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知財高等裁判所 平成23年(行ケ)10134号 判決 2012年2月06日

原告

新日本製鐵株式会社

訴訟代理人弁理士

影山秀一

三宅正之

被告

特許庁長官

指定代理人

小柳健悟

大橋賢一

須藤康洋

田村正明

主文

特許庁が不服2009-14453号事件について平成23年3月7日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第1原告の求めた判決

主文同旨

第2事案の概要

本件は,特許出願に対する拒絶査定に係る不服の審判請求について,特許庁がした請求不成立の審決の取消訴訟である。主たる争点は,容易推考性の存否である。

1  特許庁における手続の経緯

原告は,平成16年10月6日,名称を「高強度部品の製造方法と高強度部品」(平成21年3月12日付けの補正により「高強度部品の製造方法」と変更)とする発明について特許出願(特願2004-293455号)をし,平成21年3月12日付けで補正(甲4)をしたが,平成21年5月7日付けで拒絶査定を受けたので,平成21年8月11日,拒絶査定に対する不服審判請求をした(不服2009-14453号)。

原告は,その手続中の平成23年1月5日付けで補正(甲15)をしたが,特許庁は,平成23年3月7日,上記審判請求につき「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は平成23年3月28日,原告に送達された。

2  本願発明の要旨

平成23年1月5日付けの手続補正書(甲15)により補正された特許請求の範囲の請求項1に係る本願発明は,次のとおりである。

【請求項1】

質量%で,

C:0.05~0.55%,

Si:2%以下,

Mn:0.1~3%,

P:0.1%以下,

S:0.03%以下,

Al:0.005~0.1%,

N:0.01%以下,

Cr:0.01~1%,

B:0.0002~0.0050%,

Ti:3.42×N+0.001%~3.99×(C-0.1)%,

{ただし,Nは窒素の質量含有率(%),Cは炭素の質量含有率(%)}

残部Feと不可避的不純物からなる鋼板を用い,水素量が体積分率で10%以下,かつ露点が30℃以下である雰囲気にて,Ac3~融点までに鋼板を加熱した後,フェライト,パーライト,ベイナイト,マルテンサイト変態が生じる温度より高い温度でプレス成形を開始し,成形後に金型中にて冷却して焼入れを行い高強度の部品を製造する際に,下死点から10mm以内にて剪断加工を施すことを特徴とする高強度部品の製造方法。

3  審決の理由の要点

(1)  刊行物1(特開2003-328031号公報,甲17)には次のとおりの引用発明が記載されていると認められる。

【引用発明】

C:0.2~0.24%に合金成分等が添加された鋼板を用い,1000℃近傍まで加熱した後,約800℃程度でプレス成形を開始し,プレス成形後に成形型で急冷・焼入れを行い高強度の成形品を製造する際に,ピアス加工を施す高強度プレス成形品の焼入れ方法

(2)  本願発明と引用発明との間には,次のとおりの一致点,相違点がある。

【一致点】

質量%で,C:0.05~0.55%を含む鋼板を用い,一定の雰囲気にて,Ac3~融点までに鋼板を加熱した後,フェライト,パーライト,ベイナイト,マルテンサイト変態が生じる温度より高い温度でプレス成形を開始し,成形後に金型中にて冷却して焼入れを行い高強度の部品を製造する際に,剪断加工を施す高強度部品の製造方法

【相違点1】

引用発明は,本願発明に係るC以外の成分組成を規定していない点

【相違点2】

引用発明は,本願発明に係る「水素量が体積分率で10%以下,かつ露点が30℃以下である雰囲気」について明らかにしていない点

【相違点3】

引用発明は,本願発明に係る「下死点から10mm以内にて剪断加工を施すこと」について明らかにしていない点

(3)  相違点に関する審決の判断

ア 相違点1について

刊行物2(特開2003-231915号公報,甲18)には,「C:0.2質量%,Mn:0.85質量%,B:0.002質量%,N:0.002質量%,Si:0.02質量%,P:0.005質量%,S:0.002質量%,Al:0.025質量%,Ti:0.01質量%で残部がFe及び不可避的不純物からなる低炭素鋼」や,「Crはマルテンサイトを生成し焼入れに効果があるとともに強化元素である。この効果を得るためには0.02質量%以上含有させることが好ましいが,2.0質量%を越えて添加しても上記効果は飽和し,変態抑制等の悪影響を生ずるため,添加上限量は2.0質量%以下とする」ことが記載されており,本願発明においても「Crは,焼入れ性を向上させる元素」であるから,結局,本願発明に係る成分組成は,刊行物2に開示されていることになる。そして,刊行物2に記載された低炭素鋼は,鋼板を加熱した後,冷却媒体で内部が冷却される金型でプレス成形し型拘束してオーステナイト域温度からの焼入れ及びプレス成形を行うプレス焼入れ方法に関するものであるから,引用発明と同一の技術分野に属するものである。

刊行物3(特開2002-102980号公報,甲19)にも,Al,Nを除いて,本願発明に係る成分組成を有する鋼板が記載されており,Al,Nを本願発明の範囲に特定することは,通常のことである。また,刊行物3に記載された鋼板は,「プレスによる付形と焼入れとを同時に行う」ものであり,引用発明と同一の技術分野に属するものである。

したがって,引用発明の鋼板を同一技術分野に属する刊行物2及び刊行物3に開示された鋼板とし,相違点1に係る本願発明の構成とすることは,当業者が容易になし得ることである。

イ 相違点2について

刊行物3には,プレス前に930℃に加熱した際の雰囲気を不活性ガス雰囲気や窒素ガス雰囲気にすることが記載されており,「水素量が体積分率で10%以下」であることが開示されている。また,我が国でよく利用されている雰囲気ガスが露点が30℃以下であることは,通常のことである(新版工業炉ハンドブック(1997年11月28日),甲20)。そうであれば,刊行物3に記載された雰囲気も「水素量が体積分率で10%以下かつ露点が30℃以下」であると解するのが相当である。さらに,刊行物3に記載された製造方法は,遅れ破壊により品質低下を生じさせないことを目的とするものであるが,水素脆性による破壊が遅れ破壊とも呼ばれていることからすると,水素脆性を抑制するものと解される。そうすると,刊行物3に記載された製造方法は,「遅れ破壊」により品質低下を生じないことを目的としつつ,その雰囲気は,実質的に「水素量が体積分率で10%以下かつ露点が30℃以下」であると認められる。

刊行物2には,「加熱後かつプレス前の鋼板表面のスケール厚が10μm以内となるように,加熱処理の雰囲気を制御する。このスケール厚の制御は,例えば加熱炉2内を不活性雰囲気とすることで加熱時の酸素量を制御し,実現可能となる」,「加熱雰囲気をNを導入し酸素が0.2%以下となるようにして」と記載されており,「水素量が体積分率で10%以下」であることが開示されている。また,上記のとおり,我が国でよく利用されている雰囲気ガスが露点が30℃以下であることは,通常のことである。加えて,刊行物2に記載された発明は,「プレス前の鋼板表面のスケール厚を10μm以下とする」ものであり,スケールを抑制して焼入れを行うことで,冷却速度を高め,焼入れ強化を向上させ,良好な寸法精度を確保するものであるから,露点が高くない範囲にあると解するのが相当である。したがって,刊行物2に記載された発明の雰囲気も,「水素量が体積分率で10%以下かつ露点が30℃以下」であると解するのが相当である。

以上のとおり,同一技術分野に属する刊行物3及び刊行物2に記載された鋼板加熱時における雰囲気からみて,引用発明においても,その雰囲気は,本願発明に係る雰囲気と実質的に同一であって,相違点2は実質的な相違点ではない。

ウ 相違点3について

刊行物1には,焼入れ装置の作動の様子が記載されており,【図16】と【図17】を見比べると,前者では圧力源19がダイ6まで完全に降下し切っていないのに対し,後者では圧力源19がダイ6まで完全に降下しているから,ピアス加工は,下死点近傍で行われていると認めるのが自然である。

また,刊行物1の「ポンチ7との間で鋼板Wにプレス成形を行い,上プレート17は下死点にて保持される。」,「その保持されている間に,シリンダ等のアクチュエータ26によりピアスポンチ20を押し出し成形品1に穴加工を行う。」,「ピアス加工のタイミングを任意に設定することができ」,「プレス成形の後にピアス等の加工を行うことになるため,鋼板Wの材料移動は終了しており,穴位置のずれが回避でき,精度のよい穴加工が可能となる。」という記載からすると,引用発明は,精度のよい穴加工を行うために,可及的に鋼板Wの材料移動がない下死点に近いところで穴加工を行うものと認められる。

したがって,引用発明は,実質的に「下死点から10mm以内にて剪断加工を施す」ものと認められるのであって,相違点3は,実質的な相違点ではない。

仮にそうでないとしても,刊行物3の記載からすると,刊行物3の製造方法において,プレス加工と同時のブランキング(すなわち剪断)は,「下死点から10mm以内にて剪断」するものと認められるのであり,引用発明において,同一技術分野に属する刊行物3に開示されたブランキング(すなわち剪断)を適用し,相違点3に係る本願発明の構成とすることは,当業者が容易になし得ることである。

(4)  結論

以上のとおり,本願発明は,引用発明,刊行物2及び刊行物3に記載された発明並びに周知技術に基いて,当業者が容易に発明をすることができたものであるから,特許法29条2項の規定により特許を受けることができない。

第3原告主張の審決取消事由

1  取消事由1(引用発明の認定の誤り)

(1)  審決は,引用発明について,「…高強度の成形品を製造する際に…」,「…高強度プレス成形品の焼入れ方法」と認定した。

しかしながら,刊行物1には,そこに記載されたプレス成形品が「高強度」であるとする記載はない。刊行物1の記載によれば,そこで開示されているのは「高強度」プレス成形品ではなく,部位に応じて焼入れ硬度を変化させ,ピアス加工を行う部位の焼入れ硬度を低下させたプレス成形品である。

したがって,審決の上記認定は誤りである。

(2)  審決は,引用発明について,「…プレス成形後に成形型で急冷・焼入れを行い高強度の成形品を製造する際に,ピアス加工を施す高強度プレス成形品の焼入れ方法」と認定した。

審決は,刊行物1の第4実施形態に関する記載を根拠として上記認定をしているが,刊行物1の記載によれば,第4実施形態についても,第1実施形態と同様に,「成形型により投入された加熱鋼板を成形品形状部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却し,得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させ,プレス成形後にピアス加工を行う部位の焼入れ硬度を低下させた剛性低下部を形成」していることは明らかである。すなわち,刊行物1に記載された発明は,加工が必要な部位の焼入れ硬度を低下させることでその部位の加工を容易とすることを技術的思想の骨子とするものである。

したがって,引用発明としては,「…プレス成形と同時に成形型で冷却して焼入れされたプレス成形品を製造する際に,成形型により投入された加熱鋼板を成形品形状部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却し,得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させ,プレス成形後にピアス加工を行う部位の焼入れ硬度を低下させた剛性低下部を形成するプレス部品の焼入れ方法」が認定されるべきであるのに,審決は,刊行物1記載の発明が,「成形品形状部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却」する点,「得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化」させる点,「プレス成形後にピアス加工を行う部位の焼入れ硬度を低下させた剛性低下部を形成する」点を無視して,上記のような認定を行ったものであり,誤っている。

2  取消事由2(一致点認定の誤り・相違点の看過)

取消事由1で主張したとおり,審決は,引用発明の認定を誤っている。これに伴い,審決が,本願発明と引用発明の一致点として,「成形後に金型中にて冷却して焼入れを行い高強度の部品を製造する際に,剪断加工を施す高強度部品の製造方法」を認定したことは誤りであり,相違点として,本願発明は,「成形後に金型中にて冷却して焼入れを行い高強度の部品を製造する際に,下死点から10mm以内にて剪断加工を施す」のに対して,引用発明では,「成形品形状部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却」する点(相違点4),「得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させ,剛性低下部を形成」する点(相違点5),「剛性低下部にピアス加工を施す」点(相違点6)が看過された。

3  取消事由3(相違点2に関する判断の誤り)

(1)  審決は,相違点2について,刊行物3,刊行物2に記載された鋼板加熱時における雰囲気からみて,引用発明の雰囲気と本願発明に係る雰囲気とは実質的に同一であって,実質的な相違点ではないと判断した。

(2)  しかしながら,刊行物3に開示された発明は,冷間でプレス加工を施すと残留応力に起因して遅れ破壊が発生するという課題を解決するために,熱間でプレス加工を施すこととし,これにより,金属材の成形性がよくなり,金属材中に残留応力が発生しないために遅れ破壊の発生を防止できるというものである。つまり,刊行物3においては,プレス前の加熱雰囲気を不活性ガス雰囲気(例えば窒素ガス雰囲気)にすることによって遅れ破壊発生を防止しているのではなく,熱間でプレス加工を施すことによって遅れ破壊の発生を防止しているのである。したがって,刊行物3に記載されたプレス前の加熱雰囲気によって遅れ破壊が改善されるとした審決の判断は誤りであって,刊行物3に記載された発明では,プレス前の加熱雰囲気と遅れ破壊発生防止には何らの技術的関連性がない。

また,刊行物1の記載によれば,引用発明においても熱間でプレス加工が行われているのであるから,刊行物3で意図している程度の遅れ破壊の発生防止は,引用発明においても自ずと達成されていることになる。そうすると,引用発明においては加熱雰囲気について特段規定されていないものの,引用発明の加熱雰囲気が何であれ,刊行物3で意図する程度の遅れ破壊の発生防止は引用発明で達成されているのであるから,引用発明の加熱雰囲気が刊行物3の加熱雰囲気と同じである必要性はなく,相違点2が実質的な相違点でないとはいえない。

(3)  刊行物2では,窒素を導入して雰囲気中の酸素量が0.2%以下となるように制御し,これによって,加熱後かつプレス前の鋼板表面のスケール厚を制御するとされているものの,水素量については何らの開示もないのであるから,刊行物2で使用された雰囲気について,「水素量が体積分率で10%以下」であることは明らかであるという審決の判断は,技術的根拠のないものである。

また,審決は,「露点が30℃以下」である雰囲気ガスが我が国で良く利用されているものであることから,刊行物2に記載された雰囲気の露点も30℃以下であると認定したが,「露点が30℃以下」である雰囲気ガスが本件出願前から知られているからといって,刊行物2記載の雰囲気ガスもそうであるとはいえない。

仮に,刊行物2記載の「窒素を導入して酸素量が0.2%以下となるようにした雰囲気」が,本願発明でいう「水素量が体積分率で10%以下かつ露点が30℃以下」に相当する雰囲気であったとしても,引用発明においては,加熱雰囲気については特段規定されていないのであるから,引用発明における雰囲気が刊行物2に記載のそれと同一であるとする根拠はない。

(4)  特開2003-129209号公報(甲7)には,熱間成形後に急冷して高強度・高硬度となる焼き入れ鋼を素地鋼とする溶融亜鉛めっき鋼板の熱間プレス成形に際し,めっき工程後,露点30℃以上の酸化雰囲気で加熱することが好ましいことが開示されている。また,特開2003-126920号公報(甲8),特開2003-126921号公報(甲9),特開2003-129258号公報(甲10)には,熱間プレス加工用の鋼板を加熱する際に,「直火加熱」,「火炎加熱」する技術が開示されているところ,「直火加熱」,「火炎加熱」では,加熱雰囲気には数10%の水蒸気が含まれており(特開平8-176679号公報(甲11)参照),これを露点に換算すると60~80℃程度になる。以上のとおり,鋼板の熱間プレス成形に関する技術分野においては,甲7公報~甲10公報に開示されるように,熱間プレス成形の目的に応じて,鋼板の加熱雰囲気を種々選択することが当業者の技術常識である。

したがって,雰囲気について特段規定していない引用発明においては,その目的に応じた加熱雰囲気が自ずと選択されるのであって,引用発明と刊行物3,刊行物2とは,加熱雰囲気の作用に関し,共通する効果を期待するものでもないから,引用発明の加熱雰囲気が,刊行物3,刊行物2に記載された発明の加熱雰囲気と同等であるとはいえない。

(5)  なお,審決は,相違点2について,容易に想到し得るかどうかの判断をしていないが,次のとおり,引用発明に刊行物3,刊行物2で開示された技術を適用して,相違点2に係る本願発明の構成とすることは,当業者にとって容易に想到し得るものではない。

すなわち,仮に,刊行物3で開示された不活性ガス雰囲気(例えば窒素ガス雰囲気)が,本願発明でいう「水素量が体積分率で10%以下,かつ露点が30℃以下である雰囲気」に相当する加熱雰囲気であったとしても,引用発明には,遅れ破壊性,耐水素脆化特性の改善という課題は存在しないから,刊行物3に開示された技術を適用すべき動機付けはない。

また,刊行物2では,加熱後かつプレス前の鋼板表面のスケール厚を制御・抑制することを目的として,窒素を導入して酸素量が0.2%以下となるようにした雰囲気を使用しているところ,引用発明では,そもそも,鋼板表面のスケール厚を制御・抑制するという目的を備えていないのであるから,刊行物2に開示された雰囲気を適用する動機付けがない。

4  取消事由4(看過された相違点につき想到容易とはいえないこと)

取消事由2で主張した相違点4~6については,次のとおり,当業者が容易に想到し得るものではない。

引用発明は,成形品形状部位ごとに冷却速度を異ならせるという特殊な冷却によって,部位ごとに焼入れ硬度を変化させ,加工が必要な部位の焼入れ硬度を低下させた剛性低下部を形成し,その後にピアス加工することで,加工を容易にすることを技術的特徴とするものである。このような引用発明において,相違点4~6に係る本願発明の構成とすること,すなわち,プレス成形後に金型中にて均一に冷却し,後加工のための剛性低下部を形成することなく,下死点から10mm以内にて,すなわちプレス成形完了前にピアス加工(本願発明でいう剪断加工に相当)を施すというようなプロセスの変更を加えることは,引用発明の本来の目的に合致せず,所期の効果が奏されなくなるのであるから,阻害要因がある。

第4被告の反論

1  取消事由1に対し

(1)  引用発明は,「加熱状態の鋼板をプレス成形により急冷・焼入れ」して高強度にする(段落【0002】)という技術を前提としてこれに改良を加えたものであるから,引用発明の方法によって得られる最終成形品(本願発明の「部品」に相当)においても高強度は維持されている。刊行物1には,「…鋼板Wは成形型5に挟まれることで成形型5に熱が奪われて急冷され焼入れされることとなり,成形品1の母材強度を大幅に向上させることができる。…」(段落【0020】)との記載がみられ,かつ,引用発明は,車体等の高強度化を前提として改良されたものである以上(段落【0002】),プレス成形品が高強度でないとするのはむしろ不合理である。

(2)  引用発明は,刊行物に具体的に開示された実施態様に限定して認定しなければならないというものではなく,ある技術課題に直面した当業者が,刊行物に接したときに,まとまりのある技術的思想として,そこにどのような発明が記載されていると認識するかという観点から認定すれば足りる。すなわち,特許出願に係る発明について進歩性の特許要件を判断するに当たり,引用発明は,特許出願に係る発明との対比に必要な範囲で,その特徴的な要素を抽出して把握することができる。

審決は,引用発明を認定するにあたり,特許請求の範囲の【請求項1】に記載されている「加熱された鋼板を成形型によりプレス成形と同時に冷却して焼入れされた成形品を得るプレス部品の焼入れ方法」について,本願発明との対比に必要な範囲で,特徴的な要素として,Cの質量%(段落【0017】),鋼板加熱温度(段落【0020】),プレス成形開始温度(段落【0020】),金型中での焼入れ(段落【0020】),剪断加工(【図17】)を抽出して把握したものである。

したがって,審決の引用発明の認定に誤りはない。

2  取消事由2に対し

上記1のとおり,引用発明の認定に誤りはないから,引用発明の認定に誤りがあることを前提として一致点の認定の誤りや相違点の看過があるという原告の主張は,その前提において失当である。

3  取消事由3に対し

(1)  図解金属材料技術用語辞典第2版(乙1)等の文献によれば,「遅れ破壊」とは,高強度鋼において,雰囲気中の水素が転位,空孔,粒界などの欠陥部へ拡散して材料を脆化させ,応力が付与された状態で破壊を生じることである。

そして,プレス加工を施す高強度鋼において,雰囲気又は鋼板外部から侵入した水素が遅れ破壊を引き起こすことは,乙1等の複数の文献からみて技術常識であるといえるから,高強度鋼にプレス加工を施すものである引用発明において,その雰囲気の水素量が可及的に少ないもの,すなわち体積分率で10%以下,であることは当業者に自明のことである。かかる理は,雰囲気の温度が高い程水素が拡散しやすくなって顕著となるから,加熱雰囲気下においてはなおさらである。

よって,この点だけからみても,引用発明の加熱雰囲気は,「水素量が体積分率で10%以下」であると解するのが相当である。

(2)  刊行物3に記載された「遅れ破壊」の意義も上記(1)のとおりであるところ,遅れ破壊が加熱雰囲気中の水素に影響されることは,本件出願時の技術常識である。また,刊行物3には,プレス前に930℃に加熱した際の雰囲気を不活性ガス雰囲気や窒素ガス雰囲気にすること(段落【0025】)が記載されており,通常閉じた炉構造を有する「電気炉」内の雰囲気をあえて「不活性ガス雰囲気(例えば窒素ガス雰囲気)」にするというのであるから,その雰囲気が「水素量が体積分率で10%以下」であることは,明らかである。

この点,確かに,被プレス材を加熱すれば残留応力の影響は緩和される可能性があるが,残留応力の影響が生じるのは冷間プレスの場合に限定されるものでなく,被プレス材を加熱した場合であっても残留応力が生じるから,被プレス材を加熱したからといって加熱雰囲気と遅れ破壊発生防止の技術的関連性が失われるわけではない。

(3)  刊行物2には水素量についての明示の記載はないが,大気雰囲気と比較しつつ,あえて「Nを導入し」としている。よって,仮に,大気雰囲気にわずかの水素が存在していたとしても,Nの導入に伴い水素の割合はさらに小さくなるのであるから,「水素量が体積分率で10%」を超えると解するのは,不合理である。

露点についても,新版工業炉ハンドブック(甲20)によれば,我が国で用いられる工業炉の雰囲気のほとんどは「露点が30℃以下」であり,「露点が30℃以下」は,露点の範囲自体として極めて広範囲にわたるものである。この文献の表で「露点が30℃以下」の外にあるものは「吸熱形ガス」のみであり,引用発明の技術分野で用いられるようなものではない。引用発明と技術分野が共通する鋼の加熱・焼入れに用いられるものは,「窒素ガス(液化ガス)」であって,その露点は-70℃である。また,鋼の熱処理改訂5版(乙13)の文献によれば,遅れ破壊に対して雰囲気の影響が大きく,遅れ破壊を抑制するために,湿潤雰囲気を避けること,換言すれば,露点を下げることが理解される。さらに,露点が高いほど水蒸気(水蒸気は酸素を含む。)も多くなり,鋼板が酸化し易くなるが,例えば,特開2003-129209号公報(甲7)に開示されている技術のように,積極的にバリア層としての酸化皮膜を設ける場合でない限り,鋼板の酸化を抑制することは技術常識である。とりわけ,プレス焼入れの技術分野においては,刊行物2に開示されるように,スケール(酸化皮膜)を抑制することが必要であるから,スケールを形成し易い水蒸気は可及的に含ませないことが通常行われているとするのが合理的である。したがって,引用発明の雰囲気において,露点は30℃以下であると考えるのが事理にかなう。

(4)  甲7公報に開示された技術については,積極的にバリア層としての酸化皮膜を設けるために,あえて露点を30℃以上にするという特段の事情があるが,引用発明は,積極的に酸化皮膜を設けるというようなものではない。

特開平8-176679号公報(甲11)に記載された「直火加熱」は,ホットプレスとは全く関係のない技術に関するものである。したがって,甲11公報に,露点に換算して60~80℃程度の技術が開示されているからといって,特開2003-126920号公報(甲8),特開2003-126921号公報(甲9),特開2003-129258号公報(甲10)に開示された技術の露点が60~80℃程度であるということはできない。また,甲8公報~甲10公報はいずれも大気雰囲気(非制御雰囲気)で加熱するものであるが,引用発明における加熱炉は大気雰囲気で加熱するものではない。

したがって,甲7公報~甲11公報に基づく原告の主張は,いずれも失当である

(5)  原告は,予備的に,相違点2は想到容易でないと主張するが,審決は,相違点2について,実質的な相違点ではないと判断するものであるから,その主張の当否は,結論を左右するものではない。

4  取消事由4に対し

取消事由1,2で主張したとおり,審決の引用発明の認定に誤りはなく,これに伴い,一致点の認定に誤りはなく,相違点の看過もないから,これらの誤りがあることを前提とする原告の主張は,その前提において失当である。

第5当裁判所の判断

1  本願発明について

本願明細書(甲1,4,15)によれば,本願発明について次のとおり認められる。

本願発明は,鋼板を使用した,自動車の構造部材や補強部材に使用されるような強度が必要とされる部材,特に高温成形後の強度に優れた部品の製造方法に関するものである(段落【0001】,【0010】)。自動車に使用される鋼板を成形,加工して得られる部品の製造方法に関する従来技術には,一般に鋼板を高強度化していくと成形性が劣化する,成形後に加熱・急速冷却を行うことで強度を上げる方法では形状精度が悪化する,加熱後にプレス成形過程で冷却をする方法では加熱時の水素の浸入や後加工での残留応力により水素脆化の感受性が高くなる,後加工での残留応力を減らすために後加工を行う部位の強度を低下させる方法でも,ある程度の残留応力が残存し,水素脆化についての言及がないなどといった問題があった(段落【0002】~【0008】)。そこで,本願発明は,上記課題を解決し,高温成形後に1200MPa以上の強度を得ることができる耐水素脆性に優れた高強度部品の製造方法を提供することを目的として(段落【0008】),特許請求の範囲に記載した構成を採用したものであり,①加熱炉中の雰囲気の水素量と露点の温度を制御することで,鋼中の水素量を低減して,水素脆化を抑制し,②焼入れ強化するために,加熱温度や成形開始温度を設定し,③熱間成形中であれば鋼板の変形抵抗が小さく,加工後の残留応力が低くなることから,また,剪断加工後に鋼板が変形し,形状や位置の精度が低下することを防止するために,下死点から10mm以内で剪断加工を施すこととしたものである(段落【0010】,【0012】,【0013】)。

2  刊行物1記載の発明について

刊行物1(特開2003-328031号公報,甲17)によれば,刊行物1記載の発明について,次のとおり認められる。

刊行物1記載の発明は,加熱鋼板をプレス成形するプレス部品の焼入れ方法,特に部分的に後加工可能なプレス部品の焼入れ方法等に関するものである(段落【0001】)。従来技術の鋼板の強度を向上させる方法として,高強度鋼板(高張力鋼板)を用いる方法に代えて,加熱状態の鋼板をプレス成形により急冷・焼入れするという技術が提案されているが(段落【0002】),焼入れにより成形品の表面の硬度が上昇していることから,剪断抵抗の増加により穴加工やトリム加工が困難であるなどの問題点があり(段落【0004】,【0005】),他方で,急冷による焼入れで硬度が上昇する前にピアス等の加工を行い,その後にプレス成形を行う方法についても,成形途中に生じる材料の移動等によって穴位置にずれを生じ,その誤差により製品として成立しない恐れがあり,そのため焼入れ前に加工を行ってもよい(誤差が許容される)部位は限られるという問題点があった(段落【0006】)。そこで,刊行物1記載の発明は,部分的に後加工が可能なプレス部品の焼入れ方法等を提供することを目的として(段落【0007】),加熱された鋼板を成形型によりプレス成形と同時に冷却して焼入れされた成形品を得るプレス部品の焼入れ方法において,成形型により投入された加熱鋼板を成形品形状部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却し,得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させることにより(特許請求の範囲【請求項1】,発明の詳細な説明段落【0008】,【0015】~【0031】(第1実施形態)),加工が必要な部位の焼入れ硬度を低下させ,その部位の加工を容易にすることができるという効果を奏するものであり(段落【0010】),これに加えて,成形型に,プレス成形された成形品を加工する加工装置を備え,プレス成形に引き続き成形品が冷却され硬化する前に成形型内で加工装置により成形品(焼入れ硬度を低下させた部位)の加工を行うことで(特許請求の範囲【請求項9】,発明の詳細な説明段落【0009】,【0060】~【0081】(第4実施形態)),成形品が高温で材料強度が低い状態のうちに加工を行うことができ,剪断抵抗等の加工力を低く抑えることができて加工が容易であるとともに,工具破損防止や工具寿命を延長できるという効果を奏するものである(段落【0012】)。

3  取消事由1,2,4(引用発明の認定の当否,一致点の認定の当否,相違点の看過の有無,看過された相違点が想到容易といえるか)について

取消事由2,4は,取消事由1を前提とするものであって,これらの取消事由は相互に関連することから,まとめて検討することとする。

(1)  上記2のとおり,刊行物1記載の発明は,加熱状態の鋼板をプレス成形により急冷・焼入れし,その後に加工するという従来技術においては,焼入れにより硬度が上昇してその後の加工が困難になるなどといった問題点があったことから,これを解消するために,焼入れの際,部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却し,得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させる,すなわち,加工が必要な部位の焼入れ硬度を低下させ,その部位の加工を容易にすること(【請求項1】,第1実施形態に係る発明)を中心的な技術的思想とするものである。そして,プレス成形に引き続き成形品が冷却され硬化する前に成形型内で加工を行うという構成(【請求項9】,第4実施形態に係る発明)についても,【請求項9】が【請求項1】を全部引用していることに加え,「第9の発明では,第1の発明の効果に加えて…」(段落【0012】),「本実施の形態(判決注:第4実施形態)においては,第1実施形態における効果…に加えて,下記に記載した効果を奏することができる。」(段落【0076】)などの記載があることに照らすと,成形型内で加工を行うに当たっても,焼入れの際,部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却し,得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させて剛性低下部を形成し,その剛性低下部を加工することが前提となっているものと認められる。このように,刊行物1においては,鋼板の部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却し,得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させて剛性低下部を形成し,その剛性低下部を成形型内で加工する技術が密接に関連したひとまとまりの技術として開示されているというべきであるから,そこから鋼板の部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却し,得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させて剛性低下部を形成し,その剛性低下部を加工するという技術事項を切り離して,成形型内で加工を行う技術事項のみを抜き出し引用発明の技術的思想として認定することは許されない。

しかるに,審決は,引用発明として,鋼板の部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却し,得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させて剛性低下部を形成し,その剛性低下部を加工するという上記の技術事項に触れることをせずに,したがってこれを結び付けることなく,単に成形型内で加工する技術のみを抜き出して認定したものであって,審決の引用発明の認定には誤りがある。これに伴い,審決には,成形型内で加工する点を一致点として認定するに当たり,これと関連する相違点として,本願発明は,「成形後に金型中にて冷却して焼入れを行い高強度の部品を製造する際に,…剪断加工を施す」のに対して,引用発明では,「成形品形状部位ごとに冷却速度を異ならせて冷却」する点,「得られる焼入れ硬度を部位ごとに変化させ,剛性低下部を形成」する点,「剛性低下部にピアス加工を施す」点を看過した誤りがある。

(2)  そこで,上記の誤りが審決の結論に影響を及ぼすかどうかについて検討するに,上記(1)で説示したとおり,刊行物1記載の引用発明は,焼入れ硬度を低下させた部位を設けることで加工を容易にすることを中心的な技術的思想としているのであって,これを前提として成形型内で加工を行う技術事項も開示されているにとどまると理解すべきであるから,これらの技術事項を切り離して,成形型内で加工を行う技術事項のみを抜き出しそこにのみ着眼して,看過された相違点に係る本願発明の構成とすることができるかの視点に基づく判断は,容易推考性判断の手法として許されない。

したがって,上記の誤りは審決の結論に影響を及ぼすものである。

(3)  なお,原告は,取消事由1(1)として,審決が引用発明について「高強度」プレス成形品であると認定したことは誤りであると主張する。

しかしながら,本願発明にいう「高強度」の部品は,焼入れにより強度を向上させた部品であると認められるところ,引用発明も,焼入れにより強度を向上させる従来技術を前提として,加工を行う部位についてのみ焼入れ硬度を低下させるのであるから,全体としての成形品は「高強度」であると認められる。

第6結論

以上のとおりで,取消事由3について判断するまでもなく,刊行物1を主たる引用例として本願発明の容易推考性を肯定した審決は誤りであって,取り消されるべきものである。よって,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 塩月秀平 裁判官 真辺朋子 裁判官 古谷健二郎)

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