知財高等裁判所 平成22年(行ケ)10097号 判決 2011年12月22日
原告
ミヨシ油脂株式会社
同訴訟代理人弁護士
大野聖二
井上義隆
同弁理士
田中玲子
松任谷優子
伊藤奈月
被告
東ソー株式会社
同訴訟代理人弁護士
鎌田隆
柴由美子
同復代理人弁理士
和田利美
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
特許庁が無効2008-800106号事件について平成22年2月26日にした審決を取り消す。
第2事案の概要
本件は,原告が,下記1のとおりの手続において,被告の下記2の本件発明に係る特許に対する原告の特許無効審判の請求について,特許庁が同請求は成り立たないとした別紙審決書(写し)の本件審決(その理由の要旨は下記3のとおり)には下記4の取消事由があると主張して,その取消しを求める事案である。
1 特許庁における手続の経緯
(1) 被告は,平成7年12月1日,発明の名称を「飛灰中の重金属の固定化方法及び重金属固定化処理剤」とする特許出願(特願平7-313845,国内優先権主張日:平成6年12月2日(特願平6-299684))をし,平成15年1月24日,設定の登録(特許第3391173号)を受けた(請求項の数は,10)。以下,この特許を「本件特許」といい,本件特許に係る明細書(甲69)を「本件明細書」という。
(2) 原告は,平成20年6月11日,本件特許のうち請求項6,7及び9に係る発明(以下,請求項の番号に従い,これらの発明を「本件発明6」などといい,これらを併せて「本件発明」という。)について,特許無効審判を請求し,無効2008-800106号事件として係属した(甲61。以下,枝番号を省略する。)。
(3) 特許庁は,平成22年2月26日,「本件審判の請求は,成り立たない。」旨の本件審決をし,その謄本は,同年3月10日,原告に対して送達された。
2 本件発明の要旨
本件発明の要旨は,次のとおりである。
【請求項6】 ピペラジン-N-カルボジチオ酸もしくはピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸のいずれか一方もしくはこれらの混合物又はこれらの塩からなる飛灰中の重金属固定化処理剤
【請求項7】 ピペラジン-N-カルボジチオ酸塩もしくはピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸塩が,アルカリ金属,アルカリ土類金属塩又はアンモニウム塩であることを特徴とする請求項6に記載の飛灰中の重金属固定化処理剤
【請求項9】 ピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸塩がピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸カリウムであることを特徴とする請求項7に記載の飛灰中の重金属固定化処理剤
3 本件審決の理由の要旨
(1) 本件審決の理由は,要するに,①本件明細書の記載が実施可能な程度に明確かつ十分に記載されており(平成14年法律第24号による改正前の特許法36条4項),②特許請求の範囲が発明の詳細な説明に記載されたものでないものを含んでいるとすることができず(同条6項1号),③本件発明が下記アの引用例1に記載された発明(以下「引用発明1」という。)と同一ではなく(特許法29条1項3号),④引用発明1に基づいて容易に発明をすることができたものではないし(同条2項),⑤下記イの引用例2に記載された発明(以下「引用発明2」という。)及び引用発明1に基づいて容易に発明をすることができたものではない(同項)から,本件特許を無効にすることができない,というものである。
ア 引用例1:特開平3-231921号公報(甲1)
イ 引用例2:「2個のジチオカルボキシル基を有するキレート試薬による金属の微量分析の研究Ⅰ」(明治大学農学部研究報告第67号・昭和59年12月20日発行。甲14,55)
(2) なお,本件審決が認定した引用発明1並びに本件発明6と引用発明1との一致点,相違点1及び2は,次のとおりである。
ア 引用発明1:分子量500以下の1級及び/又は2級アミノ基を有するポリアミン分子の窒素原子に結合する活性水素と置換したN-置換基として,少なくとも1個のジチオカルボキシ基:-CSSH又はその塩を有するポリアミン誘導体と,平均分子量5000以上の1級及び/又は2級アミノ基を有するポリエチレンイミン分子の窒素原子に結合する活性水素と置換したN-置換基として,少なくとも1個のジチオカルボキシ基:-CSSH又はその塩を有するポリエチレンイミン誘導体とからなる,飛灰中の重金属の固定化に使用する金属捕集剤
イ 一致点:ポリアミンのカルボジチオ酸又はその塩からなる飛灰中の重金属固定化処理剤
ウ 相違点1:本件発明6は,ポリアミンのカルボジチオ酸又はその塩が「ピペラジン-N-カルボジチオ酸もしくはピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸のいずれか一方もしくはこれらの混合物又はこれらの塩」であるのに対し,引用発明1は,ポリアミンのカルボジチオ酸又はその塩が「分子量500以下の1級及び/又は2級アミノ基を有するポリアミン分子の窒素原子に結合する活性水素と置換したN-置換基として,少なくとも1個のジチオカルボキシ基又はその塩を有するポリアミン誘導体」である点
エ 相違点2:本件発明6の飛灰中の重金属固定化処理剤は,ピペラジン-N-カルボジチオ酸もしくはピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸のいずれか一方もしくはこれらの混合物又はこれらの塩からなるのに対し,引用発明1の飛灰中の重金属の固定化に使用する金属捕集剤は,ポリアミン誘導体と,平均分子量5000以上の1級及び/又は2級アミノ基を有するポリエチレンイミン分子の窒素原子に結合する活性水素と置換したN-置換基として,少なくとも1個のジチオカルボキシ基又はその塩を有するポリエチレンイミン誘導体とからなる点
(3) また,本件審決が認定した引用発明2並びに本件発明6と引用発明2との一致点及び相違点3は,次のとおりである。
ア 引用発明2:ピペラジンビスジチオカルバミン酸塩からなり,金属イオンであるCu2+,Co2+,Ni2+,Hg2+などとの反応で生じるキレートが希薄な溶液でコロイド的粒子として安定に存在する,吸光分析法あるいは光散乱分析法に使用できる金属の微量分析用試薬
イ 一致点:ピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸塩からなる重金属をキレートする薬剤
ウ 相違点3:本件発明6の「ピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸塩」は,「飛灰中の重金属固定化処理剤」であるのに対し,引用発明2の「ピペラジンビスジチオカルバミン酸ナトリウム(ピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸塩に相当する。)」は,「金属イオンであるCu2+,Co2+,Ni2+,Hg2+などとの反応で生じるキレートが希薄な溶液でコロイド的粒子として安定に存在する,吸光分析法あるいは光散乱分析法に使用できる微量分析用試薬」である点
4 取消事由
(1) 実施可能要件に係る判断の誤り(取消事由1)
(2) サポート要件に係る判断の誤り(取消事由2)
(3) 引用発明1に基づく新規性に係る判断の誤り(取消事由3)
(4) 引用発明1に基づく容易想到性に係る判断の誤り(取消事由4)
(5) 引用発明2に基づく容易想到性に係る判断の誤り(取消事由5)
第3当事者の主張
1 取消事由1(実施可能要件に係る判断の誤り)について
〔原告の主張〕
(1) 本件審決は,本件発明の特許請求の範囲に記載されたピペラジン-N-カルボジチオ酸(以下「本件化合物1」という。)若しくはピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸(以下「本件化合物2」という。)のいずれか一方若しくはこれらの混合物又はこれらの塩(以下「本件各化合物」という。)その他の化合物が,化学構造が特定された化合物であり,その合成方法も当業者に周知であり(引用例2,甲63),本件発明の効果についても本件明細書に記載されているから,本件明細書には本件発明の「飛灰中の重金属固定化処理剤」の製造方法について当業者が実施可能な程度に明確かつ十分に記載されており,実施可能要件を満たす旨を説示する。そして,本件審決によれば,当業者が本件発明6を容易に想到し得ないとの根拠は,後記のとおり,本件明細書に記載の安定性試験の結果(【0020】【0021】)のとおり,本件発明6の実施品を65℃に加温しても,pH調整剤である塩化第二鉄(38%水溶液)を20重量%添加しても,硫化水素を発生しないという効果を奏する点にあるとされている。
(2) しかしながら,硫化水素を発生しないという効果を実現するためには,硫化水素の発生源であるチオ炭酸塩という副生成物を含まない,純物質としての本件各化合物の製造方法が本件明細書に具体的に記載されている必要がある。
しかるところ,本件各化合物は,1級アミノ基を含まない2級アミンに由来する化合物であり,純物質としての本件各化合物を加温したり酸を添加しても硫化水素が発生しないことは,公知の一般則である(甲7,8,22~24,35,86,98)ものの,本件各化合物を製造するに当たってチオ炭酸塩の副生を防止する方法は,本件優先権主張日当時又は本件出願日当時には存在せず(甲2,3,7,27),チオ炭酸塩を除く精製工程(引用例2,甲63)も,本件明細書に記載がない。現に,本件明細書を原告(甲4,8,15)及び第三者(甲71)が再現して実施したところ,得られた化合物からは硫化水素が発生した。
このように,本件明細書には,硫化水素の発生源であるチオ炭酸塩を含む本件各化合物(未精製品)の製造方法しか記載がなく,純物質(精製品)としての本件各化合物の製造方法に関する記載がないから,その記載に従って本件発明を実施することは,不可能であり,本件明細書の記載は,特許法36条4項に違反する。
(3) なお,被告による本件明細書の再現とされる実験(甲48,乙12)では,得られた化合物から硫化水素が発生していないが,これは,サンプルを合成するに当たって大量(約53%)の二硫化炭素を消耗させるなど,被告が設定した合成・試験条件が,当業者が選択する余地のないような特殊なものであったためであって,本件明細書を再現したものとはいえないし(甲31),現に,得られた化合物は,本件明細書の記載に比較して,キレート能力の高い本件化合物2(ビス体)の濃度が約半分であり,キレート能力も約67%にとどまるから,再現になっていない。また,被告による2回目の再現実験(乙6)を原告が更に再現したところ(甲91,92),本件明細書に記載のビス体濃度は得られず,このことは,被告が本件化合物2の濃度を高くすることを回避することで,チオ炭酸塩の生成を抑制していることを示している。このように,本件発明6は,本件明細書を特定の条件下で実施しない限り,製造できない。
〔被告の主張〕
(1) 本件発明は,従来,飛灰中の重金属を固定化する処理剤が硫化水素の発生を抑止しておらず,これを抑止することが重要な技術課題とされていた(甲13,54)ところ,主成分として本件各化合物を使用することで,硫化水素の発生をなくす点に意義がある。ちなみに,本件各化合物とアミンとの違いに関する科学的特殊性については,いまだに解明されていない。
(2) 本件発明は,チオ炭酸塩を含まない飛灰用重金属固定化処理剤の製造方法とか,純物質としての本件各化合物の製造方法を開示することを目的としたものではない。むしろ,本件化合物は,化学構造が特定された化合物としては公知であり,その合成方法も,広く当業者に知られていたし(引用例2,甲8,63,78,80),その際にチオ炭酸塩の副生を抑制する手法も,種々存在しており(引用例2),本件明細書も,合成の際に「黄色透明の液体」を得るという明確な指針を示している(【0016】【0018】)。現に,被告による本件明細書の記載の再現実験(甲48,乙6,12)の結果からも,市場に製品として出ている本件各化合物を主成分とする重金属処理剤(原告製品を含む。)からも,いずれも硫化水素の発生は,認められていない(甲43~45)。この点で,原告による実験(甲8,15,31)は,いずれもチオ炭酸塩の生成を促進する条件を意図的に設定したものであり,追試として不適切であるし,第三者による実験(甲71)も,本件特許の有効性を争っている訴外オリエンタル技研工業株式会社が攪拌回転数まで指定して実施させた実験であるにすぎない。
なお,原告は,2級アミン由来の化合物からは硫化水素が発生しない旨を主張するが,硫化水素は,2級アミン由来のジチオカルバミン酸塩からも発生する(甲13,38~41,49,51,53,57)から,原告主張の公知の一般則なるものは,存在しない。
(3) 以上のとおり,本件明細書は,実施可能要件を満たしている。
2 取消事由2(サポート要件に係る判断の誤り)について
〔原告の主張〕
(1) 本件審決は,本件明細書の発明の詳細な説明には本件発明の課題が解決できることを当業者が認識できる程度に記載されているから,いわゆるサポート要件を満たす旨を説示しており,併せて,重金属固定化処理剤の製法によっては副生成物であるチオ炭酸塩が生成し,同処理剤から二硫化炭素が発生するからといって,本件発明6が奏する効果を否定することにはならない旨を説示している。
(2) しかしながら,前記のとおり,本件明細書には硫化水素の発生源であるチオ炭酸塩の副生を抑制又は精製する方法について記載がないから,本件明細書の記載からは本件発明に特有の作用効果が得られず,本件発明6の特許請求の範囲の記載は,本件明細書の記載によりサポートされていない。換言すると,本件各化合物が,その合成方法により硫化水素が発生したりしなかったりするならば(甲2),本件各化合物を硫化水素を発生させない飛灰中の重金属固定化処理剤とすることができる方法についての開示がない限り,本件明細書は,サポート要件を満たさない。
(3) 本件発明がサポート要件を満たすためには,発明の詳細な説明に,pH調整剤との混練又は熱に対して安定であるという効果を当業者が認識できる程度に記載する必要がある。
しかしながら,本件各化合物は,アルカリ性で安定し,酸性では急激に分解するものであるところ,本件化合物のような2級アミン由来のジチオカルバミン酸塩(純物質)がその際に硫化水素を発生させず,二硫化炭素を発生させることは,前記のとおり,公知の一般則である。したがって,本件化合物の安定性(分解しないこと)は,二硫化炭素の発生の有無を見なければ確認し得ない(甲28)が,本件明細書に記載の安定性試験は,硫化水素の発生の有無のみを試験しているから,技術的に無意味であり,本件発明の安定性をサポートしていない(甲72)。むしろ,本件各化合物は,合成方法によっては二硫化炭素の発生源でもあるチオ炭酸塩を発生させる場合があるところ(甲2,7),原告による実験によれば,本件各化合物からは二硫化炭素が大量に発生した(甲8,9)ほか,本件各化合物を主要成分とするA社製品も,二硫化炭素を発生させている(甲7の刊行物7)。
本件明細書には本件発明の製造条件に何ら限定がない以上,以上のとおり,pH調整剤との混練又は熱に対して安定である(二硫化炭素を発生させない)という効果を当業者が認識できる程度に記載したことにならない。
(4) したがって,本件特許は,特許法36条6項1号所定のサポート要件を満たさないものに対してされたものとして無効である。
〔被告の主張〕
(1) ジチオカルバミン酸化合物を有効成分とする重金属固定化処理剤が酸や熱によって分解して硫化水素を発生することは,本件優先権主張日前から公知であった(甲13,28,51)ところ,本件発明は,必須の有効成分を本件各化合物とすることでこの課題を解決したものであって,当業者は,本件明細書を見ればこれを明確に認識できる。このように,本件発明を製造方法や硫化水素の発生の有無で限定しなければならない理由はないから,サポート要件違反の問題は,存在しない。本件発明の特許請求の範囲の記載には,副生成物排除を意図する構成要件の限定などない。
(2) ジチオカルバミン酸塩の分解機構は,原告が援用する甲6の逆反応に限られず,これに引き続く一連の逐次分解機構又はそれとは別の分解機構として,硫化水素を発生する分解機構が存在する(甲38~42,62)。しかも,二硫化炭素の発生が問題となったのは,平成14年2月18日になってからであり,上記甲6は,この問題に対応して行われた実験の結果である(甲60)。したがって,本件発明の有効性を考える上で,二硫化炭素の発生を問題として取り上げることはできない。
本件発明6は,チオ炭酸塩を含まない飛灰用重金属固定化処理剤の製造方法を開示する発明ではないのだから,副生成物の問題は,当業者が周知の慣用手法で適宜対処すればよいことである。
(3) よって,原告の主張はいずれも失当であり,本件発明の特許請求の範囲の記載は,本件明細書によりサポートされている。
3 取消事由3(引用発明1に基づく新規性に係る判断の誤り)について
〔原告の主張〕
(1) 本件審決は,①引用例1にはポリアミン誘導体として多数列挙されている中にピペラジンが例示されているが,ピペラジンに二硫化炭素を反応させて得られたポリアミン誘導体については具体的な記載がないから,ポリアミン誘導体としてピペラジンを特に選択する記載を窺うことができず,これを選択することによる効果も窺い知れないから,相違点1が実質的なものといえる,②引用発明1は,金属捕集剤としてポリアミン誘導体とポリエチレンイミン誘導体との混合物を用いることを意図するものであるが,引用例1の記載からは,飛灰中の重金属固定化処理剤としてポリアミン誘導体を単独で用いることが想定できないから,相違点2が実質的なものといえる,③本件各化合物は,本件明細書に記載の安定性試験によれば硫化水素を発生しないという効果を発揮する(二硫化炭素は,低濃度であるから問題とならない。)が,引用例1には,上記の特有の作用効果を奏する本件各化合物までもが記載されているとはいえない旨を説示する。
(2) しかしながら,前記(1)①についてみると,引用発明1は,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体が単独でも重金属キレート能力に優れているとしてされた発明であって,ポリアミン誘導体の骨格としてピペラジンを明記している。そして,ピペラジンに二硫化炭素を反応させることによって本件各化合物が得られることは,自明であり(引用例2),本件各化合物のようにジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミンである以上,骨格をなすポリアミンの化学構造にかかわらず,重金属のキレート能力があること(引用例1及び2,甲64,70,78~81,95,97),その水溶液がアルカリ性に維持されている限り,酸を加えても分解しないこと(引用例2)及び加熱しても硫化水素を発生させないこと(甲35)は,いずれも,本件優先権主張日当時,当業者の技術常識であった。
したがって,当業者は,引用例1がピペラジンから得られるポリアミン誘導体からなる金属捕集剤すなわち本件各化合物を飛灰中の重金属の固定化に用いることについて記載していることを理解することができたから,引用例1には,相違点1の部分について実質的に開示があり,相違点1は,相違点とはいえない。
(3) 次に,前記(1)②についてみると,引用発明1は,ポリアミン誘導体からなる金属捕集剤が単独でも金属捕集効率に優れているという従来技術の知見を前提に,これに対して,重金属をより強固に固定することで海洋投棄等による最終処分の際のプラスアルファの効果を加える目的でポリエチレンイミン誘導体を混合させたものであるにすぎず,ポリエチレンイミン誘導体の添加は,飛灰や重金属固定化に当たり不可欠ではない。現に,本件優先権主張日当時,ポリアミン誘導体とポリエチレンイミン誘導体がそれぞれ単独で飛灰中の重金属固定化に使用できるとする特許出願が公開されている(甲63,64)。
そして,本件発明6の特許請求の範囲の記載は,そこに他の金属捕集効果を有する成分が添加されることを排除していない以上,引用発明1にポリエチレンイミン誘導体が添加されている点は,相違点にはならず,この点を相違点2とした本件審決の認定には誤りがある。
(4) さらに,前記(1)③についてみると,そもそも,刊行物に発明が記載されているというためには発明の目的や作用効果まで記載されている必要はないから,本件発明の作用効果をもとに相違点1の存在を主張することはできない。
しかも,前記のとおり,本件明細書に記載の合成条件によって生成した化合物からは硫化水素が発生するから,本件発明6には上記の作用効果がない。
(5) 以上のとおり,相違点1及び2は存在せず,本件発明には所期の作用効果もないから,本件特許は,特許法29条1項3号により無効である。
〔被告の主張〕
(1) 本件優先権主張日当時,引用例1に記載された多種多様のポリアミンの羅列の中からピペラジンに的を絞る動機付けはなく,本件各化合物を必須の構成要素とする飛灰中の重金属固定化処理剤を具体的を読み取ることは,その構成及び作用効果の面でおよそ不可能であって,硫化水素を発生しないという本件発明に特有の作用効果を着想する要因もない。
したがって,相違点1は,実質的な相違点である。
(2) 引用発明1は,分子量500以下のポリアミンの誘導体とともに,平均分子量5000以上の高分子ポリエチレンイミンの誘導体を必須の構成要素とする混合物であることにより,廃水処理においてフロック(コロイド粒子の凝集)を大きくして沈降速度を高めることなどを主要な効果とするものであるから,飛灰中の重金属固定化処理剤としてポリアミン誘導体を単独で用いることを想定することはできず,ここからポリエチレンイミン誘導体を排除してしまえば,もはや引用発明1ではない。さらに,原告は,ポリエチレンイミン誘導体の添加がプラスアルファの効果に係る構成である旨を主張するが,本件発明を含めて最終処分形態を念頭に置かない飛灰処理剤はなく,プラスアルファの効果などとはいえない。
また,甲64に記載の発明は,ポリアミン誘導体とポリエチレン誘導体がそれぞれ単独で飛灰中の重金属固定化に使用できるとする特許出願などではなく,引用例1と同様,多数列挙されている化合物の中に「ピペラジン」の1語があるというだけのものであって,ピペラジンに着目し,これに焦点を当てる誘因又は動機付けは一切認められない。
したがって,相違点2は,実質的な相違点である。
(3) 前記のとおり,被告による本件明細書の記載を再現した実験では,硫化水素及び二硫化炭素の発生源であるチオ炭酸塩の副生はみられない。
また,二硫化炭素は,硫化水素に比較して有毒性が低く,その濃度が安全対策を要するレベルに達するか否かが問題なのであるから,その濃度が低く安全対策が不要であるとする甲28は,何ら不自然なものではない。さらに,前記のとおり,甲35は,ピペラジンカルボジチオ酸塩を加温すると硫化水素が発生しないことを記載しているわけではない。
(4) 以上のとおり,相違点1及び2が存在しないとする原告の主張は,いずれも失当である。
4 取消事由4(引用発明1に基づく容易想到性に係る判断の誤り)について
〔原告の主張〕
(1) 本件審決は,飛灰の安定化処理法である混練法に用いられるカルバミン酸系イオウ化合物であるジアルキルジチオカルバミン酸塩の特徴として,甲13に「硫化水素ガス発生(少々)」との特徴の記載があることから,2級アミンからのジアルキルジチオカルバミン酸塩であっても硫化水素を発生する場合があり,したがって,アミンのジチオカルバミン酸塩の安定性が1級アミン由来であるか2級アミン由来であるかの分子構造から一義的に予測可能であるとまではいえない結果,1級アミンからのジチオカルバミン酸塩が硫化水素を発生し,2級アミンからのジチオカルバミン酸塩が硫化水素を発生し難いことを容易に知り得ず,このため,引用例1に接した当業者が多数列挙されている化合物のうち2級アミンとしてピペラジンしかないとしても,硫化水素の発生防止の動機付けとなる前提がなく,引用例1に記載のポリアミンとしてピペラジンを選択することが容易に想到できない旨の判断をしている。
(2) しかしながら,本件審決は,相違点1及び2に係る構成を容易に想到し得るか否かを判断することなく,本件明細書に記載の安定性試験の結果を予測できるかという観点から進歩性の判断を行うという誤りを犯している。
むしろ,相違点1についてみると,甲13は,製品レベルの未精製品について「硫化水素ガス発生」と記載しているにすぎず,飛灰用重金属固定化処理剤から硫化水素の発生を抑止しようという技術課題を明らかにしているものであるところ,前記のとおり,2級アミン由来のジチオカルバミン酸塩が加温又は酸添加による分解によって二硫化炭素を発生させ,硫化水素を発生させないことは,公知の一般則であるから,加温に着目すれば,ピペラジンの選択は,当業者が容易に想到できることである。しかも,引用例1に記載されたポリアミンのうち,1級アミノ基を含まない2級アミンは,ピペラジンしか存在しない。
したがって,当業者は,硫化水素の発生を防ぐために引用例1記載のポリアミンとしてピペラジンを選択することを容易に想到することができた。
なお,被告は,硫化水素の発生が認められるとする閾値を0.3ppm未満とするようであるが(甲99),当該閾値は,0.05ppm 未満であるというべきであるし(甲94),被告の採用する上記閾値によれば,甲68の実験により,比較例からも硫化水素の発生がないことになる。また,引用例2に記載の「分解」は,二硫化炭素を指標としたものであり,硫化水素を指標としている本件発明の阻害事由にはなり得ないし,甲70は,本件各化合物が重金属を良好に沈殿させる旨やその耐熱性に問題がない旨も記載しているから,本件発明を想到するに当たって阻害事由にならない。
(3) 前記のとおり,ピペラジンを骨格とするジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体が単独で飛灰中の金属捕集剤として使用できることは,自明のことであったから,引用発明1のポリアミン誘導体とポリエチレンイミン誘導体のうち,ポリアミン誘導体を有効成分として飛灰中の重金属固定化処理剤と構成するのは,極めて容易である。なお,前記のとおり,引用発明1がポリアミン誘導体にポリエチレンイミン誘導体を加えているのは,最終処分の際のプラスアルファの効果を得ようとするためのものであり,飛灰の重金属固定化に当たり不可欠ではない。
(4) さらに,被告は,その発行に係る技術レポートにおいて,ピペラジン系の重金属処理剤がジエチルアミン系のものよりも重金属固定化能が「やや高い」と自ら評価しているにとどまる(甲7の刊行物7)。しかも,被告による実験(甲48,乙12)における合成例2は,重金属固定化能が高い本件化合物2(ビス体)濃度が本件明細書の記載(【0018】)のものにはるかに及ばないから,その重金属固定化能が高いとはいえず,本件各化合物であれば直ちに重金属固定化能が高いとはいえない。このように,本件発明の重金属固定化能は,その特許性を基礎付けるものではない。
(5) よって,本件発明6について引用発明1からの容易想到性を否定した本件審決には,誤りがある。
〔被告の主張〕
(1) 引用例1には,飛灰中の重金属固定化処理剤の必須の有効成分を本件各化合物とする構成をとることにより,重金属固定化能が高く,かつ,熱的にも安定であり,他の助剤の使用に際して安全であるという作用効果を奏することについて記載も示唆もない。
(2) 相違点1についてみると,前記のとおり,2級アミンからのジチオカルバミン酸塩からは硫化水素が発生しないとの公知の一般則なるものは,存在しないし,甲13は,2級アミン由来のジアルキルジチオカルバミン酸塩のカルバミン系イオウ化合物について,硫化水素ガスの発生を記載している(【表4】)ばかりか,硫化水素発生の原因としてチオ炭酸塩の含有については示唆もされていない。
むしろ,本件優先権主張日当時,硫化水素の発生原因としては液体キレートの種類が関係していると認識されており,2級アミン由来のジチオカルバミン酸塩から水の介在する100度未満の条件下で硫化水素が発生することがあるということこそ,周知の技術事項であり,その化学構造から硫化水素の発生の有無を予測することはできない(甲13,20,38~42,49~51,68,乙7,8,17,18)。
さらに,前記のとおり,1級アミン由来であれ2級アミン由来であれ,ジチオカルバミン酸系化合物から硫化水素を生じさせる分解機構は,原告が援用する甲7及び甲22に記載のものに限定されるわけではない(甲38,40)。したがって,ピペラジンが2級アミンであるからといってポリアミン誘導体の骨格として選択する動機付けにはならない。また,そもそも,引用例1が列挙しているのは,ポリアミン誘導体の骨格をなすポリアミンであるところ,1級アミンについては「アルキル基,アシル基或いはβ-ヒドロキシアルキル基をN-置換基として有していて良い」,すなわち2級アミンになってもよい旨が記載されているから,上記列挙のうち2級アミンがピペラジンのみであるとはいえない。
そして,ピペラジン由来の金属錯体は,耐熱性が劣ると考えられていた(甲41,52)ほか,中性以下では徐々に分解し(甲14),他の2級アミン誘導体よりも分解速度定数が大きく(甲7),さらに熱に対して不安定であり大量の沈殿には不都合がある(甲70,乙11)などと指摘されていたのであるから,当業者が引用例1の列挙のうち,ピペラジンに目を向けることには阻害事由が存在した。
(3) 相違点2についてみると,原告が援用する甲63は,ピペラジンを骨格とするジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体についての記載がないし,甲64は,多数列挙されている化合物の1つとしてピペラジンが挙げられているだけで,ピペラジンに着目し,それに焦点を当てる誘因ないし動機が認められないばかりか,甲64に記載の発明は,本件発明とは異なり,水溶性高分子の添加を必要不可欠の構成とする発明であって,容易想到性の判断には関係がない。
むしろ,引用発明1は,ポリアミンの誘導体とポリエチレンイミンの誘導体の双方を必須の構成要素とする混合物であることにより,フロックを大きくして沈降速度を高めたり水分の絡みを少なくすることができることを主要な効果とするものであって,ポリアミン誘導体からなる金属捕集剤に改良を加える目的でポリエチレンイミンの誘導体を加えたものであるから,ここからポリエチレンイミン誘導体を排除してポリアミン誘導体単独にしてしまうのは,改悪であって,当業者が引用例1の記載から容易に想到できるものではない。しかも,本件各化合物が硫化水素を発生しないという効果を想到ないし予測せしめる要素は,引用例1には一切認められない。
また,前記のとおり,最終処分形態を念頭に置かない飛灰処理剤はなく,ポリエチレンイミン誘導体の配合は,最終処分の際のプラスアルファ効果を得ようとするものとはいえない。
(4) 本件発明6は,本件明細書に記載のとおり,環境庁告示に基づく溶出試験によっても,高い鉛の固定化能を有しており,これは,非ピペラジン系のジチオカルバミン酸塩を用いた比較例と比べて格段の有意性があるものであって(【0023】【0024】【0025】【表2】),本件発明6の重要な特徴である。
(5) よって,本件発明6は,引用例1との関係で容易に想到できるものではなく,原告の前記主張は,いずれも失当である。
5 取消事由5(引用発明2に基づく容易想到性に係る判断の誤り)について
〔原告の主張〕
(1) 本件発明6と引用発明2は,同一の物質を扱っているところ,本件審決は,①引用発明2で用いられる微量分析用試薬が0.05%(W/V)である一方,引用発明1の金属捕集剤が0.9%(W/V)であり,引用発明2を飛灰中の重金属の固定化に使用する金属捕集剤として使用するには濃度が希薄すぎるため,そのように用いる動機付けとならないこと,②引用発明2のピペラジンビスジチオカルバミン酸塩は,水溶液がアルカリ性で安定であるがpHが低下して中性化すると徐々に分解し,特にpH2以下で激しく分解するから,pH調整剤との混練により徐々に分解することも考えられなくもなく,したがって,本件発明6の課題達成を阻害する要因があり,引用発明2から引用発明1のポリアミン誘導体又はその塩を金属捕集剤として使用することを想起する動機付けがないこと,③本件発明6が,相違点3に係る構成により,65℃に加温しても,pH調整剤である塩化第二鉄(38%水溶液)を20重量%添加しても,硫化水素を発生しないという,引用例1及び2からは予測できない効果を奏すること(安定性試験)から,本件発明6が,引用発明2及び1に基づいて容易に想到できない旨を説示する。
(2) しかしながら,前記(1)①についてみると,水溶性の重金属固定化処理剤の適用において,水溶液の濃度が対象となる重金属の固定化に影響を与えるという根拠はなく,むしろ,重金属の固定化を行う際には,その濃度を適宜設定すれば足りるし,固定化に当たって考慮すべきは,固定化の対象となる物と固定化処理剤の量的な関係である(甲63)。そして,引用例2は,ピペラジンビスジチオカルバミン酸ナトリウム(精製品)と重金属とのキレートが1μm以上の粗大粒となって沈殿し,フィルター濾過が容易である(金属捕集剤として使用できる)との知見(甲64,70)を前提として,その希薄溶液が微量分析に応用できることを開示するものであるから,引用例2について同じ物質の濃度を適宜上げることで,これを金属捕集剤として使用することについては動機付けがあった。また,引用例2には,希薄な水溶液であっても,飛灰中の重金属として最も重要な鉛について沈殿を生じさせる旨の記載があるから,引用発明2を飛灰用重金属処理剤として使用できることを容易に動機付けている。
さらに,分析試薬として使用できるキレート剤であれば飛灰中の重金属固定化処理剤としても使用できることについては,引用例1によるまでもなく,公知のことであった(甲13,95)。
(3) 次に,前記(1)②についてみると,pHの低下により引用発明2のピペラジンビスジチオカルバミン酸塩が分解することは,当該物質の客観的性質に基づくものであり,しかも,これは,精製工程を経てから得られる純物質であって,本件発明6で用いられる物質と同一なのだから,引用発明2のpH低下による分解が本件発明6の課題達成を阻害することは,あり得ない。なお,高アルカリに調製されない限り,ピペラジンジチオカルバミン酸塩が常温でも二硫化炭素を発生して分解することは,被告自身も認めるところである(甲7,12,14,19,72,84)。また,本件明細書は,1級アミン由来のジチオカルバミン酸は硫化水素を発生させるおそれがある一方,2級アミン由来のルジチオカルバミン酸にはそのおそれがない旨を記載している(【0003】)ものと解されるところ,二硫化炭素を発生させる分解を記載した引用例2の記載は,本件発明における硫化水素を発生させる分解と関係がないから,引用例2は,そこに記載のキレート剤を飛灰処理に用いることについて阻害事由を構成すると解する余地がない。むしろ,飛灰のpHは12台(アルカリ)であるから,引用例2の「水溶液はアルカリ性下で安定」との記載は,ピペラジンカルボジチオ酸ナトリウム(純物質)を飛灰用重金属処理剤として使用することを積極的に動機付けている。
(4) さらに,前記(1)③についてみると,引用発明2のピペラジンビスジチオカルバミン酸塩は,本件発明6で用いられる物質と同一であるところ,これは,1級アミノ基を含まない2級アミン由来のジチオカルバミン酸である以上,加熱によって硫化水素を発生させないことは,前記のとおり,公知の一般則である。むしろ,ピペラジンビスジチオカルバミン酸塩に塩化第二鉄を添加すると,硫化水素が発生しない代わりに,有害な二硫化炭素を発生するなど,技術的意味がない。
(5) 本件発明6は,引用発明2との関係ではいわゆる用途発明である可能性があるところ,用途発明とは,既知の物質のある未知の属性を発見し,この属性により,当該物質が新たな用途への使用に適することを見出したことに基づく発明と解すべきである。しかし,本件発明6は,既に引用発明2ほか(引用例1,甲63,70)により見出されている,硫化水素を発生しない(甲35,70)「飛灰中の重金属の固定化」という属性に基づくものであって,未知の属性を発見したものではないし,仮に,これが引用発明2の属性ではないとしても,ピペラジンビスジチオカルバミン酸ナトリウムからなる重金属固定化剤の用途として,「飛灰中の重金属の固定化」に使用できることは,引用発明1及び甲64により既に発見されている。
(6) 以上のとおり,本件特許6は,引用例2に記載のピペラジンビスジチオカルバミン酸塩を飛灰中の重金属処理に用いることを開示する引用発明1に適用すれば,当業者にとって容易に想到できるものであり,本件審決は,この点の判断を誤っている。
〔被告の主張〕
(1) 引用例2は,水溶液中の微量金属の分析試薬に関する学術論文であって,本件発明とは,産業上の利用分野,具体的な実施態様及び解決すべき課題が全く異なっており,本件発明の構成及びそれによる作用効果の記載も開示もない。
(2) 引用発明2は,キレート試薬を用いた金属の微量分析に関するもので,極めて低濃度のコロイド溶液を生成して,その中で金属キレートが安定的に分散した状態を保つことで,金属の微量分析を可能とするものであって,コロイド粒子はごく微粒であるため(乙2)に環境庁公告に基づく飛灰処理の試験(乙15,16)という厳しい条件下であっても捕集できないものである一方,引用発明1は,重金属固定化処理剤であり,金属キレート化合物によって形成されるフロックを大きくして,フロックの沈殿速度を速めて重金属の効率的な分離除去をめざすものである。すなわち,両者の特徴は,金属キレートに期待される方向性が逆であって,互いに相容れないばかりか,単にキレート能力があることと上記環境庁公告に基づく飛灰処理能力があることとは,まったく別であって,キレート能を有する極めて多数の化合物のうち,飛灰中の重金属固定化処理剤の有効成分として現実に機能し得る化合物は,ごく限られたもののみである。したがって,引用例2に記載のピペラジンビスジチオカルバミン酸塩の溶液の濃度をいくら適宜に調整したとしても,それが水溶液中の微量金属の分析に用いるキレート試薬である限り,引用発明1が想定する水溶液の量と濃度になることはない。しかも,両者は,産業上の利用分野,具体的な実施態様及び解決すべき技術課題等があまりにも異なる。したがって,引用発明2に引用発明1を組み合わせる動機付けは,存在しない。
(3) ピペラジンビスジチオカルバミン酸塩は,pH調整剤との混練によって水溶液のpHが低下すれば徐々に分解することも考えられなくもないのだから,引用例2に接した当業者は,引用発明2を重金属固定化処理剤の主要成分として想起するはずはない(本件明細書【0003】)。このように,上記のような客観的な性質を有するピペラジンビスジチオカルバミン酸塩を重金属固定化処理剤の主要成分とすることには阻害要因があるから,これを引用発明1と組み合わせようとする動機付けも存在しないし,このことは,同時に,本件発明6が容易に想到できないことも基礎付けている。
また,飛灰中の重金属処理剤に関して二硫化炭素の発生が問題とされたのは,本件優先権主張日より後であり(甲60),ピペラジンビスジチオカルバミン酸塩を主要成分とする同処理剤が硫化水素及び二硫化炭素を発生させないことは,広く知られている(甲43)。
(4) 前記のとおり,2級アミンからのジチオカルバミン酸塩が加熱によって硫化水素を発生させないという公知の一般則は,存在しないし,ピペラジンビスジチオカルバミン酸塩に塩化第二鉄を添加しても,問題は生じない。
むしろ,安定性試験において硫化水素を発生させないという本件発明の作用効果は,引用例2及び1からは到底予測ができない。
(5) 以上から,本件発明は,引用発明2及び1に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものではない。
第4当裁判所の判断
1 取消事由1(実施可能要件に係る判断の誤り)について
(1) 実施可能要件について
本件特許は,平成7年12月1日出願に係るものであるから,平成14年法律第24号による改正前の特許法(以下「法」という。)36条4項が適用されるところ,同項には,「発明の詳細な説明は,…その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に,記載しなければならない。」と規定している。
特許制度は,発明を公開する代償として,一定期間発明者に当該発明の実施につき独占的な権利を付与するものであるから,明細書には,当該発明の技術的内容を一般に開示する内容を記載しなければならない。法36条4項が上記のとおり規定する趣旨は,明細書の発明の詳細な説明に,当業者が容易にその実施をすることができる程度に発明の構成等が記載されていない場合には,発明が公開されていないことに帰し,発明者に対して特許法の規定する独占的権利を付与する前提を欠くことになるからであると解される。
そして,物の発明における発明の実施とは,その物を生産,使用等をすることをいうから(特許法2条3項1号),物の発明については,明細書にその物を製造する方法についての具体的な記載が必要があるが,そのような記載がなくても明細書及び図面の記載並びに出願当時の技術常識に基づき当業者がその物を製造することができるのであれば,上記の実施可能要件を満たすということができる。
これを本件発明についてみると,本件発明は,いずれも物の発明であるが,その特許請求の範囲(前記第2の2)に記載のとおり,本件各化合物(ピペラジン-N-カルボジチオ酸(本件化合物1)若しくはピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸(本件化合物2)のいずれか一方若しくはこれらの混合物又はこれらの塩)が飛灰中の重金属を固定化できるということをその技術思想としている。
したがって,本件発明が実施可能であるというためには,本件明細書の発明の詳細な説明に本件発明を構成する本件各化合物を製造する方法についての具体的な記載があるか,あるいはそのような記載がなくても,本件明細書の記載及び本件出願日当時の技術常識に基づき当業者が本件各化合物を製造することができる必要があるというべきである。
(2) 本件明細書の記載について
以上の観点から本件明細書の発明の詳細な説明をみると,そこには,本件発明についておおむね次の記載がある。
ア 本件明細書に記載の発明は,都市ゴミや産業廃棄物等の焼却プラントから排出される飛灰を処理するに際し,飛灰中に含有される鉛,水銀,クロム,カドミウム,亜鉛及び銅等の有害な重金属をより簡便に固定化し不溶出化することを可能にする方法に関するものである(【0001】)。
イ 前記飛灰は,電気集塵機(EP)やバグフィルター(BF)で捕集されたのち埋め立てられ又は海洋投棄されているが,有害な重金属の溶出には環境汚染の可能性があるため,薬剤添加法(甲81,88,96)などの処理を施してから廃棄することが義務付けられている(【0002】)。しかし,飛灰処理に関しては,特に高アルカリ性飛灰の重金属溶出量が多くなることなどが知られているため,従来の薬剤では,その使用量を大幅に増加するか,塩化第二鉄等のpH調整剤等を併用せざるを得ず,処理薬剤費が増大し,また処理方法が複雑化する等の問題があった。さらに,先行技術の薬剤添加法で使用されるジチオカルバミン酸は,原料とするアミンによっては,pH調整剤との混練又は熱により分解するために,混練処理手順及び方法に十二分に配慮する必要があった(【0003】)。
ウ 本件明細書に記載の発明の目的は,飛灰中に含まれる重金属を安定性の高いキレート剤を用いることにより簡便に固定化できる方法を提供することであり(【0004】),当該発明の発明者らは,ピペラジンカルボジチオ酸又はその塩(本件各化合物)が,重金属に対するキレート能力が高く,高アルカリ性飛灰においても少量の添加量で重金属を固定化でき,かつ,熱的に安定であることを見いだした(【0005】)。すなわち,本件明細書に記載の発明は,飛灰に水と本件各化合物を添加し,混練することを特徴とする飛灰中の重金属の固定化方法である(【0006】)。
エ 次に,実施例によりさらに詳細に本件明細書に記載の発明を説明する。ただし,上記発明は,下記実施例によって何ら制限を受けるものではない(【0015】)。
(ア) 合成例1(ピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸ナトリウム)の合成
ガラス製容器中に窒素雰囲気下,ピペラジン172重量部,NaOH167重量部,水1512重量部を入れ,この混合溶液中に攪拌しながら45℃で二硫化炭素292部を4時間かけて滴下した。滴下終了後,同温度にて約2時間熟成を行った。反応液に窒素を吹き込み未反応の二硫化炭素を留去したところ,黄色透明の液体を得た(化合物No.1。【0016】)。
(イ) 合成例2(ピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸カリウム)の合成
ガラス製容器中に窒素雰囲気下,ピペラジン112重量部,KOH48.5%水溶液316重量部,水395重量部を入れ,この混合溶液中に攪拌しながら40℃で二硫化炭素316部を4時間かけて滴下した。滴下終了後,同温度にて約2時間熟成を行った。反応液に窒素を吹き込み未反応の二硫化炭素を留去したところ,黄色透明の液体を得た(化合物No.2。【0018】)。
(ウ) 安定性試験
化合物No.1及びNo.2並びにエチレンジアミン-N,N′-ビスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.3)及びジエチレントリアミン-N,N′,N′′-トリスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.4)の水溶液を65℃に加温し,あるいはpH調整剤として塩化第二鉄(38%水溶液)を20重量%添加して硫化水素ガスの発生について調べたところ,化合物No.1及びNo.2ではいずれも硫化水素が発生しなかったが,化合物No.3及びNo.4ではいずれも硫化水素が発生した(【0021】【0022】)。
(エ) 重金属固定化能試験
鉛等を含むBF灰100重量部に水30重量部を加え,化合物No.1を0.5部(実施例1。【0023】)若しくは0.74部(実施例2。【0026】)又は化合物No.2を0.4部(実施例3。【0027】)若しくは0.8部(実施例4。【0028】)を添加・混練し,環境庁告示第13号試験に従い溶出試験を行ったところ,鉛の溶出結果は,それぞれ0.07ppm(実施例1),0.05ppm以下(実施例2),0.06ppm(実施例3)及び0.01ppm以下(実施例4)であった(【0024】)。
他方,化合物No.1を使用しない以外は実施例1と同様にした場合(比較例1。【0029】),化合物No.1の代わりにエチレンジアミン-N,N′-ビスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.3)を0.8部(比較例2)及び1.2部(比較例3)となるように添加する以外は実施例1と同様にした場合(【0030】)並びに化合物No.1の代わりにジエチレントリアミン-N,N′,N′′-トリスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.4)を0.76部(比較例4)及び1.15部(比較例5)となるように添加する以外は実施例1と同様にした場合(【0031】)の鉛の溶出結果は,それぞれ29.0ppm(比較例1),25.5ppm(比較例2),24.9ppm(比較例3),5.91ppm(比較例4)及び1.35ppm(比較例5)であった(【0024】)。
オ 本件明細書に記載の発明の方法によれば,本件各化合物は,重金属固定化能が高く,かつ,熱的にも安定であることから,重金属溶出量の多い高アルカリ性飛灰においても,少量の添加で効果を発揮し経済的であるとともに,他の助剤の使用に際して安全かつ簡便な処理方法にて実施できるので工業的にも非常に有用である(【0032】)。
(3) 本件発明の実施可能性について
以上によれば,本件明細書の発明の詳細な説明には本件各化合物の製造方法についての一般的な記載はなく,実施例中に,合成例1(化合物No.1)及び2(化合物No.2)として,本件化合物2の塩の製造例が記載されているにとどまる。
他方,引用例2(昭和59年12月20日刊行)には,ピペラジンビスジチオカルバミン酸ナトリウム(本件化合物2)を常法を参考にして比較的簡単に合成した旨の記載があるほか,甲95(昭和40年(1965年)刊行)にも,ピペラジンビス(N,N′カルボジチオアート)ナトリウム-C6H8N2S4Na2・6H2O(本件化合物2)をピペラジンと二硫化炭素から合成した旨の記載がある。このように,本件化合物2の製造方法について本件出願日を大きく遡るこれら複数の文献に記載されており,そうである以上本件化合物2を除く本件各化合物の製造方法も明らかであるから,本件各化合物は,本件出願日当時において公知の化合物であり,その製造方法も,当業者に周知の技術であったものと認められる。
したがって,本件明細書の発明の詳細な説明の記載の有無にかかわらず,当業者は,本件出願日当時において,本件各化合物を製造することができたものと認められる。
よって,本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,当業者が本件発明の実施をすることができる程度に十分に記載されているものということができるので,法36条4項に違反せず,本件審決の判断に誤りはない。
(4) 原告の主張について
以上に対して,原告は,本件発明が,硫化水素を発生させないという作用効果により進歩性が認められているのに,本件各化合物を製造するに当たって硫化水素の発生源であるチオ炭酸塩の副生を防止する方法が本件出願日当時に存在せず,引用例2等に記載のチオ炭酸塩を除く精製工程も本件明細書には記載がなく,本件明細書の記載により製造した本件各化合物(未精製品)によって本件発明を実施すると硫化水素が発生し,現に,原告らの実験結果もこれを裏付けているから,本件明細書が実施可能要件を満たさない旨を主張する。
しかしながら,本件発明の特許請求の範囲の記載は,本件各化合物が飛灰中の重金属の固定化剤として使用できる旨を物の発明として特定しており,本件発明は,本件各化合物の製造に当たって硫化水素を発生させる副生成物の生成を抑制することをその技術的範囲とするものではない。したがって,本件明細書の発明の詳細な説明に副生成物の生成が抑制された本件各化合物の製造方法が記載されていないからといって,特許請求の範囲に記載された本件発明が実施できなくなるというものではなく,法36条4項に違反するということはできない。
なお,本件明細書の発明の詳細な説明によれば,前記(2)エ(ウ)に認定のとおり,本件発明は,飛灰中の重金属を固定化する際にpH調整剤と混練し又は加熱を行うという条件下でも分解せずに安定である,すなわち有害な硫化水素を発生させないことも,その技術的課題としているといえる(安定性試験)。しかし,上記技術的課題を解決するという作用効果は,他の先行発明との関係で本件発明の容易想到性を検討するに当たり考慮され得る要素であるにとどまるというべきである。
また,引用例2には,そこで得られた化合物の詳細な物性や分析結果についての記載があるものの,そこにはチオ炭酸塩の含有を窺わせる記載がないから,引用例2に記載の方法で得られた化合物にはチオ炭酸塩が含まれていないものと認められれる。したがって,引用例2の記載によれば,チオ炭酸塩を含有しない本件各化合物の製造方法は,本件出願日当時,当業者に周知の技術であったものと認められ,被告による本件明細書の記載の再現実験の結果(甲48,乙6,12)も,これを裏付けるものである。他方,原告らによる実験(甲4,8,15,71)により硫化水素が発生したとしても,このことは,本件各化合物の製造方法によってはチオ炭酸塩を副生するために硫化水素が発生することがあるということを立証するにとどまり,チオ炭酸塩を含有しない本件各化合物の製造方法が周知の技術であったとの上記認定を左右するものではない。
よって,原告の上記主張は,採用できない。
2 取消事由2(サポート要件に係る判断の誤り)について
(1) サポート要件について
本件特許は,平成7年12月1日出願に係るものであるから,法36条6項1号が適用されるところ,同号には,特許請求の範囲の記載は,「特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載したものであること」でなければならない旨が規定されている(サポート要件)。
特許制度は,発明を公開させることを前提に,当該発明に特許を付与して,一定期間その発明を業として独占的,排他的に実施することを保障し,もって,発明を奨励し,産業の発達に寄与することを趣旨とするものである。そして,ある発明について特許を受けようとする者が願書に添付すべき明細書は,本来,当該発明の技術内容を一般に開示するとともに,特許権として成立した後にその効力の及ぶ範囲(特許発明の技術的範囲)を明らかにするという役割を有するものであるから,特許請求の範囲に発明として記載して特許を受けるためには,明細書の発明の詳細な説明に,当該発明の課題が解決できることを当業者において認識できるように記載しなければならないというべきである。法36条6項1号の規定する明細書のサポート要件が,特許請求の範囲の記載を上記規定のように限定したのは,発明の詳細な説明に記載していない発明を特許請求の範囲に記載すると,公開されていない発明について独占的,排他的な権利が発生することになり,一般公衆からその自由利用の利益を奪い,ひいては産業の発達を阻害するおそれを生じ,上記の特許制度の趣旨に反することになるからである。
そして,特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要件に適合するか否かは,特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比し,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲内のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否かを検討して判断すべきものである。
(2) 本件明細書のサポート要件の充足性について
これを本件発明についてみると,本件発明の特許請求の範囲の記載は,前記第2の2に記載のとおりであるところ,本件出願日当時,そこに記載の本件各化合物の製造方法が当業者に周知の技術であったことは,前記1(3)に認定のとおりである。また,前記1(2)エ(エ)に認定のとおり,本件明細書には,BF灰に,水と本件化合物2の塩を0.4ないし0.8重量%加え,混練したものから重金属の溶出が抑制されていることが記載されている(重金属固定化能試験)。したがって,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件各化合物が飛灰中の重金属の固定化処理剤として使用できる旨の記載があるといえる。
そして,前記1(2)ウに認定のとおり,本件発明の目的は,飛灰中に含まれる重金属を安定性の高いキレート剤を用いることにより簡便に固定化できる方法を提供することであり,上記のとおり,重金属固定化能試験に関する発明の詳細な説明の記載により,当業者は,本件発明の課題を解決できると認識できるものといえる。
以上によれば,本件発明の特許請求の範囲の記載は,本件明細書の発明の詳細な説明に記載したものであるということができる。
よって,本件発明の特許請求の範囲の記載は,法36条6項1号に違反せず,本件審決の判断に誤りはない。
(3) 原告の主張について
以上に対して,原告は,本件各化合物が,その合成方法により硫化水素及び二硫化炭素の発生源であるチオ炭酸塩を含有したりしなかったりするならば,本件発明の特許請求の範囲の記載には硫化水素が発生する場合が含まれることになるばかりか,本件明細書には二硫化炭素を発生させないという効果についても記載がないから,本件明細書がサポート要件を満たさない旨を主張する。
しかしながら,本件発明の特許請求の範囲の記載には,本件各化合物からなる飛灰中の重金属固定化処理剤との記載があるのみであり,本件発明が本件明細書の発明の詳細な説明に記載したものであることは,前記のとおりであって,本件各化合物が,その合成方法によっては副生成物としてチオ炭酸塩を含有することがあるとしても,そのことは,本件各化合物及びそれが飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できることについての開示を欠くことにはならない。
よって,原告の上記主張は,採用できない。
3 取消事由3(引用発明1に基づく新規性に係る判断の誤り)について
(1) 本件発明の新規性について
特許法は,発明の公開を代償として独占権を付与するものであるから,ある発明が特許出願又は優先権主張日前に頒布された刊行物に記載されているか,当時の技術常識を参酌することにより刊行物に記載されているに等しいといえる場合には,その発明については特許を受けることができない(特許法29条1項3号)。
ところで,前記1(3)に認定のとおり,本件優先権主張日を大きく遡る引用例2(昭和59年12月20日刊行)及び甲95(昭和40年(1965年)刊行)という複数の文献に本件化合物2の製造方法が記載されており,そうである以上本件化合物2を除く本件各化合物の製造方法も明らかであるから,本件各化合物は,本件優先権主張日当時において公知の化合物であり,その製造方法も,それ自体は,当業者に周知の技術であったものと認められる。
しかしながら,本件発明は,前記第2の2及び第4の1(1)にも記載のとおり,本件各化合物が飛灰中の重金属を固定化できるということを技術思想とする,本件各化合物からなる飛灰中の重金属固定化処理剤であるから,本件発明が引用例1に記載されているといえるためには,引用例1に本件各化合物からなる飛灰中の重金属固定化処理剤についての記載があるか,本件優先権主張日当時の技術常識を参酌することにより引用例1にそれが記載されているに等しいといえる必要がある。
(2) 引用例1の記載について
本件審決が認定した引用発明1は,前記第2の3(2)アに記載のとおりであるが,前記の観点から引用例1をみると,そこには,引用発明1について,おおむね次の記載がある。
ア ゴミ焼却の際に発生する飛灰等には種々の重金属が含有されることから,これらの金属が地下水等に混入しないようにする処理方法が必要であるが,従来の技術には,操作性,ランニングコスト,運搬の困難性,重金属類を基準値以下に除去することの困難性及び二次公害の発生といった問題点があった。ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体からなる金属捕集剤及びこれを用いた廃水処理方法は,これらの問題点を解決でき,金属捕集効率に優れ,しかも金属イオンを捕集して生じたフロックが大きく,沈降速度も大であるため,効率よく廃水中の金属イオンの除去を行うことができるものとして種々提案されている(甲63等)。しかし,それでもクロム(Ⅲ),ニッケル,コバルト,マンガンに対する吸着性が十分とはいえず,生成したフロックを分離除去して固めて得たケークの焼却に過大なエネルギーが必要となったり処理作業に必要以上の手間や経費がかかるばかりか,これらをセメントで固化した後に埋め立てたり,海洋投棄するなどの場合にセメント壁を通して金属が流出するおそれがあった。
イ 引用例1に記載の発明は,前記の問題を解決するためにされたもので,更に廃水中の多数の金属イオンを効率よく捕集除去できるとともに,ケーク処理作業の効率をも向上し得る金属捕集剤を提供することを目的とする。また,重金属を含む飛灰等をセメントで固化して海洋投棄や埋立て等によって処理するに際し,従来に比べてケークの容量を小さくできるため使用できるセメントの量を少なくすることができ,埋立て等の処理を容易に行うことができるとともに,飛灰等に含まれる重金属を強固に固定して金属の流出を防止することのできる金属捕集方法を提供することを目的とする。
すなわち,上記発明は,分子量500以下のポリアミン1分子当たりに対し,少なくとも1個のジチオカルボキシ基又はその塩を上記ポリアミンの活性水素と置換したN-置換基として有するポリアミン誘導体(本件審決が認定した引用発明1の相違点1に係る構成。以下「本件ポリアミン誘導体」という。)と,平均分子量5000以上のポリエチレンイミン1分子当たり,少なくとも1個のジチオカルボキシ基又はその塩を上記ポリエチレンイミンの活性水素と置換したN-置換基として有するポリエチレンイミン誘導体(本件審決が認定した引用発明1の相違点2に係る構成に記載されたポリエチレンイミン誘導体。以下「本件ポリエチレンイミン誘導体」という。)とからなることを特徴とする金属捕集剤を要旨とするものである。
ウ 本件ポリアミン誘導体の骨格をなすポリアミンとしては,エチレンジアミンその他の化合物(引用例1は,ここで約30種類の物質名を列挙しており,その中に,「ピペラジン」との記載があるが,列挙されている物質の中で完全な環状アミンは,ピペラジンのみであり,その余は,いずれも鎖状アミン(芳香族アミンを含む。)又は環状アミンと鎖状アミンの両者を有する物質である。)等が挙げられる。これらは単独で用いるのみならず,2種以上混合して用いることもできる。
エ 引用例1に記載の発明は,金属を吸着して形成されるフロックが大きく,しかもそのフロックの沈降速度が大きいため,そのまま用いても効率よく廃水中の金属を捕集除去できるが,更に一硫化ナトリウム等と併用すると,更にフロックの沈降速度を速くでき,より効率のよい処理ができる。
引用例1に記載の発明は,水銀,カドミウム,鉛,亜鉛,銅,クロム(Ⅵ),砒素,金,銀,白金,バナジウム,タリウム等の金属イオンを従来の金属捕集剤と同等又はそれ以上に効率よく捕集除去できるとともに,従来の金属捕集剤によっては捕集し難かったクロム(Ⅲ),ニッケル,コバルト,マンガン等の金属イオンも効率よく捕集除去できる。
オ 本件ポリアミン誘導体の骨格としてエチレンジアミンを使用したもの(ポリアミン誘導体1)を単独で用いた場合(比較例2)と本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物として用いた場合(実施例1)とでは,後者においてクロム(Ⅲ)等をよりよく捕集した。
このように,引用例1の金属捕集剤は,本件ポリアミン誘導体と本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物としたことにより,金属を捕集して形成されたフロックが大きく,フロックの沈降速度が大きいため廃水中の金属イオンを効率よく捕集除去できるほか,ケーク中の含水量を少なくすることができ,ケークの処理が容易になるばかりか,従来の金属捕集剤による吸着性があまりよくなかったクロム(Ⅲ),ニッケル,コバルト,マンガン等の金属イオンに対する捕集性にも優れ,さらに従来よりも多数の金属イオンを効率よく捕集できるため,処理対象廃水の範囲が拡大される等の効果を有する。また,引用例1に記載の金属捕集方法によれば,飛灰等に含まれる重金属が強固に固定されるため,その後セメントにて固化して海洋投棄や埋立て等によって処理した場合でも,セメント壁を通して金属が流出するおそれがなく,しかも処理後の被処理物の容量が小さくなり,固化に用いるセメントの量を少なくすることができるとともに,廃棄処理時の取扱いも容易となる等の効果を有する。
(3) 引用例1における本件発明についての記載の有無について
ア 前記(2)に認定の引用例1の記載によれば,引用発明1は,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体を単独で金属捕集剤として使用した場合には飛灰中の特にクロム(Ⅲ)等の重金属に対する固定化能が十分とはいえなかったことから,エチレンジアミン等を骨格とする本件ポリアミン誘導体を高分子である本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とすることによって当該課題を解決するものと認められる。
イ 本件ポリアミン誘導体は,引用発明1の相違点1に係る構成により定義され,前記(2)ウにも認定のとおり,その骨格となる物質は,非常に多種類にわたるところ,これらがいずれも化学構造を異にする以上,その重金属に対するキレート能力の有無及び程度が同じであるとはいえないことは,明らかである。そして,引用例1には,前記(2)イ,エ及びオに認定のとおり,例えばエチレンジアミン(鎖状アミン)を骨格とする本件ポリアミン誘導体については,本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とすることによりクロム(Ⅲ)等に対する重金属固定化能が向上する旨の実施例及び比較例の記載がある一方で,化学構造を異にするピペラジン(環状アミン)を骨格とする本件各化合物が有する飛灰中の重金属固定化能については,何ら具体的な記載がないから,本件各化合物の有する飛灰中の重金属固定化能は,引用例1の記載では不明であるというほかない。
しかも,引用発明1は,引用発明1の相違点2に係る構成にも記載のとおり,本件ポリアミン誘導体を高分子である本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とすることによってクロム(Ⅲ)等の重金属に対する固定化能を向上させようとするものであるところ,ピペラジンは,前記(2)ウに認定のとおり,引用例1において本件ポリアミン誘導体の骨格となる物質の1つとして例示されているにすぎないから,本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物として使用することにより重金属固定化能が十分になる物質の例として記載されているにとどまるというほかないばかりか,引用例1には,本件各化合物を本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とする以外での方法で飛灰中の重金属固定化処理剤とすることについては,何ら具体的な記載がない。
さらに,引用例1には,前記(2)アに認定のとおり,引用発明1の先行技術として,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体からなる金属捕集剤が提案されている旨の記載があり,本件各化合物も,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体である。しかしながら,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体は,非常に多種類にわたり,これらがいずれも化学構造を異にする以上,その重金属に対するキレート能力の有無及び程度が同じであるとはいえないことは,明らかである。そして,引用例1で例示されている上記先行技術に関する提案(甲63)も,極めて多数の化合物を列挙しているものの,その中にピペラジンを骨格とする化合物の記載はないから,引用例1は,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体からなる金属捕集剤が提案されている旨を記載しているからといって,飛灰中の重金属に対する本件各化合物のキレート能力の有無を明らかにしているとはいえない。
ウ 以上によれば,引用例1には,本件各化合物からなる飛灰中の重金属固定化処理剤についての記載があるとはいえない。
(4) 本件優先権主張日当時の本件各化合物に関する技術常識について
ア 前記(3)に認定のとおり,引用例1には,本件各化合物からなる飛灰中の重金属固定化処理剤についての記載があるとはいえないから,本件発明が記載されているに等しいといえるためには,ピペラジンを骨格とするポリアミン誘導体である本件各化合物を飛灰中の金属捕集剤として使用できることが本件優先権主張日当時の技術常識であったといえなければならない。
この点について,原告は,本件各化合物のようにジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミンである以上,骨格をなすポリアミンの化学構造にかかわらず,重金属のキレート能力があることが本件優先権主張日当時の技術常識であった(引用例1及び2,甲64,70,78~81,95,97)から,引用例1には本件各化合物を飛灰中の重金属の固定化に用いることについて記載があるといえる旨を主張している。
イ そこで検討すると,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミンは,本件各化合物を含めて非常に多種類にわたるところ,引用例1には,前記(3)イに認定のとおり,本件各化合物が有する飛灰中の重金属固定化能や,本件各化合物を本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とする以外での方法で飛灰中の重金属固定化処理剤とすることについては,何ら具体的な記載がない。
次に,甲64(特開平4-267982号公報)は,「固体状物質中の金属固定化方法」という名称の発明に関する公開特許公報であり,そこには,飛灰等にピペラジンを含むポリアミン又はポリエチレンイミン等の化合物(金属捕集剤)と平均分子量1000ないし100万程度を有する水溶性高分子とを添加することで,飛灰等が含有する重金属の固定化能を向上させる方法についての記載がある。しかしながら,甲64には,ピペラジンを骨格とする本件各化合物が有する飛灰中の重金属固定化能については,何ら具体的な記載がないから,本件各化合物の有する飛灰中の重金属固定化能は,甲64の記載では不明であるというほかない。しかも,甲64に記載の発明は,上記のとおり飛灰等に金属捕集剤と水溶性高分子とを添加することによって飛灰中の重金属に対する固定化能を向上させようとするものであるところ,ピペラジンは,甲64において金属捕集剤の基となる物質の1つとして例示されているにすぎないから,水溶性高分子と併せて添加することにより重金属固定化能が十分になる物質の例として記載されているにとどまるというほかないばかりか,甲64には,本件各化合物を水溶性高分子と併せて添加する以外の方法で飛灰中の重金属固定化処理剤とすることについては,何ら具体的な記載がない。
また,甲81(特開平6-79254号公報)は,「飛灰の無害化処理方法」という名称の発明に関する公開特許公報であり,そこには,トリス(ジチオカルボキシ)ジエチレントリアミン又はN1,N2-ビス(ジチオカルボキシ)ジエチレントリアミン若しくはそれらの塩をキレート化剤として用いた飛灰中の重金属の固定化についての記載がある。しかしながら,甲81には,本件各化合物についての言及はない。
そして,甲97(特開平1-218672号公報)は,「アルカリ含有飛灰の処理方法」という名称の発明に関する公開特許公報であり,そこには,例えばジチオカルバミン酸基を有する化合物であるキレート化剤を飛灰に添加することで飛灰中の重金属を固定化する方法についての記載がある。しかしながら,ジチオカルバミン酸基を有する化合物は,非常に多種にわたるところ,甲97には,ジエチルジチオカルバミン酸ナトリウム等を用いた実施例についての記載があるものの,ピペラジンを骨格とする本件各化合物が有する飛灰中の重金属固定化能については何ら具体的な記載がないから,本件各化合物の有する飛灰中の重金属固定化能は,甲97の記載では不明であるというほかない。
さらに,甲78ないし80は,いずれも飛灰中の重金属処理に関する文献であり,キレート形成基を有する化合物が重金属固定化処理剤として使用されている旨の記載があるが,本件各化合物についての言及はない。
以上のとおり,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミンは,本件各化合物を含めて非常に多種類にわたるところ,これらがいずれも化学構造を異にする以上,その重金属に対するキレート能力の有無及び程度が同じであるとはいえないことは,明らかである一方,引用例1,甲64,78ないし81及び97には,本件各化合物が有する飛灰中の重金属固定化能や,本件各化合物を他の高分子化合物と併用する以外の方法で飛灰中の重金属固定化処理剤とすることについては,何ら具体的な記載がなく,本件各化合物の有する飛灰中の重金属固定化能は,これらの記載では不明であるというほかないから,これらを根拠として,本件各化合物を飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できることが本件優先権主張日当時の技術常識であったと認めるには足りない。
ウ 甲70(乙11)は,「金属の沈殿剤としての二置換ジチオカルバメート(「カルベート」)」と題する学術論文(昭和25年(1950年)刊行)であるが,そこには,対象となる重金属イオン以外にはキレート形成に関与する物質が存在しないという環境下において,ピペラジンを含むアミンの二置換ジチオカルバメートが鉛等の重金属の沈澱物を良好に沈殿させ,フィルター濾過等を容易にさせる旨の記載がある。
甲95は,「ピペラジン-ビス-ジチオカルバマート銅(ピペラジン-ビス-カルボジチオアート銅)の高分子キレート」と題する学術論文(昭和40年(1965年)刊行)であるが,そこには,本件化合物2(ピペラジンビス(N,N′カルボジチオアート))の分析的性質に関心を持って行われた実験において,本件化合物2の溶液をアルカリとした上で,pHの酸性領域からアルカリ性領域のうちの各範囲における前記各種の重金属との間でのキレートの沈殿を確認した旨の記載があるから,本件化合物2の水溶液中に重金属イオン,酸性化剤,アルカリ性化剤又は緩衝溶液しか存在しないという環境下での本件化合物2のキレート能力を明らかにしているものといえる。
また,引用例2は,「2個のジチオカルボキシル基を有するキレート試薬による金属の微量分析の研究Ⅰ」と題する学術論文(昭和59年12月20日発行)であり,そこに記載された引用発明2は,前記第2の3(3)アに記載のとおりであるが,引用例2には,おおむね次の記載がある。
(ア) 引用例2の著者らは,ピペラジンビスジチオカルバミン酸ナトリウム(本件化合物2)を常法を参考にして合成し,種々の金属イオンとの反応を調べたところ,Be2+(ベリリウム),Al3+(アルミニウム),Fe3+(鉄),Ag+(銀),Cd2+(カドミウム),Sn4+(スズ),Sn2+(スズ),Hg+(水銀),Pb2+(鉛)及びBi3+(ビスマス)との反応生成物は,白色又は薄黄色の沈殿となったが,Cu2+(銅),Co2+(コバルト),Ni2+(ニッケル)及びHg2+(水銀)などの希薄な水溶液では,生じるキレートがコロイド溶液となるために長時間にわたって沈殿を生じないで着色状態を保っていた。
(イ) 標準的な分析操作は,25cm3容の共栓付試験管に金属イオンを含む水溶液10cm3をとり,緩衝液4cm3,ピペラジンビスジチオカルバミン酸ナトリウム0.05%(W/V)6cm3を加えて激しく振とうし,約30分後に吸光度又は光散乱強度を測定するものである(したがって,このキレート試薬の濃度は,0.015(W/V)%となる。(0.05%(W/V)×6cm3÷(10cm3+4cm3+6cm3)=0.015(W/V)%))。
(ウ) Cu(銅),Co(コバルト),Ni(ニッケル)及びHg(水銀)は,前記の希薄溶液で沈殿を生じないで光散乱を示し,前記の吸光分析法又は光錯乱分析法による微量分析が可能となった。このような分析法が可能な原因は,金属キレートの大きな粒子がコロイドとして水層に存在するためである。
エ 以上によれば,甲70,95及び引用例2には,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミンである本件各化合物には水溶液中の重金属のキレート能力があることについての記載があるといえる。
しかしながら,廃棄物等の焼却により生ずる飛灰とは,集塵機等で捕集された灰をいい,その中には,比較的多量のSiO2,CaO,Al2O3,MgO,Na2O,K2O,SO4及びClなど各種の化学成分のほか,重金属としてNi(ニッケル),Cd(カドミウム),Cr(クロム),Cu(銅),Pb(鉛)及びHg(水銀)など,多様な物質が含まれている(甲29,79,80)。他方,重金属に対するキレート能力のある化合物は,非常に多種類にわたるところ,これらがいずれも化学構造を異にする以上,そのキレート能力の有無及び程度が同じであるとはいえないことは,明らかであるから,ある化合物に特定の環境下でのキレート能力があるからといって,飛灰を水と混練するという環境下で,そこに含まれる上記の多様な物質の中で鉛等の重金属と錯体を形成し,これを固定化する能力が当該化合物にあることを裏付けることにはならない。したがって,ある化合物に水溶液中の重金属をキレート化する能力があることが知られていたとしても,そのことは,その対象が飛灰に含まれている当該重金属を当然にキレート化できることを裏付けるものではない。そして,甲70,95及び引用例2は,いずれも飛灰中の重金属の固定化とは技術分野を異にする学術論文であって,本件化合物2の水溶液中に対象となる重金属イオン以外にはキレート形成に関与する物質が存在しないという環境下での本件化合物2のキレート能力を明らかにしているにすぎず,本件各化合物が,廃棄物等の焼却により生じる飛灰を水と混練するという環境下で,そこに含まれる上記のような多様な物質の中で鉛等の重金属とキレートを形成し,これを固定化するものであることについては何らの記載も示唆もない。
したがって,前記イに記載の各文献(引用例1,甲64,78~81,97)を併せ参照したとしても,甲70,95及び引用例2の記載を根拠として,本件各化合物を飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できることが本件優先権主張日当時の技術常識であったと認めるには足りない。
(5) 小括
以上によれば,引用例1には,本件各化合物からなる飛灰中の重金属固定化処理剤についての記載があるとはいえず,また,本件優先権主張日当時の技術常識を参酌することにより引用例1にそれが記載されているに等しいともいえない。したがって,引用例1には,本件発明6並びにその構成をさらに特定する本件発明7及び9が記載されているとはいえず,また,記載されているに等しいともいえない。
むしろ,本件ポリアミン誘導体の骨格となる化合物が非常に多種類にわたり,これらがいずれも化学構造を異にする以上,その重金属に対するキレート能力の有無及び程度が同じであるとはいえないことは,明らかである一方,引用例1にはピペラジンを骨格とする本件各化合物について具体的な記載がなく,かつ,本件各化合物を飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できることが本件優先権主張日当時の技術常識であったと認めるには足りない以上,相違点1は,実質的な相違点であるというべきである。
また,引用発明1は,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体を単独で金属捕集剤として使用した場合には飛灰中の特にクロム(Ⅲ)等の重金属に対する固定化能が十分とはいえなかったことから,エチレンジアミン等を骨格とする本件ポリアミン誘導体を高分子である本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とすることによって当該課題を解決するものであるから,引用発明1の相違点2に係る構成は,引用発明1に必須のものであって,相違点2も,実質的な相違点であるというべきである。
よって,引用発明1に基づく新規性に関する原告の主張は,採用できない。
4 取消事由4(引用発明1に基づく容易想到性に係る判断の誤り)について
(1) 相違点1について
ア 引用例1の記載等について
引用例1に記載の本件ポリアミン誘導体の骨格となる物質は,前記3(2)ウに認定のとおり,非常に多種類にわたるところ,これらがいずれも化学構造を異にする以上,その重金属に対するキレート能力の有無及び程度が同じであるとはいえないことは,明らかである。そして,引用例1には,前記3(2)イ,エ及びオに認定のとおり,例えばエチレンジアミン(鎖状アミン)を骨格とする本件ポリアミン誘導体については,本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とすることによりクロム(Ⅲ)等に対する重金属固定化能が向上する旨の実施例及び比較例の記載がある一方で,化学構造を異にするピペラジン(環状アミン)を骨格とする本件各化合物が有する飛灰中の重金属固定化能については,何ら具体的な記載がないから,本件各化合物の有する飛灰中の重金属固定化能は,引用例1の記載では不明であるというほかない。以上に加えて,ピペラジンは,前記3(2)ウに認定のとおり,引用例1において本件ポリアミン誘導体の骨格となる物質の1つとして例示されているにすぎないから,本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物として使用することにより重金属固定化能が十分になる物質の例として記載されているにとどまるというほかない。
以上によれば,引用例1には,飛灰中の重金属固定化処理剤として本件発明6の相違点1に係る構成を採用すること(本件各化合物を選択すること)についての記載も示唆もなく,その動機付けもないというべきである。
イ 本件発明の作用効果について
本件発明は,前記1(2)エ(エ)(重金属固定化能試験)に認定のとおり,本件明細書によれば,同じくジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体(エチレンジアミン-N,N′-ビスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.3)及びジエチレントリアミン-N,N′,N′′-トリスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.4))を使用するなどした比較例との対比において,顕著な鉛等の重金属固定化能を示している。
ところで,引用発明1の相違点1に係る構成に該当する化合物は,非常に多種にわたるところ,これらがいずれも化学構造を異にする以上,その重金属に対するキレート能力の有無及び程度が同じであるとはいえないことは,明らかである。そして,前記3(2)オに認定のとおり,引用例1では,同じくジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体であっても,上記エチレンジアミンを骨格とするものが引用発明1の実施例及び比較例として取り扱われている一方で,本件各化合物が有する飛灰中の重金属固定化能については,何ら具体的な記載がなく,他にも本件各化合物が上記のような顕著な重金属固定化能を有することが当業者に知られていたことを窺わせるに足りる証拠が見当たらないことに加えて,前記3(4)及び(5)に認定のとおり,本件各化合物を飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できることが本件優先権主張日当時の技術常識であったと認めるには足りない以上,本件明細書に記載の本件発明が有する上記作用効果は,当業者の予測しない顕著な作用効果であるということができる。
ウ 原告の主張について
以上に対して,原告は,ピペラジンを骨格とするジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体が単独で飛灰中の金属捕集剤として使用できることが自明であった旨を主張する。
しかしながら,前記3(4)に記載のとおり,本件各化合物を飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できることが本件優先権主張日当時の技術常識であったと認めるには足りないから,原告の上記主張は,採用できない。
また,原告は,被告がピペラジン系の重金属固定化処理剤の重金属固定化能について謙抑的な評価を与えていること(甲7の刊行物7)や,被告による本件明細書の再現実験の結果(甲48,乙12)では本件化合物2(ビス体)の濃度が低く,重金属固定化能が高いとはいえない旨を主張する。
しかしながら,被告が上記のような謙抑的な評価を与えており,あるいは被告による上記の再現実験により本件化合物2の濃度が低かったからといって,これらのことは,本件明細書に記載された本件発明の顕著な重金属固定化能を実証的に否定するものではなく,上記作用効果の顕著性や当業者の予測可能性に関する評価を左右するに足りない。
よって,原告の上記主張は,採用できない。
エ 小括
以上のとおり,引用例1には,飛灰中の重金属固定化処理剤として本件発明6の相違点1に係る構成を採用すること(本件各化合物を選択すること)についての記載も示唆もなく,本件発明は,重金属固定化能について当業者の予測しない顕著な作用効果を有するものである。
したがって,引用例1に接した当業者は,本件発明6の相違点1に係る構成を容易に想到することができなかったものというべきであり,本件発明7及び9は,本件発明6の構成をさらに特定するものであるから,当業者は,本件発明6を容易に想到することができなかった以上,本件発明7及び9についても容易に想到することができなかったものというべきである。よって,本件審決の判断に誤りはない。
(2) 相違点2について
ア 相違点2の容易想到性について
前記3(3)アに認定のとおり,引用発明1は,ジチオカルボキシ基を官能基として有するポリアミン誘導体を単独で金属捕集剤として使用した場合には飛灰中の特にクロム(Ⅲ)等の重金属に対する固定化能が十分とはいえなかったことから,エチレンジアミン等を骨格とする本件ポリアミン誘導体を高分子である本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とすることによって当該課題を解決するものである。
したがって,引用発明1の相違点2に係る構成は,引用発明1に必須のものであって,引用例1には,引用発明1から相違点2に係る構成を除外することについて記載も示唆もないばかりか,これを除外した場合,クロム(Ⅲ)等の重金属に対する固定化能が不十分となり,課題解決を放棄することになるのであるから,引用例1からそのような構成の飛灰中の金属捕集剤を想到することについては,阻害事由がある。よって,引用例1に接した当業者は,本件発明6の相違点2に係る構成を容易に想到することができなかったものというべきであり,本件発明7及び9は,本件発明6の構成をさらに特定するものであるから,当業者は,本件発明6を容易に想到することができなかった以上,本件発明7及び9についても容易に想到することができなかったものというべきである。よって,本件審決の判断に誤りはない。
イ 原告の主張について
以上に対して,原告は,引用発明1における本件ポリエチレンイミン誘導体は,最終処分の際のプラスアルファの効果を与える目的で混合させたものにすぎない旨を主張する。
しかしながら,前記3(3)アに認定のとおり,本件ポリアミン誘導体を本件ポリエチレンイミン誘導体との混合物とする構成(引用発明1の相違点2に係る構成)は,引用発明1の必須のものであって,原告の上記主張は,引用例1の記載に基づくものとはいえない。
よって,原告の上記主張は,採用できない。
5 取消事由5(引用発明2に基づく容易想到性に係る判断の誤り)について
(1) 相違点3の容易想到性について
本件審決が認定した引用発明2は,前記第2の3(3)アに記載のとおりであり,引用例2の記載は,前記3(4)ウに認定のとおりであるところ,そこに記載のピペラジンビスジチオカルバミン酸ナトリウムは,本件化合物2と同一の化合物であるから,引用例2には,本件各化合物には重金属のキレート能力があることについての記載があるといえる。
しかしながら,前記3(4)エに認定のとおり,廃棄物等の焼却により生ずる飛灰中に多様な物質が含まれているところ,引用例2は,飛灰中の重金属の固定化とは技術分野を異にする学術論文であって,本件化合物2の希薄な水溶液中に対象となる重金属イオン以外にはキレート形成に関与する物質が存在しないという環境下でのキレート能力を明らかにしているにすぎない。したがって,引用例2は,本件各化合物が,飛灰を水と混練するという環境下で,そこに含まれる上記の多様な物質の中で鉛等の重金属と錯体を形成し,これを固定化するものであることについて何らかの着想をもたらすものではなく,本件発明の容易想到性を判断するための引用例として適切なものではない。
さらに,前記4(1)に認定のとおり,引用例1には,飛灰中の重金属固定化処理剤として本件発明6の相違点1に係る構成を採用すること(本件各化合物を選択すること)についての記載も示唆もなく,その動機付けもないばかりか,前記3(4)に認定のとおり,本件各化合物を飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できることが本件優先権主張日当時の技術常識であったと認めるには足りないから,引用発明2に基づいて引用発明1を組み合わせることについての動機付けはない。
(2) 原告の主張について
以上に対して,原告は,分析試薬として使用できるキレート剤であれば飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できることが公知であった旨を主張する。
しかしながら,重金属に対するキレート能力のある化合物は,非常に多種類にわたる(引用例1,甲63参照)ところ,これがいずれも化学構造を異にする以上,そのキレート能力の有無及び程度も同じであるとはいえないことは,明らかであるから,ある化合物に特定の環境下でのキレート能力があるからといって,飛灰を水と混練するという環境下で,そこに含まれる前記の多様な物質の中で鉛等の重金属と錯体を形成し,これを固定化する能力が当該化合物にあることを裏付けることにはならない。したがって,飛灰中の重金属を固定化するためにキレート剤を用いることが広く知られていたとしても,そのことは,分析試薬として使用できるキレート剤であれば飛灰中の重金属固定化処理剤として使用できるということを裏付けるものではない。
また,原告は,本件発明がいわゆる用途発明であるとの見地に基づき,本件各化合物を飛灰中の重金属固定化処理剤という用途に使用できることが既に引用例1及び甲64により発見されている旨を主張する。
しかしながら,前記3(3)に認定のとおり,引用例1及び甲64は,いずれも本件各化合物の有する飛灰中の重金属固定化能を明らかにしていないから,原告の上記主張は,その根拠を欠く。
よって,原告の上記主張は,いずれも採用できない。
(3) 小括
以上によれば,引用例2は,そこに記載の本件化合物2を飛灰中の重金属固定化処理剤として使用することについての着想をもたらすものではなく,引用例1にも,引用発明2に基づいて引用発明1を組み合わせることについての動機付けがないから,当業者は,引用発明2に基づき引用発明1を組み合わせることによって本件発明6の相違点3に係る構成を容易に想到することができなかったものというべきであり,本件発明7及び9は,本件発明6の構成をさらに特定するものであるから,当業者は,本件発明6を容易に想到することができなかった以上,本件発明7及び9についても容易に想到することができなかったものというべきである。よって,本件審決の判断に誤りはない。
6 結論
以上の次第であるから,原告の請求は棄却されるべきものである。
(裁判長裁判官 滝澤孝臣 裁判官 髙部眞規子 裁判官 井上泰人)