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甲府地方裁判所 平成12年(ワ)61号 判決 2004年6月01日

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省略

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1請求

被告らは,連帯して,原告X1に対し,4550万円,原告X2に対し,3750万円及び上記各金員に対する平成12年3月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

本件は,亡A(昭和19年2月4日生,平成11年10月14日死亡。以下「A」という。)の遺族である原告X1及び原告X2。以下,原告X1及び原告X2を「原告ら」という。)が,被告山梨県並びに被告山梨県の被用者であった被告Y1及び被告Y2(以下,被告3名を「被告ら」という。)に対し,山梨県立B病院(以下「本件病院」という。)におけるAに対する食道亜全摘手術(平成11年7月12日実施。以下「本件手術」という。)の後,Aが死亡したのは,本件病院の医師らの上記手術中における手技上の過失又は術後の適切な治療を怠った過失によるものであるとして,不法行為責任(被告山梨県に対しては,債務不履行責任も)に基づき,損害賠償を請求している事案である。

当事者間に争いのない事実及び事実経過に関する当事者の主張は,別紙「争いのない事実等」に記載のとおりである。

第3争点

1  本件手術中において,本件病院の医師らに手技上の過失があったか。

(原告らの主張)

食道亜全摘手術をするに当たっては,「胸管(本幹)」あるいは「これに直結するリンパ管」(以下,「胸管等」という。)を損傷しないよう十分注意し,万一損傷を生じた場合には,結紮等その程度・状況に応じた適切な処置を講ずべき義務があるのに,Aの主治医であった被告Y1及び被告Y2はこれを怠り,胸管等を損傷し,かつ,損傷を見落としてその修復を怠った。

手術後間もない時期から1日当たり1000シーシーを越える大量のリンパ漏が長期間にわたって継続したこと,リンパ漏は胸管等の破綻により生ずるものであることから,Aのリンパ漏は,本件手術の際に胸管等を損傷したことによって生じたことは明らかである。

(被告らの主張)

ア 本件病院の医師らは,胸管の存在を確認しつつ,これを損傷しないように十分注意しながら本件手術を行った。仮に,食道亜全摘手術に際して胸管を損傷すれば,リンパ液が大量に流出したり,胸管内のリンパ液が減圧されて膨らみがなくなって,胸管自体を認識することが困難となるところ,本件手術中にそのような状態は認められなかった。また,本件病院の医師らは,本件手術終了に際し,閉胸前に臓器の損傷,出血,リンパ液の流出等の有無を確認するため,手術野にガーゼを頻回に当てるなどの措置を取りつつ,一定時間観察したが,リンパ液の排出を含めて異常は認められなかった。

なお,本件手術は食道ガンに対する手術であって,ガンが転移している可能性のあるリンパ節の郭清(除去)が不可欠であるところ,リンパ節はリンパ管とリンパ管の間にあって連結しているため,リンパ節の周囲のリンパ管の除去・切断も必然的となる。これをリンパ管の損傷とするのは失当である。

イ また,本件手術は,リンパ管内のリンパ液が漏れる可能性を常に内包しているが,リンパ漏が生じても側副路ができたり,体内で吸収されたりして自然に治まるのが通常である。ごくまれに,Aに見られたように,1日に1000シーシーを越えるリンパ液の流出が胸膜腔内に発生し,継続する症状(以下「乳び胸」という。)が発生するが,乳び胸は食道ガン,肺ガン,心大血管手術等に伴う合併症であるところ,その発生率は0.2から0.6パーセント程度である。したがって,本件病院の医師らにおいて,本件手術に先だって,Aに大量のリンパ漏が生じることを予見することは不可能であり,これを回避する措置をとることも不可能であった。

2  本件病院の医師らは,Aのリンパ液の漏れに対する処置として,遅くとも平成11年7月22日ころまでに再開胸手術を行うべき義務があったか。

(原告らの主張)

Aについては,平成11年7月15日から大量のリンパ漏れが生じ始め,同年8月10日までの間,1日1000シーシーを超える流出が継続した。したがって,遅くとも同日から1週間を経過した同月22日ころまでには再開胸手術を行うべき義務があった。

(被告らの主張)

ア・※  本件のようなリンパ漏に対しては,ピシバニールをミノマイシンなどと併用して投与することが効果的であって,広く行われているうえ,本件病院においても治療経験があったこと,他方,開胸手術については,後記・※のような問題があると考えられたことから,本件病院の医師らは,平成11年7月21日から後記・※のとおり,薬物治療を実施することとし,ピシバニールの投与を開始した。

・※  開胸手術(リンパ漏に対応する外科的治療であり,胸管を結紮する方法)を行うことは術後の患者に対する大きな侵襲であり,また,術後の癒着などにより,リンパ漏が発生している場所を発見・特定することは困難である。

しかも,本件手術のように切除した食道と同じ経路で胃管を挙上した後,縦隔での再建を行っている場合には,リンパ漏を起こしている近傍と挙上胃管との癒着が高度であることが予想された。そのため,Aに対して開胸手術を行うことによってリンパ漏を防ぐことができないばかりか,手術を行うと挙上胃管の血行を阻害する危険も考えられた。

・※  本件病院の医師らは,平成11年7月21日と同月22日,Aに対し,ピシバニールに対する反応を見るため,1KEを注入した。これに対して,発熱などの副作用が認められなかったことから,同月23日から同月27日まで,通常用いられる量であるピシバニール10KE及びミノマイシン100ミリグラムを胸腔内に注入した。

イ 本件病院の医師らは,上記アによってもリンパ漏が減少しなかったことから,同月28日から8月1日まで,フィブロガミンP(縫合不全のときなど組織の修復が不十分な際に用いる薬物)の静脈内投与を行い,治療効果について同月8日まで経過観察した。しかしながら,リンパ漏は改善しなかった。

ウ 被告Y1は,同月6日,原告X1に対し,薬物治療の効果が認められないため,開胸手術を行う必要性があることにつき説明した。また,被告Y2は,同月9日,A及び原告らに対し,開胸手術を行っても,リンパ漏を防ぐことができる可能性は低いことを含めて,開胸手術についての説明を行った。そうしたところ,原告らは,翌週に開胸手術を行うことについて承諾した。

エ 被告Y2は,リンパ漏が継続しているうちに,リンパ液が漏出している部分からドレーンに至る流出路以外の部分に癒着が起こり,通路のような状態ができて,胸腔ドレーンからの薬物注入により直接薬物がリンパの漏れている部位に作用する可能性があり,有効な結果を得られるかもしれないと判断し,同月9日から開胸手術までの間,保存的治療として再度ピシバニール10KE及びミノマイシン100ミリグラムを注入することを決め,注入を開始した。

オ 本件病院の医師らは,以上のとおり,Aに対し,第1次的選択として,侵襲度が低く効果の期待できる胸膜癒着法と呼ばれる薬物治療を実施していたものであり,7月22日ころまでに開胸手術を実施すべき義務があったとはいえない。

3  本件病院の医師らは,Aのリンパ液の漏れに対する処置として,遅くとも平成11年7月26日ころまでに再開胸手術を行うべき義務があったか。

(原告らの主張)

仮に,平成11年7月23日の時点では,胸膜癒着法を試みることが相当であったとしても,同月26日ころまでにはピシバニールの効果が見られないことが明らかになっていたのであるから,同日ころまでに再開胸手術を行うべき義務があった。

(被告らの主張)

否認する。その理由は,争点2についての被告らの主張アないしエのとおりである。

4  平成11年8月9日のピシバニールの投与方法に誤りがあったか。

(原告らの主張)

ピシバニールについては,副作用としてショック症状が発生することがあることから,休薬期間を置いた後に投与を再開する場合,少量から慎重に投与する義務がある。

それにもかかわらず,本件病院の医師らは,これに違反し,平成11年8月9日,Aに対し,ピシバニールを休薬前の投与量より多く投与した。Aが,同月11日にショック状態になったのは,このようにピシバニールの投与量及び方法が誤っていたためである。

仮に,投与量が休薬前と同量であったとしても,上記義務に反している。

(被告らの主張)

平成11年8月9日のピシバニールの投与量は,休薬前と同量であったし,Aが同月11日にショック状態になったことと,ピシバニールの投与とは無関係である。すなわち,Aが,同日,ショック状態になったのは,ドレーンから排液されない液体が別のスペースに貯留し,心臓後面を圧迫したためである。

5  因果関係

(原告らの主張)

Aは,同年8月26日ころ,メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に感染し,同年9月13日ころには肺炎を併発して,同年10月14日,呼吸不全により死亡したが,これらは,いずれも平成11年7月15日以降のリンパ漏のため,体力が著しく低下し,免疫力が低下したことが原因である。

したがって,本件病院の医師らによる上記1ないし3の過失とAの死亡の間には相当因果関係がある。

(被告らの主張)

否認する。

6  損害

(原告らの主張)

・※  Aは,主治医である被告Y2及び被告Y1の上記注意義務違反により,下記のとおりの損害を被った。

ア 逸失利益 4500万円

Aは,死亡当時55才であり,原告X1及び原告X2を扶養していたから,賃金センサス表における男子労働者平均である657万1200円に,労働能力喪失期間13年に対するライプニッツ係数9.3935及び生活費控除率を減じた数値である0.7を乗じると,約4320万円が逸失利益となる。しかしながら,Aが,当時,義兄の経営する貴金属製造会社に勤務しており,平均的な給与所得者よりも長期にわたり稼働することが可能であったことを考慮すると,同人の逸失利益は4500万円を下らないというべきである。

イ 慰謝料 3000万円

Aが被った死亡による精神的苦痛に対する慰謝料としては,3000万円が相当である。

・※  原告X1は,Aの葬儀費用として,少なくとも300万円を支払い,また,本件訴訟及びこれに先立つ証拠保全申立事件について,本件訴訟代理人弁護士らに対し,訴訟追行を委任し,その費用として500万円を下らない報酬を支払うことを約したが,これらは,被告らの上記不法行為等と相当因果関係のある損害である。

・※  したがって,Aの被った損害は上記・※ア,イの合計7500万円であり,原告X1及び原告X2はこれを各2分の1(各3750万円)ずつ相続した。また,原告X1は,上記・※の計800万円の損害を被ったので,同原告の損害の合計は4550万円となる。

・※  よって,被告Y1及び被告Y2に対し,民法709条,710条及び719条による損害賠償請求権に基づき,被告山梨県に対しては,債務不履行責任又は民法715条による損害賠償請求権に基づき,原告X1は4550万円,原告X2は3750万円及びこれらに対する訴状送達の日の翌日である平成12年3月1日から支払済みまで年5分の割合による各金員を連帯して支払うことを求める。

(被告らの主張)

原告らの主張する損害の発生及び額については不知。

第4当裁判所の判断

1  上記第2(別紙「争いのない事実等」)のうち,争いのない事実に,証拠(甲3の1ないし66,甲5の1・2,甲6の1ないし11,甲9の1ないし3,甲18,21,24,25,乙16の1・2,原告X1本人,被告Y2本人。ただし,甲21,24,25及び原告X1本人については,下記認定に反する部分を除く。)及び弁論の全趣旨を総合すると,以下の事実が認められる。

・※  平成11年7月12日,本件病院において,Aに対する食道亜全摘及び胃管造設,頚部食道・胃管吻合等の手術が行われた。

担当医は,被告Y1,被告Y2らであり,被告Y2が執刀医であった。

上記手術は,まず,Aを左側臥位にして,開胸操作を行い,バイポーラシザースと呼ばれるはさみ型の電気メスを用いて胸部食道を周囲のリンパ節を含む脂肪組織をつけたまま,周囲の組織から遊離した。この際,血管については,剥離鉗子を通して糸で結紮した。止血を確認した上で,胸腔ドレーンを挿入し,閉胸した。なお,食道を剥離し,挙上した際に,中縦隔の椎体前面で食道壁に近い部位に胸管が認められた。

閉胸後,Aを仰臥位として,被告Y2が胃管を作成したのと並行して,被告Y1は頚部で切断した食道断端を露出させる操作を行った。最終的に胃管と頚部食道と吻合して,手術は終了し,AはICUに移された。

Aは午前8時50分に手術室に入室し,手術は午前9時35分に開始され,午後1時15分に終了し,退室は午後2時25分であった。

退室時のAの状態は,血圧110/50mmHg,脈拍83回/分,体温35.9度で,不整脈は見られない状態であった。

・※  上記手術後から平成11年8月28日午前6時までの間に,胸腔ドレーンから排出された体液(リンパ液)の量は別表2記載のとおりである。

手術後,平成11年7月15日午前6時までの排出物には,リンパ液のみならず,血液やその他の体液も含まれている。

・※  手術後から平成11年7月18日までの間,Aについて,胸腔ドレーンからの排液が別表2のとおりであったものの,一般状態は安定していることから一般病棟へ移動した。

・※  被告Y2らは,胸腔ドレーンからの排液量がその後も減少せず,リンパ漏の状態にあったことから,Aに対し薬物療法を行うことを検討し,まずピシバニールに対する副作用の有無を確認するため,同月21日及び22日の2日間にわたり,ピシバニール1KEを胸腔内に注入したが,副作用と見られる反応は認められなかった。

そこで,同月23日から27日の各日,ピシバニール10KE及びミノマイシン100ミリグラムを胸腔内に注入したが,胸腔ドレーンからの排液量は別表2のとおりであり,リンパ漏の減少は認められなかった。

この間,同月27日,Aに38.2度の体温上昇が見られた。

・※  被告Y2らは,上記・※の結果を受けて,瘻孔を塞ぐことを目的として,同月28日から平成11年8月1日までの間,フィブロガミン(注射薬)を投与したが,胸腔ドレーンからの排液量は別表2のとおりであり,やはり,リンパ漏の減少は認められなかった。

そのため,被告Y2は,平成11年7月29日,原告X1に対し,再開胸手術を行うか,P-Pシャント法を行う方法が考えられるが,開胸してもリンパ管の断端がすぐに見つかるとも限らないので手術に踏み切れないため,もう1週間程度様子を見たい旨説明した。

・※  被告Y2は,同月31日から平成11年8月8日まで休暇をとった。

・※  同月6日,被告Y1から,A及び原告X1に対し,P-Pシャント法を行うか,再開胸手術を行うか尋ねたものの,Aは再開胸手術をためらっており,開胸手術を希望する原告X1の意向と一致しない状態であった。

・※  同月9日,被告Y2が,Aに対して説明を行った結果,翌週に再開胸手術を行うことになった。

ただし,被告Y2は,本件病院の医師で食道ガン手術の経験が深いC医師らと協議した結果,リンパ漏が継続していたことから,漏出部分に瘻孔ができている可能性があり,これにより,胸腔ドレーンから薬物を注入した場合,薬物が直接,漏出部分に作用する可能性もあると考え,Aらに対し,再開胸手術を行うまでの間,再度,ピシバニール10KE及びミノマイシン100ミリグラムを胸腔内に注入する方針を伝え,同日から上記薬物の注入を開始した。

・※  同月10日午後3時,Aに血圧低下傾向が見られたため,エコー及びレントゲン撮影を行ったところ,胸水が貯留していることが判明した。そこで,胸腔ドレーンを交換したところ,胸水が流出し,血圧も上昇した。そのため,ピシバニール,ミノマイシンの投与を中止した。

・※  同月11日午前3時,Aがショック状態となったため,気管内挿管を行うとともに,昇圧剤を使用した。

その後,同日午前9時,血圧及び意識が回復したが,両下肢に麻痺の症状が見られた。そのため,CT検査を行ったところ,貯留したリンパ液が心臓を圧迫したため,ショック状態となった可能性が疑われた。

同日午前11時ころ,背部より縦隔穿針ドレナージを行ったところ,850ミリリットルのリンパ液が排出され,同日午後3時ころまでには,血圧も安定した。右下肢の麻痺については,神経内科において,前脊髄動脈閉塞症によるものと診断された。

・※  同月12日午後2時ころ,気管内チューブを抜管したが,同月13日午前8時,Aに呼吸困難と意識障害が生じたため,気管内挿管が行われた。

気管内挿管後,鼻から胃液の逆流が見られたため,胃チューブを挿入したところ,700ミリリットルの胃液が排出され,同日午前9時20分ころには意識が回復した。しかし,気管内チューブを早期に抜くことは困難と考えられたため,同日午前11時ころ,気管切開が行われた。

・※  同月18日,背部のドレーンを抜去したが,同月19日から,Aに不整脈が見られるようになった。同月20日,循環器内科を受診したが,心エコーでは心機能に問題なく,血圧も安定していたため,経過観察を行うこととした。

・※  同月25日,CT検査を行ったところ,縦隔にリンパ液が貯留していることが判明し,膿瘍の可能性があると判断された。

・※  同月26日,Aに体温の上昇が見られ,喀痰培養検査の結果,MRSAに感染していることが判明し,抗生物質が投与された。

・※  同月28日,Aに・※脈性の不整脈が見られたため,ICUへ移動し,電気的除細動を行った。

・※  平成11年9月1日,縦隔膿瘍に対し,内視鏡的経胃管的縦隔ドレナージ(内視鏡的に挙上胃管を通し,膿瘍内にチューブを入れる方法)を試みたが,胃管からの出血のため,視野がとれず,中止した。この際,8月13日に挿入した胃チューブが縦隔内に入り込んでいることが判明した。翌2日,再度上記ドレナージを行い,縦隔内にチューブを留置した。その後,解熱傾向が見られた。

・※  同月5日,再び発熱が見られ,縦隔内チューブからの排液が少ないため,同月6日,経皮的縦隔ドレナージ(CTガイド下に,背部より挙上胃管を貫いて,縦隔膿瘍を排出させる方法)を行うとともに,気管切開用チューブを交換した。その結果,Aに解熱傾向が見られた。

・※  同月9日,血圧が低下し,乏尿となったため,人工透析(持続的血液ろ過)を開始した。

・※  同月13日,肺炎を併発した。同日,同月20日及び同月27日,気道内観察と喀痰除去を目的に気管支ファイバースコピーを行った。

・※  同月29日,尿の流出が良好になったため,人工透析を中止したが,肺炎は悪化していた。同月30日,肺炎がさらに増悪し,100パーセントの酸素投与を余儀なくされた。

・※  平成11年10月6日,低酸素血症に加え,高二酸化炭素血症,腎不全となり,人工透析を再開した。

・※  同月12日,呼吸不全が悪化したことなどから,人工透析を中止した。

・※  同月14日午前0時40分,Aは死亡した。

2  本件手術中において,本件病院の医師らに手技上の過失があったか(争点1)について

・※  証拠(甲10ないし12,乙5ないし8,12,13,15)によれば,以下の事実が認められる。

ア  乳び胸の病態

乳び胸とは,乳びが胸管から漏れて胸腔内に貯留した病態である(乳び瘻とは,胸管の損傷のため,リンパ液が流出し,瘻孔が生じた状態をいう。)。

乳び胸は,保存的治療でも治癒が期待できることが多いが,低栄養をきたして死亡することもあるので手術適応の決定が最も問題となるとされる(乙7)。

イ  乳び胸の原因

乳び胸の原因については,①胸管の閉塞あるいは裂傷に起因すると考えられる(乙7),②胸管を損傷し,気づかなかったり,処置が不充分な場合には乳び漏が起こり,乳び胸となる(甲10,11),③開胸術,とくに食道ガンの手術後に見られることが多く,原因は胸管の損傷であり,後縦隔の郭清を行ったときに起きやすい(甲12),などと説明されている。

特に,術後発生する乳び胸に関しては,④胸管に密接した手術操作が関与しており,手術時のなんらかの胸管の損傷により発生するものがほとんどであるが,まれに,手術操作に直接関係しない胸管の塞栓・中心静脈カテーテルによる大血管血栓,縦隔炎などの原因によっても胸管系からのリンパの流出が発生するとされている(乙6)。

ウ  発生頻度

食道ガン手術後の乳び胸の発生頻度については,報告者により差があるが,0.6パーセントないし4.7パーセントとされている(乙6,8,11,12)。特に,開胸的食道ガン切除術については0.5パーセント,非開胸的食道切除術については3パーセントとされる(乙7,15)

また,国内における食道ガンの食道切除後の乳び胸の報告例において,8例中1例,3例中1例,3例中1例の死亡例があり,合併症として看過することはできない症状であるとされている(乙13)。

エ  術後乳び胸の発症

術後2,3日から10数日目に発症し,経口摂取や経管栄養の開始で乳び胸水は急増する(乙6,7)ことが多いが,場合によっては,症状発現まで数週間から数か月要することもあるとされる。

・※  証拠(乙5,8)によれば,「胸管の走行は第1腰椎から第2腰椎の高さの腹部大動脈の乳び槽より始まり,大動脈裂孔を通り,胸部大動脈の右後方で奇静脈の左側に沿って上行する。さらに第5胸椎の高さで大動脈の背側を通過し,食道左側を上行し,第1胸椎から第7胸椎の高さで左鎖骨下動脈と左総頸動脈の間を腹側に回り,左静脈角付近で静脈に開口する。したがって,縦隔,頚部のリンパ節郭清や胸膜外剥離は,胸管を損傷しやすい手術操作といえる。胸管損傷は食道ガン手術のみならず,肺や甲状腺,頸椎,胸椎などの手術でも生じうる。」とされており,胸管を損傷した場合には,透明なリンパ液が泉が湧き出るように間断なく流出する様子が見られるものとされる。

この点,上記1・※のとおり,平成11年7月12日に食道亜全摘等の手術を受けて手術室を退室した時のAの状態が,血圧110/50mmHg,脈拍83回/分,体温35.9度で,不整脈は見られない状態であったことに加え,証拠(乙16の2,被告Y2本人)を併せ考えると,本件手術において閉胸するに当たり,被告Y2らにおいて,手術野にガーゼを頻回に当てるなどして,出血やリンパ漏がないかを観察したが,透明なリンパ液が間断なく流出する様子などの異常は見られなかったこと,食道ガン切除術を行った場合,術後2日程度は,血液やリンパ液以外の体液の排出も起こることに照らすと,本件において,Aについて,別表2のとおり,術後2日間の排液量が245シーシーから720シーシーあったことを考慮しても,本件病院の医師らが,術中に胸管を損傷したと断定することはできないし,胸管損傷の兆候があったのにこれを見落として修復を怠ったと認めることはできない。

なお,上記・※イのとおり,乳び胸の原因について,胸管の損傷によるものとする文献が複数存在することに加え,その後,Aに大量のリンパ漏があったことを併せ考えると,被告Y2らの手術の際に胸管が損傷された可能性を否定することはできないが,他方で,まれに,手術操作に直接関係しない胸管の塞栓・中心静脈カテーテルによる大血管血栓,縦隔炎などの原因によっても胸管系からのリンパの流出が発生するとするものもあるのであって,いずれであるのかを確定することはできないのであるから,上記判断を左右しない。

・※  また,証拠(乙6,15)及び弁論の全趣旨によれば,本件手術のような食道ガン切除手術については,胸管周囲の小リンパ節への転移率が25.7パーセントという報告例もあることを重視して,胸管合併切除を行うべきであるとする立場もあるほどであること,しかし,一般的には,胸管を温存してリンパ節の郭清を行うものとし,ガンがリンパ節に直接湿潤している場合に限り,胸管を合併切除するという方針をとっていること,胸管を温存する場合には,患部周辺のリンパ節を広範囲にわたって郭清することとしていることが認められる。

このように,食道ガンの手術においては,患部周辺のリンパ節の広範囲にわたる郭清が必要であるとされていることにかんがみると,仮に,これらのリンパ節の郭清を行った結果,胸管等に損傷が生じたとしても,それだけでは手技上の過失があったとみることは相当でないというべきである。すなわち,胸管等の損傷は,食道亜全摘手術の際に行われるべきリンパ節の郭清に伴う避けられない結果といえるのであって,胸管等の損傷に何ら顧慮することなく,不適切な態様で食道の遊離及びリンパ節の郭清が行われたなどの事情が認められないかぎり,手技上の過失によって胸管等の損傷が生じたと認めるのは困難である。そして,本件の場合,上記のとおり,そのような事情は認められないのであるから,手技上の過失を肯定することはできない。

3  本件病院の医師らは,Aのリンパ液の漏れに対する処置として,遅くとも平成11年7月22日ころまでに再開胸手術を行うべき義務があったか(争点2)について

・※  乳び胸の治療方法

術後乳び胸の治療方法については,本件手術の当時,以下のような文献及び症例報告が行われていた。

ア  術後乳び胸の多くは軽症であり,ほとんどは自然治癒傾向をもつ。したがって,まず原則的には保存的治療を一定期間行ってみるのがよい。その結果,好転しないもの,一般状態の悪化するもの,あるいは肺膨張不全・換気,循環系圧迫症状の増強する場合には手術を考慮するべきである。その場合,手術時期を失しないことが重要である。

保存的治療としては,・※胸腔内貯留乳び液の排除と・※乳び漏出に伴う栄養管理の2つに大別できるが,保存的治療による改善がみられない場合は外科的治療の適応となり,保存的治療から外科的治療に移行する時期あるいは適応の選択が重要である(乙6)。

イ  外科的治療を選択すべき時期に関する文献は,以下のとおりである。

・※  ①成人で1日当たり1500ミリリットル,小児では1日当たり年齢に100ミリリットルを乗じた量を超える乳び胸水が5日間持続する場合,②2週間経過しても,乳び排液が減少しない場合,③栄養状態が悪化した場合を挙げるもの(乙6,11)。

・※  ①成人で1日当たり500ミリリットル,小児で1日当たり年齢に100ミリリットルを乗じた量の排液が2,3週間以上続く場合,②乳び貯留が多房性であったり,フィブリン塊を含む場合を適応とするもの(乙6)。

・※  8時間当たり200から400ミリリットル以上の乳び流出が5日間続く場合には3から5日以内に手術実施の決定をすべきであるとしているもの(乙12)。

・※  早期発症型(術後2日から4日)で,乳び量が1日700から800ミリリットル以上であれば,積極的な再開胸を行い,晩期発症型(術後7日以降の発症のもの)については,保存的治療の後,再開胸を行うのがよいとするもの(甲13,乙11)。

・※  乳び胸の治療はまず,病態を見極めることであり,排液が不十分で縦隔に貯溜し,上大動脈症候群を呈したり,大量の排液のために全身状態を維持することが困難な場合には再開胸が必要であるが,1000ミリリットル前後の排液で全身状態が良好であれば保存的に治療するもの(甲13)。

・※  1週間以上経過しても排液量が減少しなければ手術を行うとしているもの(甲12)。

ウ・※  保存的療法のうち,癒着剤となる薬剤を胸腔内に注入することで胸膜の癒着を生じさせ,乳び漏出部を閉鎖させる方法を「胸膜癒着法」という(乙8,9,11ないし13)。

この胸膜癒着法に関する症例報告としては,①1984年のOK-432(ピシバニール)とテトラサイクリンによる癒着療法(乙13。4日間,テトラサイクリン1グラムとOK-432を10KE胸腔内に注入した。),②1990年の「OK-432とミノサイクリンの胸腔内注入で治癒した食道癌切除後乳び胸の1例」と題する症例報告(乙11。4日間,OK-432を10KEとミノマイシン400ミリグラムを胸腔内に注入した。),③1995年の「食道癌切除後の乳び胸に対しOK-432とミノマイシンによる胸膜癒着法が奏功した1例」と題する症例報告(乙12。ミノマイシン200ミリグラムとOK-432を10KE胸腔内に注入した。),④1997年の「胸水持続貯留症例に対するOK-432胸腔内注入療法の効果と副作用について」と題する7例についての症例報告(乙9),⑤1999年の「OK-432とミノサイクリンの胸腔内投与が有効であった食道癌切除後の乳び胸の1例」と題する症例報告(乙8。3日間,OK-432を10KEとミノサイクリン200ミリグラムを胸腔内に注入した。)がある。

・※  上記・※⑤の症例報告(乙8)には,以下のような記載がある。

・※  乳び胸に対する処置は,大量に喪失する体液に対する全身管理を中心とし,保存的治療と外科的治療に分けられる。体液管理はTPNを中心として,蛋白喪失に関しては蛋白製剤の投与,脂肪補給には脂肪乳剤の投与が挙げられ,これによりまず全身状態を安定させることが必要である。保存的治療の中心は胸腔ドレナージであり,軽度乳び胸では,これのみで治癒する場合もある。胸膜癒着による治療の試みは,1981年に蘇原らが乳び縦隔に対してテトラサイクリンを使用し,食道癌切除後の乳び胸に対しては1984年に石田らがOK-432とテトラサイクリンを使用している。

・※  日本では,文献的に4例(そのうち3例は,上記・※の①ないし③の症例報告である。)の食道癌切除後の乳び胸に対する胸膜癒着法施行例が報告されているが,これらの例では,1日あたりの排液量は500から2200ミリリットルと比較的多く,癒着剤の投与時期は術後10日から29日で,全例でOK-432が用いられ,テトラサイクリンやミノサイクリンが同時に使用されている。これらの治療により全例軽快しているが,治癒までに24日から61日と日数を要している。

・※  外科的治療としては,再開胸下の胸管結紮術が中心である。

大橋らは,食道癌術後の乳び胸8件中,6例に再開胸を行い,3例は漏出部位を確認し,結紮し得たとし,乳び量は700から1400ミリリットル前後で,術後2から4日の早期発症型が手術適応になると述べている。しかし,食道癌切除後の再開胸手術は患者にとっても負担が大きく,特に胸腔内吻合を施行した症例では癒着や挙上胃管などにより,手術操作そのものが困難となる。実際,大橋らの再開胸6例中,漏出部位を確認できなかった症例は3例あり,再手術にて漏出部位を確認することは必ずしも容易ではない。食道癌後縦隔再建例では,再建臓器のため鏡視下の処置は困難と思われる。

・※  OK-432とミノサイクリンの胸腔内投与による胸膜癒着は簡便,低侵襲で,十分効果が得られることから,今後積極的に施行されて良いと考える。

・※  胸膜癒着法の副作用について,上記・※③の症例報告(乙12)は,「胸痛と発熱が見られるが,消炎鎮痛剤の投与で対処できる。胸腔ドレナージが効かなくなった場合には新たに胸腔ドレーンを留置しなおさなければならない。これにより,胸膜癒着が促され,また肺の膨張も得られることから患者の呼吸困難などの自覚症状も出現しない。」とするのに対し,上記・※④の症例報告(乙9)では,「胸膜癒着法は,乳び胸や癌性胸膜炎に対する有効な対症療法(胸水を消失させる目的で,手術よりも簡便で低侵襲な方法)として数多く実施されているが,それによる重篤な副作用は認められなかったとの報告が多い。しかし,自験例では,初期の1例に重篤な急性腎機能障害を認めた。そのため,高齢者や術後患者,腎機能低下症例では,OK-432とミノマイシン注入治療後の熱発及び発汗を伴う脱水に対し,十分な補液にて対処する必要がある。」としている。

・※  以上のとおり,1984年(昭和59年)以降,本件当時までの文献及び症例報告においては,副作用の存在を認めつつも,再開胸手術の患者への負担等を考慮し,手術よりも簡便で低侵襲な方法である胸膜癒着法を試みることが望ましいとするものが複数見られ,これに賛成する臨床医の意見(乙15)もある。これに対し,証拠(乙6,8)によれば,胸管損傷部を確認する方法としては,リンパ管造影,RIを用いたリンパ管シンチ,胸管造影下のCTなどがあるものの,外科的治療法を選択した場合に,胸管損傷を手術中に確認することは,通常,困難であるという問題があるとされている。また,証拠(乙16の1・2,被告Y2本人)によれば,本件病院においては,本件の前年に乳び胸を発症した患者に対し,胸膜癒着法による効果をあげた症例があったことが認められる。

以上の事実を前提に,上記1及び2・※によれば,本件において,Aのリンパ漏が明らかになったのは平成11年7月15日以降と認められるところ,それから約1週間経過した同月21日及び22日の2日間,胸膜癒着法を試みる前提として,ピシバニール1KEを胸腔内に注入し,同薬の反応を見て,副作用がないことを確認した上で,同月23日からピシバニール10KEとミノマイシン100ミリグラムの胸腔内注入を開始したことを併せ考えると,平成11年7月23日の時点において,胸膜癒着法を選択したことについて,本件病院の医師らに要求されるべき医療水準に照らし,注意義務違反があったとは認められず,同月22日までの間に,Aに対して再開胸手術を行うべき義務があったと認めることはできない。

4  本件病院の医師らは,Aのリンパ液の漏れに対する処置として,遅くとも平成11年7月26日ころまでに再開胸手術を行うべき義務があったか(争点3)について

上記3・※ウ・・※のとおり,胸膜癒着法による癒着剤の投与後,すぐに症状が改善したわけではなく,治癒までに24日から61日と日数を要しているとの症例報告があるところ,上記1・※のとおり,被告Y2らは,平成11年7月23日から同月27日の5日間にわたり,ピシバニール10KEとミノマイシン100ミリグラムの胸腔内注入を継続して行っていたもので,その間,Aについて,胸膜癒着法による治療を断念し,再開胸手術に踏み切らなけらばならないような容態の変化があった事実は認められない。

したがって,本件病院の医師らに,平成11年7月26日ころまでに再開胸手術を行うべき義務があったと認めることはできない。

5  平成11年8月9日のピシバニールの投与方法に誤りがあったか(争点4)について

原告らは,平成11年8月9日のピシバニールの投与は休薬前よりも投与量が多かった旨主張するが,上記1のとおり,同日行ったピシバニールの投与量は,休薬前と同じ10KEであったと認められる。

そこで,休薬前と同じ投与10KEを投与したことを前提に検討する。

証拠(甲15,17)によれば,ピシバニールの使用上の一般的注意として,「休薬期間をおいた後投与を再開する場合には,少量より慎重に投与すること」とされ,副作用として,「・※ショック:まれにショック症状があらわれることがあるので,観察を十分に行い,不快感,口内異常,喘鳴,眩暈,便意,耳鳴,血圧下降等の症状があらわれた場合には投与を中止すること,・※過敏症:まれに発疹等の過敏症状があらわれることがあるので,このような場合には投与を中止すること」とされていること,医薬品副作用要覧(甲15)に,ピシバニールの投与によるショックについて,「通常ショックは投与後数分から30分以内にみられることが多いが,ピシバニールを投与した患者で,投与後数時間から長い場合には数日を経過してからショックが発現したと考えられる症例が,承認時から現在までの13年間に13例報告されている。これら13例では,」腫瘍内5件,腹腔内6件,胸膜内2件と,「ピシバニールが局所又は奨膜腔内に投与されており,筋注,静注等の他の投与経路では遅発性ショックの報告はない。また,ピシバニールの局所及び奨膜腔内投与量の承認された範囲は1回5KEから10KEであるが,13例における投与量は」5KEが1件,10KEが2件,20KEが3件,40KEが1件,50KEが4件,100KEが2件と,「比較的大量のピシバニールが投与されている。」旨の記載があることが認められる。

たしかに,休薬期間をおいた後投与を再開する場合には,少量より慎重に投与することとされているものの,上記のとおり,本件病院医師らは,Aに対し,平成11年7月21日及び22日の段階で,ピシバニール1KEを投与し,これに対する問題がないことを確認しており,この事実を前提として,局所及び奨膜腔内投与について承認されている投与量の範囲である10KEを投与したのであるから,投与に際し,注意義務違反があったとは言い難い。また,同年8月11日午前3時に,Aがショック状態となった原因については,上記1・※のとおり,その後行われたCT検査の結果,貯留したリンパ液が心臓を圧迫したため,ショック状態となったと可能性があると診断され,その後,背部より縦隔穿針ドレナージを行って,850ミリリットルのリンパ液を排出した結果,Aの血圧は安定し,容態が改善したことに照らすと,貯留したリンパ液が心臓を圧迫したことが原因で,ショック状態となったものと解するのが相当であって,同月9日のピシバニールの投与方法に誤りがあったと認めるに足りる証拠はないというべきである。

6  結論

以上の次第であって,本件において,被告らの注意義務違反を認めることはできず,因果関係(争点5)について判断するまでもなく原告らの請求は理由がないから,原告らの請求をいずれも棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 新堀亮一 裁判官 倉地康弘 裁判官 川畑薫)

<編注:『※』部分は原文のとおり。>

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