大判例

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浦和地方裁判所 昭和45年(わ)44号 判決 1970年10月22日

被告人 須藤正彦

昭一八・一・六生 店員

主文

被告人を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、幼児のころ両親と死別し、父方の祖母によつて育てられ、中学校を卒業後約一年半家の農業の手伝いをした後、昭和三六年一月ごろ東京都板橋区にある飴製造会社に就職したが、約二か月後に新宿区四谷三丁目一二番の丸正食品株式会社に勤めを替え、その後約六年間新宿の本店で働いていたが、昭和四二年四月右会社が埼玉県桶川町東一丁目一番四号に店を開設すると同時に同店に移り働いていたものである。

被告人は

第一  自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四五年一月一一日午後一一時五分ごろ、軽乗用自動車を運転して旧仲仙道のセンターライン付近を上尾市方面から鴻巣市方面に向つて時速約六〇キロメートルで進行し、同県北足立郡北本町大字北本宿五二八番地先の交通整理の行なわれていない交差点にさしかかり、同交差点を直進通過しようとしたところ、このような場合自動車運転者としては前方左右を注視し、横断者などの早期発見につとめ進路の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにかかわらず、これを怠り前方を注視しないで進行した過失によりおりから右交差点を進行方向右側から左側に横断歩行中の島田重義(当時四九年)を前方約二五メートルの地点に近づいても発見できず、その際たまたま同交差点の右側手前の角から二人乗りの自転車が交差点に進入しようとしているのを発見し、とつさに同交差点を横断するものと考えて直ちにハンドルをやや左に切りながら急ブレーキをかけたため自己の運転する軽乗用自動車を滑走させ、前記横断歩行中の島田重義を約六メートルの前方に至りようやく発見したが、急ブレーキをかけたまま何らの措置を講ずるいとまもなく自車の前部を衝突させて同人を約六メートル左斜前方にはねとばして道路左側の側溝内に転倒させ、よつて、同人に対し約六か月間の入院加療を要した左大腿骨複雑骨折、頭部外傷、右下腿打撲傷の傷害を与え

第二  右衝突後、直ちに受傷した島田重義を自己の知つている鴻巣・加須県道ぎわに所在する山崎病院に入院させるべく、自己の運転する軽乗用自動車の助手席に乗せて右旧仲仙道を鴻巣市街に向つて運転進行していたところ、当時受傷していた同人を直ちに山崎病院あるいは他の近くの病院に入院させたならば同人を十分に救護しえたのであり、被告人もそのことを認識していたのであるから被告人には右のような救護措置を講じて島田重義の生命を安全に維持すべき義務があるにもかかわらず、同人に前記のような重傷を負わせたことから処罰も重く、多額な補償金も要求されると思い、とつさに右受傷した同人を人通りのない場所へ運んで置去りにして自己の起した前記衝突事故の発覚を免れようと決意し、病院へ入院させるなどして救護すべき義務を放棄して前記衝突地点から約一、九〇〇メートル進行した地点を左折して国鉄高崎線の踏切を通過し、山崎病院の所在する鵄巣市街の方向とは異る方向に自動車を進行させ、同日午後一一時三〇分ごろ前記事故現場から約二、九〇〇メートル離れた鴻巣市大字原馬室四三五三番地先の暗い砂利道に至り、同所は当時人や車の交通がなくたやすく人に発見される見込のない場所であることを見定めて停車し、被告人は前記衝突事故の状況程度、島田重義が失心しており、さらに左足を骨折していたことから同人の傷害が重大であることを認識し、またそのために身動きのできない同人を右停車した場所付近に放置すれば同人は死んでしまうかも知れないと認識したが、前記の目的のためにそれもやむを得ないと考えて右停車した道路左側沿いの陸田を掘り起した窪みに同人を自車助手席から引きずり降ろして放置し同所から逃走したが、翌一二日午前一時五五分ごろ、右島田重義の所在をさがし求めてたまたま同所にさしかかつた島田真蔵ほか三名が右島田重義を発見し、即時同人を救護して同市加美二丁目一〇番一〇号梅沢病院に入院させたので、同人を死亡させるに至らなかつた

ものである。

(証拠の標目)(略)

(殺人未遂を認定した理由)

弁護人は、判示第二の事実につき被告人には殺人の故意がないこと、不真正不作為犯における実行の着手時期が明白でなく、未遂罪を認めることは困難であることおよび判示第二の事実では死亡の可能性はなく殺人は不能であることを理由に殺人未遂罪は成立しないと主張するので、順次検討する。

先ず判示第二の事実は、被告人が判示第一の業務上過失傷害罪を犯した後、一旦被害者を救護するため同人を自車の助手席に乗せて病院に向い、その途中で判示のような動機から同人が死亡するかも知れないことを認識しながら、あえて判示場所で同人を助手席から路上に引きずり降ろして遺棄し逃走したが、同人を死亡するに至らせなかつたもので右事実につき検察官は道路交通法七二条一項前段の救護義務違反の罪の外、不作為による殺人未遂罪が成立する旨主張するが、一般に殺人罪についてもいわゆる不真正不作為犯が認められることについては争いがないが、自動車運転者のいわゆるひき逃げ(救護義務違反)の所為につき不作為による殺人罪が成立し得るかどうかについては、自動車の操縦中過失により通行人に歩行不能の重傷を負わせた後、被害者を自車に乗せ事故現場から離れた場所に至つて同人を放置し自動車を操縦して立ち去つた場合には一般的に道路交通法上の被害者救護義務違反の罪のほか要保護者遺棄罪(刑法二一八条)が成立し(最高裁判所昭和三四年七月二四日判決、刑集一三巻八号、一一六三頁)、その際犯人において被害者が死亡するかも知れないことを認識し未必の殺意があつた旨供述していても、時間的、場所的関係等諸般の状況を考慮したうえでなければ必ずしも殺人罪の構成要件の予想する違法類型にあたるとは限らないから、右自白のみをとらえて直ちに殺人罪に問擬し得るとはいい難い。又本件のごとく結果が発生するに至らなかつた場合には、傷害の程度如何によつては放置してもそれによつて死亡する可能性がなければ弁護人の主張する不能犯の問題が生じるであろうし(更に被害者の置かれた状況如何により救護をうける蓋然性が高度に認められる場合には自白の信憑性自体も問題となろう。)又そもそも不真正不作為犯の未遂罪の成立自体(特に着手未遂の成否)をめぐつて困難な問題が生じ得ることが考えられる。

以上のごとく、いわゆる交通事故を犯した自動車運転者のいわゆる「ひき逃げ」行為につき不作為による殺人未遂罪が成立するかどうかについて種々の問題が生じ得るのであるが、少くとも本件の場合のごとく、自動車運転者が自動車の操縦中過失に因り通行人に意識不明を伴う入院加療約六か月を要した大腿骨複雑骨折の重傷を負わせ、これを救護するため一旦自動車の助手席に乗せて事故現場を離れそのまま同人を病院へ連れて行くなどして容易に救護し得たにもかかわらず、その後変心し、同人を遺棄して逃走しようと企て、本道からそれて遺棄すべき場所を探しながら事故現場から約二、九〇〇メートル離れた深夜の寒気厳しい暗い農道上に至り殺害について未必の故意をもつて、たやすく人に発見されにくい陸田に右被害者を放置して置き去りにした場合には、右被害者が傷害の程度、遺棄された時間的、場所的状況等から放置しておけば死亡する高度の蓋然性が認められ、且つ犯人の未必の殺意に関する自白が十分に措信できる場合に限り、不作為による殺人罪が成立し、被害者が救護された場合には同罪の実行未遂罪が成立すると解すべきである。そこで先ず、被害者島田重義が誰にも発見されずに判示第二の場所に放置された場合の死亡の可能性について検討するに、証人梅沢恂二に対する当裁判所の尋問調書および同人の検察官に対する供述調書によれば、被害者が何ら手当を加えられることなく同日朝方まで放置された場合には、左大腿骨複雑骨折とこれに伴う内出血による全身衰弱ないし怪我によるシヨツクおよび当時の戸外の気温から死亡するに至る蓋然性が極めて高かつたことが認められるから弁護人の不能犯の主張は採用できない。次に被告人の未必の殺意の点については第五回公判廷における被告人の供述ならびに被告人の検察官および司法警察員に対する各供述調書によれば、被告人は判示第一の事故発生当時、衝突の状況程度、被害者が失心しており、左足が骨折していると思つたことから、被害者が重傷を負つているものと考えてすぐに病院に運んで救護しなければ危険であると考え(被害者を直ちに救護してもそれが重傷のためもはや生命は助からないとまでは考えていなかつた。)同人を一旦自車助手席に乗せて事故現場を離れたが、その後被告人はこのような事故を起しては処罰も重く、補償金も沢山要求されるだろうと考えて、どこか人通りのないようなところに被害者を置去りにして自分が事故を起したことを隠蔽しようと考えこのような重傷の被害者を人通りのないところに置去りにして逃げたならば同人が相当の重傷を負つていて、そのために身動きのできないことおよび当時の戸外の気温から被害者は夜が明けるまでに死んでしまうかもしれないと考えたが死んでもやむを得ないと思い判示第二の行為に出たというのであつて、右供述は、被告人が判示のように本件衝突事故の発生した旧仲仙道の路上からわざわざ脇道にそれて現場から二、九〇〇メートル離れた寒気の厳しい深夜の人通りの少ない暗い判示第二の農道上に被害者を運んで陸田に放置し、被害者の救護を極めて困難ならしめたことを併せ考えると、被告人の右島田重義に対する未必の殺意は十分措信し得るといわなければならない。(尚弁護人は不真正不作為犯においては実行着手時期が明白ではない旨主張するが、不真正不作為犯とは不作為による作為犯で、不作為とは期待された作為をしないことであるから、その着手の時期は客観的にみてことさらその義務を放棄したと認められる時点であると解するのを相当とするところ、本件においては被告人が被害者島田重義を救護するため鵄巣市所在の山崎病院に連れて行くべき期待された行為(義務)を放棄して旧仲仙道を左折し、判示第二の場所に至り、前判示のごとき未必の殺意をもつて被害者を車外にひきずりおろした時点に着手の開始を認めることができ、同人を放棄して逃走したと認められる時点をもつて実行の終了と解すべきである。)

よつて弁護人の主張はいずれも失当といわねばならない。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第二の所為中島田重義に傷害を与えて救護の措置を講じなかつた点は道路交通法一一七条、七二条一項前段に、殺人未遂の点は刑法二〇三条、一九九条にそれぞれ該当するところ、右救護義務違反と殺人未遂は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い殺人未遂の刑で処断することとし、所定刑中判示第一の罪につき懲役刑を、判示第二の殺人未遂罪につき有期懲役刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の殺人未遂罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、なお後記の情状を考慮し同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

被告人の判示第一の所為については被害者側に特段の過失も認められず、被告人の一方的な過失によつて惹き起されたものであつて、その結果も判示のとおり約六か月の入院加療を要し、今後もなお通院を要するものであつて、その結果は重大である。しかも、一度は被害者を病院に連れて行こうと決意して同人を自車の助手席に乗せ病院の方向に運転しながら(この時点における被告人の行為は人身事故を起した後、何らの措置を講じないでそのまま逃走した場合に比して被告人の誠意は認められる。)途中犯行の発覚を免れるために、判示第二のとおり重傷を負つている被害者を一月一二日の深夜、通常朝方までは人通りの期待できない陸田にひきずりおろして放置した行為は人命軽視もはなはだしく、結果的に二名の目撃者から被害者を隔離して被害者の救出を著しく困難にした点を考慮すると被告人の刑責はまことに重大であるといわなければならない。ところで被告人は幼児のころ両親と死別し、かならずしも恵まれた環境に育てられたとはいえないにもかかわらず、性格もまじめで丸正食品株式会社に既に九年間勤続し、会社社長の信頼も厚く、昭和四四年一〇月同人の紹介で馬場スミエと結婚し、本件においても被告人は自己の力の及ぶ範囲で誠意をつくして示談に努力した結果二〇〇万円の補償金を支払うことで示談が成立し、被告人の経済状態から一時に右金員を支払うことができなかつたが、前記社長の好意により右金額は全額被害者に立替払いされ、被告人は右金額を月賦弁済するため今後数年間を要するものと認められること、被害者は被告人の示した誠意を酌みとつて被告人を宥恕し、当公判廷においてできるだけ寛大な処分をするよう表明していること、被告人の過失は前記のとおり明らかであるが、本件事故は、被告人が交差点に差しかかつた際右側からたまたま同交差点に進入しようとした二人乗り自転車を目撃してとつさに右自転車が交差点を横断するものと判断し、急ブレーキをかけたことにより自己の運転する軽乗用自動車が滑走したので、被害者を発見したときはもはや何らの措置を取ることが出来なかつたこと(このことは進路右側から左側に横断している被害者を自車左前部に衝突させたにもかかわらず、ハンドルはやや左に切られていることから推認される。)に原因が存するものと認められ、二人乗り自転車の動向を的確につかんで不用意に急停車の措置を講じハンドルをやや左に切るようなことをしなかつたならば、進路前方を歩行中の被害者は被告人の車輛に衝突することなく横断し得たとも認められるのであるから被告人には不運な一面もあること、又、被告人が被害者を病院に連れて行く途中変心し、未必の殺意をもつて同人を陸田に放置した行為についても、以上のような被告人の性格、会社における勤務振り、昭和四四年六月に現在居住している土地付家屋を購入した際前記社長から借金をしており、その後結婚費用などもかかつて被告人は共稼ぎをして生計を維持しながら右借金の返済に努めていたこと、新婚後間もないことなどその環境、境遇および被告人が犯行後家に帰つてから自己の犯した行為に思い悩み眠れないまま一夜を明かし、自己の犯行を悔いてその日の午前八時ごろ自ら警察に出頭し、自己の犯行を報告していることに鑑みるとき、被告人の前記変心した行為を特に厳罰をもつて臨むのが相当とも認められず被告人には一度罰金刑に処せられたとはいえ他に特段の前科もなく、本件については深く反省していること、被害者は幸いにも生命を取り止め一応退院していることなど諸般の情状を考慮して被告人を今回に限つて四年間刑の執行を猶予するのが相当であると思料し、主文のとおり判決する

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