知財高等裁判所 平成24年(行ケ)10071号 判決 2013年2月12日
原告
マサチューセッツインスティ
テュートオブテクノロジー
訴訟代理人弁理士
笹島富二雄
奥山尚一
小川護晃
有原幸一
河村英文
中村綾子
被告
特許庁長官
指定代理人
横尾俊一
中村浩
中島庸子
田村正明
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告及び上告受理申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
第1原告の求めた判決
特許庁が不服2008-23607号事件について平成23年10月11日にした審決を取り消す。
第2事案の概要
本件は,特許出願に対する拒絶審決の取消訴訟である。争点は,実施可能要件違反の有無である。
1 特許庁における手続の経緯
原告は,平成11年7月30日,名称を「処方した人の脳シチジンレベルを上昇させる薬を調合するためのウリジンの使用方法及び同薬として使用する組成物」とする発明につき特許出願(特願2000-562028,パリ条約による優先権主張1998年7月31日,米国)をし(甲2),平成15年4月7日付け,同月8日付け,平成18年5月2日付けで手続補正(甲15)をしたが,同年11月13日付け(起案日)で拒絶理由通知(甲9)を受け,平成19年5月21日付けで手続補正(甲1)をしたが,平成20年6月10日付け(起案日)で拒絶査定(甲8)を受けたので,同年9月16日に不服の審判(不服2008-23607号)を請求するとともに,同年10月16日付けで手続補正(甲3,審判請求の理由の補充)をした。特許庁は,平成23年10月11日付けで,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は,同年10月25日,原告に送達された。
2 本願発明の要旨
平成19年5月21日付け手続補正書(甲1)の特許請求の範囲の請求項7に記載された発明(本願発明)は以下のとおりである。
【請求項7】
処方した人の脳シチジンレベルを上昇させる経口投与薬として使用する,(a)ウリジン,ウリジン塩,リン酸ウリジン又はアシル化ウリジン化合物と,(b)コリン及びコリン塩から選択される化合物と,を含む組成物。
3 審決の理由の要点
(1) 審決は,「本件出願は特許法36条4項に規定する要件を満たしていないから,同法49条4号の規定により拒絶すべきである。」と判断した(ここで,特許法36条4項とは平成14年法律第24号による改正前のものである。以下同じ。)。
(2) 上記判断の理由の要点は,以下のとおりである。
本願発明は,「処方した人の脳シチジンレベルを上昇させる経口投与薬として使用する,(a)ウリジン,ウリジン塩,リン酸ウリジン又はアシル化ウリジン化合物と,(b)コリン及びコリン塩から選択される化合物と,を含む組成物。」に係るものであるところ,発明の詳細な説明には(a)成分及び(b)成分の双方を含む組成物を経口投与した場合に,脳のシチジンレベルが上昇することを確認できる試験結果については,何ら記載されていない。
ウリジン単独で投与した結果については,例2として,アレチネズミにウリジン250mg/kg の投与量で投与後60分後における血漿中及び脳におけるウリジンとシチジンの相対的比率が示されており(図3,4),脳に輸送されたときウリジンが直ちにシチジンに変換されること,そしてこの変換は血漿中よりも脳中でより効率的であることを示唆する旨記載されている。(本願明細書(甲2),段落【0034】)
しかしながら,脳のシチジンレベルが上昇することにより,いかなる疾病が治療されるのか,シチジンレベルと治療効果との間にいかなる関係があるのかについては,何ら記載されていない。
そして,発明の詳細な説明には,「コリン単独では治療法として有用ではない。本発明に照らして,コリン又はコリン前駆物質はウリジン又はウリジンソースとの組合せにおいて考慮することが適切である。従って,ウリジンと,コリン作用性経路および/又はリン脂質代謝に影響を及ぼす様々な化合物との間の共力作用を確立することが本発明のさらなる目的である」(本願明細書,段落【0026】~【0027】)と記載されているが,「より特定すると,コリンベースの化合物がウリジン又はウリジンソースと共力的に作用する化合物として想定されている。」(本願明細書,段落【0028】)と記載されているとおり単に想定されているだけであって,どのような共力作用が確立されたのか,確認できる試験結果は記載されていない。
更に,「必要なときには,また治療の緊急性に応じて,ウリジンを共力作用的に又は付加的に作用する他の化合物と組み合わせて投与する。これは投与する薬剤の治療用量を低下させ,それによって潜在的な有害副作用と薬剤の投与頻度を低減する。そのように働く化合物は,コリン作用性代謝に関与する化学物質である。」(本願明細書,段落【0041】)と記載されているが,いかなる場合にウリジンとコリンを併用することが必要となるのか,また,併用することによってどの程度の治療効果が得られるのか,明らかにされていない。
してみれば,(a)成分のウリジン類と(b)成分のコリン又はコリン塩との共力作用を確認できる薬理試験結果が記載されていない以上,本願発明の医薬をいかなる疾患に対して用いるのか,また,それぞれの投与量をどの程度とすべきであるのかについての指針は全く示されていないというべきであって,本願明細書の発明の詳細な説明の記載は,本願発明を当業者が実施できる程度に明確かつ十分に記載したものであるとすることはできない。
したがって,発明の詳細な説明の記載は特許法36条4項に規定する要件を満たしていない。
なお,原告は,「成人の脳で血液由来のコリン濃度が不足している場合,実際に食物からより多くのコリンを摂取する必要があり,その結果脳シチジンレベルが上昇するということが示されている(Cohen et al., JAMA 247: 902, 1995)(注4)。」と主張している。
しかしながら,注4で示された文献には,若年者と比較して高齢者ではコリン含有食物摂取後の脳におけるコリン含有化合物の増加が少ないことが記載されているが,脳におけるシチジンレベルについては何ら記載されていない。仮に,脳シチジンレベルの増加にコリンが有効であることを理解できるとしても,本願発明はウリジンとコリンとの共力作用による効果が明らかにされていない以上,上記主張を採用することはできない。
第3原告主張の審決取消事由
1 取消事由1(特許法36条4項に規定する要件を満たさないとした判断の誤り)
(1) 特許法36条4項,特許法施行規則24条の2の実施可能要件について,特許・実用新案審査基準第I部第1章「3.発明の詳細な説明の記載要件」(甲16)の,同「3.2.1実施可能要件の具体的運用」の「(2)物の発明のついての「発明の実施の形態」」には,
「物の発明について実施をすることができるとは,上記のように,その物を作ることができ,かつ,その物を使用できることであるから,「発明の実施の形態」も,これらが可能となるように記載する必要がある。」
とされる。また,特許・実用新案審査基準第VII部第3章医薬発明の「1.2.1.実施可能要件」には,
「医薬発明は,一般に物の構造や名称からその物をどのように作り,又はどのように使用するかを理解することが比較的困難な技術分野に属する発明であることから,当業者がその発明を実施することができるように発明の詳細な説明を記載するためには,出願時の技術常識から,当業者が化合物等を製造又は取得することができ,かつ,その化合物等を医薬用途に使用することができる場合を除き,通常,一つ以上の代表的な実施例が必要である。そして,医薬用途を裏付ける実施例として,通常,薬理試験結果の記載が求められる」
と記載される。
(2) 審査基準の「その物を作ることができ」に関しては,本件出願の請求項7の(a)及び(b)はそれぞれ公知な化合物であるため,当業者はそれぞれを作ることができ,あるいは入手可能であるため,それぞれの製造方法を発明の詳細な説明に記載する必要はない。また,「その物を使用できる」に関しては,本願明細書の段落【0040】には,
「本文中で定義するウリジンの治療上又は薬理的に有効な用量はまた,0.1マイクロモル(μM)から1ミリモル(mM)までの範囲のシチジンの血中又は脳レベルを生じさせる用量である。一般に,本文中で定義する治療上又は薬理的に有効な用量は,治療する患者母集団の少なくとも10%において所望する効果を生じる組合せ薬剤の用量である。用量は単回投与として又は数回の分割用量として投与する。薬剤は,錠剤,カプセル又は液体形態として経口で,又は静脈内,筋肉内又は皮下注射によって非経口的に投与する。」
と記載されており,段落【0041】には,
「必要なときには,また治療の緊急性に応じて,ウリジンを共力作用的に又は付加的に作用する他の化合物と組み合わせて投与する。これは投与する薬剤の治療用量を低下させ,それによって潜在的な有害副作用と薬剤の投与頻度を低減する。」
及び
「コリン又はコリンに解離する化合物は,患者の血液又は脳において少なくとも約20~30ナノモル,通常は10~50ナノモルのコリンレベルが達成されるように投与する。」
と記載され,段落【0042】には,
「薬理的に有効な用量は,約20mgから50g/日までの範囲内,好ましくは約100mgから10g/日までである。用量は単回投与として又は数回の分割用量として,たとえば10mgから1g/カプセル又は錠剤として投与する。治療の最小期間は少なくとも1日であるが,通常は治療の緊急性に従ってより長期間が必要である。必要に応じて,通常の期間は1日から生涯までにわたる。これらの化合物が純粋な形態で入手できない場合,有効成分は少なくとも製剤の20~30重量%を占める。少なくとも1日間又は治療の緊急性に応じてより長期間臨床試験を継続する。一般に,投与する用量,投与頻度及び治療期間は患者の状態に応じて変化し,関連技術に熟達する開業医に既知の標準的な臨床手順に従って決定される。」と記載されている。したがって,発明の詳細な説明は,ウリジン類とコリンもしくはコリン塩とを含む組成物を使用できるように記載されている。
(3) 医薬用途を裏付ける実施例としては,段落【0034】は,
「アレチネズミにウリジンを経口投与し,60分後に例1で述べた修正HPLC法によりシチジンとウリジンの血漿および脳レベルを測定する。図3は,250mg/kg体重のウリジンの経口投与後の,血漿中のウリジンとシチジンレベルの相対的比率を示す。図4は,250mg/kgのウリジンの経口投与後の,脳におけるウリジンとシチジンレベルの相対的比率を示す。これらの結果は,脳におけるウリジンの代謝プロセシングが血漿中でのウリジンの全身的プロセシングとは異なることを示している。またこれらの結果は,脳に輸送されたときウリジンが直ちにシチジンに変換されること,そしてこの変換は血漿中よりも脳中でより効率的であることを示唆する。ヒトにおいても同様の実験を実施し,ただしヌクレオシドの脳レベルを測定する代わりにCSFレベルを測定する。ウリジンが特に脳において直ちにシチジンに変換されるという所見は全く予想外であり,本発明の基礎を構成する。」
と記載し,ウリジンが特に脳において直ちにシチジンに変換されるという所見は全く予想外であり,本願発明の基礎を構成すると記載されており,ウリジンが脳においてにシチジンに変換されることは実験的に証明されている。
平成19年5月21日付け拒絶理由通知書の対象となった当時の請求項9(本願発明に対応)は,
「【請求項9】処方した人の脳シチジンレベルを上昇させる薬として使用する,ウリジン,ウリジン塩,リン酸ウリジン又はアシル化ウリジン化合物を含む組成物。」と記載するが,同項が特許法36条4項に記載される要件を満たしていないとする理由3の対象となっていないことや,同理由3に関して拒絶理由通知書に
「実際に薬理作用があることを確認できるのは,ウリジンの経口投与後の脳におけるウリジン対シチジンの比率のみであって」
と記載されていることからも,ウリジンが脳においてにシチジンに変換されることが本願明細書で実験的に裏付けられていることは審査において認められている。
本願明細書には,ウリジンとコリンを併用した実験結果は記載されていない。しかし,シチジンが,シチジン三リン酸(CTP)として細胞膜を構成するリン脂質であるホスファチジルコリン(PC)及びその他の膜リン脂質合成のための律速前駆体であることが本件出願時に公知であり,コリンがPC等の膜リン脂質合成の重要な前駆体であることが本件出願時に公知であったため,ウリジンが脳においてにシチジンに変換される発見と組み合わせると,ウリジンとコリンの併用が膜リン脂質合成に有効であることは当業者に理解できた。
別紙参考図1は,Cansevらによる2005年の論文である甲21の1,2の「序(イントロダクション)」に記載されたCDP-コリン経路及びCDP-エタノールアミン経路(ケネディサイクル)をまとめたものであり,参考図1中の赤線は,ウリジンが脳においてにシチジンに変換される本件出願の新しい発見を示す。
Rossらによる1997年の論文である甲6は,「ヒト脳中のリン脂質生合成酵素」と題され,351頁の要約は,
「さまざまな神経変性状態及び精神医学状態における脳膜リン脂質代謝の関与を提示する証拠が増加している。これは,神経系膜の合成速度の上昇を目的とする薬物(例えば,CDPコリン)の使用を促進させている。」
と記載する。したがって,参考図1のCDP-コリンからホスファチジルコリン(PC)等のリン脂質への経路(3)は,1997年に公知であった。また,甲6の351頁の要約は,
「ヒト脳エタノールアミンキナーゼは,コリン(Km=17μM)に対するコリンキナーゼよりも,エタノールアミン(Km=460μM)に対してはるかに低い親和性を所有していたので」
と記載する。したがって,参考図1のコリンからホスホコリンへの経路(1)は,1997年に公知であった。また,甲6の第351頁の要約は,
「ホスホエタノールアミン・シチジリルトランスフェラーゼ(PECT)とホスホコリン・シチジリルトランスフェラーゼ(PCCT)も異なる特性を示し」,
「PECTとPCCTの両方ともCTP(Km=約1.2mM)に対して低い親和性を示し,これらの酵素の活性と,推定によりリン脂質合成速度は,CTPの細胞濃度に非常に依存する。」。
と記載する。したがって,参考図1のホスホコリン及びCTPからCDP-コリンへの経路(2)は,1997年に公知であった。このように,参考図1のコリンからホスファチジルコリン(PC)等のリン脂質への経路(1)~(3)は,本件出願時(優先日)に公知であった。
Lopez G.-Coviellaらによる1992年の論文である甲17は,
「神経PC12細胞にシチジン及びコリンの両方を14時間補給すると,小さいが有意な上昇(P<0.05)が,膜ホスファチジルコリン,ホスファチジルエタノールアミン及びホスファチジルセリンの絶対量で観察され,コリン単独で培養された細胞内の濃度に対して全て10~15%増加した」(要約)
と記載する。また,
「PC12細胞は,さまざまな濃度のシチジンの存在下,2時間培養されたとき,シチジンヌクレオチドの細胞内濃度において投与量に依存する増加を示した(Fig.2A)。細胞内CDP及びCTP濃度は,細胞が25μMシチジンで培養されたとき,それぞれ200%と287%増加した。」(340頁左欄第12~20行)と記載する。シチジンがシチジン三リン酸(CTP)としてPC(ホスファチジルコリン),PE(ホスファチジルアミンエタノール),PS(ホスファチジルセリン)のリン脂質合成の律速段階であることに関して,
「[14C]コリンがPtdChoに取り込まれる速度は,シチジン補給細胞で有意に高いこと(30%;p<0.01)が見出され,長期間にわたり維持された(Fig.3)」(340頁右欄第5~15行),
「全PtdCho濃度は,コントロール細胞又はコリンのみを補給された細胞における濃度と比較して,コリンとシチジンの両方で培養された細胞で若干だが有意に増加した(p<0.05;表2)。14時間のコリン補給は,それまで48時間コリン無しで培養された細胞のみでPtdCho濃度を有意に上昇させた。シチジン補給細胞も,培地がコリンを含有してもしなくても,PtdEtn及びPtdSerの増加した濃度を示した(P<0.05;表2)。」(341頁左欄の下から第10行から同欄最後)
と記載する。したがって,コリンとシチジンの両方による有意な上昇がコリンとシチジンの併用による共力的作用の結果と考えると,コリンとシチジンの併用が膜リン脂質合成のための共力的に作用することになる。最後に,
「これらのデータは,シチジンがPC12細胞に取り込まれ,CTPに変換されたことを示し,外因性ピリミジンは,細胞中のPtdCho,PtdEtn及びPtdSerの合成速度と総量の両方を増加させることを示す。」(341頁右欄第4~8行)
と結論付けている。
甲17の知見は,ポリオウィルス感染ヒーラ細胞におけるPC合成増加メカニズムに関した,それ以前のChoyらによる1980年の論文である甲18の研究結果に一致する。甲18は,
「この研究の第2の結論は,細胞質のCTP濃度は,ヒーラ細胞のホスファチジルコリン生合成速度を決定することができる。」(1073頁左欄下から第2行~右欄第1行)
と記載する。
Millingtonらによる1982年の論文である甲4は,「コリン投与は,脳ホスホコリン濃度を上昇させる」と題され,
「塩化コリン(20mmol/kg)の1回の経口投与は,投与の5時間後,コリンとホスホコリンの両方の全脳濃度を上昇させた。」(1748頁の要約)
と記載する。
Cohenらによる1995年の論文である甲7は,
「循環コリンの脳の摂取量は,年齢とともに減少した。神経単位構造及び機能におけるコリンの重要な役割として,この変化は,晩年に,コリン作用性の神経単位が特に損失を受けやすい神経変性疾患,特に発狂疾患を発病する寄与要因であるかもしれない。」(902頁の結論)
と記載し,Yailsらによる1998年の論文である甲5は,「食事摂取基準:カルシウム及び関連栄養素,Bビタミン類並びにコリンに対する推奨の新たな根拠」と題されており,コリン自体の摂取も有益である。
本願明細書には,ウリジンとコリンを併用した実験結果は記載されていない。しかし,甲17は,神経PC12細胞にシチジン及びコリンの両方を補給すると,小さいが有意な上昇が膜PC(ホスファチジルコリン),PE(ホスファチジルエタノールアミン),PS(ホスファチジルセリン)の絶対量で観察され,コリン単独で培養された細胞内の濃度に対して全て10~15%増加していると記載する。したがって,この上昇を共力作用の結果と考えると,シチジン及びコリンの併用は,細胞膜を構成するリン脂質であるホスファチジルコリン(PC)及びその他の膜リン脂質合成のための共力的に作用することになる。したがって,ウリジン単独の経口投与によりウリジンがシチジンに変換されてシチジン濃度が上昇する実験結果が本件特許の明細書の実施例2として示されているので,ウリジンとコリンの組合せが,膜リン脂質合成のための共力的に作用することを示す実験結果を記載する必要はない。
(4) 被告は,「脳のシチジンレベルが上昇することにより,いかなる疾病が治療されるのか,シチジンレベルと治療効果との間にいかなる関係があるのかについては,何ら記載されていない。」,「いかなる場合にウリジンとコリンを併用することが必要となるのか,また,併用することによってどの程度の治療効果が得られるのか,明らかにされていない。」と主張する。
しかし,本願明細書の「関連技術の説明」において,段落【0006】は,
「最も一般的には,ウリジンはシチジンと組み合わせて使用される(Monticone GFら,一部の神経学的疾患におけるヌクレオシド,シチジンおよびウリジンの治療用途に関して。Minerva Med.1966 Dec 19;57(101):4348~4352)。この特殊な二元的組合せの用途は,肝臓および腎臓病から数多くの神経学的および脳血管疾患にまでわたるが,そのような用途は,シチジンの並行使用を伴わないウリジンの使用を対象とする本発明には無関係である。」
と記載し,段落【0008】は,
「1995年11月28日にvon Borstelらに許諾された米国特許第5,470,838号は,外因性ウリジン又はシチジンをアシル化ウリジン又はシチジンの形態で供給送達する方法,ならびに前記の化合物が心不全,心筋梗塞および肝硬変を治療する上で有用であることを開示している。von Borstelらは,ウリジンが単独で有効であることが明らかでなかったため,両方の形態のピリミジンを使用することを提案している。シチジンとウリジンの両方を使用することが絶対的に必要とされたのは,ウリジンが,特にヒトにおいて,シチジンに変換されうるという知識と予想が先行技術において欠如していたためであった。当業者は,開示されている組成物が異なっており,治療する疾患が本発明におけるものと同じでないことを認識するであろう。」
と記載し,段落【0010】は,
「これらの特許および先行技術の参考文献のすべてが,本発明の少なくとも1つ又はまた別の1つの態様を開示しているが,それらのいずれも,特定の神経学的又は脳障害の治療に有用なものとして,ウリジンあるいウリジンソースを投与することによりヒトにおいてシチジンレベルを高めることができることを特定して教示してはいなかった。これらの障害は,記憶減退および年齢に関連する認知機能の低下のような加齢に結びついた障害を含む。これらの障害はまた,アルツハイマー病,ピック病,レーヴィ小体病,および/又はハンチントン病やAIDS痴呆のような痴呆などの病理状態に結びついた記憶減退および関連する認知機能不全も含む。他の認知機能障害,すなわち注意力,警戒心,集中力,焦点の障害,および失読症も治療することができる。ウリジン治療の他の用途として,気分や情動の障害,たとえば躁病,うつ病,ストレス,パニック,不安,不眠症,気分変調,精神病,季節性感情障害および双極性障害の治療なども想定できる。フリートライヒ運動失調のような運動失調および遅発性ジスキネジーのような運動障害などの神経学的疾患も治療することができる。発作,脳血栓,虚血,および低酸素症から生じる関連脳血管疾患,ならびに脳外傷,脊髄損傷および/又は無酸素症後に見られる行動的および神経学的症候群を治療する方法も想定できる。末梢血管系の疾患,たとえば重症筋無力症,ポリオ後症候群および筋ジストロフィーのような神経筋障害を治療する方法も可能である。ウリジンを成分の1つとする併用療法によって治療するときには,ドパミン作用性経路に関連する神経学的疾患,たとえば精神分裂病やパーキンソン病を治療する方法も想定できる。」
と記載する。
また,本願明細書の段落【0023】は,
「コリン作用性又はウリジン/シチジン代謝経路に関連する又は依存する,当該技術において既知の他の疾患を治療するための方法を提供することも本発明の目的である。」
と記載し,段落【0026】は,
「さらに,分子及び細胞生物学の領域からの多大の証拠が,ある種のリン脂質が細胞膜のシグナルトランスダクションに関する第二メッセンジャーを生じる際に極めて重要な役割を果たすことを明らかにしている。この過程は,ホルモン又は成長因子のような外部細胞刺激を細胞の輸送,代謝,成長,機能又は遺伝子発現における変化へと翻訳する反応カスケードを含む。リン脂質代謝の分断はこの過程に干渉し,癌やアルツハイマー病のようなある種の疾患状態を増強すると考えられる。しかし,コリン単独では治療法として有用ではない。本発明に照らして,コリン又はコリン前駆物質はウリジン又はウリジンソースとの組合せにおいて考慮することが適切である。」
と記載し,段落【0028】は,
「その必要のあるヒト患者にとって有益であり,脳細胞膜の形成と修復に関与するリン脂質の産生においてウリジンと共力的に作用する方法及び組成物を開示する。より特定すると,コリンベースの化合物がウリジン又はウリジンソースと共力的に作用する化合物として想定されている。」
と記載し,段落【0041】は,
「必要なときには,また治療の緊急性に応じて,ウリジンを共力作用的に又は付加的に作用する他の化合物と組み合わせて投与する。これは投与する薬剤の治療用量を低下させ,それによって潜在的な有害副作用と薬剤の投与頻度を低減する。」と記載し,段落【0051】は,
「例12では,試験に参加する患者が,コリン作用性又はウリジン/シチジン代謝経路に関連する又は依存する,当該技術において既知の他の疾患を有する患者であることを除いて,例3の臨床試験とデザインおよび原理において同様である臨床試験を実施する。」
と記載する。
したがって,発明の詳細な説明は,ウリジンとコリンの併用が脳細胞質の形成と修復に関与するリン脂質の産生に関して有用であることを記載する。
2 取消事由2(特許法36条4項の適用の誤り)
審決は,特許法36条4項に規定する要件と特許法29条2項に規定する要件を混同した特許法36条4項の適用の誤りがある。
審決は,
「仮に,脳シチジンレベルの増加にコリンが有効であることを理解できるとしても,本願発明はウリジンとコリンとの共力作用による効果が明らかにされていない以上,上記主張を採用することはできない。」
と判断した。
本願発明によれば,脳シチジンレベルの増加にコリンが有効であり,ウリジンとコリンとの共力作用による効果が得られる。しかし,仮に,ウリジンとコリンとの共力作用による効果が明らかにされていないとしても,これにより特許法36条4項に規定する要件を満たさないとするのは,特許法29条2項に規定する進歩性の判断における顕著な効果と混同したものであり,特許法36条4項の適用の誤りがある。
平成18年11月13日付けの拒絶理由通知書(甲9)の対象となった当時の請求項9~11は,平成18年5月2日付け手続補正書(甲15)で導入されたものであり,
「【請求項9】処方した人の脳シチジンレベルを上昇させる薬として使用する,ウリジン,ウリジン塩,リン酸ウリジン又はアシル化ウリジン化合物を含む組成物。
【請求項10】コリン,コリン塩,CDP-コリン,レシチン,リゾレシチン,ホスファチジルコリン,ホスファチジルエタノールアミン,スフィンゴミエリン,グリセロホスファチジルコリン及びこれらの混合物から選択される化合物をさらに含む請求項9記載の組成物。
【請求項11】前記コリン塩は,塩化コリン,酒石酸水素コリン,ステアリン酸コリン及びこれらの混合物からなる群から選択される請求項9記載の組成物。」と記載する。
当時の請求項9は,特許法29条1項3号に該当して特許を受けることができないとする理由1,及び特許法29条2項の規定により特許を受けることができないとする理由2により,引用文献1又は引用文献2に基づき拒絶されているが,拒絶理由通知書は,
「引用文献1には,処方した人の脳シチジンレベルを上昇させることが記載されていない点で,引用文献1に記載された発明と請求項1,9及び17~19に係る発明とは一応相違する。」
と記載し,引用文献1はウリジンが脳においてシチジンに変換されることを開示していないことを認めている。また,拒絶理由通知書に直接の記載はないが,引用文献1以外の引用文献2~5の内容を検討してもこのような開示はない。すなわち,本願明細書に記載されるように,投与後のウリジンレベルの上昇が,ヒトの脳におけるシチジンのレベルの上昇を導くことは,新規な発見である。
また,当時の請求項10と11は,特許法29条1項3号に該当して特許を受けることができないとする理由1,及び特許法29条2項の規定により特許を受けることができないとする理由2により拒絶されていない。すなわち,本件出願の請求項7に記載のウリジン系化合物とコリン系化合物の組合せに係る発明は,拒絶理由通知書の記載の引用文献1~5に記載された発明と同一ではなく,引用文献1~5(甲10~14)に記載された発明に基づいて容易に想到できないことは審査において認められている。
一般に,複数の公知文献の組合せからなる寄せ集め発明として進歩性を否定された場合,各文献に開示された各要素の組合せから予想される効果とは異質な効果,あるいは同質効果であるが顕著な効果であって,当該予想を超える効果であることを示すことにより進歩性を主張することが行われる。
しかし,請求項7に記載のウリジン類とコリン又はコリン塩の組合せに係る発明は,新規性及び進歩性が認められており,進歩性に関して予想できない効果として同組合せの共力作用を示す必要はない。
本願発明は,段落【0012】に記載するように「ヒトにおけるウリジンの投与が全身および脳のシチジンの上昇を導くという予想外の発見に基づく」ものであり,これに新規性も認められているが,先行技術文献との違いをより明確にするためにウリジン類とコリン又はコリン塩とを含む組成物に補正したものである。特許法36条4項に規定する要件としては,ウリジン類とコリン又はコリン塩との組合せがウリジンと同様に有効であることが示せばよく,特許法36条4項に規定する要件としてウリジン類とコリン又はコリン塩との組合せによる共力作用を求めたことは,特許法36条4項の適用の誤りがある。
3 取消事由3(当業者の技術水準を不必要に過小評価した特許法36条4項の適用の誤り)
審決は,特許法36条4項に規定する「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者」の技術水準を不必要に過小評価した特許法36条4項の適用の誤りがある。この過小評価は,特許法36条4項の適用において,本願発明の開示に必要な発明の詳細な説明の記載の程度を不当に上昇させ,出願人に求める記載要件の法的水準を不当に上昇させた。取消事由1で述べたように,化合物は公知であり,各化合物の製造方法も公知であり,各化合物を投与する方法も公知であり,所定の適応症の治療用化合物としての使用さえも公知である。したがって,当該技術分野は,充分に開発されており,当業者の技術水準や技術常識は高い。この事実は,当業者の技術水準や技術常識を誤解して過小評価した審査及び審理によって不当に無視されている。
特許法36条4項は,発明の詳細な説明を
「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に」
記載することを求め,特許・実用新案審査基準第I部第1章「3.2.実施可能要件」の(1)は,発明の詳細な説明を
「その発明の属する技術分野において研究開発(文献解析,実験,分析,製造等を含む)のための通常の技術的手段を用い,通常の創作能力を発揮できる者(当業者)が,明細書及び図面に記載した事項と出願時の技術常識とに基づき,請求項に係る発明を実施することができる程度に」
記載することを求める。
本件出願には,当業者が出願時の本件出願に記載される発明及び実験を実施するための充分な情報が含まれている。本件出願を,技術常識及び一般的な薬理学的原理と結びつけて読んで理解した当業者は,記載されている発明を得るために本件出願の教示を容易に実行できる。当業者の技術水準や技術常識を考慮すれば,ウリジン類とコリン又はコリン塩との実験的証拠は不必要である。
本件出願に係る発明及び本件出願の内容を理解し,本件出願に係る発明を実施するために,当業者がいかにしてこの知識を実行するかを説明する。2003年及び2005年の論文(甲19~21)は,本件出願後に公開されたものであるが,これら論文に記載された成果を得るために,本件出願は十分な情報及び指針を当業者に提供した。
de Bruinらによる2003年の論文(甲19)は,「ウリジンとコリンの併用投与は自然発症高血圧ラットの認知障害を改善する」と題され,長期にわたるウリジンとコリン投与の効果を調べることを目的とする。この研究では,異なる特性の3タイプのラットが使用され,ウリジン及びコリン併用投与は自然発症高血圧ラット(SHR)における選択的注意及び空間学習を改善したと結論付けた。
ウリジン及びコリン併用投与の提案された機構は,CDP-コリンに関する発見に基づき,例えば,
「CDP-コリン投与の有益な効果が,その生成物であるコリン及びシチジンによるリン脂質(細胞膜の主要構成成分)の量における増大に基づく」(甲19の1第76頁第4~8行)
と記載する。その機構的説明として,
「Teather及びWurtman(寄稿済み)は,ホスファチジルコリン(PC)等のリン脂質におけるCDP-コリンの変換を記載する。シチジンとコリンは,リン酸化されてそれぞれシチジン三リン酸(CTP)とホスホコリンとなる。その後,CTPとホスホコリンは,組み合わされて,ジアシルグリセロール(DAG)と反応してホスファチド(PC)を形成する内因的CDP-コリンを形成する。化合物ウリジン/コリンは,同じメカニズムによってリン脂質の量を高める。ウリジン-5-モノホスフェート-2Na(ウリジン一リン酸:UMP)は,最初ウリジンに分解し,それからウリジン三リン酸(UTP)に変換されてCTPを形成する。」(甲19第76頁第16~27行)
と記載する。
これらの記載に従うと,本件出願は,ウリジン及びコリンが,脳のシチジンレベルを増大させるために対象に投与されることを充分に裏付けていると結論付けられる。本件出願は,ウリジン及び/又はコリンが対象(例えば,ヒトなど)に投与されることを教示し,2003年論文によって記載されるように,ウリジン及びコリンの併用投与により,リン脂質の量が,シチジン及びコリンがリン脂質を増大させる同じ機構を介して高まる。リン脂質合成の期間中,この機構はシチジン及びコリンを出発物質として要求し,これらの物質はその後,リン酸化され,CTPに変換される。従って,ウリジン及びコリンがリン脂質合成を増大させるならば,ウリジン及びコリンは,リン脂質への前駆体であるシチジンのレベルを増大させるにちがいない。
ウリジンは,ウリジン一リン酸の形態において分解され,その後,ウリジン三リン酸に変換されて,シチジン三リン酸を形成する。Poolerらによる2005年論文(甲20)は,「ウリジンは,神経成長因子で分化したクロム親和細胞腫細胞における神経突起伸長を高める」と題され,ウリジンがシチジンのレベルを増大させることができることを裏付けている。この論文には,シチジン成長に対するウリジンの影響,及び,ウリジンが反応する機構が記載され,
「ウリジン,正常血漿成分は,ホスファチジルコリン-12細胞及び損傷のない脳においてシチジン三リン酸に変換されることができ,ホスファチジルコリン合成における増加を生じることが示されている」(要約)
と記載する。この論文は,ウリジンがシチジンを増大させ得ることに関して具体的であり,
「ウリジン処置は,シチジン三リン酸の細胞内濃度も増大させ」(要約)
と記載する。さらに,シチジンとは異なり,ウリジンは,ウリジン合成を促進させるさらなる効果を有し,
「ウリジンがホスファチジルコリン-12細胞を分化することから神経突起の産出を制御することができることを示し,二つの方法,すなわち,ホスファチジルコリン生合成に対する前駆体としてシチジン三リン酸を介する作用,及びP2Y受容体に対するアゴニストとしてウリジン三リン酸を介する作用の両方により,ウリジンはそのように制御することを提示する。」(要約)
と記載する。
2003年論文及び2005年論文(甲19~20)の両論文は,本件出願の記載を実行する。両論文は,組み合わせて理解した場合,ウリジン及びコリンがヒトにおいてシチジンのレベルを増大させることを明らかにする。両論文では,本件出願の情報が,当業者の技術常識との組合せで使用されており,本件出願が,ウリジン及びコリンはヒト対象において脳のシチジンを増大させるという技術情報を当業者に実施可能に提供したことを意味する。また,Cansevらによる2005年論文(甲21)は,「経口投与ウリジン一リン酸(UMP)は,アレチネズミの脳のCDP-コリン濃度を増加する。」と題されている。
本件出願の教示は,当業者によって理解されるならば,本件請求項に係る発明に必然的に到達する。
第4被告の反論
1 取消事由1(特許法36条4項に規定する要件を満たさないとした判断の誤り)に対して
(1) 原告は,本願発明におけるウリジン又はウリジンソースとなる化合物,及び,コリン及びコリン塩は,いずれも公知の化合物であって容易に入手できるから,ウリジン類とコリン若しくはコリン塩とを含む組成物を製造することは可能であり,段落【0040】及び【0041】に記載事項から投与方法及び投与量が記載されているから,本願明細書の発明の詳細な説明は,実施可能要件を満たしている旨主張している。
しかしながら,以下に述べるとおり,本願明細書(甲2)の発明の詳細な説明は,本願発明の組成物を「使用できる」ように記載されているということはできない。
本願明細書の段落【0040】~【0042】には次の事項が記載されている。
段落【0040】「本文中で定義するウリジンの治療上又は薬理的に有効な用量はまた,0.1マイクロモル(μM)から1ミリモル(mM)までの範囲のシチジンの血中又は脳レベルを生じさせる用量である。」
段落【0041】「コリン又はコリンに解離する化合物は,患者の血液又は脳において少なくとも約20~30ナノモル,通常は10~50ナノモルのコリンレベルが達成されるように投与する。」
段落【0042】「薬理的に有効な用量は,約20mgから50g/日までの範囲内,好ましくは約100mgから10g/日までである。」
しかしながら,上記の数値範囲の記載は,ただ漠然と極めて広範な数値範囲を示すだけであって,具体的な技術的根拠に基づいたものではない。しかも,段落【0042】に記載された用量は,ウリジンの用量なのか,コリンの用量なのか,明らかでない。
ウリジンの投与量について,段落【0034】には,アレチネズミに250mg/kgのウリジンを投与した場合,60分後の血漿及び脳におけるウリジンとシチジンの相対的比率が図3及び図4のとおりであったことが記載されているが,シチジンの血中又は脳レベル(濃度)については何ら記載されていないのであるから,段落【0034】の記載事項を勘案しても,上記数値範囲に根拠があるということはできない。
そうすると,どの程度の用量でウリジンを投与すれば,0.1マイクロモル(μM)から1ミリモル(mM)までの範囲のシチジンの血中又は脳レベルを生じさせる用量であるのか不明であるといわざるを得ない。
そして,仮に,段落【0042】の用量がウリジンの用量であるとしても,目標とするシチジンのレベルは,上限と下限とで,10000倍(1mM/0.1μM)の差があり,用量の範囲は,下限と上限とで2500倍(50g/20mg),好ましいとされる範囲でも100倍の違いがあるから,先に述べたとおり,上記の数値範囲は,ただ漠然と極めて広範な数値範囲を示すだけであって,具体的な技術的根拠に基づいたものではないといわざるを得ない。
しかも,本願明細書の段落【0001】には,
「発明の分野
本発明は,外因性ウリジンソースを投与することによってシチジンレベルを上昇させる方法,特にある種の神経学的障害を治療する際の前記ウリジン又はウリジンソースの単独での又は他の薬学的物質と組み合わせた薬理学的使用に関する。」と記載されており,この記載によれば,本願発明の課題は,単に(脳の)シチジンレベルを上昇させるにとどまらず,ある種の神経学的障害を治療する際に用いられる医薬組成物を提供することにあるといえるが,段落【0010】には,多岐にわたる疾患の名称が列挙され,それらの疾患について抽象的に「治療できる」「治療する方法が想定される」と記載されているにとどまり,人の脳におけるシチジンレベルを上昇させることと,それらの疾患の治療効果との関係については何ら記載されていない。本願明細書のその他の記載事項をみても,「(a)ウリジン,ウリジン塩,リン酸ウリジン又はアシル化ウリジン化合物と,(b)コリン及びコリン塩から選択される化合物と,を含む組成物」をどのように用いることにより,具体的にいかなる疾患を治療できるのかについては,何ら記載されていない。したがって,本願明細書の発明の詳細な説明には,脳内のシチジンレベルが上昇することによってどのような神経学的障害を治療できるのかについて,記載されていないから,いかなる疾患の治療に当該組成物を「使用できる」のか,明らかでない。
そうすると,ウリジンを単独で投与する場合でさえ,いかなる疾患の治療に当該組成物を「使用できる」のか,また,ウリジンの治療に有効な投与量が明らかにされていないことになる。
更に,段落【0041】には,「必要なときには,また治療の緊急性に応じて,リジンを共力作用的に又は付加的に作用する他の化合物と組み合わせて投与する。これは投与する薬剤の治療用量を低下させ,それによって潜在的な有害副作用と薬剤の投与頻度を低減する。」と記載されているが,本願発明のようにウリジンとコリンと組み合わせることにより,ウリジンの投与量や投与頻度がどの程度低下できるのかも明らかにされていない。
そうすると,医薬の発明である本願発明を実施しようとしても,本願明細書には,いかなる疾患に対して,どの程度の用量で投与するのか,その指針となる事項は,何ら記載されていないのであるから,当業者が本願発明を実施できる程度に記載されているということはできない。
したがって,本願明細書の発明の詳細な説明には,「その物を使用できる」ことについて,実施できる程度に明確かつ十分に記載されていないから,本願は実施可能要件を満たしていない。
(2) 原告は,「ウリジンとコリンの組合せが,リン脂質合成のための共力的に作用することを示す実験結果を記載する必要はない」と主張する。
原告の上記主張は,シチジンとコリンの共力作用について,甲17において「全PtdCho濃度は,コントロール細胞又はコリンのみを補給された細胞における濃度と比較して,コリンとシチジンの両方で培養された細胞で若干だが有意に増加した」ことを前提としている。
しかしながら,PC濃度,すなわち,ホスファチジルコリンの濃度が上昇することと,「ある種の神経学的疾患」の治療効果との関係については,甲17のみならず,原告が提出した証拠のいずれにも記載されていない。
そして,本願明細書には,例2として,ウリジンを単独でアレチネズミに投与した場合の血漿及び脳におけるウリジンとシチジンの相対的な比率が示されていること(段落【0034】)から,仮に,ウリジンが脳においてシチジンに変換されることが実証されているとしても,ウリジンの投与量とシチジンレベル(濃度)との相関関係については具体的な数値が記載されていない。
そうすると,ウリジンとコリンを併用する場合に,それぞれの投与量がどの程度であれば,脳におけるシチジンレベルが両者の共力作用が得られる程度に上昇するのか,また,治療に十分な程度にホスファチジルコリンの濃度が上昇するのかが明らかにされていないのであるから,医薬発明である本願発明を実施できる程度に,発明の詳細な説明が明確かつ十分に記載されているということはできない。
また,原告の上記主張は,次に述べるとおり,本願明細書の記載事項に基づくものではないから失当である。
本願明細書(甲2)には,「共力作用」について,次のとおり記載されている。
「従って,ウリジンと,コリン作用性経路および/又はリン脂質代謝に影響を及ぼす様々な化合物との間の共力作用を確立することが本発明のさらなる目的である。そのような化合物として,CDP-コリン,コリン,コリン塩,レシチン又はホスファチジルコリン,ホスファチジルエタノールアミン,種々の脂肪酸,たとえばリノール酸,ならびにリン脂質合成に関与する当該技術において既知の他の化合物又はそれらの混合物が挙げられる。」(段落【0027】)
「必要なときには,また治療の緊急性に応じて,ウリジンを共力作用的に又は付加的に作用する他の化合物と組み合わせて投与する。これは投与する薬剤の治療用量を低下させ,それによって潜在的な有害副作用と薬剤の投与頻度を低減する。そのように働く化合物は,コリン作用性代謝に関与する化学物質である。たとえば,ウリジンと共に投与される化合物は次のようなコリンベースの化合物である:バルビツール酸又はステアリン酸コリン等のようなコリン塩又はエステル,又はスフィンゴミエリン,シチジンジホスホコリン又はシチコリン又はCDP-コリン,アシルグリセロホスホコリン,たとえばレシチン,リゾレシチン,グリセロホスファチジルコリン,それらの混合物等のようなコリンに解離する化合物。」(段落【0041】)
上記記載事項によれば,本願発明における「共力作用」とは,ウリジンをコリンと組み合わせて投与することにより,ウリジン単独で投与する場合に比べて,処方した人の脳シチジンレベルを上昇させる作用が増大することにより,投与すべきウリジンの量又は投与頻度を低下させることができるという作用を意味するものであって,原告が主張する「膜リン脂質合成のための共力的に作用する」ことではない。
そして,本願明細書の発明の詳細な説明には,本願発明について,実施できる程度に明確かつ十分に記載されていないから,本件出願は特許法36条4項に規定する要件を満たしていない。
(3) 原告は,審決における「脳のシチジンレベルが上昇することにより,いかなる疾病が治療されるのか,シチジンレベルと治療効果との間にいかなる関係があるのかについては,何ら記載されていない。」,「いかなる場合にウリジンとコリンを併用することが必要となるのか,また,併用することによってどの程度の治療効果が得られるのか,明らかにされていない。」との記載事項に対して,本願明細書の段落【0006】【0008】【0010】【0023】【0026】【0028】【0041】【0051】の記載事項を引用し,「発明の詳細な説明は,ウリジンとコリンの併用が脳細胞質の形成と修復に関与するリン脂質の産生に関して有用であることを記載する。」と主張している。
しかしながら,以下に述べるとおり,本願明細書の発明の詳細な説明には,ウリジンとコリンの併用が脳細胞質の形成と修復に関与するリン脂質の産生に関して有用であることについては,何ら記載されていない。
本願明細書の段落【0006】【0008】には,その末尾にそれぞれ,「そのような用途は,シチジンの並行使用を伴わないウリジンの使用を対象とする本発明には無関係である。」「当業者は,開示されている組成物が異なっており,治療する疾患が本発明におけるものと同じでないことを認識するであろう。」と記載されており,段落【0006】【0008】の記載事項は従来技術を記載するにとどまり,本願発明を開示するものではない。
本願明細書の段落【0010】の前半は「特定の神経学的又は脳障害の治療に有用なものとして,ウリジンあるいはウリジンソースを投与することによりヒトにおいてシチジンレベルを高めることができることを特定して教示してはいなかった。」と記載されており,いずれも,本願発明を開示するものではない。
また,段落【0010】の後半には,列挙された多岐にわたる疾患について,「治療できる」,「想定できる。」と記載されているにとどまり,その裏付けとなる事項については,記載されていない。
また,段落【0023】には,「コリン作用性又はウリジン/シチジン代謝経路に関連する又は依存する,当該技術において既知の他の疾患を治療するための方法を提供することも本発明の目的である。」と単に本願発明の目的が記載されているにすぎない。
段落【0026】には,「本発明に照らして,コリン又はコリン前駆物質はウリジン又はウリジンソースとの組合せにおいて考慮することが適切である。」と記載されているが,どのように考慮するのかについては明らかにされていない。
段落【0028】には,「脳細胞膜の形成と修復に関与するリン脂質の産生においてウリジンと共力的に作用する方法及び組成物を開示する。より特定すると,コリンベースの化合物がウリジン又はウリジンソースと共力的に作用する化合物として想定されている。」と記載されているが,共力的な作用については,何ら開示されていない。
段落【0041】には,「必要なときには,また治療の緊急性に応じて,ウリジンを共力作用的に又は付加的に作用する他の化合物と組み合わせて投与する。これは投与する薬剤の治療用量を低下させ,それによって潜在的な有害副作用と薬剤の投与頻度を低減する。」と記載されているが,ウリジンとコリンの「共力的作用」について,その裏付けとなる実験結果は記載されていない。
そして,段落【0051】には,「例3の臨床試験とデザインおよび原理において同様である臨床試験を実施する。」と記載されているが,その結果については記載されていない。
そうすると,本願明細書は,原告が主張する「発明の詳細な説明は,ウリジンとコリンの併用が脳細胞質の形成と修復に関与するリン脂質の産生に関して有用であることを記載する」ものであるということはできない。
2 取消事由2(特許法36条4項の適用の誤り)に対して
原告は,「脳シチジンレベルの増加にコリンが有効であり,ウリジンとコリンとの共力作用による効果が得られる」と主張するが,本願明細書には脳シチジンレベルの増加にコリンが有効であることについて,何ら記載されていない上,ウリジンとコリンの共力作用による効果についても明らかにされていない。
「成人の脳で血液由来のコリン濃度が不足している場合,実際に食物からより多くのコリンを摂取する必要があり,その結果脳シチジンレベルが上昇するということ」について,注4の文献(甲3)に記載されていないことは,その訳文である甲7から明らかである。
また,補正前の請求項10,11(補正前の請求項10が補正後の請求項7に対応する)について,特許法29条1項3号及び同条2項についての拒絶理由は通知されておらず,拒絶査定及び審決でも,特許法29条1項3号及び同条2項についての判断は行っていない。
原告は更に,「特許法36条4項に規定する要件としては,ウリジン類とコリン又はコリン塩との組合せがウリジンと同様に有効であることが示せばよく,特許法36条4項に規定する要件としてウリジン類とコリン又はコリン塩との組合せによる共力作用を求めたことは,特許法36条4項の適用の誤りがある。」と主張している。
しかしながら,本願明細書には「従って,ウリジンと,コリン作用性経路および/又はリン脂質代謝に影響を及ぼす様々な化合物との間の共力作用を確立することが本発明のさらなる目的である。」(段落【0027】)と記載されているのであるから,原告が主張するように「ウリジン類とコリン又はコリン塩との組合せがウリジンと同様に有効であることが示せばよい」のではなく,「(a)ウリジン,ウリジン塩,リン酸ウリジン又はアシル化ウリジン化合物」と「(b)コリン及びコリン塩から選択される化合物」を併用することにより,脳においてどのような共力作用が確立されたのか,その結果について本願明細書に記載されてしかるべきである。
しかも,本願明細書には,ウリジン類とコリン又はコリン塩との組合せがウリジンと同様に有効であることについて,記載されていない。
3 取消事由3(当業者の技術水準を不必要に過小評価した特許法36条4項の適用の誤り)に対して
「(a)ウリジン,ウリジン塩,リン酸ウリジン又はアシル化ウリジン化合物と,(b)コリン及びコリン塩から選択される化合物と,を含む組成物」を「所定の適応症の治療用化合物としての使用」することは公知ではない。
したがって,当業者の技術水準や技術常識を誤解して過小評価した審査及び審理によって不当に無視したとの原告の主張は失当である。
また,原告が根拠とする甲19~21は,いずれも本願出願後の文献であって,しかも,その記載事項を参照しても,本件出願時(優先日)の当業者の技術水準や技術常識は明らかにされていないから,甲19~21に基づいて「当業者の技術水準や技術常識を考慮すればウリジン類とコリン及びコリン塩との実験的証拠は不必要である。」ということはできない。
第5当裁判所の判断
1 実施可能要件の判断
(1) 請求項7に係る本願発明は,(a)ウリジン,ウリジン塩,リン酸ウリジン又はアシル化ウリジン化合物,及び,(b)コリン又はコリン塩,の2成分を組み合わせた組成物が人の脳シチジンレベルを上昇させるという薬理作用を示す経口投与用医薬についての発明である。
そうすると,本願明細書の発明の詳細な説明に当業者が本願発明を実施できる程度に明確かつ十分に記載したといえるためには,薬理試験の結果等により,当該有効成分がその属性を有していることを実証するか,又は合理的に説明する必要がある。
本願明細書には,例2として,アレチネズミに前記(a)成分であるウリジンを単独で経口投与した場合に,脳におけるシチジンのレベルが上昇したことが記載されているものの,(a)成分と(b)成分を組み合わせて使用した場合に,脳のシチジンレベルが上昇したことを示す実験の結果は示されておらず,(b)成分単独で脳のシチジンレベルが上昇したことを示す実験結果も示されていない。また,(b)成分であるコリン又はコリン塩を(a)成分と併用して投与した場合,又は(b)成分単独で投与した場合に,脳のシチジンレベルを上昇させるという技術常識が本願発明の優先日前に存在したと推認できるような記載は本願明細書にはない。
そうすると,詳細な説明には,本願発明の有効成分である(a)及び(b)の2成分の組合せが脳シチジンレベルを上昇させるという属性が記載されていないので,発明の詳細な説明は,当業者が本願発明を実施できる程度に明確かつ十分に記載したということはできない。したがって,本願明細書の発明の詳細な説明の記載は,特許法36条4項に規定する要件を満たさない。この趣旨を説示する審決の判断に誤りはない。
(2) 原告は,取消事由1において,本願明細書の記載を援用するが,いずれも上記判断を左右するものではない。取消事由1における原告のその余の主張も,脳シチジンレベルを上昇させるという薬理作用に関して裏付けるものではない。
(3) 結局,取消事由1は理由がない。
2 取消事由2について
原告は,ウリジン類とコリン又はコリン塩の組合せがウリジンと同様に有効であることが示されれば,発明の詳細な発明の記載は特許法36条4項に規定する要件を満たすのであり,発明の詳細な説明に,ウリジンとコリンとの組合せによる効果が明らかにされていないとしても,これにより特許法36条4項に規定する要件を満たさないとするのは,特許法29条2項に規定する進歩性の判断における顕著な効果と混同したものと主張する。
しかし,上記1で判断したとおり,特許法36条4項に関する原告の主張には理由がなく,原告の主張は,その前提を欠くものであって,採用することはできない。
3 取消事由3について
原告は,本願発明の各有効成分は公知であり,各成分の製造方法,各成分を疾患の治療のために投与する方法も公知であるから,本願発明の技術分野は,充分に開発されており,当業者の技術水準や技術常識は高いので,ウリジン類とコリン又はコリン塩を組み合わせた実験的証拠は不必要であると主張する。
しかし,原告が高いとする当業者の技術水準や技術常識によっても,ウリジン類とコリン又はコリン塩を含む組成物が人の脳シチジンレベルを上昇させることを合理的に説明できないから,原告の主張は失当である。
原告は,ウリジンとコリンを投与することにより生体内で所定の効果が得られるという点は甲19~21に記載されており,本願明細書を技術常識及び一般的な薬理学的原理と結びつけて理解した当業者は,本願発明を本願の発明の詳細な説明の教示に従って容易に実行できるから,当業者の技術水準や技術常識を考慮すれば,ウリジン類とコリン又はコリン塩との実験的証拠は不必要であるとも主張する。
しかし,原告が提示する甲19~21は,本件出願後に公開された学術論文であり,原告が指摘する内容も,本件出願の優先日前の技術常識や技術水準についてのものということはできないから,原告の主張は,本件出願の優先日における技術常識や技術水準に基づくものではない。したがって,原告の主張は理由がない。
第6結論
以上によれば,原告の主張には理由がない。よって,原告の請求を棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 塩月秀平 裁判官 池下朗 裁判官 古谷健二郎)
file_2.jpg別紙