知財高等裁判所 平成23年(行ケ)10034号 判決 2011年12月08日
原告
X1
原告
X2
上記両名訴訟代理人弁護士
鈴木修
嶋田英樹
西川喜裕
同弁理士
宮前徹
被告
特許庁長官
同指定代理人
伊藤幸仙
神悦彦
新海岳
板谷玲子
主文
1 原告らの請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
第1請求
特許庁が不服2008-26794号事件について平成22年9月27日にした審決を取り消す。
第2事案の概要
本件は,原告らが,下記1のとおりの手続において,本件出願に対する拒絶査定不服審判の請求について,特許庁が,特許請求の範囲を下記2(1)から(2)へと補正する本件補正を却下した上,同請求は成り立たないとした別紙審決書(写し)の本件審決(その理由の要旨は下記3のとおり)には,下記4の取消事由があると主張して,その取消しを求める事案である。
1 特許庁における手続の経緯
(1) 原告らは,平成15年8月12日,発明の名称を「身体位置感覚/運動感覚装置及び方法」とする発明について特許出願(特願2004-528791号。パリ条約による優先権主張日:平成14年8月19日・平成15年3月27日,米国。請求項の数は19。)をしたが,平成20年8月8日付けで拒絶査定を受けたので,同年10月20日,これに対する不服の審判を請求するとともに,手続補正(以下「本件補正」という。)をした。
(2) 特許庁は,上記請求を不服2008-26794号事件として審理し,平成22年9月27日,本件補正を却下した上,「本件審判の請求は,成り立たない。」との本件審決をし,その謄本は同年10月7日,原告らに送達された。
2 本件補正前後の特許請求の範囲の記載
本件審決が判断の対象とした特許請求の範囲の請求項1の記載は,以下のとおりである。
(1) 本件補正前の請求項1の記載(ただし,平成20年7月11日付け手続補正書(甲9)による補正後のものである。以下,同請求項に記載の発明を「本願発明」という。なお,「/」は原文における改行箇所である。(2)も同じ。)
履物であって,/足に取り付け可能な上面を有し,二つの球根状の突出部によって特徴づけられた支持部材を備え,/前記突出部の一方は,前記突出部の他方よりも後方に配置されており,前記突出部の少なくとも一つは,前記支持部材に摺動的に取り付けられていることを特徴とする履物
(2) 本件補正後の請求項1の記載(ただし,下線部分は本件補正による補正箇所である。以下,同請求項に記載の発明を「本件補正発明」という。なお,本件補正の前後で明細書の記載に変更はなく,以下,その明細書(甲5)を「本件明細書」という。)
履物であって,/足に取り付け可能な上面を有し,二つの球根状の突出部によって特徴づけられた支持部材を備え,/前記突出部の一方は,前記突出部の他方よりも後方に配置されており,/前記突出部の少なくとも一つは,前記支持部材の底面に形成されたトラックに摺動的に取り付けられると共に,前記トラックに沿ってどこにでも選択的に位置決めされて前記トラックに締結されることを特徴とする履物
3 本件審決の理由の要旨
(1) 本件審決の理由は,要するに,①本件補正発明は,下記アの引用例に記載された発明(以下「引用発明1」という。)及び下記イ及びウの周知例1及び2に記載された周知技術(以下,周知例1に記載された周知技術を「本件周知技術」という。)に基づいて当業者が容易に発明することができたものであって,特許法29条2項の規定により,特許出願の際独立して特許を受けることができないものであるから,本件補正は,平成18年法律第55号による改正前の特許法(以下「法」という。)17条の2第5項において準用する法126条5項の規定に違反するものとして却下すべきものであり,②本願発明も,下記アの引用例に記載された発明(以下「引用発明2」という。)及び周知技術に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであり,特許法29条2項の規定により特許を受けることができない,というものである。
ア 引用例:特開昭61-119282号公報(甲1)
イ 周知例1:特開平9-308706号公報(甲2)
ウ 周知例2:国際公開第01/37693号(平成13年5月31日公開。甲4)
(2) なお,本件審決が認定した引用発明1並びに本件補正発明と引用発明1との一致点及び相違点,引用発明2並びに本願発明と引用発明2との一致点及び相違点は,以下のとおりである。
ア 引用発明1:足長に略等しい足台の縦の中心線の真下に,分離独立構成した前台脚と後台脚とを足台から下方に突き出た突出部として形成した履物
イ 本件補正発明と引用発明1との一致点:履物であって,足に取り付け可能な上面を有し,二つの突出部によって特徴づけられた支持部材を備え,前記突出部の一方は,前記突出部の他方よりも後方に配置されている履物
ウ 本件補正発明と引用発明1との相違点
(ア) 突出部の形状が,本件補正発明では,球根状であるのに対して,引用発明1では,球根状ではない点(以下「相違点1」という。)
(イ) 本件補正発明は,突出部の少なくとも一つは,支持部材の底面に形成されたトラックに摺動的に取り付けられるとともに,前記トラックに沿ってどこにでも選択的に位置決めされて前記トラックに締結されるのに対して,引用発明1は,そのような構成を有しない点(以下「相違点2」という。)
エ 引用発明2:足長に略等しい足台の縦の中心線の真下に,分離独立構成した前台脚と後台脚とを形成した履物であって,足台にバネ槽が構成され,台脚が人の跳躍に伴って該バネ槽に出入りする履物
オ 本願発明と引用発明2との一致点:履物であって,足に取り付け可能な上面を有し,二つの突出部によって特徴づけられた支持部材を備え,前記突出部の一方は,前記突出部の他方よりも後方に配置されており,前記突出部の少なくとも一つは,前記支持部材に摺動的に取り付けられている履物
カ 本願発明と引用発明2との相違点:突出部の形状が,本願発明では,球根状であるのに対して,引用発明2では,球根状ではない点
4 取消事由
(1) 審判手続の違法(取消事由1)
(2) 相違点1に係る判断の誤り(取消事由2)
(3) 本願発明と引用発明2との一致点の認定の誤り(取消事由3)
第3当事者の主張
1 取消事由1(審判手続の違法)について
〔原告らの主張〕
(1) 本件の特許出願については,本件審判請求時に補正が行われたため,前置審査に付されたが,前置審査で作成された前置報告書では,それまで全く引用されることのなかった周知例2が引かれ,引用例と周知例2との組合せにより,本件補正発明の摺動構成が容易推考であるとの意見が記載された。
本件補正発明の摺動的構成は,平成20年7月11日付けの補正で請求項に加えられたものであり,本件補正は,トラックの構成を付加するものとはいえ,それ以前の請求項の内容である「突出部の少なくとも一つは,支持部材に摺動的に取り付け」との構成を包含するものであるから,前置報告書での上記意見は,摺動の構成について,それまでの拒絶理由とは異なる拒絶理由を発見した場合に該当するものである。
しかるに,本件審判手続において,新たに拒絶理由通知を発することなく,本件審決は,本件補正発明には進歩性がないとして本件補正を却下した。
(2) 拒絶査定不服審判請求時に補正の申立てがあった場合に行われる審査官による前置審査において,拒絶査定の理由と異なる拒絶の理由を発見した場合は,出願人に拒絶理由を通知し,意見書の提出機会を与えるのが原則である(法163条2項,50条。なお,法159条は,拒絶査定不服審判において査定の理由と異なる拒絶の理由を発見した場合についても同様の規定をしている。)。法50条ただし書は,法53条1項により当該補正について却下決定する場合を例外としているところ,同項は,平成20年法律第16号による改正前の特許法17条の2第1項4号(拒絶査定不服審判を請求する場合において,その審判の請求の日から30日以内にするとき)を含んでいないが,法163条2項は,前置審査において拒絶査定の理由と異なる拒絶の理由を発見した場合,法50条ただし書中に平成20年法律第16号による改正前の特許法17条の2第1項4号を含めるものと読み替えることを規定している。
この結果,法文上は,審判請求時の補正について,新たな拒絶理由を発見した場合も,独立特許要件を欠く補正として却下するときには,請求人に拒絶理由通知を発し,意見書提出の機会を与える必要がないということになっている。
しかし,新たな拒絶理由を発見した場合であっても,拒絶理由通知を発して出願人に意見書を提出する機会を与える必要がないとしたことは,出願人から意見を述べる機会を奪うだけでなく,補正や分割出願の権利をも奪うものであり,極めて不当なものというほかない。特許法の規定をそのまま適用した場合の不当性は明らかであるから,その適用範囲は限定して解釈されるべきであり,審判請求時の補正が審判請求前の補正の内容を含む場合には,原則に戻り,出願人に対し,意見書の提出機会を与えなければならないと解釈すべきである。
(3) したがって,拒絶理由通知を発することなく,単に審尋をしたのみで,前置審査官の発見した新たな拒絶理由に基づき,本件補正を却下した本件審決は,法159条2項,50条本文の規定に違反したものであり,取り消されるべきである。
〔被告の主張〕
(1) 法159条1項,2項は,法53条1項及び50条ただし書の規定を平成20年法律第16号による改正前の特許法17条の2第1項4号の場合を含めるように読み替えた上で準用し,特許法上は,拒絶査定の理由とは異なる理由であっても,審判請求時の補正により減縮された発明が独立特許要件を欠くのであれば,審判請求人に新たな拒絶の理由を通知することなく当該補正の却下の決定ができるものとされている。
(2) 周知例2は,本件補正により特許請求の範囲が減縮されたことに対応して,新たに示すことになった証拠であるが,本件審決は,周知例2を考慮することにより,本件補正発明が独立特許要件を欠くと判断して,審判請求人である原告らに拒絶の理由を通知することなく本件補正を却下したものであり,本件審判手続に違法性はない。
2 取消事由2(相違点1に係る判断の誤り)について
〔原告らの主張〕
(1) 引用発明1と本件周知技術とを組み合わせることの阻害要因について
ア 引用発明1の台脚部は,いずれも幅に対して高さの比が大きく,一定の長さを有して水平に地面に設置しており,面で接触している間はバランスを保っていられるものの,いったんバランスを崩すと,地面と面で接触できなくなり,急激なバランスの変化によって転倒するという特徴があり,転倒を免れようと努力することにより,平衡感覚のトレーニングが可能となるものである。
これに対し,本件周知技術の半球状の突出部は,地面と常に点で接触し,半球状であることによって傾くことを許容するから,バランス変化により突出部が傾いたとしても,引用発明1のように急激にバランスを崩すことはなく,多少バランスを崩しても,再びバランスを取り戻すことが可能な構成となっている。
したがって,仮に引用発明1の突出部を本件周知技術の半球状の突出部に置き換えると,多少傾いても急激にバランスを失うことはないから,平均台のように急激にバランスを崩しかねない台上でそのバランスを崩さないような訓練を実現するという引用発明1の目的を達成することができない。
引用発明1の突出部の構成は,当該発明の目的を達成するために不可欠であり,当業者にとって,引用発明1に本件周知技術の半球状の突出部を組み合わせ,結果として,引用発明1の効果を減少させるような構成を採用するはずはないから,引用発明1に本件周知技術を組み合わせることには阻害要因がある。
イ また,本件補正発明では,履物の底面に存在する二つの球根上の突出部によって,突出部が一つの履物の場合と比べて,履物の軸が前後方向に安定する。
他方,本件周知技術は,突出部を一つだけ有することに技術的な意味があり,突出部を二つに増やすと,足首の後ろ側を広範囲にストレッチすることも,その場で足首を自由に回転させることも困難となり,本件周知技術が目的とする足首の全方向への制約がなくストレッチ運動をすることが不可能となるばかりか,回内運動及び回外運動も困難となる。
このように,本件周知技術において,一つの半球状の突出部を二つに増やすことは発明の作用効果を失わせるものであるから,本件周知技術と引用発明1との組合せには阻害事由があるというべきである。
(2) 本件補正発明の作用効果について
ア 引用発明1は,極めて不安定な構造を有するものであり,この極端な不安定性が発明の作用効果を得る上で不可欠な構成である。また,本件周知技術の構成は,「本発明は,その効果が大きい反面,捻挫等の危険性も大きい。」と記載されているとおり(【0006】),捻挫等の怪我の危険性を伴うものである。
これに対し,本件補正発明の履物は,二つの球根状の突出部によりもたらされる「管理された穏やかな不安定性」が全方向にわたって自由な動きを一定程度制約するから,引用発明1や本件周知技術よりも劇的に安全となる。また,各使用者にとって最適な位置に突出部を調整することを可能とし,かつ,限定的で管理された不安定な状態で長時間反復して使用させることによって,適切な調節機能が発揮され,使用者の身体位置感覚及び神経筋のコントロールを発達,改善するとともに,足領域の筋肉,腱及び結合組織の特異的な強化を容易に可能ならしめ,使用の効果として固有受容性,運動感覚,筋肉運動,神経のコントロール,バランス,姿勢の平衡,中心の安定性を発達,改善されるという,引用発明1や本件周知技術からは得ることのできない,極めて大きな効果が得られるものである。
イ また,本件補正発明の実施品である靴は,イスラエル,英国及びシンガポールにおいて,治療のために多くの患者に適用され,大きな治療効果を上げている。
ウ 以上のとおり,本件補正発明は,引用発明1及び本件周知技術から到底予想し得ない効果を奏するものである。
(3) 以上によれば,引用発明1の突出部に本件周知技術を用いて,相違点1に係る本件補正発明の構成を採用することは,当業者が容易になし得る事項であるとした本件審決の判断は誤りであるから,取り消されるべきである。
〔被告の主張〕
(1) 引用発明1と本件周知技術とを組み合わせることの阻害要因について
ア 引用発明1は,平衡を保ちながら歩行,片足立,跳躍,走行等各種運動を行い,身体の筋系(全筋肉,腱膜等)の鍛錬及び神経系の平衡感覚とを併せて錬磨することを目的とし,「足長に略等しい足台の縦の中心線の真下に,分離独立構成した前台脚と後台脚とを足台から下方に突き出た突出部として形成した履物」の構成を備えたものである。この構成により,使用者の重心が傾けばそれに随伴して引用発明1の運動具もすぐに傾きやすく,上体の体勢が崩れようとする時には,足底の筋肉が全身の全筋系に連動して足台に作用してバランスを回復しようと働き,全筋系と神経系の鍛錬に最高であるという作用効果を奏するものである。また,引用例には,突出部として様々な形状や構造が示され,使用の態様に応じて,適宜好適な突出部を用いることができることが示唆されている。
そうすると,引用発明1は,原告らが主張するように,「平均台上における訓練を実現する目的」のみに限定されたものでないことは明らかである。
イ また,周知例1の履き物型トレーニング器具は,底部に半球体的隆起状の突出部を有する履物であって,この突出部の接地部が小さく不安定であることにより,足首のストレッチ効果があるばかりでなく,関係筋肉やひざ,腰等の強化やバランス感覚も養えるというものである(【0004】【0009】)。
ウ 本件審決は,バランス感覚等の安定性のトレーニングに用いる,突出部を有する履物において,支持部材から突出する突出部の例として周知例1を引用したものであり,原告らが主張するように,周知例1に開示された履き物型トレーニング器具自体において半球体的隆起状の突出部を2つに増やすようなことを論じているのではない。
そして,引用発明1においては,不安定さを備える突出部の形状や構造として,平衡感覚のトレーニングに役立つ限りは様々なものが用い得るのであり,周知例1に開示された半球体的隆起状の突出部もバランス感覚のトレーニングに役立つものであるから,引用発明1に本件周知技術の半球体的隆起状の突出部を適用する十分な動機付けがある。また,本件周知技術の突出部を「足首のストレッチ」効果をもたらすための突出部としてではなく,「バランス感覚も養える」効果をもたらす突出部の例としてその技術的事項を採用するのであるから,本件周知技術の突出部を有する履物が足首のストレッチにも有効であるからといって,そこで開示された半球体的隆起状の突出部を引用発明1に採用することの阻害事由にはならない。
エ 以上のとおり,引用発明1と本件周知技術の半球体的隆起状の突出部の組合せにおける阻害事由は存在せず,これらを組み合わせることは容易であるとした本件審決の判断に誤りはない。
(2) 本件補正発明の作用効果について
ア 本件補正発明を実施した際に,それがどの程度安全なものになるかは,各球根状の突出部の具体的な形状や大きさ,位置,硬度,材質等によって大きく左右されるものである。本件補正発明には,突出部について,球根状という全体形状以外,安定性や安全性に関係する格別の限定がないのであるから,本件補正発明の発明特定事項のみをもって引用発明1や本件周知技術よりも劇的に安全だという原告らが主張する効果は,本件補正発明の発明特定事項に対応しないものである。
イ また,本件補正発明を実施した製品が数多く販売されているとしても,商業的成功には営業努力等様々な要因が複雑に絡むものであるから,その事実のみをもって,直ちに本件補正発明の容易性が否定されるものではない。
ウ 本件補正発明の効果は,「運動,特に並進運動の歩行,走行又は他の運動中において人間に不安定をもたらす」ことにより「訓練及びトレーニングを行う」ことができるというものである(【0012】)。しかしながら,引用発明1や本件周知技術も,履物の不安定さを用いた平衡感覚(バランス感覚)のトレーニングを行うことができるという,本件補正発明と同様の効果をもたらすものである。これらの効果と比較して,本件補正発明の効果が格別なものであるともいえない。
エ したがって,原告らの主張は失当である。
(3) 以上によれば,引用発明1の突出部に本件周知技術を用いて,相違点1に係る本件補正発明の構成を採用することは,当業者が容易になし得る事項であるとした本件審決の判断に誤りはない。
3 取消理由3(本願発明と引用発明2との一致点の認定の誤り)について
〔原告らの主張〕
(1) 本件審決は,本願発明と引用発明2とは,「前記突出部の少なくとも一つは,前記支持部材に摺動的に取り付けられている履物」との点で一致すると認定した。
(2) しかし,引用発明2において,台脚と足台との間にゴム球又はバネ層が設けられた構成は,使用者が履物を使用している際に,台脚を足台との間で直行方向の相対的な変位をもたらすものであり,かつ,人の跳躍力を増大させるための構成である。
これに対し,本願発明における球根状の突出部の摺動は,個々の患者の特性に応じて球根状の突出部の水平位置を調整する目的のみを有するものであり,患者が使用する前に完全に行われなければならない。二つの球根状の突出部が使用中に動くことは,製品を危険なものにし,かつ,その効果を損なうものである。
本願発明の「摺動的に取り付けられている」とは,使用前に,予め選択的に位置決めされた後は固定されるものであって,使用中に動くことを予定するものではない。したがって,引用発明2における台脚と足台との間の相対変位構造のように,使用中に変位する態様のものは,突出部を支持部材に「摺動的に取り付けられている」ものということはできない。
(3) 以上によれば,本件審決は,本願発明と引用発明2の一致点を誤って認定したものであり,この認定の誤りが本件審決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,本件審決は取り消されるべきものである。
〔被告の主張〕
(1) 原告らは,引用発明2の台脚と足台との間にゴム球又はバネ層がもうけられた構成は,台脚と足台との間で直行方向の相対的な変位をもたらすものであるのに対し,本願発明における突出部の摺動は,個々の患者の特性に応じてその水平位置を調整する目的のみを有するものであると主張する。
しかし,本件明細書には,本願発明の「前記突出部の少なくとも一つは,前記支持部材に摺動的に取り付けられていること」という事項について,「突出部は,支持部材の底面に形成されたトラック(図2)上に取り付けることができ,トラックに沿ってどこにでも選択的に位置決めされてトラックに締結されることができる。トラックは,靴底の一部分に沿って又は靴底の長さ全体に伸びることができる。」との記載のほか,「突出部をねじ付ファスナー(図3)で支持部材に取り付け,そしてねじ付ファスナーを締め付ける又は緩めることなどによって,突出部の突出量を調整することができる。」との記載や,「履物は,通常の外側靴底を有するとともに,履物の靴底の内側に突出部用摺動/移動機構を有することができる。この摺動/移動機構は,制限するわけではないが粘着性基質で浮く機構又は内部ケーブルによってつり下げられた機構から構成することができる。」との記載もあるが,これらの記載はそれぞれ異なる摺動機構を示している。
そうすると,本件明細書における摺動機構は,①突出部が支持部材の底面に形成されたトラックに沿う方向に摺動し,選択的に位置決めされる態様,②突出部が支持部材に対して,支持部材の厚さ方向に摺動し,突出量を調整する態様,③突出部が支持部材に対して,支持部材の厚さ方向に摺動/移動可能な態様の少なくとも3つの態様を含むものであるということができる。
(2) また,原告らは,引用発明2は人の跳躍力を増大させるための構成であるとも主張するが,本件明細書には,摺動機構の技術的意義につき何ら説明がないのであるから,本願発明の摺動機構の解釈として,人の跳躍力を増大させるための構成が除外されることにはならない。
(3) 以上によれば,原告らの主張はいずれも失当であり,本件審決による本願発明と引用発明2との一致点の認定に誤りはない。
第4当裁判所の判断
1 取消事由1(審判手続の違法)について
(1) 原告らは,特許法の法文上,審判請求時の補正について,新たな拒絶理由を発見し,独立特許要件を欠く補正として却下するときには,請求人に拒絶理由通知を発して意見書を提出する機会を与える必要がないとされているが,このような手続は,出願人から意見を述べる機会を奪うだけでなく,補正や分割出願の権利をも奪うものであり,極めて不当であるから,審判請求時の補正が審判請求前の補正の内容を含む場合には,原則に戻り,出願人に対し,意見書の提出機会を与えなければならないと主張する。
(2) 確かに,本件特許出願に係る本件審判手続において,拒絶査定の理由と異なる拒絶の理由を発見した場合は,出願人に拒絶理由を通知し,意見書の提出機会を与えるのが原則である(法159条2項,50条)。しかし,法159条2項は,出願人に対する拒絶理由の通知を要しない場合を規定する法50条ただし書について,平成20年法律第16号による改正前の特許法17条の2第1項4号(拒絶査定不服審判を請求する場合において,その審判の請求の日から30日以内にするとき)の場合において法53条1項により当該補正について却下決定する場合を含むものと読み替える旨規定している。また,法159条1項は,拒絶不服審判においては,決定をもって補正を却下すべき事由を規定する法53条1項について,平成20年法律第16号による改正前の特許法17条の2第1項4号の場合を含むものと読み替える旨規定しているのであって,拒絶査定不服審判の請求の日から30日以内にされた補正による発明が特許出願の際独立して特許を受けることができない場合にも当該補正は却下されることとなる(法17条の2第5項,特許法126条4項参照)。その結果,法文上,拒絶査定不服審判の請求の日から30日以内にされた補正による発明について,独立して特許を受けることができないものとして当該補正を却下するときには,拒絶査定の理由と異なる拒絶の理由を発見した場合であっても,出願人に対して拒絶理由を通知することは求められていないこととなる。
また,法163条1項,2項は,拒絶査定不服審判の請求の日から30日以内に補正があったときに行われる審査官による前置審査において,拒絶査定の理由と異なる拒絶の理由を発見した場合にも,法50条ただし書や53条1項について,それぞれ上記同様の読替えをする旨規定している。
(3) しかるところ,本件特許出願の経緯をみると,原告らは,平成15年8月12日に本件特許出願をしたが,当初の特許請求の範囲には,「突出部が支持部材に摺動的に取り付けられている」との記載はなく(甲5),平成18年2月28日付け手続補正により,請求項9に「突出部の少なくとも一つは,支持部材に摺動的に取り付けられている」との構成が記載された(甲6)。平成20年4月9日付け拒絶理由通知には,「引用例には,突出部を摺動的に取り付けることが記載されている」旨記載されていたが(甲12,乙1),原告らは,同年7月11日付け手続補正により,請求項1について,上記同様「突出部の少なくとも一つは,支持部材に摺動的に取り付けられている」との構成に補正し(甲9),同年8月8日付けで拒絶査定を受けた後で(甲13,乙2),本件補正により,本件補正発明の構成とした(甲7)。その後,特許庁審査官は,平成21年2月9日付けで,「引用例記載のものにおいて,新たに引用する周知例2に記載されているように,突起を摺動可能に位置決めし,突起に周知の形状を採用し,本件補正発明とすることは,当業者が容易に想到し得ることである」旨記載した前置報告書を作成した(甲8)。原告らに対しては,平成22年1月18日付けで同報告書の内容を示した審尋が行われ(甲8),原告らは,同年7月20日付けで回答書を提出したが(甲14),新たに周知例2を引用したことについて,改めて拒絶理由通知が発せられることはなく,同年9月27日に本件審決がされた。本件審決では,相違点2に係る判断に際し,周知例2を引用して,「下面に突出部を有する履物の突出部の位置変更手段として,支持部材の底面に形成されたトラックに摺動的に取り付けられるとともに,トラックに沿ってどこにでも選択的に位置決めされてトラックに締結されるように構成することは,従来から広く行われている」旨判断している。
以上のとおり,前置報告書や本件審判において周知例2が引用されたのは,本件補正により,請求項1について,「突出部の少なくとも一つは,支持部材の底面に形成されたトラックに摺動的に取り付けられるともに,トラックに沿ってどこにでも選択的に位置決めされてトラックに締結される」との構成に減縮された結果であるところ,原告らは,平成18年2月28日付け補正による「突出部の少なくとも一つは,支持部材に摺動的に取り付けられている」との構成(請求項9)について,平成20年4月9日付けで拒絶理由通知がされた後も,実質的に同様の構成(請求項1)で特許を受けようとし続け,拒絶査定を受けた結果,初めて本件補正によりその構成を減縮したものである。
(4) 以上の経緯に鑑みると,本件審判手続において,周知例2について新たに拒絶理由通知をしないまま本件審決に至ったことが,原告らに対して不当なものであったということもできない。
(5) 小括
よって,取消事由1は理由がない。
2 取消事由2(相違点1に係る判断の誤り)について
(1) 引用発明1の内容について
ア 引用例(甲1)には,引用発明1について,概略,次の記載がある。
(ア) 引用発明1は,平衡を保ちながら,歩行,片足立,跳躍,走行等の各種運動を行い,身体の筋系(全筋肉,腱膜等)の鍛錬及び神経系の平衡感覚を併せて錬磨する運動具である。
(イ) 引用発明1が錬磨する領域の一部分に該当する運動具としては,平均台が存在するが,平均台は,その設置に平坦で高い空間のある広い場所を要し,利用における順番待ち等の問題もある。引用発明1は,携帯が可能で,狭い場所でも使用できるものであって,平均台の働きをはるかに超越した機能を有している。
(ウ) 引用発明1の特徴は,第1に,足台,前足台,足踏,前足踏等の縦の中心線の真下に,各種の台脚を一体構成したものであり,各種の台脚には,縦長,逆台形,前台脚と後台脚の分離独立構成等がある。仮に引用発明1を歩行用履物として使用すると,極めて不安定な履物ということになる。
(エ) 引用発明1における各種の台脚は,足台,前足台,足踏,前足踏等の中心線の真下に縦に構成されているから,使用者の重心が傾けばそれに随伴して引用発明1の運動具もすぐに傾きやすい。その際,上体の体勢が崩れようとすると,足底の筋肉は,全身の全筋系に連動して足台等に作用してバランスを回復しようと働くのであり,運動者の身体の体勢の乱れに敏速に随伴して傾きやすいからこそ,引用発明1の運動具は,全筋系と神経系の鍛錬に最高の運動具となる。
(オ) 第16図は,足台と台脚類の組合せの背面図であり,脚底が広い(ホ)ないし(ヌ)は,初心者用である。
イ 以上の記載からすると,引用発明1は,足台の縦の中心線の真下に分離独立した台脚を足台から下方に突き出た突出部として形成するという不安定な履物とすることにより,これを履いた者が重心の傾きにより崩れた体勢を回復しようと足底の筋肉を全筋系に連動して作用させることを促し,もって,全身の筋肉系や神経系を鍛錬するというものであるということができる。
(2) 本件周知技術について
ア 周知例1(甲2)には,本件周知技術について,概略,次の記載がある。
(ア) この発明は,足首のトレーニング器具に関するものである。従来のトレーニング用履物は,靴底のかかと部を取ったり,靴底の足裏との接触部を山型にして,つま先立ちやつま先歩きをさせることにより,下肢の筋肉トレーニングやストレッチ等には効果をあげているが,横の動きには安定するように設計されているため,足首の可動範囲の前後,斜め,左右の上下動や足首の回内,回外の諸運動ができる足首強化専用器具が必要となる(【0001】~【0003】)。
(イ) この発明は,この課題に答えるために設計した半球体的隆起状底式履物型のトレーニング器具であり,接地部が半球体の1点であるため,接地部が小さく,前後左右斜め全方向に不安定であり,各方向への上下運動ができ,足首の回内,回外運動もできることを特徴とする。その効果が大きい反面,捻挫等の危険性も大きいから,使用者は,そのレベルにあわせて半球体の大きさや,形,隆起部位置を変える必要がある。このトレーニング器具を日常的に履くことにより,特に足首のストレッチ効果があり,柔軟性を増し,関係筋肉を強化する。また,ひざ,腰等の強化もでき,バランス感覚を養うこともできる(【0004】~【0006】【0009】)。
イ 以上の記載からすると,本件周知技術の半球体は,足首にストレッチ等の効果をもたらす履物型のトレーニング器具が,全方向に不安定になるために採用された形状であるということができる。
(3) 本件補正発明の内容
本件明細書(甲5)には,本件補正発明について,概略,次の記載がある。
ア 本件補正発明は,身体位置感覚及び運動感覚能力,神経筋のコントロール等を発達,向上させるための装置である。身体位置感覚及び運動感覚の訓練装置は,敏捷さ,平衡等の改善や,負傷等の後に位置感覚能力が損なわれた人間のリハビリテーションとして周知である。訓練装置には,下面にボールが取り付けられたボードがあり,水平にならないボード上での反復訓練は,患者の身体位置感覚及び神経のコントロールを発達,回復させるとともに,足領域の筋肉,腱等を強化する。他の訓練装置には,靴底の下面に単一のボールを取り付けた靴がある(【0001】【0008】【0009】)。
イ 本件補正発明は,単一のボール等の代わりに,靴の下面から突出する二つの球根上の突出部を有する履物であり,余分の突出部は,十分に可能性を増加し,歩行を可能にし,身体位置感覚等の治療プランの成果を促進,改善することができる。
履物は,関節のリハビリテーションの間,神経筋のコントロールを回復するため,神経筋系の構造的及び機能的安定性を復帰させるため,先行及び反射的神経筋のコントロール機構を改善及び復帰するため,また,バランス,姿勢の平衡及び中心の安定性を回復及び改善するために利用されることができる(【0011】【0029】)。
(4) 引用発明1と本件周知技術とを組み合わせることの阻害要因について
引用発明1は,足台の縦の中心線の真下に分離独立した台脚を足台から下方に突き出た突出部として形成する履物とすることにより,これを履いた者が急激な重心のずれにより崩れた体勢を回復しようと足底の筋肉を全筋系に連動して作用させることを促し,全身の筋肉系や神経系を鍛錬するというものである。引用発明1は,履物が左右のバランスにおいて不安定な構造をしていることを特徴とするが,引用例で示されている台脚の形状は多様であり,左右方向の不安定性の程度も一様ではない(第16図等参照)。
他方,周知例1には,接地部を半球体の1点とすることにより,全方向に不安定となる履物の形状が示されている。周知例1記載の履き物型トレーニング器具は,足首のストレッチやバランス感覚の涵養を目的とするものであり,引用発明1のように急激な重心のずれから体勢を回復しようとすることによる全身の鍛錬を目的としたものではないが,左右方向に着目すれば,曲がった面により少なからず不安定性が生じることは見て取れるのであって,前記のとおり,引用発明1における台脚の構成や左右方向の不安定性は様々なものであるから,引用発明1には本件周知技術の半球状の突出部を適用することの動機付けがあるというべきであり,また,これを適用することの阻害要因は見当たらない。
(5) 本件補正発明の作用効果について
ア 原告らは,本件補正発明の履物は,二つの球根状の突出部によりもたらされる「管理された穏やかな不安定性」により,引用発明1や本件周知技術よりも劇的に安全となるとか,本件補正発明は,各使用者にとって最適な位置に突出部を調整することにより,運動感覚,筋肉運動等を発達,改善に大きな効果があるなどと主張する。
しかしながら,引用発明1の突出部を二つの半球状のものとした場合には,例えば,引用例第16図(イ)にあるような左右の幅の狭い台脚と比較すれば,安定性が増すということができるものの,前記のとおり,引用発明1における台脚の構成や左右方向の不安定性は様々なものであり,突出部を二つの半球状のものとした場合の安定性,安全性が格別顕著なものと認めることはできない。
また,履物の下面の突出部の位置変更手段として,支持部材の底面に形成されたトラックに摺動的に取り付けるとともに,トラックに沿って選択的に位置決めをして締結するという構成は,周知の技術であり(甲4),本件補正発明において,各使用者に最適な位置に突出部を調整することで,運動感覚や筋肉運動等に得られる効果も,引用発明1に上記の周知技術を適用することにより,当業者が予測し得る範囲のものであって,格別顕著なものということはできない。
イ また,原告らは,本件補正発明の実施品である靴は,国外において,治療のために多くの患者に適用されているなどとも主張する。
しかし,製品の販売数の多寡は,通常,製品に使用されている発明の効果の有無だけではなく,営業努力等の諸要素が反映されるものであるから,本件補正発明の国外での販売実績から,直ちに本件補正発明の効果が格別なものと認めることはできない。
(6) 小括
よって,取消事由2も理由がない。
3 取消事由3(本願発明と引用発明2との一致点の認定の誤り)について
(1) 引用発明2について
ア 引用例には,引用発明2について,概略,次の記載がある。
(ア) 第13図では,足台にバネ槽が構成され,その中に安定板を挟んで,空気入ゴム球が整列している。引用発明2に人が乗り,台脚が床上又は地上にあれば,ゴム球は圧縮され,人の跳躍の瞬間に元形に戻る。ゴム球の復元力は反発力となり,人の跳躍力を増大させる。
(イ) 第14図は,空気バネ方式であり,バネ槽内には台脚の気孔から入った空気が充満している。平坦な床上で引用発明2に人が乗れば,気孔は入口が床で塞がれてバネ槽内の空気は圧迫され,人の跳躍で引用発明2が床を離れた瞬間に台脚は空気圧で下へ押下げられ,空気は又バネ槽に充満する。
イ 以上の記載のとおり,引用発明2は,台脚が足台に対して上下方向に摺動的に取り付けられた構成である。
(2) 原告らの主張について
原告らは,本願発明の「摺動的に取り付けられている」とは,使用前に,予め選択的に位置決めされた後は固定されるものであるのに対し,引用発明2における台脚と足台との間の相対変位構造のように,使用中に変位する態様のものは,突出部を支持部材に「摺動的に取り付けられている」ものということはできないとして,本件審決の一致点の認定は誤りであると主張する。
しかしながら,原告らの上記主張は,本件補正で追加された突出部がトラックに締結される状態をいうものであって,本件補正前の本願発明に係る特許請求の範囲に基づかないものであり,これを採用することはできない。
(3) 小括
よって,取消事由3も理由がない。
4 結論
以上の次第であるから,原告ら主張の取消事由はいずれも理由がなく,原告らの請求は棄却されるべきものである。
(裁判長裁判官 滝澤孝臣 裁判官 髙部眞規子 裁判官 齋藤巌)