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津地方裁判所 昭和36年(わ)96号 判決 1964年12月23日

被告人 奥西勝

大一五・一・一四生 農業

主文

被告人は無罪。

理由

(略語について)

(この判決書において、司は司法警察員又は司法巡査に対する供述調書、検は検察官に対する供述調書、裁は当公判廷における供述もしくは当裁判所施行の証人尋問調書、36・4・11司は、昭和三六年四月一一日付司法警察員もしくは司法巡査に対する供述調書、36・4・7検は、昭和三六年四月七日付検察官に対する供述調書をそれぞれ意味し、特に日の記載のない時刻は昭和三六年三月二八日午後の時刻である)。

本件公訴事実の要旨は

被告人は昭和二二年一月妻チヱ子(大正15・5・13生)と恋愛結婚をして一男一女をもうけ、名張市葛尾一七一番地の自宅で農業のかたわら日稼に従事しているものであるが、同三四年八月頃から当時夫に死別して後家になつた、同所一五五番地農業北浦ヤス子(大正14・3・18生)と情交関係を結び、以来同所観音寺下の竹藪等を逢引の場所として関係を続け、その間衣類等を買い与えたことも二、三回あるが、この事が漸次部落の噂にのぼり、同三五年一〇月二〇日頃の夜、右竹藪で逢引の直後附近道路を二人で歩いているところを妻チヱ子に見付けられて同女の不信をつのらせ、以来夫婦仲円満を欠き事々に喧嘩して家庭に風波が絶えず、殊に同三六年二月初頃からはそれが一層険悪化して、被告人の命じる着衣の洗濯その他の用さえ素直にはしないぐらい冷淡薄情な反抗的態度に出られ、一方ヤス子もチヱ子から散々責められる上に部落の人達からも手厳しく非難されはじめたために、被告人との関係に嫌気がさし、次第に被告人から離れようとする態度を見せはじめたので二月二〇日頃の夜最後に逢引したときには、これ限り関係を絶ちたいと言い出す始末となつたので、妻の仕打ちに対する憤慨とヤス子の心変りに対する恨みから心を腐らせてやけくその気分になり、いつそのことチヱ子、ヤス子の二人を殺して右三角関係を一挙に清算してすつきりした気持になろうと考えるようになつた。そして右二人を殺しても自分の犯行とわからないようにする方法や場所等につきあれこれと考えているうち、たまたま同年三月二六日になつてかねて居部落葛尾の一八戸と隣接の奈良県山辺郡山添村の七戸合計二五戸から一戸毎に一人又は二人ずつ出て男子一二人女子二四人合計三六人の会員をもつて組織している生活改善クラブ「三奈の会」の年次総会が同月二八日の夜同市葛尾七六番地にある同市薦原地区公民館葛尾分館で開催されることを知り、右「三奈の会」にはかねて被告人、チヱ子、ヤス子の三人共に会員となつている外この総会では、二、三年前から慣例としてそのあと引続いて懇親会が催されて一同酒食を共にし、女子会員達にも男子側の酒とは別にぶどう酒が出されることになつて居り、仮にそれが出されないでもその代用として砂糖入りの燗酒が出されるものと予想されたのでこの懇親会の機会を利用し、その婦人専用の酒に有機燐製剤の農薬「ニツカリン・T」を入れて飲ませる方法を思いつき、この方法によれば女子会員中特に酒好きなチヱ子、ヤス子の二人をまちがいなく殺せるが二人の外出席の女子会員多数を殺す結果となつても犯跡隠蔽のためにはこの方法より外ないと考えるようになつた。そこで同月二七日夜自宅で女竹一本を適当に切つて竹筒一個を作り、これに同三五年八月九日頃同市新町の黒田薬品商会から買受けて所持していた一〇〇cc瓶入の農薬「ニツカリン・T」のうちから相当量をうつし入れてその用意をととのえた。そして総会当日の三月二八日には午後五時二〇分頃右準備した「ニツカリン・T」入りの竹筒を上衣のポケツトに忍ばせて自宅を出て、前記会場に出掛ける前隣家の同会会長奥西楢雄方に立寄つたところ、同家表玄関上り口の小縁に当夜の飲料として瓶詰ぶどう酒(三線ポートワイン)一、八リツトル入一本と同じく日本酒二本が用意されていたので、その瓶詰ぶどう酒に「ニツカリン・T」を入れようと最後的決意をかため、直ちに右三本の酒を一人で携えて前記公民館分館に運び、一先ず館内囲炉裏の間の流しの前あたりに置いたが、一足遅れて会場準備のため入つて来た同会会員坂峰富子が雑巾を取りに右奥西楢雄方に戻り、館内に居るのは被告人唯一人となつた隙に乗じ、ひそかに右瓶詰ぶどう酒の栓を抜いてそのなかに所持していた右竹筒入りの「ニツカリン・T」を四乃至五cc位入れた上、栓と包装紙を元通りに直して置き、同日午後八時前後総会が終り間もなく懇親会にうつつた席上に右「ニツカリン・T」の混入されたぶどう酒瓶一本を出させ、その全量を出席の女子会員右チヱ子、ヤス子、奥西フミ子(昭和6・2・25生)中島登代子(大正14・1・14生)新矢好(昭和10・5・10生)福岡二三子(当三七年)坂峰富子(当二九年)井岡百合子(当四二年)伊東美年子(当二九年)植田民子(当二九年)神谷すず子(当三四年)広岡操(当三七年)中井文枝(当三二年)石原房子(当三九年)高橋一巳(当三四年)今井艶子(当三五年)浜田能子(当二九年)岡村清子(当三三年)南田栄子(当二五年)中井やゑ(当四二年)の合計二〇人に各自の湯呑茶わんに分け注いで飲ませ、これら二〇人全員を殺そうとした。その結果何れもその飲用による有機燐中毒のため、うちチヱ子、ヤス子、フミ子、登代子、好の五人を夫々間もなく右現場でこん倒死亡するにいたらせて殺害の目的を遂げ、二三子を全治迄に一ヶ月以上を要する瀕死の重態に陥らせ、富子、百合子、美年子、民子、すず子、操、文枝、房子、一巳、艶子、能子の一一人に夫々入院加療数日乃至一ヶ月程を要する重軽症を負わせ、清子、栄子、やゑの三人は何れも全然飲用しなかつたために何等の中毒症も起させずに終り、いずれも殺害の目的を遂げなかつたものである

と謂うにある。

検察官主張事実中、被告人が妻チヱ子の外に同じ葛尾部落に住む未亡人の北浦ヤス子と恋仲となり、被告人、妻チヱ子、ヤス子との間に所謂三角関係が存したこと、昭和三六年三月二八日午後七時頃から名張市葛尾所在薦原公民館葛尾地区分館(以下公民館と略称する)において三奈の会総会が開催され、役員改選の後同所で宴会が催されたが、その席上女子会員用に出されたぶどう酒を飲用した女子会員五名が死亡し、一二名が嘔吐したり腹痛を訴えたりしてたおれたこと、この会合には被告人も出席し、しかも宴会に用いられた酒二本とぶどう酒一本とは同日午後五時過ぎ被告人が会長奥西楢雄方玄関小縁から公民館囲炉裏の間に運んだことは被告人の認めて争わぬところであり検察官提出の証拠によつてもこれを認めることができる。

ところで同夜の犠牲者はいずれもぶどう酒を飲んだ女子会員に限られるところからぶどう酒中に毒物が混入していたのではないかとの疑問が持たれたので、公民館での飲み残りのぶどう酒や犠牲者の吐しや物について三重県衛生研究所、三重県警察本部刑事部鑑識課において検査が行われ、またこのぶどう酒を飲んで公民館で死亡したとみられる奥西フミ子及び北浦ヤス子の死体につき三重県立大学医学部助教授舟木治により解剖が行われ、その死因が究明された。その調査の結果宴会の席で飲用に供されたぶどう酒中には有機燐剤のテツプが混入されていること、及び奥西フミ子、北浦ヤス子の死因はテツプ中毒であることが明らかにされた(証拠<略>)。

三奈の会総会の宴席に出されたこのぶどう酒は三線ポートワインの名称で呼ばれ大阪市浪速区西円手町一、〇〇九番地西川洋酒醸造所こと西川善次郎方において昭和三五年一二月七日製造、昭和三六年一月一六日瓶詰され、名張市中町三四九番地酒類販売業梅田英吉商店を経て同年一月二〇日頃名張市薦生三五二番地林酒店こと林周子方に卸された三〇本中の一本で、本件事故発生当日の午後林周子方において周子の弟の妻副野清枝から薦原農業協同組合(以下農協と略称する)職員でかつ三奈の会会員である石原利一に売渡され、同人は直ちにこれを薪炭商神田赳の運転する貨物自動車に便乗し同所から約二、六〇〇メートル距れた名張市葛尾一五九番地奥西楢雄方前に運び同所において貨物自動車に乗つたままで楢雄の妻奥西フミ子に他の一升瓶入り清酒二本とともに手渡しているのである(証拠<略>)。

弁護人は、ぶどう酒の製造工程において毒物を混入した趣旨の主張をしているが、西川洋酒醸造所製造のぶどう酒は広く市販されて居り、同所製造のぶどう酒による中毒事件は本件以外には発生して居らず、本件事故発生の前日である三月二七日午後一〇時頃林酒店において三線ポートワインを買つた薦生一三番地洋服商岩名久男は同夜家族とともに飲用したが何等異状のなかつた事例も存し(同人36・6・24司)また、36・9・22付三重県警察本部刑事部鑑識課長の実験結果回答書によると、テツプ剤は水で希釈した場合加水分解が速く毒性が減弱し無毒化するため猛毒性を有しながら法規上特定毒物に指定されていなかつた旨の記載等を綜合すると、本件ぶどう酒中の毒物テツプ剤は宴会開会の八時に比較的近接した時刻に混入されたものと考えられるのであつて、弁護人の主張する製造工程中での混入は考慮の余地がない。

ところで、被告人は昭和三五年八月九日頃名張市新町二一八番地黒田敬一から葛尾の被告人自宅まで一〇〇cc入りニツカリン・T一本を届けてもらいこれを買受けたが、本件発生後である昭和三六年四月二日亡奥西チヱ子に対する殺人被疑事件に基く捜索差押令状により被告人方を捜索した際には右ニツカリン・Tの瓶は発見されなかつた。ニツカリン・Tはテツプ剤の一市販品で本件の被害者等はいずれもテツプ剤飲用によりこれに中毒したものである(証拠<略>)。

検察官は、被告人がこのニツカリン・T液を三線ポートワイン中に混入したのだと主張する。その謂うところの要点は、被告人は妻チヱ子、愛人北浦ヤス子との三角関係を清算するために同女等の殺害を図り、三月二七日夜ニツカリン・T液(以下ニツカリンと略称する)を竹筒の小容器にうつし入れて先ず準備し置き、翌二八日これを携え五時二〇分ないし五時二五分頃三奈の会会長奥西楢雄方に至り当時既に同日午後五時一〇分頃楢雄方玄関小縁に運び置かれてあつたぶどう酒を公民館に搬入し、同所でたまたま被告人がただ一人となつた一〇分間位の時間を利用して、さきに準備して置いたニツカリンをぶどう酒中に混入したものであるというのである。

以下検察官の被告人犯人説の主張の当否を検討する。

第一、三奈の会総会後の宴会に飲まれた女子会員用のぶどう酒が出されることに決つた日時について。

三月二六日(日曜日)に石原房子、浜田能子、坂峰富子、中井文枝、奥西チヱ子、奥西フミ子、井岡百合子の七名の役員が公民館に集り、二八日の総会の準備について打合せをしたが、その際折詰、菓子、酒二升を出すことは決定したが、女子会員用のぶどう酒を出すか否かは、会長の奥西楢雄が欠席して会の資金面が不明であつたので決定が留保され、採否は会長に一任された。準備役員会の結果を妻フミ子から知らされていた楢雄が二八日朝勤務先の薦原農協において薦原支所長中西としおから葛尾公民館へ支給される助成金がある旨明かにされ、ここで楢雄は決定留保となつていた女子会員用のぶどう酒を出すことをきめ、同日午後同じく薦原農協の職員でかつ三奈の会会員である石原利一にその購入方を命じた。たまたま同日午後薦原農協に薪炭商神田赳が小型貨物自動車に鶏の飼料一三袋を積んで運んで来た。この飼料の買主は葛尾の南田定一であつたので、石原利一は神田赳に依頼してこの車に便乗させてもらい、飼料を葛尾の南田定一方に運ぶとともにその途中で薦生の林酒店に寄り副野清枝から清酒一升瓶入り二本と本件三線ポートワイン一升瓶入り一本とを買受けた上、これを葛尾の楢雄宅前に運び自動車に乗つたままで奥西フミ子に手渡したのである(証拠<略>)。

第二、耳付冠頭(証第二号)封緘紙片(証第四、第五号)四ツ足替栓(証第一九号)の発見された場所について。

一、耳付冠頭。本品は三月二九日午後四時三重県警察本部捜査第一課巡査部長菊地武により囲炉裏の間東北隅片開き戸のついた押入れ下段奥の方から発見された(36・4・7付司法警察員岡田徳夫作成の実況見分調書)。

二、封緘紙大(証第四号)。本品は三月三〇日午後零時三〇分刑事部鑑識課巡査部長中北正一、名張警察署巡査小嶽孝一により囲炉裏の間東北隅前記片開戸の取付箇所より約五六センチメートル東南方の壁際から発見された(36・3・30付司法警察員中北正一、同小嶽孝一の証拠資料発見報告書)。

三、封緘紙小(証第五号)。本品は三月三一日午後二時一五分巡査部長川谷長生により囲炉裏の間裏側の軒下に落ちているのを発見された。(36・4・14付司法警察員岡田徳夫作成の実況見分調書)。

四、四ツ足替栓。本品は三月二九日午前一一時三〇分囲炉裏の間西隣の四畳半の間にて火鉢の灰の中より発見された。(36・4・7付司法警察員岡田徳夫作成の実況見分調書)。

第三、本件ぶどう酒が奥西楢雄方に運ばれた時刻について。

検察官は冒頭陳述書要旨三枚目以下において、

「このぶどう酒は五時一〇分頃楢雄方前に到着し、楢雄の妻フミ子と楢雄の妹稲森民の手によつて表玄関小縁に運ばれ、同所に五時二〇分乃至二五分頃まで置かれていたがその間同家にはフミ子、民、民の母コヒデが居り、更にチヱ子、井岡百合子、坂峰富子が前後して出入りしていたし、右小縁のある玄間土間と台所の間は隙戸になつていて台所には常に右女性等がいて小縁の様子が見えるようになつていたので、楢雄方にぶどう酒が置かれている間にこれにテツプ剤を入れることは不可能であつた。……被告人が五時二〇分乃至二五分頃楢雄方に至りぶどう酒を持つて公民館に行き、同所で被告人がただ一人になつた一〇分間にテツプ剤を混入したもので、ぶどう酒にテツプ剤その他の毒物を混入することはこの一〇分間を除いては不可能である」旨主張する。

尤も検察官も昭和三七年四月二七日付論告要旨二七丁裏においては「ぶどう酒搬入時刻は五時ないし五時一〇分頃と見るのが妥当と考える」と述べながらも、また、二八丁表においては「ぶどう酒が楢雄方小縁にあつた時間は高々一五分位ないし一時間足らずの間」と巾を持たせた主張に変わり、必ずしも五時一〇分を固執していない如くである。

この点につき当裁判所において取調べた証拠の中で検察官の主張するぶどう酒が奥西楢雄方玄関小縁に運び置かれたのは五時一〇分であるとする五時一〇分説の根拠として挙げ得るのは、稲森民36・4・11司、36・4・18検、奥西コヒデ36・4・18検、稲森ゆう36・4・18検、井岡百合子36・4・18検及び神谷逸夫36・4・23検であろう。これ等の調書中に述べられていることが真実であるならば五時一〇分説はその証明を得たものと言い得る。ところで稲森民は三奈の会会長奥西楢雄の妹で、出産予定日の四月五日を目前にひかえて、三月二八日婚家の母稲森ゆうに伴われ葛尾の実家奥西コヒデのもとに出産のため帰つて来たもので、36・4・11司、36・4・18検、はいずれも出産予定日経過後に作成されたものである(なお実際の分娩日は四月二六日である)。同女は右両調書の中でぶどう酒授受の時刻を五時一〇分であると説明しているが、当裁判所の証人尋問の際には、その時刻を忘れたとも言い、又五時のサイレンを聞く前であつたとも言い供述内容が支離滅裂である。奥西コヒデは36・4・18検、中でフミ子がその買つて来た罐詰と油揚とを台所に置いて一旦かどの方へ出て行き、間もなく酒三本を家に運び入れて、玄関小縁に置くのを台所から見ていた旨述べて居り、稲森ゆうは36・4・20検中で楢雄宅を辞したのは四時前であるが、その時に玄関の辺に酒やぶどう酒は置いてなく、又何人かがそのような物を運び入れたとの記憶もないと述べ、神谷逸夫36・4・23検はフミ子と楢雄宅前で別れたのは五時数分前でその後石原利一がどぶう酒を運んで来たものと思う旨それぞれ述べ一方井岡百合子は36・3・31司、36・4・7司二通、36・4・11検までは四時四〇分頃第一回目楢雄宅訪問の際にはぶどう酒を見ていないが、五時五分頃の第二回目楢雄方訪問の際に玄関小縁にぶどう酒の置いてあるのを見たと述べていたのが36・4・18検に至り、ぶどう酒を見たのは第二回目訪問の際の玄関に入つた時ではなく、それより少時後フミ子帰宅後であると従来の供述を変更し、当裁判所の証人調べの際にも、フミ子帰宅後に自分は楢雄方玄関外左側に在る厠に小用に行つたがその帰り際に初めて玄関の小縁にぶどう酒が置いてあつたのを見たが、用便の時間は極く短く、その間にぶどう酒が連び込まれたものとは考えられない旨述べている。検察官は右の中で稲森民、奥西コヒデ、井岡百合子の各四月一八日付検事調書を重視したものの如く、ぶどう酒授側にあたる副野清枝、林周子、神田赳、石原利一について、改めて時刻の点に重点を置いて取調べを行つている。

副野清枝、林周子はぶどう酒売渡時刻を四月一六日までは二時半か三時頃と述べている(副野清枝36・4・1同人36・4・16検、林周子36・3・29司、同人36・4・1司、同人36・4・16検)。然るに四月一九日に至るや、○副野清枝36・4・19検。

石原利一さんにぶどう酒一本と清酒二本とを三月二八日に売渡した時間でありますが、大体三時頃と申していたのでありますが、本当のことを言いますと、その日はどんよりとした天候で、午後からは時計は一度も見たことがなく、私達が時間を知るのに便利なバスもその日は何の理由か知りませんがバスが通つたのを全然見かけず時間の観念が全然なかつたのであります。今迄の取調べの時に私の直感で三時頃と思つたのでそのように申上げてみたのでありますが、四時過ぎていたのではないかと言われると、或いはそうではないかと思います。一番確実に言えることは昼ご飯と晩ご飯との間ということです。私の家は昼ご飯は大体一二時頃で晩ご飯は主人の帰るのが遅いため七時頃であります。

○林周子36・4・19検

石原さんに私の妹がぶどう酒一本と清酒二升を売渡した時間でありますが、前回には妹が三時頃と言いますので、私も大体その頃だろうと思つていたわけですが、その日の午後、私は一回も時計を見たこともなく、またその日は何の理由か判然と知りませんが、バスが私の家の傍を通らなかつたため、どうしても判然と時刻が判らず、おまけにその日は丁度どんよりと曇つた天候ですので外の明るさ等によつて時刻を知ることもできなかつたわけです。結局私が宮西さんの家を出て私の家に帰つた時刻と大体一致すると思うのですが、確か宮西さんの家を出る時に晩ご飯の仕度をしなければならないと思つて出て来たことを覚えています。私は大体晩ご飯の仕度を四時頃から始め、晩ご飯を喰べるのが六時半頃であります。四時過ぎ頃ではなかつたかと言われると或いはそうかも知れないと考えてしまうわけで、昼ご飯と晩ご飯の間であるということは間違いありませんが、時間の観念はその日は特になかつたため、判然と何時頃と言いきれません。

と述べて売渡時刻につき明答を避けている。

又石原利一も四月一一日迄に作成された調書の中では、フミ子にぶどう酒を渡した時刻を二時頃もしくは二時か三時頃と繰り返し述べていたのにかかわらず(石原利一36・3・29司二通、同人36・3・30司、同人36・4・11検)四月二一日に至るやこれが四時半から五時頃の間と変り、神田赳も四月一六日までは、四時頃ぶどう酒を渡すのを見たと言つていたのに(神田赳36・3・30司、同人36・4・16検)四月二〇日の取調べの際には、これを四時頃から五時頃の間と訂正している。かかる時刻の訂正は、ぶどう酒引渡人側の時刻を受取人側の述べる時刻に合致せしめるための検察官の並々ならぬ努力の所産であり、このことは各該当の調書を一読すれば容易にこれを理解し得るところである。

しかし受取人である奥西フミ子、稲森民の両名は四時頃稲森ゆうを見送つて楢雄方を立出で、五時一〇分頃に楢雄方に帰着していること、即ちその間約一時間余は両女とも楢雄方に不在であつた。(右の事実は稲森民36・4・11司、<中略>を綜合してこれを認める)。

従つてぶどう酒授受は四時前か、もしくは五時一〇分以降かのいずれかの時点に行われたものでなければならない。検察官は後者を採つたのであるが、この場合、支障となるのは神田赳、石原利一、副野清枝、林周子の四月一六日までの調書である。検察官は彼等の時刻についての供述の手直しを試みた。斯くて成立したのが副野清枝、林周子の各36・4・19検、神田赳36・4・20検、石原利一36・4・21検、36・4・23検の各調書である。しかしこれ等のどの一つも五時一〇分説を支持するに足る内容を持つていない。

検察官の五時一〇説では次の諸点において破綻が生ずる。

(一)  五時一〇分頃にぶどう酒が楢雄宅前で楢雄の妻フミ子に渡されたものとするならば、その一分位後には石原利一、神田赳の乗る自動車は楢雄宅前から約一〇〇メートル位離れたところに在る倉庫前に到達している筈であり、それから南田定一方に飼料到着を知らせ荷おろしに要した間の約五分間位は、石原神田の両名と貨物自動車とは倉庫前にいた筈で、両名が倉庫前にいたのは五時一〇分頃から一五分頃となるであろう。仮に自動車到着時刻を五分早めてもそれは五時五分頃から一〇分頃までとなる。坂峰富子は五時のサイレンを聞くと直ぐに楢雄宅に向けて出発し、倉庫前附近に来た際神谷花子から同女の自宅前より大声で呼び止められ、同所で花子の来るのを二分(花子は五分と言う)位待つた後、倉庫前で約五分位立話ををしているのであるから、坂峰富子は大体五時六分頃から一二、三分頃まで倉庫前に居り、神谷花子は五時八分頃から一二、三分頃まで倉庫前にいたこととなる。即ち石原、神田が倉庫前にいた時間と坂峰、神谷の同所にいた時間との間には互いに重なり合う何分かがある筈である。然るに坂峰、神谷の両名は貨物自動車も石原をも認めていない。更に飼料到着の通知を受けて飼料を約一〇分近くかかつて倉庫前から自宅へ運んだ南田英二は倉庫前で立話をする坂峰、神谷の両名を見ていない。このことは坂峰が倉庫前にいた時間と石原、神田が同所にいた時間とが一致しないために生じたと解する外はない。石原利一が乗つた自動車の倉庫前に到着した時刻、従つて石原利一が奥西フミ子にぶどう酒を渡した時刻は五時一〇分以外の時刻となる。坂峰富子は神谷との立話をすますと寄り道をしないで約一〇〇メートル位下の楢雄方に直行しており、その時に楢雄方玄関小縁に置かれてあるぶどう酒をみておるのであるから、その時には既にぶどう酒は楢雄方に届いているのである。富子より少しく遅れて入つて来た被告人がこのぶどう酒を公民館に持参して行つたのである。

五時一〇分説の資料と目すべき稲森民、稲森ゆう、奥西コヒデ、神谷逸夫の供述は真実を伝えていない。証拠価値なきものと言わねばならぬ。

(二)○広島よし子(名張市東田原広島屋女主人)39・12・8裁

私は三月二八日午後五時一〇分頃石原さんに折詰を即席ラーメンの箱に入れて渡しました。この箱は石原さんが見えた時、私方座敷に置いてあつたので、私もそれをつつて石原さんの自転車に載せました。この折詰はその二日位前と思いますが奥西楢雄さんから二八日の四時にもらいに行くからとの電話があつたのです。ところが、その日私方店の時計が五時になつても取りに見えないので、薦原農協の方でこの折詰がいらなくなつたのかなあと思つていた時石原さんが見えたのです。それで私は石原さんに一時間も超過したなあと申上げた記憶があります。なお石原さんは自転車に空気を入れられて直ぐ帰られました。

五時一〇分説によると石原利一は葛尾に在る。東田原と葛尾との間には五七〇〇メートルの距離が存する。同一人である石原利一が同時刻に東田原と葛尾とに居ることはできない。検察官は広島よし子が五時と述べているのは六時の記憶違いであると主張するが、これは当日の日入時刻が六時一二分であること(津地方気象台36・9・27付回答)を考慮の外に置いた議論である。石原は広島屋で折詰を自転車に積んで薦原農協に持ち帰り、同所で三〇分位執務して後奥西楢雄とともに葛尾に向い途中福中亀次郎宅に立寄り、公民館に折詰を届けているのであるが、未だ自転車に燈火をつける必要はなかつたと言つている。広島よし子の述べるところを採るべきである。

以上により検察官の冒頭陳述において主張する五時一〇分説の失当なことは明らかであろう。

当裁判所は引渡側の神田赳、石原利一、副野清枝、林周子の四月一六日までに述べたところを採用し、ぶどう酒はフミ子、民が楢雄方を出発する前の時点において授受されたものと認定する。検察官も証拠調べの進展とともに右の点を承認して、前記の如く論告要旨二八丁表において「ぶどう酒が小縁にあつた時間は一五分ないし一時間足らず」と「一時間足らず」の部分を附加するに至つたものと推測される。当裁判所認定の如く、ぶどう酒が「フミ子、民、出発前の時点」換言すれば四時前に楢雄方に届いていたとするときは、井岡百合子が初めて四時四〇分頃に楢雄方を訪れた際に、玄関小縁に置かれてあつたはずのぶどう酒を見ていないのは何故であろうか。五時五分過ぎ頃第二回目の楢雄方訪問の後にぶどう酒の存在に気づいたのは何故であろうか。四時前に届いていたぶどう酒が五時過ぎまでその姿を消していたのであろうか。這般の事情は当裁判所もこれを詳にすることができない。ただ謂い得ることはこの一時間位の間にも、ぶどう酒中に毒物を混入する機会が存することである。従つて、当裁判所は検察官の「毒物混入の機会は公民館において被告人がただ一人となつた一〇分間をおいて他になし」との主張には賛意を表することができない。

第四、被告人の自白調書についての検討

一、検察官は、本件は仮に被告人の自白がなくとも十分有罪の認定をなし得る事件であり、しかも被告人の自白は十分な裏付証拠があつて措信出来るから、本件公訴事実はその証明十分なりと主張する。しかし、検察官が主張する被告人が本件の犯行の前夜にニツカリン入り竹筒を準備した事実も、事件当日被告人がこのニツカリン入り竹筒を携えて公民館に赴き、これをぶどう酒瓶中に混入した事実についても、いずれもこれを目撃した者もなければ、又ニツカリンを入れたという竹筒も、それを作つたという材料の女竹の残りの部分も、更には竹筒に入れた以外の残余の瓶入りニツカリンも発見されていない。被告人が右側の歯であけたという証第一九号の四ツ足替栓も後記の如く有罪の資料とはなし得ない。然らば、本件において、被告人の自白を除いた場合如何なる間接事実が存するか。

(1) 被告人は妻チヱ子の外に北浦ヤス子を愛し、三角関係にあつた。

(2) 被告人、チヱ子、ヤス子の三人は奈良県山添村片平にある石切場で働いていたが、毎日三人一緒に出掛けていたのに二八日だけは被告人のみ一人早く行つた。

(3) 前年夏被告人はテツプ剤の一つであるニツカリンT一〇〇cc入り一本を購入したが、本件発生後である昭和三六年四月二日には被告人方においてこれを見出すことができなかつたが、このニツカリン購入の事実は被告人の供述から明らかになつたもので、初め売主黒田敬一はこの品物の売渡事実を否認していたが、被告人との対質によつてこれを認めるに至つた。

(4) 二八日午後五時二〇分頃から三〇分頃まで被告人が一人で公民館にいた。

(5) 公民館囲炉裏の間及びその附近から耳付冠頭、四ツ足替栓、封緘紙大小が発見されている。

(6) 本件ぶどう酒からテツプ剤が検出されている。

(7) 本件の死傷はいずれもテツプ中毒によるものである。

しかし右のような間接証拠のみによつては、本件犯行が被告人の所為であるとは認定し難い。本件においても被告人の自白が重視されることとなる。

二、被告人は、当公判廷において全面的に殺人、殺人未遂の事実を否認し、右は妻チヱ子の犯行であると思料する旨供述する。

本件は当初、被疑者不詳、原因不明の事件として捜査がはじめられ、被告人も事件発生の翌日から重要参考人として連日捜査当局の取調べを受けていたところ、事件発生後六日目にあたる四月二日午後被告人の妻亡奥西チヱ子に対する殺人被疑事件の捜索差押令状が発せられ、これに基き、被告人宅が捜索されたが、その日の深更から、三日未明にかけ、被告人が本件犯行につき自白をはじめ、司法警察員に対する七通の自白調書が作成され、検察官によつても四月五日から四月二四日までの間に一〇通の被疑者供述調書がとられているが、その中の第八番目中の一部と第一〇番目が否認調書となつている外は自白調書となつている。

被告人はその手記において「妻の事件前後の私に対する言語行動等で特に私はシヨツクを感じていたので、私もそうさせたと思いこんで責任を感じるというそんな気持になり、又は新聞等で妻がやつたということを書かれ、特にチヱ子の実母も心配して私に世間に出られないとかいろいろいつて私はよけいシヨツクを受けました。私も新聞に出て大分そうだと思いこんでしまいました。又警察で取調べ中も事実やつていないと言うと弁護士さんもあるだとか、又検事さんの調べの時は裁判所で調べもあるのだと言われ、事実のことを言うと聞いてくれず、警察で偽つた私の調べの通り言わないと聞いてくれませんでした。」と述べている。又弁護人も被告人の自白の任意性を争う趣旨の陳述をしているが、被告人の検察官に対する否認調書の存する点を考慮すれば被告人の自白は任意性を欠くものとは言い難い。

残るは被告人の自白の信憑性の問題である。

以下被告人の自白している動機、準備、実行について順次その信憑性について検討して行くこととする。

(一) 動機について。

検察官は、昭和三四年八月頃から当時夫に死別して後家になつた北浦ヤス子と情交関係を結び、以来同所観音寺下の竹藪等を逢引の場所として関係を続けその間衣類を買い与えたことも二、三回あるが、このことが漸次部落の噂にのぼり同三五年一〇月二〇日頃の夜右竹藪で逢引の直後附近道路を歩いているところを妻チヱ子に見付けられて同女の不信をつのらせ以来夫婦仲円満を欠き、事事に喧嘩をして風波が絶えず、殊に同三六年二月初頃からはそれが一層険悪化して被告人の命じる着衣の洗濯その他の用事さえ素直にはしないくらいの冷淡薄情な反抗的態度に出られ、一方ヤス子もチヱ子からさんざんいじめられる上に部落の人たちからも手厳しく非難されはじめたために被告人との関係に嫌気がさし、次第に被告人から離れようとする態度を見せはじめ同月二〇日ころの夜最後に逢引した時には、これ限り関係を絶ちたいと言い出す始末になつたので、妻の仕打に対する憤慨とヤス子の心変りに対する恨みから心を腐らせやけくその気分になりいつそのことチヱ子ヤス子の二人を殺して右三角関係を一挙に清算してすつきりした気持になろうと考えるようになつた。そして右二人を殺して自分の犯行とわからないようにする方法や場所についてあれこれ考えているうち……(三奈の会の総会の席で)……婦人専用の酒にニツカリンを入れて飲ませる方法を思いつきこの方法によれば女子会員中特に酒好きなチヱ子、ヤス子の二人をまちがいなく殺せるが二人の他出席の女子会員多数を殺す結果となつても犯跡隠蔽のためにはこの方法より他にないと考えるようになつた、と主張するに対し、

一方弁護人は、一口に言えば、被告人には妻チヱ子や愛人ヤス子を殺さなければならぬ事情は全然存しない。少し下世話な言い表し方であるが、被告人はうちには恋愛で結ばれ二人の子まである温良貞淑勤勉で夫を愛するがゆえにやきもちをやく美しい若い妻を持ち、ほめるわけにはいかぬが、外には豊艶な未亡人を愛人にもち、現に死ぬ三、四時間前までは、毎日一緒につれ立つて仕事に出ているという、非難よりもうらやまれる状態にあつた。何を好んで元も子もなくするような企てが考えられよう。いわんや犯跡隠蔽のために祖先伝来共に居住し苦楽を共にした郷土のこの小部落の中堅たる主婦のほとんど全員を他に理由もなく殺すというが如きは思いもよらぬことである。人を殺してすつきりするとか多数の人を殺して犯跡が隠蔽できるとか起訴状記載の犯行の動機は我々の経験則に反する、と反論し真向から対立している。

被告人が本件のような大量殺人をしなければならない動機としてその述べるところを検討しよう。

○被告人36・4・2司(第三回調書)

前回私は全くうそを言つていましたことをまず最初に心からお詫び致します。それでは只今からほんとうのことを申しますからこれまでのことは一部とり消して欲しいと思います。私は今回世間を騒がした毒ぶどう酒事件の犯人でありますから只今からそのことについて申します。まず最初に私がこのようなだいそれたことをするに至つた原因は私と関係のあつた北浦ヤス子のことであります。私と妻チヱ子との間に絶えず面白くない日が続き、このことで二月一五日の夜にも妻とけんかをしております。又二月二七日の夜もやはり同じことが原因で妻とけんかをしたのであります、それで私は妻が本当に嫌になり二月一八日頃から機会をみて妻を殺してやろうとひそかに自分一人で考えていたのであります。

○被告人36・4・3司

昨日に引続いて申します。私と妻チヱ子の夫婦仲が悪くなつたのは私方近所に住んでいる後家さんの北浦ヤス子と私との問題からこの様なことになつたことはこれまでに申しました通りであります。それで私は不愉快な毎日を送るのが嫌になり、とうとう妻を何とか(殺す)せなければならんと考える様になりました。これは本年三月一〇日頃であつたと思います。私の妻は平素から気の強い女でありまして、それに酒が強く、清酒なら三合位は飲みますが顔には現われない方であります。酒を飲むと更に気が強くなり、私と北浦の問題を持ち出して怒り出しますので酒もあまり飲まさない様に心がけておりました。それで私は妻に酒を飲むなと何回もこれまでに言つております。

北浦の問題で妻に責められるので、ほとほと自分も嫌になり、三月一〇日頃からは、そのことを考え過ぎる為か夜も熟睡できなくなり、遅く寝ても夜の明けぬ間に目が醒めて寝られない日が続く様になりました。その頃から神経質になり何か落着かぬいらいらした気持がしてなりませんでした。それで妻をわからぬ様に殺してしまえば自分も気持が楽になるやろうと考え出したのであります。外に何の理由もなかつたのです。私はどちらかといえば気の強い女よりやさしい女の方が好きであります。それなのに、この頃の妻は全くやさしさを無くしておりましたのでこのことも今度の事件を起す一つの原因となつていると思います。そのためこれまで週に一、二回の夫婦関係も二月二五日頃より絶えてしまつて現在まで関係はしていなかつたのです。こうした気分のいらだたしさも手伝つたものと思います。

私が北浦ヤス子に対する気持は別に変りなく憎しみ等や何もなかつたのです。ただ妻の場合と外の女とのちがいの分けへだてができなかつたのも今になつて後悔している次第です。前回申した通り妻に対してはそのようなおそろしい考えを持つておりましたが、北浦ヤス子を殺すというような気持は持つていなかつたのですが三月二〇日過ぎのことでありました。三奈の会の役員会が部落で開かれたことがありました。私はこの日西名張の駅に牛が着いたのでこの牛の仔を受け取りに行きましたので、妻だけ出席したことがありました。その晩妻から三月二八日寺で三奈の会の総会が開かれることを聞いたのであります。それで私は前回に申しました通り、三月二七日採石場より帰り夕食を家族の者と食べながら、明日の総会に誰がやつたのか判らぬようにして殺してやろうと思い、いろいろとその方法を考えておりましたが、その場で判らぬように妻だけ殺しても私がやつたと疑われることは間違いないと思いました。それは申すまでもなく、私と北浦との関係について世間がよく知つているからであります。そこでもう一つ悪い考えを起したのであります。明日の総会において飲む酒の中にニツカリンを誰も知らないうちに入れておけば、妻は酒好きな方でありますから、妻は完全に殺すことができるのと、今一つ、飲んだ者皆が死ねば誰がやつたのか、動機とか原因が判りにくい、そこで証拠となるものを完全になくしてしまえば、全然誰がやつたか判らずすむと考えたのであります。その反面妻も一人で死ぬより他の人が一緒である方が淋しくないだろうという考えも出しました。

○被告人36・4・7司

前回に引続いて申します。私が今回農薬(ニツカリン)を使つて多くの人を殺してしまつたことについて前回申しましたが今日は気分も少し落ち着きこれまで感違いしていたこともありますし、又更に詳しく申します。

まず、原因となつた北浦ヤス子と私との関係について申します。前回において、昨年七月一〇日北浦ヤス子の夫英夫が病死して一ヶ月後の八月一〇日頃私たちの関係ができてしまつたと申しましたが、これは私の感違いで、一昨年の七月一〇日の間違いであります。(中略)私としてもこの関係について話せば必ず今回の事件の手ほどきになると思いましたので極力頑張つていた次第でまことに申し訳ないと思つています。その後昨年の一〇月の秋祭りの晩に私とヤス子さんの二人が関係をすまして藪の道から出て来たところで私の妻と出合いとうとう妻に見つかつてしまつたのであります。

これは一〇月二〇日か二一日でありました。このことがあつてから妻は私をうたがい責めるようになつたのであります。……其の後妻ともこれまで通り夫婦関係をつづけておりましたが私が農家組合の用事で夜間外へ出て帰つても妻は女と逢いに行つてきたものとうたがつて私にしつこく尋ねますし、私としてもたまらないいやな気持になる日が続くようになりました。その後妻の態度がだんだん冷たくなつていきました。本年二月一五日頃と思いますが夜寝てから、女のことが原因で夫婦げんかをしました。

……昨年一一月末ごろから……私の父政信と妻チヱ子北浦ヤス子の三人でそれぞれ自宅から採石場に通つておりました関係で私が夜間外へ出た翌日は必ず妻が北浦に「昨夜貴女のもとに行つたやろう。」と言つてうるさく尋ねるので「いやや」と北浦が私に言うようになりました。そしてもう逢うのをやめようと言い出したのであります。これは本年二月二〇日頃最後に女と逢つた晩のことであります。私は北浦に「妻がどう言おうとかまわんやないか。」と言いましたが女は「チヱ子さんが毎日いやなことを自分に仕事に行く途中や仕事場で言うのでもうあなたとは逢わんようにする。」と言いますので私はこのことを聞いてますます妻をにくらしく思いました。それでその後女とも逢つておりません。その頃妻とも一回くらい夫婦関係をしただけで二月二五日頃から夫婦関係はしておりません。

このようなことから悪いとは思いましたが妻チヱ子と北浦ヤス子を殺してしもう気になつたのであります。いろいろ考えましたが男女関係のもつれから、ことあるごとに何かにつけ私を責め、それを根にもつて意地を張り、何一つ素直に私の言うことを聞いてくれなかつた冷たい妻だけ殺そうかと思いましたが、三角関係を清算するためいつそ二人とも一度に殺してしまつた方がさつぱりするという気持になつたのです。前回において妻チヱ子を殺す目的のために外の人をも殺してしまつたと申しましたが本当は二人を殺すためであつたのです。このようなおそろしい考えをもつようになつたのは本年三月一〇日頃からであります。

○被告人36・4・9司

前回にも申しました通り、私は本年三月一〇日頃から妻チヱ子と北浦ヤス子の二人を判らぬように殺そうと密かに考えておりました。

○被告人36・4・14司

この度の中毒事件を起した原因について今までに警察で詳しく申し述べた通り私と妻チヱ子、北浦ヤス子との三角関係から最近私の思う通りにいかなかつたので妻やヤス子がいやになつたので殺してしまいこの関係を清算しようとしたのであつて、これは今考えると馬鹿なことのように思いますが当時は思いつめていたのでやつたものであります。今まで申し述べた通りチヱ子とは十三年ぐらい前に両親の反対を押し切つて恋愛結婚したもので、ようやく両親を納得させて同居しておりますが私としては無理に結婚したために一生懸命に家の仕事をして責任を果すつもりでおりました。昭和三四年八月ころから北浦ヤス子と関係が出来るまでは妻チヱ子との折り合いもよく家庭に不和等が起るようなことはありませんでした。北浦との関係が出来てからはチヱ子が人の噂をとらえて、私にやかましく言つてきましたが私はそのつど単に人の噂でそんな関係はないといいきかせてきましたので大きなけんかもせずに来ましたが、昨年一〇月二一日であつたと思います。この日は村の秋祭りの翌日でありました。私とヤス子が午後八時すぎに北浦ヤス子の下の方にある竹藪前の小路で関係をすまして、二人で帰つてきました。丁度その時妻チヱ子とその場に出合つて、みつかつたのです。このことがあつてから、妻チヱ子は私に対して今までの人の噂の通り北浦との関係が事実であるといつて私にやかましく今まで以上にきびしくあたつてきました。……富士建設片平採石場に私ら夫婦と北浦の三人が採石人夫として働きに行くようになりました。そのような関係から私たち三人が毎日顔を合しておりますので、チヱ子とヤス子との仲は表面は仲良くしているように見えますが、心の中ではかたき同士のような思いであつたと思います。採石場で共に働いている時そのような態度がありありと見えておりました。昨年一〇月頃から前申し述べたように、私に対するチヱ子の態度は非常にかわつてきまして暇をくれ。家へ帰る、と言つて二、三回家を飛び出したこともあり夜寝ると必ず北浦との関係を絶つように言つておりました。北浦ヤス子は私に対して、チヱ子さんにすまないし、またチヱ子さんから「勝さんが夜遅くまであんなのところで遊んでおるやろ。」などと再三言われるので、これから先は関係はやめてくれと私に言つてきました。……二月二〇日だつたと思います。いつも密会する北浦方の下側の竹藪附近で関係をした時にヤス子から「今後はこのような関係はしないように」断わられました。私はそのときも関係をつづけるようにヤス子に言いましたがヤス子は絶対関係をしないという意志がつよく、その後は関係をしておりません。

妻チヱ子とは普通の夫婦生活を続けてきましたが北浦との関係が明らかになつてからは、冷たくあたつてきますのでおもしろくない日がありました。本年二月末ごろか三月はじめごろから夫婦関係を結ばすにまいりました。これは私達三人が採石場へ働きにいつて共に気まずい思いをして働いておるために家へ帰つてきてもおもしろくないし私としてもおもしろくないので自然に妻との溝が出来てしまい、私からも妻からも要求せずに関係がなくなつてしまいました。そんなことから私は性的要求も満されないので頭がくしやくしやして夜は眠られないこともありました。……家の者や、村の者は私の苦痛は誰も知らなかつたと思います。三月一〇日前後であつたと思います。妻チヱ子が私に強くあたり、やかましく言いますので一そのことチヱ子を殺してやろうとの考えを持ちました。そんなことを考えて三月二〇日ころまで毎夜のように、どのようにしたらわからないように殺せるかということを想像したりしていたために、夜眠られないことも度々ありました。三月二〇日頃に、このようになつたのは北浦ヤス子という女が存在し、関係があつたということに原因もあるということを考えてくるというと、一そのこと北浦ヤス子も殺して三角関係を清算すれば、すべてがすつきりするというようなことも頭の中に浮んできました。

○被告人36・4・14検

チヱ子と私の仲は昨年一〇月まではどうということもありませんでしたが一〇月頃私と北浦ヤス子との仲を知つてから急に仲が悪くなりました。一〇月一九日、二〇日と部落のお祭りがありますが昨年このお祭りの晩か翌日の晩でしたが、私とヤス子とが関係して帰るところをチヱ子に見つかりました。それは私の家から北浦の家や坂峰清さんの家の方に行く道でヤス子の家の一寸手前で北葛尾(奈良県側の葛尾)に降りる道のところでしたが、その時はチヱ子は別に何も言いませんでしたが、家に帰つてから私とヤス子との仲を責め、私はそんなことはないと隠しましたがチヱ子は信用しませんでした。

それからは夜外出すると、きつとヤス子と会つただろうと言つて私を責めるようになりました。農協の仕事で夜出ても(私は実行組合長をしていましたので)チヱ子はヤス子と会つて来ただろうと邪推する始末でした。

私がヤス子と関係するようになつたのは、一昨年八月頃からです。ヤス子の夫英夫が一昨年七月頃死んだ後です。その前からも一緒に日稼に出たり私がヤス子の家に手伝いに行つたり、或は、反対にヤス子が私の家に手伝いに来たりして、親しくなつていました。けれども関係の出来たのは、ただ今申し上げた様に一昨年八月頃からです。大体月に二、三回関係していました。部落の観音寺の下の道あたりで関係していました。それが昨年一〇月頃チヱ子にわかり、それからは私が夜出たような時はチヱ子は私を責めるし、ヤス子にも、「私が行かなかつたか」と責めるのでヤス子は「とてもかなわん」と言つて私から離れようとまでするので一そのこと両方とも殺してしまおうと思つて本件をしでかしてしまいました。

○被告人36・4・15検

チヱ子は気性がはげしく勝気で私と北浦ヤス子の関係については私もうらんでいましたし、ヤス子もうらんで、けんかがたえませんでした。昨年一〇月二〇日か二一日の晩、私とヤス子が密会した直後歩いているところを見てから一そうひどくなりました。殊に今年の二月頃から三月にかけて、三回も実家に帰るとか、死ぬとか言つて家出をしました。又一回はヤス子のことを「あれさえいなけりや」と言うので私が「そんな人のことかまわんでいいんじやないか。」と言つて、言い合いをしたこともあります。採石場にはチヱ子とヤス子と二人一緒に通つていましたが、ちよつとしたことですぐけんかになり、例えば私がヤス子のために石を一輪車に乗せてやるとチヱ子はそれをやき自分には積んでくれなくていいとすねて、ヤス子に積んでやつてくれとなんくせをつける始末でした。

そういうわけで、私は非常に苦しみ、二月末か、三月はじめ頃からは、チヱ子と夫婦関係もしなくなりました。ヤス子は又ヤス子で二月下旬頃からは、チヱ子からいちいち昨夜私が行きやしなかつたかと言われてつらい。夜出ないようにしてほしい。と言うようになりました。そんなことで私は非常に悩んで一そのこと二人を殺してしまえばさつぱりしていいというような気になりました。しかしいつどこでどう実行しようというわけでもなくばく然とした気持で二人を殺してしまえばいいと思つていました。しかしその反面四月に赤目に一緒に行こうとチヱ子やヤス子と白沢今朝造さんに言つたりしていたのですが、三月二六日の夜チヱ子から二八日に三奈の会の総会があるときいたその晩に、この機会を利用して二人を殺してしまおうという気になりました。

○被告人36・4・18検

私とヤス子がこういうことをしているのをチヱ子がいつから気が付いていたか知りませんが、昨年一〇月、この前申し上げた様に私とヤス子が関係したのち、一緒に歩いているところを見てから私を責めるようになり、ヤス子も責めるようになりました。ことに二月に入つてからはますますひどくなり、私とチヱ子の間もすつかり悪くなつて二月下旬からは、夫婦関係もしなくなりました。私の方から求めることもありませんし、チヱ子の方も知らんふりでその後は関係をしておりません。私が夜外出すると、仕事場に行つても、チヱ子はヤス子に「前の晩逢つたのではないか」とあたりちらすようになり、ヤス子は私に夜あまり出ないようにしてくれと言うようになりました。このように、チヱ子との間がすつかり駄目になりましたし、ヤス子はヤス子で私をさけるようになつたので、つい気がむしやくしやしてチヱ子もヤス子も殺してしまおうという気になつたのです。私がこのような気になつたのは三月に入つてからです。唯いつどうしよういうわけでもなくばく然と考えていました。警察では採石場ででもと思つたと申し上げましたが必ずしもはつきりそう思つたわけではありません。はつきり決つたのは二六日の夜、二八日に総会があると聞いてからです。

○被告人36・4・19検

三月に入つてから一層のことチヱ子とヤス子を殺してサツパリしたいと思つた。

右被告人の供述によると被告人は検察官主張の如くチヱ子、ヤス子との三角関係を清算するため本件犯行を敢行したこととなる。

然しながら

○高橋一已36・4・8検

チヱ子さんも、勝さんとヤス子さんとの関係は知つており、チヱ子さんが世間のこともあるからヤス子さんとのことを注意すると、その度に殴つたり蹴つたりしたとのことです。これは私自身チヱ子さんから聞いたことです。勝さんはこのような部落の噂にも平気な顔をしていました。

旨の記載に徴するときは被告人は右三角関係をさして精神的負担と考えていなかつたことが推知できるのである。

又、

○福岡二三子36・4・23検

先月のことです。農協婦人部の役員が三月一七日に有馬温泉に行くことになつたのです。葛尾からは私とチヱ子さんが行くことになつたのですが、その温泉行きのストツキングが欲しいと私とチヱ子さんが三月初め頃話していたのです。ところが先月一六日即ち旅行の前日ですが、夜チヱ子さんと会つたところ、チヱ子さんは「うちの父ちやんがストツキングとコンパクトを買つて来てくれた。」と言つていました。それが三月一五日に勝さんら男の役員が名古屋に行つたのですが、そのみやげだつたとの事でした。私は勝さんがチヱ子さんをいじめていると思つていたら三月頃にはチヱ子さんにコンパクト等を買つて来たというのですから勝さんもいいところがあるのだと思つたのです。この頃はチヱ子さんがヤス子さんのことをあまりくどいてはいなかつたと思います。三月一七日に有馬温泉に行きましたがその途中チヱ子さんの話では小遣銭五〇〇円を勝さんがくれたとのことであり勝さんに何か買つて帰らなければと言つており有馬で三〇〇円のタバコケースを買つて帰えられました。こんな訳で先月頃はチヱ子さんも勝さんとヤス子さんのことについては悩んでいた模様は見受けられませんでした。

○妻チヱ子よりその実母桂きぬ子宛の手紙(証第二八号)

お母さん昨夜はお電話有難う御座居ました。いろいろ心配を掛けすみません。色々と考えましたが勝さんも長い間こんな事も無いと思いますし子供の事も考えてやらなければならないし昨夜は一ばんねむれずに考えました。

もうしばらく心棒できるだけして見ようと思つています。私の婦人会の役員も後一ヶ月で後の人とかわりますしそれ迄に色々ひきつぎも有り自分の身でありながら色々心配が有りますしかえればおぢ様やお母さんに心配や世話を掛けると思つて色々まよい夜もねむれない有様です。お母さんなるべくなら名張にいてほしい様に思います。でも家の都合で仕方有りませんわね名張にいない様になると思うと淋しくて泣けてきて一人ないている時も有ります。大阪に行つても早く帰えつて下さいね勝久も淋しいといつております。大阪に行く日がはつきりきまりましたらおしえて下さい送りに行きたいと思つております。今のお金は出来ましたか。私に出来る事がありましたら言つて下さい。

末筆ながらおぢ様によろしくおつたへ下さい。お母様

○桂きぬ子36・9・18裁(チエ子の実母)

問、二月八日に来た時にはあなたに勝とのことについて何か訴えてましたか。

答、ええ言つてましたです。

問、どんなことを言つてましたですか。

答、二月に来た時には「まだ勝さんヤス子さんとのことを私がやいやい言うから勝さん怒つて『いね』と言うんや」とそんなことを言つていました。

問、チヱ子さんが帰つてからあなたチヱ子さんに電話したことがありませんか。

答、はあ、あります。

問、どういうわけで電話したんですか。

答、「勝さんが『いねいね』と言うから帰えろうかしらん」と言つてたから「もうそんなに言うんやつたら帰つて来たらええんやないの」と言いました。

問、電話で

答、いいえ、えびすさんの時に。「そんなら帰つた都合でそうするやもわからん。」と言つてましたんですけど、晩になつても帰つてきませんからどうなんやろうと思つて電話したんです。

問、チヱ子さんは電話に出ましたか。

答、はい出ました。

問、どう言つてましたか。

答、「帰つて行つたら勝さんもだれもなんにも言わせんから、まあ心配せんといてくれ、私、しんぼうしておいてもらう。」と言つておりました。

問、その後にチヱ子さんから手紙が来たことありますか。

答、はあ、来ました。

問、何時ですか。日、覚えありませんか。

答、覚えませんわ。

問、その手紙ちよつと見て下さい。(証第二八号を示す)

答、はあ、これはチヱ子から来た手紙です。

問、それは電話したあとに来た手紙ですか。

答、はい、そうです。

問、何か大阪に行くとか、行かんとかいうことが書いてありますね。

答、はい、

問、それはどういうことを言うんですか。

答、当時は私と主人と二人ですから、うちにいましてももつたいないから、私は大阪の工場へ通うと、そう言いましたんです。家政婦に行くと言いました時に「こんな勝さんが帰れ、帰れという時にお母ちやん大阪の方に行つてしまつたら、私帰るところがない、どこか泊りがけでないところに行つてくれ」と言つてました。

問、それであなた、結局通えるところに行くことにしたんですか。

答、はい。

問、どこに行きましたか。

答、大阪の布施に行きました。

問、その次ぎに来たのがお彼岸ですね。

答、そうです。

問、その時はどんなこと言つてましたか。

答、勝さんもこの頃は帰れ言わんし、どこか旅行に行つた時にはコンパクトやらなんやら買つて来てくれた。この調子やつたら勝さんももうええやろうと思うさかいに、心配さしたけどお母さん心配せんといてくれとそう言つてました。

○山田清36・4・16検

私は勝さん等と割に仲よくし、勝さんのことを兄貴、チヱ子さんを姉さん、北浦さんをヤス子さんとそれぞれ呼んでおりました。

この事件が起るまで勝さんの家には一〇回位遊びに行き、風呂に入れてもらつたり、泊めてもらつたりしたこともありましたが夫婦の仲が悪いということは気付きませんでした。……それからその日(二八日のこと)午後三時頃であつたと思いますが兄貴が上の採石場で石を落しており私が下で父と一緒に上から来た石を割つており、その側でチヱ子さんとヤス子さんが雑石やコツパ等の整理をしてくれておりましたが、その時兄貴が鉄砲のみと工具をとりに下へ降りてきたのですが、その時姉さんが「これ大き過ぎるで割つてな」といつて自分等でもてあましている大きな石を持つて言いました。その時兄貴はどういうわけか私には判りませんでしたが先ずヤス子さんの持つていた大きな石をこまかく割つてやり、次に姉さんの前の石をげんのうで割つたのですがその割り方がヤス子さんの時程親切にこまかく割つてやらなかつたようで、姉さんは兄貴に対して「ヤスさんのだけこまかく割つて、私には水臭いことをして行くわ」と大声で言いますと、兄貴は、「俺は鉄砲のみを取りに来たんやで、お前らのを割りに来たんやない」と言つてそのまま上へ行きました。そのとき私はチヱ子さんに「そんなこと言つたら家に帰つてから怒られるぞ」と言つてやりますとチヱ子さんは「今晩は帰らへんからええわ」と言つておりました。

○同人37・6・13裁

問、あなたは名張川の沿岸の石切場で石を切つておいでになつたことありますね。去年。

答、あります。

問、その当時被告人も一緒に仕事をしておられましたか。

答、(うなずく)

問、時々被告人の家へ風呂をもらいに行つたことは。

答、はいあります。

問、泊つたことは。

答、あります。

問、被告人の家庭、空気の悪い家か、いい家か、二つにわけるとどんなふうでしたか。仲の悪いようなところがあるような、特に奥さんとの間が勝君と何か悪いようなことをあんた、風呂をもらいに行つたり、泊つたりして感じたことはありますか。

答、泊つたことはありますけど、けんかなんかしているのは見たことがないんです。

問、奥さんがふくれていることも見たことない。

答、僕らに見せなんだ。そういうことは全然。

問、事件が起りましたなあ、あの前の晩の二七日にあんた風呂入りに勝君のとこに行きましたか。

答、はあ行きました。

問、あなた風呂に行つてそれ(テレビのこと)を見て表へ出て勝君を呼び出したことがありますか。

答、はあ、あります。

問、どういう用事で呼び出したのですか。

答、カメラ貸してくれといつて。

問、そしたら勝どう言いましたか。

答、いやあ、ちよつと具合が悪いとか。どこかへ行くから。

問、君は勝をいつ呼び出したのですか。君が帰りぎわに呼び出したのか。それともテレビを見ている途中で呼び出したんですか。

答、帰りぎわ呼び出すというよりもなあ、帰りしな外灯なんか電気つけてくれるその時に言つたと思う。

○白沢今朝造36・4・16検

この勝、チヱ子、ヤス子等は、仕事をする面においては別段欠点もなく、よく働く方でありました。この三人が三角関係にあるということは私も聞いた事があります。それは本年二月頃家野部落の人が寄つて酒を飲んだ時、誰であつたか忘れましたが私に「お前当てられせんか、あんな三人を雇つて同じ仕事を毎日していて」と言われ、私も内容を聞くと勝はヤス子さんと仲が良くなつているのに、本妻であるチヱ子さんをも一緒に雇つているのでは困るだろうという話でありました。

このような話を聞かされて思い出した事ですが今年の正月の会をやり勝、チヱ子、ヤス子、が私と一緒に飲んだ際私が冗談にヤス子さんに「俺今からお前の家に行くから酒をのませてくれるか」と言うとヤス子さんは「酒があるので来てもよい。」と応じていましたが勝は「ヤス子さんの家に行つてはあかん。」と止めた事があり、又二月終り頃作業場の小屋でこれ等の人と酒を飲んでいた時罐詰がありましたがこの罐詰を食べ終り汁だけになつたのをヤス子さんが口をつけて飲んだのですが勝が「俺にも飲ませてくれ。」と言うとヤス子さんは「うん、勝さん、私は罐詰のここに口をつけて飲んだのやから、あなたも私の口のあたりから飲みな」と言い勝はヤス子さんの口のついたところに自分の口をつけて飲んでいた事があり、チヱ子さんは、これを見て気分をこわし黙り込んでいたことがありました。……私は事件前の事でもう一つ記憶にあることがあります。それは花見のことでありますが、二月中の雨降りの日仕事ができないので私は名張市中町と思いますが映画館に勝、チヱ子、ヤス子及び山田清と行きました。このようなことがあつた後三月になつてこの映画に行つたことが楽しかつたという話から、誰からともなく皆で金を出し合つて又行こうということでした。そして花見時分にもなるので私が「花見に行こう」と言い出し初めは「平尾山に行こうか」と言いましたが「近すぎる」とのことで勝が「赤目がいいなあ」というので私も勝の言う通り赤目に行くことに同意し、四月二日に、私や勝、チヱ子、ヤス子等で赤目に花見に行くことに決りました。それが決つたのは三月の彼岸の中日より前のことでありました。

○重福一男37・1・17裁

問、一定の時間、家にもおられるし、風呂にもいかれるし、泊つた様子から考えて奥西棚の夫婦仲はどんなだつたか、どういうふうにあなたはごらんになりましたか。

答、非常に仲がよかつたと思います。

問、チヱ子さんとヤス子さんとけんかしたとか口争いをしたとかいうふうなことは。

答、全然見られません。

問、あなたが片平山をやめるころ、三六年の三月の中頃勝とチヱ子とヤス子、この間は相変らず仲が良かつたようですか。

答、別にけんかをしたとか、そういうことは見られなかつたです。

問、これまでと同じように仲よく仕事をしておつたと、こういうことですか。

答、はい。

問、このころに奥西勝がもの思いにふけるとか、或いはちよつと考え込んでいるというようなことはございませんでしたか。

答、ありません。全然そういうことはございません。

問、仕事の方は真面目にやつていましたか。

答、ええ真面目にやつてくれてました。非常にうれしかつたです。

右に挙示した関係者等の供述からは本件発生当時、被告人がチヱ子、ヤス子の両名を殺害しなければならない程追いつめられた状態にあつたとは認め難い。

動機について述べる被告人の供述調書の該当部分はたやすく措信し難い。

(二) 準備について

検察官は「……そしてチヱ子、ヤス子の二人を殺しても自分の犯行とわからないようにする方法や場所等につき、あれこれ考えているうち、たまたま同年三月二六日になつて三奈の会の年次総会が同月二八日の夜公民館で開催されることを知り、三奈の会にはかねて被告人、チヱ子、ヤス子の三人共に会員となつている外に、この総会では二、三年前からの慣例として、そのあと引続いて懇親会が催されて一同酒食を共にし、女子会員達にも男子側の酒とは別にぶどう酒が出されることになつており、仮にそれが出されないでもその代用として砂糖入りの燗酒が出されるものと予想されたので、この懇親会の機会を利用しその婦人専用の酒に有機燐剤の農薬ニツカリンを入れて飲ませる方法を思いつき、この方法によれば、女子会員中特に酒好きなチヱ子、ヤス子の二人を間違いなく殺せるが、二人の外出席の女子会員多数を殺す結果となつても犯跡隠蔽のためにはこの方法より外ないと考えるようになつた。そこで同月二七日夜自宅で女竹一本を適当に切つて竹筒一個を作り、これに同三五年八月九日頃黒田薬品商会から買受けて所持していた一〇〇cc瓶入りの農薬ニツカリンのうちから相当量をうつし入れてその用意をととのえた」旨主張し更に論告要旨三九丁以下において右の準備の点を敷衍して、「犯行は証拠を残さないようにやることとした。テレビで事件記者を見てそのように思つた。

三月二七日午後五時過ぎ頃採石場からの帰途、あらかじめ竹筒を作り、これにニツカリンを入れて会場へ持参し、適当な隙に女専用の方の酒に入れた後すぐその竹筒を会場の囲炉裏の焚火にくべて焼けば、証拠が残らない。ニツカリンの瓶の方は早いとこ何処かに棄ててしまえばよいと考えた。

二七日の夜七時頃、夕食中、石工の山田清が風呂に入り、テレビを見るために来たので、山田を先に風呂に入らせ、次に自分が入り、風呂からあがると普段着のジヤンパーに着換えた後、自宅柴小屋の東側の柴の積んである南寄りのところにあつた長さ三〇センチ、直径二センチ(厚さ二ミリ)の女竹一本をとり出し、風呂の前の板の間の物置と土蔵との間の通路で風呂場の脇の棚に置いてあつた竹切鋸で切つて、長さ六センチ位の竹筒を作つた。材料の女竹は八年位前に煙草栽培をしていた当時苗床の寒冷紗のふちに重しとして使用するため隣村の山添村片平の元区有林の馬尻山から切つて来たもので、切つてから直ぐ火にあぶり油抜きをしたので割れたりいたんだりしていなかつたものである。

竹の切残りは丁度焚いていた風呂の焚口に投げ入れて焼き、鋸は脇の棚に戻しジヤンパーのポケツトに入れてあつた茶色のナイロンの手袋をはめて、物置寄りの棚のボール箱からビニールに包んだままのニツカリンの瓶をおろして来て、風呂の焚口の前でそのビニールの口の方を少しちぎつて下にさげ、確かネジ式でベークライトか何かで作つてあつて金属製ではなかつたその栓をあけて、その竹筒に三分の二程入れて新聞紙半枚の三分の一位ちぎつて、竹筒の栓をし、残りの三分の二位でその竹筒を包み込みニツカリンの瓶と一緒に元のボール箱に納めておいた。(中略)

被告人は警察第一〇回調書(36・4・12司)において福岡芳次郎方へ行つたのは三月二六日で、三月二七日夜は何処へも出ていないと供述しているのでこの点を確認するため四月二一日菊池検事が被告人を調べた結果三月二七日夜山田清が夕食中に来たこと、それから入浴後着換えをして竹筒を作りニツカリンを入れたことを述べたのである。検察官がこの点に疑問をもつていると感じた被告人はすかさず否認の口吻を洩らしたが、間もなく自白に戻つている。

被告人は手記においても「三月二七日午後六時二〇分頃家に帰り、山田清親子が来て山田の父が先に風呂に入り、次に私が夕食をすまして風呂に入り間もなく出て、テレビを家の者と山田の父と見ており、山田の兄が風呂に入り、それが出てテレビを見て八時半頃山田親子が帰つた。私はヤス子との約束があつたので午後八時四〇分頃約束の場所でヤス子と一〇分か一五分逢つて福岡方へ行き、九時二〇分頃福岡方を出て帰宅したのは九時五〇分頃で、自宅で女竹に農薬を入れた時がない」旨主張するが、ヤス子に逢つたこと福岡方で長くいたこと等の主張はいずれも措信し難い(中略)。

三月二八日は妻より先に平素より二、三〇分も早く七時二〇分頃家を出て採石場に出かけた。家を出るとき竹筒入りのニツカリンはそのままにして置き、ニツカリンの瓶はビニールに包んだまま新聞紙に包み作業衣のジヤンパーに入れて持ち出し、採石場の手前の名張川沿いの舗装道路になつているところから、石の多い河原に降りてニツカリンの瓶を新聞紙に包んだまま流れに投げ込んだ。瓶は頭だけ水の上に浮いて一メートル位流れるのを見て引返した。」

と主張する。

この点について被告人の自白調書はニツカリンを

○36・4・2司ではぶどう酒に

○36・4・3司では酒に

○36・4・7司では酒瓶に

○36・4・9司では女用の酒に

○36・4・12司では酒瓶に

○36・4・14司では女用の酒に

○36・4・14検では女用の酒に

○36・4・15検では酒に

○36・4・16検では女用の酒に

○36・4・18検では酒に

入れようと考えたと述べており、

準備工作については

○36・4・2司(第三回とあるもの)二七日午後五時半頃、仕事から帰宅して午後七時頃夕食を家族のものと一緒に食べながら、このような悪いことを考えたのであります。それで実行するには、やはり後に証拠が残るようでは困ると思いましたので、夕食後自宅の風呂に入つてから作業服とジヤンパーを着換えてから棚のボール箱に入れてあるニツカリンを取り出し、自宅の北にある柴小屋から直径二センチ位、長さ三〇センチ位の女竹を出してきて、この棚の下で鋸で節を残して長さ六センチ位に切り、ニツカリンのビニールを破り、瓶のふたをあけて、作つた竹筒に三分の二位入れたのであります。そしてこの竹筒に新聞紙で作つた栓をして、新聞紙で竹筒を包んでボール箱の中にその晩入れておいたのであります。

瓶に残つたニツカリンは大体四分の三位の量がありました。これも同様ボール箱に入れて置きました。その翌朝仕事に行く前にボール箱から瓶入りニツカリンだけを新聞紙一枚に包んで作業服の上衣右ポケツトに入れて持つて行きました。その日私だけ一人先に働きに出たのであります。私の家から北へ細い道を一〇分位歩いて行くと舗装のしてある県道に出ます。私は毎日この道を通つて採石場の仕事場に通つておるのであります。舗装道路に出てから二〇〇米位北に行つたところに左側に有線放送の電柱が立つており、そこから河原へ降り岩の上を約二〇米位歩いて水の流れておる処まで行きそこで家から持つて来たニツカリンを新聞紙に包んだまま川に投げ捨てたのであります。瓶はふわふわと流れて行くのを見て県道に引返し仕事場に行つたのであります。

○被告人36・4・3司

そこで昨日申しました通り二七日夕食をすまして自宅の風呂でもこのことを考えいよいよ実行すると心に決めましたので、風呂を出てから適当な竹筒を探しに北の柴小屋附近に行きました。時刻は午後八時半頃であつたように思います。柴小屋の東側の柴の積んである南よりに長さ三〇センチくらい直径二センチくらいの女竹で節が一つありましたので、これをひろつて来て昨日申しました通り棚の下で風呂場の焚口の前でそばにつつてあるつるつきのこで節をつけて長さ六センチくらいに切り、節下一センチくらいを残して切り落し、他のいらぬ部分は風呂を焚いていましたので焚口にくべてやりました。のこぎりはもとの位置にかけ竹筒には昨日申しましたとおりニツカリンを入れて新聞紙で包んで更にこれを新聞紙片面大のもので包んでボール箱に入れて棚の上にしまつておきました。残つた瓶のニツカリンも同様申しました通りであります。私はその翌日朝仕事に出掛ける時妻より一足先に出たのであります。そして昨日申しました場所で川にニツカリンの瓶をビニールの袋をかぶせたまま投げ棄てたのでありますが、半頁大の新聞紙に瓶は包んでありました。

○被告人36・4・7司

竹筒を作つてこれに瓶からニツカリンを入れた時外へこぼれて手についたら危いと思いましたので私達夫婦の部屋においてある作業服のポケツトから茶色ナイロンの手袋を出してきてこれをはめて手にじかに液がつかぬように用心をして瓶から竹筒に入れたのでありますが少しもこぼさずに入れました。

○被告人36・4・9司

場所については私方風呂場と精米所の間の小屋の外壁にはしごがななめにかけてありますが、そのはしごのところで立つたまま精米所の方を向いて竹筒を作りました。何故このような場所で作つたのかといいますと当時家族のものは皆台所でテレビを見ておりましたのでこの場所なら誰にも見つからないと思いましたのと、精米所の入り口につけた臨時灯のあかりがさしておる場所でありましたのでこの場所を選んだのであります。作つた竹筒にニツカリン液を瓶から入れた場所は角を曲つた風呂の焚口前にある棚の横であり焚口と棚の間で、このときも立つていて左手に作つた竹筒を持ち右手でニツカリンの瓶を持つて竹筒に瓶の口をあててこぼさないように静かに底から四センチくらい入れたのであります。竹筒の長さは六センチであり更に節下一センチぐらいに切つたもので全部の長さは七センチぐらいでありました。竹筒にニツカリン液を一杯いれなかつたのは、栓が出来ないためと量がそんなに必要でないからであります。それに栓は新聞紙でありますから栓の先が液にあたらないように考えて入れたのであります。栓を作つた新聞紙やこの竹筒を包んだ新聞紙は表出入口の右側にある六畳の部屋に置いてあつたものであります。新聞紙に包んだ竹筒は、倒れぬようにして棚の一番上にのせてあつたボール箱の中に立てて入れておきました。このボール箱は前回申しました通りニツカリンの瓶を入れてあつた箱でありましてその晩ニツカリンの瓶とともに入れておいたのであります。竹を切つている時も、ニツカリン液を切つた竹筒に入れておる時も誰にも見つかつておりません。家族のもの皆が台所でテレビを見ており、妻チヱ子は台所で炊事のあとかたづけをしておりました。瓶や竹筒をボール箱にしまつて一番上の棚にこの箱をのせてから先刻切り残つた竹を風呂の焚口に入れてやりました。焚口は火がありましたから竹はもえてしまつたと思います。のこぎりを風呂の焚口の横手にかけて台所に入つて行きますと前に申した通り皆がテレビの前で坐つて見ておりました。炊事をしておる妻はその後続いて後片付けをやつており、一五分くらい子供達と一緒に見ておりました。私が台所に入つてきた時間は午後の八時頃であつたと思います。テレビで何をやつていたか、わすれてしまつて思い出せません。この時使つた手袋は自分達夫婦の部屋に行つてから作業服上衣のポケツトに入れましたが右であつたか左であつたか記憶がありません。私方の読んでいる新聞は三、四年前から産経新聞と一年位前から農業新聞をとつて現在まで続けておりました。

次にニツカリンの瓶を新聞紙に包んだ事について申します。その翌朝である三月二八日の朝午前六時五〇分頃起きて洗面をしてから家族の者より少し遅れて一人で朝飯を食べ急いで仕事に出掛ける用意をしたのであります。何時も持つて行く紺色のズツクの鞄の中に弁当を入れてからニツカリンの瓶を包んで持つて行く為表出入口右側六畳の部屋に行つて其の部屋に置いてある新聞紙の半頁のものを持つて中庭を通つて昨夜入れたニツカリンを棚にのせたボール箱から取り出しビニールの袋の冠つた上から新聞紙半頁でこれを包み作業服上衣右ポケツトに入れ便所の横から出て行きました。

問、ニツカリンの瓶に冠つたビニールはどの位破りましたか。

答、瓶の口の方から全体の三分の一位破つた様に思いますから瓶の太さより少し大きいめに破つたと思います。新聞紙に包む時には瓶の口の方から瓶全体の三分の一位は瓶がビニールから出ておりました。それをその儘新聞紙に包みこれを右ポケツトに入れて持つて出たのであります。放つた場所は前回にも申しました通り最初から計画した通りに川に捨てたのでありますから捨てた場所についても絶対間違いありません。

○被告人36・4・12司

問、あなたがニツカリンを入れて持つていく竹筒を作つた本年三月二七日の夜家からどこかに出て行つたことがありますか。

答、いいえ、どこへも出ておりません。前日の二六日の夜八時すぎ、農業協同組合当座貸越の契約書の用紙代と印紙代二〇円をもらいに私方より三百メートル下の方にある福岡芳次郎さんの家に行き、芳次郎さんに会つて代金をもらつて三〇分ぐらいで帰つてきました。この晩私が福岡さんの家に行く少し前石屋の山田清親子が私方へ風呂に入りにやつてきましたが福岡さんから帰つた時は親子とも帰つたあとでおりませんでした。

○被告人36・4・5検

ニツカリンは竹の筒に入れて持つて行つたものですが、この竹筒というのは女竹で前の晩に私が作つたのです。私の自宅で節を一つ残して長さ六糎位に切りましたが直径は二糎位だつたと思います。ニツカリンは風呂場の焚口の前の棚に置いてあつたもので瓶に入つたものでした、それを竹筒に移して六分目位まで入れて棚の上のボール箱の中に入れておきました。これを翌日である二八日の夕方会場に行く際ジヤンパーのポケツトに入れて持つて行つたのです。紙で栓をして更に新聞紙で包んで持つて行き会場で唯今申上げた様にブドウ酒に入れたのです。

竹の筒に入れた後瓶に六分目位残りましたがこの瓶も棚に上げておき翌日である二八日の朝仕事場(奈良県山辺郡山添村片平の採石場)に行く際持つて出て途中の川に捨てました。その捨てた場所は警察で申し上げましたし昨日はその捨てた場所に行つて説明した通りです。

○被告人36・4・14検

楢雄さんの家に行つたのは午後五時二〇分から半頃と思います。その際私は前の晩から用意していたニツカリンを竹筒に入れたものを持つて行きました。これは私の家の風呂場の前の棚の上にボール箱に入れておいたものですが竹筒にニツカリンを入れて新聞紙に包んでおいたものです。一頁大の新聞紙から半頁の三分の一位をちぎつてそれを丸めて栓をし残りの紙で包んでボール箱に入れておいたものです。ニツカリンの瓶入りも入れておきましたがこれは二八日朝作業場に行く途中で棄てたものです。

○被告人36・4・16検

家に帰つてからしばらくぶらぶらしていたと思いますが、それから夕飯を食べ風呂に入りました。私は大抵夕食後風呂に入るのです。風呂からあがつてから普段家にいる時の黒いジヤンパーに着替えましたが、それから竹の筒を作るのを始めました。竹なら燃えるから証拠がなくなつてしまうから丁度よい。瓶では燃えない。それで瓶ではいかん竹がいいと帰る途中で考えたので先ず、竹の筒を作つた訳です。竹なら多少水分を吸いますけれども吸つてしまえば後はいいし、割れていなければ大丈夫と思つたのです。そこで便所の前の柴小屋にあつた女竹を使いました。これは節が一つだけついていた竹で三〇センチ位の長さのものでした。八年程前山添村片平の私共の家から上の方に上つて一キロか一キロ足らず位の処にある区有林で細い竹の篠山というか笹山というかそういつた山から三本程太いのを切つて来てたばこの苗床の寒冷紗のおもりに使つたものですが、たばこの耕作をやめてからだんだんその竹を外に使つたか何かで見えなくなつてこの三〇センチ程のものだけが残つていたのです。油を抜いていたので割れたりいたんだりしていませんでした。それを持つて風呂の前の板の間と土蔵の間で鋸を使つて六センチ位の長さに切りました。警察では節の上六センチで節の下一センチ位あつたと申し上げたように思いますが、初めそう思つてそう言つたのですけれども実際は唯今申し上げた通り六センチ位の長さで丁度節の処で切れていたのでそれ位の長さに切つたのです。直径は二センチ位でした。厚さですが竹は元の方が厚く先の方がうすいものですが、この時のは普通の厚さで二ミリ位だつたと思います。両方で四ミリ位の厚さになつたと思います。使つた鋸はつるのついたもので普通竹を切るのに使うものですから私は普通竹切鋸といつていますが、つる付鋸というかもしれません。風呂場の脇の棚の上に置いてあつたものです。この棚は昨日申し上げたニツカリンその他を入れたボール箱の棚とは別です。このように竹を切つて筒を作つた場所ですが風呂場の電灯とそれに精米機を置いた小屋にも電灯がありそれをつけましたので夜でも竹を切ることができました。それから私は風呂の焚口の前に来て棚からニツカリンの瓶をおろして竹の筒に入れました。その瓶はビニールの包に入つていたのですが、口の方を破つて下にさげ栓はねじ式のものだつたと思います。手袋をはめてしました。茶色のナイロン製のもので作業場に通う時のジヤンパーのポケツトに入れていたものですが風呂場の入口から持つてきてはめたのです。竹の筒に六分目というか三分の二というかその程度を入れました。そして新聞紙の栓をしました。一昨日も申し上げた通り半ページの三分の一位をちぎつて栓をし、残りでその竹筒を包んでおきました。ニツカリンの瓶にどれ位残つたか良く見ていません。三分の二位も残つたか位に考えてそう申し上げたこともありますが見ていないのでわかりません。ビニールの包は口の方を少しちぎつて下げてニツカリンを入れたのですがそのままボール箱に入れておきました。竹の筒は六糎位の長さに作つたのですが実際計つて見た訳でありませんから正確にどれ位かわかりません。それに六分目乃至三分の二位入れたというのも目分量でその程度と思うだけです。この程度にニツカリンを入れたことについても別にこれだけでどうという根拠があつてそうした訳でもありませんが山添村でニツカリンの入つたウイスキーを飲んで死んだことは良く知つていますし、少しでも非常に強いものだということは知つていましたからこれ位で殺せるだろうと考えてその程度を入れておいたのです。この様にしてニツカリンを入れた竹筒とニツカリンの瓶をボール箱に入れて家の中に入りました。八時か八時過ぎ頃だつたと思います。その晩もチヱ子と喧嘩をしました。シヤツを洗つてくれと言つても洗わんと言いそんなことで口論をしました。こんなふうにすつかり夫婦の間が冷たくなつているので矢つ張りやつてやろうという気でその晩は寝ました。二八日朝採石場に行く途中でニツカリンの瓶を捨てました。新聞紙一枚に包んで持つて行き川に捨てました。

問、警察では半頁といつている様だが。

答、一枚といつた心算ですがそれを言い方を間違えたのかも知れません、とに角一枚の新聞紙に包んで持つて行つたのです。この朝一人で出ました。瓶を捨てた場所は名張川で警察の人を案内して示した場所です。新聞紙に包んだ儘川の中に投げましたが頭だけ浮いて一米位流れるのを見て引き返しました。捨てるのに其処を選んだのは普段その辺りに柴が流れて来て溜つているのでそれを拾つて作業場に持つて行つて焚いてあたるので良く其処の川原に降りるのでこの時も其処に降りて瓶を投げたのです。この様に川に投げようという気になつたのも証拠を残さないようにという考えからです。流れてしまえばそれで大丈夫と思いました。何処かに隠すのも一つの手ですが近くに隠しておくより川に流した方が一番いいと思つたのです。

○被告人36・4・18検

二七日に夕飯を食べた後風呂に入りました。風呂は焚かない日も勿論ありますが大抵毎日焚くのでこの日も焚いていたのです。私は夕食後風呂に入ることが多くこの日も夕食後一番先に私が入つたと思います。風呂から上つてからこの前申し上げた通り竹の筒を作りそれにニツカリンを入れたのです。竹の筒に新聞紙の栓をしました。これもこの前申し上げた通りで新聞紙一ページ(一枚)の内半ページの三分の一位で栓をし、残りで竹の筒を包んでボール箱に入れておきました。この新聞紙は入口の入つて右側の六畳の間から持つて来たものです。翌日の朝作業場に行く途中ニツカリンの瓶を捨てましたがこれも唯今の部屋の新聞紙で包んで作業場に通う時のジヤンパーのポケツトに入れて持つて行きました。

○被告人36・4・19検

度々申し上げた通り三月二七日の夜竹の筒を作つてそれにニツカリンを入れたのですがこの日は天気のいい日だつたと思います。この晩は何処にも外出しなかつた筈です。

○被告人36・4・21検

私の家では三月二七日は風呂を焚きました。二六日も焚いたと思います。山田清さんが風呂をもらいに来たのが三月二六日のように思われますが或いは二七日だつたかも知れません、ただここで思いつきましたが二六日の日は雨が降つたのでこの日は山田さんは来なかつたと思います、そうすると山田さんが来て風呂に入つたのはやはり二七日のようです。実はここで申し上げたいのは私は本件をやつていないということです。本当はやつていないのです。警察の調べで私がやつたと言い、今までもそう言いましたが違います。

問、そうすると本件の毒ぶどう酒で、五人が死んだのはどうして起つたのだろうか。

答、悪うございました。私がやつたのに間違いありません。やはり本当のことを申し上げます。三月二七日の夜山田清が来たと思います。七時頃だつたと思います。ごはんを食べているところに来たので先に風呂に入つてもらつたように記憶します。それから私が風呂に入り着替えをしてからこれまで申し上げてきたように竹筒を作りそれにニツカリンを入れたのです。竹の筒を作つた場所もニツカリンを入れた場所もこれまで申し上げてきた通りです。

○被告人36・4・23検

精米機の小屋の電灯は四〇ワツトくらいで三月二七日頃は、精米機の上につるしていました。物置小屋からコードで引つ張つて精米機の上につるしていたのですが鍬か何かをさしかけて精米機の頭の上になつているところにつるしておいたのです。精米機はじようご型で大きいところで直径約六〇センチ位でそれを入口のところから三尺位のところに置いてあつたものです。それに奥のモーターからベルトでつないでいたものです。

○山田清36・4・20検

三月二六日は雨が降つた日ですがその日は上野の家に帰つていたと思います。そして翌二七日に仕事場に戻つて来ました。従つて二六日には勝の家には行つていないと思います。二七日夜、私は勝の家に風呂に入りに行つたことを記憶しています。それは上野から戻つた日にはよく勝の家に行くし、又二七日は月曜日でテレビが面白いので勝のところに風呂に入るかたわらテレビを見せてもらいに行つた訳です。私はその二七日に午後七時半から始る「番頭はんと丁稚どん」と八時から始る「独眼流参上」を見た記憶があります。この「番頭はんと丁稚どん」を勝の家で見たのは上野の私のところのテレビなら4チヤンネルも良く入るが、勝のテレビは4チヤンネルの画面が悪くチラチラするのですが、その時もチラチラした画面でその「番頭はんと丁稚どん」を見た記憶があります。

○同人36・4・24検

昨年一二月頃から勝さんの家に風呂を貰いに行つたがその頃は風呂場に入つて右側の高い所に四角に壁を切り抜いてそこに小さな豆電球がついていました。その明るさは良く判りませんが五燭位のものかと思います。ところが今回の事件の起る一ヶ月位前に風呂に行つたらその電燈設備が今までの反対側即ち風呂場に入つて左側の洗場の上に新しく移されていました。それからの電気の明るさは何ワツトか判りませんが私の感じでは工事前よりも風呂場の中が明るい感じがしました。風呂に行つたのが二七日であつたことは後で作業日報も確認しました。

○富士建設合名会社作業日報(証第四一号)中の

昭和三六年三月二六日雨 全員休

〃 三六年三月二七日曇 山田親子、奥西勝、白沢今朝造、奥西チヱ子、北浦ヤス子、重福の七名出勤就業した旨の記載。

○山田清36・5・9検

三月二七日夜私が勝の家に風呂をもらいに行つた時のことについて申し上げます。……私と父は夕方まで仕事をしており……そしてその夕方石切場で私、父、弟二人と食事をしたのち、勝の家に風呂をもらいに行くことにし、私と弟二人が勝の家に行きました。勝の家についたのは午後七時少し過ぎたころで勝の家では皆が食事をしていたようであり私共は玄関を入つたところにある小縁のところにかけていました。勝の家に行つて少しして、風呂に入れてもらいましたが、私が風呂に入るのと勝が入るのとどちらが先であつたか記憶がありません。私が風呂に入つたのは午後七時二〇分頃であり風呂に二〇分ぐらい入つてあがりました。私があがつた時テレビは「番頭はんと丁稚どん」をやつておりその場面にサーカスの客引が笛を吹いて歩いているあとを大村昆がくつついている場面があつたのを覚えています。……又、治(清の弟)が「番頭はんと丁稚どん」に続いて八時からはじまる「独眼流参上」を見ると言つておりその画面も出ましたが、私は父が石切場で待つているから早く帰ろうと話して勝の家を出ました。したがつて「独眼流参上」は全部見ておらずその前半だけ見たのですがどこまで見たか又、その内容等は記憶がありません。

○同人37・6・13裁

問、事件が起りましたな。あの前の晩二七日にあなた風呂入りに勝君のとこに行きましたか。

答、はあ、二七日。

問、その時に、風呂の前後テレビを見ましたね。

答、はあ。

問、そのテレビは「番頭はんと丁稚どん」「独眼流参上」というのでしたか。

答、はあ。

問、あなた風呂に入つて、それを見て、表へ出て勝君を表に呼び出したことがありますか。

答、はあ、あります。

問、どういう用事で呼び出したんですか。

答、カメラ貸してくれと言つて。

問、あなたがどこかへ旅行するんですね。

答、はあ、青年団かな。

問、青年団で旅行するのでカメラ貸してくれと言つて呼び出したの、表へ。

答、ええ。

問、そしたら勝どう言いましたか。

答、いやちよつと工合が悪いとかどこかへ行くとか。

問、君は勝を何時呼び出したのですか。君が帰りぎわに呼び出したのか、それともテレビ見てる途中で呼び出したのですか。

答、帰りぎわ呼び出すというよりもな、帰りしな外燈なんか電気をつけてくれるその時に言つたと思う。

問、あなたが勝君のところへ風呂もらいに行きますな、そういう時は君等普通部屋どこに行くんですか。

答、台所に全部坐つて。

問、テレビの見えるところ。

答、うん。

問、と、あなたやあなたのお父さんなんかが勝君とこへ行つた際どうだろう。君なんか勝手にテレビを見、風呂へ入つて、済んだらもうさつさと帰つて来るのか。君なんかが勝君とこへ行けば、勝君は君なんかの相手をして少しはしやべつたりなんかしているんですか。

答、相手してくれる。

問、君等が来てるのに、君等をほつたらかしておいて、どこかに行つておるとか、風呂入つている場合は別だけれども、風呂入つてるんでなくて、君等が来てるのにほつたらかしておいてどこかに行つておるということはありますか。

答、そんな時はなかつたと思う。

問、君なんかが来ていれば相手をしてる。

答、帰る頃までいてくれるけどな。

問、世間話をしているわけなの。

答、うん。

問、そのカメラの話ですけど、世間話なんかして相手をしてくれてる時に、あんたの方からカメラ貸してくれんかと切り出したらよさそうに思うんだけど、どうしてその際は切り出さなかつたんだろう。

答、その時は忘れてたか、なんかやな。帰りにフツト言うくらいだから。別に呼び出して別にそのことだけ聞いたというわけでもないさかい。

問、君が勝君をかど口のところに呼び出して頼んだわけなの。玄関のところに呼んで。

答、はあ、帰りに送つてくれるのに、あそこへ出て来てくれるんでな。

問、その時君頼んだの。

答、うん。

問、じや君が行つてる間に勝君がどこかへ行つてしまつておらなんだという関係で、わざわざ玄関口に呼んで頼んだという事情ではないんだね。

答、うん。

○山田治36・5・9検

山田清は私の兄です。ぶどう酒事件のあつた前の日、私は兄清弟憲三の三人で勝さんの家へ風呂に入りに行つたことがあります。風呂に入るためその家に行つたのは午後七時過ぎ頃と思います。兄が風呂からあがつてから私に「風呂に入り」と言うので私と勝さんとこの子の勝久さんと一緒に風呂に入りました。私が風呂に入つたのは何時頃か忘れました。そうしてその後、その家で「番頭はんと丁稚どん」というテレビを見たことは覚えています。私はこのテレビに続いてある「独眼流参上」というテレビを見ようと思い、そのテレビが始まりましたが兄が早く帰ろうというので独眼流参上は全部見ることができませんでした。帰る時はまだ初めの方をしていたと思います。

○産業経済新聞36・3・27付(証第三〇号)テレビラジオ欄

番頭はんと丁稚どん 毎日テレビ 午後七時三〇分~八時

独眼流参上     読売テレビ 午後八時~八時三〇分

浪曲歌合戦     朝日ラジオ 午後八時三〇分~九時

○福岡二三子36・4・20検

三月二八日の事件前に奥西勝さんが私方へ来たことがあります。それは三月二七日のことであります。勝さんが来たのは夜八時頃で一人で来ました。私方に来た関係は詳しくは忘れましたが四〇円を取りに来たのです。勝さんは家の中にはあがらず、金を受取つて直ぐ帰つて行きましたから私方には、四、五分弱しかいなかつたのです。この勝さんが来たのが二七日であることは次のことから記憶があります。それは農協婦人部の金を集金することになつており、未だ二、三軒未収金になつている家があつたので、そのことにつきチヱ子さんに話をしようと思いました。そこで私は有線放送の電話をチヱ子さんのところにかけたのですが、その夜に勝さんが今申したように来たのです。そんなわけで私は勝さんが来た時にその集金のことを尋ねておけばよかつたなあと後悔し、尋ねそこねたために直ぐ後勿論同じ日の夜ですが、チヱ子さんに電話したことを記憶しています。

○福岡芳次郎37・7・6裁

問、三月二七日に農協の立替え印紙代と用紙代を奥西君があんたのところにもらいに来たことわかつていますね。

答、はいわかつています。

問、それは時間が何時頃だつたかはつきり記憶ありませんか。

答、はつきり何十分という時間までわかりませんけれども記憶にほぼ覚えておりますのは八時三五分か四〇分ちかくと思います。何故かといいますと神谷花子とこの子供が学校を出まして、今度高田工場へ行くというので私は夜さり早く餞別を持つて行きました。そして帰つて来たら「お父さん浪曲始つたとこや」と、八時半の浪曲歌合戦の始つたとこやと、私は浪曲好きです。それで、直ぐ入つてちよつと聞いたか聞かんうちに金をとりに来てくれたと、それでお父さんと言うたので嫁に「そこに銭あるからやつてくれ」と言つたら「ひとの言うたことはわからん」と言うたので、わしは出て渡して直ぐ又聞きに部屋に入りました。それで九時になつておりませんと思います。

右に掲げる被告人の自白調書によるときは、被告人は検察官主張の如き準備行為を為した如くである。しかしながら山田清、山田治、福岡二三子、福岡芳次郎の供述や証第三〇号、証第四一号の記載に徴すると被告人は三月二七日午後七時過ぎ頃から片平山作業場の同僚である山田清とその弟治、憲三の来訪を受け、同人等は被告人方でテレビを見たり、入浴をしたりして午後八時過ぎ頃までいた後に被告人方を辞去しているのであるが、山田清はその帰り際に戸口のところで被告人にカメラを貸して欲しいと申し入れている。被告人はこの後に福岡芳次郎方へ行つているのであつて被告人が福岡芳次郎方へ着いた時刻は午後八時半過ぎである。

被告人の自白調書を通読して不審に堪えぬことは被告人は四月二一日菊池検事から注意されるまでは山田清が入浴に来たのも福岡芳次郎方に集金に出掛けたのもいずれも二六日であると答えている。この四月二一日調書中で述べられていることも一部否認の点を除き極めて平凡で、山田清が来ているのに如何にして竹筒を作つたかの説明がなされていない。

我々の常識からすれば、如何に図太い人間でもニツカリン入り竹筒を調製するような殺人の準備行為を為すに際つては、他の人に気付かれまいと細心の注意を払うであろう。準備行為をしようと考えている時、同僚がテレビを見に来たり、風呂に入りに来ては「これはまずい」と考えるのが通常であり、邪魔な来訪者は一刻も早く帰つて欲しいと希望するのが人情である。この脳裡に鮮明に残つているべき筈の山田兄弟の来訪の事実を事件とは関係のない二六日と説明して来たのは何故であろうか。理解に苦しむところである。又四月二一日の菊池検事に対する説明も物足らぬものが感じられる。

「家族や来客は台所でテレビを見たり、その近くの風呂に入浴したりしている。妻は勝手流しで食事の後片付けをしている。広くもない被告人の家で、被告人は来客の相手もせずに裏の柴小屋に女竹を探しに行き、これを物置わきの通路で切り、六畳の間から新聞紙を、被告人夫婦の間から作業用手袋をそれぞれ持ち出して、風呂場焚口前でニツカリンを竹筒に移し入れた上その口に新聞紙の栓を詰めて準備を整えた」というのが検察官の主張であるが、右の時間中何人にも不審を抱かれずにこのような行為を為し得るであろうか。仮に誰にも気付かれずにこのような行為を為し得たとしても、斯かる場合、山田兄弟の存在は大きな障害物として映じない筈はないのである。しかるに、山田兄弟が来ていたので、これが気がかりで準備をするのに妨げとなつて困つたという趣旨の供述は何処にもこれを見出すことが出来ない。この点に触れないで準備の説明をしている被告人の供述は不自然である。

又被告人の自白によると風呂場の焚口の前で立つたままで直径二センチ位、長さ六センチ位の竹筒中にニツカリンを移し入れたとなつているが、当裁判所が昭和三七年七月五日夜間被告人が自白調書中で述べている条件のもとで、風呂場焚口前においてニツカリン一〇〇cc入り瓶から六センチの女竹筒に水を移し入れる実験を試みたが、風呂場焚口前は暗く、手さぐりで水を移し入れはしたものの、あふれ出てしまい竹筒の三分の二までで注入を止める加減をすることはできなかつたのである。焚口前でのニツカリン注入行為は不可能と認定せざるを得ない。

更に、被告人はニツカリン瓶を翌二八日出勤の途中で名張川の流れに投棄したと説明しているので捜査陣は被告人の指示する附近一帯を海女を入れ、潜水夫を雇い懸命に捜索をしたが、名張川からはニツカリン瓶を発見することができなかつた。

以上の検討から、当裁判所は被告人が準備について述べるところは重要な点において不自然、不可能の点が存し、信用することができないと判断する。

(三) 実行について

検察官は、被告人は三月二八日午後五時二〇分頃右準備したニツカリン入りの竹筒を上衣ポケツトに忍ばせて自宅を出て、会場に出掛ける前、隣家の奥西楢雄方に立寄つたところ、同家表玄関上り口の小縁に当夜の飲料として瓶詰ぶどう酒(三線ポートワイン)一、八リツトル入一本と日本酒二本が用意されていたので、その瓶詰ぶどう酒にニツカリンを入れようと最後的決意をかため、直ちに右三本の酒を一人で携えて公民館に運び、一先ず館内囲炉裏の間の流しの前あたりに置いたが、一足遅れて会場準備のため入つて来た坂峰富子が雑巾を取りに楢雄方に戻り、館内に居るのは被告人唯一人となつた隙に乗じ、ひそかに右瓶詰ぶどう酒の栓を抜いてそのなかに所持していた右竹筒入りのニツカリンを四乃至五cc位入れた上栓と包装紙を元通りにしておき、同日午後八時前後総会が終り、間もなく懇親会にうつつた席上に右ニツカリンの混入されたぶどう酒瓶一本を出させ、その全量を出席の女子会員二〇人に各自の湯呑茶わんに分け注いで飲ませ、二〇人全員を殺そうとした。」と主張する。

検察官の主張は被告人が公民館で唯一人になつた時間以外には、ニツカリンをぶどう酒に混入する機会を有した者はいない。従つて犯人は被告人であるというのであるが、さきに第三において認定した通り、ぶどう酒が楢雄方に届いた時刻は四時前であるから、このぶどう酒の中に毒物を混入し得る機会は、

〔A〕、ぶどう酒が玄関小縁に置かれてから、被告人が五時一五分頃楢雄方に現われるまでの時間。

〔B〕、検察官が主張している被告人が公民館に唯一人でいた時間。

〔C〕、Bの後に続く八時の開宴までの約二時間半の時間。

の三場合が考えられる。A、C、の存在を看過することはできない。

被告人は当公判廷における供述、及びその手記の中で、自分は一人で公民館にいたことはないと主張するけれども、

○坂峰富子36・4・7検

事件当日総会のあつた日五時のサイレンが鳴りましたので、私は家を出たのですが奥西楢雄さんの家にまず行つたのであります。するとフミ子さんは「こつちのごはんまわりは私の方でやるからあんたは会場の方へ行つてくれ」と言いますので私が会場の方に行こうかなと思つたときに奥西勝さんが入つてきました。勝さんは役員でもないし必ずしもこんなに早くから会場の準備をしたりする必要はないわけですが、私としてはチヱ子さんが勝さんに手伝うように言つたので勝さんがやつて来たのかなあと思いました。すると勝さんは入つてくるなり「お寺に行くけど何か持つていくものはないか」と言いましたのでフミ子さんが「そこにある酒を持つて行つて」と言いましたので勝さんがそこに置いてあつた酒二本ぶどう酒一本を三本とも自分一人でかかえて奥西さんの家を出て……私より二、三歩先きにさつさと行つてしまいました。……勝さんが、二、三歩先きに奥西楢雄さんの家を出た時間は五時一五分頃だと思いますが私が勝さんにつづいて楢雄さんの家を出ましたら井岡百合子さんに会いました。……私が勝さんより四五秒くらい遅れて公民館についたことになるということです。私は公民館の入り口から入りましたら勝さんは囲炉裏の端に坐つてあぐらをかき、お酒やぶどう酒の瓶を流しのかどに置いて何もしないで坐つておりました。私は持つてきたお盆を流しの下側の勝さんの持つてきた酒やぶどう酒と反対側のかどに置きすぐに机をならべはじめました。机をならべてみますと机が非常によごれており、雑巾でふかねばならないと思い……私は「雑巾を取つてくる」と勝さんに言うこともなく言つて楢雄さんの家に雑巾をかりに行きました。私が公民館を出た時間は五時二〇分頃と思います。

奥西楢雄さんの家を出て(雑巾と竹柴を持つて)公民館の方へ歩いてきました。ちようど私が宮坂さんの家の前あたりまで来た時、石原房子さんが「遅うなつてすみません」と肩越しに声をかけてきました。その時石原さんは「五時二〇分で二〇分超過やな」と言つていたので私はその会つたときに五時二〇分かと思いましたが後からよく石原さんに聞いてみますと自分の家で時計を見ていて五時二〇分になつたから家を出てそこへやつてきたということですから五時二五分から三〇分頃というのが本当の時間ではないかと思います。そしてそれから間もなく石原さんと一緒に公民館につきその中に入りますと勝一人が前と同じ場所にぶどう酒と酒の瓶を置いたまま自分も同じ場所にあぐらをかいたまま何もしないで囲炉裏のそばに坐つていました。

○坂峰富子36・8・21裁

被告人「ぼくが倉庫の前で牛を追つていた時ですな、自分は倉庫の前で牛がとまつたのでとまつていたら富子さんが家の方からおりてこられて会場の方へあがつて行かれましたがあがつて行かれませんでしたか」

坂峰「私は五時のサイレンが鳴つて家から出て倉庫の前で神谷花子さんと会つて話をしたのです。勝さんの姿は見ませんでした。……私は公民館へ行かずに楢雄さんの家へ行つたのですけど」

被告人「入つてこられた時に自分は「誰か先に来てくれてんな」とお尋ねしたら「うちが一度来たんや」とこういうふうに自分は聞きましたけど。」

坂峰「そんなことは絶対に言いません。」

○石原房子36・4・8検

総会の当日私は四時二〇分ごろ勝さんチヱ子さんヤス子さんたちが石切り場から帰つてくるのを見たのですが、いろいろ仕事があつて遅くなり、五時二〇分頃に家を出てから普通の速さで歩き、葛尾の青年会館のあたりにある標柱の所まで来ましたら、ちようど私と反対側から竹の小柴を小脇にかかえて歩いてくる坂峰富子さんに会いました。私はその時に「えらく遅くなつてすみません」と言いまして……富子さんより五、六歩遅れて公民館に入りました。私は二〇分遅刻やと言つておりますがそれは私が家を出る時自分の家の時計が五時二〇分であつたのでそのように言つたのです。……私が富子さんにつづいて公民館に入りましたら、勝さんが囲炉裏と玄関の間ぐらいにひよろつと立つておられましたので私は「えらい遅うなりました。」と勝さんに挨拶しました。

○井岡百合子36・4・11検

私が米をといで三人(井岡百合子、フミ子、チヱ子)いろいろ面白いことをやかましく言うておりましたらそこへ富子さんが入つてきましたので、そこでフミ子さんか私かが「こちらのめしまわりなどは三人でやるさかい。あんたは会場の方の準備をしてきて」と頼みましたら富子さんが「はい」と言つて引きかえしかけましたので私は自分の茶碗やお皿やお盆を包んである風呂敷を持つていつてもらおうと思つて私はちよつと追いかけてゆき、入口のあたりでその風呂敷ごと富子さんに渡しました。すると丁度その頃、勝さんがちよつと富子さんより遅れて入つて来て「なんぞないか」というようなことを家の奥の方に向つて言いましたのでフミ子さんが「酒」とかなんとか言つたように思いましたが勝さんがさつさと外に出て行つてしまい、あとで見ますと入り口の小縁の所に置いてあつた酒とぶどう酒の瓶がありませんので、勝さんが持つていつてくれたものと思いました。今から考えると誰も会場に集つていない時に役員でもない勝さんがやつてきて酒とぶどう酒を運ぶというのは妙な話ですが……たいして気にもとめませんでした。……すると約五分から十分ぐらいして富子さんが楢雄さんの家に入つて来て「雑巾」と言いますのでフミ子さんが「もう掃除はしてあるやろ」と言いますと、富子さんは「机の上をふくのやで」と言いましたのでフミ子さんはすぐ雑巾を出しますと「柴」といつて柴を受け取り、間もなく柴と雑巾を持つて富子さんは出ていきました。

○新矢了36・4・11検

私は二八日五時半ごろ帰つてきました。……公民館の電線の具合が悪いから直してくれと神谷逸夫さんから頼まれていたので公民館へ行つて直しました。……この間に公民館に来た人は奥西勝さん、坂峰富子さんの二人です。勝さんと富子さんは私が庭先で碍子を選定しているとき、前後して上つてきて公民館に入つていきました。……富子は私が玄関のわきの壁にはしごをかけて作業しているとき出ていきました。勝さんは公民館の中に入つたままでした。

右に挙げる関係者等の供述により、被告人が唯一人公民館に居つたこと。その時間が約一〇分間位継続したことが認められるので被告人の主張はこれを採用することができない。

さて、被告人はぶどう酒にニツカリンを混入する前後の模様について如何に説明しているであろうか。

○被告人36・4・2司

入口近くに置いてあつた酒一本を左小脇に、一本を左手で、ぶどう酒を右手に持つて出ようとしますと、この時坂峰富子さんが柴を持つて会場へ出掛けて行くところでしたので、二人で一緒に私の家の前を通つて近くの宮坂健勇さん宅のあたりまで来た時、すぐ後からやつて来た石原房子さんが追いついたので、女二人は話をしながら歩き出したので、私は先に歩いて会場である蔵福寺玄関から上にあがつたのであります。この時、寺には誰もおりませんでした。囲炉裏の切つてある部屋にあがつて、北側にある流しと押入れの中ほどの前に酒瓶二本を立ててすぐ「今が機会だ」と思いましたので持つて来たぶどう酒を包んだ紙を開いて、囲炉裏に置いてあつたはさみ火ばしで王冠をつき上げてとつてしまいました。この時王冠の上にまきついてあつたまき紙も一緒に切れてその場に落ちました。急いでおつたので王冠がどこにいつたのか、巻き紙がどこに落ちたのか、唯今ちよつと思い出しません。それですぐ残つた金ぶたを口でかんであけ、ポケツトから用意してきたニツカリン入りの竹筒の新聞の新聞包を取り出し、竹筒の栓をぬいて、ぶどう酒の瓶の上に持つて行き、ちよぼちよぼとニツカリン液をぶどう酒の中に入れてやつたのであります。そしてすぐぶどう酒の金ぶただけもとのようにはめこみ、包装紙で包んでもとのように並べておきました。竹筒に入れたニツカリンは全部入れたのでなく、まだ半分量が竹筒に残つておりましたのですぐ栓をして新聞紙に包み、囲炉裏にある三徳の上にのつておる茶釜の下に入れたのであります。

この時坂峰富子、石原房子さんの二人が入つて来ました。

時刻は五時四〇分ぐらいであつたと思います。

この自白は被告人が「私は毒ぶどう酒事件の犯人です。」と前置きして述べている供述調書の実行に関する部分である。このあとの自白はニツカリンをぶどう酒に混入したこと、その時に火ばさみで王冠をつき上げ、王冠がどこに飛んでいつたかわからないということ、内ぶたを歯でかんで開けたということ、包装紙はもと通りにしておいたということは、ほぼ一貫して維持されている。しかしニツカリンをぶどう酒に何時混入したか、という点については非常に大きく動揺している。以下更に実行に関する自白調書を掲げそれを検討しよう。

○被告人36・4・3司

仕事から帰つて愈々会場へ行く時昨夜用意した竹筒入りニツカリンを持ち出して行きましたが、これも昨日申した通りであります。奥西楢雄さんの家に行き「お茶をわかしに行くが何か用事ないか」と尋ねに行つたのでありますが、この頃私の考えでは酒瓶にニツカリンを入れる機会がなかつたら次ぎの機会を待つより仕方がないと思つておりました。楢雄さんの家に行つて婦人用としてぶどう酒が今夜出ることを知りましたので、そこでこのぶどう酒にニツカリンを入れ込む考えを持つたのであります。ぶどう酒は毎年総会の時婦人用として出されておりましたので、ぶどう酒の置いてあるのを見て、今年も婦人用として出ることを知つたのであります。昨日申しました通り、私と坂峰さんの二人で一緒に会場に出掛けましたが、途中後から来た石原房子さんが追いついたので、女同志が話をしながら歩き出したので、私は一人で先に寺に着いたのでありますが、これも昨日申した通りです。寺に誰もいなかつたので「今ならやれる」と思いあわててぶどう酒の王冠をはさみ火ばしの先で外し取り、口で金蓋を噛んで取りニツカリンを入れたのですが、このことについても昨日申した通りです。王冠もその上に巻いてあつた紙テープも畳の上か囲炉裏の中に落ちたままになつていると思います。短時間でやつた仕事でありますから王冠まで元通り蓋の上にかぶせることが出来ませんでした。金蓋は元通り瓶の口に急いではめこみましたが歯の跡が多少ついているかも知れません。終ると同時にニツカリンは茶釜と三徳の間に隠すようにして入れたのです。その時坂峰富子さんと石原房子さんの二人が入つて来ましたので、急いで富子さんの持つて来た竹柴をもらつて、茶釜の下に入れ、持つていたマツチで火をつけたのでありますが、茶釜には古い水が少し入つていたので急いでこの部屋の裏側障子をあけて直ぐ流しの水道より水を入れて三徳にかけたのであります。そして私は茶釜の傍に坐つて湯をわかしているように見せながら、誰にも気づかれないように完全に竹筒を焼いてしまつたのであります。

○被告人36・4・7司

昨夜用意した竹筒入りニツカリンを新聞紙に包んだまま右ポケツトに入れて「愈々やるぞ」という気持で隣りの楢雄さんの家に準備の手伝いに来たように見せかけて顔を出すと、奥の炊事場で井岡百合子さんが炊事を手伝つている様子でした。坂峰富子さんは表出入口の入つた庭に立つておりましたので、私は「茶をわかしに行こうと思つておるが、誰か行つておるか」と尋ねますと、富子さんは「まだ誰も行つていない。これから行こうと思つているところや」と申しました。私はこの家に来た時表出入口左側小縁に目的の酒二升とぶどう酒が置いてあるのをすぐ見つけました。それで私は富子さんに「これ、今晩の酒か」と尋ねますと「そうや」と申しますので「ぶどう酒もあるのか」と申しました。そこで富子さんは「それ持つて行つて」と申しますので「そうか」と言つて酒一本を左小脇にかかえ、一本を左手で持ち、ぶどう酒一本を右手に持つて楢雄さんの家を出たのであります。前回富子さんは、この時竹柴を持つていたと申しておりましたが、これは私の思い違いでした。この時は風呂敷包を両手に持つておりました。私は富子さんより一足先に会場に出掛けたので、富子さんが私よりどれ位離れて後から来たか確かな記憶はありませんが、私の歩いた道は楢雄さんの家から表通りを真直ぐ行かず、私方前の細い近道を通つて寺の正面に上つて行く坂道を通り、寺(会場)へ着いて直ぐ表出入口から囲炉裏の切つてある部屋に入つて流しの押入れ寄りの前の方に持つて来た酒二本とぶどう酒一本を置いて、置いた酒瓶を背中にして、囲炉裏にかけてある茶釜の前辺りに坐つた時、富子さんが入つて来て、机の積んである部屋に入つて行き机を会場の部屋にならべておりました。富子さんの持つて来た風呂敷包は何処の部屋に置いたのか記憶がありません。富子さんは間もなく会場を出て行きました。何を持ちに行つたのか聞いていなかつたので知りません。この点前回までは思い違いをしておりすみませんでした。そこで私は、会場で一人となりましたので、「この機会に入れなければ」と思い、囲炉裏の中に置いてあつた火ばさみを持つてぶどう酒を包んだ紙を上の方だけめくり、火ばさみの先を王冠にあて、ぶどう酒の瓶の首を左手で握り、右手で火ばさみの先を二、三寸位あけて握り、力をいれて王冠を外したのであります。王冠は何処へ落ちたものか記憶がありません。王冠の上に巻いてあつたテープもその時切れて落ちたと思いますが、これも何処に落ちたものか、気がせいておりましたので見届けておりません。すぐそのまま畳に底をつけたまま口を持つて行き、金蓋を歯で噛んであけたのであります。そして、すぐ右ポケツトに入れて持つて来た新聞紙に包んだ竹筒を取り出し、栓を抜いて急いでぶどう酒の瓶にニツカリンを入れたのであります。その量は竹筒に入れた量の三分の二位で三分の一は竹筒に残しました。この竹筒は前回説明しました通り直径外側二センチ位、竹肉厚さ二ミリ位、直径内側一センチ六ミリ位、長さ節底より六センチ位のものに底から四センチ位までニツカリン液を入れて来ましたから二センチ六、七ミリ位の量(竹筒)がぶどう酒の瓶に入つたわけで、竹筒に残つたのが一センチ三、四ミリ位です。ニツカリンを残したのは、これ以上入れると臭いがして判ると困ると思つたのです。早速ぶどう酒の金蓋を元のようにしてめくつた包装紙で包み、上をねじておいたように思いますが、この点竹筒の方が気になつており、急いで竹筒を先程の新聞紙で包み、これを茶釜の下へ入れました。前回説明した通り、約七・八升水が入ると思います。大きな三徳の上にかけてありましたので、茶釜の底の下に隠すようにして入れたのであります。この仕事が終ると間もなく坂峰富子さんと石原房子さんが入つて来ました。石原さんは私に「遅くなりました」と挨拶をしておりました。私は今坂峰富子さんが持つて来て、茶釜の横の囲炉裏の中に置いた竹柴を取つて茶釜の下に入れ、自分の持つていたマツチで火をつけたのでありますが、見ると茶釜には古い水が底に少し残つておりましたので急いでこれを裏の障子をあけて捨て、釜をかけ、直ぐ水道から洗桶(金属製)に汲んで茶釜に入れたのであります。この時富子さんと房子さんは会場の準備にかかつておりましたが、私がこのように恐ろしいことをしたことは全然気がつかなかつたと思います。ぶどう酒瓶の金蓋は右の歯であけました。

○被告人36・4・9司

問、あなたは、ぶどう酒にニツカリンの液を入れることを決意したのは何時ですか。

答、三月二八日午後五時過ぎ私方隣りの奥西楢雄さんの家に行つた時、表出入口の入つた直ぐ左側の小縁に酒二升とともにぶどう酒が置いてあり、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞かされた時でありました。(中略)私がニツカリンをぶどう酒に入れることを決意したのは先刻申しました通り楢雄さんの家に行つて、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞いた時であります。時間は午後五時一〇分から二〇分までの間でありました。確かな時間は時計を見ておりませんので判りませんが、仕事を済まして家に帰つたのが午後四時四〇分頃でした。それから直ぐ、牛の運動をさせておりました。この時間が二〇分か二五分位であつたと思います。それから直ぐ作業衣を脱いでジヤンパーに着替え、出て来たのでありますから、時間は、大体申し上げた時刻になると思います。それから酒とぶどう酒を持つて寺(会場)に行き、直ぐ後から来た坂峰富子さんが机を並べて会場の準備をしてから出て行きましたので、そこで私が一人となつたので、用意して来たニツカリンを竹筒からぶどう酒に入れたのですが、この時間が午後五時二〇分頃から三〇分頃までの間であつたと思います。

○被告人36・4・14司

ニツカリンを竹筒の中に移し入れて準備を致しましたが、清酒全部の中に入れる積りはなく、婦人用の方に入れると申しましたが、これは昭和三四年度の三月末の年度末総会において即席ぶどう酒を作つて会員全部が宴会用に使つたことがありますので、今度もそのようなものを作るか、或いは酒を別にして、婦人用として砂糖を混ぜて作ると思つていましたから、全部の者に飲ます酒にニツカリンを投入するという考えは持つておりませんでした。三月二八日採石場から帰つて仔牛の手入れ運動をすませて、午後五時二〇分頃、家を出て楢雄さんの家へ行き、会場準備の手伝いをしてやろうと伝えたところ楢雄さんの家に置いてあつた清酒二本、ぶどう酒一本を会場へ運んでくれと言われたので、三本とも私が持つて会場へ運んでやりました。会場には誰も居りませんでしたが、私の後から坂峰富子が間もなく会場へ来ました。富子さんは会場に机を並べて準備をしましたが、間もなく出て行きました。私は一人会場の囲炉裏の部屋で持つて来た酒をその囲炉裏の部屋に置いて坐つておりましたが、富子さんが出て行くし、誰もいないので、自分の考えで持つて来たニツカリンをそのぶどう酒の蓋をあけて入れました。このことについても詳しく警察で申し述べました通りです。

○被告人36・4・5検

清酒二升とぶどう酒一升は私が会場に持つて行つたのです。その日の午後五時からというので仕事を早く切りあげて家に帰り、五時半近くなつたので、もう行こうかと思い、隣の会長楢雄さんの家に寄りますと、女連中がいて、酒を持つて行つてくれと言いますので私が会場に持つて行つたものです。今の私の感じでは五時半頃楢雄さんの家に行き、二、三分か五分位雑談をしてから、その酒二升とぶどう酒一升を持つて会場へ行つたように思います。その際会員の坂峰富子さんと一緒に楢雄さんの家を出ました。富子さんは焚きつけに使う柴を持つて行きました。富子さんと一緒に出たのですけれども、会場に着いた時は、私一人でした。富子さんは、会場の手前で石原房子さんと会つて話をしていたとのことで、私だけが先に会場に入つたのです。会場は玄関から入りましたが誰もいませんでした。富子さんか誰かがその前に来て会場の整理をしたらしく長机が畳の部屋に並べてありました。玄関から入りますと、そこが囲炉裏のある部屋ですが、私は流しと押入れの前に酒とぶどう酒を置きました。……ぶどう酒を包んだぶどうの絵の書いてある紙の上の方を緩めて瓶の口のへんを出し王冠を取りました。王冠は栓のところを巻いてあるものでしたが、それを火ばさみを使つて上に突きあげてはずしました。割に簡単に取れました。その場に落ちたと思いますが王冠をどこにどうしたかよく判りません。王冠の上にレツテルが巻いてあることが多いのですが、それがどうだつたかもよく覚えていません。王冠を取るとその下に栓がありました。金属製の栓で瓶の口にかぶさつていましたのでそれを私の歯を使つてあけました。右の歯で噛んであけたのです。私は栓抜きがない時は時時歯を使つて栓をあけます。急にやると歯がいたみますが静かにやると抜けます。このようにして栓を抜きましたが、それにニツカリンを入れました。これは私が竹の筒に入れて持つて行つたものですが、この竹筒というのは女竹で前の晩に私が作つたのです。

○被告人36・4・14検

私は二七日の晩になつて総会の際に女達に出る酒に私が持つていたニツカリンを入れてチヱ子やヤス子を殺してしまおうと考えたのです。チヱ子の話では今年は予算の関係でぶどう酒は出ないということでしたが、それなら酒に砂糖を入れて、女達に出すだろうから、それに入れてやろうと考えたのです。(中略)私はニツカリンの入つて竹筒をジヤンパーの右ポケツトに立てるようにして楢雄さんの家に行きました。後で公民館で見たことですが、紙の栓には別に滲みていませんでした。楢雄さんの家に行きますと坂峰富子さんと楢雄さんの母コヒデさんがおりました。奥には妻もいたとみえ声がしました。又井岡百合子さんの声もしました。私は五時ときいていたのにもう五時半頃になつているので、楢雄さんの家に寄つてみたのですが、丁度富子さんが出かけようとしているところでしたので、私が「誰か茶わかしに行つていないのか」と言いますと富子さんが「これから行こうと思つているのや」と言いますので「何か持つて行く用事はないか」とききますと酒を持つて行つてくれと富子さんも言いますし、そこにいたコヒデさんも「頼むわ」と言いますので楢雄さんの家の出入口の入つて左側の小縁に置いてあつた酒とぶどう酒とを持つて行つたのです。私はぶどう酒の出ることをこの時初めて知つたので、それならぶどう酒にニツカリンを入れてやろうと心に決めたのです。それで私は酒二升とぶどう酒一升を持つて行きました。ぶどう酒はぶどうの絵を書いた包紙に包んであつたので、そうと判つたのです。私は左脇に一本を抱え、両手に一本ずつ持つて楢雄さんの家を出て公民館へ行きました。富子さんも私に続いて来ましたが、何か持つていました。確か風呂敷包であつたと思います。それを持つていたので、私が三本持つたので富子さんが持つていなかつたら私が三本も持たずに一本位は富子さんに持つてもらつたと思います。その時富子さんが持つていたのを柴だと思つてそのように申し上げましたが、警察で言われてよく考えてみますと、矢張り風呂敷包だつたと思います。私は私の家の庭を通つて公民館に行きましたが富子さんも後からついて来たように思いますがどの道を通つたか判りません。公民館に玄関から入りました。戸はあいていたと思います。そして私は囲炉裏のある部屋に入つて酒とぶどう酒を流しの前に置きました。流しの前から押入れの方に少々寄つたところに三本並べて置いたのです。そして囲炉裏の傍に坐りました。私が行つてから一分か二分位して富子さんが入つて来ました。富子さんが机を並べたようにも思いますがその点はどうもはつきりしません。又富子さんが出て行つたことも覚えています。これも富子さんがいなくなつたことを覚えているので出て行つたのに間違いないと思うのですが富子さんが何時どういうふうにしたのか詳しいことは判らない面があるのです。私はその囲炉裏の傍でぶどう酒の栓をあけてその中にニツカリンを流し込んだのですが、それが富子さんが来る前だつたのか、一度来て又戻つてからだつたかは、はつきりしないところがあります。このことは警察でも調べられ、いろいろと考えましたが、矢張り、富子さんが公民館から出て行つてから入れたのではないかと思います。富子さんの行動をよく覚えていないのは、私がニツカリンを入れることに夢中だつたため、詳しいことを忘れている面もあるのかと思いますが私がニツカリンを入れた時富子さんがいなかつたことは間違いありませんから、それは富子さんが公民館を出てからです。私は囲炉裏の傍で流しの側に坐り、片膝を立てて、ぶどう酒の栓を抜いたのですが先ず、ぶどう酒の包紙を五、六センチ位口から下にさげ、火ばさみを使つて王冠をはずしました。栓の囲りにかぶせてあつた王冠です。王冠はどこかに飛んだと思われますが、どうなつたか判りません。王冠をとると、もう一つ栓がありました。金属製の蓋でした。瓶の口にかぶさつていましたので、歯を使つてその栓をとりました。右の歯を使いました。その栓がどんな恰好をしたものか、その時はよく判りませんでしたが、警察で見て足のあるものであることが判りました。そして右手に竹筒を持ち、左手に瓶の口を持つて竹筒に入つていたニツカリンを瓶の中に入れました。竹筒の六分目からそこらが入つた感じでしたが、竹のことですからよく判りません。竹筒は新聞紙に包んで囲炉裏の釜の下に置きました。竹筒の栓に使つた紙も一緒に包んだのです。ぶどう酒の栓は元に戻して置きました。そのうち、富子さんと石原房子さんが入つて来ました。富子さんが持つて来たと見えて柴が囲炉裏にあつたので、それを釜の下に入れて、マツチで火をつけて焚きました。そしてニツカリンを入れていた竹筒も一緒に焼いてしまつたのです。その時気がついたら、釜の底に古い水がほんの少し残つていたので、それを裏の障子のところから軒下に捨てました。そして新しい水を入れ替えて割木を焚きました。

○被告人36・4・16検

その日仕事場から戻り、いよいよ決行しようと考え竹の筒を持つて楢雄さんの家に寄りました。そこに酒と一緒にぶどう酒が置いてあるのを見たのです。ぶどう酒を見るまでは昨日も申し上げた通り酒に入れるつもりでした。女達には酒に砂糖を入れて出すだろう、薬かんに酒を入れて、それに砂糖を入れて女の酒を作るだろうと思いましたので隙を見て入れれば入れる機会があるだろうと思つたのです。三奈の会では酒に砂糖を入れて出したようなことはありませんが、親族が目出度い時とか不幸の時等で集つたような際に女の酒として砂糖を入れて出すことがよくあるので、今度の総会でもそんなことをするのでないかと思いました。それなら多分薬かんに入れるので隙を見てニツカリンを入れることができるだろう。そうすればチヱ子は女では酒を飲む方で作業場でご馳走になつたり出しあつたりして飲む時はよく飲むし、酔つぱらつたことも二、三回はあるからきつと今度も飲むだろう。ヤス子も矢張りチヱ子と似たようなもので、作業場でもよく飲むのでそうすると二人とも飲んで死んでしまう。それにこの機会だと誰がしたか判らなくてすむから一番いいと考えてこのようなことをしたわけです。外の人も飲んで死んでしまうことも当然考えた上のことですが、何しろ気がむしやくしやしていた時なので、これが一番いいと考え、今から考えると全く恐ろしいことをしてしまつた次第です。今から考えるとぶどう酒がなければこんなことをしないですんだかも知れない、酒だと入れる機会がなかつたのではないかと、今冷静に考えると思われるのですが、その時は何かの隙に酒に入れる機会があろうと考え、ニツカリンを持つて行つたのです。そうして楢雄さんの家でぶどう酒を見た瞬間これに入れようときめたわけですが、ぶどう酒がなかつたらと後悔されてなりません。楢雄さんの家を酒とぶどう酒を持つて出て続いて坂峰富子さんが出て、二人で公民館に行き、私が持つて行つた竹の筒の中のニツカリンをぶどう酒の瓶に入れたのは一昨日申し上げた通りですが、初めは、私は富子さんが遅れて公民館に入つて来たのでその前に入れてしまつたように思つていて警察でも検察庁の初めの調べの時もそのように申し上げたのですが、富子さんが一度公民館に入つて机を並べたりしてから又楢雄さんの家に戻つたようで、それでよく考えてみると矢張り私がニツカリンをぶどう酒に入れたのは、一昨日申し上げた通り富子さんが公民館に来て机を並べたりして一度出て行つてから又戻る間だつたというのが本当だと思われて来ました。一昨日もそのように申し上げた次第です。実はこの点は私が今度の事件でしたことで一番はつきりしない点だつたのですが、よく考えてみると矢張り唯今申し上げた通りです。ニツカリンを入れるのに使つた竹の筒はぶどう酒に入れてから釜の下に入れておきました。新聞紙にくるんでおきました。それを富子さんが持つて来た小柴を焚き、割木を焚いて焼いてしまつたのですが、別に臭いはしませんでした。ぶどう酒に入れる時も臭いはしなかつたと思います。

富子さんと一緒に石原房子さんが入つて来たわけですが、その時はもうぶどう酒にニツカリンを入れた後でした。包紙は一寸下げて栓を抜いたのですがニツカリンを入れた後で元に戻しておいたのです。そこに富子さんと房子さんが入つて来たので富子さんはぶどう酒もあることを知つていますけれども房子さんは初めてなので私は「ぶどう酒は会長のおごりや頼むぜ」と言つてやりました。私は予算がないという話だつたから楢雄さんがぶどう酒をおごつてくれたと思つたので、楢雄さんを一つ選挙に頼むというようなことを軽く言つたのです。何も私が会長に立候補するというようなことを冗談にしろ言つたわけではありませんけれど、房子さんがどうとつたか判りません。

私としては、ぶどう酒にニツカリンを入れるという大変なことをした後で、ぶどう酒のことは非常に気にかかる時でしたので、この程度でぶどう酒の話はやめました。

○被告人36・4・18検

その日五時二〇分乃至三〇分頃楢雄さんの家に行つた時、ぶどう酒の置いてあるのを見て、それまでぶどう酒は出ないと思つていたので、酒にでもと思つていたのですが、そこにぶどう酒があるのを見て、これにしようときめた次第です。そして前に申し上げた通り、公民館でぶどう酒の中にニツカリンを入れたのですが、その時栓は元に戻しましたけれども、それを巻いていた王冠をどうしたか判りません。竹の筒を囲炉裏で焼いたのですが、竹柴にマツチをすつて火をつけてそれに割木を焚いて燃したわけです。

○被告人36・4・20検

二八日の日にチヱ子に酒を飲むなと言つたことはありません。その前に作業場で飲んでチヱ子が酔つた時注意したことがありますが、二八日には全然酒を飲むなと言つていません。(坂峰富子36・4・7検、乾杯をする前か後か判然しないが横に坐つているチヱ子から「今日はあまり飲むなと言われているんやけれど」と言われた。神谷すず子36・4・8検、チヱ子さんが富子さんの横に坐つて内緒話をしているようでしたので、私が富子さんに「何言うてんの」と言いましたら、富子さんが「チヱ子さんが、父ちやんが今夜あまり飲んだらあかんと言うとる」と言いました云々。坂峰富子36・8・21裁、フミ子さんが倒れはつて、そしてチヱ子さんが「あれこわい」と言つてどこかへ行かれました。高橋一己36・4・8検、チヱ子さんは「お父ちやんが酒飲むなと言うたのに」と言いながらテーブルを跨いで私どもの方に来て倒れたのです。等の供述参照。)

○被告人36・4・21検

公民館の囲炉裏のある部屋で火ばさみを使つてぶどう酒の王冠をはずしたのですが、その王冠は何処に行つたか判りません。多分はめなかつたと思います。中の栓は圧してはめておきました。

○被告人36・4・23検

二八日の日、私は牛の運動をさせました。中島鹿次郎さんの家の下にある防火用水のところまで行き、波多野橋のところまで下りて私の家に戻り、着換えをして楢雄さんの家に行きました。そしてそこにあつたぶどう酒を持つて公民館に行つたわけです。その際思い出しましたが新矢了が電線の工事をしていたようにも思います。私が入つてからしばらくして坂峰富子さんが入つて来て机を並べました。机は何時も裏の四畳半の部屋に置いてあります。ぶどう酒の栓をあけたのは富子さんが公民館を出て行つてからだと思います。ぶどう酒には王冠のところに封緘紙がありますがその封緘紙をどうしたか覚えておりません。栓を巻いている王冠だけが飛んで外れましたが、その王冠が何処に行つたか判りません。この間実験した時は王冠とその中の栓と一緒に外れましたが二八日の時は王冠だけが外れました。私の家でも時々ぶどう酒を飲みますが、山添村岩屋松本酒造店から買つたり、名張の町に出た際買つて来たりします。大抵は酒と同じように一個の王冠がしてあるだけで、二八日公民館であけた時のように栓を王冠で巻いてあるものでなく、一枚の王冠を抜くと直ぐ中から注げる式のものです。しかし二八日のぶどう酒には栓を巻いたものがあり火ばさみを使つてあけるとその栓を巻いた王冠だけがとれたのでした。そして歯を使つて中の栓をあけたのですが、何処をどう噛んだのか、よく判りません。ニツカリンを入れて来た竹の筒は新聞紙に包んで三徳の中に入れました。囲炉裏には三徳が二つ置いてあり、その内、玄関寄りの方に茶釜がかかつていましたが、その三徳の中茶釜の下に入れたのです。そうこうするうちに又富子さんが入つて来ましたし、続いて石原房子さんが入つて来ました。そこで私は焚きつけに使う竹柴が囲炉裏の端、玄関寄りのところにあつたので、それを茶釜の下に入れて火をつけて焚きつけました。この竹柴は富子さんが持つて来たのに間違いありませんが、私の感じでは富子さんが初めに来た時に持つて来て置いて行つたのではないかという気もするのですが、どうもよく判りません。富子さんが二回目来る時持つて来たというならそうかも知れませんが、いずれにしても、この竹柴を焚きつけにして新聞紙に包んで三徳の中に置いていた竹の筒を焼いてしまつたことは間違いありません。

以上の被告人が犯行の実行に関連して述べているところのうち疑問と感じられる点を指摘すると、

一、ぶどう酒にニツカリンを混入する決意をしたのは楢雄方を訪れ、ぶどう酒の存在に気がついた時であるとする点。

被告人は二八日午後五時一五分頃楢雄方に行き玄関小縁にぶどう酒が置かれてあるのを見て、これが今夜婦人用の飲料に供されることを知つて、この中にニツカリンを混入する決意をしたという。それまでは、今年の懇親会にはぶどう酒は出ないから婦人用の酒に入れる積りであつたというのであるが、三月二六日に開かれた準備役員会の席上では、婦人会員のためにぶどう酒のかわりとして酒を出そうという話にもならなかつたし、又その以後においても婦人会員用の砂糖酒を作ろうとの話合いがなされたという証拠も存在しない。被告人はニツカリン混入の確実な目標物もないままにニツカリン入り竹筒を準備して、これを携え楢雄方に行つたのであろうか。被告人は完全犯罪を計画したというが、これでは無計画な行きあたりばつたりの感じを受ける。被告人のこの点についての供述は不自然であり理解し難い。疑問の存するところである。

二、ニツカリン混入の時点が動揺している。

右に挙げた自白調書によつて明かな如く、ニツカリン混入の時点が動いている。又混入時期について説明するのに「……と思います」なる表現形式を採つている(36・4・16検36・4・21検及び36・4・23検)のみならず、被告人自身検察官に対し本件の中で一番はつきりしない点はニツカリン混入の時期であると述べている。(36・4・16検)しかしこれはおかしい。

ニツカリン混入は本件犯罪の実行部分に該当し、最も重要な部分である。完全犯罪を計画していた被告人としては、ニツカリン混入にあたつては最も気をくばり、四辺に人なきや否やを確かめたであろう。然るに被告人の当初の司法警察員並びに検察官に対する供述調書中では、いずれも、自分が坂峰富子より先に公民館に入り、続いて同女が公民館に入つたが、富子が公民館に入るまでの間にぶどう酒を開栓した上ニツカリンを混入したと説明している。しかし、この時間は極めて短く、開栓、混入の行為は時間的に実行不可能である。そのためか被告人は、後にあれは勘違いで坂峰富子が公民館から出て行つて、自分一人だけになつた時に混入したと混入時期の訂正を行つているが、この勘違いは、勘違いにしては余りに大きくはないか。富子不在の「この機会」は被告人にとり一生忘れることのできない時点である筈ではないのか。

凡そ周到に計画準備されたと謂う犯罪において、犯人が何時実行したかについて最後まであいまいな供述をしているということは、その自白の証明力を著しく減殺するものであると謂わざるを得ない。

三、耳付冠頭の発見場所についての疑問

被告人は自白調書の中で一貫して、囲炉裏の傍で火ばさみを以つて栓を突き上げたところ耳付冠頭が外れたが、それが何処へ飛んだのか判らないと述べている。何処へ飛んだか判らないというのは何処かそのあたりに落ちていると思いますという趣旨と解されるが、然りとすればそれは囲炉裏の間内に落ちている筈である。このことは、昭和三六年五月一日付司法警察員の実況見分調書(王冠の取外し状況に関するもの)によれば、火ばさみ(証第七号)によつて、本件ぶどう酒と同種の三線ポートワインの王冠をあけたところ、四ツ足替栓の足部の下方に火ばさみをあてて突き上げる時は、耳付冠頭、四ツ足替栓ともに外れ、四ツ足替栓の足部以外のところに火ばさみをあてて突き上げると、耳付冠頭のみ外れること、突き上げ操作位置より九一センチ乃至一八〇センチ離れた個所に落下する旨の記載から推論できる。

然るに

○石原房子36・4・8検

公民館に入り、囲炉裏のはたに歩いて行き、足袋の裏を何気なく見ますと、えらいそれが真黒によごれておりますので、こらかなわんでと思つて公民館の反対側の裏側の障子に立てかけてあつた箒をとつて、囲炉裏のまわりを裏側から玄関の方へ掃き出しました。

○石原房子36・11・27裁

右同趣旨の供述。

○当裁判所36・11・27施行検証調書その三。

同趣旨の説明

によつて明かなように、石原房子は公民館に入り囲炉裏の間に行くと、そこが余りによごれているので直ぐ箒を使つて囲炉裏の間裏側の方から玄関の方に向つて掃いている。石原房子のこの掃除は、同女が公民館に入つて直ぐ行われたのであるから、被告人がニツカリンを混入したと疑われている時点に接着していると見て差支えはない。もし耳付冠頭が囲炉裏の間に落ちていたとすれば、それは石原房子の目に触れた筈である。よし同女の目に触れなかつたにしても、それは玄関の方面から発見されなければならない。しかし、既に第二で説明した通り、耳付冠頭は玄関とは反対方向の、しかも開戸のついた押入れの下の奥の方から発見されている。被告人の自白によれば何処に飛んだか判らぬ耳付冠頭がこのような場所から発見されたことについて被告人の自白は何も説明していない。被告人の自白の弱い点である。「火ばさみで王冠を外したが何処へ飛んだか判りません」という被告人の自白は、火ばさみを使用すれば王冠が外れることは補強されても、耳付冠頭の発見された場所については何の説明もされていないから右の自白は補強されていないと謂わなければならない。

四、封緘紙大、小も第二に説明して置いた通り玄関とは反対の方面から発見されている。囲炉裏の傍で開栓したのならば、軽い封緘紙は囲炉裏の近くに落ちた筈であり、その辺か少くとも玄関の間方面から発見されなければならない。この点も疑問である。

五、証第一九号四ツ足替栓についての疑問。

検察官は、証第一九号の四ツ足替栓は証第一号の三線ポートワイン一升瓶に装着されていたもので、これを被告人が囲炉裏の間で歯で噛んで開栓したもので、証第一九号四ツ足替栓上の痕跡はその開栓時被告人の歯牙によりつけられた歯牙痕である旨主張する。

証第一九号の四ツ足替栓は第二において説明して置いた通り、囲炉裏の間の隣室の四畳半の間に置いてあつた火鉢の灰の中から発見されたものである。この四ツ足替栓は井上剛、中田尚名義の鑑定書三丁表、二三丁裏にも指摘されてある通り、一見して相当古いものであり、それは証第四二号(これは、被告人が昭和三六年四月八日名張警察署宿直室において警察官の眼前で三線ポートワイン開栓の実演をしてみせた際歯であけたものである)と並べてみるとそのことは更に一層明瞭に判る。そして証第一九号の外側はいたる所に銹を生じメツキが剥げているが、内側には真鍮メツキが施されていて真鍮の光沢を保ち、銹びていない。この証第一九号は前記の通り証第一号の瓶に装着されていたとの前提のもとに検察官から証拠として取調請求のあつたものである。証第一号の一升瓶のラベル裏には61 141の符号がある。

ところで

○証第一四号三線ポートワイン一升瓶は林周子36・4・8付任意提出書、司法警察員36・4・8付領置調書によると、三月二八日石原利一に売渡した三線ポートワインと同じ箱中にあつたものである。このラベル裏面にも61 141の符号がある。その四ツ足替栓の内側には真鍮メツキは施されていない。

○証第一七号三線ポートワイン一升瓶は林周子36・4・16検、同女36・4・16付任意提出書、検察事務官36・4・16領置調書によると、昭和三六年四月一六日林周子から任意提出された三線ポートワイン五本中の一本であり、これは三月二八日石原利一に売渡されたと同種の瓶詰ぶどう酒であり、この瓶のラベル裏面にも61 141の符号が存し、この四ツ足替栓の内側にも真鍮メツキは施されていない。

○証第四二号四ツ足替栓はその瓶体が存在しないので何時瓶詰め打栓されたか不明であるがこの四ツ足替栓の内側も真鍮メツキされていない。

ところで

○西川善次郎36・3・29司、36・3・30司、によると、ラベル裏面の61 141なる数字は、そのぶどう酒が昭和三六年一月一六日に瓶詰め打栓されたことを表わし、同日三七九本の一升瓶が瓶詰め打栓され、その中の一五〇本が名張市の梅田酒店に卸されたことが明かである。

右のことから証第一号、同第一四号、同第一七号はいずれも、同じ昭和三六年一月一六日に瓶詰め打栓されたものであることが明らかであるが、その四ツ足替栓は証第一号に装着されていたと検察官が主張する証第一九号を除いて、いずれもその内側には真鍮メツキが施されていない。同じ一月一六日に瓶詰めされたものならば、同種の四ツ足替栓が打栓されている筈と見るのが妥当なのではあるまいか。尚井上、中田鑑定書二丁裏、二三丁裏によると、証第一九号は三二番位のブリキを使用しているが証第四二号はそれよりもやや厚いと指摘されている。

斯くて、証第一九号は証第一号に装着されていた四ツ足替栓とは違うのではなかろうか、との疑問が生ずる。証第一号に装着されていた四ツ足替栓は証第一九号以外に別個に存在するのではなかろうか。

そもそも後出する科学警察研究所職員柏谷一弥外三名名義の鑑定書の成立した経緯は、本件捜査の当初から石原利一において、自分が奥西チヱ子の依頼を受けてぶどう酒の王冠を右側の歯で噛んで開栓した旨供述していたところ(石原利一36・3・29司。次いで同人の36・3・30司。同人36・3・31司の中では奥西フミ子から依頼を受けて開栓したと訂正している。なお、奥西楢雄36・4・10検七項)三六年四月二日に至り被告人が、自分が噛んであけたと自白したところから(被告人36・4・2司)、ここにぶどう酒の王冠を歯で噛んであけたと申し述べる者が二人出て来たのである。そこで両名の中のどちらによつて開栓されたかを明かにするために捜査当局から科学警察研究所にその鑑定依頼がなされその鑑定資料として提供されたのが証第一九号の四ツ足替栓である。だからこの鑑定の場合、証第一九号の四ツ足替栓が証第一号の瓶に装着されていた四ツ足替栓であることは必要不可欠の前提条件である。しかるに証第一九号と証第一号との結びつきについては上に指摘したような疑問が存する。

証第一九号の四ツ足替栓については右の如き疑問が存するのであるが、検察官は同号証は証第一号に装着されていたもので、証第一九号上の痕跡は被告人が証第一号の三線ポートワインを歯で噛んであけた際印せられた歯牙痕であり、そのことは、柏谷一弥、山本勝一、鈴木勇、真田宗吉名義36・7・29付鑑定書及び古田莞爾名義37・10・31付鑑定書の記載に徴し明らかであると主張する。

証第一九号については左の四通りの鑑定書並にその作成責任者の証言がある。

A、警察科学研究所所員である前記柏谷一弥外三名名義に係る鑑定書及び証人柏谷一弥同山本勝一37・7・18裁

右両名37・8・13裁………これを(A)と略称する。

「右の鑑定結果」

(1) 栓抜き具および歯型による実験によれば歯牙痕である可能性が強い。

(2) 歯牙痕とすれば証第一九号上に見られる痕跡は被告人の歯型から複製した歯型の上顎右側犬歯、同第一小臼歯および同第二小臼歯によつて王冠につけられた痕に類似する。

B、名古屋大学医学部教授古田莞爾名義鑑定書及び同人38・7・17裁………(B)と略称する。

「右の鑑定結果」

証第一九号の栓の表面の損傷(歯痕)は被告人の上顎右側の犬歯、第一小臼歯、第二小臼歯、によつて生ぜしめられ又、栓の四脚の中、二重に飜転せられた脚の外側の損傷は被告人の下顎右側の歯牙で生ぜしめられたものである。即ち証第一九号の栓は被告人が右側の歯牙でかんでぬいたものである。

C、金沢大学医学部教授井上剛、歯科医中田尚名義鑑定書及び右両名39・10・31裁………(C)と略称する。

「右の鑑定結果」

(1) 証第一九号の冠頭及びその折れ曲つた足についている痕跡は歯牙痕であると認められ、それはこの替栓を歯で除去した際についた開栓痕であると推知された。

(2) 証第一九号には既にかなり高度の銹が発生していたが銹の発生が少ない歯痕を選び調べた処、それはかなり特有な条痕像を持つていることが強拡大によつて確められた。

この替栓についている歯痕は、条痕の吟味によつて個人識別ができるものであるとみられるものであつたが、鑑定人が採取した被告人の歯痕および証第四二号替栓の歯痕のうち条痕検査が可能であつたものには、証第一九号の歯痕と同視できる条痕像は認められなかつた。

従つて証第一九号についている歯痕は、少くとも、審しい検査(条痕検査)が可能であつた範囲内のものについては、明らかに被告人の歯牙によるものであるとは、いうことができない。

D、慶応義塾大学医学部助教授船尾忠孝名義鑑定書及び同人39・11・2裁………(D)と略称する。

「右の鑑定結果」

証第一九号四ツ足替栓上の痕跡は被告人の歯によつて印象されたものとは断定し難い。

以下右A乃至Dを検討し、検察官の主張に対する当裁判所の判断を述べる。

(一) 証第一九号の上にある痕跡は人歯牙によつてつけられたものと見ることについては(A)、(B)、(C)、(D)とも一致している。そして(B)と(C)は右の痕跡は開栓によつてつけられたものであるといつているのである。

まず(A)は証第一九号の上にある痕跡は人歯牙痕に類似すると考えられ、人為的に歯牙に類似したものを作成して痕跡をつけないかぎりこのような痕跡をつけることは不可能であるとし、その実験の結果によれば栓抜具で開栓した場合の痕跡は明白に証第一九号上の痕跡と異つたものであるとしている。

(B)は証第四二号が被告人が右側の歯牙で開栓したものであることを前提とし、その各痕跡間の間隔が証第一九号の各痕跡の間隔と一致しているとして証第一九号は被告人が歯でかんで開栓したものであるとしている。

(C)は証第一九号につけられている痕跡が「明らかに非常に硬い物体でブリキに作用してその表面を半ばえぐり取る程度のきずをつけることのできる物でしかもこの物はかなり急峻な山形の隆起物のある特殊な硬い物でありこのようにえぐり取られた痕跡を作るものは人歯牙である。」としている。

(D)は王冠表面の人歯痕の特徴は「すりばち状」の陥凹を伴うものであつて、開栓具によるときはかかる痕跡は生じない。そして証第一九号上の痕跡には右の「すりばち状」の陥凹を伴つた擦過圧痕又は圧痕があるから、これは歯牙痕であるといつても矛盾はないとしている。

各鑑定書はそれぞれ王冠表面の痕跡の特徴をよく説明しておる。当裁判所も証第一九号上の痕跡は人歯牙痕であると考える。

(二) (A)(B)(C)(D)の鑑定方法は(A)(B)(D)はそれぞれ各歯牙間の間隔によつて証第一九号の歯牙痕が被告人の歯牙によつてつけられたか否かを決定する根拠としている。(A)と(B)は積極の判定をし、(D)は消極の判定をしている。本件において歯牙痕(歯牙の圧滑痕といい得る)がつけられた物体は、金属製の王冠であつて、歯牙の全部の跡がつけられているものではない。つけられた部分は歯牙の一部であり、その部分は歯牙解剖学的には切端もしくは咬頭頂といわれている部分である。そしてこの部分は歯牙の最先端の部分であり、歯牙が物体に作用するときに一番最初に物体に接触する部分である。したがつて通常の場合王冠のような硬い物体につけられた痕跡の間隔と各歯牙の間隔はそれぞれ一致するものと考えられる。しかし本件の場合注意しなければならないのは証第一九号上の痕跡が擦過痕若しくは圧滑痕であることである。すなわち各歯牙の間隔に直角に擦過した場合と斜に擦過した場合とでは、痕跡の間隔は異るからである。また歯牙弓列は湾曲しているものであるから歯牙間の間隔を痕跡によつて測定する場合には、平行する二条の痕跡に直角の方向に測定すると実際の歯牙間隔と異るものとなる可能性がある。

しかし右のような難点があるけれども本件の場合歯牙で王冠をあけたのであるから、最も力が加りやすいようにかむと考えられるので、一応各歯牙の間隔と直角の方向に擦過したものと考えてさしつかえないであろう。

(三) (A)について

(証第一九号表面上の痕跡図)

(A)は被告人の歯牙模型(証第二〇号)を介して被告人の歯の特徴を捉え右の図のa、dの痕跡は右上犬歯、b、b′は同第一小臼歯、c、c′は同第二小臼歯によつてつけられた歯牙痕であるとする。その根拠として被告人の歯牙模型(証第二〇号)の右上犬歯と同第一小臼歯間とab間は各九・七ミリ同じく同第一小臼歯と同二小臼歯間とbc間は各六・七ミリでそれぞれ一致していることを挙げている。

(四) (B)について

(B)はまず証第四二号が被告人が右側の歯で開栓したことを前提として、証第四二号の痕跡と証第二〇号の右上顎歯の歯牙の間隔(犬歯第一小臼歯第二小臼歯の間隔)が一致しているとなし、更に証第四二号と証第一九号の痕跡相互に一致があるから証第一九号は被告人が右上犬歯、同第一小臼歯、同第二小臼歯で開けたものであるとする。そしてその鑑定にあたり、痕跡中の条痕を比較対照する方法の不適当なることを述べこれを排斥しているのは(C)と対照し注目されるところである。

而してその間隔は証第一九号の痕跡については右上犬歯によるものと同第一小臼歯によるものの最大幅(各痕跡間の最遠間隔)は三六ミリ(実測ミリの三倍の数値である。したがつて実際の間隔は一二ミリ以下同じ)最小幅(最近間隔は二〇ミリ(六・七ミリ)中間値は二八ミリ(九・三ミリ)であり、同じく第一小臼歯によるものと第二小臼歯によるものとの間の最大幅は二五ミリ(八・三ミリ)最小幅は二〇ミリ(六・七ミリ)中間値が二二・五ミリ(七・五ミリ)であるとする。そして証第二〇号の右上顎犬歯と同第一小臼歯、同歯と同第二小臼歯のそれぞれの切端、もしくは咬頭頂の間隔は右の中間値と一致しているとする。

(五) (A)と(B)について

(A)と(B)は証第一九号の同じ痕跡を同じ歯牙によつてつけられたものであるとする点においては一致している。しかし証第二〇号の右上犬歯と同第一小臼歯の間隔が(A)では九・七ミリ、(B)では九・三ミリであり同じく第一小臼歯と第二小臼歯のそれは(A)では六・七ミリ、(B)では七・五ミリである。同一の歯牙間の距離であるのに計測者によつてこのように異る理由が不明である。ことに第一小臼歯と第二小臼歯間の〇・八ミリの差は大きすぎると考えられる。

(六) (D)について

(D)は(A)と(B)と同様の方法を用いながら異つた結論を出しているのである。しかも(A)と(B)が犬歯による歯牙痕であるとするものが、第二小臼歯又は第一切歯によつてつけられた場合の歯痕と一致するものがあるとする。しかし(D)は右の歯牙痕は他と比較するときわめて深いので被告人の歯牙によつてつけられたものとはいえないとするのである。

(七) (A)(B)(D)の比較検討

(D)が(A)(B)と異る結論を出していることは非常に興味が深い。すなわち、王冠のような金属の上に歯牙痕がつけられた場合に、これによつて個人識別をするのは容易ではないことを物語つている。

証第四二号は被告人が名張警察署において本件が自己の犯行であると自供した後である昭和三六年四月八日に自供通りに本件ぶどう酒と同様のぶどう酒瓶の四ツ足替栓を右側の歯で噛んであけたものである。(D)は右の事実を知らないで鑑定しているのであるが(D)によれば証第四二号の歯牙痕中に被告人の左側の歯牙によるものと一致するものがあるとしているのである。すなわち(D)の写真19のイ・ロ・ハの「きず」は(B)の写真27のaceにそれぞれ該当するのであるが、(D)にあつてはイ・ロ・ハはそれぞれ左上第二切歯同犬歯同第一小臼歯による「きず」とされ、(B)によればaceはそれぞれ右上犬歯、同第一小臼歯、同第二小臼歯による痕跡であるとするのである。そして(D)は被告人が証第四二号を噛んであけたときに右の歯でも左の歯でも噛んだのだと説明する。しかし証第四二号は被告人が警察官の眼前で右の歯で噛んだものであることは明らかであつて左側の歯牙痕がつくはずのないものである。

右側の歯で噛んだのに左側の歯の痕跡がついていると(D)が説明している理由は、(A)や(B)のように歯牙間隔のみによつて個人識別をすることが如何に危険であるかを如実に物語るものに他ならないであろう。

また(D)は附図一証第一九号上の「きず」のうち1の痕跡((A)のa、(B)のイに該当する)が他と比較してきわだつて深いことを指摘している。もし(A)や(B)の説明するように右の痕跡が右上犬歯によつてつけられたとしてみよう。証第二〇号によつて明らかなとおり、被告人の右上犬歯の切端はかなり磨耗しており、他の歯牙の切端若しくは咬頭頂を結ぶと幾分低くなることが認められる。このようなひつこんでいる歯牙で、かかる深い痕跡がつくか否かも一つの疑問である。現に被告人が右側の歯で噛んだ証第四二号の痕跡中にはこのように深い痕跡は全くないことを考えると、右の疑問は残るのである。

いずれにしても(D)が指摘しているように「一般に歯痕はそれが印象づけられる物体の性状によつて種々な形状を示すものであるが、該物体が王冠、木片などのように硬固な場合には歯の切端又は咬頭頂が比較的正確に印象づけられ、個人識別の有力な手がかりとされている。しかしながら物体に作用する歯の力の方向、歯と物体間の抵抗の有無(特にすべり)及び物体の固定如何によつては歯痕からの個人識別は必ずしも容易ではない」ということを銘記すべきである。

(八) (C)について

(C)は(A)(B)(D)と趣を異にする。(C)は(A)(B)(D)のように証第一九号の痕跡間の間隔が証第二〇号の歯牙の切端又は咬頭頂の間隔と一致するか否かによつて個人識別上の手がかりとしてはいない。また証第二〇号を使用して鑑定しているのでもない。(C)は(B)が不適当とする痕跡中の条痕を比較対照しているのである。即ち(C)は証第一九号の痕跡は右側の歯による開栓行為によつてつけられたものであるとする。しかし右の痕跡中どの痕跡がどの歯牙によつてつけられたものであるかは不明である。歯牙で王冠をあける場合数回噛みなおしをするのが普通である。したがつてその痕跡は相当複雑なものとなるのは当然である。証第一九号の表面にある痕跡は、相当複雑にばらまかれているのである。どの痕跡がどの歯牙によるものであるかを判定するのは容易ではない。(C)では右のような事実を考慮して「周波条」というものによつて個人識別上の手がかりとしようとする。歯牙には年輪のように並行条というものが歯牙の横断面にあり、これが歯牙表面に出ているものが「周波条」である。そしてこれは歯牙の外表面に細かい凹凸をなしていると考えられる。ことに切端又は咬頭頂が磨耗しているときは殊に顕著である。そして歯牙で王冠のような金属上に圧滑痕をつける場合、右の歯牙の表面にある微細な凹凸がそのまま出るものと考えられる。したがつてもし証第一九号の表面上の痕跡の内部に被告人の歯牙の周波条によつてつけられた微細な凹凸があるならば、周波条の個人識別上の価値はさておき、本件の判断について有力な手がかりとなるであろう。本件においては証第一九号に歯牙痕がつけられたと同じ頃に被告人が証第四二号に歯牙痕をつけているのである。

もし証第一九号が被告人の歯牙によつて開けられたものとするならば証第四二号の痕跡の内部の微細な凹凸と証第一九号のそれとは一致するはずである。しかしながら(C)に添付の写真を見ると両者は一致しているとはいえないといわなければならない。もつとも(C)において被告人より採取した歯型による鉛板の上の歯痕内部の微細な凹凸が証第四二号のそれと一致していないのであるが、この理由は我々には不詳であるという他はない。

(九) 以上(A)(B)(C)(D)の鑑定書を検討したのであるが結局証第一九号の王冠表面の痕跡は被告人の歯牙によつてつけられたものか否かは不明であると謂わざるを得ない。

(A)(B)のみを援いて証第一九号上の痕跡は被告人の歯牙痕なりとする検察官の主張にはにわかに賛同することはできない。被告人が囲炉裏の間において本件ぶどう酒瓶を歯で噛んで開けニツカリンを混入したとの自白には疑問が存し措信し難い。

六、竹筒の処置についての疑問

又被告人はニツカリンを入れて来た竹筒は囲炉裏の火にくべて焼いてしまつたと述べている。即ち、

○被告人36・4・2司

竹筒に入れたニツカリンは全部入れたのではなく、まだ半分量が竹筒に残つておりましたのですぐ栓をして、新聞紙に包み、囲炉裏にある三徳の上にのつている茶釜の下に入れたのであります。この時坂峰富子、石原房子さんの二人が入つて来ました。時刻は午後五時四〇分頃であつたと思います。私の家からこの会場まで約五〇メートル位のもので歩いて四、五分であります。それで私は早速紙に包んだニツカリンの入つた竹筒を焼いてしまわなければ証拠が残つては大変なことになると思いましたので坂峰富子さんの持つて来た柴を取つて茶をわかしてやると言つて自分の持つていたマツチで先刻の釜の下へこの竹柴を入れて火をつけたのであります。

○被告人36・4・3司

終ると同時にニツカリンは茶釜と三徳の間にかくすように入れたのであります。その時坂峰富子さんと石原房子さんが入つてきたので、急いで富子さんの持つて来た竹柴をもらつて茶釜の下に入れ、持つていたマツチで火をつけたのであります。

○被告人36・4・16検

ニツカリンを入れるのに作つた竹の筒は釜の下に入れて置きました。新聞紙にくるんで置きました。それを富子さんが持つて来た柴を焚いてもしたのであります。

このように囲炉裏でニツカリンの入つた竹筒を燃したと述べているが萩野健児、岩尾常也、大西永一名義36・7・17付鑑定書、萩野健児37・7・18裁岡田徳夫37・7・18裁によれば、囲炉裏から採取された竹のもえがららしい炭化物からは植物に通常含まれている燐が検出されただけで、燐元素も有機燐化合物も検出されなかつた。

従つてニツカリン入り竹筒を囲炉裏でもしたという被告人の自白も補強されていない。

なお、

○石原房子36・4・8検

私は箒をもとに戻し、仏の間の方に置いてあつた火鉢を五、六箇囲炉裏のはたに運んで勝さんとさしむかいになりましたら、勝さんが「わしは今日会長に立候補したからお前らにぶどう酒をおごつたんやで。」と言つておりましたのでいつもの勝さんらしく面白いことを言つてるんだなあと思つて「そんなんやつたらみんなが来たら披露させてもらうわ」と言いました。そして私が「赤かな、白かな」と言いましたら勝さんがちよつと瓶を包んであつた紙をさげてくれましたので見てみますと白ぶどう酒でしたので「白やなあ、おいしいなあ」と言つておりました。

もし被告人がぶどう酒にニツカリンを混入したとすれば、このような行動に出ることが心理的に可能であろうか。ニツカリンによつてぶどう酒が変色しているかもしれない。又石原房子が耳付冠頭のないことに気付くかもしれない。かかる被告人の行動はぶどう酒にニツカリンを混入した者の行動としては理解に苦しむところである。

以上被告人の自白調書の信憑性並びに証拠物である王冠封緘紙の証拠価値について検討して来たが、その自白には多くの疑問点が存し、又右に挙げる証拠物についても疑問があり、本件断罪の資料に供することができない。

被告人は、本件は妻の犯行と思料する旨弁解する。(36・4・2司第一回の二、36・4・2司第二回、36・4・24検、被告人の手記及び被告人の当公判廷における供述)。検察官も被告人の弁解には深い関心を寄せていたものの如く、被告人の自白を得た後においても、この弁解を確かめるため、公訴提起の二日前である三六年四月二二日公民館内外の検証を、更に同日「ニツカリンその他の毒物、その容器、その他本件殺人に関連する物件の有無」を明かにするため、チヱ子の墳墓を発掘し、チヱ子の着衣、棺内蔵置物の検証を行つている。しかし被告人の弁解を肯認するに足る確証はない。

これを要するに本件は被告人の犯行と認めるに足る証拠がないので被告人に対し刑事訴訟法第三三六条を適用して無罪の言渡をすることとする。

以上の理由により主文の通り判決する。

(裁判官 小川潤 岡田利一 高橋爽一郎)

附図一、二(略)

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