大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所川崎支部 平成元年(わ)480号 判決 1991年3月06日

主文

被告人は無罪。

理由

第一本件公訴事実の要旨

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、Aと共謀の上、平成元年一〇月二八日ころ、川崎市麻生区《番地省略》の右A方において、右Aから、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン約〇・〇五グラムを含有する水溶液約〇・二ミリリットルを自己の左腕に注射してもらい覚せい剤を使用した。」というものである。

なお、検察官は、本件は被告人とAとの共謀での覚せい剤最終使用の事実を起訴したものである旨の釈明をしている。

第二無罪の理由

弁護人は、被告人は本件訴因において共同正犯とされているAから、右訴因記載の日に同記載の場所において、被告人の意思に関係なく強制的に覚せい剤を注射されたものであって、被告人には覚せい剤使用の故意が存せず、無罪であると主張し、被告人もこれに沿う供述をしているので、以下に検討する。

一  争いのない事実

まず、検察官及び弁護人双方に争いがないと認められる事実は、関係各証拠によると、以下のとおりである。

1  被告人は、平成元年一〇月一五日ころ、かねて被告人とAとの共通の知人であるBから電話を掛けるように頼まれていた電話番号に電話をしたところ、Aが出て、「Bから渡すように頼まれているものがある。」と言われたので、被告人としてはAは一面識もない男であったが、同月一六日の夕方にAと会う約束をした。

当日、被告人はその母親と買物をしていて、右約束を果たせなかったが、その日のうちにAから被告人宅に電話があり、Aは、「遅くなってもいい、今日会いたい。」と執拗に言うので、同日午後一一時ころ、小田急電鉄新百合ケ丘駅前で会うことになった。

被告人が同駅前で待っていると、Aは先に目印として指定していた外車の「リンカーン」に乗って現れた。Aから「体が不自由で余り歩くことができないから車に乗って。」と言われたので、被告人は同車に乗り込み、川崎市麻生区《番地省略》のA宅に赴いた。

2  Aは、当時二〇歳の被告人より二五歳も年長の四五歳(昭和一九年七月一一日生)で、元暴力団組員であり、かつて覚せい剤取締法違反の罪により実刑判決を受け、宮崎刑務所で服役した経験をもっており、持病の椎間板ヘルニアと交通事故による頸椎捻挫のため自宅療養中であったが、有限会社甲野物産の設立を計画していた。

Aは妻帯者ではあるが、妻とは別居しており、A宅では一人住まいであった。

被告人は、A宅に着くと、Aから一階の応接セットの置いてある居間に通され、ソファーに腰をかけAから出されたコーヒーを飲みながら、Bの話などをした。

被告人がコーヒーを一杯飲んだところ、喉が渇き、急に頭痛がし、頭が割れるようになり、その痛みに耐え兼ねて、「頭が痛い。頭が痛い。」と苦しみを訴えると、Aは、被告人をソファーに横にさせて、「今、痛みを止めてあげるから腕出して。」と言い、被告人の左腕に覚せい剤を注射した。なおも被告人の頭痛がとまらなかったので、Aは五分くらいして再度覚せい剤の注射をした。

被告人は、頭痛は止んだものの、今度は頭がぼんやりしてふらふらしていると、Aは「二階に行って休もう。」と言い、被告人を連れて二階にあがり、ベッドのある部屋に被告人を入れ、そこで意識朦朧としている被告人と肉体関係をもった。

3  同月一七日に被告人が目覚めたとき、被告人はまだ頭がぼんやりしていたところ、Aは再び被告人に覚せい剤を注射し、注射液が覚せい剤である旨被告人に告げた。

被告人は、その後覚せい剤を注射されてから一定の時間が経過すると頭痛に襲われるようになり、Aに、「頭が痛い。」と言うと、Aは必ず被告人に覚せい剤を注射したほか、被告人が目覚めた時にも、Aは被告人に覚せい剤を注射したので(一日約二回)、被告人がA宅にいた期間を通して被告人の意識は朦朧とした状態が続いた。

4  被告人は、A宅で、ほとんど家事らしいことはせず、無為に過ごし、食欲もなく、ときどきヨーグルトを食べるだけで、あとは水ばかり飲んでいた。Aはこの間何度も被告人と肉体関係を結んだ。

Aは、当初松葉杖をついて歩いていたが、被告人がA宅に滞在して数日目ころからは杖なして歩くことが多くなった。

A宅は、玄関に鍵が外側に二個、内側に五個設置されており、各部屋にもそれぞれ外側と内側にそれぞれ各一個鍵が設置されており、Aは部屋から部屋の移動に際しても確実に鍵をかけていくという用心深い暮らし方をしていた。

A宅には、地下室と天井裏部屋があり、寝室には刀が三振りと本棚の中には拳銃(モデルガン)が一丁飾られてあった。また、被告人がA宅に居た間に、Aの知人であるCがA宅を訪れ、組立式のモデルガンを置いていき、Aはそれを組み立てていたが、部品が不足していたためか、完成するに至らなかった。

被告人は、それを真正拳銃であると思い、Aに対して強い恐怖感を持った。

またAは、被告人の目前で麻生警察署に電話し、「マル暴の○○頼む」といった話し方をし、いかにも警察内に親しい者がいるという風に振る舞った。

5  被告人は、A宅にいた期間中、一度近くのコンビニエンスストアにAと一緒に買物に出掛けたことがあった。その時、被告人は逃げ出さなかった。また、被告人は、Aが外出する際には、一人で留守番することも何度かあったが、被告人はぼんやりしたまま無為に時を過ごしてしまい、A宅から逃げ出すために、施錠しているのかどうかを確認することすらしなかった。

被告人は、覚せい剤水溶液を注射され続けているうちに、知らない人間が見えたり、ヘリコプターのような音が鳴り響いているというような幻覚・幻聴に襲われるようになった。

6  そして、本件当日の平成元年一〇月二八日となり、同日午後三時ころ、Aは、会社設立の準備のため友人に会いにA宅を出たが、その前の同日午前二時ころから同日午後二時ころまでの間(被告人の当公判廷における供述では午前一〇時ころ、被告人の捜査機関に対する供述調書では午後二時ころ、Aの捜査機関に対する供述では午前二時ころ)に、A宅で、Aは被告人の腕に最後の覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン約〇・〇五グラムを含有する水溶液約〇・二ミリリットルを注射した。

7  被告人は、その後しばらく一人でA宅でいたが、同日午後七時ころ、A宅から逃げ出した。その際、被告人は、Aのサンダルを履き、A宅の玄関の鍵をかけることも忘れていた。

被告人は走り、たまたまA宅付近のD宅に入り込み、「かくまってください。」と言った。

右D子が警察に連絡しようとしたところ、被告人は、「電話は止めてください。」と頼み、右D子に自分が追われている理由を説明し、被告人の母に宛てた手紙と自宅の住所、電話番号をメモ書きして残し、更に右D子に迷惑料として一〇万円を渡して、同人宅を出た。

8  被告人は、その後約二時間歩き続け、同日午後九時二〇分ころ、警察官に保護してもらおうと神奈川県麻生警察署柿生警察官派出所に飛び込んだが、警察官が不在であったので、電気を消して机の下に隠れ、警察官が戻ってくるのを待った。

しばらくして戻ってきた警察官に、被告人は、「Aという人に覚せい剤を打たれた。」と説明した。

被告人は、その後右柿生警察官派出所から麻生警察署に移送され、そこで警察官から覚せい剤反応検査のため尿を採取され、上申書を作成提出後、迎えにきた被告人の母とともに東京都内の被告人方自宅に帰った。

9  被告人は、自宅に戻った後、「Aに追われているので怖い。」とわめき、寝ついてからも突然「殺される。」と言って起き上がったり、毛布をかぶって部屋の隅にうずくまったり、頭が割れるほどの頭痛を訴えたりした。

また、被告人は自宅でも依然として食欲がなく、ヨーグルトを食べるだけであった。

10  警察における被告人の尿の検査結果において、覚せい剤陽性反応が出たため、被告人及びA両名共謀の上、平成元年一〇月二八日午後二時ころ、A方でAが被告人の腕に覚せい剤水溶液を注射して使用したとの趣旨の被疑事実により、被告人は同月三一日に、Aは同年一一月一日に麻生警察署警察官により通常逮捕され、その後両名とも勾留され、同警察署及び横浜地方検察庁川崎支部において取調べを受けた。

同月二一日、同支部検察官により、被告人は本件訴因により起訴されたが、Aは嫌疑不十分として不起訴処分に付された。

以上のとおり認められる。

そこで、被告人に覚せい剤自己使用の故意及びAとの共謀があったのか否かについて判断するため、A及び被告人の各供述の内容をみるとともに、各供述の信用性について以下に検討を加えるものとする。

二  Aの公判証言及び被告人の捜査段階における供述の概要について

①証人Aの当公判廷における供述並びに②被告人の捜査段階における上申書、司法警察員及び検察官に対する自白調書は、被告人の覚せい剤使用の故意・共謀の存在を肯定するのに沿う証拠である。

1 A証言の要旨は、「被告人は、平成元年一〇月一六日午後一一時ころから同月二八日まで、私宅にいた。被告人を紹介したBの話や被告人の当初の言動から被告人にはニュアンスとして覚せい剤の使用歴があると思った。その後、被告人が『頭が痛い。』というのを被告人が私に覚せい剤をねだる合図であると思い、被告人に覚せい剤を注射していた。被告人は、家に帰りたいと言ったことはなく、逆に私の方から『お母さんやお父さんが心配するから電話をしなさい。』『うちにいったん帰りなさい。』などと言ったが、被告人は『私はこのうちにいます。』と言って、私方にいた。私は、被告人を脅迫したり、暴行を加えたりして強制的に被告人の腕に覚せい剤を注射したことはない。覚せい剤の注射は危険で、お互い合意の上でなければ絶対できないことだと思う。被告人に最後に覚せい剤を注射したときも、強制的に行なったものではない。」というものである。

2 次に、被告人の捜査段階の自白についてみるに、被告人は、同年一〇月二八日に警察官に保護された直後、麻生警察署長宛に上申書を作成しているが、その中で、被告人は、「一日二回位チュウシャをしてもらい、私は一日中部屋の中でボーとしてました。始めはAさんが注シャをしてくれましたが、数回打たれたあとからは自分でもほしくなり自分で打ったこともあります。」と書き記しており、Aから覚せい剤を強制的に注射された旨の記載がないばかりか、その後の捜査段階における供述調書においては、証人Aの供述内容とほぼ同旨(覚せい剤注射をした時間の点を除く。)であり、右上申書の内容を敷衍した内容の供述を続けているのである。

三  Aの証言及びこれに符合する被告人の捜査段階における供述の信用性について

Aが、被告人に対し合意の上で覚せい剤を注射したとの本件公訴事実そのものについては、Aの証言及び被告人の捜査段階の供述以外にこれを裏付ける証拠は一切ないものであるところ、Aの証言及び被告人の検察官及び司法警察員に対する自白は、ともに当初から二人共謀による覚せい剤使用の事実を認めるものである上、覚せい剤最終使用の時間の点を除いて、その内容がほぼ合致しており、いずれもそれなりの信用性をもつかのようにみえるのである。

しかしながら、Aの当公判廷における証言及び被告人の捜査段階における供述の各信用性については、次のように合理的な疑問点がある。

1  Aの証言について

(1) Aが被告人をA宅に呼び寄せた目的に関して

Aは、被告人をA宅に呼び寄せた目的に関し、「家政婦の仕事をE子という人にしてもらっていたが、その後事情があって、辞めたので、被告人にきてもらった。」旨のことを証言している。

そうであるならば、被告人に初めて会ったときの主たる会話内容は、被告人に家政婦をしてもらえるかどうかということになるものと思われるのに、Aは、当公判廷において、「家政婦代についての話よりもBがいないということについての話の方が主体になったと思う。」「給料のことを話したかは定かではない。」などと首尾一貫しない証言をしている。

また、Aは、証言の中で被告人の家政婦としての仕事内容を明らかにできなかったし、更に、Aは、「Bから預かっていたものは手紙である。」「写真の裏にメモが書いてある。F子さんの顔の写真というのがこれだということでメモが書いてあった。その他に手紙というのは別にない。」などと場当たり的なあいまいな証言に終始し、それ以上に被告人に渡すようにBから預かったというものを特定できないこと、結局Aは被告人に何も渡していないこと、家政婦の話だけであれば、電話で話せないこともないのに、Aは「遅くなってもいい、今日会いたい。」(被告人の司法警察員に対する平成元年一一月八日付供述調書及び被告人の公判供述)と言って、無理にも平成元年一〇月一六日の午後一一時ころに被告人と会う約束を取りつけていることなどの諸点に照らせば、被告人には家政婦として来てもらったとするAの供述の信用性にはすでに深い疑問があり、前記争いのない事実をも併せ考えれば、Aが被告人をA宅に呼び寄せた目的は、被告人を家政婦として真摯に雇用したいためというよりは、むしろ被告人を覚せい剤漬けにし、自己の一時的な情婦として弄ぶためであったと推認しうるものである。

(2) 被告人の最初の覚せい剤注射に関して

次に、Aは、当公判廷において、Aが初めて被告人に覚せい剤を注射したのは、被告人にはニュアンスとして覚せい剤の使用歴があると思ったからである旨の証言をする。

しかし、他人の頭痛の原因が覚せい剤切れのためなのか即座には判断できないのが普通であると思われること、Aとしては初対面の被告人に覚せい剤を注射する前に、被告人が覚せい剤経験者の徴表を示しているかどうかの点に注意を払うのが当然ではないかと考えられるのに、Aは被告人の腕に注射痕があったか否かについてあいまいな証言しかできないことなどの諸点に鑑みると、Aは、被告人への最初の覚せい剤注射の際、被告人の覚せい剤使用歴については何ら注意を払っていなかったものとみられる。

従って、被告人には覚せい剤経験者のニュアンスがあったとするA証言は措信できない。

関係証拠によれば、被告人は何らの前科前歴を有さず、母親と格別問題もなく暮らしていた未だ二〇歳の女性であり、「Aから注射されるまで覚せい剤経験は全くなかった。」との被告人の捜査公判を通じての一貫した供述に、当裁判所は信用性を認める次第である。

(3) その後、本件最終使用に至るまでの覚せい剤の注射に関して

Aは、被告人に覚せい剤をその後も注射し続けたことについて、「被告人が『頭が痛い。』と言うのを被告人が私に覚せい剤をねだる合図であると思ったからである。」旨証言し、また、被告人が当公判廷において種々供述する後記のような威圧的な言動には一切及んでいない旨の断定的な証言をなし、それに固執する態度も随所にみられ、右のようなAの供述態度のほか、前記争いのない事実中3、4各記載の事情を併せ考慮するならば、場合により監禁罪、脅迫罪、強要罪等の犯罪で糾弾されかねない状況のAの立場からして、被告人に対し強制的に覚せい剤を注射してはいないとのAの証言の信用性は極めて低いものであると言わねばならない。

2  被告人の捜査段階における自白の信用性について

(1) 被告人の捜査段階における各供述調書には、被告人がAに覚せい剤を注射してくれるようにねだるようになったとの記載があり、「始めはAさんの身の回りの世話をする約束でしたが、お互い一つ屋根の下に生活する男女であれば、自然と深い関係になり、同棲という型で暮らしていたのです。」(被告人の司法警察員に対する平成元年一一月一日付供述調書)と供述しているが、前述したように、被告人は、Aから、「Bから預かっているものを渡したい。」と言われてAに会ったところ、被告人は急に頭が割れるように痛くなり、痛み止めということでAから覚せい剤を打たれてからは、その日のうちに肉体関係をさせられ、その後は被告人が逃げ出すまで覚せい剤漬けの状態にあったのであるから、被告人の右供述中、悠長・自然にAと深い関係になったとの記載は、客観的事実に反し、信用できるものではない。

(2) また、被告人が平成元年一〇月二八日に警察で保護された直後、被告人は、麻生警察署長宛の上申書を作成しているが、右上申書には、「一日二回位チュウシャをしてもらい、私は一日中部屋の中でボーとしてました。始めはAさんが注シャをしてくれましたが、数回打たれたあとからは自分でもほしくなり自分で打ったこともあります。」と書き記されており、Aから覚せい剤を強制的に注射された旨の記載がない。

そしてそのことは、被告人の捜査機関に対する各供述調書を通し一貫しているところであるが、前記争いのない事実中9記載の事情並びに被告人が逮捕された翌日である同年一一月一日付の被告人の司法警察員に対する供述調書中に、「体がだるく頭もボーッとしてきたので今日はこの辺で勘弁してください。」という記載があることからも明らかなように、被告人が前記上申書を作成した時期は、被告人が約一二日間にわたる覚せい剤漬けの生活の後遺症の表れと認められる状況にあり、被告人が意識の清明さを著しく欠いた状態で右上申書を書いたものとみられるし、また、被告人の捜査段階における各供述調書については、Aが被告人に対して麻生警察署内に懇意にしている警察官がいる旨の言動をとっていたために、警察において被告人は思うように話すことができなかったとの被告人の当公判廷における弁解もあり、それは被告人の経験した一二日間の悪夢のような生活を勘案すると、被告人が右弁解のような心境に陥ったことも十分に首肯しうるから、捜査段階における被告人の供述中に強制的に覚せい剤を注射された旨の供述が存しなくても何ら異とするに足りない。

とりわけ、司法警察員作成の同年一〇月三一日付捜査報告書によると、被告人は同月二八日にAから逃げて柿生警察官派出所に飛び込んだ直後には、警察官に対して、「Aという男に覚せい剤を注射された。」旨申立てていることが認められることにも照らせば、被告人の右上申書の内容には合理性がなく、右上申書中の、「注射をしてもらい」とか、「注射をしてくれました。」との文言から、直ちにAと合意の上で覚せい剤を使用する故意まで被告人が自認していたものと解することはできないものである。

(3) また、被告人の司法警察員に対する同年一一月三日付供述調書中の、「覚せい剤はスッキリするのでいいもんだと思い、私の方からAさんにやりたいというと、すぐに注射してくれたのです。」という記載や、検察官に対する同年一一月一五日付供述調書中の、「初めは覚せい剤の注射をすると頭が痛くなったりしましたが、間もなく注射すると身体が軽くなり頭がすっきりして覚せい剤はいいものだと思うようになりました。」「(同年一〇月二八日A宅での覚せい剤使用に関して)私が言いだしたのかAさんが言いだしたのかよく思いだせませんが、やるかということになったのです。」「五分か一〇分か経ちましたが、いつものような気持ちになってこないのです。私がきかないねと言うと、Aさんは薄かったかなと言ってまた覚せい剤を溶かし始めたのです。」など、最後の覚せい剤使用に向けての状況を説明する記載があるが、前記説示のような被告人の精神状況に照らせば、右各供述記載も到底信用できるものではない。

四  被告人の当公判廷における供述の概要並びにその信用性について

被告人の当公判廷における供述の要旨は、前記争いのない事実に加えて、「私は平成元年一〇月一七日の朝、Aから覚せい剤を注射された後、『注射したのは覚せい剤である。』と告げられて、もう終わりだ、もう逃げられないと感じた。その後も、私はAから覚せい剤を注射され続けて意識朦朧とした状態になり、注射を拒むことができず、Aに抵抗するという意欲も湧かなかった。Aは、私にA宅の地下室を見せて、『ここに入ったら、中で騒いでも表には聞こえない。』と言ったり、私に対して物を投げたり殴ったりして暴力を振るった。また、Aは、刀をぬき、『帰れるなら帰れよ。』『おれは昔日本刀で人の腕を切ったことがある。』と言ったり、拳銃を私に見せたり、拳銃を組立ながら『この拳銃ができたらお前は終わりだな。お前を埋める。』などと言った。そのため私は、もう殺されると思ったが、逃げてもすぐ捕まってしまうだろうし、その時は却って私の母にも迷惑が及ぶかもしれない、逃げても無駄だと思うにつけ、諦めの気持ちが先に立ち、逃げようとすることもできなかった。」というものであり、Aが被告人をいかにして覚せい剤漬けにしてその精神活動を低下させるとともに種々威嚇して被告人のAに対する恐怖感を募らせていき、被告人の抵抗する意欲を日毎に削いでいったかの被告人の右供述は、具体的かつ詳細で、前記争いのない事実とも整合性を保つものであって、極めて信用性に富むものといえる。

五  まとめ

以上のとおり、証人Aの当公判廷における供述及び被告人の捜査段階における各供述は信用できないが、被告人の当公判廷における供述は十分信用できるところである。

そして、信用性の高い被告人の当公判廷における供述等関係各証拠によれば、被告人がA宅に赴いた平成元年一〇月一六日以降、A宅を逃げ出す同月二八日までの間、被告人は、Aから一日約二回覚せい剤を注射され続けたため、右期間を通じて意識が朦朧とした状態に置かれたまま、自発的意欲を喪失させられ、またAからけん銃(モデルガン、但し、被告人の認識では真正けん銃)を示されるなどして威嚇され、Aに対する恐怖感を募らせ、Aに対して精神肉体ともに抵抗できないまま、日時を過していったものと認められる。

従って、当裁判所は、被告人の最後の覚せい剤使用に関する本件公訴事実記載の日、同記載の場所における覚せい剤使用についても、被告人は、右のとおりAからの日常的威嚇等により、心身とも抵抗を抑圧された状態にあったから、Aからの覚せい剤注射を拒絶できなかったもの、すなわち、被告人はAから強制的に覚せい剤を腕に注射されたものであって、これを認容していたものではないと認める。

そうすると、被告人に対する本件公訴事実については、覚せい剤自己使用の故意の要件を欠くことになり、ひいてはAとの共謀も有りえないと判断する。

第三弁護人の公訴権濫用の主張について

一  弁護人の主張

弁護人は、(1)Aが本件公訴事実と同一の犯罪事実について嫌疑不十分として不起訴処分になった以上、被告人に対する本件公訴事実についても嫌疑不十分であるというべきであるから、本件公訴提起は、犯罪の客観的嫌疑なくして提起された公訴である、(2)またAが嫌疑不十分で不起訴となったのに被告人のみ起訴されるという検察官の処分における顕著な不均衡に着目するならば、本件起訴は検察官の訴追裁量を逸脱して提起された公訴であり、かつ当該起訴自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に該当するので、本件公訴は公訴権の濫用として違法であるから、実体判断に先んじて公訴棄却の判決がなされるべきであると主張する。

二  当裁判所の判断

1  弁護人の右(1)の主張について

関係各証拠によれば、神奈川県麻生警察署の警察官は、被告人の同署警察官に対する供述及び採尿検査結果等に基づき、平成元年一〇月三一日被告人を、同年一一月一日Aを、両名共謀の上、同年一〇月二八日午後二時ころAが被告人に覚せい剤を注射使用したという本件訴因と同趣旨の被疑事実で逮捕したこと、両名の身柄送致を受けた横浜地方検察庁川崎支部検察官は、両名の勾留請求をして勾留状の発付を得、両名を取調べ、勾留延長手続きを経た後の同年一一月二一日、被告人を本件訴因で起訴したが、Aの方を嫌疑不十分により不起訴処分に付したことが認められる。

そして、起訴された被告人と被疑事実並びに証拠関係を共通にしているAを、同支部検察官が嫌疑不十分を理由として不起訴処分に付したことは、当裁判所としても理解しがたいところではある。

しかし、検察官のAに対する不起訴処分の当否は別として、被告人に関する限りは、前記無罪理由欄で述べたような本件事案の経過、捜査段階における本件訴因事実に沿う被告人及びAの供述の存在、被告人から採取した尿についての覚せい剤陽性反応の検査結果等の諸事情を総合勘案するとき、被告人に対する検察官の公訴提起の段階においては、被告人につき本件公訴事実のような犯罪の客観的嫌疑があったと言わなければならない。

よって、弁護人の右(1)の主張は採用できない。

2  弁護人の右(2)の主張について

たしかに、横浜地方検察庁川崎支部検察官が、被告人に対する本件公訴事実について共同正犯とされているAを嫌疑不十分として不起訴処分に付していながら、被告人のみ起訴したことは、それ自体検察官が自己矛盾の処理をしたものであるとの謗りは免れない。

しかしながら、公訴権濫用の主張に関する判断においては、本件審判の対象とされていないAの被疑事件との対比を問題とすべきではなく、あくまでも審判の対象とされた本件公訴事実について、検察官の裁量に公訴提起を無効とするような逸脱があったか否かを検討すべきである。

そして、当裁判所は、検察官の訴追裁量の逸脱が公訴提起を無効ならしめる場合があると考えるものであるが、それは弁護人もいうように、例えば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られると解するものである(最高裁昭和五五年一二月一七日第一小法廷決定・刑集三四巻七号六七二頁参照)。

そして、右1で検討した諸事情に照らすと、本件公訴提起は、一般の場合と比較して、検察官の訴追裁量権の逸脱としてこれが無効となるほどに極限的な場合にあたるとまでは認められない。

よって、弁護人の右(2)の主張も採用しない。

第四結語

以上検討してきたように、本件公訴提起は、検察官による公訴権の濫用の場合とは言いえないものの、被告人には覚せい剤自己使用の故意及び本件訴因上共同正犯者とされたAとの共謀を認定できず、従って、本件公訴事実については、犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 奥田保 裁判官 仁平正夫 山本善彦)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例