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浦和地方裁判所 昭和45年(ワ)1196号 判決

以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。

【判旨】

一原告ら及び被告がいずれも昭和五四年四月二日死亡した寿衛の相続人であること、原告ら主張の経過により浦和家庭裁判所において寿衛作成名義とされる本件遺言書の検認がなされたことは、当事者間に争いがない。

二原告らは、請求原因3(一)及び(二)のとおり、右検認にかかる本件遺言書は自筆証書ではないと主張し、被告は、これを全文寿衛の自書によるものと主張するので、以下この点について判断する。

1 <証拠>を総合すると、次の事実を認めることができ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

(一) 寿衛は、明治一八年八月二六日生れで、夫の謙三郎との間には子供もなく、昭和八年同人と死別してからは一人暮の生活をしてきた。寿衛は、戦前から長い間東京都杉並区に住み、戦時中一時郷里の高知に帰つたが、戦後再び上京し、昭和二八年同区内に家屋敷(本件土地建物)を買い求め、そこで学生相手の下宿屋を営みながら生計を維持してきた。このように、寿衛は、杉並での生活が長期間に及ぶことから、少なくとも死亡する数年前ころには、同地にある本件建物での生活に強い愛着を覚えるに至つていた。

(二) 一方、寿衛の兄妹も昭和四六年ころまでに全員死亡したため、寿衛の身寄は、これら兄妹の子供達のみであつた。そして、寿衛の妹の二女にあたり、埼玉県浦和市に居住していた被告は、かねてから折にふれて寿衛の居宅を訪れ、家事の手伝をするなどしていたが、同人がいよいよ高齢となり、身体と動静も思うに任せなくなつた昭和四九年又は同五〇年ころからは、週に三、四日間右居宅に泊り込んで同人の世話をするようになつた。

(三) 被告が寿衛に対し右のような援助をしていた昭和五一年夏ころ同人は遺言書を作成して被告にその保管を依頼した。右遺言書の内容は、寿衛が死亡したときは、本件建物を被告に贈与するというものであつた。もつとも、右遺言書が作成されたころから、寿衛と被告との仲は必ずしもしつくりとしたものではなかつた。寿衛は、自分が遺言書を作成した後、被告が急に傲慢な態度をとるようになり、自分勝手に振舞つて寿衛の意向を無視するようになつたと感じたことから、気が変わり、知人の向井千景に相談したところ、同人から前記遺言書を破棄するよう忠告されたため、その通り実行した。また、寿衛は、被告が自分に何らの落度もないのに大声で叱りつけると感じたことなどから、少なくとも昭和五一年秋から冬にかけての頃には、内心被告以外の者に介護をして貰い、その者に自分の遺産を与えたいと考えるようになつていた。そのような折、昭和五一年冬ころ、被告は、寿衛が他人のことを悪しざまに評するのを聞いてこれを改めるよう強くたしなめたところ、同人が著しく立腹したため、しばらく冷却期間を置く積りで、同人の身の廻りを世話することを一切止めてしまつた。それ以降少なくとも後記の入院までの間、寿衛は前記居宅を訪れてくる人達に対して、被告が悪い性格の持主であるなどと宣伝していた。

(四) 被告が寿衛の身の廻りの世話を止めてしまつた後は、同人の兄谷岡右三郎の二女である原告広松静が、昭和五二年五月ころから寿衛と同居して面倒をみるようになつた。もつとも、原告広松静としては、将来とも継続して寿衛の面倒をみる積りはなく、行く行くは横浜に家を建てて長男と同居する希望をもつており、それまでの期間寿衛と同居することを考えていたのであつた。

しかし、原告広松静は、実際に寿衛と同居してみた結果、高齢の寿衛がいつ病に臥すかも知れず、そうなつた場合七〇キログラムを超える巨体の同人を足に疾患をかかえた同原告一人で看病することは不可能と悟つたことから、寿衛を養老施設に収容するのが良策と考え、兄の原告谷岡日出男、所轄の福祉事務所の職員や民生委員などとも相談した結果、寿衛を埼玉県狭山市に在る養老施設に収容することとした。右相談の結果を聞かされた寿衛は、当初は、自分の与り知らぬところで勝手に自分の処遇が決められたことに不満であつたが、その後は福祉事務所の職員らの説明に耳を傾けるようになつた。

(五) しかし、寿衛は、右養老施設への入居手続が完了する以前の昭和五三年七月七日高血圧性脳症により意識不明となつて倒れ、最寄りの樺島病院に運び込まれ、そのまま入院してしまつた。入院後寿衛は、意識を回復するや、うわごとのように家(本件建物)に帰りたいとの希望を訴え続けた。そして、後記のとおり、同月一七日に退院し、とりあえず被告方に身を寄せることが決まつたその前の日には、右病院の医師、看護婦、同室の患者の付添人などに、「浦和の宅で養生して治つてから家に帰ります。そのときはお遊びに来て下さい。」などと話したりした。

(六) 寿衛が入院中の昭和五三年七月一三日、同人の自宅に原告谷岡日出男、同広松静、石川博(乙事件被告)夫妻及び被告夫妻らの親族が集つて、寿衛の今後の治療及び生活の在り方について協議がなされた。席上、右原告らは、予定通り養老施設に入居させることを主張し、石川博夫妻もこれに同調したが、被告はこれに強く反対し、寿衛を被告宅に引き取つてその世話をすると主張し、結局話合いは物別れに終つたが、その際、同人を引きとつて世話する意向のあることを積極的に示したのは被告夫妻のみであつた。そして、被告とその夫、弘光傳は、寿衛が入院していた樺島病院の室料が一日当り金二万円と嵩むことなどから、早急に同人を自宅に連れて帰りたいと考え、担当医の承諾を得、寿衛の意向を確認したうえで、他の親族には相談のないまま、昭和五三年七月一七日寿衛を退院させた。

(七) 退院した寿衛は、自宅に残してきた同人の貴重品(本件土地建物の登記済権利証、実印、銀行預金証書、株券など)の所在を懸念し、被告に対しこれらを原告広松静から引渡を受けて欲しい旨頼んだ。寿衛の意を受けた被告は、右退院の翌日の一八日杉並の寿衛宅を訪れたが、原告広松静が不在であつたため、雨戸を開けて同宅内に入り、実印と銀行通帳を渡して欲しい旨の同原告宛書面を書き置きした。一方、原告広松静は、昭和五三年七月二〇日の朝右置手紙を発見したが、被告が留守中に上り込んだことに不快感を覚えた同原告は、同日被告に電話して、被告の行為を非礼として難詰するとともに、被告の実印及び銀行預金通帳等の引渡要求に対しては、「自分の一存では渡せない。」と答えて、これを拒絶した。被告から、原告広松静の右回答を聞いた寿衛は、警察に訴えるなどといつて、原告広松静に対する怒りをあらわにした。

なお、原告広松静は、その後寿衛の実印、銀行預金証書等を銀行に保管のため預託した。

(八) 昭和五三年九月二〇日原告広松静は、寿衛の退院後初めて浦和の被告宅に同人を見舞つた。その際、原告広松静は被告に対し、「(寿衛を)おしめのまま家(本件建物)に連れて帰らないで下さいよ。私はひも一つ巻いてあげられないよ。」と申し向けたところ、被告は寿衛に対し、同原告の右言辞を伝えるとともに、「(原告)広松がいる間は家に帰れないから待ちなさい。」といつて諭した。

(九) 寿衛を引き取つた後、被告及びその家族は、寿衛の食事、入浴、排泄物の処理など献身的に同人を世話した。寿衛も、かつて被告に対して抱いていたわだかまりを解消させて、被告ら一家の好意に感謝の気持をもつようになつた。もつとも、寿衛の杉並の自宅に戻りたいという希望は依然として強く、昭和五三年秋ころ、訴外大沢きくの外一名が被告宅を訪れたときも、寿衛は右大沢らに対し、「もう少し身体が良くなつたら杉並の家に雅子(被告のこと)に連れて行つて貰つて帰りますから、そのときは是非ゆつくり遊びにおいで下さい。」などといつて誘つたりした。

(一〇) 寿衛は、昭和五四年三月末ころから容態が急に悪化し、同年四月二日死亡したが、その後被告は、寿衛から本件遺言書を預かつていたとして、浦和家庭裁判所に対し、その検認を申し立てた。

2 ところで、<証拠>によれば、被告は、本件遺言書の検認のための審問において、同遺言書が寿衛の筆跡による旨を陳述し、被告本人の供述中には、本件遺言書は、寿衛が昭和五三年七月二〇日被告の面前で全文(日附及び氏名を含む。以下同じ。)を自書し、指印をして作成したものである旨の供述部分がある。そこで、右供述部分等の信ぴよう性について検討することとする。

(一) 被告本人は、寿衛が本件遺言書を作成した際の状況について、「寿衛は、布団の横に降りて座り、ひざの上に置けるテーブルの上に紙を置き、鉛筆を手にしてかがみ込んで書きはじめたが、一〇日ほど寝ていたので身体が揺れて字にならないから稽古させてくれないかといい、他の紙に一〇字ほど練習した後、本件遺言書を作成した。寿衛は、そばで見ていた私に時々字を尋ねたが、私は平仮名でもよいと答えた。」旨供述しているが、右供述部分は具体的であつて、実際に見聞したものでなければ描写しえない現実感を帯びている。

(二) 本件においては、本件遺言書(乙第九号証の一)の作成日付と近接した日時を作成日付とし、その作成名義人を寿衛とする二通の文書が存在する。乙第一、第二号証のいずれも「念書」と題する書面がそれで、前者は、「○○家ト土地ヲヒロミツマサコ○にアげマス シヨウ和五十三年八月一日三浦すえ」と記載され、後者は、「私は家エ○イエ帰○○○ますカラ 一日も早く立の○下されませ 正子が着いて○帰ります 九月二〇日 三浦すえ 静サン」とそれぞれ記載されているところ(○印は判読不能ないし至難な文字)、被告本人は、右二つの文書はいずれも寿衛が自書したものであり、とくに後者は、寿衛の退院後はじめて原告広松静が被告方に寿衛を見舞つた日に作成したものである旨供述するのであるが、右供述部分は、乙第一号証の成立に関する部分はしばらく措くとしても、少なくとも乙第二号証の成立に関しては信ぴよう性があると思料される。けだし、前記認定事実によれば、寿衛は長年住み慣れた杉並区内の自宅(本件土地建物)に並々ならぬ愛着を抱いており、その心情は、入院中はもとより、退院後被告方に身を寄せるようになつてからも一貫して変らなかつたことが窺えるのであるが、かかる同人の心情を念頭に置くならば、前記認定のように、昭和五三年九月二〇日寿衛が被告から、「広松がいる間は家に帰れないから待ちなさい。」と諭された際、原告広松静を自己の希望を実現するうえでの障害と意識し、これを排除したいという強い欲求に駆られ、直ちにその意思を同原告に伝えるために文書をしたためたというのも、自然に了解できるからである。

このように、乙第二号証は、寿衛の手に成る文書と認むべきであるが、同号証と本件遺言書たる乙第九号証の一の双方の筆跡を対照してみると、その字形、筆勢、運筆は一見類似しているから、後者が寿衛の自書によるものである蓋然性はきわめて高いといえる。

(三) 寿衛には、昭和五三年七月二〇日に本件遺言書を作成するにつき一応十分な動機があつたと考えられる。けだし、前記認定のとおり、寿衛は、昭和五三年七月二〇日被告から、原告広松静が自宅に保管中の重要書類等の引渡を拒絶した旨聞かされているのであるが、このことが寿衛をして、同原告が本件土地建物を勝手に処分してしまうかも知れぬという危惧を抱かせ(なお、前記認定事実から、寿衛が、その意思に反して同人を養老施設に収容しようとした同原告に対して、根本的な不信感を抱いていたとも推量できる。)、その処分を事前に避止し又はこれに対処するためには、自己の死後の財産の帰属を明確にしておきたいという心境に至らしめたと推察することは理に適うからである。

(四) 寿衛が本件土地建物の遺贈の相手方として被告を選択するということについても、これを肯定するに足りる事情がある。すなわち、前記認定のとおり、寿衛はすでに昭和五一年夏ころ被告に本件建物を遺贈する旨の遺言書を作成しているのであつて、もともと寿衛は内心において被告を受贈者とする意思であつたと考えられる。もつとも、その後、寿衛と被告の仲は不和となり、寿衛が一たん作成した右遺言書を廃棄し、被告以外の者に財産を遺贈したいという気持に傾いていつたことは前記のとおりであるけれども、同人において、被告が、子供もない孤独な境遇にあり、かつ、病を患つて入院している自分を自宅に引き取つて世話をする旨の好意を示してくれたことによつて、被告に対する感謝の念を一気に強くし、これに自分の財産の全部を遺贈したいという心境に立ち至つたとしても、それはきわめて自然な人間の心情の現われとして了解することができるのである(原告らは、寿衛は被告を嫌つていたから、被告に本件土地建物を遺贈するなどという内容の遺言をするはずがないと主張するけれども、この主張は、退院以後本件遺言書作成時期の寿衛の意思について右に述べた点に鑑み理由がない。)。

右(一)ないし(四)に述べたところによれば、本件遺言書は寿衛が全文自書し、押印して作成したものであるとの前記被告本人の供述等はその信ぴよう性を肯定しうるというべきである。

3(一) この点に関し、原告らは、まず、寿衛は昭和五三年七月二〇日当時文字を自書する能力がなかつたと主張する。

寿衛が昭和五三年七月七日高血圧性脳症により意識不明となり、樺島病院に入院したことは前記認定のとおりであるところ、<証拠>によれば、寿衛は右入院後二、三日にして意識を回復し、呼びかけにも反応を示すようになり、次第に口や手足を動かすことができるようになつたが、少なくとも入院中は手で物をしつかり把持したり、文字を書けるような状態ではなかつたことが認められる。しかしながら、<証拠>によれば、一般論として脳動脈硬化により身体の一部に麻痺が生じた場合であつても、副血行路の機能が良好であるか、又は代償作用が活発であれば、急激にその麻痺が回復されることもありうることが認められ、他方、<証拠>によれば、医師である同人は、寿衛が樺島病院を退院した後、同人の主治医として死亡に至るまで多数回にわたり診察しているが、その初回が昭和五三年七月二一日であり、この日は往診であつたこと、同医師は、診察過程を通じての寿衛に対する全体的な印象として、右半身の麻痺があるだけで、九〇歳を超えた年齢相当の容態であつたこと、往診の際はいつも布団の上に座つて診察を受けたこと、言語障害はなく、話の内容も了解できたことなどの記憶を有していることが認められ、この事実によれば、本件遺言書が書かれたという日の翌日である前同日における寿衛の身体的状況も右のとおりであつたと推認することができる。してみると、昭和五三年七月二〇日の時点において、寿衛が文字を自書することが全く不可能であつたとはいい切れない。

(二) 次に、原告らは、寿衛は達筆な人であつたが、本件遺言書に記載されている文字は極度に乱れており、同人の筆跡とは異なる旨主張するところ、なるほど乙第九号証の一に記載された文字は、<証拠>により寿衛が昭和五一年から同五二年にかけて自らしたためた文書であることが認められる前掲甲第二、三号証の各一、二の筆跡とは全く異なるものではあるけれども、前記のとおり、寿衛は昭和五三年七月二〇日には高血圧性脳症による発作の後遺症として右半身麻痺の状態にあり、少なくとも右手の運動機能は不完全であつたと推認されるから、その筆跡が乙第九号証の一の如く乱れたものであつたとしても、何ら異とするに足りない。

(三) 原告らは、さらに、寿衛は生前自己の署名は「寿衛」という戸籍上の名を記載するのが常であつたのに、本件遺言書になされた署名は「寿え」というものであつて、この点からも同書面は同人の手になるものではないと主張するところ、たしかに、前掲甲第二、第三号証の各一、二における同人の署名は「寿衛」となされているけれども、右の証拠のみをもつて同人が常にかかる署名だけを用い、他の形式の署名は一切用いなかつたものと断ずるには足りないのみならず、前記のとおり、同人は昭和五三年七月二〇日当時右手の運動機能が不完全であつたこと、乙第九号証の一の文字は、そのほとんどが手元の震えを抑えながら書かれたものであることが一目瞭然であることに鑑みれば、同人は本件遺言書の作成にあたり、「衛」というような画数の多い、複雑な文字を書いても字形が乱れて判読できなくなることを慮つて、「え」という比較的書き易い文字を選択したとも考えられる。したがつて、本件遺言書上に「寿え」という署名がなされていることをもつて、同書面が寿衛の自署によるものではないということはできない。

(四) 原告らは、本件遺言書中の「は」、「に」、「か」、「せ」の各文字は、その他の文字と比較すると、その筆勢、運筆が異なり、字形も明瞭であつて、同書面は全文同一人の手になるものではない旨主張するけれども、乙第九号証の一に記載された各文字を仔細に検討してみても、原告ら指摘の各文字の筆勢、運筆、字形が他の文字としかく明瞭に異なつているとは認め難い。

以上によれば、本件遺言書は、その全文を寿衛が自書し、指印をして作成したもので、自筆証書としての要件を具備していると認むべきである。

三原告らは、仮に本件遺言書は、寿衛が全文自書したものであるとしても、それは判読不可能な鉛筆痕のようなものがあり、これらがどのような意味をもつかによつては、被告以外の者にその遺産を贈るとの寿衛の意思表示を記載した書面であるとも考えられ、この書面のみから同人の真意を二義なく判断することは困難である旨主張するところ、本件遺言書である乙第九号証の一の文面は、判読不可能な文字又は文字と覚しき模様を○印で表示すると、「私のなき○あと家やしきは姪のひろみつまさこにさしあげます その他一さいまかせてあります しよわ七月三十日五十三年 三浦○○○寿え」というものであつて、その趣旨とするところは、寿衛が「家やしき」を被告に遺贈するにあることは明らかであり、その文字の配列、文章の構成からみて、右○印の部分の文字がどのようなものであつたとしても、右の趣旨が根本的に変更されることになるとは考えられない。また、本件遺言書の紙面には各所に鉛筆痕が記されているが、これらは、いずれも直線又は単純な曲線であつて、前記認定のような昭和五三年七月二〇日当時の寿衛の身体的状況から推せば、単に同人の手元が震えたためにできた鉛筆痕と考えられるのであつて、この鉛筆痕が右遺言書の趣旨を左右する重要な意味をもつているものとは到底認め難い。

四原告らは、寿衛は本件遺言書を作成した当時、遺言能力がなかつた旨主張するところ、<証拠>によれば、寿衛が樺島病院に入院していた当時の担当医師であつた松井淳は、寿衛が入院期間中「指南力見当識(自分の置かれている場所とか相手を認識する能力)は全く不良」との診断を下していることが認められるけれども、同医師の右の診断が寿衛に対するどのような又はどの程度の観察に基づくものであるかは必ずしも明らかではない(同証言によれば、寿衛は樺島病院を退院する際に、「ここはお宮さんか」とか「御殿か」などと言つていたことが認められるけれども、同人のそのような言葉が、具体的にいかなる状況の下において、誰に対して発せられたものかを確認するに足りる証拠はないから、右の事実のみをもつて同人に「指南力見当識」がなかつたと断ずることにはちゆうちよせざるを得ない。)。そればかりではなく、<証拠>によれば、寿衛は入院中見舞に訪れた親族らの顔をはつきりと識別することができた(もつとも、右広松静本人の供述中には、入院中の寿衛は自分のことがはつきり分つている場合もあつたが、自分が呼びかけても分らないこともあつたと供述している。)ことが認められ、また、前記認定のとおり、同人は入院中絶えず「家に帰りたい」との訴えを述べ続けているのであつて、これらの事実に照らせば、入院中の寿衛に指南力見当識が全くなかつたとする前記医師松井の診断の正当性については疑問を投げかけざるを得ない(一般論としても医師が入院患者と直接接触するのは、診察時などきわめて僅かな時間に限られることになろうから、長時間付添つている家族等の観察の方が正しい場合がありえよう。)。他に、寿衛が昭和五三年七月二〇日当時事理弁識能力を欠いていたと認むべき証拠はない。

かえつて、前記認定のように、寿衛は、樺島病院からの退院時には、周囲の人達に対し、「いつたん浦和へ行くが、杉並に帰るので遊びに来て下さい。」といつていたこと、寿衛は、退院直後から自分が杉並の自宅に残してきた重要書類等の引渡を強く希望していること、昭和五三年七月二一日に寿衛を往診した区師村山は、寿衛に言語障害があつたとは感じず、同人の話の内容も了解できたことなどからすると、同人は、同年同月二〇日の時点でかなりの事理弁識能力を有していたというべきである。

(高山晨 小池信行 深見玲子)

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