知財高等裁判所 平成19年(行ケ)10378号 判決 2008年6月30日
原告
シオノケミカル株式会社
訴訟代理人弁理士
望月孜郎
井手浩
被告
ファイザー・インコーポレーテッド
訴訟代理人弁護士
牧野利秋
那須健人
訴訟代理人弁理士
小野新次郎
江尻ひろ子
寺地拓己
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1原告の求めた裁判
「特許庁が無効2007-800042号事件について平成19年10月1日にした審決を取り消す。」との判決。
第2事案の概要
本件は,原告が,被告を特許権者とする後記本件特許の請求項1に係る発明の特許につき無効審判請求をしたが,審判請求は成り立たないとの審決がなされたため,同審決の取消しを求めた事案である。
1 特許庁における手続の経緯
(1) 本件特許(甲第1号証)
特許権者:ファイザー・インコーポレーテッド(被告)
発明の名称:「結晶性アジスロマイシン2水和物及びその製法」
特許出願日:昭和63年7月6日(特願昭63-168637号)
優先権主張日:1987年(昭和62年)7月9日
設定登録日:平成7年2月8日
特許番号:特許第1903527号
(2) 本件手続
審判請求日:平成19年3月1日(無効2007-800042号)
審決日:平成19年10月1日
審決の結論:「本件審判の請求は,成り立たない。」
審決謄本送達日:平成19年10月12日(原告に対し)
2 本件発明の要旨
本件特許の請求項1に記載された発明(以下「本件発明」という。なお,請求項の数は3個である。)の要旨は,以下のとおりである。
「【請求項1】結晶性アジスロマイシン2水和物。」
3 審決の理由の要点
審決は,原告の主張及び証拠によっては,本件発明の特許を無効とすることはできないとしたものであり,その理由は以下のとおりである(各章の番号又は符号を変更した部分がある。)。なお,審決の甲第1~第7号証に係る証拠番号は,本訴の証拠番号と同一であり,また,審決の乙第5号証,乙第7号証,乙第8号証は,順次本訴の甲第12号証,甲第14号証,甲第15号証である。
(1) 請求人(原告)が主張する無効理由の摘示
「請求人は,・・・下記甲第1~7号証を提出し,本件特許の請求項1に記載の発明は,本件出願前に頒布された甲第2号証に記載された発明であり,特許法第29条第1項第3号の規定に違反して特許されたものであるから,同法第123条第1項第2号により,無効とされるべきであると主張している。
証拠方法
甲第1号証:特公平6-31300号公報(本件公告特許公報)
甲第2号証:X SASTANAK KEMICARA HRVATSKE(第10回クロアチア化学者会議),1987年2月16日~18日,第29頁
甲第3号証:J.Chem.Research(S),1988年,第152~153頁
甲第4号証:特表2005-529082号公報
甲第5号証:国際公開第02/09640号パンフレット
甲第6号証:欧州特許第0984020号明細書
甲第7号証:『実験報告書』と題する文書 (シオノケミカル株式会社研究部A作成)」
(2) 甲第2号証の記載事項の認定
「請求人が提出した甲第2号証はクロアチア語で記載された文書であるため,特許法施行規則第61条にしたがい,その文書の翻訳文・・・が添付されている。当該翻訳文の記載内容は以下のとおりである。
『A-2
11-メチルアザ-10-デオキソ-10-ジヒドロエリスロマイシンA(DCH3)の構造研究
B.カナメル,A.ナグルおよびD.ムルヴォシュ
ザグレブ大学,理学部,化学科および分析化学科
我々のエリスロマイシンA誘導体の構造研究を継続中である。新たな15員環シリーズのエリスロマイシンAのいわゆるDCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)を室温条件下でエーテルから再結晶した。角柱形で高硬度の半透明の結晶が得られている。
フィルム法によって単位格子のパラメータを求め,また化合物の密度を浮揚法により測定した。
結晶学的データ:C38H72O12N2,Mr=748g/mol,斜方形,空間群P212121,a=17,860(4)Å,b=16,889(3)Å,c=14,752Å,D。=1,174g/cm3,Dx=1,177g/cm3,Z=4。
反射光線強度および単位格子パラメータを,CuKα線を用いた自動回折計PhilipsPW1100で測定した。直接法(Multanプログラム)を用いた構造解析は現在進行中である。得られたデータを現在のデータと比較する予定である。』
・・・・・
甲第2号証の記載は上記のとおり,化合物名や化学処理操作,結晶の物性値(組成式,分子量,X線回折結果,密度)等の化学分野特有の技術用語によるものが殆どであって,原文との対照が可能であり,翻訳文は原文をほぼ正確に表したものと認めることができる。」
(3) 本件発明が甲第2号証に記載された発明であるかどうかの判断
「一般に,ある発明を特許法第29条第1項第3号に掲げる刊行物に記載された発明というためには,その発明が記載された刊行物において,当業者が,当該刊行物の記載及び本件優先日当時の技術常識に基づいて,その発明に係る物を製造することができる程度の記載がされていることが必要であり,特に新規な化学物質の発明の場合には,刊行物中に化学物質が十分特定され,その化学物質の製造方法が当業者が理解できる程度に開示されていることが必要である。
そこで甲第2号証についてみるに,当該文献中の11-メチルアザ-10-デオキソ-10-ジヒドロエリスロマイシンAの結晶(以下,『結晶A』という。)については,『角柱形』,『高硬度』,『半透明』を呈することや,組成式,分子量,結晶学的データによって化学物質としての特定がされているが,かかる結晶が,2水和物であるとの明記はなく,当業者といえども上記物性データから直ちに2水和物であると理解することはできない。
しかしながら,格子定数は結晶性物質の固有の値であるところ,結晶Aの格子定数である『a=17,860(4)Å,b=16,889(3)Å,c=14,752Å』が,本件優先日後の文献である甲第3号証,甲第4号証に記載のアジスロマイシン2水和物の結晶の格子定数と一致することからすると,組成式,分子量は無水物に相当するとはいえ,甲第2号証において結晶Aとして得られた物質は実質的には本件発明のアジスロマイシン2水和物であったと推定できる。
したがって,結晶Aがアジスロマイシン2水和物であると認識されていなくとも,甲第2号証に記載の製法に従い結晶Aが製造できるのであれば,甲第2号証には実質的に本件発明が記載されていることとなる。
そこで検討するに,甲第2号証には,結晶Aの製造方法として,『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)を室温条件下でエーテルから再結晶した。』ことが記載されているにすぎず,原料である『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』の製造方法や入手方法については何等記載がない。
また,『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』が,『11-メチルアザ-10-デオキソ-10-ジヒドロエリスロマイシンA』の結晶であってそれをエーテルで再結晶させて結晶Aを製造することが甲第2号証の記載から理解できるとしても,本件特許出願の優先権主張日(以下,『本件優先日』という。)当時,『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』と同等なアジスロマイシンの結晶の製造方法や入手方法を技術常識として当業者が知悉していたとするに足る理由はない。
そうすると,甲第2号証には,結晶Aの製造方法が当業者が理解できる程度に開示されているとはいえないから,同号証に結晶Aの発明が記載されているとはいえず,したがって,結晶Aと実質的に同一である『結晶性アジスロマイシン2水和物』の発明が甲第2号証に記載されていたとすることはできない。」
(4) 甲第7号証についての検討
「請求人は,甲第7号証を提出し,『当業者が甲第2号証に記載の方法を追試した結果得られるアジスロマイシンの結晶は,本件特許発明と同一のアジスロマイシンの二水和物結晶であることが甲第7号証から,確認された。』(審判請求書の5頁下から5行~下から3行),『本件特許発明のアジスロマイシンの二水和物結晶は,当業者が甲第2号証を追試すれば当然に得られるものである』(審判請求書の7頁9行~10行)とし,審査基準や平成2年(行ケ)第236号判決(乙第8号証)の判示事項を引用して,『甲第2号証は,アジスロマイシンの上記2水和物の結晶に関する発明を,『記載されているに等しい事項』として含み,この結果,本件発明は,『刊行物に記載された発明』となることは明かである。』(審判請求書の7頁10行~13行)と主張している。
そこで,以下検討する。
ア 甲第7号証が示す実験内容
甲第7号証の実験における,『原料-01』,『再結晶溶媒』,『再結晶方法及び結果』は次のとおりのものである。
(ア) 原料-01(アジスロマイシン無水物)
『文献1(審決注:甲第5号証で提示された国際公開第02/09640号パンフレット)に記載の方法を参考にして,非晶質の無水アジスロマイシンを得た。得られた無水物のXRDパターンは,文献1(Fig.5)又は文献2(審決注:甲第6号証で提示された欧州特許第0984020号明細書)(Fig.1)に掲載されているアジスロマイシン無水物と同様に明瞭なXRDパターンを示さなかった(図1)。また,そのIRスペクトルも文献1(Fig.1)に掲載されているアジスロマイシン無水物のものと一致した(図2)。本実験で調製した非晶質の無水アジスロマイシンの水分含量は0.6806%であり,吸湿性の粉末であった。この原料-01は25℃,湿度45%に1.5時間放置するとその水分含量は1.4441%まで上昇した。』(甲第7号証の1枚目,『3.原料及び再結晶溶媒』の『(1)原料-01(アジスロマイシン無水物)』の項)
(イ) 再結晶溶媒
『溶媒のエーテルは,関東化学(株)の特級エーテル(水分含量0.0315%)を使用した。』(甲第7号証の1枚目,『3.原料及び再結晶溶媒』の『(2)再結晶溶媒』の項)
(ウ) 再結晶方法及び結果
『原料-01(1.63g)を加熱によりエーテル25ml(又は50ml)に完全に溶解させた後,その溶液を50mL(又は100mL)三角フラスコに移し,口をアルミホイルで巻き,針によって穴を3箇所開け,室温にて静置した。
上記再結晶における溶媒に対する原料の濃度は各々,6.5%(25ml),3.3%(50ml)であった。』(甲第7号証の1枚目,『4.実験』の項)
『上記方法にて静置した原料-01の再結晶溶液のうち,濃度6.5%の溶液から2日で析出結晶が認められた。』(甲第7号証の1枚目,『5.実験結果』の項)
イ 甲第7号証が甲第2号証に記載の方法の追試といえるか
甲第7号証では,再結晶に供する原料-01は,非晶質の無水アジスロマイシンであって,甲第5号証に記載の方法を参考にして得たものであるとされている。
しかし,甲第2号証によれば『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』が組成式:C38H72O12N2,分子量:748g/molを持つアジスロマイシンであることが理解できるに過ぎず,その製造方法や入手方法は明らかでないから,本件優先権日以降に頒布された刊行物である甲第5号証に記載の方法を参考にして得られた原料-01が,甲第2号証に記載の『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』と同等のものであると解すべき理由はない。
よって,原料-01は,甲第2号証に記載の方法の追試における適切な原料とはいえないので,甲第7号証が甲第2号証に記載の方法を忠実に再現した追試ということはできない。
また,甲第7号証の実験では,再結晶の過程で水の添加が行われていないにもかかわらずアジスロマイシンの無水物からアジスロマイシンの2水和物が得られたとされているが,以下に示すとおり,再結晶処理では無水物から純粋な無水物,粗2水和物から純粋な2水和物が得られるという乙第7号証の記載及び水を添加する結晶化操作によってアジスロマイシンの2水和物が得られるという甲第4号証の記載に照らすと,通常のエーテルによる再結晶操作からでは,無水物から2水和物は得られないものと考えられる。
すなわち,甲第2号証で行われている『再結晶』操作は,乙第5号証に示されるように『結晶性物質を適当な溶媒を使って精製する一方法』であり,その性質上,原料結晶と再結晶後の結晶で異なる物が得られることは通常予定されないものである。
アジスロマイシンもその例外ではなく,たとえば甲第2号証と著者が共通する乙第7号証では,ジエチルエーテルからの再結晶操作で,アジスロマイシン無水物からは純粋な無水物の白色結晶(1252頁18行~25行),粗2水和物からは純粋な2水和物(1252頁下から10行~1253頁1行)が得られている。また,甲第4号証では『非吸湿性9-デオキソ-9a-アザ-9a-メチル-9a-ホモエリスロマイシンA二水和物は,早くも1980年代半ばには,9-デオキソ-9a-アザ-9a-メチル-9a-ホモエリスロマイシンAの酸性溶液をアセトン-水混合物中で中和することによって得られた。この二水和物の結晶構造(単結晶)はエーテルから再結晶化する際に検討され・・・格子定数・・・については,1987年のクロアチア化学者会議で公表された(1987年2月19~20日,クロアチア化学者会議,要旨集,29頁)。』(段落【0009】)と記載され,アセトン-水混合物中での中和により得られた2水和物の結晶がエーテルによる再結晶に供されている。
さらに,甲第4号証には,『米国特許第6,268,489号において,9-デオキソ-9a-アザ-9a-メチル-9a-ホモエリスロマイシンA二水和物が示された。この特許には,水を添加しながらテトラヒドロフラン及びヘキサンから結晶化することによって該二水和物を調製することが開示されている。・・・他の技法については,米国特許第5,869,629号や欧州特許第0941999号,欧州特許第1103558号,クロアチア特許第921491号,国際公開WO01/49697号,国際公開WO01/87912号等の特許文献に記載されている。これらに記載された様々な方法は,水を添加して水混和性溶媒から再結晶化することによって該二水和物を析出することを伴う。』(段落【0010】~【0011】)と記載され,アジスロマイシンの2水和物が水を添加する結晶化操作によって得られることが報告されている。
そうすると,甲第7号証の実験により,アジスロマイシンの無水物からアジスロマイシンの2水和物が得られたにしても,それは水含有量の多い原料の使用或いは高湿度環境下での再結晶操作など,甲第2号証には記載されていない特殊な条件下で再結晶が行われた結果として偶発的に2水和物が生じたと解さざるを得ず,そのような再結晶操作はもはや甲第2号証で予定する通常のエーテルによる再結晶操作ということはできない。
ウ 小括
甲第7号証は,甲第2号証に記載された方法を正確に追試したものとみることはできないから,『アジスロマイシン2水和物』が,甲第2号証に記載された事項から当業者に導き出せたものということはできない。」
(5) 審決の「むすび」
「以上のとおりであるから,請求人の上記主張及び証拠によっては,本件発明の特許を無効とすることはできない。」
第3原告の主張(審決取消事由)の要点
1 取消事由1(新規性判断の方法の誤り)
(1)ア 審決は,「一般に,ある発明を特許法第29条第1項第3号に掲げる刊行物に記載された発明というためには,その発明が記載された刊行物において,当業者が,当該刊行物の記載及び本件優先日当時の技術常識に基づいて,その発明に係る物を製造することができる程度の記載がされていることが必要であり,特に新規な化学物質の発明の場合には,刊行物中に化学物質が十分特定され,その化学物質の製造方法が当業者が理解できる程度に開示されていることが必要である。」とした上,「甲第2号証には,結晶Aの製造方法が当業者が理解できる程度に開示されているとはいえないから,同号証に結晶Aの発明が記載されているとはいえず,したがって,結晶Aと実質的に同一である『結晶性アジスロマイシン2水和物』の発明が甲第2号証に記載されていたとすることはできない。」と判断した。
しかしながら,本件特許に係る明細書(甲第1号証。ただし,全文訂正後のもの。以下「本件明細書」という。)にも記載(1頁右欄4~6行)があるとおり,アジスロマイシンは,本件特許出願に係る優先権主張日(以下,審決と同様に「本件優先日」という。)当時,米国特許第4,474,768号及び同第4,517,359号として公知となっており,化学物質としての新規性を失っている。すなわち,本件発明は,新規の化学物質ではなく,公知の化学物質であるアジスロマイシンの特定の物理的構成(2水和物)に関する発明であるのに,審決は,特許・実用新案審査基準の特許法29条1項3号に係る「刊行物に記載された発明」に関する部分(甲第23号証。以下単に「審査基準」という。)の,新規の化学物質に適用される「刊行物に化学物質名又は化学構造式によりその化学物質が示されている場合において,当業者が本願出願時の技術常識を参酌しても,当該化学物質を製造できることが明らかであるように記載されていないときは,当該化学物質は『引用発明』とはならない」(8頁15~17行)との規定(以下,審査基準のこの規定を「本件審査基準規定」という。)を本件発明に適用し,甲第2号証が,特許法29条1項3号の刊行物といえるためには,甲第2号証に,結晶Aの製造方法が当業者が理解できる程度に開示されていなければならないとした誤りがある。
そもそも,新規な化学物質の発明に関し,本件審査基準規定が適用されるのは,化学物質は,実際にこれを取得していなくとも,化学名や構造式によって表現することができるものであるから,それ以前の刊行物に,当該化学物質について取得の裏付けがない希望的記載や投機的記載等があったことにより,現実に当該化学物質を取得した者が,新規性を欠くとして特許権が付与されないのは,不合理であるという理由に基づくものである。
しかるに,甲第2号証に結晶Aとして記載されているのは,単なる化学名や構造式ではなく,審決が「『角柱形』,『高硬度』,『半透明』を呈することや,組成式,分子量,結晶学的データによって化学物質としての特定がされている」と認定するとおり,そのような化学物質であるアジスロマイシン2水和物が現実に得られ,存在することは明らかである。したがって,本件発明の新規性の判断に,本件審査基準規定を適用する必要は存在しない。
イ 被告は,物の発明の場合に,特許法29条1項3号の刊行物につき,当業者がその物を作れる程度の開示が求められるのは,特別の思考を要することなく,容易にその技術的思想の実施を可能にするためであると主張するが,同号の規定の適用において,当該刊行物に記載された発明につき,当業者が容易に実施できるような開示が要求されていないことは,特許法上明らかである。
なお,物の発明につき,「物としての同一性を判断するに当たって,これと対比される刊行物の記載には,物の構成が開示されておれば十分とすべきであって,その物を製造する具体的な方法(あるいは,そのような具体的な方法を得る手掛り)まで開示されている必要は必ずしもないというべきである。」とした裁判例(東京高裁平成3年(行ケ)第8号,同年10月1日判決,審決取消訴訟判決集(27)1頁)がある。
また,被告は,甲第2号証には本件発明の構成が開示されているということはできないと主張するが,甲第2号証に記載された結晶Aの格子定数は,B.kamenarらによる「Erythromycin Series. Part 13. Synthesis and Structure Elucidation of 10-Dihydro-10-deoxo-11-methyl-11-azaerythromycin A(エリスロマイシンシリーズ.パート13.10-ジヒドロ-10-デオキソ-11-メチル-11-アザエリスロマイシンAの合成及び構造解明)」と題する論文(甲第3号証)及び特表2005-529082号公報(甲第4号証)に,それぞれアジスロマイシン2水和物の格子定数として記載された数値と一致するのであるから,甲第2号証に記載された結晶Aがアジスロマイシン2水和物と特定されることは明らかである。この場合に,甲第3,第4号証は,甲第2号証に記載された結晶Aが,格子定数など,固有の物性値によって特定されるものの,甲第2号証には,2水和物であることの明示的な記載は存在しないので,それが2水和物であるという事実を確認するために用いるにすぎないものであるから,甲第3,第4号証自体が,本件優先日後に頒布された刊行物であることは,問題とならない。特許法29条1項3号の適用においては,本件発明と同一の物が本件優先日前に存在したか否かが問題となるのであって,その事実が,本件優先日後に頒布された刊行物を参照することにより左右されるものではない。
(2) 仮に,本件発明が甲第2号証に記載された発明であると判断するために,甲第2号証にその発明に係る結晶Aの製造方法が記載されていなければならないものとしても,その記載の程度は,新規の化学物質と同等である必要はないというべきである。
すなわち,甲第2号証により,公知物質(アジスロマイシン)について,その新規な構成である結晶型(2水和物)の発明が具体的構成をもって示されたところ,このような場合には,仮にその結晶型の製法が甲第2号証に記載されていなくとも,当業者は,若干の試行錯誤により容易にその結晶型を得ることができる。既に原料は分かっており,しかも,特定の化合物の結晶型は数種類しかないことが明らかであるから,類似化合物の結晶化法を参照して試行錯誤し,得られた結晶の物性を確認することにより,目的とする新規な結晶に到達できるからである。
まして,甲第2号証には,製法に関して「室温条件下でエーテルから再結晶した」との記載があるが,原料として指定された「DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)」が現在入手不可能というだけである。しかしながら,後記のとおり,甲第2号証が刊行された1987年(昭和62年)2月16日当時,入手可能であったアジスロマイシンは,1水和物と無水物だけであったのであるから,上記「DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)」もそのいずれかであったことが明らかであり,したがって,「DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)」が入手できなくとも,1水和物と無水物のいずれかがこれに当たるとして,甲第2号証に記載されたアジスロマイシン2水和物を得ることができるのである。
このように,本件については,実際に存在するかどうかが不明な新規の化学物質の場合とは全く異なるものである。
2 取消事由2(甲第7号証についての判断の誤り)
(1) 審決は,原告従業員である今井英治が行った甲第2号証記載の方法に対する追試に係る報告書である甲第7号証(以下,甲第7号証に記載された甲第2号証記載の方法に対する追試を「甲第7号証の追試」という。)に対する判断において,「甲第7号証では,再結晶に供する原料-01は,非晶質の無水アジスロマイシンであって,甲第5号証に記載の方法を参考にして得たものであるとされている。しかし,甲第2号証によれば『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』が組成式:C38H72O12N2,分子量:748g/molを持つアジスロマイシンであることが理解できるに過ぎず,その製造方法や入手方法は明らかでないから,本件優先権日以降に頒布された刊行物である甲第5号証に記載の方法を参考にして得られた原料-01が,甲第2号証に記載の『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』と同等のものであると解すべき理由はない。
よって,原料-01は,甲第2号証に記載の方法の追試における適切な原料とはいえないので,甲第7号証が甲第2号証に記載の方法を忠実に再現した追試ということはできない。」と判断した。
しかしながら,甲第2号証が刊行された1987年(昭和62年)2月16日前に知られていたアジスロマイシンは,特開昭57-158798号公報(甲第8号証。米国特許第4,517,359号明細書の対応日本出願に係る公報)の実施例1に記載されたもの及び特開昭59-31794号公報(甲第9号証。米国特許第4,474,768号明細書の対応日本出願に係る公報)の実施例3に記載されたもののみであり,このうち,特開昭57-158798号公報の実施例1に記載されたものは無水物の非晶質であり(特表2005-529082号公報(甲第4号証)段落【0007】参照),特開昭59-31794号公報の実施例3に記載されたものは1水和物の結晶である(本件明細書1頁右欄14行~2頁左欄2行参照)。すなわち,甲第2号証の刊行日前に知られていたアジスロマイシンは,無水物と1水和物のみであったから,甲第2号証記載の方法で用いられたアジスロマイシンが,そのいずれかであったことは明らかである。
そして,甲第7号証の追試では原料としてアジスロマイシンの無水物を使用しており,また,原告が,別途施行した甲第2号証記載の方法に対する追試(当該追試に係る報告書は甲第17号証であり,以下,この追試を「甲第17号証の追試」という。)では,原料として1水和物を使用して,いずれもアジスロマイシン2水和物を得たのであるから,これらの追試は,甲第2号証記載の方法に対する追試として適切な原料を用いたものであることは明らかであり,審決の上記判断は誤りである。
(2) また,審決は,甲第7号証の追試に対する判断において,①化学大辞典3(甲第12号証。審決乙第5号証)に,「再結晶」が「結晶性物質を適当な溶媒を使って精製する一方法」(781頁左欄)であると記載されていること,②B.kamenarらによる「Erythromycin Series. Part 13. Synthesis and Structure Elucidation of 10-Dihydro-10-deoxo-11-methyl-11-azaerythromycin A(エリスロマイシンシリーズ.パート13.10-ジヒドロ-10-デオキソ-11-メチル-11-アザエリスロマイシンAの合成及び構造解明)」と題する論文(甲第14号証。審決乙第7号証)に,ジエチルエーテルからの再結晶操作により,アジスロマイシン無水物からは純粋な無水物の白色結晶が,粗2水和物からは純粋な2水和物が得られると記載されていること,③特表2005-529082号(甲第4号証)に,アジスロマイシン2水和物が水を添加する結晶化操作によって得られると記載されていることを挙げて,「甲第7号証の実験により,アジスロマイシンの無水物からアジスロマイシンの2水和物が得られたにしても,それは水含有量の多い原料の使用或いは高湿度環境下での再結晶操作など,甲第2号証には記載されていない特殊な条件下で再結晶が行われた結果として偶発的に2水和物が生じたと解さざるを得ず,そのような再結晶操作はもはや甲第2号証で予定する通常のエーテルによる再結晶操作ということはできない。」と判断した。
しかしながら,上記①~③は,以下のとおり,審決の上記判断の根拠足りうるものではない。
すなわち,①については,再結晶の前後で,化学物質として異なるものとなることは予定されていないとしても,鈴木郁生ほか6名編「医薬品の開発」(甲第19号証)に,「化合物を再結晶する時,一定の割合の溶媒を伴って結晶化する場合があり,この物を溶媒和物という.」(168頁4~5行)との記載があるとおり,再結晶の前後で同一の化学物質ではあるものの,再結晶後の結晶中に溶媒が取り込まれる点において結晶としては異なる溶媒和物となることはあり得るのであり,①の化学大辞典3の記載は,審決の上記判断の根拠とはならない。
次に,②については,確かに,甲第14号証には審決の指摘した記載があるが,現在まで,甲第14号証以外に,アジスロマイシン無水物の結晶は全く報告されていない。かえって,国際公開第02/09640号パンフレット(甲第5号証)のFIG.5や欧州特許第0984020号明細書(甲第6号証)のFigure1に示されたアジスロマイシン無水物のX線回析パターンには,いずれも明瞭なピークが見られず,アジスロマイシン無水物が非晶質であることを示しており,また,特表2005-529082号公報(甲第4号証)の段落【0007】には,米国特許第4,517,359号明細書に記載された未精製の無水アジスロマイシンが非晶質であること,純粋の無水アジスロマイシンも非晶質であることが記載されている。そうすると,ジエチルエーテルからの再結晶操作によりアジスロマイシン無水物の白色結晶が得られたとする甲第14号証の記載は信憑性に欠けるものであり,このような記載に基づいて,無水物から2水和物が得られないとした審決の上記判断は誤りである。
さらに,③については,確かに,甲第4号証には審決の指摘した記載があるが,このような記載のみにより,水を別途添加しなければ,アジスロマイシン無水物から2水和物を得ることができないということはできない。すなわち,甲第18号証は,甲第7号証の追試につき,より詳細な条件や水分の測定結果等を追記したものであるが,これに記載されたとおり,この実験で得られたアジスロマイシン2水和物結晶(SC-01)の収量は0.65g(650mg)で,その水分含量は4.45%であるから,この結晶を得るのに必要な水の量は28.925mgにすぎず,この程度の水の量は,別途添加しなくとも,通常の再結晶操作の過程で容易に混入し得るものである。すなわち,エーテルは吸湿性の高い有機溶媒であり,開放系に放置しておくだけで,水が混入して溶媒の一部となり,再結晶の過程で結晶に取り込まれて水和物として結晶化することはあり得るのである。
以上のとおり,上記①~③とも,審決の上記判断の根拠となるものではない。審決は,甲第7号証の追試が,「水含有量の多い原料の使用或いは高湿度環境下での再結晶操作など,甲第2号証には記載されていない特殊な条件下で再結晶が行われた結果として偶発的に2水和物が生じた」と判断したが,甲第7号証の追試に原料として用いたアジスロマイシン無水物の水分は0.6806%であり,また,溶媒であるエーテルの水分は0.0315%であって,いずれも特に高いものではなく,また,実験室内の平均湿度は49%であるから,高湿度環境というようなものでもない。さらに,原料を溶解させたエーテルを三角フラスコに移して室温で静置する際,フラスコの口をアルミホイルで巻いた上,穴を3カ所空けたが,平山令明編「有機結晶作製ハンドブック」(甲第22号証)35頁8~17行に記載されているとおり,溶液にふたをして,そのふたに空ける穴の大きさや数を変化させることで,溶媒の蒸発の速度を制御することは,通常行われる方法である。
したがって,審決の上記判断に誤りがあることは明らかである。
第4被告の反論の要点
1 取消事由1(新規性判断の方法の誤り)に対し
(1) 原告は,本件発明の新規性に関する審決の判断に,本件発明が新規の化学物質ではないのに,新規の化学物質に適用される本件審査基準規定を適用して,甲第2号証が,特許法29条1項3号の刊行物といえるためには,甲第2号証に,結晶Aの製造方法が当業者が理解できる程度に開示されていなければならないとした誤りがあると主張するが,以下のとおり,原告の主張は失当である。
まず,アジスロマイシン自体は公知化合物であっても,本件優先日当時,アジスロマイシンの溶媒和物の存在は全く確認されていなかった。すなわち,本件優先日前の先行技術文献である特開昭57-158798号公報(甲第8号証。米国特許第4,517,359号明細書の対応日本出願に係る公報)及び特開昭59-31794号公報(甲第9号証。米国特許第4,474,768号明細書の対応日本出願に係る公報)のいずれにも,アジスロマイシンの水和物を含む溶媒和物は記載されていない。したがって,本件発明が「結晶性アジスロマイシン2水和物」と定義される以上,新規な化合物であることは明らかである。
しかも,審査基準は,一般的基準として,「ある発明が,当業者が当該刊行物の記載及び本願出願時の技術常識に基づいて,物の発明の場合はその物を作れ,また方法の発明の場合はその方法を使用できるものであることが明らかであるように刊行物に記載されていないときは,その発明を『引用発明』とすることはできない。」(8頁12~14行)と規定しており,原告が引用した本件審査基準規定は,上記一般的基準に係る例示であるにすぎない。そして,上記一般的基準は,例えば,原告が引用する東京高裁平成3年10月1日判決が,一般論として「特許出願前に頒布された刊行物にある技術的思想が記載されているというためには,特許出願当時の技術水準を基礎として,当業者が刊行物をみるならば特別の思考を要することなく容易にその技術的思想を実施し得る程度に技術的思想の内容が開示されていることが必要であると解される。」と論じているのと軌を一にするものであり,物の発明の場合に,特許法29条1項3号の刊行物につき,当業者がその物を作れる程度の開示が求められるのは,特別の思考を要することなく,容易にその技術的思想の実施を可能にするためである。
また,甲第2号証には,「新たな15員環シリーズのエリスロマイシンAのいわゆるDCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)を室温条件下でエーテルから再結晶した」こと,この再結晶により,「角柱形で高硬度の半透明の結晶が得られ」たこと,並びに当該結晶(結晶A)の分子式,分子量及び「結晶学的データ」が記載されているのみであり,結晶Aがアジスロマイシンの「2水和物」であることは開示されていない。すなわち,甲第2号証に記載されている分子式(C38H72O12N2)及び分子量(748)の記載は,アジスロマイシン無水物の分子式,分子量と正確に対応するものであって,アジスロマイシン2水和物の分子式(C38H76O14N2又はC38H72O12N2・2H2O),分子量(784)と対応するものではない。したがって,結晶が「角柱形」,「高硬度」,「半透明」を呈するとの記載や「結晶学的データ」などの記載を考慮しても,当業者が,甲第2号証に記載された再結晶による生成物を水和物であると把握することは困難であり,まして,2水和物と理解することはあり得ない。したがって,甲第2号証には,本件発明の構成が開示されているということはできない。
しかるところ,審決は,甲第2号証には,そこに記載された結晶が「2水和物であるとの明記はなく,当業者といえども上記物性データから直ちに2水和物であると理解することはできない」として,物の構成の開示がないことを認定し,その上で,明示的な開示がなくとも,実質的に開示されているか否かを判断するための要素として,甲第2号証に記載された製法に従って結晶Aが製造できるかどうかを念のため検討したものであり,かかる審決の判断手法に誤りはない。
なお,特許出願に係る発明が,引用刊行物に,明示的あるいは実質的に記載されているか否かを判断する基礎となるのは,当該引用刊行物の記載自体と,当該特許出願当時(本件においては本件優先日当時)の当業者の技術常識である。したがって,本件につき,仮に,本件優先日当時,本件発明が既に存在していたとしても,あるいは本件優先日後に頒布された他の文献から,本件優先日当時,本件発明が既に存在していたことが推定できるとしても,それだけでは,特許出願に係る発明が,特許法29条1項3号の「刊行物に記載された発明」であるということはできない。
また,原告が引用する東京高裁平成3年10月1日判決は,「物としての同一性を判断するに当たって,これと対比される刊行物の記載には物の構成が開示されておれば十分とすべきであって,さらに進んで,その物を製造する具体的な方法(あるいは,そのような具体的な方法を得る手掛り)まで開示されている必要は必ずしもないというべきである。」と説示するが,甲第2号証には,上記のとおり,本件発明に係る物の構成が開示されているといえないのであるから,本件事案が上記判決の事案と異なっていることは明らかである。
以上のとおり,審決が,甲第2号証につき,特許法29条1項3号の刊行物といえるためには,「その発明に係る物を製造することができる程度の記載がされていることが必要」であるとしたことに誤りはない。
(2) 原告は,本件発明が甲第2号証に記載された発明であると判断するために,甲第2号証にその発明に係る結晶Aの製造方法が記載されていなければならないものとしても,その記載の程度は,新規の化学物質と同等である必要はないというべきであると主張するが,以下のとおり,誤りである。
すなわち,原告は,その理由として,甲第2号証により,公知物質(アジスロマイシン)について,新規な構成である結晶型(2水和物)の発明が具体的構成を持って示されたところ,このような場合には,仮にその結晶型の製法が記載されていなくとも,当業者は,若干の試行錯誤により容易にその結晶型を得ることができると主張する。
しかしながら,上記(1)のとおり,甲第2号証には,本件発明(アジスロマイシン2水和物)の構成が開示されているということはできないから,上記主張は,その前提において誤りである。また,審決が,甲第2号証に,物の構成に係る明示的な開示がなくとも,実質的に開示されているか否かを判断するための要素として,甲第2号証に記載された製法に従って結晶Aが製造できるかどうかを検討したものであることも上記(1)のとおりであるところ,製造のため「若干の試行錯誤」を要するような記載から,本件発明が一義的に特定されて開示されているといえないことは明らかである。のみならず,「試行錯誤」は,目的とする化合物が特定された上でなされるものであり,上記(1)のとおり,甲第2号証に,アジスロマイシン2水和物の構成の開示がなく,その分子式及び分子量の記載からは,むしろアジスロマイシン無水物が開示されているものと解される状況で,2水和物を対象物として試行錯誤することはあり得ない。
また,原告は,甲第2号証には,製法に関して「室温条件下でエーテルから再結晶した」との記載があり,原料として指定された「DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)」が入手不可能というだけであるところ,甲第2号証の刊行当時,入手可能であったアジスロマイシンは,1水和物と無水物だけであったから,1水和物と無水物のいずれかがこれに当たるとして,甲第2号証に記載されたアジスロマイシン2水和物を得ることができると主張する。
しかしながら,甲第2号証の刊行後の本件優先日当時においても,先行技術文献にアジスロマイシンの溶媒和物の記載はなかったことは,上記(1)のとおりであり,したがって,無水物も1水和物も公知ではなかった。のみならず,甲第2号証の記載からは,「DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)」が公知の結晶性物質であるのか,新規な結晶性物質であるのかも明らかではなく,甲第2号証は,本件優先日当時は公知でなかった原料を精製する工程を開示していると解することもできるのであるから,「DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)」がアジスロマイシン1水和物又は無水物のいずれかであるとする原告主張には根拠がない。
さらに,昭和38年9月15日発行の化学大辞典編集委員会編「化学大辞典3」(甲第12号証)に示されているとおり,「再結晶」とは精製手段であるとするのが,本件優先日当時の技術常識であったところ,精製手段である以上,再結晶の前と後とで物質が変化するものではなく,したがって,本件優先日当時の当業者が,甲第2号証を原料とは異なる物質の製造方法と理解することはない。加えて,甲第2号証には,水和物の形成に関する記載はなく,「水」を想起させる記載すらない。また,本件優先日当時,エーテルからの再結晶により水和物が形成するとの技術常識も存在しなかった。したがって,甲第2号証の「エーテルから再結晶した」との記載から,当業者が何らかの水和物の形成を想起するということもできない。そうすると,甲第2号証の記載から,アジスロマイシン2水和物を得ることができるとする原告の主張は誤りである。
2 取消事由2(甲第7号証についての判断の誤り)に対し
原告は,甲第7号証の追試につき,審決が「甲第2号証に記載の方法を忠実に再現した追試ということはできない。」とした判断が誤りであると主張するが,以下のとおり,失当である。
(1) まず,原告は,甲第2号証の刊行日前に知られていたアジスロマイシンは,無水物と1水和物のみであったから,甲第2号証記載の方法で用いられたアジスロマイシンが,そのいずれかであったことは明らかであるとした上,甲第7号証の追試ではアジスロマイシンの無水物を,甲第17号証の追試では1水和物を,原料として使用して,いずれもアジスロマイシン2水和物を得たのであるから,これらの追試は,甲第2号証記載の方法に対する追試として適切な原料を用いたものであることは明らかであると主張するが,本件優先日当時において,先行技術文献にアジスロマイシンの溶媒和物の記載がなく,したがって,無水物も1水和物も公知ではなかったことは,上記1の(2)のとおりであるから,原告の上記主張は失当である。
(2) また,原告は,「甲第7号証の実験により,アジスロマイシンの無水物からアジスロマイシンの2水和物が得られたにしても,それは水含有量の多い原料の使用或いは高湿度環境下での再結晶操作など,甲第2号証には記載されていない特殊な条件下で再結晶が行われた結果として偶発的に2水和物が生じたと解さざるを得ず,そのような再結晶操作はもはや甲第2号証で予定する通常のエーテルによる再結晶操作ということはできない。」とした審決の判断が誤りであると主張するが,以下のとおり,失当である。
すなわち,原告は,審決が上記判断の根拠として挙げた事由のうち,まず,化学大辞典3(甲第12号証。審決乙第5号証)に「再結晶」が「結晶性物質を適当な溶媒を使って精製する一方法」であると記載されていることにつき,鈴木郁生ほか6名編「医薬品の開発」(甲第19号証)に「化合物を再結晶する時,一定の割合の溶媒を伴って結晶化する場合があり,この物を溶媒和物という.」との記載があることを理由として,上記判断の根拠とならないと主張するが,上記甲第19号証においても,「一定の割合の溶媒を伴って結晶化する場合」が例外として取り扱われていることは明らかであり,その記載は,「再結晶」の語の理解に影響を与えるものではなく,当業者は「再結晶」を精製方法として把握するものである。加えて,上記1の(1)のとおり,甲第2号証に記載された,再結晶により得られた結晶(結晶A)の分子式及び分子量からは,結晶Aがアジスロマイシン無水物であることが理解されるのであるから,再結晶によって得ようとするのは無水物の結晶のはずであり,そうであれば,再結晶作業において,必須ではない溶媒(水)を系内に入れないような条件設定を行うことは,本件優先日当時の当業者の技術常識である。したがって,甲第19号証の記載を考慮に入れたとしても,甲第2号証に記載された「エーテルから再結晶」が,水和物の形成を意味すると理解することはできない。
次に,原告は,審決が上記判断の根拠として挙げた事由のうち,B.kamenarらによる「ErythromycinSeries.Part13.SynthesisandStructureElucidationof10-Dihydro-10-deoxo-11-methyl-11-azaerythromycinA(エリスロマイシンシリーズ.パート13.10-ジヒドロ-10-デオキソ-11-メチル-11-アザエリスロマイシンAの合成及び構造解明)」と題する論文(甲第14号証。審決乙第7号証)に,ジエチルエーテルからの再結晶操作により,アジスロマイシン無水物からは純粋な無水物の白色結晶が,粗2水和物からは純粋な2水和物が得られると記載されていることにつき,上記甲第14号証以外に,アジスロマイシン無水物の結晶は全く報告されておらず,逆にアジスロマイシン無水物が非晶質であるとした文献もあるから,甲第14号証の記載は信頼できず,上記判断の根拠とならないと主張する。しかしながら,原告は,B.kamenarらによる「Erythromycin Series. Part 13. Synthesis and Structure Elucidation of 10-Dihydro-10-deoxo-11-methyl-11-azaerythromycin A(エリスロマイシンシリーズ.パート13.10-ジヒドロ-10-デオキソ-11-メチル-11-アザエリスロマイシンAの合成及び構造解明)」と題する論文(甲第3号証)に記載された結晶学的データを根拠として,甲第2号証に記載された結晶Aがアジスロマイシン2水和物であると主張するところ,甲第14号証は,上記甲第3号証152頁の右上隅に記載された文献名の下に記載された文献であり,甲第3号証に対応して実験の内容等を記載した文献であるから,原告が,甲第14号証の記載を信頼できないとすることは奇異であり,むしろ,甲第14号証には,偏見のない実験結果が記載されていると考えるべきである。アジスロマイシン無水物が,条件により,結晶化したり非晶質化したりすることは何ら不自然ではなく,他の文献に非晶質であると記載されていることをもって,甲第14号証の記載が誤りであるとすることはできない。
さらに,原告は,審決が上記判断の根拠として挙げた事由のうち,特表2005-529082号(甲第4号証)に,アジスロマイシン2水和物が水を添加する結晶化操作によって得られると記載されていることにつき,甲第7号証の追試につきより詳細な条件や水分の測定結果等を追記したとする甲第18号証に基づき,エーテルは吸湿性の高い有機溶媒であり,開放系に放置しておくだけで,水が混入して溶媒の一部となり,再結晶の過程で結晶に取り込まれて水和物として結晶化することはあり得るから,上記判断の根拠とならないと主張する。しかしながら,上記主張は,エーテル溶液を2日間開放系にして放置することを前提とするものであるが,そのような条件は,甲第2号証に記載されていない。
以上のとおり,審決の上記判断に根拠がないとする原告の主張は失当であり,審決の判断に誤りはない。
第5当裁判所の判断
1 取消事由1(新規性判断の方法の誤り)について
(1) 特許法29条1項は,同項3号の「特許出願前に・・・頒布された刊行物に記載された発明」については,特許を受けることができないと規定するものであるところ,上記「刊行物」に「物の発明」が記載されているというためには,まず,同刊行物に当該物の発明の構成が開示されていることが必要であり,また,発明が技術的思想の創作であること(同法2条1項参照)にかんがみれば,当該物の発明の構成が開示されていることに止まらず,当該「刊行物」に接した当業者が,特別の思考を経ることなく,容易にその技術的思想を実施し得る程度に,当該発明の技術的思想が開示されていることを要するものというべきである。
そして,当業者が,特別の思考を経ることなく,容易にその技術的思想を実施し得る程度に,当該発明の技術的思想が開示されていることを要するという点は,「刊行物」に記載されている「物の発明」が,新規の化学物質の発明である場合と,公知の化学物質の発明である場合とを問わず,何ら変わりがない。ただ,それが公知の化学物質である場合には,先行技術文献の記載や技術常識等により,当該「刊行物」自体に当該化学物質の製造方法その他の入手方法が記載されていなくとも,当業者がその入手方法を理解し得ることが多いのに対し,新規の化学物質の場合には,一般に製造方法その他の入手方法を見出すことが困難であることが少なくないから,当該「刊行物」にその技術的思想が開示されているというために,製造方法を理解し得る程度の記載があることを要する場合が少なくないということができる。新規の化学物質と公知の化学物質とで,「刊行物」に記載されているというために必要な記載内容(特に製造方法の記載の要否)が異なるように説明されることがあるのは,この点に由来するものである。
しかるところ,本件において,アジスロマイシンと称される物質自体は公知であったとしても,アジスロマイシン分子一つに対し,水分子二つが分子間力により特定の位置関係を保持し,2水和物という結晶構造を形成したものが,少なくとも,甲第2号証の頒布前に公知でなかったことは,被告はもとより,原告も争うものではないから,甲第2号証にアジスロマイシン2水和物が記載されているかどうかについての判断を,一般の公知の化学物質と同様に(すなわち,甲第2号証自体にアジスロマイシン2水和物の製造方法その他の入手方法が記載されていなくとも,当業者が,先行技術文献の記載や技術常識等により,その入手方法を理解し得るものとして)行うことができないことは明らかである。すなわち,アジスロマイシン2水和物は,かかる意味で,新規の化学物質として扱うことを要するものである。
なお,原告の引用する東京高裁平成3年10月1日判決は,一対の光学異性体(光学的対掌体)から成るラセミ化合物(ラセミ体)である(R,S)α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコールが引用例に開示されている場合に,同ラセミ体を形成する一対の光学異性体の一方である(S)α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコールの発明が,同引用例に記載されているというべきであるとした審決の認定判断を是認したものであるが,ラセミ体については同発明に係る特許出願前から種々のラセミ分割(光学分割)の方法が行われていたことが当業者にとって技術常識であったという事態を踏まえた判断であるから,物の発明について特許法29条1項3号に当たるとするために,刊行物に当該物の製造方法が記載されている必要がおよそないとしたものということはできない。
(2) ところで,上記(1)のとおり,特許法29条1項3号所定の「刊行物」に「物の発明」が記載されているというためには,同刊行物に当該発明の技術的思想が開示されていることを要するという以前に,まず,当該物の発明の構成が開示されていることが必要である。
そこで,本件において,甲第2号証に本件発明(結晶性アジスロマイシン2水和物)の構成が開示されているといえるかどうかについて検討する。
ア 甲第2号証は,1987年(昭和62年)2月16~18日に開催された第10回クロアチア化学者会議における発表論文要旨集の抜粋であり,「11-メチルアザ-10-デオキソ-10-ジヒドロエリスロマイシンA(DCH3)の構造研究」との標題の下に,以下の記載がある。
「我々のエリスロマイシンA誘導体の構造研究を継続中である。新たな15員環シリーズのエリスロマイシンAのいわゆるDCH3のサンプル(事業体「PLIVA」の研究所で調製)を室温条件下でエーテルから再結晶した。角柱形で高硬度の半透明の結晶が得られている。
フィルム法によって単位格子のパラメータを求め,また化合物の密度を浮遊法により測定した。
結晶学的データ:C38H72O12N2,Mr=748g/mol,斜方形,空間群P212121,a=17.860(4)Å,b=16.889(3)Å,c=14.752Å,D。=1.174g/cm3,Dx=1.177g/cm3,Z=4。
反射光線強度及び単位格子パラメータを,CuKα線を用いた自動回折計PhilipsPW1100で測定した。直接法(Multanプログラム)を用いた構造解析は現在進行中である。得られたデータを現在のデータと比較する予定である。」(同号証訳文。ただし,同号証では,クロアチアにおける一般的表記に従って,小数点が「,」で表されており,同訳文もこれに従っているが,上記摘記においては,小数点を「.」に改めた。)
イ 上記記載によれば,甲第2号証には,得られた結晶(結晶A)がアジスロマイシン2水和物であることはもとより,アジスロマイシンの水和物であることについても,明示的な記載がないことは明らかであり,また,同号証に「結晶学的データ」として記載された物性に関するデータも,その記載のみによって,結晶Aがアジスロマイシン2水和物であることが容易に知れるというものではない。かえって,弁論の全趣旨によれば,同「結晶学的データ」の欄の冒頭に記載された分子式「C38H72O12N2」及び分子量748(Mr=748g/mol)は,いずれもアジスロマイシン無水物に関するものであると認めることができる。
この点につき,原告は,甲第2号証に記載された上記結晶Aの格子定数が,甲第3,第4号証に,それぞれアジスロマイシン2水和物の格子定数として記載された数値と一致するのであるから,甲第2号証に記載された結晶Aがアジスロマイシン2水和物と特定される旨主張する。
しかしながら,甲第2号証に「アジスロマイシン2水和物の構成」が開示されているといえるかどうかは,甲第2号証が特許法29条1項3号所定の刊行物に当たるかどうかという問題に係るものであって,同項の規定上,甲第2号証が同号所定の刊行物に当たるというためには,特許出願前(本件については,本件優先日である昭和62年7月9日前)における当業者の技術常識ないし技術水準を基礎として,甲第2号証記載の結晶Aが結晶性アジスロマイシン2水和物であると容易に知ることができたことを要するものというべきである。
しかるに,甲第3号証は,1988年(昭和63年)刊行の「J.Chem.Research(s)」所収のB.kamenar,A.Nagl,D.Mrvos(いずれも甲第2号証の著者である。)らによる「Erythromycin Series. Part 13. Synthesis and Structure Elucidation of 10-Dihydro-10-deoxo-11-methyl-11-azaerythromycin A(エリスロマイシンシリーズ.パート13.10-ジヒドロ-10-デオキソ-11-メチル-11-アザエリスロマイシンAの合成及び構造解明)」と題する論文であり,甲第4号証は,プリバ社の国際出願(平成15年9月25日国際公開)に係る特表2005-529082号公報であるから,いずれも,本件優先日の後に頒布された刊行物である(甲第4号証については,その国際公開日も本件優先日の後である。)ことが明らかである。したがって,これらの刊行物に記載された知見は,本件優先日当時の当業者の技術常識ないし技術水準を構成するものではなく,仮に,これらの刊行物の記載を参酌することにより,当業者において甲第2号証記載の結晶Aが結晶性アジスロマイシン2水和物であると容易に知ることができたとしても,本件特許出願との関係で,甲第2号証が特許法29条1項3号所定の刊行物であるとすることはできない。
原告は,甲第3,第4号証は,甲第2号証に記載された結晶Aが2水和物であるという事実を確認するために用いるにすぎないものであるから,甲第3,第4号証自体が,本件優先日後に頒布された刊行物であることは問題とならないと主張する。しかしながら,上記のとおり,甲第2号証が特許法29条1項3号所定の刊行物に当たるというためには,本件優先日である昭和62年7月9日前における当業者の技術常識ないし技術水準を基礎として,甲第2号証記載の結晶Aが結晶性アジスロマイシン2水和物であると容易に知ることができたことを要するものであり,本件優先日後の技術常識ないし技術水準を基礎とすることにより,甲第2号証記載の結晶Aは結晶性アジスロマイシン2水和物であったことが初めて理解されるというにすぎない場合には,甲第2号証は同号所定の刊行物に当たるということはできない。そして,甲第2号証以外の刊行物である甲第3,第4号証は,その記載に係る知見が,当業者の技術常識ないし技術水準を構成する可能性があるというものにすぎないから,それらが本件優先日後に頒布された刊行物であり,その知見が本件優先日当時の当業者の技術常識ないし技術水準を構成するものに当たらない以上,本件特許出願との関係で,甲第2号証が同号所定の刊行物に当たるか否かについての判断に影響を及ぼすものということはできない。
また,原告は,特許法29条1項3号の適用においては,本件発明と同一の物が本件優先日前に存在したか否かが問題となるのであって,その事実が,本件優先日後に頒布された刊行物を参照することにより左右されるものではないと主張するが,同号の適用については,本件優先日前において,甲第2号証に本件発明と同一の物が記載されていると理解できたかどうかが問題となるのであって,本件発明と同一の物が本件優先日前に存在したか否かが問題となるものではない。原告の上記主張は,その前提を誤ったものであって失当であるというべきである。
なお,審決には,「格子定数は結晶性物質の固有の値であるところ,結晶Aの格子定数である『a=17,860(4)Å,b=16,889(3)Å,c=14,752Å』が,本件優先日後の文献である甲第3号証,甲第4号証に記載のアジスロマイシン2水和物の結晶の格子定数と一致することからすると,組成式,分子量は無水物に相当するとはいえ,甲第2号証において結晶Aとして得られた物質は実質的には本件発明のアジスロマイシン2水和物であったと推定できる。」との説示があるが,この説示の趣旨は,後記ウのとおりであって,「本件優先日後の文献である甲第3号証,甲第4号証」の記載を参照することにより,本件特許出願との関係で,甲第2号証が直ちに特許法29条1項3号所定の刊行物に当たると認定したものではない。
ウ 上記イのとおり,甲第2号証に,結晶Aがアジスロマイシン2水和物であることについて明示的な記載がなく,また,記載された結晶学的データから結晶Aがアジスロマイシン2水和物であることが特定されないとしても,本件優先日当時における当業者の技術常識ないし技術水準に基づいて,甲第2号証の結晶Aの製造方法に関する記載から実際に結晶Aを製造することが可能であり(すなわち,甲第2号証の結晶Aの製造方法が追試可能であり),かつ,その結晶Aが現時点における客観的な資料に基づき,アジスロマイシン2水和物と認められるのであれば,甲第2号証は,本件優先日当時において,たとえその名称や化学構造が不明であれ,製造方法によりアジスロマイシン2水和物という物そのものを特定していたということができる。審決には,上記イの説示を含む「格子定数は結晶性物質の固有の値であるところ,結晶Aの格子定数である『a=17,860(4)Å,b=16,889(3)Å,c=14,752Å』が,本件優先日後の文献である甲第3号証,甲第4号証に記載のアジスロマイシン2水和物の結晶の格子定数と一致することからすると,組成式,分子量は無水物に相当するとはいえ,甲第2号証において結晶Aとして得られた物質は実質的には本件発明のアジスロマイシン2水和物であったと推定できる。したがって,結晶Aがアジスロマイシン2水和物であると認識されていなくとも,甲第2号証に記載の製法に従い結晶Aが製造できるのであれば,甲第2号証には実質的に本件発明が記載されていることとなる。」との説示があるが,この趣旨をいうものであることは明らかである。
すなわち,審決が,甲第2号証に,結晶Aの製造方法が当業者が理解できる程度に開示されているか否かを検討しているのは,上記(1)の発明の技術的思想の開示という見地からではなく,それ以前の問題として,甲第2号証に結晶性アジスロマイシン2水和物の構成が開示されているといえるかどうかという見地から,その検討を行っているものである。
(3) 原告は,本件発明の新規性に関する審決の判断に,本件発明が新規の化学物質ではないのに,新規の化学物質に適用される本件審査基準規定を適用して,甲第2号証が,特許法29条1項3号の刊行物といえるためには,甲第2号証に,結晶Aの製造方法が当業者が理解できる程度に開示されていなければならないとした誤りがあると主張するが,甲第2号証に結晶性アジスロマイシン2水和物の構成が開示されていると認めるためには,甲第2号証の結晶Aの製造方法に関する記載によって,実際に結晶Aを製造することが可能であることを必要とすることは,上記(2)のとおりであり,原告の上記主張は,審決の趣旨を正解しないものであって,失当というほかはない。
また,原告は,本件発明が甲第2号証に記載された発明であると判断するために,甲第2号証に結晶Aの製造方法が記載されていなければならないものとしても,その記載の程度は,新規の化学物質と同等である必要はないというべきであるとした上,①甲第2号証により,公知物質(アジスロマイシン)について,その新規な構成である結晶型(2水和物)の発明が具体的構成をもって示されたところ,仮にその結晶型の製法が甲第2号証に記載されていなくとも,当業者は,若干の試行錯誤により容易にその結晶型を得ることができる,②甲第2号証に記載された原料である「DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)」が入手できなくとも,1水和物と無水物のいずれかがこれに当たるとして,甲第2号証に記載されたアジスロマイシン2水和物を得ることができると主張する。
しかしながら,上記①については,甲第2号証に,アジスロマイシン2水和物が具体的構成をもって示されていないことは,上記(2)のイのとおりであり,だからこそ,甲第2号証の結晶Aの製造方法に関する記載から実際に結晶Aを製造することが可能であり,甲第2号証は,製造方法によりアジスロマイシン2水和物という物を特定していたということができるかどうかを判断する必要が生じたものである。しかるに,結晶Aの製法が甲第2号証に記載されておらず,当業者が,これを得るために「若干の試行錯誤」を要するということは,甲第2号証が,製造方法によりアジスロマイシン2水和物という物を特定しているものではないということに他ならない。すなわち,仮に「その結晶型の製法が甲第2号証に記載されていなくとも,当業者は,若干の試行錯誤により容易にその結晶型を得ることができる」としても,それは審決の判断が誤りであるとする根拠とはなり得ない。
②は,審決が,甲第2号証には,結晶Aの製造方法が当業者が理解できる程度に開示されているとはいえないとした判断の根拠である原料についての主張であり,原告は,別途,取消事由2において,審決の上記判断が誤りであると主張するので,②についても,取消事由2についての検討において併せ判断する。
2 取消事由2(甲第7号証についての判断の誤り)について
(1) 甲第7号証の追試につき「甲第7号証では,再結晶に供する原料-01は,非晶質の無水アジスロマイシンであって,甲第5号証に記載の方法を参考にして得たものであるとされている。しかし,甲第2号証によれば『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』が組成式:C38H72O12N2,分子量:748g/molを持つアジスロマイシンであることが理解できるに過ぎず,その製造方法や入手方法は明らかでないから,本件優先権日以降に頒布された刊行物である甲第5号証に記載の方法を参考にして得られた原料-01が,甲第2号証に記載の『DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)』と同等のものであると解すべき理由はない。よって,原料-01は,甲第2号証に記載の方法の追試における適切な原料とはいえないので,甲第7号証が甲第2号証に記載の方法を忠実に再現した追試ということはできない。」とした審決の判断に対し,原告は,甲第2号証の刊行日前に知られていたアジスロマイシンは,無水物と1水和物のみであったから,甲第2号証記載の方法で用いられたアジスロマイシンが,そのいずれかであったことは明らかであるところ,甲第7号証の追試では原料として無水物を,また,甲第17号証の追試では原料として1水和物を使用して,いずれもアジスロマイシン2水和物を得たのであるから,これらの追試は,甲第2号証記載の方法に対する追試として適切な原料を用いたものであることは明らかであり,審決の上記判断は誤りであると主張する(なお,上記1の(3)の②の主張も,このことを一般論として述べたにすぎない。)。
しかしながら,仮に,アジスロマイシンの無水物と1水和物が,甲第2号証の刊行日前に知られており,かつ,甲第7号証の追試及び甲第17号証の追試により,いずれもアジスロマイシン2水和物を得ることができたとしても,甲第2号証に原料として記載された「DCH3のサンプル(事業体『PLIVA』の研究所で調製)」が何であるのかは,依然として不明であり,したがって,甲第2号証記載の方法に係る適切な追試が,甲第7号証の追試又は甲第17号証の追試のいずれかに確定するものではない。
上記のとおり,審決が甲第2号証の結晶Aの製造方法に関する記載から実際に結晶Aを製造することが可能であるか否かを検討しているのは,名称や化学構造により結晶Aをアジスロマイシン2水和物であると特定していない甲第2号証において,製造方法によりこれを特定していたということができるか否かを判断するためであるところ,甲第2号証記載の製造方法を確定し得ない以上,かかる製造方法による特定がされていたとすることもできないから,原告の上記主張(及び上記1の(3)の②の主張)は失当といわざるを得ない。
(2)ア のみならず,1963年(昭和38年)9月15日縮刷版第1刷発行の化学大辞典編集委員会編「化学大辞典3」(甲第12号証。審決乙第5号証)に,「再結晶」との用語につき,「結晶性物質を適当な溶媒を使って精製する一方法.不純物を含む結晶を溶媒に溶かし,ある温度t2で飽和溶液をつくり,これをt2より低い温度t1まで冷却すると,t2とt1との溶解度の差に相当する量の溶質が析出する.この沈殿をロ過すれば,t1で飽和に達していない不純物は溶液中に残るから結晶の精製ができる.」との記載があるところ,この記載において,再結晶前の物質と再結晶後の物質とが同じものとされていることは明らかであり,かつ,同文献が一般的な化学辞典であることにかんがみると,本件優先日当時,「再結晶」は精製の手段であり,再結晶後の結晶は再結晶前の結晶と同一であることは,当業者の技術常識となっていたものと認められる。
加えて,「DCH3のサンプル(事業体「PLIVA」の研究所で調製)を,室温条件下でエーテルから再結晶した」とのみ記載された甲第2号証の製造方法には,再結晶の過程で水を添加する旨の記載も示唆もない。
そうすると,甲第2号証の上記製造方法の記載に即してみれば,原料物質の「DCH3」がアジスロマイシン無水物又は1水和物であった場合に,再結晶後の結晶Aがアジスロマイシン2水和物となることは,本来有り得ないはずであり,仮に,甲第2号証記載の再結晶後の結晶Aがアジスロマイシン2水和物を意味するものとすれば,甲第2号証記載の製造方法は,再結晶の過程で水を添加する旨の記載も示唆もない点において,不完全であり,これを追試することは不可能であるといわざるを得ない。換言すれば,原料物質の「DCH3」がアジスロマイシン無水物又は1水和物であり,再結晶後の結晶Aがアジスロマイシン2水和物となるような試験(甲第7号証の追試及び甲第17号証の追試)は,そのこと自体で,甲第2号証記載の製造方法の正確な追試ということはできず,審決がいうように,「水含有量の多い原料の使用或いは高湿度環境下での再結晶操作など,甲第2号証には記載されていない特殊な条件下で再結晶が行われた結果として偶発的に2水和物が生じたと解さざるを得ず,そのような再結晶操作はもはや甲第2号証で予定する通常のエーテルによる再結晶操作ということはできない」といわざるを得ない。
イ 原告は,平成元年10月25日発行の鈴木郁生ほか6名編「医薬品の開発」(甲第19号証)に「化合物を再結晶する時,一定の割合の溶媒を伴って結晶化する場合があり,この物を溶媒和物という.」(168頁4~5行)と記載されていることを挙げて,再結晶後の結晶中に溶媒が取り込まれる点において結晶としては再結晶前と異なる溶媒和物となることはあり得ると主張する。しかしながら,上記文献に係る「一定の割合の溶媒を伴って結晶化する場合があり」との文言から見て,再結晶後の結晶が,原料結晶と異なる溶媒和物となるのは,例外的な場合であることが窺われる上,その記載は,「エーテルから再結晶」して得られる結晶Aがエーテル和物となることは示唆しているとしても,水和物となること(あるいは原料結晶より水分子の多い水和物となること)を示唆するものではないから,甲第19号証の記載は,上記認定判断を左右するに足りるものではない。
ウ 甲第7号証の追試に係る実際の経過は,国際公開第02/09640号パンフレット(甲第5号証)の記載を参考にして調製した非晶質の無水アジスロマイシン(水分含量0.6806%)1.63gを,加熱により25mlのエーテル(水分含量0.0315%)に完全溶解させた後,その溶液を50ml三角フラスコに移し,その口をアルミホイルで巻くものの,針により3箇所に穴を開け,2日間静置したところ,結晶が析出したというものである(甲第7,第18号証)。なお,追試実験を行った実験室の室温及び湿度については,「年間通して平均約20℃に管理されている。また,追試実験を行った1月の実験室の湿度は最低湿度34%,最高湿度71%であり,平均湿度は49%であった」(甲第18号証)とされているが,甲第7号証の追試に係る実験時(無水アジスロマイシンを溶解させたエーテル溶液を静置した2日間)の具体的な温度及び湿度は明らかではない。
しかるところ,原告は,甲第7号証の追試に原料として用いたアジスロマイシン無水物の水分や溶媒であるエーテルの水分は,いずれも特に高いものではなく,また,実験室内の平均湿度も高湿度環境というようなものではないと主張するが,少なくとも,実験時の湿度は,上記のとおり不明であり,71%の高湿度下であった可能性も存在する。また,原告は,エーテルを室温で静置する際,ふたに穴を空けて溶媒の蒸発の速度を制御することは,通常行われる方法であると主張するところ,平成12年4月20日発行の平山令明編「有機結晶作製ハンドブック」(甲第22号証)には,溶媒の蒸発速度の制御方法として,「溶液にふたをして,そのふたにあける穴の大きさや数を変化させること」(35頁15行)が記載されているが,そのような操作によって,無水アジスロマイシンを溶解させたエーテル溶液を開放系に静置することになることは明らかである。そして,吸湿性の高い有機溶媒であるエーテルを開放系に静置することは,実質的に水分を添加することと等しいというべきところ,本件優先日当時における当業者が,甲第2号証の「室温の条件下でエーテルから再結晶した」との記載に基づき追試を行う際に,技術常識上,そのような環境を選択するものと認めるに足りる証拠はない。
したがって,甲第7号証の追試に係る実際の経過を見ても,これが,甲第2号証記載の製造方法の適切な追試であるとは認め難い。
エ 甲第17号証の追試に係る実際の経過は,NEXCHEM社から購入したアジスロマイシン1水和物(水分含量2.8%)1.55gを25mlのエーテル(水分含量0.0315%)に完全溶解させた後,その溶液を50ml三角フラスコに移し,その口をアルミホイルで巻くものの,針により3箇所に穴を開け,2日間静置したところ,結晶が析出したというものである(甲第17号証)。なお,追試実験を行った実験室の室温及び湿度については,「年間通して平均約20℃に管理されている。また,追試実験を行った2月の実験室の湿度は最低湿度38%,最高湿度66%であり,平均湿度は49%であった」(甲第17号証)とされているが,甲第17号証の追試に係る実験時(アジスロマイシン1水和物を溶解させたエーテル溶液を静置した2日間)の具体的な温度及び湿度は明らかではない。
しかるところ,甲第17号証の追試に関しても,上記ウの甲第7号証の追試に関すると同様の問題があり(ただし,実験時の湿度の可能性は最大66%である。),甲第17号証の追試に係る実際の経過を見ても,これが,甲第2号証記載の製造方法の適切な追試であるとは認め難い。
(3) 上記1の(2)のウのとおり,甲第2号証に,結晶Aがアジスロマイシン2水和物であることについて明示的な記載がなく,また,記載された結晶学的データから結晶Aがアジスロマイシン2水和物であることが特定されないとしても,本件優先日当時における当業者の技術常識ないし技術水準に基づいて,甲第2号証の結晶Aの製造方法に関する記載から実際に結晶Aを製造することが可能であり(すなわち,甲第2号証の結晶Aの製造方法が追試可能であり),かつ,その結晶Aが現時点における客観的な資料に基づき,アジスロマイシン2水和物と認められるのであれば,甲第2号証は,本件優先日当時において,たとえその名称や化学構造が不明であれ,製造方法によりアジスロマイシン2水和物という物そのものを特定していたということができる。
しかしながら,甲第7号証の追試及び甲第17号証の追試は,いずれも甲第2号証記載の結晶Aの製造方法についての追試と認めることはできず,他に,本件優先日当時における当業者の技術常識ないし技術水準に基づいて,甲第2号証の結晶Aの製造方法に関する記載から実際に結晶Aを製造することが可能である(甲第2号証の結晶Aの製造方法が追試可能である)と認めるに足りる証拠もない。
したがって,結晶Aが現時点における客観的な資料に基づき,アジスロマイシン2水和物と認められるか否かにつき判断するまでもなく,甲第2号証が,本件優先日当時において,製造方法によりアジスロマイシン2水和物という物そのものを特定していたと認めることもできない。
そうすると,甲第2号証には,その記載上,アジスロマイシン2水和物と特定し得る物が記載されているとはいえず,本件発明の構成が開示されているということはできない。したがって,発明の技術的思想の開示という見地から,甲第2号証に,本件発明の製造方法を理解し得る程度の記載がされていることが必要であるかどうかについて判断するまでもなく,本件発明との関係で,甲第2号証を特許法29条1項3号の刊行物に当たると認めることはできない。
3 結論
以上によれば,原告の主張はすべて理由がなく,原告の請求は棄却されるべきである。
(裁判長裁判官 田中信義 裁判官 石原直樹 裁判官 杜下弘記)