熊本地方裁判所 昭和32年(わ)776号 判決 1958年12月08日
被告人 中熊春子
主文
被告人を懲役三年に処する。
但し、この裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は、昭和三十三年四月四日、証人小田尚俊、同小田きよみ、同中熊謙蔵、同中熊シカに支給した分を除き被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は昭和十二年八月頃、台南市において、当時軍人であつた夫登喜行(中熊謙蔵の長男)と結婚し、一女を儲けたが、終戦のため昭和二十一年三月頃肩書自宅の中熊謙蔵のもとに引揚げた。その頃同家には、謙蔵夫婦、登喜行の実弟業農夫夫婦とその子供登喜行の妹静子らが同居し、農業を営んでいた。同年八月頃にはさらに登喜行の妹小田きよみが三人の子供を連れて朝鮮から引揚げ、一時亡夫の実家に身を寄せたが、まもなく謙蔵のもとに同居するに至つたのでその家族数は実に十三名にも達した。被告人は農業の経験がないのに皆とともに農業に従事することになり人一倍苦労を重ねた。被告人は生来勝気なうえこれまでと全く異つた環境に置かれることになつたため、両親とはもとより夫登喜行とも争いが絶えず、ために家庭内は円満を欠くに至つた。それに加え従前長男の登喜行は軍人として身を立て農業は次男の業農夫に譲る約束であつたので業農夫は将来この家を継げるものと信じて家業に励んで来たが、予期しない敗戦のため登喜行が引揚げて来て「自分がこの家を継ぐ」と主張したため、その望も消え果て、昭和二十二年頃、被告人方の西南五、六十メートルのところに家屋を新築し、田畑約九反を貰つて分家した。このような有様であつたので、小田きよみも被告人方木戸口の堆肥小屋を改造し、子供三名とともにそこに移り、村の生活扶助を受けつゝ被告人らから独立して生活するようになつた。それでもなお家庭内に風波が絶えないので、昭和二十四、五年頃、謙蔵夫婦も被告人方前に隠居家を建てて別居した。その際謙蔵はもつと被告人方に寄せて建てたい意向であつたが、登喜行が干場の日当りが悪くなると云つてこれに強く反対したので謙蔵もやむなく現在の位置に建てることになつた。その後二、三年を経て、小田きよみらも謙蔵の隠居家に移り、謙蔵も約一町の田畑を耕作するようになつたので、前庭が狭く農業に不便なところから、被告人方の前庭に寄せて北側に移転しようと考え、昭和三十二年正月頃から資材を集め、同年九月初頃には屋形を切り栗石を入れた。被告人ら夫婦は、もし隠居家を被告人方前庭に寄せて移転すれば、被告人方前庭に日陰が射して穀物などの干場にも困るし、さらに登喜行が貰うことになつていた右移転予定地附近の畑地を小田きよみが謙蔵をそそのかして隠居家を移転することにより事実上奪い取るつもりであろうと考え、隠居家の移転に極力反対し、叔父の中熊末彦などを介して謙蔵に思い止まるよう申し入れたが、謙蔵も頑固者でなかなか他人の意見に耳を傾けないで、着々と自分の思いどおりに工事を進めるので、登喜行は深夜ひそかに人糞を栗石の上に降つていやがらせをしたこともあつた。しかしながら謙蔵はなおも工事を進める気配だつたので、登喜行は被告人に対し度々「父が頑固なばかりに又もめごとが起きる。父がおらんならこんなこともないが」と話すので、被告人も登喜行と同様謙蔵に対し快よからず思つていた。
第一、以上のような事情であつたところ、同年九月十二日に至り、謙蔵が近所から数名の手伝を得て屋形の地搗を始めたので、被告人はいよいよ隠居家の移転を決行するものと考え、忿懣の情抑えきれず、気持が落着かないまゝ花でも活けたら少しは気持も落着くかも知れないと思い、裏の炊事場から出刃庖丁(証第一号)を持つて庭先に出たところ、同日午前九時頃、謙蔵が自転車を押して被告人方木戸口に差しかゝつた際、大声で「どうせ一度死ねば二度死なぬので自分の思うたとおりにする」と云つたのを耳にし、被告人は極度に昇奮し、「しやんむりでん建つるか、覚悟はできとるか」と叫びながら謙蔵の傍らに馳け寄り、いきなり所携の出刃庖丁をもつて同人の頸部を突き刺し、よつて同人に対し治療約十日間を要する左下顎部、左外頸部下斜走刺創兼切創の傷害を与え
第二、同日時頃、被告人は同番地の中熊謙蔵方前において、小田尚俊(当時二十年)を認めるや同人に対し「尚俊お前も殺してやる」と怒号して所携の出刃庖丁を振りかざして同番地中熊業農夫方西北側まで約三十メートル位追い馳け、同人をして自己の生命、身体に対し危害を加えられるかも知れないと畏怖させて脅迫し、
第三、同日頃、被告人は右中熊謙蔵方前において、義母中熊シカ(当時七十八年)を発見するや、出刃庖丁を片手に携え同人の髪を掴み「お前もか」と云つて同女をして自己の生命、身体に対し危害を加えられるかも知れないと畏怖させて脅迫し
たものであるが被告人は当時心神耗弱の状態にあつたものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
被告人は警察、検察庁、裁判所を通じ、終結一貫して中熊謙蔵を刺したこと、小田尚俊、中熊シカを脅迫したことはいずれも記憶にないと供述している。ところで証拠の標目欄に掲げた証拠(但し、9、10、13の各証拠を除く)を綜合すると、(一)被告人は元来短気で些細な動機で激昂したりするいわゆる爆発的傾向を有する癲癇性性格の持主であつたこと(但し、精神病質人格としての爆発型精神病質人格ではない)(二)被告人は引揚後十一年もの永い間謙蔵との間に不和状態が続いていたこと(三)特に隠居家移転の問題が生じてからは、緊張した感情が漸次蓄積され、この対立緊張感は極度に達し、謙蔵との間に正に一触即発の状態にあつたこと(四)しかして本件犯行の日謙蔵の「どうしても隠居家移転を強行する」旨の言葉を聞き、極度に昂奮して本件犯行に出たことが認められ、これらを詳細に検討すると、被告人の本件犯行はどうしても人格無縁の行為とは認められないから、弁護人の心神喪失の主張はとうてい採用する訳にはいかない。結論として当裁判所は、被告人は心神耗弱の状態にあつたものと認める。
次に被告人が第一訴因につき、殺意をもつて謙蔵を刺したかどうかにつき検討する。
被告人が昭和三十二年九月十二日「しやんむりでん建つるか、覚悟はできとるか」と叫びながら所携の出刃庖丁で謙蔵の頸部を刺し治療約十日を要する傷害を与えたことは先に認定したとおりである。殺意の認定は傷害の部位、程度、兇器の種類などをその資料とするのが通例であるが、本件につき考えてみるに、傷害の部位は頸部で身体の重要部分であり、傷害の程度も長さ五センチメートル、深さ一、五センチメートルの傷害で必ずしも軽度のものということはできない。しかも兇器は刃渡約二十センチメートルの出刃庖丁でかなり鋭利な刃物である。これに加え被告人の性格、十年にわたる親族間の不和の状態などをあれこれ考え合わせれば一応殺意の認定を肯定せざるを得ないであろう。しかしさらに深く被告人が精神病質人格としての爆発型精神病質人格ではないとしても、爆発的傾向を有する癲癇性性格の持主であること、永年にわたつて蓄積された緊張が一時に爆発して極度に昇奮した状態のもとに本件が敢行されたものであつて、謙蔵の身体のどの部分を刺すなどの思慮をめぐらす余裕など殆んどなかつたと認められる本件の特殊事情を考慮すると、にわかに被告人に殺意ありと認定することにはかなりの疑問をもつものである。さりとて他に被告人の殺意を積極的に認定すべき証拠もないから、当裁判所としては或は殺意があつたのではなかろうかとの一応の疑問をもちつゝも結局傷害罪として処罰するの外はない。
被告人の判示第一の所為は刑法第二百四条に、同第二、第三の所為は同法第二百二十二条第一項に各該当する。ところで被告人は本件犯行当時心神耗弱の状態にあつたものであるから各罪につき懲役刑を選択したうえ同法第三十九条第二項、第六十八条第三号により法律上の減軽をなし、さらに以上は同法第四十五条前段の併合罪であるから、同法第四十七条本文、但書、第十条により重い判示第一の罪の刑に併合罪の加重をなした刑期範囲内で被告人を処断すべきである。そこで情状につき若干検討してみるに、本件の被害者らは本件は親族間の犯行であるから、特に被告人の処罰を希望するものではなく、只将来親族間に再び平和が訪れることをひたすら希つている。それに中熊謙蔵に対する傷害も幸い致命傷に至らず同人も現在においては完全に健康を回復している。只被告人が現在に至るまで必ずしも本件につき心からの反省をしていると認められないのは当裁判所のはなはだ残念に思うところである。しかし被告人の家庭の事情、本件が親族間の犯罪であつて被害者らも被告人の処罰を特に希望していないこととさらに被告人に残された唯一の道は老父への孝養と親族間に真心からの和解が成立し、親族間の平和を維持することであると思われる点などつぶさに検討してみると、被告人に冷静に反省の機会を与えるためにも今一度刑の執行を猶予するのを相当と考える。しかもそうすることが親族間の心情をも和げる最良の途であると信ずる。
よつて当裁判所は本件につき被告人を懲役三年に処し、刑の執行を猶予するのを相当と認め、同法第二十五条第一項第一号により五年間右刑の執行を猶予する。訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第百八十一条第一項本文を適用し主文掲記のとおり被告人の負担とする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 渡辺利通 松下歳作 藤光巧)