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知財高等裁判所 平成22年(ネ)10004号 判決 2010年5月27日

平成22年(ネ)第10004号 著作権侵害確認等請求控訴事件

平成22年(ネ)第10011号 同附帯控訴事件

控訴人兼附帯被控訴人

訴訟代理人弁護士

高橋謙治

高谷進

鶴田進

中田貴

荒木邦彦

中村仁志

藤井直孝

被控訴人兼附帯控訴人

訴訟代理人弁護士

難波修一

大江耕治

主文

1  本件控訴を棄却する。

2  原判決中被控訴人兼附帯控訴人敗訴の部分を取り消す。

3  控訴人兼附帯被控訴人の各請求をいずれも棄却する。

4  訴訟費用は,第1,2審を通じて,すべて控訴人兼附帯被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1請求

〔控訴の趣旨〕

1  原判決中控訴人兼附帯被控訴人敗訴部分を取り消す。

2  被控訴人兼附帯控訴人は,別紙著作目録記載の論文について,別紙通知目録記載のとおり,別紙通知先目録記載の通知先に通知せよ。

3  被控訴人兼附帯控訴人は,控訴人兼附帯被控訴人に対し,金320万円及びこれに対する平成16年6月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

4  訴訟費用は,第1,2審を通じて,すべて被控訴人兼附帯控訴人の負担とする。

〔附帯控訴の趣旨〕

主文2ないし4と同旨

第2事案の概要等

1  事案の概要

本件事案の概要は,以下のとおりである。すなわち,

控訴人兼附帯被控訴人(以下「原告」という。)は,東京大学医学部教授であったが,自己の主催する研究室(東京大学大学院医学系研究科博士課程)において,音素-書記素変換及び書記素-音素変換を研究テーマとし,機能的磁気共鳴画像法(f-MRI)を用いて音読及び書き取りにおける脳の賦活部位を解析する実験を実施した。原告は,研究室に属する大学院生であった被控訴人兼附帯控訴人(以下「被告」という。)に対して,被告の博士論文の研究に必要な知識と手法を学ばせ,被告の業績を作るために,実験終了後のデータの処理と研究結果に係る論文原稿(英文)の執筆を指示した。被告は,指示を受けて,実験結果に基づく論文原稿を執筆した。原告は,被告が執筆した当初の論文原稿に添削を施したり,加筆修正を指導した。被告は,同指導に基づき,当初の論文原稿について10回を超えて修正加筆を伴う執筆を行うことにより論文を完成させた(英文論文。題名・「An fMRI study on common neural correlates of reading aloud and writing to dictation」。以下「第1論文」という。未公表)。

その後,被告は,研究を継続し,自ら実験を実施して,研究目的,実験の前提となる仮説,実験の課題,実験により得られた結果及び結論において,第1論文とは相違する論文(別紙著作目録記載の論文,英文論文。以下「第2論文」という。)を作成した。ただし,第2論文は,機能的磁気共鳴画像法(f-MRI)を用いていること,「音素-書記素変換」に活用される神経的基盤を明らかにすることなどの点において,第1論文と共通する部分がある。そして,被告は,第2論文を,別紙通知先目録記載の通知先「Lippincott Williams & Wilkins」(以下「LWW社」という。)が発行する学術雑誌「NeuroReport」(以下「ニューロレポート誌」という。)に,発表した。

原告は,①第1論文が原告と被告との共同著作物であること,②第2論文を作成,発表した被告の行為等は,第1論文に係る著作権者(共有者)である原告の合意(著作権法64条1項,65条2項)に基づかずにした複製,翻案,改変及び公表に当たること,③したがって,被告の上記行為は,原告が第1論文について有する(共有する)著作権(複製権,翻案権)及び著作者人格権(同一性保持権,公表権)を侵害すると主張して,原告が,被告に対し,著作権法117条,112条1項,2項に基づく侵害の停止のための措置又は同法115条に基づく名誉又は声望の回復のための措置として,LWW社に第2論文の撤回の通知行為をするように求めるとともに,上記著作権侵害及び著作者人格権侵害の不法行為に基づく損害賠償を求めた。

原審は,原告の請求について,第1論文について原告の有する(共有する)複製権及び公表権を侵害したとして,損害賠償金40万円の支払を求める限度で認容し,その余の請求を棄却した。

これに対して,原告が控訴をし,被告が附帯控訴をした。

以下,特に断らない限り,略語は原判決と同一のものを使用する。

2  争いのない事実等

以下の点を訂正,補足する他は,原判決2頁19行目から6頁1行目までのとおりであるから,これを引用する。

(1)  原判決4頁1行目中「A」を「B」に改める。

(2)  原判決6頁1行目中「(争点6)」の後に,「,原告は被告の第2論文の作成行為に対して黙示の許諾をしたか(争点7)」を加える。

第3争点に対する当事者の主張

1  以下の点を訂正,補足する他は,原判決6頁3行目から63頁12行目末尾までのとおりであるから,これを引用する。

(1)  原判決7頁16行目ないし17行目中,「論文全体の論文全体の」を「論文全体の」に改める。

(2)  原判決13頁5行目,同40頁2行目,同頁21行目の各「類似」を,それぞれ「実質的同一」に改める。

(3)  原判決40頁22行目,同41頁1行目,同頁7行目の各「第1論文と第2論文の表現が類似する部分」及び同頁23行目の「両論文の類似する部分」を,それぞれ「第1論文の第2論文と表現において実質的に同一であると原告が主張する部分」と改める。

(4)  原判決42頁7行目,同頁13行目,同頁20行目,43頁9行目,同頁15行目ないし16行目,同頁21行目,同45頁9行目,同46頁4行目,同頁8行目,同頁25行目,同48頁13行目,同49頁1行目の各「類似性」を「実質的同一性」に改め,同51頁3行目の「類似している」を「実質的に同一である」に改める。

(5)  原判決49頁16行目中,「延べておく」を「述べておく」にそれぞれ改める。

2  原判決63頁12行目末尾の後に行を改め,以下を加える。

「7 原告の黙示の許諾の有無(争点7)について

(1)  被告の主張

大学院生であった者が,大学院に在籍中に指導教授の下で研究論文を作成し,大学院修了後,既存の研究を基礎に,これを発展させて,論文を作成することがある。このような場合,後行論文において,先行論文と同一又は似通った表現を使用することは,避けられない。指導教授が,大学院において,院生を指導教育する役割を負っていることに照らすならば,特段の事情がない限り,教授は院生に対して,論文に似通った表現を使用することついて,包括的に許諾を与えているものというべきである。

原告が第1論文における第2論文と実質的に同一であると主張する部分は,研究の目的,実験の方法,先行研究の引用など,論文としての定型的な表記方法及び科学的一般的事実に関する基本的な記述方法に係る部分である。

被告が,第1論文と同じ手法である機能的磁気共鳴画像法を用いて音素-書記素変換に用いられる神経的基盤を明らかにすることを目的とした研究をして,第2論文を作成する場合に,表現方法が似通うことは,当然に予想されるといえる。被告が第2論文において第1論文と似通った表現を使用したことは,大学院を修了した研究者が,それまでの研究成果を基礎に,さらに研究を発展させていく過程における通常の行為というべきものである。また,原告が第1論文における第2論文と実質的に同一であると主張する部分の第1論文全体に占める割合は僅かである。

本件において,原告は被告に対して,論文作成に当たって先行論文における類似表現を使用することを認めて推奨していたこと,原告が被告に対して第2論文の削除要請を出版社にするよう求める通知書を送付したのは第2論文発表後約9か月後であったことをも総合考慮すれば,原告は,被告の第2論文作成,発表行為について,黙示に許諾していたというべきである。

(2)  原告の主張

被告の主張は,否認ないし争う。」

第4当裁判所の判断

当裁判所は,原判決中の原告の請求を認容した部分には,誤りがあるものと解する。すなわち,当裁判所は,

①  「第2論文中の複製権又は翻案権を侵害したと原告が主張する部分」(別紙対比表参照,以下「第2論文該当箇所」,「第2論文の当該表記部分」などという場合がある。別紙対比表は,原判決別紙対比表と同じである。)は,「第1論文中の複製権又は翻案権が侵害されたと原告が主張する部分」(別紙対比表参照,以下「第1論文該当箇所」,「第1論文の当該表記部分」などという場合がある。)と,表現上の創作的な部分又は本質的な特徴部分において共通しないから,第2論文を作成,発表した被告の行為は,複製権又は翻案権の侵害に当たらず,また,公表権侵害にも当たらない,

②  第1論文が,原告と被告との共同著作物であるかについて検討するまでもなく,原告の請求は成り立たない,

③  原告の請求はいずれも棄却すべきである,

と判断する。その理由は,以下のとおりである。

1  前提事実について

原判決63頁15行目から76頁22行目のとおりであるから,これを引用する。

2  複製権及び翻案権侵害の有無について

以下の点を訂正,補足する他は,原判決82頁7行目から100頁18行目までのとおりであるから,これを引用する。

(1) 原判決82頁7行目から12行目を以下のとおり改める。

「原告は,「第2論文中の複製権又は翻案権を侵害したと原告が主張する部分」が,「第1論文中の複製権又は翻案権を侵害されたと原告が主張する部分」を複製又は翻案したものであると主張する。

当裁判所は,第1論文が,原告の共同著作物であるか否かの判断を留保した上で(そのため,原判決76頁23行目ないし82頁4行目は引用しない。),共同著作物であると仮定した場合に,「第2論文中の複製権又は翻案権を侵害したと原告が主張する英文記述部分」が「第1論文中の原告が複製権又は翻案権を侵害されたと主張する英文記述部分」を複製又は翻案したものであるか否かについて検討することとする。

著作権法において,著作物とは,「思想又は感情を創作的に表現したものであって,文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」(著作権法2条1項1号)と規定する。したがって,著作権法により保護されるためには,思想又は感情が創作的に表現されたものであることが必要である。そして,当該記述が,創作的に表現されたものであるというためには,厳密な意味で,作成者の独創性が表現として現れていることまでを要するものではないが,作成者の何らかの個性が表現として現れていることを要する。

また,著作権法が保護する対象は,思想又は感情の創作的な表現であり,思想,感情,アイデアや事実そのものではない。したがって,原告が著作権の保護を求める「第1論文中の複製権又は翻案権が侵害されたと原告が主張する部分」が著作権法による保護の対象になるか否か,また,第2論文の該当箇所が第1論文の該当箇所を複製又は翻案したものであるか否かを判断するに当たって,上記の点を考慮すべきことになる。

本件においては,前記のとおり,第1論文は,「書き取りにおける音素-書記素変換」と「音読における書記素-音素変換」に共通する脳内部位を明らかにすることを目的とした研究に係る論文であるのに対して,第2論文は,「書き取りにおける音素-書記素変換」の脳内部位に焦点を当てて発展させた研究に係る論文である。第2論文は,研究の目的,課題設定及び結論を導く手法等において,第1論文とは相違する独自の論文であるが,一方で,機能的磁気共鳴画像法(f-MRI)を用いていること,「音素-書記素変換」に活用される神経的基盤を明らかにすることなどの点において,第1論文と共通する点がある。両論文を対比するに当たり,各部位の名称,従来の学術研究の紹介,実験手法や研究方法の説明など,内容の説明に係る部分は,事実やアイデアに係るものであるから,それらの内容において共通する部分があるからといって,その内容そのものの対比により,著作権法上の保護の是非を判断すべきことにはならない。

上記観点に照らして,①「第1論文中の複製権又は翻案権が侵害されたと原告が主張する英文記述部分」(第1論文該当箇所)における表現上の創作性の有無,②「第2論文中の複製権又は翻案権を侵害したと原告が主張する英文記述部分」(第2論文該当箇所)が,対比表第1論文該当箇所を複製し,又は翻案したものであるか否か,について検討する。」

(2) 原判決85頁22行目中,「音声学的失書」を「音声学的失読」に改める。

(3) 原判決87頁12行目の「類似部分の創作性について」を「第1論文,第2論文各該当箇所の対比について」と改める。

(4) 原判決88頁6行目から8行目を削除する。

(5) 原判決88頁18行目から89頁4行目までを,以下のとおり改める。

「そこで,別紙対比表1の2ないし4の第1論文該当箇所における,同第2論文該当箇所との表現が共通する部分,又は似通っていると原告が主張する部分について検討する。

第1論文該当箇所の表現は,専ら,対象となる現象を正確かつ客観的に記述,伝達する観点から,ごく普通に選択されたものであると解され,また,叙述方法や配列の点で格別の特徴があるとは認められない。そのような諸点を総合すると,各英文記述部分は,著述者の個性が現れた表現とはいえず,創作性があると認めることはできない。

以下,対比表の1の2ないし4について,個別的,具体的に述べる。

①  対比表1の2について

第1論文の当該表記部分は,「これら2つの変換,書記素-音素および音素-書記素変換の神経基盤については,少ししか知られていない。」  という事実を述べるために,英文により,「Little is known about the neural substrate ofthese two conversions, grapheme-to-phoneme andphoneme-to-grapheme conversions.」と,ごく普通の構文で表記したものである。

これに対して,第2論文の該当表記部分は,「音素―書記素変換の神経的基盤については,少ししか知られていない。」  という事実を述べるために,英文により「Little is known about the neural substratesofthephoneme-to-grapheme conversion.」と表記したものである。

第1論文の当該表記部分は,事実を端的に,ごく普通の構文を用いた英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない。

②  対比表1の3について

第1論文の当該表記部分は,「我々の研究は,機能的磁気共鳴画像法を用いて,2つの変換の神経的基盤を明らかにすることを目指している。」  という研究目的を述べるために,英文により,「Our study aims to clarify the neural substrate of  the two  conversions with  functional magnetic resonance imaging.」と,ごく普通の構文で表記したものである。

これに対して,第2論文の該当表記部分は,「我々の研究は,機能的磁気共鳴画像法を使用して,書取における音素-書記素変換の神経的基盤を明らかにすることを目指している。」という研究目的を述べるために,英文により「Our study aims to clarify the neural substratesofphoneme-to-graphemeconversionin writing to dictation usingfunctional magnetic resonance imaging.」と表記したものである。

第1論文の当該表記部分は,研究目的を端的に,ごく普通の構文を用いた英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない(なお,両論文の研究目的は,相違する。)。

③  対比表1の4について

第1論文の当該表記部分は,「我々は日本語を材料として用いた。なぜなら2種類の変換が単純であるからである。  日本語では,1つの音素が1つの書記素(仮名文字)によって表わされており,そして,その逆もそうである。すなわち,1対1の対応が音素と書記素の間にある。」 という実験手法及びその理由を述べるために,英文により,「We employed Japanese asmaterialsbecausethe two kinds of conversions are simple.In Japanese one phoneme is represented by one grapheme (kanaletter) and vice versa,i.e. one-to-one correspondence between phoneme and grapheme.」と表記したものである。

これに対して,第2論文の該当表記部分は,「我々は日本語を刺激言語として用いた。なぜなら,日本語では,1つの音素が1つの書記素(仮名)によって表されており,そして,その逆もそうであるからである。」  という事実を述べるために,英文により「We employed Japanese asthe stimulus languagebecause in Japanese,one phoneme is represented by one grapheme (kana) and vice versa.」と表記したものである。

第1論文の当該表記部分は,実験手法及びその理由をごく普通の英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない。」

(6) 原判決90頁2行目から91頁15行目を「以上のとおり,「Abstract」の章の第1論文該当箇所は,いずれも創作性を有するものとは認められない。」と改める。

(7) 原判決95頁14行目から100頁18行目までを,以下のとおり改める。

「前記ア(ア),(イ)(原判決82頁13行目ないし87頁11行目,その中でも特に85頁9行目ないし18行目)認定のとおり,両論文は,別紙対比表2のcないしlにおける内容において共通する部分がある。すなわち,①左背側運動前領域に近いエクスナー領(人間が字を書く際に中心的に活動する部位)の損傷が失読-失書(読み書きに不自由がある状態)を生ずるとした先行する損傷研究(具体的には,頭部外傷や脳血管障害等の脳損傷例を対象に,その認知機能を検討し,症状と脳部位との対応関係を探る臨床事例研究)を前提として掲記していること(対比表c),②これらの先行研究を基礎として,音素-書記素変換が行われる部位は,左運動前領域であるとの仮説を立てていること(対比表d),③従来の損傷研究では,英語を刺激用語として用いていたが,英語を刺激用語とすることにの問題点を指摘していること(対比表e,f),④日本語を刺激用語とすることに優位性があること(対比表g),⑤書字の伝統的なモデルにおいては,文字の書記素表象が左頭頂領域で行われるのに対し,書記素の運動表象が左運動前領域で行われるとされるとの先行知見を掲記していること(対比表hないしl)において,内容において共通する。

しかし,両論文は,前記ア(ア),(イ)(原判決82頁13行目ないし87頁11行目,その中でも特に85頁23行目ないし86頁18行目)記載のとおり,①第1論文では,音声学的失書と音声学的失読が書字と読字の両方に関与する神経単位の崩壊に基づいていると仮定し,読字についても,左頭頂が音素表象を提供し,左運動前が音素の運動表象を産出するとのモデルが適用できると仮定したのに対し,第2論文では,これらの仮定を置いていないこと,②第1論文では,読字においては,書記素入力から音素表象への変換が頭頂領域で,音素表象から音素の運動出力への移送が前頭領域で行われ,書き取りにおいては,音素入力から書記素表象への変換が頭頂領域で,書記素表象から書記素の運動出力への移送が前頭領域で行われるとの仮説を立て,左頭頂間溝前部の役割は,書記素-音素変換における書記素入力の音素表象への変換と,音素-書記素変換における音素入力の書記素表象への変換であり,左運動前領域の役割は,書記素-音素変換における音素表象の音素の運動出力への移送と,音素-書記素変換における書記素表象の書記素の運動出力への移送であると推定しているのに対し,第2論文では,読字については取り上げず,書き取りにおいても,音素入力から書記素表象への変換,書記素表象から書記素の運動出力への移送のいずれも左運動前領域で行われるとの仮説を立て,左運動前領域の役割は,書記素表象の書記素出力であると推定していること,③第1論文では,実験による賦活部位がゲシュウィンドの仮説と整合しなかったのに対し,第2論文では同仮説と整合していること等の点で明らかに研究内容を異にするものである。

研究論文において,執筆者が,自己の結論を導く前提として,第1論文や第2論文よりさらに先行する既存の損傷研究結果に触れたり,先行する研究結果から抽出される一般的な科学的知見等を説明することが必要であると判断した場合に,それらに言及することは,何ら不自然でない。自己の論文の前提として,言及する対象となる先行研究成果がどのようなものであるかは,事実に関する事柄であるから,その事実を紹介する記述内容は,執筆者によって,さほど異ならないのは通常であり,また,表現の選択の幅も狭いものとなる。

そのような諸点を考慮した上で,別紙対比表2のcないしlの第1論文該当箇所における,同第2論文該当箇所と表現が共通する部分又は似通っていると原告が主張する部分について検討する。

①  対比表2のc

第1論文の該当表記部分は,「この領域は書字の中枢として永く提唱されてきたエクスナー領に近い。その領域への損傷は文字の失読-失書を生ずる。失読-失書においては,書記素-音素および音素-書記素変換が障害された。」という事実を述べるために,英文により,「This area is close to the Exner's area which has long been proposed as the center for writing.

Lesionsto theregion induce alexia with agraphiafor lettersin which grapheme-to-phoneme and phoneme-to-grapheme conversions were disturbed.」と表記したものである。

第1論文の当該表記部分は,当該領域位置とその損傷が失読-失書を生じ,書記素-音素及び音素-書記素変換が障害されるとの事実を専門的な用語を用いて,ごく普通に表現したものであって,創作的表現であるとはいえない。

第1論文の当該表記部分は,事実を端的に,ごく普通の構文を用いた英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない。

②  対比表2のd

第1論文の該当表記部分は,「損傷研究の証拠から書記素-音素および音素-書記素変換が左背側運動前と左頭頂間溝の前部でおこなわれると我々は推定した。」という推定した事実の内容を述べるために,英文により,「We supposed that grapheme-to-phoneme andphoneme-to-grapheme conversionswereperformed inboththe leftdorsalpremotorand the anterior part of the left intraparietal sulcus from the evidence of lesion research. 」と表記したものである。

第1論文の当該表記部分は,推定した事実内容(なお,推定した内容は,第1論文と第2論文では異なる。)を専門的な用語を用いて,ごく普通に表現したものであって,創作的表現であるとはいえない。

また,第1論文と第2論文との共通する表現部分をみると,「phoneme-to-grapheme conversions」(「音素-書記素変換」)との専門用語における共通表現と評価できる。

第1論文の当該表記部分は,事実内容を端的に,ごく普通の構文を用いた英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない。

③  対比表2のe

第1論文の該当表記部分は,「英語を刺激として用いた損傷研究は音素と書記素の間の直接の置換を研究するには困難がある。」という判断内容を述べるために,英文により,「Thelesion studieswhichused English as stimulihavedifficulty toinvestigatedirecttranslationbetween phoneme and grapheme.」と表記したものである。

第1論文の当該表記部分は,判断した内容を,ごく普通に表現したものであって,創作的表現であるとはいえない。

また,第1論文と第2論文との共通する表現部分をみると,共通する表現部分は,「lesion studies」(「損傷研究」),「phoneme and grapheme」(「音素-書記素」)という通常使用される専門用語における共通表現と評価できる。逆に,「as stimuli」(「刺激として」,第1論文)と「as the stimulus languages」(「刺激言語として」,第2論文),「translation」(「置換」,第1論文)と「linkages」(「つながり」,第2論文),「have difficulty」(「困難がある」,第1論文)と「have been limited」(「制限をうけてきた」,第2論文)など異なる表現が用いられている。

第1論文の当該表記部分は,判断の内容について,ごく普通の構文を用いた英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない。

④  対比表2のf

第1論文の該当表記部分は,「 なぜなら,英語では,音素は2つあるいはそれ以上の書記素であらわされるからである。しかし,特に日本語では,書記素-音素あるいは音素-書記素変換は単純である。なぜなら1つの書記素はただ1つの音素で表わすことができ,その逆もそうである。」という判断事実の内容を述べるために,英文により,「Becausein English phonemes are represented by two or more graphemes. But particularlyin Japanese,grapheme-to-phoneme or phoneme-to-grapheme conversion is simple, since onegraphemecan be represented by only one phoneme and vice versa.」と表記したものである。

第1論文の当該表記部分は,判断内容をごく普通に表現したものであって,創作的表現であるとはいえない。

また,第1論文と第2論文との共通する表現部分をみると,共通する表現部分は,「in English phonemes are represented by two or more graphemes」(「英語では,音素は2つあるいはそれ以上の書記素であらわされる。」),「grapheme can be represented by only one phoneme andvice versa」(「書記素はただ1つの音素で表すことができ,その逆もそうである。」)との部分のみであり,第1論文における執筆者の個性の発揮された表現部分において,共通するということはできない。

第1論文の当該表記部分は,判断内容を端的に,ごく普通の構文を用いた英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない。

⑤  対比表2のg

第1論文の該当表記部分は,「日本語の表音文字は,他の言語に比較して発音と正書法の関係に有利な点がある。我々の研究のように,日本語を刺激として使用するのは,音素と書記素の間の関係を明らかにするのに最も適切である。」という判断内容を述べるために,英文により,「Japanese phonogramshave anadvantagefor therelationofpronunciation and orthography compare to other languages.Using Japanese as stimuli such as our study ismost appropriate to clarify the relationship between phoneme and grapheme.」と表記したものである。

第1論文の当該表記部分は,判断内容をごく普通に表現したものであって,創作的表現であるとはいえない。

また,第1論文と第2論文との共通する表現部分をみると,共通する表現部分は,「Japanese phonograms」(「日本語の表音文字」),「otherlanguages」(「他の言語」),「proununciation and orthography」(「発音と正書法との関係」)のみであること,記述の形式においても,第1論文は2文で構成されているのに対し,第2論文は1文で構成されていること等,第1論文の後半の文章が第2論文にない点において相違する。

第1論文の当該表記部分は,判断内容を,ごく普通の構文を用いた英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない。

⑥  対比表2のhないしl

第1論文の該当表記部分は,対比表hないしlについては,書字の伝統的なモデルにおいては,文字の書記素表象が左頭頂領域で行われるのに対し,書記素の運動表象が左運動前領域で行われるとされるとの先行知見に係る記載である。先行知見の内容やその紹介に係る表現や記述の順序については,個性的な表現が用いられているものではなく,創作性はない。

以下,一括して述べる。すなわち,

対比表2のhについて,第1論文の該当表記部分は,「書字の伝統的モデルの1つは左頭頂領域が文字の書記素のイメージを提供し,一方,運動前領域は書記素の運動イメージを組織することを示唆している。」という判断を含めた事実を述べるために,英文により,「Atraditional model of writing suggests that the left parietal region provides graphemic images for letterswhilethe left premotorregionorganizes graphemic motor images.  」と表記したものである。

対比表2のiについて,第1論文の該当表記部分は,「書記素文字イメージの組織化では,左頭頂領域が重要であるということは一般に受け入れられてきた。」という事実の内容を述べるために,英文により,「The importance of the left parietal region in organizing graphemic letter images has been generally accepted.  」と表記したものである。

対比表2のjについて,第1論文の該当表記部分は,「いくつかの神経画像研究と損傷研究は一貫性のある証拠を提供してきた。」という判断を含めた事実を述べるために,英文により,「Several neuroimaging studies and lesion studies have also provided consistent evidence.」と表記したものである。

対比表2のkについて,第1論文の該当表記部分は,「対照的に,文字を書くために書記素の運動イメージを組織するのに左運動前領域が特にたずさわっているということは,十分確立されていない。」という判断を含めた事実を述べるために,英文により,「In contrast, the specific involvement of the left premotorregionin organizing graphemic motor images for writing letters has not been well established.」と表記したものである。

対比表2のlについて,第1論文の該当表記部分は,「しかし,若干の研究は,左運動前領域が書記素のイメージを提供することに特にかかわっているのではなく,書記素の運動心像のような,書字系の他の構成要素と関係しているということをほのめかしている。」という判断を含めた事実を述べるために,英文により,「However, some studies implythat the left premotorregionis not specifically involved in providing graphemic images but is associated with other components of the writing system such as gaphemic motor imagery.」と表記したものである。

以上のとおり,第1論文の当該表記部分は,判断を含めた事実について,ごく普通の構文を用いた英文で表記したものであって,全体として,個性的な表現であるということはできず創作性はなく,また表現の本質的な特徴部分も認められないから,第2論文該当箇所は,第1論文該当箇所を複製したものということはできず,また翻案ということもできない。

この点について,原告は,「Discussion」には,多数の書き方が存在するから,第1論文の当該表記部分は,創作性を有すると主張する。しかし,ある内容を表現するに当たり,他の表現の選択が可能であったとしても,そのことから,当然に,当該表記部分に創作性が生じると解すべきではなく,創作性を有するとするためには,表現に個性が発揮されていることを要する。第1論文該当箇所は,いずれも,語句の選択,順序,配列を含めて格別の個性の発揮された表現であるということはできないから,原告の主張は理由がない。

なお,第2論文は,第1論文と対比すると,表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において共通する部分が存在するが,「Results」及び「Conclusion」の各章は,記載内容において相違すること,第2論文は,第1論文の全体記述及び個々の記述を総合勘案しても,第1論文の表現の本質的特徴を感得できるものではない点については,既に述べたとおりである。

3 その他の主張について

原判決100頁20行目から107頁3行目までを,下記のとおり改める。

「(1) 同一性保持権侵害の有無

原告は,被告が,コレスポンディングオーサーである原告の同意を得ずに,第1論文を改変して第2論文を作成し,ニューロレポート誌に発表した行為は,原告の第1論文に対する同一性保持権及び公表権の侵害に当たる旨主張する。しかし,前記認定判断のとおり,第2論文は第1論文の創作的表現を有形的に再製したものではなく,その複製とはいえず,第1論文の本質的特徴を直接感得させるものではなく,その翻案ともいえないものであって,同様の理由から,被告の上記行為は,第1論文の同一性保持権及び公表権を侵害したものということはできない。

(2) その余の請求権(第2論文の撤回請求権,損害賠償請求権)

原告のその余の請求は,判断するまでもなく,理由がない。」

4 結論

原判決107頁5行目から9行目までを,下記のとおり改める。

「 以上によれば,原告の各請求はいずれも理由がない。また,第1論文が共同著作物であるか否かの争点について判断するまでもなく,原告の主張は理由がない。したがって,本件控訴を棄却するとともに,原告の請求を一部認容した原判決の判断には誤りがあるから,附帯控訴に基づいて原判決を取り消して原告の各請求をいずれも棄却することとし,主文のとおり判決する。」

(裁判長裁判官 飯村敏明 裁判官 中平健)

裁判官上田洋幸は,転補により署名押印することができない。裁判長裁判官 飯村敏明

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file_5.jpg別紙2

file_6.jpg別紙3

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