甲府地方裁判所 昭和32年(ワ)107号 判決 1958年11月28日
原告 石井一郎
被告 山野春男 外一名 いずれも仮名
主文
原告の請求はこれを棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、被告等は連帯して原告に対し、金百二十万円及びこれに対する昭和三十二年五月二十九日より完済に至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告等の負担とするとの判決並に担保を条件とする仮執行の宣言を求め、
その請求の原因として、
原告は、昭和十七年十二月訴外庄野修の媒酌により被告両名と養子縁組の予約をなし、且その娘静と内縁関係を結び爾来被告方に同居し、家業たる料理業及び農業の手伝をして来たところ、被告春男は、甲府市内に情婦を持ち外泊することが多く被告花子との夫婦関係は円満を欠きとかく原告を冷遇したので原告は勢い飲酒するようになり、昭和二十六年一月頃酔余部屋の障子を毀す等の乱暴したことがあつたが原告は、これを陳謝しその後は酒を禁じ、謹慎の上、家業に従事してきたのである。ところが原告は、昭和三十一年七月頃悪質の糖尿病に罹り塩山病院に入院の上約四十日間加療して退院したが、その後も食餌療法を続けなければならなかつた為め、身心共に極度に衰弱し日常の活動さえ思うようにできなくなつてしまつた。しかるに被告等は、原告に対し充分な薬品も、食餌も与えずに冷遇虐待し、遂に娘静と共謀して原告を被告家より追い出そうと企て、原告を相手方として、昭和三十二年四月二十六日甲府地方裁判所に対し、婚姻予約解消確認並に建物退去請求の訴を提起し以つて、被告等は、原告との養子縁組予約を故なく破棄して履行しない。よつて被告等は原告に対し、連帯して、右予約不履行による損害を賠償しなければならない。
原告が被告等と養子縁組の予約を結んだ当時は、戦時中であつたので被告家の料理業は、閉業状態に等しかつたため、原告は実家の授助を受けて被告等の生計をたすけ、終戦後被告春男が、脱税事件により、金二千円の罰金に処せられたときは、原告に於て、右罰金を納めてやつた。かように原告は被告家のために尽してきたのに拘らず、今回故なく、縁組予約を破棄されてしまつたのであるが原告は現在病身である上何等の財産もないから、原告の蒙つた精神的苦痛はまことに甚大というべきである。ところで被告春男等は現在盛大に料理業を営み、約金一千万円の資産を有し、その年収は金百万円を下らない。よつてこれ等の事情を考慮すれば、原告の右精神的苦痛を慰藉するため被告等が原告に支払うべき慰藉料は金百二十万円を以て相当とする。よつて被告等に対し、連帯して慰藉料金百二十万円及びこれに対する本件訴状が被告等に送達された日の翌日である昭和三十二年五月二十九日以降完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴請求に及んだと陳述し、被告等の主張に対し、同主張事実中、被告等が昭和二十六年一月頃原告を相手方として、養子縁組予約解消の調停の申立をなし、右調停進行中原告が被告等に陳謝し且つ、酒を戒め行状を慎む旨の誓約をしたこと及び被告等及び山野静が原告を相手方として、被告等主張の日同主張の如き調停の申立をしたことは認めるがその余の主張事実は総て争う。本件予約が不履行となつた責任は凡て被告等に存するのである。即ち前記の如く原告は昭和二十六年一月中酔余障子を毀す等の乱暴をしたことがあるがそれは、その頃被告春男が情婦を持ち外泊勝ちで被告花子との間に円満を欠き且内縁の妻である山野静にも素行上面白くない行状があり、それがもとで原告はその頃失意の余り飲酒するようになり、酔余前記の如き乱暴をしてしまつたのであるから、その原因は、むしろ被告等に存し、原告にはない。しかも原告はこれを陳謝し、事態は円満に納つたものであるから、右行為は予約破棄の原因とはならない。その後原告はひたすら謹慎し、一滴の酒も口にしなかつたのであつて被告等主張の如く飲酒の上被告花子を殴打傷害した事実はない。また昭和三十二年三月五日山野静が負傷したことがあるがそれは後記事情の下に負傷するに至つたものでその責は原告に存しない。即ち。原告は昭和三十一年六月中糖尿病に罹り約四十日間塩山病院に入院し、その間静の看病を受けたが、退院後も病勢は一進一退して全治せず、漸次身心が衰弱し、それにつれて、性慾も減退して行つた。すると、静は他に情夫を持ち昭和三十一年十二月以降数回に亘つて、情夫と共に外泊し、又は自宅に情夫を招き入れて同衾する等目に余る行状があつたのである。ところでたまたま昭和三十二年三月五日、静は訴外松田岩雄方の病気見舞に藉口して、情夫と密会しようと企てたので原告はこれを妨止しようとしたところ、静はハンドバツクを持つて逃げ出そうとした。そこで原告がそのハンドバツクを奪取しようとして静と争つているときたまたま原告の左肘が、静の鼻柱にあたり鼻血が流出したので、これに興奮した静は原告に飛びつきざま両手で原告の右手甲を掻き、且つ睾丸を握り締めたから、原告は苦痛に堪えかねこれを阻止しようとして、平手で静の頬を殴打中たまたま女中二名が駈けつけて来て静を制止してくれたので争は納つたのである。それにより原告も亦右手甲十三ケ所に裂傷、睾丸副睾丸に挫傷等全治一週間を要する傷害を受けたのであるから、静の負傷の責は静自身に存するのである。その後原告の病状が悪化したが、被告等は全く原告を見捨てて顧みず、静も同日以降家出し情夫と共に転々として外泊して戻らず、妊娠するに至つたのであるから養子縁組の予約不履行の責は、原告に存しないのであると述べ、
立証として、
甲第一号証乃至同第七号証を提出し証人田中実同長利正武同平岡照子同古賀留雄の証言並に原告本人尋問の結果を援用し、乙第一号証の成立は不知と述べた。
被告訴訟代理人は主文と同旨の判決を求め、
答弁として、
被告等が、訴外庄野修の媒酌により昭和十七年十二月中原告と養子縁組の予約をなし、娘静は原告と婚姻を予約し、爾来原告は、事実上の養子又は内縁の夫として被告等と同居し、家業たる料理業並に農業を手伝つてきたこと。しかるところ原告は昭和二十六年一月頃飲酒の上、乱暴したこと、原告は同主張の頃塩山病院に入院加療したこと。及び被告山野春男が原告を相手方として、甲府地方裁判所に対し、被告家より退去を求むる訴を提起するに至つたことは認めるがその余の主張事実は争う被告等が原告に対し、縁組予約解消の意思表示をなし以て右予約を破棄した日は、被告等が原告を相手方として、甲府家庭裁判所に対し養子縁組予約解消の調停を申立てた昭和三十二年三月七日である。しかし、被告等が右の如く原告との養子縁組の予約を破棄し、右予約を履行しない原因は後記のとおり専ら原告にあるのであるから、被告等は右予約不履行による損害賠償義務を負担しない。即ち、被告等は、原告と婿養子縁組の予約を結んで以来原告を被告家に同居させてきたのであるが原告は昼夜をわかたず飲酒暴行し、少しも働かず、手におえなかつたので、被告等は昭和二十六年一月中原告を相手方として、甲府家庭裁判所に対し、養子縁組解消の調停の申立をなしたが原告は右調停に於て、禁酒すること及び再び非行を重ねた場合には如何なる処置を受けても異存はない旨を誓い且つ誓約書を差入れたのでことずみとなつたのである。しかるに原告は、自省するところがなく、再び飲酒を続け、昭和二十八年十月中被告山野花子を殴打し、髪の毛をつかみ頭を蹴る等の暴行をしたので同被告は塩山病院に入院加療しなければならなかつた。そこで同被告は、原告を傷害罪で告訴したが原告はひたすら陳謝したので起訴は免れることができた。ところが、原告は昭和三十二年三月五日、内縁の妻山野静が松田よしの病気見舞に行くため、身仕度中、突然静の頭髪を左手でつかみ、右手で同人の顔面を殴打し、鼻柱両眼の間に二、三ケ所、更に口唇、下顎等にも傷害を与えたため、静は出血多量で、塩山病院に入院治療するに至つた。しかして静は同月六日原告を傷害罪を以て塩山警察署に告訴した。そこで、被告等及び娘静は、同年三月七日、原告との養子縁組又は婚姻予約解消を求めるため、甲府家庭裁判所に調停の申立をなし、被告等は原告に対し、養子縁組予約を履行する意思のないことを表明して、右予約を破棄するに至つたのであるからその責は凡て、原告にある。従つて、被告等は原告に対し、予約不履行による損害賠償義務を負担しないのである。と述べ、
立証として
乙第一号証を提出し、証人中原うめ子、同山野静の証言、被告山野花子、同山野春男本人尋問の結果を援用し甲第三、四、七号証の成立は認めるが、その余の甲号各証の成立はいずれも不知、同第五、六号証は、訴訟提起後に作成された私文書であるからいずれも証拠能力を有しないと述べた。
理由
原告は昭和十七年十二月頃訴外庄野修の謀酌により被告両名と養子縁組の予約をすると同時にその娘山野静と婚姻を予約し、爾来事実上の養子及び内縁の夫として被告家に迎えられ被告等その娘静と同棲し被告家の家業たる料理業並に農業に従事してきたものであることは当事者間に争がない。
右事実及被告等本人尋問の結果によると、原告と被告等及びその娘静との間に成立した共同生活関係は、いわゆる婿養子縁組の予約の下に成立した事実上の婿養子縁組関係と認めるのを相当とする。ところで婿養子制度は昭和二十二年法律第二二二号民法の一部を改正する法律施行により改正廃止され、改正後の現行民法(以下新法、改正前の法律を旧法と称する)には存しないが、新法の下に於ても養親と養子とが養子縁組をすると同時に養親の娘と養子とが婚姻をなし、且つ縁組と婚姻とを互に他の成立を条件として成立させることは何等妨げないところであるから、旧法当時婿養子縁組の予約をした者は、新法施行後に於ては通常の養子縁組と婚姻とを同時に互に他の成立を条件として成立させるべき義務を負うものと解される。従つて、旧法当時婿養子縁組の予約をした原告、被告並にその娘静も、新法の下に於ては、右説示と同様の義務を負担するものというべきである。従つて、右予約の当事者が正当の事由なくして右予約を破棄して履行しないときは、予約不履行の責を免れ得ない。ところで被告等及び静は昭和三十二年三七月日甲府家庭裁判所に対し、原告を相手方として、縁組並に婚姻予約解消の申立をなし、以て予約履行の意思なきことを表明したことは当事者間に争がないから、本件婿養子縁組予約は同日被告等及び静によつて、破棄され、同日限り予約不履行となつたことが認められる。よつて右予約を破棄した被告等に、本件予約を破棄すべき正当の事由があつたかどうかにつき判断するに、婿養子縁組の予約の下に、共同生活が開始された場合であつても将来縁組並に婚姻が同時に成立することの期待しがたい重大な事情が発生した場合には右事由はその発生につき責を有しない予約者に取つては予約を破棄すべき正当の事由と解するのを相当とする。
よつて本件につき考えるに、成立に争のない甲第四号証、原告本人尋問の結果により成立が認められる同第一、二号証、証人山野静の証言により成立が認められる乙第一号証、証人田中実、同長利正武、同平岡昭子、同古賀留雄、同中原うめ子、同山野静の各証言並に原被告本人尋問の結果(但し甲第四号証の記載並に以上の各証言及び原被告本人尋問の結果中後記措信しない部分を除く)を綜合すると、原告と被告等並に静とが前認定の如く、婿養子縁組の予約をなし、原告を事実上の婿養子として被告家に迎え入れ、四者共同の生活が開始されるに至つた直接の動機は、静が原告と恋愛関係に陥り、家出騒ぎを起したことによるものであつて、被告等は当初より原告を静の婿とすることを望んでいたわけでなかつたところ、原告は予約成立当初から、健康に勝れなかつたので、被告等は予約当初より、原告に対し、好感を持つていなかつたこと。しかし原告と静との内縁関係は、恋愛に基くものであつただけに当初の二人の仲は睦じく円満であつたので、被告等との間にもこれという風波はなかつたが原告は生来の好酒家であつたから間もなく飲酒に耽り、もともと酒乱の傾向があつたため酒を飲むと、些細のことで立腹し、静を殴つたり器物を投げたり壊したり乱暴な振舞をするようになり、勢い被告等をして、将来原告を法律上の養子となし且静の夫とすることにつき不安の念を募らせつつあつたが、原告の行状は、依然として改まらなかつたので、右行状にたまりかねた被告春男は遂に原告との縁組予約解消を決意し昭和二十六年一月甲府家庭裁判所に対し、原告を相手方として養子縁組予約解消の調停の申立をするに至つたこと。しかし原告は改心を契い静も縁組予約の解消を思いとゞまるように懇請したので、同被告は予約解消を思いとゞまつたため一応ことなきを得たこと、ところがその後も原告の行状は改まらず、飲酒しては、静と喧嘩し、同人を殴打する等の暴行をくりかえしていたが、昭和二十八年頃のある日原告が飲酒の上、静を殴打したことがあり、その際被告花子がこれを制止しようとしたところ原告は、これに立腹して同被告に対し暴行を加えたので同被告は原告を傷害罪を以て所轄警察署に告訴するにいたつたこと。しかし係官から宥められ原告も陳謝したので右告訴は取り下げられたこと。かように原告の理性に欠けた行状のため、被告等と、その娘静と原告との間に成立した事実上の婿養子縁組関係はしばしば破局に瀕したけれども未だ破綻するに至らず、破綻するかどうかは一にかかつて将来の原告の行状如何に俟つ状態になつたところ原告はその後、酒と行状を慎しんだため昭和三十二年三月頃まで、数年間静と、通常の内縁関係を結び被告等との間もさしたる風波もなく過すことができたこと。しかるところ、原告は縁組予約成立当時から、健康に優れず健康体である静に対し、性的満足を与えるだけの体力と技巧とを有しなかつたところ、昭和三十一年六月下旬頃背中に瘍ができて塩山病院で手術を受け約四十日間入院加療し、昭和三十二年一月ようやく全治することができたが、次いで、糖尿病を患い、仲々全治せず永らく食餌療法をつゞけなければならなかつたため、体力も次第に衰え、それにつれて、静の性的不満も次第に高まつて行つたこと。また静は原告と十数年間も同棲しているのにまだ懐胎できず日頃子供を欲しがつていたが、たまたま昭和三十一年六月頃婦人科医師某の診断を乞うたところ静は妊娠可能の身であるから不妊の原因は原告にあると診断されたのでその頃人工受精をしてでも妊娠したい気持に襲われたこと。かかる事情の下におかれた静は病弱で、性的能力に弱く且つ子供を産む希望の持てない原告との生活にようやく不満と嫌怠を感ずるようになり、次第に他の男性を求める心情に駈られその頃知合つた婦人科医某と通じ、次いで村山某と情交を結び、一途に不倫な愛慾を求めて、原告を顧みず昭和三十二年三月頃には原告にしのんで外泊し、村山との逢う瀬をたのしむようになつてしまつたこと。間もなく原告はかかる静の不倫な行為を感付いたが、見てみぬふりをして、過してきたところ、同年三月五日静が病気見舞に出かけると言つて外出しようとしたので、原告は静は病気見舞に藉口して、村山某と密会するのであると判断し、外出を阻止するため、静めハンドバツクを奪おうとして同人とつかみ合の喧嘩となり、互に負傷するに至り、静はこれを口実にして、実家を去り、翌六日原告を傷害罪を以て告訴し次いで同月七日被告春男と静とは、原告を相手方として、先ず甲府家庭裁判所に対し、縁組及び婚姻の予約解消並に建物退去の調停を申立て、該調停が不調になるや甲府地方裁判所に対し縁組及び婚姻予約解消確認並に建物退去の為の訴を提起するに至つたこと、一方同年三月五日被告家を去つた静は、その後被告花子の実家等に宿泊して原告と同居することを避け、やがて立川市富士見町に借家して暮していたが、その間に他の男子の胤を宿し昭和三十三年二月頃男児を分娩するに至つたこと。及び、被告等は目下原告に対し同家よりの退去を求めているが原告は、被告等が相当の慰藉料を支払うまでは、退去しないと争い目下互に反目しながら同一建物に生活している状態であつて、原被告いずれの側にも将来法律上の養子縁組をなすべき期待は既に全く存しないことが認められる。しかして前掲甲第四号証の記載及び各証言並に原被告本人尋問の結果中上記認定に抵触する記載並に供述部分はたやすく措信し難く、他に右認定を覆すべき証拠はない。
以上認定の事実を綜合すると、原告と被告等及その娘静とは、婿養子縁組を予約し、事実上の婿養子縁組を開始したのであるが、昭和三十二年三月五日原告と静との内縁関係が破綻するに至つたため、被告等も亦原告との縁組予約を破棄するに至つたものであるところ、原告と静との内縁関係が破綻するに至つた主たる原因が被告等の娘静の不倫な行為に存し、その責は静にあることが認められるけれども被告等の責に帰すべき事由により破綻するに至つたことは認められない。かように原告と静との内縁関係が既に破綻し、将来養子縁組と婚姻とが、同時に成立すべき期待が喪失した以上、右事態は正しく被告等に取り、原告と養子縁組をなしがたい重大な事情に該当するものということができるから被告等には本件予約を破棄すべき正当の事由が存したものということができる。従つて被告等は本件予約不履行の責を負わない。尤も原告本人尋問の結果によると、被告等は原告を虐待し、且つ静と村山とが不倫な関係を結ぶことを奨励していた旨の供述があるが、右供述部分も亦たやすく措信しがたく、他に前記認定を覆し、被告等に縁組予約不履行の責あることを認むべき証拠は存しない。
よつて、被告等に予約不履行の責あることを前提とする本訴請求は爾余の争点につき判断するまでもなく理由がないから、失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 野口仲治)