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知財高等裁判所 平成20年(行ケ)10483号 判決 2009年11月11日

原告

保土谷化学工業株式会社

同訴訟代理人弁護士

増井和夫

橋口尚幸

同訴訟復代理人弁護士

齋藤誠二郎

被告

特許庁長官

同指定代理人

坂崎恵美子

唐木以知良

中田とし子

小林和男

主文

1  特許庁が不服2007-11283号事件について平成20年10月15日にした審決を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

主文同旨。

第2事案の概要

本件は,原告が名称を「ヘキサアミン化合物」とする発明につき特許出願をしたところ,特許庁から拒絶査定を受けたので,これを不服として審判請求をしたが,同庁が請求不成立の審決をしたことから,その取消しを求めた事案である。

争点は,上記本願発明が,優先権主張(優先日 1994年6月3日)を伴う特願平7-43564号の願書に最初に添付した明細書又は図面(以下「先願明細書等」という。特開平8-48656号公報(甲2)参照。)に記載された発明(以下「先願発明」という。)と同一であり,特許法29条の2の規定により特許を受けることができないかである。

1  特許庁における手続の経緯

原告は,平成6年6月15日に本願発明につき出願し(特願平6-155470号。甲1),その後,平成13年6月12日及び平成17年1月6日に補正をしたが,特許庁は,平成19年2月21日付けで拒絶査定をした。

原告は,同年4月19日に上記拒絶査定に対する不服審判請求をし,同年5月17日に補正をした(以下「本件補正」という。)。

特許庁は,上記審判請求を不服2007-11283号事件として審理し,平成20年10月15日,本件補正を却下の上,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は,同年11月25日,原告に送達された。

2  本願発明の内容

本願発明は,平成17年1月6日付けの手続補正により補正された明細書(以下「本願明細書」という。)の【特許請求の範囲】【請求項1】ないし【請求項3】に記載された次のとおりのものである(以下,それぞれ「本願発明1」,「本願発明2」,「本願発明3」といい,併せて「本願発明」という。)。

なお,本件補正は,下記一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物の「A」の部分から【化4】のビフェニル構造の場合を削除することを主旨とするものであった(以下,本件補正後の特許請求の範囲の請求項1の発明を「本願補正発明」という。)が,前述のとおり,審決において却下された。

(1)  【請求項1】

下記一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物

file_2.jpgee, wee ‘ag “ay “ARE (L)〔式中,R1,R2は同一でも異なっていても良く,水素原子,低級アルキル基,低級アルコキシ基または置換もしくは無置換のアリール基を表し,R3は水素原子,メチル基,メトキシ基または塩素原子を表し,Aは下記式で表される2価基を表す。但し,R1,R2及びR3が同時に水素原子であり,かつAが無置換のビフェニレン基(R4は水素原子を表す。)である場合を除く。〕

file_3.jpg(AP, R4IGKHRF, AFI, APA VMELMERRTERT.) (1e5] <r (1e6) Oyen Or e7] OO S (9) OES Clg) (410)(2)  【請求項2】及び【請求項3】 省略

3  審決の認定判断

審決は,以下の(1)ないし(3)のとおり,先願発明と本願発明1は同一であり,しかも本願発明1の発明者が先願明細書等に記載された発明の発明者と同一であるとも,本願の出願時においてその出願人が先願の出願人と同一であるとも認められないので,本願発明1は特許法29条の2の規定により特許を受けることができないとした。審決は,上記判断に先立ち,本件補正につき,特許請求の範囲の減縮を目的とするものであるとしつつ,後記(4)のとおり,本願補正発明は,発明の詳細な説明に,当業者がその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果が記載されておらず,また,本願発明は,発明の詳細な説明に記載したものでもなく,出願の際独立して特許を受けることができるものではないとして,この補正は平成18年改正前特許法第17条の2第5項において準用する特許法第126条第5項の規定に違反するから,特許法第159条第1項の規定において読み替えて準用する同法第53条第1項の規定により却下すべきとして,本件補正を却下した。

(1)  先願明細書等に記載された事項

ア 「下記化5で表される請求項1ないし4のいずれかの有機EL素子用化合物。

file_4.jpg(5) Prades (Baadna Ride he (Re)es (Rida[化5において,R7,R8,R9およびR10は,それぞれアルキル基,アルコキシ基,アリール基,アリールオキシ基,アミノ基またはハロゲン原子を表し,これらは同一でも異なるものであってもよい。r7,r8,r9およびr10は,それぞれ0または1~4の整数である。R7,R8,R9およびR14は,それぞれアルキル基,アルコキシ基,アリール基,アリールオキシ基,アミノ基またはハロゲン原子を表し,これらは同一でも異なるものであってもよい。r11,r12,r13およびr14はそれぞれ0または1~5の整数である。R5およびR6は,それぞれアルキル基,アルコキシ基,アミノ基またはハロゲン原子を表し,これらは同一でも異なるものであってもよい。r5およびr6は,それぞれ0または1~4の整数である。]」(【請求項9】)

file_5.jpgMe3 7)(【0104】)

ウ 【0105】 省略(判決注:後記第5.1(2)参照)

エ 「本発明の化合物は,融点やガラス転移温度が高く,その蒸着等により成膜される薄膜は,透明で室温以上でも安定なアモルファス状態を形成し,平滑で良好な膜質を示す。従ってバインダー樹脂を用いることなく,それ自体で薄膜化することができる。

また本発明の有機EL素子は,上記化合物を含む有機EL素子用化合物を有機化合物層,特に好ましくは正孔注入輸送層に用いるため,ムラのない均一な面発光が可能であり,高輝度が長期間に渡って安定して得られ,耐久性・信頼性に優れる。」(【0346】~【0347】)

(2)  先願明細書等に記載された発明

「先願明細書等には,【化5】で表される有機EL素子用化合物が記載されており(摘記a),また,【化37】で表される化合物において(摘記b),R57,R66,R75,R84がN(Ph)2であり,R37~R44,R51~R56,R58~R65,R67~R74,R76~R83,R85~R86がHである化合物(摘記c,化合物No.II-10)が記載されている。

また,先願明細書等には,【化5】で表される化合物が融点やガラス転移温度が高く,その蒸着等により成膜される薄膜は,透明で室温以上でも安定なアモルファス状態を形成し,高輝度が長時間に渡って安定して得られ,耐久性・信頼性に優れることが記載されている(摘記d)ことから,【化37】で表される化合物において,R57,R66,R75,R84がN(Ph)2であり,R37~R44,R51~R56,R58~R65,R67~R74,R76~R83,R85~R86がHである化合物は,融点やガラス転移温度が高く,その蒸着等により成膜される薄膜は,透明で室温以上でも安定なアモルファス状態を形成し,高輝度が長期間に渡って安定して得られ,耐久性・信頼性に優れると認められる。

そして,化合物に関する発明について,特許法第29条の2にいう「願書に最初に添付した明細書・・・に記載された発明」というためには,先願明細書等に例示されている化合物のみが「願書に最初に添付した明細書・・・に記載された発明」であると限定的に解釈するのは適当ではなく,少なくとも,先願明細書等に例示されている化合物の置換基の一部が,当該発明の機能に及ぼす影響が少ないようにごく僅かだけ改変された化合物についても,記載されているに等しいとして,特許法第29条の2にいう「願書に最初に添付した明細書・・・に記載された発明」であると認めるのが相当である。

以上の点を勘案すれば,先願明細書等には,先願明細書に例示されている化合物であって,融点やガラス転移温度が高く,その蒸着等により成膜される薄膜は,透明で室温以上でも安定なアモルファス状態を形成し,高輝度が長時間に渡って安定して得られ,耐久性・信頼性に優れると認められる,【化37】で表される化合物において,R57,R66,R75,R84がN(Ph)2であり,R37~R44,R51~R56,R58~R65,R67~R74,R76~R83,R85~R86がHである化合物の置換基の一部が,上記機能に及ぼす影響が少ないようにごく僅かだけ改変された化合物であると認められる化合物,例えば,【化37】で表される化合物において,R57,R66,R75,R84が

file_6.jpgom(判決注:以下「N(Ph)(Ph-CH3)」という。)であり,R37~R44,R51~R56,R58~R65,R67~R74,R76~R83,R85~R86がHである化合物は,融点やガラス転移温度が高く,その蒸着等により成膜される薄膜は,透明で室温以上でも安定なアモルファス状態を形成し,高輝度が長期間に渡って安定して得られ,耐久性・信頼性に優れるものとして,少なくとも記載されていると認めるのが相当である。

よって,先願明細書等には,【化37】で表される化合物において,R57,R66,R75,R84がN(Ph)(Ph-CH3)であり,R37~R44,R51~R56,R58~R65,R67~R74,R76~R83,R85~R86がHである化合物の発明(先願発明)が記載されていると認められる。」

(3)  対比・判断

「本願発明1と先願発明とを対比すると,先願発明の「【化37】で表される化合物において,R57,R66,R75,R84がN(Ph)(Ph-CH3)であり,R37~R44,R51~R56,R58~R65,R67~R74,R76~R83,R85~R86がHである化合物」は,本願発明1の「下記一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物【化1】(判決注:化学式は省略)〔式中R1,R2は,一方が水素原子で,もう一方がメチル基を表し,R3は水素原子を表し,Aは無置換のビフェニレン基〕に相当するから,本願発明1は先願発明と同一である。」

(4)  補正について

ア 平成6年改正前特許法第36条第4項について

「本願補正発明は,「一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物」に係る発明である。

ここで,発明の詳細な説明には,具体的に製造した化合物として,「N,N,N’,N’-テトラキス(4’-ジフェニルアミノ-4-ビフェニリル)ベンジジン」,「N,N,N’,N’-テトラキス(4’-ジフェニルアミノ-4-ビフェニリル)-o-トリジン」及び「N,N,N’,N’-テトラキス(3,3’-ジメチル-4’-ジフェニルアミノ-4-ビフェニリル)-o-トリジン」が記載されているのみであり(本件補正後の明細書【0060】~【0066】),「N,N,N’,N’-テトラキス(4’-ジフェニルアミノ-4-ビフェニリル)ベンジジン」についてのみ,電荷輸送体としてEL素子を作製し,発光特性,発光の寿命,保存安定性について確認した旨の記載がされている(同【0068】~【0070】)。

しかし,上記化合物は,いずれも「一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物」における「A」が「

file_7.jpg(式中,R4は水素原子,メチル基,メトキシ基または塩素原子を表す。)」である化合物に相当し,本件補正により削除されているため,本願補正発明には包含されないものである。

してみると,発明の詳細な説明には,本願補正発明の化合物について,具体的に製造した旨の記載はなく,発光特性,発光の寿命,保存安定性について確認した旨の記載もないことになる。

そして,本願補正発明のヘキサアミン化合物において,「6個のNを結ぶ,Aを包含する骨格」は,該ヘキサアミン化合物がその機能を発揮するうえで,基本的かつ重要な構造的特徴と認められるから,「一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物」における「A」が「

file_8.jpg(式中,R4は水素原子,メチル基,メトキシ基または塩素原子を表す。)」である化合物について,具体的に製造し,機能が確認されているとしても,Aが異なるものである本願補正発明の化合物が,それと同等の機能を有するとは認められない。

したがって,発明の詳細な説明に,当業者がその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果が記載されていない。

よって,発明の詳細な説明の記載は,平成6年改正前特許法第36条第4項に規定する要件を満たすものではない。」

イ 平成6年改正前特許法第36条第5項第1号について

「本願補正発明は,「一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物」に係る発明である。

しかし,上記「ア」で示したように,発明の詳細な説明には,本願補正発明の化合物について,具体的に製造した旨の記載はなく,発光特性,発光の寿命,保存安定性について確認した旨の記載もないことになる。

そして,本願補正発明のヘキサアミン化合物において,「6個のNを結ぶ,Aを包含する骨格」は,該ヘキサアミン化合物がその機能を発揮するうえで,基本的かつ重要な構造的特徴と認められるから,【「一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物」における「A」が「

file_9.jpg(式中,R4は水素原子,メチル基,メトキシ基または塩素原子を表す。)」である化合物について,具体的に製造し,機能が確認されているとしても,Aが異なるものである本願補正発明の化合物が,それと同等の機能を有するとは認められない。

したがって,本願補正発明は,発明の詳細な説明に記載したものでない。

よって,特許請求の範囲の記載は,平成6年改正前特許法第36条第5項第1号の規定に適合するものではない。」

ウ 請求人(原告)の主張について

「請求人は,平成20年5月22日付け回答書において,本願出願後に公開された公開公報を示した上で,『トリフェニルアミンユニットを複数有することによって,電気的,熱的に安定で,高い発光特性が得られることを示すものであり,一般式(1)中の中心部分であるAで表される2価基については,どの2価基を使用しても応用例1に記載されている特性と同様の有用な特性が得られるものと思料致します。本願発明者らは本願明細書中に記載しているように,非晶質すなわちガラス状態を容易に形成し,かつ安定に保持する有機EL素子用化合物について熟考した結果,分子内で,少なくともその末端部位に,トリフェニルアミンユニットが共役したサブユニットをつくることによって,薄膜状態の安定化に寄与するという技術に到達したものです。』と主張している。

しかしながら,回答書において示された公開公報は,いずれも本願出願後に公開されたものであるから,その内容が本願出願時に技術常識であったとすることはできないうえに,同特開平7-126226号公報には,ある化合物を構成する2価基として,様々な2価基が例示されているものの,具体的に製造し,効果を確認しているのは,2価基がビフェニレンである化合物のみであり,2価基がビフェニレン以外の2価基である化合物が,2価基がビフェニレンである化合物と同等の機能を有することを確認するに足る記載はなされていない。そして,その他の公開公報には,トリフェニルアミンユニットを複数有する化合物が,ある程度の電気的,熱的に安定性及び発光特性を有することが示されているものの,本願補正発明における2価基については何ら記載されていない。

よって,請求人の主張を採用することはできない。」

第3原告主張の要旨

審決は,次のとおり,先願発明の認定を誤るとともに,補正の許否の判断をも誤ったものであり,取消しを免れない。

1  取消事由1(先願明細書等に記載された発明の認定の誤り)

(1)  総論

公知技術に基づく拒絶においては,進歩性の有無が本質をなすから,公知技術の記載が必ずしも完成した発明(実施可能な発明)でなくとも,他の公知技術の組合せにおいて参照することが許容される。これに対し,先願による拒絶は,同一発明が既に先願として存在することが理由であるから,先願には完成した発明(実施可能な発明)として後願の発明が記載されていることが必要である。

多くの裁判例からみても,先願により後願を排除するためには,先願発明が製造可能であると同時に,有用性の確認を伴って,先願に記載されていることが必要とされている。製造可能性,有用性の確認は,抽象的な記載では足りず,実施例が存在するか,実施例に基づいて当業者が認識可能であることを要するのである。換言すれば,完成された化学物質発明であるためには,実施例と構造の十分な類似性があり,同様の結果が得られると判断される根拠が必要である。

また,特許法29条の2の適用に関する特許庁の審査基準(甲13)からしても,少なくとも技術常識を参酌しても製造できることが明らかであるように記載されていない化合物は,先願発明に該当しないというべきで,単なる化学式の記載では発明の開示にならないことは審査基準において明確にされている。なお,審査基準は,製造可能性のみに言及しているが,発明であるためには有用性の確認も必要であることは,多数の裁判例からしても明らかである。

(2)  化合物No.II-10及び「先願発明」は,先願の実施例と大きく異なる上,製造方法も記載されていないこと

ア 先願において,実施例として製造法及び有用性(作用効果)の確認がされている化合物は,5個(実施例1ないし5)であり,実施例6ないし30は,化合物を有機EL素子に使用した場合の性質の測定などが記載されているが,先願明細書等に記載された化合物としては,上記以外の開示はない。

もっとも,厳密には,実施例4,5に記載された化合物については,製造データと特性に関する部分的なデータの記載はある(ただし,Ipの測定には,有機EL素子を製造して測定する必要はない。)ものの,EL素子に使用した場合の具体的なデータは記載されていない上,実施例4の化合物は,製造方法の記載に不備があり,先願の実施例の化合物中,EL素子に使用された場合の各種特性が具体的に開示されているのは,実施例1ないし3の3個の化合物のみである。

そして,実施例1ないし3の化合物には,アミノ基は全く含まれておらず,実施例4及び5の化合物については,アミノ基が2個しか存在しない。

イ 以上の実施例の化合物と本願発明の構造(N-A-Nがベンジジン骨格を有する場合)を比較すれば,本願発明の構造はベンジジン構造に4個の4-ビフェニリル基が結合し,さらに4-ビフェニリル基の末端にジアリールアミノ基が結合している。これに対し,実施例において,ベンジジン構造に4個の4-ビフェニリル基が結合しているのは実施例2だけであるが,実施例2の化合物は,4-ビフェニリル基に置換基が全く存在しない。4個のジアリールアミノ基が存在するか否かは,実施例2の化合物の結晶性や有機EL素子材料としての電子的性質にとって大きな影響があると考えられる。

また,実施例4,5の化合物は,ジアリールアミノ基が含まれているものの,ベンジジンに結合している4個の置換基のうち,2個が単なるフェニル基である点で,本願発明の構造とは大きな相違がある。

ウ 先願には,一般式の一つとして化37が記載され,化37に該当する構造の例がII-1からII-44として44個記載されているが,これらのうち実施例により製造され有用性が確認されているのは,化合物No.II-1のみである。

そして化合物No.II-1とNo.II-10とでは,4個のジフェニルアミノ基の有無という大きな構造上の相違がある上,先願明細書等上,化合物No.II-10に関する具体的開示は何もなく,単に表に置換基の記載がされているだけで,当該構造の化合物は製造されておらず,製造方法の記載もなく,化合物No.II-1にさらに4個のジフェニルアミノ基が結合したにもかかわらず,その性質が化合物No.II-1と同等であると判断し得るかを当業者が理解可能にする記載も存在しない。以上からすれば,化合物No.II-1が製造されたからといって,はるかに複雑な構造の化合物No.II-10が製造できることが明らかとは到底いえない。

エ 「先願発明」化合物は,審決が引用する化5の式又は被告の引用する化16の無限定な式には包含されるが,このような単なる包含関係は,それだけでは化合物の開示を意味しない。先願明細書等に化学構造すら開示されていない化合物は,完成された発明として開示されたとは認められないのが原則である。

そして,化合物No.II-1と「先願発明」とを比較すれば,「先願発明」は4個のアミノ基が増加し,当該アミノ基は,それぞれ2個のアリール基を有するから,合計で少なくとも8個のベンゼン環が増加する。化合物No.II-1は,10個のベンゼン環と2個の窒素原子から形成されているにすぎないから,「先願発明」では,ベンゼン環の数は1.8倍に,窒素原子の数は3倍に増加しているのであり,構造上の相違は非常に大きく,化合物No.II-1の製造例があるからといって,「先願発明」が製造できることは明らかではないし,「先願発明」が化合物No.II-1と同等のアモルファス状態を形成し,有機EL素子用化合物として高輝度を長時間に渡って安定して与えるなどの作用効果を有すると認めるに足りる根拠も存在しない。

オ なお,被告が引用する乙6,7は,単なるウルマン反応の適用例であるが,製造されている化合物は,本願発明の化合物よりはるかに小さな化合物であり,先願明細書等や技術常識から認められるのは,あくまで抽象的な(製造)可能性にすぎない。乙12,13も,ウルマン反応に関する別分野での1実施例にすぎず,分子量が化合物No.II-10よりも小さく,一般的・抽象的な製造可能性を示すにすぎない。

たいていの有機化合物につき,その構造にたどり着く可能性のある反応式を示すことはできるが,具体的な化合物(特に大型の化合物)については,生成物の同定や,副生物との単離が困難である等の問題を生じやすく,単に反応式が記載できるというだけで製造されたに等しいとはいい難い。

(3)  被告の主張に対する反論

乙1,2には,単にトリ置換されたアミン又はアリールアミンが正孔輸送化合物に適しているとの抽象的な記載があるのみで,先願又は本願の具体的開示とは関連性に乏しい。本件においては,新規性が問題となっているから,本願発明が先願明細書等に記載されているに等しいことが裏付けられる必要がある。

また,本願出願後の文献ではあるが,甲16,甲17,甲18の1,2等からすれば,トリフェニルアミン構造の数が多いほど,又はπ共役系が長いほど,正孔輸送材料としての能力が優れているとはいえない。公知技術に対し,新規で有用な電荷輸送材料を得るためには,実験による確認が不可欠であるところ,先願明細書等の【0058】の記載は抽象的であり,その裏付けは,比較例1と実施例1ないし3の比較だけであって,推測にすぎない。

このほか,被告が主張する同族列の関係については,化学的性質に関する一般論にすぎず,電荷輸送材料としての性質である電子分布やエネルギー水準などの性質については,メチル基の有無が大きく影響する(甲15参照)。いずれにしろ,実施例の化合物と,化合物No.II-10ないし「先願発明」化合物との間に同族列の関係はない。

(4)  以上のとおり,化合物No.II-10が先願明細書等に開示されているとの認定を前提として,「先願発明」が先願明細書等に記載されているとした認定は誤りであり,この誤りが審決の結論に影響することは明らかである。

2  取消事由2(本願補正発明に関する実施可能要件,記載要件の認定の誤り)

(1)  「A」の部分による影響が小さいのは明らかであること

審決が本件補正を却下した理由は,本願補正発明が独立特許要件を欠くとの点にあり,その根拠は,本願明細書の記載が実施可能要件と記載要件を充足しないとの点にある。

審決は,本願補正発明のヘキサアミン化合物において,「6個のNを結ぶ,Aを包含する骨格」は,当該ヘキサアミン化合物がその機能を発揮する上で,基本的かつ重要な特徴と認められるから,「A」が化4である化合物について,具体的に製造し,機能が確認されているとしても,「A」が異なる本願補正発明の化合物が,それと同等の機能を有するものとは認められないとして,実施可能要件,記載要件の不備を認定した。

しかし,審決は,「A」が化4である場合と,他の構造である場合とで,同等であるとは認められないとする具体的根拠を何も示していない。

本願請求項1の一般式(1)の化合物は,それぞれ少なくとも4個のベンゼン環と1つのアミノ結合を含む構造(ジアリールアミノビフェニリル基)を,N-A-Nの構造を介して,4個結合したものであり,A以外の構造が少なくとも16個のベンゼン環と6個のアミノ結合を有するのに対し,A部分は,ベンゼン環が1ないし4個の簡単な構造を有するものである。

したがって,一般式(1)の化合物の性質は,周辺の少なくとも「16個のベンゼン環と6個のアミノ結合」の部分にあり,それに対して,Aの部分による影響が小さいと解されることは,式の構造から容易に理解できるところである。

本願明細書に記載された発明の効果のうち,「電荷輸送材料となる性質」は,一般に2個以上のベンゼン環が連結した構造や窒素原子に複数のベンゼン環が結合した構造が存在することにより与えられるので,A部分の構造が寄与することもあるが,主として,周辺の「16個のベンゼン環と6個のアミノ結合」によりもたらされる。また,「容易にガラス状態を形成しかつ安定にガラス状態を保持」する性質についても,一般式(1)の構造の大部分を占める「16個のベンゼン環と6個のアミノ結合部分」により規定されると容易に理解される。

(2)  本願における実施例と請求項記載の化合物の違いは,先願における実施例と「先願発明」の化合物の違いよりも小さいこと

本願発明が,明細書の全体において記載されているか否かが問題であるところ,本願明細書において,実際に製造され,作用効果が確認された化合物と,請求項に含まれる化合物の相違の度合いは,先願明細書等の実施例と「先願発明」(又は本願発明)との相違の度合いよりもはるかに小さいのである。

また,本願出願当時,有機EL素子用の電荷輸送物質であって,N-A-N構造に4個の周辺構造を結合させる場合,Aの部分がベンゼン環1個の構造であっても,2個の構造であっても,あるいは2個のベンゼン環を他の基で連結した構造であってもよいことが公知であった(甲11,12参照)。

被告が,>N-A-N<構造においてAの部分による影響が大きいことの根拠として挙げる乙8,9,6に記載された化合物は,Nに結合している置換基がフェニル基やアルキル置換フェニル基という,芳香族として最小の置換基であるから,Aの部分の影響が大きくなるのは当然である。

なお,甲16,19には,本願補正発明のAの部分がビフェニレン以外の構造のもの(本願補正発明に記載された構造のもの)が正孔輸送材料として記載されている。

(3)  特許法36条,29条の2,29条1項3号の各適用において,発明としての記載の有無についての基準は原則として同一レベルと解すべきである。いずれにしても,審決における,先願明細書等の解釈と本願明細書の解釈は,相矛盾するものであって,少なくともいずれかが誤りであり,審決は取消しを免れない。

第4被告の反論

1  取消事由1に対して

(1)  総論

化合物に関する発明について,先願明細書等に例示されている化合物のみが特許法29条の2にいう「願書に最初に添付した明細書及び図面に記載された発明(以下「願書に最初に添付した明細書等に記載された発明」という。)」であると限定的に解釈するのは適当ではなく,少なくとも,先願明細書等に例示されている化合物の置換基の一部が,当該発明の機能に及ぼす影響が少ないようにごくわずかだけ改変された化合物についても,記載されているに等しいとして,特許法29条の2にいう「願書に最初に添付した明細書等に記載された発明」であると認めるのが相当である。

なぜなら,先願明細書等に例示されている化合物のみ,実施例に特に記載されている化合物のみが,「願書に最初に添付した明細書等に記載された発明」であると限定的に解釈するのは,極端な実施例偏重の考え方で,不適切であるからである。

仮に,そのような考え方が認められるのであれば,化合物発明については,クレームに包含される膨大な化合物すべてについて実施例をすべて示さないと,クレームに記載された発明は「願書に最初に添付した明細書等に記載された発明」であると認められないことになり,そのようなことは現実的に不可能であり,また,化合物発明においては,実施例に記載されている化合物についてしか特許法による保護を受けられないことになり,その結果,先願発明の実施例に記載されていないクレームに記載された発明に包含される同効の化合物を,第三者が先願発明の教示に基づいて選定して実施することを許し,ひいては,発明の保護及び利用を図る特許法の趣旨に反する結果となるからである。

そして,実施例に記載されている以外の化合物であっても,実施例に記載されている化合物と構造的に類似する化合物の場合には,当業者が容易に作ることができ,その有用性も推認できる場合が少なくない。特に,有機EL素子用化合物のような,単に化合物の物理化学的性質を利用する技術分野の化合物については,医薬,農薬,バイオ関連技術のような特殊な技術分野の場合と異なり,当業者が容易に作ることができる上,その有用性も推認できる可能性が高い。

(2)  構造上の類似等から,化合物No.II-10及び「先願発明」の化合物の有用性及び製造可能性が認められること

ア 先願明細書等には,有機EL素子用化合物として,実施例1ないし5の化合物が製造例をもって記載されており,また実施例6ないし30においては,実施例1ないし5の化合物の有用性が確認されている(なお,実施例4及び5の化合物についても,EL素子としての有用性は確認されている。)ところ,実施例1ないし5の化合物と,化合物No.II-10及び先願発明の化合物とは,明らかに構造的に類似している(審決において「先願発明」とした化合物が,先願明細書等の特許請求の範囲における請求項1,9に記載された発明に包含されることは明らかであり,また,「先願発明」の化合物は,先願明細書等に例示されている化合物No.II-10の化合物の置換基の一部が,当該発明の機能に及ぼす影響が少ないようにごくわずかだけ改変された化合物であることも当業者にとって明らかである。)。

したがって,原告が,特許法29条の2の規定の適用につき,特段の障害事由(「先願明細書等の記載からは化合物No.II-10及び「先願発明」の化合物が記載されているとはいえないこと」を明らかにする具体的な事実)を明らかにしない限り,当然に,化合物No.II-10及び「先願発明」の化合物の製造可能性と有用性も推認されるというべきである。

そして,原告は,同条の規定の適用につき,特段の障害事由の存在を明らかにしていないから,本願発明は特許法29条の2の規定により特許を受けることができないものである。

イ なお,原告が指摘する裁判例のいずれにおいても,「実施例と構造の十分な類似性」については触れられていない。

また,「先願発明」の化合物は,化合物No.II-10と同様に,先願明細書等に実験データを伴って具体的に記載されていなくとも,その製造方法及び有用性は先願明細書等に記載されているに等しいということができるので,特許庁の審査基準(甲13)の「『他の出願の当初明細書等に記載されているに等しい事項』(他の出願の出願時における技術常識を参酌することにより当業者が他の出願の当初明細書等に記載されている事項から導き出せる事項)から当業者が把握できる発明」に該当するから,審決は特許庁審査基準と矛盾しない。

そして,同審査基準は,先願の出願時における技術常識を具体的に引用することを義務付けるものではなく,技術常識であることの根拠は,訴訟の段階で争われるに至ったとき,必要に応じて提出すれば足りるものである。

(3)  化合物No.II-10が先願明細書等に記載されているといえること

ア 乙1,2(いずれも公開特許公報。化合物No.II-10及び「先願発明」の化合物の有用性が明らかであることの根拠資料であり,業界の最高権威者によって記述され,信頼性も高い文献である。)からすれば,「正孔注入輸送を司る本質的部位が分子中のN-フェニル基であること」が技術常識であることが明らかであり,同技術常識及び先願明細書等の【0058】【0059】【0075】の記載からすれば,以下の(ア)ないし(ウ)の事実が認められる。

(ア) 【化16】で表されるテトラアリールジアミン誘導体は,分子中にN-フェニル基等の正孔注入輸送単位を多く含み,R1ないしR4にフェニル基を導入してビフェニル基にすることでπ共役系が広がり,キャリア移動に有利になり,正孔注入輸送能にも非常に優れるため,【化16】で表されるテトラアリールジアミン誘導体を有機EL素子用化合物として有機化合物層に,特に好ましくは,正孔注入輸送層に用いることにより,ムラのない均一な面発光が可能であり,高輝度が長時間に渡って安定して得られる。

(イ) 【化16】で表されるテトラアリールジアミン誘導体における置換基R1ないしR4としては,アリール基とベンゼン環が一緒になってN原子に対し4-又は3-ビフェニリル基を形成することが好ましく,特に2ないし4個が4-又は3-ビフェニリル基であることが好ましい。

(ウ) 【化16】で表されるテトラアリールジアミン誘導体において,正孔注入輸送を司る本質的な部位は,分子中のN-フェニル基である。

イ(ア) 先願明細書等には,【化16】の化合物の具体例として,一般式として化37が,具体的な組合せの例として化38が示されているところ,化38の組合せには,争点となっている化合物No.II-10が含まれており,これは,アリール基とベンゼン環が一緒になってN原子に対し4-ビフェニリル基を形成するとともに,4個が4-ビフェニリル基である化合物であるので,前記ア(イ)で好ましいとされる化合物に該当する。

(イ) 【化16】で表されるテトラアリールジアミン誘導体に含まれる化合物No.II-1(実施例2の化合物)は,置換基として4個のジフェニルアミノ基が存在しない点で化合物No.II-10と相違するところ,前記ア(ウ)のとおり,正孔注入輸送を司る本質的な部位は分子中のN-フェニル基であり,前記ア(ア)のとおり,フェニル基を導入してビフェニル基にすることでπ共役系が広がり,キャリア移動に有利になり,正孔注入輸送能にも非常に優れることになるため,置換基として4個のジフェニルアミノ基が存在しない実施例2の化合物においてさえ先願の「願書に最初に添付した明細書等に記載された発明」の有用性を有する以上,置換基として4個のジフェニルアミノ基をさらに含み,しかも,π共役系がN-フェニル基で合計8個分広がり,キャリア移動に有利になっている化合物No.II-10は,先願の「願書に最初に添付した明細書等に記載された発明」と同等以上の有用性を有するものと予想される。

(ウ) フェニル基に置換されているメチル基の有無は構造上の微差であって実質的な相違点ではないことを考慮すると,【化16】で表されるテトラアリールジアミン誘導体に含まれる化合物No.X-10は,2個の「-ビフェニレン-N(フェニル)2」基と2個のフェニル基がベンジジン骨格に結合しているのに対し,化合物No.II-10は4個の「-ビフェニレン-N(フェニル)2」基がベンジジン骨格に結合している点で相違しているところ,前記ア(ウ)のとおり,正孔注入輸送を司る本質的な部位は分子中のN-フェニル基であるし,前記ア(ア)のとおり,フェニル基を導入してビフェニル基にすることでπ共役系が広がり,キャリア移動に有利になり,正孔注入輸送能にも非常に優れることになるから,N-フェニル基を含む「-ビフェニレン-N(フェニル)2」基を2個しか含まない実施例4の化合物No.X-10でさえ先願の「願書に最初に添付した明細書等に記載された発明」の有用性を有する以上,N-フェニル基を含む「-ビフェニレン-N(フェニル)2」基を4個も含み,しかも,π共役系が「-ビフェニレン-N(フェニル)2」基として2個分余分に広がり,明らかにキャリア移動に有利になっている,4個の「-ビフェニレン-N(フェニル)2」基がベンジジン骨格に結合している化合物No.II-10は,先願の「願書に最初に添付した明細書等に記載された発明」と同等以上の有用性を有すると解される。

(エ) 上記(ア)ないし(ウ)の理由により,化合物No.II-10については,先願明細書等に有用性の裏付けが記載されているに等しいということができる。

ウ 製造可能性について

先願明細書等には,【化5】で表される有機EL素子用化合物が記載されており(摘記a),その具体的な化合物として【0104】の【化37】の一般式(摘記b)及び当該化合物の可変部位が【0105】ないし【0108】の表に示されている(摘記c及び【0106】ないし【0108】)。この表に示されている化合物の中には,化合物No.II-10が包含されており,先願明細書等に化合物No.II-10を具体的に製造した旨の記載はないものの,化合物No.II-10と同様の骨格を有する化合物No.II-1を具体的に製造した旨の記載がされており(【0270】ないし【0273】),その製造方法は,以下のようなウルマン反応によるものである。

file_10.jpgさらに,【0170】には,先願明細書等に記載された化合物が,ジ(ビフェニル)アミン化合物とジヨードビフェニル化合物,あるいはN,N’-ジフェニルベンジン化合物とヨードビフェニル化合物などの組合せで,銅の存在下で加熱すること(ウルマン反応)によって得られることが記載されており,前述した化合物No.II-1以外にも,先願明細書等に記載された化合物No.I-1,VII-1,X-10,X-3がそれぞれウルマン反応によって得られたことが記載されている。

また,先願の出願当時,トリアリールアミンの構造を有する正孔輸送物質を製造する際にウルマン反応を用いることは周知慣用であった(乙6,7参照)。

してみると,先願に記載された化合物No.II-1及び化合物No.II-10とは,【化37】におけるR57及びR66が相違するだけであるから,化合物No.II-1の原料である

file_11.jpgoo”に代えて,原料として

file_12.jpga0? a0 } }を用いれば化合物No.II-10を製造し得ることは明らかである(なお,乙12ないし14からすれば,化合物No.II-10の原料物質(芳香族第2級アミン)についても,公知物質であった芳香族第1級アミンと,芳香族第1級アミンをジアゾ化ザンドマイヤー反応等によりハロゲン化して得られるハロゲン化合物をウルマン反応させることにより得られることは明らかであった。)。

なお,先願明細書等において,実施例4の化合物No.X-10の製造方法につき誤記があるが,この点は,結論に影響を与えるものではない。

エ 性質が同等であること

先願明細書等には,【化5】で表される化合物の他に,【化1】で表されるテトラアリールジアミン誘導体である有機EL素子用化合物が記載されており,そのうち,化合物No.I-1,No.II-1,No.VII-1,No.X-10,No.X-3を製造し,これらの化合物の融点やガラス転移点及びこれらを用いた有機EL素子の耐久性等を確認した旨の記載がある。

また,先願明細書等には,上記各化合物の性質あるいは機能が,比較例の化合物①(N,N’-ジフェニル-N,N’-ジ(3-メチルフェニル)-4,4’-ジアミノ-1,1’-ビフェニル)の性質あるいは機能に比してはるかに優れていること,すなわち,上記各化合物が,高い融点あるいはガラス転移点,高い安定性及び長い輝度半減時間を有していることが記載されている。

そして,上記各化合物は,「N,N’-ジフェニル-N,N’-ジ(3-又は4-ビフェニリル)ベンジジン」を共通の構造として有しており,前述のとおり,比較例の化合物①に比してはるかに優れた効果を有するものであるから,この優れた効果は,「N,N’-ジフェニル-N,N’-ジ(3-又は4-ビフェニリル)ベンジジン」によるものである。そうすると,当該共通の構造を有する化合物であるNo.II-10も,同様の優れた効果を有することは明らかである。

(4)  「先願発明」化合物が先願明細書等に記載されているといえること

化合物No.II-10と「先願発明」の化合物との構造上の差異は,化合物No.II-10のR57,R66,R75,R84がN(Ph)2であるのに対し,「先願発明」の化合物のR57,R66,R75,R84がN(Ph)(Ph-CH3)である点であるが,以下のアないしウ記載のとおり,係る差異は無視できるものであるから,化合物No.II-10と「先願発明」の化合物は同等であるといえる。そして,π共役系が広がればキャリア移動に有利になる旨の先願明細書等の記載に誤りがないことは,実施例等からも明らかであり(原告の提示した甲16ないし18は,本願出願後に発行されたものであり,本願出願時の技術常識を示すものではない。),「先願発明」化合物を用いたEL素子は,実施例4の化合物と比較しても,正孔注入輸送能が同等以上の良好な結果を示すことが予想される。なお,甲15には,超共役を有する化合物を有機EL素子に用いた場合に,どのような影響を与えるかについては何ら記載されていないため,化合物No.II-10と「先願発明」の化合物とが同族列化合物として同等に扱われることを否定する根拠とはならない。

ア 一連の有機化合物で,その組成が互いにCH2ずつの違いのある一群の化合物を同族列というところ,このような同族列に所属する一連の化合物は,化学的性質が極めてよく似ていて,すべての化合物に共通の官能基に基づく同一の反応を示す。そして,化合物No.II-10と「先願発明」の化合物は,同族列化合物であるから,化学的性質が極めてよく似ていて,すべての化合物に共通の官能基に基づく同一の反応を示すため,同等に扱われる。

イ 乙4,5の記載からも明らかなように,有機EL素子用化合物においても,同族列化合物を同等のもの,すなわち,化学的性質が極めてよく似ていて,すべての化合物に共通の官能基に基づく同一の反応を示すものとして扱われている。

ウ 先願明細書等においても,置換基であるN(Ph)2と,N(Ph)(Ph-CH3)とを同等に扱っている。

2  取消事由2に対して

(1)  平成6年改正前特許法36条4項及び同5項1号所定の記載要件を満たしていることについては,出願人が証明責任を負うものであり,当該記載要件を満たしていることについて具体的根拠を示す必要があるのは原告である。

そして,本願明細書の発明の詳細な説明には,本願補正発明の化合物について,具体的に製造した旨の記載はなく,発光特性,発光の寿命,保存安定性について確認した旨の記載もなく,「先願発明」の化合物のように,先願明細書等に実験データを伴って記載されていなくても,その製造方法及び有用性が先願明細書等に記載されているに等しいということができる根拠もないから,発明の詳細な説明に,当業者がその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果が記載されていないので,発明の詳細な説明の記載は,平成6年改正前特許法36条4項に規定する要件を満たすものではない。

また,同法36条5項1号の記載要件は,特許請求の範囲に対して発明の詳細な説明による裏付けがあるか否かという問題であり,同条4項の実施可能要件の議論とは,いわば表裏一体の問題といえ,本願の特許請求の範囲の記載(本件補正後のもの)は,同法36条5項1号の規定に適合しない。

(2)  当業者は,>N-A-N<の構造において,「Aの部分による影響は小さい」旨の考え方をせず,そのような考え方を裏付ける文献も存在しない。逆に,>N-A-N<の構造において,Aの部分による影響が大きいことは周知であり,この点を裏付ける文献は複数存在する(乙8,9,6参照)。

原告は,本願補正発明におけるAの相違が,化合物全体に対する相違の割合としては極めて小さい旨の主張をしているが,前述のとおり,化合物の機能に影響する構造は,むしろAを包含する骨格全体であると解すべきである。

しかも,本願補正発明のAには,ビフェニレン基をベンゼン環が一つ相違するだけのフェニレンのみならず,

file_13.jpgCLE OF OAAMAHLEM [99] “Elst rro > + Baek) 97h)等のビフェニレン基とは大幅に異なる基が包含されている。この点に関し,原告は,甲11及び12を根拠に,これらの基を含む化合物がビフェニレン基を含む化合物と同等の機能を有する旨主張しているが,甲11,12において,具体的に有機薄膜発光素子の正孔注入層の材料として用いられているのは,Aの構造がビフェニル基の場合のみであり,しかも,本願補正発明のAに包含される【化6】【化8】【化9】【化10】の構造を有する化合物については記載されていないのであるから,原告の上記主張は失当である。

なお,原告が指摘する甲16,19は,いずれも本願出願後に発行されたものであり,かつ,これらの内容は本願出願時の技術常識ではなかったものである。

(3)  審決における先願明細書等の解釈と本願明細書の解釈は,相矛盾するものではない。

審決は,平成6年改正前特許法36条4項及び同条5項1号を適用する上で,構造の類似性(単なる構造式の比較による構造の類似の程度)を根拠にしているものではなく,「本願補正発明のヘキサアミン化合物において『6個のNを結ぶ,Aを包含する骨格』が,当該ヘキサアミン化合物がその機能を発揮する上で基本的かつ重要な構造的特徴と認められる」旨の認定を根拠としているものである。

すなわち,先願明細書等には,有機EL素子用化合物として実施例1ないし5の化合物が製造例をもって記載されており,実施例6ないし30には,実施例1ないし5の化合物の有用性が確認されていること,実施例1ないし5の化合物と化合物II-10及び「先願発明」の化合物とは明らかに構造的に類似していること(>N-A-N<におけるAの部分が同じであるため,Aの部分による機能への影響はなく,それ以外の部分による影響はAの部分による影響に比べて小さい。),及び特許法29条の2の規定の適用につき,特段の障害事由が存在しないこと等をも勘案すると,先願明細書等には,化合物II-10及び「先願発明」の化合物についても,記載されているに等しいといえる。

これに対し,本件補正後の明細書には,本願補正発明の化合物について,具体的に製造し,機能が確認されているものの例(実施例)が全く記載されていない。

そして,有機EL素子に用いられる化合物において,>N-A-N<のAの部分が異なることにより融点が大きく異なる(すなわち,「>N-A-N<」の構造を有する化合物においては,「A」の部分による影響は大きい。)ことからしても,本願補正発明の化合物全体が,ある程度以上の融点あるいはガラス転移点を有している根拠は示されていない以上,容易にガラス状態を形成し,かつ安定にガラス状態を保持し,熱的に安定であると認めるには足りない。

第5当裁判所の判断

1  証拠等から認められる事実

(1)  本願発明の明細書(甲1)には,以下の記載がある。

「【発明の詳細な説明】

【0001】【産業上の利用分野】

本発明は,有機電界発光素子や電子写真感光体などに用いられる電荷輸送材料として有用な新規ヘキサアミン化合物に関する。

【0002】【従来の技術】

有機化合物を構成要素とする電界発光素子は,従来より検討されていたが,充分な発光特性が得られていなかった。しかし,近年数種の有機材料を積層した構造とすることによりその特性が著しく向上し,以来,有機物を用いた電界発光素子に関する検討が活発に行われている。この積層構造とした電界発光素子はコダック社のC.W.Tangらにより最初に報告されたが(Appl.Phys.Lett.51(1987)913),この中では10V以下の電圧で1000cd/m2以上の発光が得られており,従来より実用化されている無機電界発光素子が200V以上の高電圧を必要とするのに比べ,格段に高い特性を有することが示された。

【0003】

これら積層構造の電界発光素子は,有機蛍光体と電荷輸送性の有機物(電荷輸送材)及び電極を積層した構造となっており,それぞれの電極より注入された電荷(正孔及び電子)が電荷輸送材中を移動して,それらが再結合することによって発光する。有機蛍光体としては,8-キノリノ-ルアルミニウム錯体やクマリリンなど蛍光を発する有機色素などが用いられている。また,電荷輸送材としては電子写真感光体用有機材料として良く知られた種々の化合物を用いて検討されており,例えばN,N’-ジ(m-トリル)-N,N’-ジフェニルベンジジンや1,1-ビス〔N,N-ジ(p-トリル)アミノフェニル〕シクロヘキサンといったジアミン化合物や4-(N,N,-ジフェニル)アミノベンズアルデヒド-N,N-ジフェニルヒドラゾンなどのヒドラゾン化合物が挙げられる。更に,銅フタロシアニンのようなポルフィリン化合物も用いられている。

【0004】

ところで,有機電界発光素子は,高い発光特性を有しているが,発光時の安定性や保存安定性の点で充分ではなく,実用化には至っていない。素子の発光時の安定性,保存安定性における問題点の一つとして,電荷輸送材の安定性が指摘されている。電界発光素子の有機物で形成されている層は百~数百ナノメーターと非常に薄く,単位厚さあたりに加えられる電圧は非常に高い。また,発光や通電による発熱もあり,従って電荷輸送材には電気的,熱的あるいは化学的な安定性が要求される。更に,一般的に素子中の電荷輸送層は,非晶質の状態にあるが,発光または保存による経時により,結晶化を起こし,これによって発光が阻害されたり,素子破壊を起こすといった現象が見られている。この点,電荷輸送材には非晶質すなわちガラス状態を容易に形成し,かつ安定に保持する性能が要求される。

【0005】

このような電荷輸送材に起因する発光素子の安定性に関し,例えば,ジアミン化合物やポルフィリン化合物においては,電気的,熱的に安定なものが多く,高い発光特性が得られているが,結晶化による素子の劣化は解決されていない。また,ヒドラゾン化合物は,電気的,熱的安定性において充分ではないため,好ましい材料ではない。

【0006】【発明が解決しようとする課題】

本発明の目的は,発光特性のみならず,発光時の安定性,保存安定性に優れた有機電界発光素子を実現し得る電荷輸送材として有用で,かつ新規なヘキサアミン化合物を提供することにある。

【0007】【課題を解決するための手段】

本発明によれば,下記一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物が提供される。

(省略)(前記第2.2(1)参照)

【0020】

本発明の一般式(1)で表されるヘキサアミン化合物は新規化合物であり,これらは,相当するハロゲン化ビフェニリルジフェニルアミン化合物と相当するジアミン化合物とを縮合させることにより合成することができる。あるいはまた相当するハロゲン化ビフェニリルジフェニルアミン化合物とアミド化合物との縮合反応による生成物を加水分解して得られるトリアミン化合物を相当するジハロゲン化物と縮合させることによっても合成することができる。これら縮合反応はウルマン反応として知られる方法である。

【0037】

本発明により得られた新規なヘキサアミン化合物は,容易にガラス状態を形成しかつ安定に保持すると共に,熱的,化学的にも安定であり,有機電界発光素子における電荷輸送材料として極めて有用である。また,基本的に高い電荷輸送能を有しており,電子写真感光体をはじめとする電荷輸送性を利用する素子,システムに有効な材料であることはいうまでもない。

【0071】【発明の効果】

本発明により見いだされた新規ヘキサアミン化合物は,電荷輸送性材料として有効に機能するとともに,容易にガラス状態を形成しかつ安定にガラス状態を保持し,熱的,化学的にも安定なため,特に有機電界発光素子における電荷輸送材料として有用な物質である。」

(2)  先願明細書等(甲2)には,以下の記載がある。

「【請求項9】 下記化5で表される請求項1~4のいずれかの有機EL素子用化合物。

file_14.jpgRico Ye (Rebs SS Reale[化5において,R7,R8,R9およびR10は,それぞれアルキル基,アルコキシ基,アリール基,アリールオキシ基,アミノ基またはハロゲン原子を表し,これらは同一でも異なるものであってもよい。r7,r8,r9およびr10は,それぞれ0または1~4の整数である。R7,R8,R9およびR14は,それぞれアルキル基,アルコキシ基,アリール基,アリールオキシ基,アミノ基またはハロゲン原子を表し,これらは同一でも異なるものであってもよい。r11,r12,r13およびr14はそれぞれ0または1~5の整数である。R5およびR6は,それぞれアルキル基,アルコキシ基,アミノ基またはハロゲン原子を表し,これらは同一でも異なるものであってもよい。r5およびr6は,それぞれ0または1~4の整数である。]

【0024】

file_15.jpg【0025】

[化16において,R1,R2,R3およびR4は,それぞれアリール基,アルキル基,アルコキシ基,アリールオキシ基,アミノ基またはハロゲン原子を表し,R1,R2,R3およびR4のうち少なくとも1個はアリール基である。r1,r2,r3およびr4は,それぞれ0または1~5の整数であり,r1,r2,r3およびr4の和は1以上の整数であり,少なくとも1個のアリール基がR14~Rとして存在する。R5およびR6は,それぞれアルキル基,アルコキシ基,アミノ基またはハロゲン原子を表し,これらは同一でも異なるものであってもよい。r5およびr6は,それぞれ0または1~4の整数である。]

【0054】【作用】

本発明の有機EL素子用化合物である化16で表されるテトラアリールジアミン誘導体は,融点やガラス転移温度が高く,その蒸着等により成膜される薄膜は,透明で室温以上でも安定なアモルファス状態を形成し,長時間に渡って平滑で良好な膜質を示す。

【0055】

従って,バインダー樹脂を用いることなく,それ自体で薄膜化することができる。

【0056】

この効果は,以下のことに起因していると考えられる。

【0057】

①分子量を増して高融点にしたこと。②立体障害のあるフェニル基のようなバルキーな置換基を導入して分子間の重なりを最適化していること。③分子の取り得るコンフォーメーション数が多く,分子の再配列が妨げられていること。

【0058】

また,分子中にN-フェニル基等の正孔注入輸送単位を多く含み,R1~R4にフェニル基を導入してビフェニル基にすることでπ共役系が広がり,キャリア移動に有利になり,正孔注入輸送能にも非常に優れる。

【0059】

従って,本発明の有機EL素子は,化16で表されるテトラアリールジアミン誘導体を有機EL素子用化合物として有機化合物層に,特に好ましくは,正孔注入輸送層に用いるため,ムラのない均一な面発光が可能であり,高輝度が長時間に渡って安定して得られる。波長によっても異なるが100~100000cd/m2程度,あるいはそれ以上の高輝度が安定して得られる。なお,本発明の有機EL素子の発光極大波長は,350~700nm程度である。

【0104】

file_16.jpg【0105】

file_17.jpg38) {tet RRR No. RID ROO RIS ROM ROD RSE RIE RTS RI? TBA ROL ple RBS ROP URE H-1 H H H u i H B 4 H u-2 H u Hl RCH, H RY =CHle H u-3 H H a RPC H R=Cis Wl -4 H R’=t-Cllo H "=t-Calls HL RM=t-Clls =H u-5 H REP =0CHy 4 H R?®=0CHs 4 RE=0CHls i 11-6 H RE7=Ph Hu u RPh i RPh re u-7 H Re7= OCHS H a Re OCs u R= OCHs i-8 H RE?=0Ph W H RT*=0Ph H RM=0Ph H u-9 H REN (Calls) 2H RN (Calls) 2 RTSN(Cella) 2H REN (Calls) 2 HL U-10 H R7-N(Ph)2 RE-N(Ph)2 RSN(Ph)2 HL RMN(Ph)2 I-11 H RET=CL H Re =C1 H RTP*CL H RM=C1 he u-2 RY =-4Q wu RP CH ‘CHs = RaQ w RY=-Q i 3 ‘CH【0170】

本発明の化合物は・・・具体的には,目的とする化合物に応じ,ジ(ビフェニル)アミン化合物とジヨードビフェニル化合物,あるいはN,N’-ジフェニルベンジン化合物とヨードビフェニル化合物,などの組合せで,銅の存在下で加熱すること(ウルマン反応)によって得られる。

【0346】【発明の効果】

本発明の化合物は,融点やガラス転移温度が高く,その蒸着等により成膜される薄膜は,透明で室温以上でも安定なアモルファス状態を形成し,平滑で良好な膜質を示す。従ってバインダー樹脂を用いることなく,それ自体で薄膜化することができる。

【0347】

また本発明の有機EL素子は,上記化合物を含む有機EL素子用化合物を有機化合物層,特に好ましくは正孔注入輸送層に用いるため,ムラのない均一な面発光が可能であり,高輝度が長時間に渡って安定して得られ,耐久性・信頼性に優れる。」

(判決注:以下は,先願明細書等に記載された実施例に関する内容の要約である。)

テトラアリールジアミン誘導体である有機EL素子用化合物のうち,No.I-1,No.II-1,No.VII-1,No.X-10,No.X-3を製造し,これらの化合物の融点やガラス転移温度及びこれら化合物を用いた有機EL素子の耐久性等を確認した。(【0263】~【0345】)

具体的には,各化合物の融点及びガラス転移温度は,化合物No.I-1は融点が207.4℃,ガラス転移温度が95.8℃,化合物No.II-1は融点が267.7℃,ガラス転移温度が131.8℃,化合物No.VII-1は融点が189.8℃,ガラス転移温度が83.6℃,化合物No.X-10は融点が観測できず初期の状態からアモルファスであり,ガラス転移温度が132℃であった。(【0264】~【0282】)

また,各化合物の薄膜形成能及び放置安定性については,化合物No.I-1,No.II-1,No.VII-1,No.X-10,No.X-3がすべて同程度の高い薄膜形成能及び放置安定性(大気中より過酷な条件である恒温槽中で10か月以上放置しても結晶化が起こらない)を有する。(【0284】~【0287】)

さらに,各化合物を用いた有機EL素子の輝度半減時間については,化合物No.I-1,No.II-1,No.VII-1がそれぞれ600時間,620時間,500時間,化合物No.X-10,No.X-3が同等以上である。(【0290】~【0299】)

一方,比較例の化合物①(N,N’-ジフェニル-N,N’-ジ(3-メチルフェニル)-4,4’-ジアミノ-1,1’-ビフェニル)

file_18.jpgの融点は171.2℃,ガラス転移温度は61.3℃,放置してから3日目で結晶化が始まり,輝度半減時間は120時間であった。(【0288】【0298】)

(3)  掲記の証拠から,以下の事実が認められる。

ア 乙1(特開昭59-194393号公報)には,以下の記載がある。

「前記の光透過性をもつ有用な正孔伝達化合物の好ましい例には,室温で固体であり,かつ少なくとも1個の窒素原子が置換基でトリ置換された(そのうち少なくとも1個はアリール基または置換アリール基である)アミンが含まれる。」(乙1の5頁左上欄下から3行~右上欄2行)

イ 乙2(特開昭63-295695号公報)には,以下の記載がある。

「この有機質ELデバイスのホール輸送層は少くとも一つのホール輸送用芳香族三級アミンを含み,この場合,後者は,炭素原子のうちの少くとも一つが芳香族環の一員である炭素原子へのみ結合される少くとも一つの3価窒素原子を含む化合物であると理解される。一つの形においては,芳香族三級アミンはモノアリールアミン,ジアリールアミン,トリアリールアミンあるいはポリマー状アリールアミンのようなアリールアミンであることができる。」(乙2の6頁左上欄2~11行)

ウ 乙3(共立出版株式会社発行「化学大辞典6」(縮刷版))には,以下の記載がある。

「一連の有機化合物でその組成が互いにCH2ずつの違いのある一群の化合物を同族列という。」「たとえば脂肪族飽和炭化水素のメタンCH4,エタンC2H6,プロパンC3H8,ブタンC4H10,ペンタンC5H12など,芳香族炭化水素のベンゼンC6H6,トルエンC7H8,キシレンC8H10などがある。これらの炭化水素の同族列のほかにアルコール,エーテル,ケトン,カルボン酸などの同じ官能基をもち,組成がCH2ずつ違う同族列がある。たとえば飽和脂肪酸の同族列はギ酸HCOOH,酢酸CH3COOH,プロピオン酸C2H5COOH,酪酸C3H7COOH,吉草酸C4H9COOHなどであって,これらの同族列は一般式CnH2n+1COOHで表わされ,nが0,1,2,3・・・と変わる一連の化合物である。」「このような同族列に所属する一連の化合物は化学的性質がきわめてよく似ていて,すべての化合物に共通の官能基に基づく同一の反応を示す。また物理的性質は炭素原子数の増すにつれて規則的に変化していく。今日知られているおびただしい数の有機化合物は,その官能基の種類と数によっていくつかの同族列に分類され,整然と整理されて有機化合物の体系を形づくっている。」

エ 乙4(特開平4-220995号公報)の記載からは,次の点が認められる。

実施例1において,ホール注入層としてHTM-1を用いて有機電界発光素子を作成して,この有機電界発光素子を4.5V,4mA/cm2で500時間定電流駆動したところ,初期の100cd/m2の輝度は,最後に80cd/m2までしか低下しなかった。また,実施例5には,ホール注入層としてHTM-1と同族列であるHTM-17(HTM-1の周辺部にあるベンゼン環のうち2個に,それぞれ1個ずつメチル基を付加したもの)を用いて有機電界発光素子を作成したところ,この有機電界発光素子は,HTM-1を用いた場合と同等の安定性を示した。

オ 乙5(特開平5-94877号公報)の記載からは,次の点が認められる。

実施例1,2,3として,正孔注入層としてそれぞれ同族列の関係にある化学式「I-1」,化学式「I-2」(化合物「I-1」の周辺部にあるベンゼン環のうち2個に,それぞれ1個ずつメチル基を付加したもの),「化学式I-3」(「化合物I-1」の周辺部にあるベンゼン環4個すべてに,それぞれ1個ずつメチル基を付加したもの)に示す各物質を用いて有機薄膜発光素子を作成して,素子に直流電圧10Vを印加したところ,いずれも,緑色発光中心波長530nmの均一な発光が得られ,50時間以上の安定性を確認した。

カ 乙6(特開平4-327561号公報)には,正孔輸送材料として用いるテトラアリールジアミン化合物の製造方法として,ハロゲン化アリールを銅粉等と塩基性物質の存在下で反応させることが記載されており,乙7(特開平5-105647号公報)には,電荷輸送材料として用いるフェニレンジアミン化合物を製造する際にウルマン反応を用いることが記載されている。

また,乙12(特開昭55-24116号公報)及び乙13(特開昭54-63041号公報)には,ウルマン反応によりジフェニルアミンが得られることが記載されている。

さらに,乙14(特開平1-315751号公報)には4-アミノ-4’-ジフェニルアミノビフェニル(芳香族第1級アミン)が知られていることが記載されており,上記乙13には,2,6-ジクロル-4-ニトロアニリン(I)(芳香族第1級アミン)から,ジアゾ化ザンドマイヤ反応により,2,6-ジクロル-4-ニトロハロベンゼン(II)を得る方法が記載されている。

キ 乙8(特開平5-234678号公報)には,以下の記載がある。

「実施例1および比較例1で作製した各素子を真空中で保存して,輝度が100cd/m2となる実用駆動電圧(V100)の経時変化を測定したところ,実施例1の素子は30日後も実用駆動電圧の上昇は見られなかったのに対して,比較例1の素子は30日後実用駆動電圧の増加が顕著になると同時に輝度も大きく低下した。」(【0045】)

なお,実施例1で作製した素子において有機正孔輸送層材料として用いられている化合物は,

file_19.jpgの構造を有する【化5】であり,比較例1で作製した素子において有機正孔輸送層材料として用いられている化合物は,

file_20.jpgの構造を有する化合物E0である。(【0035】【0042】参照)

ク 乙9(特開平6-145657号公報)の記載からは,次の点が認められる。

ホール輸送材料として,化合物PC1-1を用いてEL素子を作製して耐久試験を行ったところ,96時間後においても100cd/m2の発光輝度が観測され優れた耐久性を示したのに対し,ホール輸送材料として化合物HCを用いてEL素子を作製して耐久試験を行ったところ,素子は急速な輝度の低下を示し,10時間後に40cd/m2の輝度しか観測されなかった。

なお,化合物PC1-1は,

file_21.jpgfio i" & pica wai TE 4 Qn AEA. Ra Re Rs Ra POI-1 +O) +O) H | Hの構造を有し,化合物HCは,の構造を有する。

file_22.jpgの構造を有する。

ケ 乙6の記載からは,次の点が認められる。

一般式(1)で示されるテトラアリールジアミン化合物の1つであるα,α,α’,α’-テトラメチル-α,α’-ビス(4-ジ-P-トリルアミノフェニル)-P-キシレン(以下「TBDTX」という。)の融点は,212~214℃であり仕事関数は5.7eVである。(【特許請求の範囲】【請求項1】,【0014】,【0024】~【0026】)

なお,上記TBDTXにおいて,2つの窒素を結合させている2価の基は,

file_23.jpgCHa CH: CH, CHsの構造を有している。

「下記式(2)で示される1,1-ビス(4-ジ-P-トリルアミノフェニル)シクロヘキサン

file_24.jpg(2)の融点は181.4~182.4℃である。」(【0005】【0006】【0008】)

「下記式(3)で示されるN,N’-ジフェニル-N,N’-ビス(メタ-トリル)-ベンジジン)

file_25.jpgQ 9" Soの融点は,159~163℃である。」(【0005】【0007】【0008】)

2  取消事由2について

事案にかんがみ,取消事由2を先に判断する。

(1)  審決は,本件補正によって実施例の化合物がクレームから除かれた結果,発明の詳細な説明には,本願補正発明の化合物につき具体的に製造した旨の記載はなく,その発光特性,発光の寿命,保存安定性について確認した旨の記載もないから,実施可能要件を満たさず,同様に,クレームの記載もサポート要件を満たさないとして,本件補正を却下した。

原告は上記の本件補正却下につき争っているところ,特許法(現行法)36条4項1号,6項1号所定の実施可能要件,サポート要件等の具備は,特許権の発生要件であるから,出願人が立証責任を負うというべきである(これに反する原告の主張は採用できない。)。

(2)  本願補正発明のクレームに含まれる化学物質の「A」の部分の構造としては,Aの部分で共鳴関係が切断されているもの,されていないもの,結合の回転が自由に行われるもの,行われないものといった,多様な類型のものが含まれているところ,被告は,「>N-A-N<」の構造を有する本願補正発明の化合物においては,「A」の部分が重要であるから,実施例とされていた化合物を除いた後の,実施例とは異なる「A」の構造を有する化合物の有機EL素子としての性質は不明であると主張し,その根拠として特許公報(乙8,9,6)を挙げる。

これに対し,原告は,「>N-A-N<」の構造を有する本願補正発明の化合物においては,少なくとも16個のベンゼン環と6個のアミノ結合を有する周辺部分の方が「A」の部分(中心部)より大きな割合を占めること等からすれば,「A」の部分は重要ではなく,周辺部こそが重要であることが明らかであるため,実施例とされていた化合物をクレームから除いても,実施例と異なる「A」の構造を有する化合物の有機EL素子としての性質は実施例のものと変わらない旨主張し,その根拠として特許公報(甲11,12)を挙げる。

このほか,原告は,本願出願後の文献(甲16,19等)を提出し,「A」の部分につき多様な構造を有する化合物であっても有機EL素子としての有用性を有することは公知であった旨主張する。

しかし,本件で提出された全証拠を精査してもなお,「本願補正発明における化合物の有機EL素子としての機能・性質に関し,『A』の部分(中心部)は重要ではなく周辺部分こそが重要である」,「『A』の部分が,本願明細書における実施例のものと異なる構造のものであっても,有機EL素子として実施例のものと同様の性質を有する」旨の原告の主張を裏付ける事実は認めることができない。逆に,前記1(3)キないしケからすれば,本願補正発明における化合物の有機EL素子としての性質(耐久性,融点)は,「A」の部分の構造により相当程度影響を受けるものと理解するのが相当である。

したがって,本件補正により実施例の化合物がクレームから除かれた結果,本願補正発明の化合物(「A」の部分につき実施例とは異なる構造を有するもの)の発光特性,発光の寿命,保存安定性等の有機EL素子としての有用性につき,発明の詳細な説明には記載がないことになるから,サポート要件を満たさないものというべきである。

(3)  以上のとおり,審決が,本願補正発明につき独立特許要件がないとして本件補正を却下した点に誤りはなく,取消事由2は理由がない。

3  取消事由1について

(1)  上記2のとおり,本件補正の却下に誤りがないことを前提として,被告のいう「先願発明」が先願明細書等に記載されていたか否かにつき検討することとする。

なお,本来,「先願発明」が先願明細書等に記載されていたかのみを検討すれば足りるのであるが,当事者双方が,化合物「No.II-10」が先願明細書等に記載されていたか否かについても争っているため,この点につき,まず判断することとする。

(2)  いわゆる化学物質の発明は,新規で,有用,すなわち産業上利用できる化学物質を提供することにその本質が存するから,その成立性が肯定されるためには,化学物質そのものが確認され,製造できるだけでは足りず,その有用性が明細書に開示されていることを必要とする。

そして,化学物質の発明の成立のために必要な有用性があるというためには,用途発明で必要とされるような用途についての厳密な有用性が証明されることまでは必要としないが,一般に化学物質の発明の有用性をその化学構造だけから予測することは困難であり,試験してみなければ判明しないことは当業者の広く認識しているところである。したがって,化学物質の発明の有用性を知るには,実際に試験を行い,その試験結果から,当業者にその有用性が認識できることを必要とする。

なお,被告は,有機EL素子用化合物のような,単に化合物の物理化学的性質を利用する技術分野の化合物については,医薬,農薬,バイオ関連技術のような特殊な技術分野の場合と異なり,当業者が容易に作ることができる上,その有用性も推認できる可能性が高い旨主張する。しかし,このような「化学物質の用途,分野によって,その製造可能性や有用性が推認できる程度が異なる」旨の主張を前提としてもなお,本件で化学物質発明が問題となっている事実に変わりはなく,当業者がその製造可能性及び(有機EL素子用化合物としての)有用性を認識できる程度の開示が必要であることに変わりはない。

(3)  そこで,本件について検討すると,前記1(2)のとおり,化合物No.II-10については,先願明細書等の【請求項9】【化5】に一般式が記載されるとともに,【0104】,【化37】に一般式が【0105】【化38】に具体的な構造が,それぞれ示されている。そして,先願明細書等の【0263】ないし【0345】において,化合物No.I-1,No.II-1,No.VII-1,No.X-10,No.X-3を用いた実施例(ここには,上記各化合物の製造方法についても記載されている。なお,化合物No.X-10,No.X-3につき,具体的なデータの記載に乏しいとしても,実施例として記載されていることは否定できない。)が記載され,【0346】【0347】において,これらの化合物が,「融点やガラス転移温度が高く,その蒸着等により成膜される薄膜は,透明で室温以上でも安定なアモルファス状態を形成し,平滑で良好な膜質を示す。従って,バインダー樹脂を用いることなく,それ自体で薄膜化することができる。」「ムラのない均一な面発光が可能であり,高輝度が長時間に渡って安定して得られ,耐久性・信頼性に優れる。」との効果が記載されている。

確かに,先願明細書等には,化合物No.II-10それ自体の製造方法や,これを用いた実施例の記載はないが,先願の化合物一般につきウルマン反応によって得られることが記載されている(【0170】参照)上,前記1(3) カの各公報記載の事実からすれば,正孔輸送材料ないし電荷輸送材料として用いられる化合物の製造方法としてウルマン反応を用いることは,本願出願当時,周知技術であったというべきであって,化合物No.II-10を製造する道筋は示されているといえる。また,同化合物の有機EL素子としての有用性についても,同化合物が,その構造上,実施例とされた化合物No.II-1と,相当程度類似していること(先願明細書等に化合物No.II-10の構造が具体的に記載されていることからすれば,ここで求められる類似性は,後述の,特許法29条の2の適用が問題となる場合とは自ずから異なるものである。)等からすれば,実施例の記載から,当業者に同化合物の有用性が認識できるものといえ,同化合物を用いた具体的な実施例の記載がないことは,上記結論に影響を及ぼすものではないというべきである。

(4)  他方で,「先願発明」の化合物については,先願明細書等の【化5】,【化16】で示された一般式に,抽象的には包含されるとしても,先願明細書等において,その構造につき具体的に記載されてはいない。

そして,上記【化5】【化16】に関しては,複数の化合物の組み合わせを表現したものにすぎず,ある化合物が明細書等において開示されているというためには,たとえ表の中であっても,具体的な構造(「先願発明」の化合物に関しては,メチル基を置換基として有する具体的構造)が特定して開示される必要があるというべきである。

なお,被告は,「同族列に所属する一連の化合物は,化学的性質が極めてよく似ていて,すべての化合物に共通の官能基に基づく同一の反応を示すから,化合物No.II-10と『先願発明』の化合物も実質的に同視できる」旨主張するとともに,特許公報(乙4,5)の記載により,上記主張を補強している。

しかし,前記1(3)ウのとおり,化学大辞典(乙3)において,同族列として脂肪族飽和炭化水素のメタン,エタンや,芳香族炭化水素のベンゼン,トルエン,飽和脂肪酸のギ酸,酢酸などを例示しているが,これらの分子量の小さな化合物相互の関係と,本件での化合物No.II-10と「先願発明」化合物のような分子量の大きな化合物相互の関係について,同一に扱ってよいかは不明というべきである。

また,前記1(3)エ,オからすれば,乙4,5で開示された,それぞれ同族列の関係にある各化合物の化学的性質(有機EL素子としての性質を含む。)が類似していることが認められるが,これが直ちに,化合物No.II-10と「先願発明」化合物の関係にも適用できるか明らかではない上,特許法29条2項の進歩性を判断する場合であれば格別,同法29条の2第1項により先願発明との同一性を判断するに当たっては,化合物双方が同族列の関係にあることをもって,一方の化合物の記載により他方の化合物が「記載されているに等しい」と解するのは相当ではない(前述のとおり,一般に化学物質発明の有用性をその化学構造だけから予測することは困難であり,試験してみなければ判明しないことは当業者の広く認識するところであるからである。)。

このほか,被告は,「正孔注入輸送を司る本質的部位が分子中のN-フェニル基であること」は技術常識であって,同事実と先願明細書等の記載からすれば,「フェニル基を導入してビフェニル基にすることでπ共役系が広がり,キャリア移動に有利になり,正孔注入輸送能にも非常に優れる」旨主張している。

確かに,前記1(3)ア,イのとおり,「正孔注入輸送を司る本質的部位が分子中のN-フェニル基である」旨の被告の主張に整合する文献(乙1,2)が存在するほか,先願明細書等には「分子中にN-フェニル基等の正孔注入輸送単位を多く含み,R1~R4にフェニル基を導入してビフェニル基にすることでπ共役系が広がり,キャリア移動に有利になり,正孔注入輸送能にも非常に優れる」旨の記載がある(【0058】)。

しかし,前述のとおり,特許法29条の2第1項による先願発明との同一性の判断は,同法29条2項の進歩性の判断とは異なるから,上記のような「公知技術」を安易に参酌して先願明細書等の記載を補充するのは相当ではなく,メチル基の有無を捨象して化合物No.II-10と「先願発明」化合物を同視し,「先願発明」化合物が先願明細書等に実質的に記載されていたとみることは相当ではない。

(5)  したがって,被告がいう「先願発明」化合物は先願明細書等に記載されておらず,また,記載されていたに等しいともいえないから,「先願発明」の化合物が先願明細書等に記載されていたに等しいとして特許法29条の2を適用した審決は誤りである。

4  以上のとおり,本願発明につき特許法29条の2を適用することはできないから,審決を取り消すこととする。

(裁判長裁判官 塚原朋一 裁判官 東海林保 裁判官 矢口俊哉)

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