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熊本地方裁判所 昭和44年(わ)155号 判決 1970年1月13日

被告人 米井隆志

昭二一・一二・三〇生 無職

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実の要旨は

被告人は、昭和四四年四月四日ごろ、陸上自衛隊留萌駐屯部隊を除隊し、荒尾市水野七六三番地の一の実家に帰つてきたが、そのころ病気のため荒尾市役所を退職した実父米井果(当六四年)のあとをついで荒尾市役所に就職するべく、そのテストも受けて採用の日を待つて家でブラブラ遊んでいたが、被告人は自衛隊勤務当時、蓄膿症の手術を受け、その後の経過が悪く一時精神病院に入院したことがあり、実母米井フジ子(当時五六年)は夫の入院と被告人の病歴を苦にしてノイローゼ気味で、被告人の行動に対しても一々口やかましく注意していたので、被告人は母のかかる態度に反感を抱いていたが、たまたま同年五月二三日午前九時ごろ、他の家族は出勤などで外出してしまい、被告人は母フジ子の給仕で自宅茶の間で朝食をとつたが、食後、食台の横に座つていた同女から「隆志、あんたはあまり外を出歩くな。」と注意を受けるや、平素から前述のように反感を抱いていたので「なんで外に出歩くといかんな、なんの理由でな。」と反発してくつてかかつたが、前述のようにノイローゼ気味の母フジ子は「わからんとだろうか、はがいか。」と叫んで被告人の下顎付近に両手の爪をたてて引掻きはじめたので、被告人は激昂し、同女の顔面を突き退け、その場に押し倒し倒れているその顔面、頸部などを両足で数回にわたり踏みつけたり足蹴にしたりし、よつて同女をその場において、顔面、頸部など全面にわたる打撲症などのため、急性シヨツク死に至らせたものである。

というのである。

二、そこで検討するに、右公訴事実記載の被告人の外形的行為は、当公判廷で取調べた証拠によりほぼこれを認めることができる。すなわち、司法警察員作成の実況見分調書、医師神田瑞穂作成の鑑定書、荒尾警察署長作成の各鑑定嘱託書およびこれに対する熊本県警察本部刑事部鑑識課長作成の「鑑定結果について」と題する書面(熊本県技術吏員北口次男作成の鑑定書)(三通)司法警察員作成の「被疑者の身体に付着していた血痕の採取及び写真撮影について」と題する書面、司法警察員作成の捜査報告書(昭和四四年五月二六日付)、勝田満江の司法警察員に対する供述調書に、被告人の当公判廷における供述を綜合すると、被告人が公訴事実記載の日時場所において、実母の米井フジ子から下顎付近を両手の爪で引掻かれた際、その場に同女を押し倒し、同女の頭部、顔面部などを両足で踏みつけたり足蹴りしたため、右暴行による外傷性シヨツクにより同女をしてやがてその場で死亡するに至らせたことは明らかである。

三、しかしながら、医師鹿子木敏範作成の鑑定書および証人鹿子木敏範の当公判廷における供述によると、被告人は本件犯行当時緊張型精神分裂病に罹患しており、本件犯行は右精神病に起因する動機不明の衝動行為として行なわれたものと推定するとしており、当裁判所は、被告人の責任能力につき仔細に検討した結果、被告人は本件犯行当時心神喪失の状態にあつたものと認めるのを相当とするとの結論に到達した。しかるところ、検察官は、被告人が精神分裂病に罹患していたことは、ほぼこれを肯定しながら、心神耗弱の認定をされるのはやむを得ないとしても、犯行直後の被告人の行動から判断して心神喪失の状態ではなかつたと主張するので、以下さらに具体的に判断を示すことにする。

(一)  鹿子木鑑定人の診断によれば、被告人は昭和四四年七月一四日から同年一一月一五日までの間の診断時において、自閉および情意鈍麻を主症状とする慢性精神分裂病の状態にあるとされ、その特徴として、情意面では、姿勢は常同的で動きが少なく、顔貌も硬く、表情に乏しく、しばしば閉眼して瞬目したり、顔をゆがめたり、口唇を尖らせたりする不自然な表出がみられるが、これらは精神分裂病の緊張病型の昏迷期にしばしば見うけられる所見であり、さらに終始寡黙で自発的発言が殆んどなく、話しかけても殆んど返答せず、単にうなづいたり首をふるだけの表現が多く、ときに低声につぶやくように答えることもあるが、談話になめらかさがなく唐突な感じで語尾が曖昧にとぎれたりする。応答にはこれに相応する感情表出を伴わず疎通性に乏しいなど自閉症の症状がみられる。また母の死に対しても関心を示そうとせず感情鈍麻がみられる。ちなみに知能面でも、知能検査は、被告人がそれに関心を示し応じようとしないため検査不能であるが、言語性および動作性検査からは知能指数六〇以下の数値しか得られない、というのである。

ところで、右のごとき被告人の現在症状に鑑み、既応の病歴をみてみるに、その精神分裂病による人格変化の萌芽期については、証拠上これを認めるに足る明確な資料に乏しいが、司法警察員作成の「捜査嘱託にもとづく回答」と題する書面によると、被告人は昭和四〇年四月二七日陸上自衛隊に入隊し、同四二年と同四三年の二回にわたり蓄膿症手術のため入院手術を受けたが、二回目の手術後である同四三年二月九日から同年七月二五日までの間精神分裂病(心因性反応)という診断のもとに精神病院に入院加療を受けた事実が認められる。そして、鹿子木鑑定人の診断によれば、右第一回入院のころ精神分裂病の初期症状が発現し、第二回入院時期は精神分裂病による緊張性興奮の病勢増悪の時期にあたると推定するとされるのであるが、結局右病気による異常行動のため、同四四年四月二六日除隊となり、除隊後は、証人泉学の当公判廷における供述、米井義信の検察官および司法警察員に対する各供述調書ならびに米井治秋の司法警察員に対する供述調書によつて認められるように、一層無口になり何でもないのにニヤリと笑つたり、夜中に魚釣りに出かけたりする常軌を逸した行動が認められ、母親から激しく叱責されても殆んど反応を示さなかつたり、何の理由もなくラジオのアンテナを折つたりするなど分裂病性自閉症、情意鈍麻の症状に加え動機不明の衝動行為がみられたのである。

(二)  そして鹿子木鑑定人の鑑定結果によると、被告人の本件犯行当時における病状は、犯行前および現在症状と大差なく、既に精神分裂病の緊張病性興奮と昏迷の第一段階をすぎて単調、不活発となつた自発性、積極性を欠く第二段階に入つた症状にあつたものと推定され、このことは、被告人が本件犯行後、母親をはこびこんだ荒尾市民病院の受付での応答においても、母親の受傷原因について、はつきりした返答をしないながらも「犬がほえた。」「がけから落ちた。」などと種々異つた事情を述べ、その態度も平然としているとか、きよとんとしているとかの印象を人に与えるものであつた事実が前掲各証拠ならびに坂井誠子の司法警察員に対する供述調書によつて認められるが、これらの事実は被告人が自閉、情意鈍麻の状態にあり正常な理性による内的統制を失つていた事実を物語るものと認められる。かくして、以上の各時期における各状況を綜合すれば、被告人は本件犯行当時、精神分裂病にもとづく右の各症状を有し、発作的に発現した興奮による動機不明の衝動行為として本件犯行に及んだもので、是非善悪を弁別し、この弁別に従つて行動する能力など高等な機能の面で重大な障害があつた疑いがあるから、本件被告人には、刑法第三九条第一項を適用して刑事責任能力を否定すべきものと解するのが相当である。

(三)  もつとも、検察官所論のごとく、被告人の検察官および司法警察員に対する供述調書ならびに被告人の犯行後の供述を内容とする供述をし、またその行動を語る足達正照、泉千里、泉学、勝田満江など関係人の供述調書などをみると、被告人の言動にはある程度のまとまりを示し論理性一貫性があり、かつ自己防衛的な虚言すら散見するようにみえ、かくては被告人の思考判断能力に重大な障害はないのではないかと疑う余地がある。しかしながら、当公判廷における被告人の態度や質問を受けたときの反応などは、前記(一)に示した診察結果と一致し、黙して答えないか、うなづくか、稀に断片的な言葉を吐く程度で素人眼にも異常であり、またうなづくという動作が肯定の意思表示と認めてよいか疑わしい場合もあり、このことからすると、取調べに当つた質問者や、被告人の供述を伝聞した者において、被告人の動作や断片的な言葉をまとめて調書に記載し、また被告人から聞いたとしてまとめて供述をした疑いが濃厚である。そして、また仮りにこれらの証拠の内容に真実性信頼性があるとしても、前記鹿子木証言によると、被告人の緊張型精神分裂病は、常時の情意鈍麻の状況の中に昏迷と興奮をくり返えすものであつて、かかる病状にある患者の精神内容は、第三者の立入ることを許さない分野であり、精神医学上いわゆる「了解不能」とされるのであつて、正常人の感情を移入して外面的に理解することはできないものであることが認められ、外形上つじつまのあわない言動、あるいはつじつまのあつた言動は、被告人の罹患する精神病に基づく滅裂な思考の表現と解するのが相当であり、この種精神病の特性として意識障害や知能低下を伴わず、すべての判断が完全に冒されるわけでなく、食事などある目的にかなう行動は残つていることなどを勘案すると、犯行後の被告人の言動も病状の発現として矛盾なく理解できるのであつて、それを正常人の立場で理解し、その言動の故をもつて被告人の刑事責任能力を肯定するのは正鵠をえた判断とは言いがたい。そしてかかる病状は、心神耗弱の程度に止まるとするような中間的判断を許さない性質のものであることは前記鹿子木証言により明らかというべきである。

四、以上の理由により、本件は「被告事件が罪とならない」場合にあたるから、刑事訴訟法第三三六条前段により、主文のとおり判決する。

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