甲府地方裁判所 平成25年(ワ)335号 判決 2014年10月31日
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告は、原告に対し、703万2000円及びこれに対する訴状送達の日(平成25年9月5日)の翌日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
1 本件紛争の要点
本件は、原告が、同人名義の普通預金口座が開設された金融機関である被告に対して、本人確認を怠るなどの預金契約上の管理義務違反により、原告名義の預金口座から703万2000円が出金されたとして、同額及びこれに対する民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
被告は、これに対して、被告は預金通帳と届出印に基づいて払戻をしており、約款によって被告は免責される、表見代理による払戻に応じた被告に損害賠償義務は生じないなどと主張して、争った。
2 前提となる事実等
(1) 本件口座の開設(乙3)
被告(当時はa信用組合であり、後に被告に合併されるが、被告と呼称する。)のb支店において、平成14年9月11日、原告名義の普通預金口座(口座番号<省略>。以下「本件口座」という。)が開設された。なお、後記のように、本件口座の作成状況については争いがある。
(2) 本件口座からの出金(甲10)
本件口座からは、次のとおり、合計703万2000円が出金された(以下①~⑨の各出金をあわせて「本件出金」という。)。
出金日 金額
① 平成15年9月26日 10万円
② 同月30日 39万円
③ 同年10月6日 400万円
④ 同年11月19日 20万円
⑤ 同年12月26日 20万円
⑥ 平成16年4月19日 4万2000円
⑦ 同月20日 100万円
⑧ 同年7月20日 100万円
⑨ 同年9月30日 10万円
(3) 普通預金規定(乙5)
被告の普通預金口座の普通預金規定には、次の各規定がある。
(届出事項の変更、通帳の再発行等)
この通帳や印章を失ったとき、または、印章、名称、住所その他の届出事項に変更があったときは、直ちに書面によって当店に届出てください。この届出の前に生じた損害については、当組合(被告)は責任を負いません。
(印鑑照合等)
払戻請求書、諸届その他の書類に使用された印影(または署名)を届出の印鑑(または署名鑑)と相当の注意をもって照合し、相違ないものと認めて取扱いましたうえは、それらの書類につき偽造、変造その他の事故があってもそのために生じた損害については、当組合(被告)は責任を負いません。
3 争点及びこれに対する当事者の主張
本件の主要な争点は、預金契約上の管理義務違反の有無であり、当事者の主張は大要次のとおりである(なお、本件においては、預金債権の成否についても争いがあるが、併せて記載する。)。
【原告の主張】
本件口座にかかる預金債権の債権者は、原告であるところ、被告は、公共的な金融機関であり、原告名義の口座から引き出しがされる場合には、必ず本人確認が必要とされるはずであるのに、本人確認を怠り、A(以下「A」という。)らによる引き出しに応じた行為は、金融機関の預金保管義務に反するものであり、重大な過失、ひいては意図的な不正支出である。
(口座開設に至る経緯)
原告が、被告に本件口座を開設したのは、Aから平成14年夏頃、新しい自動車保険に半ば強制的に加入させられ、同人から「その保険料引き落としのために被告のb支店に原告名義の預金口座の開設が必要である。」と言われ、被告の事務所で口座開設申込書に住所、氏名等を記入し、運転免許証のコピーも取った。押印を含め、銀行窓口の開設手続はAに一任したが、本件口座は原告が開設したものである。
本件口座開設に至る経緯のうち、原告が被告に対して「Aに本件口座の管理を任せる。」などと伝えた事実は否認する。
(預金通帳等の保管状況、入出金状況等)
原告は、Aから「保険料は、自分の方で入金するから持ってくるように。」と言われたため、保険料相当額をAに届けており、その入金手続等に必要と言われたために、預金通帳と印鑑もAに預けていた。
原告は、本件口座に入金したことはなく、その旨の報告もAから受けたことはなかった。本件口座に入金された金員は、何者か(おそらくはA)から、原告母名義の土地の売却代金の一部が振り込まれたものであり、本来的には原告が受け取るべきもので、原告の出捐によるものといえる。
本件出金の払戻請求書には「振込入金があっても連絡しない」旨の記載があり、これは被告の担当者であるB(以下「B」という。)がAと通じて本件口座に入金があっても原告に知らせないようにし、Aが原告に無断で本件口座の金員を勝手に払戻手続して、領得することに協力していた。また、払戻請求書には、カタカナで「X」と記名されて、押印もない払戻請求書があり、後に署名捺印のある払戻請求書が作成されているが、これにはAの妻の運転免許証が添付されている。これらの事実は、被告の悪意ないしは重大な過失を認定させるものである。
(被告の主張に対する反論)
被告の主張は、いずれも否認ないし争う。
原告は、Aにもその妻にも、原告名義の本件口座から金員を引き出す権限を与えたことはない。
また、全国銀行協会は、平成20年2月19日、盗難通帳やインターネットバンキングによる預金の不正払戻の場合にも、「銀行が無過失の場合でも、個人預金者に責任がない限り積極的に補償に応じる」旨の自主ルールを策定したもので、この自主ルールの策定により、金融機関側の免責規定は遡及的に効力を喪失している。さらに、免責規定は、民法478条の規定の趣旨を明文化したものであり、同条と同じく善意無過失が必要となるところ、本件においては、被告は悪意ないし重過失があった。
【被告の主張】
いずれも否認ないし争う。被告には預金契約上の管理責任違反はない。
(口座開設に至る経緯、入出金状況等)
本件口座は、Aが経営する自動車修理工場において、同人から紹介を受けて、Bが、口座開設の手続をした。原告は、原告において、多額の現金が入り、これを他人に知らせたくないので、Aに通帳と届出印を預けて、管理一切を任せると伝えた。
本件口座の出入金は、Aないし同人の妻であるCを通じて、行っていた。
このように、本件口座の開設時にAに管理を任せる旨を伝え、被告従業員に伝えた上、預金通帳と届出印をAに預けて、預金の出入金について全てAを介して行っていた原告の行為は、預金の払い戻しについての代理権限授与の表示にあたり、表見代理による払戻に応じた被告に損害賠償義務は生じない。
また、本件口座には、印鑑照合についての約款が存在し、被告はそれに基づいて払戻をしているのであって、被告には責任は生じない。
(本件口座の出捐者)
仮に、原告の主張を前提にしても、原告名義の口座には、原告の預金意思によって入金されたこと、すなわち、預入行為がなく、また、原告は何らの出捐をしておらず、本件口座に入金された707万円について、原告の被告に対する預金債権は成立していない。
第3当裁判所の判断
1 認定事実
後掲各証拠及び弁論の全趣旨によれば、本件口座について以下の外形的、客観的事実を認めることができ、これを覆すに足りる証拠はない。
(1) 本件口座に係る普通預金申込書等の記載内容(乙3、4)
本件口座開設の際(平成14年9月11日)に作成された普通預金申込書(乙3)には、おところ欄に「中巨摩郡<以下省略>」、おなまえ欄に「X」との記載があり、同書右下には被告の従業員によるものとみられる「B主任より振込の連絡はしない様にとの事」との記載がある。
また、同じく本件口座開設の際に作成された本人確認書類等(乙4)は、原告の運転免許証の写しが添付されているほか、住所確認の参考情報欄にはBによる「H14、9、11 AM11:30 ○○にて」との記載がある。本件預金口座の開設状況については、当事者の主張が大きく対立しているが、後記2で検討する。
(2) 本件出金にかかる払戻請求書の記載内容(甲1ないし8)
本件出金の際に作成された払戻請求書には、いずれも「X」との記名があるほか、本件口座の届出印が押印されている(甲1~8)。出金⑥ないし⑧の各出金については、払戻請求書は2通ずつ作成されており、1枚目には届出印は押印されていないが、2枚目に押印がされている。本件出金⑦の払戻請求書(甲7)の1枚目には「D主任よりTELあり PM11:42」との記載が、本件出金⑧の払戻請求書(甲8)の2枚目にはCの運転免許証の写しが添付されているほか、「D主任による対応。」との記載がそれぞれある。
(3) 本件口座の通帳及び届出印の保管状況
本件口座の預金通帳と届出印は、後記(4)の本件出金時にはいずれもAが所持していた(争いがない。)。
(4) 本件口座の出入金状況(甲10)
本件口座の主な出入金は、本件出金があるほか、次のような入金が認められる。
入金日 金額 摘要
①平成15年5月28日 10万円
②同年8月29日 60万円
③同年10月1日 500万円
④同年10月2日 137万円
⑤同年11月25日 7500円 <省略>
⑥平成16年11月24日 2万円
⑦平成17年1月24日 3万円
⑧平成17年8月1日 2万円
さらに、本件口座からc損害保険に対して、平成16年4月から平成17年8月まで毎月約7000円が自動で出金されている。
(5) 原告による改印と通帳の再発行(乙3)
原告は、平成24年5月21日、被告に対して、通帳紛失の届出をし、さらに、同年6月5日は本件口座の届出印を変更している。
(6) 原告による被告に対する23条照会(乙1、2)
原告は、E弁護士(以下「E弁護士」という。)に依頼して、被告に対して、平成24年10月16日、本件口座の開設申請書の写し、本件出金のうち①~⑥、⑧に係る払戻請求書の写し、上記(4)で見た本件口座への入金票の写し等を弁護士法23条の2に基づいて照会している(以下同条に基づく照会を「23条照会」という。)。その理由の中では、「依頼者(原告を指す。)は、口座の開設を知らず、通帳も印鑑も所持しておらず、入出金の事実も知らなかった。」と記載されている。
また、原告は、同じくE弁護士を介して、被告に対して、平成25年1月10日、本件出金⑦及び平成16年9月1日の出金に係る払戻請求書の写し及び本件口座から平成15年10月1日に原告からFとGへの100万円の振込依頼書の写しを、23条照会をしているところ、その理由の中では上記と同様の記載があるほか、「相手方(Aを指す。)は、依頼者(原告を指す。)の姉であるFと妹のGに依頼者が同意していると言って、依頼者の母名義の不動産売却の同意書を求め、その判子代として依頼者に無断で両人に送金している。」との記載がある。
(7) 別件訴訟の提起、内容等(弁論の全趣旨)
原告は、その姉2名と共に、Aに対して、同人が、原告を欺罔ないし脅迫して原告の母親の土地を売却させ、その売却代金を取得したとして、売却代金相当額等について、損害賠償請求訴訟を提起している(以下「別件訴訟」という。当庁平成25年(ワ)第349号)。別件訴訟において、原告らは、E弁護士に訴訟委任している。
2 争点についての判断
原告は、本件預金口座の預金債権者は自己であり、被告には預金契約上の管理責任違反があったと主張する。
本件預金口座の預金債権者は、預金契約の契約当事者は誰かという観点から決せられるべきであり、その認定に当たっては、契約行為者(口座開設者)、契約行為者の法的地位、契約の相手方である金融機関に表示された名義及び名義人に関する情報、通帳や届出印の保管状況、入金及び払戻しを行った者等を総合的に考慮することが相当であるところ、原告は、本件預金口座の通帳及び届出印を所持したことは一度もない、本件出金及び上記1(4)の各入金についていずれも自分が行ったものではないなどと最終的には主張しており、それを前提にした上で、後記でみる本件口座の通帳及び届出印の保管状況や本件口座の出捐者については本件全証拠をもってしても明らかではないことに照らすと、本件預金口座の預金債権の債権者が原告であるかについては、多分に疑義があるものといえる。
しかし、上記の点を一旦考慮の外においたとしても、被告に預金契約上の管理責任違反があったと認めることはできない。その理由は次のとおりである。
まず、本件における外形的、客観的事実として、次の①ないし③の各事実を認めることができる。
① 本件口座の通帳及び届出印の保管状況を見ると、本件出金がされた時点において、いずれも原告ではなく、Aが所持していたこと(上記1(3))、② 原告においても、いかなる理由があるにせよ、本件口座の開設から改印等の手続を行うまでの10年近く(本件出金に限って見ても約1年間にわたる。)もの長期間、上記①のAの通帳及び届出印の所持について、被告に対して、紛失届の提出等の手続を行っていないこと(上記1(5))、③ 本件出金は、いずれも原告ではなく、Aないしその妻によって本件口座の真正な届出印が押印された払戻請求書によって行われ、被告においても、本件出金について、本件口座の通帳及び届出印を所持していたAらの払戻に応じていたこと(上記1(2))などの各事実を認めることができる。
さらに、本件口座の開設状況について検討すると、本件口座開設書が、Aの経営する○○において作成されたことに当事者間に争いはないものの、開設に至った経緯、当時の状況等については原告本人、証人B、証人Aの各供述が大きく対立しており、必ずしも判然としない。原告は、この点について、Aから損害保険の掛金引落のために使用するためと言われ、○○に赴き、同所において、被告の担当者と会うことなく、Aが用意した届出印を用いて、普通預金申込書(乙3)を作成し、その後は通帳と届出印をAに預けており、それらを見たことがないなどと供述するけれども、本件口座の履歴(甲10。上記1(4))を見ても、損害保険の掛金が引き落とされるようになったのは本件口座が開設されてから2年近く経過した時点である上、いかなる理由があるにせよ長期間にわたって本件口座の通帳と届出印をAの所持に任せ、その入出金に無関心であったというのは、その内容自体が不自然というほかない。加えて、原告は、訴状においては本件口座の通帳等の管理について「本口座の預金通帳を第三者に預けて預金の管理を任せたこともない。」などと主張していたのに、被告から答弁書が提出され、その中で原告から被告に対する23条照会において「原告は、口座の開設を知らず、通帳も印鑑も所持しておらず、入出金の事実も知らなかった。」(乙1、2。上記1(6))と記載していたことを指摘されたところ、本件第2回口頭弁論において「開設された口座の通帳と印は、Aが原告に渡さず自ら保有していた。」(平成25年11月15日付準備書面)と主張を大きく変遷させ、最終的には訴状における主張を撤回するに至っている(第3回口頭弁論期日)。このように、原告は本件口座の届出印及び預金通帳の保管状況という本件請求の根幹をなす事実について、主張を全面的に変遷させるに至っているが、変遷した理由を何ら説明しない。このような訴訟追行態度は、原告の主張事実全体及びその供述の信用性を大きく揺るがせる事情といえる。そして、上記各事情に照らすと、本件口座開設の経緯について原告が供述するところは、到底措信できるものではない。
以上の事実関係を基にして、被告に本件口座の預金契約上の管理義務違反の有無について検討する。そもそも本件口座の普通預金口座規定においては、出金等にあたっては届出印と払戻請求書等との印影とを相当の注意をもって照合することによって行うとされており(前記前提事実(3))、預金名義人(本件においては原告)においても、上記規定や運用に従って届出印や通帳の管理を自ら行うべきであるにもかかわらず、いかなる理由があるにせよ、原告はAらに本件口座の届出印及び通帳を極めて長期間その所持するに任せ、その結果複数回に及ぶ本件出金はいずれもその真正な届出印によって行われていること(上記①及び③)に照らすと、原告は、本件口座の管理処分上最も重要かつ慎重に扱うべき本件口座の通帳及び届出印を、本件口座開設書を作成した○○の経営者であるAらに長期間預けており、これは少なくとも被告との関係においては、本件出金についての払戻権限をAらに授与したものとみることができ、被告においても、これを信頼して本件出金に応じたもので、本件出金についてはいずれも合理的な理由、根拠があるものと評価することができるのであって、預金契約上の管理義務違反を認めることはできない。仮に、本件口座から第三者による引き出し等を防止しようとすれば、原告において被告が発行する通帳及び届出印を第三者の所持に任せず、自己の管理下におくようにするほか、後に原告自身が改印や通帳の再発行の各手続を行っているように、普通預金口座規定(前記前提事実(3))に従って、通帳及び届出印の紛失を被告に届け出るなどの措置を執れば足るが、本件出金時において、原告がこれらの措置を執ることがおよそ不可能又は非常に困難であった事情もうかがえないこと(上記②)も、上記判断を支える事情といえる。
なお、原告は、上記普通預金口座の免責規定は、全国銀行協会の自主的ガイドラインの策定によって、遡及的に効力を失った、本件口座からの出金について原告の本人確認が必要であるなどと主張する。しかしながら、前者については独自の解釈というほかなく、後者についても前示のとおりであり、本件口座の通帳及び届出印を第三者に預けたことはその管理処分権を委ねたものとみられる上、預金名義人も自衛手段を執ることが可能であるほか、仮に、預金名義人と払戻請求書が異なっていたとしても、預金名義人の親族、勤務先等の関係者が預金名義人に代わって払戻請求を行うことは日常的に行われており、このような場合に通帳及び届出印の確認に加えて、本人確認が必要となるのはそれを疑わせるに足りる事情等が必要となるのが相当であるところ、上記で見た本件口座の通帳及び届出印の管理状況やそれを用いた本件出金が長期間に複数回にわたって積み重ねられたこと等に照らすと、そのような事情も見受けられず、被告の主張はいずれもこれを採用することができない。
第4結論
原告の請求は理由がない。
(裁判官 三重野真人)