水戸地方裁判所 昭和38年(わ)103号 判決 1963年7月15日
被告人 桜井正行
昭一五・一一・一七生 ジユース配達員
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実の要旨は、
被告人は、
第一、昭和三十八年四月二十七日午前一時頃水戸市向井町一区一七五二番地喫茶店「ノツクターン」前路上において、三浦鉄雄より呼びとめられ手拳で暴行された事に憤慨し所携の飛出しナイフで同人の胸部その他を突刺し、因つて同人に対し加療一ヶ月を要する右胸部刺創等を負わしめ
第二、法定の除外事由がないのに前記日時、場所において刃渡約七糎の飛出しナイフ一挺を所持していた
ものである。
と謂うに在る。
そこで厳密審理を遂げたのであるが、「被告人は要するに身代り犯人ではないかとの疑いが強度にあり、結局証拠不十分に帰着した。」
よつて次にその理由を摘示すると、
(一) 先づ被害者である艶歌師三浦鉄雄は受傷した当日志村病院において、同病院長志村弘道立会の際、司法警察員青木勝男に対し、犯人につき「あくつ、いゝちやんにやられた畜生畜生」と言つていたことが三浦鉄雄の昭和三八年四月二七日付司法警察員に対する供述調書及び証人志村弘道の当公廷における証言によつて明らかであり、更にこのことは、司法巡査米川康昭作成の捜査報告書並に司法警察員青木利男外二巡査作成の捜査報告書(A)によつて尚明らかである。しかして被告人に右「あくつ、いゝちやん等の別名のないことも明らかである(第一回公判における被告人の供述等。)しかるにその後五月二七日に右三浦鉄雄が退院した後に録取された同人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並に同人の当公廷における証言では奇怪にも同人は誰にやられたのか、又何時何処でどんな風にやられたのか全然判らないばかりでなく、受傷場所にも居たのかどうかも覚えがなく、更に犯人の名はあくつである等と言つた記憶もなく、何故これを言つたかそれについての心当りも全くないと変更され、従つて被告人にやられたとの記憶も全然ないと明言して居るので、被告人が本件犯人であるとする証拠は被害者からは何も出て来ないことになつた。しかし、被害者が瀕死の重傷を負つて入院した際に述べた犯人の名前をもつて全然出鱈目な言葉であつたと排斥することができないばかりでなく、人が将に死に臨まんとするが如き際にかような重大な発言をする場合には、概ね真実のことを言うものであることは我々の経験法則の教えるところである。従つてこのことは、それにも拘らず、全くその「あくつ」ではない被告人が本件の犯人であるとするためには、相当しつかりした証拠がなければならないことを明示するのである。
(二) 然るに、被告人は自分から前記三浦鉄雄の親分に当る松葉会の親分臼井武士なる者の家に犯人として名乗り出たと謂うことに、検察官提出の証拠では一応なつているが、その内容を仔細に検討すると一つとして疑わしく思われないものはないのである。
(イ) 先づ検察官が最初証拠として請求したものの中には、被告人が被害者三浦鉄雄と格闘したとか、これを突き刺したとかの事実を直接目撃した証人は一人もなかつたのに拘らず、第二回公判に至つて突如として、弁護人からその目撃証人があるとして在廷証人として、柿沼仁なる者を申請したのであるが、検察官も忽ちこれに追随して証人として申請した、よつてこれを直ちに取調べたのであるが、同証人の証言を要約すると、現場から三十メートル位離れた所の三笠会館まで行かないうちのところで中原と謂う者と話していたとき、三浦と被告人とがかち合つているのを見たので、三浦の傍に行つたところ三浦は倒れて居り、その近くにいた被告人がおれがやつたと言つているのを聞いたので、三浦を刺した者は被告人だと分つたと言うことになるのであるが、前掲司法警察員青木利男外二巡査作成の捜査報告書(A)にも、又被害者三浦を前記喫茶店「ノツクターン」まで連れて行つたと謂う寺門光雄の司法警察員に対する供述調書及び同人の車の運転手で当夜同人を車に乗せて行つたと謂う根本勝利の司法警察員に対する供述調書によれば、右柿沼仁なる者は寺門が三浦と根本をつれて「ノツクターン」に入つたとき、前記中原と一緒にいた者であり、三浦が刺された頃その近くにいた者であることが記載されて居るのである。そして右寺門と根本は共に三浦が刺された直後同人の所に行つた者ではあるが、両名共誰が刺したのか全然判らないと述べて居る旨も記載されているのであるから、本当に右柿沼仁が被告人の本件犯行を目撃していた者であるならば、少くとも被告人が警察に出頭した当時警察において右柿沼を有力な参考人として取調べていた筈であるのに、その後捜査官において全然取調べたことがないのはどうした訳なのであろうか。そればかりでなく、右柿沼は被害者三浦を志村病院に入院させる際に車に乗せて同道し、暫らく同病院に居たことを証言し乍ら、「同病院で前記の如く三浦が「あくつ」にやられた旨を言つたのを聞いたことはなく、却つて、三浦は先生よろしくお願いしますと言い、誰と喧嘩したとは言つていなかつたが、あの野郎と言つていたので、それは被告人のことではないかと思つた」旨を証言している。これはどう考えて見てもにわかに信用のできない供述であつて、却つて無理に犯人を被告人にしようとするのではないかとさえ強く疑わしめるものである。
(ロ) 被告人の司法警察員に対する供述調書には、本件傷害発生の当夜、道路を歩きながら自首しようと考えているときに、自分が止宿しジユースの販売をやらせてくれている中原靖二に呼び止められ、同人から「お前大変な事した、泉屋の若衆を刺してしまつた」と言われ、そこで同人と共に名乗つて出た旨が記載されているのであるから、当然右中原は被告人が犯人であることを直接か若くは間接にでも知つていた者であることは警察で判つていた筈である。然るに検察官からは右中原の供述調書の申請は全然なかつたので、職権で同人を証人として取調べたところ、果して同人は本件について全然捜査官から取調べを受けたことがないことが分つたのであるが、同人の証言するところによると同人は「事件発生の頃現場から四十メートル位離れた三笠会館の前あたりまで、前記寺門の車に乗り、寺門と共に後部座席にかけ、前記柿沼もその運転手席の隣に乗車していたところ、現場の方で騒ぎが聞えたのでふりかえつて見ると「ノツクターン」の前で二人がもみ合つているのが見え、その一人は後姿が被告人のように見えたが、相手の三浦に対して下からもぐつてやつていた様であり、三浦は一緒に手を動かしていたように見えた。そして現場に行つて見ると、三浦は大したことはないと言つて居り、前記の寺門が自分に行こうといつた時に背からずりこけて倒れた、血が出ているのも見えた」旨を証言し、自分が直接被告人の犯行を目撃した旨を述べたのであるが、前記の如く寺門は被告人が本件犯行を行なうところは全然目撃していなかつたと述べているのに拘らず、寺門も同様目撃した筈であると証言している。若しこれが本当ならば寺門の警察における供述は嘘である筈であるが、寺門の車の運転手で当夜一緒にいた前記根本の警察における供述でも、「現場に寺門も根本も行つたが犯人は誰であるか判らない」旨を述べて居り、而して両名共被告人が犯人であることを知り乍らこれをかくしていたと思われる節は全くなく、寺門の如きは三浦は気の毒だから何とか犯人を挙げて欲しい旨を述べている。更に又右中原は「志村病院に、三浦を寺門の車に乗せて、寺門、柿沼、根本と一緒に行つたが、その病院で三浦は口をきかず、従つて犯人は「あくつ」だと言つたことはなく、却つて寺門は「やつたのはわかつている」と言つて興奮して騒いていたので、同人に犯人が被告人である旨を言つてやらなかつた」等とも証言しているが、これ亦柿沼証言と同様信用のできない供述であることは前記の如き理由からして明らかである。次に、被告人の警察における調書によれば、中原と橋本につれられて警察に自首したと記載されているが、中原は自分は警察には同道しなかつた旨を証言して居つて、その点食違つているのも不可解なことである。更に又、中原の証言する如く、前記柿沼が寺門の車の助手席に居たとき事件が発生し、これを車内から見たとするならば、柿沼は寺門や中原に遮え切られて現場はよく見られなかつたのではないか。然るに、柿沼は、前記の如く現場から少し離れたところで中原と話しているときに目撃した旨を証言し、車内から見たとも、中原と一緒に寺門の車に乗つていたとも述べていない。これ亦柿沼証言の信用し難い大きな理由の一つである。従つて、本件の証拠として公判になつてから始めて現われた目撃証人は二名であり、他には目撃証人となるべき者は見当らないのであるが、本件の全証拠に照らして見て、本件の刃傷沙汰は所謂やくざ同志の事件であり、右二名の目撃証人だと称する者もそれ等の仲間に属することは十分窺い知れるところであり、彼等の仲間で往々に行なわれる身代り事件と同様、本件も亦それと同じ種類に属するものであると疑うべき余地が濃厚にあるので、右二名の証言を信用することは頗る危険であると謂わざるを得ない。勿論このことは、たとえ被告人が警察以来終始自分が本件の犯人であると自白していても同様である。
(ハ) 「検察官が本件犯行に使用した兇器として提出している飛出ナイフについては、職権で被害者三浦の診察治療をした志村病院長医師志村弘道を証人として取調べたところ、推測で一番深い傷でその切口が二、三糎でその深さは六、七糎であると言い、本件飛出ナイフの巾は一・八糎で長さは七・三糎であるから一応このナイフは被害者の傷口と見合うが如き証言ではあるが、不可解なことには、昭和三八年四月二七日付司法巡査米川康昭作成の捜査報告書には「志村院長に傷の程度をたずねるにみずおとしのところは巾一センチメートル深さ約十五センチメートル位だというので水戸警察署刑事課に連絡した」旨が記載されて居り、更に司法警察員青木利男外二巡査作成の捜査報告書(A)にもこれと同様のことが記載されて居つて、これ亦食違つている。よつてこの証言も信用はでき難い。」更に公判の途中で検察官が右ナイフの血痕附着等を茨城県警察技師に鑑定せしめたところ、ルミノール反応はあつたが人血の証明は得られなかつたので、検察官提出の本件飛出しナイフが本件犯行に使用された兇器であるとの証拠については、物的証拠は何もなく、被告人の自白と、前記中原が被告人に自首をすすめた際、このナイフを被告人が持つているのを見、被告人からこれでやつた旨を聞き、尚血がついていたのでこれを拭き取つた旨を証言していることが主なものとなるのであるが、中原の証言をたやすく信用することが頗る危険であることは前記のとおりであるから犯行に使用された兇器と被告人との結び付きを立証すべきものも結局は被告人の自白に過ぎないこととなる訳である。「而も本件捜査の当初から被害者の受けた傷の深さが約十五糎で巾も一糎位であることが医師の口から判つていたのに何故これと見合わぬこと明らかな本件飛出しナイフをもつて本件兇器と断定して起訴したのかその間の事情は全く不注意によるものとしか評する言葉はない。
(ニ) 然るに、被告人は、警察から公判を通じて本件犯人は自分であると主張している。そこでその供述の経過を検討して見ると、犯行の当夜の行動、犯行の原因及び方法、犯行後の情況等については大体変りない供述をしているが、証拠上重要な点の一つである本件飛出ナイフの入手経路については、前後の供述に重大な食違いを生じ、到底信用ができない。即ち、警察では、その入手経路については全然調書に記載がなく、検察庁の調書で初めて「昨年(昭和三七年)十一月頃から買つて今日迄ずつと持つていた」旨の供述が録取されて居る。ところが第一回公判において被告人は「本件飛出しナイフは浅草にいた頃に女から貰つたものである」旨を供述して置き乍ら、第四回公判では、「去年の十二月頃浅草山谷のおでんの屋台店に客が忘れて行つたものを自分が預かつていたものであり、そのおでん屋の主人の吉田と言う女の所に居たこともあつたがその女は今何処に行つたか分らない」旨を供述して、こんどは他人の遺失物を横領したるが如きことを述べるに至り、而かも何故事実に反して検察官に対しては買つたと述べたかについてはそう述べなければ調書にならぬと言われたからだと全く窮余の遁辞に過ぎないことを述べて陳弁して居り、被告人のこの点に関する供述の信用することができないことは洵に明らかである。もつとも、前記中原は本件犯行前にもこのナイフを被告人が持つているのを見たことがある旨を証言しているが、これ亦前記と同一理由で信用はできない。更に、昭和三八年四月二七日付捜査報告書(C)によれば、被告人は被害者三浦の親分のところに名乗つて行つたとき、本件飛出しナイフをそこに置き忘れて行つたことになつているが、苟くもそれから水戸警察署に自首しようとする被告人が、大切な証拠物件である本件犯行に使つたナイフを他人の家に置き忘れて行くとは簡単に信用できるものであろうか。従つて被告人が本件飛出しナイフを所持していたとの公訴事実についても、証拠は同様不十分であることとなる。
(三) 要するに本件証拠中被告人の自白のうち、これを信用できるかどうかを決するために最も重要な点である本件犯行に使用したと主張される兇器の入手経路について、大事な点で前後に食違いを犯して居ることが明らかな以上、これだけをもつてしても被告人の供述を全般的にもたやすく信用することの極めて危険であることが判るし、その他被告人の自白の裏付けとなる各証拠も総てにわかに措信できないものであり、特に被害者が瀕死の重傷を負つて入院した際にその病院長や司法警察員等に言つた犯人の名前が明らかに被告人の名前と違う点をどうしても打ち消し去ることができない以上、被害者、被告人及び関係人の経歴、業態生活状況等からして、所謂やくざ仲間の殺傷事件には多くの場合に行なわれると言つてもよい身代り犯人の場合が即ち本件ではないかとの疑問がどこまでも強く残るのである。而も、被告人の雇主小林洋一が被告人のために被害者に対し入院費等として十二万円を支払い、尚一万七千円を払うことになつていることは、同人の証言及び領収書によつて明らかであるが、まだ本年の三月のに雇入れたばかりで他に特別の関係もない被告人についての弁償としては余り巨額ではなかろうか。これも右疑問を有力付ける一つの根拠である。
よつて被告人に対しては結局犯罪の証明がないことに帰着するので、刑事訴訟法第三三六条に則り主文のとおり無罪の言渡をする。
(裁判官 田上輝彦)