知財高等裁判所 平成20年(行ケ)10159号 判決 2009年3月26日
原告
X
被告
クラリオン株式会社
訴訟代理人弁理士
木内光春,大熊考一,茜ヶ久保公二,町田正史
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1原告の求めた裁判
「特許庁が無効2007-800219号事件について平成20年3月19日にした審決を取り消す。」との判決
第2事案の概要
本件は,被告の有する下記1(1)の特許の請求項1に係る発明(以下「本件発明」という。)に係る特許(以下「本件特許」といい,その出願を「本件特許出願」という。)について,同1(2)のとおり,原告が無効審判の請求をしたところ,特許庁は,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をしたため,原告が同審決の取消しを求める事案である。
1 特許庁における手続の経緯
(1) 本件特許出願等(甲第1,第2号証,甲第3号証の1~3,7)
特許権者:被告
発明の名称:多重放送受信機
出願日:平成2年9月27日(特願平2-255087号)
手続補正日:平成11年4月1日(以下「本件補正」という。)
設定登録日:平成11年7月9日特許
登録番号:第2951710号
(2) 無効審判手続
審判請求日:平成19年10月10日(無効2007-800219号)
審決日:平成20年3月19日
審決の結論:「本件審判の請求は,成り立たない。」
原告に対する審決謄本送達日:平成20年3月31日
2 本件発明の要旨(甲第1号証)
本件発明の要旨は,本件補正後の明細書(以下「本件明細書」という。)の特許請求の範囲の請求項1に記載された次のとおりのものと認められる(A~Fの分説は審決が付したものと同様であり,以下,分説の記号に従って「構成要件A」などという。)。
「A 交通情報信号と,該交通情報信号がどの場所の情報であるかを示す交通情報位置データが多重化された多重放送を受信可能な多重放送受信機であり,
B 前記多重放送受信機の現在位置を検出し,現在位置情報を出力する位置検出手段と,
C 前記交通情報信号を音声信号に変換し交通情報音声信号を得る信号変換手段と,
D 前記交通情報位置データ及び現在位置情報に基づき,交通情報位置と現在位置との間の距離を演算する演算手段と,
E 前記演算手段の出力に基づいて,現在位置からの距離が所定値以下である前記交通情報位置に対応する交通情報音声信号を選択的にスピーカに供給せしめる信号選択手段と,
F を備えたことを特徴とする多重放送受信機。」
3 審決の要旨
無効審判請求人(原告)が,本件発明の構成要件C~Eに係る事項は明細書の発明の詳細な説明に記載されたものではないから,本件特許は無効とされるべきである(無効理由1),本件補正は明細書の要旨を変更するものであるから,平成5年法律第26号による改正前の特許法40条により,本件特許出願は,本件補正に係る手続補正書を提出した時にしたものとみなされるところ,本件発明は特開平8-339490号(甲第4号証)に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるから,本件特許は無効とされるべきである(無効理由2)と主張したのに対し,審決は,本件発明は本件明細書の発明の詳細な説明に記載されたものである,本件補正は本件特許出願の願書に最初に添付した明細書(以下「本件当初明細書」という。)に記載した事項の範囲内においてするものであるから,本件補正は明細書の要旨を変更するものではないと判断した。審決の理由中「当審の判断」の部分は,以下のとおりである(なお,審決中の甲号証は本訴におけるものと共通であり,略称については本判決で指定するものに改めた部分がある。)。
(1) まず,・・・無効理由1について検討する。
本件明細書(甲第1号証(特許第2951710号公報))の発明の詳細な説明(以下「本件の発明の詳細な説明」という。)には,構成要件C~Eに関して次のように記載されている。
ア 「[発明の概要]
送信側ではFM多重信号に交通情報と,この交通情報がどの場所の情報であるかを示す位置情報と,を乗せて送信し,受信側ではこれを復調したものと,ナビゲーション装置の現在位置の検出装置を利用し,現在位置周辺の交通情報を音声で聞き取ることができる装置である。」(第1頁右欄第6~11行)
イ 「[従来の技術]
ナビゲーション装置の陰極線管(CRT)に渋滞などの交通情報を重ね表示する装置は,既に考案されている(例えば,特開昭62-95423号参照)。」(第1頁右欄第12~15行)
ウ 「[発明の目的]
本発明の目的はFM多重放送受信機に…現在位置周辺の交通情報のみを音声によって知らせることを可能とすることにある。」(審決注:「…」は途中を省略したことを意味している。以下同様。)(第2頁左欄第21~24行)
エ 「[実施例]
以下図面に示す実施例を参照して本発明を説明する。第1図は本発明によるFM多重受信機の一実施例を示す。…
送信側aでは,…音声による交通情報23をA/D変換器2でA/D変換し,これと同期して現在放送している交通情報の位置を示す情報24をFM多重信号変調器3に出力する。交通情報と位置情報は,FM多重信号変調器3により時分割多重,変調され,FM多重信号25となる。…
受信側bでは…入力した信号27に対して,FM受信機8を用いて同調,復調し,ベースバンド信号28を得る。…FM多重信号復調器10は入力されたベースバンド信号28を復調し,復調されたデータ列の中から交通情報30と位置情報31を抽出する。…
FM多重信号復調器10から出力された位置情報31とナビゲーション装置32からの現在位置信号32とは差分演算器13に与えられ,その差信号を演算する。この差信号は差分判定器17で所定値と比較され,その所定値よりも小さければ,位置情報31が現在位置信号に接近していると判定して,スイッチ制御信号33でスイッチ12をオンにする。
スイッチ12がオンされると,D/A変換器11によりD/A変換された交通情報30がスイッチ12を介してスピーカ15から出力され,現在位置周辺の交通情報を知らせる。」(第2頁左欄第43行~同頁右欄第34行)
オ 「[発明の効果]
以上説明したように本発明によれば,たえず現在位置周辺の種々の交通情報のみを自動的に選択してスピーカから出力することができ」(第2頁右欄第35~38行)
(1-1) 構成要件Cについて
一般に,放送波に多重化された交通情報を受信する多重放送受信機の分野において,特開昭62-111536号公報(被請求人提出の口頭審理陳述要領書の参考資料1)の第1頁左下欄第5行~第2頁左上欄第4行に「受信した無線交通情報を復号して再生装置に供給する無線交通情報復号装置において,無線交通情報復号装置(20)は交通情報を示すデジタル信号を処理するように構成され,…前記デジタル信号は,文字文信号(ASCII)であり,前記無線交通情報復号装置(20)は受信交通情報を…音響的に再生する文字文処理装置(62)を有する…無線交通情報復号装置。」及び,特開昭62-180625号公報(被請求人提出の口頭審理陳述要領書の参考資料2)の第1頁右下欄第3行~第2頁左上欄第11行に「放送波を受信して該放送波に含まれる情報を再生する放送受信装置において,該装置は,前記放送波を受信して復調する受信手段と,該受信手段の出力を可聴信号または可視信号として再生する出力手段とを含み,…前記放送波に含まれる情報は,ディジタルデータの形をとった道路交通情報データを含むこと…前記再生手段は,前記ディジタルデータを音声合成して可聴音声として出力する音声出力手段を含むことを特徴とする放送受信装置。」と記載されているように,交通情報を伝送する信号としてASCIIコード等の文字列を表す信号,つまり音声以外の信号を用いること,そしてその音声以外の信号を音声信号に変換することにより,交通情報を可聴音声として利用者に伝達することは,本件出願前において周知である。
「交通情報信号」として,音声以外の信号を用いること,及び,音声以外の信号を音声信号に変換することが共に周知であることは,平成20年2月19日に実施された口頭審理において,請求人及び被請求人の双方に確認し了承された事項であり,当事者間に争いのない事項である。(・・・)
そして,上記エの一実施例には,上記ウの発明の目的として記載された「現在位置周辺の交通情報のみを音声によって知らせる」ための構成であり,課題を解決するための手段として,送信側aで音声による交通情報23がA/D変換されて,交通情報23とその位置を示す位置情報24は,FM多重信号変調器3により時分割多重,変調されてFM多重信号25を生成し,受信側bで信号27から同調,復調されたベースバンド信号28をFM多重信号復調器10で復調し,復調されたデータ列の中から交通情報30を抽出し,D/A変換された交通情報がスピーカ15から出力されて,現在位置周辺の交通情報を知らせる手段が記載されている。
すなわち,受信側で受信された信号からベースバンド信号を得て,さらにベースバンド信号からデータ列を復調し,復調されたデータ列の中から音声による交通情報を抽出して,抽出された音声による交通情報が音声にD/A変換される手段が,本件の発明の詳細な説明には記載されている。
さらに,上記エの一実施例では音声をA/D変換してデジタル音声信号に変換しているが,これは,位置情報と共に交通情報をデジタル信号として通常の放送波に多重化するための変換であり,音声以外の信号であってもデジタル化した信号はこのデジタル音声信号と同じデジタル信号であるので,交通情報を音声以外の信号を用いて放送波に多重化して伝送可能であることは当業者にとって自明である。
上記のように交通情報として,音声以外の信号を用いること及び音声以外の信号を音声信号に変換することが周知である点,さらに本件明細書の発明の詳細な説明に音声以外の信号を用いることを妨げる記載が存在しないことを考慮すると,本件の発明の詳細な説明に記載された「受信側で受信された信号からベースバンド信号を得て,さらにベースバンド信号からデータ列を復調し,復調されたデータ列の中から音声による交通情報を抽出して,抽出された音声による交通情報が音声にD/A変換される手段」は,本件特許発明の構成要件Cである「交通情報信号を音声信号に変換し交通情報音声信号を得る信号変換手段」に対応したものである。
したがって,本件特許発明の構成要件Cは本件の発明の詳細な説明に記載された事項である。
(1-2) 構成要件Dについて
まず,構成要件Dの「交通情報位置データ」は,本件特許発明の構成要件Aとして「交通情報信号がどの場所の情報であるかを示す交通情報位置データ」と記載されているから,上記エのFM多重信号復調器10から出力された「位置情報31」に対応する。
また,構成要件Dの「現在位置情報」は,本件特許発明の構成要件Bとして「多重放送受信機の現在位置を検出し,現在位置情報を出力する」と記載されているから,上記エのナビゲーション装置から出力された「現在位置信号32」に対応する。
ここで,上記ウの発明の目的に「現在位置周辺の交通情報のみを音声によって知らせる」ものと記載されているから,上記エにある差分演算器13で位置情報31と現在位置信号32から演算される差信号は,当然現在位置周辺を検出するためのものである。
すなわち,本件の発明の詳細な説明には,上記エに「差信号は差分判定器17で所定値と比較され,その所定値よりも小さければ,位置情報31が現在位置信号に接近していると判定して」とあるように,演算された差信号が差分判定器17で所定値と比較されその所定値よりも小さい場合に,現在位置周辺を検出するものが記載されている。
また,一般に,現在位置周辺を検出するとは,現在位置の周辺にあるエリアの範囲内を検出するものであるから,上記エに記載の,演算された差信号が差分判定器17で所定値と比較されその所定値よりも小さい場合に,現在位置周辺であると検出するものは,差分判定器17で比較される差信号が,所定値である現在位置周辺距離の最大値(エリア)より小さい場合(エリアの範囲内)を検出するものである。
つまり,差分演算器で位置情報と現在位置信号に基づいて演算される差信号は,現在位置と交通情報位置との間の距離に相当する。
よって,本件特許発明における構成要件Dの「交通情報位置データ及び現在位置情報に基づき,交通情報位置と現在位置との間の距離を演算する演算手段」は,本件の発明の詳細な説明に記載された事項である。
(1-3) 構成要件Eについて
上記エに「この差信号は差分判定器17で所定値と比較され,その所定値よりも小さければ,位置情報31が現在位置信号に接近していると判定して,スイッチ制御信号33でスイッチ12をオンにする。スイッチ12がオンされると,…交通情報30がスイッチ12を介してスピーカ15から出力され,現在位置周辺の交通情報を知らせる。」と記載されており,また,上記オの発明の効果には,「本発明によれば,たえず現在位置周辺の種々の交通情報のみを自動的に選択してスピーカから出力することができ」ると記載されている。
これは,差分演算器13の出力であって,上記「(1-2)構成要件Dについて」で述べた距離を演算した差信号に基づいて,差分判定器17で現在位置からの距離が所定値以下である交通情報の位置に対応した交通情報30をスイッチ12を介して選択的にスピーカ15に供給している。
つまり,本件の発明の詳細な説明には,構成要件Dの演算手段の出力に基づいて,現在位置からの距離が所定値以下である交通情報位置に対応する,構成要件Cの「交通情報音声信号」を選択的にスピーカに供給せしめる信号選択手段が記載されている。
よって,本件特許発明における構成要件Eの「前記演算手段の出力に基づいて,現在位置からの距離が所定値以下である前記交通情報位置に対応する交通情報音声信号を選択的にスピーカに供給せしめる信号選択手段」は,本件の発明の詳細な説明に記載された事項である。
(1-4) 無効理由1の検討結果
したがって,上記(1-1)から(1-3)に記載のとおり,構成要件C~Eは本件明細書の発明の詳細な説明に記載されている事項であるので,本件特許請求項の範囲の記載は,特許法36条第4項第1号に規定する要件を満たしているものであり,上記3.(i)における,構成要件C,D及びEの記載は,いずれも発明の詳細な説明に記載されていない事項であり,本件特許の請求の範囲の記載は,特許法第36条第4項第1号に規定する要件を満たしていない,という請求人の主張は,当を得ないものである。
(2) 次に,・・・無効理由2について検討する。
本件当初明細書(甲第3号証の2)には,構成要件C~Eに関して次のように記載されている。
(ア) 「通常の放送音声信号に交通情報信号を含む主多重信号と,該信号に夫々対応した交通情報位置信号を含む副多重信号とを多重して送信されるFM多重信号を受信するFM多重受信機において,
受信されたFM多重信号を復調し,主多重復調信号と副多重復調信号を得る多重信号復調器と,
上記主多重復調信号を選択的にゲートし,スピーカに選択された主多重復調信号を供給せしめるゲート手段と,
上記副多重復調信号に含まれる交通情報位置信号と,ナビゲーション装置より得られる現在位置信号との差を演算する差分演算手段と,
該差分演算手段の出力に基づいて,上記ゲートのオン,オフを制御する差分判定手段とを備えたことを特徴とするFM多重受信機。」(第1頁第4~18行)
(イ) 「[発明の概要]
送信側ではFM多重信号に交通情報とこれに同期した位置情報とを乗せて送信し,受信側ではこれを復調したものと,ナビゲーション装置の現在位置の検出装置を利用し,現在位置周辺の交通情報を音声で聞き取ることができる装置である。」(第2頁第6~11行)
(ウ) 「[従来の技術]
ナビゲーション装置の陰極線管(CRT)に渋滞などの交通情報を重ね表示する装置は,既に考案されている(例えば,特開昭62-95423号参照)。」(第2頁第12~16行)
(エ) 「[発明の目的]
本発明の目的はFM多重放送受信機に…現在位置周辺の交通情報のみを音声によって知らせることを可能とすることにある。」(第3頁第18行~第4頁第2行)
(オ) 「[課題を解決するための手段]
上記目的を達成するため,本発明は通常の放送音声信号に交通情報信号を含む主多重信号と,該信号に夫々対応した交通情報位置信号を含む副多重信号とを多重して送信されるFM多重信号を受信するFM多重受信機において,受信されたFM多重信号を復調し,主多重復調信号と副多重復調信号を得る多重信号復調器と,上記主多重復調信号を選択的にゲートし,スピーカに選択された主多重復調信号を供給せしめるゲート手段と,上記副多重復調信号に含まれる交通情報位置信号と,ナビゲーション装置より得られる現在位置信号との差を演算する差分演算手段と,該差分演算手段の出力に基づいて,上記ゲートのオン,オフを制御する差分判定手段とを備えたことを要旨とする。
[作用]
上述した構成によれば,ナビゲーション装置からの現在位置情報に応じて」(第4頁第3~20行)
(カ) 「[実施例]
以下図面に示す実施例を参照して本発明を説明する。第1図は本発明によるFM多重受信機の一実施例を示す。…
送信側aでは,…音声による交通情報23をA/D変換器2でA/D変換し,これと同期して現在放送している交通情報の位置を示す情報24をFM多重信号変調器3に出力する。交通情報と位置情報は,FM多重信号変調器3により時分割多重,変調され,FM多重信号25となる。…
受信側bでは…信号27に対して,FM受信機8を用いて同調,復調し,ベースバンド信号28を得る。…FM多重信号復調器10は入力されたベースバンド信号28を復調し,復調されたデータ列の中から交通情報30と位置情報31を抽出する。…
FM多重信号復調器10から出力された位置情報31とナビゲーション装置32からの現在位置信号32とは差分演算器13に与えられ,その差信号を演算する。この差信号は差分判定器17で所定値と比較され,その所定値よりも小さければ,位置情報31が現在位置信号に接近していると判定して,スイッチ制御信号33でスイッチ12をオンにする。
スイッチ12がオンされると,D/A変換器11によりD/A変換された交通情報30がスイッチ12を介してスピーカ15から出力され,現在位置周辺の交通情報を知らせる。」(第5頁第2行~第7頁第10行)
(キ) 「[発明の効果]
以上説明したように本発明によれば,たえず現在位置周辺の種々の交通情報のみを自動的にキャッチして聞くことができ大変便利であると共に現在位置周辺の交通情報と関係ないものはキャッチされないので,煩わしさがない。」(第7頁第11~14行)
(2-1) 構成要件C及びDについて
無効理由1についての上記「(1-1)構成要件Cについて」及び「(1-2)構成要件Dについて」で採用した本件明細書の記載事項である上記(1)ウ,エについては,本件補正(甲第3号証の7)により補正された事項ではなく,本件当初明細書においても上記(エ),(カ)のごとく全く同じ事項が記載されているのであるから,上記「(1-1)構成要件Cについて」及び「(1-2)構成要件Dについて」で示したものと同じ理由により,本件補正により補正された構成要件C及びDは,本件当初明細書に記載した事項の範囲内のものと認められる。
よって,構成要件C及びDに係る補正は,明細書の要旨を変更しないものである。
(2-2) 構成要件Eについて
本件当初明細書には,上記(カ)のごとく「この差信号は差分判定器17で所定値と比較され,その所定値よりも小さければ,位置情報31が現在位置信号に接近していると判定して,スイッチ制御信号33でスイッチ12をオンにする。スイッチ12がオンされると,…交通情報30がスイッチ12を介してスピーカ15から出力され,現在位置周辺の交通情報を知らせる。」と記載されており,また,上記(ア)及び(オ)のごとく「上記主多重復調信号を選択的にゲートし,スピーカに選択された主多重復調信号を供給せしめるゲート手段と,…該差分演算手段の出力に基づいて,上記ゲートのオン,オフを制御する差分判定手段」と記載されている。
上記本件当初明細書の記載事項(カ),(ア)及び(オ)によれば,差分演算器13(差分演算手段)の出力(上記「(2-2)構成要件Dについて」で述べた距離を演算した差信号)に基づいて,差分判定器17(差分判定手段)で現在位置からの距離が所定値以下である交通情報の位置に対応した交通情報30(主多重復調信号)をスイッチ12(ゲート手段)を介して選択的にスピーカに供給している。
つまり,本件当初明細書には,構成要件Dの演算手段の出力に基づいて,現在位置からの距離が所定値以下である交通情報位置に対応する「交通情報音声信号」を選択的にスピーカに供給せしめる信号選択手段が記載されている。
よって,構成要件Eの「前記演算手段の出力に基づいて,現在位置からの距離が所定値以下である前記交通情報位置に対応する交通情報音声信号を選択的にスピーカに供給せしめる信号選択手段」は,本件当初明細書に記載した事項の範囲内のものであるから,構成要件Eに係る補正は,明細書の要旨を変更しないものである。
また,本件補正(甲第3号証の7)におけるその他の補正事項についても本件当初明細書に記載した事項の範囲内のものである。
(2-3) したがって,上記(2-1)及び(2-2)に記載のとおり,構成要件C~Eの記載事項は本件当初明細書に記載されているものであって,本件補正は,特許法第41条の規定を満たすものであるから,上記3.(ii)ア,イに記載された,本件特許発明の構成要件C~Eとして記載されている事項が本件当初明細書に記載されていない事項であるという請求人の主張は,当を得ないものである。
(2-4) 甲第4号証による進歩性の欠如について
請求人は,無効理由2における進歩性欠如の根拠として,平成8年12月24日に頒布された刊行物である甲第4号証(特開平8-339490号公報)を提示している。
しかしながら,本件補正は,上記(2-1)から(2-3)に記載のとおり,特許法第41条の規定を満たすものであるので,出願日が繰り下がることはなく,本件特許の出願日は,平成2年9月27日である。
そうすると,本件特許の出願後に頒布されたことが明らかな甲第4号証の記載内容により,本件特許発明の進歩性が否定されることはない。
したがって,上記・・・「本件特許発明は,少なくとも,甲第4号証に記載された発明に基づいて,本件特許の繰下出願日である平成11年4月1日当時における当業者が容易に発明をすることができた発明である」という請求人の主張は,当を得ないものである。
第3審決取消事由(本件補正が要旨変更に当たらないとした判断の誤り)
審決は,本件補正後の特許請求の範囲の記載のうち,構成要件C~Eに係る事項が本件当初明細書に記載した事項の範囲内のものであり,本件補正が適法であることを前提として無効理由2を排斥したが,以下のとおり,本件補正は違法であるから,審決の判断は前提を誤ったものである。
1 本件当初明細書における(本件補正前の)特許請求の範囲の記載は次のとおりである。
「通常の放送音声信号に交通情報信号を含む主多重信号と,該信号に夫々対応した交通情報位置信号を含む副多重信号とを多重して送信されるFM多重信号を受信するFM多重受信機において,受信されたFM多重信号を復調し,主多重復調信号と副多重復調信号を得る多重信号復調器と,上記主多重復調信号を選択的にゲートし,スピーカに選択された主多重復調信号を供給せしめるゲート手段と,上記副多重復調信号に含まれる交通情報位置信号と,ナビゲーション装置により得られる現在位置信号との差を演算する差分演算手段と,該差分演算手段の出力に基づいて,上記ゲートのオン,オフを制御する差分判定手段とを備えたことを特徴とするFM多重受信機。」
上記記載によると,その発明に係る「FM多重受信機」において,受信した交通情報信号(通常の放送音声信号に交通情報信号を含む主多重信号)のうち,スピーカに供給される信号は,受信した交通情報信号について「復調」と「選択」のみが施されたものであり,受信した「交通情報位置信号」と「現在位置信号」については,両信号の「差分演算」と「差分判定」が行われるものであるということができる。
2 構成要件C及びDに係る事項は,本件当初明細書に記載されたものではなく,これらの記載事項を前提とする構成要件Eに係る事項も本件当初明細書に記載した事項ではないから,本件補正についての審決の判断は誤りである。その理由は以下のとおりである。
(1) 構成要件Cについて
上記構成要件は,「前記交通情報信号を音声信号に変換し交通情報音声信号を得る信号変換手段と,」であるところ,審決は,本件当初明細書の実施例の「受信側で受信された信号からベースバンド信号を得て,更にベースバンド信号からデータ列を復調し,復調されたデータ列の中から音声による交通情報を抽出して,抽出された音声による交通情報が音声にD/A変換される手段」は,構成要件Cに対応したものであると判断した。
しかしながら,上記実施例の記載において,データ列から抽出される交通情報信号は,あくまでも復調の対象である「ディジタル音声信号」であって,それ以外のもの(例えば文字列信号)ではなく,「抽出」も音声信号の単なる抽出操作であるから,その段階で特段の信号変換が行われているわけではない。そうすると,上記実施例に記載された交通情報信号について行われている操作が,ディジタル音声信号の復調,抽出及びD/A変換のみであることは明らかである。
仮に,音声信号以外の信号形態(例えば文字列信号)において受信した信号を音声化するためには,音声合成装置を備え,受信信号をその装置を介して音声化することが必須となることは当業者にとって技術常識であるところ,本件当初明細書においては,上記のとおり,ディジタル音声信号の復調,抽出及びD/A変換により音声報知する態様のみを記載しており,音声合成装置を配置することなどは全く記載も示唆もされていない。
したがって,本件当初明細書には音声信号以外の信号形態による交通情報信号を音声信号化することは記載も示唆もされていないというべきである。
また,本件特許出願に係る発明は,特定の信号多重形態により送信されるFM放送を受信する「受信機」であり,この「受信機」が受信対象としているFM放送において送信される交通情報信号は,音声による交通情報を音声状態のままディジタル化した信号を多重化したものであるから,本件特許出願に係る受信機が音声信号以外の信号形態による交通情報信号の受信を予定しているはずはないのである。
以上によると,本件当初明細書の実施例の記載から本件当初明細書に構成要件Cに係る事項が記載されているとした審決の判断は,誤りである。
(2) 構成要件Dについて
上記構成要件は「前記交通情報位置データ及び現在位置情報に基づき,交通情報位置と現在位置との間の距離を演算する演算手段と,」であるところ,審決は,差分演算器13で位置情報31と現在位置信号32から演算される差信号は,当然現在位置周辺を検出するためのものであり,一般に,現在位置周辺を検出するとは,現在位置の周辺にあるエリアの範囲内を検出するものであるところ,本件当初明細書の実施例にいう「差信号は差分判定器17で所定値と比較され,その所定値よりも小さければ,位置情報31が現在位置信号に接近していると判定して」とは,差分判定器17で比較される差信号が,所定値である現在位置周辺距離の最大値(エリア)よりも小さい場合(エリアの範囲内)を検出するものであって,差分演算器で位置情報と現在位置情報に基づいて演算される差信号は,現在位置と交通情報位置との間の距離に相当するから,構成要件Dに係る事項は本件当初明細書に記載した事項であると判断した。
しかしながら,本件当初明細書において,「自動車の現在位置」と「交通情報位置」との対比演算については,「差分演算器」で両地点の「差信号」を演算し,その結果を「差分判定器」で判定することのみが記載されており,両地点間の「距離」を演算し,その距離をあらかじめ定めた所定距離と対比することについて全く記載されていない。
一般に「差分」とは,特定の関数関係にある2点間について,その座標上の位置の差,すなわち,X軸方向又はY軸方向における差の大きさ(すなわちΔX又はΔYの大きさ)を意味するものであるのに対し,「距離」とは,その2点間の直接のへだたりの大きさを意味するものである。
また,「距離」は,その一般的語義においても,2地点間を結ぶ直線の長さ(直線距離)を意味する場合のほか,2地点間を結ぶ道路に沿った長さ(道程距離)を意味する場合があり,特に,本件発明のようなナビゲーション技術の分野においては,「距離」の語を「道程距離」の意味で用いる場合が多く,実用的にも「直線距離」よりも「道程距離」の方が重要な意義を有する場合が多いのであり,「差分」と「距離」の語がそれぞれ異なる概念を表す語であることは明らかである。
なお,「現在位置周辺」とは「現在位置周辺の一定の距離の範囲内」以外には考えられないかのような審決の認定も誤りである。
ところで,特開昭64-75911号公報(甲第9号証)には「音声ナビゲーション装置」に関する発明が開示されているところ,ここでは現在位置と情報位置との対比判定については,明らかに2つのX座標値及びY座標値について,それぞれが「許容差ΔX,ΔYに入る」か否かの判定,すなわち「差分判定」による所定範囲の判定が行われ,その結果に基づいて音声報知が行われることとなっている。
本件特許出願に係る発明は,このような公知の技術を,FM多重放送の受信に基づき交通情報位置が現在位置から所定の範囲内にあるときにのみ音声による交通情報報知を行うようにしたものと考えるべきである。
さらに,例えば,交通情報位置と現在位置との間の直線距離の大小によって「周辺」の範囲内であるか否かを判定する方法を用いる場合には,車輌の前後左右の方向如何を問わず「所定直線距離の範囲内」の交通情報を受信すれば,直ちに音声報知されてしまうのに対し,「差分判定」の方式を用いる場合には,例えばX軸方向の所定値よりもY軸方向の所定値を大きく設定する等の方法によって,より必要度の高い地点の交通情報を受信した時にのみ音声報知を受けるようにすることも可能となる。逆に,「距離判定」の方式を用いる場合には,「距離」として現在位置と交通情報位置との間の「道程距離」を用い得るという利点があるが,「差分判定」の方式を用いる場合には「道程距離」による判定は不可能である。このように「差分判定」の方式と「距離判定」の方式とは,その効果においても相違が生じ得るが,審決はこのような相違を看過して両者を同一のものとして取り扱っているのであり,審決の判断はこの観点からも誤りである。
(3) 構成要件Eについて
上記構成要件は「前記演算手段の出力に基づいて,現在位置からの距離が所定値以下である前記交通情報位置に対応する交通情報音声信号を選択的にスピーカに供給せしめる信号選択手段と,」であるところ,審決は,本件当初明細書には「差分演算器13(差分演算手段)の出力(差信号)に基づいて,差分判定器17(差分判定手段)で現在位置からの距離が所定値以下である交通情報の位置に対応した交通情報30(主多重復調信号)をスイッチ12(ゲート手段)を介して選択的にスピーカに供給していることが記載されており,本件当初明細書には構成要件Dの演算手段の出力に基づいて,現在位置からの距離が所定値以下である交通情報位置に対応する「交通情報音声信号」を選択的にスピーカに供給せしめる信号選択手段が記載されているということができるから,構成要件Eに係る事項は,本件当初明細書に記載した事項であると判断した。
しかしながら,審決の上記判断は,構成要件Dの演算手段の出力を前提とするものであり,上記2のとおり,審決による構成要件Dに係る事項の認定は誤りであるから,これを前提とする構成要件Eについての上記判断も誤りである。
3 以上のとおり,本件補正後の特許請求の範囲の記載のうち構成要件C~Eに係る事項が本件当初明細書に記載した事項の範囲内のものであるとした審決の判断は誤りである。
第4被告の反論
原告は,本件補正は違法であるから,審決の判断は前提を誤ったものであり,審決は取り消されなければならないと主張するが,以下のとおり,審決の判断に原告主張に係る誤りはなく,原告の主張は失当である。
1 構成要件Cについて
原告は,「実施例の記載において,データ列から抽出される交通情報信号は,あくまでも復調の対象である『ディジタル音声信号』であって,それ以外のもの(例えば文字列信号)ではなく,『抽出』も音声信号の単なる抽出操作であるから,その段階で特段の信号変換が行われているわけではない」し,本件当初明細書には「ディジタル音声信号の復調,抽出及びD/A変換により音声報知する態様のみを記載しており,音声合成装置を配置することなどは全く記載も示唆もされていない」から,審決の判断は誤りである旨主張するが,失当である。
審決は,本件当初明細書の実施例の記載から,本件当初明細書にデジタル信号である交通情報信号を,D/A変換してアナログ信号とすることが記載されていることを認定した上,交通情報を音声以外の信号を用いて放送波に多重化して伝送可能であることが周知であり,当業者にとって自明であることに加え,本件当初明細書に音声以外の信号を用いることを妨げる記載が存在しないことから,本件当初明細書に構成要件Cに係る事項が記載されていると判断したものである。
したがって,原告の主張は,審決の論理を正解しないものであり,審決の上記判断に原告主張に係る誤りはない。
2 構成要件Dについて
原告は,「差分」と「距離」の語がそれぞれ異なる概念を表す語であり,「差分判定」の方式と「距離判定」の方式を用いる場合でその効果においても相違し得ることなどから,「本件当初明細書において,『自動車の現在位置』と『交通情報位置』との対比演算については,『差分演算器』で両地点の『差信号』を演算し,その結果を『差分判定器』で判定することのみが記載されており,両地点間の『距離』を演算し,その距離をあらかじめ定めた所定距離と対比することについて全く記載されていない」とし,「差分判定器17で比較される差信号が,所定値である現在位置周辺距離の最大値(エリア)よりも小さい場合(エリアの範囲内)を検出するものであって,差分演算器で位置情報と現在位置情報に基づいて演算される差信号は,現在位置と交通情報位置との間の距離に相当する」との審決の判断は誤りであると主張するが,失当である。
まず,「差」とは「性質・状態のへだたり。」と定義されるように,2つの事象間のへだたりを表すものであり,「距離」とは「差」という「へだたり」を「長さ」という性質・状態に着目して限定的に捉えたものであり,「距離」は「差」の下位概念に当たる。
そして,本件当初明細書において,交通情報位置信号は交通情報位置を示すものであり,現在位置信号は現在位置を示すものであり,これら2地点の間を示す用語として「差」が用いられているのであるから,「差」とは,すなわち,「交通情報位置と現在位置との間のへだたり」を意味するものである。
さらに,通常,ナビゲーション装置を利用する本件発明のような発明において,「交通情報位置」は地図上における渋滞や通行禁止区域等である交通情報の位置であり,「現在位置」は車両が現在存在する位置であるから,「交通情報位置と現在位置のへだたり」とは,「地図上における交通情報位置と現在位置との間のへだたり」に相当する。
そして,交通情報位置と現在位置の間の「距離」は,これらの2地点間の「へだたりの長さ」にほかならないのであり,本件当初明細書における「差」が「距離」と同義であることは明らかである。
また,原告主張のとおり,「距離」には「直線距離」のほか「道程距離」も含まれるが,本件当初明細書における「差」は,これらの「距離」のいずれかを排除する趣旨のものではなく,むしろ,ナビゲーション装置の技術分野において,2地点間の「距離」を「道程距離」で表される曲折した実際の道路に対応させて算出するのは当然のことであるから,そのような道路を地図上に表示させる本件発明において,「差」に「道程距離」が含まれることは当然である。
以上によると,原告の主張は失当であり,審決の判断に誤りはない。
3 構成要件Eについて
原告は,審決による構成要件Eについての判断は,構成要件Dの演算手段の出力を前提とするものであり,審決による構成要件Dに係る事項の認定は誤りであるから,構成要件Eについての上記判断も誤りである旨主張するが,上記2のとおり,構成要件Dについての審決の判断に誤りはないから,構成要件Eについての原告の主張は失当である。
4 以上によると,本件補正が適法であるとした審決の判断に原告主張の誤りはないから,取消事由は理由がない。
第5当裁判所の判断
1 構成要件C(前記交通情報信号を音声信号に変換し交通情報音声信号を得る信号変換手段と,)について
原告は,審決が本件当初明細書の実施例の記載から,構成要件Cに係る事項が記載されていると判断したことは誤りである旨主張するので,検討する。
(1) 本件当初明細書(甲第3号証の2)には次の記載がある。
「[発明の概要]
送信側ではFM多重信号に交通情報とこれに同期した位置情報とを乗せて送信し,受信側ではこれを復調したものと,ナビゲーション装置の現在位置の検出装置を利用し,現在位置周辺の交通情報を音声で聞き取ることができる装置である。
[従来の技術]
ナビゲーション装置の陰極線管(CRT)に渋滞などの交通情報を重ね表示する装置は,既に考案されている(・・・)。また,ラジオ音声放送による交通情報装置としては,主要幹線などを中心とした地域別の交通情報専門局による放送と,一般のラジオ放送を利用したものとがある。」(2頁6~19行)
上記「発明の概要」の記載によると,本件特許出願に係る発明は,交通情報とこれに同期した位置情報とナビゲーション装置の現在位置を利用して現在位置周辺の交通情報を音声で聞き取ることができる装置に係るものであり,ここでいう「交通情報」は,送信側において位置情報と同期させた上,FM多重信号に乗せて送信することができるものであると認められる。
そして,上記「従来の技術」の記載によると,「ナビゲーション装置の陰極線管(CRT)に渋滞などの交通情報を重ね表示する装置は,既に考案されている」というのであり,「交通情報」には,ナビゲーション装置のモニターに「表示」されるものが存在することが前提とされていることが認められる。
また,本件特許出願時(平成2年9月27日)における公知文献である特開昭62-111536号公報(甲第19号証)に「受信した無線交通情報を復号して再生装置に供給する無線交通情報復号装置において,無線交通情報復号装置(20)は交通情報を示すデジタル信号を処理するように構成され,・・・前記デジタル信号は,文字文信号(ASCII)であり,前記無線交通情報復号装置(20)は受信交通情報を光学的,電気的あるいは音響的に再生する文字文処理装置(62)を有する・・・無線交通情報復号装置。」(特許請求の範囲「1)」及び「7)」)との記載があり,同特開昭62-180625号公報(甲第20号証)に「放送波を受信して該放送波に含まれる情報を再生する放送受信装置において,該装置は,前記放送波を受信して復調する受信手段と,該受信手段の出力を可聴信号または可視信号として再生する出力手段とを含み,・・・前記放送波に含まれる情報は,ディジタルデータの形をとった道路交通情報データを含むこと・・・前記再生手段は,前記ディジタルデータを音声合成して可聴音声として出力する音声出力手段を含むことを特徴とする放送受信装置。」(特許請求の範囲「4.」,「6.」及び「7.」)との記載がある。
これらの記載によると,交通情報を文字信号のようなデジタル信号を用い,これを変換して可聴信号として利用者に伝達することは,本件特許出願時において当業者にとって周知の技術的事項であったものと認められる。
(2) そして,本件当初明細書には「実施例」として次の記載がある。
「送信側aでは,マイクロホン1からの音声による交通情報23をA/D変換器2でA/D変換し,これと同期して現在放送している交通情報の位置を示す情報24をFM多重信号変調器3に出力する。交通情報と位置情報は,FM多重信号変調器3により時分割多重,変調され,FM多重信号25となる。FM多重信号25は多重装置4によりステレオ音声信号21と多重され,FM送信機5で変調され,送信アンテナ6から発射される。
受信側bでは受信アンテナ7から入力した信号27に対して,FM受信機8を用いて同調,復調し,ベースバンド信号28を得る。ベースバンド信号28は,MPX9およびFM多重信号復調器10へ入力される。MPX9は入力された信号28を,ステレオ音声信号29に変換する。FM多重信号復調器10は入力されたベースバンド信号28を復調し,復調されたデータ列の中から交通情報30と位置情報31を抽出する。ここで位置情報31は,例えばナビゲーション装置14の地図番号に対応するものとする。
一方,ナビゲーション装置14内では地磁気センサー等を用いて自動車の現在位置を検出し,その結果を元にメモリ(例えばCD-ROM)から地図を選択し,CRT16にこの地図を表示する。
FM多重信号復調器10から出力された位置情報31とナビゲーション装置32からの現在位置信号32とは差分演算器13に与えられ,その差信号を演算する。この差信号は差分判定器17で所定値と比較され,その所定値よりも小さければ,位置情報31が現在位置信号に接近していると判定して,スイッチ制御信号33でスイッチ12をオンにする。
スイッチ12がオンされると,D/A変換器11によりD/A変換された交通情報30がスイッチ12を介してスピーカ15から出力され,現在位置周辺の交通情報を知らせる。」(5頁16行~7頁11行)
上記記載によると,本件当初明細書には,本件特許出願に係る発明の実施例として,アナログ信号である音声による交通情報をデジタル信号に変換したものをアンテナから受信し,これをアナログ信号に変換して音声による交通情報としてスピーカから出力する構成が記載されていると認められる。
(3) 上記(2)において,アナログ信号に変換される信号は,音声による交通情報信号がデジタル信号化されたものであるが,上記(1)及び(2)のとおり,本件当初明細書において「交通情報」とされるものには,画面上に表示される渋滞情報のようなものも含まれ,文字信号のような音声以外のデジタル信号による交通情報を変換して音声信号とする技術は本件特許出願前において周知であったと認められることも考慮すると,本件当初明細書に接した当業者は,本件当初明細書にいう「交通情報」には音声信号以外の信号によるものが含まれると理解するものというべきであり,上記の実施例の記載における「交通情報」が「音声による交通情報」であるからといって,本件当初明細書において開示された技術的事項を実施例の記載に限定して解すべきものではない。
(4) なお,原告は,「音声信号以外の信号形態(例えば文字列信号)において受信した信号を音声化するためには,音声合成装置を備え,受信信号をその装置を介して音声化することが必須となることは当業者にとって技術常識であるところ,本件当初明細書においては,上記のとおり,ディジタル音声信号の復調,抽出及びD/A変換により音声報知する態様のみを記載しており,音声合成装置を配置することなどは全く記載も示唆もされていない」とも主張するが,上記のとおり,音声信号以外の交通情報信号についての記載があると考えられる以上,当業者は,これを可聴信号に変換するために必要となる技術常識を踏まえて開示内容を理解するのであるから,原告のこの主張は,上記認定に影響を与えるものではない。
(5) 以上によると,本件当初明細書には,音声信号以外の信号による交通情報についても記載されているものというべきであり,これを音声信号に変換して交通情報音声信号を得る信号変換手段についても記載されているというべきであるから,本件当初明細書に構成要件Cに係る事項が記載されているとした審決の判断に誤りはなく,原告の主張は失当である。
2 構成要件D(前記交通情報位置データ及び現在位置情報に基づき,交通情報位置と現在位置との間の距離を演算する演算手段と,)について
原告は,本件当初明細書において,「自動車の現在位置」と「交通情報位置」との対比演算については,「差分演算器」で両地点を表す信号の差分である「差信号」を演算し,その結果を「差分判定器」で判定することのみが記載されており,両地点間の「距離」を演算し,その距離をあらかじめ定めた所定距離と対比することについて全く記載されていないから,構成要件Dに係る事項は本件当初明細書に記載した事項であるとの審決の判断は誤りであると主張するので,検討する。
(1) 本件当初明細書(甲第3号証の2)には「差分」についての定義は存在しないところ,上記1(2)において認定した[実施例]の記載によると,本件当初明細書における「差分」とは,現在放送している交通情報の位置を示す「位置情報」とナビゲーション装置において検出される自動車の現在位置を示す「現在位置信号」の差信号について,差分演算器が演算した結果求められる値であると認められる。
(2) そして,本件当初明細書には次の各記載がある。
ア 「・・・上記副多重復調信号に含まれる交通情報位置信号と,ナビゲーション装置より得られる現在位置信号との差を演算する差分演算手段・・・」(特許請求の範囲,4頁12~15行)
イ 「・・・一般のラジオ放送を利用したものにおいて,FM多重放送を利用することで交通情報を流すときのみスイッチをオンするような装置が考案されているが,サービスエリアが広範囲であるため,交通情報の中に自分の現在位置周辺の交通情報で無いこともあり耳障りとなる。」(3頁12~17行)
ウ 「本発明の目的はFM多重放送受信機にナビゲーション装置を組み合わせ,現在位置周辺の交通情報のみを音声によって知らせることを可能とすることにある。」(3頁19行~4頁2行)
上記(1)において認定したところを踏まえて,上記各記載及び上記1(2)において認定した[実施例]の記載をみると,本件当初明細書に記載された発明において,差分演算器により演算された値である「差分」が,差分判定器により所定値よりも小さい,すなわち,位置情報が現在位置信号に接近しているものと判定されれば,スイッチ制御信号が発せられ,スイッチがオンの状態になることにより,現在位置周辺の交通情報のみが音声によって知らされることになるものと認められる。
そうすると,上記「差分」の判定及びその前提となる演算は,交通情報の位置と自動車の現在位置がどの程度近いかを判定するために行われているものであることは明らかである。
(3) 車載用ナビゲーション装置に関する本件特許出願前における以下の各刊行物において,次の各記載がある。
ア 実開昭62-66399号公報(乙第5号証)
(ア) 「《従来技術とその問題点》
従来の車両用経路案内装置としては,例えば特開昭58-2203017号公報に記載されたものが知られている。
この種の装置においては,出発地(または目的地)を与えるだけで,経路の出発交差点(または目的交差点)が自動設定されることが要望されている。
最も簡単な解決手段としては,出発地座標(または目的地座標)と各交差点座標とを比較し,出発地(または目的地)から最短距離にある交差点を出発交差点(または目的交差点)として選択することが考えられる。
しかし,出発地(または目的地)から最短距離を条件として選択された出発交差点(または目的交差点)が,出発地(または目的地)から見て目的地(または出発地)と反対の方角に存在し,かつ出発地(または目的地)から余り離れて存在すると,出発地から目的地へ向かう場合に,無駄な遠回りをする結果となる。」(2頁8行~3頁7行)
(イ) 「各ブロックエリアは,更に当該ブロックに含まれる各交差点に対応した複数の交差点エリアに分割されている。
各交差点エリアには,交差態様情報,地図上の位置を示すX座標情報,Y座標情報,交差点名称情報,隣接交差点に関する情報がそれぞれ記載されている。
各隣接交差点エリアには,各交差点に隣接する交差点の交差点番号情報,接続道路の道路番号情報,当該交差点から見た各接続道路の方位情報,各交差点から当該交差点までの区間道程情報がそれぞれ記憶されている。」(6頁16行~7頁7行)
(ウ) 「(C)最短経路選択処理について
この処理では,出発交差点近傍から遠方へと目的交差点を探しながら,途中交差点までの道程を記憶させておき,目的交差点が検出されるとともに,記憶された道程情報を頼りに,目的交差点から出発交差点へと最短経路を逆戻りし,これにより最短経路上の途中交差点を抽出記憶する。」(15頁9~15行)
イ 特開昭62-133599号公報(乙第6号証)
「(C)最短経路選択処理について
この処理では,道路地図上において,出発交差点から目的交差点へ向けて様々な経路で走行シミュレーションを行ない,得られた最短経路上の登録交差点を順次通過順に記憶する。」(4頁右上欄16~20行)
ウ 特開昭62-215287号公報(乙第2号証)
(ア) 「本発明は・・・走行経路表示装置において,特に経緯線を基準にした平面投影法によって作成された各エリアごとに分割された複数の各地図における1基準点における緯度-経度値を既知のものとして地図ごとにそれぞれ登録しておき,地図上に設定された目標点の位置における緯度-経度値をその地図における基準点からわり出し,各目標点における緯度-経度座標上における位置の差からその目標点間の距離を換算して表示させるようにしている。」(2頁左下欄末行~右下欄9行)
(イ) 「また,本発明では,第7図に示すように,各々画面上に更新表示される互いにエリアの異なる複数の地図にわたる走行予定コース上に複数の目標点O1,O2,O3,O4,・・・が順次設定された場合,前述のように計測された第1の目標点O1,O2間の距離L1,第2の目標点O2,O3間の距離L2,第3の目標点O3,O4間の距離L3・・・を順次加算して最初の目標点O1からのトータル距離を表示させるようにする。」(4頁右下欄9~17行)
エ 特開平2-107917号公報(乙第4号証)
(ア) 「〔従来の技術〕
近年,自動車に搭載させるナビゲーション装置として種々のものが開発されている。例えば,自車の位置を出発点からの車の走行方向,走行量等の検出により判別し,この判別した自車位置の近傍の道路地図をCD ROM装置の如き大容量記憶装置からの情報に基づいてCRTの画面に表示させることが考えられている。
また,出発点の座標位置と目的地の座標位置とをこのナビゲーション装置に入力して,地図上の最短経路を探索させ,探し出した道路の距離と最高速度等により目的地までの所要時間を表示させることが提案されている(特開昭56-44805号公報等)。」(1頁右欄7行~2頁左上欄1行)
(イ) 「・・・最短距離・時間検出器(11)で,供給される出発点と目的地との座標情報とこの2点間の道路地図情報より,最短の経路を探索する。」(3頁左上欄18~20行)
(ウ) 「例えば,第2図に示す地図中のa点を出発点とし,b点を目的地として入力した場合,この2点間の最短経路が破線で表示される。」(3頁左下欄11~13行)
(4) 上記(3)で認定した各記載によると,本件特許出願時において,ナビゲーション装置の分野では,最短の走行(予定)経路の距離を探索し,表示等するために,地図上の交差点等の複数の点を記憶し,これらの点をつないだ出発地と目的地との間の経路の距離,すなわち,道程距離を算出することは,当業者にとって周知の技術的事項であったと認められる。
そして,道路上を走行する自動車の走行を案内することを目的とするナビゲーション装置において,2地点間の距離を算出する場合,当業者が想定する「距離」は,自動車が走行する道路との関係を持たない直線距離ではなく道程距離であると考えるのが通常であると認められ(もとより,道路が直線である場合に,道程距離が直線距離を意味することとなるのは当然である。),道程距離が,走行(予定)経路上にある交差点等に設定された複数の点の間の距離の総計として求められ得ることは自明である。
そうすると,本件当初明細書の記載に接した当業者は,上記のとおり,FM多重放送受信機とナビゲーション装置を組み合わせて現在位置周辺の交通情報のみを音声によって知らせることを目的とする本件当初明細書記載の発明について,地図上の複数の点から道程距離を算出する機能を備えた周知のナビゲーション装置を念頭に置いて,その記載を理解するものと考えるべきであり,少なくとも,交通情報の位置と自動車の現在位置の間の「距離」に道程距離が含まれるものと理解するものというべきである。
(5) 原告は,「差分」とは,特定の関数関係にある2点間について,その座標上の位置の差,すなわち,X軸方向又はY軸方向における差の大きさ(すなわちΔX又はΔYの大きさ)を意味するものであるのに対し,「距離」とは,その2点間の直接のへだたりの大きさを意味するものであるから,両者は異なる概念を表す語であると主張するが,本件当初明細書における「差分」の語が交通情報の位置と自動車の現在位置の間の道程距離を含むものと理解されることは上記のとおりであり,当業者が,ナビゲーション装置についての本件当初明細書の記載である「差分」の語を,原告が主張するような意味として理解するとは到底認められないから,原告の主張は失当である。
また,原告は,「差分」に「道程距離」が含まれないことを前提として,「差分判定」と「距離判定」の効果が異なることを主張するが,上記のとおり,本件当初明細書の「差分」の語は道程距離を含むものと理解することができるものであるから,原告の主張は前提において失当である。
さらに,原告は,特開昭64-75911号公報(甲第9号証)において,現在位置と情報位置との対比判定について,2つのX座標値及びY座標値のそれぞれが「許容差ΔX,ΔYに入る」か否かの判定による所定範囲内外の判定が行われ,その結果に基づいて音声報知が行われること,本件特許出願に係る発明は,このような公知の技術を,FM多重放送の受信に基づき交通情報位置が現在位置から所定の範囲内にあるときにのみ音声による交通情報報知を行うようにしたものと考えるべきであると主張するところ,本件当初明細書の「差分」には,原告が主張するような直線距離(2つのX座標値及びY座標値のそれぞれが「許容差ΔX,ΔYに入る」かどうかを判定する場合の所定範囲を示す円の半径の長さ)が含まれるだけでなく,道程距離も含まれるものであることは上記のとおりであるから,原告の主張は失当である。
(6) 以上のとおり,本件当初明細書における「差分」の語は,交通情報の位置と自動車の現在位置の間の道程距離を含むものというべきであるから,本件当初明細書には,交通情報の位置と自動車の現在位置の間の距離が所定の範囲にあるかどうかの判定手段及びその前提となる演算手段が記載されているものと認められ,ここでいう距離にも(直線距離のみならず)道程距離が含まれるというべきであるから,構成要件Dに係る事項は当初明細書に記載した事項であるとの審決の判断に誤りはない。
3 構成要件E(前記演算手段の出力に基づいて,現在位置からの距離が所定値以下である前記交通情報位置に対応する交通情報音声信号を選択的にスピーカに供給せしめる信号選択手段と,)について
原告は,構成要件Eに係る事項は本件当初明細書に記載した事項であるとの審決の判断は,構成要件Dの演算手段の出力を前提とするものであり,構成要件Dに係る事項の認定は誤りであるから,これを前提とする構成要件Eについての判断も誤りであると主張する。
しかしながら,構成要件Dに係る事項は本件当初明細書に記載した事項であるとの審決の判断に誤りはないから,原告の主張は前提を誤ったものであり,失当である。
4 以上によると,原告の主張はいずれも採用することができず,審決に原告主張の違法はない。
第6結論
以上のとおり,審決取消事由は理由がないから,原告の請求を棄却すべきであり,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 田中信義 裁判官 浅井憲 裁判官 杜下弘記)