津地方裁判所四日市支部 昭和47年(ワ)115号 判決 1976年10月20日
原告
小林有造
ほか一名
被告
岩村六詰こと森健吉
主文
被告は原告小林有造および原告小林りゑに対してそれぞれ金二二万四九四五円および内金一七万四九四五円に対する昭和四七年八月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
原告らのその余の請求を棄却する。
訴訟費用は全部被告の負担とする。
事実
一 当事者双方の求める裁判
(一) 原告ら
「被告は原告小林有造および原告小林りゑに対しそれぞれ金六四三万九三六〇円およびこれに対する昭和四七年八月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え」との判決および仮執行宣言
(二) 被告
「原告らの請求を棄却する」との判決
二 原告らの請求原因事実等
(一) 訴外亡小林芳子(以下訴外人という)は、次の交通事故の被害者である。(被告の自白の徹回には異議がある)
イ 日時 昭和四三年四月二二日午後一一時ころ
ロ 場所 四日市市川原町海蔵橋交差点
ハ 態様 訴外人が乗用自動車(三五は五〇四五号、以下原告車という)を運転して右事故場所に至り、右折のため停止中被告の運転する乗用自動車(三五の〇三八七号、以下被告車という)に追突されて対向車線上に進入し、対向車と衝突。
(二) 訴外人は、右事故により所謂鞭打ち症の傷害を蒙り、昭和四四年八月以降は外傷性頸椎々間内障、第三、第四頸椎々間板後方線維輪突出、第四、第五頸椎々間板維輪断裂の診断を受け、昭和四五年一二月二六日現在自賠責上の障害等級八級に当る後遺症が残り、頸椎の運動制限、頸腕神経の頑固な刺激、上腕神経叢、大後頭神経、正中橈尺骨神経の著明な圧痛、胸鎖乳突筋等の頸筋の著明な緊張、四肢の腱反射昂進、手指の打緻運動障害、左前腕以下右手関節以下左大腿部以下右下腿以下の知覚鈍麻、平衡機能障害、眩惑、等の症状が継続している。被告は右各症状と本件事故との困果関係を否定するが、一般の鞭打ち症とは異る本件の受傷にあつては該主張は失当である。
(三) 右事故により訴外人の蒙つた損害は以下のとおりである。
イ 治療費 金一〇〇万円
昭和四四年九月二一日から同四六年九月ごろまでの安井病院、加茂川病院、吉峰病院、京大付属病院における直接間接の治療費合計
ロ 逸失利益 金一七〇万円
訴外人の年収四〇万円として昭和四七年八月(訴提起)までの四年三箇月間就労不能となり、その間に失つた賃金相当額
ハ 将来の収入減 金四四八万八七二〇円
訴提起時から昭和五二年八月一五日までの五年間の労働不能による年収四〇万円の割合の損失金一七五万五七二〇円(ホフマン係数四・三六四三)、および同日以降二五年間の労働能力半減による損失金二七三万三〇〇〇円合計金
ニ 慰藉料 金七〇〇万円
本件事故についての訴外人の無過失、治療期間、後遺症の程度を総合した訴外人の甚大な苦痛に対する慰藉料
(四) 被告は被告車を所有し、自己のため運行の用に供していた。
(五) 被告は、自動車運転者として飲酒して正常な運転のできない時は運転を慎む義務があるのに、これを怠つて漫然被告車を運転していた過失、あるいは運転中は常に前方を注視して事故の発生を防止する義務があるのに、前方注視を怠つて運転していた過失により、前記現場において原告車に追突したものである。
(六) 被告主張の示談成立の事実は認めるが、右示談内容は事故当時の軽度の打撲を前提としてなされたものであつて、前記の後遺症状に伴う多額の損害の発生を予見せずなされたものであるから本訴請求の損害に効力を及ぼすものでなく、仮に右示談が本訴請求のすべてに及ぶとすれば、重大な要素に錯誤があつたことに帰して、無効である。
(七) 被告主張の本件事故についての被告の無過失、訴外人の受診上の過失はすべて否認する。
(八) 訴外人は、昭和五〇年二月五日死亡し、原告らはそれぞれ二分の一の割合で訴外人の権利を相続承継した。
(九) よつて原告両名は、それぞれ被告に対し自動車損害賠償保障法および民法七〇九条にもとづいて訴外人の本件事故による前記損害合計金一四一八万八七二〇円から保険給付金等一三一万円を差し引いた金一二八七万八七二〇円の相続分二分の一に当る各金六四三万九七六〇円およびこれに対する本件訴状送達の翌日である昭和四七年八月三〇日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
三 被告の答弁等
(一) 原告の請求原因(一)の事実中事故の態様については否認するが、その余の点は認める。(被告は昭和四七年一一月三〇日の第一回口頭弁論期日において右態様についてもこれを認め、第五回口頭弁論期日(昭和四九年九月一八日)において、右自白を徹回した)本件事故は三差路に当る事故現場において北進していた原告車が右折しようとして南進する訴外の大型トラツクと衝突して後進したため、被告車が原告車に追突したものである。
(二) 請求原因(二)(三)の事実は争う。所謂鞭打ち症の場合は通常事故後二四時間程度で最高の症状が発現するものであるのに、訴外人の場合は、昭和四四年五月二四日ころになつてその症状を示していることから、本件事故との因果関係は否定すべきである。そもそも訴外人の療養態度は極めて異常であつて、四日市市に居住しながら、京都、高松まで治療に赴き、昭和四五年一二月六日に症状の固定を宣告されているのに、更に治療を続けるなど原告主張の損害は通常の損害の範囲を逸脱する過剰診療によるものであつて、本件事故とは因果関係がない。そして訴外人の後遺障害等級は自賠法上の九級相当であつて労働能力の喪失程度は三五パーセントの五年間というところが相当である。
(三) 請求原因(四)の事実は認める。
(四) 本件事故は前記(一)記載のとおり、南進車に衝突して押戻された原告車に被告車が追突したもので、こうした追突は被告にとつて不可抗力であり、被告に過失はないから、不法行為としては勿論、自賠法上の責任もない。
(五) 仮に被告に本件事故に対する責任が肯定されるとしても、訴外人と被告の間において昭和四三年六月二五日、治療費の一切を被告が負担し、被告は、訴外人に慰藉料として金一万円を支払い、新しい乗用車を提供し、双方ともその余の請求をしないことの示談が成立しているから本件請求は失当である。右示談の前提としての争いは本件事故による訴外人の傷害であるから傷害の治療期間、程度はすべて争いの目的として本件示談の範囲に含まれることは当然である。
(六) 原告らは右示談について要素の錯誤を主張するが、訴外人に錯誤は存しない。右示談当時訴外人は既に不眠、耳鳴り等の症状を自覚していたから本件の損害は予見し得た筈であつて右示談に錯誤はない。仮に予見が不能であつたとしても、訴外人に重大な過失があつたことは争えず、右示談の無効を訴外人は主張し得ない。
(七) また訴外人は本件事故による損害の発生、拡大について重大な過失があるから、過失相殺がなさるべきである。即ち、訴外人は事故当初直ちに各種の症状を訴えて治療を受くべきであるのにこれを怠り損害を拡大し、更に昭和四五年一二月にも再手術を拒んで治療を長びかせている。
(八) 以上の諸点から原告らの本訴請求は失当である。
四 証拠〔略〕
理由
一 原告らの請求原因(一)の事実中、原告主張の日時、場所、において訴外人が被告運転の車に追突された交通事故が発生したことは争いがない。被告はその態様について自白を撤回するというが、撤回後の主張についてみてもその発生までの経過原因は別として、結局被告車が原告車に追突していることを認めており、被告車の運行によつて発生した事故であることは争いがないというべきである。
二 そこで以下被告の示談の主張について判断するに、訴外人と被告との間に被告主張の示談契約の成立していることは争いがなく、原告らは右契約は原告らが本訴において請求している各損害を予想してなしたものでないから効力が及ばないと主張するが、右示談は特段の範囲を限定することなく前記交通事故にもとづく訴外人の損害賠償請求権の行使についてなされた示談である以上、同事故を原因とする本訴の損害も本来右示談契約の効力の及ぶ事項であると謂うべきであり、この点の原告らの主張は理解し難い。
三 そこで進んで原告らの要素の錯誤の主張について考える。成立に争いのない甲第一六号証によれば訴外人と被告との示談内容は事故を特定して訴外人の治療費一切を被告が負担し、被告は慰藉料として金一万円を訴外人に支払うとともに被害車両のかわりに新車を購入して交付する、となつており、然して不動文字で「上記の条件をもつて一切解決し、以後本件に関しては如何なる事情が生じても双方異議申立、訴訟等一切しない」とある文書によつて示談書としていることが認められ、右示談書上の慰藉料金一万円は爾後今日までの治療経過に比べて余りに少額に失すること、および不動文字による定型的様式を使つていることからすると訴外人が本件事故による受傷の結果が極めて小さいものと考えていたと推認することができると謂うべきであるが、右甲第一六号証の書面上治療費は一切被告において負担することが約されていること、証人平光尚志の証言および前記原告本人の尋問結果ならびに右結果から成立を認め得る甲第一二号証、成立に争いのない甲第二、乙第三の各号証によれば、所謂鞭打ち症状は事故直後に発現するのが通常であつて、交通事故による衝撃を受けて一年近くなつてから漸く症状がでてくることは医学的に極めて稀であり、訴外人にあつても事故直後から耳鳴り頭痛、不眠が継続し、事故直後の築港病院の医師によつて頸部挫傷の診断をうけ、事故以後示談成立の昭和四三年六月二五日までの間、勤務先であつた大閣園の会計関係の仕事を概ね休んでいたことが認められること、から考えると、訴外人は事故から二箇月を経過してなされた右示談の当時、その原因および治癒に要する期間について明確に認識はなかつたとしても、既に鞭打ち症特有の各症状自体を知覚していたものと認めるのが相当であり、こうした諸症状を知覚しながら前記の示談に応じたとすると、訴外人は右症状の治癒のためには相当の長期を要することを当然予想すべきであつたし、また右示談の一条項として将来の治療費の一切を被告に負担せしめ得る期待があつたとすると、慰藉料額については、これを金一万円とすることに同意することも有り得ないものでなく、原告らの本件示談に要素の錯誤のあつたとの抗弁は俄かに採用し難い。
四 そうすると原告らは、本件事故にもとづく訴外人の被告に対する損害賠償請求については、訴外人と被告との間の前記示談に拘束されるというべきであるが、右示談契約上被告は訴外人に対し本件事故による受傷の治療費についてその負担を約している(右治療費を示談成立以前のものに限定する趣旨と解する文言もなく、成立に争いのない乙第六号証によつても被告も相当の治療費の範囲ならその負担をなす意思のあることが窺い得る)から本件事故による受傷の治療として相当と認め得る費用につき、被告はその出費を賠償する義務があると謂うべきである。そこで訴外人の本件事故による受傷とその治療の方法、費用について按ずるに、成立に争いのない甲第二ないし第一一の各号証、死亡前の原告本人尋問の結果、同結果から原本の存在およびその成立を認め得る甲第二一、第二三の一ないし一七、第二四、第二五の一ないし九、第二六の一ないし九、第二七ないし第二九、第三一、第三二の各号証によると訴外人は、本件事故によつて頸部に挫傷を受け、その直後四日市市内の築港病院で一応の加療を受けたのみで医師にたよる加療を中断していたが、事故直後から頭痛、耳鳴り、不眠等の所謂鞭打ち症状を自覚し、昭和四四年に入つたころから右症状は次第に悪化し、同年五月に同市内の松尾病院で自律神経失調症と診断を受けた後同月一五日から同年八月一三日までの間同市内の市立四日市病院で一三回の通院加療を続け、なおも症状の決癒がなかつたことから京都に赴いて同市内川端病院において本件事故を原因と認め得る外傷性の頭頸腕症候群の診察を受けて後、同年五月二四日から同年六月六日までの間一二回の通院加療を受けて四日市に帰り、更に同年八月一九日から京都市加茂川病院(京都大学医学部付属病院での受診を含む)で主治医川井洋爾医師から外傷性の頸椎々間内障の治療を受け、更に翌四五年五月一三日から同年七月一二日まで右川井医師をたよつて京都市内の安井病院に入院して外科手術(頸椎前方固定術)による加療を受けた後同年一〇月まで同病院に通院し、続いて同年七月一三日から同年一二月二八日まで右川井医師の転勤を追つて再び右加茂川病院で、五九日間の入院を含む治療を続けたが、同年一二月二六日には遂に症状が固定したものと診断されていること、右症状固定後も訴外人は後遺症状の軽快のため高松市の吉峰病院あるいは済生会松阪病院等で治療を続けてきたこと、右経過による治療のうち症状が固定したものと診察された昭和四五年一二月二六日までに訴外人は前記各病院での治療費およびそれと密接に関聯する経費として次のような支出をなしていること、
イ 安井病院に対する支払 七万七二〇〇円(甲第二三号証の一七)
ロ 同病院における附添人代 九万八一八〇円(甲第二三号証の一四、同第二四号証)
ハ 加茂川病院に対する支払 四万七六六〇円(甲第二六号証の一ないし九)
ニ コルセツト代 三万八八五〇円(甲第二一、第三一、第三二号証)
ホ 入院雑費一一〇日分 三万三〇〇〇円(一日三〇〇円の割合)
ヘ 交通費相当額 五万五〇〇〇円(京都四日市一〇往復分)
五 被告は訴外人の前記加療は過剰診療に当ると主張し、症状固定と診断された昭和四五年一二月二六日以降の加療費については、治癒の見込のない加療である点で、加療自体は症状に対する対処として医学的に不用であるとはいい得ないとしても、治療費としては事故と相当の範囲にあるものでないというべきであるが、さりとて訴外人が間接的な諸経費を自己負担の意思で、頑固な神経症状の治癒を希望して京都市までその可能性を求めることが異常な治療態度であるとは断じ難いし、これをもつて通常考え得る治療費の範囲外であるとするのは失当であり、また加茂川病院における外科的手術が医学の常識として不必要な加療であつたことを窺わせる証人平光尚志の証言はあるが、さりとて直ちに右方法が医療方法として不相当なものと断定し得る証拠に乏しく、右加療を含む前記認定の治療費支出は本件事故に伴う相当の治療費と謂うべきであつて、被告は、前記示談契約にもとづいて右治療支出合計金三四万九八九〇円を負担すべきである。
六 そうすると結局、被告は本件事故についての民法、自賠法上の帰責事由、範囲について判断するまでもなく、訴外人死亡に伴つて同人の権利を各二分の一の割合で相続承継している原告らに対し右示談契約によつて各金一七万四九四五円およびこれに対する各支出以後である本件訴状送達の翌日である昭和四七年八月三〇日からの民事法定利率(年五分)による遅延損害金を支払う義務および右金員請求に要する相当の弁護士費用金各五万円を原告らに支払う義務があるというべきであるが、その余の請求は失当である。よつて右限度で原告らの本訴請求を認容し、その余を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九二条但書を適用し、仮執行宣言はこれを付する必要が認め難いので、同申立を却下することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 松島和成)