知財高等裁判所 平成23年(行ケ)10439号 判決 2012年9月12日
原告
エンパイアテクノロジー
ディベロップメントエルエルシー
訴訟代理人弁護士
森﨑博之
弁理士
稲葉良幸
土屋徹雄
小林綾子
被告
特許庁長官
指定代理人
file_2.jpg川陽吾
神悦彦
樋口信宏
田村正明
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告及び上告受理申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
第1原告の求めた判決
特許庁が不服2010-16221号事件について平成23年8月15日にした審決を取り消す。
第2事案の概要
本件は,特許出願拒絶審決の取消訴訟である。争点は,手続違背及び進歩性の有無である。
1 特許庁における手続の経緯
シンガポールの法人であるアイランド・ジャイアント・デベロップメント・エルエルピーは,平成21年1月26日,名称を「抗菌又は除菌用シート材料及びその製造方法」(後に「清拭シート」と補正)とする発明について特許出願(特願2009-14252号,公開公報は特開2010-188426号公報〔甲12〕,請求項の数12)をし,平成21年12月22日付けで特許請求の範囲の変更を内容とする補正をし(請求項の数1,甲4),2010年(平成22年)2月23日,上記出願に係る特許を受ける権利を原告に譲渡した。原告は,出願人名義変更届を提出したが,平成22年3月18日付けで拒絶査定を受けたので,同年7月20日,不服の審判請求をしたが(不服2010-16221号事件),特許庁は,平成23年8月15日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし(出訴期間として90日附加),その謄本は平成23年8月25日原告に送達された。
2 本願発明の要旨
表面に孔径が1000nm以下の凹部を複数有する,清拭シート(ただし,粉体を担持するもの又は酸化チタン粒子を含有するものを除く)。
3 審決の理由の要点
(1) 引用例(特開2008-188082号公報,甲1)には,実質的に次の発明(引用発明)が記載されていることが認められる。
「平均繊維径が,1nm以上1000nm未満である繊維で構成された,最小細孔径が0.1μm以下,最大細孔径が0.1μm超1μm以下である,微細な凹凸を有している,マスクに用いるナノファイバー不織布。」
(2) 補正発明と引用発明との一致点と相違点は次のとおりである。
【一致点】
「表面に孔径が1000nm以下の凹部を複数有する,シート(ただし,粉体を担持するもの又は酸化チタン粒子を含有するものを除く)。」
【相違点】
本願発明は,清拭シートであるのに対して,引用発明は,マスクに用いるものの,清拭シートではない点。
(3) 本願発明や引用発明のように除菌・抗菌作用を有するシートは,その作用効果から,フィルター部材(引用発明の「マスク」はこれに相当)として用いられるとともに,拭き取り部材(本願発明の「清拭シート」がこれに相当)としても利用可能であることが,広く知られている(特開2008-156788号公報,段落【0043】及び【0057】参照)。そして,引用発明のシートを清拭シートとして用いることに,格別の技術的困難性も,阻害要因もない。してみると,引用発明に上記周知技術を適用することにより,上記相違点に係る構成を採用することは,当業者が容易になし得る事項である。また,本願発明の作用・効果も引用発明及び周知技術から当業者が予測し得る範囲のものであって格別なものではない。
本願発明は,引用発明及び周知技術に基づいて当業者が容易に発明することができたものである。
第3原告主張の審決取消事由
1 取消事由1(手続違背)
拒絶査定(甲5)では,「この出願については,平成21年9月29日付けの拒絶理由通知書に記載した理由3によって,拒絶すべきものです。」と判断されているところ,それに先立つ拒絶理由通知書(甲6)の理由3の備考欄には「・・・引用文献1に記載の被覆体を清拭シートに用いることは,当業者が容易に想到し得たものである。」と記載されている。すなわち,拒絶査定における拒絶理由は,引用発明として,引用文献1(審決における「引用例」)(甲1)の請求項1に記載された「被覆体」,つまり,「無機多孔質物質を含み,平均繊維径1~100μmのマイクロファイバー不織布または織布層と,この不織布または織布層に積層された,平均繊維径1nm以上1000nm未満のナノファイバー不織布層と,を備える」ものを認定し,該「被覆体」を清拭シートとして用いることは当業者が容易に想到し得たものである,とするものである。
一方,審決においては,「平均繊維径が,1nm以上1000nm未満である繊維で構成された,最小細孔径が0.1μm以下,最大細孔径が0.1μm超1μm以下である,微細な凹凸を有している,マスクに用いるナノファイバー不織布。」(5頁7行~10行)を引用発明と認定した。すなわち,審決においては拒絶査定において引用発明とされた引用例の請求項1に開示された「被覆体」ではなく,その一構成要素である「ナノファイバー不織布」のみを引用発明として認定し,該「ナノファイバー不織布」を清拭シートとして用いることは当業者が容易に想到し得たものである,とした。
以上のとおり,審決においては,拒絶査定におけるものとは異なるものを引用発明とし,この新たな引用発明に基づいて結論を導いているのであるから,審判手続においては,原告に,拒絶査定とは異なる引用発明に基づく拒絶の理由が通知され,意見書を提出する機会が与えられなければならなかった(特許法159条2項で準用する同法50条)。それにもかかわらず,原告にこのような機会を付与されることなく審決はなされたのであるから,審判手続には特許法159条2項で準用する同法50条に違反する手続違背がある。
2 取消事由2(進歩性判断の誤り)について
(1) 審決は,フィルター部材として用いられる除菌・抗菌作用を有するシートを拭き取り部材に利用することは周知技術であると認定し,その根拠として,特開2008-156788号公報(甲2)の段落【0043】及び【0057】を挙げた(6頁6行)。しかし,甲2の段落【0043】に記載されているのは,「キトサンをコーティングしたアルギン酸繊維」に重金属が多く吸着する結果,「フィルター」や「産業廃棄物の下に敷いて重金属補着担体や放射性物質を含む重金属吸着具」として使用可能であることであって,抗菌性を理由とするものではない。また,段落【0057】には,「本発明の抗菌性繊維製品」は「清掃用布帛」として用いられることが記載されているが,そもそも,甲2の発明の繊維の抗菌性は,キトサンの有する効果である。すなわち,段落【0009】には,「キトサンの抗菌性は,アミノ基が細菌の細胞壁の負電荷と引き合い,細菌の自由度を阻害して死に至らしめるためと考えられている。」と記載されているところ,さらに付加することのできる銀イオンの抗菌性を除いては,それ以外に甲2の繊維が抗菌性を有する理由は記載されていない。甲2は,アルギン酸繊維にキトサンを不均等にコーティングした繊維製品という特定の構成を有する製品の重金属吸着効果に着目して,フィルターの用途を示し,抗菌作用に着目して拭き取り部材としての用途を示しているのであるから,除菌・抗菌作用を有するシート一般がフィルター部材及び拭き取り部材に利用可能であることを開示しているわけではない。よって,甲2に基づいて,フィルター部材として用いられている抗菌・除菌作用を有するシートを拭き取り部材に利用することが周知技術であると認定することはできない。
そもそも,フィルター部材は,それに流体を透過させ,その中に含まれる特定の物質のみを通さないことにより遮断するものであるのに対して,拭き取り部材は,その表面を皮膚やOA製品などの表面に接触させることにより,汚れ(特定物質)をその中に取り込んで取り去るものである。両者は,特定物質を侵入させない(通さない)のか,侵入させる(取り込む)のかという点で全く異なるから,偶々除菌・抗菌作用も有する繊維製品に,フィルター部材及び拭き取り部材の用途があるとされているものがあったからといって,当業者が,フィルター部材として使用されている材料を拭き取り部材に転用するとはいえない。
また,被告が本件訴訟で周知例として挙げる乙1の段落【0047】,乙2の段落【0040】,乙3段落【0038】は,いずれも繊維等一般が利用されうる製品を列挙しているにすぎない。
したがって,フィルター部材として用いられる抗菌・除菌作用を有するシートを拭き取り部材に利用することは周知技術ではなく,審決における周知技術の認定には誤りがある。
(2) 審決は,引用発明が除菌・抗菌作用を有するシートであることの動機付けとして,周知技術とされる技術(フィルター部材として用いられる抗菌・除菌作用を有するシートを拭き取り部材に利用すること)を引用発明に適用することが当業者にとって容易であるとした。
しかし,審決においては,「平均繊維径が,1nm以上1000nm未満である繊維で構成された,最小細孔径が0.1μm以下,最大細孔径が0.1μm超1μm以下である,微細な凹凸を有している,マスクに用いるナノファイバー不織布」が引用発明と認定されているものであり,それが除菌・抗菌作用を有するなどとは認定されていない。それにもかかわらず,引用発明が除菌・抗菌作用を有するシートであることを動機付けとして,周知技術とされる技術(フィルター部材として用いられる抗菌・除菌作用を有するシートを拭き取り部材に利用すること)を引用発明に適用することが当業者にとって容易であるとしている点で審決には論理に飛躍がある。また,前記のとおり,甲2は,特殊な構成・原理に基づく抗菌・除菌性を備えたシートがフィルター部材にも拭き取り部材にも利用できることを開示しているものにすぎず,フィルター部材として用いられる抗菌・除菌作用を有するシートを拭き取り部材に利用することは周知技術とはいえない。
さらに,審決で認定されたように引用例から出発して本願発明の構成に至るには,a.引用例に記載されたマスク用の「被覆体」の中から,その一構成要素であるナノファイバー不織布のみを取り出し,b.それを,マスクではなく,清拭シートという別の用途に転用する,という二段階を経る必要があるが,これは本願発明の構成を知った上でなされた事後的な分析であって,当業者が容易に想到するようなことではない。確かに,引用発明のナノファイバー不織布は最小細孔径が0.1μm以下,最大細孔径が0.1μm超1μm以下の細孔を有してはいるが,これは,マスクに使用される上で必要な十分な通気性と水蒸気の透過性とを確保し,かつ,飛沫感染等を防ぐためにウイルス等を含む液体が透過しないような撥水性が与えられるように貫通孔の径を規定したものであって,清拭シートに使用できるような除菌・抗菌作用を与える(拭き取ることによって対象の表面の細菌やウイルスを取り除いたりその繁殖を抑制したりする)ために規定するものではない。
したがって,当業者といえども引用発明を清拭シートに採用して本願発明のような構成とすることには想到し得ない。
(3) 審決は,「引用発明のシートを清拭シートとして用いることに,格別の技術的困難性も,阻害要因もない。」(6頁7行~8行)とした。
しかし,引用例には,ナノファイバー不織布について「本発明のマスクを構成するナノファイバー不織布は,微細な凹凸を有しているため撥水性が高い。このため,本発明のマスクにおいて,ナノファイバー不織布層は,汚染物質(有機溶剤,消毒用アルコール液,血液,体液,病原菌,雑菌)を浸透させない効果を有する。」と記載されている(段落【0022】)。本願発明は清拭シートであるところ,汚染物質を浸透させないような撥水性が高いシートであるならば汚染物質をぬぐい取ることもまたできないので,このような記載がある以上,当業者であれば,引用例に記載されたナノファイバー不織布層を清拭シートとして用いようと考えるはずがない。引用発明のナノファイバー不織布を清拭シートとして用いることには阻害要因があり,審決はこの点を看過している。
(4) 以上のとおり,審決における進歩性の判断は,誤った認定に基づいて周知技術であるとした技術を,動機付けがなく,その上阻害要因があるにもかかわらず引用発明と組み合わせて本願発明の進歩性を否定するものであって,誤りがある。
第4被告の反論
1 取消事由1に対し
本件の拒絶査定の理由は,拒絶理由通知書(甲6)の理由3の記載から明らかなとおり,本願発明は,引用例に記載された発明及び周知技術に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであり,特許法29条2項の規定により特許を受けることができない,というものである。また,審決の理由も,本願発明は,引用例に記載された発明及び周知技術に基づき当業者が容易に発明をすることができたものであり,特許法29条2項の規定により特許を受けることができない,というものである。
また,本件においては,審決の理由に対して出願人が意見を述べる機会が奪われたなどといった特段の事情は存在しない。すなわち,拒絶査定の理由においても審決の理由においても,引用例の【発明を実施するための最良の形態】の欄の記載に基づいて引用発明を認定している。また,審決において認定した引用発明の末尾の記載は「ナノファイバー不織布」であり形式的には拒絶査定の理由において言及された「被覆体」とは異なるとしても,審決において認定した引用発明は「マスクに用いるナノファイバー不織布」であり,単なる「ナノファイバー不織布」のみではない。引用例の【発明を実施するための最良の形態】の欄には,ナノファイバー不織布をマイクロファイバー不織布又は繊布層に積層し,装着用部材を配設したマスクしか記載されていないのであるから,審決の理由において認定した「マスクに用いるナノファイバー不織布」は,マイクロファイバー不織布又は繊布層に積層され被覆体とされることが予定されているものであり,この構成が容易推考の出発点となる点において,審決の理由と拒絶査定の理由は相違しない。
2 取消事由2に対し
(1) 周知技術の認定について
ア 甲2につき
甲2が周知例として適切であることは,段落【0023】,【0043】,【0057】の記載からみても明らかである。
また,「除菌・抗菌作用を有するシートは,その作用効果から,フィルター部材として用いられるとともに,拭き取り部材としても利用可能である」ことが本件出願時点において極めて周知であることは,例えば,特開2008-274512号公報(乙1)の段落【0047】,特表2007-516358号公報(乙2)の段落【0040】,特開2004-100083号公報(乙3)の段落【0038】の記載からも明らかである。
イ 機能の共通
引用発明のフィルター(ナノファイバー不織布)は細菌,ウイルス,真菌等を捕集するものである(引用例の段落【0009】,【0020】及び【0021】)から,引用発明のフィルターと拭き取り部材とは,細孔に菌等を取り込む点においてその機能が共通している。
(2) 容易想到性について
ア 引用例の段落【0020】,【0021】の記載を参照すれば,引用発明における「汚染源」は細菌,ウイルス,真菌等を意味するから,引用発明が,除菌・抗菌作用を有していることは明らかである。したがって,審決において,引用発明のシート(ナノファイバー不織布)を清拭シートとして用いることに,格別の技術的困難性がないとしたことに誤りはない。
イ 審決は,引用発明に周知技術を適用することにより,相違点にかかる構成を採用することは当業者が容易になしうる事項であると判断したものである。すなわち,引用発明は「マスクに用いるナノファイバー不織布」であるから,(ア)装着用部材を有し,(イ)マイクロファイバー不織布又は繊布層に積層され,(ウ)鼻口を覆うに適した大きさ及び形状を具えるものであるが,審決は,これら構成を清拭シートに適した構成に変更することが容易であると判断したのであり,そこに,格別の技術的困難性も阻害要因もないことは明らかである。したがって,審決が事後的な分析に基づくという原告の主張には,理由がない。
ウ 引用例の段落【0021】の記載を参照すれば,引用発明のナノファイバー不織布の細孔径は,汚染源の捕集についても考慮したものと理解でき,また,引用例の段落【0020】の記載を参照すれば,汚染源とは,細菌,ウイルス,真菌等のことである。
(3) 阻害要因について
引用発明の「ナノファイバー不織布」と本願発明の「清拭シート」において,シート自体の特定構成には差異はない。そして,本願発明において菌等の汚染物質をぬぐい取ることができるのは,シート自体の特定構成に由来するものである。してみると,本願発明と同一の発明特定事項を有する引用発明の「ナノファイバー不織布」においても同様に,菌等の汚染物質をぬぐい取ることができることは明らかである。
また,引用発明のナノファイバー不織布の撥水性が高かったとしても乾式の清拭シートであれば撥水性は問題とならないから,それもって阻害要因とすることはできない。
なお,本願明細書の段落【0029】に開示された製造手順の一例による本願発明の母材はフッ素樹脂であるから,親水性のない乾式の清拭シートと考えるのが自然である。
したがって,引用発明の「マスクに用いるナノファイバー不織布」を清拭シートとして用いることに阻害要因があるとする原告の主張は理由がない。
第5当裁判所の判断
1 取消事由1(手続違背)について
本件拒絶査定の理由とされた平成21年9月29日付け拒絶理由通知書(甲6)の理由3の備考欄には,「・・・引用文献1(判決注:審決での引用例)に記載の被覆体を清拭シートに用いることは,当業者が容易に想到し得たものである。」との記載があることからすると,拒絶査定は引用発明として,「マイクロファイバー不織布又は織布とナノファイバー不織布又は織布とを含む被覆体」を認定していると解される。一方,審決は「マスクに用いるナノファイバー不織布」と引用発明と認定しており,両者は「被覆体」か,その構成部分である「ナノファイバー不織布」かという点で差異があると認められる。
しかし,審決と拒絶査定における適用条文及び引用例はいずれも同一である。また,審決が認定した引用発明は「マスクに用いるナノファイバー不織布」であるから「被覆体」となることが予定されているものである上,上記拒絶理由通知書の理由3の備考欄に「本願発明と引用文献1に記載された発明(中略)を比較すると,本願発明において,抗菌又は除菌用シートが,清拭シートであるのに対し,引用文献1に記載された発明においては,上記構成を有しない点で相違する。」,「しかしながら,抗菌又は除菌用シートの用途として清拭シートは周知であって(中略),引用文献1に記載の被覆体を清拭シートに用いることは,当業者が容易に想到し得たものである。」との記載があることに照らすと,審決が認定した引用例と本願発明との相違点及び容易想到性判断の理由は拒絶査定と同一であると認められる。そうすると,審決における拒絶理由は,拒絶査定における理由と実質的に異なるものではないというべきであり,原告の主張する取消事由1は理由がない。
2 取消事由2(進歩性判断の誤り)について
(1) 本願発明
本願明細書(甲3)によれば,本願発明は,お手拭き・OA製品用クリーナー等の清拭シートに関するものであって,従来技術である薬液含浸タイプの抗菌/除菌シートに用いられる薬剤には人体に対する刺激性の強いものも多く,皮膚の弱い人が使用するとかぶれてしまったり,ウイルスがその薬剤に対し耐性を獲得すると効果がなくなってしまうこと,食品に直接触れる形態で使用される場合,長時間使用すると,人体への影響の心配や食品の変色や風味を損ねるといった問題があったことから,皮膚の弱い人も問題なく使用でき,人体や食品への影響のない抗菌及び/又は除菌用材料が求められていたところ,本願発明者は,ナノオーダー(具体的には1000nm以下)の孔径を有する凹部(ナノポア)を表面に有する材料は,優れた抗菌及び/又は除菌効果を有することを見出し(これは,ナノポアの中には細菌やウイルス等が取り込まれやすく,また,一旦取り込まれた細菌,ウイルスは,その繁殖が抑制されるためと推測される。),ナノポーラス表面(ナノポアの存在する表面)を有する材料を抗菌及び/又は除菌用途に使用することを想到したものであることが認められる。
(2) 引用発明
引用例(甲1)によれば,引用例に記載された発明は,ナノファイバー不織布を含むマスクに関するものであって,従来のマスクや防護服の構成素材としての不織布は,ウイルスを強固に吸着して不活性化することができず,ウイルスがマスクを通過する可能性があったり,ウイルス捕集能を高めるために不織布層を厚くすると通気性が悪く長時間使用時に蒸れやすいといった問題点があったため,ウイルスや細菌等を効率的に遮断できるとともに,捕集したウイルスや細菌等を不活性化・死滅しうるマスクを提供することを目的とするものであるところ,無機多孔質物質を含むマイクロファイバー不織布又は織布層とナノファイバー不織布層とを積層してなる生地が,細菌やウイルス等の吸着・捕集能に優れるとともに,吸着した細菌やウイルス等を効率的に死滅又は不活性化でき,かつ,大気圧下で水蒸気は通過させるが,液体を透過させないため,マスク用の生地として好適であることを見出して完成させたものであり,マイクロファイバー不織布又は織布層で,空気中の細菌,ウイルス,真菌等を吸着し,これらを死滅・不活性化させる効果と,ナノファイバー不織布層で空気中からこれらウイルス等を捕集・除去する効果とを併せ持つことが認められる。そして,引用例には,上記マスクに用いられるナノファイバー不織布として,審決が認定した引用発明(平均繊維径が,1nm以上1000nm未満である繊維で構成された,最小細孔径が0.1μm以下,最大細孔径が0.1μm超1μm以下である,微細な凹凸を有している,マスクに用いるナノファイバー不織布)が開示されていることが認められる。
(3) 周知技術
ア 特開2008-156788号公報(甲2)の段落【0001】,【0023】,【0043】,【0057】には,アルギン酸繊維にキトサンをコーティングした繊維及びその繊維を主材とする繊維製品に関し,アルギン酸繊維が有する重金属吸着という特質を生かしながらキトサンの抗菌・防臭・防黴・重金属吸着効果を付加させることができる繊維(不織布)を,空気清浄機などのフィルターとして用いることができるとともに,ウェットティッシュ,雑巾等の拭き取り部材としても利用可能であることが記載されている。
イ 特開2008-274512号公報(乙1)の段落【0001】,【0012】,【0047】には,抗菌性ナノファイバー(それ自体抗菌能を有し,抗菌剤を添加しなくても抗菌性を発現し得るナノファイバー)を,マスクやフィルターとしてのみならず,払拭シート,雑巾,ワイパとしても用いることができることが記載されている。
ウ 特開2007-516358号公報(乙2)の段落【0001】,【0040】には,キトサン及びキトサン-金属錯体を利用した抗菌性ポリエステル含有物品を医療用衣服(マスク,手袋等)やダストクロス,家庭用クリーニングワイプに用いることができることが記載されている。
エ 特開2004-100083号公報(乙3)の段落【0001】,【0038】には,ハーブの薬理活性成分が有する薬理活性を享受することができる布帛をワイピングクロス(めがねふき等)やマスクに用いることができることが記載されている。
オ 上記ア~エによれば,抗菌性や薬理活性成分を有する繊維が,マスクや空気清浄機等のフィルターなどのフィルター部材,及びウェットティッシュ,払拭シート,ダストクロス,ワイピングクロス等の拭き取り部材のどちらにも利用可能であることは周知の技術であると認められ,このことは,乙1のようなナノファイバーにおいても特段異なるものではないと認めることができる。
カ なお,原告は,乙1の段落【0047】,乙2の段落【0040】,乙3段落【0038】は,いずれも繊維等一般が利用されうる製品を列挙しているにすぎないなどと主張するが,上記各記載が乙1~3に記載された技術的事項が適用可能なものを摘示していることは明らかであり,繊維等一般が利用されうる製品を列挙したにすぎないとの原告主張は採用することができない。
(4) 容易想到性の判断
引用例の段落【0020】,【0021】によれば,引用発明であるマスクに用いられるナノファイバー不織布が捕集すべき汚染源は,細菌,ウイルス,真菌,粉塵などであるから,上記ナノファイバー不織布は細菌・ウイルス等の捕集・除去性抗菌性を有すると認めることができるところ,上記のとおり,抗菌性や薬理活性成分を有する繊維が,マスクや空気清浄機等のフィルターなどのフィルター部材,及びウェットティッシュ,払拭シート,ダストクロス,ワイピングクロス等の拭き取り部材のどちらにも利用可能であることは周知の技術であると認められ,このことは,乙1のようなナノファイバーにおいても特段異なるものではないと認められるから,引用発明におけるナノファイバー不織布の捕集・除去性に着目して,当該ナノファイバー不織布を,汚染源を拭き取るための捕集・除去性が必要とされる清拭シートとして用いることに格別の技術的困難性はなく,単なる転用にすぎないというべきである。したがって,引用発明に上記周知技術を適用することにより相違点に係る構成を採用することは当業者が容易になし得る事項であるとした審決の判断に誤りはない。
なお,原告は,フィルター部材は,それに流体を透過させ,その中に含まれる特定の物質のみを通さないことにより遮断するものであるのに対し,拭き取り部材は,その表面を皮膚やOA製品などの表面に接触させることにより,汚れ(特定物質)をその中に取り込んで取り去るものであり,両者は,特定物質を侵入させない(通さない)のか,侵入させる(取り込む)のかという点で全く異なるから,除菌・抗菌作用も有する繊維製品に,フィルター部材及び拭き取り部材の用途があっても,拭き取り部材への転用は容易想到ではないと主張する。しかし,特定の物質のみを通すということは,その他の物質を通さないこと(すなわち,その他の物質を捕集すること)と意味すると考えられるから,フィルター部材と拭き取り部材の機能が全く異なるということはできず,また,上記のとおり,フィルター部材を拭き取り部材として用いることに格別の技術的困難性が認められない以上,原告の上記主張は採用することができない。
また,原告は,審決は引用発明が除菌・抗菌作用を有するとは認定していないにもかかわらず,引用発明が除菌・抗菌作用を有するシートであることを動機付けとして,周知技術を引用発明に適用することを容易とすることは論理的に飛躍があると主張する。しかし,引用発明が除菌・抗菌作用を有することは,引用発明の構成から導かれる効果であって,審決はそのように認定しているから,原告の主張はその前提を欠く。
さらに,原告は,引用例に記載されたマスク用の「被覆体」の中から,その一構成要素であるナノファイバー不織布のみを取り出して引用発明とすることは,事後的な分析に基づくものに他ならないと主張するが,引用例にはマスク用被覆体を構成するナノファイバー不織布に関する技術的事項(発明)が記載されているから,これを引用発明として認定することが誤りであるということはできず,原告の上記主張は採用できない。
原告は,引用例の細孔径は,マスクに使用される上で必要な十分な通気性と水蒸気の透過性とを確保し,かつ,飛沫感染等を防ぐためにウイルス等を含む液体が透過しないような撥水性が与えられるように数値限定されたもので,拭き取ることによって対象の表面の細菌やウイルスを取り除いたりその繁殖を抑制したりするための限定ではないと主張するが,引用例の段落【0021】の記載によれば,引用発明のナノファイバー不織布の細孔径は,汚染源の捕集についても考慮したものと理解でき,また,段落【0020】の記載によれば,汚染源とは,細菌,ウイルス,真菌等のことである。そうすると,引用発明のフィルターと拭き取り部材とは,細孔に菌等を取り込む点において機能的に共通し,その技術的意義に異なるところはないというべきである。原告の上記主張は採用することができない
加えて,原告は,引用例の段落【0022】には,引用例におけるナノファイバー不織布について撥水性が高いため汚染物質(有機溶剤,消毒用アルコール液,血液,体液,病原菌,雑菌)を浸透させない効果を有するとの記載があるところ,本願発明は,清拭シートであり,汚染物質を浸透させないような撥水性が高いシートであるならば汚染物質をぬぐい取ることができず,ナノファイバー不織布層を清拭シートとして用いることには阻害要因があると主張する。しかし,引用発明の「ナノファイバー不織布」と本願発明の「清拭シート」において,不織布ないしシート自体の構成には差異はない上,本願発明において,菌等の汚染物質をぬぐい取ることができるのはシート自体の構成に由来するものである。そうすると,本願発明と同一の構成を有する引用発明の「ナノファイバー不織布」でも同様に,菌等の汚染物質をぬぐい取ることができるというべきである。また,引用発明のナノファイバー不織布の撥水性が高かったとしても,乾式の清拭シートであれば,撥水性は問題とならないから,それもって阻害要因とすることはできない。よって,引用発明の「マスクに用いるナノファイバー不織布」を清拭シートとして用いることに阻害要因があるとする原告の上記主張は採用することができない。
第6結論
以上によれば,原告主張の取消事由はすべて理由がない。
よって原告の請求を棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 塩月秀平 裁判官 真辺朋子 裁判官 田邉実)