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横浜地方裁判所横須賀支部 平成19年(ワ)202号 判決 2008年5月12日

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は,原告らの負担とする。

理由

第1請求

被告は,別紙地図1<省略>の茶色部分の水域(以下「本件水域」という。)において,平成19年3月28日付け工事協議書(以下「本件工事協議書」という。)にかかる浚渫工事及びこれに付随する一切の作業行為を中止し,これを続行してはならない。

第2事案の概要

本件は,横須賀港周辺の海域で漁業等の活動をする者及び横須賀港から165キロメートル以内に居住する者合計635名からなる原告らが,被告国の実施する本件工事協議書にかかる横須賀港浚渫工事(以下「本件浚渫工事」という。)について,人格権等を侵害される危険性があるとして,被告国に対し,人格権等に基づく妨害排除請求及び妨害予防請求として,同工事の差止めを求めた事案である。

1  争いのない事実等

(1)  当事者

X1は,横須賀市東部漁業協同組合横須賀支所に所属し,別紙地図1<省略>の水色部分の水域において底引き網漁を,別紙地図1<省略>の紫斜線部分の水域において潜水漁業を行う漁業者である(<証拠省略>)。

原告らは,いずれも,横須賀港から165キロメートル以内に居住する者である。

被告は,本件浚渫工事を実施する主体である。

(2)  本件浚渫工事に至る経緯

米海軍は,平成17年10月28日,平成20年に空母キティホークが退役し,ニミッツ級原子力空母と交替することを発表し,平成17年12月,その後継鑑が原子力空母ジョージ・ワシントンであると発表した。同空母は,全長332.85メートル,全幅40.84メートル,排水量約9万7000トン,速力約30ノット(時速約54キロメートル),搭載航空機約85機,乗組員が空母要員約3200名,航空要員約2480名,就役が平成4年7月であり,加圧水型原子炉を2基搭載するものである(<証拠省略>)。

平成18年6月,日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定25条1項に基づき設けられ,在日米軍が使用するために必要とする日本国内の施設の決定などを行う日米合同委員会において,上記原子力空母への交替に向けて,本件水域における本件浚渫工事を日本国政府が実施することが合意された。その際,本件浚渫工事は平成20年5月末日までに完了することが合意された。

平成18年8月16日,神奈川県知事が原子力空母への交替を受け入れる旨発言し,横浜防衛施設局(現南関東防衛局)は,本件浚渫工事に向け,港湾法37条1項3号,同条3項による協議について横須賀市から協議に応じるとの回答を得て,本件水域のボーリング調査を実施し,同年11月,調査結果を横須賀市に提出した。

横浜防衛施設局長は,平成19年2月21日,本件浚渫工事に伴う浚渫土砂を海洋に投棄するため,環境大臣に対し,海洋汚染等及び海洋災害の防止に関する法律(以下「海防法」という。)10条の6第1項に基づいて,廃棄物海洋投入処分許可申請書を提出し,同申請を受けた環境大臣は,同年4月5日,これを許可した。

横浜防衛施設局は,平成19年3月,本件水域を含む海域に漁業権を有する横須賀市東部漁業組合に対し,本件浚渫工事の概要を説明し,同月28日,同組合から本件浚渫工事に同意する旨の回答を得た(<証拠省略>)。そして,横浜防衛施設局は,同月29日,本件浚渫工事に必要な港湾法37条1項3号,同条3項の工事協議書を横須賀市に提出し,協議に応じるよう求めたところ,同市は,同年4月26日,これに応じる旨の回答をした(<証拠省略>)。

横浜防衛施設局は,同年5月7日から同年7月21日までの間,周辺海域における港湾工事の安全を確保するため,探査会社をして,運輸省(現国土交通省)港湾局長示達に係る「残存機雷等に対する港湾工事等の安全確保」と題する通達に基づいて磁気探査を実施させたところ,367か所で磁気異常が発見され,1か所で模擬弾,1か所で砲弾らしきものが発見されたが,残りは鉄くずやパイプなどで不発弾は見つからなかった(<証拠省略>)。

(3)  本件浚渫工事の概要

本件浚渫工事は,平成19年3月28日から平成20年5月31日までを契約工期とし,横須賀港の米海軍提供水域内において,別紙2-2環境現況調査位置図<省略>で「浚渫範囲」として実線で囲まれた部分を浚渫するもので,浚渫規模は水域面積約30ヘクタール,総土量約60万立方メートル,水深約50フィート(約15.24メートル)である。原子力空母ジョージ・ワシントンの配備のためには横須賀港海域内で水深15.24メートルまで浚渫する必要がある。

浚渫工事は,スパット式グラブ浚渫船2隻と土運搬船を使用して施工する(<証拠省略>)。作業は全体の区域を7か所に分割して順次実施し,浚渫した土砂は,ガット船にて北緯34度13分,東経140度38分の位置を中心とした半径7キロメートルの円で囲まれた水域内まで運搬し,海洋投入処分を行う(<証拠省略>)。

横浜防衛施設局は,浚渫作業の際,風,波浪及び潮流の影響による粒子の舞い上がり防止と沈降促進を目的として,浚渫予定区域を汚濁拡散防止膜で囲み,汚濁拡散防止枠を装備した浚渫船により浚渫作業を行うこととした(<証拠省略>)。汚濁拡散防止膜は,合成樹脂製のもので,透水性があり,水底土砂の粒子を遮断することができるものであった(<証拠省略>)。さらに,同施設局は,工事期間中,周辺海域の水質調査を行い,水質の状況を把握・監視することとし,調査の箇所は工事水域内2か所,工事水域外(一般水域と提供水域の境界)2か所の計4か所とし,水質監視の頻度は工事作業中1日1回行うとの計画を立てた(<証拠省略>)。また,工事の際には,船舶交通の安全のため,警戒船4隻を配備する(ただし,汚濁拡散防止膜設置・撤去作業のみの場合は,2隻の警戒船を配備する)計画となった(<証拠省略>)。

被告は,本件水域において,上記磁気探査終了後である平成19年8月10日から本件浚渫工事を開始した。

被告は,平成19年10月15日から同月31日にかけて,浚渫施工工区の変更,浚渫船の増加,夜間作業の実施について横須賀市との間で協議し,同年11月1日から,浚渫施工工区を7工区から5工区に変更し,浚渫船を2隻から4隻に増加し,一部の工区において,午後10時までの夜間作業を実施することとなり,同時に,夜間作業中,毎日1回,濁度,水素イオン,溶存酸素量について海水の分析を行うこととなった(<証拠省略>)。

(4)  仮処分

横須賀港周辺で漁業を営む者及び横須賀港から165キロメートル以内に居住する者合計401名が,人格権等に基づく妨害排除請求権及び妨害予防請求権を被保全権利とし,被告国を相手として,本件浚渫工事の差止めを求める仮処分を申し立てたが,平成20年2月29日,申立ては却下された(<証拠省略>)。

2  争点(差止請求権の有無)

(1)  差止請求権の根拠となる権利の存在

生命及び身体の安全(人格権)のほか,

ア 漁業行使権が差止請求権の根拠となるか

イ 海上活動をする権利が差止請求権の根拠となるか

ウ 平穏生活権が差止請求権の根拠となるか

(2)  上記権利に対する被害又は被害発生の具体的危険性

ア 判断基準

イ 立証責任

ウ 本件浚渫工事の公共性

エ 水質汚染等本件浚渫工事自体による生命及び身体の安全,平穏生活権並びに漁業行使権に対する被害又は被害発生の具体的危険性の有無

オ 放射線被曝等原子力空母による生命及び身体の安全,平穏生活権並びに漁業行使権に対する被害発生の具体的危険性の有無

第3当裁判所の判断

1  争点(1)「差止請求権の根拠となる権利の存在」

(1)  漁業行使権が差止請求権の根拠となるか

被告は,差止請求権の根拠となる権利は,少なくとも物権類似の排他性(不可侵性)を持った支配権であって,生命,身体に比肩しうるような重大な保護法益に限定されるべきであり,漁業を営む権利に基づく妨害排除請求又は妨害予防請求については,これを認める明文がない旨主張する。

しかし,漁業法8条1項は,漁業協同組合の組合員であって,当該漁業協同組合がその有する共同漁業権等ごとに制定する漁業権行使規則で規定する資格に該当する者は,当該漁業協同組合の有する共同漁業権等の範囲内において漁業を営む権利(漁業行使権)を有する旨定めている。この規定は,共同漁業権等のような管理漁業権については,漁業権者である漁業協同組合が自ら権利を行使するのではなく,当該組合に所属し,一定の資格を有する組合員に権利を行使させるという実態を前提として,同組合員各自が「漁業を営む権利」を分有していることを法定したものと解される。そして,この漁業を営む権利は,漁業権そのものではないが,それと不可分であり,かつ,その具体化された形態であるから,漁業権が物権とみなされる(漁業法23条1項)のと同じく,物権的性格を有し,これが侵害された場合には,侵害行為の態様と被害の内容,程度如何により,妨害排除請求権や妨害予防請求権等の物権的請求権が発生するものと解されるから,漁業行使権は差止請求権の根拠となりうる。

そうすると,X1は,横須賀市東部漁業協同組合に所属し,横須賀港周辺の海域(別紙地図1<省略>青色部分及び紫色斜線部分)において底引き網漁業及び潜水漁業を営んでいるのであるから,横須賀港周辺海域における漁業行使権を有していると認めることができる。したがって,これに対する被害又は被害発生の具体的危険性が認められれば,漁業行使権に基づく妨害排除請求権又は妨害予防請求権が発生することがあると解するのが相当である。

(2)  海上活動をする権利が差止請求権の根拠となるか

X2,X3,X4及びX5は,横須賀港に隣接する長浦港内及び横須賀港周辺の海域において海釣りをしており,また,X6,X7,X8,X9及びX2は,同海域において,ヨット教室,海岸と海の清掃活動,クルージング,洋上からの基地,艦船見学や海上デモ等の活動に取り組んでいることから,こうした活動をする権利を有している旨主張する。

しかし,上記原告らが上記の活動をしていることが認められたとしても,その海上での活動というのはあまりに幅広く,その法的根拠及び内容は明確ではない。したがって,こうした海上で活動する権利に基づく妨害排除請求権及び妨害予防請求権は認められない。また,これが人格権の内容の一つと解することも相当でない。したがって,海上活動をする権利は差止請求権の根拠となりえない。

(3)  平穏生活権が差止請求権の根拠となるか

被告は,平穏生活権について,明文の規定や最高裁判例が存在しないとして人格権の一つとして差止請求権の根拠とすることはできない旨主張する。

しかしながら,人格権は,人が人格を有し,これに基づいて生存しかつ生活をして行く上で有する様々な人格的利益の帰属を内容とする権利として理解されているところ,その実定法上の根拠は,民法709条,710条の中に見出すことができる(東京高裁昭和62年7月15日判決。判例タイムズ641号232頁)。そして,平穏安全な生活を営むことは,人格的利益というべきであって,その侵害は,危惧感などの主観的かつ抽象的な形ではなく,騒音,振動,悪臭などによって生ずる生活妨害という客観的かつ具体的な形で表れるものであるから,人格権の一種として平穏安全な生活を営む権利(以下,「平穏生活権」という。)が実定法上の権利として認められると解するのが相当である。

したがって,平穏生活権は,人格権の一種として,侵害行為の態様と被害の内容,程度如何により,差止請求権の根拠となりうるのであって,この点に関する被告の主張は理由がなく,採用することはできない。

(4)  小括

以上から,差止請求権の根拠となりうる権利として,生命及び身体の安全,平穏生活権を内容とする人格権並びに漁業行使権が認められる。

2  争点(2)「被害又は被害発生の具体的危険性」

(1)  判断基準

人格権又は漁業行使権は,上記のとおり重大な保護法益であるが,他方,差止請求権は,侵害行為とされる行為を事前に差し止めるものであるから,その行為をする者の行動に大きな制約を課すことになる。そこで,差止請求権の有無については,本件浚渫工事によって,原告らの人格権又は漁業行使権に被害又は被害発生の具体的危険性があり,当該侵害行為の態様と侵害の程度,被侵害利益の性質とその内容,侵害行為の持つ公共性ないし公益上の必要性の内容と程度等を比較衡量するほか,被害の防止に関して採りうる措置の有無及びその内容,効果等の事情も考慮し,これらを総合的に考察して,被害が受忍限度を超えるものか否かによって決すべきである。

(2)  立証責任の所在

被害発生の具体的危険性の存在が差止請求権という権利を発生させる要件である以上,差止請求権の存在を主張する者において,被害発生の具体的危険性の存在を主張立証するのが原則である。ただし,立証の難易,資料の偏在,資料収集能力の格差などの諸事情に鑑み,信義則上,原則どおりとすると不公平な結果となる場合には,証明の程度を軽減し,原告らが相当程度立証すれば,上記具体的危険性を推認し,資料及び専門的知識を有する被告において,原告らが指摘する被害発生の具体的危険性が存在しないこと又は被害が受忍限度を超えないことについて,具体的根拠を示し,かつ,資料を提出して反証を行う必要があると解するのが相当である。

本件においては,浚渫工事自体を原因とする水質汚染等から発生する被害,及び,浚渫工事により配備が可能となる原子力空母の事故などによる放射線被曝の被害が問題となるところ,被告は,浚渫工事着工前だけでなく,工事中においても,本件水域での水質や底質についての環境調査を行っており,事実関係を明らかにする資料は被告が保有しており,調査結果等の情報を開示している。また,被告は,水質や底質について法令等によって基準値を定めるなど,水質及び底質の環境問題について専門的知識及び高い調査能力を有している。さらに,米海軍の保有する原子力空母に関する資料については,米国政府の情報公開制度を利用するか,外交手段によって取得するしか方法がなく,外交手段は被告によってのみなし得る手段であるから,被告は,原告らに比べ,高い資料収集能力を有しているということができる。

以上の事情を踏まえると,公平の観点から,受忍限度を超える被害発生の具体的危険性について,原告らの証明の程度を軽減し,原告らが相当程度立証した場合には,被告において受忍限度を超える危険性が存在しないことについて反証を尽くさなければならないと解するのが相当である。

なお,被告は,米海軍の空母及び空母に搭載された原子炉の安全性を具体的に審査する権限を有していないと主張する。確かに,外国の港における合衆国原子力軍艦の運航に関する合衆国政府の声明(<証拠省略>)によると,合衆国政府は,寄港に関連し,受入国政府に対し,原子力軍艦の設計又は運航に関する技術上の情報を提供しない,合衆国政府は,原子力軍艦の原子力推進装置又は運航方法に関する技術上の情報を入手する目的で原子力軍艦に乗船することを許可することはできないとされている。この点につき,被告は,外交手段によって米国側に合衆国原子力軍艦の安全性に関する情報の提供を要請し,その結果,米国政府から提供を受けた情報を国民に開示・提供しているが,軍事上の機密という制約はあるものの,我が国の港に入港する合衆国原子力軍艦の原子炉施設の安全性に関する詳細かつ正確な情報を入手する必要性は,現時点でも依然として否定できないから,被告は,原子力空母による放射線被曝の不安を抱いている住民の危惧を解消するために,さらに,米軍の保有する情報にアクセスする方法として外交交渉という効果的な手段を行使して,引き続き可及的に上記情報の入手・提供に努めることが望まれる。

他方,原告らは,放射線被曝による被害の具体的危険性の立証責任について,浚渫工事自体による被害の具体的危険性の場合と異なり,被告が,まず具体的な安全性審査の資料を提供して,放射性物質の環境への放散の事態発生の具体的危険性がないことを立証しなければならないと主張する。しかしながら,被害発生の具体的危険性の存在は,人格権に基づく妨害排除請求権としての差止請求権の発生要件であることは既に述べたとおりであり,同じ要件に該当する事実でありながら,その具体的内容によって立証責任の所在が異なるという解釈は不合理である。また,原告らが引用する最高裁判所平成4年10月29日第一小法廷判決(昭和60年(行ツ)第133号)は行政訴訟における判決であって,本件とは事案が異なる。よって,この点に関する原告らの主張を採用することはできない。

そこで,以下,水質汚染等の本件浚渫工事自体から発生する被害及び本件浚渫工事によって入港が可能となる原子力空母から発生する被害発生の具体的危険性について,上記の基準にしたがって検討する。

(3)  本件浚渫工事の公共性

ア 当事者の主張の要旨

(ア) 被告の主張

本件浚渫工事は,原子力空母ジョージ・ワシントン配備のためであり,被告は,同原子力空母の配備について,西太平洋地域に前方展開する米海軍の強固なプレゼンスに寄与するものであり,我が国の安全保障において,空母を含む米海軍の前方展開部隊が果たしている役割を評価している。本件浚渫工事は,条約に基づく日米合同委員会で合意したものであり,これを履行できないと,国際問題に発展するばかりでなく,我が国及び周辺地域の平和と安全の維持に重大な支障を生じさせる。

(イ) 原告らの主張

生命及び身体等に優越する公益性はない。自国の多数の国民の生命身体を危険にさらして他国の利益を擁護することは,政府にとって何ら公益ではない。米軍の都合だけで,日本にとっての公益性はない。

イ 裁判所の判断

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約6条には,「日本国の安全に寄与し,並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。」とある。すなわち,我が国に置かれている米海軍基地は,我が国の防衛に寄与することがその目的の一つとされている。

そうすると,同原子力空母は,現在米海軍横須賀基地に配備されている通常型空母の退役に伴い,配備されるものであり,我が国の防衛に寄与するものであるということができる。

そして,本件浚渫工事は,同原子力空母の横須賀港入港を可能とする航路開設を目的とし,我が国の防衛に寄与するものであるから,その公益性を認めることができる。また,本件浚渫工事は,条約に基づく日米合同委員会で合意したものであり,国家間の合意が履行できなければ国際問題となりうるので,我が国の外交関係に密接に関連するものといえるから,この点からも公益性が認められる。

このように,本件浚渫工事は,我が国の防衛や外交関係に重大な関連を有しており,公共性,公益性の高いものである。

なお,原告らの主張は,要するに被侵害利益との比較衡量において本件浚渫工事の公益性にどの程度重きを置いて考えるべきかという観点からのものということができ,米国の利益が上記の我が国にとっての利益と相反するものではないことから,その主張をもって本件浚渫工事の公益性を否定するには足りず,公益性の有無に関する上記の判断を左右するものではないから,これを採用することはできない。

(4)  水質汚染等本件浚渫工事自体による生命及び身体の安全,平穏生活権並びに漁業行使権に対する被害又は被害発生の具体的危険性の有無

ア 当事者の主張の要旨

(ア) 原告らの主張

本件浚渫工事海域の水底土砂からダイオキシン類等の有毒物質が検出されており,浚渫工事によってそれらが拡散して海洋汚染が発生し,原告小松原の漁業行使権,同原告を含む海上で活動する原告らの生命及び身体に被害が発生する具体的危険性がある。本件浚渫工事により,船舶の衝突事故や残留機雷による爆発事故が発生し,原告らの生命及び身体に被害が発生する具体的危険性がある。原告らの生命及び身体に対する被害の蓋然性は高く,平穏生活権をも侵害する蓋然性も高い。

(イ) 被告の主張

本件浚渫工事に係る水底土砂については,関係法令により定められたいずれの基準も満たしており,海洋環境,人の生命及び身体に対する悪影響はない。被告は,本件浚渫工事施工に当たっては安全対策を施しており,事故発生の危険性はない。

イ 前提事実

各項中に掲記した各証拠及び弁論の全趣旨によると,以下の事実を認めることができる。

(ア) 環境汚染に関する法令等の定め

a 水底土砂に関係する法令等の基準として,海防法10条2項5号ロ,海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律施行令6条,5条1項1号,同条2項4号,同項5号,廃棄物の処理及び清掃に関する法律施行令別表第3の3,海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律施行令第5条第1項に規定する埋立場所等に排出しようとする金属等を含む廃棄物に係る判定基準を定める省令1条1項ないし3項等の関係法令並びに「ダイオキシン類による大気の汚染,水質の汚濁(水底の底質の汚染を含む。)及び土壌の汚染に係る環境基準について」(平成11年12月27日環境庁告示第68号,平成14年7月22日環境省告示46号。以下,「ダイオキシン類環境基準」という。<証拠省略>),「底質の暫定除去基準について」(昭和50年10月28日環水管第119号。<証拠省略>)があり,一定の物質に関して,その基準量が別紙1-1記載の表のとおり定められている。

b また,海水に関する基準を定めた法令等として,環境基本法16条,「水質汚濁に係る環境基準について」(昭和46年12月28日環境庁告示第59号。<証拠省略>),ダイオキシン類環境基準(<証拠省略>)などがあり,一定の物質に関して,その基準量が別紙3-1記載の表のとおり定められている。

c 以上の法令等のほか,社団法人日本水産資源保護協会が水産資源の保護基準として定めた水産用水基準(<証拠省略>)がある。

(イ) 硫化水素の毒性と発生機序

硫化水素は,空気より重く無色の水溶性の有毒な気体で,腐敗した卵に似た特徴的な強い刺激臭があり,目や皮膚,粘膜を刺激する(<証拠省略>)。

濃度が0.0005ないし0.025ppmがヒトのにおいの閾値であり,0.06ppmでにおいを明確に感知する。1ないし5ppmで不快臭が強く,20ppm以上で結膜炎や角膜障害を生じる。200ppm以上で眼,鼻,上気道に対する灼熱性疼痛が起こり,400ppm以上で,30分から1時間の曝露で肺水腫が起こり,生命に危険が生じる。そして,700ppm以上で頸動脈球を刺激し,反射性の呼吸中枢麻痺で即死する(<証拠省略>)。

労働安全上の許容濃度は,日本産業衛生学会及び米国産業衛生専門家会議では10ppm,米国職業環境大気基準では天井濃度が20ppm,ピーク濃度が50ppm(10分)とされている(<証拠省略>)。

硫化水素は,生物の呼吸作用に障害を与えるだけでなく,酸化作用によって水中の溶存酸素を消費する(<証拠省略>)。

高濃度硫化水素発生のためには,①硫酸塩還元菌の存在,②硫酸塩源の存在,③硫酸塩還元菌が増殖するに足りる有機物源の存在,④硫酸塩還元菌が増殖するのに適当な温度・水分・嫌気状態が保持されていること,⑤発生した硫化水素と化合する物質が少ないことの5つの条件がそろうことが必要である(<証拠省略>)。水が停滞しやすい水域の還元層が発達しやすい海底においても,硫化水素が発生しうる(<証拠省略>)。

この硫化水素を含む貧酸素水塊を青潮という(<証拠省略>)。青潮の発生機序については,リンや窒素などによる富栄養化状態の海において,植物性プランクトンが大量に発生し,その死骸が海底へ沈降すると,これを分解するために微生物が大量に酸素を消費するようになり,これによって貧酸素水塊が形成され,嫌気性の微生物(硫酸塩還元菌)の活動により硫化水素が作り出され,海表面水が風によって湾口部へ押しやられると,それを補うように海底の硫化水素を含んだ貧酸素水塊が海表面に上昇してくるとの見解がある(<証拠省略>)。また,青潮発生直前の浚渫地底層には1リットルあたり38ミリグラム(以下,濃度に関しては「mg/l」のように表記する。)の高濃度の硫化物が存在しており,この底層水の湧昇が青潮の規模拡大に大きな影響を与えているとの見解がある(<証拠省略>)。青潮が発生すると,魚介類が酸欠状態になって死亡する(<証拠省略>)。

(ウ) ダイオキシン類の毒性

ダイオキシン類とは,ポリ塩化ジベンゾフラン,ポリ塩化ジベンゾーパラージオキシン,コプラナーポリ塩化ビフェニルの3種類の化学物質をいう(ダイオキシン類対策特別措置法2条1項)。無色無臭の固体で,ほとんど水には溶けないが,脂肪など油には溶けやすい性質を持っている(<証拠省略>)。環境中では土壌や底質に分布し,魚に濃縮され,生体内半減期が長いため,人体に蓄積されやすい(<証拠省略>)。ダイオキシン類の毒性評価は,その異性体の中でも最も毒性の強い2・3・7・8-TCDD(四塩化ジベンゾーパラージオキシン)の毒性等量(以下「TEQ」と表記する。)として表す(<証拠省略>)。

ダイオキシン類による健康被害としては,皮膚毒性,免疫毒性,生殖毒性,催奇形性,内分泌特性,発がん性などがあげられる(<証拠省略>)。世界保健機構(WHO)の国際がん研究機関(IARC)は,平成9年2月,2・3・7・8-TCDDが,人に対する発がん性があるという評価を行なっている(<証拠省略>)。妊娠中の動物(ねずみなど)にダイオキシン類を与える実験で,口蓋裂,水腎症などの奇形を起こすことがわかっているものの,人については,ベトナム戦争帰還兵の子供の脊椎の奇形について,ダイオキシン類と関連があるのではないかとの報告もあるが,まだ不明な点が多い(<証拠省略>)。動物実験において,ダイオキシン類は,体内のホルモンと似たような働きをすることにより,甲状腺機能を低下させたり,生殖器官が小さくなったり精子数が減ったり,また,免疫機能を低下させたりすることが報告されている(<証拠省略>)。ただし,人に対しても同じような影響があるのかどうかについては,まだよく解明されていない(<証拠省略>)。環境庁が学識者に委嘱した検討会は,人の健康を保護するために維持されることが望ましい水準の耐容一日摂取量(ダイオキシン類を人が生涯にわたって継続的に摂取したとしても健康に影響を及ぼすおそれがない一日当たりの摂取量で2・3・7・8-TCDDの量として表したもの)として,ダイオキシンの健康リスク評価指針値を体重1キログラム当たり5ピコグラム(以下「pg/kg体重/日」と表記する。)と設定した(体重50キログラムの人ならば,1日の取り込み量が5×50=250ピコグラム以下となる。ピコグラムとは,1兆分の1グラムをいう。)。これは,許容限度ではなく,超えたらすぐに危険という値ではないが,対策をとるための目安として,より積極的に維持されることが望ましい水準を決めたものである(<証拠省略>)。

なお,ダイオキシン類対策特別措置法6条1項,同法施行令2条は,国及び地方公共団体が講ずるダイオキシン類に関する施策の指標とすべき耐容一日摂取量を,4pg/kg体重/日とする。

(エ) 海水の濁りの魚類に与える影響

海水の濁りの魚類への影響に関し,高濃度のヘドロは明らかに鰯に致死的影響を与え,低濃度の場合,急性的な致死には至らないが,激しく無分別な遊泳行動を指すパニック行動,ヘドロ混入海水からの回避行動,ヘドロ粒子がえらに付着することにより呼吸活動及び摂食活動を阻害する可能性があるとの見解がある(<証拠省略>)。

(オ) 本件浚渫工事に際し,海水及び水底土砂について調査した結果

a 本件浚渫工事着工前

被告は,平成18年8月24日,同月25日,同年9月5日の3日間にわたり,別紙1-2調査地点位置図のとおり本件水域の3か所から海水を,また,8か所から水底土砂を採取し,上記法令等に定められた物質について分析を行った(<証拠省略>)。また,被告は,平成19年5月7日,同月8日,同月16日,別紙2-2環境現況調査位置図のとおり本件水域の3か所から海水を,6か所から水底土砂を採取し,同様の分析を行った(<証拠省略>)。各調査における水底土砂,海水の分析結果は,別紙1-1,2-1,3-1<省略>のとおりである。

b 本件浚渫工事着工後

被告は,平成19年8月10日以降,前述の水質監視として,休日等を除きほぼ毎日,別紙4-2(8月分),5-2(9月分),6-2(10月分),7-2(11月分)各海水監視位置図<省略>のとおり本件浚渫工事現場周辺海域の4か所の海水について,浮遊物質量,水素イオン濃度,溶存酸素量(DO)を調査したところ,その結果は,別紙4-1,5-1,6-1,7-1<省略>のとおりであった(8月分:<証拠省略>7,9月分:<証拠省略>,10月分:<証拠省略>,11月分:<証拠省略>)。

また,被告は,本件浚渫工事着工後毎月1回,別紙3-2海水環境監視位置図<省略>のとおり(平成19年12月12日実施分については別紙3-3海水環境監視位置図<省略>のとおり)本件浚渫工事現場海域の4か所において,海水を採取し,上記法令等に規定された分析項目等について分析を行ったところ,その結果は,別紙3-1<省略>のとおりであった(平成19年8月29日実施分:<証拠省略>,同年9月27日実施分:<証拠省略>,同年10月16日実施分:<証拠省略>,同年11月14日実施分:<証拠省略>,同年12月12日実施分:<証拠省略>)。なお,平成19年9月27日は浚渫作業は実施されていなかった(<証拠省略>)。

(カ) 米軍基地前海域における魚類の調査結果

神奈川県保険医協会は,平成10年から平成17年まで,年1回,横須賀港本港地区湾内の最奥部にあるヴェルニー公園前の米軍横須賀基地前海域において魚類を採取し,その魚類の外観異常,X線異常,体内の有毒物質(カドミウム,水銀,鉛,砒素,TBT〔トリブチルスズ〕,PCB)の量について調査した(<証拠省略>)。同様の調査を平成18年には4回行ったが魚類を採取することができず(<証拠省略>),平成19年には11月と12月の2回行った(<証拠省略>)。

採取された魚類の外観・X線異常については,次の割合で認められた(<証拠省略>)。

平成10年 外観0%,X線0%(ハゼ15匹中)

平成11年 外観14%,X線32%(ハゼ22匹中)

平成12年 外観25%,X線60%(ハゼ52匹中)

平成13年 外観20%,X線13%(ハゼ55匹中)

平成14年 外観0%,X線0%(ハゼ3匹中)

平成15年 外観0%,X線0%(ハゼ24匹中)

平成16年 外観0%,X線1%(ハゼ95匹中)

平成17年 外観75%,X線79%(ハゼ79匹中)

平成19年11月 外観,X線ともに異常なし(魚10匹中)

平成19年12月 外観2匹,X線3匹(魚7匹中)

平成13年から平成17年までの上記調査において採取された魚類の可食部及び内蔵に含有されていたカドミウム,総水銀,鉛,砒素,TBT(トリブチルスズ),PCBの量は,別紙8のとおりである(<証拠省略>)。

平成19年の上記調査において採取された魚類の体内に含有する物質の量は,次のとおりである(<証拠省略>)。

アイナメ

鉛 可食部0.11ppm,内臓1.0ppm

砒素 可食部0.5mg/kg,内臓1.4mg/kg

PCB 可食部0.46ppm,内臓2.4ppm

ハゼ(大)

砒素 可食部0.5mg/kg,内臓0.9mg/kg

PCB 可食部0.22ppm,内臓0.95ppm

ハゼ(小)

砒素 可食部1.7mg/kg,内臓1.5mg/kg

PCB 可食部0.10ppm,内臓2.0ppm

なお,横須賀港から南東へ約4キロメートルの位置にある海辺つり公園においても同様の調査を行い,平成19年の調査において,同公園で採取された魚類(メジナ)の内臓からは,砒素が1.5mg/kg,PCBが0.11ppm検出された(<証拠省略>)。

なお,総水銀の規制上限値は0.4ppm,PCBの規制上限値は3ppmである(<証拠省略>)。鉛については,基準値として0.2mg/kgにすべきとの見解がある(<証拠省略>)。

採取されたハゼは,比較的に貧食な魚で,集団で棲息し,あまり湾内を広く移動しない魚であり,海底に腹面をつけた定生生活型である。えさは主に泥底中に棲息しているゴカイ,貝,カニなど小型の底生小動物を食べているため,土壌汚染の間接的影響を受けやすい魚である(<証拠省略>)。

ウ 原告らの生命及び身体への被害又は被害発生の具体的危険性

(ア) X6らは,海上での活動時に硫化水素ガスやダイオキシン類の気化したガスによる生命及び身体への被害のおそれがある旨主張する。

a 硫化水素ガスによる被害のおそれ

まず,本件浚渫工事着工前である平成19年5月(<証拠省略>),工事着工後である同年8月ないし同年12月(<証拠省略>)のいずれの検査においても,海水中から硫化水素自体が検出されていない。また,硫化水素が発生する際に減少すると考えられる海水の溶存酸素量(DO)については,本件浚渫工事着工後の日々の監視結果によると,表層及び下層ともに全て,法令等によって定められた国民の日常生活(沿岸の遊歩等を含む。)において不快感を生じない限度である「環境保全」の基準値の2mg/l以上を満たしており,工事が進むにつれて水産2級の基準値である5mg/l以上を満たす日が増えていき,浚渫船が2隻に増やされるなど,浚渫作業が倍増した11月に至っては,表層では全て水産2級の基準値を満たし,下層でも最低値は11月1日に2地点で検出された4.7mg/lであって,11月後半には表層下層ともに概ね6.0mg/l前後で推移しているなど,工事が進行するに従ってむしろ値は良い方向に向かっていることが認められる(<証拠省略>)。以上から,本件浚渫工事現場周辺海域において,腐敗臭がしたとのAの陳述(<証拠省略>)を踏まえても,本件浚渫工事によって,硫化水素ガスが発生したとの事実を認めることはできない。

ただ,硫化水素ガス自体がこれまで発生していないにしても,硫化水素の発生条件の1つである硫酸塩源となりうる硫化物については,平成18年8月,水底土砂中から含有量で最高1.4mg/g検出されていることから,硫化水素ガス発生の蓋然性が認められるのではないかが問題となる。

この点に関し,水底土砂中の硫化物がどの程度存在すると硫化水素ガスが発生するのかという点については,上記のとおり,青潮発生直前の地底層に38mg/lの硫化物が存在し,これを青潮の原因とする見解(<証拠省略>)が示されている。また,上記の1.4mg/gという値を検出したのは,平成18年8月のことであり(<証拠省略>),平成19年5月には,最高でも0.5mg/gが検出されたにとどまっている(<証拠省略>)。さらに,硫化水素の発生条件の1つである有機物源については,化学的酸素要求量(COD)がその指標となりうるところ,平成19年5月の海水調査において,別紙3-1<省略>のとおり,マダイ,ブリ等の水産生物用として法令等で定められた「水産1級」の基準を満たしている。以上からすると,硫化水素発生には複数の条件が必要となるものの,本件浚渫工事着工当時の現場海域の水底土砂中の硫化物の量をもって高濃度の硫化水素ガス発生の蓋然性を推認することはできない。なお,原告らは,被告の調査においても黒色のヘドロ状,腐敗性臭気がしたとされていることを硫化水素発生の根拠として主張するが,<証拠省略>によると,確かに,米海軍横須賀基地12号バース沖の底質が黒色のヘドロ状を呈し,腐敗性臭気が感じられた事実が認められるものの,これは平成10年時点におけるものであるから,この事実から本件浚渫工事における高濃度の硫化水素ガス発生の蓋然性を推認することはできず,原告らの主張を採用することはできない。

以上を併せて考えると,上記認定事実から,本件浚渫工事によって高濃度の硫化水素ガスが発生する蓋然性を推認することはできず,生命及び身体に対する被害発生の具体的危険性があると認めるに足りる証拠はないといわざるを得ない。

b ダイオキシン類による被害のおそれ

ダイオキシン類については,水底土砂内の固体であるダイオキシン類がどのようにしてガスになるのかその機序についての証拠がない。仮に水底土砂及び海水中のダイオキシン類の微小粉末が空気中に飛散したとしても,本件浚渫工事の現場水底土砂及び海水から検出されたダイオキシン類は法令等で定めた基準値以内であって,ダイオキシン類の微小粉末が飛散し,大気中のダイオキシン類の法的基準値である0.6pg-TEQ/立方メートル以下を超えていることを認めるに足りる証拠はない。

したがって,生命及び身体に対して,事前に本件浚渫工事の差止を認めなければならないほどのダイオキシン類による被害が発生する具体的危険性があると認めるに足りる証拠はないというべきである。

(イ) X1は,潜水漁業を行っており,水底土砂内の有毒物質に触れることで生命及び身体への被害が生じるおそれがあると主張する。

a しかし,本件水域の水底土砂中のダイオキシン類などの物質について,検出された量が法令等で定める基準値内にとどまっている。そして,上記のとおり,ダイオキシンの健康リスク評価指針値は5pg/kg体重/日,法令等による耐容一日摂取量は4pg/kg体重/日であり,汚染物質がX1の潜水漁業の漁場に到着する際に濃度が2.8倍に希釈されるとの見解があること(<証拠省略>)を踏まえると,同漁場においてどの程度の量のダイオキシン類に触れるのか,その量の物質に触れた場合,どの程度体内に取り込まれるのかが明らかでなく,本件水域の水底土砂中のダイオキシン類からX1が体内に取り込むダイオキシン類の量が上記の健康リスク評価指針等による耐容一日摂取量を超えることの証拠はなく,かつ,その体内に取り込まれる量のダイオキシン類によって生命及び身体にどのような被害をもたらすのかについても認めるに足りる証拠はない。

以上によれば,ダイオキシン類によるX1の生命及び身体への被害のおそれを認めるに足りる証拠はないというべきである。

b また,硫化物については,法的基準はないものの,上記のとおり,高濃度の硫化水素ガスの発生源となる可能性を認めることはできず,硫化物自体の毒性についても何ら証拠がない。仮に硫化物に毒性があるにしても,原告らの主張する最も多い硫化物が検出されたのは,平成18年8月の横須賀基地岸壁付近であって,平成19年5月には最高でも0.5mg/g程度に減少している。そして,検出された場所は,X1の漁場から相当程度の距離があり,X1の潜水漁業の漁場に海流によって硫化物が到達するまでに,その硫化物の濃度は希釈されるであろうから,X1の潜水漁業の漁場において,生命,身体に何らかの被害が発生するほどの硫化物に触れる可能性については証拠がないというべきである。

c その他本件水域内から検出された有毒物質は,法的基準値の範囲内であり,その量の物質に触れることによる生命及び身体への被害について証拠はないから,以上を総合すると,本件水域内の有毒物質によるX1の生命及び身体に対する被害の具体的危険性について,認めるに足りる証拠はないといわざるを得ない。

(ウ) 原告らは,有毒物質が拡散し,魚類に蓄積され,海釣りをした原告らが魚類を食べたことによる生命身体への被害のおそれを主張する。

確かに,上記のとおり,工事着工後の魚類調査において,採取した魚類の中から背曲がりなどの奇形魚,鉛,砒素,PCBなどの物質を体内に蓄積させた魚が発見されたことが認められる。

しかしながら,まず,工事着工後になされた2回の魚類調査は,試料として採取された魚類の数がそれぞれ10匹と7匹というごくわずかなもの(原告らが100パーセントの異常率であると主張するハゼに関しては3匹)であって,奇形の表れる頻度(異常率)を検討する基礎となるデータとして適切といえるか疑問がある。

その点をおくとしても,水底土砂中の小動物を捕食するハゼの生態からして,ハゼは,水底土砂が汚染されていれば,浚渫工事がなくとも小動物を通じて体内に有毒物質を蓄積し,場合によっては奇形となることが予想される。そして,有毒物質を摂取して瞬時に骨曲がり等の奇形が発生するとは考え難く,有毒物質を摂取してから奇形が発生するまである程度の時間がかかると思われるところ,有毒物質の摂取からどの程度の期間が経過すればハゼに奇形が表れるかについて直接明らかにする証拠はなく,平成19年12月の調査時に採取された奇形のハゼは1年未満のものであること(<証拠省略>),マハゼが,冬に産卵し,6月下旬ころに五,六センチメートルになるという生育経過をたどること(<証拠省略>),本件浚渫工事が平成19年8月に開始され,奇形魚が採取された平成19年12月の調査は,本件浚渫工事開始から約4か月後のものであることを併せて考えると,同調査時に採取されたハゼが奇形となった原因が,本件浚渫工事前の有毒物質の摂取にあるのか,本件浚渫工事によって拡散された有毒物質の摂取にあるのか,未だ明らかとなってはおらず,上記平成19年12月の魚類調査の結果から奇形魚の発生と本件浚渫工事との関連性を推認することはできない。

また,原告らは,上記調査において,採取された魚類の数が減少していることが本件浚渫工事による汚染拡散の著しい影響である旨主張するが,本件浚渫工事着工前である平成18年の調査では1匹も採取することができなかった(<証拠省略>)のであるから,工事着工後の調査において採取できた魚類の数が少なかった原因が本件浚渫工事にあるかどうか不明というほかない。なお,F証言によれば,平成18年の調査時に魚類を採取することができなかったのは,バースくい打ち工事との関連性があるというのであるが,同工事は,平成16年6月まで行われており,その後,平成17年度の調査ではハゼが79匹採取されていること,平成18年の調査が同工事から少なくとも約1年6か月を経過した後にされていることなどを踏まえると,上記証言から平成18年の調査時に魚類を採取できなかったことと同工事との関連性を認めることはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。

次に,平成19年の調査において採取された魚類のうち,アイナメの内蔵から基準値案である0.2mg/kgを超える鉛が検出されているが,可食部から検出された鉛の量は基準値案以下であるところ,基準値案以下の鉛が含まれた魚を摂取することによる人体への影響についての証拠はない。また,ハゼの可食部及び内臓からPCB及び砒素が検出されているが,PCBについては規制上限値の範囲内であり,その程度の量のPCBを摂取することによる人体への影響は明らかでなく,砒素に関しては,1匹から可食部で1.7mg/kg,内臓で1.5mg/kgという従前の調査結果を上回る量が検出されているが,その一方で,同時に採取されたハゼでも可食部から0.5mg/kg,内臓から0.9mg/kgという従前の調査結果を下回る量が検出されるという正反対の結果も生じている。そして,砒素による人体への影響に関しては,F証言によれば,砒素を摂取すると,皮膚病(ボーエン病),がんなどの発病のほか,消化器への影響が生じることが認められるものの,どの程度の量が魚類に蓄積されていると,人体にどのような影響が生じるかを明らかにする証拠はない。そして,本件水域外である海辺つり公園にて採取されたメジナの内臓からPCBが検出されたが,PCBについては基準値内にとどまっていることからすると,本件浚渫工事を原因として本件水域外の魚類に汚染が広がったとまでいうことはできない。本件浚渫工事は,一定期間,有毒物質を含む水底土砂をすくい上げて他の海域に投棄するというものであるから,仮に工事による汚染物質の拡散があったとしても,工事終了後には水底土砂中の有毒物質も当該海域から除去され,水域の汚染は改善されると考えられるので,有毒物質の拡散は一時的なものに過ぎない。そして,上記のとおり,水底土砂内の有毒物質の量は,概ね法的基準の範囲内にあり,それが撹拌されたとしても,それによって生命及び身体に対する被害をもたらす程度にまで,有毒物質の魚類への蓄積量が増大すると認めるに足りる証拠はない。また,水底土砂及び海水から検出されたダイオキシン類の量からすると,本件浚渫工事によって上記耐用一日摂取量を超える量のダイオキシン類が魚類に蓄積されるであろうと認めるに足りる証拠はない。

以上によれば,原告らが魚類に蓄積した有毒物質から被害を受ける蓋然性は高いということはできない。

また,基地前で釣れた魚は,刺激性のある油臭がしてとても食べられたものではなかったというのであり(<証拠省略>),奇形魚を釣った者がそれを食べるとは通常考え難い。さらに,原告らは,工事期間中という一定期間,本件水域及びその周辺海域で海釣りをしなければならない特段の理由はないから,同海域以外で海釣りをすることにより,有毒物質の蓄積された魚を摂取すること避け,身体に対する被害を容易に回避することができる。そして,本件浚渫工事が,前記のとおり,我が国の防衛や外交関係に重大な関連を有する公共性の高いものである。

以上を総合考慮すると,上記認定事実から,原告らの生命及び身体に対して,本件浚渫工事を原因とする受忍限度を超える被害が発生する具体的危険性があることを推認することはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(エ) 原告らは,平成19年10月12日午前中,警戒船が2隻しかいなく,本件浚渫工事による船舶衝突による被害のおそれがあったと主張するが,被告は,本件周辺海域の船舶交通の安全のため,警戒船を4隻配備する計画であり,同日午前中も4隻配備されていることが認められ(<証拠省略>),同日,浚渫土砂積み替えを行っていた6号ドック前の水域は,一般船舶の航路から離れ,立入りを常時禁止されている海域であることを踏まえると,原告らの主張する船舶衝突による被害のおそれを認めるに足りる証拠はない。

(オ) また,原告らは,本件浚渫工事により横須賀港内に存在する不発弾の爆発による被害のおそれを主張するが,被告は,磁気探査により既に弾頭や模擬弾を回収して異常のないことを確認しているのであって,原告らの主張するような被害のおそれを認めるに足りる証拠はない。

(カ) 小括

以上を総合考慮すると,原告らのその他の主張を踏まえても,本件浚渫工事自体によって原告らの生命及び身体に対して被害が発生する具体的危険性があることを認めるに足りる証拠はないというべきである。また,本件浚渫工事により,原告らの生命及び身体に対して受忍限度を超える被害が発生したと認めるに足りる証拠はない。

エ 平穏生活権に対する被害発生の具体的危険性

原告らの平穏生活権に対する被害発生の具体的危険性についてみると,本件工事により,原告らの生活を妨害する具体的な事由について主張立証はなく,原告らの主張する生命及び身体に対する被害のおそれは,上記のとおり具体的なものではなく抽象的な危惧感にとどまり,抽象的な危惧感は平穏生活権の一内容には含まれないと解すべきであるから,これを認めるに足りる証拠はないというほかない。

オ 漁業行使権に対する被害発生の具体的危険性

(ア) 原告らは,本件浚渫工事水域等の海水に関する分析結果から,①本件浚渫工事前には,どこでも検出されなかった鉛及び浚渫工事海域の外側で検出されなかった砒素が,本件浚渫工事後の検査で検出されたこと,②工事着手前と比較して,全般的に溶存酸素量が減少し,水産資源の保護に関する基準である水産用水基準を満たしていないこと,③科学的酸素要求量,大腸菌群数,全窒素,全リンが増加し,全窒素については法的基準を超えており,水質が悪化していること,④ダイオキシン類の濃度が工事着手前と比べて3倍以上となっていることなどを指摘し,本件浚渫工事により水質が悪化し,X1の漁業行使権に対して被害発生の具体的危険性がある旨主張する。

この点,海洋の環境汚染の判断に関し,一定の物質の許容量の基準として,上記のとおり,法律や通達等によって定められた法的な基準と水産用水基準がある。まず,水産用水基準は,法的な規制を前提としたものではなく,極めて一般的に考えられる条件を指摘しているのであって,その適用にあたってはそれぞれの水域の特性をよく考慮することが必要であり,対象水域における生息生物,地形,水理等の条件を調査検討するとともに,個々の参考資料を活用して当該水域の条件に適合した基準を設定する必要がある(<証拠省略>)。これに対して,法的な基準をみると,関係法令の規定によれば,海防法等によって定められた水底土砂に関する基準は,廃棄物の海洋投入処分の許可など行政上の措置をとるべき基準であり,ダイオキシン類環境基準は,国及び地方公共団体が講ずるダイオキシン類に関する施策の指標となる基準であり,底質の暫定除去基準は,国及び地方公共団体が,公共用水域の水質汚濁,魚介類汚染等の原因となる汚染底質の除去等を行う基準であり,水質汚濁環境基準は,環境基本法に基づき,人の健康を保護し,生活環境を保全する上で維持することが望ましい基準(環境基本法16条)として定められ,国及び地方公共団体が環境保全のために講じる施策の基準となっていると認められる。このように,これらの法的基準は,全国一律に設けられる行政上の指針又は行政上の措置を執るべき基準であり,これらの基準を根拠に国民の活動を規制することもあるもので,一定の科学的調査に基づいて設定されたものである。

海洋環境汚染の有無,すなわち浚渫工事差止めの根拠となる漁業行使権への被害のおそれの有無を検討するにあたっては,水産用水基準も一考に値するものの,法的基準が科学的に合理性のないものであると認められる特段の事情がない限り,法的基準より水産用水基準を優先して,これを基礎として判断するのは相当でないというべきである。ただし,漁業行使権に対する被害のおそれの判断にあたっては,形式的に上記法的基準や水産用水基準を適用するのではなく,基準への適合性に加えて,検査項目となっている他の物質の数値や,時期的な変化,その地域において発生した事象など諸事情を総合考慮して判断すべきである。

a そこで,以上を前提に原告らの主張について検討すると,まず,鉛については,検出された数値は極微量のものであって,法的基準の範囲内にとどまる。そして,4か所中2か所で検出されたものであって,平成19年8月の検査で検出された後,同年9月,同年10月の各検査においては検出されておらず,工事着工により水質が悪化したとの評価をするのは難しい。

b 次に,砒素について,原告らは,工事着工前の平成19年5月の調査では浚渫海域の外側であるc地点で検出されなかったが,着工後の平成19年8月の調査では浚渫海域の外側で検出され,砒素の汚染が浚渫海域から周辺の海域に拡散していると主張する。しかし,原告らの主張する平成19年5月の調査で砒素が検出されなかったc地点は,別紙2-2<省略>のとおり浚渫海域内であって,同月の調査結果からは,浚渫海域外のa地点及びb地点において砒素が検出されたが,浚渫海域内のc地点においては砒素が検出されなかったことが認められ,原告らの主張はその前提を誤ったものである。

かかる主張の適否はおくとしても,浚渫海域内のc地点において検出されていなかった砒素が,着工後の検査で検出されるようになったことに間違いはなく,この点について検討すると,確かに,平成19年8月から12月までの検査において,浚渫海域内のc地点で0.001mg/lの砒素が検出されている。しかし,この数値は砒素の定量下限値と同じであり,法的基準の約10分の1程度にすぎない。工事着工前である平成19年5月の検査の結果,不検出とされているが,これは定量下限値である0.001mg/l以下であることを示す意味でしかなく,資料中に砒素が存在しないというまでいうことはできない。すると,工事着工前後において1リットルあたり1万分の1ミリグラム単位の差しかないということができる。また,平成18年の検査(<証拠省略>)の際には,浚渫海域を含む3地点で0.002mg/lの砒素が検出されている。

以上を踏まえると,砒素に関し,必ずしも工事着工前後で環境が悪化したとは言い難いものがある。

c 溶存酸素量については,確かに,平成18年8月の調査では,8.1ないし10.5mg/l,平成19年5月の調査では,9.2ないし9.9mg/l程度あったにもかかわらず,工事着工後同年8月の調査では5.0ないし5.4mg/lと数値が低下しており,日々の監視結果を見ても,平成19年8月は水産用水基準(<証拠省略>)の6mg/lを下回る日があり,最低で,浚渫海域内の下層海水から2.4mg/lという値が検出されている(<証拠省略>)。

しかしながら,既に述べたとおり,工事着工後,毎日の検査結果全てが上記「水質汚濁に係る環境基準について」に定められた基準値「環境保全」の2mg/l以上であって,工事が進むに連れて数値が上昇し,平成19年11月には「水産2級」の5mg/l以上を概ね満たし,同月後半には水産用水基準の基準値である6mg/l以上を満たす結果となっている。すなわち,工事着工前と直後を比較すると環境が悪化しているが,平成19年11月後半にはすでに水産用水基準をも満たす状態になっている。また,同月1日から浚渫船を2隻から4隻に増やし,浚渫作業は倍増しているのであるから,溶存酸素量低下の原因が本件浚渫工事にあるのであれば,同月の溶存酸素量は低下するはずだが,実際には上記のとおり増加している。このことからすると,本件浚渫工事が溶存酸素量低下の原因であるかどうか疑問が残り,仮に本件浚渫工事が原因であったとしても,その値はすでに水産用水基準を満たすようになっており,漁業行使権に対して被害が発生する具体的危険性を推認することはできない。なお,原告らは,季節的影響を主張するが,季節的影響の有無及び程度について認めるに足りる証拠はなく,本件浚渫工事が溶存酸素量低下の原因であるかどうかの疑問を払拭することはできない。

d 化学的酸素要求量,全リン及びダイオキシン類についても,確かに,原告らの主張するような値が検出されているが,すべて法的基準の範囲内にある。

ダイオキシン類については,工事着工直後である平成19年8月には以前の3倍程度に数値が悪化したものの,同年9月及び同年10月には,いずれも0.08pg-TEQ/l前後と約半分以下となっており,同年9月の調査時に浚渫作業を行っていなかったことを踏まえても,工事が進むに連れて数値が改善しているものと評価することができる。

そして,化学的酸素要求量及び全リンについては,平成19年5月と同年8月の検査結果を比較すると,工事着工後の方が数値が悪化しているものの,工事着工直後である平成19年8月と工事着工前である平成18年8月の検査結果を比べると,その数値に大差はなく,若干良い数値が出ており,平成19年8月ないし12月の数値を見ても,工事が進むにつれて数値が良くなっている時期もある。以上の結果から,工事着工によって漁業行使権に被害が発生するほど環境が悪化したことを推認することはできない。

全窒素については,確かに,平成18年8月の検査において,法的基準値1mg/lを超える1.4mg/lが検出され,その後の検査においても,法的基準値を超える1.1ないし1.6mg/lの値が検出されている。ただ,窒素は,一般に海水等の富栄養化,それによって植物性プランクトンが大量に発生する赤潮などの原因物質と考えられているところ,実際にX1の漁場において赤潮が発生したとの証拠はなく,同じ赤潮の原因物質として考えられているリンについては上記のとおり法的基準値の範囲内にとどまり,工事着工によってリンが増加したといえるか疑問が残っている。また,リン,窒素の増加による富栄養化をきっかけとして発生することがある硫化水素については工事着工後の調査で検出されていないこと,窒素化合物の一つである硝酸性窒素及び亜硝酸性窒素については基準値内であることなども認めることができる。以上からすると,X1の漁業行使権に被害をもたらすような水質の悪化があったというには疑問が残る。なお,原告らは,上記と同趣旨の仮処分決定(<証拠省略>)について,「環境基準こそが水質悪化の判断基準だとする判旨に明らかに矛盾している」などと主張するが,上記のとおり,環境基準と水産用水基準との適用の先後については環境基準を優先すべきと判断したものの,環境基準のみを判断基準とするべきと判断したわけではなく,基準への適合性を判断の一要素とし,他の諸事情を併せて総合的に考慮すべきとしているのであるから,原告らの主張は仮処分決定に対する誤った理解を前提とするものであり,主張自体失当である。

e 上記以外の分析項目についてみると,工事着工後の海水からは法的基準値を超える値は検出されていない。

f 以上を総合すると,本件浚渫工事に際し行われた海水の分析結果から,X1の漁業行使権への被害のおそれを推認することはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はないから,原告らの主張を採用することはできない。

(イ) また,原告らは,本件浚渫工事水域等の水底土砂に関する分析結果から,①水産用水基準の7倍の量の硫化物が検出されており,青潮が発生するおそれがあること,②水銀,砒素,鉛が相当量検出されており,土壌汚染対策法による基準値(土壌汚染対策法施行規則別表)を超えていること,③トリブチルスズの検査結果について疑問があり,本来であれば法的基準値を超える値が出たはずであること,④ダイオキシン類が相当量検出されていることなどから漁業被害が発生するおそれがあると主張する。

a まず,硫化物についてみると,確かに,原告らの主張するとおり,平成18年8月の検査の際,岸壁間近の1地点において,水産用水基準の基準値である乾泥1グラムあたり0.2ミリグラムの7倍,平成7年に浦賀港において検出された794mg/kg(<証拠省略>)の約2倍にあたる,含有量で1.4mg/gが検出されている。しかしながら,すでに述べたとおり法的な基準は存在しないことから,上記の検査結果を総合的に検討すると,実際に被害をもたらす原因となりうる硫化水素については,いずれの検査においても検出されていないのであって,貧酸素水塊の判断基準となりうる溶存酸素量(DO)については,先に述べたとおり,漁業被害をもたらすような結果は出ていない。また,水産用水基準を超えた硫化物が検出されたのは,平成18年8月の湾の奥部の岸壁に近い地点(<省略>)においてであって,平成19年5月には同様の場所(<省略>)において,0.5mg/gの硫化物が検出されるなど,数値が減少しており,既に述べたとおり,青潮発生時の硫化物の量は38mg/lとの見解があり,化学的酸素要求量(COD)の値もわずかである。さらに,浦賀港浚渫工事による漁業被害については,<証拠省略>によれば,当庁平成8年(ワ)第270号事件において被告となった企業が話し合いによる解決に至らず,訴訟に至ったことに遺憾の意を表し,解決金を支払うという内容の和解が成立したことが認められるものの,工事と漁業被害の因果関係があることや受命裁判官が浚渫による海底の硫化物の攪拌による貧酸素水塊の発生がイワシの死滅を招いたとの心証によって,同事件被告に和解を勧めたことまで認めることはできず,本件において提出された証拠によっても浦賀港浚渫工事と漁業被害との因果関係を認めることはできないから,浦賀港内における数値との比較は何ら意味を持たないというべきである。

以上からすると,上記の硫化物の存在をもって硫化水素の発生,ひいては青潮発生の蓋然性を推認することはできず,この点に関する原告らの主張を採用することはできない。

b 水銀,砒素,鉛についてみると,平成18年8月及び平成19年5月の各検査において,これらの物質の検出された値は,別紙1-1,2-1<省略>のとおり,上記法令等によって定められた法的基準値をいずれも下回るものである(<証拠省略>)。そして,平成19年5月の検査において検出されたそれぞれの値をみると,鉛については最高でも基準値の約10分の1,砒素については基準値の約5分の1,水銀に至っては基準値の約12分の1というごくわずかな値にすぎず,工事着工後の海水から法的基準値を超える水銀等は検出されていない。また,土壌汚染対策法は,土壌の特定有害物質による汚染の状況の把握に関する措置及びその汚染による人の健康に係る被害の防止に関する措置を定めること等により,土壌汚染対策の実施を図り,もって国民の健康を保護することを目的としており(同法1条),あくまで陸上の土壌を前提として,その環境を保護する法律であって,水底土砂についてはその目的外ということができるから,これを基準に水底土砂の環境について検討しようという原告らの主張は理由がなく,採用することはできない。

c また,トリブチルスズの検査結果に関しては,原告らの主張するとおり,平成19年5月29日の標準資料の分析データによりレスポンス比の傾きについて約0.6285という数値が算出され,本件水底土砂の分析を行い,その後,同月30日に再度本件水底土砂の分析を行い,同月31日の標準資料の分析データによりレスポンス比の傾きについて約1.1という数値が算出されたという事実が認められる(<証拠省略>)。しかし,レスポンス比の傾き算出と本件水底土砂の分析の順序のみでは濃度算出時に実際に使用したと考えられているレスポンス比の傾き約1.1という数値が濃度算出に用いる値として不合理なものであるとまでいうことはできない。同月29日の分析データを見ると,本件水底土砂試料のうち4つから,サロゲート物質として添加されたTBT-d27のピーク面積が零という結果が出ており(<証拠省略>),トリブチルスズ化合物を分析する際には,試料の抽出,ろ過,脱水,濃縮などの操作を繰り返すことからすると(<証拠省略>),同日の検査において,分析の過程に何らかの異常が発生したことがうかがえる。そうすると,同日の検査における標準資料の分析の過程にも異常が発生した可能性もあり,再度標準資料の分析を行ったことを不合理であるとまではいえず,分析の経緯に原告らの主張するような作為を認めることはできないから,濃度算出に使用したレスポンス比の傾きが不合理なものとはいえない。以上に加えて,本件水底土砂試料の採取過程に不合理な点を認めることのできる証拠はないから,原告らの主張を採用することはできない。

トリブチルスズ化合物の検査結果をみると,平成19年5月の調査において,6か所中3か所において,法的基準値の範囲内である検液1リットル当たり19ナノグラム(以下「ng/l」と表記する。)という値が検出されたが,法的基準値との差は1ng/lしかない。しかし,工事着工後の海水の調査においては,いずれもトリブチルスズ化合物は検出されておらず,海水への溶出は認められない。そして,X1の漁場は,本件浚渫工事水域が含まれる湾の外側の水域であり,汚染物質が同漁場に到着する際に濃度が2.8倍に希釈されるとの見解(<証拠省略>)を踏まえると,X1の漁業行使権に対するトリブチルスズ化合物の影響はある程度弱まると考えられる。この点,魚類は海水中を回遊するとの指摘が考えられるが,X1の漁場は広く,本件浚渫工事海域を回遊しない魚類もいるであろうことは容易に推測できるものであって,本件浚渫工事現場海域の水底土砂中のトリブチルスズ化合物等の有毒物質が漁業行使権に与える影響の度合いが弱まることは否定できない。なお,原告らは,生物濃縮によるトリブチルスズの蓄積が魚類に重大な影響を与える旨主張しているが,別紙8<省略>のとおり,平成17年までの魚類調査において,ハゼの可食部からトリブチルスズは検出されておらず,平成19年の魚類調査においては,トリブチルスズの検査結果がないのであるから,原告の主張を認めるに足りる証拠はない。

d さらに,ダイオキシン類についても,いずれの検査においても法的基準値を上回る値は検出されておらず,工事着工後の海水の調査においては,いずれも法的基準値を超える量は検出されなかった。

e 以上を総合考慮すると,本件浚渫工事によって水底土砂中の有毒物質が攪拌されることによってX1の漁業行使権が被害を受ける具体的危険性があることを認めるに足りる証拠はないというべきである。

(ウ) さらに,原告らは,上記魚類調査の結果をもって,本件水域環境の悪化を主張するが,既に述べたとおり,平成19年の調査結果を検討の基礎データとするには疑問が残る。その点をおくとしても,上記で検討した点に加え,X1の漁場に近い海辺つり公園における調査の結果,採取されたメジナのX線及び外観検査の結果に異常はなく,その内臓から砒素及びPCBが検出されたが,検出されたPCBについては規制値の範囲内であること,砒素に関しては,その許容量に関する基準がなく,過去に同海域でメジナ体内の砒素含有量に関して分析した結果など比較対照できる証拠がないこと,このメジナについて鉛やトリブチルスズなどの有毒物質に関する分析結果が存在しないことからすると,海辺つり公園周辺海域の環境の悪化を推認することはできない。以上を併せて考えると,本件浚渫工事によってX1の漁場の環境が,その漁業行使権に対して被害が発生するほど悪化したと認めることはできない。

(エ) 原告らはシルトによる海水の濁りの影響を主張し,X1もそれに沿った陳述書(<証拠省略>)を提出しているが,浚渫工事の際には,濁りのもととなる粒子を遮断することが可能な汚濁拡散防止膜(<証拠省略>)が設置されていることからすると,X1の漁場において,工事を原因とする魚類に影響を与えるような濁りが発生し,ミル貝が死滅するか,逃げていなくなるとの原告らの主張を認めるに足りる証拠はないというほかない。

(オ) そして,すでに本件浚渫工事が着工されてから約8か月が経過しているが,X1の漁業行使権に何らかの被害が生じたことを認めるに足りる証拠はない。なお,原告らは,本件浚渫工事開始後,横須賀港周辺の掛け網漁の漁獲高が急激に減っている旨主張する。この点に関し,X1の陳述書(<証拠省略>)があるものの,これを裏付ける客観的な証拠はないから,X1の陳述書のみによって原告主張の事実を認めることはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。

また,原告らは,風評被害による漁業被害のおそれを主張するが,すでに工事が開始されているにもかかわらず,そのような風評被害が生じたとの証拠はなく,原告らの主張は抽象的可能性の域を出ないものである。

(カ) そして,本件浚渫工事は,前記のとおり公益性が認められ,条約に基づく日米合同委員会での合意による公共性の高いものであって,これを履行できないと,国際問題に発展する可能性もあり,我が国の政治や経済に与える影響が大きいと考えられる。他方,漁業被害については,それが漁業を廃業ないし数年にわたる休業状態をもたらすような重篤な被害でなければ,金銭賠償や環境回復措置等の事後的な被害回復措置も可能であること,本件浚渫工事は,平成20年5月には完了し,有毒物質を横須賀港海域内から除去するものであって,周辺海域の環境に対する影響は一時的なものにとどまること,X1の所属する横須賀市東部漁業協同組合は,X1の漁業行使権の基礎である共同漁業権の帰属主体であるところ,本件浚渫工事に同意していることなどを認めることができる。

(キ) 以上を総合考慮すると,X1の漁業行使権に対して,本件浚渫工事によって被害が発生したと認めることはできず,事前に本件浚渫工事を差し止めなければならないほどの受忍限度を超える被害の具体的危険性があることを認めるに足りる証拠はない。

カ まとめ

以上によれば,その他の原告らの主張を考慮しても,本件浚渫工事自体から,原告らの生命及び身体の安全,平穏生活権並びに漁業行使権に対して被害又は被害が発生する具体的危険性があると認めるに足りる証拠はないから,原告らの主張を採用することはできない。

(5)  放射線被曝等原子力空母による生命及び身体の安全,平穏生活権並びに漁業行使権に対する被害発生の具体的危険性の有無

ア 当事者の主張の要旨

(ア) 原告らの主張

原子力軍艦の原子炉は,商業用原子炉よりも事故を起こしやすい特徴を有し,原子力発電所,原子力軍艦などにおいて,これまで多数の事故が起きていることから,本件浚渫工事によって入港が可能となる原子力空母ジョージ・ワシントンの事故による放射線被曝による被害の可能性がある。原子力空母の原子炉の運転及びメンテナンスの際,放射性物質が外部に漏れ,原告らの生命及び身体に放射線被曝による被害の可能性がある。また,原子力空母の原子炉の稼働による温排水が,周辺水域の水生生物の環境を害し,X1の漁業行使権に被害を与える可能性がある。

(イ) 被告の主張

本件浚渫工事の差止めは,浚渫工事そのものから発生する被害が問題とされるべきであって,工事によって入港する空母の事故は直接関連性がない。

米海軍の原子力軍艦は,50年以上の歴史の中で,原子炉の事故が起きて人に放射線被害を与えたり,環境の放射能レベルに影響を与えたことはなく,米国政府は,空母交替後も従来より安全性に関する保証を堅持することを確約している。

イ 前提事実

各項中に掲記した各証拠及び弁論の全趣旨によると,以下の事実を認めることができる。

(ア) 放射線の身体への影響と許容量

放射線について,甲状腺機能低下につながるかどうかの境目の線量は2シーベルト(以下「Sv」という。)である(<証拠省略>)。7Svで全数致死,3Svで半数致死,1Svで著しい急性障害,一部死亡,250mSv(ミリシーベルト)で急性障害,50mSvが職業人の年線量限度,1mSvが一般人の線量限度と言われている。自然放射線から受ける放射線量は,世界平均で年間2.4mSvといわれている(<証拠省略>)。また,集団線量の見地から受け入れられる程度に十分小さい値であることを判断する目安として,全身線量の積算値が2万人Svとする外国の例がある(<証拠省略>)。

平成16年の艦隊要員1人当たりの平均被曝量は0.38mSv(0.038レム)である。放射線従事者に関するアメリカ合衆国の連邦線量限度は50mSv,商業用原子力発電所従業員の平均年間被曝量は1.09mSv,合衆国の商業用旅客機の乗務員が宇宙放射線から受ける平均年間被曝量は1.7mSv,合衆国居住者が自然のバックグラウンド放射線から受ける平均年間被曝量は3mSvである(<証拠省略>)。

我が国においては,実用発電用原子炉の設置,運転等に関する規則(昭和53年通商産業省令77号。以下「実用炉規則」という。)1条2項6号及び実用発電用原子炉の設置,運転等に関する規則の規定に基づく線量限度等を定める告示(平成13年3月21日号外経済産業省告示187号)3条において,原子力発電所における周辺監視区域外の線量限度について,実効線量は年間1mSv(0.1レム),皮膚の等価線量については年間50mSv(5レム),眼の水晶体の等価線量については,1年間につき15mSv(1.5レム)と規定している。

放射性物質であるコバルト60の最大許容濃度は,1cc当たり空気中で3×10のマイナス9乗(以下,べき乗については「10^(-9)」のように表記する。),水中で3×10^(-4)マイクロキュリーである(<証拠省略>)。

実用炉規則15条4号,7号,実用発電用原子炉の設置,運転等に関する規則の規定に基づく線量限度等を定める告示(平成13年3月21日号外経済産業省告示第187号)9条によると,原子炉施設から,気体及び液体の放射性廃棄物を環境中に排出する濃度限度は,コバルト60については,気体1立方センチメートル当たり4×10^(-6)ないし1×10^(-5)ベクレル,水1立方センチメートル当たり0.2ベクレル(経口摂取)とされている。

(イ) これまでの原子炉事故

a スリーマイル島原発事故発生経過(<証拠省略>)

昭和54年3月28日,スリーマイル島原発2号炉で,二次冷却水を循環させていた給水ポンプが止まった。ところが,制御室のアラームランプは,試運転時から,通常の運転に差し支えないと思われるもの52個が点灯したままになっており,さらに事故発生によって多くのアラームランプが点滅を始めたことから,運転員たちには給水ポンプの故障を把握することができなかった。給水ポンプの故障によって,一次冷却水の熱の放出先が失われ,一次冷却水の熱及び圧力が上昇し始めた。それによって,一次冷却水の圧力を調整する加圧器の逃し弁が開いて,水蒸気を放出し始め,原子炉は緊急停止した。緊急停止後,それによって圧力や温度が下がると閉じるはずの加圧器の逃し弁が開いたままで,大量の一次冷却水(121トン,全体の約3分の1)が水蒸気として失われた。燃料棒の内部では,核分裂は停止していたが,核分裂生成物の崩壊熱によって依然として熱を発し続けた。二次冷却系では蒸気発生器に給水できず,その中は空になってしまった。そのため,蒸気発生器は破損し,一次系から二次系に放射能漏れが起こった。さらに,原子炉運転員が判断を誤って緊急炉心冷却装置を停止させたため,炉心の水位が下がり,一次冷却水を循環させるポンプも振動のため停止し,炉心の3分の2が水面上に露出し,水蒸気が充満した。そのため燃料棒は温度を高め,燃料を被覆しているジルコニウム合金は高温で水蒸気と反応して多量の水素を発生させるとともにさらに発熱し,炉心自体の温度を高めていった。それにより炉心は損傷してその45パーセントがメルトダウン状態になり,放射能が水蒸気や水素と混じった状態になった。再度逃し弁を開いたところ,水素と酸素が反応を起こして爆発したが,格納容器の破壊までには至らなかった。さらに放射性物質が大量に大気中に放出され,放射能で汚染された水が漏出した。大気中に放出された放射性希ガスの総量は,米原子力規制局によれば数万キュリー程度とされている。

b 過去の原子力艦船における原子炉システムの故障等による事故

昭和46年,アメリカのポラリス型原子力潜水艦ウッドローウィルソンが,グアム島アプラ湾において,冷却システムの急激な圧力低下で炉心融解のおそれがあったとの元乗員の証言がある(<証拠省略>)。

昭和48年4月21日ころ,原子力潜水艦ガードフィッシュがワシントン州ピュージェット湾南南西約370マイルを潜航していたとき,一次冷却水漏れの事故を起こし,浮上して換気を行うなどして汚染除去し,その漏出事故により,5名の乗組員が放射能汚染にさらされた(<証拠省略>)。事故は,10分以内に漏出は止まり,漏出した冷却水の予想量は5ガロン(約23リットル)以下で,乗組員の被爆量は胸部レントゲンを撮る際に受ける量とさほど変わりなく,職業上で定められている制限値を超えるものではなかった(<証拠省略>)。乗組員には火傷をした者がいたが,入院を必要とする者はいなかった(<証拠省略>)。

昭和63年,イギリスのポラリス型原子力潜水艦レゾルーションにおいて,一次冷却システムの冷却材のポンプの電源が切れる故障が発生した(<証拠省略>)。2人の乗組員が冷却システムのもう一つの電源であるディーゼル発電機を回すために駆けつけ,うち1名が被爆したと信じられている(<証拠省略>)。冷却システムの故障は,冷却が間に合わなければ炉心融解が予想されるものであるが,国防省は,些細な電気的故障が発生したが,乗組員や一般市民に何ら危険はなかったと発表した(<証拠省略>)。

平成4年10月,ニューポート・ニューズ造船所に停泊していた原子力空母エンタープライズ艦内で,放射性物質の漏出が起きた(<証拠省略>)。溶接工が標準手順どおりにバルブを溶接しなかったために,空母内の4室と9人の作業員が放射能を帯びた水で汚染された(<証拠省略>)。

平成4年11月,原子力巡洋艦ロングビーチがサンディエゴ海軍基地に停泊中の2週間以上にわたり,約190ガロンの一次冷却水を漏らしていた(<証拠省略>)。米海軍は,一次冷却水の船外放出を調節する一次放出バルブが誤作動したことが原因としている(<証拠省略>)。同様の一次冷却水漏れがハワイ州のパールハーバー,ワシントン州インディアンアイランド,パナマのロッドマンでも起きており,米海軍は,不可避かつあらゆる原子力船で起きる,非常に少量のバルブ漏れで,十分に理解され説明がつくものであり,環境に危険を与えるものではないとしている(<証拠省略>)。

平成7年,原子力巡洋艦カリフォルニアの推進システムから100ガロンの放射性の水が漏れた後,乗組員3名が少量の放射能に汚染した。巡洋艦の原子炉隔室内の設備の試験中の事故で,海軍兵1名が160度の熱水によってやけどを負った(<証拠省略>)。

平成12年,イギリスの原子力潜水艦タイアレスが地中海で一次冷却水の回路にひび割れが発生して一次冷却水が漏れた(<証拠省略>)。イギリス海軍は,この事故による炉心融解のおそれについては否定している(<証拠省略>)。

平成16年7月28日,佐世保港入港中の原子力潜水艦ラ・ホーヤにおいて火災が発生した。陸から電力を供給しているケーブル内の電力が原因で原潜に接続しているケーブルがはずれ,ケーブルが閉まっているハッチにあたり,ケーブル内の電気は熱と電気アークとなり,それが火災に発展したものであった。乗組員はケーブルの通電を切り,消火した(<証拠省略>)。

c 爆発事故

昭和35年,原子力潜水艦サーゴ内において,火事及び通常型魚雷2基に取り付けられた弾頭の低度の爆発が起き,乗組員1名が死亡した(<証拠省略>)。

昭和44年,ハワイ沖で,原子力空母エンタープライズの甲板上でズーニロケットが爆発し,離陸に備えて燃料と武器を積んだ状態で停めてあった数機の航空機の間に火事が広がった。火事で,9つの大口径爆弾が爆発し,28人の乗組員が死亡し,343人が負傷した。この爆発事故について,米海軍は,船の堅固さを表すのに用い,米海軍の艦船設計者と建造者が原子力空母に与えた性能と述べた(<証拠省略>)。

d 人為的破壊行為

平成8年,コネティカット州グロントン港に停泊中の原子力潜水艦サンファン内で原子炉の核反応を鈍らせるためのコントロールレバーを収縮させる動力を供給するワイヤーが切断されており,その疑いで海軍兵1名が免職になった(<証拠省略>)。

平成12年,通常型軍艦である駆逐艦コールが,アデンで自爆ボート爆弾により重大な損傷を負った(<証拠省略>)。

e 海難事故

平成11年11月30日,原子力空母ステニスは,サンディエゴ・ノースアイランド港K埠頭を離れ,方向転換する際,スクリューが湾底のシルトを掻き上げて航行したため,2次冷却システムにある蒸気を復水する復水器を冷やすための海水取り入れ口が多量のシルトを吸い込んで詰まってしまった。乗組員はマニュアルどおり,原子炉の1つを緊急停止し,残りの1つも自動的に停止した。空母は約5分間動力を失った(<証拠省略>)。

(ウ) 米海軍における放射性物質の環境への放出が問題となった事例

a 昭和43年5月6日,原子力潜水艦ソードフィッシュが佐世保港に寄港中,その周辺でモニタリングボートが平常の値の20倍から30倍の放射線を観測したが,科学的にソードフィッシュによるものと確認するに至らなかった(<証拠省略>)。

b 昭和44年10月28日,横須賀港内の原子力潜水艦サーゴの原子炉位置だけから集中的に0.5から0.75マイクロシーベルトの放射線を検知したが,採水資料からはコバルト60等の放射性物質は検出されなかった(<証拠省略>)。同年11月9日,同艦離岸時にも放射線を検知したが,採水資料からはコバルト60等放射性物質は検出されなかった(<証拠省略>)。

c 昭和47年,放射能調査研究成果発表委員会において,那覇港の海底堆積物のサンプルとホワイトビーチの食用貝のサンプルからコバルト60が検出され,海底堆積物から1キログラム当たり最高178ピコキュリーが,食用貝から1キログラム当たり62ピコキュリーが検出されたとの報告があった(<証拠省略>)。科学技術庁は,コバルト60が検出されたこと自体は,核艦船による汚染と関係なく,コバルト60の数値は,国際放射線防護委員会が認めた許容数値の数千分の一であって,人体には無害であるとしている(<証拠省略>)。

d 平成18年9月14日,原子力潜水艦ホノルルが横須賀港から出港時に艦首,鑑央,艦尾付近及び同鑑を追尾中の港内,港外の5か所において海水を採取し,出港後に5か所で海底土を採取したところ,艦尾付近から採取した海水からコバルト58が2.1±0.4ミリベクレル毎リットル,コバルト60が1.2±0.39ミリベクレル毎リットル検出され,他の試料からは放射性物質は検出されなかった(<証拠省略>)。同年10月5日,原子力鑑放射能調査専門家会合は,原子力潜水艦由来である可能性は否定できないものの,ホノルル由来と断定することはできないが,原子炉や冷却系の事故・トラブルに起因して放射性物質が環境に放出されたものとは考えられない,検出された放射性物質の量は極微量であり,同量の水を1日2.65リットル,1年間摂取し続けたと仮定しても,その場合に受ける線量は,自然放射線による線量(世界平均で約2.4mSv)の数十万分の1であり,環境・人体に影響を与えるような数値ではないとの見解を発表した(<証拠省略>)。

(エ) 原子力空母ジョージ・ワシントンの原子炉

原子力空母ジョージ・ワシントンは,熱出力が60万キロワット以下とされる加圧水型軽水炉2基を搭載している(<証拠省略>)。

加圧水型軽水炉とは,核分裂反応の行われる原子炉内を加圧した約300度の水(一次冷却水)を循環させ,原子炉で発生するエネルギーが一次冷却水の熱となり,蒸気発生器において,一次冷却水の熱で二次冷却水の回路を循環する水を水蒸気に換え,その水蒸気によって,スクリューや発電機を回すタービンを動かし,タービンを動かした水蒸気は復水器で冷やされて水に戻り,二次冷却水の回路を再び巡回するものである(<証拠省略>)。この復水器における冷却には,外部から取り入れた海水が用いられる(<証拠省略>)。

原子力軍艦における原子炉の基本設計は,高濃縮酸化ウランの素粒子をジルコニウム合金地の中に拡散させて作った板状の金属の外側をジルコニウム合金で覆った燃料プレートと,組み込み式の中性子吸収体及び可動式のハフニウム製制御棒よりなっている(<証拠省略>)。

放射能を艦内に閉じこめるため,燃料自体,燃料を収納する原子炉圧力容器を含む全体が完全に溶接された一次系,原子炉格納容器,船体という四重の防護壁が存在する(<証拠省略>)。

燃料は,重力の50倍以上の戦闘時の衝撃負荷(商業用原子炉の地震衝撃負荷の10倍以上)に耐えることができ,燃料からの核分裂生成物の漏出はない(<証拠省略>)。

一次系は,炉心を収納する頑丈で厚い金属構造である原子炉圧力容器と一次冷却水の循環パイプによって構成され,厳しい基準に従って溶接される完全溶接接続設計で,加圧された高熱の水を一次系の中に閉じ込める単一の構造体を構成している。一次冷却水を循環させるポンプも防護壁の内側に完全に収まっており,いかなる部品も金属の防護壁を貫通しておらず,一次冷却水の漏出を零にしている。ただし,1時間あたり数ガロンの漏出の可能性がある。緊急時の原子炉冷却系統も存在する(<証拠省略>)。

原子炉格納容器は,特別に設計され建造された高強度の構造物であり,一次系において液体又は圧力が漏れるようなことがあったとしても,それらが格納容器の外に放出されることを阻止し,艦船の中心部の最も強固に防護された部分に位置している(<証拠省略>)。

船体は,戦闘における大きな被害にも耐えることができるよう設計されており,極めて頑丈な構造となっている。(<証拠省略>)。

米国海軍の原子力軍艦の原子炉は,商業用原子炉と異なり,小さく,出力レベルも低い。通常,最大出力では稼働せず,就役期間を通じた平均的な出力レベルは最大出力の約15パーセント以下である。港湾内では,推進のために極めて低いレベルの出力しか必要でない以上,通常,原子炉は,停泊後速やかに停止され,出航の直前になって初めて再稼働される。出力レベルの急速な変化に対応できるように設計されている(<証拠省略>)。

(オ) 原子力空母の安全性に関する米海軍の説明

米国海軍は,原子力空母の安全性について,大要,次のとおり説明している。

a 外国の港における合衆国原子力軍艦の運航に関する合衆国政府の声明(<証拠省略>)

合衆国政府は,合衆国原子力軍艦の原子力推進装置について,原子炉の設計上の安全性に関する諸点,乗組員の訓練及び操作手続が,合衆国原子力委員会及び原子炉安全審査諮問委員会によって審査されるものであり,かつ,正式に承認された執務要覧に定義されているとおりのものであることを保証する。合衆国政府は,また,合衆国の港における運航に関連してとられる安全上のすべての予防措置及び手続が,外国の港においても厳格に遵守されることを保証する。

外国の港における合衆国原子力軍艦の運航に関しては,周辺の一般的なバックグラウンド放射能に測定しうる程度の増加をもたらすような放出水その他の廃棄物は,軍艦から排出されない。廃棄物の処理基準は,国際放射線防護委員会の勧告に適合している。寄港期間中,原子力軍艦の乗組員は,同軍艦上の放射線管理及び同軍艦の直接の近傍における環境放射能のモニタリングについて責任を負う。もちろん,受入国政府は,寄港する軍艦に放射能汚染をもたらす危険がないことを確認するため,当該軍艦の近傍において,同政府の希望する測定を行うことができる。

受入国政府の当局は,寄港中の軍艦の原子炉に係る事故が発生した場合には,直ちに通報される。

b エード・メモワール(昭和39年8月17日付け書簡。<証拠省略>)

原子力軍艦は,百回以上にわたり外国の港に寄港したが,いかなる種類の事故も生じたことはなく,また,これらの寄港は,すべて,当該軍艦の安全性についての合衆国の保証のみに基づいて,受入国により認められてきた。通常の原子力潜水艦の安全性を確保するために,それらの建造,維持,運航並びに乗組員の選抜及び訓練にあたっては,広範囲にわたる予防措置が執られている。通常の原子力潜水艦の原子炉は,原子爆弾のような爆発が起こらないように建造されている。これらの原子炉に内装されている安全装置は,緊急の際には必ず原子炉を停止するようになっている。通常の原子力潜水艦のすべての乗組員は,高度に専門化された訓練を受けており,かつ,高度の安全基準を厳格に守って作られた運航手続に厳密にしたがってその任務を遂行している。海軍の原子力推進装置の安全運航の歴史は,これらの予防措置が成功であったことを示している。通常の原子力潜水艦の運航は,それに適用される厳重な安全基準によって,少なくとも陸上原子炉と同等に信頼することができる安全性を有するものとなっている。

合衆国の通常の原子力潜水艦の外国への寄港については,合衆国の港に寄港する場合に適用される安全基準が適用される。この点に関し,日本国政府は,通常の原子力潜水艦が寄港する日本国の港の周辺における安全性を考慮するにあたり,適切と認めるすべての情報を提供するものと了解する。

通常の原子力潜水艦は,合衆国公衆衛生局及び原子力委員会の両者により審査された合衆国海軍の放射線管理の手続及び基準に従い,その放射性廃棄物を安全な濃度水準及び分量に制限しなければならないこととなっている。通常の原子力潜水艦の液体排出物は,日本国の法律及び基準並びに国際基準に完全に適合するものである。多数の通常の原子力潜水艦が常時出入りしている港において合衆国公衆衛生局係官が行った調査の結果,通常の原子力潜水艦は海洋生物を含めて周辺の一般的なバックグラウンド放射能に対し,何らの影響も与えていないことが判明している。

使用済み汚染除去材は,港内又は陸地の近くでは決して放出されることはなく,したがって,寄港に関連して危惧するにあたらないものであり,また,既知の漁区の近傍ではいかなる所においても放出されることはない。固形排出物は,承認された手続に従い,通常の原子力潜水艦によって合衆国の沿岸の施設又は専用の施設船に運ばれた後に,包装され,かつ,合衆国内に埋められる。

通常の原子力潜水艦の燃料交換及び動力装置の修理を日本国又はその領海内において行うことは考えられていない。

放射能にさらされた物質は,通常,外国の港にある間は,通常の原子力潜水艦から搬出されることはない。例外的な事情の下で,放射能にさらされた物質が搬出される場合においても,それは,危険を生ずることのない方法で,かつ,合衆国の港においてとられる手続に従い行われる。

c ファクトシート(<証拠省略>)

日本国の港に寄港する原子力軍艦の安全性については,合衆国政府は,1964年のエード・メモワール,同年の外国の港における原子力軍艦の運航に関する合衆国政府の声明,1967年のエード・メモワール,及び1968年の会談覚書におけるものを含め,確固たるコミットメントをこれまで行ってきた。

合衆国政府は,これらのコミットメントのありとあらゆる面が引き続き堅持されることを表明する。特に,合衆国政府は,合衆国の港における活動に関連してとられる安全性に係るすべての予防措置及び手続が日本国の港を含む外国の港においても厳格に実施されることを確認する。

原子力軍艦の原子炉が支える任務は,商業炉の任務と異なる。すべての原子力軍艦は,戦時の攻撃に耐え,乗組員を危険から防護しながら戦闘を継続できるように設計されている。また,原子炉のオペレーター及び乗組員が原子炉の至近で生活しなくてはならないため,原子炉には重層的なシステムと万全の遮蔽が存在することが必要であり,また,信頼性があり安全であることが求められる。

一次冷却水中に存在する放射能の主な線源は,原子炉冷却水により運搬され,原子炉の燃料部分を通過する際に中性子によって放射化される極めて微量の腐食物である。このような放射化された腐食物からの放射能の濃度(グラム当たりのベクレルの値)は,一般的な園芸用肥料から検出される自然放射能の濃度とほぼ同じである。合衆国海軍は,いかなる予期せぬ事態が発生しても,これが検知され,迅速な対応がなされることを確保すべく,原子炉冷却水中の放射能のレベルを毎日モニターしている。

原子力軍艦の原子炉の安全性については,米国の原子力規制委員会及び原子炉安全諮問委員会が,原子炉装置の個々の設計について海軍とは独立して厳しい審査を行い,米国原子力軍艦が軍事的な所用のため,商業炉に求められる基準よりも厳しい基準を満たす性能及び実行が実現されており,公衆の健康と安全に不当な危険を及ぼすことなく運航可能であると結論づけている。

原子力軍艦の原子炉が,港湾内では極めて低いレベルでしか稼働せず,停泊後は速やかに原子炉が停止されることなどから,港に停泊中の合衆国原子力軍艦の原子炉から放出され得る放射能の量は,典型的な商業炉の場合の約1パーセントに満たないということとなる。原子炉の稼働中に生成され,人体への悪影響が懸念される核分裂生成物の大部分は,原子炉が停止された後に速やかに崩壊し消滅していく。

合衆国の政策は,日本国の港も含め,沖合12海里以内においては,一次冷却水を含む液体放射性物質を排出することを禁じている。合衆国及び日本国が40年間にわたり行ってきた環境モニタリングは,合衆国原子力軍艦の運航が人体,海洋生物又は環境の質に悪影響を及ぼしてきていないことを確認している。固形廃棄物は,適切に包装された上で,合衆国の沿岸の施設又は専用の施設船に移送され,承認された手続に従って合衆国国内で処理される。合衆国原子力軍艦は,過去30年以上の間,使用済汚染除去剤(浄化のためのイオン交換樹脂)を海中に排出していない。1971年以降,合衆国海軍のすべての原子力軍艦及びその補助施設から沖合12海里以内で一年間に放出されたガンマ放射線を出す長寿命の放射能の総量は,いずれの年についても,0.002キューリー(0.074ギガベクレル)以下である。この数値には,合衆国の原子力軍艦が入港した合衆国及び外国双方のすべての港湾における値が含まれる。このデータが持つ意味を計る尺度として,この放射能の量は,原子力潜水艦1隻が占める体積に相当する港湾中の海水の中で自然に発生する放射能の量よりも少なく,また原子力空母1隻の排水量に相当する港湾中の海水の中で自然に発生する放射能の量の10分の1よりも少ない。これは,合衆国原子力軍艦が,同程度の体積の海水の中に自然に存在する放射能の量よりも,はるかに少ない放射能しか放出しないことを意味する。さらに,過去34年のうちのいずれかの一年間に,いずれかの港に放出されたすべての放射能にさらされたとしても,合衆国原子力規制委員会が定めた放射線業務従事者の年間許容量限度を超過することはない。典型的な合衆国の商業用原子力発電所一つが,原子炉の運転許可上許容されている限界値の十分な範囲内で排出を行う場合は,すべての合衆国原子力軍艦及びその補助施設から沖合12海里以内において一年間に放出されるガンマ放射線を出す長寿命の放射能の合計量の100倍以上の放射能を年間で排出することとなる。

さらに,沖合12海里以遠の外洋においても海軍の方針がいかに厳重に適用されているかを示す尺度としては,1973年以来,いずれの年をとっても,すべての合衆国原子力軍艦が一年間に放出したガンマ放射線を出す長寿命の放射能を合計した量は0.4キューリー(14.8ギガベクレル)以下である。この合計値は,典型的な合衆国の商業用原子力発電所一つが一年間に放出することが合衆国原子力規制委員会より認められている放射能の量よりも少ない。外洋において放出されたこのように低いレベルの放射能は,人の健康,海洋生物又は環境の質に何らの悪影響も与えてきていない。

放射能を管理するために合衆国海軍がとっている諸措置が環境保護のため適切であることを追加的に保証するために,合衆国海軍はその原子力軍艦が頻繁に入港する湾港において環境モニタリングを実施している。合衆国国内では,艦船が活動拠点とし又は修理を受けている湾港において,海底堆積物,水質及び海洋生物の試料が四半期毎に採取されている。このモニタリングの結果は,毎年報告され,日本国政府にも提供されている。同様に,日本国でも,合衆国海軍は,佐世保港,横須賀港,及び沖縄の中城湾から,海底堆積物,水質及び海洋生物の試料を四半期毎に採取している。

このモニタリングの結果は,合衆国原子力軍艦の運航の結果として港湾の周辺の環境における放射能が自然のバックグラウンド放射能のレベル以上には増加したことはなく,また,原子力軍艦の運航が人の健康,海洋生物及び環境の質に認識可能な悪影響を及ぼしていないことを示している。日本の港湾から採取された環境試料についての結果は,日本国政府への報告書において毎年提供されている。

合衆国原子力軍艦に備わっている四重の防護壁により,炉心から出る放射能が周辺の環境に放出されるというような可能性は極めて低い。しかし,追加的な保証として,合衆国原子力軍艦には,問題の発生及び拡大を防ぐための多重的な安全システムが設けられている。

全体が完全に溶接された一次系は漏れを皆無とする設計基準で設計されているため,原子力軍艦の原子炉のオペレーターは,極めて微量の一次冷却水の漏れをも直ちに探知し,更なる問題につながる前に迅速に是正措置をとることができる。

さらに,合衆国原子力軍艦は,極めて速やかに原子炉を停止させるフェイルセーフの原子炉停止システムを有するとともに,他にも多重的な原子炉の安全システム及び設計上の特色を有している。これらは各々が予備のシステムを備えている。一例として,崩壊熱除去システムは,電力に依存することなく,原子炉の物理的構造と水自身の特性(比重差によって生じる自然対流)のみによって,炉心を冷却するものである。また,海軍の原子炉は,無限の海水を即時に使用し得るため,もし究極的に必要となれば,緊急の冷却及び遮蔽のために海水を艦内に取り入れ,艦内にとどめておくことが可能である。合衆国原子力軍艦のすべての原子炉は,頑丈な格納容器の中に設置されており,また,原子炉を冷却するために水を加える多数の方法を有している。これらの多重的な安全システムにより,多数の故障が発生するという極めて可能性の低い事態でも,海軍の原子炉はオーバーヒートせず,炉心で発生する熱により燃料が破損されないことが確保されている。したがって,炉心から一次冷却水中に核分裂生成物が放出されるためには,これらの安全システム及び予備のシステムがすべて機能しないという,実際にはあり得ないような事故の諸条件がそろう必要がある。

原子力軍艦の乗組員は,十分に訓練を受けており,船上のいかなる緊急事態にも即時に対応できる十分な能力を有する。海軍の作業手順及び緊急事態の手続は,明確に規定され,厳格に実施されている。個々の乗組員は,非常事態に対処する訓練を受けるとともに,高度の説明責任を要求されている。また,乗組員が原子炉のかくも至近で生活していること自体が,原子炉の状態の極めて些細な変化についても最も適切かつ早期にモニタリングを実施することを可能にしている。原子炉のオペレーターは,原子炉の音,匂い,感触等に極めて敏感になっている。

仮に,日本国に寄港中の合衆国原子力軍艦の原子炉に問題が発生したという極めて想定し難い事態が生じた場合には,合衆国海軍は,必要となる対応措置を開始し,必要であれば合衆国が有する他の緊急事態対応のための要員・機材等も導入することが可能である。合衆国政府は,このような対応を行っている間,日本国政府に対し継続して情報提供を行うが,合衆国政府は,当該原子力軍艦へ対応するにあたって,日本国政府からの支援を必要としないであろう。

原子力軍艦の原子炉の頑丈な構造,多重的な安全システム及び十分に訓練を受け高い能力を有する乗組員により,合衆国原子力軍艦の安全性は極めて高いものとなっている。艦船の運航又は乗組員に影響を及ぼすような事故が発生するためには,数多くの現実に起こりえないような装置の故障及びオペレーターの過ちが艦船において同時に発生する必要がある。このような事故が起こるシナリオは極めて非現実的であるにもかかわらず,合衆国原子力軍艦及びその補助施設は,極めて想定し難い原子炉事故のシナリオについて意味のある訓練を行うべく,そのような状況のシミュレーションを行うよう求められている。

このような深層防護アプローチにより,仮に合衆国原子力軍艦の原子炉に問題が生じるという極めて想定し難い事態が生じても,燃料からの放射能は,すべて艦内にとどまると想定される。

これらすべての議論から導き出される結論は,原子炉の炉心自体から漏出した放射能が艦船から周辺の環境に放出されてしまうような事故の可能性は極めて低いということである。しかし,合衆国海軍は,そのような事故のシナリオは真剣な検討に値しないとして無視するようなことはしていない。合衆国海軍は,このような想定し難い事故が発生したというシナリオにおいて,何が艦船からの放射能放出をもたらし得るのか,その場合,環境にいかなる影響が及び得るのか,そして,そのような状況においていかなる緊急事態対応計画が必要となるかについて,徹底的な研究を行ってきた。

核分裂生成物が周辺の環境に放出されるためには,核分裂生成物が,燃料,全体が完全に溶接された一次系,原子炉格納容器及び船体という四重の防御壁のすべてを通過する必要がある。また,すべての原子炉安全システム及びそれらの予備のシステムが機能不全に陥ることが必要となる。さらに,十分に訓練され高い能力を有する乗組員が事態に対応できず,事態を制御できないということが必要となる。仮に,このような想定し難い事故のシナリオにおいて,これらすべての異常事態が同時に発生するということが実際に起これば,核分裂生成物が合衆国原子力軍艦から周辺の環境に放出される可能性が生じる。換言すれば,このような事故は,過失及び機能不全が多重的かつ同時に発生するという極めて稀な状況下でしかあり得ない。それでもなお,合衆国海軍は,こうした極めて想定し難い事故のシミュレーションのシナリオにつき,実際に準備を行い,対応措置を試している。

1967年のエード・メモワールにおいて合衆国政府が表明したように,放射能の放出をもたらす最大想定事故を仮定した場合の詳細かつ慎重な安全性についての分析によっても,原子力軍艦がその停泊地点の周辺の住民に対して,不当な放射線その他の原子核による危険をもたらすものではないとされている。このような極めて想定し難い状況においてでさえも,艦船から想定される量の放射能が放出された場合のあり得る最大の影響はあくまで局地的であり,かつ,深刻ではないものにとどまる。すなわち,その影響が極めて小さいため,屋内退避等の防護措置が検討される範囲は極めて限定的なものとなり,軍艦の至近,及び在日米海軍基地内にとどまることとなる。このような説明は,公衆の防護措置のために合衆国連邦政府が定めた閾値に基づいたものであり,同様の緊急事態に対して国際原子力機関(IAEA)が定めた既存のガイドラインと同等かより厳しいものである。

このように極めて想定し難い事故の影響が局地的かつ深刻でないものにとどまることには多くの要因が寄与している。第一に,燃料内の核分裂生成物は,大気に直接かつ直ちにさらされるわけではない。核分裂生成物は,まず四重の防護壁を通過する必要がある。核分裂生成物が四重の防護壁すべてを通過するという極めて稀な状況が発生したとしても,放出される可能性がある放射能の量は,一つ一つの防護壁を通過するごとに著しく減少する。このことは,事故において最終的に艦船から放出され得る放射能の量は,一次冷却水中に放出されたであろう放射能量のうちの極めてわずかな一部に限られることを意味する。

第二に,艦船から放射能が放出され得る過程は,爆発のような短時間に起こる出来事ではない。放射能が四重の防護壁を通過するには,長い時間を要する。非常に頑丈な原子炉格納容器及び船体が放射能の移働を抑えるため,放射能が爆発のような力によって短時間に放出されることはない。

第三に,放射能が四重の防護壁を通過するには長い時間を要するため,放射能が船外に到達する前に,乗組員が問題に対応し,発生し得る影響を最小限にするために十分な時間がある。また,原子炉の稼働中に生成され,人の健康への影響が懸念される核分裂生成物の大部分は,原子炉の停止後間もなく,かつ四重の防護壁を通過する前に,崩壊し消滅していく。

上述のプロセスは,原子爆弾の爆発とは完全に異なっている。陸上の商業炉や海軍の原子力推進原子炉において,この種の核爆発が起こることは物理的に不可能である。

上述のとおり,日本国における米海軍基地の外の地域では,基地内の艦船から放射能が漏出するという極めて想定し難い事態が発生したとしても,いかなる防護措置もとる必要はないとされている。したがって,合衆国政府としては,合衆国原子力軍艦についての極めて想定し難い事態に対処するためには,地震,化学物質輸送時の事故等の自然災害及び産業災害に対処するための日本国の既存の緊急事態対応計画で十分であると考えている。留意すべき重要な点は,合衆国国内の原子力軍艦の母港や原子力軍艦が置かれているいかなる港においても,屋内退避,避難,又はヨウ化カリウムの配布といった公衆の防護措置のための原子力軍艦に特定した計画は,公衆の安全のために必要とされないため,存在しないということである。

合衆国原子力軍艦が移動可能であるという事実は,陸上の原子力関連施設にはない安全面での特色である。艦船から放射能が漏洩するという極めて想定し難い事態においても米海軍施設外の地域では公衆の防護措置が不要であることにかんがみれば,艦船を港から移動させなければならなくなるような事態は想定し難い。それでもなお,もし適切であると判断されれば,艦船自体の推進力,又は,必要に応じてタグボートの補助を得て,艦船を港外に移動させることができる。問題が生じた原子力軍艦を港外に移動するためのいかなる措置も,日本国政府との協議を経た上でとられることになる。

(カ) 横須賀港における地震発生,地震被害の予測

Eは三浦半島における断層を調査し,横須賀市域の地震について次のとおり予測している(<証拠省略>)。

横須賀市域において発生が予想されている地震は,三浦半島北部断層群,相模湾,南海トラフを震源域とする地震が想定されている。三浦半島北部断層群を震源域とする地震では,規模がマグニチュード7.0から6.7程度,東京湾側の80パーセントは震度7の壊滅的被害が予想され,この活断層の活動間隔は1000年から2000年であるところ,最後の地震発生から1450年経過しており,30年以内の発生確率が6ないし11パーセントと言われている。相模湾を震源域とする地震は,規模がマグニチュード8,横須賀市域の死者が約400名と予想され,活動間隔が200年から300年であるところ,最新の地震は1923年の関東大震災である。南海トラフを震源域とする地震は,規模がマグニチュード8,震源域から遠いので横須賀市域の死者はないと予想され,活動間隔が150年から500年であるところ,最新の地震は1946年である。横須賀港は,衣笠・北武活断層から4ないし6キロメートル,武山活断層から7キロメートルの距離に位置する。

地震調査研究推進本部地震調査委員会は,三浦半島断層群の長期評価について,次のとおりの見解を公表した(<証拠省略>)。

三浦半島北部断層群は,神奈川県三浦郡葉山町,横須賀市を経て,浦賀水道に延びており,西北西―東南東方向に並走する衣笠断層帯,北武断層帯及び武山断層帯から構成され,衣笠・北武断層帯の長さは約14キロメートルもしくはそれ以上,武山断層帯の長さは約11キロメートルもしくはそれ以上である。ただし,最大でも約55キロメートルを超えることはない(<証拠省略>)。衣笠・北武断層帯の最新の活動時期は6から7世紀ころ,平均活動間隔は1900年から4900年程度,武山断層帯の最新の活動時期は2300年前以後1900年前以前,活動間隔は1600年から1900年程度であって,両者の想定される活動は,マグニチュード7.7程度,変位量は概ね4メートル程度である。地震発生の可能性は,衣笠・北武断層帯の30年以内の発生確率が3パーセント以下,武山断層帯の30年以内の発生確率が6ないし11パーセントとされ,同時に活動する場合の発生確率は,それぞれが単独で活動する場合の確率を超えることはない。

(キ) 関東大震災時の横須賀港の軍艦の被害状況

大正12年の関東大震災において,横須賀港では,建造中の巡洋戦艦天城が大きな損傷を受け,廃艦となり,津波による引き波が観測され,波高は約1メートルだった(<証拠省略>)。横須賀港近くの猿島では,海底が0.8メートル隆起した(<証拠省略>)。横須賀港内に停泊中であった軍艦は,他艦との接触などがあったが,概ね港外に停泊して難を逃れた(<証拠省略>)。ただし,戦艦三笠は,港内岸壁に係留されていたところ,鑑底部に大損傷を受け,浸水甚だしく,沈没も危ぶまれた<証拠省略>。戦艦三笠は,明治38年,日露戦争終結直後,佐世保軍港で爆沈しており,大正10年にもロシアのウラジオ港に近いアスコルド海峡で座礁しており,艦底が弱っていた(<証拠省略>)。ドッグ内に入渠中であった潜水艦2隻は横転して大破した(<証拠省略>)。

ウ 原子力空母から生じる被害は,本件浚渫工事の差止請求において審理の対象となるか

被告は,原子力空母の事故等により被害が生じる危険性は,本件浚渫工事の差し止めの理由とならないから,審理の対象とすべきではない旨主張する。

この点,廃棄物処分場,道路,原子力発電所などの建設の差し止め訴訟において,これまで,その建設工事そのものではなく,その施設の運用によって生じうる被害が審理の対象とされてきたことについては争いはない。

これを本件についてみると,米国の軍艦の運航に対しては核原料物質,核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律(以下「原子炉等規制法」という。)等に基づく規制は及ばないから,米国の原子力空母の入港自体を阻止する命令を発することはできないところ,本件浚渫工事は,原子力空母が入港するために必要とされる水深を確保するために被告によって行われるものであって,陸上における道路と同様に,原子力空母のための航路を造る工事ということができる。そこで,道路建設の差し止め訴訟において,道路上を走る自動車によって発生する騒音等の住民の被害が審理対象となっているように,本件申立てにおいても,浚渫工事によって作られた航路上を航行する原子力空母によって発生する住民の被害は,審理の対象となると解するのが相当である。

したがって,この点に関する被告の主張を採用することはできない。

エ 放射線被曝による生命及び身体への被害の具体的危険性

(ア) 具体的危険性の意義

弁論の全趣旨によれば,原子力空母を含むすべての原子炉施設は,その通常の運転によっても不可避的にある量の放射性物質を環境に放出するものであることが認められるから,原子炉施設の運転は,常に,人の生命,身体に対する侵害ないしその危険を伴うということができる。

そうすると,原子炉施設における安全性の確保の目的が,放射線被害の発生を完全に防止することにあると解すると,原子炉施設が放射線を環境に全く放出しないものであることが必要となり,原子炉施設の設置は現実にはおよそ許容される余地がないことになる。しかしながら,人の生命,身体に対する侵害や,その危険性が絶対的に零でなければ社会においてその存在が認められないとするならば,原子炉施設のみならず,現代社会において受け入れられている科学技術を利用した各種の機械,装置,施設等も,何らかの事故発生等の危険性を伴っているから,その存在を許されないことになるが,人類はこのような科学技術を利用した各種の機械,装置,施設等の危険性が社会通念上許容できる水準以下であると考えられる場合には,その危険性の程度と科学技術の利用により得られる利益の大きさを考慮した上で,なお安全性を有するものとして利用している。

したがって,原子炉施設の安全性の確保とは,原子炉施設が不可避的に一定の放射性物質を環境に放出するものであることを前提とした上で,その放射性物質の放出を可及的に少なくし,これによる災害発生の危険性を社会通念上許容できる水準以下に保つことにあると解するべきである。

そうしてみると,原子炉の運転による原告らの生命,身体に対する被害の具体的危険性とは,原子力空母及びその原子炉施設の運転に伴って原子力空母から放射性物質が放出される蓋然性の程度,原子力空母から放出される放射性物質の量など諸般の事情を考慮し,放射性物質に起因する放射線による生命,身体に対する障害の発生が社会通念上許容し得ない程度にあることをいうと解される。

そして,社会通念上許容しうるかどうかについては,我が国の法令上実効線量限度や放射性物質の許容濃度限度などを参考に判断すべきである。

(イ) 原告らは,①米海軍の原子力空母の原子炉の持つ特徴などから生じる原子炉システムの故障及び損傷等による放射線被曝事故発生の危険性,②地震による事故発生の危険性,③爆発事故,海難事故,人為的行為による原子炉破壊の危険性,④使用している燃料や軍事的に無理な出力調整を強いられることからくる出力暴走事故の危険性,⑤日常的な放射性物質の排出による生命及び身体に対する被害の危険性について主張していることから,以下,これらの点について,上記具体的危険性の有無を判断する。

(ウ) まず,原子炉システムの故障及び損傷等による事故発生の蓋然性について検討する。

確かに,一般に,弁やポンプなど原子炉システムの故障,出力の急変や中性子照射による材質の劣化に伴う原子炉システムの損傷の可能性を完全に否定することはできない。

しかしながら,本件浚渫工事によって米海軍横須賀基地に配備される原子力空母ジョージ・ワシントン自体が,これまでに故障や損傷による原子炉事故を起こした事実については,これを認めるに足りる証拠はない。

そして,上記のとおり,原子力軍艦の故障等による事故が発生している事実を認定できるところ,これらの事実によれば,将来原子炉の操作を行う乗組員が被曝するなど同程度の被害が生ずる事故のが発生する可能性が全くないとはいえない。しかし,上記の事故の被害について,基地外の住民の生命及び身体に被害が生じたことを認めるに足りる証拠はないから,米海軍が主張する四重の防護壁が機能し,原子力軍艦外部への放射性物質の放出がなかったか,あったとしても基地外の住民の人体への影響を無視しうるレベルのものであったことがうかがわれる。そうすると,上記事故発生の事実から,基地外の住民の生命及び身体に対して被害をもたらすような事故が発生する蓋然性を推認することはできない。

この点,周辺環境に放射性物質を大量に放出した事故例として,同じ加圧水型軽水炉によるスリーマイル島原発事故(以下,「TMI原発事故」という。)がある。しかし,TMI原発は,原子力空母ジョージ・ワシントンと同じ加圧水型軽水炉とはいえ,原子炉の設置場所(陸上か船舶内か)及びその用途(発電用か船舶の動力用か)の違いから,出力や構造などに違いがあり,TMI原発事故から原子力空母の事故発生の蓋然性を推認することは困難である。また,TMI原発事故は,計器の故障を放置したまま運転を継続していたというTMI原発特有の事情があり,これに誘発された担当者の操作・判断ミスが相まって発生したというのであり,この点からしても,このTMI原発事故の発生をもって,原子力空母の事故発生の蓋然性を推認するのは困難である。

また,原告らは,制御棒脱落事故の例を挙げ,制御棒システムの故障等による出力暴走事故の可能性をも主張する。しかし,原告らの主張する制御棒脱落事故が起こったのは沸騰水型炉においてであって,原子力空母の原子炉として採用されている加圧水型軽水炉とは構造が異なるから,同事故の存在から原子力空母における出力暴走事故の可能性を推認することはできない。さらに,加圧水型軽水炉において,制御棒不挿入事故が米国とスウェーデンで起きたとのBの意見書(その2)(<証拠省略>)があるが,実際に発生した事故において,どのような事態になったのか,住民にいかなる被害が発生したのかを明らかにする証拠はない。以上からすると,上記制御棒不挿入事故から,原告らの生命及び身体に対して被害をもたらすような出力暴走事故が,制御棒システムの故障等によって発生する蓋然性を推認することはできない。

さらに,原告らは,出力の急変によって原子炉システムの材料の劣化が進み,損傷の危険性が高くなる旨主張している。しかし,本件浚渫工事によって作られる航路は狭い横須賀港内にあり,その航路を出力を急激に上昇させるなどして通過するというのは現実的でなく,本件浚渫工事によって作られる航路内における出力の急変を契機とした損傷による事故を想定することは難しい。また,原子炉の故障や材質の劣化による損傷については,乗組員による日々のモニタリングに加え,2年に1度,6か月の期間をかけてPIA(計画逐一修理)と呼ばれるメンテナンス作業をすることになっており(<証拠省略>),事故につながる損傷や故障が発生する前に発見し,対応することが可能である。なお,原告らは,船内が狭隘のため,原子炉の安全性に関する検査が不十分なものになるおそれがある旨の主張をするが,上記のモニタリング及びメンテナンスを考慮すると,狭隘であることのみで,検査が不十分になるとまでいうことはできない。

以上からすると,C(<証拠省略>),B(<証拠省略>B),D(<証拠省略>)らの指摘を踏まえても,原子力空母ジョージ・ワシントン自体に故障等による事故発生の事実が認められず,他の原子力軍艦等において発生した事故において基地外の住民の生命及び身体に被害が生じたとは認められない以上,上記認定事実からは,米海軍の原子力空母の原子炉の特徴から生じる原子炉システムの故障及び損傷によって,原告ら基地外の住民の生命及び身体に対して被害をもたらすような原子炉事故が発生する蓋然性を推認することができず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。なお,原告らは,仮処分決定は乗組員や基地従業員に被曝が生じるような事態は構わないというのであろうかなどと主張するが,原告らは,基地から3ないし165キロメートルの距離に住む基地外の住民として,その生命及び身体の安全に対する被害のおそれを根拠に差止請求をしているのであるから,乗組員らの危険性を根拠に仮処分決定の判断の不当性を主張するのは,それだけでは主張自体失当であり,採用することはできない。

(エ) 次に,地震による事故発生の蓋然性について検討する。

確かに,平成19年7月の新潟県中越沖地震では,柏崎刈羽原発においてトラブルが発生しており,横須賀市内を通る活断層である三浦半島断層帯が存在し,30年以内に大規模な地震が起きる確率は6ないし11パーセントであって,関東大震災の際には,横須賀港周辺において津波や海底隆起などが起こり,横須賀港に停泊中の軍艦三笠の艦底部が損傷を受けたことが認められる。

しかし,原子力空母の場合,原子炉が稼働しているのは航行中と停泊後及び出港前の数時間であり,停泊中は通常,原子炉を停止することとしている。そして,陸上に建設される原子力発電所と異なり,原子力空母は海上に浮かんでいるから,地震の衝撃を原子力発電所のように直接受けることはない(<証拠省略>)。ただ,地震により,原子力空母特有の衝突,座礁又は沈没等の事態が発生する抽象的可能性は否定できないが,関東大震災の際には,地震の影響で艦底部に致命的な損傷を受けた軍艦三笠は,もともと艦底部が弱っていたことが損傷を大きくした原因であり,ドックに入渠中のものを除く他の軍艦は軽度の衝突によるほか目立った損傷はなく,地震による引き潮を含めて津波の影響もなく,自力ないし曳航されて港外に避難した事実が認められる。上記の原子力空母が地震による衝撃を直接受けないこと及び関東大震災時の横須賀港内の軍艦に生じた被害状況などに照らすと,前記の地震発生の可能性等の事実から,地震による原子力空母の事故発生の蓋然性を推認することはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。

なお,原告らは,陸上の原子炉支援施設の安全性,耐震性が不十分であるとの主張もしているが,本件浚渫工事が原子力空母の航路の設置を目的としていることから,その差し止めの理由として原子力空母の安全性を考慮できるとしても,付随する陸上施設の安全性についてはもはや航路の利用とはかけ離れており,本件浚渫工事との関連性を認めることはできない以上,本件浚渫工事の差止めの理由として考慮することはできない。また,原告らは,ドライドックに入渠中の原子力空母が地震による被害を受ける可能性を主張するが,本件訴訟は,原子力空母配備の差止を問題としているのではなく,本件浚渫工事の差止を問題としているのであるから,やはり本件浚渫工事により設置される航路の利用とかけ離れた主張を本件浚渫工事の差止めの理由として考慮することはできない。さらに,原告らは,地震による引き潮等を原因とする海水の取入不能による事故の危険性を主張しているが,上記のとおり,関東大震災の際の引き潮等は,横須賀港内海域に停泊していた軍艦に対してわずかな影響しか与えていないことが認められ,この事実に照らすと,海水の取入不能という事態が発生する蓋然性を推認することはできないから,原告らの主張を採用することはできない。

(オ) さらに,爆発事故や海難事故については,空母という性質上,発生の可能性を完全に否定することはできないが,これまでに原子力空母ジョージ・ワシントンについてこれらの事故が発生したことの証拠はなく,他の原子力軍艦においてこれまで発生した事故については,被害は内部の乗組員にとどまっているから,上記認定の事実からは,基地外の住民である原告らの生命及び身体に対する危険をもたらす事故が発生する蓋然性を推認することはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。人為的行為による事故の蓋然性についても同様である。

(カ) また,出力暴走事故について,まず,原子力空母ジョージ・ワシントンは,横須賀港内においては,低出力で航行すると考えられており,原告らの主張するような出力の急変を本件浚渫工事によって設置される航路において通常想定することはできない。そして,高濃度の燃料を使用していることから,出力制御が困難であり,出力暴走事故の抽象的危険性については一応認めることはできるものの,原子力空母における出力暴走事故の発生を認めるに足りる証拠はなく,原子力空母ジョージ・ワシントンが出力制御に失敗する具体的危険性を推認することはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。さらに,原告らが出力暴走事故の例として挙げるチェルノブイリ原発事故については,同原発で用いられていた黒鉛減速軽水沸騰冷却型原子炉が低出力で暴走の危険性があるという特徴を有しており,同型原子炉特有の事故であるとの証拠(<証拠省略>)もあることから,同原発事故をもって原子力空母ジョージ・ワシントンにおける出力暴走事故の蓋然性を推認することはできない。以上によれば,原子力空母ジョージ・ワシントンにおいて出力暴走事故が発生する蓋然性を認めるに足りる証拠はない。

(キ) 以上のとおり,原子力空母ジョージ・ワシントンにおいて,基地外の住民の生命及び身体に危険をもたらすだけの事故が発生する蓋然性を,上記認定事実から推認することはできない。しかし,事故発生の可能性は零ではないから,放射線被曝による生命及び身体に対する具体的危険性を判断するにあたって,事故発生時に周辺公衆に著しい放射線被害を与えないための対策についても検討する。

この点,原告らは,横須賀港が原子炉立地審査指針(<証拠省略>)に定める条件に該当せず,原子力船運航指針(<証拠省略>)も同様の条件を定めており,事故発生時には大多数の住民に被害が発生するから,原子力空母の母港化をすべきでないと主張している。

しかし,原告らが要件を満たさないとしている「原子炉は,その安全防護施設との関連において十分に公衆から離れていること」については,原子炉立地審査指針にのみ設けられている要件であって,これを原子力軍艦にそのまま適用するのは相当ではない。また,原子炉等規制法23条の2第1項にあるように,原子力船に対する法的規制は軍艦には及ばないのであって,これらの基準も米軍の戦艦には適用がない。以上から,原子炉立地審査指針を前提とする原告らの主張を採用することはできない。

原子力空母の安全対策についてみると,原子力空母は,電力に依存せずに炉心を冷却する崩壊熱除去システム,前記の四重の防護壁などを有しているほか,タグボートなどにより移動可能という性質を有している。すると,原子炉システムに異常や事故が発生しても,船外に放射性物質が放出されるためには原子炉格納容器や船体などの防護壁を通過する必要があり,通過する際にその量が減少するほか,通過には時間がかかるものであるから,その間に乗組員が対処し,または,曳航して外洋に出ることが可能である。なお,Bの意見書等(<証拠省略>)は,原子炉の水蒸気爆発により,横須賀港から165キロメートルの範囲内の住民が最低50mSvの放射線被曝を受けるとしている。同意見書等が前提としているラムスッセン報告(WASH-1400)にいう事故ケースPWR2は,炉心溶融,さらに格納容器スプレイと熱除去も故障するため,格納容器内の圧力上昇を抑えることができず,ついには格納容器の耐圧限度を突破して破裂するというものであるところ,TMI原発事故においては,担当者の判断ミスや機器の故障等が重なり合った結果,原子炉格納容器内で爆発が起きたものの,格納容器を破損するに至ってはいないから,原子力空母において上記Bが指摘するような水蒸気爆発によって原子炉格納容器と船体の一部を吹き飛ばす事故が発生するとは想定できない。従って,上記意見書等によっては,原子力空母の事故発生時に周辺公衆の全身線量の積算値が2万人Svを超えることを認めることはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。

以上から,原子力空母の安全対策が不十分であるということはできず,原告らの主張を採用することはできない。

(ク) 次に,原子炉の通常の運転等によって放出される放射性物質による生命及び身体への被害の具体的危険性について検討する。

この点,原告らは,原子力空母から排出される放射性物質が,直接原告らの身体に吸収されることによる被害,食物連鎖によって魚介類に蓄積され,それを食することによる間接的な被害が生じる危険性がある旨主張している。

確かに,前記のとおり,原子力戦艦から放射性物質を含んだ水が漏出した事例及び原子力戦艦が寄港した海域の海水から放射性物質が検出されるという事例が複数発生しており,原子炉稼働中に何らかの放射性物質が環境中に放出される可能性を完全に否定することはできない。

しかしながら,原子力戦艦における放射性物質漏出の事例においては,乗組員の放射線被曝の有無及びその受傷の程度についての証拠がない。原子力戦艦寄港時に海水から放射性物質を検出した過去の事例においては,その検出された量は,人体に影響を与えない,許容限度内のものであったことが認められる。また,米海軍は,沿岸12マイル領域内においては,その保有する原子力戦艦すべての合計で年間0.002キュリー(0.074ギガベクレル)の放射性物質しか放出せず,同程度の体積の海水の中に自然に存在する放射能の量よりもはるかに少ない旨を明言している。米海軍の保有する原子力戦艦は83隻あり(<証拠省略>),1隻の原子力空母が排出する放射性物質の量はわずかであると推測でき,排出濃度限度を超える放射性物質を排出するとは推認しがたい。また,この排出濃度限度以下の放射性物質の放出が生命及び身体に与える影響,その具体的危険性についての証拠はない。

また,停泊中の原子炉メンテナンスの際に放射性物質が流出する可能性も否定できないが,米海軍は,放射性物質が大量に流出する可能性を含む燃料の交換及び動力装置の修理については日本国内及び領海内において行うことは考えていないとしており,これまでの事故において被害は乗組員や作業員など直接原子炉に関与した者が被曝する範囲にとどまっていることからすると,基地外部に居住する原告ら住民の生命身体に被害を及ぼす具体的危険性を認めるに足りる証拠はない。

この点に関し,原告らは,米国の原子力空母建造及び燃料交換を行ってきた会社が横須賀に拠点を構えることとなったことを挙げ,原子炉からの放射性物質を扱う作業が横須賀基地内で行われ,周囲の環境を汚染するおそれが強まった旨主張している。しかし,同社は,原子力空母配備準備などを請け負う契約を米海軍と交わし,空母のメンテナンスを行う意向であって,「本格的な修理は米本土で実施,横須賀では原子炉周辺の整備を行うのだろう。原子炉にちょっとした不具合が生じた場合も含めての動きだ。」との見解もあり(<証拠省略>),燃料の交換及び動力装置の修理に至らない原子炉のメンテナンスであっても,その製造業者がそれを担当することは何ら不自然ではなく,米海軍の説明と必ずしも齟齬するものではないから,この事実をもって周囲の環境汚染の可能性が強まったと考えることは相当でない。さらに,原告らは,上記仮処分決定(<証拠省略>)後に提出された最終準備書面において,原子炉から放出される放射性物質による生命身体健康への被害の具体的危険性という項目の中で,原告らの中には基地従業員を家族に持つ者もいるし,仕事で横須賀基地の艦船修理廠や12号バースに出入りして働いたことのあり,今後もその可能性のある者もいるのであり,仮処分決定がこれまでの事故で乗組員や作業員など直接原子炉に関与した者が被曝する範囲にとどまっていることからすると,基地外部に居住する住民への具体的危険性を認めるに足りる疎明はないとしたことが,基地労働者等の大きな怒りを生んでいると主張する。しかし,仮処分決定は,横須賀基地従業員の被曝を容認したものではない上,本件において,横須賀基地従業員が原子力空母により被曝する具体的危険性を認めるに足りる証拠はない。また,原告らが本件において主張しているのは原告ら自身の生命及び身体に対する被害の具体的危険性であり,原告らもそのように項目を立てて主張しているものであり,基地従業員の被曝の危険性を差止請求の根拠として主張するのは,事情ないし間接事実としてはともかく,それだけでは主張自体失当と言わざるを得ない。さらに,甲第121号証ないし第138号証など多数の原告らの陳述書が提出されているが,いずれも原告らが現在基地従業員として就労し,将来直接原子炉に関与するであろうことを示すものではなく,他に原告らが基地従業員として事故の際に被曝する蓋然性を認めるに足りる証拠はない。

また,原告らは,敦賀原子力発電所が排水する浦底湾において採取されたホンダワラ科ヤツマタモク生重量1キログラムにつき770ピコキュリー,ムラサキガイ生重量1キログラムにつき最高で2600ピコキュリー,イシダイの消化管内容物生重量1キログラムにつき120ピコキュリーの放射性物質であるコバルト60が検出されたことを示す証拠(<証拠省略>)を提出しているが,やはり,検出された放射性物質の量と身体への影響に関し,何ら証拠はなく,上記のとおり,那覇港での食用貝から1キログラムあたり62ピコキュリーのコバルト60が検出され,これが国際放射線防護委員会が認めた許容数量の数千分の一と認められるから,浦底湾の水生生物から検出されたコバルト60の量も同許容数量よりも少ないと推認でき,生命及び身体への影響をうかがわせることはできないのであって,これをもって原子力空母による生命及び身体に対する具体的危険性を推認することはできない。

また,原告らは,イギリス海軍省が原子力潜水艦基地の湾内の泥や周辺の水産物に蓄積した放射能の増加が見られたと発表したこと(<証拠省略>),ピュージェットサウンド海軍造船所周辺海域で放射能に汚染された魚介類が発見されたこと(<証拠省略>)などを主張する。しかし,イギリスの例については,増加した放射能がどの程度であったのかについて証拠がない。また,ピュージェットサウンド海軍造船所については,老朽化して退役した原子力軍艦の解体を行っており(<証拠省略>),施設の性質上,大量の放射性廃棄物が排出されることが予定されている。これに対し,米海軍によれば,燃料の交換及び原子炉の修理は外国では行われない(<証拠省略>)のであるから,米海軍横須賀基地において,ピュージェットサウンド海軍造船所と同じように原子力空母を解体することは考えられず,横須賀港周辺海域の魚介類が,ピュージェットサウンド海軍造船所周辺海域と同じレベルの放射能に汚染されると推認することはできない。また,チャットハム造船所の労働者に多数の放射能被害が生じている(<証拠省略>)との主張もあるが,原告らが基地従業員であると認めるに足りる証拠はないから,これをもって原告らの生命及び身体への具体的危険性を推認することはできない。さらに,イギリストロースネイズ原発の風下地域において,乳ガンの発病率が平均の15倍に昇ることが報告されている(<証拠省略>)との主張があるが,その証拠の信用性はさておき,原子力空母は,原子力発電所と異なり,出力は小さく,横須賀港停泊中は原子炉の稼動を停止しているから,原子力発電所周辺での疾病発生確率の増加は,直接原子力空母の母港周辺地域の疾病発生確率の増加を推認させるものではない。

以上から,上記認定事実から,原子炉の通常の運転等によって放出される放射性物質による生命及び身体への被害の具体的危険性を推認することはできず,他にこれを認めることのできる証拠はない。

(ケ) 以上によれば,原子力空母ジョージ・ワシントンが原告らの生命及び身体に対して被害をもたらすような事故を起こす蓋然性を認めるに足りる証拠はなく,事故発生時に周辺公衆の全身線量の積算値が2万人Svを超えることを認めるに足りる証拠もないことからすると,上記認定事実からは原子力空母の事故によって原告らの生命及び身体に対して被害が生じる具体的危険性を推認することはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。また,原子炉稼働に伴う放射性物質の日常的な放出については,放射性物質の環境へのある程度の影響が疑われるものの,原告らの生命及び身体に対して被害が生じる具体的危険性を認めるに足りる証拠はない。よって,原告らが放射性被曝によってその生命及び身体に対して被害を受ける具体的危険性を認めることはできない。

オ 平穏生活権に対する被害の具体的危険性

以上のとおり,原告らの生命及び身体に対する被害の具体的危険性について認めるに足りる証拠はなく,原告らの主張する平穏生活権に対する被害については,原告らが原子力空母に対する不安感,原子炉情報非開示であることによる不安感を抱いていることは認められるものの,抽象的危険性を超える具体的な生活妨害のおそれについて認めるに足りる証拠がない以上,平穏生活権に対する被害の具体的危険性を認定することはできない。

カ 温排水,放射性物質流失による漁業被害の具体的危険性

原告らは,原子力空母の入出港時,港内に停泊中のメンテナンス時の放射性物質の流出及び原子炉稼働中の温排水により,漁業被害が生じる旨主張している。

原子力発電所が恒常的に放射性物質や温排水を環境中に放出するのと異なり,本件で問題となる原子炉の稼働は本件浚渫工事によって設置される航路を利用する入出港時の一時期であり,放射性物質の流出も温排水の放出も一時的なものにすぎない。また,原子力空母の放射性物質の排出量は上記のとおりわずかなものであり,放射性物質の流出量が許容限度を超えることを認めるに足りる証拠はない。

風評被害の具体的な危険性について認めるに足りる証拠はなく,X1の主張は抽象的な危険性に過ぎない。

以上の事実に,前記の本件浚渫工事の公共性,公益性を併せて考えると,事前に本件浚渫工事を差し止めなければならないほどの受忍限度を超える被害の具体的危険性があることを認めることはできないというべきである。

キ 以上のとおり,原告らの主張する原子力空母の危険性は,抽象的なものにとどまり,原告らの生命及び身体の安全,平穏生活権並びに漁業行使権に対して被害が発生する具体的危険性を認めるに足りる証拠はない。すなわち,横須賀港が原子力空母の母港となることで原告らの生命等に抽象的危険性が存在し,原告らがこれに危惧感や不安感を抱いていることは認められるものの,原告らの生命等に対する具体的危険性があることを認めるに足りる証拠がないから,原告らが本件浚渫工事を差し止める法的権利を有するとはいえない。

第4結論

以上のとおりであって,原告らのその他の主張を踏まえても,原告らの請求はいずれも理由がないから,棄却することとし,民事訴訟法61条,65条1項本文を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判官 小野剛 猪俣和代 諸井明仁)

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