熊本地方裁判所八代支部 昭和40年(手ワ)19号 判決
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〔判決理由〕一、請求原因事実は全部当事者間に争いがない。
二、次に、八代養鶏組合の団体性(社団性又は組合性)の有無について考える。
(一) 本件では、第一に右組合が権利能力なき社団であるか否かが争われているのであるが、通常、権利能力なき社団とは社団の実体を有するが法人格のないものをいうとされ、それは社団の実体を有するから、これに対しては組合の規定を適用するのは妥当でなく、社団法人の規定又は考え方を可能な限りで、つまり法人格を前提とするものを除いてすべて類推適用すべきであるとされる。
そこで、先ず右のように社団の要件を社団の実体を有することとし、社団の効果の中で法人格を前提とするものとそうでないものとを考えるのが適当かどうかを検討する。
(二) 社団の実体とは社団と組合の区別の問題になるが、それには社会学的見地からするものと、現行実定法上のそれとの二つがある。
しかし、前者の社会学的見地からする両者の区別の基準は極めてあいまいであり、法規適用の前提要件とすることはできない。
他方、実定法上は、組合の規定と全く同じ規約を有する団体が組合、社団法人と全く同じ内部規則を有する団体が社団である。そして、右の諸規定の中で最も重要なものは、組合においては、各組合員に解散請求権のあること(民法六八三条)、脱退に際して払戻請求権のあること(同法六八一条)、業務執行を原則として組合員全員が行なうこと(同法六七〇条一項、二項)、業務執行組合員をおいた場合でも各組合員が常務を専行することができること(同条三項)にある。しかし、これらの規定の多くも、特約によつて別段の定めをなしうる。従つて、或る団体において、右の諸点が明示的に規約で定められていれば、先ず組合にあたり、組合の他の規定を適用してもよいことになろう。しかし、これらの点について別段の定めがないときに、組合の規定によるか、社団の考え方によるかもまだ明らかとはならない。さらに、これらの点が明示的に排除されているときは、その限りでは社団に近づくが、なお全く組合の規定の適用が排斥されるのは明らかでない。
それ以外の点では、いわゆる内部関係については、社団法人におけると組合におけるとでそう大差はなく、多人数の団体を組合としても差し支えはなく、少人数の団体を社団法人としても別に不便ではない。
そうすると、権利能力なき社団に、組合の規定でなく、社団法人の規定を適用することにしても、そう大きな実益はなく、従つて権利能力なき社団の理論は、この見地からはあまり意味のあるものではないといわなければならない。
(三) 次に、法人格の問題を考えてみるのに、先ず法人とは自然人以外のもので、権利義務の主体となりうるものであり、構成員とは別個である、法人という権利義務の帰属点のできるところに特色がある。つまり、法人とは、実定法上は技術的な概念であつて、社会学的見地からの社団とは異なるのである。そして、自然人の権利能力のうち重要な具体的内容が、その義務の履行のためにその名で有する財産に強制執行を受ける地位であること、市民社会が早くから発達したフランスやイギリスにおいて法人化の具体的利益として考えられた一つの重要な要素が法人財産が全く構成員の財産から分離されて、構成員に対する債権者の責任財産でなくなる点であつたこと、わが国等において合名会社の社員や合資会社の無限責任社員が会社の債務について連帯責任を負うことになつていることを考え合わせると、法人とは構成員の個人財産から区別され、個人に対する債権者の責任財産ではなくなつて、法人自体の債権者に対する排他的責任財産を作る法技術である点が重要であり、構成員が団体に対する債権者からの追及を免れうる(有限責任を負うにすぎない)ということは、団体が法人であることによつて当然に生ずる帰結ではなく、別個の要請から認められる効果であるといわなければならない。
(四) そこで、進んで権利能力なき社団にはどのような効果を認めるべきであるか、どのような団体がそのような効果を認められるのにふさわしい権利能力なき社団であるかを考えよう。
わが国では、従来、通常、権利能力なき社団の要件とは、団体としての組織を備え、代表の方法、総会の運営、財産の管理その他社団として主要な点が、規則によつて確定していること、共同目的のために組織せられた団体であること、団体としての名称を有し、団体構成員の交替(脱退加入)によつてもその同一性を失わないものであること、多数決の原則が行なわれることなどであるといわれてきている。
しかしながら、このような考え方は甚だ疑問である。先ず、それは団体としての組織を備えるとか、共同目的のために組織せられた団体であるとか、団体としての名称を有することを要件とするが、組合もまさにそうなのであつて、その点で社団と組合がどこで区別されるのか明らかでない。代表の方法、総会の運営、財産の管理が確定している点も、組合でも通常同様である。多数決の原則の存在も組合でもそうであるから、やはり標準にならない。さらに、団体の構成員の変更による同一性の維持の点も、組合でも同様である。しかも、ここでは、同一性の有無は何をもつて決められるかこそが問題であつて、同一性が保持されるかどうかといつてみただけでは始まらないのである。
(五) このように従来の考え方における権利能力なき社団の要件があいまいであるのは、結局は要件を解釈上構成する方法が適当でないからである。それなら、要件は効果の方から遡つて考察されるべきである。
ところで、社団法人に関する効果は、(1)団体の内部関係に関するもの、(2)権利義務の主体たりうるかどうかの問題に関するもの、(3)構成員に対する債権者の責任財産たることを止め、団体に対する債権者の排他的、優先的責任財産となるものが作られることに大別される。
右のうち、(1)の効果は法人格とは関係がないのだから、広く団体に類推適用して構わない。
(2)の効果については、法律上不可能である不動産登記を除き、世上では団体名で契約をし、財産を所有すると考えられることが多い。これは取引の相手方が認めれば、団体関係者が自由にできることであり、団体関係者の意思どおりに認めて差し支えないだけのことである。これを不可であるといつても、あまり意味がない。しかも、民事訴訟法四六条の解釈上組合も訴訟上原、被告となることが認められている以上、その名で権利を有し義務を負う旨判決しなければならないと帰結せざるをえないので、進んで間接に団体自体に権利義務の帰属することが認められていると解さざるをえない。
そうすると、右(1)、(2)の効果は権利能力なき社団の要件を定める基準とすることはできない。
(3)の効果は、社団に対する債権者のために、構成員に対する債権者を劣後させるものであり、社団に対する債権者を保護して社団活動を保護、促進させようとする法人制度本来の機能から演繹されたものである。すなわち、法人とはそのための法技術なのであり、このことは、市民社会が早くから発達したフランスやイギリスにおいて法人化が要請されてきた沿革や歴史に照らしても明らかである。
従つて、このような効果を認めるべき社団とは、団体に対する債権者がその排他的責任財産であると通常期待し、またその期待が社会的にももつともであるような、かつ構成員に対する債権者が、その責任財産でないと覚悟しているか、又はそう覚悟すべきであるような財産を有する団体である。換言すれば、団体財産の独立性こそが基準となるべきものであつて、それが構成員の財産から区別されて独立に管理されているか否か、特にそれが外部から見てかなりに明らかであるか否かをもつて判断されるべきものである(けだし、このようにして、団体に対する債権者、団体構成員、構成員に対する債権者の通常の期待と、それを妥当とすべきか否かという観点から法人格の問題を判断しなければ、団体に対する債権者を適当に保護して団体の活動を保護、促進しようとする法人制度の本来の目的は阻害されてしまうからである。)。そして、このように財産の独立が十分であれば、右の効果を認めるべき権利能力なき社団として一向に差し支えない。
(六) ところで、<証拠>によると、訴外里見博他一四名の養鶏家は昭和三三年に各人一口一〇〇〇円以上を出資し、養鶏飼料の購入、卵の販売等を協同して行ない、養鶏生産力の増進と組合員の経済的、社会的地位の向上を図ることを目的として八代養鶏組合を設立し、役員として理事一三名を選任し、里見博を組合長に選任したこと、その後組合員は増加し、多いときには約八〇名に達し、同三九年一〇月二日には里見が退任して被告がその組合長に選任されたことを認めることができる。しかしながら、右組合がその構成員の財産から区別されて独立に管理されている、組合自体の相当な財産を有していたことを認めるにたりる証拠はない。かえつて、証人恵敏雄(二回)および同松本明泉(二回)の各証言によれば、右組合はそのような財産をもたなかつたことを認めることができる。
そうだとすると、右組合は社団ではなく、組合であるといわなければならない。
従つて、右組合が社団であることを前提とする被告の抗弁一の主張は、その余の争点について判断するまでもなく失当である。
三、本件各引受行為は前示のとおり「引受人八代養鶏組合桑原駿」と署名押印してなされているのであるから、その八代養鶏組合という肩書は、被告桑原駿の単なる居所又は勤務先であるともまた右組合のためにする代表関係の表示であると解することができるのが実際である。
従つて、このような場合は、手形取引の安全を図るため、手形所持人である原告は右組合および被告個人のいずれに対しても請求することができ、請求を受けた者は、その行為が真実どちらの趣旨でなされたかを知つていた直接の相手方ないし悪意の取得者に対しては、その旨の人的抗弁を主張しうると解するのが相当である。
ところで、被告はそのような人的抗弁について何ら主張、立証をしないから、右組合が実在すること、又は(仮に右組合が社団であるとしても)右組合が社団であることを理由に引受人としての責任を回避することはできないというべきである。(池田憲義)