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知財高等裁判所 平成23年(行ケ)10235号 判決 2012年11月07日

原告

ザトラスティーズオブ

プリンストンユニバーシティ

原告

ザユニバーシティオブ

サザンカリフォルニア

上記両名訴訟代理人弁護士

片山英二

北原潤一

岩間智女

梶並彰一郎

同弁理士

小林純子

黒川恵

被告

株式会社半導体エネルギー研究所

同訴訟代理人弁理士

加茂裕邦

吉本智史

白石康次郎

主文

1  特許庁が無効2010-800084号事件について平成23年3月23日にした審決を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

主文1項と同旨

第2事案の概要

本件は,原告らが,後記1のとおりの手続において,原告らの後記2の本件発明に係る特許に対する被告の特許無効審判の請求について,特許庁が特許を無効とした別紙審決書(写し)の本件審決(その理由の要旨は後記3のとおり)には,後記4のとおりの取消事由があると主張して,その取消しを求める事案である。

1  特許庁における手続の経緯

(1)  原告らは,平成12年11月29日,発明の名称を「有機LED用燐光性ドーパントとしての式L2MXの錯体」とする特許出願(特願2001-541304。パリ条約による優先権主張日:平成11年12月1日(米国))をし,平成17年8月23日,その一部につき分割出願をし(特願2005-241794),平成21年8月14日,設定の登録(特許第4358168号)を受けた(請求項の数は7。甲33)。以下,この特許を「本件特許」という。

(2)  被告は,平成22年4月28日,本件特許の全てである請求項1ないし7に係る発明についての特許無効審判を請求し,無効2010-800084号事件として係属した。原告らは,同年9月17日,本件特許について訂正請求をした(乙3。以下「本件訂正」という。)。

(3)  特許庁は,平成23年3月23日,「訂正を認める。特許第4358168号の請求項1ないし7に係る発明についての特許を無効とする。」旨の本件審決をし,その謄本は,同月31日,原告らに送達された。

2  特許請求の範囲の記載

本件訂正後の特許請求の範囲の記載は,次のとおりである。以下,請求項1ないし7に係る発明をそれぞれ「本件発明1」ないし「本件発明7」といい,併せて「本件発明」という。また,本件発明に係る明細書(甲33,乙3)を「本件明細書」という。

【請求項1】式L2MX(式中,L及びXは,異なったモノアニオン性二座配位子であり,MはIrであり,さらに前記L配位子はsp2混成炭素及び窒素原子を介してMに配位し;前記X配位子がO-O配位子又はN-O配位子である)の燐光性錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物(但し,L2MX中,Xがヘキサフルオロアセチルアセトネート又はジフェニルアセチルアセトネートである組成物を除く)

【請求項2】Lが,2-(1-ナフチル)ベンゾオキサゾール,2-フェニルベンゾオキサゾール,2-フェニルベンゾチアゾール,7,8-ベンゾキノリン,クマリン,フェニルピリジン,ベンゾチエニルピリジン,3-メトキシ-2-フェニルピリジン,チエニルピリジン,及びトリルピリジンからなる群から選択される,請求項1記載の組成物

【請求項3】前記X配位子が,アセチルアセトナート,サリチリデン,ピコリネート,及び8-ヒドロキシキノリネートからなる群から選択される,請求項1記載の組成物

【請求項4】前記L配位子が,フェニルイミン,ビニルピリジン,アリールキノリン,ピリジルナフタレン,ピリジルピロール,ピリジルイミダゾール,及びフェニルインドールからなる群から選択されて置換又は非置換の配位子である,請求項1記載の組成物

【請求項5】前記L配位子が,置換又は非置換のアリールキノリンを含む,請求項1に記載の組成物

【請求項6】前記L配位子が,以下の構造:

【化1】

file_2.jpgを有する非置換のアリールキノリンである,請求項5記載の組成物

【請求項7】前記L配位子が,以下の構造:

【化2】

file_3.jpg

を含む置換アリールキノリンである,請求項5記載の組成物

3  本件審決の理由の要旨

本件審決の理由は,要するに,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件発明に係る技術的事項を具備するものが全て本件発明の解決しようとする課題を解決できると当業者が認識することができるように記載されておらず,本件出願日当時の技術常識に照らしても,本件発明が解決すべき課題を解決できると当業者が認識することができるものということができず,本件発明が,いずれも平成14年法律第24号による改正前の特許法(以下「法」という。)36条6項1号の規定に適合しないものであるから,本件特許が特許法123条1項4号に違反してされたものとして無効である,というものである。

4  取消事由

サポート要件に係る判断の誤り

第3当事者の主張

〔原告らの主張〕

1  本件審決は,いわゆるパラメータ特許事件判決(知財高裁平成17年(行ケ)第10042号同年11月11日判決)を引用した上で,本件発明1の解決課題を「高い量子効率(ある化合物が電気エネルギー(電圧)の印加により発光するエレクトロルミネッセンス(以下「EL」という。)の際に,当該化合物を含むデバイスに与えられた電気エネルギーのうち発光に用いられる割合のこと。外部量子効率ともいい,以下「EL効率」ともいう。)で燐光発光できる発光デバイスの発光層に使用するための組成物の提供」,具体的には,「「BTIr」以外の「L2IrX」なる式で表される化合物を使用して発光デバイスを構成した場合に,従来技術である甲1に記載された発明で達成されている「8%」なるものと同等以上の高い量子効率を得ること」にあると認定し,本件明細書の発明の詳細な説明の記載に基づき,当該構成によってそのような高い量子効率を得ることが一般的にできるであろうと当業者が認識することができるとまではいえず,このことは技術常識に照らしても同様であるなどとして,本件発明1が発明の詳細な説明に記載したものではなく,また,本件発明1を引用する本件発明2ないし7も,同一の理由により発明の詳細な説明に記載したものではないとする。

2  しかしながら,法36条6項1号は,「特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載したもの」であることを要求することで,「特許請求の範囲」が「発明の詳細な説明」と対比して広すぎる独占権の付与を排除することを趣旨としているところ,「特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであること」までは要求していない。しかも,明細書の記載様式は,発明の解決すべき課題(発明の課題)に関する項目を設けていない。

したがって,いわゆるフリバンセリン事件判決(知財高裁平成21年(行ケ)第10033号同22年1月28日判決)と同様に,同号の解釈に当たっては,特許請求の範囲の記載が,発明の詳細な説明の記載を超えているか否かを合目的的な解釈手法で判断すれば足り,その際の解釈手法は,特許請求の範囲が複数のパラメータを用いた数式を用いて記載された場合のような特段の事情がない限り,発明の詳細な説明に記載された技術的事項(特に,発明の構成についての技術的事項)を理解した上で,これが特許請求の範囲の記載を超えているかどうかを検討すれば足りるというべきである。

3  これを本件発明1と本件明細書の発明の詳細な説明についてみると,本件明細書には,「式L2MX(式中,L及びXは,異なったモノアニオン性二座配位子であり,MはIrであり,さらに前記L配位子はsp2混成炭素及び窒素原子を介してMに配位し;前記X配位子がO-O配位子又はN-O配位子である)の燐光性錯体」(L2MX錯体)が,イリジウム原子を中心として,L配位子(sp2混成炭素及び窒素原子によりイリジウムに配位されたモノアニオン性二座配位子)とX配位子(2個の酸素原子,又は1個の酸素原子と1個の窒素原子によりイリジウムに配位された配位子)がこれに配位しているという共通の分子構造を有することが記載されている(【0001】【0008】~【0010】【0037】~【0045】)。

次に,本件明細書には,L配位子の具体例が10個以上(【0048】【0050】),X配位子の具体例が4個以上(【0049】【0050】)も記載され,L2MX錯体の16個の具体例について,それぞれ分子構造,製造方法,発光スペクトル,発光寿命等が記載されている(【0054】~【0057】【0059】~【0061】【0065】~【0067】【0070】~【0075】)。ここで,発光寿命は1ないし4.7μsとされているから,当業者は,実用可能な有機発光デバイスの発光層に用いるのに十分な短さであることを理解できる。

また,本件明細書には,効果的室温燐光発光のメカニズムについて,重原子に由来するスピン軌道カップリングが記載されている(【0005】~【0007】【0104】~【0107】)とともに,研究された広範なイリジウム錯体が強い燐光発光を示したこと,また,これらのイリジウム錯体の発光がMLCT又はMLCTとの配位子間遷移の混合という共通のメカニズムによるものであることが記載されている(【0079】~【0081】)。

そして,本件明細書には,L2MX錯体を発光層として用いた有機発光デバイスの構造が記載され,L2MX錯体の1つであるBTIrを発光層に含む有機発光デバイスにおいて,12%の量子効率が得られたことも記載されている(【0095】~【0097】)。

そうすると,これらの記載に接した当業者は,重原子であるイリジウム原子を中心金属に持つL2MX錯体が燐光発光を示すことを認識することができ,BTIrを発光層に含む有機発光デバイスにおいて12%もの量子効率が得られたことからみて,イリジウム原子に配位する配位子の構造がBTIrと共通である他のL2MX錯体についても,これを発光層に含めることにより,実用的な有機発光デバイスを提供することができると認識することができる。

殊に,本件明細書には,L2MX燐光有機金属化合物全体について,有用な有機発光デバイスの発光物質として用いることができることが記載されている(【0008】【0010】)。

以上のとおり,本件明細書の発明な詳細な説明には,L2MX錯体を発光層に含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物についての技術的事項が開示されているといえるから,本件発明1の特許請求の範囲は,本件明細書の発明の詳細な説明に記載された技術的事項を超えるものではなく,法36条6項1号のサポート要件に適合するものといえる。

そして,本件発明2ないし7は,本件発明1のX配位子又はL配位子を限定したものであるから,これらにおける特許請求の範囲は,本件発明1と同様の理由により,発明の詳細な説明に記載された技術的事項を超えるものではない。

よって,本件発明が本件明細書の発明の詳細な説明の記載を超えるとした本件審決の判断には誤りがある。

4  仮に,サポート要件の判断に当たって本件発明1の課題の認定が必要であるとしても,本件発明に係る特許請求の範囲の記載は,同要件に適合する。

すなわち,本件明細書には,本件発明の課題として,本件審決が認定した「高い量子効率で燐光発光できる発光デバイスの発光層に使用するための組成物の提供」であるとは記載されていないし,先行技術に関する甲1に8%の量子効率が記載されているからといって,「8%と同等以上の量子効率」で燐光発光できる発光デバイス等を提供することがすべからく本件発明を含む燐光性有機発光デバイスの課題であることを認定する根拠はない。このように,本件審決は,本件明細書の記載に基づかずに本件発明の課題を認定し,かつ,何らの根拠もなくその課題を不合理に高いレベルに限定するという誤りを犯している。

むしろ,本件明細書の前記3の記載によれば,本件発明の課題は,「有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物として,従来知られていた式L3Mの構造を有する燐光性錯体とは異なる構造を有する燐光性錯体を提供すること」であるというべきであり,当該課題及びその解決手段は,本件明細書の発明の詳細な説明に記載されているから,本件発明は,本件明細書の発明の詳細な説明による開示を超えるものではない。

また,仮に,当業者が本件明細書【0114】の記載から本件発明のL2MX錯体には燐光発光を示さない化合物が含まれている場合があると認識したとしても,そのように認識される化合物を含む組成物は,当業者が有機発光デバイスの発光層に用いることはないから,「有機発光デバイスの発光層として用いるための」組成物には当たらない。

よって,本件発明が本件明細書の発明の詳細な説明の記載を超えるとした本件審決の判断には誤りがある。

5  被告は,本件発明1がパラメータに類似するような特異な形式で記載されている旨を主張するが,本件発明1の式は,物の特性値を変数とした関係式ではなく,具体的な構造上の特徴を共通にする一群の化合物を表したものであり,その意味は一義的に明確である。

むしろ,本件発明は,イリジウム原子が持つ強い「スピン軌道相互作用」により,一重項励起状態と三重項励起状態の混ざり合いが促進される結果,効率的な燐光発光を示すもので(甲34,35の1~9,甲37,39,本件明細書【0006】【0079】【0104】),イリジウム原子と炭素原子との直接結合が,当該励起状態の混ざり合いをさらに促進するものであって(甲37,38),L3M錯体との関係では,L配位子とX配位子とを変更することにより,様々な発光波長を得ることが可能となるほか(本件明細書【0111】【0112】),合成が比較的容易であるために有機発光デバイスの発光効率の向上にもつながる(本件明細書【0077】【0078】)というものである。

本件発明の本質は,このように,様々な特徴を持ち,従来,有機発光デバイスに用いられることがなかったL2MX燐光有機金属化合物を新たに見いだし,有機発光デバイスに用いることのできる発光物質の選択肢を広げたところにある。

〔被告の主張〕

1  本件は,広範な化合物を含む本件発明1に対して,発明の詳細な説明においては特定のイリジウム錯体であるBTIrのみの効果が確認されている事案であって,その効果がBTIrのみならず,L2MX錯体全体にも拡張できるか否かが問題となっている事案である。

いわゆるパラメータ特許事件判決が示したサポート要件に関する判断基準は,法36条6項1号の趣旨に基づくものであって,パラメータ発明に限って判示されたものではない。そして,発明の課題が明細書に一義的に明確に記載されていない事案であっても,明細書及び図面の記載から発明の課題を認定することになる。

なお,フリバンセリン事件判決は,①特許請求の範囲が特異な形式で記載されているため,その技術的範囲についての解釈に疑義があること,②特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比して,前者の範囲が後者の範囲を超えていること,の各要件を満たせば,パラメータ特許事件判決を適用できる旨を判示しているものと解される。そして,本件発明1の特許請求の範囲の記載は,広範なX配位子及びL配位子を含むから,パラメータに類似するような特異な形式で記載されており,その記載からは配位子の構造を特定できず,技術的範囲を特定できないから,上記①の要件を満たす。また,本件明細書の発明の詳細な説明からは,BTIrを用いた場合に量子効率12%のELデバイスが得られるという限定的な技術的事項が開示されているにとどまるのに対して,本件発明1の特許請求の範囲には,式L2MXという広範な技術的範囲を含む記載がされているから,上記②の要件を満たす。

よって,本件審決が採用したサポート要件の判断基準を適用することは,合理的である。

2  仮に,前記〔原告らの主張〕2に記載の判断基準が用いられるとしても,本件明細書(【0005】)が引用する先行技術(甲1)は,量子効率が8%である燐光ELデバイスである一方,本件明細書は,BTIrを用いた実施例が12%の量子効率を実現した旨(【0010】【0041】【0097】図5A)及び一部のL2MX錯体の光励起による発光スペクトル(図8及び10)については記載があるものの,L2MX錯体の量子効率は,一切示されていないばかりか,X配位子によってはL2MX錯体が発光しない場合があることが記載されている(【0114】)。

したがって,本件明細書に接した当業者は,BTIrが,先行技術と同等以上の高い燐光量子効率を提供できるが,BTIrや発光スペクトルが記載されているL2MX錯体であっても,X配位子に上記の化合物に類似したものを用いれば全く発光しなくなると認識するというべきである。

また,本件出願日当時の技術常識は,光励起によるフォトルミネッセンス(ある化合物が光照射により発光すること。以下「PL」ともいう。)の量子効率(与えられた光エネルギーのうちPLにより発光に用いられる割合のこと。以下「PL効率」という。)が高いことは,必ずしもELによる高い量子効率を確かなものにしないというものであった(乙16)。そして,本件明細書において発光スペクトルが図示されているL2MX錯体についても,そのPL効率及びEL効率は,いずれも不明である。

以上によれば,本件明細書に接した当業者が認識できるのは,BTIrを用いた場合に,従来技術の8%と同等以上の高い量子効率を有する燐光有機発光デバイスを提供できるということであって,BTIr以外のL2MX錯体がどの程度の量子効率を有するかは,不明である。したがって,当業者は,本件発明1に記載の「式L2MXの式の燐光性錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物」を認識することはできず,本件発明1は,本件明細書の発明の詳細な説明に記載されたものではない。

3  発明の課題の認定は,明細書及び図面の全ての記載事項を考慮すべきであり,本件明細書には,特定の実施態様(BTIr)が高い量子効率で燐光発光する旨の記載があるが,それを超えて,前記〔原告らの主張〕4において原告らが主張するような発明の課題についての記載はない。むしろ,本件明細書には,発明の課題が明確に記載されていないところ,本件審決による,「高い量子効率で燐光発光できる発光デバイスの発光層に使用するための組成物の提供」という発明の課題の認定は,合理的なものである。

すなわち,本件明細書【0005】は,Ir(ppy)3を発光層に有する有機発光デバイス(量子効率8%)を開示する甲1を,同【0007】は,PtOEPを発光層に有する有機発光デバイス(量子効率4%)を開示する甲6を,それぞれ掲げているほか,同【0006】【0024】【0095】ないし【0103】並びに図5A及びBは,いずれも大きな効率のエレクトロルミネッセンスについての言及があるから,これらの記載によれば,本件明細書が本件発明について高い量子効率を求めていることを認識できる。また,本件出願日当時,有機ELデバイス開発の課題は,量子効率の向上であった(甲1,5,6,乙25)ところ,本件発明と同じイリジウム錯体を発光層に含む甲1に記載の発明は,量子効率が8%であり,これは,燐光に理論上期待されていた量子効率(15%)には及ばない以上,本件発明の課題が8%と同等又はそれ以上の量子効率を実現することにあると考えることは,至極当然である。

また,原告らは,審判段階で,L2MX錯体が甲1に記載のL3M錯体よりも優れていることを主張している以上,原告らの主張のようにL2MX錯体で1%でも量子効率が得られればよいというものではない。むしろ,甲1に記載の発明を従来技術として検討することは,適切であるし,審判段階と矛盾する原告らの本件訴訟における主張は,訴訟における信義則ないし禁反言の趣旨に照らして許されない。

他方,原告らは,本件発明の課題を,「有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物として,従来知られていた式L3Mの構造を有する燐光性錯体とは異なる構造を有する燐光性錯体を提供すること」であると主張するが,当業者が本件明細書からそのような課題を認識する根拠は,示されていない。むしろ,本件明細書には式L2MX以外の実施態様も開示されているから,本件明細書からL2MX錯体のみを抽出して課題を推認する原告らの主張は,本件発明全体に当てはまる課題を設定するものではない。

4  原告らが援用する甲34の作成者は,中立的な専門家ではないし(乙17,18),その内容も,MLCT励起状態が発生しやすいL配位子を選択した場合等の極めて限られた状況下での話であるばかりか,甲37及び38は,本件出願後の刊行物であって本件出願日当時の技術常識を説明するものではない。

また,L2MX錯体は,発光波長の調整ができない場合もあるし,その合成方法も公知のものであるから,それが容易に合成できることは,本件発明の特徴ではない。

第4当裁判所の判断

1  本件明細書の記載について

(1)  本件特許は,平成12年11月29日出願に係るものであるから,法36条6項1号が適用されるところ,同号には,特許請求の範囲の記載は,「特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載したものであること」でなければならない旨が規定されている(サポート要件)。

特許制度は,発明を公開させることを前提に,当該発明に特許を付与して,一定期間その発明を業として独占的,排他的に実施することを保障し,もって,発明を奨励し,産業の発達に寄与することを目的とするものである。そして,ある発明について特許を受けようとする者が願書に添付すべき明細書は,本来,当該発明の技術内容を一般に開示するとともに,特許権として成立した後にその効力の及ぶ範囲(特許発明の技術的範囲)を明らかにするという役割を有するものであるから,特許請求の範囲に発明として記載して特許を受けるためには,明細書の発明の詳細な説明に,当該発明の課題が解決できることを当業者において認識できるように記載しなければならないというべきである。法36条6項1号の規定する明細書のサポート要件が,特許請求の範囲の記載を上記規定のように限定したのは,発明の詳細な説明に記載していない発明を特許請求の範囲に記載すると,公開されていない発明について独占的,排他的な権利が発生することになり,一般公衆からその自由利用の利益を奪い,ひいては産業の発達を阻害するおそれを生じ,上記の特許制度の趣旨に反することになるからである。

そして,特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要件に適合するか否かは,特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比し,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲内のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲内のものであるか否かを検討して判断すべきものである。

(2)  したがって,本件においても,サポート要件に係る判断の前提として本件発明の課題について認定する必要があり,その上で,本件発明の特許請求の範囲の記載と本件明細書の発明の詳細な説明の記載を対比し,本件発明として特許請求の範囲に記載された発明が本件明細書の発明の詳細な説明に記載された発明で,当該発明の詳細な説明の記載により当業者が本件発明の当該課題を解決できると認識できる範囲内のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし本件発明の当該課題を解決できると認識できる範囲内のものであるか否かを検討する必要があるというべきである。

(3)  以上の観点から本件発明の特許請求の範囲の記載をみると,本件発明は,いずれも有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物についての発明であるところ,ここにいう有機発光デバイスとは,電気エネルギー(電圧)を印加することにより発光(EL)を示す有機金属化合物を発光層に含むものであって,当該発光には燐光が含まれていることを要件とするものである。

(4)  次に,本件明細書(甲33,乙3)をみると,そこには,本件発明についておおむね次の記載がある。

ア 本件発明は,式L2MX(式中,L及びXは異なった二座配位子であり,Mは金属,特にイリジウムである。)の有機金属化合物,それらの合成及びあるホスト中のドーパントとして,有機発光装置の発光層を形成するために使用することに関する(【0001】)。

イ 有機発光装置(OLED)は,いくつかの有機層から構成され,それらの層の中の1つは,装置を通って電圧を印加することによりELを生ずるようにすることができる有機材料から構成されている。あるOLEDは,LCD系天然色平面パネル表示装置に代わる実際的技術として用いるのに充分な輝度,色の範囲及び作動寿命を有することが示されている(【0002】)。

ウ 有機材料では,分子励起状態又は励起子の崩壊により光が発生する。例えば,励起子の対称性が基底状態のものと異なっていると,励起子の放射性緩和は,不可能となり,発光は,遅く非効率的になる。基底状態は,通常,励起子を含む電子スピンの交換では反対称なので,対称性励起子の崩壊は,対称性を破る。そのような励起子は,三重項として知られているが,OLEDでの電気的励起により形成されたどの3つの三重項励起子でも,ただ一つの対称状態(一重項)励起が生じる(甲1参照)。対称性不可過程からの発光は,燐光として知られている。特徴として,燐光は,遷移の確率が低いため,励起後数秒間まで持続することがある。これに対して,蛍光は,一重項励起の早い崩壊で始まる。この過程は,同じ対称性の状態の間で起きるので,非常に効率的である(【0005】。なお,甲1は,【0019】でも参照されている。)。多くの有機材料は,一重項励起子からの蛍光を示すが,三重項による効果的室温燐光を出すことができるものは,ほんの僅かなものしか確認されていない。例えば,ほとんどの蛍光染料では,三重項状態に含まれているエネルギーは,浪費されるが,三重項励起状態が,例えば重金属原子の存在により発生するスピン軌道結合により摂動を起こすと,効果的燐光がいっそう起きやすくなる。この場合,三重項励起は,ある一重項特性をとり,それは,基底状態へ放射性崩壊するいっそう大きな確率を有する。実際,これらの性質を有する燐光染料は,大きな効率のELを示している(【0006】)。三重項による効果的室温燐光を示すことが確認されている有機材料は,ほんの僅かしかないが,対照的に,多くの蛍光材料は知られている。蛍光は,大きな励起密度で燐光発光を減少する三重項・三重項消滅によって影響を受けない。したがって,蛍光材料は,多くのEL用途に適している(甲6参照。【0007】)。

エ 燐光の利用に成功することは,有機EL装置の膨大な前途を約束するものである。例えば,燐光の利点は,1つには,燐光装置の三重項に基づく全ての励起子(EL中でのホールと電子との再結合により形成される。)が,あるEL材料でエネルギー移動及び発光に関与することができることである。これに対し,一重項に基づく蛍光装置では,僅かな割合の励起子しか蛍光発光を与える結果にならない(【0024】)。蛍光は,原理的には,対称励起状態の3倍大きな数により75%低い効率になる(【0025】)。

オ 本件発明は,L2MX(式中,L及びXは,異なったモノアニオン性二座配位子であり,Lは,sp2混成軌道炭素及びヘテロ原子を有するLの原子によりMに配位しており,Mは,8面体錯体を形成する,好ましくは第3系列の遷移金属,好ましくはイリジウム(Ir)である。)に関する(【0008】【0038】)。この化合物は,増大した濃度で,またはそのままで,有機発光ダイオードの発光層として働くホスト層中のドーパントとして働くことができる(【0039】【0046】【0047】)。Lの例は,2-(1-ナフチル)ベンゾオキサゾール,(2-フェニルベンゾオキサゾール),(2-フェニルベンゾチアゾール),(7,8-ベンゾキノリン),クマリン,(チエニルピリジン),フェニルピリジン,ベンゾチエニルピリジン,3-メトキシ-2-フェニルピリジン,チエニルピリジン及びトリルピリジンであり(【0048】),Xの例は,アセチルアセトネート(acac),ヘキサフルオロアセチルアセトネート,サリチリデン,ピコリネート及び8-ヒドロキシキノリネートである(【0049】)。L及びXの更に別な例は,図39(10種類の化合物が一般式で表されている。)のほか,「総合配位化学」第2巻第20.1章及び第20.4章に見いだすことができる(【0050】)。

カ 本件発明1に記載の燐光有機金属化合物に含まれる16種類のイリジウム錯体(BTIrを含む。)の製造方法(【0052】~【0076】)並びに発光スペクトル及びNMRスペクトル(図8~15,17~22,25~36)は,当該段落及び図に記載のとおりである。得られたイリジウム錯体は,強く発光し,ほとんどの場合,燐光であることを示す1ないし3マイクロ秒(μsec)の寿命を持っている(【0079】)。発光を示す錯体は,L2MX(Mは,イリジウム)として特徴付けられ,この錯体の発光は,イリジウムとL配位子との間のMLCT遷移に基づくものであるか,又はその遷移と配位子間の遷移との混合に基づくものである(【0080】)。

キ 式L2MXの化合物は,OLEDの燐光発光体として用いることができる。例えば,Lが2-フェニルベンゾチアゾール,Xがアセチルアセトネート及びMがイリジウムである場合の化合物(BTIr)は,OLEDの発光層を形成するために4,4′-N,N′-ジカルバゾール-ビフェニル(CBP)中のドーパントとして質量で12%のレベルで用いた場合,12%の量子効率を示す(【0010】【0011】【0041】【0042】)。本件発明のホスト層は,カルバゾール部分を有する特定の分子からなってもよいが,中でもCBPが好ましい(【0091】~【0094】)。

ク 本件発明で使用される発光装置は,30nmのNPDからなるホール輸送層(HTL)を,ITO(アノードとしての機能を果たすインジウム錫酸化物の透明伝導性相)被覆ガラス基体上にまず蒸着する。そのNPDの上に,ホストマトリックス中へドープした有機金属の薄膜を蒸着して発光層を形成する。例として,発光層は,12重量%のBTIrを含有するCBPであり,その層の厚さは,30nmであった。発光層の上に,バトクプロイン(BCP)からなり,厚さ20nmのブロッキング層を蒸着する。ブロッキング層の上に,厚さ20nmのAlq3からなる電子輸送層を蒸着する。電子輸送層の上に,Mg-Ag電極を蒸着して,装置が完成する(【0095】【0098】)。カソードとアノードの間に電圧を印加すると,ホールがITOからNPDへ注入され,NPD層により輸送される一方,電子は,Mg-AgからAlqへ注入され,Alq及びBCPを通って輸送される。次に,ホールと電子は,EMLへ注入され,キャリヤー再結合がCBPで起き,励起状態が形成され,BTIrへのエネルギー移動が起き,最終的にBTIr分子が励起され,放射崩壊する(【0096】)。この装置の量子効率は,12%である(【0097】)。

ケ 蛍光材料は,装置中の発光体としてある利点を有する。L2MX(Mは,イリジウム)錯体を製造するのに用いられるL配位子が大きな蛍光量子効率を有するならば,配位子の三重項状態を出入りする系間移行を効率的に行わせるため,イリジウム金属の強いスピン軌道結合を用いることができる。これは,イリジウムがL配位子を効果的な燐光中心にするということにある。この方法を用いて,どのような蛍光染料を用いても,それから効果的な燐光分子を作ることができる。すなわち,Lは蛍光を発するが,L2MX(Mは,イリジウム)は,燐光を発する(【0104】)。例えば,Lがクマリンであり,Xがアセチルアセトネート(acac)である場合のL2IrX錯体は,強い橙色の発光を与えるのに対し,クマリン自身は,緑色に発光する(【0105】)。色素レーザー及び他の用途のために開発された蛍光染料の数は極めて多いので,この方法は,極めて広範な燐光材料をもたらすものと予想される(【0106】)。ただし,ヘキサフルオロ-acac 及びジフェニル-acac の両方の錯体は,L2IrX錯体のX配位子として用いた場合,当該錯体からの発光をクエンチすることがあるため,非常に弱い発光を与えるか,または発光を全く示さない。その理由は,完全には明らかになっていない(【0114】)。

2  本件出願日当時の技術水準について

本件明細書の記載は,前記1(4)のとおりであるが,そこには,本件発明の課題が必ずしも明確に記載されていない。そこで,本件発明の課題を認定する前提として,本件出願日当時の当業者の技術水準について検討すると,本件出願日前に公知となっていた有機金属化合物による発光に関連する文献で証拠として提出されているものには,次のものがある。

(1)  甲1は,「電気燐光に基づく高効率緑色有機発光デバイス」という表題の学術論文(平成11年(1999年)7月刊行)であるところ,そこには,おおむね次の記載がある。

ア 燐光は,蛍光とは異なり,一重項及び三重項励起状態の双方を用いるので,100%の最大内部効率を達成する可能性を含んでいる。しかし,基準輝度100cd/㎡に対し,初期研究段階の白金ポルフィリン(近年,高効率赤色電気燐光の発光が実証された。)の外部量子効率は,2.2%であって,実質的には低電流時の量子効率(5.6%)より低い。

イ 我々は,緑色電気燐光材料であるfac-トリス-(2-フェニルピリジン)イリジウム(Ir(ppy)3)を用いたOLEDにより,三重項の短い寿命と適度なPL効率という双方の要因の併発によって,Ir(ppy)3系OLEDの量子効率のピークを8.0%,パワー効率のピークを31lm/Wとすることができた。

ウ 蛍光は,スピン対称性を保つ有機分子の輻射緩和に限定して起きるが,そのプロセスは,非常に急速であり,典型的に一重項励起状態と基底状態間の遷移を起こす。反対に,燐光は,対称性が保たれない「禁制」遷移,例えば三重項励起状態と一重項基底状態間の遷移により生じている。電気励起状態下では,励起子は,両方の対称状態で作られる。つまり,全ての励起子から発光を得ることで,純蛍光デバイスの場合により得られる効率よりも著しく高い効率が得られる可能性が出てくる。

(2)  甲5は,「遷移金属錯体の三重項金属-配位子電荷移動励起状態からのエレクトロルミネセンス」と題する学術論文(平成10年(1998年)刊行)であるところ,そこには,おおむね次の記載がある。

ア ある種のオスミウム(Ⅱ)錯体,Os(CN)2(PPh3)2X(X=ビピリジン誘導体又はアントロリン誘導体)の三重項金属-配位子電荷移動(MLCT)励起状態からの発光は,ポリ(N-ビニルカルバゾール)(PVK)マトリクスに混入させることによって向上する。インジウム-錫酸化物(ITO)で覆ったガラス/Os錯体:PVK/2-(4-ビフェニル)-5-(4-tert-ブチル-フェニル)1,3,4-オキサジアゾール(PBD)/Alという構造を有するセルを用いることにより,8Vを超える直流バイアス電圧で,安定した均一な赤色のエレクトロルミネセンスが観測される(なお,図1には,上記ある種のオスミウム(Ⅱ)錯体の化学構造式(4種類)が記載されているところ,当該化学構造式によれば,上記「アントロリン」は,「フェナントロリン」の誤記であると認められる。)。

イ 一般に,光化学において一重項及び三重項励起状態は,どちらもスピン選択の統計に基づくものの,有機分子からのELは,一重項励起状態によると考えられている。これは,大多数の有機分子は,三重項励起状態からの発光量子収率が低く,ELに寄与しないためである。しかし,強い三重項状態発光(0.5を超え得る量子収率(PL効率))を示す有機金属錯体もあり,このことは,こうした材料を用いることによって高効率ELデバイスを設計する可能性を生み出している。

ウ 既に知られているとおり,遷移金属錯体(ルテニウム,オスミウム,イリジウム等)は,中心金属と配位子との間に強い相互作用があるため,長い励起状態寿命及び励起波長に依存性のない量子収率(PL効率)により三重項状態の特性を示すMLCT励起状態を示す。

エ スピン統計を考慮すると,一重項及び三重項状態の両方が同じEL効率を有するなら,三重項励起状態からのEL収率は,3倍になることが予想される。

オ 本稿は,遷移金属錯体の三重項MLCT励起状態からのELの初観察結果について報告する。

カ ITOで覆ったガラス基板,PVK層中に10重量%のオスミウム錯体がドープされた発光層,PBDからなる電子輸送層及びアルミニウム陰極で構成されるELセル(図1にその構造が図解されている。)では,10VでELが観察された。この構造のデバイスでは,電子輸送層を用いることで電子注入性を高めることができ,EL効率を向上させる。この構造のEL効率は,やや低い(0.1%未満)ものの,セル構造の最適化を行うことで強度は向上する。さらには,ドープした錯体の構造とその濃度によりPVK層の電荷輸送性が決定するので,EL効率の向上のためにはドーパント錯体とその濃度を適切に選ばなければならない。

キ 我々の研究結果は,このような高い三重項状態のPL効率を有する材料を有機ELデバイスの発光層として用いることができることを示しており,そうすることによって材料の幅を広げEL効率を高める新たな手法を提示している。

(3)  甲6は,「有機エレクトロルミネッセンス素子からの高効率燐光発光」という表題の学術論文(平成10年(1998年)刊行)であるところ,そこには,おおむね次の記載がある。

ア 有機発光素子のEL効率は,蛍光色素導入により改善することができる。ホストから色素へのエネルギー移動は,励起子経由で起こるが,一重項スピン状態だけが蛍光発光を誘起している。全励起状態の中で,一重項発光は,小さな割合(約25%)にすぎず,残りは,三重項状態である。しかしながら,燐光色素は,一重項状態と三重項状態の両方から生じて発光効率を改善する手段を提供している。

イ 我々は,特定のポルフィリン白金(Ⅱ)(PrOEP)をドープしたホスト材料の中で,一重項及び三重項の両方からの高効率な(90%以上の)エネルギー移動を報告している。我々のドープしたEL素子は,ピーク外部量子効率4%とピーク内部量子効率23%を持つ飽和した赤色発光を生じている。燐光色素を用いて達成可能な発光効率により,有機材料に対する新規の応用を導き出すことができる。

(4)  甲52は,ELを示すルテニウム錯体による薄膜発光デバイスに関する学術論文(平成8年(1996年)刊行)であるところ,そこには,特定のルテニウム錯体が約0.05%の量子効率でELを示す旨の記載がある。

(5)  他方,甲3,4及び7ないし11は,いずれも本件出願日前に刊行されたイリジウム錯体を含む各種の有機金属化合物の発光に関する学術論文であるが,これらは,いずれもPLについて報告するものであって,ELについては記載がない。

(6)  有機金属化合物に電気エネルギー(電圧)を印加した場合に生じる分子励起状態又は励起子の崩壊により発生する光(EL)には,一重項励起状態又は励起子から生じる蛍光と,三重項励起状態又は励起子から生じる燐光の2種類の光が存在する(前記1(4)ウ。本件明細書【0005】)。しかしながら,前記(1)ないし(5)に記載のとおり,本件出願日前に公知となっていた有機金属化合物による発光に関連する文献のうち,特定の有機金属化合物に電気エネルギー(電圧)を印加した場合に燐光を含む発光(EL)を示すことを記載したものは,前記(1)ないし(4)に記載の甲1,5,6及び52に限られる。

そして,これらの文献のうち,甲1(前記(1)ア及びウ),5(前記(2)イ及びエ)及び6(前記(3)ア)という複数の文献は,いずれも,燐光を利用することにより,理論上,蛍光を利用する場合よりもEL効率を著しく改善できることについて記載している。

他方で,甲5(前記(2)イ)は,大多数の有機分子は三重項励起状態からの発光量子収率が低く,ELに寄与しない旨を記載しており,現に,甲1,5,6及び52は,極めて多数にわたる有機金属化合物のうち,特定のイリジウム錯体(Ir(ppy)3)(甲1),特定のオスミウム(Ⅱ)錯体(甲5),特定のポルフィリン白金(Ⅱ)(PrOEP)(甲6)又は特定のルテニウム錯体(甲52)が,それぞれ有機発光デバイスの発光材料として燐光を発する旨を報告するものである。しかも,発光材料として発光層に使用できることが知られていた上記有機金属化合物のうち,甲1に記載のIr(ppy)3が8%のEL効率を示していた(前記2(1)イ)ほかは,甲5に記載のオスミウム(Ⅱ)錯体が0.1%未満(前記2(2)カ),甲6に記載のPtOEPが4%(前記2(3)イ),そして甲52に記載のルテニウム錯体が約0.05%(前記2(4))というEL効率を示していたにとどまる。

(7)  以上によれば,本件出願日当時における技術水準は,理論上,燐光を発する有機金属化合物を発光材料として発光層に使用することにより,有機発光デバイスの発光効率を改善することができるにもかかわらず,極めて多数にわたる有機金属化合物のうち当該発光材料として発光層に使用できるものがごく限られた特定のものしか知られておらず,しかも,これらのうちIr(ppy)3が8%というEL効率を示していたほかは,いずれもごく低いEL効率を達成するにとどまっていたものと認められる。

3  本件発明の課題について

(1)  本件発明は,その特許請求の範囲の記載によれば,いずれも式L2MX(式中,L及びXは,異なったモノアニオン性二座配位子であり,Mは,イリジウムである。)ので表される燐光性錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物であるところ,本件明細書の発明の詳細な説明をみると,そこには,本件発明が,式L2MX(式中,L及びXは異なった二座配位子であり,Mは金属,特にイリジウムである。)の有機金属化合物,それらの合成及びあるホスト中のドーパントとして,有機発光装置の発光層を形成するために使用することに関するものである旨が記載されている(前記1(4)ア。【0001】)。その上で,本件明細書の発明の詳細な説明には,燐光では全ての励起子が発光に関与できるため,原理的に蛍光よりも高い効率で発光が得られることから,燐光の利用に成功することは有機EL装置の前途を約束するものである(前記1(4)エ。【0024】【0025】)との記載がある一方,多くの有機材料は一重項励起子からの蛍光を示すが,三重項による効果的室温燐光を出すことができるものは,ほんの僅かなものしか確認されていない(前記1(4)ウ。【0006】【0007】)旨が記載されている。

したがって,本件明細書は,本件発明に当たり,理論上,燐光を発する有機金属化合物を発光材料として発光層に使用することにより,有機発光デバイスの発光効率を改善することができるにもかかわらず,極めて多数にわたる有機金属化合物のうち当該発光材料として発光層に使用できるものが,ごく限られた特定のものしか知られていないという本件出願日当時の当時の技術水準(前記2(7))を前提としているものと認められる。

そして,本件明細書の発明の詳細な説明には,上記技術水準を前提として,本件発明に使用される燐光を発する有機金属化合物について具体的かつ詳細に記載されている(前記1(4)オ,カ及びケ。【0008】【0038】【0039】【0046】~【0050】【0052】~【0076】【0079】【0080】【0104】~【0106】【0114】)ところ,それらは,いずれも本件出願日前に電気エネルギー(電圧)を印加した場合に燐光を発する有機金属化合物として知られていたもの(甲1に記載のイリジウム錯体であるIr(ppy)3,甲5に記載の特定のオスミウム(Ⅱ)錯体,甲6に記載の特定のポルフィリン白金(Ⅱ)(PtOEP)及び甲52に記載の特定のルテニウム錯体)とは異なるものである。他方で,本件明細書の発明の詳細な説明は,燐光の発光機序に関連して甲1に言及している(前記1(4)ウ。【0005】【0019】)ものの,甲1に記載の有機金属化合物(Ir(ppy)3)によるEL効率(8%)や,これと同等以上のEL効率を発揮することの意義等についての具体的な記載は何ら見当たらない。

したがって,本件明細書の発明の詳細な説明は,本件発明について,有機発光デバイスの発光層として用いることができる組成物であって,本件出願日当時に知られていた有機金属化合物とは異なるものとして説明しているものと認めるのが相当であり,本件出願日前に達成されていたものと比較してより高いEL効率を発揮する組成物として説明するものとは認められない。

(2)  前記2(7)に説示のとおり,本件出願日当時における技術水準は,理論上,燐光を発する有機金属化合物を発光材料として発光層に使用することにより,有機発光デバイスの発光効率を改善することができるにもかかわらず,極めて多数にわたる有機金属化合物のうち当該発光材料として発光層に使用できるものがごく限られた特定のものしか知られていないというものであり,これらの有機金属化合物のうちの1例を除いてごく低いEL効率を示すにとどまっていた以上,当該1例(Ir(ppy)3)が8%というEL効率を示していたとしても,有機発光デバイスの発光層に使用した場合に燐光を発する新たな有機金属化合物を得ることは,本件出願日当時において,それ自体,解決すべき技術的課題として成立し得るものであったと認められる。

そして,本件明細書には,本件発明の課題が必ずしも明確に記載されていないが,本件明細書は,上記技術水準を前提として,本件発明について,有機発光デバイスの発光層として用いることができる組成物であって,本件出願日当時に知られていた有機金属化合物とは異なるものとして説明しているものであるから,本件発明の課題は,「有機発光デバイスの発光層に使用した場合に燐光を発する新たな有機金属化合物を得ること」であると認めるのが相当である。

他方,本件明細書には,先行技術(甲1)によるEL効率や,これと同等以上のEL効率を発揮することの意義等についての具体的な記載は何ら見当たらず,本件明細書は,本件発明について,本件出願日前に達成されていたものと比較してより高いEL効率を発揮する組成物として説明するものとは認められない以上,本件発明は,本件出願日前に達成されていたものと比較してより高いEL効率を発揮することなどを課題としているものとは認められない。

(3)  被告の主張について

ア 被告は,「高い量子効率で燐光発光できる発光デバイスの発光層に使用するための組成物の提供」,具体的には甲1に記載の8%と同等以上のEL効率で燐光発光できる有機発光デバイスの組成物の提供を本件発明の課題として認定した本件審決は合理的なものであり,本件発明のL2MXで1%でも燐光の量子効率が得られればよいというものではない旨を主張する。

しかしながら,前記(2)に説示のとおり,本件出願日当時における技術水準によれば,有機発光デバイスの発光材料として使用することができる有機金属化合物を見いだすことは,本件出願日当時において,それ自体解決すべき技術的課題として成立し得るものというべきであって,本件出願日前に甲1のIr(ppy)3が8%というEL効率を示していたとしても,そのことは,本件出願日当時における当該技術分野において解決すべき技術的課題を「8%と同等以上の高いEL効率で燐光発光できる発光デバイスの発光層に使用するための組成物の提供」に限定する根拠となるものではない。

よって,本件審決による本件発明の課題の認定は,誤りであって,被告の上記主張は,採用できない。

イ 被告は,原告らが審判段階でL2MX錯体がL3M錯体よりも優れていることを主張している以上,訴訟段階でこれと矛盾する主張ができない旨を主張する。

しかしながら,原告らが審判段階で上記のような主張をした場合において,当該主張は,容易想到性に係る判断において考慮する余地があるとしても,サポート要件の判断に当たり認定されるべき本件発明の課題とは直接の関係がないというべきである。

よって,被告の上記主張は,採用できない。

ウ 被告は,本件明細書にはL2MX錯体以外の実施態様も記載されているから,これのみを抽出することによって本件発明の課題を認定することはできない旨を主張する。

しかしながら,本件発明の特許請求の範囲に記載された発明は,式L2MXで表される有機金属化合物(組成物)に関するものであるから,本件明細書の当該有機金属化合物に関する記載から本件発明の課題を認定することに何ら妨げはない。

よって,被告の上記主張は,本件発明の特許請求の範囲の記載に沿うものとはいえず,採用できない。

4  本件発明のサポート要件の充足について

(1)  前記3(2)に説示のとおり,本件発明の課題は,「有機発光デバイスの発光層に使用した場合に燐光を発する新たな有機金属化合物を得ること」であると認められる。そこで,以下では,このことを前提として,本件発明として特許請求の範囲に記載された発明が,本件明細書の発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載により当業者が本件発明の課題を解決できると認識できる範囲内のものであるか否かを検討する。

(2)  本件発明1の特許請求の範囲の記載には,式L2MXで表される有機イリジウム錯体(Mは,イリジウム)が記載されているところ,そこでは,L及びXが異なった二座配位子であること,L配位子がsp2混成炭素及び窒素原子によりM(イリジウム)に配置されたモノアニオン性二座配位子であること及びX配位子が,特定の2種類を除くO-O配位子又はN-O配位子のいずれかであることが特定されている。また,本件発明2及び4ないし7の特許請求の範囲では,L配位子が具体的に化合物名又は構造式によって特定されており,本件発明3の特許請求の範囲では,X配位子が具体的に化合物名で特定されている。

そして,本件明細書の発明の詳細な説明をみると,そこには,前記1(4)オに記載のとおり,L配位子及びX配位子が上記の特許請求の範囲に記載のものが具体的に特定されており(【0048】【0049】図39),前記1(4)カに記載のとおり,これらの各配位子を組み合わせて得た16種類の式L2MXで表される有機イリジウム錯体の製造方法が記載されている(【0052】~【0076】)ほか,前記1(4)ケに記載のとおり,特許請求の範囲から除かれた特定の2種類のX配位子の発光が不十分である旨が記載されている(【0114】)。

したがって,本件発明1ないし7を構成する有機イリジウム錯体は,いずれも,本件明細書の発明の詳細な説明に具体的な記載があるといえる。

(3)  次に,本件発明は,いずれも燐光性錯体である式L2MXで表される有機イリジウム錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物である。

そして,本件明細書の発明の詳細な説明には,前記1(4)カに記載のとおり,前記16種類の式L2MXで表される有機イリジウム錯体の発光スペクトル及びNMRスペクトルが示されており(図8~15,17~22,25~36),このような発光が燐光であることがその寿命という根拠とともに記載されている(【0079】)ほか,式L2MXで表される有機イリジウム錯体であれば発光がイリジウムとL配位子との間のMLCT遷移に基づくものであるか,又はその遷移と配位子間の遷移との混合に基づくものである旨が記載されている(【0080】)。当業者は,これらの遷移状態からの発光を燐光であると理解するから,上記記載から,式L2MXで表される有機イリジウム錯体が燐光を発するものと理解するものといえる。

また,本件明細書の発明の詳細な説明には,前記1(4)ウに記載のとおり,重金属原子の存在で生じるスピン軌道結合による摂動が起きると燐光が生じやすくなる旨(【0006】)が記載されているところ,イリジウムが重原子であることは,当業者に自明であるほか,前記1(4)ケに記載のとおり,蛍光を発するL配位子を組み合わせることで,イリジウム金属の強いスピン軌道結合を利用して効果的に燐光を発生させることができることが具体的な実施例とともに記載されている(【0104】~【0106】)。したがって,当業者は,これらの記載から,特にL配位子を有する有機イリジウム錯体を用いて効果的に燐光を発生させる作用機序を理解することができる。

さらに,本件明細書の発明の詳細な説明には,前記1(4)キ及びクに記載のとおり,これらの有機イリジウム錯体のうち,L配位子が2-フェニルベンゾチアゾールで,X配位子がアセチルアセトネートであるもの(BTIr)を発光層のドーパントとして使用し,CBPを発光層のホストとして使用したアノード及びカソードを含む有機発光デバイスに電気エネルギー(電圧)を印加した場合に,12%のEL効率を示す旨の実施例の記載がある(【0010】【0011】【0041】【0042】【0091】~【0098】)。

したがって,当業者は,以上の本件明細書の発明の詳細な説明の記載から,そこに記載の発明が電気エネルギー(電圧)を印加した場合に燐光を発するものであって,式L2MXで表される燐光性錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物という本件発明が,本件明細書の発明の詳細な説明に記載されているものと理解することができる。

(4)  以上に加えて,本件発明の課題は,前記(1)に説示のとおり,「有機発光デバイスの発光層に使用した場合に燐光を発する新たな有機金属化合物を得ること」であるところ,本件明細書の発明の詳細な説明には,前記(2)に説示のとおり,本件出願日前に燐光を発することが知られていなかった特定の有機イリジウム錯体が,その製造方法及び本件発明の他の構成とともに具体的に記載されているばかりか,前記(3)に説示のとおり,当該有機イリジウム錯体を有機発光デバイスの発光層に使用した場合に燐光を発することが,その作用機序とともに具体的に記載されているといえる。

したがって,本件発明として特許請求の範囲に記載された発明は,本件明細書の発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載により当業者が本件発明の課題を解決できると認識できる範囲内のものであるというべきであって,本件発明の特許請求の範囲の記載は,法36条6項1号にいう「特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載したものである」ということができる。

(5)  被告の主張について

ア 被告は,本件明細書の発明の詳細な説明ではBTIrという特定のイリジウム錯体の効果のみが確認されており,式L2MXで表される有機イリジウム錯体全体の効果が確認されていない旨を主張する。

しかしながら,前記(3)に説示のとおり,本件明細書の発明の詳細な説明には,BTIrを発光層に含めた有機発光デバイスに加えて,式L2MXで表される様々な有機イリジウム錯体の製造方法や,これらの有機イリジウム錯体による燐光の発光スペクトルが示されているばかりか,有機イリジウム錯体を採用することによって燐光が発生する作用機序も記載があるのであって,BTIrという特定のイリジウム錯体の効果のみを確認したものではない。

よって,被告の上記主張は,これを採用できない。

イ 被告は,本件明細書には式L2MXで表される有機イリジウム錯体が発光しない場合がある旨の記載がある(【0114】)から,これと類似したものを用いれば全く発光しなくなると当業者が認識する旨を主張する。

しかしながら,前記1(4)ケに記載のとおり,本件明細書の【0114】は,特定の2種類のX配位子を用いた場合に理由不明のクエンチが生じるために非常に弱い発光を与えるか,または発光を全く示さない旨を記載しているにとどまり,特定の作用機序によって全く発光しなくなる旨を記載しているわけではないから,この記載から直ちに,当業者が当該2種類のX配位子に類似したものを用いれば全く発光しなくなると認識するとまではいえない。

よって,被告の上記主張は,採用できない。

(6)  小括

以上のとおり,本件発明の特許請求の範囲の記載は,法36条6項1号のサポート要件を充足するものと認められ,これに反する本件審決の判断は,誤りであるというべきである。

なお,原告らは,法36条6項1号の解釈に当たっては,特許請求の範囲の記載が,発明の詳細な説明の記載を超えているか否かを合目的的な解釈手法で判断すれば足りる旨を主張するところ,仮に当該判断手法によったとしても,前記(2)及び(3)に説示のとおり,本件明細書の発明の詳細な説明には,式L2MXで表される様々な有機イリジウム錯体を有機発光デバイスの発光層又はこれが組み込まれた表示装置に使用した場合に燐光を発することがその作用機序とともに具体的に記載されているから,当業者は,本件発明が本件明細書の発明の詳細な説明に記載されているものと理解することができると認められ,本件審決の判断が誤りであるとの上記結論に異なるところはない。

5  結論

以上の次第であるから,原告ら主張の取消事由には理由があり,本件審決は,取り消されるべきものである。

(裁判長裁判官 土肥章大 裁判官 井上泰人 裁判官 荒井章光)

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