大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

知財高等裁判所 平成22年(行ケ)10377号 判決 2011年9月29日

原告

メディキット株式会社

原告

東郷メディキット株式会社

上記両名訴訟代理人弁護士

田中成志

平出貴和

板井典子

山田徹

森修一郎

同弁理士

豊岡静男

櫻井義宏

高松俊雄

被告

ジョンCクリー

同訴訟代理人弁護士

片山英二

本多広和

中村閑

同弁理士

日野真美

黒川恵

杉山共永

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1請求

特許庁が無効2010-800064号事件について平成22年10月27日にした審決を取り消す。

第2事案の概要

本件は,原告らが,下記1のとおりの手続において,被告の下記2の本件発明に係る特許に対する原告らの特許無効審判の請求について,特許庁が同請求は成り立たないとした別紙審決書(写し)の本件審決(その理由の要旨は下記3のとおり)には,下記4のとおりの取消事由があると主張して,その取消しを求める事案である。

1  特許庁における手続の経緯

(1)  被告は,昭和63年4月28日,発明の名称を「安全後退用針を備えたカニューレ挿入装置」とする特許出願(特願昭63-107382号)をし,平成9年5月9日,設定の登録(特許第2647132号)を受けた。以下,この特許を「本件特許」という(甲31)。

(2)  被告は,平成22年2月22日,本件特許について,特許請求の範囲の請求項1を訂正する旨(以下「本件訂正」という。)の審判を請求した。

(3)  原告らは,平成22年4月12日,本件特許の請求項1に係る発明に係る特許について,特許無効審判を請求し,無効2010-800064号事件として係属した。

(4)  特許庁は,平成22年6月1日,本件訂正を認める旨の審決をした。以下,本件訂正後の請求項1に係る発明を「本件発明」といい,本件訂正後の明細書(甲31,32)を,図面を含め,「本件明細書」という。

特許庁は,同年10月27日,「本件審判の請求は,成り立たない。」旨の本件審決をし,同年11月8日,その謄本が原告らに送達された。

2  本件発明の要旨

本件発明の要旨は,以下のとおりである。なお,文中の「/」は,原文の改行箇所である。

近い端及び遠い端を有する中空のハンドルと,/該ハンドル内に配置されたニードルハブと,/鋭い自由端と,前記ニードルハブに連結された固着端とを有し,カニューレを患者の定位置に案内し運ぶためのニードルと,/前記ニードルハブを前記中空なハンドルの近い端に向かって付勢する付勢手段と,/前記ニードルハブから独立して移動可能であり,前記ニードルハブを前記付勢手段の力に抗して一時的に前記中空のハンドルの遠い端に隣接して保持するラッチであって,前記ニードルの長さよりも短い振幅で手動により駆動され,前記ニードルの移動距離よりも短い距離のみ移動するラッチと,/から成ることを特徴とする,カニューレ挿入のための安全装置

3  本件審決の理由の要旨

(1)  本件審決の理由は,要するに,本件発明は,特願昭63-98036号(特開昭63-290577号。昭和63年4月20日出願。同年11月28日出願公開)の願書に最初に添付された明細書又は図面(甲1。以下,図面を含め,「先願明細書」という。)に記載された発明と同一の発明ではない,というものである。

(2)  なお,本件審決が認定した先願明細書に記載された発明(以下「先願発明」という。)並びに本件発明と先願発明との一致点及び相違点は,次のとおりである。

ア 先願発明:基部と末端部を有する中空のシリンダと,シリンダ内に配置された針及び針支持部材と,鋭い自由端と,針支持部材に支持される,反対側の鋭い自由端とを持つ針と,針及び針支持部材を中空なシリンダの基部に向かって付勢するばねと,針及び針支持部材から独立して移動可能であり,針及び針支持部材を圧縮力を与えることによって,ばねの力に抗して一時的に中空のシリンダの末端部にロックし,針及び針支持部材を末端部に隣接して保持することができる一時的保持手段と,圧縮力を取り去ることにより,ロッキングアームがばねの偏倚力によりロッキングスカートのロックを外し,針及び針支持部材をばねによってシリンダ内に戻すことができ,ロッキングアームがばねの偏倚力により針の長さよりも短い振幅で駆動され,針の移動距離よりも短い距離のみ移動する一時的保持手段と,からなる注射器の安全装置

イ 一致点:近い端及び遠い端を有する中空のハンドルと,該ハンドル内に配置されたニードルハブと,鋭い自由端と,前記ニードルハブに連結された端部を有するニードルと,ニードルハブを中空なハンドルの近い端に向かって付勢する付勢手段と,ニードルハブから独立して移動可能であり,ニードルハブを付勢手段の力に抗して一時的に中空のハンドルの端で保持するラッチであって,ニードルの長さよりも短い振幅で駆動され,ニードルの移動距離よりも短い距離のみ移動するラッチと,からなる安全装置

ウ 相違点1:本件発明のラッチは,「手動により駆動される」のに対し,先願発明は「ラッチ(一時的保持手段)がばねの偏倚力によって駆動される」ものである点

エ 相違点2:本件発明は「カニューレを患者の定位置に案内し運ぶためのニードル」を有するのに対し,先願発明は,単なる「ニードル」にすぎない点

オ 相違点3:本件発明は「カニューレ挿入のための安全装置」であるのに対し,先願発明は「注射器の安全装置」である点

4  取消事由

本件発明と先願発明との同一性に係る判断の誤り

(1)  先願発明の認定の誤り

(2)  一致点及び相違点の認定の誤り

(3)  相違点に係る判断の誤り

第3当事者の主張

〔原告らの主張〕

(1)  先願発明の認定の誤りについて

ア 先願明細書の請求項1は,どのようにロックされるかも含め,ロッキング手段について過不足なく記載されており,同請求項1に明記されているとおり,先願明細書に記載された発明は,ロッキング手段によるロックが,「圧縮力を与えることによって」ロックされ,「圧縮力を取り去ることにより」ロックされていない位置に可動であるという構成に限定するものではない。

イ 先願明細書に記載された発明は歯科用注射針に限定されるものではなく,先願明細書には,注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい場合の他の適切な型の注射器にも応用可能である旨が明記されている。

ウ 以上の記載によれば,先願明細書に記載された発明は,以下のとおり認定すべきものである。

基部と末端部を有する中空のシリンダと,シリンダ内に配置された針及び針支持部材と,鋭い自由端と,針支持部材に支持される,反対側の鋭い自由端とを持つ針と,針及び針支持部材を中空なシリンダの基部に向かって付勢するばねと,針及び針支持部材から独立して移動可能であり,針及び針支持部材を,ばねの力に抗して一時的に中空のシリンダの末端部にロックし,針及び針支持部材を末端部に隣接して保持することができる一時的保持手段と,ロッキングアームとロッキングスカートのロックを外し,針及び針支持部材をばねによってシリンダ内に戻すよう可動であり,ロッキングアームが針の長さよりも短い振幅で駆動され,針の移動距離よりも短い距離のみ移動する一時的保持手段と,からなる注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器の安全装置

エ したがって,本件審決の先願発明の認定は,誤りである。

(2)  一致点及び相違点の認定の誤りについて

ア 相違点1について

(ア) 先願明細書に記載された発明は,ロッキング手段に圧縮力を用いる構成に限定されるものではないことは,前記(1)のとおりである。

本件審決が認定する「ラッチ(一時的保持手段)がばねの偏倚力によって駆動される」構成は,先願明細書に記載された実施例における1つのバリエーションにすぎない。先願明細書には,針が末端部にロックされているものを,ロックを解除することにより可動となり,針がシリンダ内に引き込まれる構成が開示されている。

すなわち,先願明細書に記載された発明は,医療従事者の感染防止という本件発明と同一の課題に基づき,注射器の針がシリンダ内に引き込められたことにより保護された状態で安全に廃棄され,歯科治療従事者が偶発的に針に当たったりする可能性が減少するという本件発明と同一の効果が得られるように,ロッキング手段を「ロックされていない位置に可動」なものとして,針の末端部を「シリンダ内に引き込められ得る」構成としたものである。

(イ) 本件発明の「手動により駆動される」とは,手動で作動させる,あるいは,手動で操作するという意味と解するのが相当である。

また,先願明細書に記載された発明における「可動である」とは,同発明の装置が,人の意思により,人の手を用いることによって駆動するものであることから,手動により可動であることを意味するものである。先願明細書には,ロッキング手段が人の意思によって人の手を用いるのではなく,自動で駆動が開始されることを示唆する記載すらない。

そして,先願明細書に記載された発明では,歯科医がフランジの耳の下から指を外すと,ロッキングアームが自由となり,同アームのばねの偏倚力によって,ロッキングフィンガが円錐状ロッキングスカートから外れることにより,圧縮ばねが針を注射器シリンダ内に戻すものである。ロッキングアーム及びロッキングフィンガがラッチに相当するところ,ラッチを解除する際にロッキングアームから指を外しているから,手動で作動させる,あるいは手動で操作するものということができる。

さらに,先願明細書に記載された発明は,人の意思により人の手を離すという行為によってラッチが駆動するものであり,ラッチを動かす力が人の手によりもたらされるものにほかならないから,このような観点からしても,先願明細書に記載された発明のラッチは手動により駆動されるものということができる。

したがって,先願明細書に記載された発明のラッチ(一時的保持手段)が,ばねの偏倚力によって駆動されるものであるとしても,「手動により駆動される」ものであることは明らかである。

(ウ) 先願明細書に記載された発明は,「圧縮力を与えることによって」ロックされる構成に限定されないところ,「圧縮力を与えることによって」ロックされるものでなければ,操作者の手による力を加えなくても針及び針支持部材は一時的に保持した状態を保つのであるから,手を離すと保持手段がばねの偏倚力によって駆動されることを前提とする相違点1の認定は誤りである。

(エ) 先願明細書の請求項1は,手動により駆動される距離(振幅)とラッチが移動する距離とが異なり得ることを前提とするものである。したがって,請求項1の記載との整合性からも,「手動により駆動される」とは,ラッチを移動させるべく,手動で作動させる,あるいは,手動で操作することを意味すると解すべきである。

(オ) 以上のとおり,先願明細書に記載された発明においても,ラッチは「手動により駆動される」ものというべきであるから,相違点1を相違点とした本件審決の認定は誤りである。

イ 相違点2について

(ア) カニューレ挿入のための注射器が周知である以上(甲2~16),注射器とカニューレ挿入装置とが別のものであるとする本件審決は,前提自体が誤りである。

カニューレ挿入のための針に中空針のみならず中実針を用い得るからといって,「注射器」と「カニューレ挿入装置」との間に構造上の差異が認められるものでもない。本件明細書においても,中実針を用いることが記載されているものである。

(イ) 本件審決は,皮下針では,医療関係者は両手あるいは片手が自由であるのに対し,カニューレ挿入のための針では,医療関係者の両手は塞がっているから,針刺しの危険度が格段に異なるものと解され,それに伴って両者の課題も異なるなどとするが,具体的な課題の差異は何ら示されていない。

そもそも,皮下注射器による注射においても,注射の際,医師の片手は注射器に,もう片方の手は(アルコール綿等を持ちながら)患者の穿刺部付近である腕等にあることは周知の事実であり,注射針を身体から抜き取る際,医師の両手や片手が自由になっていることを前提とした本件審決の認定は事実に反する。注射器である以上,親指,人差し指及び中指を用いて操作し,穿刺中は注射器から指を離さないようにするのは通常の操作であって,先願明細書に記載された発明は,複雑な操作が必要ではないし,あらかじめカニューレを装着することも格別不都合ではない。

しかも,先願明細書には,注射後の不注意な取扱い等により偶発的に感染の可能性のある針に当たりやすいという本件発明と同じ課題が明記されているものである。

また,先願明細書に記載された発明の効果は,相違点1について先に指摘したとおり,本件発明と同一である。

(ウ) 「注射器」であるか否かは,その個別の名称ではなく,注射や採血に用いられるものであるか否かに基づいて判断されるべきものである。

また,静脈注射には,注射針及びカテーテルが用いられるが,点滴静脈注射のうち,長時間持続注入や間欠的注入には,金属製の内針とプラスチック製の外針(カテーテル)からなる静脈留置針が使用されるものであり,これらに使用される器具は,注射に使用するための器具であるから,注射器である。

そして,本件明細書には,注射用の針及びカニューレ挿入用の針は,針刺し事故防止という同じ課題を有している旨を示唆する記載がある。

したがって,本件明細書において,注射器と併用される型式の針として,注射を与えるための「皮下針」,血液を抜く場合の「刺胳針」及びカニューレ挿入のための針とが区別されているが,これらはいずれも注射器と併用される針である点において共通しており,かつ,操作手順により危険の程度に差はあるものの,針刺し事故を防止するという課題も共通しているから,針刺し事故防止のための安全装置についても,修正をすれば,これらの針に共通して適用できるものと解される。

(エ) 本件発明は,審査過程において,安全注射器に関する発明と同一の発明であるとして,拒絶理由通知を受けた。被告は,本件発明が安全注射器であることを争うことなく,ラッチの移動距離や構造の相違についてのみ,反論したものである。

また,被告は,その後,本件発明について,本件訂正により,安全注射器に係る発明から「カニューレ挿入のための」安全注射器に係る発明に減縮したが,このような減縮がされたからといって,先願明細書に記載された発明も歯科用注射器に限定されるものではない。先願明細書にも,注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換える周知の注射器にも応用可能であることが記載されているものである。

さらに,針を連結した注射器をカニューレ挿入用に用いることは,本件出願時に周知であったから,本件発明は,先願明細書に記載された発明に単なる周知技術を付加したものであって,新たな効果を奏するものではない。

(オ) 以上のとおり,「注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器」に係る先願明細書に記載された発明は,「注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器」である「カニューレ挿入のための注射器」を包含するものである。そして,「カニューレ挿入のための注射器」が,「カニューレを患者の定位置に案内し運ぶためのニードル」を有することは明らかであるから,相違点2を相違点とした本件審決の認定は誤りである。

ウ 相違点3について

前記イ(オ)のとおり,先願明細書に記載された発明は,「注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器」である「カニューレ挿入のための注射器」としての「カニューレ挿入のための安全装置」を含むものである。

したがって,相違点3を相違点とした本件審決の認定は誤りである。

エ 小括

以上からすると,相違点1ないし3を相違点とした本件審決の認定は誤りであり,本件発明と先願明細書に記載された発明は,全部一致するものというべきである。

したがって,本件審決の先願発明の認定,本件発明と先願発明との一致点及び相違点の認定はいずれも誤りである。

(3)  相違点に係る判断の誤りについて

ア 相違点1について

(ア) 先願明細書に記載された発明は,ロッキングアームに加えていた手の力を無くすことにより,ロッキングアームのばねの偏倚力によってラッチを解除するのに対し,本件発明は,ラッチ作動フィンガに手の力を加えることにより,ラッチ耳をばねの作用に抗して内方へ移動させてラッチを解除するとの差異があるのみである。加えていた手の力を無くすか,手の力を加えるかの相違により,駆動機構及び作用効果に差異が生じるものということはできないから,相違点1が仮に存在したとしても,単なる課題解決のための具体化手段における微差にすぎない。

(イ) 本件審決は,本件発明は積極的に操作しないと作動しないが,先願明細書に記載された発明は装置から手を離すと自動的に作動してしまう点で,例えば,操作の確実性に差異があるなどとするが,注射器を用いる医師が無意識に手を離すことなどはおよそ想定し難いから,操作の確実性が異なるものではない。

(ウ) 以上のとおり,相違点1が仮に存在するとしても,形式的な相違点にすぎず,相違点1が実質的な相違点であるとした本件審決の判断は誤りである。

イ 相違点2及び3について

(ア) 相違点2及び3が仮に存在するとしても,本件発明の「カニューレを患者の定位置に案内し運ぶためのニードル」として,カニューレ挿入のための注射器は周知技術(甲9~16)にすぎない。

本件審決は,これらの周知技術はいずれも薬液を押し込むピストン等を有しておらず,注射器とはいえないなどとするが,「薬液を押し込むピストン等」が「注射器」の不可欠の構成要素ということはできないから,この点の本件審決の判断は誤りである。

(イ) また,カニューレ挿入のための注射器は,「注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器」としても周知(甲2~7)である。

(ウ) したがって,相違点2及び3は,いずれも先願明細書に記載された発明に周知技術を付加したにすぎないものであって,本件発明の構成は,先願明細書に記載された発明の構成と実質的に同一である。

ウ 小括

以上からすると,本件発明は,先願明細書に記載された発明と実質的に同一の発明であるというべきである。

(4)  本件審決は,先願明細書に記載された発明の認定ないし本件発明との相違点の認定を誤り,相違点に係る判断を誤った結果,本件発明が先願発明と実質的に同一ではないと判断したものであって,取消しを免れない。

〔被告の主張〕

(1)  先願発明の認定の誤りについて

ア 先願明細書に開示された発明が,必ずしもその特許請求の範囲に過不足なく記載されているというわけではない。

しかも,先願明細書の請求項1によると,ロッキング手段は,ロックされた位置に可動であるか又はロックされていない位置に可動であるとされているにすぎず,ロックされるか否か,どのようにロックされるのかは不明である。原告らは,このような不明確な記載について,ロッキング手段によるロックが「圧縮力を与えることによって」ロックされるものに限定していないという点のみを便宜取り上げて主張するものにすぎず,明らかに失当である。

イ 先願明細書に記載された発明の認定において,各構成に関する先願明細書の説明を全て反映しなければならないものではないから,「注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器」という構成に関する記載がないからといって,本件審決の先願発明の認定に誤りがあるということはできない。

ウ 以上からすると,本件審決の先願発明の認定に誤りはない。

(2)  一致点及び相違点の認定の誤りについて

ア 相違点1について

(ア) 「可動である」とは,人の手によるものか,あるいは自動により,「動くことが可能である」ことを意味するものであって,自動ではなく,手動により可動であることを意味するという原告らの主張は明らかに誤りである。

(イ) 本件審決は,ある部材を駆動する力が例えば「A」からもたらされる場合に,ある部材は「A」により駆動されると指摘しているにすぎず,手動駆動距離(振幅)とラッチ移動距離等について,指摘するものではない。

(ウ) 先願明細書に記載された発明の一時的保持手段は,操作者が圧縮力を与えることによって初めて針及び針支持部材を中空シリンダ末端部に隣接して保持することができるものであって,当該圧縮力がなければ,針及び針支持部材は保持されない。すなわち,先願明細書に記載された発明の一時的保持手段は,単独で針及び針支持部材を中空シリンダ末端部に隣接して保持し得る構成ではない。

これに対し,本件発明のラッチは,それ自体で,ニードルハブを一時的に中空のハンドルの遠い端に隣接して保持するものである。

このように,本件発明のラッチと先願明細書に記載された発明の一時的保持手段には,構成上の大きな相違があるから,「手動により駆動される」ものと,「ばねの偏倚力によって駆動される」ものという相違点を有するものである。

(エ) 本件発明と先願明細書に記載された発明には,操作の確実性について大きな差異が存するものであって,これを否定する原告らの主張は,「装置から手を離すと自動的に作動するもの」と,「積極的に操作しないと作動しないもの」との相違から離れた,先願明細書に記載された発明及び本件発明の具体的な実施態様に関する個別事情についての憶測にすぎない。

(オ) 以上のとおり,本件審決の相違点1の認定に誤りはない。

イ 相違点2について

(ア) 「注射器」とは「注射液を体内に注入するのに使用する器具。シリンダーとピストン,注射針からなり,ピストンの押す圧力により薬液を体内に押し込む。」(乙1~3)ものであり,注射や採血に用いられる器具は全て注射器であるという原告らの主張は明らかに誤りである。

また,カニューレの挿入に注射器を用いることがあるとしても,およそ注射器であればカニューレの挿入に用いられるというわけではない。

本件明細書に記載のとおり,通常の皮下注射操作の場合,医療従事者は両手あるいは片手が自由であるが,カニューレ挿入の操作では,片手はカニューレの挿入装置又は挿入に用いられる注射器を操作し,もう一方の手で患者に挿入されたカニューレから血液が流れ出ないように抑える等の操作が必要で,両手が塞がっているものである。したがって,両手が塞がっていても可能な程度に操作が単純で,極めて簡単な一般的構造の注射器が,カニューレ挿入に用いられることがあるにすぎない。

先願明細書に記載された発明の注射器は,針がシリンダに固定されておらず,まず人差し指と中指とでロッキングフィンガを押さえ続けながら親指で押すことによって初めて針がシリンダの外に突き出すが,人差し指と中指を離すとすぐに引っ込んでしまうような複雑な操作を要する複雑な構成の注射器である。このような注射器は,カニューレ挿入のために用いられることはない。先願明細書に記載された発明の注射器をカニューレ挿入のために用いるなどということは,本件発明を見た上での後知恵にほかならない。

したがって,一般的な構造の注射器をカニューレ挿入に用いることが周知であったとしても,先願明細書に記載された発明の注射器がそのような構成を内包しているものということはできない。

(イ) 本件発明において,本件訂正前の「安全装置」には,「カニューレ挿入のためには用いられない安全装置」と「カニューレ挿入のための安全装置」が含まれていたが,同訂正で,「カニューレ挿入のための安全装置」に減縮されたものである。

「カニューレ挿入のためには用いられない安全装置」の中に「安全注射器」が含まれるか否かは,本件発明には無関係である。

また,出願人は,拒絶理由通知に対し,最も効果的と考える反論を行えば足りるものであって,出願経過において積極的に主張しなかったことをもって,禁反言の法理が働くものではない。

(ウ) 以上のとおり,相違点2が先願明細書に記載された発明に周知技術を付加したにすぎないなどとする原告らの主張は誤りである。

ウ 相違点3について

相違点2と同様の理由により,相違点3が先願明細書に記載された発明に周知技術を付加したにすぎないなどとする原告らの主張は誤りである。

エ 小括

以上からすると,相違点1ないし3を相違点とした本件審決の認定には何らの誤りはなく,本件発明と先願明細書に記載された発明は,全部一致するものではない。

したがって,本件審決の先願発明の認定,本件発明と先願発明との一致点及び相違点の認定に誤りはない。

(3)  相違点に係る判断の誤りについて

前記(2)のとおり,相違点1ないし3はいずれも実質的には存在しないとする原告らの主張は失当である。

また,相違点2及び3は,いずれも先願明細書に記載された発明に周知技術を付加しただけのものともいうことはできない。

したがって,相違点1ないし3は,いずれも実質的な相違点として存在することは明らかである。

(4)  本件発明が先願発明と実質的に同一ではないとした本件審決の判断には,何らの誤りはない。

第4当裁判所の判断

1  本件発明について

(1)  本件明細書の記載

本件明細書(甲31,32)の記載を要約すると,以下のとおりとなる。

ア 本件発明は,一般に医療器具に関し,詳細には静脈カニューレ等のカニューレを患者の身体に挿入するための装置に関する発明である。

静脈及び動脈内管並びに他の内在的カテーテルは,医学において多数の重要な用途に用いられているが,後天性免疫不全症候群(エイズ)等の病気が存在することから,注射用及びカテーテル又はカニューレ挿入用に使い捨て針が使用されている。

もっとも,医療従事者が感染した患者から引き抜いた後,針先端に不用意に触れるという危険性がある。医療用針は,極端に鋭利となるように,かつわずかな圧力のみで皮膚や肉を刺すように特定的に設計され,製造されるため,かすり傷や刺し傷程度でも,多くの医療従事者らに重大な病気や死亡のおそれがあるし,実際にそのような事態も生じている。

イ このような問題に関する議論においては,注射器と併用される型式の針についても問題となる。本件発明において,注射を与えるために注射器と併用される針を「皮下針」と,血液を抜く場合に用いられる針を「刺胳針」と呼ぶこととし,本件発明の分野であるカニューレ挿入のために用いられる針とを区別することとする。

皮下針を患者から引き抜いた後,その針を使用している者は,両手をその針の適正な処理に利用することができる。通常,患者に注意する前に素早く包んで捨てることができる。

刺胳針を用いて採血を行う場合,刺胳針を使用する者は,安全な処置を行う時間があるまでその針を邪魔にならない所に一時的に置くのに,通常少なくとも1秒程度の時間を見いだすことができる。

このように,皮下針及び刺胳針は,カニューレ挿入手順よりも比較的危険が少ないものということができる。

もっとも,静脈又は他のカニューレの挿入では,医師等は通常,ちょうどカニューレの先端において患者の身体の外部に手動で押圧することにより,チューブがカニューレに取り付けられるまで継続的に血管を閉塞するものであり,医療従事者の両手が自由になる前に,両手が自由でない中間的な時間がある。

従来,安全カバーを用いる方法があったが,カバーを針の鋭い端上に再びかぶせて偶発的な刺しを防止し,患者以外の人々と針上のあり得べき汚染物との接触を防止する過程において,針による刺し傷を受ける等の事故が生じる危険性があった。

ウ 本件発明は,カニューレを患者内に挿入するに当たって使用される安全装置であって,医療従事者,廃棄物取扱業者等,使用後の装置と偶然の接触を有するかもしれない他の人々を,患者内にあった装置部分との接触から保護するものである。

本件発明の装置は,患者に突き刺し,かつカニューレを患者内の定位置に案内し,運ぶための針を有し,この針は少なくとも1つの鋭い端を備えた軸を有する。

また,本件発明は,少なくとも針の鋭い端を封入するようにされた中空ハンドル,鋭い端がハンドルから突出した状態で針の軸をハンドルに固着させるための幾つかの手段(固着手段),固着手段を解除し,かつ針の鋭い端をハンドル内に後退させるための幾つかの手段(解除及び後退手段)を有する。解除及び後退手段は簡単な一体的運動により手動で作動可能であり,この運動の振幅は針の長さよりも実質的に短く,一般的には使用者の指又は手の大きさに比較して小さいといってもよい。

(2)  本件発明の技術内容

以上の記載からすると,本件発明は,カニューレを患者の定位置に案内し,運ぶために使用した針を重大な病気に感染した患者から引き抜いた後,医療従事者が針先端に触れることによって生じる感染の危険性を防止するために,ニードルを連結したニードルハブを中空のハンドル内に配置し,このニードルハブを中空のハンドルの医療従事者に近い端に向かって付勢する付勢手段と,ニードルハブを付勢手段の力に抗して一時的に中空のハンドルの医療従事者から遠い端に隣接して保持するラッチであって,ニードルの長さよりも短い振幅で手動により駆動され,ニードルの移動距離よりも短い距離のみ移動するラッチとから構成されるカニューレ挿入のための安全装置に係る発明である。

本件発明は,このような構成を採用したことにより,医療従事者がカニューレを患者に挿入後にラッチを移動させると,ニードルハブの保持が解除され,付勢手段によりニードルハブが中空ハンドル内で医療従事者に近い端に向って移動し,ニードルが中空ハンドル内に後退するので,医療従事者が誤って汚染された使用済みの針に触れて,重大な病気や死に至る危険が生じないという効果を奏するものである。

2  先願発明の認定の誤りについて

(1)  先願明細書の記載

ア 先願明細書(甲1)の特許請求の範囲の記載は,以下のとおりである。

(ア) 請求項1 開いた基部と実質的に閉じた末端部とを有する中空のシリンダと,その基部を介して前記シリンダ内に入れられるあらかじめ満たされたアンプルとを含み,前記アンプルはその一方端部で封止キャップを有し,前記アンプルの前方に前記シリンダ内に位置決めされかつ前記アンプルと間隔を置かれた軸方向の整列で配置された両端皮下針とを含む注射器であって,前記注射器は前記針の基部が前記アンプルの端部キャップを貫通しかつ前記針の末端部は前記シリンダの末端を通って外方向に突出するように前記シリンダを介して前記アンプルを軸方向にかつ末端方向に進めるための手段と,前記シリンダ内の末端に進められた位置で前記アンプルを解放可能に保持してロックされた位置に可動であるか又は末端部に進められた位置から前記アンプルを離してロックされていない位置に可動であるロッキング手段とを含み,そのため前記アンプルは前記シリンダを介して基部方向に変位されかつ前記針の末端部は前記シリンダ内に引き込められ得ることを特徴とする,注射器

(イ) 請求項7 前記両端針が保持される針カートリッジをさらに特徴とし,前記針カートリッジは前記針を取り囲む中空のスリーブと,前記針を前記アンプルと軸方向に整列するように支持するための両端の基部及び末端壁とを有する,請求項1ないし6記載の注射器

(ウ) 請求項9 前記針保持カートリッジはまた前記中空スリーブ内に置かれかつ前記カートリッジの前記両端の壁の間を延びる圧縮可能ばね手段を含む,請求項7又は8記載の注射器

(エ) 請求項10 前記壁の一方がその反対の壁に関連して前記ばね手段の偏倚力に対して前記針保持カートリッジの中空のスリーブを介して可動であり,その結果前記ばね手段が前記両端の壁の間で圧縮されるようになり,前記アンプルは前記シリンダを介して軸方向にかつ末端方向に進められ,その結果前記可動壁が前記中空のスリーブを介して動かされかつ前記ばね手段が圧縮されるようにされ,それによって前記針の末端部は前記スリーブから外方向に力が加えられ前記針シリンダの末端部を通過して注射が行なわれ,前記ばね手段は緩められた位置に戻って前記反対の壁から前記カートリッジの可動の壁を離して駆動し,それによって前記針の末端部は前記ロッキング手段が前記アンプルを末端方向に進められた位置から開放すると前記カートリッジスリーブ内に引き込められる,請求項7ないし9記載の注射器

イ 先願明細書の発明の詳細な説明の要旨は,以下のとおりである。

(ア) 先願明細書に記載された発明は,液体の薬品があらかじめ満たされたアンプルと,取外し可能針カートリッジ内に保持され,かつ液体の薬品を目標とされる組織区域に注射する位置である末端方向に延ばされた位置から,針が注射器のシリンダ内に引き込まれ,かつそれによって保護される位置である基部方向に引き込められた位置に,自動的に位置を代えるように適合される両端部皮下針とを有する歯科用注射器に関する発明である([技術分野])。

(イ) 従来技術の歯科用注射器では,注射が終わると針は注射器シリンダを介して形成された末端の孔から外方向に突出している軸方向に延びた位置にロックされている。注射器は伝染病を保持している患者の処置をするために用いられる可能性があるが,歯科医療従事者は,特に使用後の不注意な取扱いによって偶発的に感染の可能性を持った針に当たることが生じやすい([発明の背景])。

(ウ) 先願明細書に記載された発明において,歯科医が1対の指(例えば人差指と中指)を注射器シリンダの基部のフランジの耳状部分の下に置くと,シリンダのロッキングアームに対して同等かつ反対の圧縮力が与えられ,ロッキングアームはその通常のばねの偏倚力に逆らって回動し,それぞれのロッキングフィンガはシリンダ内に形成されたスロットを通って回転される。

歯科医は親指を使って次に保持カラーの基部でフランジを押して,シリンダの開いた基部を介して軸方向及び末端方向にカラーを進め,保持カラーはシリンダ内の軸方向に進められた位置にロックされる。保持カラーの末端への動きによってアンプルの端部キャップが針支持及び整列部材のレセプタクル内で受け取られるまで,針カートリッジのスリーブを介して軸方向にかつ末端方向にアンプルの対応する動きが引き起こされ,アンプルはスリーブの軸方向に進められた位置にロックされる。

カートリッジのスリーブを介してアンプルが軸方向及び末端方向に進んでアンプルが皮下針と連絡し,針の基部はアンプルがレセプタクル内に受け取られると,アンプルの封止された端部キャップを貫通し,その末端部壁を通過する。針支持及び整列部材はスリーブを介して軸方向及び末端方向に駆動され,圧縮ばねは針支持部材とカートリッジの末端プラグとの間で(その通常の偏倚力に対して)圧縮される。

歯科医はフランジの耳状部分の下に置いたままで親指を保持カラーのフランジからピストンステムの基部の指ループに置き換える。保持カラーのロッキングスカートをロッキングアームによってシリンダ内の軸方向に進められた位置にロックしたまま,歯科医が保持カラーを介して末端方向にピストンステムを押すと,軸方向の力は指ループからアンプルの基部のプランジャに移り,プランジャはアンプルを介して軸方向及び末端方向に動かされ,アンプル中の液体が針を介して患者に注入される。針が取り外された後,歯科医はフランジの耳の下から指を外し,かつ指ループから親指を外す。針は即座にかつ自動的に完全に注射器シリンダ内に戻る。特に,歯科医の指をフランジの耳状部分の下でロッキングアームとの係合をはずすと,アームのロッキングフィンガは保持カラーの円錐状ロッキングスカートから外れる。ロッキングアームの通常のばねの偏倚力によってアームは注射器のシリンダの外方向にそこから離れて回動するようになる。ロッキングフィンガをロッキングスカートから外し,かつアンプルの端部キャップを針支持及び整列部材のレセプタクル内にロックしたままにすると,以前に圧縮されたばねは自由になり,解放された状態に戻る。ばね内に蓄えられた位置エネルギによって針と針支持部材とアンプルとピストンステムと指ループとの相互接続を含むピストンアセンブリは針カートリッジのスリーブを介して軸方向及び基部方向に十分駆動され,針は針カートリッジスリーブ内に完全に戻されるように注射器シリンダの末端部壁を介して引っ張られる。

この発明は,歯科用注射針に限定されず,注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい他の適切な型の注射器にも応用可能である([好ましい実施例の説明])。

(2)  先願明細書に記載された発明の技術内容

以上の先願明細書の記載によると,先願明細書に記載された発明は,歯科用注射器において,注射終了後,歯科医療従事者が偶発的に針に接することにより,患者の有する感染症に感染する危険性を防止するため,歯科医がフランジの耳の下から指を外し,かつ指ループから親指を外すと,ロッキングアームがばねの偏倚力によりロッキングスカートのロックを外し,アンプルがシリンダを介して基部方向に移動し,かつ,針の末端部はシリンダ内に引き込められるようにしたものである。

(3)  本件審決の先願発明の認定の当否

ア 前記(1)及び(2)によると,先願明細書に記載された発明のロッキングアームとロッキングスカートとからなる構造は,歯科医の指がロッキングアームに圧縮力を与えている間,針及び針支持部材が末端部から基部方向に戻るのをロックさせ,圧縮力を取り去ると,ロックを解除して針及び針支持部材が末端部から基部方向に戻るようにさせている点で,一時的保持手段に該当するものである。

また,当該一時的保持手段は,針及び針支持部材から独立して移動可能であり,針及び針支持部材をばねの力に抗して一時的に中空のシリンダの末端部にロックし,圧縮力を取り去ることにより,ロッキングアームがばねの偏倚力によって駆動され,ロッキングアームによるロッキングスカートのロックを外し,針及び針支持部材をばねによってシリンダ内に戻すことができ,ロッキングアームがばねの偏倚力により針の長さよりも短い振幅で駆動され,針の移動距離よりも短い距離のみ移動するものであることは明らかである。

イ 原告らは,先願明細書の請求項1は,ロッキング手段について過不足なく記載しており,先願明細書に記載された発明は,ロッキング手段によるロックが,「圧縮力を与えることによって」ロックされ,「圧縮力を取り去ることにより」ロックされていない位置に可動であるという構成に限定するものではないなどとして,先願発明は前記〔原告らの主張〕(1)・ウのとおり認定すべきものであると主張する。

しかしながら,先願明細書に記載された発明を認定する際には,特許請求の範囲の記載のみならず,先願明細書に開示された事項全体を斟酌して判断し得るものである。

そこで,前記(1)の先願明細書の記載を参酌すると,先願明細書に記載された発明のロッキング手段は,針をシリンダ先端から突出させ,所要の注射を行い,その後注射器を手放すまで,人の手(親指,人差し指,中指等)の関与,具体的には,人の手の1対の指がロッキングアームに対して圧縮力を与えること及び圧縮力を開放することが,ロッキング手段の機序の中核を構成することが明らかである。

したがって,先願明細書の請求項1において,「圧縮力」について格別限定していないからといって,前記(1)の記載内容により,先願発明を,圧縮力を与えることによってロックされるものであること及び圧縮力を取り去ることによりロックされていない位置に可動であることという構成を有するものとした本件審決の認定が誤りであるということはできない。

また,原告らは,先願明細書に記載された発明は,歯科用注射器に限定されるものではなく,注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器の安全装置であると認定すべきであるとも主張する。

確かに,本件審決においても,先願発明について,その技術内容は前記認定のとおりであるが,その対象を「注射器の安全装置」であると認定しているものであり,歯科用注射器に限定して認定しているものではない。

しかしながら,原告らが先願発明の構成であると主張する,「注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込まれた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器」との点は,発明の構成を具体性に特定するものではなく,目的や作用効果により構成を抽象的に特定するものにすぎない。

仮に,原告ら主張の上記構成が先願発明の構成であったとしても,本件審決は,先願発明について,同構成に必要な構成を具体的に特定して,前記第2の3(2)アのとおりの構成を有するものと認定しているものである。本件審決は,その上で,同イのとおり本件発明との一致点を認定しているところ,これは,原告ら主張の上記構成を包摂するものであって,それ以上,抽象的な構成を付加して認定することは,明らかに相当ではない。

原告らの主張はいずれも採用できない。

(4)  小括

以上からすると,本件審決の先願発明の認定に誤りはない。

3  一致点及び相違点の認定の誤りについて

(1)  一致点の認定について

前記1及び2の本件発明及び先願発明の認定,特に,先願発明のロッキングアームとロッキングスカートとからなる構造は,一時的保持手段に該当するものであること,当該一時的保持手段は,圧縮力を取り去ることにより,ロッキングアームがばねの偏倚力により針の長さよりも短い振幅で駆動され,針の移動距離よりも短い距離のみ移動するものであることなどからすると,本件審決の一致点の認定については,何らの誤りはない。

(2)  相違点の認定について

ア 相違点1について

(ア) 原告らは,ラッチ(一時的保持手段)がばねの偏倚力によって駆動されるという構成は先願発明のバリエーションの1つにすぎないと主張する。

しかしながら,先願明細書に記載された先願発明の実施の態様の具体的内容はともかくとして,先願発明の構成は前記2において認定したとおりであって,上記構成について,これを相違点1とした本件審決の認定に誤りはない。

(イ) 原告らは,先願発明の請求項1の「可動である」とは,自動ではなく,人の意思により人の手を用いることによって駆動することを意味するものであるとも主張する。

しかしながら,先願明細書に記載された発明の認定は,その特許請求の範囲の記載のみならず,先願明細書において開示された事項全体から判断すべきものである。先願明細書の記載によると,歯科医が指を離した後の針の戻りについては,人の手を介在しないのであるから,その意味において先願発明の装置が自動に作動することは明らかである。本願明細書の記載を斟酌することなく,特許請求の範囲の「可動である」との文言のみに基づく原告らの主張は失当である。

(ウ) 原告らは,先願発明は圧縮力によってロックされるものではないので,操作者の力がなくとも針等は一時的に保持した状態を保つものであるとも主張する。

しかしながら,本件発明のラッチは,「手動により駆動される」のに対し,先願発明の「ラッチ(一時的保持手段)」は「ばねの偏倚力によって駆動される」ものであって,先願発明におけるばねの偏倚力は手の指によって与えられる圧縮力によって抑えていたものを解除することによって作用するものであることは明らかであるから,原告らの主張は失当である。

(エ) 原告らは,本件発明の「手動により駆動される」とは,手動駆動距離(振幅)とラッチ移動距離とが違う場合を含み,「ラッチを移動させるべく手動で作動させる又は手動で操作する」という意味であるところ,先願発明は,「手動により駆動される」と認定すべきであり,「人の意思により人の手によりもたらされる」点で「手動により駆動される」といえるから,相違点1は存在しないとも主張する。

しかしながら,本件審決は,本件発明におけるラッチの動作は手動によりもたらされているところ,先願発明のラッチ(一時的保持手段)の動作はフランジの耳の下から指を外した時に,ロッキングアームのばねの偏倚力によりもたらされていると指摘しているにすぎず,手動駆動距離(振幅)とラッチ移動距離の差異はこの認定の当否を左右するものではない。

(オ) よって,原告らの主張はいずれも採用できない。

イ 相違点2及び3について

(ア) 原告らは,カニューレ挿入のための注射器は周知技術であり,「注射器」と「カニューレ挿入装置」とは別のものではなく,いずれも「注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込まれた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器」である,両発明の課題も共通し,本来的に構造を異にするものでもなく,中空針を用いることは通常のことであるから,先願発明の「注射器」は「カニューレ挿入装置」を包含するなどと主張する。

しかしながら,先願発明は,針をシリンダ先端から突出させ,注射(注射液を体内に注入するため,ピストンの押す圧力により薬液を体内に押し込むこと)を行い,その後注射器を手放すまで,人の手(親指,人差し指,中指等)による一定の順序及び形態に係る操作を必要とするものであって,ロッキング手段の作用も,そのような注射器の構成と人の手の動きとが一体となって発揮されるものである。

したがって,注射器がカニューレの挿入のために用いられることもあるとの原告らの指摘を考慮しても,先願発明は,「注射液を体内に注入するのに使用する器具。シリンダーとピストン,注射針からなり,ピストンの押す圧力により薬液を体内に押し込む。」という定義における注射器を前提とした発明であるというべきであって,カニューレ挿入用に用いることができるとまで,いうことはできない。

また,先願発明のロッキング手段は,注射液の注入,注射後,注射器を手放すまでの各過程における人の手による一定の操作を前提としてその作用が発揮される以上,本件発明とは具体的構成及び機序が異なるものである。原告らの主張は,上記相違が存するにもかかわらず,本件発明と先願発明の課題が共通することを強調し,当該ロッキング手段のみを抜き出して,「カニューレ挿入装置」に用いられた安全装置と同一であるとするものにほかならない。原告らの主張は失当である。

(イ) 原告らは,先願発明は,複雑な操作が必要なものではなく,あらかじめカニューレを装着することに不都合はないとも主張する。

しかしながら,先願発明は,針をシリンダ先端から突出させ,注射を行い,その後注射器を手放すまで,人の手(親指,人差し指,中指等)による所定の操作が必要であり,ロッキング手段の作用も,そのような注射器の構成と人の手の動きとが一体となって発揮されるものであるから,先願発明において,カニューレ挿入用に用いることはそもそも想定されていないというべきである。

(ウ) 原告らは,本件訂正前の本件発明は,カニューレに関する構成を備えておらず,先願発明と異なるところはないものであって,同訂正によりカニューレ挿入用の安全装置として減縮したものであるから,本件発明は,カニューレ挿入用の安全注射器を包含するとも主張する。

しかしながら,先に指摘したとおり,先願発明は,カニューレ挿入用の注射器として使用することができるということはできないから,原告らの主張はその前提自体が誤りである。

(エ) よって,原告らの主張はいずれも採用できない。

(3)  小括

以上からすると,本件審決の一致点及び相違点の認定に何らの誤りはない。

4  相違点に係る判断の誤りについて

(1)  前記2及び3のとおり,本件審決の先願発明の認定,本件発明と先願発明との対比に基づく相違点の認定にいずれも誤りはないところ,原告らは,相違点1は,力を加えるか加えていた力を無くすかの相違でしかなく,「操作の確実性」等の作用効果に差異は生じないから,形式的な相違点にすぎないなどと主張する。

しかしながら,本件発明のラッチは,「手動により駆動される」のに対し,先願発明は,「ラッチ(一時的保持手段)がばねの偏倚力によって駆動される」ものであって,本件発明においては,手動による積極的な操作を行わない限りラッチは駆動されないのに対し,先願発明は,手で積極的に圧縮力を与えている間のみラッチにより針及び針支持部材が保持され,圧縮力を取り去ることにより,ばねの偏倚力によりラッチが駆動されるのであって,ラッチを駆動する機序が異なるものである。

また,片手がほとんど塞がっているカニューレ挿入時の針抜き後の針の取扱いと,先願発明の歯科医等の注射後の針の取扱いとでは,操作者の手及び身体の動きの制約度が異なるし,先願発明は,針を引っ込めるためにも,注射器から指を離す又は圧縮力を与えないようにするという微妙な操作をすることまで必要となるのであるから,課題の達成度には自ずと差異があるものである。

したがって,本件発明と先願発明とは,構成において異なるだけでなく,作用効果の差異も顕著なものであるものというべきであって,相違点1が形式的な相違点にすぎないということはできない。原告らの主張は採用できない。

(2)  また,原告らは,相違点2及び3が仮に存在するとしても,本件発明の「カニューレを患者の定位置に案内し運ぶためのニードル」として,カニューレ挿入のための注射器は周知技術(甲9~16)にすぎず,また,カニューレ挿入のための注射器は,「注射器を安全に処理するために末端に延ばされた位置から注射器シリンダに関連して基部に引き込められた位置に皮下針を置き換えることが望ましい注射器」としても周知技術(甲2~7)にすぎないのであるから,相違点2及び3は,いずれも先願発明に周知技術を付加したにすぎないものであって,本件発明の構成は,先願発明の構成と実質的に同一であるとも主張する。

しかしながら,カニューレを患者の定位置に案内し運ぶための針を有する注射器や,針を連結した注射器をカニューレ挿入用に用いることが周知であったとしても,先願発明は,カニューレ挿入用の注射器として使用することができるとまでいうことはできない以上,原告らの主張は失当である。

(3)  小括

以上からすると,相違点に係る本件審決の判断にも誤りはない。

5  結論

以上の次第であるから,本件発明が先願発明と実質的に同一の発明であるというとはできないとした本件審決の判断に誤りはなく,原告らの請求は棄却されるべきものである。

(裁判長裁判官 滝澤孝臣 裁判官 井上泰人 裁判官 荒井章光)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例