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知財高等裁判所 平成23年(行ケ)10178号 判決 2012年2月22日

原告

株式会社ダイセル

(旧商号 ダイセル化学工業株式会社)

原告

富士フイルム株式会社

上記両名訴訟代理人弁理士

鍬田充生

阪中浩

被告

特許庁長官

同指定代理人

藤本保

小林均

小野寺務

須藤康洋

板谷玲子

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1請求

特許庁が不服2008-7402号事件について平成23年4月19日にした審決を取り消す。

第2事案の概要

本件は,原告らが,下記1のとおりの手続において,特許請求の範囲請求項2の記載を下記2とする本件出願に対する拒絶査定不服審判の請求について,特許庁が同請求は成り立たないとした別紙審決書(写し)の本件審決(その理由の要旨は下記3のとおり)には,下記4の取消事由があると主張して,その取消しを求める事案である。

1  特許庁における手続の経緯

(1)  原告らは,発明の名称を「セルロースアシレート,セルロースアシレート溶液およびその調製方法」とする発明について,平成16年10月26日特許出願(特願2004-311370。平成13年1月17日に出願した特願2001-8388号の分割。請求項の数5)したが(甲1),平成20年2月22日付けの拒絶査定を受けた(甲8)。

(2)  原告らは,平成20年3月26日,これに対する不服の審判を請求するとともに(甲9の1),同年4月23日,手続補正書(甲10。以下,この補正書による補正を「本件補正」という。請求項の数6)を提出した。

(3)  特許庁は,上記請求を不服2008-7402号事件として審理し,平成23年4月19日,本件補正を却下した上,「本件審判の請求は,成り立たない。」との本件審決をし,その謄本は同年5月6日原告らに送達された。

2  本願発明の要旨

(1)  本件補正前の特許請求の範囲

ア 本件審決が対象とした,本件補正前の特許請求の範囲請求項2の記載は,以下のとおりである。以下,請求項2に記載された発明を「本願発明」という。本件出願に係る本件補正前の明細書(平成19年12月27日付の手続補正による。特許請求の範囲につき甲7,その余につき甲1,7)を「本願明細書」という。

【請求項2】 アシル基がアセチル基である請求項1に記載のセルロースアシレート

イ なお,本願発明は,請求項1を引用するものであるところ,請求項1の記載は,以下のとおりである。

【請求項1】 2位,3位のアシル置換度の合計が1.70以上1.90以下であり,かつ6位のアシル置換度が0.88以上であるセルロースアシレート

ウ 本願発明を独立形式に直して記載すると,「2位,3位のアシル置換度の合計が1.70以上1.90以下であり,かつ6位のアシル置換度が0.88以上であるセルロースアシレートであって,アシル基がアセチル基であるセルロースアシレート」であることは,争いがない。

(2)  本件補正後の特許請求の範囲

本件補正後の特許請求の範囲請求項1の記載は,以下のとおりである。以下,本件補正後の請求項1に記載された発明を「本件補正発明」といい,本件補正後の明細書(甲10)を「本件補正明細書」という。下線部は補正箇所を示す。

【請求項1】  ソルベントキャスト法によりセルロースアシレートフイルムを製造するためのセルロースアシレートであって,2位,3位のアシル置換度の合計が1.70以上1.90以下であり,かつ6位のアシル置換度が0.88以上であるセルロースアシレート

なお,請求項1についての補正,すなわち,本件補正前の本願発明1に,「ソルベントキャスト法によりセルロースアシレートフイルムを製造するためのセルロースアシレート」との事項を付加する補正事項を,以下「本件補正事項」という。

3  本件審決の理由の要旨

(1)  本件審決の理由は,要するに,①本件補正事項は,平成18年法律第55号による改正前の特許法(以下「法」という。)17条の2第4項の規定に違反するものであるから,特許法159条1項で読み替えて準用する同法53条1項の規定により却下すべきものであり,②本願発明は,下記引用例に記載された発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものであるから,特許法29条2項の規定により特許を受けることができないというものである。

引用例:特開平11-5851号公報(甲5)

(2)  なお,本件審決は,その判断の前提として,引用例の実施例2に記載された発明(以下「引用発明」という。)並びに本願発明と引用発明との一致点及び相違点を,以下のとおり認定した。

ア 引用発明:2位と3位のアセチル置換度の合計が1.91,かつ,6位のアセチル置換度が0.89であるセルロースアセテート

イ 一致点:6位のアシル置換度が0.88以上であるセルロースアシレートであって,アシル基がアセチル基であるセルロースアシレート

ウ 相違点:2位,3位のアシル置換度の合計が,本願発明では,「1.70以上1.90以下」であるのに対し,引用発明では,「1.91」である点

4  取消事由

(1)  本件補正を却下した判断の誤り(取消事由1)

(2)  本願発明の進歩性に係る判断の誤り(取消事由2)

第3当事者の主張

1  取消事由1(本件補正を却下した判断の誤り)について

〔原告らの主張〕

(1) 本件補正事項は,限定的減縮(法17条の2第4項2号)を目的とするものであるから,同項各号に掲げるいずれの事項も目的とするものでないとした本件審決の判断は誤りである。

(2) 本件審決が引用する審査基準は,審査対象の発明と先行技術の発明との同一性を判断するための新規性に関するものであって,補正要件の審査の基準に新規性の審査基準を適用することはできない。

すなわち,補正却下の対象となった補正要件(法17条の2第4項2号)の趣旨は,補正できる範囲を,先行技術文献調査の結果等を有効利用できる範囲内に制限することである。言い換えると,補正の適否の審査では,審査迅速化の観点から,補正前後の発明が減縮に該当するか否かが問われるのである。このように,補正の適否の基準は,おのずから,発明との同一性を判断する新規性の審査とは性質が大きく異なる。よって,補正要件の審査の基準に,新規性の審査基準を適用することはできない。

なお,特許請求の範囲の減縮に関する特許庁の審査基準によれば,特許請求の範囲の減縮に該当する具体例として,①択一的記載の要素の削除,②発明特定事項の直列的付加,③上位概念から下位概念への変更が記載されているところ,本件補正事項は,上記②又は③に該当する。

さらに,本願発明は,フイルムの製造という用途と密接に関係した化合物「セルロースアシレート」の発明(用途限定の発明)であり,フイルムの製造という用途を記載したとしても,引用文献の調査も必要とせず,審査のやり直しとなることもない。このような観点からも,本件補正事項は限定的減縮の趣旨に沿った補正である。

(3) 本件補正却下に対する原告らの弁明の機会が奪われている。すなわち,本件補正の適否に関し,審尋(甲11)にある前置報告書と本件審決とでは理由が異なっており,異なる理由で補正を却下するのであれば,その理由を原告らに示した上で,反論の機会を与えるべきである。

(4) 分割出願である本件出願の原出願が登録されていることを理由とする本件審決の認定は,誤りである。

フイルムについての原出願に係る特許権の存在と,セルロースアシレートに係る本願発明の進歩性又は登録性とは全く関係がなく,権利の効力が明らかに異なる。そのため,原告らの主張が受けられない理由として,原出願が登録されていることを理由としているのであれば,それは明らかに失当である。

(5) 小括

本件補正は,限定的減縮に該当するから,減縮に該当しないとした補正の却下の決定は取り消されるべきである。

さらに,本件審決は,手続補正前の本願発明についてのみ進歩性を判断し,手続補正後の本願発明については進歩性の判断をしていない。

〔被告の主張〕

(1) 原告らが審判段階において審判長に提出した回答書(甲12)によれば,本件補正は法17条の2第4項所定のいわゆる目的要件を満たしていないから却下されるべきものである旨の審尋(甲11)に対し,原告らは当該補正が却下されることについては争わない旨主張していた。

審判段階で争わないとしていた事実を,審決取消訴訟になって争うと主張することは,許されない。

(2) 仮に,原告らの上記主張が許されるとしても,以下のとおり,原告らの主張には理由がない。

本件補正前の請求項1記載の発明は,化合物(物の発明)についてのものであるところ,本件補正事項を付加することで,物の発明である上記化合物の特定事項(例えば,化学構造)が限定されるものではない。本件補正事項により,本件補正前のセルロースアシレートの用途が特定されたからといって,物の発明としての特定事項が限定されたとはいえない。すなわち,本件補正の前後において物の発明としては何ら変わるものではないし,本件補正事項は,本件補正前の発明を特定するために必要な事項を限定するものでもない。

したがって,本件補正事項は特許請求の範囲を減縮するものではないとした本件審決の判断に誤りはない。

(3) 審査基準の適用については,物の発明では,用途発明(すなわち,物自体は既知であったとしても,用途に特異性があることにより,新規性が認められる発明)が成立する場合があり,用途限定の付加により特許請求の範囲を減縮するものと解される場合があるところ,本件審決は,セルロースアシレートという物の発明である補正後の化合物は用途発明でないことを,審査基準を引用して述べたにすぎない。

(4) 原告らは,補正却下に対する反論の機会が奪われていると主張する。しかし,特許法は,補正却下の決定に際し,反論の機会を与えなければならないとは規定していないし(50条ただし書,159条2項),しかも,審尋においても本件審決においても,本件補正が適法でない理由として挙げているのはいわゆる目的要件違反であって,両者の理由は異なるものではない。原告らの上記主張が,手続違背という取消事由を新たに主張するものであるとしても,本件において,審判手続を含む特許出願審査手続の適正を貫くための基本的な理念を欠くような適正手続違反はない。

(5) なお,原告らは,原出願との関係を主張するが,本件審決は,本願発明が原出願に係る特許発明と同一であることを理由に本件補正を却下したものではない。

2  取消事由2(本願発明の進歩性に係る判断の誤り)について

〔原告らの主張〕

(1) 技術的思想に係る相違点の看過

ア 本願発明と引用発明との相違点の認定においては,実施例との比較だけで判断すべきでなく,本願発明の技術的思想と,引用例全体を参酌して把握される技術的思想とを対比して判断すべきである。

本願発明の技術的思想は,「セルロースアシレートにおいて,2位及び3位のアシル置換度の合計を1.70~1.90とし,かつ6位のアシル置換度を0.88以上とすること,すなわち,特定の2位及び3位の合計アシル置換度と,特定の6位のアシル置換度とを組み合わせ,セルロースアシレートの溶液粘度を低下させ,平面性を高める」ということにある。他方,引用例に記載された発明は「2位,3位および6位のアセチル置換度の合計を2.67以上とし,かつ2位および3位のアセチル置換度の合計を1.97以下とし,セルロースアセテート溶液を安定化させるとともに,厚み方向のレタデーションを小さくする」というものである。

イ 引用例からは,6位のアセチル置換度,2位及び3位のアセチル置換度の合計のうち一方が特定できたとしても,他方のアセチル置換度を予測することはできない。

また,引用例の実施例の2位及び3位のアセチル置換度の合計の値「1.91」に着目し,引用発明のこの値を「1.91」よりも小さくするという発想は,本願発明の値「1.90」に接したことにより初めて可能になったものであり,後知恵にすぎない。

(2) 本願発明の効果の認定の誤り

ア 本件審決は,本願発明の効果について,「セルロースアセテートの2位と3位のアセチル置換度の合計の値が,1.91であるものと例えば1.90であるものとでは,その差はわずかに0.01にすぎず,これらの間に格別の効果は見当たらない」と認定したが,この認定の理由が全く記載されていない。この認定が単に本願発明と引用発明との数値的差異が僅少であることを問題としているのであれば,本件審決は本願発明の本質を捉えていない。

そして,本願発明と引用発明との効果の顕著な差は,意見書(甲6)及び審判請求書(甲9)に添付の実験成績証明書から明らかである。

イ 本件審決は,本願発明の効果について,フイルム面状(フイルム表面の平滑性),40℃粘度及びヘイズ値という効果については,そもそも,セルロースアシレートフイルムあるいはセルロースアシレート溶液に関するものであると認定し,本願発明の効果を否定したが,溶液の粘度及びヘイズ値は,セルロースアシレート自体の特性であって,フイルムの特性ではない。本件審決の本願発明の効果の認定には誤りがある。

(3) 本願発明の解決課題の相違の看過

引用例の解決課題は「厚み方向のレタデーション値が低いセルロースアセテートを得る」であるが,本願発明の解決課題は「実用的な濃度領域において粘度の低いセルロースアシレート溶液を調製する」であって,両者は異なる。

(4) 小括

引用例には,2位及び3位のアシル置換度の合計を1.70ないし1.90に調整することは記載されておらず,6位のアシル置換度を0.88以上に調整することも記載されていない。特に,引用例には,2位,3位及び6位のアセチル置換度の合計と2位及び3位のアセチル置換度の合計とを調整することが記載されていたとしても,引用例からは2位及び3位アシル置換度と6位アシル置換度との関係を導き出せず,2位及び3位のアセチル置換度の合計を容易に予測できない。

そして,本願発明では引用発明からは予測もできない顕著な又は異質の効果が得られる。

よって,本願発明は,引用発明から容易に想到することはできない。

〔被告の主張〕

(1) 技術的思想に係る相違点の看過

ア 本願発明は,化合物に関する発明であり,原告らの主張する本願発明の技術的思想(解決課題)は本願発明とは何ら関係がない。

すなわち,本願明細書(甲1【0008】【0011】【0015】【0016】)のように,本願発明のセルロースアシレートを含有する「溶液」又は本願発明のセルロースアシレートから製造された「フイルム」が優れた特性を有することが記載されているが,これら溶液又はフイルムが特定の効果を発揮するというにとどまる。このことは,セルロースアシレートという「化合物」である本願発明の容易想到性の判断に何ら影響を及ぼさない。そして,本願明細書には,溶液でもフイルムでもない化合物の発明である本願発明の技術的思想(解決課題)については何らの記載も示唆もない。

原告らの主張は,本願発明の技術的思想(解決課題)についての誤った認識に基づくものであり,その前提において失当である。

なお,本願の原出願である特願2001-8388号は,本願発明と同じセルロースアシレートを含む「フイルム」及び同セルロースアシレートを溶解してなる溶液を用いた「フイルムの製造方法」に係る発明についてのものであって,当該発明は,特許第4094819号(乙1)として,既に特許を受けている。

イ 引用例に記載されたセルロースアセテートにおける「2位および3位のアセチル置換度の合計」と「6位のアセチル置換度」との関係は,引用例の図1(別紙図1)から明らかなように,どちらか一方が特定されれば,他方の取り得る範囲も定まる。引用例における課題解決手段を特定する請求項1の発明について,当該発明に用いられるセルロースアセテートの有する2位,3位及び6位のアセチル置換度の取り得る範囲が,別紙図1における斜線部として表記されている。そして,縦軸により示される2位及び3位のアセチル置換度の数値が定まれば,斜線部への外挿により,対応する横軸により示される6位のアセチル置換度の取り得る範囲が定まり,同様に,6位のアセチル置換度の数値が定まれば,2位及び3位のアセチル置換度の取り得る範囲が定まる。

また,別紙図1の斜線部のほぼ中央には,引用発明に相当するもの(引用例において実施例2として示される点)が存在するところ,引用例の実施例2の位置を斜線部内で移動すること,すなわち,引用発明の「2位および3位のアセチル置換度の合計」あるいは「6位のアセチル置換度」の数値をそれぞれ引用例に記載された当該数値の範囲内で増減してみることは,当業者であれば格別困難でない。

ウ 原告らは,引用発明の2位及び3位のアセチル置換度の合計の値を「1.91」よりも小さくするという発想は,本願発明に接したことによる後知恵にすぎないと主張する。

しかし,別紙図1から,引用例に記載されたセルロースアシレートは,「2位および3位のアセチル置換度の合計」の値について,「1.91」よりも小さい範囲を広く包含するものであることが理解されるところ,引用例が本件出願前に頒布された刊行物であることからすると,原告らの主張は,失当である。

しかも,引用例には,「2位および3位のアセチル置換度の合計」の値を「1.91」よりも小さい範囲とすることについて,これを阻害する要因は何ら見当たらないのであるから,引用発明における「2位および3位のアセチル置換度の合計」の値を「1.91」よりも小さい値とすることも容易に想到できる。

(2) 本願発明の効果の認定の誤り

ア 例えば,本願明細書(【0015】)にも記載されているように,セルロースアシレートの水酸基がアシル基に置換することにより有機性が上がることは水酸基及びアシル基の性質から当然に予測されることであって,「2位,3位のアシル置換度の合計」が,1.90であるものと1.91であるものとでは,その有機性において差異がみられるのは当然である。しかし,「2位,3位のアシル置換度の合計」が1.90であるものが,1.91であるものに比し,顕著な効果を奏するとはいえない。

すなわち,「2位,3位のアシル置換度の合計」の数値に応じて水酸基及びアシル基の割合が変化することで,単に有機性が緩やかに変動していくにすぎないのであって,「2位,3位のアシル置換度の合計」が1.90であるものと1.91であるものとの間に,そのような有機性の緩やかな変動とは異なる著しい変化は何ら認められない。本願発明における「2位,3位のアシル置換度の合計」の上限値(1.90)に,臨界的意義を見いだすことはできない。

また,甲6及び甲9に添付の実験成績証明書は,いずれも溶液又はフイルムの物性に関するものであって,セルロースアシレート自体に関するものではないから,上記のとおり,セルロースアシレートという「化合物」である本願発明の容易想到性の判断に何ら影響を及ぼすものではない。仮に,甲9に示された溶液粘度からセルロースアシレート自体の有機性の程度を推測し得るとしても,甲9からは,置換度の変化に応じた溶液粘度の緩やかな変動の傾向を理解し得るのみである。

本願発明と引用発明とは近接したものであることが理解されるし,本願発明の数値範囲は上記斜線部とその大部分で重なるものである。

イ 本願発明の数値範囲を選択したことにより,その範囲全体において,あるいは,その範囲の境界部において,本願発明のセルロースアシレートが,引用発明に比し,顕著な効果を奏するとは認められない。

なお,「本願発明のセルロースアシレートを含有する溶液」が経時安定性に優れる,あるいは実用可能なドープ濃度領域において粘度が低いなどの特性を有し,また,「本願発明のセルロースアシレートから製造されたフイルム」が面状に優れるなどの特性を有するとしても,このような溶液及びフイルムの特性は,セルロースアシレートのみに依存するものではなく,溶液であれば溶剤,添加剤などの配合成分の種類及び添加量にも依存し,また,フイルムであれば製造方法にも依存するものであって,本願発明のセルロースアシレートという化合物自体の特性とはいえない。

(3) 本願発明の解決課題の相違の看過

ア 本願明細書(【0008】)の記載は「セルロースアシレート溶液」による解決課題についてであって,本願発明である「セルロースアシレート」という化合物の発明の解決課題であるということはできない。

イ また,仮に,本願発明の解決課題が「実用的な濃度領域において粘度の低いセルロースアシレート溶液を調製する」ことにあり,引用例にはこのような解決課題についての記載や示唆がないとしても,そのことをもって直ちに本件審決の容易想到性の判断に違法があるということにはならない。

第4当裁判所の判断

1  取消事由1(本件補正を却下した判断の誤り)について

(1)  本件補正の許否

ア 法17条の2第4項に基づく補正は,法36条5項の規定により請求項に記載した発明を特定するために必要な事項を限定するものであって,その補正前の当該請求項に記載された発明とその補正後の当該請求項に記載される発明の産業上の利用分野及び解決しようとする課題が同一であるものに限られる(法17条の2第4項2号)。すなわち,補正前の請求項に記載した発明を特定するために必要な事項を限定するものであることが必要である。

イ 本件補正事項に係る「ソルベントキャスト法によりセルロースアシレートフイルムを製造するためのセルロースアシレート」とは,セルロースアシレートがフイルムという物品を製造するための原料であり,そのフイルムの製造方法がソルベントキャスト法であることを特定するものであるが,補正前の請求項1には,セルロースアシレートが何らかの物品を製造するための原料であることや,その物品の製造方法に関して何ら特定する事項がない。よって,本件補正事項は,補正前の請求項1に記載した発明を特定するために必要な事項を限定するものには該当しない。

そうすると,本件補正事項を含む本件補正は,法17条の2第4項の規定に違反するものであるとして,これを却下すべきものであるとした本件審決の判断に誤りはない。

(2)  原告らの主張について

ア 原告らは,審査基準の適用が誤りであると主張する。

しかし,本件審決は,用途発明でないことを審査基準を引用して述べたにすぎず,限定的減縮に該当するか否かについて審査基準を適用したものではなく,原告らの主張は,前提において失当である。

イ 原告らは,前置審査の報告書と審決とでは,判断,理由が異なるため,審判段階での補正の機会も含め,出願人に弁明の機会を与えるべきであると主張する。

しかしながら,補正却下の決定に際し,反論の機会を与えなければならないとする規定はなく(特許法50条ただし書,159条2項参照),原告らの主張は失当である。

ウ 原告らは,本件審決が原出願が登録されていることを理由とすることが誤りであるとも主張する。

しかし,原出願は本願発明に係る出願とは別個のものであり,本件審決も,それを理由とするものではないから,原告らの主張は,理由がない。

エ 原告らは,本件補正の判断を誤ってこれを却下し,本件補正発明については進歩性の判断をしていないから,本件審決は違法であると主張する。

しかし,上記(1)のとおり,補正却下に関する本件審決の判断に誤りはないから,本件補正発明の進歩性について判断する前提を欠き,原告らの主張は失当である。

2  取消事由2(本願発明の進歩性に係る判断の誤り)について

(1)  本願発明について

請求項1を引用する本願発明を独立形式に直して記載すると,「2位,3位のアシル置換度の合計が1.70以上1.90以下であり,かつ6位のアシル置換度が0.88以上であるセルロースアシレートであって,アシル基がアセチル基であるセルロースアシレート」である。

(2)  引用例に記載された発明について(甲5)

ア 引用例の実施例2には,本件審決が認定した引用発明が記載されているところ,引用例の特許請求の範囲(請求項1)には,「2位,3位および6位のアセチル置換度の合計が2.67以上であり,かつ2位および3位のアセチル置換度の合計が1.97以下であるセルロースアセテートを含むことを特徴とするセルロースアセテートフイルム」が記載されている。ここには,セルロースアセテートフイルムを製造するための原料であるセルロースアセテートが特定されていることが明らかである。

イ そして,引用例の図1(別紙図1)において,斜線で示されている部分は,上記の請求項1において特定されているセルロースアセテートの範囲を示すものである。

ウ よって,引用例には,「2位,3位および6位のアセチル置換度の合計が2.67以上であり,かつ2位および3位のアセチル置換度の合計が1.97以下であるセルロースアセテートを含むことを特徴とするセルロースアセテートフイルム」が記載されているということができる。

(3)  本願発明と引用例の請求項1に記載された発明との対比

引用例の「セルロースアセテート」は,本願発明の「アシル基がアセチル基であるセルロースアシレート」に相当し,引用例の「アセチル置換度」は,本願発明の「アシル基がアセチル基であるアシル置換度」に相当することは明らかである。

したがって,本願発明と引用例に記載された上記発明とは,「セルロースアシレート」に関する点で一致し,セルロースアシレートに関して,本願発明は「2位,3位のアシル置換度の合計が1.70以上1.90以下であり,かつ6位のアシル置換度が0.88以上」を特定するのに対して,引用例に記載された発明は「2位,3位および6位のアセチル(アシル)置換度の合計が2.67以上であり,かつ2位および3位のアセチル(アシル)置換度の合計が1.97以下」を特定する点において相違する。

このように,本願発明は「2位,3位のアシル置換度の合計」と「6位のアシル置換度」という方法で発明を特定しているのに対し,引用例に記載された発明では,「2位および3位のアシル置換度の合計」と「2位,3位および6位のアシル置換度の合計」という方法で発明を特定しているものであって,両者は,セルロースアシレートの特定の方法が異なる。

(4)  容易想到性

ア 本願発明と引用例に記載された発明とは,上記のとおり,セルロースアシレートの特定の方法が異なり,直接比較することができない。

しかし,いずれも,セルロースアシレートを2位,3位及び6位のアシル置換度の関係という,共通するパラメータを用いて特定するものであるから,引用例の別紙図1に本願発明に特定される数値範囲を反映させてみると,別紙図2に示す塗りつぶし部が本願発明の数値範囲に対応する。

別紙図2によれば,本願発明(塗りつぶし部)と引用例の特許請求の範囲に記載された発明(斜線部)とは,重複する範囲を有する。

イ 引用例は,発明の詳細な説明において,実施例1ないし3と比較例1ないし3により,実施例1ないし3が優れたフイルムであることを示すものである。しかし,引用例の特許請求の範囲に記載された発明は,セルロースアシレートに関して「2位,3位および6位のアセチル置換度の合計が2.67以上であり,かつ2位および3位のアセチル置換度の合計が1.97以下」の範囲を特定するものであり,その範囲のセルロースアセテートが製造可能であることは,引用例の記載及び技術常識に照らして明らかであるから,引用例に特定される要件を満足する範囲の中で,セルロースアシレートを特定すること,またそのように特定したセルロースアシレートを用いて引用例に記載された方法によってドープを調製し,フイルムを製膜してみることは,当業者が容易に想到し得ることである。

そして,本願発明がそのような引用例の記載から当業者が容易に発明できるセルロースアシレートを包含していることは明らかである。

(5)  発明の効果について

本願明細書の発明の詳細な説明の表2には,本願発明は,比較例1ないし3と比較して,溶液の安定性や粘度,フイルムの面状,ヘイズ値において,良好な性能を奏するものであることが記載されている。

しかし,表2に示される効果は,表1に示される特定の条件においてドープを調製した場合に奏されるものであって,そのうちフイルムの面状やヘイズ値が良好であることは,溶液(ドープ)の安定性が良好なことや40℃の粘度が低いことに基づくものであり,ドープからの製膜性の善し悪しがフイルムの性能に影響を与えると解される。

そして,セルロースアシレート溶液(ドープ)の安定性に関して,引用例(【0004】【0005】)には,冷却工程と加温工程を有する方法によると,従来の方法では溶解することができなかった,セルロースアセテートと有機溶媒の組合せであっても,溶液を調製することができること,冷却溶解法により得られたセルロースアセテート溶液には,安定性が低いとの問題があること等の記載がある。引用例の上記の記載によると,ドープの安定性は,ドープに使用される有機溶媒の種類や溶解方法に影響を受けるものと認められる。また,ドープの粘度は,溶解されるセルロースアセテートの分子量やドープ中の濃度にも影響を受けることや,フイルムの性能は,乾燥方法などの製膜条件によっても影響を受けるものである。

したがって,本願明細書の実施例において確認された効果も,実施例に示されるような特定の方法で調製されたドープや,それを用いて製膜されたフイルムについて認めることができるものというにとどまり,他の条件の調製方法でドープを製造した場合にも,同じ結果が得られるとは必ずしもいえない。よって,そのような特定の条件においてドープを製造した場合の効果は,本願発明のセルロースアセテートという化学物質それ自体の効果であって,かつ,その効果が格別顕著であるということはできない。

さらに,甲6の実験成績証明書及び甲9の実験成績証明書において行われている実験も,本願明細書に記載された調整方法と同様の方法でドープを調製した場合の溶液(ドープ)やフイルムに関する効果であるから,仮にこれらの記載を参酌したとしても,本願発明のセルロースアセテートという化学物質自体の効果が格別顕著であるとはいえない。

(6)  原告らの主張について

ア 原告らは,本願発明と引用例に記載された発明とは,技術的思想が相違すると主張する。

上記(3)のとおり,本願発明と引用例に記載された発明とは,特定する方法が異なる。しかし,両者が特定する方法は,セルロースアシレートという化学物質を2位,3位及び6位のアセチル置換度の関係という,共通するパラメータで特定するものである。本願発明と引用例に記載された発明の,それぞれが特定する方法を満足する個々のアセチルセルロースは,それぞれ個々の2位,3位及び6位のアセチル置換度を有している。そして,そのような個々のセルロースアセテートは,両発明が特定する方法とは直接関係がない。

すなわち,本願発明と引用例に記載された発明とは,いずれも,両者が特定する方法や,原告らの主張する技術思想とは関係なく,2位,3位及び6位のアセチル置換度という共通するパラメータで対比,検討することができるものである。

そして,本願発明と引用例に記載された発明,それぞれの方法で特定される範囲を対比すると,前記のとおり,両者は重複する範囲を有し,その範囲に同じセルロースアセテートを包含するのである。

したがって,原告らの上記主張は失当である。

イ 原告らは,本願発明の効果は引用例に記載された発明のものとは異質の効果であると主張する。

しかし,上記(5)のとおり,原告らの主張する効果をもって,それが直ちに本願発明のセルロースアセテート自体の効果であると認めることはできず,本願明細書の記載では,本願発明の顕著な効果や異質な効果は立証されていない。なお,2位,3位及び6位のアセチル置換度において,引用例に記載された発明の範囲に含まれ,かつ,本願発明の要件も満足するセルロースアシレートであれば,本願発明の実施例と同様の方法で製膜した場合,同様の性能を示すと解されるから,そのような場合には,引用例に記載された発明も,原告らの主張する効果を奏することになる。

ウ 原告らは,引用例で広く規定された数値範囲と一部重複するものの,引用例の実施例とは重複せず,しかも引用発明とは技術的思想が異なり,かつ異質で顕著な効果を奏する本願発明においては,数値範囲の重複は特許性を認められない理由とはならないと主張する。

しかし,引用例には,実施例以外の引用例に特定される範囲のセルロースアシレートも,フイルムを製造するものとして記載されていると解される。そして,引用例に特定される範囲のセルロースアシレートのうち,引用例に実施例として記載されていないものについて,引用例に特定される範囲の中で,セルロースアシレートという化学物質を単に特定したり,さらにより限定された範囲を単に特定してみたりすることは,当業者が適宜想到し得ることにすぎない。

そして,本願明細書において確認されているのは,特定の条件で製造されたドープや当該ドープから製造されたフイルムの性能のみである。本願明細書には,本願発明の範囲に含まれるセルロースアシレートという化学物質を特定したことによって,当業者が予測できない効果を奏することに関しては明らかにされていない。

また,本願発明のように,引用例の請求項1に開示される範囲に含まれるものであって,引用例に具体的に記載された実施例を含まない範囲を単に選択して特定することは,当業者にとって容易なことであるといわざるを得ない。

(7)  小括

したがって,本願発明は,引用例に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであり,取消事由2は,理由がない。

3  結論

以上の次第であるから,原告らの請求は棄却されるべきものである。

(裁判長裁判官 滝澤孝臣 裁判官 髙部眞規子 裁判官 齋藤巌)

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