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盛岡地方裁判所遠野支部 昭和51年(わ)45号 判決 1980年3月25日

主文

被告人を罰金四、〇〇〇円に処する。

右罰金を完納することができないときは一日一、〇〇〇円に換算した期間被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中証人菊池久、《中略》同吉田善明に支給した分につき、いずれもその三分の一を被告人の負担とする。

被告人に対し選挙権および被選挙権を停止しない。

理由

第一、有罪部分についての理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五一年一二月五日施行の衆議院議員総選挙に際し、岩手県第一区から立候補した柏さくじの選挙運動者であるが、別紙一覧表記載のとおり、同年一一月二二日及び二三日の両日、同選挙区の選挙人である釜石市浜町三丁目四番一二号菊池久ほか五名に対し、「私の決意」との見出しで同候補者の政見を内容とする記事及び同候補者の写真、氏名、略歴等を掲載した当該選挙に関する事務を管理する選挙管理委員会に届け出ない選挙運動用文書六枚を配布し、もって法定外選挙運動用文書を頒布したものである。

(証拠の標目)《省略》

(法令の適用)

一、被告人の所為 公職選挙法一四二条一項一号、二四三条三号(包括して)

一、刑種の選択 罰金刑

一、換刑処分 刑法一八条

一、訴訟費用 刑事訴訟法一八一条一項本文

一、公民権不停止 公職選挙法二五二条四項

第二、本件公訴の適法性

被告人弁護人らは、本件公訴は、捜査当局が日本共産党を弱体化せしめようとする政治的意図をもってなした違法な捜査にもとづくものであるから、公訴権の濫用にあたり、公訴は棄却されるべきであると主張する。

《証拠省略》によれば、被告人は日本共産党に所属する釜石市議会議員であること、警察当局は日本共産党員の日常活動を治安警備の対象としていること、そのことから同党々員と警察との間では相互に不信の念が強く、さまざまな確執が生じていること、本件捜査は、釜石市浜町方面の各戸を訪問している被告人を現認した派出所勤務の巡査の報告により、釜石警察署に設置されていた選挙違反取締本部が捜査に乗り出し、警察官が被告人を尾行して被告人が訪問した先を、被告人と殆ど入れ変りのような状態で訪問して聞き込みを行い、その結果被告人を戸別訪問罪と決定外文書頒布罪で検挙したものであること、などの事実を認めることができる。

警察官が、被告人の戸別訪問とおぼしき行為を現認したならば、その場で被告人に注意を与え、以後の行為をやめさせればよいのに、敢えて被告人を尾行して戸別訪問罪の証拠固めを行なったことは、真の市民のための警察の行為としていささか不親切のきらいがあったというべきであり、このことと前叙のとおりの警察当局の日本共産党に対する見方などを合わせ考えれば、警察は、被告人が日本共産党員であるからことさらに被告人を検挙したのではないかという疑いを、当裁判所としても全く払拭することができないのである。しかし、これらのことから、直ちに警察ならびに検察官が日本共産党を弱体化しようとする政治的意図のもとに本件捜査を遂行し、その結果被告人を起訴するにいたったということを断言することはできず、その他全体として捜査を違法ならしめるほどの事実を認定することもできない。よって、本件公訴は、検察官の公訴権の濫用によるものとは認められないので適法である。

第三、戸別訪問にかかる公訴事実の一部不存在

本件公訴事実は、前叙の罪となるべき事実のほか、要するに被告人が前記候補者に投票を得しめる目的をもって、同年一一月二二日及び二三日の両日、同選挙区の選挙人である釜石市浜町の佐々木仲方ほか一〇戸を戸々に訪問した、というものである。《証拠省略》によれば、右事実のうち、被訪問者久保昭一および菅野マサを除くその余の被訪問者に対する関係では、被告人が公訴事実のとおりの戸別訪問をなした事実を認めることができる。

しかし、被訪問者久保昭一に関する被告人の行為を見るに、《証拠省略》によれば、被告人は当日釜石市会議員として住民からの陳情を受け以前から関心をもっていた市内浜町の急傾斜地を見るために高橋柾登と共に現場附近に赴き、現場近くの久保昭一宅前を通りかかったところ、たまたま同宅玄関前に居た久保の妻から声をかけられ、同人および家の中に居た久保の両名から「相談ごとがあるから」ということで家の中に招き入れられて同人宅に入り、部屋にあがって同人らから約一時間急傾斜地問題その他の生活相談を受け、その帰り際に玄関先で、被告人が同人らに「共産党の候補者にも票を入れてください」旨述べた、という事容が認められる。そして、その日は被告人が本件にかかる他の一連の戸別訪問をした日の前日でありその日他にどこか戸別訪問をしたということは本件証拠上認められない(なお後記のとおり菅野マサに対する被告人の行為は、久保宅に対する訪問と同日になされてはいるが、これは戸別訪問に該らない)。また当時被告人が市議会議員として近く開かれる市議会に対する準備のため、日常の議員活動の一環として住民と接触を深めようとしていたことも、《証拠省略》によって明らかである。戸別訪問罪が成立するには、あらかじめ候補者に投票を得しめる等の目的をもって人を訪問しなければならないのであって、別の用件で人を訪問した後にたまたま投票を得しめようとする意思を生じて投票依頼のことばを吐いても同罪が成立しないと解せられるところ、被告人が当時始めから柏候補に投票を得しめる目的をもって久保宅を訪問したと認定するには、本件においていまだ証拠が不充分であるといわなければならない。

次に、被訪問者菅野マサに関する被告人の行為を見るに、《証拠省略》によると、当日被告人は一人で知人宅を訪問するため、たまたま菅野マサ宅前の道路を通りかかった際、菅野マサが自宅の玄関先の自宅と隣家の間の一メートルほどの幅の自分の敷地内の庭先に出て花の植え換えをしていたのを見受けたので、被告人は同人に対し道路上から「選挙する人が決まっていますか」と声をかけたところ、同人は「まだ決まっていない」と答えたので、被告人は「こういう人がよい人ですから」といって、同人に近づいて前叙認定どおりの文書を同人に手渡し、一人暮らしの同人の医療費問題などを五分ぐらい話して立去ったということが認められる。そこで、問題は被告人が菅野マサ方の庭先にどの程度足を踏み入れたかである。同人方庭は道路からやや低い位置にあり、石段が二段あるところ、同人が最初被告人から声をかけられたときは道路から一米半ぐらい離れた庭先に居たのを、被告人が「こういう人がよい人です」といって同人に近づいて行ったとき、同人も被告人の方に近づいて来たことが前掲証拠によって認められるが、はたして被告人が石段二段を降りて完全に同人方の庭の中に入って右文書を手渡したか、あるいは被告人が一段目の石段(つまり上の段)の上に立ち、菅野がそこまで近づいて来て右文書を受けとったのかについて、《証拠省略》の記載は他の証拠にてらして必ずしも措信できないことから、結局本件証拠上明らかではないといわなければならない。そうすれば、仮に被告人が一段目の石段に足を踏み入れたにすぎないとするならば、前掲証拠によれば、その位置は公の道路からわずか三〇センチメートル足らずの所であり、道路から丸見えの状況であり、庭といっても殆ど道路上に等しい位置であることから、これをもって戸別訪問ということができないといわなければならない。また、右の事実関係にてらせば、被告人が菅野を同女がその敷地内にいたのをわざわざ道路近くまで呼び出したともいえないのであって、結局被告人の行為が戸別訪問にあたるかどうかの立証が不充分であるといわなければならない。

以上のことから、被訪問者久保昭一、同菅野マサにかかる被告人の行為は、いずれも戸別訪問罪の構成要件に該当するかどうかについて立証がないといわなければならない。

第四、戸別訪問禁止条項(公職選挙法一三八条一項、二三九条三号)の違憲性

被告人弁護人らは、戸別訪問は選挙に関する言論または表現活動の一つであるから憲法二一条で保障する言論または表現の自由に含まれる行為であるにもかかわらず、公職選挙法一三八条一項、二三九条三号はこれを全面的に禁止していることは、憲法の右条項に違反するものであると主張するので判断する。

一、戸別訪問の意義と言論または表現の自由

戸別訪問は、選挙に関し、候補者またはその支持者らが、選挙人の宅や事業所などその居所を訪問し、直接選挙人に対し自己または候補者の政策や識見を訴えるなどして投票依頼をするという選挙運動の一つである(珍にはある候補者に投票しないように呼びかける戸別訪問もありうる。)戸別訪問は、人が人の居所を訪問して彼に話しかけるという人間古来からの日常的な意思交流あるいは言論活動の一つであって、それが選挙に関し、投票依頼という目的に結びついただけのことである。

そして選挙運動としての戸別訪問の効用は、まずマスメディアを有しない一般国民が、何ら費用も特殊能力も要せず、他の選挙人への投票依頼を行なうことができるということである。これを戸別訪問を受ける側から見た場合でも、居ながらにして候補者または運動員あるいはその支持者らの政見や候補者の人物評など選挙に関する情報を得ることができ、そして、疑問があれば、それを尋ねることができたり、場合によっては、自分の政治的意見をひれきして訪問者と討論することもできる。また訪問者も、選挙人との対話によって得た事柄を候補者の施策に還元することもできるというべきである。

このように、戸別訪問は、候補者や運動員らと選挙人との対話であるから、これによりおのずから選挙人も政治的意識に目覚め、選挙に関心を深め、候補者を選別するより賢明な目を涵養することができるのである。また戸別訪問は、何人も費用を要せずになしうる選挙運動であるから、これが活溌に行なわれるようになると、選挙を自由闊達な言論戦の場とし、地縁・血縁による投票という旧来の悪弊を打破することもでき、まことに選挙を民主主義体制におけるふさわしいものにするであろう。このことは、他の選挙運動つまり演説、テレビ・ラジオを通じての放送、連呼あるいは文書頒布等のごときものが、候補者や少数の運動員が一方的に選挙人に呼びかけるものであるのと比してきわだった特色であり、かつ長所であるといえよう。なお、公選法の下でも、戸別訪問に類似する効果のあるものとして電話による通話や個々面接が認められているが、電話は費用も要するし、表意者の言語外のコミニケーション要素の伝達が不可能であり、また個々面接も偶然性を期待するところから、これまた不充分のそしりを免れない。

本来、民主政治は討論の政治であるから、その下における代議員の選出である選挙も多くの国民による討論の結果によって形成された国民名自の意思表示でなければならない。このような意味においても、選挙に関し、候補者やその支持者らが広く選挙人に接し、意見を交換するという選挙運動が何よりも望ましいものであることは疑う余地がないものというべきであろう。そして、これらの選挙運動は、政治上の言論または表現活動として、憲法二一条によって保障されている言論または表現の自由に含まれることは明らかである。言論または表現の自由は、憲法の保障する精神的自由として他の経済的自由にまさる価値を有する基本的人権である。そして、その中でも政治的発言の自由すなわち政治上の言論または表現の自由は、民主主義体制のもとでは、とりわけ強い保障を与えられなければならない。我々は、過去において、この自由を有していなかったために幾多の不幸に見まわれて来た。この自由は、我々のこうした不幸な経験を土台にして獲得されたものである。だから、この自由を、我々は何にもまして不断の努力によって保持していかなければならない。憲法も明文をもってこのことを規定している(一二条)。

これにもかかわらず、今日の公選法は、選挙において、右のように国民一人一人が政治上の言論または表現の自由を駆使して、自由に政治的言論活動を行なうことを予定せず、戸別訪問を全面的に禁止するほか多くの禁止規定をおいていることは、選挙に対する国民の関心を薄れさせ、選挙を沈滞化させ、延いては国民の政治に関する積極的な意欲を阻害しているといってもよいであろう。このことは、戸別訪問を禁止していることによる大きな害悪である。

二、戸別訪問を禁止する理由

このような意義と長所を有する戸別訪問が、公選法で禁止されている理由として、一般に指摘されていることは次のとおりである。すなわち、戸別訪問を自由にすれば、その機会に投票買収や利益誘導による投票の勧誘や威圧による投票強制などの不正行為が発生し易いこと(不正行為温床論)、徒らに選挙人の義理人情に訴えた投票依頼をする結果、選挙人の理性的な判断を迷わすことがあること(感情支配論)、徒らに候補者どうしの競争を激化させ、煩に堪えないこと(無用競争激化論)、頻繁に居宅や事業所などを訪問されては選挙人の生活の平穏や業務の執行が害され迷惑を蒙ること(迷惑論)などのことから、選挙の自由と公正を害し、あるいは選挙人の基本的人権を害する結果になる、ということである。そこで、これらの害悪といわれるものが、戸別訪問を自由にすれば果して本当に発生するものであるか否か。また発生するとしても、その程度は何ほどか。あるいはこれらの害悪は戸別訪問の意義と対比してどのように評価されるべきものか、などについて、個別的に検討する。

(1)  不正行為温床論

投票買収など前叙のような不正行為は、まさに選挙の自由と公正を害する最たるものであって、これを禁圧すべき必要性はきわめて大きいといわなければならない。そしてこれらの不正行為は、候補者や運動員らが公衆の目の届かない場所で選挙人と接触する戸別訪問の機会に行なわれる可能性のあることは否定できない。しかし、戸別訪問にこれらの不正行為が必ず随伴するとは到底考えられず、また相当程度随伴するという経験的事実もなく、本件証拠上もその点は明らかではない。そして戸別訪問は、理屈なしに単純に投票依頼をする場合もあるのであろうが、前叙のように候補者の政策や政見の説明や人物評をするなど理性的な投票依頼をする場合も少なからず存するのであるから、このような場合買収等の不正行為は殆ど考えられない。また、戸別訪問が買収を伴うというのは、現在それが取り締りの網の目をくぐって隠密裡に行なわれているからであって、そうではなく、戸別訪問が自由になれば、各候補者が入り乱れてこれを行なうであろうから、不正行為発覚の虞れがきわめて大きくなるので、むしろ危険を感じてそのような行為を避けるという風潮が生ずるであろうと考えられる。このことは、今日買収行為は他候補者側からの通報によって捜査が開始されることが多いことからも明らかである。さらに、後述するわが国における戸別訪問禁止立法制定経過を見ても、必ずしも戸別訪問に随伴して多くの不正行為が行なわれたという確固とした実証例にもとづいて立法がなされたというわけでないことが明らかである。また、買収等の不正行為を取り締る手段としてまず戸別訪問を取り締ることが便宜であるというのであるならば、余りに取り締りの側に偏した考え方であるというべきであろう。

このように、戸別訪問と投票買収等不正行為との間には、論理的にも因果関係がないばかりか、事実上もその結びつきはかなり稀薄なのであって、特に戸別訪問自由化の後においては、発覚の危険が大きくなることから、戸別訪問の機会に投票買収等がなされることは更に少なくなるものと断言して差支えないのではないだろうか。そうすれば、前叙のような戸別訪問の意義と効用にてらし、かかる数少ない害悪の発生を虞れて戸別訪問を全面的に禁止することは、まさに「角を矯めて牛を殺す」の愚を演じることになりかねないのである。

(2)  感情支配論

戸別訪問に際し、理性的に候補者の政見や人物を訴えるのではなく、徒らに選挙人の義理人情につけこむなどその感情に訴える方法により投票依頼をすることも一応の程度あるであろうと考えられる。しかし、仮に戸別訪問に際しそのような投票依頼がなされても、それにより理性的な判断を失って心にもない候補者に投票するにいたる選挙人が果してどのくらい居るであろうか。おそらく少ないだろうと思われる。仮にそのような選挙人が居るとしても、これは何も戸別訪問の罪ではない。選挙人自身の罪である。また、このような投票依頼であっても、いくらかは候補者の政見や人物評なども語られるであろうし、また選挙人の方から訪問者に対し候補者の政見等を問うこともでき、そうすれば、訪問者も否応なしにある程度理性的な発言をしなければならなくなるであろう。すなわち、このような投票依頼によっても、なにがしの選挙情報を選挙人に提供することになるのであって、戸別訪問本来の目的にもある程度かなうことになるのである。また、相手方の情に訴える投票依頼方法は、選挙運動として多かれ少なかれ他の方法にもあり、それ自体それほど悪質なものとはいえない。むしろ、戸別訪問が自由化されれば、理性的な言論戦が活溌に行なわれるため、選挙人の政治的意識も高まり、容易に情実に動かされなくなるだろうから、このような感情に訴える投票依頼方法の意味が薄れ、自然に淘汰されていくであろうとも考えられる。いずれにせよ、このような投票依頼方法は、国家が刑罰をかざして介入するほどの害悪とは到底いえるものではあるまい。

(3)  無用競争激化論

戸別訪問が自由化されれば、候補者は一戸でも多くの選挙人宅を訪問しなければ不利になるということから激しい競争を強いられ、候補者にとって煩瑣に堪えないということもあるいは起るかも知れない。しかし、このことを戸別訪問を禁止すべき害悪というには、候補者の一部にそのような負担に堪え切れず立候補を断念するにいたることがあるというように、立候補にあたっての機会均等が保障されなくなるということでなければならない。しかし、現実に、かかる理由から立候補を断念する人があるであろうか。戸別訪問は本来候補者のみならず、その支持者など一般国民が自発的に自己の政治的信条に従って行なうべき政治的言論活動であるから、右のような立候補の機会均等の保障ということに格別意を用いる必要はないといわなければならない。そうすれば、この議論に対しては、たかだか「煩瑣だと思う者はしなければよい」という反論をもって足るのであって、これ以上の議論を要しない。

(4)  迷惑論

たしかに、選挙人としては、その居宅や職場等に頻繁に戸別訪問をされることにより生活の平穏や業務の執行が害されることが考えられよう。しかし、このことは、後述する選挙制度審議会委員会報告にもあるように、訪問人員、訪問時間、訪問場所、退去義務等について必要な規制を設けることによりある程度回避することができ、また被訪問者としても、訪問されるのが嫌なら断わればよく、さらに訪問者としても、被訪問者の支持をとりつけるための訪問であるから、被訪問者に迷惑になるような訪問は自ずからさしひかえるであろうと考えられる。逆に被訪問者としても、前叙のように居ながらにして選挙にかかる情報を得るという利益があるのであるから、右の迷惑はこれとの対比において考えられなければならない。現に本件被訪問者の中で、被告人の訪問により迷惑を受けたと述べている者は皆無であることが本件証拠上明らかである。

また、仮に戸別訪問を、その接触態様如何にかかわらず迷惑だと感ずる選挙人も居るであろう。しかし、これはとりもなおさず戸別訪問が禁止されていることから来ている国民の選挙に対する無関心延いては政治不信の現われであると考えられる。従って、かかる選挙人の迷惑感情は、民主主義にとって望ましくないことであるから保護法益として価値が小さいといわなければならない。このような選挙人についてはよろしく啓蒙につとめるべきであって、むしろそのためにこそ戸別訪問が必要なのである。だから、かかる選挙人の迷惑を防止するため、戸別訪問を禁止するということは論理的に矛盾である。また、そのような迷惑は、選挙人が戸別訪問に慣れない間の一時的な害悪であって、戸別訪問が自由化されると自然に消滅するものといえよう。従ってこのような害悪を虞れて戸別訪問を全面禁止することは、民主主義百年の大計にてらし、いかにも近視眼的であるといわなければならない。そして、総じて戸別訪問を迷惑だと感じる選挙人はそれほど多数いるとは考えられないのであって、しかも、その保護法益は、たかだか軽犯罪法あるいは「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」にかかる拘留または科料程度の罰則をもって保護すべき利益にとどまり、公選法一三八条一項、二三九条三号のような一年以下の禁錮または一〇万円以下の罰金という重い刑をもって保護すべきほどの利益ではないというべきである。

なお、戸別訪問を禁止すべき理由として、これらのほかに、戸別訪問を自由化すれば、費用が多くかかるということ(多額費用論)や、当選議員の留守の間に次期立候補予定者が地盤荒しをするようになること(当選議員不利論)などが指摘されることがあるが、前者は費用をかけて人を雇わなければ戸別訪問を有効になし得ない候補者のみの理由であり、民主主義における選挙が国民一人一人がその政治的自覚にもとづいて自己の支持する候補者への投票を呼びかけることを理想とするものであれば、とるに足らぬ理由であるというべきであり、また後者が戸別訪問禁止の理由とならないことは多言を要しない。

三、戸別訪問禁止条項の制定経緯と憲法状況の変化

そこで次に、わが法における戸別訪問禁止条項の制定経緯と、それに関連する今日の憲法状況の変化について論を進めたい。

本件証拠によると次の事情がうかがわれる。すなわち大正一四年、当時の衆議院議員選挙法の改正により、いわゆる男子普通選挙が創設された際、始めて戸別訪問禁止規定が設立された。ここでは、その理由として、(一)戸別訪問は投票売買を容易にして選挙界を腐敗させる。(二)戸別訪問は選挙人に情実を醸成し選挙の自由公正をそこなう、(三)戸別訪問は議員の品位を毀損する、などのことが主張された。このことは、普通選挙の実施に伴い、いわゆる無産者階級が選挙に参加するので、これからは右のような不正行為等が多くなるだろうという愚民観による危惧の念にもとづくものであって、当時から既に戸別訪問に右のような不正行為が多く随伴していたという実証的資料が存在したわけではなかったものである。

そして、戦後の民主的な制度の改正により、選挙法の右規定は、選挙の自由を叫ぶ強い批判にさらされ、いったん昭和二二年二月の参議院議員選挙法の制定によって姿を消し、戸別訪問は全面的に解禁された。しかし、このわずか一ヶ月後の同年三月、同法は一度も選挙の実施がないままに改正され、戸別訪問は再び禁止されることになった。この理由は、戸別訪問解禁の趣旨は一応理解できるとしてもいまだ時期尚早であるというものであり、ここでも、何ら戸別訪問をした結果投票買収等の不正行為が多く発生したという実証例にもとづくものではなかった。その後、昭和二五年四月、今日の公職選挙法が制定され、戸別訪問禁止条項はそれに継承されたが、ただ現行公選法一三八条一項と同じ規定の但書として「但し公職の候補者が親族及び平素親交のある知己を訪問することはこの限りではない」という規定がつけ加えられた。しかし、この規定は、昭和二七年戸別訪問禁止の効果をあげ得ないという理由で削除された。すなわち、右規定に藉口した戸別訪問自体が多く行なわれたという実証例はあったが、その戸別訪問の機会に投票買収等不正行為が多くなされたという実証例までは存在したかどうか必ずしも明らかではないのである。なおこの規定の削除につき、「この規定はあってもなくても同じ趣旨である」という確認が衆議院の審議中になされた。このことは、当時の立法者に戸別訪問をそれほど厳しく規制する必要がないという了解があったことを表わすものといえよう。いずれにせよ、結局戸別訪問禁止条項は、大正一四年創設当時のままで今日継承されているのである。

しかし、かかる戸別訪問禁止条項の制定当時と現在とでは、おのずから社会情勢も異なり、国民の政治意識も向上し、国民の中に民主主義が侵透して来ていることも容易に明らかである。そうであるならば、戸別訪問禁止条項に関する国民一般の考え方もおのずから変化して来てしかるべきであろう。これを本件証拠にてらして検討すると、まず本件における弁護人申請にかかるアンケート結果報告によると、昭和五四年一〇月実施された総選挙における全立候補者を対象としたアンケート調査において、その三二パーセントにあたる二八二名から寄せられた回答の結果は、戸別訪問の自由化に賛成が二五二名(八九・四パーセント)にのぼり、反対の二〇名(七パーセント)をはるかに上まわっていること、また、朝日・毎日・読売各新聞記事によれば、多くの識者が戸別訪問の解禁を望んでいること、現に多くの候補者が戸別訪問を行なっていること、証人樋口陽一の証言、証人吉田善明の当裁判所の証人調書ならびに弁護人提出にかかる各文献によれば、わが国の多くの有力な学者も戸別訪問の解禁を主張し、加えて戸別訪問を禁止することは憲法二一条に違反するという主張をなしていること、さらに《証拠省略》によれば、昭和四七年一一月に行なわれた、東京都品川区長準公選にかかる区長の選挙においては、公選法が適用されなかったので戸別訪問は解禁されて大いにそれが行なわれたが、買収などの不正行為はいわゆる泡沫候補による一、二の例を除き認められなかったこと、さらにまた、総理大臣の諮問機関である選挙制度審議会は、第一次以来第七次(昭和四七年一二月二〇日会長報告)まで一貫して選挙運動の自由化を指向しており、その中には、元警察庁長官であった委員や現職警察庁刑事局長らの戸別訪問解禁賛成の意見も見られること、そして、第七次審議会の第二委員会委員長報告によれば、戸別訪問は本来有効な選挙運動の手段であることから、この禁止を原則として撤廃し、しかし国民に迷惑をかける虞れのないように、訪問人員、訪問時間、訪問場所、退去義務等について必要な規制を設けるほか、戸別訪問をする者の総数を制限するという結論をみた(選挙制度審議会編「第七次選挙制度審議会資料(下)」)ということ、などの事実が認められる。

これに対し、最近において、戸別訪問を今なお禁止すべきだと積極的に主張する学説あるいはジャーナリズム等識者の論調は、当裁判所の調査した範囲内では皆無であり、検察官も何らこの点の立証をしていない。

このように、今や世論は、戸別訪問解禁の傾向を示しているといっても差支えないであろう。これらの現象は、単により賢明な立法政策を指向するのみならず、今日戸別訪問を禁止する法律の根拠となっている立法事実が消滅するにいたったか、あるいは少なくとも右立法事実に対する価値評価が低下して来たことを表わすものと理解すべきものであろう。このことは、前叙のように、昭和二五年の法の再改正による戸別訪問禁止条項の復活の理由が時期尚早論であって、当時の立法府も戸別訪問の意義は内々承認し、行く行くはこれを解禁しなければならないということを暗に了解していたとも受けとれることと相応するものであって、いわゆる憲法状況の変化として、憲法上の権利を制限する法律に対する憲法判断の基礎とされるべき事情であるというべきである。ちなみにアメリカ、イギリス、フランス、西ドイツなど欧米先進国においては、選挙運動として戸別訪問を禁止している例は全くなく、特にイギリス、アメリカにおいてはむしろ戸別訪問こそ最も有効な選挙運動として奨励されているのである(樋口証言、吉田証言調書、弁四〇号等)。

四、憲法判断

憲法二一条で保障される言論または表現の自由、とりわけ政治上の言論その他表現活動にかかる自由は、民主主義体制においてきわめて重要な基本的人権であることは自明のことであって、当裁判所もこれまで繰り返し強調して来たところである。従って、例えあらゆる権利が無制限のものではなく、その制約原理を内在させているとはいっても、右のような政治上の表現の自由に対する制約は、軽々になされるべきではなく、表現の自由に包含される行為を放任することにより発生することが予想される害悪を抑止するため必要最小限の程度でかかる行為を規制するにとどめなければならないことも、また自明の原理であるといわなければならない。すなわち、表現の自由を制約すべき原理の合理性は、右の趣旨の必要最小限度の基準に合致するものであってはじめて承認されるといわなければならない。

しからば、必要最小限度の基準とは、いかなる要素にもとづいていかなる観点から判断されなければならないものであろうか。まず、判断の要素としては、判断の対象となっている当該行為の規制ということが表現の内容を規制するものかあるいは特定の表現手段を規制するものか、特定の表現手段を規制するものであるならばその表現目的を達成するために他にも有効な表現手段が存在するか否か、また特定の表現手段の全面規制か一部の規制か(より制限的でない規制手段の有無)、当該行為によってもたらされる害悪の害悪性の程度、当該行為との因果関係の強弱(当該行為から右害悪が発生する確率の大小)、当該行為によってもたらされる利益などの諸事情があげられるであろう。そして、右判断における思考上の観点としては、害悪の程度(害悪性自体の大小と当該行為から害悪が発生する確率の大小を含めて)と制約の態様あるいは程度との相関関係が重視されなければならない。すなわち、右相関関係を図式的にみれば、害悪の程度が大で制約が小であれば、いまだ必要最小限度の基準を逸脱しないと判断されることが多いのであり、前者が大で後者が大であれば必要最小限度の基準を逸脱するか否か微妙なところとなり、前者が小で後者が大であれば、明らかに必要最小限度の基準を逸脱しているというべきであり、前者が小で後者が小であれば、先と同様必要最小限度の基準を逸脱するか否か微妙なところとなるということになるであろう。

このように、必要最小限度の基準を逸脱するか否かの判断は、種々の事情を要素にして害悪と制約の程度との相関関係の観点からなされなければならないものであって、単に当該行為のもたらす利益と害悪とを比較して害悪の方が大であれば権利の制約は正当化され、利益の方が大であれば正当化されないとは必ずしもいえるものではなく(この比較衡量自体が曖昧性を免れない)、また形式的に表現内容の規制を正当化するにはその行為を放任することによってもたらされる大なる害悪を必要とするが、特定の表現手段を規制するにすぎない場合は他に当該表現目的を達成する表現手段がある以上小なる害悪をもって右規制を正当化することも許されるとはいえないのである。

これを戸別訪問について、前叙のとおり検討したところにてらして考えれば、次のとおりになるであろう。すなわち、もし戸別訪問によって投票買収等不正行為が行なわれるならば、この害悪は性質自体において重大なものであるといわなければならないが、選挙人の蒙る迷惑などその他に指摘されることのある害悪は性質上さほど重大なものではないといわなければならない。しかも、戸別訪問と右の害悪との因果関係つまり戸別訪問による害悪発生の確率はきわめて小さいといわなければならない。そして、半面戸別訪問の民主々義体制下における選挙運動としての意義は高く評価されるべきである。投票買収等の不正行為の害悪性の重大性にてらせば、仮に戸別訪問とそれら害悪との因果関係が稀薄であっても、それを全く無視することができない以上やはり戸別訪問のもたらす害悪は重大であるとする見解もあり得るが、このような見解は、投票買収等の不正行為に少しでもつながる行為を完全に排除しようとする潔癖さを強調する余り、その行為の選挙運動としての意義の側面を看過するものであって、やはり一面的な思考方法であるといわなければならない。そしてまた、前叙のとおり、今日の世論も戸別訪問解禁を指向しているのであって、このことは、少なくとも戸別訪問禁止条項の立法事実に対する価値評価が低下して来ているという憲法状況の変化の現われであると理解することができるのである。これらのことを総合すると、結局戸別訪問のもたらす害悪はそれほど大きいものではないと判断されなければならないのである。

そこで、害悪が小さくても戸別訪問の禁止は特定の表現手段を規制するにすぎないので、前叙のとおり害悪小制約小の図式に従ってその規制が正当化されるか否かについてである。たしかに選挙運動においては、戸別訪問によらなくても候補者が自己の政策や人物を選挙人に訴える方法は他にも存在する。しかし、先に些細に検討したように、戸別訪問には他の選挙運動にはない候補者や運動員らと選挙人との直接の接触による対話ということや、財力もなくマスメディアを利用できない一般民衆が手軽に行える選挙運動であること等の長所があるのであり、しかもこのことが、民主主義体制下における選挙としてきわめて望ましいことなのである。このように、実際には複数の表現手段が存在しても、それぞれの効用に大小があり、表意者はより効用の大きい表現手段を選ぶことは必然であって、また当の表意者側の事情により現実には複数の表現手段があっても、そのうちのいずれをも選択できるという自由を有しない場合もあるのである。従って、仮に特定の表現手段が規制されたにすぎない場合であっても、表現の内容自体が規制されたのに匹敵するぐらいの弊害が生ずることがあり得るのである。これらのことから、単純に複数の表現手段のうちある特定の表現手段を規制しても他の表現手段が許されている以上小さい害悪をもってしても右規制を正当化することができるとは必ずしもいえないのである。

そして、規制の態様ならびに程度をみても、公選法の戸別訪問の禁止は無条件の全面禁止である。これは、戸別訪問という特定の表現手段自体としてみれば、表現の自由の全面規制であり、またこれを選挙運動全体における表現手段としてみても、表現の自由の一部規制ではあるけれども、きわめて重要な表現手段の規制であって表現の自由の重大な侵害であるといわなければならない。

このように見てくると、戸別訪問のもたらす害悪は比較的小さいものであるにもかかわらずこれを全面禁止することは、前叙の図式によれば害悪小制約大の関係に該当し、表現の自由に対する制約としての必要最小限度の基準を逸脱していることが明らかであって、戸別訪問禁止についての合理的根拠は遂に見い出せないといわなければならない。よって、公職選挙法一三八条一項、二三九条三号は憲法二一条に違反する無効の規定であると判断される。

第五、法定外文書頒布禁止条項(公職選挙法一四二条一項一号、二四三条三号)の合憲性

被告人弁護人は、公選法が選挙運動用文書を一定限度に制限し、それ以上の文書の頒布を禁止していることは、表現の自由を保障する憲法二一条に違反すると主張するので判断する。

公選法一四二条一項一号は、選挙運動のために使用する文書は、衆議院議員の選挙にあっては「公職の候補者一人について、通常葉書三万五千枚、ならび当該選挙に関する事務を管理する選挙管理委員会に届け出た二種類以内のビラ二万枚に当該選挙区内の議員の定数を乗じて得た数」以外、これを頒布してはならないと規定している。なお昭和二五年公職選挙法制定当時の同条項は、通常葉書のみの頒布を認めるものとし、その枚数を衆議院議員選挙につき候補者一人あたり三万枚としていたが、昭和二七年の改正でこれを一万枚に削減し、その後数次の改正でその枚数を徐々に増加していき、結局昭和五〇年七月の改正で通常葉書の枚数を三万五千枚とし、さらにこれに、右のとおりの枚数のビラを付加したものである。そして、このうち葉書は無料となっている(なお本件は衆議院議員選挙に関するものなのでこの点からのみ判断を加える)。

文書を通じて候補者の政策や政見あるいは人物像を選挙人に訴えるという選挙運動は、きわめて有効な手段であり、しかも簡易で日常的な方法であるというべきである。かかる文書活動が、憲法二一条で保障されている言論・出版その他一切の表現の自由に含まれることは論を俟たない。そして、前叙の戸別訪問についてるる説示したとおり、民主主義体制における選挙運動はできるだけ自由闊達に行なわれるのが望ましいことであるから、文書活動についても、これがあらぬ理由をもって制限されることがあってはならないこともまた自明の理である。特に文書活動には戸別訪問について指摘されたような投票買収の機会になるということもあり得ず、その他威圧や利益誘導等の実質的不正行為につながるということも考え難い。そして、弁護人提出にかかる前掲証拠としての文献や新聞記事等によれば、学者や識者らの間では文書制限撤廃の主張も有力であり、特に昭和二五年の公職選挙法制定当時の文書制限の理由の一つが当時の用紙不足にあったことから、当時と今日とでは大きな社会情勢の変化、延いては憲法状況の変化があるというべきである。

この中にあって、文書を制限する理由として今日指摘されていることは次のとおりである。すなわち、文書の無制限な頒布を認めるときは、それに要する費用と労力は甚大なものになり、経済的に富める候補者がそうでない候補者に比べ選挙運動に著しく優位を占める結果となり、選挙の適正な執行を期し難いというのがその主要なものであるが、その他巷に文書が濫乱していわゆるビラ公害を起すとか、徒に他候補者を非難中傷する趣旨の文書が頒布され、選挙戦を熾烈なものにするなどの理由があげられている。このうち、いわゆるビラ公害については、文書活動を自由化することの選挙運動としての意義にてらして、それによってもたらされる害悪としてはきわめて小さいものであって無視し得るものというべきである。また徒に非難中傷文書が頒布されるということについても、事前に文書を選挙管理委員会に届出させることによってチェックできるのであるから、そのような害悪の流される虞れは少いというべきである。残るは費用がかかり過ぎるということであるが、たしかに文書頒布を無制限に認めると、候補者間の経済力による優劣の差が歴然として、立候補の機会均等の保障という見地からも妥当ではなく、特に今日世論の強い批判を浴びているいわゆる金権選挙の弊を助長することになるというべきであろう。金のかかる選挙は、またその金の捻出のための悪事を生み、結局政治や社会を腐敗せしめていることは、今日公知の事実であって、今や国民こぞってこの悪弊を根絶するための努力を怠ってはならない。かかるわが国の今日的要請を顧みるとき、選挙運動はできるだけ費用をかけないで行なうべきものであって、単に法定選挙費用の制限があるからといって必ずしも充分ではないといわなければならない。このことから、用紙不足ということに関しては今日憲法状況の変化があるといえても、右のような新たな状況から文書頒布を制限すべき立法事実は今日なお存在し、そしてこれには一応の評価が与えられてしかるべきであるといわなければならない。しかし、費用のかかり過ぎる選挙の弊害を防止するにはひとり文書の制限にたよるばかりでは足らず、表現の自由の制限と直接関係のない方面におけるもっと抜本的な強力な規制を必要とするであろう。従って文書の自由化による害悪といっても、文書活動の選挙運動としての意義や表現の自由の本旨にてらせば、必ずしも重大なものということはできない。だから、文書制限と表現の自由との判断に関しては、文書活動の自由化(文書制限の撤廃)のもたらす害悪と文書制限の態様あるいはその程度との相関関係が微妙なものになるというべきであろう。(なお前叙のとおり戸別訪問の禁止理由といわれる多額経費論を支持しないということと、文書頒布制限の理由として多額経費論を支持するということとは矛盾するものではない。何故なら、戸別訪問は本来費用のかかるものではないので、それに費用をかけなければならないような候補者の選挙運動の自由はそもそも保護に値しないのであるが、文書活動は必然的に費用を伴うものであるからである。このことからも費用のかからない戸別訪問が奨励されてしかるべきなのである)。

そこで、文書制限の態様あるいは程度についてみるに、前叙のように、公選法は文書活動を全面禁止しているものではなく、昭和五〇年改正後の現行規定としては、衆議院議員選挙に関し、通常葉書三万五千枚、およびビラ二万枚に当該選挙区の議員定数を乗じた数の文書の頒布の自由を認め、それ以外の文書の頒布を禁止しているものである。豊富な資金力のもとに莫大な文書による選挙運動を行なおうとする者にとっては、右の制限はかなり厳しいものであるかも知れない。しかし、民主主義体制下の選挙の理想として、かかる資力の強大な者ではなく、ごく一般の候補者となりうる者の「平均的資力」を前提にし、同時に法定選挙費用の趣旨にてらして考えれば、通常の選挙運動の型態をとる限り、文書の数にはおのずから上限があるというべきである。従って、右上限を基準にして現行法の許容する文書の程度を考えれば、右制約はそれほど大きなものではないということができるのではないだろうか。すなわち、このことを前叙の図式にあてはめれば、害悪小制約小に該当し、そして、害悪「小」の方は前叙の趣旨にてらせばやや「大」寄りと評価すべきものであって、微妙なところではあるが、結局現行法の右のとおりの文書制限は、必ずしも不当に選挙運動を制約するものとは断定できず、文書の自由化のもたらす害悪を防止するため、表現の自由を制約する原理としての必要最小限度の基準をいまだ逸脱するものではないといわなければならない。

以上のことから、結局公選法一四二条一項一号、二四三条三号は憲法に違反しないと判断される。

第六、結論

以上の次第であるから、結局本件については、まず検察官の公訴は有効であり、次に本件公訴事実中、被告人は、柏さくじ候補にかかる選挙運動用の法定外文書を頒布したという点についてのみ有罪となり、その余の戸別訪問の点については、被訪問者久保昭一、同菅野マサに対する関係では公選法一三八条一項の構成要件に該当せず、その余の被訪問者に対する関係では、同条項の構成要件には該当するが、同条項が憲法二一条に違反する無効の規定であるから、結局罪とならないことになる。ただし法定外文書頒布罪と戸別訪問罪とは観念的競合の関係になるので、戸別訪問については被告人に対し無罪の言渡しをしない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 穴澤成巳)

<以下省略>

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