盛岡地方裁判所 平成13年(わ)223号 判決 2002年9月11日
主文
被告人を懲役8年に処する。
未決勾留日数中180日をその刑に算入する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は,平成13年11月24日午後7時ころ,岩手県水沢市a町b丁目c番地所在のスナック「A」店内において,内縁関係にあった同店経営者B(当時44歳)に対し,Bが男性と交際しているのではないかと問い質そうとしたところ,興奮したBが包丁(刃体の長さ約17センチメートル)を振り回し,さらに両手で包丁を持って自分の胸付近に刃先を向けたため,これを制止しようとして,カウンター内にいたBの近くに駆け寄り,その両肩を両手で押さえた際,足を前に滑らせ,Bの肩を掴んだまま,後ろに転倒し,Bの前胸部に包丁が突き刺さってしまった。
被告人は,すぐにその包丁を引き抜いたが,Bが大声をあげて助けを求め,暴れ出すのを見て,Bは自分に刺されたものと誤解しており,自分以外の者に助けを求めているのだと感じ,さらに,Bはもう自分のことを愛していないのだなどと思うと,急にBへの憎しみがわき上がるなどし,とっさにBを殺害しようと決意し,Bの上に馬乗りになり,右手に持った包丁をBの頭部,顔面,頚部,左肩部などに多数回振り下ろして斬りつけるなどした上,さらに這って逃げようとするBの後頭部を数回斬りつけるなどし,よって,同日午後8時ころ,Bを頚部刺創及び顔面,頭部刺切創等に基づく失血により死亡させて殺害したものである。
(事実認定の補足説明)
1 弁護人は,①被告人の斬りつける行為と被害者の死亡との間には因果関係がない旨,②被告人は,斬りつける行為に及ぶ際,被害者を殺害しようと意図したことも,死に至るだろうとの認識もなく,殺意がなかった旨主張し,被告人も当公判廷で殺意がなかった旨供述するので,以下これらの点について判断する。
2 関係各証拠によれば,以下のとおりの事実を認めることができ,被告人も捜査及び公判を通じて概ねこの事実を認めている。
(1) 被告人と被害者は,内縁の夫婦関係にあり,被害者は判示のスナック「A」を経営していたところ,店の常連客として出入りしていたCと親しくなり,平成13年11月22日から24日まで2人で旅行に出かけていたが,被告人はこれを知らず,その間,スナックで被害者の帰りを待っていたところ,同日午後7時ころ被害者がスナックに現れ,スナックのカウンター内で食器の水洗いを始めたため,被告人は,被害者のこの間の行き先や相手を問い質したが,被害者がこれに答えず,さらに被告人が,2人が旅行していた間にCの妻をスナックに呼び出した旨話したところ,被害者は興奮して,判示の包丁を持ち,頭上に掲げ振り回すなどした。
(2) 被害者は,カウンター内で興奮して包丁を振り回しながら,「別れたいなら別れてやる,殺すなら殺せ。」などと言っていたため,被告人は,包丁を取り上げようとして,カウンター内に入ろうとしたところ,被害者は,包丁を両手で持ち,その刃先を被害者自身の胸付近に突き付けた。危ないと思った被告人は,被害者に駆け寄り,両手で被害者の正面からその両肩を掴んだところ,足を前に滑らせ,被害者の肩を掴んだまま自分の方へ引っ張り込む形で転倒し,カウンター内で被告人が床に仰向けになり,その上に被害者が覆い被さる形になり,そのため,被害者の前胸部に包丁が突き刺さった。
(3) 被告人は,自分の上に乗っている被害者の身体をよけて仰向けにし,被害者の前胸部に突き刺さっていた包丁を両手で抜いたところ,被害者が大声で「助けて。」などと叫び,足をバタバタさせて暴れ,騒いだので,被告人は,包丁を右手で逆手に持ち,床に仰向けになっていた被害者の膝付近の上に馬乗りになり,左手でその右肩付近を押さえたり,被害者の手を払ったりしながら,その顔,肩,首付近に包丁を多数回振り下ろした。
(4) 被害者は,両手を前に出して防いだり,包丁を取ろうとして刃の部分などを掴んだりしていたが,やがて抵抗を止め,仰向けから俯せに反転し,這ってカウンターの外に逃げようとした。その後,通路に出た被害者は,ブラインドカーテンに手をかけたが,力尽きて放した。また,その間,被告人は,カウンター内への入口付近にある照明のスイッチを消した。
(5) 被害者は這いつくばりながら,玄関付近まで逃げたところで力尽きたので,被告人は包丁を手放した。被告人は,被害者の両脇に手を入れて,引きずって店内奥まで運び,その身体を持ち上げてソファーに寝かせようとしたが,ソファーに乗せることができず,結局,床に寝かせた上で,被害者に布団を掛けた。その後,自分も死のうと包丁を探したが,これを探し出せなかったので,持病の治療用に持っていたインシュリンを数本注射し,錠剤を10錠服用して,意識を失った。
(6) 被害者の顕著な創傷として,以下のものが認められる。
ア 胸腹部の心窩部には,創口1.8センチメートル,創洞長約13センチメートルの刺創があり,第7肋骨を切断し,肝左葉を貫き,左副腎前の後腹膜に達している。(以下この創傷を「肝刺創」という。)
イ 頭部には,左側頭部の左耳介付着部の前の部分から斜前上方に向けて1.8センチメートルの創と,これに引き続き上前方向に向けて4センチメートルの創があり,創底が皮下軟部組織にある。また左側頭部の左耳の上に1.1センチメートルの皮膚に止まる創がある。
ウ 後頭部には,中心からやや左側に4.4センチメートルの創があり,創底は皮下軟部組織にある。頭頂部付近左側から左下に向けて7.3センチメートルの創があり,創底は頭蓋骨にある。頭頂部左側で左耳の上方に1.4センチメートルの創があり,創底は頭蓋骨にある。
エ 顔面には,左頬部に3.2センチメートルの創があり,創底は皮下軟部組織にある。右下顎角部に4.3センチメートルの創があり,創洞は右側頚部に向かい,下顎骨外縁を下進し,右総頚動脈分岐部下に胡麻粒大の創を作り,これを貫き,同動脈の内壁に0.8センチメートルの創を作っているもので,創洞長約6.5センチメートルになる(以下この創傷を「頚動脈損傷」という。)。
オ 頚部には,前頚部左側に3センチメートルの創があり,創口が1センチメートル開いており,創底は左胸鎖乳突筋内にある。
カ 頚部には,また,左側頚部で左耳下に2.6センチメートルの創があり,創底は皮下軟部組織にある。
キ 左肩関節部には,肩峰部に5.4センチメートルの創があり,創口が1.8センチメートル開き,創底は軟部組織にあり,この創から数個の創が派生している。また,左肩関節部肩峰部の腕の方に2.7センチメートルの創があり,創口が0.9センチメートル開き,創底は皮下軟部組織にある。
(7) 被告人が被害者に振り下ろしあるいは斬りつけた包丁は,洋出刃包丁の形状を呈し,全長約28.5センチメートル,刃体の長さ約17センチメートル,最大幅約4.6センチメートルの金属製の刃物である。
3 ところで,被告人がカウンター内で仰向けになった被害者に馬乗りになって包丁を振り下ろしてから攻撃を止めるまでの状況について,被告人は,捜査段階及び犯行再現の検証調書においては,被害者に馬乗りになって,被害者を左手で押さえつけ,被害者の頭,肩,首を数回突き刺し,カウンター内から通路の方へ俯せになって逃げようとする被害者を押さえつけ,後頭部,肩部に斬りつけた旨供述,指示するが,当公判廷においては,カウンター内で仰向けに倒れている被害者に包丁を振り下ろしたが,それは騒いでいる被害者を静かにさせるためで,被害者を傷つけるつもりはなく,その後,勢いで俯せに体勢を変更した被害者に包丁を振り下ろしたが,それ以外に攻撃を加えた記憶がない旨供述するので,検討する。
被害者の創傷の状況は,上記2(6)のとおりであって,肝刺創は,上記2(2)の被告人と被害者が転倒した際に生じたものと認められるが,頭部の左側頭部のイの創,顔面の左頬部の創及び頚動脈損傷,頚部のオの創,左肩関節部のキの創は,創端の形状が後創端が鈍,前創端が鋭であることから,包丁を逆手に持って振り下ろした場合に生じたものと認められ,後頭部のウの創は,創端がいずれも鋭であることから,包丁で斬りつけた際に生じたものと認められ,頚部の左側頚部のカの創は,創端が胸方向が鈍で背中側が鋭であることから,背後から包丁を振り下ろしたものと認められる。また,頚動脈損傷の創は,創洞の長さが約6.5センチメートルであり,相当の勢いで包丁を振り下ろしたことにより生じたものと認められ,その他の創傷も頭蓋骨に達しあるいは,皮下軟部組織に達しているのであるから,相当程度の力で包丁を振り下ろし,あるいは斬りつけたことにより生じさせたものと認められる。身体に傷つけないように力を加減して包丁を振り下ろし,あるいは斬りつけた場合に生じる程度の創傷ではない。後頭部に対する創傷も,その程度が頭蓋骨に達するもので,軽微な創傷とはいえないところ,後頭部の創傷が3か所あり,これらは,いずれも背後から斬りつけた際に生じたものであり,頚部のカの創も,背後から攻撃したことにより生じたものであり,これら背後から攻撃したと認められる創が複数あることからすると,被害者が体勢を変えた際に偶然生じたものではなく,被害者が俯せになって逃げようとした際に背後から攻撃した際に生じたものと認められる。
以上のとおり,創傷の状況は,被告人の捜査段階の供述及び犯行再現の検証において,被告人が被害者に対し包丁を振り下ろしあるいは斬りつけたとする供述及び指示と符合するのであって,これら供述及び指示は信用することができ,以上によれば,被告人は,仰向けの被害者に対し,包丁を相当程度の力で多数回振り下ろし,さらに俯せになって逃げる被害者の背後から包丁を斬りつけ,振り下ろしたものと認めることができる。この点に関する被告人の当公判廷における供述は,信用できない。
4 因果関係について
弁護人は,鑑定人医師D作成の鑑定書の結論は,死因を肝刺創による失血とするものであり,被害者には肝刺創後に被告人の所為による創傷があるが,D医師によれば,この創傷が失血死にどの程度関与したか科学的所見が明かでなく,頚部損傷は,無条件的に致命的な損傷とはいえないとするものであり,被告人の所為と被害者の死との間には因果関係がない旨主張する。
医師Dは,鑑定書の「説明」において,「この創(肝刺創のこと)の創洞は肝左葉を貫いており,これより大量の出血をきたしたと認められる。」,「したがって本屍は肝刺創により失血死した可能性が考えられる。」とし,さらに「本屍にはこのほかに下顎右側から右総頚動脈に達する創(頚動脈損傷のこと)が認められる。動脈を損傷しているのでここからも相当量の出血があった可能性があるが,創自体は特に外膜側においては胡麻粒大と小さく,この創より無条件に致死量に達する出血が生ずるとは必ずしも考えられず,肝刺創に比すれば本屍の死に対する関与度は低かったと考えられる。ただし,この創及び血管の豊富な頭部・顔面の創からの出血はある程度の量に達していると考えられ,失血の過程をある程度早めたと推測される。」とするところであり,第2回公判において,頚動脈損傷は,姿勢により傷が外から塞がれて止血する可能性もあるので,無条件に致死的な出血を起こすとはいえないとするが,第5回公判においては,犯行再現の検証調書及び現場の写真撮影報告書,現場の血だまりの状況を検討した上で,被告人が被害者に対し包丁を振り下ろすあるいは斬りつける状況においては,その姿勢から頚動脈が閉塞していた可能性はなく,血だまりの状況から頚動脈損傷からある程度の量の血が出血していたとし,失血の原因としては,頚動脈からの出血も含まれるとする。
ところで,失血死とは,出血量がある程度以上に達して,酸素を供給するために循環している血液がその役割を果たせない状態になり,死亡するというものであるから,身体の枢要部あるいは血流の豊富な部分に創傷があって,その創傷から循環する血液が相当量失血すれば,これにより血流が欠乏していくものであり,創傷が致死の原因を与えていることになるといえる。本件においては,失血の原因としては,肝刺創によるものが最も寄与度が高いが,被告人の行為に起因する創傷である2の(6)のイないしキの部位は,顔面,頭部,頚部であって,比較的血管が豊富な部位であることから,失血の過程において,その程度や量は定量化できないものの,これらの部位からもある程度の出血があったこと,特に頚動脈損傷については,被害者が発見された際,右下顎部の刺創部分に凝血が認められることから,相当量の出血があったことが認められる。
以上からすれば,被告人の行為による創傷は,失血死の唯一かつ直接の原因ではないものの,被告人の行為による創傷により失血死がある程度早まったものであるから,被害者の失血死に寄与しているもの,すなわち致死の原因をなしているものということができる。したがって,被告人の行為と被害者死亡の結果との間には因果関係が存在すると認められる。
5 殺意について
(1) 被告人の被害者に対する包丁の振り下ろし及び斬りつけ行為は,上記の2,3で認定のとおりであるところ,被告人が被害者を攻撃するのに使用した包丁は,当初興奮した被害者が持ち出したもので,被告人が手にするに至ったのは偶然の経過ではあるものの,被告人自身被害者が手にしていた包丁を見て危ないとして止めに入っているのであり,その性能が人を殺傷するに充分なものであることは,充分に認識していたものであり,その攻撃の態様も被害者の防御を封じながら,被害者の身体の枢要部である,頭部,顔面,頚部に一方的にかつ執拗に攻撃を加えているのであり,その程度も,右下顎部の刺創が創洞の長さが6.5センチメートルにも達しているほか決して軽度とはいえない態様のものであることからすれば,被告人が本件犯行に際し,未必の殺意を抱いていたことを充分肯定することができる。
(2) 次いで確定的殺意の有無について検討すると,被告人は,被害者の前胸部に深く包丁が突き刺さっていることを認識していたのであるから,これにより被害者が重篤な傷害を負ったことも充分に認識しえていたはずであり,このような状況において,通常であれば,当然,被害者を助けるための行動をとるはずであるにもかかわらず,被告人は,かえって,前記のとおりの一方的かつ執拗な攻撃を加えていることからすると,自己の攻撃が被害者の死を招くものであることを認識していたと考えるのが相当である。そして,被告人が被害者に攻撃を加えた状況は,上記に2の(3)で認定のとおり,被告人が,仰向けになった被害者に突き刺さっていた包丁を抜いたところ,被害者が大声で助けてと叫び,足をバタバタさせて暴れるなどして騒ぐや,被害者の上に馬乗りになって,左手で被害者の手を払いのけたり,右肩を押さえつけるなどしながら,包丁を振り下ろし,さらに,俯せになって逃げようとする被害者の背後から後頭部等を斬りつけるなど,被害者からの侵襲により受動的な体勢にあるのでなく,終始,被害者に対して優位な体勢にあって,被害者に対する攻撃の有無を考慮できる立場にあったものであるから,被告人が被害者に攻撃を加えている際に,無我夢中で視野狭窄の状態になるなどして攻撃の状況を認識できなかったとは考えがたい。この点,被告人は,カウンター内で攻撃に及んだ後,被害者がカウンター内から這い出て逃げるのを追って出る際,カウンター入口壁にある照明のスイッチに手を伸ばして,これを消しているのであり,これは,外部の人間に事件が発生していることを知られないようにすることを意図したものと考えるのが相当であり,被告人は,攻撃の途中においても比較的合理的な判断をしていたことが認められる。
そうすると,被告人は,被害者が既に重篤な傷害を負っていることを認識した上で,自己の攻撃が被害者の死を招くものであることを知りながら,多数回包丁を振り下ろしまたは斬りつけたものであることからすれば,被告人が,被害者に対する確定的殺意を有していたことを推認することができる。
(3) 動機について
次に,殺意を抱くに至った動機についてみると,被告人は,捜査段階において,「被害者が自分以外の者に対して助けを求めるような声を出しているので,今まで俺がこのくらい愛しているのに何騒いでいるんだ,Bは俺のことをもう愛していないんだ,今までこの店で心配しながら待っていた俺の気持ちが分からないのかと思うと,Bに対する憎しみがわいてきた。そして,私は,殺して俺だけのものにしてやると思った。」などと殺害の動機について述べている。
この供述は,被告人が,被害者が数日間出かけたまま帰らずにいたため,夜逃げしたのではないか,他の男性と一緒にいるのではないかなどと心配し,被害者の浮気を確信した後も,その男性に唆されているのだから,別れさせるように説得しなければならないと考えながら,その帰りを待ち続けていたこと,帰ってきた被害者は,被告人から浮気を問い質されるや,かえって,ガス台などを叩いて怒り出し,包丁を振り回したので,被告人は,何で自分勝手なことを言っているんだと思ったことなど,被告人が述べている本件犯行直前の経験にも合致するものであり,このような事情を前提にすれば,被告人の被害者への愛情が憎しみ等の感情へ転化することも,動機として充分に了解可能ということができる。
これに対し,被告人は,殺意の点につき,当公判廷において,「とにかく静かにしてほしかっただけで,逆に被害者から包丁を取り上げられそうにもなったので,包丁を振り回すようにしただけであり,被害者を殺そうと思ったわけではない。」旨供述し,捜査段階での供述は仮定の質問に対して答えたものにすぎない旨供述している。
しかしながら,被告人は,被害者に静かにするよう,又は落ち着くよう大声で呼びかけたり,口を塞ぐなど,被害者を落ち着かせるために当然予想されるべき行動をとったとは認められず,また,前記のとおりの被告人の一方的かつ執拗な攻撃は,相手が重傷を負った女性でかつ自分が優位な体勢にあったことを考えれば,包丁を取り上げられることを防ぐためのものとは考えられず,これらの事情からすると,被告人の供述はそれ自体不自然であるといわざるをえない。
よって,被告人の殺意に関する当公判廷における供述は信用することができない。
(4) 以上のとおりであって,殺害行為の状況から被告人が被害者に対して確定的殺意を抱いたことを推認することができる上,被告人が被害者に殺意を抱くに至った動機についても肯認することができるから,被告人が被害者に対して確定的殺意を抱いたことが認められる。
(法令の適用)
被告人の判示所為は,刑法199条に該当するところ,所定刑中有期懲役刑を選択し,その所定刑期の範囲内で被告人を懲役8年に処し,同法21条を適用して未決勾留日数中180日をその刑に算入し,訴訟費用については刑事訴訟法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は,本件犯行当時,被告人は,突然の事故に狼狽し,正常な判断を下すことが困難な状況下において,本件犯行に及んだものであって,心神耗弱の状態にあった旨主張する。しかしながら,本件犯行の動機は了解可能なものであり,捜査段階においては犯行状況について概ね明確に供述していること,本件犯行前後の行動についてもいずれも了解可能なものであって,不自然な点はないことなどからすれば,本件犯行当時,被告人が心神耗弱の状態になかったことは明かである。
よって,弁護人の主張は採用できない。
(量刑の理由)
本件は,被告人が,被害者である内妻と話し合っているうちに,被害者が興奮して包丁を持ち出したため,これを制止しようとしたところ,誤って転倒して被害者の前胸部に包丁が刺さり,これを引き抜いたが,被害者が大声をあげて騒いだことから,殺意をもって,その頭部,顔面,頚部等を包丁で多数回斬りつけるなどして,被害者を失血死させたという殺人の事案である。
その犯行に至る経緯及び動機は以下のとおりである。
被告人は,20歳のころ被害者と交際していたが,別れて,それぞれ結婚して別々の家庭生活を営んでいたが,平成11年4月ころに再会してから再び交際するようになり,同年11月には互いに離婚して交際を深め,平成13年3月には,被告人が資金を援助して,被害者が本件犯行現場となったスナックを開業し,平成14年春には入籍する予定でいたところ,被害者がスナックで夜の仕事をし,被告人の仕事が忙しくなったことなどから,やがてその関係も円滑さを欠くようになり,平成13年8月ころから,被害者はスナックの常連客と交際するようになった。そして,同年11月22日から3日間被害者とスナックの常連客は旅行に出かけたため,被告人は,この間スナックで待っていたが,スナックの常連客の妻に聞くなどして,この事実を突き止め,戻ってきたらそのことを問い質し,説得して別れさせようなどと考えながら,スナックに泊まるなどして,被害者の帰りを待ち続けていた。その後,戻った被害者に問い質そうとしたところ,被害者が逆上して包丁を持ち出したため,判示のとおり被害者を殺害するに至ったものである。
このように,被告人が,いかに被害者の男性関係を心配していた経緯があったにせよ,愛情が通じず,被害者の気持ちが自分から離れたと感じるや,これを一転させて被害者を殺害しようと決意したというのは,自己中心的であり,しかも,ここで被告人が冷静さを保ち,直ちに救急車を呼んでいれば,被害者を救命できた可能性もあったことからすれば,誠に短絡的であったというほかなく,非難を免れない。
犯行態様は,被害者は前胸部に包丁が突き刺さって重篤な傷害を負い,大声で助けを求めたにもかかわらず,被告人はその願いを聞き入れず,仰向けに倒れた被害者に馬乗りになった体勢から,その顔面,頭部,頚部に包丁を多数回振り下ろし,さらに這って逃げようとする被害者を後方から数回斬りつけ,一方的かつ執拗なものであって,残虐かつ無慈悲なものである。
被害者は,助けの声も無視されて,被告人に斬りつけられ,恐怖感,絶望感を味わいながら,無惨な姿で死を迎える結果となったものであり,44歳の若さで人生の最期を迎えることになった無念さなど,その心情は察するに余りある。そして,被害者の兄は,被告人に対し,「憎い。」,「許せない。」などと述べ,その娘も,「被告人を一生恨み続ける。」などと述べて,それぞれに怒りを露わにしているが,けだし当然である。
以上によれば,被告人の刑事責任は重いといわなければならない。
しかしながら,被告人は,あくまで被害者と穏やかに話し合うつもりであったのに,被害者が逆上して包丁を持ち出し,これを諫めようとしたため,転倒して胸に包丁が突き刺さったことが契機となって,殺意を抱くに至ったものであって,被害者の軽率な行為や偶然の事故が事件の発端となっており,その経緯には酌量の余地があること,被害者が死亡したのは,このような偶然の事故により生じた肝刺創が大きく寄与していると考えられること,被告人は,当公判廷において,殺意の点を否認したものの,「自分が逮捕されることなんて考えないで,助けを求めていればよかった。」,「助けられなかったことを一番後悔している。」などと述べて,相応の反省の情を示し,さらに,毎日写経をして,被害者の冥福を祈っていること,被害者の兄らに対して手紙を出し,謝罪の意思を示していること,これまで前科前歴がないことなど被告人のために斟酌すべき事情を考慮し,主文のとおり量刑した。
よって,主文のとおり判決する。
(求刑-懲役12年)
(裁判長裁判官 卯木誠 裁判官 遠藤東路 裁判官 菊池浩也)