水戸地方裁判所 平成8年(わ)277号 判決 1996年8月09日
主文
被告人を懲役一年四月に処する。
未決勾留日数中四〇日を右刑に算入する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、平成七年一二月一七日施行のつくば市長選挙に際し、立候補する決意を有していた者であるが、自己の当選を得る目的をもって、
第一 甲及び乙と共謀のうえ
一 その立候補届出前である同年一〇月一一日ころないし同月中旬ころ、別紙一覧表の一記載のとおり、前後一五回にわたり、茨城県つくば市大字西平塚<番地略>所在のA方ほか一四か所において、同選挙の選挙人である同人ほか一四名に対し、自己のために投票すること及び自己のための投票の取りまとめなどの選挙運動をすることの報酬として、それぞれ現金五万円(合計七五万円)を供与し、一面立候補届出前の選挙運動をし
二 その立候補届出前である同月一一日ころ、別紙一覧表の二記載のとおり、前後二回にわたり、同市大字西大橋<番地略>所在のB方ほか一か所において、同選挙の選挙人である同人ほか一名に対し、前同様の趣旨の下に、それぞれ現金五万円(合計一〇万円)の供与の申込みをし、一面立候補届出前の選挙運動をし
第二 甲、乙、丙と共謀のうえ
一 その立候補届出前である同月中旬ころ、別紙一覧表の三記載のとおり、前後二回にわたり、同市大字谷田部<番地略>所在のC方ほか一か所において、同選挙の選挙人である同人ほか一名に対し、前同様の趣旨の下に、それぞれ現金五万円(合計一〇万円)を供与し、一面立候補届出前の選挙運動をし
二 その立候補届出前である同月中旬ころ、同市大字真瀬<番地略>所在のD方において、同選挙の選挙人である同人に対し、前同様の趣旨の下に、現金五万円の供与の申込みをし、一面立候補届出前の選挙運動をしたものである。
(証拠の目標)<省略>
(補足説明)
弁護人らは、判示第一及び第二について、被告人は、いずれについても共謀の事実はなく、本件とは無関係であるから被告人は無罪であると主張し、被告人も当公判廷において、これにそう供述をしている。
しかし、証人乙(以下、「乙」という。)、同甲(以下、「甲」という。)の当公判廷における各供述(以下、「乙供述」「甲供述」と略称する。)をはじめ、証拠の標目掲記の各証拠を総合すれば、被告人と乙及び甲らとの共謀の点も含め、判示の各事実は優に認めることができる。以下、補足して説明する。
一 乙供述及び甲供述の要旨とその信用性
1 乙供述の要旨
「私は、旧谷田部町島名東部地区に住んでおり、つくば市谷田部農業協同組合(以下、「農協」という。)に所属し、平成五年から理事を務めていた。平成七年九月二一日に開催された農協の定例理事会終了後、被告人に引き続き市長をやってもらおう、次の市長選挙で被告人を支持しようという話が出て、私も賛成した。そのとき後援会名簿のことが多分雑談程度に出たと思うがはっきりしない。その後、甲が後援会名簿に署名してくれと言って私のところに来た。その時期は同月下旬ころから農協の自動車整備工場の竣工式があった同年一〇月四日までの間と思う。私は、ほかの理事のために欄を空けて署名した。この竣工式当日、式典に出席するため役員が会議室に集まり、その際、組合長のEから被告人に推薦状を出す話が出て、これに反対する者はいなかった。竣工式の後、甲と一緒に後援会名簿の署名を集めに行った。同月一〇日に、E組合長、副組合長甲、総務委員長C、営農委員長F、生活委員長A、代表監事G、農協代表の農業委員丙、参事鈴木國勇と自分の合計九名で被告人方に後援会名簿を届けることになった。人選をだれがしたかは分からないが、農協の一般的な外部との付き合いからすれば、組合長を始めとする役職理事と地元選出理事ということになる。私は、午前八時一五分か二〇分ころ自宅を出て、一人で集合場所である被告人方の仮事務所まで車で行った。時刻については根拠があるわけではない。被告人の家までは車で五分くらいの距離であり、約束の時刻より早く着いたと思う。二、三〇分仮事務所前の駐車場付近で待ち、九名全員そろってから被告人方に向かった。被告人方に上がったのは、はっきりしないが午前九時ころかと思う。被告人方の玄関を入ってから、左側の八畳の和室に通されて、少し待ってから被告人が北側の部屋から入ってきた。E組合長が被告人に後援会名簿を渡して、被告人と常磐新線や火葬場建設の話をしているうち、別の客がみえたようだったので、E組合長が『そろそろどうでしょう。』とみんなに声をかけて退室することにした。被告人方に上ってから、席を立つまでの間は根拠はないが三〇分位だったと思う。自分だけ部屋に残り、みんなが使った座布団の片づけをしていると、被告人から『少し残ってくれ。』と言われた。それで、後片づけをしてから、この部屋の西隣の八畳間に入ると、北側に被告人、南側に甲が座っていたので、私は部屋の仕切り戸を閉めて東側に座った。四方の戸が閉まっている状態で、被告人が甲に対して、『農協の役員は何人かい。』と聞き、被告人が『農協の役員にも渡さなくちゃなんないだろう。』と言ったので、被告人は金のことを言っていると思った。甲が『飯田さんは駄目だよ。』と言い、自分も『大山さんは体が悪いからだめだと思う。』と言った。飯田は、被告人支持ではなく、大山は体が悪くて選挙運動はできないと思ったのでそう言った。甲は自分は要らないと言い、私も要らないと言った。被告人から何人かと聞かれ、二〇人と答えた。この金は選挙の金だと解釈していたし、甲も同じと思う。被告人は、一万円札一〇〇枚の束とのし袋二束と思うが、これを座卓の上に置いた。新札ではなかったと思うが帯封か何かで束ねてあったのかどうかまでは分からない。被告人は、甲に対して、『五枚ずつ入れてくれ。』と言ったので、甲が五枚数えては、十字形になるよう座卓に置いていった。それを私が五枚ずつのし袋に入れたが、最後の二、三通は自分がお金を数えて入れた。被告人は部屋にいてそれを見ていたと記憶している。部屋に入って五万円ずつ詰め終わるまでの時間はかかっても五分位だった。のし袋を二〇袋作ってこれを甲に渡した。私たちが部屋を出るとき、被告人から『頼むよな。』と言われ、私は役員たちに五万円ずつ配ることを言っているのだとなと思った。」
2 甲供述の要旨
「私は、平成七年一〇月当時、農協の理事で副組合長をしていた。前回の市長選挙でも農協では被告人を応援した。平成七年九月二一日の定例理事会のとき、私は、E組合長に市長選に被告人の推薦を依頼したら、E組合長から下回しをしておくように言われた。私は、その方法として後援会名簿に役員の署名をもらうことにした。一番目の欄を組合長用に空けて、自分の名前を書き、これを乙のところに持って行き、その後、同人と一緒に、あるいは一人で署名をもらって回った。一〇月四日に開かれた農協自動車整備工場の竣工式の際、そこに集まった役員の会合で、E組合長から被告人をつくば市長に推薦したいとの発議があり、出席した役員の満場一致で賛成した。その際、後援会名簿をだれが被告人方に持って行くかの話が出て、各委員長クラスの者が届けるということになった。持って行くことになったのは、E組合長、私、総務委員長のC、営農委員長のF、生活委員長のA、代表監事のG、農協出身の農業委員である丙、地元に住む理事の乙、参事の鈴木國勇の九人である。後援会名簿は一〇月一〇日に被告人方に持っていくことに決まったが、これは農協事務局の方で決めたものと思う。そのことを二、三日前に聞いた。当日の集合時刻については記憶にないが、被告人方前にみんなが集合したのが午前八時四〇分か五〇分ころだったので、そのころ集まるように指示されたのではないかと思う。当日は、朝七時か七時半に家を出て妻を美容室まで送った後、午前八時には地区の運動会に顔を出して会場の準備をしてから車で被告人方に行った。被告人方に着いたのは、時計を見たわけではないので正確な時刻は分からないが、午前八時四、五〇分ころだと思う。みんながそろってから、被告人方へ行き、玄関で被告人の長男の嫁の出迎えを受け、玄関から上がって左側の八畳間の部屋に入った。被告人がその部屋の北側から入ってきたので、E組合長が被告人に挨拶して、後援会名簿を渡した。そして、E組合長やCが疲れた様子の被告人に『遅くまで大変ですね。』と言い、火葬場や常磐新線のことを尋ねたら、被告人は、夕べも遅くまで会議に出て疲れていると言った。それから、E組合長が『お客さんも大勢来るでしょうから、いつまでいてもご迷惑ですから。』などと言って、全員席を立った。被告人方に上ってから席を立つまで二〇分位だと思うが、はっきりした時間はわからない。自分は他の役員の後の方から出ていったが、玄関を出た庭先のところで、乙から市長が呼んでるよと聞いたので、一人で被告人方に戻った。最初にいた部屋に戻ったら、奥の座敷にいた被告人に『こちらへ来てください。』と言われたので、奥の座敷に入り、乙も自分の後から入ってきた。被告人が『農協の役員さんにお礼をしなくちゃなんめえ。』、『何名ぐらい役員あるの。』と聞き、私が答えないうちに、乙が二四人と答えた。飯田幹一は元々市長派でもないし後援会名簿にも署名してもらったわけでもないので、私は『飯田幹一は反対派なんだ。』と言い、乙が『大山新一さんもだめだっぺ。』と言った。私と乙は『遠慮します。』と言った。それから、被告人が『そばに来てくれ。』と言ったので、被告人の前に座ったら、被告人から金とのし袋が出され、私が受け取った。古い一万円札の束がゴムひもか何かで束ねてあり、のし袋はほぐれた状態のものと袋に入った状態のものの二とおりがあって、印刷された赤線の入った普通のものだった。これを見て、市長選に協力してもらうということで、被告人がお金を渡すものだと受け取った。私が『何枚ずつ入れますか。』と聞くと、被告人が『五枚ずつ入れてくれ。』という意味のことを言った。このお金を私が五枚ずつ数えて座卓の上に十字型に交互に重ねて、これを乙がのし袋に入れた。私も数えるのが早く終わったので、のし袋に入れるのを手伝った。二〇袋数えて、乙と互いに確認し、『二〇あります。』と言って、私がジャンパーの内ポケットに入れて『預かります。』と言って外に出た。その間被告人はずっとその部屋にいたと思う。被告人方に呼び戻されて五万円入りのし袋を二〇袋作り、再び部屋を出るまでの時間は、一〇分か一五分という記憶である。二人で急いで止めていた車に戻り、乙にお金を預かってくれるように頼み、次の日から配り始めるということにして、翌日の午前八時か九時ごろに乙の家に行く約束をして乙と別れた。」
3 乙供述及び甲供述は、いずれも被告人方に赴いた経緯、目的、被告人から一〇〇万円を渡された際の状況等について詳細かつ具体的に述べたものであり、その供述内容自体に格別不自然、不合理な点は認められない。また、これらの供述は、細かな点についての齟齬は認められるものの、これらの状況についての基本的な骨格部分は相互に合致しており、特に被告人から受け取った現金を五万円ずつに分けてのし袋に入れた状況についてはよく合致しているのであって、これらの点だけからみても、各供述の基本的な信用性には疑問の余地がないというべきである。加えて、乙証人は、被告人と同じつくば市に合併前の谷田部町島名地区に居住し、同証人の父親も被告人を支援していたところ、乙証人も被告人が昭和五六年に同町の町長選挙に出馬した際や前回のつくば市長選挙において被告人を支持し、選挙運動の手伝いをしているのであり、また、甲証人は、被告人と小学校の同級生であったことに加え縁戚関係にもあり、被告人が右町長選挙に立候補したころから一貫して被告人を支持してきたものであり、かつ、被告人を支持してきた地元谷田部農協に副組合長の地位にあったものであって、乙証人及び甲証人が被告人と敵対関係にあるとか被告人に対して特に怨恨を抱くとかの事情は認められないし、両証人共に、捜査段階で被告人から一〇〇万円を受け取ったとの点を認める供述をして以後は、捜査段階、当公判廷、自己の裁判のいずれにおいても一貫して右の事実を認めているのであり、その間にこの点に関する供述の変遷は存しない。また。乙証人は、捜査段階で被告人からの金員受領の事実を認めるまでに、被告人に対する信義やそれを供述することによっておかれる家族の立場、つくば市での被告人の実績や被告人の支持者に対する配慮等から、むしろ被告人の名前を出すのを躊躇し、一〇〇万円は自己の資金から出したと供述しようとした経過が窺われるのであり、また、甲証人も、捜査段階で一〇〇万円の出所について、当初は自己の金であると供述しようとしたものの、捜査官に自己の預金口座の出し入れが把握されていて、これが通用しなくなったことから、乙が責任をとってくれることを願って「乙に聞いてください、私は知らない。」と主張したほかは黙秘を貫いていたと述べ、被告人からの金員受領の事実を認めるまでに、逆に被告人の名前を出すことを躊躇していた経過が窺われるのであり、このような供述経過からみて両証人が被告人を首謀者として引きずり込んでまでそれぞれ自己の刑責を軽からしめようとする意思を有していたとは考えられないばかりか、無実であり現職の市長である被告人を本件買収事犯の首謀者に引きずり込むということは、両証人の地域社会での立場を決定的に崩壊させ、地域社会で生きていけないような事態を招くことは容易に予想されるところであり、このような危険をあえて冒してまで被告人を共犯者として仕立てなければならない理由も見い出し難い。とりわけ、証拠によれば、被告人は、選挙公約とした常磐新線の誘致に力を入れ、平成六年七月に地権者、県、市の三者協議が成立し用地買収が進められている状況にある中で、乙証人はE組合長らと共に、常磐新線土地開発協議会の谷田部、島名地区の役員の地位にあり、甲証人も土地買収に利害を有すると推認され、両証人共に常磐新線の誘致事業には重大な利害を有していることが明らかであり、これに加え、乙証人自身、いずれはつくば市議選に出馬したいとの気持ちや農協の組合長になりたいとの思いを有していたことを認めているのであって、被告人に取り入りたいとの思惑もあって、被告人に陣中見舞いとして一〇〇万円を渡そうとした可能性も否定し難いところであり、これらによれば、両証人において、被告人をかばい通すことによる利益の方がかえって大きいとさえいい得るのである。このような両証人には、無実の被告人を引きずり込んでまで共犯者として仕立てることによって得られる利益を想定することは困難である(両証人には捜査段階から弁護人が付いており、自己の裁判において、罪を素直に認めて反省の態度を示せば、被告人の名前を出すまでもなく執行猶予が付されるであろうことは、この種事例の量刑例に徴して容易に弁護人の助言を受けて知ることができたはずであり、前記のような危険をおしてまで執行猶予を望む余り被告人を首謀者として引きずり込んだという事態は想定し難いといわなければならない。)。
加えて、乙証人及び甲証人は、いずれも当公判廷において、被告人を面前にしながら、検察官の主尋問のみならず、期日を異にして行われた弁護人らによる詳細な反対尋問にもかかわらず全く崩れることなく、一貫して被告人から平成七年一〇月一〇日の朝被告人方において一〇〇万円を受け取ったことをその前後の状況と共に明確かつ断定的に述べているのであって、その際の両証人の供述態度は真摯であり、とりわけ、乙証人は、被告人からの現金授受場面の供述を求められると、自己の苦渋の選択の結果として、被告人をかばい通せず、被告人の面前で真実を述べなければならない心情から鳴咽をもらしながら供述するに至ったことが明らかであり、同証人のこのような供述は、被告人を共犯者とする虚偽の事実を述べたことに対しての悔恨の涙であったとは到底考えられないし、また、甲証人のこの点についての供述も、聞く者をして、同証人が同志と認めて信頼する被告人を裏切る結果となった心情を吐露する気持ちの揺れを感得させるもので、右の気持ちの揺れは、本来かばい通すべき被告人の名前を出して、同志を裏切ったということで、後悔の念を表明していると認められるのであり、甲証人の心情からみて、無実の被告人を巻き込んだことへの後悔の念の表れであるとは到底考えられない。
のみならず、乙供述及び甲供述は、平成七年一〇月一〇日の朝、乙及び甲と共に被告人に後援会名簿を届けるために被告人方を訪れた農協役員らの各証言や各供述調書によって、明確かつ確実に裏付けられている。すなわち、証人E、同C及び同鈴木國勇(以下再出の氏名については、単に姓のみで表示することがある。)は、いずれも当公判廷において、「右の日時に農協役員のうち谷田部地区在住のE組合長、C、G、丙の四人は、農協本所に集まり、鈴木國勇運転の車でそろって被告人方に向かい、また、乙及び甲とA、Fの四人の役員は各自直接被告人方に向かい、被告人方の長屋門の前に全員が集まって、被告人方に上がり、被告人に後援会名簿を手渡したうえ、被告人と話しているうちに来客があったことから辞去し、乙及び甲以外の役員は長屋門のところで解散した。」旨詳細に供述しているばかりか、弁護人らも証拠とすることに同意した検察官に対する各供述調書(不同意部分を除く。)の中でも、E、C、G、丙、鈴木國勇、F及びAがそろって明確に同様の供述をしているところである。とりわけ、Gは、検察官に対する平成八年四月二四日付け供述調書(不同意部分を除く。)において、「当日は体育の日で休日であるため農協本所は閉まっており中に入ることができなかったので、自分は止めた車の中でほかの人が来るのを待っていた。」、「(後援会名簿を被告人方に届けた後)鈴木國勇の車で農協本所に戻り、そこから自分の車で自宅に戻り、その日は落花生の収穫作業をしていた。」旨、後援会名簿を被告人方に届けた状況をその前後の状況や自己のその日の行動と共に具体的に述べ、また、Cは、検察官に対する同日付け供述調書(不同意部分を除く。)において、「推薦状は被告人の地元島名地区の人が持っていくことになり、後援会名簿は農協として被告人を応援するという姿勢を示す意味で、役員の上のクラスである組合長、副組合長甲、各委員長と代表監事、農協推薦の農業委員丙が持っていくことになったと思う。」、「私たち五人が被告人方に着いてほぼ同時くらいにF、Aも到着し、その後間もなくして乙理事がトヨタ・セルシオに乗って到着した。このとき自分は後援会名簿を届けるメンバーではない乙が来たので、『あれ、なんで乙が来たのだろう。乙は島名の、市長の地元でもすぐ隣に住んでいるし、農業委員をやっているから来たのかな。』と思った。」旨、当日の被告人方への後援会名簿届けに乙が参加していたことを知った際の意外性と心の動きを具体的に素直に表現しているのであって、これらの証言や供述調書には疑いを差し挟む余地が全くない。しかもこの点は、鈴木國勇が記帳していた日誌帳(平成八年押第七五号の1)の一〇月一〇日の欄の、被告人方に行った日にち、訪れた農協役員の氏名、時刻等の記載によっても明確に裏付けられているところである(この点について、弁護人らは、同欄に被告人方へ着いた時刻として「8:40」と記載してあるが、予定を記載する日誌帳にこのような実際の結果が記載されているのは不自然であって、右日誌帳の記載は信用できないと主張するが、鈴木國勇は、行事が終わった後にその都度記入し、あるいは予定が入ったときなどにその都度記入していたというのであり、右時刻の記載があることは、何ら不自然なことではない。)。以上のとおり、前記各証人の供述、各供述調書には、被告人方に行った日にち、同行した農協役員の氏名に関して虚偽の介在する余地は全くないというべきである。そうすると、前記各証人の供述や右各供述調書、右日誌帳の証拠によれば、乙及び甲を含む農協役員らが同日の午前八時四〇分ころ被告人方を訪れていることは確固不動の事実と認められる。そして、他の農協役員が被告人方を辞去した直後に引き続いての一連の出来事である、被告人から乙及び甲が現金一〇〇万円を受け取った事実は、右農協役員らの被告人方訪問と密接不可分の関係にあるというべきであるから、右農協関係者らの前記各供述や各供述調書、前記日誌帳の記載は、乙供述及び甲供述を明確に裏付けるものといわなければならない。
二 これに対して、弁護人らは、乙供述及び甲供述が信用できない理由として、次のとおり主張する。
1 弁護人らの主張の要旨
(1) そもそも被告人が、自己の最強の選挙地盤である地元から買収工作を行ったということ自体不自然であるばかりでなく、祭日の午前八時四〇分という時刻に私宅を訪問することも不自然であり、また、ひそかに行われるべき選挙の買収金の現金授受が白昼に行われたというのもおかしな話であり、さらに、選挙出馬表明後間もない時期であるのに、後援会名簿が届けられた際、これを持参した農協役員の中から被告人自ら買収金を渡す相手を選び出し、直後に現金を渡すなどということをするはずはなく、なおまた、現金授受の経緯をみても、被告人が買収金を渡す人数を尋ねて、乙及び甲が二〇人と答えると、その場に現金一〇〇万円とのし袋二〇袋が出てきたというのであるが、あらかじめ人数が分かっていなければあり得ない話であり、これらの点は、本件現金授受の事実自体が虚構の事実であることを示すものである。
(2) 乙供述及び甲供述間には、真実体験したのであれば勘違いや思い違いが起こり得ない事項、例えば、被告人からの現金の渡され方、被告人が現金をどこから出したか、現金が置かれた場所、どのような経緯で奥座敷での現金授受に立ち会うようになったのか、現金を受け取って被告人方から退出した後の状況について重大な食い違いがあり、これらの点も虚偽供述を窺わせるものである。
(3) 本件買収工作の枢要な役割を一介の農業委員たる乙が担っていることは、被告人と乙の結びつきが旧来からの長い信頼関係や乙の被告人に対する支援活動が特別であったわけでもなければ、個人的な付き合いもないし、また、農協関係の票の取りまとめや支援態勢への影響力という点でも、乙が幾許かの重要な地位にあったわけでもなく、乙に買収工作を依頼することは本件発覚の危機性を増やすだけであり、被告人が乙にこのようなことを依頼するはずはなく、不自然であって、このことは、乙が甲と共に被告人から一〇〇万円を受け取ったという事実の不存在を示すものである。
(4) 乙が平成七年一〇月七日に陣中見舞いとして一〇〇万円を被告人方に持参し、被告人からその受領を断られたいきさつが存するが、被告人は乙のこのような行動に対して、不可解さや不審の念を抱いたことは明らかであり、この点と、このわずか三日後に被告人方で被告人が乙に買収工作の資金として一〇〇万円を渡して、農協役員への供与を頼むということとは両立し難い出来事である。
(5) 乙が、一二月の市長選との関係では、いまだ選挙戦たけなわとはいえない一〇月七日に、一〇〇万円という大金を陣中見舞いとして被告人方に持参するということは不自然であり、また、社会的な常識からみても余りにも高額であることからみれば、実際は、乙個人の動機、目的、利害があって現金を被告人に提供する特別の意味があったことを推認させるし、乙は、受け取りを拒否された右一〇〇万円の使途について合理的な説明をすることができず、不自然な供述をしている。
(6) 甲供述によれば、一〇月一〇日は、朝同人の妻を美容室まで送り、引き続いて島名地区の運動会に参集して祝儀を渡して、午前八時四〇分までには被告人方に到着し、被告人方で後援会名簿を被告人に渡して、引き続いて被告人から現金を受け取り、その後いったん運動会会場に戻り、そこから午前一〇時までに美容室に妻を迎えに行ったというのであるから、そこには目の回るような忙しさ、慌ただしさが認められるはずであるのに、甲供述からはこれらの点がみじんも窺われないし、被告人方からあえて運動会の会場に戻らなければならない必要性も全くなく、甲供述は不自然である。
2 当裁判所の判断
(一) (1)について
前掲各証拠及び被告人の当公判廷における供述によれば、被告人は、平成七年九月二五日、本件選挙への立候補を正式に表明したのであるが、既にそれ以前の同年四月二六日には現職の県会議員藤沢順一が記者会見を開いて立候補を表明していたこと、被告人としては藤沢が出馬するのであれば譲ってもよいとの考えがあり、同人が出馬するとしないとにかかわらず同人と話し合ってみたいと考え、その旨同人に申し入れたがそれが実現しなかったこと、同年九月六日に藤沢と選挙地盤を同じ旧桜村とする村上仁士が記者会見をして立候補を正式に表明したこと、被告人自身今回の選挙で村上の票が全部藤沢に流れたら自己の当選が危ういと考えていたこと、本件選挙の結果、得票数は、被告人が二万七一二七票、藤沢が二万三二一三票、村上が九六六八票であり、旧桜村地区からの立候補が藤沢で一本化したら被告人の当選は決して安泰とはいえない状況にあったと認められること、被告人の立候補は、このような状況のもとで、村上の正式立候補表明後一九日目になされたこと等の事実が認められる。以上の事実によれば、被告人の本件選挙における立場は決して安定したものではなく、むしろ、村上の立候補表明前はもちろん、立候補表明後も選挙情勢としては予断を許さない状況にあったとみるべきであって、被告人が自己の選挙地盤である地元から買収工作を行ったことを不自然とするいわれはない。また、祭日の早朝に訪れた点も、休日であるがゆえに農協役員も手がすき、被告人も在宅の可能性が高かったからに過ぎないと認められ、被告人も、当公判廷において、「通常七時には起床し、来客がもう来るのでその応対をする。訪問客は平日より休日の方が多い。」と供述しているのであって、何ら不自然なところはない。また、選挙の買収金の現金授受が被告人方奥座敷で、他に人がいないところで行われたことからすれば、朝方明るいうちに行われたとしても何ら不自然なことではなく、経験則上このような現金の授受は夜間に行われることを前提とするかのような弁護人の主張は独断に過ぎるものであって、到底採用することはできない。さらに、一〇〇万円とのし袋が出された現金授受の経緯についてみると、一人当たりの供与額が五万円というのは、乙らが答えた人数から計算して右の額になったからとも認められるのであり、被告人において、現金を配る相手が更に多くても一〇〇万円以上は出さなかったとか、一人当たりの配付額を五万円として不動なものとして予定していたとかの事情は全く認められない。また、のし袋の点は、甲供述によれば、一つはほぐれた状態で、もう一つはとめられた状態であったということであり、しかも、被告人方には、のし袋が多数保管されていたことが認められる(後記二の2の(二))のであって、これらのことからすれば、乙らから現金配布先の人数を聞いた被告人が、これに合わせて二〇枚ののし袋を用意したとみる余地もあり、いずれにしてもこの点が右各供述の信用性を損なうものとは認められない。なお、弁護人らは、後援会名簿を持参した農協役員の中から被告人自らが買収金を渡す相手を選び出して、直接買収金を渡すことはあり得ないともいうが、候補者である被告人自らが買収金を渡したとしてもあり得ない話ではないばかりか、前記一3にみたとおりの被告人と乙及び甲の関係などからすれば、同人らを右資金を渡す相手として選んだとしても、何ら異とするに足りない。弁護人らが主張する点は、本件現金授受の事実自体が虚構の事実であることを示すことには到底なり得ない。
(二) (2)について
ところで、乙及び甲両証人が、当公判廷で平成七年一〇月一〇日の出来事について供述するまでには、相当の日数が経過しているのであって、両証人にある程度の記憶の変容が生じることは不可避であり、また、自然なことといわなければならない。弁護人らは、乙供述と甲供述の食い違いを問題とし、これを強調するのであるが、買収金授受の骨格というべき、被告人方奥座敷に入ってから五万円入りののし袋二〇個を作り終えるまでの状況については、基本的な食い違いはみせていないのであり、被告人からの現金の渡され方、被告人が現金をどこから出したか、現金が置かれた状況などについて多少の食い違いがあるといっても、被告人から指示され、あるいは特別の理由から両証人が被告人の一挙手一投足を注視していたならばともかく、そのような状況が認められない本件では、ある程度の食い違いが生じることこそ自然ということもできる。かえって、両証人は、当公判廷において、買収金授受の行われた奥座敷に置かれていた座卓の位置を図示するに当たり、検証調書添付図面の座卓の向きをそれぞれ同じ方向に書き換えているうえ、のし袋の形態についても水引やのしの部分が印刷された普通のものであるとし、さらに乙は、右のし袋が封筒状のものかとの質問に答えて折り畳み式のものと供述しているのであるが、司法警察員作成の写真撮影報告書によれば、被告人方仏間に多数ののし袋が置かれており、両証人らが供述するのし袋の形態と類似するほか、両証人はいずれも一〇〇万円が古い一万円札であったと供述し、これは右買収金入りののし袋を受領したものが検察官に対する供述調書(不同意部分を除く。)において供述するところと合致しているのであって、これらの点は、乙供述及び甲供述の信用性を高めるものというべきである。以上のとおり、弁護人らが主張するような点について両供述に食い違いが生じたとしても、これが信用性に決定的な影響を及ぼすものとは考えられない。
(三) (3)について
弁護人らは、乙の農協での地位や被告人との結び付きなどからして、被告人が乙に対し、本件買収工作の枢要な役割を担当させるような依頼をするはずがないと主張するが、前記一3にみたとおり、被告人と乙との間に何らの関係もないわけではなく、被告人と乙の父とは互いに選挙の際などには陣中見舞いを持参しあう仲であったことは被告人が当公判廷において認めており、被告人と乙とのかかわりは乙親子二代にわたるものであることに加え、前掲各証拠によれば、乙は一〇月一〇日に被告人方に持参した後援会名簿の署名集めも甲と共に積極的かつ中心になって行っていたこと、本件の五万円を供与するに当たっても、乙がその多くを担当していることが認められるが、乙は農協役員の間では平の理事で年齢も若い方に属するのであって、これらの点は、実際の具体的な行動を担う者として乙が選ばれたか、乙自身の思惑から自ら買って出たとみるのが自然である(乙は、「署名集めは、甲一人にやらせるのは申し訳ないと思い、手伝うことにした。」と述べ、現金の供与に際しても「甲さんがたくさんの役員のところを回るのが面倒なので、私に任せているのだろうと思った。年上で古参の理事である甲さんに車の運転をさせるわけにはゆかないので、自分の車で回った。」旨証言している。)。そして、被告人も選挙の際乙が押し掛け的に被告人のために選挙運動をしていることの認識はあったと供述しており、また、前記のとおり乙自身が陣中見舞いを持参したほか、同人の父親との間にも陣中見舞いのやりとりがあったことなどから、被告人においても乙が被告人のために熱心に活動していたことを知っていたとみてよく、このような状況のもとで、被告人が甲と共に、同人のもとで乙に本件買収工作の具体的な役割を担当させる趣旨で同人を現金授受の場に同席させることになったと考えても何ら不自然ではないというべきである。
(四) (4)について
ところで、乙証人は、平成七年一〇月七日ころ、乙が被告人方に陣中見舞いとして一〇〇万円を持参し、被告人がその受け取りを断ったことがある旨供述し、被告人もそのようなことがあったことは当公判廷において認めているところである。そして、乙が右陣中見舞いを持参した趣旨に、被告人に取り入ろうとの思惑が含まれていたことは否定し難いところであり(前記一の3)、被告人において、乙の子供がつくば市役所の採用試験を受けて採否の発表がいまだなされていない時期にこれを受領すれば賄賂ともなりかねないとの判断が働いたか、あるいは単に右のような乙の思惑を嫌って陣中見舞いの受け取りを断っただけとも考えられるのである。そして、被告人において、乙に対して警戒しなければならないような不可解さや不審を抱いていたかどうかについて、被告人自身公判廷において何ら述べていないし、他にこの点を窺わせるような事情は存しない。弁護人らのこの点に関する主張には飛躍があり過ぎるというほかない。
(五) (5)について
平成七年一〇月七日ころに乙が被告人方に陣中見舞いとして一〇〇万円を持参したこと、それが乙の被告人に取り入りたいとの思惑が込められていたことが否定し難いことは先にみたとおりである(前記一の3、二の2の(四))。そして、乙証人は、被告人から受領を断られた一〇〇万円の使途に関して、「私の家では、かばんの中にお金を入れている。お金が必要になれば、そこから出して遣い、そこのお金が少なくなったら足しておく。ここから子供の学費、東京のアパート代とか寮代などいろいろな支払をしているが、このお金を遣うのは私だけではなく、妻も生活費などをこの中から出して遣っている。被告人から受け取りを拒否された一〇〇万円もこのかばんに入れておいていろいろな支払に充てた。この一〇〇万円をかばんに入れたころは、かばんの中に四〇〇万円位のお金があったかもしれない。一〇〇〇万円の定期を解約して五〇〇万円を下ろした。自分で自宅を将来新築したいという気持ちがあって、木材を買ったり何かするのにお金がいつでも遣えるように、ある程度の金は自宅に保管していた。」旨供述している。また、織惠正一の検察官に対する平成八年四月二五日付け供述調書(不同意部分を除く。)によれば、乙の家は地主級の家柄というのであり、甲証人も、乙は裕福でいつも二〇〇万から三〇〇万のお金を持っている旨供述しているのであって、乙の右の供述には何ら不自然な点はない。このように、被告人から受領を拒否された一〇〇万円の取扱いや乙の生活費等に充てる金銭の管理形態からすれば、弁護人らが主張するように、右一〇〇万円の使途が定まらず不自然であるなどとはいえない。
(六) (6)について
甲証人は、当日朝の行動について「午前七時か七時三〇分ころに家を出て、妻を結婚式の着付けとセットをするため、車で五分位のところにある美容室まで送って行き、運動会の準備のため会場である島名小学校に行った。午前八時ころ会場に到着し、午前八時三〇分か四〇分ころまでいて、車でゆっくり走って二、三分の距離にある被告人方に行った。農協役員らと共に後援会名簿を被告人に届け、被告人から渡された一〇〇万円を乙と共にのし袋に五万円ずつ分け入れてから、そのまま運動会の会場にもどり、テントの中で五分位競技を見て、車で妻を美容室まで迎えに行き、妻の着付けやセットが終わると聞いていた午前一〇時前には美容室に着いたと思う。」旨供述している。このように、当日の午前中の甲は、被告人方への後援会名簿の届け、運動会の準備、結婚式の用意とその後の結婚式への参加といった重要な用件が重なり、かなり慌ただしかったであろうことは否定できない。しかし、甲の家と運動会の会場、被告人方、美容室とはいずれも車で数分という近距離に位置しているうえ、これらの用件はいずれも、分単位で履行しなければならないようなものではなく、柔軟に対応することが可能なものばかりであり、弁護人らが主張するような、目の回るような忙しさ、慌ただしさといったものとして甲がとらえるようなものとはいえないのであって、甲の当日の行動は不自然であるとの弁護人の主張は誇張に過ぎるというべきである。
以上のとおり、弁護人らの前記各主張はいずれも理由がない。
三 甲に関するアリバイの主張について
1 弁護人らは、甲らが被告人方に赴いた時間帯には、甲は島名小学校で行われた運動会に出席していたのであるから、同人にはアリバイがあると主張し、弁護人申請の証人星野道男、同宮本良一、同大里清一郎、同木村正美、同鈴木信男、同横田藤伍、同松野勝之、同大野早苗及び同丁は、いずれも弁護人らの主張にそうかのような供述をしている。そして、弁護人らが主張するように、乙及び甲を含む農協役員らが被告人方を訪問し、引き続いて甲及び乙が被告人から現金を受け取ったという時間帯に、甲が運動会会場にいたことが相当高度に確実なものとして認められるのであれば、前記の認定事実と両立しえない事実ということになり、甲供述はもとより、乙供述、さらには前記農協関係者の供述調書や証言などもことごとく甲が被告人方に赴いたとする点で虚偽ということになり、これらの者がそろって故意に偽りの供述をしているか何かの思い違いをして虚偽の供述をしていると断定せざるを得ないことになろう。
ところで、弁護人らが主張する甲アリバイは、甲自身運動会会場に赴いたことを認めている点と、その時間がわずかであり、通して運動会会場にいたとはされていないこと、また、右の運動会会場と被告人方の距離はわずかであり、自動車を使えば五分前後の距離であることを前提としているのであり、このような甲アリバイの持つ特質は、その検討に当たって十分に考慮しなければならない事柄というべきである。
2 そこで、以下、検討する。
弁護人ら申請の甲アリバイに関する前記九名の証人は、いずれも、約八か月前の出来事に関する微妙な時間的特定に絡む事項について供述するものであり、このような人の行動や時間的な特定に関する記憶については、その出来事に特異な点があったとか、備忘録をつけていて記憶を喚起したといった事情がなければ、その記憶を長時間そのまま保有することが困難な事項であると認められる。そして、これらの証人らは、いずれも運動会の役員等として出席したものであるが、メモや日記などに当日の時間的経過や甲の行動について記載していたといったものではなく、被告人の子供である戊や丁らにおいて、被告人が起訴された後である五月中旬ころ、甲のことを聞かれて思い出したというものであり、甲アリバイの決め手となる同人を見たという時刻の点については、その記憶の根拠自体があいまいであるということを各証人に共通する問題点として指摘されなければならない。
この点について、弁護人らは、甲が運動会の受付をしたのは松野の後であり、同人が受付をした時刻が午前八時四五分ころであることは動かし難い事実であるから、これを前提とした星野及び宮本両証人の、「甲が受付をしたのが午前八時五〇分ころである。」との供述は十分に信用することができるのであり、甲が松野の後で二番目に受付をしたことは受付名簿(平成八年押第七五号の2)の記載と星野、宮本及び大野各証人の供述によって客観的な事実として認められる旨主張している。
確かに、右受付名簿には、一番目に松野勝之、二番目に甲の記載があることは弁護人ら主張のとおりであるが、かかる記載から直ちに甲が松野に次いで二番目に受付をしたものと認めることには疑問の余地がある。すなわち、大野及び星野両証人の各供述によれば、右受付名簿が主として祝儀を届けてくれた者に後日礼状を出す関係で作られるものであることが明らかであるから、祝儀を持参した者の住所、氏名と金額が記載されていればその目的を達するのであって、祝儀を持参した者の自署を求める必要もなく、もちろん、受付順序に拘泥する必要もないものである。そして、右受付を担当し受付名簿を作成した大野は、前年の受付名簿にならって罫線を入れないまま運動会当日にこれを星野に渡しており、また、同人もこれに罫線を入れたうえ祝儀を持参した者の名前を記帳しているのである。このように、右受付名簿は、冠婚葬祭での受付名簿のように参会者が自署し、出欠の有無に加えて受付順が不動のものとして固定される名簿とは全く性格が異なり、特段受付順を意識しなければならないものではなく、持参された複数の祝儀を後でまとめて記載しても何ら差し支えのない性格のものとみなければならない。ところで、大野証人は、「リボンやトロフィーなどが入った箱を受付のところに運んだときには、もういすが並んでいたんで、受付は開始されていたと思います。」と供述しているところ、島名郵便局長の祝儀の点に関し、同証人は、「この祝儀は前日預かっておいたもので、運動会の準備のため賞状やトロフィーを自宅から持ち出して、本部席の机に並べるとき、これらと一緒に自宅から持ってきたんではないかと思う。渡したこと自体は覚えていない。」旨供述している。そして、右受付名簿によると、甲に次いで三番目として同郵便局長の氏名等が記載されているが、大野が受付名簿やリボンを持参するなど受付開始と直結する作業をしているときに預かった祝儀を持参しているのであるから、右の預かった祝儀を真っ先に受付担当者に渡してよいと考えられるのに、受付名簿には一番目として記載されていないのであり、このことは右受付名簿の記載が実際の受付順番どおりの記載になっていないことを疑わせるものというべきである。また、甲証人は、「自分たちが本部席テントを立ち上げた後、大野において、トロフィーなどを自宅から運び、これと併行して受付係の星野や宮本が受付の準備をしている状況のとき、祝儀を星野か宮本に渡した。」旨明確に供述しているところ、同人らにおいて、右の準備中に甲から祝儀を受け取ったということも十分に考えられるのである。そもそも受付開始時刻といっても、広い意味では受付用の机が用意されてその準備ができつつある状態から、すべての用意が整い、受付担当者が机に向かい、受付態勢に入った状態まで含めて観念することができるのであるから(現に、大野証人は、受付開始時刻について、前記のとおりリボンやトロフィーなどを運んだときには、受付が開始されていたと供述したかと思えば、リボンの入った箱に受付名簿を入れておいたので、リボンと受付名簿は同じ時期に渡しており、受付が開始されたのはそれ以降である旨供述しており混乱がみられる。)、受付用の机が並べられてその準備中に祝儀を受け取ることもあり得ることであり、その意味でも甲や大野が受付のための準備中に祝儀を渡したと考えても何ら不自然なことではない。そして、右受付名簿の記載順序が松野に次いで二番目になっている点も、甲から祝儀を受け取った星野又は宮本において、受付名簿の準備のできた時点で松野から祝儀を受け取ってこれに記載し、これに次いで甲の氏名等を記載したということも十分に考えられるのであり、右名簿の記載順序は、甲の受付時刻特定の根拠として重要視することは妥当ではない。
ところで、弁護人らは、右受付時刻に関する有力な証拠として宮本及び星野両証人が「受付を開始した時刻は午前八時五〇分ころであり、甲の受付はその後に間違いない。」旨の供述を援用するので、両証人の供述の信用性について検討する。まず、星野証人の供述をみると、同証人は「受付を開始したのは八時五〇分で、この点は時計で確認したので間違いない。八時五〇分過ぎにまず松野が祝儀袋を持ってきて、その数分後に甲が祝儀袋を持って受付に来たので、これを宮本が受け取って私に渡したので、中身を確認して受付名簿に記載した。」旨断定的に供述しているが、そもそも受付開始時刻を時計で確認したことやその時刻自体特に記憶に残る出来事とは認められず、もとよりその経過をメモに残すなどの事情が何らないにもかかわらず、なぜ約八か月以上を経た時点において確定的な記憶として残っているのか了解し難いといわなければならないし、同証人は、午前八時に運動会役員が準備のために集合したときには既に高谷文吾も来ていたとも供述しているが、丁や松野はいずれも大会会長の高谷文吾が会場に到着するのが遅れたりして開会式も遅れたと供述し、この点は証拠関係に照らして間違いのない事実と認められるのであって、星野証人には、大会会長という運動会における極めて重要な役職者に対する認識に混乱がみられるところであり、また、受付を終えた時刻について「一二時、お昼前ですよね。」と供述しているが、同じく受付を担当した宮本証人は、その時刻を午前一一時ころまでと供述しており、このように右の時刻については一時間もの食い違いが認められる。このように星野証人の供述からみると、甲についてだけその存在を時刻と共に断定的に述べている点において不自然といわなければならない。のみならず、同証人は、司法警察員に対する供述調書において、「運動会の開会式が予定していた時間より一〇分位遅れて始まったが、その開始一〇分位前なので、午前九時ころから受付のいすに座った。甲と松野からのし袋入りのお祝いを直接私が預かったわけではなく、宮本が中身の現金を確認して机の上に置いたのを私が見て甲、松野の順番で書き込んだ。その後は、直接宮本が受け取り、私が簿冊に書き込む任務分担を続けた。」旨法廷供述とは異なる供述をしているのであり、これらの事情に徴すれば、星野証人の受付開始時刻や甲と松野の受付の先後に関する供述をそのまま信用することはできないというべきである。また、宮本証人はこの点について、「受付開始時刻については時計を見たわけではなく、何度か時計を見ていた星野が『すぐ始めましょう。』『一〇分位しかなんない。』などと言っていた。それが開会予定時刻の九時より一〇分位前だったので、午前八時五〇分ころに間違いないという記憶である。」旨供述しているところ、星野証人のこの点に関する供述をそのまま信用することができないことは前記のとおりであって、これに依拠する宮本証人の供述はこの点で既に疑問があるといわざるを得ない。しかも、同証人が右時刻特定の基準とした運動会の準備を始めたとする午前八時や開会式の予定時刻である午前九時を基準として時系列にそって同人の供述する受付開始時刻をたどると、その時刻が午前八時五〇分ころにはならないのであって、宮本証人の供述も不正確であるといわざるを得ない(なお、同証人は「甲が大里清一郎と本部テントの中の役員席で話しているのを見た。」旨供述しているが、他方、証人大里清一郎は、「受付をした後、自分の部落の席に行っており、本部テントの中の役員席で甲と話をしたことはない。」旨これを明確に否定する供述をしているのであり、この点でも宮本証人の供述の信用性には疑問がある。)。
3 さらに、甲アリバイに関するその余の証人の供述について検討しておくこととする。
(一) 証人大里清一郎の供述
同証人は、「仕事を終えて仕事先の工業技術院を車で出たのは一〇月一〇日の午前八時三〇分ころであり、この点は車に乗ったとき車内のデジタル時計で確認したので間違いない。自宅に戻り着替えをして運動会の会場に行った。工業技術院から自宅まで、祝祭日は二〇分くらいかかり、自宅から運動会の会場まで七、八分かかった。午前九時か九時五分ころ、運動会会場のテントのそばで甲と会った。前日から警備の仕事に就いていたが、その勤務態勢は二人一組で正と副に分かれ、交替で守衛室に入ることになっており、このとき自分は副であった。副も午前八時三〇分まで勤務することになっているが、実際には午前七時過ぎには副の仕事は終わる。しかし、早朝特に早く交替してもらうことは困難で、一人が早く帰るというようなことは、身内に不幸があったときなど特別の場合でないとあり得ず、当日も通常より五分早い午前八時二五分まで勤務して次の者と交替したので、午前八時三〇分より前には帰っていない。」旨供述している。しかし、大里清一郎証人の供述は、仕事を終えて帰宅する前に守衛室の時計で八時二五分であることを確認し、ここを出るときも八時三〇分であることを外の大きな時計で確認したし、さらに車の中の時計でも八時三〇分であることを確認したなどと、殊更に仕事先から帰宅する時刻を時計で確認したことを強調しているが、仕事先を何時に出たかを度々念を押すように時計を見て確かめたということ自体が不自然であるといわなければならない。しかも、この点をかなりの時間がたった時点で明確に記憶しているということは、同証人自身、自己の記憶力が乏しくなったことを自認しており、また、いつもより少し早く帰ったというのに、当日の相勤者である正の名前や勤務を交替して引き継いだ相手警備員の名前さえ記憶していないことなどに徴すれば不自然であって、右の点に関する同証人の供述には疑問があるといわなければならない。のみならず、同証人が当日の午前八時二五分まで勤務したとの供述は、勤務時間が午前八時三〇分から翌日の午前八時三〇分までになっているということが前提となっているばかりか、運動会に役員として参加することは事前に決まっていたことであり、当日の同証人の地位は副であって午前七時過ぎには仕事も終わり、帰ろうとすれば帰ることができる状態であったことは同証人自身認めるところであり、このような事情に加え、前日からの相勤者と認められる証人飛田喜一は、当公判廷において、「大里清一郎から当日は運動会があると聞いており、自分も運動会の役員をした経験から忙しいだろうから早く帰った方がよいと言って、同人を午前七時三〇分より前に帰した。自分が正として勤務しているときには、副の人には実際の仕事が終わる午前七時五分か一〇分ころになると、帰っていいよと声をかけていた。」旨明確に供述しているのである。もっとも、弁護人らは、同証人の供述の信用性を争っているが、同証人が右の点に関して虚偽供述をしているとは考えられず、特に同証人は、逡巡しながら「証人として出廷するに当たり、上司である丸山主任から『大里清一郎がいつ帰ったのか記憶にないと答えれば何事もないのに』という趣旨の示唆を受けた。」旨供述しているのであり、同証人としてもこの点を証言することは、何ら自己の利益にもならない事柄であるばかりでなく、逆に証言することにより勤務先で不利益扱いを受けるおそれのある事柄をあえて、勤務時間明けの午前八時三〇分よりも早い時間に帰れるような配慮を加えていた旨公判廷で供述しているのであって、その供述態度や供述内容等に徴しても、飛田供述が弁護人らが縷説するように信用性を欠くものとは到底考えられない。以上のような諸点に照らせば、大里清一郎証人の供述の信用性に重大な疑問があるといわなければならない。したがって、当日、大里清一郎は、運動会の準備のため、同人が供述する午前八時三〇分よりもっと前にその勤務先を出ている可能性を否定することができず、同人が運動会会場に到着した時刻及びその後の時刻についての供述をそのまま信用することはできない。
(二) 証人丁の供述
同証人は、「運動会の開会式が午前九時五分に開始されたが、そのとき本部テントの中に甲がいたのを見ている。開会式が終わったのは午前九時二五分ころだったが、甲はその間ずっと会場にいた。第一競技のスプーンレースの時まで甲はいたが、その競技が終わった後、甲が自分のところに来て帰るあいさつをして帰った。」旨、甲について鮮明な記憶があるかのようにその動向について供述している。しかし、一方、同証人は、右の記憶について、「運動会のことは自分にとって特段記憶に残すべき出来事でもなく、特に甲については、自分の記憶に残るような言動があったわけではないが、被告人が逮捕された以後、新聞報道により甲のアリバイが重要であると気付き、大会資料等を見たりして、甲のことを思い出し、運動会役員のところを回って甲のことを聞いたりした。被告人の裁判の有利な材料になると思って思い出した。当時のことをメモなどに書き留めたりしていたわけではなく、また、記憶をスムーズに思い出したわけではない。」旨供述しているところである。このように、同証人の記憶喚起過程に照らせば、当初から同証人に甲についての鮮明な記憶があったとは考え難いうえ、同証人が被告人の次男であることをも考えあわせると、運動会開会式からスプーンレースが終わるころまでの間に間違いなく甲を見たとの同証人の記憶は、右大会資料等を見たり役員を回って聞いたりして被告人に有利なように形成された可能性を否定できず、同証人の右供述の信用性には疑問の余地があるというほかない。
(三) 証人大野早苗及び同鈴木信男の各供述
まず、大野証人の供述についてみると、同証人は、主尋問において「午前八時ころ運動会の会場に到着し、運動会の準備としてテントを立ち上げ、机やいすを運んだり、頼まれた祝儀を受付に出したりした後、本部テントの中で開会式を見た。準備の段階では甲を見た記憶がないが、同人が開会式の直前にテントの中にいたのを見たし、開会式を迎えたときもテントの中で私の左脇に立っているのを見た。開会式が始まったときから甲がいたことを覚えているのは、甲が知っている人だからである。」旨供述するが、甲自身運動会の準備に参加し、開会式終了後にテントの中で競技を見たなどと供述しているばかりでなく(前記二の2の(六))、証人松野勝之や同横田藤伍も甲が準備作業を手伝っていることを確認している旨の供述をしているのであって、甲と同じくテントの立ち上げやいすの搬送を手伝った大野証人だけが甲がいたとの記憶がない旨供述し、また、証人鈴木信男は、開会式開始の五分前と一〇分前の二回、役員や選手に向けてマイクで集合の呼びかけをしたと供述し、証人木村正美もこのマイクがかかったのを聞いたと供述しているのに、大野証人はこの点についても記憶がない旨供述しているのであって、これらの点は、同証人の記憶の曖昧さを物語るものである。また、同証人は、主尋問での供述を検察官の反対尋問、裁判所の補充尋問、弁護人の再主尋問でその都度変えるなどの動揺をみせ、甲を開会式直前に見たかどうかの点について、開会式中と述べたり開会式直前と述べたりして記憶の混同がみられるのであり、大野証人の記憶にはかなり不正確な部分が含まれているものといわざるをえない。次に、大野証人及び鈴木信男証人の各供述は、証人木村正美の供述とも相互に矛盾をきたしている。すなわち、甲が開会式に出席していた点につき、大野証人は前記のとおり供述し、また、鈴木信男証人は、「開会式の司会を担当した際、甲も開会式をテントの中で立って迎えていた。」旨供述しているのであるが、一方、証人木村正美は、「運動会の開会式が始まると、もうそういう暇はないので、小用を足しておこうと思って便所に行ったところ、偶然隣に甲が来た。時計を見たわけではないが、自分の感じでは大体九時五分過ぎで、一〇分近くじゃなかったかと思う。一緒に小用を足して、便所から出て本部テントの近くの、入退場門口付近まで来たら、開会式は始まっていて、織惠の開会式の話が終わったときだった。自分は一部の区長でその列に整列するつもりだったが、列に並びそこねてしまい、入退場門口で開会式を迎えた。甲も一緒に来たが、本部席の方に行ったかどうかは記憶していない。」旨供述しているところ、右の供述によれば、甲が開会式に参加していたとしても、甲は、木村と一緒に便所から出ているのであるから、開会式の開始に遅れたはずであって、開会式の当初から自分の左脇に甲がいたとの大野供述、甲が開会式をテントの中で立って迎えていたとの鈴木信男供述は、いずれも木村正美供述と相互に矛盾しているのであり、この点もこれらの供述の曖昧さ、不確かさを示すものといわなければならない。また、両証人の各供述は、甲について特に記憶に残るような出来事があったと認められるわけでもないのに、全体的に甲の行動についての記憶だけが強調されて供述しているのであり、この点も右両供述の信用性を判断するにおいて無視し難いところである。そうすると、前記のとおり、甲が運動会の会場に行って準備をしたり開会式終了後にテントの中で競技を見たりしたことは甲自身が認めているところであり、同人の姿を大野証人や鈴木信男証人が目撃したこと自体は否定できないものの、それがどの場面であるのかについて右両証人の供述はそのまま信用することができないというべきである。
(四) 証人木村正美、同横田藤伍及び同松野勝之の各供述
これらの証人は、当時の状況について、いずれも時計で確認するなど時間を特定するに足りる確実な根拠を示して供述しているわけではなく、これらの証人の感覚で問題の場面の時間を推測して述べたり、感覚に基づく時間的経過をもとにその場面を述べたりしたに過ぎないものであり、ここでの争点が前記のとおり、甲の供述する行動とこれらの証人の供述にそう弁護人らの主張が大要において矛盾しないところから、甲の分刻みの微妙な時間であり、いずれの証人をもってしても、甲供述と矛盾する場面で甲を見たとする右各証人の供述はそのまま採用することはできない。
4 まとめ
以上のとおり、甲のアリバイに関する前記各証人らの供述によって、甲が被告人から現金を受け取った時間帯に運動会会場にいたとの事実を認めることはできないのであって、右各証人らの供述は、甲供述の信用性を損なうものとは考えられず、もとより、乙供述、前記農協役員らの各供述及び各供述調書の信用性にも何ら影響を及ぼさないというべきである。したがって、甲のアリバイを云々する弁護人らの主張はすべて理由がない。
四 最後に、弁護人らは、本件で被告人が金員を授受したとされる時間帯には、被告人は他の訪問客と応対していたのであるから、被告人が金員授受の場に立ち会うことなどは考えられないと主張する。
そこで検討すると、一〇月一〇日の状況について、証人齋藤國一及び同坂本昭の供述するところによると、「前日二人で被告人の応援のために歩き回った。一〇月一〇日は休みなので、みんながいる確率が高いから歩こうということになり、パンフレットなどを持っていく必要があるので、被告人方前の選挙事務所の前で待ち合わせることにした。齋藤は午前九時に着いた。そのことは時計で確認した。坂本は三ないし六分位遅れて着いた。事務所からパンフレットをもらって車に積んだ後、被告人に挨拶していくことになった。齋藤が玄関で『おはようございます。』と二度声をかけた。市長が『どうぞ。』と言った。しかし、来客がいるようなので、玄関の外で待つことにし、玄関の外に出た。二人は一、二メートル位の間隔で立っていたが、齋藤は植木や庭石が好きだったので、玄関の外で近くの植木や庭石を見ていた。先客が帰ったので、坂本が『社長、出ていったよ。入らしてもらうべ。』と言った。六、七人位の人が門の方に歩いていった。齋藤が玄関で『上がらしてもらいます。』と言ったら、被告人から『どうぞ。』と言われた。被告人は玄関の左側の部屋に和服姿で立っており、前の客のお茶盆を片づけていたようだった。自分達は午前九時一〇分過ぎころ被告人方に上がり、午前一〇時過ぎころ被告人方を出た。自分たちが被告人方に入ってからは被告人と土浦の市長選、常磐新線、ごみ処理場の話をしていたが、途中で被告人が部屋を出たり、他の客が来たようなことはなく、終始、被告人は自分たちと一緒だった。」などというのであり、これによれば、後援会名簿を届けた農協役員が被告人方を退出する際に同人方を訪れた客が齋藤と坂本であった可能性を否定することはできない。しかし、乙及び甲が被告人方に残り、同人から一〇〇万円を渡され、これを五万円ずつに分けてのし袋に入れる作業をして、被告人方を退出するまでの時間は、乙供述によれば五分位、甲供述によれば一〇分か一五分位であったというのであり、他方、齋藤及び坂本両証人の供述によれば、右両証人に先客が辞去するのと入れ替わりにすぐに被告人と面会しなければならないような事情は見当たらず、現に右両証人は先客が玄関を出るのと同時に入ったものではないのであり、また、右両証人は、被告人方に訪問を告げるため声をかけて、来客中ということが分かり玄関の外でその客が帰るのを待っていたというのであるが、その待っていた時間について、齋藤証人は三、四分位、坂本証人は一、二分位と供述するものの、右両証人は当日のことを日記に付けたりメモしたりしていたわけではなく、時間的なことは感覚でそう思うと供述しているに過ぎないのである。そして、検証調書によれば、被告人方は大谷石の塀で囲われ長屋門、北門、西門、工事中の門と四つの門のほかに木戸を備え、七反五畝(二二五〇坪)の敷地の中には母屋と離れのほか物置が建ち並び、杉林や築山と共に植木や庭石が配置され、手入れの行き届いた庭を備えていることが認められ、庭石や植木を見学するとすればある程度の時間を要するものと認められる。これらの点に徴すると、農協関係者が辞去した後に被告人方に上ったのが右両証人であったとしても、同証人らが庭で植木や庭石を見るなどして時間を過ごしている間に、乙と甲が被告人から前記のとおり一〇〇万円を受領したと考えても何ら不自然ではないのである。
いずれにしても、齋藤及び坂本両証人の前記各供述は、乙供述及び甲供述の高度の信用性と対比するとき、これらの供述と矛盾するものとは考えられず、同人らが前記の日時、被告人方において、同人から現金一〇〇万円を受け取ったとの認定を覆すに足りるものとは認められない。
(法令の適用)
被告人の判示第一の一及び第二の一の各所為のうち各供与の点、判示第一の二及び第二の二の各所為のうち各供与の申込みの点はいずれも刑法六〇条、公職選挙法二二一条一項一号に、判示第一及び第二の各所為のうち立候補届出前の選挙運動をした点はいずれも刑法六〇条、公職選挙法二三九条一項一号、一二九条にそれぞれ該当するところ、右各供与ないし各供与の申込みと各立候補届出前の選挙運動はいずれも一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条によりいずれも一罪として重い供与ないし供与の申込罪の刑で処断することとし、各所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情の最も重い判示第一の一別紙一覧表の番号2の供与罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一年四月に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中四〇日を右刑に算入し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを全部被告人に負担させることとする。
(量刑の事情)
本件は、茨城県つくば市長であった被告人が、平成七年一二月に施行された同市長選挙に際し、自らの再選を果たすため、農協役員二名ないし三名と共謀のうえ、一七回にわたり、農協関係者一七名に対して自己のための投票と投票のとりまとめ等の選挙運動をすることの報酬として、それぞれ現金五万円を供与し、また、三回にわたり同関係者三名に対し、同様の趣旨でそれぞれ現金五万円の供与の申込みをすると共に、一面、いずれについても立候補届出前の選挙運動をしたという事案である。
ところで、選挙の自由、公正は議会制民主主義の根幹をなすものであり、その確保は民主的政治の維持・発展にとって不可欠な要請であるところ、買収行為は選挙犯罪の中でも右の自由、公正を侵害する点において最も甚だしいものであって、悪質な犯罪といわなければならず、特に本件は、投票の自由、公正を直接的に侵害するいわゆる投票買収(いわゆる運動買収の趣旨も併せ持つ)の事犯であって、被告人がこれらの犯行に及んだことはそれだけで強い非難を免れない。被告人は、自己の支持母体である農協役員から後援会名簿を届けられるや、右の趣旨で二名の農協役員に現金一〇〇万円を自らが直接手渡しているのであって、本件各犯行の首謀者というべきである。また、本件買収対象者は、自己の選挙地盤の農協役員のうち、共犯者二名と自己の支援や選挙運動が期待できない二名を除く残り全員であり、組合員世帯数三〇〇〇を超える谷田部農協所属組合員の投票や支援をも確保すべく、その幹部の理事である農協副組合長と地元出身の若手の理事に現金を渡して行われた、かなり規模の大きな買収事犯というべきであり、その犯情は悪いというほかない。そして、被告人は現職のつくば市長であり、単に公職にあるにとどまらず地方自治体の首長として、自由、公正な選挙の実施のため自らその範を示すべき地位にあり、現金買収事犯が選挙の本質に照らして最も許されないものであることを強く認識しなければならないにもかかわらず、自らの再選を果たすためには手段を顧みることなく本件を敢行したものであって、まことに許し難い行為といわなければならない。その結果、被告人らのこのような行為が地方選挙の公正を損ない、議会制民主主義の基盤をゆるがせその発展を阻害することになったことはいうまでもなく、しかも、被告人が再選を果たしたことで、公正な選挙の実施を期待したつくば市の有権者の信頼は大きく裏切られ、また、本件によりつくば市政の混乱、停滞を招いたものであって、その及ぼした影響には多大なものがある。加えて、被告人は、本件各犯行について、何ら反省の態度を示しておらず、また、依然としてつくば市長の職にとどまり続けているのであって、そこには、自己の犯した行為についての真摯な反省は全く認められない。のみならず、被告人は、本件発覚後、本件で買収金を受領した農協役員らが道義的責任をとってその地位を辞したうえ、同人らから市長職の辞任を進言されたにもかかわらず、逆に、これらの者に対して「頑張ればよかったのに。」と言い、また、今回の市長選挙で、被告人陣営の者らによる買収事犯が多数摘発されて、多数の者が懲役刑又は罰金刑という厳しい刑事処分を受けているところ、被告人がこれらに直接関与しているかどうかにかかわりなく、被告人としてもこのような事態については、政治的、道義的な責任を感じるのが当然というべきであるのに、当公判廷において、自己の選挙における選挙違反者の摘発件数が過去四番目であるなどとその真意をはかり難い供述をするだけで、右の点についての心情に関して何ら吐露するところがないのであって、このような被告人の言動に徴すれば、被告人には買収事犯の悪質性に関する認識が欠けていると認めざるを得ない。以上のような事情を総合考慮すれば、被告人の刑責には軽視を許さないものがあるといわなければならない。
そうすると、本件は新聞で報道されるなどして少なからず世間の耳目を集め、被告人も社会的非難の対象となるなど、被告人はある程度の社会的制裁を受けていると認められること、被告人は、これまで地元の発展を目指して地方自治に参画し、一定の業績をあげてきたこと等の被告人にとって有利な事情を斟酌し、かつ、同種事犯の量刑例をも併せ検討しても、前記のような本件犯行の罪質、現職市長による悪質な犯行であること、被告人は、いまだ現職にとどまることのみに執着し、全く反省の態度を示していないこと等の事情に徴すれば、本件が被告人に対する刑の執行を猶予することを相当とする事案とは認められず、主文の刑はやむを得ないところである。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官松尾昭一 裁判官傳田喜久 裁判官植村京子)
別紙一覧表の一〜三<省略>