津地方裁判所四日市支部 平成10年(ワ)17号 判決 2000年7月21日
原告
四日市市土地開発公社
右代表者理事
服部卓郎
右訴訟代理人弁護士
太田耕治
被告
甲野太郎
右訴訟代理人弁護士
矢野和雄
同
髙木道久
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告に対し、金四〇〇〇万円及びこれに対する平成一〇年一月二一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、工場用地の買収を行っていた原告が、被告所有の土地を取得するにあたって被告に支払った四〇〇〇万円について、主位的に、右金員の返還に関する黙示の合意の存在を理由として(原告の主位的請求原因―黙示の返還合意に基づく返還請求)、予備的に、右金員の支払いの根拠となった法律行為が公序良俗に違反することを理由として(原告の予備的請求原因―不当利得返還請求権に基づく返還請求)、被告に対し、右四〇〇〇万円の返還、及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成一〇年一月二一日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める事案である。
一 基礎となる事実(当事者間に争いのない事実のほかは、括弧内掲記の証拠により認定した。)
1 (当事者)
原告は、公共土地、公用地等の取得、管理、処分等を行うことにより、地域の秩序ある整備と市民福祉の増進に寄与することを目的とする公社であり、被告は、肩書地に居住し、後記本件売買契約当時、別紙物件目録一記載の各土地(以下「本件買収地」という。)を所有していたものである。
2 (売買契約の締結)
原告は、四日市市からの依頼を受け、平成元年三月ころから、プロジェクトチームを組んだ上で、ハイテク工業団地の建設(株式会社東芝の半導体工場の誘致)のために必要な土地の買収、造成等(以下「本件プロジェクト」という。)を行い、同年四月ころから、被告に対し、本件買収地を買い受けたい旨の申出を行っていたものであるが、平成三年七月二四日、被告との間で、本件買収地を代金八三〇七万三三六五円(但し、右金額が、売買代金の全額であるのか、その一部にすぎないのかについては、後記のとおりの争いがある。)で買い受ける旨の契約(以下「本件売買契約」という。)を締結した(甲第一号証、弁論の全趣旨)。
3 (確約書の作成)
原告は、本件売買契約が成立した平成三年七月二四日、被告との間で、①原告は、被告に対し、本件買収地の替地として農地約八反を提供すること、②原告は、被告に対し、右①の替地を平成四年二月二八日までに提供すること、③右②の期限までに替地を提供できないときは、原告は、被告に対し違約金として反当たり五〇〇万円(合計四〇〇〇万円)を支払うこと、④原告は、右①の替地の提供については、右②の期限終了後も完全履行できるよう努力することなどを合意するとともに、右合意の内容を記載した確約書(甲第四号証、以下「本件確約書」という。)を作成した(甲第四号証、弁論の全趣旨)。
4 (本件金員の支払い)
原告は、本件確約書に記載された替地を約定の平成四年二月二八日までに提供することができなかったため、平成四年三月三一日、被告との間で「損失補償契約書」と題する書面(甲第五号証、以下「本件損失補償契約書」という。)を取り交わした上、同年六月一〇日、被告に対し、四〇〇〇万円(以下「本件金員」という。)を支払った(但し、右金員支払いの趣旨については、後記のとおりの争いがある。)。
5 (替地の提供)
原告は、平成四年一二月一一日ころ及び平成七年五月二六日ころの二回にわたって、被告に対し、本件買収地の替地として別紙物件目録二記載の各土地(以下「本件替地」という。)を代金合計六三三三万四七八七円で売り渡し、同月二六日、被告との間で、本件確約書に記載された替地の提供が、全て完了したことを確認した(甲第一〇号証、弁論の全趣旨)
二 争点
1 本件金員の支払いの根拠となった法律行為には、「原告が被告に対して替地の提供し、これを被告が受領した場合は、被告は、原告に対し、本件金員を返済する。」旨の黙示の(書面に書かれざる)合意(以下「本件黙示の合意」という。)が存在したか否か(原告の主位的請求原因―黙示の合意に基づく返還請求)。
(原告の主張)
(一) 本件金員は、本件確約書及びこれを具体化した本件損失補償契約書が表象する法律行為に基づき支払われたものである(なお、本件金員は、本件確約書に記載されたとおり、「違約金」として支払われたものであるが、本件損失補償契約により、これを損失補償の体裁をとって被告に支出したものである。本件損失補償契約書は、原告の内部における処理手続上、本件確約書による金員の支払いを損失補償という形にするために作成されたものであり、本件金員が損失補償の実質をもつものではない。)。
(二) そして、本件確約書及び本件損失補償契約書には、いずれも「原告が被告に対して替地の提供を行い、これを被告が受領した場合には、被告は、原告に対し、本件金員を返済する。」旨の明示の記載はないけれども、以下の事情に照らせば、原、被告間には、替地の提供が完了し、これを被告が受領した場合には、原告は被告に対する違約金の支払いを免れ、既に違約金が支払われている場合はこれを返還する旨の黙示の合意(本件黙示の合意)が存在したものといえる。その根拠は以下のとおりである。
(1) 本件確約書において約束された替地の提供期限である平成四年二月二八日は、一応の期日として定められたものであり、右期日は、違約罰適用の期日として合意されたものではない。
本件確約書が取り交わされた当時、右期限までに原告が被告の納得できる替地を提供できる見通しは全く立っておらず、このことは、原、被告双方の共通の認識であった。すなわち、原告は、本件買収地付近にほとんど土地を所有しておらず、また、当時の状況(多くの被買収地権者が替地を希望し、原告がその対応に苦慮しており、被買収地権者の中で被告が最後に替地の提供を受けることに決まっていたこと等)に鑑みれば、本件確約書が取り交わされた当時、原告が早急に替地となる土地を取得できる見通しはなく、原告が右確約書に記載された期限までに替地を提供することは当初から実行不可能なものであったが、被告もその事情を十分に知っていたのである。そして、それにもかかわらず、原告が被告に対して、現実に本件金員を支払ったのは、最終的に替地提供ができなかった場合を考慮して、その担保として交付したものにすぎない。
(2) 原告は、本件売買契約にあたり、被告に対して、売買代金のほかに「協力金」名目で一〇三八万六七四五円(一般的な売買代金の上乗せ分)、「替地支度金等協力金」名目で三四〇六万八五一九円(税金相当分一九一八万四六二〇円、協力金二〇八万〇〇九五円、金利補填二八〇万三八〇四円、替地支度金一〇〇〇万円)を支払っている。右協力金及び替地支度金等協力金の合計額である四四四五万五二六四円は、土地売買代金に対する割合にしてみると実に53.3パーセントにも上るものであり、極めて手厚い補償であるといえる。これら各補償の金額は、被告が自らの努力で替地を入手した場合の各種負担にまで考慮して支出されたものである。そうすると、仮に、替地の提供までしてもらい、唯それが右期限後であったというだけで、右各補償に加えて違約金が支払われなければならない(既払済みの場合は返還されない)とすれば、本件金員が四〇〇〇万円と高額であり、売買代金の約48.1パーセントにも達することからすると、あまりに被告に有利になりすぎる。
(三) 以上の諸事情を当事者間の信義、衡平の観点から総合考慮すれば、本件確約書記載の違約金は、被告に対する替地の提供がされ、これを被告が受領した場合には、既に違約金名目で支払われている金員は当然に返還されるべきである。
(被告の主張)
(一) 「本件金員が本件確約書及びこれを具体化した本件損失補償契約書が表象する法律行為に基づき支払われたものである。」との原告の主張は否認する。
(二)(1) 本件金員は、本件売買契約における売買代金の一部(上乗せ)として支払われたものであり、かつ、原告から提供される替地では償いきれない被告の営農の夢についての補償(慰藉料)を含むものである。
本件確約書や本件損失補償契約書には、本件金員について「違約金」とか「損失補償金」と記載されているが、これは、原告が公的な団体であり、他の被買収地権者との関係からも、被告だけについて売買代金を増額するという処理ができないという専ら原告側のみの事情、都合に基づいて、右売買代金の上乗せという実質を隠蔽するために考案されたものであり、原告は、右事実を隠蔽するために、原告の被告に対する債務不履行(原告が、履行期限である平成四年二月二八日までに、被告に対して替地の提供ができなかったこと)に起因する損害賠償としての違約金という名目で金員を支出するというテクニックを自らの判断で用いたにすぎないのである。
原告は、被告の説明により、「本件買収地を一団の平坦な農地として造成して営農する。」という被告の夢の存在を理解し、かつ、被告からのこの夢に対する補償要請に対して、「契約書には『夢代金』とは書けない。」旨明言していたものであり、その後、平成三年七月二四日の本件売買契約締結の段階に至って初めて、被告に対して、自発的に本件買収地の買取代金に、手取金額で三〇〇〇万円を上乗せする旨提案してきた。そして、被告は、本件買収地の原告への売却に際して、原告から交付された替地支度金等協力金をはじめとする各種名目の金員については、その名目如何にかかわらず、原告の指示に基づき、土地売却代金として不動産譲渡所得税の確定申告をしており、本件金員についても、原告の指示により土地代金増額分として不動産譲渡所得税の修正申告をしているものであり、その税額からして、本件金員の四〇〇〇万円という金額は、被告の実質的手取額が三〇〇〇万円となるように所得税相当額を含めた金額として決定されたものである。
以上の諸事情からすれば、原告から被告に交付された本件金員は、実質的には、原告が本件買収地を取得するための代金の増額分であることは明らかであり、原告が主張するように、違約金としての法的性質を有するものではない。
(2) その上、原告は、民間事業者ではなく、公共事業体としての「公社」であり、その構成員も、ほとんどは四日市市から出向している同市の職員である。そして、文書による事務処理を中心とする地方公共団体の職員として職業訓練を受け、かつ、その実務経験を有する原告の担当者が、原告の被告に対する権利(本件金員の返還請求権)の発生原因を、文書である契約書に明記しないまま本件買収地についての売買契約を締結するなどということはおよそ考えられない事柄である。
現に、原告の担当者は、本件売買契約における契約書(甲第一号証)には、手書きで第一四条を新設しているのであるから、仮に、原、被告間において、右契約の締結の際に、本件金員についての返還合意が成立しているのであれば、右第一四条を手書きで挿入する際に、あるいは本件確約書、又は本件損失補償契約書を作成する際に、その旨記載するのが通常であり、かつ、右の記載は容易にできることである。
にもかかわらず、右の各文書には、いずれもその旨の記載が一切されておらず、しかも、原告は、被告に対し、本件替地のうち最後の三筆について平成七年五月二六日付土地売買契約書が作成された際も、また、右替地提供が完了した旨確認する確認書が作成された際にも、本件金員の返還を求めておらず、かつ、その後二年間にもわたって、その返還を求めていないのであり、このことからしても、原、被告間に本件黙示の合意が存在しなかったことは明らかである。
(三) 以上によれば、原告が被告に対し替地を提供し、これを被告が受領したからといって、被告において、既に別個の法律行為に基づいて受領した本件買収地の売買代金の一部を原告に返還する理由は全くない。
2 本件金員の支払いの根拠となった法律行為が、公序良俗に反し、又は暴利行為として無効か否か(原告の予備的請求原因―不当利得返還請求)。
(原告の主張)
(一) 仮に、本件金員の支払いの根拠となった法律行為に、黙示の返還合意が含まれていないとした場合、以下の事情に照らすと、右法律行為は、公序良俗に反し、又は暴利行為として無効である。
(1) 被告は、原告から本件買収地の売却の依頼を受けた当初は、本件プロジェクトに反対し、右買収には応じない姿勢を見せていたが、その後、買収賛成に転じた。しかし、被告は、他の地権者に先んじて好条件で右買収に応じれば、本件プロジェクト反対派地権者から徳義上の非難を受けるおそれがあるなどとして、他の地権者が替地を受領するまでは、替地の提供は受けず、本件買収地の売買契約も締結しないこととし、自らは、原告の他の地権者に対する用地買収の支援をし、情報提供等の協力をした。
(2) 被告は、本件売買契約が成立した日である平成三年七月二四日ころ、原告に対し、突如として「営農の夢」などと称して、被告が本件プロジェクトにあって地元地権者説得のために果たした役割を評価し、これを、本件買収地の売買条件に上乗せするよう要望した。原告としては、被告は本件プロジェクトに協力的であると信じて楽観しており、この被告の申出には驚いたものの、被告所有の本件買収地を買収できなければ、本件プロジェクトの目的(東芝工場の誘致等)を果たし得なくなるため、他の被買収者との公平を害するおそれを危惧しながらも、被告の右要望に応じざるを得ないと判断した。
(3) 原告は、被告に対する金員の支払根拠を検討したが、本件売買契約にあたっては、被告に対して、同じ立場にある多数の被買収者と同じレベルでの補償は既になされており、正当な補償項目として被告に金員の支払いをすることができなかった。そこで、原告は、被告に対して、自らの替地提供義務を明示し、右義務に違反した違約罰という形で金員を支払うこととし、替地提供の最終期限を平成四年二月二八日とした本件確約書を作成した上で、右期日までは、何ら替地提供に至る具体的な交渉を行わないでこれを徒過させ、被告に対して、違約金名目で本件金員を支払ったものである。
(二) 以上の経過、とりわけ、被告が原告に対し、本件プロジェクト賛成派であるような言動をとり、原告の他の地権者に対する用地買収についてこれを援助したこと、被告は、本件買収地の売却を他の地権者からの用地買収の完了後と指定したが、これは、他の地権者より有利な条件を得たのでは世間の非難を浴びるおそれがあるからであるなどと言って原告を安心させたこと、このように、被告は原告に対して、他の地権者からの用地買収を先行させ、原告を後戻りできない状況に追い込んだこと、被告は、他の地権者からの用地買収がほぼ終了した時点で、突如として「営農の夢」という根拠のない主張を持ち出し、四〇〇〇万円という巨額な金員の支払いを要求したことなどに鑑みるならば、本件確約書中の違約条項は、被告が本件プロジェクトについての原告の窮状に乗じ、社会通念に照らして不正、不当な利益を実現すべく、これを原告に承諾させたものというほかなく、公序良俗に反し無効というべきであり、若干の替地提供履行期日の遅延を理由として、四〇〇〇万円もの多額の金員を違約金名目に受領することに正当な理由がないことは明らかである。このように、被告は、本件プロジェクトにあたって、地元地権者と原告との間に立って、地元の被買収者のために各種の補償項目を実現し、その結果として、株式会社東芝工場の誘致を推進したものであるが、その最終段階に至って、他の被買収者にはない違約金条項によって正当な理由のない金員を得たものであり、このことは、他の被買収者との信義公平の上でも許されないことであるが、原告としては、本件プロジェクトのほぼ終了した段階で出された前記被告の要望については、ただこれを飲むよりほかなかったのであり、被告は、原告の窮状を自ら作り出した上で、これに乗じて不公正な金員を受領したものと評価し得るのである。
(三) さらに、本件金員の四〇〇〇万円という金額は、替地の提供が遅滞することによって被告に生じ得る損害とはかけ離れており、違約金としての相当性を欠くことは明らかであって、また、他の被買収者には支払われたことがないことから見ても、本件金員の根拠となった法律行為は、暴利行為に該当し無効といわざるを得ない。
(被告の主張)
(一) 本件金員の支払いの根拠となった法律行為が公序良俗に違反し、又は暴利行為として無効であるとの主張は否認ないし争う。
(二)(1) 本件金員は、前記のとおり、本件売買契約に基づき、売買代金の一部として支払われ、かつ、これと不可分な形で、替地の取得では償いきれない被告の営農の夢への補償の意味が含まれているものであり、本件金員の支払いの合意及び同合意に基づく金員の支払いは、いずれも本件買収地の被告から原告への売却という純粋な取引上の行為に附随して、原告から被告に提案されて被告がこれを了承するという形で実現された事柄であるから、公序良俗違反という評価の対象となるべき事実が介在する余地は全くない。
(2) また、仮に本件金員が、本件確約書や本件損失補償契約書に基づき支払われたものであるとの評価ができるとしても、右確約書等は、原告がその具体的記載内容を自身の一存で決定した上で作成したものであり、右成立に至る経緯からして、右確約書等の公序良俗違反をいう原告の主張には理由がない。
(3) 原告は、被告が原告を後戻りできない状態にさせた上で本件売買契約を締結させて本件確約書を差し入れさせたものである旨主張するけれども、仮に原告が、本件売買契約等を締結する時点で、既に後戻りできない状況にあったと仮定しても、そのような状況に至った原因は、ひとえに十分な計画、準備のないまま手当たり次第に土地の買収を開始したという、杜撰な方法で原告が本件プロジェクトをすすめたためであり、このことについて、被告には何の責任もない。原告の右主張は、自らの買収計画、実施上の不始末の責任を、これに何ら関与していない被告に転嫁しようとするものであり不当である。
また、原告は、被告が故意に他の地権者よりも有利な条件を得た旨主張するけれども、本件売買契約が私法上の通常の取引であること、本件プロジェクトに伴う用地買収の交渉は、原告と各地権者との間の個別交渉で進められており、その進捗度や内容等は交渉相手である当該地権者以外には窺い知ることができなかったことなどに鑑みるならば、他の売買(用地買収)のケースよりも売買代金が高く設定されているからといって、そのこと自体から直ちに公序良俗違反の問題が生じる余地はないのであり、原告の右主張は失当である。
(4) そして、本件プロジェクトにおける原告と他の地権者との用地買収契約においても、取得代金額が次第に増加していったため先に一旦成立した売買代金額が後に各種名目を付加して実質的に増額されたケースも散見されること、被告の生計は、稲作や野菜の栽培等の農業を主として維持されてきており、かつ、被告が長年にわたって努力した結果、平成元年一月ころには、本件買収地一帯で農地造成ができる状況にあった一方、本件替地は、本件買収地に比して、所在地、形状、土質等がすこぶる劣る上に、約八反の面積を有する一団の農地としては利用することができないこと、原告は、被告に対し、本件替地の被告への提供が完了した平成七年五月二六日付土地売買契約書を作成した際も、右完了を確認する確認書を作成した際にも、本件金員の返還を求めておらず、かつ、その後二年間にもわたって、その返還を求めていないことなどをも総合すれば、本件金員の支払いの根拠となった法律行為が公序良俗に違反するとか、暴利行為に該当するという原告の主張に理由がないことは明らかである。
3 本件金員の支払いが、不法原因給付にあたるか否か(被告の抗弁―不当利得返還請求〔予備的請求原因〕に対して)。
(被告の主張)
(一) 被告は、本件替地の提供及び本件金員の支払いが、いずれも本件売買契約の条件となっていると信じて、原告に対して本件買収地を売却したのであるから、仮に、本件金員の授受が公序良俗違反、又は暴利行為を理由として原告による後の無効主張を許す内容の事柄であるとすれば、このような条件をもって、被告に対して本件買収地の売却を迫り、同土地の売買契約を成立させた原告の帰責性は大きい。
(二) その他、これまで被告が主張してきた本件金員の支払いに至る経緯に鑑みるならば、原告が、被告に対する不当利得返還請求権を有しないことは、民法七〇八条の法意に照らして明らかである。
(原告の主張)
被告の主張は争う。
仮に、本件金員の支払いに何らかの不法原因性が認められるとしても、その場合、前記本件金員の支払いに至る経緯に照らせば、不法の原因が受益者である被告にのみ存することは明らかである。
第三 当裁判所の判断
一 事実経過
前記基礎となる事実に、甲第一ないし第一四号証、第一六ないし第一八号証、第一九号証の一ないし四、第二〇号証の一、第二〇号証の二の一ないし一〇、第二〇号証の三の一ないし四、第二〇号証の四、第二一及び第二二号証の各一、二、第二三ないし第二五号証、第二六号証の一、二、乙第一ないし第五号証、証人小林隆郎、被告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、以下の事実が認められる。
1 本件プロジェクトのてん末
(一) 四日市市は、昭和五四年一月に策定、議決された「四日市総合計画」の第二次基本計画において「本市(四日市市)の工業は素材型工業がほとんどで、加工型工業の集積が乏しいため、資本が地域内では循環蓄積せず、生産所得の大きさに相応しい所得が市民に還元されていない。このため世界的な石油危機のなかで、資源、エネルギーを効率的に使用して付加価値を高めるとともに、雇用の確保に役立つ工業構造へと転換していくことが重要な課題となっている。」などと指摘され、また、現実にも、臨海部における石油化学工業を主産業として展開してきた四日市市内の産業は、二回にわたるオイルショックにより極めて大きな痛手を受けたため、市内の産業構造の転換が要請されていた。
このような状況のもと、四日市市は、平成元年三月ころ、三重県を通じて東芝から半導体工場を建設したい旨の打診を受けた。そのため、四日市市は、同年四月、市内内陸部にハイテク工業団地を開発し、そこに東芝の半導体製造工場を誘致して先端技術企業を市内に導入し、もって、市の産業構造の多様化、高度化を図るとの方針を決定した。その際、四日市市は、原告に対し、右ハイテク工業団地用地の買収と造成を依頼した。右依頼を受けた原告の職員が用地買収交渉のため地元に入ったところ、たちまち強硬な反対に会い、そのためもあって、原告は、組織の改編を行い、原告内に「地域開発特命事業推進本部」というプロジェクトチームを設置して、本件プロジェクトに取り組むこととした。本件プロジェクトは、約三〇ヘクタールという広大な土地(なお、ハイテク工業団地の全面積は約六〇ヘクタールにも及ぶものであった。)の買収と造成をその内容とするものであり、また、四日市市内にハイテク工業団地を造成して東芝の半導体工場を誘致するという事業は、当時の四日市市の最重要施策となったため、右推進本部には、当時の四日市市の助役をはじめとして、用地買収や土地造成工事に精通した応援要員の派遺を得るなどの人的手当がなされた。
(二) 以上の経過で、原告は、本件プロジェクトを推進することを決定したが、これに先立ち原告は、平成元年四月には、東芝工場の誘致先であり、本件買収地の所在場所でもある三重県四日市市山之一色町(以下「山之一色町」、又は「本件地域」という。)自治会の正、副会長、土木委員等に対し、事業計画の説明を行った。半導体集積回路は、日進月歩の勢いで新技術が開発され、また、東芝進出計画の一部が外部に知れるところとなるという状況の下で、東芝としては、早期の進出意向の表明を望んでいたものであるが、他の自治体においても、優良な企業の進出は望むところであり、多くの自治体がその誘致に動いている中、四日市市としては、是非とも東芝半導体工場の誘致を実現すべく、平成元年五月中旬には、市議会への経過説明を行うなどした。そして、同年六月、東芝半導体製造工場の四日市市内への進出が正式に決定し、当時の三重県知事や、四日市市助役、東芝副社長が共同記者会見を開いてこれを発表し、また、そのころ開催された山之一色町の地権者集会においては、概ね測量の同意が得られるなど、本件プロジェクトは、そのころ実質的に始まった。
本件プロジェクトにおいては、買収対象の地権者が一〇〇名を超え、初めから個別に折衝をすすめることは困難であったため、平成元年六月、山之一色町に工業団地のための協議会(以下「旧協議会」という。)が発足し、右設立当初は、山之一色町自治会代表者四名及び地権者の代表者六名等がその構成員となり、この組織を窓口として、原告との間で用地買収交渉、協議が行われることとなった。旧協議会においては、用地の買収価格、周辺の基盤整備、環境問題等の多岐にわたる問題が協議され、同協議会は、「工業団地推進協議会」に発展解消する平成二年一一月初めころまで、一六回にわたって開催された。
(三) 本件地域の地権者は、当初、本件プロジェクトに対して反対の立場の者が少なくなく、その根拠とするところは、①本件地域一帯は、「山之一色町」という名が示すとおり、もともと起伏の多い山間地域で耕地面積が小さい土地柄であり、地元地権者は、こうした地形の、少ない農地で農業に打ち込む一方、起伏を均す等して自力で開墾した農地も少なくないことから、その土地に対する愛着心が極めて強固であること、②平成元年六月に四日市市及び原告が主催する地元地権者に対する正式な説明会が開催される前に、中日新聞がその北勢版において、四日市市が山之一色町一帯に工業団地を開発した上で東芝が工場進出するとのスクープ記事を発表したことから、地元地権者は、地元住民に対する説明の前にマスコミに発表するという四日市市や原告の姿勢が、地元住民を蔑ろにしていることを示すものであるとして、感情的な反発を抱いたこと、③右新聞発表の直前、NHKで東芝千葉工場の排水から発ガン性物質であるトリクロロエチレンが検出されたとの報道がされたことなどから、環境汚染の不安が広がったことなどがその主たるものであった。ところが、旧協議会は、次第に、会合の席上に本件プロジェクト賛成派の市議会議員や市役所の担当者が同席して協議を主導するような状況となり、そこで行われる話し合いの中身も、回を重ねる度に、ハイテク工業団地の開発のために土地を売却することを大前提とした上での買収価格等の条件闘争的な内容となっていった。
平成元年一一月、旧協議会に地権者の代表として参加していた被告、乙山一郎(以下「乙山」という。)、甲野次郎及び甲野三郎の四名の地権者が、原告及び四日市市の対応や協議会の進行に対する不満等を理由として、旧協議会の地権者代表を辞任した。そして、被告を含む右四名の地権者は、被告に賛同する一五名の地権者とともに、実質的に、本件プロジェクトの推進に反対する立場に回った(以下、これら一九名を併せて「本件反対派グループ」という。)。本件反対派グループが有する土地は、総面積が合計約一六ヘクタールにも及ぶものであり(山之一色町在住の地権者所有地の約五六パーセント)、しかも、事業計画予定地の中心部に存在していたため、右土地部分を除く形での本件プロジェクトの内容変更は不可能であり、このグループの理解を得るか否かが、事業成否の鍵を握ることとなった。
(四) 平成元年一二月、原告は、旧協議会の了解を得たとして、各地権者の戸別訪問をして各個別の契約交渉を行うこととし、条件の合意ができた地権者から順に土地買収契約を締結するという方法をとった。その際、原告は、短期間のうちに多数の地権者からの用地買収をすすめるためには、もとの事業本部の職員だけでは対応ができなくなったことから、プロジェクトチームを増員して(最大二七名規模)買収交渉や契約調印にあたることとしたが、用地買収の性格上、地権者との折衝は夜間に行われることが多く、職員は、昼間は本務の日常業務をこなしつつ、本件買収交渉を遂行する日々となり、健康を害する者も少なくなかった。
本件プロジェクトにおける土地買収は、土地収用法が適用される事業ではなく、強制力の伴わない任意の土地買収であったため、これをすすめるためには、地権者の合意が不可欠であった。土地買収代金は、原則として、不動産鑑定評価、近傍地の売買事例、標準値の土地公示価格等を資料として算定されることとなっていたが、右のとおり、原告が、条件の調った者から手当たり次第に買収契約を締結するという方法をとり、当時の土地価格の高騰の影響等により、地元地権者との買収価格の合意形成は困難を極めた(原告としては、当時、近傍の住宅団地用地の買収価格と同額を当初案として提示するなどしたが、地権者の理解を得ることはなかなかできなかった。)。
また、本件地域の地権者の多くは、原告に対し、買収に応じる条件として、「土地を原告に売却することによって得る代金で、別の土地(これが「替地」と呼ばれたものである。)を原告から買うので、その替地を提供しろ。」などとして、替地提供の要求をしていた。右要求に関して、地権者は、概ね、公社に売り渡す土地と同等かそれ以上の条件の土地を替地として提供してもらうことを希望し、また、原告の口頭による約束では理解を示さず、文書(本件確約書の類のもの)の発行を要求することもままみられた。このため原告は、替地の候補地を確保するためにも奔走していたものであるが、前記のとおり、山之一色町一帯は、起伏の多い山間の土地柄で、もともと農地が少なく、地権者の希望に副った替地の確保、提供は難しい状況であり、この条件が合わないため、買収交渉が進捗しないケースも多くみられた。
(五) このように、本件プロジェクトの遂行は難航したが、四日市市及び原告は、石油化学コンビナートに依存してきた四日市市の産業構造を多様化させること、雇用の場を広げること、空気と水のきれいであることが立地条件である半導体工場を誘致し、もって、公害都市四日市の悪いイメージを払拭すること、仮にこの事業が失敗すると、工場の四日市市内への進出を決め、経営戦略を立てている東芝に大変な迷惑をかけるばかりではなく、四日市市の信用を大きく失墜させることになることなどから、どんなことをしても本件プロジェクトを成功させる必要があるとして、本件反対派グループに対し、平成二年二月下旬には、それまでの提示に加え、原告副理事長(四日市市助役)が七億円の補償提示を行い、さらに、同年四月中旬には、原告理事長(四日市市助役)が一億三〇〇〇万円の補償上積みの提示を行うなどして買収交渉を行い、この間には、四日市市長自らも、山之一色町に赴き、反対派グループの協力要請を行った。その後も原告は、金利補填、替地支度金等の各種補償の手当を約束したり、併せて替地の確保に努めるなど、あらゆる手だてを尽くして、買収に応じるよう説得した。また、原告及び四日市市は、本件プロジェクトに対する反対の一因となっていた環境問題について、平成三年二月の公害防止協定調印までの間に、勉強会(説明会)を五回(うち三回は大学教授を招く。)、公害対策委員会を九回それぞれ開催したり、東芝大分工場の視察会を行うなどして、地元住民の公害の不安解消を図った。さらに、山之一色町の地域整備に関しては、自治会から道路、排水先河川の整備、公民館、水田、墓地の整備等、二七項目にもわたる要望が提出されたため、四日市市の所管関係部課においてこれに対応することとなった。このころ、原告及び四日市市は、東芝から、「半導体の市場としては、日本国内だけでなく、世界市場を視野に入れて計画を立てているため、工場進出の時期を失すれば、東芝一社だけの問題ではなく、日本の半導体産業全体が世界市場で非常に不利な事態となる。もし工場建設が遅れ、世界市場参入の時期を失することになれば、四日市市に工場を建てる価値も意義もなくなる、東芝としては、反対者に対して出されている条件は最大限考慮する(条件整備のための費用を原告と東芝間の土地の売買代金に反映させる。)ので、早く買収をすすめて欲しい。」などという要請を再三受けていた。
(六) このような買収交渉等の結果、原告は、平成二年五月下旬ころには、造成工事中も買収条件を充たすべく交渉を続けるとの約束をした上で、未買収地権者から土地造成工事の着手の同意を得て、同年八月から造成工事の着手をすることにこぎつけた。原告は、この時点において、未だ六二パーセントの土地の買収を完了したのみであったが、その後の替地の手当等により、平成二年一二月末には、面積にして約八〇パーセントの土地の買収を完了し、平成三年七月、乙山及び被告との本件売買契約等を最後に、実質的に全ての土地買収が完了した。
なお、東芝の半導体製造工場は、平成二年一二月に起工式が行われ、当初の予定より一年遅れの平成四年三月から本件地域において操業を始めている。
2 本件売買契約に至る経緯及び金員支払いの状況
(一) 被告は、昭和三七年に三重県立四日市農芸高校を卒業して以降、本件買収地及びその周辺地域において、野菜や椎茸の栽培を中心とした農業や、松の木を切り出して製材用やパルプの原材料用に販売する林業を営んで生計を立てていたものであるが、昭和四八年ころ、株式会社熊谷組(以下「熊谷組」という。)から、山之一色町内において霞ケ浦埋立事業用の土砂を採取する話しが持ち上がり、同年八月には、熊谷組との間で、熊谷組が①土砂採取後の土地を整地して平らな農地とすること、及び、②右農地の排水路を整備することなどを条件として、向こう五年間にわたって、熊谷組が本件買収地から土砂を採取することを許す契約(以下「本件土砂採取契約」という。)を締結した。
ところが、採取した土砂の利用先である埋立事業そのものが中断するなどしたため、熊谷組による土砂採取は計画通りには進捗せず、被告は、昭和五三年、右と同じ二つの条件をもって本件土砂採取契約を五年間延長した。被告は、本件土砂採取契約の条件を熊谷組が履行することにより、約八反の面積を有する一団の平坦な農地を手に入れ、そこで大々的に農業を営むことができるなどとして、将来の農業経営に夢や希望を持っていたが、熊谷組による採取跡地整備計画は、遅々として実現しないまま、土砂採取行為のみが先行していった。そして、昭和六二年ころから、被告が、熊谷組と土砂採取契約を締結した他の土地所有者と共同して、土砂採取後の跡地整備について強硬に折衝した結果、平成元年一月には、熊谷組から、採取跡地を平らにして地形を整備するための整地図面が提示され、右整地のための工事着工を待つばかりの状況となった。
(二) ところが、被告は、平成元年四月ころ、山之一色町の自治会長を通じて、四日市市が本件買収地を含む本件地域一帯を造成して、ハイテク工業団地を建設する計画があることを知らされた。
被告は、本件プロジェクト開始当初は、旧協議会における地権者の代表者として、土地買収(本件プロジェクト)に関する原告との協議にあたり、また、同協議会においてハイテク工業団地建設によって生じる環境問題等の諸問題を十分に検討し、右検討結果等から、ハイテク工業団地建設のために売却すべきか否か、仮に売却するとすればどのような条件で売却するのか、仮に売却しないとすれば、どのような条件で反対運動を展開していくのか等の基本的な方針について、十分に話し合う意向で会合に臨んでいたものであるが、前記のとおり、現実の協議会においては、次第に、会合の席上に本件プロジェクト賛成派の市議会議員や市役所の担当者が同席して協議を主導する状況となっていき、協議の中身も、回を重ねる度に、工業団地の開発のために土地を売却することを大前提とした上での買収価格等の条件闘争的な内容となっており、協議会に地権者の生の声を反映することが難しい(当時被告としては、山之一色町の地元住民には本件プロジェクトに反対する者が多いと考えていた。)状況になってきたため、平成元年一一月に同協議会の地権者代表を辞任した。被告は、それ以降、本件反対派グループの主導的立場に就いて、本件プロジェクトに対しては反対の立場に回った。
(三) このような状況の下、原告は、平成二年三月ころから、当時の四日市市の農林水産部長であり、農業政策を担当し、農地問題に精通していた黒田公昭(以下「黒田」という。)に原告「地域開発特命事業推進本部」との兼務辞令を発し、本件反対派グループの対応を命じ、同年四月ころからは、特に、当時本件反対派グループの主導的立場にあり、本件地域内に広大な面積の土地を所有していて、本件プロジェクトの成否の鍵を握っていた乙山及び被告に対する説得、買収交渉にあたらせることとした。
黒田は、平成二年四月、被告宅を訪れ、本件プロジェクトに協力して買収に応じるよう交渉する機会を持った。その際、被告は、黒田に対し、(一)記載の熊谷組との本件砂利採取契約締結に至る経緯やその後の農地整備計画が実現される一歩手前まで来ていた経過を説明した上、本件プロジェクトにおいては、ハイテク工業団地の用地を買収するのみならず、山之一色町全体の土地整備計画を立案して農地造成や基盤整備を行うべきである旨要求した。この要求に対して、四日市市及び原告は、平成二年五月ころ、山之一色町一帯における農地造成及びその基盤整備を市の単独事業として行うことを確約するなどして、本件地域の開発事業に積極的に取り組む姿勢を見せた。そのため、被告は、本件プロジェクトに理解を示すようになり、その実現に協力する態度を表明した。ただ、このとき被告は、本件プロジェクトについて、反対派から賛成派に転じた上に買収面積の比較的大きい自らが、他の地権者らに先んじて原告から替地の提供を受けて買収に応じたということになれば、当初に示していた本件プロジェクトに対する反対の態度は有利な条件で買収に応じるための見せかけにすぎなかったなどと本件反対派グループ等から徳義上の誹りを受けることを危惧して、原告に対して、自分以外の本件反対派グループの者からの土地買収が全て完了するまでは、原告と土地買収契約を締結したり、替地の提供を受けたりしない旨宣言した。
被告は、平成二年五月下旬ころ、未だ原告との土地買収契約を締結するには至っていなかったものの、今工事に着手しないと東芝の工場進出の予定時期に間に合わないとの原告の要請に応じて、原告が本件買収地の造成工事に着手することに同意した。また、被告は、平成二年一一月、旧協議会が発展解消した形で「工業団地推進協議会」が発足すると、その委員に就任して、本件プロジェクトの推進に協力した。
(四) 被告は、このように、本件プロジェクトの推進そのものには協力する立場に立ったものの、原告との個別的な用地買収交渉においては、提示される替地の候補地が、いずれも不整形地であったり水の便が悪いなど被告の希望に副うものではなかったため、条件が調わず、原告からの買収要請に応じなかった。被告は、平成二年秋ころ、黒田に対し、(一)記載の営農の夢のことや、原告から提示された替地の候補地では、右営農の夢が実現できないことを詳細に説明した上、本件買収地を原告に売却することは、右営農の夢を諦めることになるから、その補償として、売買代金の上乗せをするよう要求した。これに対して、黒田は「契約書に『夢代金』とは書けんな。」などと応えた。しかし、被告は、そのとき、黒田の対応等から原告が右売買代金の上乗せの要求に応じてくれるものと考えた。
平成三年七月、黒田は、被告宅を訪れ、被告に対し「東芝の工場進出を実現するためには、今月がタイムリミットであり、この機を逃すと、工場団地の開発そのものがとん挫することになる。ついては、ぼつぼつ買収に応じてくれないか。」などと執拗に申し入れた。その際黒田は、被告に対し、本件反対派グループを含むほとんどの地権者との間で既に用地買収が終了していることを説明した上、売買代金に三〇〇〇万円を上乗せする旨買収の条件を提示した。その結果、被告は、平成三年七月二四日、原告との間で、本件売買契約を締結するに至った。
本件売買契約締結の際、交わされた契約書(甲第一号証)には被告に対する替地の提供義務及び右三〇〇〇万円分の代金上乗せの記載はなかったが、黒田は、被告に対し、①約束した売買代金の上乗せ分である三〇〇〇万円を売買契約書の代金額に加算することはできないから、会計年度が変わった後で違約金名目で支払うので心配は無用であること、②右違約金を支払った後も替地は必ず提供することなどをそれぞれ約束し、本件確約書(甲第四号証)を被告に手渡すとともに、売買契約書(甲第一号証)にも、手書きで「乙(原告)は甲(被告)に本契約締結後、替地の提供並びに補償等について誠意をもって解決するものとする。」との条項(第一四条)を加えた。
(五) 原告は、本件確約書に記載された期限である平成四年二月二八日までには、被告に替地の提供をしなかった。
平成四年三月、黒田は、再び被告宅を訪れ、売買代金の上乗せ分を支払うための契約書である旨説明した上、原告が被告に損失補償として本件確約書に記載された違約金と同額の四〇〇〇万円を支払うことをその内容とする本件損失補償契約書(甲第五号証)への署名、捺印を求め、被告はこれに応じた。そして、原告は、平成四年六月、被告に対し、本件金員を支払った(なお、本件金員の額が、最終的に四〇〇〇万円〔反当たり五〇〇万円〕と決められた経緯、根拠については、その決定において主導的役割を果たしたと思われる黒田が死亡し、その供述を得ることができない現在、残された資料からこれを詳らかにすることは困難である。)。
さらに、原告は、本件確約書に明示したとおり、本件金員を支払った後も、被告に対して提供する替地の取得に努力し、平成四年一二月一一日及び平成七年五月二六日合計一八筆の替地を代金合計六三三三万四七八七円で売却して替地の提供を完了したが、右提供に際し、被告に対して本件金員の返還を求めたことはなかった。
二 争点1(本件黙示の合意の有無)について
1 本件金員の法的性格について
(一) 原告は、「本件金員は、本件確約書及びこれを具体化した本件損失補償契約書が表象する法律行為に基づき支払われたものであり、原告が被告に替地が提供できなかった場合の弱い違約金ないし担保的違約金である。」などと主張する。
(二)(1)確かに、本件金員は、書面処理上は、原告が被告に対し、平成四年二月二八日までに替地として農地約八反を提供すること、及び、右期限までに替地の提供が完了しなかった場合、反当たり五〇〇万円(合計四〇〇〇万円)の違約金を支払うことなどを約束し(本件確約書)、右約定を履行できなかったことによる違約金を支払うため、損失補償契約を締結した(本件損失補償契約書)上、被告に支払われたという形態がとられている(甲第四、第五号証、弁論の全趣旨)。
(2)(イ) そこで、本件金員が右のような書面処理をされて原告から払い出された趣旨を検討するに、前記一で認定した事実によれば、被告は、本件反対派グループの主導的立場にあった者の一人であり、かつ、本件地域において広大な面積を所有する地権者であり、本件プロジェクトの成否の鍵を握っているという立場から、原告に対し、本件地域全体の農地整備等を要求し、この要求が原告の容れるところとなって賛成派に転じた後も、原告から提示された替地候補地が意に副うものではないなどとして、売買代金の上乗せを要求したこと、これに対して原告は、強制収用という強権的な手法をとることができないという状況下で、東芝からの再三にわたる早期買収の要請を受け、当時の四日市の最重要施策の一つである本件プロジェクトを一日も早く成功させる緊急の必要に迫られ、被告の要求を飲む形で買収代金額を上乗せすることを決定するに至ったことがそれぞれ認められる。このような事実経過に、山之一色町一帯の地勢は山間の土地柄で農地が少なく、原告が、被告に本件確約書を差し入れた当時、替地を確保するのに困難を極めていたため、期限(平成四年二月二八日)までに被告の意に副った替地を提供できる見込みはほとんどなかったこと(原告が自認する事実である。)、しかも、原告の被告に対する替地提供義務は、単に原告が替地を提供するだけでは終わらず、被告がこれを受領する旨の意思表示をすることによって初めて履行されたことになること(当事者間に争いがない。)、したがって、このような被告の意思のみにかかる事項に、原告の被告に対する四〇〇〇万円もの金員支払義務の発生の有無をかからしめること自体が不合理であること、本件確約書に記載された期限が間近に迫っても、被告が原告に対し、替地の提示を強く要請することはなく、原告としても、被告に対する替地提供のため(したがって、本件確約書に記載された四〇〇〇万円という違約罰を免れるため、)、格別積極的な方策を試みた形跡も窺うことができないこと、黒田は、平成九年三月、本件金員の支払稟議に加わった原告の役員及び平成九年当時の原告の役員が会して本件確約書や本件損失補償契約書等の解釈上の疑問点等について協議した際、本件金員につき、約定期限までに替地を提供できなかった以上は、原告は被告に対し、本件金員を支払う必要があり、かつ、この金員を支払った後にも替地を提供する義務を有する旨説明していること(甲第二二号証の一、二)、本件売買契約当時、黒田とともに、本件地域周辺の用地買収交渉にあたっていた小林隆郎も、原、被告間には、仮に期限までに替地を提供しても、原告は被告に対し、本件金員を支払う必要があるし、期限までに替地を提供し得なかった場合又は提供したが被告がこれを受領しなかった場合には、本件金員を支払うとともにその後も替地を提供する義務は残り、しかも、その後に替地を提供し被告がこれを受領しても、既に支払った本件金員は、返還されないものとの合意がなされており、結局、本件金員は、本件売買契約の代金額の上乗せであると思う旨供述していること(甲第一二号証、証人小林隆郎の証言)、被告は、本件買収地の原告への売却に際して、原告から交付された替地支度金等協力金をはじめとする各種名目の金員については、その名目如何にかかわらず、本件買収地の原告への売却代金として不動産譲渡所得税の確定申告をしていること(乙第二、第五号証、被告本人尋問の結果)、本件金員についても、平成四年六月二三日、本件買収地の売却代金の増額分として不動産譲渡所得税の修正申告をして、これを納付していること(乙第二ないし第四号証)などを併せ考慮すれば、本件金員は、本件プロジェクトの推進に最終的には協力した被告に対する謝礼的意味も併せ含め、本件売買契約における売買代金の一部(上乗せ)として支払われたものと評価することができる。
(ロ) そして、甲第一ないし第三号証、第一三号証、第一四号証及び弁論の全趣旨によれば、被告に対しては、本件売買契約にあたり、売買代金のほかに、「協力金」(一般的な売買代金の上乗せ分であり、一律坪当たり五〇〇〇円として計算されたもの。)名目で一〇三八万六七四五円、「替地支度金等協力金」名目で三四〇六万八五一九円(その内訳は、税金相当分〔土地代金と右「協力金」との合計額を譲渡所得として税額計算し、その相当額を上乗せしたもの。〕が一九一八万四六二〇円、協力金〔右「協力金」と同じ性格のものであり、一律坪当たり一〇〇〇円として計算されたもの。〕が二〇八万〇〇九五円、金利補填〔最も早く土地買収契約が成立した地権者を基準として、当該売買契約に至るまでの買収代金に対する年六パーセントの割合で計算した金利を補填したもの。〕が二八〇万三八〇四円、替地支度金〔自ら替地を探すための手当金であり、原則として、原告から替地の提供を受けた場合には、原告に返還されるものとされていた。〕が一〇〇〇万円である。)が支払われており、右協力金及び替地支度金等協力金の合計額である四四四五万五二六四円は、本件売買契約の契約書(甲第一号証)に記載された土地売買代金額に対する割合にしてみると実に約五〇パーセントにも上るものであり、これらの各補償は、本件確約書の地権者と同程度になされた極めて高い水準のものであることが認められ、しかも、原告自身、本件損失補償契約書について、原告の内部における処理手続上、本件確約書による金員の支払いを損失補償という形にするために作成されたものであり、その実体はない旨自認していることなどからすると、(1)記載のように、原告が被告に対し、本件確約書及び本件損失補償契約書という書面を利用して、原告の被告に対する債務不履行(原告が履行期限までに被告に替地の提供ができなかったこと)に基づく損害賠償(違約金)という形態でもって本件金員を支払ったのは、他の被買収地権者との関係から、被告だけについてこれ以上売買契約書に記載された代金の増額という処理ができないという原告側の事情、都合に基づいて、決裁処理上の技術としてなされたものにすぎないと推認することができる。
(3) 以上によれば、原告から被告に交付された本件金員は、実質的には、原告が本件買収地を取得するための代金の増額分であることは明らかであり、これが、原告が期限までに替地を提供できなかったことに対する違約金(違約罰)として支払われたものであるとする原告の主張を採用することはできない。
2 被告の本件黙示の合意に基づく本件金員返還義務の有無について
(一) 以上1で説示してきたとおり、本件金員が、本件売買契約における売買代金の一部上乗せとして支払われた趣旨からすれば、本件金員の支払根拠となった法律行為(本件売買契約)に、本件金員の返還に関する黙示の合意が含まれていたと解することは困難である(そもそも、最終的に替地が提供された場合には、本件金員が原告に返還されなければならないとすることは、前記認定の本件売買契約において代金額が上乗せされた経緯、趣旨とはそぐわないことである。)。そして、原告の被告に対する本件替地の提供は、本件売買契約とは別個の法律行為であり(当事者間に争いがない。)、原告がその義務を履行したからといって、それが一旦合意された本件売買契約における代金額に消長を来たし、その結果、被告が既に受領していた代金の一部を原告に返還しなければならなくなるものではない。
(二)(1) その上、本件売買契約から本件金員の支払い、その後の本件替地の提供に至るまでの間に、原、被告間で交わされた書面には、いずれも、本件確約書に記載された「違約金」なるものの返還に関する明示の記載はもとより、本件黙示の合意の存在を窺わせるような記載は一切存在しない(甲第一ないし第一〇号証)。
そもそも、原告は、公共土地、公用地等の取得、管理、処分等を行うことを目的とした公社であり(当事者間に争いがない。)、その代表者をはじめとする職員も、ほとんどは四日市市から出向している同市の職員であって、文書による事務処理を中心とする地方公共団体の職員として職業訓練を受け、かつ、その実務経験を有しており、いずれも、用地買収等の職務にも精通していた(甲第一一号証、第一二号証、第一五号証、第二一及び第二二号証の各一、二、証人小林隆郎の証言、弁論の全趣旨)というのであるから、このような原告の担当者が、原告の被告に対する権利(本件金員の返還請求権)の発生原因を、文書である契約書に明記しないまま本件買収地についての売買契約を締結し、本件金員を支払うなどということは、本件金員の四〇〇〇万円という金額からみても、考え難い事柄である。現に、原告の担当者は、本件売買契約における契約書(甲第一号証)には、手書きで第一四条を新設するなど、その場の交渉、合意の結果を自ら臨機応変に書面化しているのであるから、仮に、原、被告間において、本件売買契約の締結の際に、本件金員についての返還合意が成立しているのであれば、右第一四条を手書きで挿入する際に、あるいは本件確約書、又は本件損失補償契約書を作成する際などに、その旨記載するのが通常であり(特に、本件確約書は、原告がその作成名義人として、被告の関与なしに一方的に作成した文書である〔甲第四号証、被告本人尋問の結果〕。)、また、本件全証拠によるも、右の記載をすることにつき、格別の障害となるべき特段の事情を認めることはできない。
(2) そうであるのに、右の各文書には、いずれも明示の返還合意はもとより、本件黙示の合意の存在を窺わせる記載が一切されておらず、しかも、原告は、被告に対し、本件替地の被告への提供が完了した日である平成七年五月二六日付け土地売買契約書(甲第九号証)が作成された際や、右替地提供の完了を確認する確認書(甲第一〇号証)が作成された際など、その機会は十分あったにもかかわらず、本件金員の返還を求めておらず、かつ、その後二年間にもわたって、その返還を求めていないのであり(証人小林隆郎の証言、被告本人尋問の結果、弁論の全趣旨)、このことからしても、原、被告間に本件黙示の合意など存在しなかったこと(あるいは、本件黙示の合意が存在したものと評価することができないこと)は明らかである。
(三) 以上によれば、本件黙示の合意の存在は認めることができず、被告が原告に対し、原告が被告に対する替地提供義務を履行したからといって、被告において、既に別個の法律行為(本件売買契約)に基づいて受領した本件買収地の売買代金の一部である本件金員を原告に返還する理由はないものといわなければならない。
三 争点2(公序良俗違反の有無)について
1 既に認定、説示してきたとおり、本件金員は、本件売買契約の代金の一部(上乗せ)として支払われたものというべきところ、右のように代金上乗せがされるに至った経緯は、原告が、本件反対派グループの主導的立場にあり、かつ、本件地域において広大な面積の土地を所有していて、本件プロジェクトの成否の鍵を握る立場にある被告から、売買代金を上乗せせよとの要求を受ける一方、東芝からは再三にわたって早期買収の要請を受け、本件プロジェクトを一日も早く成功させる緊急の必要に迫られる状況下で、被告の要求を飲む形で代金の上乗せを決定したものであり、被告は、地元の被買収地権者のために原告から各種事業整備の実施の約束を取り付け、工業団地推進協議会の委員に就任するなどして本件プロジェクトに賛成する意思を表明した後は、地元地権者と原告との間に立って、原告の他の地権者に対する用地買収についてこれを援助しつつ、本件買収地の売却を他の地権者からの用地買収の完了後と指定して他の地権者からの用地買収を先行させ、他の地権者からの用地買収がほぼ終了した最終段階に至って、売買代金の増額を要求した結果、他の被買収者にはなかった違約金の支払いという形態で本件金員を得たというものである。
確かに、このような被告が本件金員を手にした経過を客観的に見た場合、被告の個人的意図はさて措くとしても、被告は、本件プロジェクトという当時の四日市市の最重要施策の成否を人質にとったような形で、引くに引けない状況にあった原告に対し、買収代金増額の要求したものとも評価し得るのであり、四日市市及び原告としては、本件プロジェクトのほぼ終了した段階で出された被告の代金増額の要求について検討した結果、被告に対して多額の出捐をしてでも、本件プロジェクトを成功させて東芝半導体工場を誘致した方が得策であると考え、その政治的判断から売買代金の増額を決定したというのであるから、このような売買代金額決定に至る過程は、私的な契約であるとはいえ、公社である原告が行った取引形態としては、不透明、不健全な面があったことは否めないところがある。そして、原告に支払われた四〇〇〇万円という本件金員の額は、売買契約書(甲第一号証)に記載された代金額である八三〇七万三三六五円の実に約五〇パーセント近くにも上るものであり、この金額からみても、被告は、結果的に自らの立場を利用した形で、かなり有利な条件で本件買収地の買収に応じたものといえる。
2(一) しかしながら、前記認定の事実経過に甲第二二号証の一、二を総合すれば、四日市市及び原告は、本件プロジェクトに成功し東芝半導体工場を四日市市内に誘致した場合のメリットとして、①石油化学コンビナートに依存してきた四日市市の産業構造を高度化、多様化させること、②雇用の場を広げることにつながること、③空気と水がきれいであることを立地条件とする半導体工場誘致の成功によって四日市公害の悪いイメージを払拭することができることなどを考慮し、他方、仮に被告から本件買収地を買収することができず、本件プロジェクトに失敗した場合の不利益として、①既に買収済みの土地と未買収の土地が入り交じり虫食い状態となっているため、買収済みの土地すら利用することができず、その結果、原告が投資した資金回収ができないこととなり、膨大な不良資産を抱え込む結果となること、②既に半導体工場の四日市市への進出を決めて経営戦略を立てている東芝に甚大な損害と迷惑をかけ、四日市市の信用を大きく失墜させるとともに、東芝から四日市市に対する損害賠償の請求も予想されること、③既に本件地域においてすすめていた電力、上水道、工業用水供給路等の基盤整備が無駄となることなどをそれぞれ斟酌し、このような諸般の事情を熟慮して総合勘案した結果、何としても本件プロジェクトを成功させる必要があるとして、本件金員(四〇〇〇万円)分を買収代金に上乗せさせてでも、被告からの本件買収地の買収をすすめることが得策であると判断して、自らの意思で被告の売買代金増額の要求に応じることを決定したことが認められる。
そして、現実に、四日市市及び原告は、本件プロジェクトを実現して東芝の半導体工場の誘致に成功した結果、年間固定資産税や市民税等数十億円単位の莫大な税収増があり、また、一〇〇〇名分を超える雇用の場を確保するとともに、都市のイメージアップを図ることができるなどの利益を得ていること(甲第一七号証、弁論の全趣旨)、しかも、本件売買契約当時の原告の理事長(代表者)であった加藤宣雄は、「平成二年度末の総事業費の中には、用地買収費、造成費等のほかに、『その他』として不測の支出に備えて相当額(数億円単位)を予算計上して東芝の了解をとっていた。原告と東芝との間では、本件ハイテク工業団地の用地のうち、東芝に分譲する予定地については、その取得のための経費や費用は全て原告から東芝への分譲価格(売買代金)に転嫁することが合意されていたので、原告が損害を被ることはない旨確信していた。また、税収や雇用が確保されるために市民の理解も得られるであろうと判断していた。」などと供述していること(甲第二二号証の一、二)、その結果、原告は、被告に対し、本件替地の提供が全て完了し、その確認がなされた平成七年五月以降、二年間にもわたって、本件金員の返還を求めていないこと(証人小林隆郎の証言、被告本人尋問の結果、弁論の全趣旨)、他方、被告としては、本件売買契約に至るまで、その生計を、本件買収地及びその付近における稲作や野菜の栽培等の農業を主として維持してきており、かつ、被告が長年にわたって努力した結果、本件プロジェクトが開始される直前である平成元年一月ころには、本件買収地一帯で農地造成ができる状況にあった一方、本件替地は、本件買収地に比して、所在地、形状、土質等が劣るものである上に、一団の農地としては利用することができないこと(乙第五号証、被告本人尋問の結果)、したがって、約八反の面積を有する一団の土地で農業経営することを長年希望していた被告としては、本件替地が一〇〇パーセントその意に副ったものとはいい難いこと(乙第五号証、被告本人尋問の結果)などをも総合すれば、本件金員の支払いの根拠となった法律行為が公序良俗に違反するとか、暴利行為に該当するという原告の主張には理由がない。
(二)(1) 原告は、被告が原告を後戻りできない状態に陥らせた上で本件売買契約を締結させたものである旨主張する。
しかしながら、そもそも、ハイテク工業団地の建設や東芝半導体工場の誘致、これに伴う本件プロジェクトの遂行については一原告の内部のみならず、実質的な事業主体である四日市市においても、十分な検討がされて決定がされている事柄であり(甲第二二号証の一、同証拠によれば、四日市市の当時の最重要施策の一つであった本件プロジェクトの進行については、いわゆるトップ・ダウン形式によって意思決定及びその実現が図られていることが認められる。)、仮に原告が、その主張するとおり、本件売買契約を締結する時点で、既に後戻りできない状況にあった(その意味するところは、必ずしも判然としないが、)としても、前記認定の事実経過によれば、原告がそのような状況に至った原因は、そもそも、本件プロジェクトが、広大な面積の土地買収をその内容とし一筆の土地すら未買収とすることが許されないにもかかわらず、土地収用法による強制収用の対象事業ではなく、全ての被買収地権者の同意を必要としたものであった上に、原告が、用地買収についての具体的な見通しを立てておらず、地元住民に対する十分な説明も行っていない段階で、東芝半導体工場誘致のプレス発表を行って地元地権者の感情的な反発を買ったこと、旧協議会の運営上の問題等から、被告や乙山といった地元大地主が同協議会から脱退し、本件プロジェクトの反対派に回るといった事態を招来したこと、十分な計画、準備のないまま、旧協議会の許可を得たなどとして、地権者に対する戸別訪問を行って、手当たり次第に土地の買収を行っていったこと、その結果、買収価格が高騰するなどしたため、買収交渉が困難を極め、タイムスケジュールも逼迫したものとなり、また、事業用地が虫食い状態になってしまったこと、特に、事業計画予定の中心地である乙山及び被告所有地の買収が最終段階に至るまでできなかったことなど、原告及び四日市市の本件プロジェクト進行における不手際ともいうべき事由によるところが大きく、これらのことについて、被告自身が責を負うべき事由はほとんど見あたらない。
原告の右主張は、自らの買収計画、実施上の不手際を、被告に転嫁しようとするものであり、失当である。
(2) また、原告は、被告が故意に他の地権者よりも有利な買収条件を原告から引き出した旨主張するけれども、本件売買契約が私法上の通常の取引として行われ、かつ、本件プロジェクトに伴う用地買収の交渉は、原告の方針に従って、いずれも原告と各地権者との間の個別交渉で進められていたこと(当事者間に争いがない。)、そのため、交渉の進捗度や内容等はその相手である当該地権者以外の者には原則として窺い知ることができなかったこと(乙第五号証、被告本人尋問の結果、弁論の全趣旨)、そのため、被告は、本件売買契約において、原告による代金提示額の許否を自己の責任で判断するほかなく、他の地権者よりも高額で買収に応じようと画策すること自体、まことに困難な状況にあったこと、現に、本件プロジェクトにおいて、単位面積に換算すると買収価格等の面で被告よりも厚遇された地権者も存在することが窺われること(甲第一四号証)などに鑑みるならば、仮に、本件売買契約において、他の売買(用地買収)のケースよりも売買代金が高く設定されている(この事実自体、本件全証拠によっても、未だただちに認めることは困難であるが、)からといって、そのことから、被告が故意に他の地権者よりも有利な条件を原告から引き出したものと評価することはできない。
原告の右主張も、これまた採用することはできない。
(三) 以上のとおり、本件金員の支払いの根拠となった法律行為(本件売買契約)が公序良俗に違反し、又は暴利行為として無効であるとまでは、未だ評価することができない。
第四 結論
以上によれば、原告の本訴請求は、その余の争点につき判断するまでもなく、いずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法六一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・澤田経夫、裁判官・中村さとみ、裁判官・堀田次郎)
別紙物件目録<省略>