんとなれば、原告水村と被告とは、運転者として名指されている点からいえば、対立当事者であつて、水村としては、記憶がないと述べても結果において、原告井上と新井の供述があるから、それにより充分目的を果せることができる筋合である。

<二> 新井の供述の信憑性について

(イ) 新井は刑事公判廷において、実況見分の際も、その後も、警察官から聞かれたとき、「運転者は星野であると答えた」と述べている。しかし同人の雇主である山本利平が警察官が現場に来るより早く現場に到達しており、新井から事故の状況をきいていることがうかがわれること、警察官から加害車に乗車していた者は誰かといわれたとき、すでに新井の周囲にいた誰か(山本利平のようである)が「新井」を呼んで同人を警察官の面前に行かせたこと並びに右供述に反する同人の昭和四三年六月三日付司法巡査村越茂喜に対する供述調書中「私は事故現場と思いますが、おやじさんに誰が運転していたのかといわれましたので、私は水村さんが運転していたと答えました」。「手当てをして貰つてから、おやじさんと二人でだけで、おやじさんの車で警察に行きました。途中車の中でおやじさんが、(水村君が運転していたのはまずいから、星野が運転していたことにして警察に申し立てろ、それでないと、星野の申し立てとくい違うから)といわれ、警察ではおやじさんにいわれたとおり、運転は星野がしていて事故を起したと申し上げました。」との供述部分からして、容易にこれを措信することはできない。

(ロ) 山本利平は、新井に対しては、被告の証言とくい違うといつて、あたかも被告自身が運転したことを認めたかのように申し向けて、これに沿う証言を促す一方、被告に対しては運転者を被告にしなければ新井の申し立てと喰違う、そしたら話が面倒くさくなると申し向けている。この場合、新井に対しては、山本利平の意に沿う申立てをさせるためには、その申立てにより不利益を蒙る被告がこれを自認しているかのように述べれば、新井は利平から(星野は否認しているが星野であるといえ)といわれるよりも、より容易に山本の意に沿う供述ができ、利平にとつて最も効果的な説得方法である。

他方、被告に対する右の言動は、運転者は自己(被告)であるとの証拠があるから、否認しても無駄であるとして観念させる作用を伴い、新井及び被告の双方に対する右の工作により、運転者は被告であるとの事実を構成することになつた。

(ハ) なお新井は、前述したとおり、事故直後の昭和四三年二月四日取調べを受け、その後、同月一一日、六月三日、一一月二九日各取調べを受けているが、このうち六月三日付調書には、他の調書と異なり、原告水村が運転していた旨供述している。この点につき新井は刑事公判廷において、「六月三日の日はお巡りさんがしつこいからいやになつてしまつた」ため、取調官のいう通りの水村が運転していた旨の、意に反する調書になつてしまつたと述べている。しかし、仮にそのような経緯で右調書が作成されたのであれば、むしろ運転者は原告水村であるという明確な内容の調書が作成されていたはずである。右調書の内容が必ずしも明確でないこと自体新井が原審において述べているような「警察のいうままにうんうんと言つた」結果作成されたものではなく、新井のためらいがちな不明確な発言を、そのまま記載したものであることを示すものといえる。

六月三日の取調の際は、本件の捜査はまさに進行中で、捜査官はこの段階で新井から、その意に反する供述を得る必要性は全くなかつたと思われるので、新井の右弁解は、全く首肯できない。また、新井は右供述の後、間もなく山本自動車工場をやめている点よりみて、六月三日の右供述が、山本方における新井の立場を悪くしたとも考えられる。

<三> 山本の供述の信憑性について

(イ) 本件事故においても最も軽傷ですんだ新井一男は、事故発生直後、自己の雇主である山本利平に電話をかけ、事故発生の旨を知らせた。このとき、実際に山本方に電話をかけたのは、山本利平の姉のようである。そして、新井はただちに現場にかけつけた山本利平らに対し事故の模様を説明した。新井が警察官の実況見分に立会つたのは、その後のことである。

ところが、この点について山本利平は、事故現場で新井に会つたことはないと、ときわめて強く主張している。しかし事故をきいてかけつけた山本が、現場に残つていた唯一の直接の関係者で、しかも自己の被傭者である新井に、事故の模様、怪我の様子などを聞き糺さないことは考えられないところである。事故現場で山本利平は新井に会い、事故についての話をきいたことは、おそらく確実であろう。それなのに山本は、なぜこの点を隠そうとするのであろうか。これらの経過よりみて、この段階ですでに山本は、何らかの工作をした疑いが強い。

新井はその後一旦病院に行つて手当をうけ、病院より警察まで山本利平と同じ車に同乗して行つた。新井はその直後警察官の取調をうけ、「井上、水村、新井がバー『船』で飲んでいるうち、星野が一人で飲みにきて、帰る際、星野が自分の車で送つてやると言い、その車で帰る途中事故に会つた」という趣旨の供述をしている。新井は刑事公判廷で、この虚偽の供述をした理由として、山本利平に指示されたためであると述べている。すなわち、「はつきり記億にないが、何か話を合わせろといわれました」と供述している。この点に関して山本は「病院の帰りに新井君が水村が運転したと言つた。」「取調べる前に、水村が運転していたのだと新井から言われて、新井は非常に気が小さいので力をつけてやると言う気持で本当のことは言えといつた。」「新井は、この前の法廷で、『バー「舟」で新井君と井上君と水村君と飲んでいたら、午後一〇時頃星野君が一人で飲みに来て、それで星野君が自分の車で皆を送つてくれて、途中で事故にあつた』と、こう言えと自分に言われたと言つているが、そのように言つた覚えはない。」と供述している。新井は二月四日の警察での取調べに対し、嘘を述べる必要はなかつたにもかかわらず、嘘を述べたのは、第三者の指示、すなわち山本利平の指示に従つたものとみるほかはない。

(ロ) はじめに述べたとおり、山本は、原告水村と特別の関係があり、交通事故には豊富な知識を持つ同人としては、新井から運転者は原告水村であると言われれば、原告水村に対して自己の被傭者である新井および原告井上の損害賠償請求という、同人自身が被告に対して言つているように「話は面倒くさくなる」こと当然であつて、原告水村に対する関係とは異質の関係を有するに過ぎない被告を、運転者とすることによつて、この問題が容易に解決すると思いついたとしても、不思議ではない。

(ハ) 星野芳の刑事公判廷における供述中、「山本利平さんに会つたとき、(うちの子供はやつていないというんだけど、どうなつているんですか)と聞いたら、山本さんは(それなんだよ、うちの新井は星野がやつたんだというんだよ、それで話があわないといけないから、一寸星野君をトイレに呼んでくれないか)と頼まれた」旨の供述及び「山本さんはトイレから出て来て、私に向つてというより赤崎さんに向つて言うような態度で、(星野君がやつたんぢやないんだつてよう、うちの新井が何も言わないもので)と言つていた。」との供述並びに山本利平の兄弟である山本じゆうやが、事故当日被告の病室に来て、被告に対し、(警察が来たら今日はつかれているから話したくないと言つておけ)と述べたという、被告の刑事公判廷における供述と新井が事故後一度も被告の見舞をしていないことなどをあわせ考えるならば、山本利平が如何に虚構の事実の構成に腐心したかをうかがわせるに十分である。

(ニ) 運転者は原告水村であると新井から聞くに及び、警察には被告が運転していたと言つておけと言つて、新井がこれに沿う供述を行うや、この筋書で押し通すためには、まず当日被告に何も言わせないよう働きかける必要があつた。このため、まず山本じゆうやを被告の入院している病院に差し向け、翌日山本利平自ら病院に赴き、未だ一人で満足に便所へも行けない被告を、強引に便所まで連れ出させ、しかも負傷している被告にとつて一五分ないし二〇分という長時間、飲酒場所、飲酒量を限定すること及び運転者を被告とすることに、右のような方法及び脅迫的言辞を以て行つたのである。しかし、同人の右のような努力にもかかわらず、期待に反して、被告の態度が強硬なので、便所に入る前右星野芳に言つた手前もあつて、「うちの新井が何も言わないもので」との言葉を繕うこととなつたものであろう。

山本は、他の理由とあわせて、被告に力を貸すため右のように被告を便所に呼んだと供述しているが、山本が被告と会つたのは、便所の中及び被告を運転者とする強制保険金支払請求書を自ら作成して、これに被告の捺印を求めた前後二回だけであること、被告及び被告の姉の再三の相談の要請にも拘らず、何等とり合わなかつたこと等からして信用できないところである。

(ホ) なお、山本は事故の二、三日後被告を便所に連れ出して話をした際の内容につき、「飲んだ酒の量について警察官に聞かれたら、二杯のものは一杯というように言つておけよ、とたのんだ」と述べ、これ以外のことは言つていないと刑事公判廷で供述しているが「選挙関係の会合でのんだ酒が原因であることがわかるとまずい」ため、何とかしなければならないという気持が、星野を呼び出して話をする動機であるならば、病室内でも可能であり、歩行すら困難な被告をわざわざ便所に連れ出し、人を遠ざけたところで話をする必要は全くない。

この時の山本利平の被告に対する話の内容は、偶然そばで小用を足していた松本康弘が聞いていたとおり、「被告が運転していたことにしてくれ」というものであつたに相違ない。

<四> 事案の真相

以上述べたところと刑事公判廷における新井、山本の各供述を照会して合理的に解釈すると、本件の真相はつぎのようになると考えざるをえない。即ち、山本利平は新井の通報に接し、ただちに現場にかけつけ、警察官が現場に到着する前に新井から事故の概略を聞き、事態がきわめて自分に不利であることを知つた。すなわら、自分の親戚に当る原告水村が飲酒運転によつて多数の人に傷害を与え、飲酒の機会を提供した責任は山本自身にあるという事態に直面したのである。のみならず、飲酒の機会は選挙のために提供したものであつた。そこで山本は、加害車両に乗つていたもののうち、新井を除く三名がいずれも重傷を負つていること、加害車両は被告の所有であり、被告が時々無免許運転をしているなどの事情を奇貨とし、自分と最も関係の薄い被告を事故を起した運転者に仕立てあげることに決意したのではなかろうか。

そこで、山本はまず新井に対し、事故車の運転者は被告である旨申したてるように指示した。新井はこれに従つて、実況見分立会の際その旨警察官に申したてた。この際新井にはいささかの良心の苛責があつたため、最初「この車の持主が運転した」と間接的な表現をし、さらに名前を追及され、スポーツ店星野という人だ」と答えざるを得なくなつた。

次に山本は、新井が病院より警察へ取調をうけに行く途中の車中で新井に対し、「井上、水村、新井がバー「船」で飲んでいるうちに午後一〇時ごろ星野が一人で飲みに来て、帰る際星野が自分の車で送つてやると言い、星野の運転する車で帰る途中事故に会つた」という筋書を教えたものと思われる。

山本は最後に被告に対し、右の工作に符合する供述を求めたが、これは被告の頑強な拒絶に会つて失敗に帰した。しかしその後もなお、原告両名および新井に対し工作を行つた結果、同人らは本件各証拠のような供述をするに至つたものであろう。原告水村が事故直前の状況についてある一定時期以後記憶が全くない旨の供述をしているのは、証言の矛盾を避ける方法として実に賢明である。しかるに山本は、不用意にも証人尋問の際、右工作の趣旨を忘れ、新井が事故車の運転者は原告水村であると述べたことについて再三の弁護人の質問に対していずれも認める旨の供述をなし、その後傍聴していた原告水村らに指摘され、はじめて事態の重大性に気付いてこれを撤回するという醜態を演ずるを余儀なくされたのであろう。

<五> 原告井上の供述

原告井上の供述は、新井の供述とほぼ一致するのであるが、前述のとおり、同人らの関係及び新井の供述の変転後始めて警察から取調べを受けたことを総合すれば、同人及び山本利平と協議の上構成した事実に基づきなされたものであると考えざるをえない。

原告井上は八年位山本の工場に勤務し、被告が車を運転しているのを「殆んど毎日見た」にもかかわらず、被告が自分の車を人に貸して運転させているのを見たことは全然ないと供述している。これは原告井上の傭主山本利平の「星野の車を度々運転したことがある」旨の供述と矛盾し、「つくし」から「船」までわずか一〇〇メートルの距離を車で移動したことも理解し難いのである。

(三)  被告は、本件事故当時加害車両を運転していたか

捜査段階における被告の警察官及び検察官に対する供述調書及び被告の刑事公判廷における供述は、運転者は終始一貫して原告水村であること、その余の事故前後における被告及び関係者の言動に関する供述も、全く同一内容であり、その間いささかの相異もみられない。

さらに、事故当夜、特に最後に寄つたバー「船」における被告の状態は、それ以前の飲酒のため、とうてい自動車を運転しうる事情になかつたことが、小林洋市及び被告の供述から明らかである。

(四)  樋口鑑定人作成の鑑定書について

(1) 樋口鑑定書の鑑定結果の意味するもの

樋口鑑定人作成の鑑定書によると、被告が本件自動車(カローラ)を運転していたとみなされる公算がきわめて大きいとの結論が出されている。そして同鑑定人の鑑定人質問において、同鑑定人は、「公算がきわめて大きい」ということは、一〇のうち七ないし九の可能性があることを意味するものである、と述べている。

被告が運転していた公算が一〇のうち七ないし九あるということは、被告が運転していなかつた(つまり原告水村が運転していた)公算が一〇のうち一ないし三あるということである。樋口鑑定の結果だけから判断しても、原告水村が運転していて本件のような事故の態様となることは十分考えられるのである。

(2) 鑑定資料の不備

<一> 本鑑定のために検察庁から供されている資料は、診断書、実況見分調書などにとどまらず、関係者の供述調書まで及んでおり、むしろこれが大部分を占めている。

客観的資料を基礎として、特別の知識経験にもとづいて客観的な判断をくだすことが、鑑定人の役割であるとするならば、本件事故について様々な利害関係を有し、その供述が真実であるかどうかについても、担保のない供述調書を鑑定の資料に用いることは、鑑定の結果につき鑑定人に予断と偏見をもたらす以外のなにものでもない。

<二> 本件鑑定の資料として鑑定人が用いた資料は、鑑定書の記載によれば、主に実況見分調書、特にこれに添付されている写真ならびに診断書であるとされている。

しかし、右の資料は鑑定のための資料としては著しく不十分なものといわねばならない。加害車両および被害車両の状況については、正確には現物をみなければわからない筈であり、写真のみからでは到底正確な結論を出すことは不可能である。現物を調査することが可能であるにかかわらず、これを怠つた本鑑定は、その方法において著しく妥当性を欠くものである。

また、乗員の受傷につき、診断書のみを資料として使用しているが、診断書には乗員の受けた傷害のすべてを記載してあるものではなく、乗員のうけた受傷を正確に把握するためには、カルテ等の資料の併用が絶対に必要である。

また、実況見分調書の信頼度も低く、乗員の受傷程度を知るための診断書も事故直後の診断書は、得てして外観的な診断書で、それほど厳格でないことを自ら認めているにもかかわらず、無批判にこれらを鑑定資料に採用しているのである。

信頼のおけない資料にもとづく鑑定から、信頼のおける結果に到達することがあり得ないことは自明であろう。

<三> さらに、本件鑑定の基礎となる事実のうちの重大なポイントである、事故後の乗員の位置関係について、鑑定人は被告の位置を助手席側に頭を置きフロントシートに横になつていたとの仮定より出発しているが、被告が車内にいたとの資料は新井の供述調書しか存在せず、新井の調書がきわめて作為的に作られたものであることが、すでに述べたように明らかである以上、右の仮定より出発することはできない筈である。

のみならず、鑑定書作成後明らかになつた事実等を総合して考えると、以下のとおり被告は本件事故によりカローラの助手席側のドアより外に投げだされたものであつて、この事実よりみても被告が事故当時カローラを運転していたことはあり得ない。

(イ) 即ち、実況見分調書には、「左側助(手?)席ドアー下の路面に、腕時計及びサンダルが散乱している」との記載があり、同調書添付の図面(別紙図面(一))にもその位置が記載されている。この時計は、のちに井上のものではなく、被告のものであるということが判明した。

(ロ) 事故直後の被告の位置はどこにあつただろうか。新井の刑事公判廷での供述によれば、「頭は助手席の方では体は左側を下にして寝た感じ」となつていて、新井がこれを路上に引き出したことになつている。しかし、被告が車内座席に倒れているとしたら、さほど壊れていない座席から被告をわざわざ車外に引張り出す必要がどこにあろうか。また、被告所有の右時計はクサリがこわれていたのであるから、事故後なお被告が車中にいたのであれば、車中に落ちる筈であり、外に落ちることは考えられない。

したがつて、被告の時計がカローラ助手席外の路上に落ちていたことは、本件事故の衝撃によつて被告が助手席側ドアより外に落ちたことを、明らかに示すものである。

さらに被告が本件事故により、左肘など身体の左側に傷害を負つたことからしても、被告が本件事故により車外に投げ出されたことを示すものと考えられる。

(ハ) 自動車の運転者は、事故の場合その衝撃態様がどうあれ助手席側のドアより外に出ることは到底考えられない。本件事故においては衝撃の際、正面に向う力が強く働いたことは、原告水村の位置、車の破損状況をみれば疑いない。

したがつてこのような場合、運転者が助手席側のドアから外にとび出すことは、絶対にないと断言できるであろう。すなわち、本件カローラを被告が運転していたということは、考えられないのである。

(3) 事故車の速度の推定の誤り

<一> 〔証拠略〕によると、本件鑑定はカローラの速度を時速約五〇キロメートルと推定し、グロリアの速度を時速約二〇キロメートルと推定し、これにもとずいて両車の動き、乗員の挙動を推定して鑑定結果に到達している。

事故の態様から速度を推定し、その速度から逆にまた事故の態様を推定するという、本鑑定書によつてとられている方法は、二重の仮定に立つものであつて、方法論的に妥当を欠くため、信頼するに足りる鑑定結果は得られない。のみならず特にグロリアの速度の推定は次に述べるように明らかに誤りであつて、これにもとづく事故の態様の推定は事実と全く異るのである。

<二> 小倉正の刑事公判廷における供述によれば、衝撃直前のグロリアの速度は、時速四〇ないし五〇キロメートルであり、カローラを発見してブレーキを踏んだが、効かないうちに衝突し、ぶつかつた時の速度も時速約四〇キロメートルである。グロリアの時速が四〇キロメートル、カローラの時速が五〇キロメートルで衝突した場合、両車の重量の差(グロリアは約一、三二〇キログラム、カローラバンは約七三五キログラム)よりみて、鑑定書記載のような態様を呈することは絶対にないといえる。むしろ衝突後グロリアが、なお前進してカローラの位置を押しまげたという可能性がきわめて大きい。

このような場合、両車の乗員にかかる力、その方向などは、鑑定書の記載と異つてくるのは当然である。

<三> なお、樋口鑑定人は、衝突直前および直後の車両の動きの推定にあたり、路上に残されたスリツプ痕の存在を、無視もしくはきわめて軽視している。このスリツプ痕の解釈については、鑑定人は、あるいは「形とか位置についてはそれ程こだわりません」と述べ、あるいは「左旋回というのが確認できればよろしいということで作業をやめましたので、只今のように細いスリツプ痕の追跡までいたしませんでした」と述べているのである。

単の動きを知るためには、路面に残されたスリツプ痕はきわめて重要な資料である。他の資料による推定が、現実に残つたスリツプ痕と異つている場合は、推定が誤りであると考えるほかはない。樋口鑑定人は自己の推定がスリツプ痕の位置、形状と矛盾する事態に直面し、なお自己の推定に固執するのあまり、スリツプ痕をほとんど無視せざるを得なかつたのである。誤つた前提にもとづく誤つた推定による車の動きと現実のスリツプ痕は合致するわけがないのである。

同様のことは、グロリアのスリツプ痕についての鑑定人の判断についてもいえる。グロリアが押戻されたとすれば、スリツプ痕は「恐らくつくかと思われる」にもかかわらず、実況見分調書には記載がないことについて、「見落しのある可能性が多い」といつて逃げているが、交通事故の実況見分調書で重要なスリツプ痕を見のがすことが考えられるだろうか。グロリアのスリツプ痕は同車が衝突後も前進したために路面にはついていなかつたと見るべきである。

(4) 原告水村が運転していた可能性

<一> 本件の鑑定書は以上に述べたとおり、その拠つて立つ前提に重大な誤りがいくつか発見され――そのうちの一部は本鑑定のなされた時点では明らかではなく、本件刑事事件の審理を通じて判明した事実であるため、鑑定人を非難することはできないのであるが――したがつてそのままの形では到底事実認定の資料とすることはできないものであることが明らかである。

しかし、ここで一応鑑定書の記載をもとに、原告水村が運転していた可能性を考えてみたい。

<二> 鑑定書によると、衝突によつて原告水村はフロントグラスを破つてボンネツトの上にとび出すことは容易に考えられる。この際ハンドルで胸を打ち、フロントグラスで頭に外傷を負つたのである。助手席の被告は前方にたたきつけられ、グローブボツクスにぶつかつて頭部外傷、口唇部挫傷を負い、さらに開いたドアから外にころげ落ちて左肘、左腰を打つ。原告井上は、衝突の衝撃で助手席背もたれにぶつかるが、その際背もたれのとめ金がはずれ、背もたれが前に倒れたため、更に前方にとび出す格好となり、衝突の瞬間開いたドアから外にほうり出されたのである。新井は運転席背もたれに両下腿を打ち、ドアの内側で右中指に負傷したが、背もたれがこわれなかつたため、反動で又自席に戻り最も軽微な負傷ですんだものと思われる。

<三> 右の推側をうらづける根拠を具体的に摘示すると左のとおりである。

(イ) 乗員がボンネツトの上まで出る場合、後部右座席から出る可能性は最も少い。

(ロ) 後部右座席の乗員は、前席背もたれに衝突した場合はそのことによつて前方に投げ出されるエネルギーが減殺され、それ以上前に投げ出されることはない。

原告水村の胸部の多数の骨折も、運転席背もたれでなくハンドルにぶつかつたための骨折とみた方がよほど自然であるし、また、助手席に比し、運転席には全く破損がないことも、同人が運転席背もたれにぶつかつていなかつた、即ち同人は後席に居らず運転席に居たという事実を示すものである。

以上のとおり、本件鑑定書はその自体何を意味するものでもなく、その内容も多くの疑問点を内在するものであり、本件における証拠としての価値は全く認められない。

三  時効の抗弁

(一)  原告らは本件事故後意識を回復したとき、即ち、原告井上は昭和四三年二月一〇日頃、原告水村は同年同月一五日に本件事故による損害及び加害者並びに賠償義務者を知つたのであるから、その損害賠償請求権は、本訴提起当時(昭和四六年七月二七日)すでに時効により消滅している。

(二)  なお、原告水村は本件事故により運転者についての記憶がない、という。これについては被告は既に述べたとおり甚だ疑わしいと考えるが、たとえ同人の言うとおりであるとしても、当然同人は意識回復後ただちに山本利平、原告井上ら関係者より、本件事故車の運転者について告げられているはずであるから、やはり同人が意識を回復した昭和四三年二月一五日頃、本件事故の加害者等を知つたのである。もつとも原告水村については、前述のように同人が加害車の運転者であるからはじめから問題にならない。

四  危険の承諾等の抗弁

(一)  本件事故車に乗車した同人ら四名は、ビール、ウイスキー等をかなり多量に飲んでいて、相当酔つている状態であり、原告水村をはじめいずれも、とても自動車を運転できる状態ではなかつたことが明らかである。かような状態の者が自動車を運転すれば、事故を招来する蓋然性が極めて高いことはいうまでもあるまい。したがつてかような状態の原告水村の運転する本件事故車にあえて同乗して本件事故に遭い、本件損害を受けた原告井上には、右損害を受けるにつき、いわゆる危険の承諾をしたものであつて、本件事故による損害を請求するのは不当である。

(二)  仮に同人の右危険の承諾が単に過失相殺の事由にとどまるとしても、それは本件事故車の運転者のそれを決して下廻るものではないから、本件請求につき原告井上の右過失は十分に斟酌されなければならない。

さらに原告井上は、いわゆる好意同乗者であるから、右事実も公平の観念から過失相殺の事由として考慮されるべきである。

なお、以上右に述べてきたことは、被告が本件事故車を運転していた場合の原告水村についてもあてはまるが、同人は運転者であるから問題にならない。

以上のとおり、原告らの本訴請求はいずれも理由がないから棄却されるべきである。

第四右消滅時効の抗弁に対する原告の主張

原告水村は、本件事故による頭部重傷のため、事故当時の記憶が全くなく、また、原告井上も加害車両の運転者が誰であるかについて争いがあつたため、捜査段階においても運転者が誰であるか確知できないまゝ、起訴するまでに二年間もかゝるといつた状態なので、原告らとしては誰を加害者として損害賠償請求をなすべきか踏切れないでいたところ、昭和四六年三月三〇日被告に対する第一審の刑事裁判の判決により有罪の言渡があつたので、そのとき始めて加害者が被告であることを確知したものであるから、右の時点をもつて消滅時効の起算点となすべきである。従つて原告等が本訴を提起したことにより時効は中断され、時効は完成していない。

第五(証拠)〔略〕

理由

一  被告が、加害車を保有していること、昭和四三年二月四日午前〇時二〇分頃、右自動車に原告ら、新井一男と同乗して、熱海方面から小田原市方面に向い進行し、神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜一三九九番地附近において、右自動車が吉浜橋の左側欄干に接触し、さらに右斜前方に暴走し、対向して来た被害車に衝突し、よつて原告水村が脳挫傷等の、同井上が頭蓋骨々折等の傷害を負つたことは、いずれも当事者間に争いのないところである。

二  原告らは、加害車を運転していたのが被告であると主張するのに対し、被告は運転者が原告水村であると強く争うので、本件証拠の内確実と思われるものから認定した客観的な事実を基にして、推論して行くこととする。

(一)  〔証拠略〕によれば、本件現場附近の模様、状態は別紙図面(一)のとおりであること、本件道路は幅員七・八米のセンターラインのひかれたアスフアルト舗装の平坦な道路であるが、吉浜橋に向つて、橋の手前約七米の地点で道路が右に曲つており、橋の長さ約三一米、幅員は六米と狭くなつており、橋の手前六二米のところに幅員減少の警戒標識が立つており、交通規制はなく、夜間は街灯がついていないので、暗く見透しが悪い状態であつたこと、加害車はカローラバン、被害車は、グローリヤセダンで双方共大人四人乗車していたこと、橋の入口左側欄干に約二・六米の長さに亘つて、高さ〇・七米と〇・四米の個所に平行に加害車のものと思われる白色塗料の擦過痕がついており、加害車の左側のボデーには、右擦過痕に符合する高さに平行して、上の線は前輪の辺から車体後部まで、下の線は車体の約半分の長さに、擦過痕がついていること、加害車は熱海・湯河原方面から小田原方面に向けて進行して本件現場に差しかゝり、新先川にかゝつた右吉浜橋の欄干部分に車体右側を接触させ、こすりながら進路を右に転じてセンターラインを越え、折りから反対方向から進行して来た被害車と衝突し、右図面(一)のとおり道路と平行に前輪は一・七米、後輪は二米の長さの平行したスリツプ痕を残して、道路とほとんど直角に停止したこと、右車には三人がいて、原告水村は同車の右側ボンネツト上に、頭を海岸方面に向け、身体の大部分をボンネツト上に乗せうつぶせに横たわつており、被告は車の前部座席に上半身を助手席に左側を下に横になつており、新井は後部座席左側にうずくまつていたこと、同車はツードアのライトバン型で、左側のドアは開かれ、蝶つがいが壊われて九〇度以上も開き、元にもどらない状態になつていて、そのドアの直ぐ下に被告の時計が落ちていたこと、被害車は右図面(一)のような位置にやゝ道路と斜めになつて停止し、原告井上はその右側の少し後輪に近い所の車体の下に、頭を車軸の辺まで突込むような形であおむけに倒れていたこと、加害車の前部は、殆んど前面が押しつぶれ、特に左側が多く、やゝ斜めにつぶれた形になり、また被害車も右側から殆んど前面が壊われ、殊に右側の方が余計に斜めにつぶれていること、加害車の前面ガラスは完全に破壊されて飛び散り、別紙図面(二)のような状態に散乱し、ハンドルは正常な位置にした場合、若干上下の部分が前方に曲り、チエンジレバーは前方にくの字に曲り、その先端の握りの部分はなくなつていて、助手席正面の物入れ下部は、鉄板が凹み、物入れの蓋も押された状態になつていたこと、加害車はツードアなので、後部座席には前部座席の背もたれを前に倒して出入りするようになつており、前部座席の背もたれは、リタライニングシートになつていて、枕はついていなかつたこと、左側の前部座席のリクライニングは、破損のために自由に前後に動く状態になつてしまつたが、運転席のリクライニングには異常がないこと、被害車の前面ガラスは割れてはいないが、車体からはずれて運転席の方に押し込まれた状態になつたこと、実況見分の際における被害車の運転手小倉正の現場における指示によると加害車が別紙図面<一>の地点で、橋の入口欄干附近に接触すると同時に、右に方向を変えて、中央線を越え加害車の進行方向前方に横になるようにして飛び出して来たので急ブレーキをかけようとしたが間に合わず、被害車の正面附近と加害車の左前部が衝突したと述べていること、本件事故のため被告は頭部外傷、口唇部挫傷、左肘、左膝の直ぐ下、左腰、左脇腹、左足の甲の各打撲傷、原告井上は頭蓋骨々折、脳挫傷、頭腔内出血、原告水村は脳挫傷、頭腔内出血の疑、右第六ないし第一〇肋骨々折、新井は両下腿打撲、右中指挫創の各傷害を受けたこと、以上の事実が認定でき、右認定に反する証拠はない。(被告は、その所有の時計が加害車の左側の開いたドアの下に落ちていたことを理由に、車外に投げ出された旨主張し、その事実をもとにして運転席にいなかつたと論じているが、被告所有の時計が右の位置に落ちていたことは、後述のとおり、加害車が衝突したと同時に腕からはずれ易い状態となりさらに左に転回した際に被告の身体が助手席に倒れ、それと同時にその勢いで腕からはずれて、開いたドアから落ちたと見るべきで、直ちに被告自身が車外に投出された理由とはならないし、何よりも、若し、そうであるならば、小倉は新井が車から出る前に加害車の近くに行つて見ているのであるから、被告が投げ出されているのであれば、直ちに発見したはずであるのに、そのような供述はどこにも見当らないし、何ら被告と利害関係のない小倉が、敢えて真実に反する供述をする必要もないのであるから、右被告主張の事実は存在しないものというべきである。)

(二)  右の事実を基にすると、次の事実を推認することができる。加害車は、本件橋に向つて相当の高速で差しかゝり、夜間で見通しが悪い上、道路が急に狭くなつて、しかも右に曲つているところを、直進したか、或は直前でハンドルを急に切つたが間に合わなかつたのか、いずれにしても、車体を欄干に殆んど平行した状態で接触したこと、ところで刑事々件の実況見分調書(乙第三三号証)によると別紙図面(一)のとおり×地点が衝突地点となつており、欄干の接触地点<一>から一六・一米となつているが、この点は大いに疑問とせざるを得ない。双方の車の衝突個所の凹み具合と小倉正の前記指示にあるように、加害車が横になつて飛び出したということとを考え合せると、同車が欄干の衝突地点での平行の状態から衝突地点までは真直ぐに進行したのではなく、相当のカーブを画いて、横滑りを起して斜めになつて衝突したものと考えられる。そして現場において加害車は、前輪が一・七米、後輪が二米、道路に平行にスリツプ痕を残しているところから見ると車は真横になつた状態で横に滑つたためについたものとしか考えられないが、若し×地点が衝突地点であるとするならば、加害車の左角と被害車の右角が凹むだけであるはずなのに、実際は双方の車の前面の殆んど全面が凹んでいるところからすると、そのように互に直角の状態で衝突したのではなく、もつと浅い角度(例えば三〇度程度)で両車の殆んど前部全面が衝突したものとしか考えられない。そしてこの事実とスリツプ痕とを合理的に連絡させるには、前記のような具合に衝突した結果、加害車は左側に遠心力が働くはずであり、さらにスリツプ痕は前記の個所にしかないことから、衝突のはずみに車体後部がはね上がり、車の前部を軸にして約四分の一回転して接地し、車体はそのまゝ横滑りを起したため、前記のようなスリツプ痕が出きたものと思われる。そうだとすると、衝突地点はスリツプ痕ができた地点よりももつと手前でなければならない。このことは乙第三三号証の実況見分調書の写真のガラスの散乱状況にも合致するところである。即ち、車の前面ガラスが散乱している範囲は、加害車の停車の位置より数米西側にあり、しかも、このガラスの破片が加害車のものであることは前記認定のとおりであつて、その散乱の具合を仔細に検討してみると、衝突の際の加速度と内側から打破つた力のために、衝突地点より前方に向つて飛び散らばつたものと見られる。そうすると、衝突地点はガラスの散乱していた場所よりも手前ということになるが、前記の写真にはガラス散乱の範囲はスリツプ痕よりもつと西から始まつていることが見受けられ、右推測に合致している。そして右のように衝突地点が図面(一)の×より西方と考えた場合、被害車の停止した位置は、衝突地点より数米東方になることになるが、それは同車が衝突の結果、反対に押戻されたことにならざるを得ないが、この点に関して、小倉は、衝突の場所において停止したように述べているけれども、このような瞬間的に起つたシヨツキングな出来事に対して、すべてを感じ、正確に記憶しているはずもなく、また人間の感覚が緊急の場合にそれほど適確であるとはいえないことは、公知の事柄であるから、あくまでも客観的な事柄を元にして、これらを科学的に推論する方を採用すべきである。

右のように被害車が押戻されたとすると、双方の車両と乗員を含めた重量は前記乙第三三号証から明らかなとおり、被害車の方が大部重いことを考え合わせると、被害車に比べて加害車の速度は格段に速かつたものと考えられる。(被告が主張する被害車の前方にスリツプ痕のないことが、当然に被害車が押戻された事実を否定する証拠とはなし得ない。なぜならば、スリツプ痕は、車輪が完全にロツクされたにも拘らず、車体が移動することによつて、タイヤと路面の摩擦によつて生ずるものであるが、本件では衝突後に車輪が完全にロツクされた旨の確実な証拠はない。)

(三)  そこで、以上のような状況のもとに前記認定の加害車の乗員の衝突後の位置から、衝突前の位置を推論することにする。

(1)  初めに、原告井上であるが、同人が被害車の後部車軸の下に上を向いて倒れ、足は車の右側に出ていた状態と、加害車の左側ドアの破損状態とを考え合せると、井上は加害車が回転してスリツプして停止したときに、遠心力によつて左側のドアにたゝきつけられ、そのためドアが勢いよく開いて投出され、押戻されて停止した被害車の下に、あおむけに頭から飛び込んだと思われる。ところで、加害車はツードアであるから、後部座席から助手席にいる者を飛び越して左側ドアから出られるはずはなく、井上は後部座席にいたものでないことは明らかであるし、また右状況のもとにおいては、運転席にいる者が、左側の助手席にいる者をこえて出ることもありえないことと、さらに助手席前面の部分の凹み具合と井上の傷害の部位から、井上が助手席にいたことは間違いのないところである。

(2)  次に新井であるが、同人が衝突直後に後部座席にいたことは、前記認定のとおりであるところ、助手席のリクライニングシートが破損して、正常な場合は止金をはずさないかぎり前後に動くことはないのに、止金がこわれて、自由に動くようになつていることと、同人の傷害の部位程度からすると、新井が衝突の際の物すごい加速度にもかかわらず、外に飛び出さないで後部座席に留まつていられたのは、同人が助手席のリクライニングシートにぶつかり、それを破損はしたけれども、これが緩衝装置の役目をはたして、前方に飛び出すことを防止し、重大な傷害を受けずにすんだこと、また左の方に回転した際の遠心力も、ツードアのために左側はドアでなかつたので、車外に投げ出されることもなかつたものと考えられ、従つて新井が後部左座席に位置していたことも、明白といえるところである。

(3)  そこで、被告と原告水村についてであるが、被告が助手席に上半身を横たえていたこと、原告水村が運転席前のボンネツト上に身体の大部分を乗せてうつぶせに倒れていたとの前記認定の事実と、右説示の衝突の状況と右両名の傷害の部位程度、そして運転席のリクライニングが破損していないことと、運転席の背もたれには枕が取りつけてないこと等を考え合せると、原告水村は後部座席右側に坐つていたが、衝突の際の衝撃により腰を浮かしたまゝ頭から運転席の背もたれを、さらに運転手がハンドルにしがみついて前かゞみになつているのを飛び越して、前面ガラスを突き破り、ボンネツト上に頭部及び胸部を打ちつけたと考えられる。ところで、被告であるが、助手席に頭を左側のドアに向けて左側を下に横たわつていたという姿勢、ハンドルの破損状態、同人の傷害部位程度からすると、運転席にいて衝突時にハンドルにしがみついたため、頭部口唇部をハンドルに打ちつけ、さらに車が左に回転したため、運転席から助手席に倒れたものと推認される。それでは、被告が後部座席にいて、原告水村が運転席にいたということがありうるかを考えてみるに、若しそうだとすると、水村が運転席から前面ガラスを破つてボンネツト上に上半身を投げかけることが前提とならざるを得ず、次に被告が後部座席から運転席の背もたれを飛び越して助手席に倒れ落ちるという理屈になるのであるが、しかし、運転席にはハンドルがあるので、運転者は前方に衝突の危険を感じた場合本能的に身がまえ無意識にハンドルにしがみつくのが通常であるし、しかも腰がハンドルの下部に押しつけられるので、ボンネツト上に飛び出すことは特殊の事情がないかぎり極くまれであるのに対して、後部座席にいるものは、そのような足或は腰を押えてくれるものがないのみならず、通常はゆつたりと後に背をもたせかけている場合が多いから、腰が浮いて容易に飛び込みの姿勢になり易いことは、映画やテレビ等で公開される人形を使つての衝突実験の結果からも説明のつくところである。殊に本件では、水村も酒を相当飲んでいたのであるから、ふかぶかと腰をかけていたであろうことは、十分に想像しうるところであるし、運転席のリクライニングシートには何ら損傷はなく、それには枕がついていないのであるから、容易に飛びこすことができたと思われる。従つて右の想定は説明のつかないところである。

(四)  以上の事実と〔証拠略〕によれば、本件事故当時加害車を運転していたのが被告であつたことは、明白であり、右認定に反する〔証拠略〕はいずれも措信せず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

三  (過失相殺)

〔証拠略〕によれば、事故当日の午後七時半頃、山本利平の経営する山本自動車修理工場で、八亀昌美の選挙のための集会が開かれ、原告等を含む従業員と被告もまじえて酒を飲んでいたが、八時半頃原告等と被告及び新井の四人で外に出て、原告水村が自分のつけのきく飲み屋にいこうと誘い、被告の自動車に乗つて湯河原の宮下にある「クルミ」という飲み屋に入つて酒を飲み、さらに歩いて湯河原駅に近い「ツクシ」という飲み屋に行つて飲酒し、それから車で「船」というバーに行つて酒を飲み、新井が始めにバーを出て、気分が悪くなつたので、被告の車の助手席の後に乗り、五分位たつて被告が車に戻つて来て運転席に坐り、酔つたためにハンドルに頭をもたせかけていたところに、原告井上が戻つて来て助手席に坐り、最後に水村が被告の坐つているリクライニングシートを前に少し倒して、その後部座席に入り、同人が被告に、酔つていて危いから運転を替わろうかと尋ねたが、被告は大丈夫だといつて運転を開始したことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

そうだとすれば、原告らは被告と行動を共にし、その間相当量を飲酒し、被告が酒に酔つていて、正常の運転が出来ない状態であることは、十分承知した上で乗車しており、場合によつては原告水村が運転したかも知れない情況にもあつたのである。

右の事情のもとにおいて、原告らが乗車した以上、その責任のすべてを被告に帰せしめることは妥当ではないので、この点を被害者の側の事情として斟酌し、三割を過失として相殺し、被告は七割について責任を負担すべきである。

四  原告等の損害

(一)  原告水村について

(1)  〔証拠略〕によれば、原告水村は本件事故当時、父の写真店で働き、月収金四万円を得ていたが、本件事故による前記の傷害により一年七ケ月間湯河原の厚生年金病院に入院治療し、退院後はさらに五ケ月間通院し、丸二年間全く働くことができなかつたこと、入院中の雑費は金五万円程度かゝつたこと、同人はこの事故により一三日間意識が不明で、肋骨々折により四ケ月の間全く寝返りもうてない苦痛を味わつたこと、本件事故による後遺症として眼筋摩痺のため近眼と複視(下方視に際し)になつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(2)  そうすると、原告水村は得べかりし利益は、二年間、月金四万円であるから、合計金九六万円となり、これを本件事故のために得られなかつたため、同額の損害を蒙つたことになる。ところが同原告は、この点に関しては、金六〇万円しか主張していないけれども、物的損害としては、右の外後遺症による損害として金五〇万円を請求しており、これはいずれも訴訟物としては同一性があるものと考えられるので、右の両方を合算した金一一〇万円の範囲内でその請求を認めても、弁論主義に反するものではない。そこで金九六万円の限度でこれを認める。

(3)  そして原告水村は後遺症による損害として金五〇万円を請求しているのであるが、右認定のとおり後遺症の内容は、近眼と下視における複視であるところ、その程度については必ずしも明らかではないけれども、自動車損害賠償保障法施行規則の後遺症の等級としてはほゞ一四級程度に該当するものと考えられるので、その損害としては二年間、収入の五%とみるのが妥当である。そうすると金四万八、〇〇〇円となる。

(4)  そこで、前記認定の損害の合算額金一〇五万八、〇〇〇円に過失相殺をすると、金七四万〇、六〇〇円となる。

(5)  次に慰藉料について判断するに、〔証拠略〕によれば、被告は第一審の刑事判決で、昭和四六年三月三〇日禁錮一〇月の実刑を科せられ、控訴審、上告審共棄却された結果、昭和四八年七月一七日判決が確定し、昭和四九年四月一七日刑が終了したこと、その他諸般の事情を斟酌して金七〇万円が相当である。

(二)  原告井上の損害

(1)  〔証拠略〕によれば、原告井上は本件事故の結果約一週間意識が不明で、七カ月間と二週間の二度に亘つて入院し、退院後も約四カ月間は働くことができなかつたので、約一年の間収入が得られなかつたこと、入院中は約三カ月間受傷のためにひどい苦しみを味わつたこと、入院中に要した雑費は、金五万円であつたこと並びに本件事故当時井上は山本自動車修理工場に勤務し、月収金四万五、〇〇〇円を得ていたことが認められ、これに反する証拠はない。

(2)  そうすると、井上は本件事故のために一年間の得べかりし利益金五四万円を失つたことになり、入院中の雑費金五万円と合せて金五九万円の物的損害を生じたところ、前認定の割合による過失を相殺した結果、金四一万三、〇〇〇円となるのであるが、同原告は金三九万円しか請求していないので、右の範囲においてこれを認める。

(3)  そして慰藉料については、右争いのない事実、右認定の事実並びにその他諸般の事情を綜合して金五〇万円が相当であると認める。

五  被告の消滅時効の主張について

〔証拠略〕によれば、本件事故について加害車を運転していたのが誰であつたかについては争いがあり、原告水村は事故の結果、本件事故の記憶が全く失われ、誰が運転していたかは全くわからず、また原告井上にしても、被告が極力自己が運転していたのではなく、原告水村が運転していたと争い、また関係者の供述内容についても必ずしも一貫せず、捜査機関においても明確な結論が出ないまゝ、事故発生の昭和四三年二月四日から起訴されるまで相当長期間を経て、さらに刑事々件の第一審の判決が言渡されたのが、同四六年三月三〇日であつたこと、そこで原告等は、公の判断が始めて下されたので同年七月二七日本件訴に踏切つたものであることが認められ、右認定を左右する証拠はない。

右のような状況のもとにおいては、原告水村については、右刑事々件の第一審判決のあつた昭和四六年三月三〇日をもつて、始めて加害者を確知したものというべく、(被告は原告水村については、同人が加害車の運転者であるから、はじめから時効は問題にならない旨、前後矛盾する主張となつており、その主張は不明瞭であるが、念のため説示する。)原告井上については、事故後約一週間して意識が回復したからといつて右認定のような経緯のもとにおいてはその時直ちに加害者を確知したものとするのは、常識的にも酷であつて、本件のような事故のあとであるから、自己の記憶としては被告が運転者であると思つても、関係者の供述が錯綜して、いずれが真実か疑いの余地のある本件のような場合は、確知したものとは言い難く、井上が加害者を確知した時期は、右刑事事件の第一審か少くとも被告が刑事被告人として起訴されたことを知つた頃と考えるのが相当である。そうだとすると、原告等の本件損害賠償請求権の消滅時効は、いずれにしても本件訴の提起によつて、三年間の時効期間が完成することなく中断されたものというべく、被告の右抗弁は採用しえないところである。

六  結論

以上のとおりであるから、被告に対する自賠法第三条に基づく損害賠償として、原告水村は金一四四万〇、六〇〇円、原告井上は金八九万円並びにこれらに対する本件訴状送達の翌日であること本件記録上明らかな昭和四六年七月三〇日より右完済まで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める範囲内において正当であるからこれらを認容し、その余は失当であるからいずれも棄却することとし、訴訟費用については民訴法第八九条、第九二条本文、第九三条一項但書を、仮執行の宣言については同法第一九六条を夫々適用し、よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 安間喜夫)

現場略図 図面(一)

<省略>

図面(二)

<省略>

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