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知財高等裁判所 平成20年(行ケ)10276号 判決 2010年1月19日

原告

バクスター・インターナショナル・インコーポレイテッド

同訴訟代理人弁護士

宮原正志

同訴訟代理人弁理士

山本秀策

森下夏樹

?谷剛志

長谷部真久

被告

アボット・ラボラトリーズ

被告

セントラル硝子株式会社

被告ら訴訟代理人弁護士

岡田春夫

川中陽子

同訴訟代理人弁理士

川口義雄

小野誠

金山賢教

大崎勝真

坪倉道明

主文

1  特許庁が無効2006-80264号事件及び無効2007-800195号事件について平成20年3月13日にした審決を取り消す。

2  その余の原告の請求を棄却する。

3  訴訟費用は,これを3分し,その1を原告の負担とし,その余を被告らの負担とする。

4  原告及び被告アボット・ラボラトリーズに対し,この判決に対する上告及び上告受理申立てのための付加期間を30日とする。

事実及び理由

第1請求

特許庁が無効2006-80264号事件,無効2006-80265号事件及び無効2007-800195号事件について平成20年3月13日にした審決を取り消す。

第2事案の概要

本件は,名称を「フルオロエーテル組成物及び,ルイス酸の存在下におけるその組成物の分解抑制法」とする被告らが共有する特許(特許第3664648号。甲1。以下「本件特許」といい,同特許に係る発明を「本件発明」という。)について,原告が,無効2006-80264号事件(以下「第1審判請求事件」という。)においては,本件発明が,特許法36条4項,同条6項1号,同条6項2号又は同法29条1項柱書きに違反しているとして,無効2006-80265号事件(以下「第2審判請求事件」という。)においては,本件発明が特許法29条1項3号若しくは同条2項に違反しているとして,無効2007-800195号事件(以下「第3審判請求事件」といい,第1ないし第3審判請求事件を併せて「本件各審判請求事件」という。)においては,本件発明が分割要件に反して分割出願されたものであるから,平成18年改正前の特許法44条1項に違反しているとして,それぞれ同法123条1項によって無効とされるべきであるとの理由で無効審判請求をしたところ,本件各審判請求事件が併合され,いずれも請求不成立の審決を受けたことから,同審決の取消しを求める事案である。

1  特許庁における手続の経緯

被告らは,発明の名称を「フルオロエーテル組成物及び,ルイス酸の存在下におけるその組成物の分解抑制法」とする当初の特許出願(特願平10-532168,出願日平成10年1月23日(優先権主張 平成9年1月27日,米国)。以下「原出願」という。甲C1)を分割して,平成12年11月16日に本件特許を出願し(甲C2),平成17年4月8日に設定登録を受けた。

原告は,平成18年12月15日,特許庁に対し,本件特許の無効を主張して第1及び第2審判請求事件を提起したところ,特許庁は,平成19年1月9日両事件を併合審理する旨の通知をした。さらに,原告は,同年9月14日,特許庁に対し,第3審判請求事件を提起したところ,特許庁は,平成20年1月8日,第1及び第2審判請求事件と第3審判請求事件を併合審理する旨の通知をした後,同年3月13日本件各審判請求事件について「本件の審判の請求は成り立たない。審判費用は,請求人の負担とする。」との審決をし,同月26日,その謄本を原告に送達した。

なお,以下において,原出願に添付された明細書及び図面を「原出願明細書等」といい,分割出願時の当初明細書を「分割出願明細書」といい,本件特許の特許明細書を「本件明細書」という。また,原出願は国際出願であるから,その翻訳文が原出願明細書とみなされるが,ここで,原出願明細書と分割出願明細書の記述をみると,前者の「発明の技術分野」から実施例7(1ないし26頁)までの記載は,後者の【発明の詳細な説明】以下の段落【0001】ないし【0058】の段落番号が付された部分の記述と全く同一であり,図面にも変更はない。また,分割出願明細書の上記段落の記述は本件明細書においても全く同一である。したがって,以下,本件においては,原出願明細書の記載内容をこれに対応する本件明細書の段落番号等によって引用して検討することとする。

2  本件特許の特許請求の範囲

本件特許の請求項1及び2に係る発明(以下,それぞれ「本件発明1」,「本件発明2」という。)は,次のとおりである。

【請求項1】

一定量のセボフルランの貯蔵方法であって,該方法は,内部空間を規定する容器であって,かつ該容器により規定される該内部空間に隣接する内壁を有する容器を供する工程,一定量のセボフルランを供する工程,該容器の該内壁を空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤で被覆する工程,及び該一定量のセボフルランを該容器によって規定される該内部空間内に配置する工程を含んでなることを特徴とする方法。

【請求項2】

上記空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤が,水,ブチル化ヒドロキシトルエン,メチルパラベン,プロピルパラベン,プロポホール,及びチモールからなる群から選択されることを特徴とする,請求項1に記載の方法。

3  本件各審判請求事件における原告(請求人)の主張の概要

(1)  第3審判請求事件について

本件発明は,原出願明細書等の開示の範囲を超えてされた分割出願に係るものであり,平成18年改正前特許法44条1項に規定される分割要件を満たさないから,その出願日は分割出願の日である平成12年11月16日となるところ,それに先立つ原出願の国際公開公報に基づけば,本件発明は新規性がないから,特許法29条1項に該当し,特許法123条1項2号により無効とされるべきである(無効理由1),そうでないとしても,本件発明には進歩性がなく,特許法29条2項の規定に違反して特許されたものであるから,特許法123条1項2号により無効とされるべきである。以下,詳述する。

本件発明1は,次のとおり分説することができる。

(A) 一定量のセボフルランの貯蔵方法であって,以下の工程を含んでなることを特徴とする方法

(B) 内部空間を規定する容器であって,かつ該容器により規定される該内部空間に隣接する内壁を有する容器を供する工程,

(C) 一定量のセボフルランを供する工程,

(D) 該容器の該内壁を空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤で被覆する工程,及び

(E) 該一定量のセボフルランを該容器によって規定される該内部空間内に配置する工程

しかしながら,原出願明細書等に,「被覆」の用語の記載があるのは実施例3及び7のみであり,また,「貯蔵」の用語の記載があるのは実施例4及び5のみであり,以下のとおり,原出願明細書等には上記構成要件(D)や(A)の各工程の記載がないというべきである。

ア 原出願明細書等の実施例3では,ガラス表面の水被覆の有無でセボフルラン分解に有意な差がなく,実施例7では被覆によりセボフルランの分解が抑制されているから,どのような量の水でどのような態様の「被覆」を行えば一般にセボフルランの分解が抑制できるのかを容易に認識できるとはいえない。

イ 実施例3及び7における水はセボフルランに溶解しているから,それ以外のルイス酸抑制剤で容器の内壁を「被覆」することでセボフルランの分解を抑制できることは理解できるといえない。

ウ 水を「おおいかぶせ」たとしても作用効果の見られない例(実施例3及び6)があり,実施例7のみからは,あらゆる態様の「作用効果を奏する被覆」なるものが明らかでない。

エ 本件発明の「ルイス酸抑制剤」,「被覆」,「容器」は,実施例7の「水飽和セボフルラン」「水飽和セボフルランを入れて,ボトルを回転機に2時間掛けること」,「正体不明の活性化されたガラス容器」の各々上位概念であるから,本件発明は,原出願明細書等に記載された下位概念の発明をもとに,分割出願において上位概念の発明として特許請求の範囲に記載している。

オ 実施例4及び5は共に「容器内壁を被覆した貯蔵方法」とは無関係であるから,原出願明細書等には,本件発明にかかる容器内壁をルイス酸抑制剤で「被覆」した「貯蔵方法」に関する記載はない。

カ 実施例7においてですら,長期間にわたる医薬品の保存(通常の条件下で2ないし3年)を含む「貯蔵方法」は全く記載されていない。

(2)  第1審判請求事件について

ア 無効理由1(サポート要件違反)

次のとおり,本件明細書の請求項の各記載は,特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載されたものとはいえないから,特許法36条6項1号の要件を満たしておらず,同法123条1項4号により無効とされるべきである。

(ア) あるルイス酸を中和するに適切なルイス塩基の種類は,ルイス酸の種類によってはじめて経験的に求められるものであり,当業者が理論的に容易に理解できるものではない。

(イ) ある物質が反応する相手方の物質によってルイス塩基として作用する場合とルイス酸として作用する場合とがある。

(ウ) 酸化アルミニウムをルイス酸と仮定した場合,ピリジン(ルイス塩基)を用いても,実際にフルオロエーテルの分解を抑制できない。

(エ) 本件発明の構成要件(D)に定める「ルイス酸抑制剤」として用いなければならない量は明確ではない。

(オ) 本件発明の実施例は,既に公知であった水をルイス酸抑制剤とする例しか記載されておらず,それ以外の特許請求の範囲が実施例によってサポートされていない。

(カ) 少なくともルイス酸の供給源が「ガラス」以外の場合について本件明細書には実証されたメカニズムが記載されていない。

(キ) セボフルランが「医薬品として販売できる程度に分解が抑制され,安定化している状態」を保つためにどの程度の量の「ルイス酸抑制剤」をどのように容器内に被覆すべきかの開示がない。

イ 無効理由2(実施可能要件違反)

上記アの(ア)ないし(エ),(カ)及び(キ)のとおり,本件明細書は,当業者が実施できる程度に明確かつ十分に記載されていないので,特許法36条4項の要件を満たしておらず,同法123条1項4号により無効とされるべきである。

ウ 無効理由3(明確性要件違反)

前記アの(ア)ないし(エ)及び(キ)のとおり,本件発明の記載は明確性を欠いているので,特許法36条6項2号の要件を満たしておらず,同法123条1項4号により無効とされるべきである。

エ 無効理由4(発明未完成)

本件明細書には,結局,水とガラス容器の組合せについての記載しかないから,本件発明は,発明として未完成であり,特許法29条1項柱書きに規定する要件を満たしておらず,同法123条1項2号により無効とされるべきである。

(3)  第2審判請求事件について

ア 無効理由1(新規性欠如)

特開平5-57182号公報(甲B2。以下「引用例」といい,同公報に記載された発明を「引用発明」という。)には,水で被覆した容器によりセボフルランが貯蔵されていることが記載されている。したがって,本件発明は,引用例が存在するため新規性がなく,特許法29条1項の規定に該当するものであるから,同法123条1項2号に該当し,無効とすべきである。

イ 無効理由2(進歩性欠如)

本件発明1及び2は,次の(ア)及び(イ)の理由により進歩性がなく,特許法29条2項の規定に違反して特許を受けたものであるから,同法123条1項2号に該当し,無効とすべきである。

(ア) ルイス酸抑制剤である水により容器内壁を被覆する技術は本件特許出願時にすでに公知(甲B2)であったから,かかる公知技術に当時の技術常識を組み合わせることにより,本件特許は当業者が容易に発明することができるものである。

(イ) 本件発明1の各工程で使用される容器は公知(甲B4ないし7)であり,この容器に技術常識を組み合わせることにより,当業者が容易に発明することができたものである。

4  審決の理由

審決は,次のとおり,本件各審判請求事件において,原告(請求人)が主張した無効理由はすべて理由がないとして,本件発明を無効とすることはできないとした(なお,以下において引用した審決中の記号,当事者及び公知文献等の各表記は,本判決の表記に合わせて統一した。)。

(1)  第3審判請求事件について

ア 原出願に本件発明が包含されているかについて

(ア) 「原出願は,発明の名称を『フルオロエーテル組成物及び,ルイス酸の存在下におけるその組成物の分解抑制法』とする出願であり,原出願明細書には上記の摘記にみるとおり本件発明の(A)~(E)の工程の結合がその文言どおりに記載されている箇所は存在しない。

しかしながら,上記実施例7では,活性化されたタイプIII褐色ガラス製ボトルを供する工程,容器に水飽和セボフルランを入れボトルを回転機に掛け,活性化されたガラス表面に水を被覆する工程,これを排液し,400ppmの水を含有するセボフルランで置換する工程が存在し,置換に先だって当該セボフルランを供する工程も当然に存在する。

また,実施例4の段落【0045】『表3の結果は,40℃で200時間貯蔵した場合,・・分解を抑制できることを示している。』の記載からすると,実施例7の50℃で18~178時間置く工程も『貯蔵』と解されるから,結局,実施例7には(B)~(E)の工程を含む(A)の貯蔵方法の発明の一態様が開示されている。

そして,実施例7の水飽和セボフルランで被覆処理をした場合の結果(表7)と実施例6の約20ppmの水を含有する分解していないセボフルランで再度数回すすぎ洗いした場合の結果(表6)とを対比するならば,水飽和セボフルランによる被覆がセボフルランの分解の抑制をもたらすことが明らかである。

すなわち,実施例6の『約20ppmの水を含有する分解していないセボフルランで再度数回すすぎ洗い』する処理は,段落【0018】に『本明細書で用いる「無水」という用語は‥‥水の量が50ppm未満であることを意味している。』の記載にあるとおり,無水セボフルランによる処理と同じであって,これはむしろ通常化学実験で行われる共洗い(化学分析時に行う準備作業の名称。容器内部に付着している,分析対象となる液体以外の物質を予め除去するため,容器内部を分析対象の液体を用いて洗浄することをいい,容器洗浄に用いた水分が付着していることで,分析対象の液体の濃度に影響を与えることのないようにする目的もある)に相当し,その後,容器には400ppmの水を含有するセボフルランが配置される。

一方,実施例7では被覆に水飽和セボフルラン(水の含有量1400ppm)が使用され,その排液時に容器内壁に水飽和セボフルランが付着し残存するが,そこに含まれる水は極めて微量であって,その後置換される400ppmの水を含有するセボフルラン中の水分を実質的に増加させるものではないから,実施例6と7で容器内に配置されるセボフルランが含有する水の量は同じと考えられ,表6と7の結果の差は被覆処理そのものに由来する効果と理解することができる。

そして,この効果は,段落【0027】の『‥‥しかし,一旦本組成物がルイス酸に晒されると,本組成物とルイス酸抑制剤(審決注:ルイス酸の誤記と認められる。)の望ましくない分解反応を防止するため,ルイス酸抑制剤がルイス酸と反応する‥‥』の記載や段落【0033】の『適量のルイス酸抑制剤を含有する少量の本組成物を用いて容器を洗浄またはすすぎ洗いし,容器に残っている可能性のあるルイス酸を中和することができる。』の記載からみて,『水飽和セボフルラン』に含まれるルイス酸抑制剤である水が,容器に残っていたルイス酸と反応し,これを中和した結果であると解することができる。

また,上記段落【0033】に洗浄,すすぎ洗いによってもルイス酸の中和ができるとの記載があることや,実施例7の回転機に掛けガラス表面を水で被覆する処理は,水を流動させてむら無くガラス表面に接触させる処理であって,洗浄やすすぎ洗いも同様の処理であることからすると,洗浄,すすぎ洗いも容器内壁を被覆する一態様であると解することができる。

そうすると,段落【0030】,段落【0033】の組成物の調製において,容器をルイス酸抑制剤で洗浄やすすぎ洗いした後,その容器にフルオロエーテル化合物(セボフルラン)を充填する工程は,容器表面のルイス酸を中和すると共に,容器内壁に残存するルイス酸抑制剤をセボフルランに添加するものであるから,調製工程には,容器を供する工程,一定量のセボフルランを供する工程,容器内壁をルイス酸抑制剤で洗浄やすすぎ洗い(被覆)する工程,一定量のセボフルランを容器空間内に配置する工程が当然に含まれ,そこにも(B)~(E)の一連の工程を読み取ることができる。また,調製後の組成物は,当然に一定期間の貯蔵が予定されるのであるから貯蔵工程(A)も付随して存在する。

したがって,原出願は本件発明を包含していると認められる。

そして,原出願明細書の「発明の技術分野」から実施例7(第1~26頁)までの記載は,分割直前においても同じであるから,本件発明は原出願の分割直前の明細書に記載された事項の範囲内のものでもあるということができる。よって,本件特許が分割要件に違反してなされたとすることはできない。」

(イ) 前記3(1)の原告(請求人)の主張イ,エ,オについて

「しかし,実施例4,5や3,7のみならず,原出願明細書全体,特に段落【0030】,段落【0033】をみるならば,上記したとおり,ルイス酸抑制剤で容器内壁を被覆し,その後セボフルランを配置して貯蔵するという上位概念での(A)及び(D)の工程を読み取ることができるのであるから,イ,エ,オの主張は何れも理由がない。」

(ウ) 前記3(1)の原告(請求人)の主張ア,ウについて

「原出願明細書の実施例3の被覆処理されたセットAは,『タイプIの透明ガラス製アンプルを用いて,様々なレベルの水がセボフルランの分解を抑制する効果について試験した。約20mLのセボフルランと,約109ppmから約951ppmの範囲の異なるレベルの水を各アンプルに入れた。その後,それらのアンプルをシールした。合計10本のアンプルにセボフルランと様々な量の水を充填した。そのうち5本のアンプルをセットAとし,残りの5本をセットBとした。次いで,それらのアンプルを119℃で3時間オートクレーブした。セットAのサンプルは一晩振とう機に掛け,水分をガラス表面に被覆できるようにした。セットBのサンプルはガラス表面を水で平衡化することなく調製した。幾つかの対照サンプルも調製した。‥‥上記表2の結果は,セットA及びセットBのアンプルの場合,少なくとも595ppmの水があれば充分にセボフルランの分解を抑制できることを示している。また,この結果は,一晩振とうしたアンプルと一晩振とうしなかったアンプルとの間に有意な差がないことを示している。』の記載からみて,水を含有するセボフルランを容器内部空間に配置したまま一晩振とう機に掛け,水分をガラス表面に被覆する処理を行ったものである。

本件発明の貯蔵方法は,(B)ないし(E)を含んでなるものであって,それらの工程の順序については格別特定されていないが,方法の発明の性格上,経時的要素が当然に含まれ,(A)は(E)工程の後に,(B)は少なくとも(D)(E)より前に,(C)は少なくとも(E)より前に存在しなければならないことは自明であり,また,被覆工程(D)は洗浄やすすぎの態様で行われるのであれば内容物の充填に先立つことは自明であるし,それ以外の態様の被覆であってもその処理の意義はルイス酸抑制剤による容器表面のルイス酸の中和にあるから,この工程が(E)工程に先立って行われる必要があることも明らかである。

これを実施例3についてみると,アンプルに水と貯蔵対象となるセボフルランを入れるという(E)工程の後,加熱後一晩おくという貯蔵の工程で被覆が行われているのであるから,実施例3のセットAの処理は本件発明の実施例にはあたらない。したがって,この記載によって,本件発明の被覆処理によるセボフルランの分解抑制についての理解が妨げられるものではない。

また,実施例6は「約20ppmの水を含有する分解していないセボフルランで再度数回すすぎ洗い」する処理を行っているが,この処理が容器内表面を水で被覆した工程と解することはできないのは上記で述べたとおりであるから,ルイス酸抑制剤による被覆の効果を実施例6から論ずることはできない。

したがって,ア,ウの主張も理由がない。」

(エ) 前記3(1)の原告(請求人)の主張カについて

「医薬品の保存に関して,安定性試験のガイドライン(甲第9号証 表2及び『4.安定性試験』の項)では,流通の間に遭遇する可能性のある過酷な条件における品質の安定性に関する情報を得るための試験として過酷試験が示されており,50℃という温度条件はこれに該当するが,その試験期間は試験目的に合うよう適宜設定するものであるとされ,さらに目的達成のためにより適切な方法がある場合にはガイドラインの記載にとらわれず,他の方法を用いることができるということが原則とされている。

したがって,実施例7の貯蔵条件である50℃で178時間までの試験はガイドラインにいう過酷試験に相当し,これに基づいて長期間にわたる医薬品の保存(通常の条件下で2~3年)の評価をすることは可能であって,カの主張も理由がない。」

イ 無効理由1及び2について

「無効理由1,2は本件特許が分割要件を満たさない分割出願に係るものであることを前提として主張されたものであるが,上記のとおり,本件特許は適法な分割出願に係るものであって,出願日の遡及が認められるから,請求人の提示する甲第1号証は特許法29条1項3号にいう本件特許出願日前に頒布された刊行物にはあたらない。したがって,これに基づく無効理由1,2は成り立たない。」

ウ まとめ

「以上のとおりであるから,請求人の主張及び証拠方法によっては本件請求項1及び2に係る特許を無効とすることはできない。」

(2)  第1審判請求事件について

ア 無効理由1(サポート要件違反)について

(ア) 前記3(2)アの原告(請求人)の主張(ア)について

「請求人は,この主張の根拠として甲第3,4号証を提示し,ルイス酸・ルイス塩基は一般に,経験上,硬いルイス酸・塩基,やわらかいルイス酸・塩基等に分類され,硬いルイス酸は硬いルイス塩基と,やわらかいルイス酸はやわらかいルイス塩基とより反応しやすく,相性による反応量の違いがあること,その他に,錯形成に際して起こりうる酸および塩基の置換基の再配列,立体的な反発,溶媒との競合なども反応の結果に影響を持ちうるなど,その反応の程度は理論的に導かれるものではなく,経験的に実験を行うことによってはじめて導かれる性質のものであることをあげ,反応量が極めて少ないルイス酸とルイス酸抑制剤の組み合わせで本件発明を実施すれば,場合によっては,ルイス酸が,用いられたルイス酸抑制剤よりもセボフルランと先に反応してしまい,結局セボフルランの分解を抑制するという作用効果を達成できない場合があることが容易に想定できること,例としてアルゴン(Ar)は,『ルイス塩基』の定義に包含されるが,非常に反応性の低い物質であり世の中のありとあらゆる物質に対して反応しない物質であることを挙げている。

この主張は本件発明におけるルイス酸は不特定のルイス酸を意味するという前提でされたものと解される。

しかし,本件の請求項1には,本件発明が上記(A)~(E)の一連の工程の結合によりなることを明記しており,そこにおける(D)の『該容器の該内壁を空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤で被覆する工程』はセボフルランの分解の抑制のために採用されている工程であることは明らかであるから,「ルイス酸」は当然に貯蔵中のセボフルランの分解に関与しうる『ルイス酸』であり,『ルイス酸抑制剤』は当該『ルイス酸』に対する抑制剤(ルイス塩基と同義)であることは請求項1の記載自体から明らかである。

そして,本件明細書の【発明の詳細な説明】の段落【0002】~【0009】の『発明の背景』には,麻酔薬として使用されるフルオロエーテル化合物の例としてセボフルラン等を示すと共に,ガラス製容器中でのフルオロエーテルの分解は容器中に存在する微量のルイス酸によって活性化されるものと考えられ,ルイス酸のソースはガラスの天然成分である酸化アルミニウムであり得ること,フルオロエーテルであるセボフルランが無水条件下でガラス容器中の1種類もしくはそれ以上のルイス酸と接触すると,ルイス酸はセボフルランをフッ化水素酸,ヘキサフルオロイソプロピルアルコール等の分解産物に分解し始め,フッ化水素酸が更にガラス表面への攻撃を進行させ,ガラス表面に更に多くのルイス酸を露出させ,この結果,セボフルランの分解が一層促進されるとして,ルイス酸の存在下におけるセボフルランの分解メカニズムが示され,実施例1では活性アルミナにより,実施例2~4ではフレームシールしたガラスアンプル内の活性化ガラス表面により,実施例5では分解したセボフルランの貯蔵に使用したガラス製ボトル内の活性化ガラス表面によりセボフルランの分解が生起されることが実証されている。さらに,実施例1~4,6,7を通して,水のセボフルランの分解抑制作用が確認され,特に実施例7においては,‥‥水による被覆それ自体の効果が確認されている。

第1図及び第2図によれば,活性アルミナも,活性化ガラス表面もセボフルランに作用して同じ種類の分解産物を与えることから,これらはセボフルランに対し同じように作用していると見られること,活性アルミナがルイス酸であること(甲第3号証表5・3参照,甲第6号証)や活性化ガラス表面に存在すると推定される4価のケイ素もルイス酸であること(乙第5号証),セボフルランからの脱フッ素化の反応はルイス酸(電子対受容体)の存在に依存する化学反応と考えられることからすれば,セボフルラン分解の原因物質を『ルイス酸』という概念で括ることが可能であり,段落【0007】に記載された分解メカニズムはセボフルランに対するルイス酸の作用と実際に生じる分解産物との関係を合理的に説明するものであることは当業者であれば十分理解することができる。

そして,分解反応は通常ルイス酸の空軌道の存在により起こると考えられるのであるから,ルイス酸の空軌道と相互作用し,その酸の潜在的な反応部位を遮断するルイス塩基がルイス酸抑制剤として利用可能であることも化学の常識から自然に導かれることである。

また,段落【0027】『しかし,一旦本組成物がルイス酸に晒されると,本組成物とルイス酸抑制剤の望ましくない分解反応を防止するため,ルイス酸抑制剤がルイス酸と反応するので,本組成物中のルイス酸抑制剤量は減少し得ることに留意すべきである。』の記載によれば,ルイス酸抑制剤がセボフルランよりもルイス酸に対する反応性が高いことは明らかであり,本件明細書中において『ルイス酸抑制剤』は,組成物の成分であっても,被覆に使用するものであってもその区別はないのであるから,本件発明の被覆におけるルイス酸抑制剤も当然にルイス酸に対する反応性はセボフルランより高いものと解されることは明らかである。そうであるから,不活性ガスとして周知のアルゴンを当業者が本件発明におけるルイス酸抑制剤(ルイス塩基)として利用しようとする事態は想定し得ないものである。

よって,誤った前提にたってなされた請求人のアの主張は理由がない。」

(イ) 前記3(2)アの原告(請求人)の主張(イ),(ウ)について

「請求人は甲第3号証や甲第5号証を挙げ,同一の物質であってもルイス酸やルイス塩基となりうるとする。しかし,これらの文献は,単に種々の物質の化学的な作用をルイス酸,ルイス塩基という観点から一般的に解説しているにすぎない。また,甲第6号証には,Al2O3上にピリジンを事前に吸着させ,さらにその上に(CF2H)2Oを吸着させて加熱し,Al3+部位の関与の有無を検討した結果が記載されているが,これも本件発明で予定しているセボフルランの貯蔵とはかけ離れた条件での実験である。

したがって,これらの文献の記載によって,本件明細書に記載されているセボフルランの貯蔵時における分解抑制に対するルイス酸抑制剤の意義や作用効果に疑義が生じるものではない。」

(ウ) 前記3(2)アの原告(請求人)の主張(エ)について

「請求人は,本件明細書の実施例3や実施例6を挙げ,一定量に満たないルイス酸抑制剤を用いた場合には本件発明の作用効果を発揮しない場合があると主張する。

しかし,これらは被覆工程を必須とする本件発明の実施にあたらないことは‥‥すでに述べたとおりである。そして,実施例7では容器内壁を被覆するルイス酸抑制剤として水飽和セボフルランを使用しその効果を確認しているが,水飽和セボフルランではなく水そのものであれば,より短時間の処理でルイス酸の中和が可能であることも当業者にとっては自明である。

請求人は,本件明細書にはいかなる場合にいかなるルイス酸抑制剤を加えれば本件発明の作用効果が得られ,いかなる量では得られないのかの基準が記載されていないとする。

しかし,本件明細書には,‥‥,ルイス酸によるセボフルランの分解メカニズムが示され,本件出願時においてセボフルランが,その貯蔵環境中において最も遭遇する可能性の高いと想定されるルイス酸である活性アルミナや活性化ガラス表面に接した状態で,通常の貯蔵条件より過酷な条件に置かれても,ルイス塩基である水(ルイス酸抑制剤)が温度条件やその濃度に応じた分解抑制効果を奏することを実施例1~4,6において示し,それを被覆に使用した場合の効果も実施例7により具体的に示している。

したがって,ルイス酸抑制剤の使用量の基準についての記載がないことをもって,本件発明がサポート用件を満足していないということはできない。」

(エ) 前記3(2)アの原告(請求人)の主張(オ)について

「段落【0026】には『また,本発明の麻酔薬組成物は生理学的に許容可能なルイス酸抑制剤も含んでいる。本明細書で用いる「ルイス酸抑制剤」という用語は,ルイス酸の空軌道と相互作用し,それによりその酸の潜在的な反応部位を遮断するあらゆる化合物を表している。生理学的に許容可能なあらゆるルイス酸抑制剤を本発明の組成物に使用することができる。本発明で使用できるルイス酸抑制剤の例は,水,ブチル化ヒドロキシトルエン(1,6-ビス(1,1-ジメチル-エチル)-4-メチルフェノール)‥‥及びチモール(5-メチル-2-(1-メチルエチル)フェノール)を含む。』との記載がある。

そして,硬いルイス塩基であることが周知(甲第3号証,表5・3参照,乙第5号証)である水(H2O)が適切な量で存在すればセボフルラン分解を抑制し,ルイス酸抑制剤として作用していることが実施例1~4,6,7によって実証されている。したがって,これらの実施例によってルイス塩基のルイス酸抑制剤としての作用効果についてサポートされているものと認められる。

なお,請求人は,『セボフルランから水を除くことが全く不可能であるから水の態様は既にあった』『水をルイス酸抑制剤とする例は既に公知である』として,水以外のルイス酸抑制剤の実施例の開示を要する旨主張するが,水が公知であるか否かと本件発明が【発明の詳細な説明】に記載されているか否かとはなんら関わりがない。

したがって,請求人の主張は採用することはできない。」

(オ) 前記3(2)アの原告(請求人)の主張(カ)について

「請求人は段落【0007】の分解メカニズム自体の正当性は実証されていないとし,その理由として,実施例3の容器のうち『タイプI』についてその内容が開示されていない点,『タイプIII』の容器も段落【0035】において,主に二酸化珪素,酸化カルシウム,酸化ナトリウム,及び酸化アルミニウムからなっているとの記載があるだけであって,段落【0007】に記載のSi-OH(Siは4価の状態であるがここでは他の結合の記載は省略する。)構造は有していない点,もし仮に上記タイプIIIの二酸化珪素(SiO2)が一部変化しSi-OHの構造を有すると善解しても,それはガラスにのみ当てはまることであり,珪素(Si)を有しない酸化アルミニウム等他の物質には全く無関係である点を挙げている。

しかし,タイプIの透明アンプルについては硼珪酸ガラス,タイプIIIのボトルはソーダ石灰ガラスからなることは当業界ではよく知られており(乙第10号証),これらの主成分が酸化ケイ素SiO2であることも周知(乙第12,13号証)であるから,これらについて成分の記載がない点は何らサポート要件を害するものではなく,段落【0007】の反応式は,活性化されたガラス表面には二酸化珪素(SiO2)が一部変化してSi-OHとして存在し,これがルイス酸として作用すると推定し(Surface-Bound Lewis Acid)としたものであることは当業者が十分に理解することができる。

請求人は甲第26号証を提出し,Si-OHの酸素原子には2つの孤立電子対があるからルイス酸ではなくルイス塩基であるとする。しかし,上記のとおり段落【0007】の反応式におけるSi-OHの表記は,実施例2(フレームシールしたガラス製アンプル)や実施例5(分解したセボフルランを貯蔵したガラス製ボトル)において,セボフルランの分解が実施例1の典型的なルイス酸である活性アルミナと同様に起こることから,本件明細書では活性化ガラス表面上に存在しセボフルランを分解するルイス酸として作用するものを単に「Si-OH」と推定して表記したにすぎないと解されるから,反応式中でルイス酸を意味していることが明らかであるSi-OHを当該反応とは離れて独立して取り出し,ルイス塩基であるとする理由はない。

そして,実施例1では活性アルミナがルイス酸として作用しているのであるから,反応式中Si-OHはAl2O3と置き換えることも可能であって,セボフルランの分解をガラスに限ったものということもできない。

さらに,請求人は,段落【0007】の反応式によればHFIPの量はS1からP1を差し引いた差と等しくなるはずであるが,図1からはそのような関係が見られないとも主張する。しかし,段落【0007】記載のセボフルランの分解メカニズムは実際に起こっている多種多様な分解反応のうちの主たる反応を記載したものであると解されるから,分解産物が想定され得るメカニズムに従った量比で生じないことによりこのメカニズムの妥当性が損なわれるものでもない。

なお,請求人は,ガラスの内壁以外に由来する例えば空気中のルイス酸が如何なるメカニズムでセボフルランを分解するのか,本件明細書には何ら記載がないとも主張しているが,上記のとおり段落【0007】の反応における分解メカニズムは容器内でのルイス酸によるセボフルランの分解を合理的に説明する化学反応として理解できれば足り,その反応に関与するルイス酸がどこから来たものであるかはその理解に何ら影響しないものであるから,上記の点にしてもサポート要件を損なうものではない。」

(カ) 前記3(2)アの原告(請求人)の主張(キ)について

「セボフルランの医薬品としての安定性は過酷試験によりある程度評価可能であるから,販売できる医薬品としての詳細な条件の開示が無いことをもって,本件発明が【発明の詳細な説明】に記載されていないとすることはできない。」

(キ) まとめ

「以上のとおりであるから,(ア)~(キ)の何れの理由によっても本件特許がサポート要件を欠くとすることはできない。」

イ 無効理由2(実施可能要件違反)について

(ア) 前記3(2)イの原告(請求人)の主張(ア)ないし(ウ)について

「請求人は(ア)~(ウ)を総合して,中和する対象である『ルイス酸』の種類及び量と,被覆する『ルイス酸抑制剤』の種類及び量,さらには中和する際の温度その他の条件によって,容器が『ルイス酸抑制剤』で『被覆』されたとしても,その後加えられたセボフルランが分解してしまい,本件発明の作用効果を奏しない(であろう)場合,すなわち構成要件(D)を満たさない場合がさまざまに想定される結果,当業者が本件発明の作用効果を奏するようなルイス酸抑制剤を選定する,すなわち世の中に存在するありとあらゆる『ルイス酸』のすべてについて中和することができる適切な『ルイス塩基』を選択し,かつ,本件発明の作用効果を奏する条件を決めることには過度の試行錯誤を要すると主張している。

この主張が本件発明のルイス酸を世の中に存在するありとあらゆる『ルイス酸』とする誤った前提でされているものであることは‥‥既に述べたとおりである。

本件発明のルイス酸はセボフルラン貯蔵条件においてセボフルランを分解しうるルイス酸であることが前提である。

そして,本件特許の優先日当時,乙第20号証の2によれば,吸入麻酔薬として販売されていたセボフルラン製品がフッ化水素へ分解し,pHの規格からはずれてリコールされるという事態は発生していたが,甲第19号証にみられるようにセボフルランは3フッ化硼素や4フッ化チタンなどのルイス酸に対し安定であるとの認識があったという状況の中,本件明細書ではじめてその分解メカニズムが明らかにされ,段落【0005】【0035】において分解が起こるのは特定の条件(無水,酸性)下であることや,さらにセボフルランが遭遇する可能性が高くかつ活性化状態である,いわば最も危険なルイス酸と考えられるものが,活性アルミナや活性化ガラス表面であることも開示されたのである。

そして,甲第10号証(鑑定意見書 第3頁(5))においても『何らかの要因によりガラス容器表面にセボフルランを分解する原因となる活性化物質が生じた場合や鉄さびなどの酸化金属が特殊条件で活性化された場合セボフルランの分解が起こることが想定される。』とされ,本件明細書に記載のセボフルランの分解の原因が化学的に受け入れることのできるものであるとの意見が表明されている。

そうすると,本件明細書に接した当業者は,明細書に開示された以外のどのような種類,強さのルイス酸がどのような条件下でセボフルランに混入した場合に分解が生じるかということよりは,実際にセボフルランを分解させる可能性の高いルイス酸が混入したり発生したりする危険な条件に置かれてもセボフルランが分解を免れるような手段を講じ,有害分解産物の発生や製品リコールの発生を未然に防ぐことが,最も重要かつ緊急の処置であると理解するのが自然である。

理論上,活性アルミナや活性化ガラス表面以外のルイス酸による分解も十分想定できるものの,実際上セボフルランが遭遇する確率としては低いと考えられる他のルイス酸についての記載がないことが格別本件発明の実施を妨げるものではない。

また,本件発明の『ルイス酸抑制剤』はあくまで(B)~(E)の工程を経るセボフルランの貯蔵方法において,セボフルランという特定の物質の分解抑制を目的として(D)工程で使用されるのであるから,実施にあたって,ルイス塩基であれば何でもよいというものではなく,当然にセボフルランを分解しうるルイス酸を中和し,その結果セボフルランの分解抑制をもたらす化合物であること,容器を被覆することができる流動性を有していること,容器やセボフルランに対して有害な影響がないこと,医薬用途のセボフルランであれば被覆後にセボフルランを配置しても問題のない生理学的に許容可能な化合物であること等セボフルランの貯蔵上当然に留意すべき各種の観点から選択されるのであって,膨大な種類の化合物が想定されるものではなく,その範囲は自ずと限られるものである。本件明細書には,‥‥段落【0026】に,本件発明で使用できるルイス酸抑制剤の例示がされており,これらの例に従い『ルイス塩基』を選定し,作用効果を奏する条件を決めることに格別過度の試行錯誤を要するとすることはできない。(甲第27号証によれば,実際に販売されるセボフルラン製品に対してルイス酸抑制剤として採用されているのは,本件明細書の実施例で使用されている水である。)

なお,請求人は段落【0026】に列挙された化合物はフェノールであり,甲第3号証や甲第5号証によればルイス酸抑制剤(ルイス塩基)ではなくルイス酸であるとも主張する。しかし,乙第5号証によればフェノールは水と同様にルイス塩基(硬い塩基)に分類されているものであるし,反応条件の相違によって同じ化合物がルイス酸であったりなかったりするというのであればなおさらのこと,本件発明における『ルイス酸抑制剤』としてどのような化合物を使用すべきかは,あくまで本件明細書の記載に沿って理解されるべきである。実際,段落【0026】に例示の化合物が活性アルミナや活性化ガラスによるセボフルランの分解を抑制することは乙第13号証に示されるとおりである。

また,甲第6号証の実験結果が直ちに本件発明におけるルイス塩基の作用に疑義を与えるものではない‥‥,一般にルイス塩基と考えられている物質が本件発明のルイス酸抑制剤に該当するか否かは,本件明細書の実施例に倣った実験で容易に確認することが可能であるが,実際そのような手法でピリジンがルイス酸抑制剤であることも乙第8号証により確認されている。

したがって,(ア)~(ウ)の点は何れも,本件発明の実施を困難とする理由とはならない。」

(イ) 前記3(2)イの原告(請求人)の主張(エ)について

「請求人は実施例3,6の記載からはルイス酸抑制剤をどの程度の量加えれば作用効果を奏するのか明確ではなく実施可能な程度の記載がないとするが,これらの実施例は本件発明の(D)工程に該当しない‥‥。

ルイス酸抑制剤による被覆の態様は実施例7に具体的な試験例が示されているが,実施例7ではボトルに約125mLの水飽和セボフルランを入れ,その後ボトルを回転機に約2時間掛けることで活性化されたガラス表面に水を被覆できるようにし,次いで水飽和セボフルランを排液し,400(添加)ppmの水を含有する100mLのセボフルランで置換している。被覆に使用するルイス酸抑制剤は置換するセボフルランより大量であり,セボフルランに置換する前には排液されるのであるから,結局容器内表面を被覆できる十分量を使用すれば足りることが理解可能である。また,水の濃度が高ければ被覆に要する時間はもっと短くて良いことも予想可能である。したがって,被覆処理に当たって厳密なルイス酸抑制剤の使用量の記載がされていなくても,貯蔵に使用する容器の内表面の大きさに応じ,それを被覆するに足りるルイス酸抑制剤の十分量を使用すればよいことは当業者にとって自明である。」

(ウ) 前記3(2)イの原告(請求人)の主張(カ)について

「セボフルランのルイス酸による分解メカニズムについては具体的な裏付けを伴う十分理解可能な記載がされているのであるから,この点により本件発明の実施が不可能とすることはできない。」

(エ) 前記3(2)イの原告(請求人)の主張(キ)について

「本件発明はそもそも販売対象となる医薬品としてのセボフルランの貯蔵に限定された発明ではないが,以下,念のため,この点の請求人の具体的主張についてみるに,請求人は,

(1) 実施例7の記載はいかなる種類の,及び強さのルイス酸が対象となっているのか不明である

(2) 実施例1に記載されたルイス酸の種類・量の記載では不十分であり,ほかに本件発明の課題となっているルイス酸の種類・量を記載している箇所は本件明細書に存在しない

(3)  いかなる種類・量のルイス酸抑制剤を用いるかの開示もなされていない

(4)  ルイス酸によってセボフルランが分解されるという事実のみを参考に,当業者が当該ルイス酸を抑制するに十分なルイス酸抑制剤の種類,量等を選択することは出来ない

の4点を挙げ,セボフルランのルイス酸による分解という極めて特殊かつ例外的な事象について,その発生条件が明細書に全く記載されておらず,かつ唯一関連すると思われる実施例7にも手掛かりとなる事実の開示が全くない上に,当業者の技術常識も極めて乏しい以上,当業者が医薬品としてのセボフルランについていかなる種類のいかなる量のルイス酸抑制剤をいかなる態様で被覆することが本件発明の作用効果を奏する上で必要であるのかを把握することはおよそ不可能であり,かかるルイス酸抑制剤の種類や量が本件明細書において明確に実施可能な態様で開示されていないとしている。

しかし実施例7における活性化されたタイプIIIの褐色ガラス製ボトルも実施例1の活性アルミナも本件特許の優先日当時のセボフルランの貯蔵環境において最も遭遇する可能性の高いルイス酸であることは‥‥既に述べたとおりである。

そして,本件明細書の記載に従えば,販売を意図した医薬品としてのセボフルランの貯蔵方法として本件発明の実施を目指すという場合であっても,製品が晒される具体的な環境条件(容器の材質,充填前後の周囲の環境,搬送や貯蔵時の環境)に基づいて,そこで遭遇しうる可能性の高いルイス酸による分解を想定し,医薬としての品質に影響しないルイス酸抑制剤の種類,使用量を選定することは,当業者にとって過度な試行錯誤を要するものではない。

請求人は,本件特許の優先日当時,当業者はセボフルランが通常の環境で存在するルイス酸となりうる物質には安定であり分解しないと認識しており,いかなる強さや種類のルイス酸をどの程度入れればセボフルランが分解するのかについて全く知識を有していなかったのであるから,セボフルランの容器内壁にルイス酸抑制剤を被覆した場合であってもルイス酸抑制剤が容器内壁のルイス酸を中和したためセボフルラン分解が抑制されたのかセボフルランが単に分解しなかっただけなのか当業者は判別しがたいとも主張する。

しかし,本件明細書には,現実にセボフルランがルイス酸の存在により分解される状況が発生することがあり,その分解物に毒性があること,ルイス酸抑制剤によりセボフルランの分解が抑制されることが十分開示されているのであるから,セボフルランの貯蔵にあたってルイス酸により分解される可能性を排除するためにルイス酸抑制剤を使用するその予防的な意義は明確であって,上記の点により本件発明の実施が妨げられるものではない。」

(オ) まとめ

「以上のとおりであるから,(ア)~(エ),(カ),(キ)の点により本件明細書が実施可能要件を満たさないとすることはできない。」

ウ 無効理由3(明確性要件違反)について

「本件特許の請求項1においては,本件発明が(A)~(E)の一連の工程の結合により成り立つことを明記しており,(D)の『該容器の該内壁を空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤で被覆する工程』はセボフルランの分解の抑制のために採用されている工程であることは‥‥自明であるから,『ルイス酸』は当然に貯蔵中にセボフルランを分解に関与しうる『ルイス酸』であり,『ルイス酸抑制剤』は当該『ルイス酸』に対する抑制剤であることは請求項の記載自体から明らかである。

そして,本件明細書の段落【0007】にはルイス酸によるセボフルランの分解メカニズム,段落【0026】にはルイス酸抑制剤の用語の説明及び使用できるルイス酸抑制剤の例示もされており,請求項1,2の記載と【発明の詳細な説明】の記載に特段の矛盾はない。

そして,(ア)~(ウ)および(キ)の点は‥‥,本件発明を不明確とする根拠になるものではない。

また,(エ)のルイス酸抑制剤の使用量については‥‥,その量が特定されなければ本件発明が不明確となるものでもない。」

エ 無効理由4(発明未完成)について

「本件明細書の段落【0002】~【0009】の『発明の背景』の記載,実施例1~7及び図面により,セボフルラン分解の原因物質を『ルイス酸』という概念で括ることが可能であり,段落【0007】に記載された分解メカニズムはセボフルランに対するルイス酸の作用と実際に生じる分解産物との関係を合理的に説明するものであることを当業者は理解することができ,ルイス酸抑制剤として実施例で使用されている水は硬いルイス塩基(甲第3号証の表5・3参照,乙第5号証)であって,実施例1~4及び6,7の何れにおいてもセボフルラン分解を抑制し,ルイス酸抑制剤として作用していることが実証されている。

したがって,水以外については水に類するルイス塩基が考えられるが,段落【0026】には,水以外のルイス酸抑制剤として,ブチル化ヒドロキシトルエン(1,6-ビス(1,1-ジメチル-エチル)-4-メチルフェノール),メチルパラベン(4-ヒドロキシ安息香酸メチルエステル)等の例示があり,これらは乙第5号証においてROH(Rはアルキル又はアリール基を表す)で表記される化合物に相当するが,ROHは水と同様に硬いルイス塩基に分類されることからみても,セボフルランを分解しうるルイス酸に対し水と同様の挙動を示すことが予測される。

なお,これらの化合物が実際に活性化されたガラス容器中でのセボフルランの分解を抑制することは,審査段階において提出された実験成績証明書1及び2(乙第13号証;なお,この資料はあくまで明細書に記載された技術的事項の理解を補助するものであって,本件明細書の記載を補完するものではない。)においても示されている。

また,容器については段落【0030】で『「容器」という用語は,物品を保持するために使用することができるガラス,プラスチック,スチール,または他の材料でできた入れ物を意味している。容器の例は,ボトル,アンプル,試験管,ビーカー等を含む』と記載され,ガラス以外の素材についても言及している。

また,本件明細書で示されたセボフルランの分解メカニズムを見れば,‥‥セボフルランの分解は活性化されたガラス表面に限って起こるものではなく,それと同様に作用するルイス酸が存在すれば十分起こりうると理解可能である。

したがって,セボフルランを収容する容器としてスチールやプラスチックを採用する場合には,それらを使用する環境においてセボフルランが遭遇する可能性が最も高いと想定されるルイス酸を本件明細書の実施例に記載の手法に倣って確認し,それに対応するルイス酸抑制剤を適用することは当業者が当然に行うことであり,それは本件発明に包含される一態様にすぎず,また,ガラス以外の容器をルイス酸抑制剤によって被覆することが技術的に困難であるとする特段の事情もない。

以上のとおりであるから,水とガラスの組合わせを使用した場合のみならず,その他のルイス酸抑制剤やガラス以外の容器についても本件発明が適用しうることは本件明細書の記載から明らかであって,実施例における組合せが1通りであることをもって直ちに本件発明を未完成とすることはできない。」

(3)  第2審判請求事件について

ア 無効理由1(新規性欠如)について

「甲第2号証の実施例1及び2には,水酸化マグネシウムを二酸化炭素吸収剤として使用した場合のセボフルレン(セボフルランと同義。以下セボフルランと表記する。)の分解程度と二酸化炭素の吸収率を評価した実験が記載されている。

当該実施例1,2では,125mlのバイアル瓶に粉末状水酸化マグネシウム21g及びイオン交換水4ml(20重量%)または6ml(30重量%)を入れよくかき混ぜるという工程がある。しかし,この処理は水分を添加することで水酸化マグネシウムに所望の二酸化炭素吸収能力を賦与するため,成型品などの形状を保持する程度に加えられるのであって,乙第1号証及び乙第9号証に見られるとおり,水は水酸化マグネシウムに吸収されてしまい,容器内表面を被覆することが可能な程度の流動性を有する状態にはないと認められる。

また,125mlの容量の容器に20μlというわずかな量のセボフルランが瓶壁を伝わせ気化させながら加えられ,さらに二酸化炭素を10分ごとに注入しながら24時間おくという処理は,閉鎖及び半閉鎖系吸入麻酔において,二酸化炭素の効率的な吸収除去,及び吸入麻酔剤の分解による安全性の疑問な物質の生成の有無を評価するためのものであるから,セボフルランの麻酔薬としての使用時の分解の有無であって,貯蔵時の分解にはあたらない。したがって,甲第2号証には本件発明1,2の貯蔵方法が記載されているとすることはできない。

なお,請求人は,‥‥水で被覆した容器にセボフルランを配置することは甲第2号証を持ち出すまでもなく公知であるとし,甲第14号証によれば,水で洗った容器(内壁を水で被覆した容器)は公知,公用であるから,これにセボフルランを充填して保管することは公然実施されていたとも主張する。しかし,甲第14号証には,原薬の製造形態,製造工程の段階,機器洗浄に用いられる用水についての一般的な記述がされているのみであって,セボフルランの貯蔵時に使用する容器を水で被覆することについての記載は一切ない。そして,日常生活において容器を水で洗浄して使用することが広く行われているとしても,セボフルランは水でさえ不純物としてその含有量が制限される医薬品であることからすれば,本件発明の(B)~(E)の工程がセボフルランの貯蔵にあたり当然に行われていたということはできない。」

イ 無効理由2(進歩性欠如)について

(ア) 無効理由2(ア)について

「‥‥,甲第2号証にはセボフルランは二酸化炭素吸収剤として実質上水酸化カルシウムからなる製品(ソーダソーブなど)を用いると,分解生成物として1,1,3,3,3-ペンタフルオロ-2-(フルオロメトキシ)-1-プロペン等を生成することの記載はあるが,セボフルランのルイス酸による分解の記載はなく,セボフルランの貯蔵に関わる技術も,水による容器内表面の被覆についての記載もない。

また,甲第3号証にはペルフルオロポリエーテルの酸化物によって触媒される分解のトポケミカル機構が有機窒素塩基又は特定のルイス塩基の分解に対する抑制効果によって裏付けられること,Al2O3のルイス酸の性質は窒素塩基(例えばピリジン又はキノリン)での化学量論的滴定によって測定されうることの記載はあるが,セボフルランが貯蔵中にルイス酸により分解される点についての記載や示唆はされていない。

したがって,甲第3号証により『ルイス酸の反応を抑制するためにルイス塩基を使用すること』自体が技術常識であるといえたとしても,甲第2号証に記載された発明から本件発明を容易に導くことはできない。

請求人は,本件発明と甲第2号証の発明とを対比し『一定量のセボフルランの貯蔵方法であって,該方法は,内部空間を規定する容器であって,かつ該容器により規定される該内部空間に隣接する内壁を有する容器を供する工程,一定量のセボフルランを供する工程,該一定量のセボフルランを該容器によって規定される該内部空間内に配置する工程を含んでなることを特徴とする方法。』である点で一致するが,甲第2号証の発明が容器の内壁に水を被覆する工程のみ開示されているのに対し,本件発明は『容器の該内壁を空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤で被覆する工程』である点で,前者よりも後者が広い概念を規定している点で相違するとし,本件明細書段落【0003】の『特定のフルオロエーテルは,1種類もしくはそれ以上のルイス酸が存在すると,フッ化水素酸等の潜在的に毒性を有する化学物質を含む幾つかの産物に分解することが明らかになった。』との記載から,本件発明の課題が公知であること,『ルイス酸の反応を抑制するためにルイス塩基を使用すること』が技術常識であることを根拠に本件発明の進歩性を否定している。

しかし,上記のとおり甲第2号証にはセボフルランの貯蔵に関わる技術も,水による容器内表面の被覆についての開示もなく,段落【0003】の課題に関する記載にしても,単に本件明細書中に記載されているというだけでは本件出願前に公知であったとするには足りないから,これらの記載を根拠に本件発明が当業者にとって容易に発明できたとすることはできない。したがって,上記主張は採用できない。」

(イ) 無効理由2(イ)について

「請求人の提出した甲第4~7号証には,エポキシ系樹脂で内壁を塗装された金属素材の容器が記載され,これらの容器における樹脂塗膜は,缶の素材である金属の腐食防止あるいは容器内容物の保護の観点から形成されているものであるとされている。しかし,これらの証拠には,セボフルランがルイス酸により分解されることやそれを抑制するためのルイス塩基の利用に関連する記述は全く存在しないし,これらの容器をセボフルランの貯蔵に使用することを動機づける記載もない。

請求人は,本件発明は,従来から存在していたエポキシ樹脂によって塗装されたアルミニウム容器に,ルイス酸とルイス塩基が反応してルイス酸によるフルオロエーテル化合物の分解を抑制するという技術的な常識を組み合わせたものにすぎず,この組み合わせにより,当業者が容易に発明できたものであると主張する。

しかしながら,‥‥セボフルランがルイス酸によって分解することが公知であったとするに足る証拠はなく,ルイス塩基により貯蔵時のセボフルランの分解を抑制することが技術常識であったとすることはできないし,エポキシ樹脂での塗装をルイス塩基での被覆とすべき根拠も何ら示されていない。

したがって,上記証拠から,セボフルランの貯蔵容器としてエポキシ樹脂で被覆された金属素材の容器を使用することや,ルイス塩基をルイス酸抑制剤として利用するという技術思想を導き出す余地はなく,本件発明の(B)~(E)の工程の結合を経てセボフルランの貯蔵を行うという本件発明1,2が甲第4~7号証に記載された発明から容易に発明できたとすることはできない。

そして,請求人が提出したその他の証拠は上記判断を左右するに足るものではない。」

第3原告主張の取消事由

審決は,次に述べるとおり,認定及び判断に誤りがあるから,取り消されるべきである。

1  第3審判請求事件について

(1)  取消事由1(分割要件に関する判断の誤り)

審決は,以下のとおり,本件特許の分割要件についての判断を誤っている。

そうすると,その出願日は,原出願に遡及しないから,現実の出願日である平成12年11月16日(甲C2)であり,結局,かかる現実の出願日より前の平成10年7月30日に公開された原出願の国際公開公報(甲1)から新規性及び進歩性を欠き無効である。

ア 分割の要件においては,補正における新規事項追加と同じ審査基準で審査されるところ,新規事項追加については,上位概念化することも新規事項追加と判断される。すなわち,原出願明細書等に記載された下位概念をもとに,分割出願において上位概念で特許請求の範囲とする場合には分割要件違反となる。

ところが,本件発明のうち,少なくとも「該容器の該内壁を空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤で被覆する工程」なる構成要件(前記第2の3(1)記載の(D)。以下「構成要件(D)」などという。)は,原出願明細書等に記載されておらず,かつ,これらの記載から自明なものでもない。

(ア) すなわち,まず,「ルイス酸抑制剤」についてであるが,ルイス酸抑制剤は,水飽和セボフルランに限定されるものでなく,他のルイス酸抑制剤を含むことは明白であり,「ルイス酸抑制剤」は,「水飽和セボフルラン」との関係で,その上位概念に当たる。

(イ) 次に,「被覆」についてであるが,原出願明細書に「被覆」という用語が含まれている箇所は,実施例3の「セットAのサンプルは一晩振とう機に掛け,水分をガラス表面に被覆できるようにした。」(段落【0040】),実施例7の「その5本のボトルを回転機に約2時間掛け,活性化されたガラス表面に水を被覆できるようにした。」(段落【0056】)である。このうち段落【0040】は,水分をガラス表面に被覆した場合としない場合とで「有意な差がない」(段落【0042】)と結論付けており,明らかに,本件発明とは関係がない。そして,段落【0056】は,「活性化されたタイプIII褐色ガラス製ボトル」の内壁を水飽和セボフルランで回転機に約2時間掛けて「水」を被覆することが記載されているが,かかる「被覆」の態様は回転機に2時間掛けるという特殊な態様に限定されている上,「ガラス容器」以外の容器の内壁に「水」以外のルイス酸抑制剤を被覆することは何ら開示されていない。また,段落【0040】及び【0056】における「水」は,いずれもセボフルランに溶解していることが前提とされているのであり,この点からしても,セボフルランに溶解していない水以外のルイス酸抑制剤で容器の内壁を「被覆」することでセボフルランの分解を抑制できると,当業者が,出願時の技術常識に照らして,その事項がそこに記載されているのと同然であると理解できるともいえない。つまり,「被覆」についても,「水飽和セボフルランを入れて,ボトルを回転機に約2時間掛けること」に限定されることなく,その上位概念である。

この点について,審決は,段落【0030】及び【0033】の記載に依拠して,被覆する工程が実質的に記載されていると判断しているが,そもそも,段落【0030】及び【0033】は,「被覆する」工程の説明ではなく,組成物の調製方法なのである。しかも,段落【0030】及び【0033】の記載でさえ,「洗浄」又は「すすぎ洗い」との記載があるのみである。そうすると,仮に,「洗浄またはすすぎ洗い」が「被覆する」ことと同義であったとしても,被覆する工程は,「洗浄またはすすぎ洗い」する工程としか解釈できないことになる。

したがって,段落【0030】及び【0033】の記載を前提として,「覆い被せる」というような極めて広い概念で「被覆」が解釈されるのであれば,分割要件違反であることは明らかである。

(ウ) さらに,「容器」についても,「正体不明の活性化されたガラス容器」に限定されることはなく,上記容器の上位概念である。

(エ) 以上のとおり,これらは,原出願明細書等に記載された下位概念をもとに,分割出願において上位概念で特許請求の範囲としたものであって,分割要件に違反していることは明らかである。

イ 本件発明の「一定量のセボフルランの貯蔵方法」(構成要件(A))についても,次のとおり,原出願明細書等に記載されておらず,かつ,これらの記載から自明なものでもないから,本件特許は明らかに分割要件に違反している。

(ア) 原出願明細書等において,「貯蔵」という用語が含まれている箇所は,段落【0045】の「サンプルを60℃で144時間またはそれ以上貯蔵した場合には,303ppmより以上のレベルの水があればセボフルランの分解を抑制できる。」,段落【0046】の「分解したセボフルランの貯蔵に使用したタイプⅠⅠⅠの褐色ガラス製ボトルを試験した。」との記載である。このうち,段落【0045】の記載は,実施例4に関する記載であるところ,実施例4は,セボフルラン中に存在する水の効果に関する実験であり,容器内壁を被覆した「貯蔵方法」とは無関係である。すなわち,本件発明1及び2によれば,貯蔵方法は,方法の一工程として容器の内壁を被覆する工程によって達成されなければならないが,実施例4には「被覆」工程は記載されていないから,実施例4にいう「貯蔵」は本件発明とは無関係である。また,段落【0046】の記載は実施例5に関する記載であり,「分解したセボフルランの貯蔵」に関するものであるから,セボフルランの分解を抑制することを目的とする本件発明とは無関係であることは明白である。さらに,実施例5には,「被覆」工程は記載されていないのであって,被覆による貯蔵方法とは無関係である。

以上のとおり,原出願明細書等には,本件発明にかかる容器内壁をルイス酸抑制剤で「被覆」した「貯蔵方法」に関する記載は一切存在しない。

また,審決が認定するのは,せいぜい,本件明細書に記載された組成物の調製後の組成物の「貯蔵」についてのみであり,本件発明の実施形態には当たらないから,本件明細書に記載された組成物とは離れた,審決及び被告らが主張する「一定量のセボフルランの貯蔵方法」についての認定は,審決において何らされていない。

(イ) 次に,「一定量のセボフルランの貯蔵方法」という構成要件(A)は,原出願明細書等の記載から自明であるともいえない。

すなわち,通常,本件発明におけるセボフルランのような麻酔薬組成物などの医薬について「貯蔵」というときは,医薬品としての有効期限である,例えば,2ないし3年又はそれ以上の貯蔵期間を包含するものと理解される。特に,本件発明については,医薬品の貯蔵方法に関する発明であることが明らかであるから,本件発明における「貯蔵」についても,当該医薬品の通常の貯蔵態様である常温で少なくとも2ないし3年以上の期間貯蔵することを包含すると解釈される。しかしながら,本件発明における「一定量のセボフルランの貯蔵方法」は,容器内壁をルイス酸抑制剤で処理するという「貯蔵方法」であるところ,原出願明細書等の実施例7以外の部分の記載には「麻酔薬組成物」の調製方法が記載されているのみで,容器内壁を処理して「貯蔵」するという方法は一切開示されていない。そして,本件発明の唯一の実施例であるとされる実施例7についてみても,50℃で一定時間加熱したことが開示されているだけで,長期間にわたる保存を含む「貯蔵方法」であるとは記載されていない。

したがって,本件発明の構成要件(A)においても,実施例7で開示されているところの50℃で最長178時間の実験(下位概念)をもとに,分割出願において上位概念である一般的な「貯蔵方法」(実施例7記載の態様以外の,医薬品の貯蔵等の広い貯蔵方法をすべて含む上位概念)に拡張して特許請求の範囲としているものであって,分割要件に違反していることは明らかである。

そして,原出願明細書等に記載されている「正体不明の活性化されたガラス容器」の内壁を「水飽和セボフルランを入れて,ボトルを回転機に約2時間掛けること」を含む,50℃で最長178時間のセボフルランの加熱方法にかかる発明を上位概念化した本件発明1は,特許法29条1項3号違反ないし同条2項違反により拒絶されるべきことは当然である。

(2)  よって,本件特許は,特許法123条1項2号により無効とされるべきであるから,この点に関する審決の判断には誤りがある。

2  第1審判請求事件について

(1)  取消事由2(発明の要旨認定の誤り)

審決は,前記第2の4(2)ア(ア)のとおり,本件発明1の構成要件(D)の「ルイス酸」は,「当然に貯蔵中のセボフルランの分解に関与しうる『ルイス酸』」であり,『ルイス酸抑制剤』は当該『ルイス酸』に対する抑制剤(ルイス塩基と同義)であることは請求項1の記載自体から明らかである」と認定し,「ルイス酸」を限定解釈している。

しかし,特許請求の範囲の解釈に当たっては,文言が一義的に明確である場合,そのとおりに解釈すべき(最高裁平成3年3月8日第二小法廷判決参照。)であるところ,審決は,「ルイス酸」という文言が一義的で明確であるにもかかわらず,限定解釈をしており,特許法36条6項2号に違反する。

仮に,本件発明における「ルイス酸」との記載を「貯蔵中のセボフルランの分解に関与しうる『ルイス酸』」と限定して解釈すべきというのであれば,後記(2)アで説明するとおり,そのような「ルイス酸」を当業者は理解することができず,また,本件明細書にもその範囲(外延)が記載されていないから,仮に,本件発明に記載の「ルイス酸」を「貯蔵中のセボフルランの分解に関与しうる『ルイス酸』」と解釈したとすると,特許法36条6項2号違反のほか,同条4項および6項1号違反の拒絶理由も存在する。

したがって,審決における発明の要旨の認定は誤りである。

(2)  取消事由3(実施可能要件に関する判断の誤り)

本件発明の特許請求の範囲に記載されている「ルイス酸」「ルイス酸抑制剤」「被覆する工程」という用語は明確ではなく,また,本件明細書の記載あるいは実験によっても,「ルイス酸」の構造,種類,量を特定することはできない。「ルイス酸」が特定できない以上,「ルイス酸抑制剤」の種類・量も特定することができない。さらに,「被覆する」の意味を「覆い被せる」という意味にまで一般化することはできず,かつ当業者はどのように「被覆」すればいいのか理解することができない。したがって,当業者は特許発明をどのように実施するか理解することができず,本件発明は,特許法36条4項に違反するというべきところ,審決には,この点の判断を誤った違法がある。以下,詳述する。

ア 「ルイス酸」「ルイス酸抑制剤」の非限定について

(ア) 「ルイス酸」の非限定

本件発明において「ルイス酸」は限定されておらず,したがって「ルイス酸抑制剤」もまたそれに応じて解釈すべきであるから,結局,本件発明は実施不可能である。

すなわち,本件発明の本質(目的)は,医薬品として販売できる程度に安定したセボフルランを実現することにあり,ルイス酸抑制剤がごくわずかでもルイス酸を中和すればよいというものではない。

ところで,日常のルイス酸の構造は極めて多様であり,鉄さび,酸化アルミニウム,あるいは被告らの主張する酸化鉄だけをとっても複数の構造がありえ,反応も異なる。

このように,「ルイス酸となり得る物質」は,さまざまな種類がどこにでも存在し,それがセボフルラン用の容器内壁に混入し得るが,セボフルランは日常的に接する「ルイス酸となり得る物質」に対して安定した性質を有している。

実際,セボフルランが分解した事例は,本件特許出願時点で1件,現在まででもわずか2件しか報告されておらず,むしろ,セボフルランは安定であると認識されていた。

以上のように,セボフルランは多種多様なルイス酸となり得る物質に晒されているにもかかわらず,実際にルイス酸によりセボフルランが分解することは異例のことであり,その客観的な特質として,日常的に接し得る状況において存在するルイス酸となり得る物質に対して極めて安定している。

ところが,当業者は,セボフルランのルイス酸による分解の知識も乏しく,セボフルランを分解する「ルイス酸」の構造や種類,条件がどのようなものかを特定することができない。

にもかかわらず,セボフルランを分解する「ルイス酸」の①種類(酸化アルミニウムや鉄さび等といった日常に存在し得る各種ルイス酸,ルイス酸となり得る物質),②量(有意量),③条件(悪条件)は,本件明細書に一切開示されていない。

そのため,セボフルラン用の容器内壁にルイス酸抑制剤を被覆した場合であっても,ルイス酸抑制剤が容器内壁に付着するルイス酸と中和したためセボフルランの分解が防止されたのか,セボフルランが単に分解しなかっただけなのかを当業者が判別することは,およそ不可能である。

そこで,上記のとおり,本件明細書の記載と当業者の知識によって,セボフルランを分解する「ルイス酸」の種類・構造・量などを特定できないとすると,あとは実験によってセボフルランを分解するルイス酸を見いだすほかない。

しかし,実験によりルイス酸を見いだしてその具体的な構造を解明しようとすると極めて過度な実験を強いられることになり,結局は,実験をしたとしてもセボフルランを分解するルイス酸を特定することはできない。

以上のとおり,明細書の記載,当業者の技術水準,さらには実験をもってしても,実際にセボフルランを分解する「ルイス酸」の種類・構造・量・条件を当業者が把握することはできず,特にこのことは特定のガラス瓶以外の容器において顕著である。

(イ) 「ルイス酸抑制剤」の非限定

また,構成要件Dに定める「ルイス酸抑制剤」も,当業者が実施できる程度に明確かつ十分に記載されているとはいえない。

すなわち,「ルイス酸抑制剤」は「ルイス塩基」と同義であるが,あるルイス酸を中和するに適切なルイス塩基の種類は,ルイス酸の種類によってはじめて経験的に求められるものであり,当業者が理論的に容易に理解できるものではない。以下,詳述する。

一般に,ルイス酸・ルイス塩基は,経験上,硬いルイス酸・塩基,軟らかいルイス酸・塩基,中間的なルイス酸・塩基に分類される。硬いルイス酸は硬いルイス塩基とより反応しやすく,軟らかいルイス酸は軟らかいルイス塩基とより反応しやすいことが知られており,その反応の程度に相性のよい場合と悪い場合で相当の差がある。また,ルイス酸とルイス塩基の反応速度は,中和する対象である「ルイス酸」の種類及び量と,これに反応させるルイス塩基の種類及び量,さらには中和する際の温度その他の条件によって著しく異なるのであり,本件発明の構成要件(D)を満たす「ルイス酸抑制剤」は当業者が容易に理解できるものではない。さらに,ルイスの酸塩基理論では多種多様の電子対受容体を取り扱わなければならないので,一般に,電子対供与体と受容体との相互作用に影響を及ぼすさまざまな要因を考える必要がある。

ところが,本件明細書の発明の詳細な説明において,被告らは,本件発明の作用効果を示すためには一定量以上のルイス酸抑制剤を加えなければならないことを自認しているにもかかわらず,かかるルイス酸抑制剤の量は,特許請求の範囲には何ら記載されていない。したがって,特許請求の範囲には,一部本件発明の作用効果を奏さないものが含まれており,その区別は当業者にとって全く不明である。

以上からすれば,仮に対象となる「ルイス酸」が特定されていたとしても,当業者は,そのルイス酸を抑制するために選択すべき「ルイス塩基」を容易に理解し得ない。ましてや,あらゆるルイス酸を対象にしている本件発明において,そのすべてのルイス酸について,いかなる種類のルイス酸抑制剤を,いかなる量用いて,どのような温度で反応させればよいのかは,およそ一義的に当業者が理解できるものではない。したがって,特許請求の範囲に係る発明は実施不可能である。

(ウ) 実証されたメカニズムの不記載

本件明細書には,少なくともルイス酸の供給源が「ガラス」以外の場合について実証されたメカニズムの記載がない。

すなわち,本件発明の実施例においては,ルイス酸抑制剤として公知であった「水」の例しか記載されていないため,何が「ルイス酸抑制剤」たり得るかは,ルイス酸によるセボフルランの分解防止のメカニズムから当業者が当該「ルイス酸抑制剤」の範囲を理解し,かつ,本件発明の課題(ルイス酸によるセボフルランの分解防止)を解決できると認識するほかない。

しかし,本件明細書を精査しても,化学式を用いて,セボフルラン分解のメカニズムを説明している記載としては,後記第5の1(1)に記載の段落【0007】の化学式が読みとれるだけである。

まず,この説明においては,セボフルランの分解メカニズムにおいて,Si-OH(Siは本来4価の状態であるが,以下,他の結合の記載は省略する。)という部分が,表面に結合したルイス酸として機能することのみが説明されているにとどまる。すなわち,本件明細書においては,敢えて意図的に翻訳されなかったのかもしれないが,式中の(Surface-Bound Lewis Acid)を翻訳すれば,Si-OHという部分が表面に結合したルイス酸として機能することのみが説明されているにとどまる。

そして,本件明細書においては,この分解メカニズム自体の正当性すら,何ら実証されてはいないのである。

すなわち,上記のとおり,本件明細書の実施例3で使用される容器のうち,「タイプⅠ」についてはその内容が何ら開示されていないのであるから,果たして,Si-OHの構造がその容器内に存在していたのかどうかということさえ,不明である。

また,その一部内容が開示されている「タイプIII」という容器についてさえも,段落【0035】において,「主に,二酸化珪素,酸化カルシウム,酸化ナトリウム,及び酸化アルミニウムからなっている」との記載があるだけであるが,ここで,二酸化珪素,酸化カルシウム,酸化ナトリウム及び酸化アルミニウムのいずれをとっても,Si-OHの構造は有していないのであって,もし仮に,上記タイプIIIのうち二酸化珪素(SiO2)が一部変化した構造を有すると善解したとしても,それは,ガラスにのみ当てはまることであり,そもそも珪素(Si)を有しない酸化アルミニウム等他の物質には全く無関係のものであるから,その分解メカニズムの正当性が全く実証されていないことは明白である。

以上のとおり,本件明細書には,実施例としてルイス酸抑制剤が水のものしか存在していない一方で,セボフルランのルイス酸による分解メカニズムについての説明が記載されていないのであるから,実施可能要件を満たしていないことは明らかである。

イ 「被覆工程」の不存在について

実施例3と実施例7を照らし合わせると,当業者には「被覆」の態様が理解できない。すなわち,実施例3では,例えば,容器に303ppmの水を一晩振とう機にかけて被覆しても,しなかったものと比較して結果に有意差がなく,いずれも分解は抑制できなかったと記載されている。また,他の水分量でも,いずれも被覆の有無で結果に違いがない。事実,実施例3では,対照である水が無添加(水での被覆がなく,セボフルラン組成物に水を加えていない)のほうが,他のいずれのサンプルよりも良好な結果がでているのである。他方で,実施例6と実施例7を比較してみると,約1400ppmの水を含むセボフルランを含むガラスボトルを回転機に2時間掛けている実施例7は,20ppmの水を有するセボフルランですすぎ洗いをしたにすぎないボトルに関する実施例6に比べ,分解をより抑制していると記載している。このように,一晩かけて水を被覆した実施例3では被覆そのものの効果は一切みられず,唯一,回転機で2時間1400ppmもの大量の水を被覆した場合にのみ,被覆の効果がみられたのだとすると,当業者には,自己のおかれた環境においてどのような被覆をすればよいのかは全く明らかではない。

さらに,水分をガラス表面に被覆できるようにしたとしても,本件明細書においてルイス酸を抑制する効果が出ていないことを開示していることから,いかなる条件で,いかなる種類の「ルイス酸」によってセボフルランが分解するか理解できない当業者にとって,好適なルイス酸の例である「水」をどのように被覆していいかを理解することも困難である。そうすると,水以外のルイス酸抑制剤については,水1400ppm以外の場合について,どのような種類の物質を,どれだけの量,どのように被覆すればよいかを理解することができないのは当然といえる。本件発明においては,製造時の容器内部をライナーや固体を塗布することに関する実施例については何ら開示がなく,水でのすすぎ洗い以外の実施形態については何ら記載がないのである。そして,水についてさえも,記載がある実施形態としてはせいぜい1400ppmの使用に限定されるものである。したがって,「被覆」は,広く「覆い被せる」と解釈することはできず,当業者は「被覆」の態様を理解することはできないというべきである。

ウ 医薬品としてのセボフルランの貯蔵について

本件発明の本質(目的)は,「医薬品として販売できる程度に分解が抑制され,安定化している状態にあるセボフルランを実現する」ことにあるという点にある。

また,セボフルランはルイス酸となり得る物質に対して極めて安定な性質を有していることから,本件発明の優先日当時,当業者は,セボフルランの分解の原因,すなわち,どのような種類・強さのルイス酸がどのような条件下でセボフルラン用の容器内壁に付着した場合に分解が生じるのかについて全く知識を有していなかった。一方,本件明細書において,当業者が,セボフルランが「医薬品として販売できる程度に分解が抑制され,安定化している状態」を保つために,どの程度の「ルイス酸抑制剤」をどのように容器内壁に被覆すべきかを判断する手がかりは,本件発明の唯一の実施例とされる実施例7しか存在しないが,この実施例7でさえ,当業者が実施可能な程度に開示されているとはいえないのである。

上記の当業者の技術水準にかんがみれば,当業者が,セボフルランの分解という極めて特殊かつ例外的な事象から演繹的にその発生状況を想定して,「医薬品として販売できる程度に分解が抑制され,安定化している状態にあるセボフルラン」を実現するためにいかなる種類のいかなる量のルイス酸抑制剤をどのように被覆するべきかを決定することは現実的には不可能である。

なお,審決は,前記第2の4(2)イ(エ)のとおり,本件発明が医薬品としてのセボフルランの貯蔵に限定されないと認定している。しかし,分割要件違反においても指摘したように,審決は,本件発明を本件明細書に記載された組成物(すなわち,医薬品である麻酔薬組成物)に付随して記載される貯蔵方法であることを前提として分割要件違反がないと認定しているのであるから,「医薬品としてのセボフルランの貯蔵に限定されない」との認定は自家撞着を起こしているというべきである。

さらに,審決は,医薬品ガイドライン(甲C9)についても誤った認定を行っている。

すなわち,ガイドライン(甲C9)がいう苛酷試験は,「流通の間に遭遇する可能性のある苛酷な条件における品質の安定性に関する情報を得るための試験」であり,2ないし3年の「長期保存した場合の化学的変化を予測する」ためには,「加速試験」を行う必要があることが記載されている。ここで,審決は,長期保存の予測のために「苛酷試験」を用いることを前提に「他の方法」を用いることができる,と認定しているのである。しかしながら,ガイドラインによれば,長期間の医薬品の保存(通常の条件下で2ないし3年)のためには,加速試験を用いる必要があり,このためには,「最短保存期間6ヶ月」の試験を行う必要があるとされており,通常1,3,5か月又は2,4,6か月に測定を行うことが要求されているのであり,決して「他の方法」を用いることはできないとされているのである。

したがって,審決は,恣意的な結論を導いているのであり,この点でも誤りがある。

エ 「貯蔵中のセボフルランの分解に関与し得るルイス酸」について

(ア) 仮に,「ルイス酸」を,審決が認定するような「貯蔵中のセボフルランの分解に関与し得るルイス酸」と解釈したとしても,そのような「ルイス酸」がどのような物質を指すのか不明確である。

すなわち,前述のとおり,貯蔵中のセボフルランの分解に関与し得る「ルイス酸」は,本件明細書には記載されておらず,原出願明細書等にも記載されていないから,当業者はそのような「ルイス酸」が具体的にどのような物質であるのかを理解することができない。したがって,分割出願においてかかる解釈をしたとすると,それは新規事項の追加であり,分割要件が満たされなくなる。したがって,実施可能要件が欠如しているというべきである。

(イ) この点,被告らは,本件発明における「ルイス酸」とは,実際上,抑制対象となるべき,セボフルランの製造,輸送あるいは貯蔵工程等,セボフルランが晒される環境下において存在し得るルイス酸であるとして,当業者であればそのルイス酸を特定できる旨主張する。

しかし,被告らが主張するところの当業者が特定できる「ルイス酸」とは,①本件明細書に具体的に記載されている酸化アルミニウムやSi-OH,②金属酸化物,③空気中のちりや砂塵等に含まれる珪素,アルミニウム,鉄等のクラーク数が大きな元素からなる成分等であるとし,極めて抽象的かつ広範囲である上に,この「等」に何を含むかも全く明らかではなく,何ら限定ができていない。

ちなみに,SiOHはルイス酸ではなく,ルイス塩基であり,SiOHをルイス酸であると繰り返し記載していることは化学的に明らかな誤りである。

(3)  取消事由4(サポート要件に関する判断の誤り)

ア 上記(2)アないしウと同様の理由により,本件発明は,特許請求の範囲が実施例によってサポートされていないから,特許法36条6項1号に違反するというべきところ,審決には,この点の判断を誤った違法がある。

イ また,本件発明の実施例は,既に公知であった水をルイス酸抑制剤とする例しか記載されておらず,それ以外の特許請求の範囲が実施例によってサポートされていないから,サポート要件(同法36条6項1号)違反に該当する。

すなわち,「ルイス酸抑制剤」あるいは「ルイス酸」の範囲はあまりに広大であるのに,実施例には,水以外の「ルイス酸抑制剤」についての記載が全く存在せず,水以外の形態については明細書に実質的な記載が全くない。そして,水で被覆した容器にセボフルランを配置することは公知であることにかんがみれば,もし仮に,本件発明に新規性があったとしても,それは水以外の部分に限られているところ,その水以外の部分については,段落【0026】及び【0028】における一般的な記載しか存在していない。そして,化学分野の発明においては,その構造式だけから反応結果を正確に予測することが困難であることにかんがみ,少なくとも1つは発明を裏付ける実例が要求されるのであるから,本件発明に新規性があったとしても,それは水以外の部分に限られているところ,水以外のルイス酸抑制剤を用いた実施例が具体的なデータとともに開示されていない本件明細書では,その水以外の部分については,サポート要件を満たしているとはいえない。

(4)  取消事由5(明確性要件に関する判断の誤り)

前記(2)アないしウと同様の理由により,本件明細書中の定義又は説明を優先日当時の技術常識をもって考慮しても,本件発明の特許請求の範囲に記載されている「ルイス酸」「ルイス酸抑制剤」「被覆する」という用語が不明であるから,特許を受けようとする発明が明確であるとはいえず,特許法36条6項2号に違反するというべきところ,審決には,この点の判断を誤った違法がある。

(5)  取消事由6(発明未完成に関する判断の誤り)

特許されるべき発明は,その思想全体にわたって完成されていることが必要である。

原告が,既に実施可能要件,サポート要件及び明確性要件違反について主張してきたところから明らかなとおり,水及びガラスの組合せ形態の特定の場合以外のクレームに係る発明のほとんどがサポートされておらず,さらにはまた,実施不可能でもある。

そして,このことは,被告らが,本件発明後に実験データを追加して説明をしていることからも明白である。

すなわち,本件出願時には,水とガラスの組合せについての記載しかなかったのであるから,もし仮に,水とガラスの組合せについての発明が完成していたとしても,それは,他のルイス酸抑制剤及びガラス以外の材質について完成していたということではあり得ない。

この点につき,被告らは,審査段階における拒絶理由通知書(甲A50),意見書(甲A51)において,実験成績証明書1及び2(甲A49)を提出し,その後,さらに,実験成績証明書3(甲A44)を提出しているが,それらは,いずれも本件明細書に記載されていない実験結果であって,出願当時の当業者の技術常識として参酌できないものである。

本件発明は,まさに,出願日後に行われた実験によって,その実験成績証明書に記載された化合物(ルイス酸抑制剤)と容器との実施形態についてのみ,発明が完成したにすぎないというべきものである。

以上からして,本件発明は,本件優先日当時,水とガラスの組合せを使用した場合にのみ完成していたというべきであり,その他の部分については未完成であったことが明白である。したがって,本件特許は,前記(2)アないしウと同様の理由により,特許法29条1項柱書きの規定に違反して特許されたものであるから,同法123条1項2号の規定に基づき,特許無効審判により無効にされるべきものであるところ,審決には,この点についての判断を誤った違法がある。

3  第2審判請求事件について

(1)  取消事由7(新規性に関する判断の誤り)

ア 水で被覆した容器によりセボフルランが貯蔵されている引用例が存在するため,水を含む「ルイス酸抑制剤」により被覆した容器によりセボフルランを貯蔵する方法の特許である本件特許は特許法29条1項3号により無効である。したがって,新規性を肯定した審決には,その判断に誤りがある。

(ア) 引用発明の内容

引用発明は,セボフルランを含む吸入麻酔剤の分解防止にかかる発明であるところ,実施例1及び2において,バイアル瓶にイオン交換水4ml(20重量%)又は6ml(30重量%)を入れよくかき混ぜており,当該バイアル瓶に当該セボフルランを20μlを添加していることが記載されている。さらに,当該バイアル瓶に当該セボフルランを添加した状態を0.5時間,3時間,6時間,さらには24時間継続していたことも示されており,セボフルランが貯蔵されていることも明らかである。

したがって,引用発明は,以下の構成のものである。

①バイアル瓶を準備し,

②セボフルラン20μlを準備し,

③当該バイアル瓶にイオン交換水4ml(20重量%)又は6ml(30重量%)を入れ,よくかき混ぜ,

④当該バイアル瓶にセボフルラン20μlを添加し,

⑤当該バイアル瓶内においてセボフルラン20μlを少なくとも24時間貯蔵する方法。

(イ) 引用発明と本件発明の対比

本件発明の構成要件(A)は引用発明の上記構成⑤と同一であり,本件発明の構成要件(B)は引用発明の上記構成①と同一ないしこれを含んだ構成であり,本件発明の構成要件(C)は引用発明の上記構成②と同一であり,本件発明の構成要件(D)及び本件発明の請求項2にかかる発明は引用発明の上記構成③を含んだ構成であり,本件発明の構成要件(E)は引用発明の上記構成④と同一であるから,本件発明は少なくとも引用発明を包含した発明である。

そして,段落【0010】の記載によれば,添加する水の量の上限に「特に制限はない」と記載されているから,実施例1及び2に限定して解釈するべきでなく,水は任意の量で加えてもよいということであり,引用例は,流動性を有する状態のものも含む記載であるというべきである。

以上のとおり,本件発明は,甲B2により公知技術を含むものであって,新規性を欠くものといわざるをえない。

イ 仮にそうでないとしても,次の理由により,本件発明は新規性を欠いている。

(ア) 本件発明の出願時点において,「水で洗った容器」は公知,公用であり,これにセボフルランを充填して保管することも当然に公然実施されていたのである(甲2ないし5)。

すなわち,被告アボット・ラボラトリーズ(以下「被告アボット」という。)が,米国保健社会福祉省の食品医薬品局に提出した資料(甲2)によると,1996年12月4日の段階で,アルゼンチン,コロンビア,アメリカにおいて,セボフルラン用容器を蒸留水で洗浄しており,日本においては,丸石製薬株式会社(以下「丸石製薬」という。)が水道水で洗浄しているという記載がある。すなわち,本件特許の優先日以前から,セボフルラン用容器を水で洗浄することは恒常的に行われていたと主張している。

また,被告セントラル硝子株式会社(以下「被告セントラル硝子」という。)は,セボフルランを輸送するための大型の容器である「タイコン」を,セボフルランを充填する前に,高圧のセボフルランで洗浄していたところ(甲3,甲4),これらのセボフルランには少量ではあるものの一定量の水分が含まれていたことは証拠から明らかである(甲5)と主張している。

(イ) 優先日以前の段階で,何らかの容器が製造されて以後,そのセボフルランが充填されるまでの間におよそ一度も水で洗浄されなかったということは到底考えられないし,水で洗浄された場合にはたとえ僅かであっても容器内壁に存在するルイス酸を中和したはずである。さらにいえば,ルイス酸が存在しなくても「予防的に」洗浄しさえすればよいのである。したがって,仮に,上記の被告らの本件発明の解釈が認められるとするならば,本件特許に新規性が認められないことはより一層明らかである。

(ウ) この点,審決は,甲2に,本件発明が記載されていないと認定し,また,セボフルラン用の容器として,水洗浄が公知,公用であったことについても,「当然に行われていたということはできない」と認定している。しかし,セボフルラン用の容器として,水洗浄が公知,公用であったことは,被告ら自身も認める事項であるから,この点においても,審決の認定は誤りであるというべきである。

(2)  取消事由8(進歩性に関する判断の誤り)

ア ルイス酸抑制剤である水により容器内壁を被覆する技術は,引用例にあるとおり,本件特許出願時にすでに公知であったから,かかる公知技術に当時の技術常識を組み合わせることにより,本件発明は当業者が容易に想到することができたものである。

すなわち,本件発明と引用発明とを対比すると,「一定量のセボフルランの貯蔵方法であって,該方法は,内部空間を規定する容器であって,かつ該容器により規定される該内部空間に隣接する内壁を有する容器を供する工程,一定量のセボフルランを供する工程,該一定量のセボフルランを該容器によって規定される該内部空間内に配置する工程を含んでなることを特徴とする方法。」である点で一致するが,引用発明には容器の内壁に水を被覆する工程のみ開示されているのに対して,本件発明は「容器の該内壁を空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤で被覆する工程」である点で,前者よりも後者が広い概念を規定している点で相違する。

しかし,ルイス塩基によりルイス酸の反応を抑制することは,甲B3に記載されているとおり,技術常識であったのであるから,技術的課題を解決するために,引用発明の水を他の「ルイス塩基」に置換することは極めて容易であったといえる。

以上のとおり,本件特許は,特許法29条2項の規定に違反して特許されたものであるから,同法123条1項2号の規定に基づき,無効にされるべきものであるから,進歩性を肯定した審決の判断には誤りがある。

イ そうでないとしても,本件発明の各工程で使用される容器は公知であり,この容器に技術常識を組み合わせることにより,当業者が容易に想到することができたものである。

すなわち,本件発明は,従来から存在していたエポキシ樹脂によって塗装されたアルミニウム容器(甲B4ないし7)に,ルイス酸とルイス塩基が反応してルイス酸によるフルオロエーテル化合物の分解を抑制するという技術的な常識を組み合わせたものにすぎず,この組合せにより,当業者が容易に発明できたものである。

ウ 本件明細書の極めて乏しい記載にもかかわらず,仮に,被告らが主張するとおり,「ルイス酸」「ルイス酸抑制剤」「被覆する」という構成要件が,当業者の技術常識により容易に理解可能であり,かつ,化学構造式のみで「ルイス酸」と「ルイス酸抑制剤」を理解できるのであれば,これは,すなわち,本件発明に進歩性がないことを意味する。

すなわち,仮に,被告らが主張するとおり,化学構造式のみで「ルイス酸」と「ルイス塩基」を判断できるとすれば,セボフルランの化学構造式を見れば,「ルイス塩基」であると判断できるはずである。

そして,仮に,被告らが主張するように「ルイス酸」と「ルイス塩基」が,接触すれば必ず反応するものであるとすれば,セボフルランが,「ルイス酸」により分解されることも当業者は当然認識していたこととなる。

したがって,セボフルランが「ルイス酸」により分解されることも当業者は認識していたこととなり,かつ,「ルイス塩基」により「ルイス酸」が抑制されることも当然認識していたこととなる。

したがって,この点においても,本件発明は,当業者が容易に想到することができたものである。

4  取消事由9(本件各審判請求事件全体について,審決の認定の矛盾)

以上主張してきたように,本件明細書は,極めて乏しい記載であり,サポート要件が欠如し,実施可能要件が欠如し,発明の明確性がなく,発明未完成であることは明白である。それにもかかわらず,仮に,被告らが主張し,審決が認定するとおり,「ルイス酸」,「ルイス酸抑制剤」,「被覆する」という構成要件が,当業者の技術常識により容易に理解可能であり,かつ,化学構造式のみで「ルイス酸」と「ルイス酸抑制剤」を理解できるのであれば,これはすなわち,本件特許に進歩性がないことを意味する。

したがって,審決は,個々の無効理由に対する判断が相互に矛盾してなされたものである。まず,本件特許は,分割要件を満たさず,その結果,本件発明は新規性及び進歩性を欠如するものである。また,審決には発明の要旨の認定を誤ったという瑕疵があり,また,発明の要旨認定の瑕疵の有無にかかわらず,本件特許はサポート要件が欠如し,実施可能要件が欠如し,発明の明確性がなく,本件発明は発明未完成である。また,本件発明は新規性及び進歩性が欠如している。

以上から,本件特許は特許法123条1項2号及び4号により無効である。

第4被告らの主張

次のとおり,審決の認定判断には誤りはなく,原告主張の取消事由はいずれも理由がない。

1  第3審判請求事件について

(1)  取消事由1(分割要件に関する判断の誤り)の構成要件(D)に対して

次のとおり,上位概念たる「被覆」を含めて,構成要件(D)は,原出願明細書等に実質的に記載されており,したがって,本件特許は適法な分割出願に基づくものである。

すなわち,本件明細書には,(i)まず,段落【0030】に,「容器をルイス酸抑制剤単体で洗浄またはすすぎ洗い」する態様が,また,段落【0033】には,「適量のルイス酸抑制剤を含有する少量の本組成物を用いて容器を洗浄またはすすぎ洗い」する態様が,それぞれ記載されており,これらの記載によれば,ルイス酸抑制剤が多量の場合には,「洗浄」や「すすぎ洗い」という態様で,十分に「被覆」に当たるということが理解でき,(ii)さらに,実施例7には,1400ppmの水含有セボフルランの場合,「回転機に2時間掛ける」という態様が,また,実施例3には,109ないし951ppmの水含有セボフルランの場合,「一晩振とう機に掛ける」という態様がそれぞれ記載されており,これらの記載と,この段落【0030】や【0033】の記載とを対比すれば,ルイス酸抑制剤が少ないほど,その量に応じて中和反応を促進すべく,「被覆」をするためには,より激しい,あるいは長期間の操作が望ましいということが理解できる。(iii)一方,実施例6には,20ppmの水含有セボフルランで「数回すすぎ洗い」した態様が記載されているが,これは抑制効果がなく,「被覆」に当たらない例であるから,極少量の水で「数回すすぎ洗い」した程度では「被覆」には当たらないということも,この記載等から容易に理解できる。したがって,以上の本件明細書に記載された各種の態様や,上記の本件発明の「被覆」の意義も併せて考えれば,ルイス酸抑制剤の量に応じて「被覆」の具体的態様を適宜変更可能であることが容易に理解できる。

そうであれば,段落【0026】や【0029】の記載に加え,段落【0030】や【0033】の記載,さらには実施例3及び7の記載等も加味すれば,本件明細書には,「洗浄」や「すすぎ洗い」だけではなく,ルイス酸抑制剤の量に応じて,適宜変更可能な各種の態様を含む上位概念としての「被覆」が実質的に記載されているのは明らかである。

(2)  取消事由1(分割要件に関する判断の誤り)の構成要件(A)に対して

構成要件(A)も,原出願明細書等に実質的に記載されており,したがって,本件特許は適法な分割出願に基づくものである。

原告は,前記第3の1(1)イ(ア)のとおり,段落【0046】の記載は,実施例5に関する記載であり,「分解したセボフルランの貯蔵」に関するものであるから,セボフルランの分解を抑制することを目的とする本件発明とは無関係であるとか,審決が認定するのは,せいぜい,本件明細書に記載された組成物の調製後の組成物の「貯蔵」について認定するのみなのであり,本件発明の実施形態には当たらないから,本件明細書に記載された組成物とは離れた,審決及び被告らが主張する「一定量のセボフルランの貯蔵方法」についての認定は,審決において何らされていないと主張する。

しかし,本件発明は,容器表面に存在し得るルイス酸によるセボフルランの分解を抑制することによって,安定的にセボフルランを貯蔵することを目的としたものである。したがって,本件発明における「貯蔵」対象が「セボフルラン」自体であることは,本件明細書の記載から明らかである。

確かに,「被覆」に関する各実施例における「貯蔵」対象たる「セボフルラン」にはそれぞれ所定量の「水」が含まれてはいるが,そうであっても,本件明細書の記載,例えば,上記のとおり,実施例6と実施例7との対比等から,「被覆」を行うことによって,容器表面に存在するルイス酸による「セボフルラン」自体の分解が抑制されることは,当業者には容易に理解できるのであるから,「一定量のセボフルラン」自体の貯蔵方法についても本件明細書に実質的に記載されていることは明らかである。

また,原告は,前記第3の1(1)イ(イ)のとおり,「貯蔵」というときは,医薬品としての有効期限であって,例えば,2ないし3年又はそれ以上の貯蔵期間を包含するものと理解される旨主張する。

上記原告の主張は,本件発明の目的とする効果として,セボフルランが医薬品として販売できる程度に分解が抑制され,安定化している状態を保つことまでを必要とする,といった限定的な解釈を前提とするものであるのが明らかである。しかしながら,そもそも,「被覆」に係る本件発明は,「安定な麻酔薬組成物」である本件特許の親特許に係る発明の補足的発明に位置づけられるものであるといえ,その効果も本件特許の親特許に係る発明の効果と比較して,相対的,あるいは限定的なものとなり得るものであって,必ずしも「安定化する程度」まで分解が抑制されることが求められるものではない。したがって,上記原告の主張はその前提からして失当である。

また,確かに,本件明細書には通常の貯蔵条件で2ないし3年といった長期間貯蔵した実施例は記載されていないが,本件明細書には,例えば,50℃で18ないし178時間貯蔵した実施例である実施例7が記載されているのであるから,これに準じて,その温度を常温とし,保存期間を例えば2年等に延長することにより,通常の貯蔵条件で長期間貯蔵した態様となし得ること,さらには,ルイス酸抑制剤で被覆している以上,その場合においても,本件発明の効果である一定のルイス酸抑制効果を奏することは当業者には自明であるから,この点からしても原告の上記主張は失当である。

2  第1審判請求事件について

(1)  取消事由2(発明の要旨認定の誤り)に対して

ア 本件発明は,セボフルラン麻酔薬がルイス酸によってHF等の毒性を有する化学物質を含むいくつかの産物に分解されることを発見したことを端緒としてされたものである。また,セボフルラン麻酔薬は,その製造や貯蔵工程等,通常晒され得るいずれの環境下においてもルイス酸と接触する可能性がある。これらの点を踏まえれば,本件発明の目的は,「セボフルラン麻酔薬の製造や貯蔵工程等,セボフルラン麻酔薬が晒され得る環境下で起こり得るルイス酸によるセボフルランの分解を抑制すること」であるのは本件明細書の記載等から明らかである。

したがって,本件発明が対象とする「ルイス酸」の範囲も,セボフルラン麻酔薬の製造や貯蔵工程等,セボフルラン麻酔薬が晒され得る環境下において存在し得る,「貯蔵中のセボフルランの分解に関与し得る『ルイス酸』」であるのは当業者には明らかであるから,何ら特許法36条6項2号に違反するものではなく,したがって,審決の認定に何ら誤りはない。

イ また,原告は,仮に特許請求の範囲における「ルイス酸」との記載を「貯蔵中のセボフルランの分解に関与し得るルイス酸」と限定して解釈すべきというのであれば,そのような「ルイス酸」を当業者は理解することができず,また,本件特許明細書にもその範囲(外延)が記載されていないとも主張する。

しかし,後述するとおり,「貯蔵中のセボフルランの分解に関与し得るルイス酸」とは,すなわち,セボフルランの製造,輸送あるいは貯蔵工程等,通常,セボフルランが晒される環境下において存在し得るルイス酸であり,かかるルイス酸が具体的にどのような物質を指すのかは,セボフルラン麻酔薬の製造等に関与している当業者にとっては容易にわかることであるから,原告の主張は失当である。

(2)  取消事由3(実施可能要件に関する判断の誤り)に対して

ア 「ルイス酸」「ルイス酸抑制剤」の非限定について

(ア) 原告は,前記第3の2(2)ア(ア)において,本件発明の目的は,医薬品として販売できる程度に安定したセボフルランを実現することにあると主張するが誤りである。すなわち,本件発明の具体的目的は,セボフルランが通常使用される環境において,容器内壁に存在し得るルイス酸による分解を限度として,当該分解が抑制されたセボフルランを実現することにあるというべきである。つまり,本件発明はセボフルランが通常利用される環境ではない条件下における分解や,セボフルラン中に混入するルイス酸による分解,ましてや,ルイス酸による分解以外の分解を抑制することまでをも第一義的な目的とするものではないし,その効果の程度としても必ずしも「医薬品として販売できる程度」まで分解が抑制されることまで求めるものでもない。

(イ) 原告は,「ルイス酸となり得る物質」は,さまざまな種類がどこにでも存在し,それがセボフルラン用の容器内壁に混入し得ると主張する。確かに,ルイス酸はどこにでも存在し得るものではあるが,だからといって,セボフルランを分解するに足る有意な量が常にセボフルラン用の容器に混入するわけではないし,それが常にセボフルランを分解するに足る悪条件に晒されるわけでもない。つまり,実際にルイス酸によってセボフルランが分解されるのは,分解に足る有意量のルイス酸の存在下においてかかる悪条件に晒された場合に限られる。したがって,セボフルランやセボフルラン用容器が常にルイス酸による分解の危険に晒されているわけではなく,むしろ,実際には,有意量のルイス酸の存在下において,セボフルランやセボフルラン用容器がそのような悪条件に晒されることはほとんど起こらないのである。そもそも,セボフルランの製造,輸送,あるいは貯蔵といった各工程それぞれにおいては,不純物混入の防止を含む,相当の工程管理がされているのであるから,セボフルランが通常使用される環境において存在し得るルイス酸が,実際に有意量セボフルラン用容器に混入することや悪条件に晒されるといったこと自体,現実にはあまり起こらない。ましてや,それらの事情が重なるといったことなど,ほとんど起こらないことである。したがって,現実にルイス酸によるセボフルランの分解が生じた例が少ないとしても何ら不自然なことではないし,それをもって,「セボフルランが,日常的に接し得るようなルイス酸に対して安定である」,と結論付けられるものでもない。

(ウ) 原告は,セボフルランは日常的に接する「ルイス酸となり得る物質」に対して安定した性質を有していると主張する。

確かに,本件特許の優先日以前の段階においては,セボフルランがルイス酸によって分解されるという事実は知られておらず,したがって,当時の当業者の「認識」としては,セボフルランはルイス酸に対しては安定であると考えられていたことについては異論はない。しかし,当業者の当時の認識は上記のとおりであったとしても,実際にはこのような認識は正確ではなく,むしろ,セボフルランは日常的に接し得るようなルイス酸に対して必ずしも安定ではなかった,ということが本件発明の過程において明らかとされたのである。すなわち,本件発明は,ともすると一般的には安定であると考えられがちであったセボフルランが,実際には意外にも,酸化アルミニウムや鉄さび等といった日常に存在し得る各種ルイス酸によって分解が起こる,ということを見出したことにこそその端緒があるのである。

したがって,セボフルランが,日常的に接し得るようなルイス酸となり得る物質に対しては,本来的に安定な性質を有しているという原告の主張は化学的事実に反するものであって失当である。すなわち,「セボフルランがルイス酸に安定である」という本件特許の優先日以前における当業者の「認識」と,本件特許の過程において明らかとされた「セボフルランがルイス酸に分解される」という「化学的事実」とは,明確に峻別されなければならない。

(エ) この点に関し,原告は,セボフルランが分解した事例は,本件特許出願時点で1件,現在まででもわずか2件しか報告されておらず,むしろ,セボフルランは安定であると認識されていたと主張するが,甲A56のとおり,実際には,これまでにルイス酸による分解に起因してリコールされたセボフルラン製品は,多数のロットに渡っていることが報告されており,セボフルランは場合によっては分解し得るのであるから,原告の前提理解自体が失当である。

(オ) 原告は,当業者が本件明細書をみても,実験によってセボフルランを分解するルイス酸を見いだすほかないが,実験によりルイス酸を見いだしてその具体的な構造を解明しようとすると極めて過度な実験を強いられることになる旨主張する。

しかし,たとえ,本件特許の優先日以前の段階にはセボフルランのルイス酸による分解という事象やその原因が知られていなくとも(上記のとおり,セボフルランのルイス酸による分解という事象やその原因は本件発明をなす過程により見いだされた新たな知見であるから,これらが本件特許の優先日以前に知られていなかったのは当然である。),以下に詳述するとおり,本件明細書にはセボフルランがルイス酸によって分解されることに関して詳細に記載されているのであるから,かかる本件明細書の記載に当業者の技術常識を加味すれば,本件発明が特段の過度の試験をするまでもなく容易に実施可能であることは明らかである。

本件発明は,いわば「普通」の状態とは異なり,予期せぬ何らかの理由によりセボフルラン用容器にルイス酸が有意量存在し,これが悪条件下においてセボフルランと接触してしまった場合に起こり得るルイス酸によるセボフルランの分解をあらかじめ予防するためのものである。つまり,本件発明の目的とする効果はいわゆる予防的効果であって,その本来の抑制対象たるルイス酸は,何らかの理由によって偶発的にセボフルラン用容器に有意量存在することとなったルイス酸である。そして,このようなルイス酸がその置かれる状況によってはセボフルランを分解し得ることとなる。

しかるに,実際には,具体的にどのようなルイス酸が,どの程度存在することとなるのかを事前に完全に予測することは難しい面もあるし,また,それが具体的にどのような状況に置かれるのかについても事前に完全に予測することは難しい面もある。そのため,どの程度の,どのようなルイス酸がどのような状況に置かれた場合にセボフルランの分解が促進されるのかについても事前に完全に予測することは難しい面もある。したがって,想定し得るいかなる場合においてもあらかじめ対応せんとするためには,たとえ,ルイス酸性の弱いルイス酸,つまり原告がいうところの「ルイス酸となり得る物質」であっても,予防的に抑制しておくことが必要である。

(カ) 原告は,前記第3の2(2)ア(ウ)において,本件明細書には,少なくともルイス酸の供給源が「ガラス」以外の場合について実証されたメカニズムの記載がない旨主張する。

しかし,そもそも,本件発明の発端は,従来から,セボフルランが強塩基性の環境下において不安定であることが知られており,これに対する対策は検討済みであって製造上充分な注意が払われていたにもかかわらず,1996年に至って出荷後の製品中においてセボフルランの分解が認められたことを契機として検討を行った結果,上記強塩基による分解機構とは異なる機構によって,ルイス酸がセボフルランを分解することを発見したことにある。そして,さらに検討を進めた結果,酸化アルミニウムやSi-OHがセボフルランを分解し,その主たる分解産物として,1996年に出荷製品に起こった分解と同様,HFIP,P1,P2,S1等が生じることが判明したのである。

本件発明者らは,これらの知見を基礎として,まず,酸化アルミニウム及びSi-OHとが,いずれもソーダライムのような塩基ではなく,よく知られたルイス酸である点に着目し,セボフルランがかかるルイス酸の作用によって分解されたと想定すると,HFIP,P1,P2,S1等が分解産物として生じたという上記実験事実が,本件明細書の段落【0007】に記載された分解メカニズムによって合理的に説明されることを見出したのである。

したがって,本件明細書の段落【0007】に記載された分解メカニズムは,本件明細書の実施例1及び2等によって具体的な実験結果をもって実証されているのである。以上のとおりであるから,本件明細書の段落【0007】に記載された分解メカニズムはSi-OHのみならずルイス酸一般に適用されるものであることが明らかであり,この点は,本件明細書の段落【0006】に「ルイス酸の存在下におけるセボフルランの分解メカニズムは次のように図解することができる:」と記載し,ルイス酸一般についての記載であることを明記していることからも十分に理解される。そうであれば,このような分解メカニズム中に記載されているSi-OHは,あくまでもルイス酸の例示にすぎないものであることも明らかである。

すなわち,本件明細書には,具体的なルイス酸の例示に加えて,ルイス酸一般に適用される「ルイス酸の存在下におけるセボフルランの分解メカニズム」(本件明細書の段落【0006】)が記載されているのであるから,本件明細書及び当業者の技術常識に基づけば,本件発明が特定のルイス酸にのみ適用されるものではなく,セボフルランが通常使用される環境下においてセボフルラン用容器に存在し得るルイス酸一般に適用可能であることは当業者には明らかである。

また,本件発明におけるルイス酸は,セボフルランの貯蔵中に分解に関与する可能性さえあればよいのであるから,「製造や貯蔵工程等,セボフルラン麻酔薬が通常晒され得る環境下において,外部から容器に混入するルイス酸や容器表面に存在するルイス酸等に対応する」との本件発明の主たる目的をも加味すれば,結局,このようなルイス酸は,「セボフルランの製造,輸送あるいは貯蔵工程等,通常,セボフルランが晒される環境下において存在し得るルイス酸」であるということができる。このようなルイス酸の中には,現実的にはセボフルランを分解することが困難であるような,ルイス酸性の弱いルイス酸も含まれるであろうが,本件発明における予防的効果にかんがみ,本件発明においてはかかる「ルイス酸性の弱いルイス酸」も抑制しておくことが必要であり,したがって,「ルイス酸性の弱いルイス酸」も本件発明における「ルイス酸」に含まれるものである。

以上により,セボフルランの分解の原因物質を「ルイス酸」という概念で括ることが可能であり,段落【0007】に記載された分解メカニズムはセボフルランに対するルイス酸の作用と実際に生じる分解産物との関係を合理的に説明するものであることは当業者であれば十分理解することができる」とした審決に誤りはない。

イ 「被覆工程」の不存在について

原告は,本件明細書には,使用量の基準が存在しないのみならず,いかなる種類のルイス酸抑制剤を,いかなる態様の「被覆」で使用すればよいのかの基準が一切ない旨主張する。しかし,本件発明における「被覆」とは,「容器表面に存在し得るルイス酸を中和してその働きを抑制するという作用を奏し得る程度に容器の表面をルイス酸抑制剤で「被覆」,つまり覆い被せれば足りるもの,と解すべきであるから,実際の被覆に際しても,本件明細書の記載を参酌しつつ,このような観点を基本的な指針として行われるべきであることは当然である。

具体的には,まず,段落【0030】の「容器をルイス酸抑制剤で洗浄またはすすぎ洗いし」や段落【0033】の「適量のルイス酸抑制剤を含有する少量の本組成物を用いて容器を洗浄またはすすぎ洗いし,容器に残っている可能性のあるルイス酸を中和する」との記載からすれば,本件明細書には,ルイス酸抑制剤単体,あるいはセボフルランに適当量のルイス酸抑制剤を含有する場合には,「洗浄」や「すすぎ洗い」を行うことによって,「被覆」することができることが記載されているといえる。さらに,実施例7の水飽和,つまり約1400ppmの水を含有したセボフルランを用いたような場合には,上記の場合に比べ,ルイス酸抑制剤の絶対量が少ないため,回転機に2時間掛けて,水がガラス表面と接触する機会を増やすことによりルイス酸との中和反応(平衡化)をより促進することが好ましいことが記載されている。一方,実施例3では,水の量が109ないし951ppmと更に少ないため,「一晩振とう機に掛け」ることによって,「水分をガラス表面に被覆できるように」している。以上の記載によれば,ルイス酸抑制剤単体の場合等,抑制剤が大過剰の場合には,洗浄やすすぎ洗いによって充分に「被覆」できる一方,抑制剤の量が少なくなれば,それに応じて,中和反応を促進するために,より激しい,あるいは長時間の操作を行うことが望ましい,」ということが理解できる。

このように,本件明細書には,ルイス酸抑制剤の量に応じて,「被覆」の具体的方法を適宜変更することによって,本件発明における「被覆」を行うことができる,といった基本的指針が記載されているのであるから,まさにルイス酸抑制剤の量などは,当業者が適宜設定し得る設計的事項にすぎない。

また,多少の程度の差こそあれ,ルイス酸抑制剤がルイス酸に接触すれば速やかに中和反応が起こるのであるから,「被覆」を行うに当たっては,抑制剤の量を勘案して,いかにルイス酸抑制剤とルイス酸との接触の機会を確保するかという点がまず考慮されるべき点であって,ルイス酸抑制剤の「種類」については,まさに当業者が,適宜,選択し得る事項である。

さらに,実施例7では,意図的に「活性化されたガラス製ボトル」を用いており,これが通常の状態ではあり得ない,いわゆる「最悪の場合のシナリオ」を示したものであって,かかるいわゆる「最悪の場合のシナリオ」において,被覆の効果を確認しているのであるから,実際の貯蔵工程において想定されるようなルイス酸の種類や量が必ずしも具体的には特定されないとしても,本件明細書に接した当業者であれば,自己の製品等におけるルイス酸の量はかかるいわゆる「最悪の場合のシナリオ」におけるルイス酸の量よりも極めて少ないと容易に理解し,したがって,本件発明の上記指針に基づいて被覆を行えばよいということが容易に理解できるのであるから,この点においても原告の主張は失当である。

ウ 医薬品としてのセボフルランの貯蔵について

本件発明の目的として,必ずしも「医薬品として販売できる程度に分解が抑制され,安定化している状態にあるセボフルランを実現する」ことまで求められるものではないし,また,たとえ,本件特許の優先日以前の段階にはセボフルランのルイス酸による分解という事象やその原因が知られていなくとも,本件明細書,特に,段落【0026】や【0029】の記載に加え,段落【0030】や【0033】の記載,さらには実施例3や7の記載等も加味すれば,本件明細書には,「洗浄」や「すすぎ洗い」だけではなく,ルイス酸抑制剤の量に応じて,適宜変更可能な各種の態様と,それを含む上位概念としての「被覆」が実質的に記載されているのは明らかであるから,この点に関する原告の主張は失当である。

また,審決の「医薬品ガイドライン」についての認定における原告の主張については,本件明細書には,例えば,50℃で18ないし178時間貯蔵した実施例である実施例7が記載されているのであるから,これに準じて,その温度を常温とし,保存期間を例えば2年等に延長することにより,「通常の貯蔵条件で長期間貯蔵した」態様(構成)となし得ること,さらには,ルイス酸抑制剤で被覆している以上,その場合においても,本件発明の効果たる一定のルイス酸抑制効果を奏することは当業者には自明であるから,この点からしても原告の主張は失当である。

エ 「貯蔵中のセボフルランの分解に関与し得るルイス酸」について

貯蔵中のセボフルランの分解に関与し得る「ルイス酸」とは,セボフルランの製造,輸送あるいは貯蔵工程等,通常,セボフルランが晒される環境下において存在し得るルイス酸であり,かかるルイス酸が具体的にどのような物質を指すのかは,セボフルラン麻酔薬の製造等に関与している当業者にとっては容易にわかることである。かかるルイス酸として,当業者であれば,本件明細書に具体的に記載されている酸化アルミニウムやSi-OHの他にも,例えば,輸送容器や貯蔵容器が特に金属製の場合,これらがさびることにより発生する金属酸化物や,空気中のちりや砂塵等に含まれる珪素,アルミニウム,鉄等のクラーク数が大きな元素からなる成分等が主なものとして容易に想定できる。

(3)  取消事由4(サポート要件に関する判断の誤り)に対して

上記(2)の同様の理由により,本件発明においては,特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載されているから,特許法36条6項1号の要件を満たしていることは明らかである。

(4)  取消事由5(明確性要件に関する判断の誤り)に対して

前記(2)と同様の理由により,本件発明においては,特許を受けようとする発明が明確に記載されているから,特許法36条6項2号の要件を満たしていることは明らかである。

(5)  取消事由6(発明未完成に関する判断の誤り)に対して

前記(2)と同様の理由により,本件発明はそれ自体完成したものであることは明らかであるから,特許法29条1項柱書きの規定に反するものではない。

3  第2審判請求事件について

(1)  取消事由7(新規性に関する判断の誤り)に対して

そもそも,引用発明は,二酸化炭素吸収剤としてマグネシウム化合物を使用することにより,二酸化炭素を効率的に吸収し,しかも麻酔剤の分解の少ないことを見いだしたことに基づく,マグネシウム化合物を用いることを特徴とする呼気中に含まれる二酸化炭素の「粉末状,顆粒状もしくは成形状の吸収剤」(段落【0007】)に係る発明であって(甲B2【請求項1】,段落【0006】),水分の添加はあくまでマグネシウム化合物の「所望の二酸化炭素吸収能力を賦与せしめる目的」のために行われるものであり,その添加量の上限も「成形品等の形状を保持する必要性」を考慮した上で決定されるものである(段落【0010】)。つまり,引用発明における吸収剤は,水分を添加した後にあっても固体状のものであることには変わりはないのであって,このようなものが,原告が主張するような流動性を有する状態の液体の「水」に相当し得るものではないことは明らかである。

また,上記のとおり,引用発明における水はあくまでマグネシウム化合物の「所望の二酸化炭素吸収能力を賦与せしめる目的」のために添加されるものであるのに対して,本件発明は,セボフルランがルイス酸により分解され,かかる分解が水をはじめとしたルイス酸抑制剤で抑制できるとの新知見を基礎とするところの,ルイス酸抑制剤で容器内壁を被覆するセボフルランの貯蔵方法に係る発明であって,両者は,その技術思想を全く異にする発明であることが明らかである。

本件のように,その課題も,また,課題を解決すべき技術思想も全く異なる場合において,当該実施例中には具体的に記載されていない,段落【0010】における「水の添加量(の)上限については特に制限はない」との記載のような一般的記載も合わせて読むのは,引用例の実施例1及び2の記載から具体的に把握される発明を超えるものであって,引用例に具体的に記載された発明であるとはいえず,したがって,そのような範囲にまで同一性判断の対象を拡大すべきではない。

さらに,本件発明における「被覆」とは,「おおいかぶせること」であることが明らかであるところ,引用発明のようにバイアル瓶中で粉末状の水酸化マグネシウムをよくかき混ぜたからといって,該バイアル瓶の内壁を「おおいかぶせる」ような状態にはならないことは甲B31からも明らかである。

本件特許の優先日以前においては,水がセボフルランを加水分解するという懸念があった(甲A32)こと,また,容器を洗浄する方法としては,水で洗浄する方法以外にも,例えば,圧縮空気を吹き付けることによって洗浄する方法があること等を考えれば,セボフルランの容器の洗浄においては,水洗以外の方法を採用する方が望ましいことであったとすらいえる。

したがって,「セボフルランの容器を水で洗浄すること」自体,必ずしも常識的に行われていたことであるとも,容易に想像できるものであるともいえないし,したがって,原告が主張するように,本件発明の時点において,「水で洗った容器」は公知,公用であり,これにセボフルランを充填して保管することも当然に公然実施されていたとか,「容器」を水洗いしてセボフルランを充填していることは証拠を要しない顕著な事実であるとは,到底いえない。

これに関連して,原告は,被告アボットがアルゼンチン,コロンビア,アメリカにおいて,セボフルラン用容器を蒸留水で洗浄していることや,日本においては,丸石製薬が水道水で洗浄しているという記載があること等を根拠として,「セボフルラン用容器を水で洗浄することは,公知の事実である旨主張するが,被告セントラル硝子及び丸石製薬は,互いにセボフルラン製剤全般について守秘義務を有しており,丸石製薬においてセボフルラン容器を水で洗浄することが公然実施だったとも,公知であったともいえない。しかも,丸石製薬では,洗浄操作において,単にセボフルラン容器を水洗するのみではなく,その後に当該水洗した容器を熱風ブローを用いて高温で乾燥している(甲2)。このように高温で乾燥した場合には,水洗によって,いったん,容器表面のルイス酸が水で中和されたとしても,かかる高温乾燥によって水が完全に除去されてしまい,当該ルイス酸が再活性化するから,本件発明における「被覆」に該当しない。

さらに,被告セントラル硝子の「タイコン」を洗浄する工程については,高々数十ppmと微量水分しか含んでいないセボフルランでタイコンを数回すすぎ洗いした程度にすぎず,この程度のすすぎ洗いでは,本件発明の「被覆」に該当しない。

以上のとおり,本件発明優先日前において,セボフルラン容器を水で洗浄することは,公知であったとも,公然実施されたものであったともいえない。

(2)  取消事由8(進歩性に関する判断)に対して

ア 原告は,ルイス酸抑制剤である水により容器内壁を被覆する技術が公知であったこと及びルイス塩基によりルイス酸の反応を抑制することが技術常識であったことなどを理由に,本件特許は当業者が容易に想到することができたものである旨主張する。しなしながら,本件発明の課題,つまり「セボフルランのルイス酸による分解」自体,本件発明の過程において本件発明の発明者らによって初めて解明されたものである。したがって,「セボフルランのルイス酸による分解」という技術課題自体が本件発明以前には知られていなかった新規なものであったのであるから,原告の主張するように,いくら「ルイス酸の反応を抑制するためにルイス塩基を使用することが技術常識」であったからといっても,このような課題を全く知らなかった当業者が本件発明を容易に想到し得るはずもない。

イ また,原告は,本件発明の各工程で使用される容器は公知であり,この容器に技術常識を組み合わせることにより,当業者が容易に発明することができたとも主張する。

しかしながら,上記のとおり,そもそも,「セボフルランのルイス酸による分解」といった本件発明の技術課題自体が新規であったのであり,したがって,「ルイス酸とルイス塩基が反応してルイス酸によるフルオロエーテル化合物の分解を抑制する」ことが技術的な常識であるとする原告の前提自体,明らかに誤りであり,公知事実にすら該当しない。

したがって,かかる公知でない事実を従来から存在していたエポキシ樹脂によって塗装されたアルミニウム容器と組み合わそうとする原告の主張が失当であるのは明らかである。

ましてや,原告が先行技術文献として引用する甲B4ないし7のいずれにもセボフルランについての具体的記載は全くされていないことを加味すれば,本件発明が特許法29条2項により無効とされるべきものではないのは,より一層明らかである。

ウ さらに,原告は,「ルイス酸」「ルイス酸抑制剤」「被覆する」という構成要件が,当業者の技術常識により容易に理解可能であり,かつ,化学構造式のみで「ルイス酸」と「ルイス酸抑制剤」を理解できるのであれば,これは,すなわち,本件発明に進歩性がないことを意味する旨主張する。

しかしながら,そもそも,「ルイス酸」と「ルイス塩基」とが中和反応するということと,ある化合物が「ルイス酸」で分解されるか否かということとは,全く別の議論である。すなわち,「ルイス酸」と「ルイス塩基」との接触により起こる「中和反応」は,両者が一体となって「配位化合物」を形成する反応であって,「分解反応」ではない。したがって,「ルイス酸」と「ルイス塩基」との「中和反応」が知られていたからといって,これとは異なる反応である「分解反応」までが知られていたことにはならない。

さらに,原告自身も主張するように,当時の当業者の常識として,セボフルランのようなフルオロエーテル化合物は一般に安定であると考えていたのであって,セボフルランがルイス酸によって分解されるという認識は当業者にはなかった。セボフルランのルイス酸による分解の可能性を認識できなかったからこそ,リコールという事態を招いたのである。当業者は本件特許の記載によって初めて分解の可能性を認識したのである。

したがって,いずれにしても原告の主張は失当である。

4  取消事由9(審決の認定の矛盾)に対して

この点に関する原告の主張は,原告が別の反応である「中和反応」と「分解反応」とを混同するという誤った理解に基づくものであって,両者を区別して正しく理解しさえすれば,被告らの主張及び審決が何ら矛盾も破綻もしていないことは明らかである。

第5当裁判所の判断

1  第3審判請求事件について

(1)  原出願明細書等の内容

証拠(甲1)によれば,原出願明細書等には,次の記載がある。なお,前記第2の1の「なお」書きのとおり,原出願明細書等の記載内容をこれに対応する本件明細書の段落番号等によって引用する。

「発明の技術分野

本発明は,一般に,ルイス酸の存在下においても分解しない,安定した麻酔用フルオロエーテル組成物に関する。また,本発明は,ルイス酸の存在下におけるフルオロエーテルの分解抑制法についても開示する。」(段落【0001】)

「発明の背景

フルオロエーテル化合物は麻酔薬として広く用いられている。麻酔薬として使用されているフルオロエーテル化合物の例は,セボフルラン(フルオロメチル-2,2,2-トリフルオロ-1-(トリフルオロメチル)エチルエーテル),エンフルラン((±-)-2-クロロ-1 1,2-トリフルオロエチルジフルオロメチルエーテル),イソフルラン(1-クロロ-2,2,2-トリフルオロエチルジフルオロメチルエーテル),メトキシフルラン(2,2-ジクロロ-1,1-ジフルオロエチルメチルエーテル),及びデスフルラン((±-)-2-ジフルオロメチル1,2,2,2-テトラフルオロエチルエーテル)を含む。」(段落【0002】)

「フルオロエーテルは優れた麻酔薬であるが,幾つかのフルオロエーテルでは安定性に問題があることが判明した。より詳細には,特定のフルオロエーテルは,1種類もしくはそれ以上のルイス酸が存在すると,フッ化水素酸等の潜在的に毒性を有する化学物質を含む幾つかの産物に分解することが明らかになった。フッ化水素酸は経口摂取及び吸入すると毒性を呈し,皮膚や粘膜を強度に腐食する。従って,医療分野では,フルオロエーテルのフッ化水素酸等の化学物質への分解に対する関心が高まっている。」(段落【0003】)

「フルオロエーテルの分解はガラス製の容器中で起こることが分かった。ガラス製容器中でのフルオロエーテルの分解は容器中に存在する微量のルイス酸によって活性化されるものと考えられる。ルイス酸のソースはガラスの天然成分である酸化アルミニウムであり得る。ガラス壁が何らかの原因で変質または腐食すると酸化アルミニウムが露出し,容器の内容物と接触するようになる。すると,ルイス酸がフルオロエーテルを攻撃し,フルオロエーテルを分解する。」(段落【0004】)

「例えば,フルオロエーテルであるセボフルランが無水条件下でガラス容器中の1種類もしくはそれ以上のルイス酸と接触すると,ルイス酸はセボフルランをフッ化水素酸と幾つかの分解産物に分解し始める。セボフルランの分解産物は,ヘキサフルオロイソプロピルアルコール,メチレングリコールビスヘキサフルオロイソプロピルエーテル,ジメチレングリコールビスヘキサフルオロイソプロピルエーテル,及びメチレングリコールフルオロメチルヘキサフルオロイソプロピルエーテルである。セボフルランの分解により生じたフッ化水素酸が更にガラス表面への攻撃を進行させ,ガラス表面に更に多くのルイス酸を露出させる。この結果,セボフルランの分解が一層促進される。」(段落【0005】)

「ルイス酸の存在下におけるセボフルランの分解メカニズムは次のように図解することができる:」(段落【0006】)

file_2.jpgSIF, (CF)):CHOCHF- -+->(CF)),CHOCH,OU + «SF Sevoflurane (Surface-Bound Intermediate ‘Lewis Acid) Sevoflurane + Lntermediat P2 (CFy:CHOCH,OCHZOCH(CKs)2 + HF Sevoflurane + Inermediate —--— (CF3:CHOH + FCH,OCH,OCH(CR) HFIP si (CPs) CHOCH,E + (CF) :CHION “+> (CF3):CHOCHZOCH(CP)2 + HF Sevoflurane HFIP Pr上記図(段落【0007】)

「従って,当分野においては,ルイス酸の存在下においても分解しないフルオロエーテル化合物を含有する安定した麻酔薬組成物が求められている。」(段落【0009】)

「発明の要約

本発明は,そこに有効な安定化量のルイス酸抑制剤が付加されたアルファフルオロエーテル部分を有するフルオロエーテル化合物を含有する安定な麻酔薬組成物に関する。好適なフルオロエーテル化合物はセボフルランであり,また,好適なルイス酸抑制剤は水である。本組成物は,ルイス酸抑制剤をフルオロエーテル化合物に加えることにより,またはフルオロエーテル化合物をルイス酸抑制剤に加えることにより,あるいは容器をルイス酸抑制剤で洗浄した後,フルオロエーテル化合物を加えることにより調製することができる。」(段落【0010】)

「また,本発明は,アルファフルオロエーテル部分を有するフルオロエーテル化合物の安定化法も含む。本方法は,有効な安定化量のルイス酸抑制剤をフルオロエーテル化合物に加えることにより,ルイス酸による該フルオロエーテル化合物の分解を防止することを含む。好適なフルオロエーテル化合物はセボフルランであり,また,好適なルイス酸抑制剤は水である。」(段落【0011】)

「本発明の麻酔薬組成物は少なくとも1つの無水フルオロエーテル化合物を含んでいる。本明細書で用いる「無水」という用語は,そのフルオロエーテル化合物に含まれている水の量が約50ppm未満であることを意味している。本組成物に使用されるフルオロエーテル化合物は次の化学構造式Iに相当するものである。」(段落【0018】)

file_3.jpgo上記図(段落【0019】)

「また,本発明の麻酔薬組成物は生理学的に許容可能なルイス酸抑制剤も含んでいる。本明細書で用いる『ルイス酸抑制剤』という用語は,ルイス酸の空軌道と相互作用し,それによりその酸の潜在的な反応部位を遮断するあらゆる化合物を表している。生理学的に許容可能なあらゆるルイス酸抑制剤を本発明の組成物に使用することができる。本発明で使用できるルイス酸抑制剤の例は,水,ブチル化ヒドロキシトルエン(1,6-ビス(1,1-ジメチル-エチル)-4-メチルフェノール),メチルパラベン(4-ヒドロキシ安息香酸メチルエステル),プロピルパラベン(4-ヒドロキシ安息香酸プロピルエステル),プロポホール(2,6-ジイソプロピルフェノール),及びチモール(5-メチル-2-(1-メチルエチル)フェノール)を含む。」(段落【0026】)

「本発明の組成物は有効な安定化量のルイス酸抑制剤を含んでいる。本組成物に使用できるルイス酸抑制剤の有効な安定化量は,約0.0150%w/w(水当量)からフルオロエーテル化合物中におけるルイス酸抑制剤の約飽和レベルまでであると考えられる。本明細書で用いる『飽和レベル』という用語は,フルオロエーテル化合物中におけるルイス酸抑制剤の最大溶解レベルを意味している。‥‥しかし,一旦本組成物がルイス酸に晒されると,本組成物とルイス酸抑制剤の望ましくない分解反応を防止するため,ルイス酸抑制剤がルイス酸と反応するので,本組成物中のルイス酸抑制剤量は減少し得ることに留意すべきである。」(段落【0027】)

「本発明の組成物で使用するのに好適なルイス酸抑制剤は水である。精製水または蒸留水,あるいはそれらの組み合わせを使用することができる。先述の如く,本組成物に付加できる水の有効量は,約0.0150%w/wから約0.14%w/wであり,好適には約0.0400%w/wから約0.0800%w/wであると考えられる。他のルイス酸抑制剤の場合は,水のモル量に基づくモル当量を使用すべきである。」(段落【0028】)

「フルオロエーテル化合物がルイス酸に晒されると,本組成物中に存在する生理学的に許容可能なルイス酸抑制剤がルイス酸の空軌道に電子を供与し,該抑制剤と該酸との間に共有結合を形成する。これにより,ルイス酸はフルオロエーテルのアルファフルオロエーテル部分との反応が妨げられ,フルオロエーテルの分解が防止される。」(段落【0029】)

「本発明の組成物は様々な方法で調製することができる。ある局面では,先ずガラス製ボトル等の容器をルイス酸抑制剤で洗浄またはすすぎ洗いした後,その容器にフルオロエーテル化合物が充填される。任意に,洗浄またはすすぎ洗いした後,その容器を部分的に乾燥させてもよい。フルオロエーテルを容器に付加した後,その容器を密封する。本明細書で用いる『部分的に乾燥』という用語は,乾燥された容器または容器内に化合物の残留物が残るような不完全な乾燥プロセスを表している。また,本明細書で用いる『容器』という用語は,物品を保持するために使用することができるガラス,プラスチック,スチール,または他の材料でできた入れ物を意味している。容器の例は,ボトル,アンプル,試験管,ビーカー等を含む。」(段落【0030】)

「ルイス酸抑制剤は製造プロセスのあらゆる適切なポイントで本組成物に加えることができ,例えば,500リットル入り出荷容器等の出荷容器に充填する前の最終製造ステップで加えることもできる。適当な量の本組成物をその容器から分注し,当産業分野で使用するのにより好適なサイズの容器,例えば250mL入りガラス製ボトル等の容器に入れて包装することができる。更に,適量のルイス酸抑制剤を含有する少量の本組成物を用いて容器を洗浄またはすすぎ洗いし,容器に残っている可能性のあるルイス酸を中和することができる。ルイス酸を中和したら容器を空にし,その容器に付加量のフルオロエーテル化合物を加え,容器を密封してもよい。」(段落【0033】)

「実施例1:ルイス酸としての活性アルミナ

タイプIIIのガラスは主に二酸化珪素,酸化カルシウム,酸化ナトリウム,及び酸化アルミニウムからなっている。酸化アルミニウムは既知のルイス酸である。ガラスマトリックスは常態ではセボフルランに不活性である。しかし,特定の条件(無水,酸性)下では,ガラス表面が攻撃され,または変質し,セボフルランを酸化アルミニウム等の活性ルイス酸部位に晒すことがある。」(段落【0035】)

「実施例3:水添加試験(109ppmから951ppm)によるアンプル内でのセボフルランの分解

タイプIの透明ガラス製アンプルを用いて,様々なレベルの水がセボフルランの分解を抑制する効果について試験した。約20mLのセボフルランと,約109ppmから約951ppmの範囲の異なるレベルの水を各アンプルに入れた。その後,それらのアンプルをシールした。合計10本のアンプルにセボフルランと様々な量の水を充填した。そのうち5本のアンプルをセットAとし,残りの5本をセットBとした。次いで,それらのアンプルを119℃で3時間オートクレーブした。セットAのサンプルは一晩振とう機に掛け,水分をガラス表面に被覆できるようにした。セットBのサンプルはガラス表面を水で平衡化することなく調製した。幾つかの対照サンプルも調製した。オートクレーブに掛けていない2本のアンプル(対照アンプル1及び対照アンプル2)と1本のボトル(対照ボトル)に,それぞれ,20mLのセボフルランを充填した。どの対照サンプルにも水を全く加えなかった。また,対照サンプルは一晩振とうもしなかった。ヘキサフルオロイソプロパノール(HFIP)と総分解産物(メチレングリコールビスヘキサフルオロイソプロピルエーテル,ジメチレングリコールビスヘキサフルオロイソプロピルエーテル,メチレングリコールフルオロメチルヘキサフルオロイソプロピルエーテルを含む)のレベルをガスクロマトグラフィーで測定した。その結果が以下の表2に示されている。」(段落【0040】)

「上記表2の結果は,セットA及びセットBのアンプルの場合,少なくとも595ppmの水があれば充分にセボフルランの分解を抑制できることを示している。また,この結果は,一晩振とうしたアンプルと一晩振とうしなかったアンプルとの間に有意な差がないことを示している。」(段落【0042】)

「表3の結果は,40℃で200時間貯蔵した場合,206ppmより以上のレベルの水があればセボフルランの分解を抑制できることを示している。また,サンプルを60℃で144時間またはそれ以上貯蔵した場合には,303ppmより以上のレベルの水があればセボフルランの分解を抑制できる。このデータは,温度が上昇すると,セボフルランの分解抑制に必要な水の量が増大することを示唆している。」(段落【0045】)

「実施例6:活性化されたタイプIII褐色ガラス製ボトル内でのセボフルランの分解に関する追加試験

実施例5の各ボトル内でのセボフルランの分解の程度をガスクロマトグラフィーで定量化した。10本のボトルを,対照Sevoグループ(ボトル2,3,5,7,8を含む)と試験Sevoグループ(ボトル1,4,6,9,10を含む)の2つのグループに分けた。」(段落【0050】)

「10本のボトルすべてを,約20ppmの水を含有する分解していないセボフルランで再度数回すすぎ洗いした。5本の対照Sevoグループのボトルに対しては,約20ppmの水を含有する100mLのセボフルランを各ボトルに入れた。一方,5本の試験グループボトルに対しては,約400ppmの水(添加)を含有する100mLのセボフルランを各ボトルに入れた。」(段落【0051】)

「開始時(時間ゼロ時)と50℃で18時間加熱した後にすべてのサンプルをガスクロマトグラフィーで分析した。ヘキサフルオロイソプロピルアルコール(HFIP),ジメチレングリコールビスヘキサフルオロイソプロピルエーテル(P2),及び総分解産物を測定した。その結果が以下の表6に示されている。」(段落【0052】)

「表6の結果は,時間ゼロ時では,表4のゼロ時の結果と比べると,セボフルランの有意な分解が観察されなかったことを示している。表6の結果は,試験Sevoグループ(400ppmの水)ではセボフルランの分解度がかなり低減されたことを示している。分解産物P2(ジメチレングリコールビスヘキサフルオロイソプロピルエーテル),及びS1(メチレングリコールフルオロメチルヘキサフルオロイソプロピルエーテル)の量は,対照グループ1(20ppmの水)の場合よりもずっと少なかった。しかし,試験SevoグループのHFIP濃度はかなり高く,ガラス表面が尚も幾分活性状態にあったことを示唆している。」(段落【0054】)

「実施例7:活性化されたタイプIII褐色ガラス製ボトル内でのセボフルランの分解に関する追加試験

実施例6の試験Sevoグループの5本のボトルからセボフルランをデカントした。各ボトルを新鮮なセボフルランで充分にすすぎ洗いした。次いで,各ボトルに約125mLの水飽和セボフルランを入れた。その後,その5本のボトルを回転機に約2時間掛け,活性化されたガラス表面に水を被覆できるようにした。次いで,各ボトルから水飽和セボフルランを排液し,400(添加)ppmの水を含有する100mLのセボフルランで置換した。50℃で18時間,36時間,及び178時間加熱した後,すべてのサンプルをガスクロマトグラフィーで分析した。ビスヘキサフルオロイソプロピルエーテル(P2と総分解産物について測定した。その結果が以下の表7に示されている。」(段落【0056】)

file_4.jpgRT amps (ppm) _ | arre Pa |__ seats ws nal_——_| sentra | rmannts| ae ws RIT (400ppm Mk) eer 1 =10 io | <0 | <1 | <s0_| <0 <a | <10 ae | <0 13 | <0 9 | <0「表7の結果は,活性化されたガラス表面を加熱する前に水飽和セボフルランで処理することにより,セボフルランの分解が大いに抑制されたことを示している。」(段落【0058】)

(2)  取消事由1(分割要件についての判断の誤り)について

ア 本件発明1の構成要件(D)の「被覆」について

(ア) 本件発明1の構成要件(D)の「被覆」は,前記(1)の明細書の記載を考慮すれば,あくまでも容器内壁が「フルオロエーテル組成物」によって被覆状態になったということを意味する。

ところで,「被覆」という用語は,一般的な技術用語として捉えると,本件発明の実施例3及び7のような,液状物質で一時的に覆われた「被覆」状態だけでなく,塗料を塗布し,乾燥ないし硬化して恒常的な塗膜とした「被覆」や,予め形成されたシートを貼り付けた「被覆」も包含するものと認められるところ,本件発明では,本件明細書中に「被覆」の具体的な説明や定義もないから,「ルイス酸抑制剤」から形成される「被覆」には,上述のような広範な「被覆」が包含されることとなる。

ところが,前記第3の1(1)ア(イ)において原告が主張するように,原出願明細書等に「被覆」という用語が記載されている箇所は,実施例3に関する段落【0040】及び実施例7に関する段落【0056】だけである。このうち,段落【0040】には,「それらのアンプルを119℃で3時間オートクレーブした。セットAのサンプルは一晩振とう機に掛け,水分をガラス表面に被覆できるようにした。」と記載されているが,実施例3については,結局,水分をガラス表面に被覆した場合としない場合とで「有意な差がない」(段落【0042】)と結論付けられているから,本件発明に係る「被覆」には該当しない実施例というべきであり,本件発明とは関係がないというほかない。

また,段落【0056】には,「次いで,各ボトルに約125mLの水飽和セボフルランを入れた。その後,その5本のボトルを回転機に約2時間掛け,活性化されたガラス表面に水を被覆できるようにした。」と記載されているところ,この実施例7は,要するに,「活性化されたタイプIII褐色ガラス製ボトル」の内壁を水飽和セボフルランで回転機に約2時間掛けて「水」を被覆することが記載されているにすぎず,この段落【0056】の記載を前提としても,「被覆」の態様は回転機に2時間掛けるという特殊な態様に限定されている上,「ガラス容器」以外の容器の内壁に「水」以外のルイス酸抑制剤を被覆することは何ら開示されていない。

このように,段落【0040】及び【0056】に記載されているのはルイス酸抑制剤の一例としての「水」であり,しかも,いずれの場合もセボフルランに溶解していることが前提とされているのであるから,当業者が,出願時の技術常識に照らして,セボフルランに溶解していない水以外のルイス酸抑制剤で容器の内壁を「被覆」することでセボフルランの分解を抑制できるという技術的事項がそこに記載されているのと同然であると理解できるとはいえない。

したがって,原出願明細書等に,「水飽和セボフルランを入れて,ボトルを回転機に約2時間掛けること」という態様の「被覆」以外に,ルイス酸抑制剤の量に応じて,適宜変更可能な各種の態様を含む広い上位概念としての「被覆」が実質的に記載されているとはいえない。

以上のとおり,原出願明細書等には,構成要件(D),すなわち,「該容器の該内壁を空軌道を有するルイス酸の当該空軌道に電子を供与するルイス酸抑制剤で被覆する工程」は記載されておらず,その記載から自明であるともいえないから,分割要件を満足するとした審決の判断は誤りである。

(イ) この点について,被告らは,前記第4の1(1)のとおり,前記(1)記載の段落【0026】及び【0029】の記載に加え,段落【0030】及び【0033】の記載,さらには実施例3及び7の記載等も加味すれば,本件明細書には,「洗浄」や「すすぎ洗い」だけではなく,ルイス酸抑制剤の量に応じて,適宜変更可能な各種の態様を含む上位概念としての「被覆」が実質的に記載されているのは明らかである旨主張する。

そこで,被告らが摘示する各記載をみると,段落【0026】には,「ルイス酸抑制剤」となる物質が例示され,段落【0029】には,ルイス酸抑制剤がルイス酸の空軌道に電子を供与し,該抑制剤と該酸との間に共有結合を形成し,これによってルイス酸によるフルオロエーテルの分解が抑制されることが説明されている。

また,段落【0030】には,「容器をルイス酸抑制剤で洗浄またはすすぎ洗いした後,その容器にフルオロエーテル化合物が充填される」ことが記載され,段落【0033】には,「適量のルイス酸抑制剤を含有する少量の本組成物を用いて容器を洗浄またはすすぎ洗いし,容器に残っている可能性のあるルイス酸を中和することができる。ルイス酸を中和したら容器を空にし,その容器に付加量のフルオロエーテル化合物を加え」と記載されている。

そして,実施例3には,「セットAのサンプルは一晩振とう機に掛け,水分をガラス表面に被覆できるようにした」(段落【0040】)との記載があり,また,実施例7には,水飽和セボフルランを入れたボトルを「回転機に約2時間掛け,活性化されたガラス表面に水を被覆できるようにした」(段落【0056】)との記載がある。

これらの記載について,被告らは,段落【0030】に,「容器をルイス酸抑制剤単体で洗浄またはすすぎ洗い」する態様が,また,段落【0033】には,「適量のルイス酸抑制剤を含有する少量の本組成物を用いて容器を洗浄またはすすぎ洗い」する態様が,それぞれ記載されており,これらの記載によれば,ルイス酸抑制剤が多量の場合には,「洗浄」や「すすぎ洗い」という態様で,十分に「被覆」に当たるということが理解でき,さらに,実施例7には,1400ppmの水含有セボフルランの場合,「回転機に2時間掛ける」という態様が,また,実施例3には,109ないし951ppmの水含有セボフルランの場合,「一晩振とう機に掛ける」という態様が記載されており,これらの記載と,この段落【0030】や【0033】の記載とを対比すれば,ルイス酸抑制剤が少ないほど,その量に応じて中和反応を促進すべく,「被覆」をするためには,より激しい,あるいは,長期間の操作が望ましい,ということが理解できる旨主張する。

しかし,段落【0030】は,「被覆」する工程の説明ではなく,組成物の調製方法を記載するものである。確かに,ルイス酸抑制剤による「洗浄またはすすぎ洗い」の文言の記載はあるものの,あくまでも「洗浄またはすすぎ洗い」の後,容器内に残ったルイス酸抑制剤が,その後に充填されるフルオロエーテルと共に組成物の成分となることを記載しているのであって,ここに記載されている「洗浄またはすすぎ洗い」が「被覆」を形成することを目的とする処理操作であるといえないことは明らかである。

また,段落【0033】には,本件明細書の実施例3及び7において行われているような処理操作である,ルイス酸抑制剤を少量含有するフルオロエーテル組成物による「洗浄またはすすぎ洗い」によって容器に残っている可能性のあるルイス酸を中和することについて記載がある。しかしながら,単に「洗浄またはすすぎ洗いし」と記載されているのみであって,中和に必要なルイス酸抑制剤の量と操作条件の関係については,何ら記載されていない。逆に,前記(1)記載の段落【0050】ないし【0054】によれば,実施例6においては,「すすぎ洗い」をしたにもかかわらず,ルイス酸抑制効果が見られなかった例が記載されているのである。したがって,実施例7に記載されているような特定の「被覆」については開示されているものの,それ以外にいかなる「被覆」が実施態様として望ましいのかについては一切開示されていないというほかない。

このように,仮に,「洗浄またはすすぎ洗い」が「被覆する」ことと同義であったとしても,当業者は,「洗浄またはすすぎ洗い」する工程以外に,被覆する工程を理解することができない。

したがって,被告が主張するように,段落【0030】及び【0033】の各記載を実施例3及び7などと関連させてみても,当業者は,本件発明の「被覆」を理解することができないといわざるを得ない。また,段落【0033】の記載,実施例3及び7の記載から,ルイス酸抑制剤量に応じて「被覆」の具体的態様を適宜変更可能であることが理解できるともいえない。

(ウ) 以上のとおり,本件特許の構成要件(D)は,分割出願明細書に記載されておらず,また,同明細書の記載から自明な事項ともいえないから,本件分割は,分割要件に違反しているというべきであって,分割要件を充足するとした審決の判断には誤りがある。

イ したがって,本件第3審判請求に対する審決は取消しを免れない。

2  第1審判請求事件について

(1)  取消事由3(実施可能要件に関する判断の誤り)について

ア 証拠(甲1,7,甲A3,A5,A11,A15,A16,A17,A22,A23,A26,乙A5〔枝番のあるものは枝番も含む。〕)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。

(ア) セボフルランは,原告が開発したものであり,原告がその特許を他社へライセンスしたことによって,日本においては,丸石製薬が,平成2年(1990年)から販売を始め,米国においては,被告らが,平成7年(1995年)から販売を始め,さらに,平成17年(2005年)からは原告も米国において販売している麻酔剤であり,現在では,日本,米国のみならず,世界100か国以上で販売されており,多くの使用実績がある(甲A16,A17)。

(イ) 本件特許の優先日である平成9年1月27日以前,通常の貯蔵中にセボフルランの分解が生じたと報告された事例はほとんどなく,また,セボフルランがルイス酸によって分解されるという事実も知られていなかったことから,当時の当業者には,セボフルランは安定した麻酔剤であり,ルイス酸に対しても安定しているものと認識されていた。

(ウ) 本件発明の発端は,平成8年(1996年)に,出荷後の製品中においてセボフルランの分解が認められたことを契機として,本件発明の発明者らがさらに検討を行ったことにある。すなわち,発明者らが上記出荷後の製品におけるセボフルランの分解事例を契機として,さらに,その分解メカニズムの検討を進めた結果,酸化アルミニウムやSi-OHがセボフルランを分解し,その主たる分解産物として,ヘキサフルオロイソプロピルアルコール(HFIP),ジメチレングリコールビスヘキサフルオロイソプロピルエーテル(P2),メチレングリコールフルオロメチルヘキサフルオロイソプロピルエーテル(S1)等を生じることが判明した。そこで,発明者らは,これらの知見を基礎として,酸化アルミニウム及びSi-OHとがいずれもよく知られたルイス酸である点に着目し,セボフルランがこのようなルイス酸の作用によって分解されたと想定し,平成10年1月23日に,本件原出願に至った(甲1,乙A5)。

(エ) 化学大辞典(甲7)には,次の記載がある。

「ルイス酸塩基説 1923年にG.N.Lewisが非共有電子対の授受に着目して提出した酸塩基の概念。Lewisは“少なくとも一つの電子対を受け取ることのできる空の軌道を持った物質,すなわち電子対受容体(electron-pair acceptor)”を酸と,“共有されていない少なくとも一つの電子対を持った物質,すなわち電子対供与体(electron-pair donor)”を塩基と定義した。この理論によれば酸塩基反応は,A+:B≒A:Bのように,ルイス塩基:Bがその電子対をルイス酸(Lewis acid)Aと共有して配位錯体A:Bを生成する反応であり,この反応は溶媒系や酸塩基の荷電状態には依存しない。」

「ルイスの酸塩基の強さは配位錯体の生成定数の大きさで決まるが,いろいろなルイス塩基やルイス酸との生成定数の大きさの比較から,R.G.Pearson(1963)は,ルイス酸を硬い酸(hard acid),軟らかい酸(soft acid)に,ルイス塩基を硬い塩基(hard base)と軟らかい塩基(soft base)にさらに分類した。」

(オ) シュライバー無機化学(上)第3版(甲A3)には,次の記載がある。

「5・12 硬い酸・塩基と軟らかい酸・塩基

Bronstedの酸・塩基の強さを論ずる際には,手がかりとなる電子対受容体としてプロトン(H+)を考えればよかった。Lewisの酸塩基理論では多種多様の電子対受容体を取扱わなければならないので,一般に,電子対供与体と受容体との相互作用に影響を及ぼすさまざまな要因を考える必要がある。」

「(a)酸・塩基の分類

周期表のあらゆる部分の元素を含むLewisの酸と塩基との相互作用を取扱うとするならば,物質を少なくとも二つのおもな種類,すなわち硬い酸・塩基と軟らかい酸・塩基に分けて考えるのが有効である。」

「硬い酸・塩基および軟らかい酸・塩基は,それらがつくる錯体の安定度にみられる傾向によって経験的に決められる。硬い酸は硬い塩基に,また軟らかい酸は軟らかい塩基に結合しようとする。」

(カ) マクマリー有機化学(上)第6版(甲A5)には,次の記載がある。

「Lewis酸と結合を作るのに使うことができる1対の孤立電子対をもつ化合物というLewis塩基の定義はBronsted-Lowryの定義と似ている。すなわち,酸素上に2対の孤立電子対をもつH2OはLewis塩基として働き,H+にその電子対を供与して,オキソニウムイオン,H3O+を生じる。もっと一般的にいえば,酸素や窒素を含む有機化合物のほとんどは孤立電子対をもつので,Lewis塩基である,2価の酸素化合物は酸素上の二つの孤立電子対を持ち,3価の窒素化合物は窒素上に一つの孤立電子対をもっている。つぎの例のうちいくつかは,水と同じように酸としても塩基としても働くことを注意せよ。たとえば,アルコールやカルボン酸はH+を供与するときは酸として働くが,酸素原子がH+を受取るときは塩基となる。」

(キ) 京都大学A教授鑑定意見書(甲A11)には,次の記載がある。

「ルイス酸,ルイス塩基の強さには差があり,また,反応の成否や速度は‥‥様々な要素及び条件に影響されるので,ルイス酸の種類その他これらの要素及び反応条件が特定できなければ,それと有効に反応するルイス塩基を特定することはできない。」

「窒素ガスは,潜在的にはルイス塩基である。しかし,窒素は空気中に80%程度含まれていることからもわかるとおり,通常大気下で扱っているものにルイス塩基としての効果(すなわち,ルイス酸抑制効果)を実際に果たすとは考えられない。」

「一旦活性化された酸化アルミニウムを大気中に放置しておくと,表面に水がついたり,酸素原子とくっついたりして,活性化されていない酸化アルミニウムになることはあり得る。」

(ク) B博士第2専門家報告書(甲A22)には,次の記載がある。

「セボフルランは元来安定な分子です。ルイス酸の分解は(その名の示すとおり)ルイス酸の存在下で起こります。さらに,そのようなルイス酸はこの分解反応を触媒するに十分な力価のものでなければなりません。「ルイス酸」という化学的定義(すなわち孤立電子対と相互作用をすることのできる空の原子価殻軌道を持つ分子種)に叶ったすべての分子がセボフルランを分解できるとはかぎりません。事実,セボフルランを分解できるルイス酸はありふれたものではありません。そのようなルイス酸は特殊な過酷な化学的条件によって作らなくてはなりません。」

(ケ) C教授第1専門家報告書(甲A23)には,次の記載がある。

「所与の条件でセボフルランの分解を防止するために必要なルイス酸抑制剤の量は,(一般式MXnで表されるルイス酸に対して,金属m,その対アニオンxおよび溶媒のいわば関数であるルイス酸の能力も含めて)ルイス酸のタイプ,容器のタイプ,および製品を製造し,保存する方法などの要因によって変わるというのが正しい。」

(コ) D教授の平成20年1月19日付け鑑定意見書(甲A26)には,次の記載がある。

「日常的な環境下(すなわち,大気中の水の存在下)に存在するような酸化アルミニウムなどは,セボフルランを分解するほど強いルイス酸としては存在しません。むしろ,せいぜい通常の環境では活性度のきわめて低いルイス酸(ルイス酸としての性質を実質的に示さないため『活性化されていないルイス酸』と表現します。)を有する物質として存在することになります。

例えば,活性化された酸化アルミニウムの場合,大気中に長時間放置しておくと,表面に水が結合して,強いルイス酸部位は悉く不活性化され,弱い酸点が残るだけです。そして,活性は低下し,そして酸化アルミニウムと大気中の水は,平衡状態になります。この平衡状態において,酸化アルミニウムと,大気中の水との間の反応(ルイス酸-ルイス塩基反応)がさらに進行することはありません。」

(サ) 米国地方裁判所イリノイ州北地区東部で行われた審理手続におけるカリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉教授のE氏の証言録(甲A15の3)には,次の記載がある。

「ルイス酸は本来どこにでもあります。どこでルイス酸がみられるかを予測する方法はありません。ほとんどのルイス酸は,一般に酸化されうる金属,又はいわゆる擬似金属であり,その酸化物である,金属酸化物又は擬似金属酸化物は,ルイス酸となります。ですから,酸化物になりうる金属や,金属がさらされているところはどこでも,ルイス酸が在りえます。」

「セボフルラン製造のどのような時点でもルイス酸に晒され得ます。よって,セボフルラン製造の最終段階においても晒される可能性があります。容器に詰めたり,取り扱ったり,輸送したり,そして確かにセボフルランを投与する時点においてもです。当該ラインのどの時点においても,ルイス酸と接触し得ます。」

(シ) 被告アボットが平成13年6月18日付けで米国食品医薬品局等に提出した「セボフルランの後発品の申請に関する安全性の考察」と題する文書(甲A15の4)には,次の記載がある。

「ルイス酸は自然に工場のちりやさび,製品製造や充填のラインや,製品の輸送に使用される容器に自然に存在します。アボットは後に,製品の輸送に使用されるバルクドラッグコンテナや貯蔵用コンテナにおいてルイス酸がセボフルランの分解やフッ化水素の形成をひきおこしうることを発見しました。実際問題,ルイス酸はセボフルランの製造,配布,臨床投与から除くことはできません‥‥。実際に,酸化物の金属や多くの共有結合の金属化合物はルイス酸となりえます。ルイス酸の一般的な原因物質は酸化アルミニウム,酸化鉄,硫酸鉄,塩化マンガン(Ⅱ),硝酸塩,硫酸水素ナトリウム,硫酸カルシウム,酸化亜鉛が含まれます‥‥。皮肉にも,これらの物質の多くが一般に医療用現場で使用されています。」

イ 「ルイス酸」「ルイス酸抑制剤」の非限定について

(ア) 上記アの認定によれば,本件特許の優先日当時,通常の貯蔵においては,セボフルランの分解はほとんど確認されていなかったこと,当業者にとって,セボフルランは一般的には安定した薬剤であると考えられていたこと,ルイス酸によってセボフルランが分解されることが判明したのは,本件発明の契機となった本件発明者らの研究によるものであること,以上の事実が認められる。そうであれば,当業者は,本件特許の優先日当時,セボフルランのルイス酸による分解については何ら技術的知識を有していなかったのであるから,セボフルランが晒されるさまざまな化合物のうち,いかなる化合物がセボフルランを分解する化合物であるかについても,当然知識を有していなかったものと認められる。

これに対して,本件明細書には,セボフルランを分解する「ルイス酸」の範囲の具体的な定義はなく,セボフルランを分解する化合物や成分として本件明細書に具体的に記載されているのは,酸化アルミニウム,ガラス,Si-OHのみである。

ところが,上記認定のとおり,「ルイス酸」とは,G.N.ルイスによって提唱された酸・塩基の概念であるが,特定の酸を指すものではなく広範な化合物を含む概念であり,自然界においてさまざまな形で存在し,化合物によってはルイス酸とルイス塩基のいずれの性質をも有する場合もあり,上記認定の文献,意見書及び法廷証言にみられるとおり,ルイス酸及びルイス塩基の種類・範囲,その作用及び反応の形態についてはさまざまな見解があり,現時点においてもその外延は確定していないといわざるを得ない。したがって,本件明細書の記載を参考にしても,そこに記載された上記のわずかな化合物や成分に関する記載から,当業者が,貯蔵方法や使用される容器など特定の条件下において,セボフルランを分解する「ルイス酸」の範囲を想定することは極めて困難であるといわざるを得ない。

また,上記認定のとおり,一口に「ルイス酸」といっても,その中には,強いルイス酸・ルイス塩基,弱いルイス酸・ルイス塩基のように,ルイス酸,ルイス塩基にはその強さに差があり,また,それらの酸と塩基の反応の成否や速度は,さまざまな要素及び条件に影響されることが認められるから,酸化アルミニウム,ガラス,Si-OHが「ルイス酸」に該当するからといって,「ルイス酸」に該当する他の化合物のすべてがセボフルランに対してこれらと同様に作用すると認めることもできない。

確かに,本件明細書の段落【0007】には,セボフルランのSi-OHによる分解メカニズムが記載されているが,このような分解メカニズムが理解できたとしても,そもそも,どのようなルイス酸化合物がこのような分解を生じさせるかについては,当業者は具体的に理解することはできない。

以上のとおり,本件発明における「ルイス酸」の概念は極めて不明確であるといわざるを得ず,「ルイス酸」の概念が不明確である以上,その「ルイス酸」の空軌道に電子を供与する「ルイス酸抑制剤」なる概念もまた不明確であるといわざるを得ない。したがって,本件発明を実施しようとする当業者は,貯蔵中のセボフルランの貯蔵状況に応じたあらゆる事態を想定した実験をしない限り,本件発明を実施することは容易ではないと認められる。そうである以上,本件明細書には,当業者が本件発明を実施することができる程度に明確かつ十分に「ルイス酸」及び「ルイス酸抑制剤」が記載されていると認めることはできない。

(イ) この点に関し,被告らは,前記第4の2(2)ア(オ)のとおり,本件明細書の記載に当業者の技術常識を加味すれば,本件特許が特段の過度の試験をするまでもなく容易に実施可能であると主張する。

しかしながら,セボフルランのルイス酸による分解という事象については,前述のとおり,本件特許の優先日当時,当業者はセボフルランのルイス酸による分解という現象そのものを理解していなかったのであるから,そもそも加味すべき「当業者の技術常識」と呼べるものは当時存在していなかったというほかない。

したがって,当業者が,どのような化合物がセボフルランを分解する「ルイス酸」に該当するかについて,実験を繰り返すことなく,その内容を具体的に理解することは非常に困難であったといわざるを得ない。

また,被告らは,セボフルランを分解しないようなルイス酸性の弱いルイス酸であっても,本件発明においては予防的に抑制しておくことが必要であり,したがって,「ルイス酸」の定義に含まれるものであるとも主張する。

被告らの主張は,それ自体としては首肯することができるものの,セボフルランを分解しないようなルイス酸であれば,そもそも抑制する必要はないのであり,そのような「ルイス酸」までもが本件発明の「ルイス酸」に該当すると主張することは,本件発明の特許請求の範囲を不当に拡張するものであり(仮にそのようなルイス酸を除くとすると,特許請求の範囲は不明確となるであろう。),発明の内容として受け入れる余地はない。

(ウ) 被告は,前記第4の2(2)ア(カ)のとおり,本件発明におけるルイス酸抑制剤が抑制する対象とする「ルイス酸」は「セボフルランの製造,輸送あるいは貯蔵工程等,通常,セボフルランが晒される環境下において存在し得るルイス酸」と解すべきである旨主張する。しかしながら,仮にそのように解したとしても,前記認定のとおり,通常,セボフルランが晒される環境にもさまざまな化合物が存在すると考えられるから,どのような化合物がそのような「ルイス酸」に該当するかについて,当業者が具体的に理解することは困難であるというべきである。

しかも,被告らは,上記「ルイス酸」について,「セボフルランの貯蔵中に,分解に関与する可能性さえあればよい」とも主張しているのであり,そのような化合物を,例えば,貯蔵条件によっては分解する場合としない場合がある化合物,とするならば,その貯蔵条件自体も明らかではないのであるから,いかなる化合物がそのような「ルイス酸」に該当するかを理解することは,さらに困難である。

したがって,この点に関する被告らの主張は失当である。

ウ 「被覆工程」の不存在について

(ア) 前記認定のとおり,セボフルランは,そもそも分解しにくく安定した性質を有しており,本件特許の優先日当時,セボフルランが分解されたという事例はほとんど知られていなかった上に,セボフルランがルイス酸によって分解されるということを開示する文献も一切存在せず,むしろそのような分解のメカニズムは本件発明の発明者らの研究によってはじめて判明したものであったのであるから,当業者は,どのようなルイス酸となり得る物質がどのような条件でセボフルランを分解するのか,理解できなかったものと認められる。したがって,たとえ容器の内壁をルイス酸抑制剤で被覆したとしても,セボフルランが分解していないのが「ルイス酸抑制剤」の効果によるものなのか,それとも単にルイス酸に対してセボフルランがそもそも安定であるという性質からくるものなのか,当業者は判断できないといわざるを得ない。

(イ) この点に関し,どの程度の「ルイス酸抑制剤」をどのように容器内壁に被覆すべきかを判断する手がかりとなる本件明細書の記載は,実施例7しか見当たらないところ,実施例7は,ルイス酸抑制剤である水を含む水飽和セボフルラン約125mlを回転機に約2時間掛けて被覆した容器に,400ppmの水を含有する100mlのセボフルランを温度50℃の状態で178時間保存した場合に効果があったという記載であり,このような状況は,50℃という,実際のセボフルランの製造・貯蔵環境とは異なる環境の実験であることに加え,水飽和セボフルランを入れて回転機に掛けるという特殊な「被覆」を行った後に,ルイス酸抑制剤である水400ppmを再びセボフルランと一緒に添加している例にすぎない。したがって,50℃での加熱の場合に1400ppmの水で2時間回転機にかければよいことが分かったと仮定しても,かかる被覆を,実際のセボフルランの製造・貯蔵環境に置き換えて本件発明を実施しようとした場合に,対象としなければならないルイス酸の種類及び量が不明な状況において,任意のセボフルランの分解を抑制するために,どの種類の量のルイス酸抑制剤をどのくらいの量,どのように被覆すればいいのかという点に関し手がかりとなる指標は本件明細書に全く開示されていないといわざるを得ない。したがって,この実施例7でさえ,当業者が実施可能な程度に「被覆の工程」が開示されていると認めることはできない。

(ウ) 以上の点に関し,被告らは,前記第4の2(2)イのとおり,縷々主張する。

しかし,まず,上記1(2)ア(イ)で述べたのと同様に,段落【0030】に記載される「洗浄またはすすぎ洗い」は組成物の調製方法とし記載されたものであって「被覆」の態様を記載したものとは認められないし,段落【0033】に記載される「洗浄またはすすぎ洗い」は単なる一行記載であり,それによって,一般的にどのように「被覆」するのか,使用される組成物の組成,使用量などの具体的な事項が記載されているとはいえない。また,「洗浄」や「すすぎ洗い」は「被覆」の一態様であるということはできても,本件明細書に,「被覆」という上位概念を含む発明の技術的事項までもが記載ないし示唆されているとはいえない。

次に,実施例3と実施例7との比較の主張に関しては,実施例3と実施例7とでは,使用されている容器のガラスの材質が異なっているため,容器に存在するルイス酸の種類,量に違いがあると考えられる。また,実施例7の処理は,実施例6の「試験Sevoグループの5本のボトル」に対して施されるものであり,これらのボトルは,実施例6において,約400ppmの水を含有するセボフルランを入れて50℃で18時間加熱したものであるから,この実施例6の処理によって残留するルイス酸の量が変化すると考えられる。したがって,実施例3と実施例7の処理操作を直接比較して検討することは,技術的にみて適切とはいえない。

そうすると,段落【0030】や【0033】,実施例3及び7の記載から,被告らが主張するような,水(ルイス酸抑制剤)の量と処理操作の条件の関係を理解をすることができるとはいえない。

そうであれば,本件明細書には,被告らが主張するような,「ルイス酸抑制剤の量に応じて,『被覆』の具体的方法を適宜変更することによって,本件発明における『被覆』を行うことができる,といった基本的指針」が記載されているとは認められず,本件明細書の記載から,本件発明の「被覆工程」が「洗浄又はすすぎ洗い」という態様を越えて,その上位概念である「被覆」を理解することはできないから,当業者は本件明細書の記載から,本件発明の「被覆工程」を実施することができないといわざるを得ない。したがって,被告らの主張は失当である。

エ 以上のとおり,本件明細書の発明の詳細な説明は,前記イ及びウの点で,当業者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載されたものと認めることはできず,特許法36条4項に違反しているというべきであるから,この点に関する審決の判断は誤りである。したがって,原告の主張する取消理由3は理由がある。

(2)  よって,その余の点について判断するまでもなく,第1審判請求事件に対する審決は取消しを免れない。

3  第2審判請求事件について

(1)  取消事由7(新規性に関する判断の誤り)について

ア 引用例の内容

証拠(甲B2)によれば,引用例には,次の記載がある。

「マグネシウム化合物を用いることを特徴とする呼気中に含まれる二酸化炭素の吸収剤。」(【請求項1】)

「吸入麻酔剤を通常の方法に従って閉鎖系において使用する場合に,呼気中の二酸化炭素を除く目的に供せられる水酸化カルシウムを主成分とする,水酸化ナトリウムや水酸化バリウムを加えた二酸化炭素吸収剤は,二酸化炭素吸収効果においては優れた能力を示し,本来求められる目的を達成しうることは言うまでもない。しかるに,ガラス製バイアル瓶に二酸化炭素吸収剤を入れ,そこへ更に吸入麻酔剤と二酸化炭素を入れて観察すると,二酸化炭素は吸収されるが同時に吸入麻酔剤の種類に応じ各種の不純物を生成することが見出されている。‥‥」(段落【0003】)

「‥‥フルオロメチル-1,1,1,3,3,3-ヘキサフルオロ-2-プロピルエーテル(以下,セボフルレンという。)の場合に,二酸化炭素吸収剤として水酸化カルシウムを主成分とするソーダソーブを用いると,分解生成物として1,1,3,3,3-ペンタフルオロ-2-(フルオロメトキシ)-1-プロペン等を生成することが見出された。‥‥」(段落【0004】)

「‥‥従って,吸入麻酔剤を従来以上に安全に使用するためには,閉鎖及び半閉鎖系吸入麻酔において,二酸化炭素を効率的に吸収除去し,しかも吸入麻酔剤の分解による安全性の疑問な物質を生成することのない二酸化炭素吸収剤を提供することが求められていた。」(段落【0005】)

「本発明者らは,‥‥二酸化炭素吸収剤としてマグネシウム化合物を使用することにより,二酸化炭素を効率的に吸収し,しかも麻酔剤の分解の少ないことを見出し本発明に到達した。」(段落【0006】)

「本発明の一実施態様である水酸化マグネシウムの場合,所望の二酸化炭素吸収能力を賦与せしめる目的は,水分を添加することで容易に達成できる。例えば,水酸化マグネシウムの重量の1%以上の水を添加することで実用上必要な二酸化炭素吸収能力が得られる。‥‥上限については特に制限はないが,成形品等の形状を保持する必要性から,水酸化マグネシウムの重量に対し,1から100%が好ましい。」(段落【0010】)

「実施例1

125mlのバイアル瓶に粉末状の水酸化マグネシウム21g(和光純薬工業(株),試薬)とイオン交換水4ml(20重量%)を入れよくかき混ぜた。バイアル瓶のセプタムおよびバイアルキャップをクリンパーにて漏れのないよう閉じた後,バイアル瓶中の空気をアスピレーターで1分間排気した。セボフルレン20μlをバイアル瓶壁に伝わせ気化させながら添加した。次いで注射針をセプタムに刺して二酸化炭素を0.07vol%含有する空気で常圧に戻し37℃の恒温槽に入れた。その後10分毎に二酸化炭素を2.5ml注入した。」(段落【0013】)

「セボフルレン添加後0.5時間,3時間,6時間後にヘッドスペースガスクロマトグラフィー法を用い,固気平衡状態にある試料の気相の一部を採取し,ガス成分を分析し,セボフルレン濃度および分解生成物濃度を算出した‥‥。」(段落【0014】)

「その結果,セボフルレン濃度の経時的減少はほとんど認められず,また分解生成物はいずれのサンプリング時も検出限界以下であった。また,24時間後の水酸化マグネシウムの重量増加分0.424gより算出したところ,加えた二酸化炭素のうち約60%が吸収されていた。

実施例2

実施例1と同様に,ただし水の添加量を6ml(30重量%)として試料を調整した。その結果,セボフルレン濃度の経時的減少は認められず,また分解生成物はいずれのサンプリング時も検出限界以下であった。表1参照。また,24時間後の水酸化マグネシウムの重量増加分0.495gより算出したところ,加えた二酸化炭素のうち約70%が吸収されていた。‥‥」(段落【0015】)

イ 前記第3の3(1)アの原告の主張について

上記アの記載によれば,引用発明について,次のように,認定することができる。

引用発明は,吸入麻酔剤に対する二酸化炭素吸収剤の使用に関し,同吸収剤の使用により吸入麻酔剤が分解されて不純物が生成するのを防止しつつ,二酸化炭素を効率よく吸収することを目的とする二酸化炭素吸収剤に関する発明であるところ,引用発明における水分の添加は,二酸化炭素吸収剤として水酸化マグネシウムを使用する場合に,所望の二酸化炭素吸収能力を賦与する目的で行われるものであるから(段落【0010】),ルイス酸抑制剤で容器の内壁を被覆することによりルイス酸によるセボフルランの分解を防止するという本件発明とは,そもそもその技術思想を異にするものであり,解決すべき課題も同一ではない。

また,本件発明にいう「被覆」は,「水」に代表される「ルイス酸抑制剤」によって容器内壁を「被覆する」というものであるから,被覆に用いられる「ルイス酸抑制剤」は容器内壁全体を被覆するに適するようにある程度の流動性を有するものであることが前提となっていると解されるところ,引用発明の二酸化炭素吸収剤は,「粉末状,顆粒状もしくは成形状」のもの(段落【0007】)であって,しかも同吸収剤への水分の添加は,「成形品等の形状を保持する必要性」(段落【0010】)を考慮して行われ,水分添加後の吸収剤も,「粉末状,顆粒状もしくは成形状」といった固形又は固形に近い形状を有するものであると認められること,また,引用発明の実施例1及び2においても,いずれも21gといった多量の粉末状水酸化マグネシウムに対して,4ml,6mlといった少量のイオン交換水が添加されるにすぎないのであるから,引用例においては,二酸化炭素吸収剤が水分の添加によって流動性を有する状態になっているとは考えられない。

この点に関し,確かに,原告が主張するように,水の添加に関しては,「上限については特に制限はない」旨の記載があるものの,その記述の直後に「成形品等の形状を保持する必要性から,水酸化マグネシウムの重量に対し,1から100%が好ましい。」(段落【0010】)と記載されていることから,その上限としてはせいぜい水酸化マグネシウムの重量に対し100%程度が想定されていると解されるところ,21gの水酸化マグネシウムに対して,その100%に相当する21gのイオン交換水を添加した実験例を示す甲B31の記載からみても,その水分がバイアル瓶の内壁を被覆することが可能であるような流動性を有しているとは認められない。

したがって,引用例に記載されている水分の添加量は,あくまで成形品等の形状を保持する必要性によって決せられ,その量も,水分添加後の二酸化炭素吸収剤が固形に近い形状のものである範囲に限られるというべきであるから,引用例には,原告が主張するような流動性を有する状態を与える量の水を添加することが記載されているとはいえない。

このように,引用発明の二酸化炭素吸収剤は流動性を有するものとは認められないから,吸収剤に水分が含有されており,バイアル瓶の中で吸収剤を「よくかき混ぜ」たとしても,それが本件発明の構成要件Dにおける「被覆する工程」に該当すると認めることはできないから,原告が主張するように,引用発明を「水で被覆した容器によりセボフルランが貯蔵されている引用例」であると認定することはできない。

したがって,その余の点に判断するまでもなく,本件発明が,引用例により新規性を欠くとはいえない。

ウ 前記第3の3(1)イの原告の主張について

(ア) 同イ(ア)の主張について

Richard・F・Wallin「Sevoflurane:A New Inhalational Anesthetic Agent」(1975年。甲A32)には,次の記載がある。

「セボフルランもある程度の化学的及び代謝的な不安定性を有している。水中では,当該化合物は僅かではあるが観測される程度の加水分解を起こす。」。

以上の記載によれば,本件特許の優先日以前においては,水がセボフルランを加水分解するという懸念があったことが認められる。また,証拠(乙B1,乙B2)によれば,容器を洗浄する方法としては,水で洗浄する方法以外にも,例えば,圧縮空気を吹き付けることによって洗浄する方法があること,実際に,被告アボットにおいて,圧縮空気を吹き付ける方法によりセボフルランの容器の洗浄を行っていたこと(乙B1),原告も,「容器について,空気または窒素ガスを強く吹き付けることによってクリーニングして」いたこと(乙B2,26頁)が認められる。

以上の事実を考慮すると,本件特許の優先日当時は,「セボフルランの容器を水で洗浄すること」には,むしろ阻害事由があると考えられていたと認められる。したがって,セボフルランの容器を水で洗浄することが公知,公用であるとも,公然実施されていたとも認めることができない。

また,証拠(甲2ないし5)によれば,被告アボットは,1996年12月4日ころから,アルゼンチン,コロンビア,アメリカにおいて,セボフルラン用容器を蒸留水で洗浄しており,日本においては,丸石製薬が水道水で洗浄していたこと,また,被告セントラル硝子は,本件特許の優先日以前に,セボフルランを輸送するための大型の容器である「タイコン」を,セボフルランを充填する前に,一定量の水分を含んだ高圧のセボフルランで洗浄していたことが認められる。

しかしながら,証拠(乙B3ないし5)によれば,被告セントラル硝子及び丸石製薬が,新薬承認許可申請のための共同研究を行うに当たって1985年1月に締結した「共同開発契約書」(乙B3)において,互いにセボフルラン製剤の技術情報について守秘義務を負っていたこと,被告アボットが,丸石製薬からセボフルラン製剤についての情報及びサンプル提供を受けるに当たって1991年5月に締結した「Letter Agreement」(乙B4)において,被告アボットは丸石製薬から提供された情報及びサンプルについて守秘義務を負っていたこと,さらに,被告アボット,被告セントラル硝子及び丸石製薬の3社は,1992年9月に「セボフルランに関する供給及びライセンス契約」を締結し,この契約の中でもセボフルラン製剤について互いに守秘義務を負っていたこと,丸石製薬は,GMP規定に基づき,工場内の製剤棟にあるセボフルラン製剤の小分け製造現場への立ち入りを製剤担当者等に限定し,外部の人間が立ち入ることができないようにしており,丸石製薬におけるセボフルランの小分け製造工程について,セボフルラン容器を水で洗浄することを含めて,不特定多数人に知られ得る状態にはなかったこと,以上が認められる。

以上の事実によれば,被告アボット,被告セントラル硝子及び丸石製薬の3社は,互いにセボフルラン製剤について契約上の守秘義務を有する関係にあり,セボフルラン製剤に関する情報が3社以外の外部に明らかにされることはなかったと認められるから,丸石製薬,被告セントラル硝子における洗浄工程は,公然知られていたとも,公然実施されていたとも認めることができない。

(イ) 同イ(イ)及び(ウ)の主張について

原告は,優先日以前の段階で,何らかの容器が製造されて以後,そのセボフルランが充填されるまでの間におよそ一度も水で洗浄されなかったということは到底考えられないし,ルイス酸が存在しなくても「予防的に」洗浄しさえすればよいのであるとか,セボフルランの容器について水洗浄が公知,公用であったことは被告ら自身も認める事項であるとも主張する。

しかし,上記の主張には何ら具体的根拠がなく,また,被告らが水洗浄が公知,公用であったことを認めた事実は存在せず,かえって,上記認定のとおり,本件発明の優先日前,水によるセボフルランの加水分解が当業者に知られていること,被告らの水洗浄の事実については守秘義務が課せられていたことを考慮すれば,この点に関する原告の主張に理由がないことは明らかである。

(ウ) 以上のとおり,その余の点について判断するまでもなく,引用例との対比において新規性があるとした審決の判断に誤りがあるとはいえず,この点に関する原告の主張は理由がない。

(2)  取消事由8(進歩性に関する判断の誤り)について

ア 前記第3の3(2)アの原告の主張について

上記(1)で判断したとおり,引用発明において使用される水は,二酸化炭素吸収剤として水酸化マグネシウムを使用する場合に,二酸化炭素吸収能力を賦与する目的で添加されるものであって,ルイス酸の抑制を目的として使用されているものではないばかりか,引用発明には,「容器の内壁を水で被覆する工程」が記載されているとは認められないから,ルイス酸抑制剤である水により容器内壁を被覆する技術が引用例により公知であるという原告の主張の前提自体が誤りである。

また,原告は,「セボフルランのルイス酸による分解」という技術的課題を解決するために,ルイス塩基によりルイス酸の反応を抑制するという技術常識に引用発明の水を他の「ルイス塩基」に置換することは極めて容易である旨主張する。しかしながら,上記技術的課題自体が本件発明以前には知られていなかった新規なものであったと認められる。すなわち,本件明細書の段落【0003】には,「特定のフルオロエーテルは,1種類もしくはそれ以上のルイス酸が存在すると,フッ化水素酸等の潜在的に毒性を有する化学物質を含む幾つかの産物に分解することが明らかになった。」と記載されており,これは,本件特許の発明者らによってはじめて,上記技術的課題が発見されたことを意味しているものと解されるところ,前記認定のとおり,本件特許の優先日以前には「セボフルランのルイス酸による分解」という技術課題は公知でなかったのであるから,仮に,原告が主張するように,ルイス酸の反応を抑制するためにルイス塩基を使用することが技術常識であったとしても,上記技術的課題を知らなかった当業者が本件発明を容易に想到し得ると認めることはできない。

イ 前記第3の3(2)イの主張について

上記したとおり,「セボフルランのルイス酸による分解」という本件発明の技術課題自体が新規であって,「ルイス酸とルイス塩基が反応してルイス酸によるフルオロエーテル化合物の分解を抑制する」のは技術的な常識であるとする原告の前提は誤りであるから,その余の点について判断するまでもなく,この点に関する原告の主張は失当である。

ウ 前記第3の3(2)ウの主張について

前記2(1)で判断したとおり,本件明細書の記載から,「ルイス酸」,「ルイス酸抑制剤」を当業者は理解することができず,また,本件明細書に,「ルイス酸抑制剤を被覆する」という構成要件について記載されていたとはいえないから,この点に関する原告の主張は,その前提を欠いており,採用できない。

(3)  以上のとおり,第2審判請求事件に関する原告の主張はいずれも理由がない。

4  結論

以上によれば,第1審判請求事件及び第3審判請求事件に関する審決には取消事由が存するので,同各審決を取り消すこととし,第2審判請求事件に関する審決取消事由はいずれも理由がないので,これに関する原告の請求を棄却することとする。

(裁判長裁判官 塚原朋一 裁判官 東海林保 裁判官 矢口俊哉)

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