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知財高等裁判所 平成22年(ラ)10006号 決定 2010年5月26日

抗告人

X株式会社

同代表者監査役(相手方甲野一郎に対する関係)

乙山二郎

同代表者代表取締役(相手方Y株式会社に対する関係)

丙川三郎

同代理人弁護士

渋村晴子

片山智裕

蓑毛誠子

宇佐美善哉

相手方

甲野一郎

相手方

Y株式会社

同代表者代表取締役

甲野一郎

上記両名代理人弁護士

西幹忠宏

髙村定憲

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

第1  抗告の趣旨

1  原決定を取り消す。

2  相手方甲野一郎は,別紙事業目録記載の事業に従事してはならない。

3  相手方甲野一郎は,相手方Y株式会社の役員となり,又は相手方Y株式会社に勤務してはならない。

4  相手方両名は,別紙目録1記載の各取引先に対し,別紙事業目録記載の事業のために,各取引先ないし各取引先に所属する役員・従業員に面接する方法又は電話,ファクシミリ,郵送その他の通信手段を用いる方法により連絡をとってはならない。

5  相手方両名は,別紙事業目録記載の事業のために,別紙目録2取引先名欄記載の各取引先に対し,同目録タイプ欄記載の種類の同目録機械番号欄記載の機械番号の各機械につき,適合部品を供給し,又は部品の交換,修理等のアフターサービスを提供してはならない。

6申立費用は,1,2審を通じ,相手方の負担とする。

第2  事案の概要

1  本件は,抗告人が,別紙目録1及び2記載の情報は相手方甲野一郎(以下「相手方甲野」という。)との間の営業秘密保持義務及び業務上の機密保持義務の対象であり,不正競争防止法2条6項所定の営業秘密に該当すると主張して,以下の内容の差止めを求めた仮処分命令申立てを却下した原決定に対する抗告事件である。

(1)相手方甲野に対し,①営業秘密保持義務(又はこれに含まれる同一事業禁止義務若しくは信義則上同一事業が禁止されること)に基づき,又は②不正競争防止法2条1項7号,3条に基づき,別紙事業目録記載の事業(以下「本件事業」という。)に従事することの差止め(抗告の趣旨2項)

(2)相手方甲野に対し,上記(1)①②に加えて,③業務上の機密保持義務に基づき,相手方Y株式会社(以下「相手方会社」という。)の役員となり又は相手方会社に勤務することの差止め(抗告の趣旨3項)

(3)相手方甲野に対し,①営業秘密保持義務に基づき,又は②不正競争防止法2条1項7号,3条に基づき,別紙目録1記載の取引先に連絡することの差止め(抗告の趣旨4項)及び別紙目録2記載の取引先にアフターサービス等を提供することの差止め(抗告の趣旨5項)

(4)相手方会社に対し,不正競争防止法2条1項8号,3条に基づき,別紙目録1記載の取引先に連絡することの差止め(抗告の趣旨4項)及び別紙目録2記載の取引先にアフターサービス等を提供することの差止め(抗告の趣旨5項)

2  原決定は,別紙目録1記載の情報は,営業秘密保持義務の対象ではなく不正競争防止法2条6項の営業秘密にも該当しないし,相手方両名が別紙目録2記載の情報を取得,開示又は使用したことを認めるに足りないなどとして,本件申立てを却下したため,抗告人は,原決定を不服として本件抗告を提起した。

3  本件申立てに対する判断の前提となる事実は,次のとおり訂正するほかは,原決定の理由の要旨第2の2(原決定2頁22行~7頁17行)のとおりであるから,これを引用する。

(1)原決定5頁15行,16行の「営業秘密①」を「本件情報1」と改める。

(2)原決定5頁16行の「別紙営業秘密目録①」を「別紙目録1」と改める。

(3)原決定5頁19行,20行の「営業秘密②」を「本件情報2」と改める。

(4)原決定5頁20行の「別紙営業秘密目録②」を「別紙目録2」と改める。

(5)原決定6頁6~7行の「債権者の本件事業の取引先34社のうち15社」を「本件情報1記載の取引先のうちの12社を含む15社」と改める。

4  本件申立てにおける争点

本件申立てにおける争点は,以下のとおりである。

(1)営業秘密保持義務及び業務上の機密保持義務に基づく請求について

ア 本件情報1及び2は営業秘密保持義務及び業務上の機密保持義務の対象か(争点1─1)

イ 相手方甲野の義務違反の有無(争点1─2)

ウ 営業秘密保持義務の内容及び業務上の機密保持義務の内容(争点1─3)

(2)不正競争防止法に基づく請求について

ア 本件情報1及び2は不正競争防止法2条6項所定の営業秘密に該当するか(争点2─1)

イ 相手方甲野の行為が不正競争防止法2条1項7号に,相手方会社の行為が同項8号に該当するか(争点2─2)

ウ 相手方両名に対する差止めの内容(争点2─3)

(3)保全の必要性(争点3)

第3  当事者の主張

1  争点1─1(本件情報1及び2は営業秘密保持義務及び業務上の機密保持義務の対象か)及び争点2─1(本件情報1及び2は不正競争防止法2条6項所定の営業秘密に該当するか)について

〔抗告人の主張〕

(1)抗告人と相手方甲野との間で締結された顧問契約が準用する就業規則4条では,「営業秘密」とは「会社が保持する技術上または営業上の有用な情報であって,会社が秘密として管理するもの」と定義されており,非公知性を要件とする不正競争防止法2条6項所定の営業秘密より広い概念である。また,相手方甲野が退職後も負う業務上の機密保持義務の対象たる業務上の機密とは,業務上知り得た秘密をいい,同項所定の営業秘密より広い概念である。本件情報1及び2は,不正競争防止法2条6項所定の営業秘密に該当するから,就業規則所定の営業秘密及び業務上の機密に当たることは明白である。

(2)本件情報1について

ア 有用性

本件情報1は,記載の各取引先が本件事業の抗告人との取引先であることを示す営業上の情報であり,本件事業の展開に有用な情報である。

イ 秘密管理性

(ア)抗告人は,従業員に対し,在職中退職後を問わず,営業秘密の漏洩や不正利用をしてはならない旨を指導し,役員や従業員が退職する際には誓約書を徴求し,退職に際して一切の資料を後任者に引き継がせている。

(イ)取引先の属性情報は,販売管理システムの中で電子情報として管理されており,このシステムにアクセスするには従業員貸与のパソコンとこのシステムへのログオン時にユーザ名及びパスワードを入力しなければならず,また,ユーザごとにアクセス権限が限定されている。営業担当者は1つの取引先を指定してその属性情報を閲覧することしかできず,複数の取引先の情報を一覧表示で閲覧することはできず,経理部の者は2000件以内の閲覧しかできない。また,取引先名簿をフォームとして印刷又は他の電磁気記憶媒体に保存することはできない。

ただし,取引先に対する中元・歳暮用名簿については表計算ソフトExcelのスプレッドシートで管理しているが,社長秘書のアシスタントに貸与されたパソコンに保存し,社長秘書しかアクセスできないようにしてある。このスプレッドシートは,中元又は歳暮を発送するときには業者に対して印刷した紙媒体を交付するが,用済み後は業者から返却を受け,廃棄している。

ウ 非公知性

本件情報1は公然と知られていない。

エ 原決定は,取引先名簿として網羅的・体系的な情報であることが営業秘密の要件であるかのごとく説示し,抗告人の「販売管理システムに記録された,又は成型機納入一覧表に記録された体系的な情報こそが『営業秘密』であり」と判断した。

しかし,営業秘密としての有用性(財産的価値)について,商社や本件事業の実情を全く顧慮せず,営業秘密として認められることの多い一般的な取引先名簿の性質(体系性)に拘泥し,実質的な判断を欠いている。本件事業は,抗告人によって日本国内で独占的に展開されてきた事業であり,本件事業の取引先か否かという情報が,事業として成り立つためのある程度の体系性を備えることで財産的価値が生じるのである。商社である抗告人にとって,商権や商流に関する情報(どの商権・商流の取引先かという情報)こそが,メーカーにおける技術情報に匹敵する最高機密であるが,このような最高機密を体系的に化体した媒体(電子データ)で管理すれば,かえって不正使用や漏洩のリスクが大きくなるので,一般的にそのような管理をすることはなく,むしろ,従業員等の記憶のみに留めておき,これら従業員等に秘密保持義務を課すことが最も適切な秘密管理方法である。

また,情報としての体系性は営業秘密の要件ではない(不正競争防止法2条6項)。営業秘密はあくまで情報(コンテンツ)であり,それが化体した媒体(電子データ)ではないから,販売管理システムや成型機一覧表のようなシステムや表計算ソフトに記録されることによって「体系性」を帯びなければならないものではない。本件では,本件事業の取引先か否かという情報が,事業として成り立つためのある程度の体系性を備えることで財産的価値が生じるのであり,相手方甲野の記憶に留められる程度であっても営業秘密として十分な体系性があるといえる。

(3)本件情報2

ア 本件情報2の各取引先名,タイプ,機械番号は,同目録取引先記載の各取引先が,同目録タイプ欄及び同機械欄記載の種類・機械番号の包装機械の納入を受けたことを示す営業上の情報であり,本件事業の展開に有用な情報であるから,有用性がある。

イ 秘密管理性

(ア)抗告人は,従業員に対し,在職中退職後を問わず,営業秘密の漏洩や不正利用をしてはならない旨を指導し,役員や従業員が退職する際には誓約書を徴求し,退職に際して一切の資料を後任者に引き継がせている。

(イ)成型機納入一覧表は,営業部の営業担当者数人の抗告人貸与のパソコンに表計算ソフトExcelのスプレッドシートで管理している。パソコンのログオン時にはアクセス制限があり,営業担当者の配転や退職の際には,上記一覧表を各自のパソコンから消去している。

ウ 非公知性

本件情報1は公然と知られていない。

エ 本件事業の各取引先にどのタイプのどういう包装機械を納入したかという情報が,事業として成り立つためのある程度の体系性を備えることで財産的価値が生じるものである。

〔相手方両名の主張〕

争う。相手方甲野は,本件情報2を見たことがない。また,本件情報1は,相手方甲野の記憶,ホームページ及び名刺等を参考に準備した名簿に基づくものであって,本件事業に全く関係のない取引先も含まれており,顧客名簿を流用したものではない。

2  争点1─2(相手方甲野の義務違反の有無)及び争点2─2(相手方甲野の行為が不正競争防止法2条1項7号に,相手方会社の行為が同項8号に該当するか)について

〔抗告人の主張〕

(1)相手方甲野が抗告人から営業秘密を示されたこと

相手方甲野は,抗告人の従業員,役員又は顧問として本件事業に関わってきたから,本件情報1及び2を示された。

(2)営業秘密の使用・開示行為

本件案内状及び本件連絡状の内容のとおり,相手方会社は,本件事業の取引先及び同取引先がH社製包装機械の納入を受けていることを知っていたから,相手方甲野が相手方会社に対し,本件情報1及び2を開示したとしか考えられない。よって,相手方甲野は本件情報1及び2を本件事業のために使用し,相手方会社に開示したことが明らかであり,今後も使用及び開示の蓋然性がある。

(3)不正の利益を得る目的

本件事業と,相手方甲野が従事し相手方会社が行おうとする事業とは同一であり,相手方両名には,不正の利益を得る目的があった。

(4)原決定は,相手方らが本件情報2を「取得,開示又は使用したことを認めるに足りる疎明資料はない」と判示したが,これも原決定が本件情報2を「成型機納入一覧表に記録された体系的な情報こそが『営業秘密』であり」という前提から導いたものと解される。相手方甲野が相手方会社の代表取締役として本件事業を現に展開している以上,抗告人在職中に示され,記憶にとどめているこれらの情報を使用,開示するおそれがあることは明らかであり,相手方甲野の記憶の範囲や分量が問題になるわけではない。

〔相手方両名の主張〕

(1)相手方甲野は,抗告人退職後には自宅を拠点に食品関係のコンサルタント業務,機器販売等を事業とする会社を設立することを考えていたが,H社からの突然の要請で,急きょ,H社の受け皿会社である相手方会社を設立することとなった。相手方甲野は,平成21年8月,H社を訪問し,H社の代理店として今後活動していくための学習を受け,H社から,重要書類を初め営業活動(顧客情報も含む。)に必要な資料を入手し,これを基礎に本件案内状等を送付した。

(2)相手方会社がH社から抗告人に対する解除通知がされる前に設立されているのは,解除通知前に受け皿会社が準備されていなければ,H社の顧客に多大な迷惑が掛かってしまうからである。抗告人は既にH社の販売店ではなく,競業には当たらない。

3  争点1─3(営業秘密保持義務の内容及び業務上の機密保持義務の内容)及び争点2─3(相手方両名に対する差止めの内容)について

〔抗告人の主張〕

(1)抗告の趣旨2項の根拠

ア 抗告人が行っている事業と相手方甲野が従事している事業は,本件事業という同一の事業であり,相手方甲野は,抗告人から同一の事業に係る商権を奪おうとするものである。相手方甲野に対し退職後に同一の事業を行ってはならないという義務を課したとしても,公序良俗に違反するものではなく,信義則上相手方甲野は同一の事業を行うことが許されない。

イ 相手方甲野は,本件事業に従事する以上,不可避的に本件情報1及び2を不正に使用・開示しているといえるのであって,営業秘密保持義務に違反することなく本件事業に従事することができない。

ウ また,相手方甲野が抗告人に対して負う営業秘密保持義務には,同一事業禁止義務が含まれ,又は相手方甲野は信義則上同一事業に従事することが禁止される。

エ よって,営業秘密保持義務又は不正競争防止法2条1項7号に基づく侵害の停止又は予防ないしこれらに必要な行為として,相手方甲野が本件事業に従事することを差し止めることができる。

オ 原決定には,営業秘密保持義務には同一事業禁止義務が含まれ,又は信義則上抗告人が現に営む事業と同一の事業に従事することは許されないとの抗告人の主張に基づく抗告の趣旨2項の請求について,判断の遺脱がある。

(2)抗告の趣旨3項の根拠

ア 相手方甲野が抗告人に対して負う業務上の機密保持義務又は営業秘密保持義務には,抗告人の事業と同一の事業に従事し若しくは同一の事業を行う第三者の役員・従業員になってはならない旨の同一事業禁止義務が含まれており,又は相手方甲野は信義則上上記同一事業に従事することが禁止される。

イ よって,業務上の機密保持義務又は営業秘密保持義務若しくは不正競争防止法2条1項7号に基づく侵害の停止又は予防ないしこれらに必要な行為として,相手方甲野が相手方会社の役員となり又は相手方会社に勤務することを差し止めることができる。

ウ 原決定には,業務上の機密保持義務に基づく抗告の趣旨3項の請求について,判断の遺脱がある。

(3)抗告の趣旨4項及び5項の根拠

ア 抗告人は,相手方甲野に対し,営業秘密保持義務に基づき,又は不正競争防止法2条1項7号,3条に基づき,本件情報1及び2を使用することを差し止めることができる。

イ 抗告人は,相手方会社に対し,相手方甲野の不正開示行為を知って本件情報1及び2を取得・使用することを差し止めることができる。

〔相手方両名の主張〕

争う。

4  争点3(保全の必要性)について

〔抗告人の主張〕

相手方両名が本件事業と同一の事業を継続すれば,抗告人がその間営業上の損害を被り続けることはもとより,本件事業の顧客が奪われていき,ひいては抗告人を日本国内の唯一の販売店として指定するH社からの信用も毀損されることになりかねない。商社である抗告人が産業機械を取り扱うという本件事業の性質上,取引先が継続的,固定的にならざるを得ず,いったん取引先(商権)を失えば回復することは著しく困難である。したがって,本案訴訟の帰すうを待っていたのでは,抗告人は回復し難い重大な損害を被ることになる。

〔相手方両名の主張〕

H社は,相手方会社を日本国内の唯一の販売店としているから,保全の必要性は全く存在しない。相手方会社がその責任を全うしなければ,H社の顧客に不安や迷惑がかかることになるため,その意味からも差止めは認められるべきではない。

第4  当裁判所の判断

1  疎明された事実

疎明資料及び一件記録によれば,以下の事実が一応認められる。

(1)当事者

ア 抗告人

抗告人は,昭和51年5月15日の設立当初から少なくとも平成21年6月までの間,自ら又は子会社を介し,H社の日本での唯一の販売代理店として,本件事業を行っていた(甲1,7)。

イ 相手方甲野

相手方甲野は,昭和51年7月に抗告人に入社し,昭和62年2月に取締役に就任し,平成15年2月から平成20年2月までその代表取締役社長を務め,その後平成21年2月まで抗告人の常勤顧問を務め,本件事業にも関わっていた(甲3)。

ウ 相手方会社

相手方会社は,平成21年4月1日に,紙・板紙加工機器,印刷・製本機械,食品加工機械,材料・加工物の移送等の省力化機器,測定器,検査機,情報制御機器等の電子応用機器,情報処理機器及びその周辺機器並びにこれらの部品の輸出入・売買・仲介業等を目的として,設立された株式会社である。相手方会社は,相手方甲野が発行済株式の49%を,H社代表者が発行済株式の51%を出資し,相手方甲野が,設立時から相手方会社の代表取締役を務めている(甲2,13)。

(2)抗告人と相手方甲野の契約内容

ア 抗告人と相手方甲野は,平成20年2月27日,顧問契約(甲4)を締結した。同契約においては,相手方甲野が業務上知り得た抗告人の秘密に関し,正当な理由なく他へ漏らしたり,又は盗用してはならない旨が定められ(4項),就業に関する事項について社内規則が準用されている(5項④)。抗告人の就業規則(甲5)においても,同規則が顧問に準用されることが規定されている(2条2項)。

イ 抗告人の就業規則(甲5)4条(2)において「業務上の秘密を他に漏らさないこと。退職後も同様である。」として,以下の定めがある。

(ア)営業秘密を不正に開示しまたは使用してはならないこと。退職後も同様である。

(イ)職務上の注意を欠いて営業秘密の開示,使用,漏えい等の生じないよう秘密保持をしなければならない。

(ウ)「営業秘密」とは会社が保持する技術上または営業上の有用な情報であって,会社が秘密として管理するものをいう。

ウ 抗告人と相手方甲野との間に競業避止義務を定めた契約はない(争いがない)。

(3)顧客情報等の管理状況

ア 抗告人は,従業員に対し,在職中退職後を問わず,営業秘密の漏洩や不正利用をしてはならない旨を指導し,役員や従業員が退職する際には誓約書を徴求し,退職に際して一切の資料を後任者に引き継がせている。もっとも,相手方甲野は,退職に際して誓約書を作成しなかった(甲11,12,審尋の全趣旨)。

イ 抗告人において,取引先の属性情報(企業名・住所・電話FAX番号・産業分類・業種分類等)の一覧表(取引先名簿)は,販売管理システムの中で電子情報として管理されている。上記システムにアクセスするには従業員貸与のパソコンとこのシステムへのログオン時にユーザ名及びパスワードを入力しなければならず,また,ユーザごとにアクセス権限が限定されている。営業担当者は1つの取引先を指定してその属性情報を閲覧することしかできず,複数の取引先の情報を一覧表示で閲覧することはできない。また,取引先名簿をフォームとして印刷又は他の電磁気記憶媒体に保存することはできない(甲9,11)。

ウ 抗告人において,取引先に対する中元・歳暮用名簿は,表計算ソフトExcelのスプレッドシートで管理されている。これは,社長秘書のアシスタントに貸与されたパソコンに保存され,社長秘書しかアクセスできない。中元又は歳暮を発送する際,上記スプレッドシートを印刷した紙媒体を業者に交付するが,用済み後は業者から返却を受け,廃棄している。なお,上記中元・歳暮用名簿には,取引先452社分が50音順に掲載されているが,H社の製品の納入先34社の特定がされているものではない(甲11,17,18)。

エ H成型機納入一覧表(H社から納入した成型機を機械番号ごとにまとめた一覧表)は,営業部の数人の営業担当者の抗告人貸与のパソコンに表計算ソフトExcelのスプレッドシートで管理されている。パソコンのログオン時にはアクセス制限があり,営業担当者の配転や退職の際には,上記一覧表を各自のパソコンから消去している(甲11)。

(4)H社との販売店契約

ア 抗告人は,昭和51年5月15日の設立当初からH社の日本での唯一の販売店として,本件事業を行っていた。平成12年11月14日付けの抗告人とH社の販売店契約書(以下「本件契約」という。)には,以下の約定がある(甲7)。

(ア)抗告人が本件事業に係る製品(以下「本件製品」という。)の販売店として25年間活動し長期間の事業上の関係を維持している……H社と抗告人は,両者間の取引条件を書面化し,この機会に,未来の最低限の協力期間を定めることによって,両者間の長期にわたって築き上げた事業上の関係を形にすることを希望している(序文)。

(イ)H社は,本件契約の条項に従って,抗告人を,日本及び本件事業における製品の販売に関する唯一の販売店に指名する((2)の1))。

(ウ)抗告人は,H社の専門的技能を必要とする可能性のある本件製品の一般的でない部分を除き,日本において,日本国内の顧客に対し販売された本件製品の全部又は一部への十分なアフターサービスを提供する責任を負う。この場合,抗告人は,H社に対し,日本国内の顧客のアフターサービス要求事項を通知し,H社は,当該アフターサービスに責任を負う(8.3(b))

(エ)抗告人は,H社に対し,H社が合理的に請求するマーケットの状況及び販売活動に関する情報を提供することに合意する(8.4(b))。

(オ)本件契約は,別途正当な理由により解除されない限り,最短でも,平成19年6月30日まで効力を有する(12.1)。

(カ)各当事者は,6か月の予告期間を付した書面による通知をすることにより,何らの解除原因を要することなく,平成19年6月30日限り本件契約を解除することができる(12.2)。

(キ)12.2条又は13条によって解除されない限り,本件契約は自動的に1年間更新され,さらに,各当事者は,6か月の予告期間を付した書面による通知をすることにより,当該1年の更新期間の満了により本件契約を解除することができる(12.3)。

(ク)もし,各当事者が本件契約に定める義務のいずれかに違反した場合,及び(もし,かかる違反状態が是正され得る場合には)相手方当事者から当該違反状態を30日以内に是正するよう請求されたのに是正できなかった場合には,相手方当事者は,違反当事者に対して書面で通知することにより直ちに本件契約を解除することができる(13.2)。

イ H社は,抗告人に対し,平成21年4月30日ころ,抗告人がH社に誤った情報を流してH社に過度の値引きをさせてその差額を抗告人が得たことについて説明を求めるとの催告をし,その後,適切な回答がないとして,同年6月9日,H社と抗告人との間の本件契約を解除する旨の通知をした(乙2,審尋の全趣旨)。

ウ H社は,平成21年8月ころ,相手方会社との間で本件事業に関する独占的販売代理店契約を締結した。なお,相手方甲野は,そのころ,H社を訪問し,代理店として活動していくための指導を受け,H社から営業活動に必要な顧客情報等の資料を入手した。なお,H社作成の「Machine Reference Lists」には,顧客名・機械番号・納入年月・タイプ等が記載されている(乙1,審尋の全趣旨)。

(5)相手方らの行為

ア 相手方会社は,H社の取引先に対するあいさつ状に連記して,平成21年8月24日ころ,次の内容の本件案内状を送付した。なお,本件案内状は,抗告人の主張する本件事業に係る取引先34社(本件情報1)のうちの12社を含む15社に送付された(甲11,14,19)。

「Y株式会社は,主にドイツ国ドンズドルフに本社がございますM・H・マシネンファブリーク株式会社の日本の代理店として事業展開を行って参ります。……弊社は,H社の日本事務所的な機能を持つ会社となり,H社と顧客の皆様との間に立ち,皆様にご満足して戴くことの出来る情報のご提供,技術サポートの円滑な実施を行うことを社是といたします。」

なお,H社の代表者名義のあいさつ文には,日本における代理店が抗告人から相手方会社に移行したこと等の通知等が記載されている。

イ 相手方会社は,平成21年9月10日ころ,次の内容の本件連絡状を,抗告人の本件事業の取引先である大日本印刷株式会社外2社に送付した(甲15の1・2,甲19)。

「御報告申し上げました通り,メーカーのH社の立場と致しましては平成21日6月9日でX株式会社との代理店契約は終了致して居ります。従いまして終了いたしました代理店契約書の規定に基づきましてお買い上げ載きましたH社の機械に対しますアフターサービス及びパーツの供給に関しましては下記の方法で対応させていただきます。……

(1)保証期間中の機械

供給者でありますX株式会社がその責任で必要とされるサービスを御提供致します。また保証業務に必要となります部品はH社より直接X株式会社に提供致します。但し,保証期間中の機械でございましても機械の通常の御使用のためご購入いただくスペアパーツに関しましては弊社でお見積もりさせていただき弊社よりご購入いただくことになります。……

(2)保証期間終了後の機械

アフターサービス及びパーツの御提供は全て弊社で実施させていただくことになります。H社よりはX株式会社にパーツの供給を致しません。」

(6)抗告人と相手方らとの紛争

抗告人は,本件仮処分命令の申立てに先立って,東京地方裁判所に対し,相手方会社を債務者として,本件案内状及び本件連絡状に虚偽の事実が摘示されていると主張して,不正競争防止法2条1項14号に基づき,抗告人の顧客に対して抗告人とH社の販売店契約が終了した旨等の事実を告知流布することの差止めを求める仮処分命令を申し立てたが,平成22年1月19日,決定をもって却下された(乙2)。

2  営業秘密保持義務及び業務上の機密保持義務に基づく請求について

(1)抗告人は,本件案内状及び本件連絡状の前記内容からして,相手方会社において,本件事業の取引先及び同取引先がH社製包装機械の納入を受けていることを知っていたとし,それは,相手方甲野が相手方会社に対し,本件情報1及び2を開示したからであるかのように主張する。

しかしながら,前記説示のとおり,本件案内状及び本件連絡状は,相手方会社が,H社との間で販売代理店契約を締結したことに伴い,本件事業に係る取引先となるべき会社の一部に対し,送付したものであり,その数も,抗告人が取引先であると主張する34社(本件情報1)のうち,本件案内状が12社,本件連絡状が3社にすぎないものである(前記1(5))。そして,抗告人は,H社との間の本件契約の約定に基づき,顧客のアフターサービス要求事項やマーケットの情報等をH社に通知する義務があり(前記1(4)ア),H社が相手方会社の営業活動に必要なリストを作成した上,相手方甲野に対し,当該リストを交付し(前記1(4)ウ),H社の取引先に対するあいさつ状に連記した形式で相手方会社の本件案内状が送付されたこと(前記1(5))等に照らすと,相手方会社において,相手方甲野が抗告人から取得した取引先に関する情報の開示を受けて本件案内状及び本件連絡状を送付したものと認めるに足りないし,まして,それが抗告人の主張する本件情報1及び2であったと認めるに足りる疎明資料は存しない。加えて,H社が抗告人との本件契約を解除したことについて相手方甲野が関与したことをうかがわせる事実はないし,H社が相手方会社との間で販売店契約を締結したことについて相手方甲野が抗告人に対する害意をもって関与したことをうかがわせる事実もないことに照らすと,本件案内状及び本件連絡状の送付それ自体をもってしても,相手方甲野が営業秘密保持義務及び業務上の機密保持義務に違反したということはできないし,違反するおそれがあるということもできない。

(2)抗告人は,営業相手方甲野の記憶に基づく顧客情報の開示それ自体が営業秘密保持義務に違反すると主張する。

この点について,なるほど,相手方らは,本件案内状及び本件連絡状は,相手方甲野自身の記憶,ホームページ及び名刺等を参考に準備した名簿に基づいて送付したものであると主張している。しかし,本件案内状がH社のあいさつ状に連記したものであり,本件連絡状を含め,本件情報1の取引先の半数にも満たない取引先に送付されたことからして,相手方甲野が抗告人のもとで得た顧客情報を開示したといい得るようなものではなく,これをもって営業秘密保持義務及び業務上の機密保持義務に違反したということはできないし,違反するおそれがあるということもできない。

(3)抗告人は,営業秘密保持義務に同一事業禁止義務が含まれ,信義則上も同一事業禁止義務があると主張する。

しかし,抗告人と相手方甲野との間に競業避止義務を定めた契約のないことは,抗告人の自認するところである。また,相手方甲野が抗告人の代表取締役を務めたことからすると,取締役の善管注意義務(会社法330条)及び忠実義務(同法355条)の履行を確実ならしめる付随的義務として,誠実義務があると解する余地はあるものの,本件においてそれを根拠に信義則上も同一事業が禁止されるとまで解すべき事情は認め難いし,抗告人が抗告の趣旨2項で求めるように,同一事業への従事を無条件に禁止すべきであるということはできない。同一事業への従事を禁止することにより保護される抗告人の利益及びその保護の必要性と,相手方甲野が同一事業への従事を禁止されることによる職業選択の自由の制約による不利益を比較考量しても,抗告人に本件事業への従事を禁止すべき理由は認め難い。

(4)よって,営業秘密保持義務及び業務上の機密保持義務に基づく請求は,いずれも理由がない。

3  不正競争防止法に基づく請求について

(1)抗告人は,相手方甲野が相手方会社に対し,本件情報1及び2を開示し,相手方会社がこれを使用したとして,これらの行為が不正競争行為に当たると主張する。

しかしながら,相手方会社が,相手方甲野が抗告人から取得した情報の開示を受けて本件案内状及び本件連絡状を送付したものと認めるに足りないことは,前記2に判示したとおりである。加えて,H社が相手方会社との間で販売店契約を締結したことに伴い,相手方会社が,本件事業に係る製品の取引先及び納入した機械番号等の情報をH社から入手したことに照らすと,抗告人から相手方甲野が取得したと主張する本件情報1及び2を,相手方両名が使用するおそれがあるということはできない。

(2)よって,不正競争防止法2条1項7号,8号,3条に基づく請求は,いずれも理由がない。

(3)なお,抗告人の主張するように,本件情報1及び2が抗告人の保有する営業秘密に該当し,かつ相手方甲野がこれを相手方会社に開示し相手方両名がこれを使用した事実が認められ,これが不正競争防止法2条1項7号又は8号に該当してこれにより抗告人の営業上の利益が侵害されると認められる場合であったとしても,本件情報1及び2の使用等侵害の停止又は予防を請求することは格別,相手方甲野が本件事業に従事することや,相手方会社の役員となり又は相手方会社に勤務することの禁止は,差止請求権の実現に必要な範囲を超え,不正競争防止法3条2項にいう「侵害の停止又は予防に必要な行為」には当たるとはいえないのであって,そもそも抗告人が抗告の趣旨2項及び3項で求めるような請求は許されないものであることを付言する(最高裁平成10年(オ)第604号同11年7月16日第二小法廷判決・民集53巻6号957頁参照)。

4  結論

以上の次第であるから,本件申立てはいずれも理由がなく,原決定は結論において正当であって,本件抗告は棄却されるべきものである。

(裁判長裁判官 滝澤孝臣 裁判官 髙部眞規子 裁判官 井上泰人)

別紙

事業目録<省略>

目録1,2<省略>

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