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水戸地方裁判所 昭和27年(行)17号 判決

原告 合資会社高木農場 外一名

被告 茨城県知事

一、主  文

被告が茨城県西茨城郡宍戸町大字平町字大沢一四七〇番の二五八雑種地八町一反五畝二十三歩のうち一町一反二畝二十八歩について昭和二十七年四月二十三日附買収令書(買収期日同年同月三十一日)をもつてした買収処分を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

二、事  実

第一当事者の申立

原告等訴訟代理人は主文同旨の判決を求めた。

被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。」旨の判決を求めた。

第二当事者の主張

一、請求原因

(一)  茨城県西茨城郡宍戸町大字平町字大沢一四七〇番の二五八雑種地八町一反五畝二十三歩は、もと訴外高木千尋の所有であつたが、昭和二十一年九月十日原告高木久枝及び原告合資会社高木農場が売買によりその所有権を取得し同月十三日その所有権移転登記を了したものである。

訴外茨城県西茨城郡宍戸町農業委員会は、昭和二十七年三月八日原告等共有にかゝる右雑種地八町一反五畝二十三歩のうち一町一反二畝二十八歩即ち別紙図面記載の(123)(55)(125)(124)(123)の各点を順次直線をもつて連結した部分に該当する地域について、同地に対する原告高木久枝の持分については自作農創設特別措置法(以下単に自創法と称する)第三条第一項第三号により、同じく原告合資会社高木農場の持分については同法第三条第五項第四号により、買収期日を同月三十一日と定めて買収計画を樹立し、被告は右計画にもとずき昭和二十七年四月二十三日附買収令書を発行、同月二十六日原告等に交付して買収処分を了した。

(二)  しかしながら右の買収計画には次のような違法が存する。

(い) 原告会社代表者兼原告本人高木久枝(以下単に久枝と称する)は訴外高木千尋の妻である。そして千尋方の家族は右夫妻及び三女尋枝の三名であり、千尋と久枝とが雇人を使用し又は自ら農耕に従事して農業を営んで来た。そして千尋は昭和十五年頃から高崎市に事務所を構えて弁護士を開業し、又昭和十七年頃から北支那開発株式会社嘱託並びに華北葉煙草株式会社監事の職に在り尚又郷里群馬県碓氷郡松井田町には八十歳及び七十九歳の老衰病の父毋をかゝえていた関係上、その住居である前記雑種地を留守にしがちであつたので久枝が千尋方の営農を主宰していた。ところが昭和十八年二月生後間もない尋枝が蓄膿症を患らい入院加療したが全治せず、一旦退院の上水戸の病院に通院療養して来たが、この間久枝は産後の肥立悪く神経衰弱気味であつたにも拘わらず看病を余儀なくされ、更に時恰も大東亜戦争最も苛烈となり、前記土地附近にあつた筑波海軍航空隊より多量の牛乳の供出を強いられる等久枝としては内外共多事多端であり、然も当時農業労働者を臨時雇い入れるにも自ら湯茶、食物を補給するのでなければ、雇傭には応じなかつた実情にあつた。以上のような事情に因り営農上手不足を来たしたため千尋は已むを得ず昭和十九年一月二十日訴外佐々木孝平に対し前記茨城県西茨城郡宍戸町大字平町字大沢一四七〇番の二五八雑種地八町一反五畝二十三歩のうち別紙図面記載の(123)(55)(125)(124)(123)の各点を順次連結した直線によつてかこまれた部分に相当する地域を小作料は一反歩につき金五円の割合、期間は同年十二月三十一日までと定めて一時賃貸の上小作せしめた。この賃貸借は右のような特別の事情により一時賃貸したにすぎないものであるから、期限の経過とともに終了したわけである。仮に右の賃貸借がいわゆる特別の事情による一時賃貸借ではなく、単に期間を一年とする賃貸借契約にすぎず、従つて法定更新により更に同一条件をもつてこの賃貸借をしたものと看做されるとするも、賃貸人千尋は賃借人佐々木孝平に対し昭和二十年四月中訴外河合三郎と共に佐々木宅において前記農地の返還を求めた。そしてこの更新拒絶の意思表示については次のような正当な事由がある。即ち右賃貸借については賃料前払の特約があつたのであるが、佐々木は昭和二十年度の賃料を支払つていなかつたし、他方千尋は昭和十九年三月末日限り北支那開発株式会社嘱託を離職し、同年六月二日限り華北葉煙草株式会社監事を辞任し、更に昭和二十年三月一日以降は専売局嘱託給の支給を絶たれるようになつた。しかも同年四月頃同人の老毋ためを前記郷里から引き取り看護するようになり、又尋枝の病状も快方に向かい漸く恢復の見込が立つようになり同人の看護に忙殺されて前記農地の耕作の方まで手がまわりきらなかつた久枝も漸次余裕をもつようになつた。以上のような次第であるから、前記更新拒絶当時右農地は千尋において自作するのを必要且つ相当とするに至つたものといわなければならない。故に右更新拒絶の意思表示は有効であり、右契約は昭和二十年十二月三十一日限り消滅したものである。

ところが、佐々木は前記農地を千尋から借り受けると自らは一部を耕作し、その余は他に転貸し、昭和二十七年三月八日に至るも依然千尋に返還しない。従つて当時右の土地の耕作者が何人であろうとその耕作は何等権原にもとずくものではなく、同地は自創法第三条第一項第三号・第五項第四号所定の小作地に該当しない。

(ろ) 仮に前記の地域が小作地に該当するものとしても、同農地の所在する茨城県西茨城郡においては、自創法第三条第一項第三号所定の保有面積は三町四反であるから、原告両名で六町八反の自小作農地を保有し得るわけである。ところで原告等共有の前記雑種地のうちには現況宅地・山林・牧野・池沼竹林・道路敷地等農地でない部分が相当あり、前掲買収計画の樹立せられた昭和二十七年三月八日当時現況農地であつた部分は前記の地域を除けば別紙図面記載のA地・B地・C地・D地・E地(以上合計反別一町四反七畝十二歩でいずれも原告自作地)にすぎず、その面積は六町八反に遙かに及ばない。結局前記買収計画は自創法第三条第一項第三号の適用を誤つた点に違法がある。

(は) 前記買収計画に組み入れられた農地は、同計画書によると面積が一町一反二畝二十八歩となつているが、昭和十九年一月中当時の所有者高木千尋が訴外佐々木孝平に賃貸した農地の面積は一町一反二畝歩である。従つて右計画に組み入れられた農地のうち、二十八歩は原告等の自作地であつてこの部分については前記買収はその要件を欠き違法であるところ、右の区域が買収の対象たる前記農地のいずれの部分に該当するのか不明であるから、前記買収計画は全体として違法たるを免れない。

以上いずれの点からしても、前掲買収計画は違法であるから同計画にもとずく買収処分も違法である。

(三)  右の買収計画については、原告等は昭和二十七年三月十七日前掲宍戸町農業委員会に異議を申し立てたが、同月十九日却下されたので、原告等は同年四月十五日更に訴外茨城県農業委員会に訴願をした。ところが右の訴願も同月二十三日棄却せられ前に記したように同日附買収令書の発行を見るに至つたのである。ところが、右の却下決定並びに棄却の裁決は何等理由を明示することなくされている。即ち右決定書には理由として「あらためて審議の必要を認めない」と記載され、又裁決書にも「調査の結果を勘案して」と記載してあるだけであつて、このように理由を明示せずになした決定並びに裁決はいずれも無効である。前記令書の交付によりなされた買収処分は、結局その先行手続である異議申立に対する決定、訴願に対する裁決を欠き違法たるを免れない。

よつて被告の為した前記買収処分の取消を求める。

二、答弁

(一)  原告等主張の(一)の事実は認める。

(二)  同(二)(い)の事実のうち佐々木孝平が高木千尋から小作料一反歩につき五円の割合で農地を賃借したことは認めるが、佐々木が賃借した農地は買収の対象となつた一町一反二畝二十八歩のうちの一部分にすぎず、残りは更に分割して訴外飛田吉、佐久間実、滝本亀次郎、佐々木松次郎、藤枝佐一が佐々木とともに昭和十九年一月二十日、小作料を佐々木の場合と同様に定めて賃借小作して来たものであつて、右賃貸借についてはいずれも期間の点に関する特約は存しなかつた。仮に原告等主張のような特約があつたとしても、かような特約は小作人に不利な条件であるから、旧農地調整法第九条第四項により無効である。又前記賃貸借契約が原告主張のような事情による一時賃貸借であつたこと、原告よりその主張のような明渡の請求があつたことはいずれも争う。高木千尋及び原告久枝についての原告主張のような個人的事情があつたことは知らない。

同(二)(ろ)の事実のうち、自創法第三条第一項第三号所定の所謂保有面積は西茨城郡にあつては三町四反歩であることは認める。しかし原告久枝と同高木農場とが共同で保有しうる面積は原告の主張するように六町八反とはならない。何となれば原告高木農場については自創法上所謂保有面積というものは存しないのであるから、原告久枝について原告高木農場との共有地として三町四反歩を保有せしめれば足りるわけである。又原告主張の雑種地のうちに農場でない部分もあるが、その面積は昭和二十七年三月八日現在において一町歩を超えるものではない。右雑種地のうち当時農地であつた地域は前記買収農地の外別紙図面記載の(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ)(ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ)(ソ)(ツ)(ネ)(ナ)(ラ)(ム)(ウ)(ヰ)(ノ)(オ)(ク)(ヤ)(マ)(ケ)(フ)(コ)(エ)(テ)(ア)(サ)(キ)(ユ)の各点を経て(イ)点に至る部分に相当する地域(但し同地域を東西に走る幅員一間の作道を除く)並びにT地・U地・D地・E地であつてその合計反別は三町四反を遥かに上廻つている。

同(二)(は)の事実については、原告主張の買収計画に組み入れられた農地の実測面積が一町二反二畝歩であるとの点は否認する。右農地については先に買収処分(買収期日昭和二十三年七月二日)がなされ、分筆手続を経た上更に前記佐々木外五名及び訴外滝本登(亀次郎の息子)を売渡の相手方とする売渡処分(売渡期日昭和二十四年三月二日)が完了し、右七名のために所有権取得登記がなされたところが前記買収処分をなすに方りその対象が買収令書上特定されていなかつたので、右処分は取り消され、更めて宍戸町農地委員会により前記農地を特定し実測した上前記買収計画が樹立されたものである。原告の主張する一町二反二畝の反別は前記七名所有名義の公簿上の地積の合算であり、実測面積と相違する。

(三)  同(三)の事実のうち、原告等主張の決定書並びに裁決書にその主張するような文言が理由として記載されていることは認めるが、その余は否認する。この程度の文言は決定並びに裁決の理由として充分である。

第三証拠方法<省略>

三、理  由

請求原因(一)の事実については当事者間に争がない。そこで訴外茨城県西茨城郡宍戸町農業委員会が昭和二十七年三月八日、茨城県西茨城郡宍戸町大字平町字大沢一四七〇番の二五八雑種地八町一反五畝二十三歩のうち現況農地の別紙記載の(123)(55)(125)(124)(123)の各点を順次連結した直線でかこまれた部分に該当する地域(以下単に本件農地と称する)について樹立した買収計画並びに同計画にもとずき被告が昭和二十七年四月二十三日附買収令書をもつてした買収処分に関し原告等の主張する違法原因について順を逐うて判断する。

一、被告は前記買収計画が樹立された昭和二十七年三月八日当時、本件農地については訴外佐々木孝平外五名が賃借権にもとずき耕作していた旨主張するのに対し、原告等は、佐々木孝平等が何等の権原もなく不法に耕作していた旨抗争するので先ずこの点について勘考する。成立について争のない甲第七号証の一乃至九・同第十二号証の一、四(証人柏崎儀之助の証言記載部分但し一部)同第十四号証の一、三(証人飛田吉の証言記載部分)同号証の四(証人滝本亀次郎の証言記載部分)成立につき争のない乙第三号証の一、二(証人佐久間実の証言記載部分)同号証の三(証人佐々木松次郎の証言記載部分)同第四号証の一、二(被告佐々木孝平の供述記載部分)証人星野豊寿(第一回)同平沢義之の各証言並びに検証の結果を綜合すると、右計画樹立当時本件農地については、佐々木孝平、佐々木松次郎、滝本亀次郎、藤枝佐一、飛田吉、佐久間実の六名が耕作していたことが認められる。そして成立について争のない甲第十号証同第十一号証(原告代理人の陳述記載部分)並びに同第十二号証の一、二(証人河合三郎の証言記載部分)同号証の三(証人高木基作の証言記載部分)同第十三号証の一、二(原告高木久枝の供述記載部分)同第十四号証の一、三、四、成立について争のない乙第三号証の一、二、三・同第四号証の一、二及び証人高木千尋(第一、二回)の証言(以上いずれも後記信用しない部分を除く)を綜合すると、昭和十八年暮頃当時宍戸町東組農事実行組合長の職に在つた佐々木孝平は、高木千尋に対し前記一四七〇番の二五八の雑種地の一部を佐々木孝平外右組合員等に貸与せられ度い旨申し込んだところ、その承諾を得たので佐々木孝平並びに同人のくちききにより同人とともに千尋から賃借小作しようと考えていた前記組合員の佐々木松次郎、滝本亀次郎、藤枝佐一、飛田吉並びに佐久間実は、佐々木孝平がかねて千尋と約しておいた昭和十九年一月二十日現地に到り、(但し滝本亀次郎についてはその息子登が、また飛田吉についてはその妻がそれぞれ代理人として現地に赴いた)千尋立会のもとに繩を張つてそれぞれその賃借すべき区域を画した上、小作料は反当金五円と定め、更に期限を同年十二月三十一日限りと定めて賃借し、佐々木は右六名の同年度の小作料として金六十円を千尋に支払つたこと、そして右六名の賃借地の全体が本件農地とその範囲を一にすることが認められる。前掲証拠のうち右認定と牴触する部分は措信しない。ところで原告等は右の賃貸借は千尋方の内外の事情が事実摘示のような状態に在つたゝめ、同人方の農業経営に手不足を来たした結果、特に期限を定めて締結したのであるから、旧農地調整法(昭和十三年法律第六十七号)第九条第二項但書に所謂特別の事由に因る一時の賃貸借であると主張するのでこの点について審究する。

成立につき争のない甲第一号証・同第九号証の一、二、三・前記甲第十二号証の一、二、三・同第十三号証の一、二真正に成立したものと認められる甲第十八号証の二十五、二十六、二十七・同第二十一号証の一、二、三及び証人忰田徳次、岡田仙松、高木千尋(第二回一部)の各証言並びに原告本人尋問の結果(一部)を綜合すると、千尋は昭和十七年十月五日前記雑種地を訴外忰田徳次から買い受けたが、昭和十八年中その居を郷里群馬県碓氷郡松井田町から右土地に移し(成立につき争のない甲第六号証の記載は右認定の妨げとなるものではない)、同地の前々主高木森之助当時から右雑種地の一部農地の耕作に従事して来たいわゆる常雇の岡田仙松、石井義蔵並びに乳牛の飼育に当つて来た同じく常雇の牧夫を指図して同地を一部農地、一部放牧地等として管理して来たのであるが、この間前記郷里に老齢の両親を残し、又高崎市に弁護士を開業し、更に山林の事業にもたずさわつていた関係上、屡々住居を不在にしていたこと、久枝も昭和十八年春前記雑種地に居住するようになつたが、当時蓄膿症を患らい医師の治療をうけていた三女尋枝に附添つてその看護に当るかたわら前記雇人に対する湯茶、昼夜の接待をし、千尋が不在の間は同人に代わつて雇人を指図したり賃金を支払つたりして農業経営に関与していたこと、当時附近に駐在していた筑波航空隊の長から相当量の牛乳の供出方を督促され、これに応ずるため千尋、久枝は前記牧夫を督励し同人を援けて自らも搾乳等に従事したことがあつたこと、昭和十九年に入るや大東亜戦争は愈々熾烈となり国民の徴用、牛馬の徴発等のため国内農村における労働力が低下した上軍需景気のため、一般に低賃金の農耕特にいわゆる手間取りを希望する者は少なかつたことは明らかであり、前記岡田、石井の両名も昭和十八年末限り千尋方の常雇を止めておりその後は前記牧夫夫婦や千尋方の女中二名等が直接農耕に当り千尋や久枝もこれを援けて一部耕作に従事したことがあることが認められる。(前掲証拠のうち右認定に牴触する部分は信用しない)。しかしながら他方前掲の各証拠並びに弁論の全趣旨を綜合すると、久枝が地主千尋の世帯員として前記雑種地の農業経営に関与するようになつたのは昭和十八年二月二十二日生後間もない三女尋枝が発病し東京や水戸の病院を小康を得て退院した後のことであること、前記尋枝の疾病により千尋の営農に用うべき時間的余裕は或る程度制約を受けたことは事実であるが(該事実は認定の事情から容易に推認できるところである)もともと千尋や久枝が中心となつて自ら耕作に従事して来たわけではなく、主として雇人を使用して管理していたのであり、更に昭和十九年一月二十日当時は千尋の義弟である前記忰田が宍戸町内に居住して居り、同人は従前千尋に代わつて前記常雇の岡田等に賃金の支払などしていたことが認められ、このような事実関係も考慮に入れれば前記病人の出現は本件農地その他若干の農地(昭和十九年本件農地と相前後して前記岡田等に貸与した畑)に対する従前の営農を継続できない程度の障碍となつたものとは到底考えられない。更に前記証拠によれば千尋は専業農家ではなく、前記のように高崎市に弁護士を開業し、又山林の事業にも従事しており乍ら、本件農地を佐々木孝平等に貸し付けた後においても尚田約三反歩畑約二反歩の耕作を継続していたことが肯認でき、これらの事情を比較検討すると、前掲の各事実は旧農地調整法第九条第二項但書の規定する特別の事由には該当するものとは考えられない。そうすると、仮に前記賃貸借に附帯して期限後は無条件で返地するとの特約があつたとしても、その特約は同法第九条第四項によりその効力を発生するに由ないものであるから、結局右は単に期間を昭和十九年十二月末日までとする賃貸借契約を締結したものと認めるの外はない。そうするとこの賃貸借は右期間の満了と同時に法定更新され、爾後期限の定めがない賃貸借となるから、千尋はその後同法第九条第一項に定める正当な事由の存する限り解約の申入れをすることができる筋合である。ところで前記甲第十二号証の一、二、三・同第十三号証の一、二並びに証人高木千尋(第一、二回)の証言によると、右の賃貸借については千尋は翌二十年四、五月頃訴外河合三郎を介し更に同年六月頃訴外深谷惣太郎を介しいずれも佐々木孝平に対し本件土地の返還方請求をなしたことが認められ、右は賃貸借解約の申入れをしたものとみることができる。そこで進んで当時解約の申入をするについて正当な事由が存したかどうかについて考えるに、前顕証拠並びに弁論の全趣旨を綜合すると、千尋は当時も依然弁護士を開業しており、山林の事業にも関係し且つ前記田畑合計五反歩の管理を継続しており本件農地を自作しなくとも生活に困ることはないのに反し、本件農地の小作人はいずれも専業農家であつて、同地を返還するとなるとその生計に及ぼす影響は少なくないこと、千尋が本件農地の返還を受けたとしても、自ら耕作し得る稼働力は同人の世帯にはなく、しかも当時の農村における手不足は昭和十八、九年に比し更に深刻となつている関係上、本件農地の農業生産力の維持増進は到底期待できないこと等が認められるから、前記解約は正当性を欠如するものという外はない。従て前記の各解約の申入れはいずれもその効力を発生するに由なく、右賃貸借は前掲買収計画の樹立された昭和二十七年三月八日当時依然存続し、前記佐々木孝平外五名は賃借権にもとずき耕作していたものといわなければならない。

以上認定した通り、本件農地は自創法第三条第一項第三号・第五項第四号に所謂小作地に該当するが故に前記買収計画にはこの点に関し原告等の主張するような違法は存しない。

二、本件農地に対する原告久枝の持分については自創法第三条第一項第三号を原告会社の持分については同条第五項第四号をそれぞれ適用して前掲買収計画が樹立せられたことは当事者間に争がなく、右買収の結果原告両名に残された農地が原告等共有に係る前記雑種地の一部であることは被告の自陳するところである。そして右雑種地の所在する茨城県西茨城郡における同法第三条第一項第三号所定の所謂保有面積が三町四反であることは当事者間に争がないのであるから、原告両名に対し少くとも合計三町四反以上の農地を確保するのでなければ前記買収計画は違法として取消を免れないことは論ずるまでもない。そこで前記計画樹立当時右雑種地には三町四反の農地が存在していたかどうかについて審究することとする。

別紙図面記載のA地・B地・C地・D地・E地が昭和二十七年三月八日当時農地であつたという点については当事者間に争がなく、鑑定人菊地英雄の鑑定の結果によると、右農地面積は合計一町四反七畝十二歩であることが認められる。前記雑種地のうち右の各地域を除く別紙図面記載のO、N、M、K、L、T、U、J、I、G、F、H、Q、R、S、Pの各地域その他についても被告は当時農地であつたと主張するのに対し、原告等は農地ではなかつたと反駁するのでこれらの地域について順を逐うて判断する。

(一)  O地について

(い)  同地の西側約半分の地域については、証人佐々木孝平(第二回)滝田新之助(一部)高木千尋(一部)の各証言及び検証の結果を綜合すると、同地はもと牧場として使用されていたところ、昭和二十一年頃より滝田清造が起耕の上畑として使用していたが、昭和二十五年度の作物収穫後は耕作を放棄しその後一時耕作されずに放置されたので多少荒れたが昭和二十六年秋原告会社において畑として再び使用するに至り原告会社の使用人富田安之介が起耕の上らつきようを播き付け、翌二十七年夏収穫したが、その際とり残された地下茎から新芽が萠え出て昭和二十八年三月に立ち至つたことが認められるから、昭和二十七年三月八日当時は畑であつたものとみるべきである。証人富田安之介(第二回)滝田新之助、高木千尋(第一、二回)の各証言並びに原告本人の供述のうち右認定に牴触する部分は信用しない。

(ろ)  同地の東側約半分の地域は、証人滝田新之助(一部)佐々木孝平(第二回一部)富田安之介(第二回一部)の各証言及び検証の結果を綜合すると、滝田新之助が曾てその一部を白石某から賃借の上昭和二十三年頃迄その一部を畑として管理していたが、滝田が同地を手離した後は一時荒れていたところ、富田安之介が昭和二十七年三月八日頃迄の間にその大部分を起耕し菜種の苗を植え付けて肥培管理して来たことが認められる。前記証人及び証人高木千尋(第二回)の証言並びに原告本人の供述のうち右認定に牴触する部分は信用しない。そうすると、昭和二十七年三月八日当時前記地域は大部分農地であつたものと認められる。

(二)  N地について

同地が昭和二十七年三月八日当時農地であつたという点については、この点に関する証人佐々木孝平の証言(第二回)は後掲証拠に比照し信用できないし、その他右の事実を認めるに足る資料は存在しない。却つて証人富田安之介(第二回)高木千尋(第一、二回)佐々木孝平(第二回一部)の各証言及び原告本人供述並びに検証の結果を綜合すると、同地はもと千尋方において飼育していた牛の放牧地等に使用され、その後一時白石某が起耕の上畑として使用していたこともあつたが、昭和二十七年三月頃は既に白石は同地の管理から手を引いて他に去り、同地は荒廃に委ねられ雑草等が密生していたこと、富田安之介が同地を起耕したのは昭和二十七年五、六月以降であつたことが認められる。証人佐々木孝平の証言(第二回)のうち右認定に牴触する部分は信用しない。そうすると、昭和二十七年三月中は同地は農地ではなかつたものと考えられる。

(三)  M地について

証人佐々木孝平、富田安之介(以上いずれも第二回)高木千尋(第一、二回)の各証言並びに検証の結果を綜合すると、同地には現在三十数本の桐樹が生立しているが、これは千尋が約十年前に桐苗を栽培しその後も若干補植したものであつて、この桐の栽培については特に施肥の上管理して来たということはなく、植えたまゝ放置して来たこと、桐樹の間隔が相当広く(全体として桐畑とは称し得ない状態に在つた)昭和二十七年三月当時樹間には茅が密生し荒廃していたこと等が認められる。従つて当時は農地ではなかつたものと考えられる。

(四)  K地について

証人佐々木孝平(第二回)富田安之介(第一、二回一部)の各証言及び検証の結果を綜合すると、同地の北側の地域はもと草原となつていたところ富田安之介が昭和二十六年秋起耕した上、小麦を播種し、翌二十七年春小麦収穫後陸稲を植え付けたことが認められる(前記富田証人の証言及び証人高木千尋(第一、二回)の証言並びに原告本人の供述のうち右認定に牴触する部分は信用しない)から、昭和二十七年三月八日当時畑であつたものと認められる。又同地の南側のその余の地域は、証人富田安之介(第二回)佐々木孝平(第二回)高木千尋(第一回一部)並びに検証の結果を綜合すると、約三年前に千尋が昭和二十七年三、四月中富田安之介がそれぞれぶどうの苗木を栽培し支柱をたて除草等をなし、施肥の上管理し昭和二十七年三月八日当時はその樹間に小麦が植え付けてあつたことが認められる(証人高木千尋(第一、二回)の証言並びに原告本人の供述のうち右認定に牴触する部分は信用しない。)そうすると当時同地は農地であつたものと認められる。

(五)  L地並びにその南接地域について

(い)  L地については、そのうち現在栗苗(大きい方)が栽培してある十数歩の地域が昭和二十六年中に起耕され、当時栗の苗圃として使用されていたことは証人富田安之介の証言(第二回)により認められるが、しかしその余の地域が昭和二十七年三月中農地であつたという点についてはこれを肯認するに足る何等の資料も存しない。却つて証人富田安之介(第二回)の証言、検証の結果並びに本件弁論の全趣旨を綜合すると、同地はもともとその南接地域と同様原野状を呈して居り、柿樹がまばらに散在していた程度であつて未だ果樹園と称する程度にはなつていなかつたものと認められる。

(ろ)  L地の南接地域は検証の結果によれば現在茅の密生する原野であるが、同地が曽て開墾の上農地として肥培管理されたという点については何等の認定資料も存しないばかりでなく、却つて検証の結果、本件弁論の全趣旨を綜合すると当時も現状と同様の状態を呈していたものと認められる。

結局本項の土地については十数歩は昭和二十七年三月八日当時農地であつたが、その余の地域は農地ではなかつたものと考えられる。

(六)  T地について

同地が昭和二十七年三月八日当時農地であつたという点については、これを認めるに足る資料は存しない。却つて証人富田安之介、佐々木孝平(いずれも第二回一部)高木千尋(第一、二回)の各証言、原告本人の供述並びに検証の結果を綜合すると、同地は戦時中宍戸町所在国民学校の児童により当時廃田となつていたものを整地の上稲を植え付け田として管理されていたこともあつたが、千尋方においては一度も稲の植付をしたことがなく、昭和二十五年六月頃同地を囲む畦畔を利用して貯水の上、養鯉池として使用し、その後貯水の儘現在に至り現にその池底の泥は厚さ四、五尺位の層を成していることが認められる。(前記佐々木証人の証言中右認定に反する部分は措信しない。)そうすると、昭和二十七年三月八日当時同地は放水の上整地すれば直ちに稲の植付ができるという状態にはなかつたものと考えられるから休耕地と見ることはできない。

(七)  U地について

T地同様、もともと水田であつて、戦時中宍戸町所在の国民学校の児童により稲の植付がなされたことがあつたが、その後は前掲買収計画が樹立されるまで一度も稲を植え付けたことなく、昭和二十五年六月頃周囲の畦畔を残置した儘貯水し、養鯉池として使用してきたところ、昭和二十七年春(前掲買収計画樹立以後)富田安之介が放水の上整地し稲を植え付けたことは証人佐々木孝平富田安之介(いずれも第二回)高木千尋(第一回)の各証言(以上いずれも一部)並びに検証の結果を綜合して認められるところである。(証人佐々木孝平、富田安之介(いずれも第二回)高木千尋(第一回)の各証言中右認定に牴触する部分は信用しない。)右の事実に徴すれば、昭和二十七年三月八日当時同地は農地ではなかつたものと考える。

(八)  J地について

証人佐々木孝平(第二回一部)星野豊寿(第二回)高木千尋(一部)の各証言並びに検証の結果を綜合すると、同地はもと草原であつたが、千尋が約十年前その全面に亘つて柿苗を植え柿畑とする目的で管理してきたところ、昭和二十七年三月八日迄に富田安之介がその樹間を起耕しその後西側の部分に杉・檜の苗を栽培したことが認められ、(右認定に牴触する前記佐々木高木両証人及び証人富田安之介(第二回)の各証言は信用しない)この事実からみて昭和二十七年三月八日当時、同地は農地であつたものと考えるのが相当である。たゞ同地の東北隅の約二十八歩の地域については昭和二十七年三月八日当時農地であつたという点については何等の立証もなく、却つて検証の結果並びに本件弁論の全趣旨を綜合すると、同地域は現在雑草・小笹等の密生する原野状を呈しているが、当時も現在と同様の状態に在つたものと認められるから農地ではなかつたものと考えられる。

(九)  I地について

証人佐々木孝平(第二回一部)富田安之介(第一回)高木千尋(第一回)の各証言並びに検証の結果を綜合すると、同地には現在東西十五列に至り整然と栗の樹が生立しているが、これは原告高木農場において一部は昭和二十四年頃、他の一部は昭和二十六年中いずれも栗畑として仕立てる目的で植えたものであること。同地は曽て宍戸町所在の国民学校の児童により起耕の上麦を作付けし肥培管理されて来た関係もあり、前記栗苗の栽培には特に樹間を耕したり施肥したりして、その育成のためにさして労資を投入する必要はなかつたため、千尋方において特に施肥するようなことはなかつたが、昭和二十七年六月頃富田安之介が栗の樹間を起耕し、北西隅の一角には陸稲を、又南側の地域には檜苗をそれぞれ栽培したことが認められる。(前記佐々木証人の証言中右認定に牴触する部分は信用しない)右の事実を綜合すると、昭和二十七年三月八日当時同地は畑であつたものと判断する。

(一〇)  G地について

証人佐々木孝平(第一回)星野豊寿(第二回)の各証言並びに検証の結果を綜合すると、同地は数年前から千尋方において肥培の上畑として使用して来たが、時に手不足等の事情から管理がゆきとゞかず雑草など繁茂したこともあつたけれども、昭和二十七年三月八日当時は小麦が作付され畑として管理されていたことが認められる。右の認定に牴触する証人富田安之介(第一回)高木千尋(第一回)の各証言は信用しない。

(一一)  F地について

証人富田安之介(第一、二回いずれも一部)佐々木孝平(第一、二回いずれも一部)高木千尋(第一回一部)の各証言並びに検証の結果を綜合すると、高木千尋は曽て同地をその西側並びに北側に隣接する地域とともに国に貸与し、国は前記西側の地域に鉄道職員住宅を建設しその職員に使用させて来たところ、同職員は北側の地域並びにF地を起耕の上、前者には草花を、後者には蔬菜を栽培していたが、同職員が右耕作を放棄してから相当の年月を経過したゝめ、北側の地域は現在畑の原形既になく、かすかに畝の跡と思われる起伏が認められるにすぎなく、一面雑草が繁茂し原野状を呈していたこと、従つてF地を昭和二十七年四月頃富田安之介の息子が起耕する迄は前記北側の地域と同様原野であつたことが認められる。従つて昭和二十七年三月八日当時F地は休耕地といいうる程度のものでなかつたことは明白である。前記証人の各証言中右認定に牴触する部分は信用しない。

(一二)  H地について

証人佐々木孝平、星野豊寿(いずれも第二回)の各証言によると、同地は従来畑として使用されて来たのであつて、富田安之介は昭和二十六年秋麦を播き付け、翌二十七年春これを収穫しそのあとに甘藷を栽培したことが認められる。証人富田安之介(第二回)高木千尋(第一回)の各証言中右認定に牴触する部分は信用しない。そうすると、昭和二十七年三月八日当時同地は農地であつたと判断する。

(一三)  Q地について

証人佐々木孝平(第二回)高木千尋(第一回一部)の各証言並びに検証の結果を綜合すると、同地は曽て訴外滝田新之助が千尋から借り受けて耕作して来たが、返還後千尋は四、五年前に同地の全面に亘り南北に五列に亘り整然と三、四年生の栗の苗木を植え、爾来栗畑として管理して来たものであることが認められる。証人高木千尋、富田安之介の証言中右認定に牴触する部分は信用しない。そうすると昭和二十七年三月八日当時、同地は農地であつたものと考えられる。

(一四)  P地及びR地について

証人富田安之介、星野豊寿(いずれも第二回)高木千尋(第一、二回一部)佐々木孝平(第二回一部)の各証言及び原告本人尋問の結果並びに検証の結果を綜合すると、右両地域はいずれももと草原であつたが、本件農地の近在の寮に寄宿する鉄道職員が昭和二十年十月頃当時終戦直後の食糧事情が異常に緊迫していた析柄これをきりぬけるために千尋から一時的に前記両地域を借り受け甘藷を栽培していたが、甘藷は地味の肥沃な土地をきらうというので、毎年新たな草原を求めて開畑の上、植え付けていた関係上その耕作地域が毎年異なつていたこと、昭和二十四年鉄道職員が返地した後は昭和二十六年十一月千尋方において同地(但しP地及び後掲の一部を除く)の開田に着手するまでの間荒廃に委ねられていたこと、開田が完了したのは翌二十七年五月頃であることP地及びR地の中央附近の矩形状の地域は前記開田作業の際これらの地域に土壤を堆積したゝめ台地状を呈し、P地には昭和二十七年杉苗が、翌二十八年檜苗がそれぞれ植栽せられ、又右中央附近の地域はその儘放置せられ、現に雑草が繁茂していることが認められる(証人高木千尋(第一、二回)佐々木孝平(第二回)の各証言、原告本人尋問の結果のうち右認定に牴触する部分は信用しない)。従つて前記両地域は昭和二十七年三月八日当時農地ではなかつたものと考えられる。

(一五)  S地について

証人星野豊寿(第二回)高木千尋(第一回)の各証言並びに検証の結果を綜合すると、千尋は同地をR地同様昭和二十年以降二十四年までの間、鉄道職員に畑として使用させたことがあつたが、返地を受けた後昭和二十六年甘藷を収穫しその秋に同地を松林に仕立てる目的で松を植林し現在小松が整然と育生していることが認められる。そうすると、同地は昭和二十七年三月八日当時は農地でなかつたものと考えられる。

以上昭和二十七年三月八日当時農地となつていたものと判断した地域の面積について検討するに、検証及び鑑定人菊地英雄の鑑定の結果を綜合すると、O地は約一反歩弱、K地は約一反歩、L地のうち農地であつた部分は約十五歩、J地は約二反六畝歩、I地は約三反歩、G地は約一反六畝歩、H地は約二反五畝歩、Q地は約一反四畝歩であることが認められるから、前掲当事者間に争のない農地一町四反七畝十二歩を併わせても、合計二町八反歩に満たないわけである。そしてM地及びL地に南接する地域並びにF地に北接及び東接する地域については、いずれも昭和二十七年三月八日当時農地であつたことを肯認するに足りる資料は見出し得ない。してみれば昭和二十七年三月八日当時前記買収地を除き他に原告等の所有する農地は三町四反にみたないわけであるから、前記買収計画は自創法第三条第一項第三号の規定により原告等が保有し得べき範囲の土地を削減してまで買収に組み入れたものであり、違法の買収計画であるといわねばならない。

なお本件買収計画が樹立された昭和二十七年三月八日当時施行されていた「自作農創設特別措置法及び農地調整法の適用を受けるべき土地の譲渡に関する政令」第一条・第二条によれば、昭和二十五年七月三十日までに自創法第三条第一項各号若しくは第五項各号に該当していた農地は引き続き買収をなし得るけれども、同月三十一日以後新たに右法条に該当するに至つた農地については、これらの規定による買収は行わず、自創法第三条第一項第一、二号に該当するに至つた農地についていわゆる強制譲渡の手続を行うことになつているのである。本件においてこれをみるに、前記認定事実によれば、昭和二十五年七月三十日現在においては、原告等の所有農地が前認定の面積二町八反弱より更に少なかつたものであることは明らかであり、結局本件土地については自創法による買収は昭和二十五年七月三十一日以後これを行い得ないことになつたものといわねばならない。それ故宍戸町農業委員会が昭和二十七年三月八日本件農地につき樹立した買収計画は自創法による買収を行い得る前提要件を欠くものであり、いずれにしても右計画は違法であり、右買収計画に基いてなされた本件買収処分もまた違法であるといわねばならない。従つてこれが取消を求める原告の本訴請求は爾余の争点につき判断するまでもなく、これを正当として認容すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 多田貞治 中久喜俊世 石橋政男)

(図面省略)

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