大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

津家庭裁判所 昭和58年(少)815号 決定 1983年6月20日

少年 Y・R(昭四〇・九・七生)

主文

少年を中等少年院に送致する。

理由

(少年の身上・経歴及び本件非行に至る経緯)

少年は昭和四〇年九月七日三重県尾鷲市において父Y・U(本件被害者、以下「U」という。)と母Z(以下「Z」という。)の長男として出生したが、Uは漁師や土方などの仕事をしていたものの継続的に働くことがなかつたうえ、稼いだ金は酒代に費して家計に入れず、そのためZは実家の母から援助を受けて辛うじて生計を立てていた。Uは酒癖が悪く、酒を飲んではZに対し殴る蹴るの暴力を振つたり、包丁を持ち出して暴れたりしていたため、当初から家庭は崩壊状態で、昭和四二年一月八日に次男Kが出生してからもUの酒乱・暴力は治まらず、見かねた親族が警察に相談し同年一二月二二日から翌昭和四三年七月一〇日までUを鈴鹿市内の○○病院(精神病院)に入院させ(アルコール嗜癖、病的酩酊、精神病質と診断)治療を受けさせた。しかし、Uは退院後も前同様の酒乱・暴力をくり返し、少年らに対する体罰も棒で殴つたり、裸にして国道のガードレールに縛りつけるなど常軌を逸し、また、刃物で家族の衣服を引き裂いたり、ハンマーで家具を叩いたり、更には水商売の女を自宅に連れ込んで一緒に寝るなど、その行状は悪化する一方で、これに耐え切れなくなつたZはUから逃れるため少年らを連れて実家へ逃げ帰り、約六か月間に亘り実家の物置きに隠れてその生活を続けたが、これもUの知るところとなり、従前の住居に連れ戻され前同様の苦難を受けるに及び、Zは遂に自殺をも考える日々を送るところとなつたが、親族らの計らいで昭和四四年九月から同四五年一月までUを再び○○病院へ入院させるに至つた。しかし、昭和四五年一月に、Zの唯一の頼りともいうべき実家の母が死亡したため、Zは絶望の余り、四九日の法事の後、少年ら二人の子供を残して家出し、U、少年(当時四歳)及び弟の三人の生活が始まつた。

少年は昭和四七年四月に尾鷲市内の小学校に入学したが、Uの酒乱癖、特に少年ら子供に対する折檻・虐待は甚しく、少年ら兄弟は食物さえ満足に与えられず、空腹に耐えかねて近くの墓の供え物を盗んで兄弟で分け合つて食べたり、菓子類を万引したりしていたが、次第に家から現金を持ち出したり、更には学校の職員室内から給料袋を窃取するなどの問題行動を惹起するに至り、昭和四九年には小学校長から紀州児童相談所へ児童通告がなされた。しかし、その後も頻繁に家出をしては万引や侵入盗を反覆していたため、昭和五二年には少年ら兄弟は一時保護のうえ養護施設「天理教三重互助会」に入所するところとなつた。

少年は昭和五三年三月小学校卒業に伴い同施設を退園(弟は中学校卒業まで入園)して父のもとに帰り、同年四月○○中学校に入学したが、酒に酔つたUからは毎日のように木刀で殴られるなどの体罰を受けていたため、少年自ら児童相談所に助けを求め再び施設に入りたい旨申し出るなどし、児童相談所においても少年をそのまま放置すれば少年が父親の暴力から逃れるため非常手段に訴えるのではないかと危惧し、Uを説得して少年を収容しようとしたが、Uはこれに応ぜず、少年に対しては、父のもとから逃げるのなら父を殺して行けと申し向けて脅す一方、児童相談所に対しては同所のドアを破壊するなどの乱暴に及び、結局、昭和五三年一一月に津家庭裁判所尾鷲出張所において申立人紀州児童相談所長が少年を養護施設に入所させることを承諾する旨の審判がなされ、少年は同年一二月に養護施設「聖の家」に入所するに至つた。

昭和五四年六月少年は同施設を退園したが、Uの酒乱と養育態度は以前と同様で、少年に対し食事を抜いたり、体罰を加えたりしていたほか、深夜ステレオを大きく鳴らしたり、刃物を持ち出して怒鳴つたりするなどして近隣の住民からも迷惑がられ、時に警察署に保護され、ますます地域社会から孤立化する一方、少年においてもUに対し口答えするようになつた。

昭和五五年二月ころ、少年は父の体罰をおそれて野宿し尾鷲市内で現金を窃取したり、原付自転車を盗取して乗り回わしたりして一時保護され、同年四月に教護院「国児学園」に入所するところとなり、昭和五六年四月に退園したが、入所中は友人らが無断外泊してもこれに同調せず、粗暴な言動もなく、特段問題行動は見られなかつた。また入所中の盆と正月に帰省した際にはUから殴られることもなかつた。

教護院「国児学園」卒園後、Uの勧めでカツオ漁船に乗ることになり、昭和五六年五月三日遠洋カツオ漁船第○○丸に乗船しコック見習いや、魚の整理等の仕事に従事していたが、航海中にタバコを吸つたことから上司に殴られて叱責され同漁船での仕事に嫌気がさしたものの、無事に第一、第二航海を終え、同年九月に五日間の休暇をもらい土産を持つて帰省した。この時はUも上機嫌で、同人から叱られることはなく、同人に連れられて鈴鹿市にある父方の実家の墓参りをした際に立ち寄つた親戚方でも、同人は少年が船に乗つているので家が建てられると自慢していた。

昭和五六年九月に再び同漁船に乗船し第三航海に出たが、上司から嫌味を言われてますます同船での仕事が嫌になり、同年一一月八日に第三航海を終えて○○港に入港した翌日の同月九日に水揚げ作業をしているうち、同漁船での稼働をやめることにし、翌一〇日昼ころ尾鷲の自宅へ帰つたところ、いきなりUから「こら、阿呆、何でやめてきた」と怒鳴られたうえ紀州児童相談所へ連れて行かれ同所で引き続いて船から降りたことを叱責された後、自宅へ帰つたが、午後九時すぎ酒を飲んで帰宅した同人が更に「何で船をやめた」「俺が知つている人に頭を下げて乗せてもらつたのに」と怒鳴り、木刀を振り回すうち、少年の左腕に当り腕が青くなつたほか、同人が「出て行け」と怒鳴つてきたため、同人の知人宅へ泊めてもらい、翌一一日に帰宅したが、同日も、夜八時ころ酒を飲んで帰宅したUから前同様に怒鳴られて木刀を振り回わされたため前記知人宅へ泊まりに行つたものの、同人がUの怒りを恐れて泊めてくれなかつたのでUの寝静まるのを待つて便所の窓から自宅内に入り就寝した。

翌一二日午前五時ころ、就寝中のところUから足蹴りされて起こされ、「阿呆、お前」などと怒鳴られ、午前九時ころ同人から「われの面倒をみないぞ。われはわれでメシを食え、職を探してこい」と叱責されたため、尾鷲市の職業安定所へ赴き○○株式会社を紹介してもらい、同日午後同社の工場で面接を受けた後、仕事が見つかつた旨を報告すべく前記児童相談所へ立ち寄つたところ、少年が家出したものと思い込んで同所に相談に来ていたUから第○○丸に乗るよう強く説得されて結局これを承諾し、翌朝九時一五分発の汽車に乗つて同人と共に同漁船の事務所まで謝罪に行くことを約し、午後五時ころ帰宅した。Uは「お前みたいな者、顔みとうない。家におれ」と言つて酒を飲みに外出し、少年はひとりでテレビを見て過し、同日午後一一時ころ就寝した。

(本件非行事実)

少年は、

第一  昭和五六年一一月一三日午前雰時すぎころ、三重県尾鷲市○○町×番×号所在の自宅六畳間で就寝中、泥酔して帰宅した父Y・U(当時六〇歳)から体を蹴られて目を覚まし、布団を押入れに片付けたところ、三畳間に腰をおろした同人から「酒を持つてこい。酒を注げ」と命ぜられてこれに従つていたが、同人から「この阿呆。何で船をおりた。馬鹿たれ。われみたいなやつは死ね」と怒鳴られ、その後六畳間に移つた同人から「こら阿呆。ステレオをかけよ」と命ぜられ、三畳間のステレオをかけたものの、同人から「何で船をおりた。馬鹿たれ」と執拗に反覆して叱責されたうえ、「うるさい。ステレオを消せ」と指示されてステレオを消すや、更に同人から「こい」と命ぜられ、同日午前三時ころ、六畳間の同人の前に正座したところ、同人から「国児学園に入つたやつがほかで働けるか。われみたいなやつ少年院にぶち込んでやろうか。いつでも少年院へぶち込めるのや」と怒鳴られて逆上するとともに、同人から虐待され続けてきたことに対する憤怒の念が一気に爆発し、咄嗟に同人を殺害しようと決意し、勝手場から刃渡り約一四センチメートルの出刃包丁(昭和五八年押第六九号の二三)を持ち出して六畳間に引き返し、右手に握つた右出刃包丁で座つていた同人の左胸部を一回突き刺し、同人が仰向けに倒れるや更に同人の上に中腰になつてまたがり、同人の左胸部を右出刃包丁で一回突き刺し、よつて、まもなく同所において、同人をして心臓刺創に基づく心膜タンポナーデのため死亡するに至らしめて同人を殺害し、

第二  犯行の発覚をおそれて、同日午前六時ころ、前記Uの死体を同所六畳間の押入れ内に隠匿したのち、更に同年一一月一六日ころの午後一〇時ころ、右死体を同所六畳間の床下に移動させてこれを放置し、もつて死体を遺棄し

たものである。

(法令の適用)

第一の事実につき 刑法一九九条

第二の事実につき 刑法一九〇条

(少年の処遇)

本件は一六歳の少年が出刃包丁で父親の心臓を二回に亘つて突き刺して殺害したうえ、犯行の発覚をおそれて死体を押入れや床下に遺棄し約二か月余りの間死体のある家屋内で起居し、親戚や近隣の者には父が家出をした旨申し向け、尾鷲署の警察官に対しては家出人捜索願を提出して人目を欺き、その後約一年四か月に亘つて遠洋漁船第○△丸に乗り組んでいたものであり、少年宅から銀バエが多量に発生したところから捜査が開始され、右遠洋漁船が△○港に帰港した際少年が逮捕されるに至つた事案であつて、本件結果の重大性、犯行及び犯行後の態様、少年における罪障感の稀薄さ等の諸点に着目すると、少年を検察官に送致し刑事処分を受けさせることも考えられる。

しかしながら、本件は、幼少時から母親と生別した崩壊家庭で酒乱の父に虐待され続けてきたという、少年の苛酷にして不幸な生いたちを抜きにしては考えられない事件、即ち“特定の状況”と“特定の人物”との間にはじめて成立する事件であつて、少年の処遇にあたつてはその特殊性を充分考慮しなければならない。

少年が常軌を逸した体罰を受けて裸のまま国道のガードレールに縛りつけられたり、食事すら満足に与えてもらえず墓の供え物を盗んでこれを弟と分け合つて食べたりしていたことは前述のとおりであつて、少年は酒乱の父から否応なしに異常な幼少年期を過ごすことを強いられてきたというのほかなく、このような虐待を受け続けるうち、父に対する反感・憎悪の念を次第に募らせていつたとしても、一概に少年のみを責めるわけにはいかない。

しかも、少年は、母Zでさえ夫の暴力に耐えかねて子供を置いたまま家出しているのに、なお自らは虐待されつつも本件に至るまでは特段反抗らしい反抗もせずにこれに耐えていたばかりか、第○○丸の第二航海終了後には休暇をもらい土産を持つて帰省しており、また第三航海終了後に船をおりた際にも直ちに父のもとへ帰つているのであつて、このことは、少年が父の暴力の下で恐怖心におびえていた反面、父に対し僅かながらも甘えと期待の感情を抱いていたことを物語るもので、少年の心の中に父に対する情愛の念が欠落していたわけではない。少年自身素面のときの父はやさしくて好きだと述べているところからも、酒乱の父に対し憎悪の念を昂進させつつも、なおかつ情愛の念を残存させていたというアンビバレンツな状況にあつたことが窺えるのであり、この僅かな情愛の念が少年と父を辛うじて結びつける心の絆であつたといえよう。かかる状況下、地域社会からも親族からも見捨てられた父を最後まで見放さず、父の有する素面のときのやさしい一面に真の父の姿を見い出そうとしていた少年に対し、父Uが少年の下船を責めたてて連日暴言を吐いた末、少年が最も忌み嫌つていた「少年院」へぶち込んでやるとの致命的な言葉を投げつけたことにより、遂に父と子の心の絆が切断され、長期間培われてきた憎悪の念が一気に爆発し、最初にして最後の決定的な反撃・敵対行動となつて発現し本件事件に至つたものであり、動機及び犯行に至る経緯には同情の余地あるものといわざるを得ない。

もつとも、少年においても、異常なまでの父の言動は幼少時から知悉していたのであるから、酒乱の父に対し充分な治療を受けさせるよう親族及び関係機関等に積極的な働きかけをしたり、父親から独立した生活をするなどして、不幸な結末に至るのを回避するような方途を講ずべきであつたのに、酒乱の父と漫然同居し、その虐待に耐えることのみで辛うじてその場をしのいでいたことは、少年の側にも、思慮の足りなさや視野の狭さ、更には問題解決のための真剣な努力の欠如があつたというべきであり、更にまた何よりも少年の意識面において、父親を殺害したことに対する罪障感が稀薄であることを指摘せざるを得ないが、少年は本件犯行時未だ一六歳であつたこと、前述のとおり少年は閉鎖的な家庭環境と父親の特異な養育方法によつて基本的な社会知識や情操面の発達を欠いたまま生育し、暴力に耐え忍んで自己防衛を図ることを本能的に身につけていた面があり、この点を強く非難するのは妥当でないこと、現在一七歳の若年でなお可塑性を有すると思料されること、鑑別所での生活を通じ父の墓を建てたいと述べるに至るなど徐々にではあるが父の冥福を祈る気持が芽生えつつあること等の諸点をも併せ考えると、本件においては、少年に対し刑罰を以つて臨むよりは、矯正教育を以つて臨み、少年の心を開かせて生命の尊厳を教えるとともに、少年に欠けていた情操教育を中心に規範意識の確立と社会性の涵養を伴う人格形成教育を施し少年の健全な保護育成を図るのが相当である。

次に少年院の種類について検討するに、少年には過去窃盗等の非行が見られたとはいえ、その殆んどは空腹をしのぐため若しくは父親の異常な虐待から逃れるための一時的な現象にすぎず、教護院「国児学園」入院後は本件まで特段の非行は存しなかつたこと、従つて前記の非行や施設収容歴をもつて少年の非行傾向が進んでいるとはいい難いこと、少年の知能は普通域(IQ八四)にあり漁船の乗組員としては真面目に稼働してきたこと、性格的に直観的思考が多く本音をつかみにくいうえ気分的には落ちつきを欠くとはいうものの粗暴性はみられないこと等の点も考慮すると、未だ特別少年院に送致するまでの必要性はないと考えられるので、少年を中等少年院に送致し少年の再出発を期待するのが相当である。

なお、少年に対しては地域住民が同情的態度を示し、第○△丸の船主らも少年の再雇傭を約しているとはいうものの、少年の借家はすでに解約されてもはや生活の本拠というべき場所が存しないうえ、第○△丸の再雇傭の点についても同船舶の航海次第ではいつ乗船できるのか必ずしも明確ではない状況にあるので、仮退院前の環境調整が極めて重要であると思料する。

よつて、少年法二四条一項三号、少年審判規則三七条一項後段、少年院法二条により主文のとおり決定する。

(裁判官 木村烈)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例