盛岡地方裁判所 平成23年(行ウ)3号 判決 2012年2月10日
甲事件原告・乙事件被告
X1
甲事件原告・乙事件被告
有限会社X2
上記2名訴訟代理人弁護士
平尾正樹
甲事件被告・乙事件原告
奥州市
同代表者市長
A
同訴訟代理人弁護士
吉田瑞彦
主文
1 岩手県収用委員会が原告X1及び原告会社のためにした平成22年3月19日付け損失補償裁決を取り消す。
2 被告の原告X1及び原告会社に対する各損失補償金支払債務がいずれも存在しないことを確認する。
3 原告X1及び原告会社の請求をいずれも棄却する。
4 被告の主位的請求を棄却する。
5 訴訟費用は、甲事件及び乙事件を通じ、原告X1及び原告会社の負担とする。
事実及び理由
第3当裁判所の判断
2 原告らは、直接施行の段階に入ったら、直接施行によらずに自主的に移転等を行った場合であっても、従前の協議において提示された補償額は白紙に戻されるのが正しい法の適用であると誤信したために本件補償契約を締結したから、本件補償契約は動機の錯誤により無効であると主張する。
(1) しかしながら、原告らの主張する動機により原告らが本件補償契約を締結したことを認めるに足りる証拠はない。
この点、原告X1の陳述書(甲22)中には、原告の上記主張に沿う部分があり、また、上記1(4)のとおり、本件補償契約の締結に至る過程で、被告の担当者は、原告X1から、本件確認書によって提示されていた約9000万円という補償額の取扱いや、その額による補償の可能性につき質問され、催告書及び建築物等移転工事施工通知を発送して直接施行の段階に入ったら、直接施行をしなくても、それ以前に行われた協議の際の補償額は白紙撤回されると回答しており、さらに、上記認定によれば、原告らは、本件補償契約に基づく補償額に不満を抱いており、本件確認書における補償額に近い額を要望していたものといい得るところである。
しかしながら、上記1において認定した事実に照らせば、原告らは、直接施行が行われた場合に置かれる自己の立場と、本件補償契約で合意した補償額の支払を受けた上で自主的に移転した場合に置かれる自己の立場とを比較衡量した結果、後者の方が前者よりは有利であると考え、補償額に不満は残るものの本件補償契約を締結することとしたものである。そうすると、このような原告らの本件補償契約締結に至る意思形成過程に照らせば、原告らにおいて、仮に直接施行の段階に入ったら以前の協議において提示された補償額は白紙に戻されるのが正しい法の適用であると信じていたとしても、そのような原告らの判断が、原告らによる本件補償契約締結の動機になったものということはできない。
また、原告らは、9000万円以上の補償額の提示を受けていた原告らが約6000万円の補償額で納得する理由は、もはや本件確認書の金額には戻してもらえないとの錯誤があったこと以外には考えられないとも主張するが、原告らが本件補償契約を締結することとした経緯については上記のとおりであり、原告らの主張する動機の錯誤によるものとはいえないから、原告らの上記主張も採用できない。
(2) 因みに、原告らの動機の錯誤に関する上記主張は、直接施行の段階に入ったら、直接施行によらずに自主的に移転等を行った場合であっても、それ以前の協議において提示された補償額は白紙に戻されるとすることが誤りであることを前提とするものであり、原告らは、従前の協議の際に合意された本件確認書は、直接施行の段階に入ってから行われる協議においても有効であると主張する。
しかしながら、本件のように、本件事業に伴う建築物等の移転等に関する協議が最終的に成立しないために、本件事業の施行者が直接施行の実施に着手した段階において、再び協議を行うこととなった場合、従前の協議は成立していないことが前提とされているのであるから、再び開始された協議で、成立しなかった従前の協議の際に提示されていた補償額を前提としなければならないというものではないというべきである。そして、本件確認書(第2の1(3)エ)は、補償額について、原告X1分につき8462万7260円、原告X2社分につき668万7135円を基本として協議し確定するとするものであるが、これは建築物等の移転完了時期についての合意と一体となるものというべきであり、平成14年3月31日(平成13年度末)までの間に原告らが自主移転を完了することを前提としていたものと解されるから、原告らが自主移転を完了しないまま平成14年3月31日を経過した場合には、補償額に関する上記合意も法的な効力を失うものというべきである。したがって、原告らの上記主張は採用できず、その錯誤に関する主張も、前提を欠くものというべきである。
なお、原告らは、本件確認書では、代替地の取得や仮換地の活用などに関することを含めて協議することが確認されていたにもかかわらず、被告からは協議の申出がなかったとして、その被告が本件確認書は白紙に戻されると主張するのは許されないと主張するが、上記認定のとおり、被告は、本件確認書を交わした後にも、平成14年3月31日までの間、原告らと交渉していたのであり、原告らがその内容に納得しなかったということにほかならないから、原告らの上記主張は採用できない。
(3) さらに、原告らは、被告は大人しくすれば補償金を上げてやるという手法で原告らを従わせたなどとして、本件補償契約締結に至るまでの経緯は不当なものであり、そのために原告らは納得しないまま本件補償契約を締結したなどと主張する。
しかしながら、上記1(2)、(3)、(5)及び(7)のとおり、被告は、原告らとの間で建築物等の移転等に関する協議が成立しないとして直接施行の実施に着手したところ、原告らから再度の協議を求める旨の申入れがされたため、調査及び検討が未了な部分があることを明示した上で、まずは平成14年12月27日の時点で算出が可能な部分についての補償額を提示し、その後、平成15年1月10日の時点で調査及び検討ができた部分を含めた補償額を提示し、同月20日に最終的な補償額を提示したものであり、その補償額の積算も「公共用地の取得に伴う損失補償基準」や「補償金算定標準書」等に則って行われたものであるから、こうした被告の対応は不当なものとはいえない。
そうすると、上記説示のとおり、原告らが本件補償契約における補償額に不満を抱いていたとしても、本件補償契約に何らかの瑕疵があるなどということはできない。
なお、原告らは、この点に関し、原告らの申出に基づいて被告が補償額を提示したのではなく、平成14年12月27日ころ、被告から、直接施行をする旨の通知と3577万7000円の補償額の提示を同時にしてきたものであり、被告は、原告らに対し、直接施行か直接施行に見合った額をもとに交渉するのかの二者択一を迫ったと主張し、原告X1本人尋問の結果中及び原告X1の陳述書(甲22)中には、この主張に沿う部分がある。しかしながら、上記認定のとおり、被告は、平成14年12月27日当時、既に平成15年1月21日から直接施行による移転工事等に着手することができる準備を整えており、自主移転を前提とする原告らとの協議を行わなければならない状況にはなかったのであり、また、そのような状況にある被告から協議を申し入れる際に、必要な補償額を検討しないまま、原告らに対して補償額を提示することは考えがたいというべきであるから、原告X1の上記供述部分は採用できない。
(4) 以上のとおり、原告らが、原告らの主張する動機により本件補償契約を締結したということはできず、原告らが主張する動機を原告らが被告に表示したか否かについて検討するまでもなく、その主張には理由がない。
因みに、原告らは、被告に対して本件確認書の補償額に戻してほしいと訴えていたから、その動機を表示したものといい得ると主張するが、本件確認書の補償額に戻して欲しいと訴えたことをもって、直接施行の段階に入ったら、直接施行によらずに自主的に移転等を行った場合であっても、それ以前の協議において提示された補償額は白紙に戻されるのが正しい法の適用であると信じたという原告主張の動機を表示したとは、およそいうことができないところである。
3 原告らは、本件補償契約における補償額には原告会社に対する廃業補償が含まれていない点につき、被告の担当者から、仮換地に150平方メートルを超える広さの工場を再築することも可能であると説明され、これを信じたため、廃業補償が含まれていないのに、本件補償契約を締結したとして、この点においても、本件補償契約は動機の錯誤により無効であると主張する。
しかしながら、被告の担当者が仮換地に150平方メートルを超える広さの工場を再築できると原告らに説明したことや、原告らが仮換地に150平方メートルを超える広さの工場を再築できると信じていたことを認めるに足りる確たる証拠はない。
なお、確かに、前提事実(第2の1(3)イ、エ)において摘示したとおり、被告は、原告らと本件確認書を交わすまでの交渉過程において、工場について構内再築工法を前提とする補償額を示したり、構内再築後も150平方メートルを超える広さとなる工場の内部における機械等の配置案を示したりしているが、本件事業の施行に一貫して反対する態度を示していた原告らとの交渉過程において、これらの提案がどのような経緯に基づいて示されたものであるかを詳らかにする証拠はなく、これらは、従来規模の工場を維持したいとする原告らの要望を踏まえた補償額の目安を試算したにすぎないものということも可能なものである。そして、上記1(1)において認定したとおり、原告らは、上記交渉過程において、従来規模の工場を維持するために、150平方メートルを超える工場の建築が可能な代替地のあっせんを被告に要請していたのであるから、かかる事実に照らせば、原告らは、仮換地上に150平方メートルを超える従前規模の工場を再築できるとは考えていなかったことが窺われるのであって、被告が構内再築工法を前提とする補償額を示したりした上記の事実から、仮換地に150平方メートルを超える広さの工場を再築できると被告が原告らに説明したことや、原告らが仮換地に150平方メートルを超える広さの工場を再築できると信じていたことを推認することはできないというべきである。
4 以上によれば、本件補償契約は動機の錯誤により無効であるとする原告らの主張は採用できない。そして、本件補償契約は、上記1における認定事実のとおりの経過により、「公共用地の取得に伴う損失補償基準」や「補償金算定標準書」等によって算出された被告の提示額をもとに締結されたものであって、有効なものというべきであり、同契約で合意された補償額が、被告が原告らに対して支払うべき損失補償額であるというべきである。
原告らは、上記の他にも本件補償契約が無効であることにつき縷々主張するが、いずれも上記判断を左右するものではない。
5 以上のとおりであるから、原告らの請求はいずれも理由がない。
他方、前提事実(第2の1(6))において示したとおり、建築物等の移転等に伴う損失補償に関し、岩手県収用委員会に対して行う裁決の申請は、被告と原告らとの間の協議か成立しない場合にすることができるものである。そうすると、被告と原告らとの間で締結された本件補償契約が有効なものであれば、岩手県収用委員会は、裁決をもって損失補償額を定めることはできず、その申請を却下すべきものである。したがって、岩手県収用委員会が原告らのためにした平成22年3月19日付け損失補償裁決は、却下すべき申請について損失補償額を定めたものといわざるを得ないから、その損失補償額が正当なものか否かを問わず、取消を免れないものである。これによれば、被告の主位的請求は、上記裁決が損失補償額を定めたことを前提として、そのうちの正当な補償額を超える部分の取消を求めるものであるから、その前提を欠くものというべきであり、理由がないが、上記裁決の取消及び損失補償金支払債務が存在しないことの確認を求めるその予備的請求(1)については、前提事実(第2の1(4)オ)のとおり、被告は、本件補償契約に基づく損失補償金支払債務を弁済しているから、理由がある。
よって、原告らの請求をいずれも棄却し、被告の主位的請求を棄却し、その予備的請求(1)を認容することとして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 貝原信之 裁判官 田中孝一 大谷恵子)