知財高等裁判所 平成24年(行ケ)10213号 判決 2013年5月09日
第1事件原告・第2事件被告(請求人)
株式会社シグマ
訴訟代理人弁護士
小杉丈夫
西村光治
高橋慶彦
田中健夫
弁理士
小林武
第1事件被告・第2事件原告(特許権者)
株式会社ニコン
訴訟代理人弁護士
深井俊至
山口裕司
弁理士
宮前徹
鐘ヶ江幸男
主文
1 (第1事件につき)特許庁が無効2011-800167号事件について平成24年5月9日にした審決のうち「特許第3755609号の請求項1,3に係る発明についての審判請求は,成り立たない。」との部分を取り消す。
2 (第2事件につき)第2事件原告(特許権者)の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,両事件を通じ,第1事件被告・第2事件原告(特許権者)の負担とする。
事 実 及 び 理 由
第1当事者の求めた判決
以下では,第1事件原告・第2事件被告を「請求人」と表記し,第1事件被告・第2事件原告を「特許権者」と表記する。
1 第1事件の請求の趣旨(請求人の求めた判決)
主文1項同旨
2 第2事件の請求の趣旨(特許権者の求めた判決)
特許庁が無効2011-800167号事件について平成24年5月9日にした審決のうち「特許第3755609号の請求項2に係る発明についての特許を無効とする。」との部分を取り消す。
第2事案の概要
本件は,請求人が特許庁に特許無効審判を請求したところ,特許庁がその一部を無効としその余を無効不成立とする審決をしたので,請求人が無効不成立部分の取消しを求め,特許権者が無効部分の取消しを求めて,特許権者を特許権者として審決取消訴訟を提起した事案である。争点は,サポート要件と容易想到性である。なお,特許権者の請求のうちの一部分は,下記1のなお書きにあるように,訂正審判請求に基づく本件訴訟の取消決定により,訴訟から離脱している。
1 特許庁における手続の経緯
特許権者は,発明の名称を「像シフトが可能なズームレンズ」とする特許第3755609号(出願日:平成6年9月29日,登録日:平成18年1月6日)に係る本件特許の特許権者である(甲1)。
請求人は,平成23年9月13日,特許庁に対し,本件特許の請求項1ないし6を無効にすることを求めて審判の請求をし(甲17),特許庁は上記請求を無効2011-800167号事件として審理をした上,平成24年5月9日,「特許第3755609号の請求項2,4ないし6に係る発明についての特許を無効とする。特許第3755609号の請求項1,3に係る発明についての審判請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は同年5月17日請求人及び特許権者に送達された。
なお,特許権者は,本件訴え提起後の平成24年8月23日付けで,訂正審判請求書を特許庁に提出して,本件特許の請求項4ないし6に係る発明についての特許請求の範囲の減縮を目的とする訂正審判(訂正2012-390108号)を請求し,平成24年9月10日,平成23年法律第63号附則2条24項により,なお従前の例によることとされる改正前の特許法181条2項の規定に基づき,「特許庁が無効2011-800167号事件について平成24年5月9日にした審決のうち,『特許第3755609号の請求項4ないし6に係る発明についての特許を無効とする。』との部分を取り消す。」との決定を得た。したがって,本判決での判断は,請求項1ないし3に係る発明部分に限定される。
2 本件発明の要旨
本件特許の請求項1ないし3の記載は,次のとおりである(以下,請求項1ないし3に係る発明を,それぞれの請求項の番号に対応させて「本件発明1」などという。請求項1の分説記号は裁判所が付した。)。
【請求項1】
A.ズームレンズを構成する1つのレンズ群GBの全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能なズームレンズにおいて,
B.前記レンズ群GB中に,あるいは前記レンズ群GBに隣接して開口絞りSが設けられ,
C.前記レンズ群GBと最も物体側の第1レンズ群G1との間に配置されたレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行い,
D.変倍時に,前記レンズ群GFと前記レンズ群GBとの光軸上の間隔が変化し,
E.前記開口絞りSは,変倍時に,前記レンズ群GBと一体的に移動する
F.ことを特徴とするズームレンズ。
【請求項2】
ズームレンズを構成する1つのレンズ群GBの全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能なズームレンズにおいて,
前記レンズ群GBは,正の屈折力を有し,
前記レンズ群GB中に,あるいは前記レンズ群GBに隣接して開口絞りSが設けられ,
前記レンズ群GBより物体側に配置されたレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行い,
変倍時に,前記レンズ群GFと前記レンズ群GBとの光軸上の間隔が変化し,
前記開口絞りSは,変倍時に,前記レンズ群GBと一体的に移動することを特徴とするズームレンズ。
【請求項3】
前記レンズ群GFは,前記レンズ群GBの物体側に隣接して配置されていることを特徴とする請求項1または2に記載のズームレンズ。
3 請求人が審判で主張した無効理由
請求人が審判で主張した無効理由のうち本件発明1ないし3に関するものは,以下のとおりである。
(1) 無効理由1
本件発明1ないし3は,本件明細書の発明の詳細な説明に記載されていない。よって,本件発明1ないし3に係る特許は,平成6年法律第116号による改正前の特許法36条5項1号(以下,単に「特許法36条5項1号」という)に規定する要件を満たしていない特許出願に対してされたものであるから,同法123条1項4号に該当し,無効とすべきものである。
(2) 無効理由2-1
本件発明1及び2は,甲3(特開平6-130330号公報)に記載された発明(甲3発明)であり,特許法29条1項3号に該当する。よって,本件発明1及び2に係る特許は,同項の規定に違反してなされたものであるから,同法123条1項2号に該当し,無効とすべきものである。
(3) 無効理由2-2
本件発明1ないし3は,甲3発明,及び,甲4(特開昭63-133119号公報)に記載された発明(甲4発明),並びに,甲5ないし7(特開平05-303035号公報,特開平03-228008号公報,特開平04-140704号公報)に記載された周知技術に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものである。
よって,本件発明1ないし3に係る特許は,特許法29条2項の規定に違反してなされたものであるから,同法123条1項2号に該当し,無効とすべきものである。
4 審決の理由の要点
(1) 審決は,以下のとおり判断した。
ア 本件発明1について,
本件発明1は,発明の詳細な説明に記載したものではないとはいえないから,無効理由1は,理由がない。
本件発明1は,甲3発明と同一ではなく,かつ,甲3発明,甲4発明,及び,周知技術に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものとはいえないから,特許法29条1項3号及び2項のいずれによっても拒絶すべきものではなく,無効理由2は,理由がない。
イ 本件発明2について
本件発明2は,甲3発明と実質的に同一,すなわち,甲3に記載された発明であるから,特許法29条1項3号に該当するか,もしくは,甲3発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものである。よって,本件発明2の特許は,特許法29条1項3号もしくは2項の規定に違反してなされたものであるから,特許法123条1項2号に該当し,無効理由1について検討するまでもなく,無効とすべきものである。
ウ 本件発明3について
本件発明3に対する無効理由1については,本件発明1についてと同様の理由により,理由がない。
本件発明1を引用する本件発明3については,本件発明1をさらに減縮したものである以上,本件発明1についての無効理由2に理由がないのと同様の理由により,無効理由2について理由がない。
本件発明2を引用する本件発明3は,甲3発明,甲4発明,及び,甲5乃至第7に記載の周知技術に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものであるとはいえず,甲3発明と同一でないことも明らかであるから,無効理由2について理由がない。
(2) 審決が無効理由2についての判断の前提として認定した甲3発明,甲4発明,本件発明1と甲3発明との一致点及び相違点,本件発明2と甲3発明との一致点及び相違点,並びに,本件発明2を引用する本件発明3と甲3発明との相違点は,以下のとおりである。
ア 甲3発明
「 物体側より順に,物体側に凸面を向けた負メニスカスレンズと両凸正レンズとの貼合わせレンズと,両凸正レンズとからなる正の第1レンズ群G1と,物体側に凸面を向けた負メニスカスレンズと物体側に凸面を向けた正メニスカスレンズとの貼合わせレンズとからなる負の第2レンズ群G2と,両凹負レンズと両凸正レンズとの貼合わせレンズからなる負の第3レンズ群G3と,絞りSと,両凸正レンズと物体側に凹面を向けた負メニスカスレンズとの貼合わせレンズと,両凸正レンズと物体側に凹面を向けた負メニスカスレンズとの貼合わせレンズとからなる正の第4レンズ群G4と,両凸正レンズと両凹面レンズとの貼合わせレンズからなる負の第5レンズ群G5とから構成し,
変倍時に,第1レンズ群G1と第2レンズ群G2との間隔が増大し,第2レンズ群G2と第3レンズ群G3との間隔が非線形に変化し,第4レンズ群G4と第5レンズ群G5との間隔が減少するようにレンズ群が移動するとともに,第1レンズ群G1と第4レンズ群G4との光軸上の間隔が変化し,
第4レンズ群G4を光軸とほぼ直交する方向に移動させて防振を行い,
前記第4レンズ群G4に絞りがおかれ,
前記第4レンズ群G4及び前記絞りは,変倍時に移動し,
前記第1レンズ群G1の望遠端における無限遠物体に対する結像倍率が実質的に0である,
写真用ズームレンズ。」
の発明
イ 甲4発明
「 複数のレンズ群を有し,そのうち物体側の第1レンズ群より後方にある少なくとも1つのレンズ群Fを光軸方向に移動させることによりフォーカスを行うと共に該レンズ群Fよりも像面側に配置したレンズ群Cを偏芯させることにより撮像画像のブレを補正するようにしたことを特徴とする防振機能を有した撮影レンズ。」
の発明
ウ 本件発明1と甲3発明との一致点
「 ズームレンズを構成する1つのレンズ群GBの全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能なズームレンズにおいて,
前記レンズ群GB中に,あるいは前記レンズ群GBに隣接して開口絞りSが設けられ,
前記開口絞りSは,変倍時に,移動するズームレンズ。」
である点
エ 本件発明1と甲3発明との相違点
(相違点1)
本件発明1では,「前記レンズ群GBと最も物体側の第1レンズ群G1との間に配置されたレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行」うものであり,かつ,「変倍時に,前記レンズ群GFと前記レンズ群GBとの光軸上の間隔が変化」するのに対し,甲3発明では,いずれのレンズ群を移動させて近距離物体への合焦を行うものであるのか特定されておらず,それに関連して,変倍時のレンズ群GFとレンズ群GBとの光軸上の間隔が変化するのか不明な点。
(相違点2)
「開口絞りS」が,本件発明1では,「変倍時に,前記レンズ群GBと一体的に移動する」のに対し,甲3発明では,「変倍時に,移動する」ものではあるが,「第4レンズ群G4」(本件発明1の「レンズ群GB」に相当)と一体的に移動するものであるのかが不明な点
オ 本件発明2と甲3発明との一致点
「 ズームレンズを構成する1つのレンズ群GBの全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能なズームレンズにおいて,
前記レンズ群GBは,正の屈折力を有し,
前記レンズ群GB中に,あるいは前記レンズ群GBに隣接して開口絞りSが設けられ,
前記開口絞りSは,変倍時に,移動することを特徴とするズームレンズ。」
である点
カ 本件発明2と甲3発明との相違点
(相違点3)
本件発明2では,「前記レンズ群GBより物体側に配置されたレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行」うものであり,かつ,「変倍時に,前記レンズ群GFと前記レンズ群GBとの光軸上の間隔が変化」するのに対し,甲3発明では,いずれのレンズ群を移動させて近距離物体への合焦を行うものであるのか特定されておらず,それに関連して,変倍時のレンズ群GFとレンズ群GBとの光軸上の間隔が変化するのか不明な点。 (相違点4)
「開口絞りS」が,本件発明2では,「変倍時に,前記レンズ群GBと一体的に移動する」のに対し,甲3発明では,「変倍時に,移動する」ものではあるが,「第4レンズ群G4」(本件発明1の「レンズ群GB」に相当)と一体的に移動するものであるのかが不明な点。
キ 本件発明2を引用する本件発明3と甲3発明との,相違点3及び4に加えての相違点
(相違点5)
本件発明2を引用する本件発明3では,「前記レンズ群GFは,前記レンズ群GBの物体側に隣接して配置されている」のに対し,甲3発明では,いずれのレンズ群を移動させて近距離物体への合焦を行うものであるのか特定されていない点。
第3請求人主張の審決取消事由
1 取消事由1(「レンズ構成の特定について」の記載不備の認定の誤り)
(1) 審決は,「本件明細書の段落【0011】及び【0012】の記載内容から,本件明細書の発明の詳細な説明には,フォーカシングレンズ群が防振時の補正レンズ群よりも像側に配置されている構成では,撮影距離が変化すると補正レンズ群の所要移動量が変化してしまい像シフトを制御することが難しくなり,また,第1レンズ群をフォーカシングレンズ群とすると径が大きいという不都合がある,という課題が記載されていると認められる。同じく段落【0029】及び【0030】等の記載内容から,当該課題を解決するために,(その全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトする)レンズ群GBより物体側に配置されるレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離合焦を行うことにより,レンズ群GBより像側に配置されるレンズ群の使用倍率が撮像距離の変化によらず一定となるので,像を所定量だけシフトさせるためのレンズ群GBの所要移動量が撮影距離の変化によらず一定となり,その結果,像シフトの制御を容易に行うことができ,かつ,最も物体寄りに配置される第1レンズ群G1よりも像側に配置されたレンズ群GFによりフォーカシングを行うことにより,フォーカシングレンズ群のレンズ径を小さくすることができることについての技術思想が記載されていると認められる。してみれば,上記課題を解決するためには,上記レンズ群G1,GF,及び,GBの配置関係が特定されれば足り,特定のズームレンズ形式やカメラ形式に限定されるものではなく,本件発明1の範囲内において,任意のズームレンズ形式やカメラ形式においても,上記技術思想が成立することは,当業者であれば理解できるものと認められる。」(31頁8~30行)と認定・判断するが,レンズの技術分野に固有の技術的特徴を何ら考慮しないものであって,誤りである。
(2) レンズ設計の技術分野においては,特許文献に基づいて新たなレンズの設計をしようとする場合,通常行われる手順は,当該特許文献に記載された数値実施例の諸元の値のデータを出発点とし,所望の光学性能が得られるよう改変していくものである。
本件特許の発明の詳細な説明には,レンズシャッタ式カメラ(コンパクトカメラ)用の5群のズームレンズの実施例しか記載されていないのであるから,本件特許の発明の詳細な説明に記載された実施例に基づいて,例えば,設計思想が異なる一眼レフカメラ用のズームレンズや,変倍機能を奏するためのレンズ群の構成が異なる4群のズームレンズを設計することはできない。
(3) レンズ設計の技術分野においては,レンズの数値データの開示を伴わない単なる技術思想の開示のみでは,発明が開示されているとは認められない。
レンズの結像性能については,レンズを設計しなければ確認できるものではなく,本件明細書に記載された数値実施例のみでは,一眼レフカメラ用のズームレンズや4群のズームレンズは設計できないから,本件明細書を見た当業者は,一眼レフカメラ用のズームレンズや4群のズームレンズにおいても,本件発明が適用でき,良好な結像性能が得られるとは理解できない。
(4) 本件特許の明細書に記載された課題を解決するための手段として,レンズ群G1,レンズ群GF及びレンズ群GBの配置関係が特定されれば,特定のズームレンズ形式やカメラ形式に限定されるものではないとしても,発明として実現されたものは,実施例に記載された5群構成からなるレンズシャッタ式カメラ(コンパクトカメラ)用のズームレンズしかないのであり,それ以外のズームレンズ形式や,カメラ形式に適用可能なズームレンズが実現できることは担保されていないのであるから,そのようなズームレンズをも含む本件発明1は,発明の詳細な説明には記載がされていない。
(5) 以上のとおり,審決は,単に一般的な技術的事項を単に組み合わせた技術思想を考慮したのみで,レンズ設計の技術分野において発明を開示する際の数値実施例の諸元の値のデータの重要性を何ら考慮せず,「本件明細書の発明の詳細な説明の内容を,本件発明1の範囲まで一般化ないし拡張できるとはいえないという請求人の主張は採用できない。」と認定したものであるから,この認定は誤りである。また,この認定を根拠とする本件発明3の無効理由1についての審決の認定も誤りである。
これらの認定の誤りが審決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,審決は取り消されるべきである。
2 取消事由2(「補正レンズ群の一部を移動させる構成について」の記載不備の認定の誤り)
(1) 審決は,「本件特許の特許請求の範囲の請求項1の記載によれば,本件発明1の『レンズ群GB』とは,『ズームレンズを構成する1つのレンズ群』であって,『(その)全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトする』ものである。してみれば,本件明細書に記載されている実施例1のズームレンズにおける第4レンズ群G4が本件発明1の『レンズ群GB』に対応するものであることは明らかである。そして,当該実施例1のズームレンズでは,開口絞りSが第4レンズ群G4に隣接して,すなわち,他の光学素子を介さず配置されているから,この点において当該実施例1が本件発明1の実施例ではないとする理由はない。」(33頁2~12行)とするが,本件特許の明細書において,実施例1は開口絞りSがレンズ群G4に隣接するとはされていないのであるから,審決の認定は誤りである。
(2) また,審決は,「請求人が主張する技術的意義についても,光軸にほぼ垂直な方向に移動するレンズ群(以下『シフトレンズ群』という)(上記実施例1のズームレンズ群L42が相当する)に開口絞りが隣接する構成が最も好ましい形態であることは認められるが,シフトレンズ群が含まれるレンズ群(上記実施例1のズームレンズでは第4レンズ群G4が相当する)に隣接する形態においても,開口絞りSは比較的シフトレンズ群に近い位置に配置されることになるから,(例えば,開口絞りSを第2レンズ群G2と第3レンズ群G3との間に配置した場合等と比べて)所定の作用効果は認められる。そうしてみると,本件発明1は,開口絞りSとシフトレンズ群とが比較的近い位置になるように,開口絞りSを(シフトレンズ群を含むレンズ群であるところの)レンズ群GBに隣接して配置することを特定したものであるといえる。」(33頁13~24行)とするが,本件特許の発明の詳細な説明には,実施例1の開口絞りSのレンズ群GBに対する配置についての効果は記載されていないのであるから,審決の認定は誤りである。
(3) また,上記認定を根拠とする本件発明3の無効理由1についての認定(4これらの認定の誤りが,審決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,
3 取消事由3(進歩性の判断の誤り)
(1) 審決は,「当業者は,甲3発明において,そのような実用的でないズームレンズを得るために当該構成とすることは通常行わないものであり,」(38頁19~20行)と認定する。この認定の根拠が,「甲3に記載されている実施例の諸元の値のズームレンズにおいて,第2レンズ群G2もしくは第3レンズ群G3を光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行った場合には実用的な撮像距離を確保できない(その機能を損ねてしまう)点を考慮すれば」というのであるから,甲3に記載されている実施例の諸元の値のデータそのままのズームレンズにおいて,第2レンズ群G2もしくは第3レンズ群G3をフォーカシングレンズ群としたものを指すと解される。
しかし,レンズの設計をしようとする場合には,特許文献の記載に基づいて,所望の光学性能が得られるように改変していくものであるから,当業者は,第2レンズ群G2もしくは第3レンズ群G3を光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行った場合に実用的な撮像距離を確保できないのであれば,第2レンズ群G2もしくは第3レンズ群G3を光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行えるよう設計変更を行おうとする。審決は,そのような設計変更によって実用的な撮像距離を確保できるか否かについて判断をしていない。審決が認定した事実のみでは,甲3発明を本件発明1の構成とすることを妨げる要因があるとはいえない。
(2) 特許文献等の記載に基づいてズームレンズの設計を行う際には,出発点となる数値実施例の諸元の値のデータを一切変更しないものではない。求める仕様に対して,数値実施例の諸元の値のデータが不適当であれば,近軸計算を行ってその仕様に合うように諸元の値のデータを変更することもある。
甲3に記載された実施例1及び実施例2については,例えばレンズ群G2をフォーカシングレンズ群とすると,広角端状態において,近距離物体への合焦に際し実用的な撮影距離への合焦を行うことはできないが,その原因は,広角端状態においてレンズ群G2とレンズ群G3との間隔が狭く,レンズ群G2の移動スペースを物理的に確保できないということにある。しかし,この場合,レンズ群G2の移動スペースを確保すべく数値実施例の諸元の値のデータを僅かに変更すれば,レンズ群G2による実用的な撮影距離への合焦が可能となる。
レンズ設計者であれば,甲3の実施例1の数値データそのものにおいて,第2レンズ群G2をフォーカシングレンズ群とすると,広角端において第2レンズ群G2と第3レンズ群G3との間隔が狭く,第2レンズ群G2の移動スペースを物理的に確保できないため,近距離物体への実用的な合焦ができないことを当然に認識できるのであるから,レンズ設計者は,第2レンズ群G2の移動スペースを確保するように第2レンズ群G2と第3レンズ群G3との間隔を広げれば,第2レンズ群G2によるフォーカシングが可能となることについて,当然に気が付く。
設計変更を行うことで,レンズの光学性能が悪化することがある場合もあるが,通常の光学設計では,設計したレンズの光学性能が十分でない場合,曲率半径(r),面間隔(d),屈折率(n)及びアッベ数(ν)等を適宜変更し,試行錯誤によってレンズの光学性能を向上させる最適化処理を行うことが常識である(甲23,24)。
このような処理を行えば,甲3に開示された実施例の数値データに基づいて,実用的な光学性能のズームレンズを得ることができる(甲25)。
ズームレンズにおいては,光学的な原理から,一部のレンズ群をフォーカシングレンズ群とすることができない場合がある。しかし,甲3に記載された各実施例におけるレンズ群G2及びレンズ群G3は,いずれも単に移動のためのスペースを十分に確保できないことのみにより,広角端状態において,近距離物体への合焦に際し実用的な撮影距離へ合焦ができないというものであって,光学的な原理からレンズ群G2又はレンズ群G3をフォーカシングレンズ群とすることはできないというものではない。甲3に記載された各実施例におけるレンズ群G2及びレンズ群G3の移動のためのスペースを十分に確保すれば,これらのレンズ群をフォーカシングレンズ群とすることができる。
そうすると,甲3に記載された実施例において,広角端状態でのレンズ群同士の物理的な干渉により,実用的な撮影距離への合焦ができないからといって,当業者は,甲3に記載された発明においてインナー・フォーカス方式を採用することを断念することにはならない。
甲5においては,インナー・フォーカス方式を採用した理由として,「特に広角端であっても全系の焦点距離が非常に長い望遠ズームレンズは,第1レンズ群の焦点距離が長くなる傾向にあり,合焦のための移動量が大きくなるので,大型で複雑な構造であった。そして望遠域を含むズームレンズにおいては,変倍時に重心位置が大きく変動するものは使いにくい。」という前群繰り出し方式の欠点を挙げ,甲6においては,「一般にインナーフォーカス式のズームレンズは第1群を移動させてフォーカスを行うズームレンズに比べて第1群の有効径が小さくなり,レンズ径全体の小型化が容易となり,又近接撮影,特に極近接撮影が容易となり,更に比較的小型軽量のレンズ群を移動させて行っているのでレンズ群の駆動力が小さくてすみ 迅速な焦点合わせが出来,自動焦点検出用のカメラにおいてはフォーカス駆動が容易となる等の特長を有している。」(2頁左下欄13行~右下欄1行)というインナー・フォーカス方式の利点を挙げ,甲11においては,「一般にズームレンズの全レンズ群中で最も物体側のレンズ群は,最も大きな径を必要とするために,重量が最も重くなりやすい。従って,最も物体側のレンズ群を合焦群とした場合,重量バランスの問題や,撓みによる性能の悪化,さらにオートフォーカスとして使用する場合,合焦速度が遅くなると同時に,合焦モーターへの負荷も大きくなる。」(2頁左欄28~34行)という前群繰り出し方式の欠点を挙げている。
ズームレンズにおいて,インナー・フォーカス方式を採用する動機付けは様々であるが,特に,本件特許出願時において,オートフォーカスに対するニーズは高かったのであるから,甲3発明にインナー・フォーカス方式を採用する強い動機付けがあった。
甲3発明にインナー・フォーカス方式を採用する積極的な動機付けがあるのであるから,設計変更の余地を無視して,出発点とした数値実施例の諸元の値のデータを一切変更しない場合には実用的な撮影距離を確保できないという理由のみにより,阻害要因があると結論付けることはできない。
審決の阻害要因の判断は,甲3に記載された数値実施例の諸元の値のデータそのものにおけるフォーカシングレンズ群の適用可能性を判断した,すなわち,無効理由2-1の判断をしただけのものにすぎない。
(3) 審決は,甲3に記載されたズームレンズに基づいて新たなズームレンズを設計しようとする場合,広角端を縮小してまで,第2レンズ群G2を合焦レンズ群とすることは通常考えられない,と認定する。
しかし,特許明細書に記載されている数値実施例の諸元の値のデータのズームレンズの変倍範囲は,その範囲内において,光学性能が担保されていることを意味しているのであって,実際にズームレンズを設計する際には,そのすべての範囲を使用しなければならないというものではない。また,レンズ設計において,数値実施例の諸元の値のデータから,変倍範囲をシフト,縮小,あるいは拡大させ,初期データを作成することは当業者の設計業務において日常茶飯事である。
甲3に記載された従来技術(段落【0002】参照)のうち,数値実施例の諸元の値のデータが明らかなものについての変倍比は,いずれも68/36=1.89倍である。甲3に記載された数値実施例の諸元の値のデータを出発点として,広角端を縮小し,f=102mm~292mmの範囲で使用したズームレンズとしても,変倍比は2.86倍を確保できるのであるから,甲3が挙げる従来技術よりも変倍比を大きくするという目的は十分に満たされている。
また,甲3は,好ましい条件として,条件式(1)~(5)を挙げている。これらの条件式のうち,広角端の焦点距離fwが関係する条件式は,(1)及び(2)である。
そして,甲3に記載された数値実施例1の諸元の値のデータを出発点とし,単に広角端の焦点距離(fw)を縮小して,広角端の焦点距離102mmから望遠端の焦点距離292mmを変倍範囲とするズームレンズとしたとしても,条件式(1)のf1/(fw・fT)1/2の値は,0.7955となり,条件式(2)のDw3-4/fwの値は,0.3968となるから,広角端の焦点距離を102mmに縮小しても,甲3に記載された発明の求めるズームレンズの要件を十分に満たしている。
特に,甲3における上記条件式(2)については,「下限を超えると,変倍をするために必要な空間の確保が難しくなり,高倍率化に向かない」と記載されており,数値実施例1の広角端を縮小した場合であっても,甲3に記載された発明の高変倍化の目的は担保されている。
したがって,甲3に記載された数値実施例について広角端を縮小すると,甲3に記載された発明の高変倍化の目的が犠牲となる,という審決の認定は誤りである。甲3に記載された数値実施例の諸元の値のデータを出発点として,甲3に記載された発明の目的の範囲内で,インナー・フォーカス方式を採用することができることは明らかであるから,甲3に記載された発明にインナー・フォーカス方式を採用することについて阻害要因があるということはない。
本件発明1の如く,特許請求の範囲には,レンズの数値データの開示を伴わない単なる技術思想のみが記載された発明に対して,先行技術文献に記載された数値実施例の諸元の値のデータそのものに基づく検討の結果によって阻害要因の有無を判断する手法は特許請求の範囲の記載に基づかないものといわざるを得ない。
(4) 以上のとおり,甲3に記載された数値実施例に基づき,甲3に記載された発明を本件発明1の構成とすることを妨げる要因があるとする審決の認定は誤りである。また,この認定を根拠とする本件発明3の無効理由2についての認定(43頁15~17行)も誤りである。
これらの認定の誤りが審決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,審決は違法であり,取り消されるべきである。
第4請求人主張の審決取消事由に対する特許権者の反論
1 取消事由1(「レンズ構成の特定について」の記載不備の認定の誤り)に対し
(1) 本件発明1の構成の意味と作用効果
本件発明1の,「ズームレンズを構成する1つのレンズ群GBの全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能なズームレンズにおいて」との構成Aにおいて,「光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能」との部分は,像をシフトする際に光軸垂直方向に移動するレンズ群であるシフトレンズ群の存在を述べるに過ぎない。構成Aは,単に,ズームレンズであって,レンズ群GBの全体あるいは一部がシフトレンズ群となっているもの,と規定しているに過ぎない。ズームレンズを構成する1つのレンズ群GBの全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能なズームレンズ自体は新規なものではない。
そして,構成Bから構成Eまでに記載された第1レンズ群G1,レンズ群GF,開口絞りS,レンズ群GBの「光軸上」の位置関係と変倍時の移動こそが,従来技術にみられない本件発明1の構成であり,この構成から奏されるのが本件発明1の作用効果である。
本件発明1は,第1の目的,すなわち,「フォーカシングレンズ群のレンズ径が小さく」という目的を,「前記レンズ群GBと最も物体側の第1レンズ群G1との間に配置されたレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行い,」という構成Cの構成によって達成している。本件明細書【0030】段落においては,「レンズ径において最も物体寄りに配置される第1レンズ群G1よりも像側に配置されたレンズ群GFによりフォーカシングを行う。こうして,フォーカシングレンズ群のレンズ径を小さくすることができる。」と説明されている。
また,本件発明1は,第2の目的,すなわち,「像シフトの制御が容易で,像シフト時にも良好な結像性能を有する」という目的を,構成Bから構成Eまでに記載された第1レンズ群G1,レンズ群GF,開口絞りS,レンズ群GBの「光軸上」の位置関係と変倍時の移動の構成により達成している。
(2) 一眼レフカメラ用のズームレンズや4群のズームレンズへの適用
第1の目的及び第2の目的を達成するためには,光軸上において,第1レンズ群G1,レンズ群GF及び隣接して開口絞りSが設けられたレンズ群GBの配置関係が特定されれば足り,特定のズームレンズ形式やカメラ形式に限定されるものではなく,本件発明1の範囲内において,一眼レフカメラ用のズームレンズや4群のズームレンズも含め,任意のズームレンズ形式やカメラ形式においても,上記技術思想が成立することは,当業者であれば理解できる。
(3) レンズの設計の手順について
以上から,本件明細書(甲1)に,諸元の値を記載した一眼レフ用ズームレンズの実施例や諸元の値を記載した4群のズームレンズの実施例の記載は必要ない。
本件特許の構成及び本件明細書を見た当業者は,諸元の値を記載した一眼レフ用ズームレンズの公知文献や諸元の値を記載した4群のズームレンズの公知文献及びその他のレンズ設計の公知技術を基に,それらのズームレンズに本件発明1を適用することができるのである。よって,請求人の主張するレンズの設計の手順は,本件発明1をこれらのズームレンズに適用できないという理由とならない。
(4) 小括
したがって,「本件明細書の発明の詳細な説明の内容を,本件発明1の範囲まで一般化ないし拡張できるとはいえないという請求人の主張は採用できない。」との審決の結論(31頁下から3行~最終行)に誤りはない。
2 取消事由2(「補正レンズ群の一部を移動させる構成について」の記載不備)に対し
(1) 「レンズ群G1」,「レンズ群GF」,「レンズ群GB」及び「シフトレンズ群」
請求人は,「レンズ群GB」,「シフトレンズ群」及び「シフトレンズ群GB」の用語を説明しているが説明が不正確である。これらの用語の意味は以下のとおりである。
・「レンズ群G1」,「レンズ群GF」,「レンズ群GB」
請求項1には,「レンズ群」として,「レンズ群G1」,「レンズ群GF」,「レンズ群GB」という3つのレンズ群の記載がある。なお,複数枚のレンズに限らず,1枚のレンズからなる場合も,「レンズ群」と呼ぶ。
「レンズ群G1」は,最も物体側のレンズ群である(構成C参照)。
「レンズ群GB」は,全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能となっているレンズ群である(構成A参照)。
請求人は,「レンズ群GB」を,所定量だけ像をシフトするために,光軸に垂直な方向に移動させるレンズ群,と定義しているが,不正確である。全体を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトする態様の場合は,「レンズ群GB」の全体がシフトレンズ群となるため,所定量だけ像をシフトするために,光軸に垂直な方向に移動させるレンズ群となるが,一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させる態様の場合は,レンズ群GBは,所定量だけ像をシフトするために,光軸に垂直な方向に移動させるシフトレンズ群を含むレンズ群となる。
「レンズ群GF」は,レンズ群GBとレンズ群G1との間に配置されており,光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行うレンズ群である(構成C参照)。
・「シフトレンズ群」
「シフトレンズ群」は,像をシフトする際に光軸垂直方向に移動するレンズ群である(本件明細書(甲1)【0015】段落)。
前記のとおり,本件発明1において,レンズ群GBの全体を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトする態様の場合は,レンズ群GBの全体が「シフトレンズ群」となり,レンズ群GBの一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させる態様の場合は,レンズ群GBの一部で光軸にほぼ垂直な方向に移動する部分が「シフトレンズ群」となる。
・「シフトレンズ群GB」
「シフトレンズ群GB」との用語は,レンズ群GBの全体を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトする態様の場合のレンズ群GBを指して用いられる。
(2) 開口絞りSがレンズ群GBに隣接して設けられ,変倍時にレンズ群と一体的に移動することの技術的意義
開口絞りSがレンズ群GBに隣接して設けられ,変倍時にレンズ群と一体的に移動することの技術的意義は,前述したとおり,これにより画質の劣化を減らすことができるという作用効果を達成している。
(3) 小括
本件明細書(甲1)【0031】段落には本件発明の上記作用効果は記載されており,当業者には前記のとおりの技術的意義も容易に理解できるから,「本件発明1は,・・・開口絞りSがレンズ群GBに隣接して配置されたことによる効果も一切記載されていない」という請求人の主張は失当であり,記載不備は認められないとする審決の結論に誤りはない。
3 取消事由3(進歩性の判断の誤り)に対し
(1) 阻害要因があること
請求人は,甲5及び甲11が前群繰り出し方式の欠点を,甲6がインナー・フォーカス方式の利点を挙げているとも主張するが,インナー・フォーカス方式に利点があり,前群繰り出し方式に欠点があるという説明は,インナー・フォーカス方式のレンズ設計をしようというときに,あえて,1群フォーカス方式のレンズの設計例を探し出し,それを基に1群フォーカス方式として記載されている設計例をインナー・フォーカス方式に変更するという動機付けが生じることを意味しない。近距離合焦方法には,1群フォーカス方式,インナー・フォーカス方式,リア・フォーカス方式という3通りがあるが,それに応じてレンズの設計は最初から異なってくるから,インナー・フォーカス方式のレンズを設計しようとするなら,インナー・フォーカス方式のレンズの設計例を基にレンズの設計をするのが当業者の通常の設計方法である。
(2) 甲3において第2レンズ群を合焦レンズ群とすることは実用的でないこと
請求人は,第2レンズ群G2を合焦レンズ群とし,「甲3に記載された数値実施例の諸元の値のデータを出発点として,広角端を縮小し,f=102mm~292mmの範囲で使用したズームレンズとしても,変倍比は2.86倍を確保できるのであるから,甲3が挙げる従来技術よりも変倍比を大きくするという目的は十分に満たされている」と主張し,「数値実施例1の広角端を縮小した場合であっても,甲3に記載された発明の高変倍化の目的は担保されているのである。」と主張しているが,甲3のズームレンズは高倍率化を目的としているのだから,仮に甲3が挙げる従来技術よりも変倍比を大きくできるとしても,甲3の数値実施例で示された諸元データから,敢えて甲3の目的に反する方向に広角端を縮小することは考え難い。
甲3のズームレンズにおいて,請求人の主張するように,広角端の焦点距離を102mmに縮小した場合,第2レンズ群で,撮影距離2.5mまで合焦した場合,光学性能が大幅に悪化し,実用上可能ではない。第2レンズ群を用いて合焦させようとすると,特に望遠端での球面収差,非点収差及び,コマ収差が非常に大きく,実用的ではない。
第1レンズ群で合焦すると,望遠端でも収差が悪化せず,実用的である。従って,広角端を縮小したとしても,第2レンズ群G2で合焦することは,収差を悪化させる改悪変更であり,このような改悪となる変更を当業者が敢えて行うことは考え難い。
(3) 引用発明からの容易想到性の判断手法
請求人は,「本件発明1の如く,特許請求の範囲には,レンズの数値データの開示を伴わない単なる技術思想のみが記載された発明に対して,先行技術文献に記載された数値実施例の諸元の値のデータそのものに基づく検討結果によって阻害要因の有無を判断する手法は特許請求の範囲の記載に基づかないものといわざるを得ない」と主張しているが,特許発明の内容の問題と,刊行物記載発明の認定の問題並びに刊行物記載発明を変更するについての阻害要因の有無の問題及び動機づけの問題は別の問題である。認定された刊行物記載発明を変更することを当業者が容易に想到できたといえるかの判断において,その刊行物に記載されたデータの記載からそのような変更をすることに阻害要因があるということや,当業者がその刊行物に記載されたデータの記載からそのような変更を試みないということは当然あり得る。
審決(38頁5行~14行)で述べられている判断手法は,レンズ設計の技術分野における通常の手順に基づいて阻害要因の有無を判断するものであり,なんら問題はなく,請求人独自の上記見解は失当である。また,「特許文献の記載に基づいて新たなレンズを設計しようとする場合,通常行われる手順は,当該特許文献に記載された数値実施例の諸元データを出発点とし,所望の光学性能が得られるように改変していくものである」ことは,無効審判の口頭審理において請求人自身が陳述したことである(甲19)。自ら口頭審理でなした主張に反する主張をすることは信義に反し許されない。
(4) 甲3を基にインナー・フォーカス方式のズームレンズを設計することの非容易性について
審決は,請求人が主張するような「設計変更の余地を無視して,出発点とした数値実施例の諸元の値のデータを一切変更しない」ことを前提とした議論はしていない(38頁8行~10行)。請求人は,「レンズ群G2の移動スペースを確保すべく数値実施例の諸元の値のデータを僅かに変更すれば,レンズ群G2による実用的な撮影距離への合焦が可能となる」と述べるが,そのような変更は,甲3発明の,広角側の収差補正の際に有利にするという目的及び広角端における全長を短くするという目的(甲3の段落【0006】等)に反し,また,その変更は大幅なものとなり,「僅か」とは言えず,容易でもない。
請求人が本件無効審判の審理終結後に提出した平成24年4月18日付上申書(甲25)別紙2頁(1.レンズ設計の手順の概略)には,「要求仕様→要求仕様に近いデータベースから探索」との記載があり,その横に「データベース再度探索へ」との記載がある。インナー・フォーカス方式のズームレンズを設計したいのであれば,まずもって,インナー・フォーカス仕様という要求があるのであるから,インナー・フォーカス方式のズームレンズがデータベース検索されることは当然のことであるから,1群フォーカス方式のズームレンズである甲3は,そもそも第1段階において不適として除かれる。仮に,甲3が検討されたとしても,レンズ設計者であれば,甲3の実施例1の数値データそのものにおいて,第2レンズ群G2をフォーカシングレンズ群とすると,広角端において第2レンズ群G2と第3レンズ群G3との間隔が狭く,第2レンズ群G2の移動スペースを物理的に確保できないため,近距離物体への実用的な合焦ができないことを当然に認識できるから,要求仕様からほど遠い甲3を基にこれをインナー・フォーカス方式に設計しようとすることはない。当然,他に適した例,つまり,元からインナー・フォーカス方式であるズームレンズがデータベース検索されているはずであり,それを基にするはずである。
以上のとおり,甲3を基にして,当該表の「最適化(曲率半径,間隔,屈折率,アッベ数等を変数とする)」以下の処理に進むということはないが,さらに上申書(甲25)別紙3頁以下を検討すると,大幅な設計の変更が必要であることと,そのような変更は甲3の明細書に記載された目的に全く反することになるため,当業者がそのような変更をしてまで甲3のズームレンズを基にインナー・フォーカス方式のズームレンズを設計変更することはなく,少なくとも容易とは到底言えない。
上申書(甲25)別紙3頁の2つの図を見れば明らかなとおり,「実施例1の数値データ」の図のG1とG2を通る光線と比較し,「実施例1でG2-G3間隔を拡大」の図のG1とG2を通る光線はレンズのより周辺部を通過することになる。光がレンズのより周辺部を通過するということは収差が悪化するということである。特に,甲3発明の目的は,「結像性能に優れ,・・・ズーム比が大きくても優れた結像性能を得ることができる。・・・広角端における各レンズ群を通る光線の高さも小さくなるので,各レンズ群における収差の発生が小さくなり,特に広角側の収差補正の際に有利になる。」(【0006】段落)であり,請求人主張の設計変更は,この目的に反し,甲3に記載の発明の「要求仕様」に反することになるので,あえて甲3の1群フォーカス方式のズームレンズを基に当業者が請求人主張の設計変更をすることはないと考えるべきである。
さらに,請求人が審判で提出した上申書(甲25)別紙3頁の2つの図を見れば明らかなとおり,広角端でのズームレンズの全長が「実施例1でG2-G3間隔を拡大」の図の方が「実施例1の数値データ」の図より長くなる。一般に望遠ズームレンズの使用者はズームレンズを持ち運ぶ際にコンパクトにして持ち運ぶため広角端状態で持ち運ぶ。広角端状態の全長はより短い方が好ましい。さらに,ズームレンズの全長が長くなるということは全体の重量が増加するし,手振れの影響を受けやすくなる点でも不利である。特に,甲3発明の目的は,「コンパクトで・・・全長を短縮でき,特に広角端において全長を短縮することができる。・・・広角端において全長が短く,・・・広角端における全長及びズームレンズ全体の重量を減ずることができる。」(【0006】段落)であり,請求人主張の設計変更は,この目的に反し,甲3に記載の発明の「要求仕様」に反することになるので,あえて甲3の1群フォーカス方式のズームレンズを基に当業者が請求人主張の設計変更をすることはない。
さらに,上記上申書別紙5頁によると,「元の数値データではG2は固定でしたが,可動に変更される。」と記載されている。つまり,固定であったG2を可動にする必要もあるということである。G2を可動に変更しなければならないということは,そのためのレンズ駆動機構が必要で,さらなるレンズ駆動機構の設計変更が必要になる上,レンズ装置がより複雑になるということである。
さらに,甲3【0026】段落に,「なお,充分に変倍範囲が取れ,収差的にも充分補正が出来る場合は,第2レンズ群をズーミング中固定としても良い。」という記載があり,これは収差補正が充分にできるなら第2レンズ群を固定とするが,収差補正が充分にできない場合,第2レンズ群を動かさざるを得ないということであるから,第2レンズ群G2を可動にする設計変更は大幅な変更だと言え,当業者はあえてそのような選択はしない。
そして,上記上申書別紙8頁によると,左の表の数値データの変更箇所が「緑字」によって記載されている。1~5が1群,6~8が2群,9~11が3群,12~17が4群,18~20が5群に当たる。「緑字」を確認すると,1から17まで,すなわち5群レンズを除くすべてのレンズの曲率半径(r)を変更し,7から12,15から17及び20のレンズの面間隔(d)を変更し,9,10,12,13,15,16のレンズのアッベ数(ν)及び屈折率(n)を変更しなければならないことが分かる。アッベ数(ν)及び屈折率(n)の変更はレンズの材料であるガラスの種類を変更することを意味する。アッベ数(ν)及び屈折率(n)は,選択したガラスの特性に応じた数値にしか変更することはできず,連続的にいかなる数値にも変更できるわけではない。すなわち,「変数を独立的にごくわずかずつ変化させ」ることがどんな変数でも可能なわけではない。このように大幅な変更が必要ということである。
請求人の提出した証拠によれば,「レンズ設計の目的は,収差が極小になる構成データを見つけることである。・・・構成データの数値を少しずつ変化させて,その影響を丹念に調べ上げ,・・・次の新しい構成データを積み上げることになる。・・・このような計算による試行錯誤を何十回,何百回も繰り返しながら」レンズ設計をすることが示されている(甲23)。また,「収差補正は(a)~(f)のサイクルを何回となく繰り返し,ねらった目標値に到達するまで行われる。試行錯誤的で繰り返しが多い理由は,変数の変化量と収差の変化量の比例性が,ごく狭い範囲でしか成り立たないためであり,目標値や変数が多いほど手間がかかりやすい。」ことも示されている(甲24)。
そうすると,インナー・フォーカス方式のレンズ設計をしようというときに,あえて,1群フォーカス方式として記載されている設計例を基にインナー・フォーカス方式に変更(より多くの設計変更と試行錯誤が必要になる。)することなどせずに,インナー・フォーカス方式のレンズの設計例を基にレンズの設計をするのが常識である。
当業者が甲3を基にインナー・フォーカスのレンズ設計をしようという動機が認められない上,大幅な変更と試行錯誤をしてまで甲3のズームレンズを基にインナー・フォーカス方式のズームレンズを設計変更することはないし,さらに少なくともそのような設計変更は容易と言えない。
(5) 本件発明3について
本件発明1を引用する本件発明3については,本件発明1をさらに減縮したものである以上,本件発明1について無効理由がないのと同様,無効理由はない。本件発明2を引用する本件発明3についても,前記で述べたとおり,甲3発明において,第3レンズ群G3を合焦レンズ群(フォーカシングレンズ群)とすることに阻害要因があり,少なくとも容易ではないので,審決の認定に誤りはない。
(6) 小括
よって,甲3には,第2レンズ群G2もしくは第3レンズ群G3を光軸に向って移動させて近距離物体への合焦を行う構成とすることを妨げる記載があるとの審決の認定及び甲3発明を出発点として本件発明1の構成を当業者が容易に想到することができたものとはいえないとの審決の結論に誤りはない。
第5特許権者主張の審決取消事由(相違点4についての認定判断の誤り)
1 証拠に基づかない認定判断
審決は,「第4レンズ群G4との関係について表すと,“絞りが第4レンズ群G4と一体的に移動する”形態と,“絞りが第4レンズ群G4と独立した軌跡を描くように移動する”形態のどちらかしかあり得ない」という2つの選択肢があることを示しつつも(41頁下から7行~下から5行),「甲3には,開口絞りを第4レンズ群と独立の軌跡を描くように移動させる点については,何ら記載がない」と認定している(41頁下から4行~下から3行)。これ自体は正しいが,同じく,甲3には,開口絞りを第4レンズ群と一体的に移動させる点についても,何ら記載がない。
そして,審決は,「通常,変倍に際し開口絞りを移動させる場合,特段の技術的意図がなければ,開口絞りをその近傍のレンズ群と独立した軌跡を描くように移動させる必要がないこと,及び,開口絞りをその近傍のレンズ群と独立した軌跡で移動させようとした場合,駆動機構や制御の簡略化等に不利であることは,当業者の技術常識であると認められる。」と認定しているが(41頁下から3行~42頁3行),このような証拠は提出されていない。
さらに,審決は,「甲3の段落【0008】には,開口絞り近くのレンズ群を補正光学系にすることが好都合であることについて言及されている」と認定し(42頁6行~7行),段落【0008】を根拠に,変倍に際しても,開口絞りを第4レンズ群G4と一体的に移動させている構成である蓋然性が高いと認定しているが,段落【0008】は,変倍の際についての記載はない。段落【0008】に,「第4レンズ群に開口絞りをおくことが好ましい」とは,図1の記載でG4に隣接して開口絞りSを配置した,ということ以上に意味を有せず,変倍時にどのように移動するのかは読み取れない。図1にも変倍時に開口絞りSがどのように移動するのかは記載されていない。これが相違点4のはずであるにもかかわらず,審決は証拠に基づかずに認定判断した。
結局,審決は,甲3には,開口絞りを第4レンズ群と一体的に移動させる点についても何ら記載がないにもかかわらず,証拠に基づかずに変倍時に開口絞りを第4レンズ群G4と一体的に移動させていると認定判断している。
さらに,審決は,「仮に,相違点4が一応の相違点であるとしても,上記に述べたのと同様の理由により,甲3発明において,開口絞りを第4レンズ群G4と一体的に移動させる構成とすることは,当業者であれば容易に想到できたものである」と判断しているが(42頁15行~17行),なぜ,当業者であれば容易に想到できたものであるかの理由も証拠も挙げていない。
甲3は,変倍時に開口絞りSがどのように移動するのか記載がなく,示唆もないのであるから,審決の「相違点4は実質的な相違点ではない」との認定判断,及び「仮に,相違点4が一応の相違点であるとしても,上記に述べたのと同様の理由により,甲3発明において,開口絞りを第4レンズ群G4と一体的に移動させる構成とすることは,当業者であれば容易に想到できたものである」との認定 判断は誤りである。
2 「開口絞りSは,レンズ径が比較的小さいレンズ群の近くに配置するのが好ましいという技術的意図」について
審決は,「なお,特許権者が主張する,“甲3に記載のものでは,開口絞りSは,レンズ径が比較的小さいレンズ群の近くに配置するのが好ましいという技術的意図の下で,開口絞りSを,レンズ径が比較的小さい第4レンズ群G4の近くに配置したという例を開示したに過ぎない”という主張については,その根拠とする記載が甲3には存在せず,一方で,甲3の段落【0008】の記載からも明らかなように,甲3においては,“開口絞り近くのレンズ群は比較的レンズ径が小さいので,そのようなレンズ群を補正光学系にすることが好都合である”という技術思想が記載されていることからも,特許権者の上記主張を採用することはできない。」と述べ(42頁下から20行~下から10行),「また,甲3の段落【0010】に,開口絞りを第3レンズ群におくという記載がある点についても,当該構成は,あまりズーム比が大きくない場合における単なる他のバリエーションとしての記載に過ぎず,甲3発明の開口絞りが第4レンズ群と一体的に移動する構成であることを否定する理由とはいえない。」として(42頁下から9行~下から5行),特許権者の主張を斥けている。
しかし,特許権者は,甲3の段落【0008】のほか,段落【0010】も挙げており,開口絞りを第3レンズ群におくという構成が,「あまりズーム比が大きくない場合における単なる他のバリエーション」なのではなく,甲3には,開口絞りSはレンズ径が比較的小さい(大きくない)レンズ群の近くに配置するという技術思想とその例が開示されているのである。
甲3の【図1】には,物体側から順に,第1レンズ群G1,第2レンズ群G2,第3レンズ群G3,開口絞りS,第4レンズ群G4,第5レンズ群G5とされた実施例が開示されている。そして,段落【0007】には,「一般的に,望遠ズームレンズは,第1レンズ群が最も大型のレンズ群であり,フォーカシング時に繰り出されることが多い。」と記載され,段落【0008】には,「開口絞り近くのレンズ群は,各画角の光線束が密に集まっているためレンズ径が比較的小さい。・・・第4レンズ群に開口絞りをおくことが好ましい。」と記載されている。すなわち,甲3では,開口絞りSは,レンズ径が比較的小さいレンズ群の近くに配置するのが好ましいという技術的意図の下で,第3レンズ群G3,開口絞りS,第4レンズ群G4と並ぶレンズ構成例,すなわち,開口絞りSを,レンズ径が比較的小さい第4レンズ群G4の近くに配置したという例を開示したにすぎない。以上のことは,甲3の段落【0010】の「尚,機構の複雑さを避けるために,余りズーム比が大きくない場合は,開口絞りを第3レンズ群におき,第4レンズ群の機構を簡単にしても良い。」という記載からも裏付けられる。甲3では,開口絞りSは,補正レンズ群である第4レンズ群G4の近くに配置することが必要ということではなく,第3レンズ群G3のレンズ径があまり大きくない場合は,第3レンズ群G3に配置してもよいということである。
以上のとおり,甲3には,開口絞りSはレンズ径が比較的小さい(大きくない)レンズ群の近くに配置するという技術思想とその例が開示されているにすぎない。開口絞りSをレンズ径が比較的小さい(大きくない)第4レンズ群G4の近くに配置することにし,第3レンズ群G3,開口絞りS,第4レンズ群G4との順で並んだ例が甲3に開示されているからといって,開口絞りSと補正レンズ群との距離を一定に保つという技術思想は甲3に存在しない。すなわち,変倍時に,開口絞りSを補正レンズ群と一体的に移動させるという技術思想は,甲3に記載されていない。
甲3の段落【0009】に,「開口絞りは,・・・光軸上に固定されていることが望ましい。」と記載されている。これは少なくとも光軸に直交する方向に移動させないことに関する記述と解される。このように光軸に直交する方向に移動させないことに関する記述があるにもかかわらず,変倍時の開口絞りSと第4レンズ群G4との間隔については記載がない。
甲3の段落【0021】の【表1】にも,開口絞りは記載しておらず,その面間隔が固定か可変かは示されていない。
元来,甲3の発明は,その特許請求の範囲の記載から明らかなとおり,開口絞りSの位置は,当該発明とは関係しない。よって,甲3においては,上記のとおり,せいぜい開口絞りSを比較的レンズ径が小さい(大きくない)レンズ群の近くに配置したという記載が見出されるに留まり,変倍時における開口絞りSとレンズ群との位置関係については考慮が払われておらず,その記載もない。変倍時の開口絞りの移動についての示唆も読み取ることはできない。
よって,審決が特許権者の主張を斥けたのは誤りである。
3 作用効果について
審決は,「本件発明2が奏する作用効果は,甲3発明から当業者が予測できる程度のものに過ぎない」と述べるのみであるが(42頁下から2行~末行),本件発明2と甲3発明との間に,相違点4が存在することに鑑みれば,「『開口絞りS』が,…『変倍時に,移動する』ものではあるが,『第4レンズ群G4』…と一体的に移動するものであるのかが不明」な甲3発明において,本件発明2が奏する作用効果が当業者に予測できるとは言えないはずであり,審決には誤りがある。
4 結語
以上から,審決は,本件発明2の判断に誤りがあるから,本件発明2を無効とした部分について,取り消されるべきである。
第6特許権者主張の審決取消事由に対する請求人の反論
1 「証拠に基づかない認定判断」に対し
(1) 請求人と特許権者の争いは,開口絞りと第4レンズ群が一体的に移動するか否かにある。甲3に,開口絞りと第4レンズ群とが独立の軌跡を描くように移動するとの記載があれば,それだけで特許権者の主張は認められるところ,審決は,特許権者の主張を認めないという結論を出したのであるから,その前提として,甲3には特許権者の主張を直接認めるような記載がないとの認定を行うことは,通常の認定手法である。「当業者の技術常識」とは,当業者であれば何人も知っている知識であるから,特段,証拠を提示する必要もない。
審決は,①通常,変倍に際し開口絞りを移動させる場合,特段の技術的意図がなければ,開口絞りをその近傍のレンズ群と独立した軌跡を描くように移動させる必要がないこと,②開口絞りをその近傍のレンズ群と独立した軌跡で移動させようとした場合,駆動機構や制御の簡略化等に不利であること,の2つの技術常識を挙げており,それぞれの技術常識を認識していれば,「甲3発明においては,絞りが第4レンズ群G4と独立した軌跡を描くように移動するものではない。」と認定しているところ,開口絞り近くのレンズ群は各画角の光線束が密に集まっているので,収差的にも中心部と周辺部の画質の変化に差がつかない(甲3の段落【0008】)のであって,このことは変倍時でも同様であるため,開口絞りSに隣接する第4レンズ群G4は,変倍時にその間隔を変化させないことが普通である。
また,開口絞りを隣接するレンズ群に独立して移動させることは,そのための駆動手段を必要とするのであって(この点はレンズの技術分野の当業者ばかりでなく,一般の技術者にとっても技術常識である。),そのような手段を設ければ,そのための駆動機構やその駆動機構を制御する装置等が別途必要になるのであるから,駆動機構や制御の簡略化に不利なことは当然である。
以上のとおり,審決が挙げた前記①及び②の技術常識は,いずれも証拠を提出するまでもなく,当業者であれば何人も知っている技術常識であり,審決は,そのような技術常識に基づいて判断したものであるから,審決の認定判断に違法性はない。
甲3には,第4レンズ群と開口絞りが一体的に移動するとの直接的な記載がないとしても,当業者は,甲3の実施例に記載されたレンズは,変倍時に第4レンズ群が移動する際に,開口絞りSは,第4レンズ群G4と一体的に移動すると理解する。
(2) 甲3の段落【0008】には,開口絞り近くのレンズ群を補正光学系にすることが好都合である理由について,「開口絞り近くのレンズ群は,各画角の光線束が密に集まっているためレンズ径が比較的小さい。そこで,このような群を光軸に対し変位する補正光学系にすることは,保持機構及び駆動機構の小型化に好都合であり,収差的にも中心部と周辺部の画質の変化に差をつけずに像位置の補正が可能である。」と記載されている。収差的に中心部と周辺部の画質の変化に差がつかないとは,軸上光と軸外光との高さの差が小さいことを意味していると理解される。開口絞りは軸上光及び軸外光の高さを制限する機能を持つのであるから,補正光学系を構成するレンズ群に入射する軸外光と軸上光の高さの差が小さくなるように開口絞りと補正光学系を構成するレンズ群とを近接させることが必要であることを示唆している。このことは変倍時でも同様であるため,段落【0008】の記載は,開口絞りSに隣接する第4レンズ群は,変倍時にもその近接状態が維持されることを示唆していると理解される。審決の認定判断に不当なところはない。
(3) 審決は,「当業者であれば容易に想到できたものである」との理由として,「上記に述べたと同様の理由により」としているのであるから,理由を挙げていないというものではない。そして,審決は,証拠を挙げるまでもなく明らかな技術常識として前記(1)の①及び②の技術常識を挙げているのであり,これらの技術常識からすれば,甲3発明において,開口絞りを第4レンズ群G4と一体的に移動させる構成とすることは,当業者であれば容易に想到できたものである。
甲3の記載から,開口絞りSと第4レンズ群G4とが,一体的に移動するものと一義的に理解できないものであるとしても,甲3には,実施例に記載されたレンズが開口絞りSと第4レンズ群G4とが独立の軌跡を描く必要があるものに限定的に解すべきとの示唆もされていないのであるから,当業者であれば,駆動機構や制御を複雑にさせないために,開口絞りSと第4レンズ群G4を一体で移動させる態様を選択するのが普通である。開口絞りSと第4レンズ群G4を一体で移動させることは,当業者が容易に想到することができる。
2 「開口絞りSは,レンズ径が比較的小さいレンズ群の近くに配置するのが好ましいという技術的意図」に対し
審決は,「甲3には,開口絞りを第4レンズ群と独立の軌跡を描くように移動させる点については,何ら記載がない」(41頁下から4行~下から3行)と認定したうえで,上記(1)の①及び②の技術常識を基に相違点4は実質的な相違点ではない,と認定したのであり,これに対して特許権者の主張は,これらの認定を否定するものとはなっていないから,請求人の主張は,審決取消の理由とはなっていない。
審決は,「開口絞りSは,レンズ径が比較的小さいレンズ群の近くに配置するのが好ましいという技術的意図」以外の技術常識(上記1(1)の①及び②)を根拠に,甲3発明について開口絞りSとレンズ群G4とが一体的に移動すると認定したものである。
甲3には,開口絞りを第4レンズ群においた発明と開口絞りを第3レンズ群においた発明がそれぞれ記載されているのであり,仮に,それらの発明が特許権者の主張するような共通の技術的意図(開口絞りSは,レンズ径が比較的小さいレンズ群の近くに配置するのが好ましいという技術的意図)のもとに選択されたものであるとしても,そのような技術的意図であれば,開口絞りと第4レンズ群とを一体で移動することはないというものではない。
甲3に係る出願が特許を取得しようとする発明(特許請求の範囲に記載された発明)には,開口絞りと第4レンズ群との関係は特定されていないのであるが,甲3には,特許請求の範囲に記載された発明以外に特許請求の範囲に記載された発明の構成の一部を具体化した発明,又は特許請求の範囲に記載された発明にさらに別の構成を付加した発明など種々の発明が記載されている。上記1(1)の①及び②の技術常識,並びに,実施例1及び2の記載を見れば,当業者は,その実施例のレンズは開口絞りSと第4レンズ群G4とが一体的に移動するものの発明であると理解する。甲3には,開口絞りSと第4レンズ群G4とが一体的に移動することは直接的に記載されていないが,実質的に記載されている事項と理解される。
3 作用効果に対し
前記のとおり,相違点4は実質的な相違点ではないとする審決の認定に誤りはないから,作用効果に関する特許権者の主張は失当である。
仮に,相違点4が実質的な相違点であるとしても,審決は,相違点4は容易に想到することができ,当業者は,容易に本件発明の構成に想到することができるのである。そして,本件発明の効果はそのような構成から必然的に生ずる効果なのであるから,本件発明の効果は当業者が容易に予測することができる,との審決の判断に誤りはない。
第7当裁判所の判断
1 請求人の取消事由1,2(記載不備の認定の誤り)について
請求人の取消事由1は,本件発明1が発明の詳細な説明に記載されていない,すなわちサポート要件を満たしていない旨を主張するものである。
本件発明1は,
「 ズームレンズを構成する1つのレンズ群GBの全体あるいは一部を光軸にほぼ垂直な方向に移動させて像をシフトすることが可能なズームレンズにおいて,
前記レンズ群GB中に,あるいは前記レンズ群GBに隣接して開口絞りSが設けられ,
前記レンズ群GBと最も物体側の第1レンズ群G1との間に配置されたレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行い,
変倍時に,前記レンズ群GFと前記レンズ群GBとの光軸上の間隔が変化し,
前記開口絞りSは,変倍時に,前記レンズ群GBと一体的に移動することを特徴とするズームレンズ。」
であるところ,本件明細書には,実施例1として,5つのレンズ群(正負正正負)から構成されるズームレンズにおいて,第4レンズ群G4中の接合正レンズL42を光軸とほぼ直交する方向に移動させて像シフトさせ,開口絞りSは,第3レンズ群G3と第4レンズ群G4との間に配置され,第3レンズ群G3を光軸に沿って像側に移動させて近距離物体へのフォーカシングを行い,変倍時には第3レンズ群G3と第4レンズ群G4との光軸上の間隔が変化し,開口絞りSは変倍に際して第4レンズ群G4と一体的に移動する実施例が示され(段落【0038】~【0045】),実施例2として,5つのレンズ群(正負正正負)から構成されるズームレンズにおいて,第4レンズ群G4全体を光軸とほぼ直交する方向に移動させて像シフトさせ,開口絞りSは,第3レンズ群G3と第4レンズ群G4との間及び第4レンズ群G4と第5レンズ群G5との間で第4レンズ群G4に隣接して配置され,第3レンズ群G3を光軸に沿って像側に移動させて近距離物体へのフォーカシングを行い,変倍時には第3レンズ群G3と第4レンズ群G4との光軸上の間隔が変化し,開口絞りSは変倍に際して第4レンズ群G4と一体的に移動する実施例が示されているから(【0046】~【0052】),本件発明1は,本件明細書の発明の詳細な説明に記載された発明であって,その記載により当業者が本件発明1の課題を解決できると認識できる範囲のものであるから,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件発明1が記載されているといえる。したがって,本件発明1についてサポート要件違反があるということはできない。
以上のとおり,本件発明1について記載不備はなく,サポート要件違反はない。請求人は,「レンズ構成の特定」及び「補正レンズ群の一部を移動させる構成」について記載不備があると主張するが,理由がない。本件発明3について請求人が主張するところも同じ趣旨であり,同様に理由がない。
結局,取消事由1,2は理由がない。
2 請求人の取消事由3(進歩性の判断の誤り)について
(1) 本件明細書(甲1)の記載によれば,本件発明1は,レンズ系を構成する一部のレンズ群を光軸にほぼ垂直な方向に移動させることにより像をシフトさせ,手ぶれに起因する像位置の変動を補正すること(防振)ができるズームレンズに関するものであって(【0001】,【0004】),従来,そのような防振ができるズームレンズとして,(1)第1レンズ群の一部のレンズ群を防振時における補正レンズ群とし,フォーカシングに際しては第2レンズ群を光軸に沿って移動させたもの,(2)第2レンズ群を光軸に対してほぼ垂直な方向に移動させて防振を行い,第1レンズ群を光軸に沿って移動させて近距離物体に対するフォーカシングを行っていたものがあったが(【0004】,【0005】,【0006】),上記(1)の従来技術においては,フォーカシングレンズ群である第2レンズ群は防振時の補正レンズ群である第1レンズ群よりも像側に配置されているため,同じ焦点距離状態であっても撮影距離が変化すると,第2レンズ群の結像倍率が変化し,その結果,所定量だけ像をシフトするための補正レンズ群の所要移動量も各焦点距離状態ばかりでなく各撮影距離状態によって変化してしまうので,像シフトを制御することが難しいという不都合があり(【0011】),また,上記(2)の従来技術においては,第1レンズ群を光軸に沿って移動させてフォーカシングを行っていたので,フォーカシングレンズ群である第1レンズ群のレンズ径が大きいという不都合があった(【0012】)。それらの課題に鑑み,フォーカシングレンズ群のレンズ径が小さく,像シフトの制御が容易で,像シフト時にも良好な結像性能を有するズームレンズを提供することを目的として(【0012】),本件発明1の構成とすることにより,レンズ群GBより像側に配置されるレンズ群の使用倍率を撮影距離の変化によらず一定とすることができ,像を所定量だけシフトさせるためのレンズ群GBの所要移動量を撮影距離の変化によらず一定とすることができ,その結果,シフトレンズ群GBによる像シフトの制御を,ひいては像位置の変動の補正を容易に行うことができるとともに(【0029】),軸上光束と軸外光束とにおいてシフトレンズ群を通過する高さの差を小さくすることができ,フォーカシング時に発生する軸外収差の変動を抑え,良好な結像性能が得られるようにでき(【0031】,【0032】),フォーカシングレンズ群のレンズ径が小さく,像シフトの制御が容易で,像シフト時にも良好な結像性能を有する高変倍ズームレンズを達成することができる(【0054】)ものと認めることができる。
(2) 甲3の記載によれば,甲3には,(光軸とほぼ直交する方向に移動させて防振する)防振機能を備えた35mm判写真用レンズ,特に望遠ズームレンズの技術において(【0001】),防振機能を備えかつ小型で高性能な望遠ズームレンズの提供を目的として(【0004】),物体側より順に,正の屈折力を持つ第1レンズ群G1と,負の屈折力を持つ第2レンズ群G2と,負の屈折力を持つ第3レンズ群G3と,正の屈折力を持つ第4レンズ群G4と,負の屈折力を持つ第5レンズ群G5とを有し,広角端から望遠端への変倍時には,前記第1レンズ群G1と前記第2レンズ群G2との間隔が増大し,該第2レンズ群G2と前記第3レンズ群G3との間隔が線形ないしは非線形に変化し,前記第4レンズ群G4と前記第5レンズ群G5との間隔が減少するようにレンズ群が移動するズームレンズにおいて,前記第4レンズ群G4を光軸とほぼ直交する方向に移動させて防振するための変位手段を設けることにより(請求項1),第1レンズ群を防振のため光軸に対し変位する補正光学系とする場合のように保持機構及び駆動機構が大型化することがなく,また,第5レンズ群のように変倍時の光軸方向の移動量の大きいレンズ群を補正光学系とする場合のように機構が複雑になることがなく(【0007】),さらに,開口絞り近くのレンズ群は,各画角の光線束が密に集まっているためレンズ径が比較的小さいので,このような群を光軸に対し変位する補正光学系にすることは,保持機構及び駆動機構の小型化に好都合であり,収差的にも中心部と周辺部の画質の変化に差をつけずに像位置の補正が可能であるところ,第4レンズ群に開口絞りをおくことにより比較的大きなズーム比が得られるものであって(【0008】),審決で認定したとおりの甲3発明が記載されていると認められる。
(3) 甲4の記載によれば,甲4には,補正レンズ群を偏芯させる(すなわち,光軸に垂直な方向に移動させる)ことにより振動による撮影画像のブレを補正する機能,所謂防振機能を有した撮影レンズの技術に関し,望遠レンズとして用いることが多いところの,物体側の第1レンズ群以外の比較的レンズ径の小さな小型軽量の像面側に配置したレンズ群を光軸上移動させてフォーカスを行う内焦式フォーカス方式を用いた撮影レンズにおいて,補正レンズ群を偏芯させることにより撮影画像のブレを補正するときに発生する偏芯収差が少なく,特にフォーカスにより物体距離を変化させたときに発生する偏芯収差の少ない,高い光学性能を有するとともに,防振に際しての応答性の良い防振機能を有した撮影レンズの提供を目的として,撮影画像のブレを補正する為の補正レンズ群Cをフォーカス用のレンズ群Fよりも像面側に配置するレンズ構成とすることにより,補正レンズ群Cのレンズ径が縮少化及び軽量化されるとともに,これによりレンズ鏡筒の増大化が防止され,補正レンズ群Cを駆動させる駆動系の負担が少なく,防振の際の応答性が向上し,さらに補正レンズ群Cを偏芯させたときの偏芯収差の発生量が少なくなるものであって,審決で認定したとおりの甲4発明が記載されていると認められる。
(4) 本件発明1と甲3発明の対比
本件発明1と甲3発明とを対比すると,審決が認定したとおりの一致点で一致し,審決が認定したとおりの相違点1(本件発明1では,「前記レンズ群GBと最も物体側の第1レンズ群G1との間に配置されたレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行」うものであり,かつ,「変倍時に,前記レンズ群GFと前記レンズ群GBとの光軸上の間隔が変化」するのに対し,甲3発明では,いずれのレンズ群を移動させて近距離物体への合焦を行うものであるのか特定されておらず,それに関連して,変倍時のレンズ群GFとレンズ群GBとの光軸上の間隔が変化するのか不明な点。)及び相違点2(「開口絞りS」が,本件発明1では,「変倍時に,前記レンズ群GBと一体的に移動する」のに対し,甲3発明では,「変倍時に,移動する」ものではあるが,「第4レンズ群G4」(本件発明1の「レンズ群GB」に相当)と一体的に移動するものであるのかが不明な点)で相違していると認められる(争いがない。)。
(5) 相違点1について
レンズ設計において,近距離物体への合焦に際して光軸に沿って移動させるレンズ群(合焦レンズ群)をどのレンズ群とするかについては,所定の自由度があるといえる(甲9の段落【0031】,【0032】,乙1の段落【0020】)。
甲3発明は,上記(2)で認定したとおり,(光軸とほぼ直交する方向に移動させて防振する)防振機能を備えた35mm判写真用レンズ,特に望遠ズームレンズの技術に関するものであり,また,甲4発明は,上記(3)で認定したとおり,補正レンズ群を偏芯させる(すなわち,光軸に垂直な方向に移動させる)ことにより振動による撮影画像のブレを補正する機能,所謂防振機能を有した撮影レンズの技術に関するものであるから,甲3発明と甲4発明は,本件発明の属する一部のレンズ群を光軸に垂直な方向に移動させることにより像位置の変動(像ブレ)を補正するレンズの技術分野に属するという点で,共通している。
甲3には,「一般的に,望遠ズームレンズは,第1レンズ群が最も大型のレンズ群であり,フォーカシング時に繰り出されることが多い。このため,第1レンズ群を防振のため光軸に対し変位する補正光学系にすることは,保持機構及び駆動機構が大型化し好ましくない。」(段落【0007】),及び「開口絞り近くのレンズ群は,各画角の光線束が密に集まっているためレンズ径が比較的小さい。そこで,このような群を光軸に対し変位する補正光学系にすることは,保持機構及び駆動機構の小型化に好都合であり,収差的にも中心部と周辺部の画質の変化に差をつけずに像位置の補正が可能である。」(段落【0008】)と記載されているように,第1レンズ群が大型のレンズ群であることを認識するとともに,大型のレンズ群を光軸に対し変位させるために駆動しようとするとその駆動機構が大型化して問題であるとの課題を有していることが記載されているといえる。
また,甲4にも,「望遠レンズにおいては物体側の第1レンズ群以外の比較的レンズ径の小さな小型軽量の像面側に配置したレンズ群を光軸上移動させてフォーカスを行う所謂内焦式フォーカス方法を用いている場合が多い。」(「従来の技術」欄),「本発明は内焦式フォーカス方式を用いた撮影レンズにおいて補正レンズ群を偏芯させることにより撮影画像のブレを補正するときに発生する偏芯収差が少なく,特にフォーカスにより物体距離を変化させたときに発生する偏芯収差の少ない,高い光学性能を有した,しかも防振に際しての応答性の良い防振機能を有した撮影レンズの提供を目的とする。」(「発明が解決しようとする問題点」欄),「そして本実施例では撮影画像のブレを補正する為の補正レンズ群Cをフォーカス用のレンズ群Fよりも像面側に配置するレンズ構成を採ることにより,補正レンズ群Cのレンズ径の縮少化及び軽量化を図っている。これによりレンズ鏡筒の増大化を防止し,補正レンズ群Cを駆動させる駆動系の負担を少なくし,防振の際の応答性の向上を図っている。」(「実施例」欄)と記載されているように,第1レンズ群が大型のレンズ群であることを認識するとともに,第1レンズ群のような大型のレンズ群を撮影画像のブレを補正するために(すなわち,光軸に対し変位させるために)駆動しようとするとその駆動機構が大型化して問題であるとの課題を有していること,さらには,撮影レンズにおいて補正レンズ群を偏芯させることにより撮影画像のブレを補正するときに偏芯収差が発生し,特にフォーカスにより物体距離を変化させたときに偏芯収差が発生し,光学性能を低下させることが記載されているといえる。
したがって,甲3発明と甲4発明は,第1レンズ群が大型のレンズ群であることを認識するとともに,大型のレンズ群を(光軸に対し変位させるために)駆動しようとするとその駆動機構が大型化して問題であるとの共通の課題を有しているといえる。
以上のことを考慮すると,甲3発明において,甲4発明における各レンズ群の配置構成を採用し,「第1レンズ群G1」と「(防振を行う)第4レンズ群G4」の間に配置されたレンズ群,すなわち,「第2レンズ群G2」もしくは「第3レンズ群G3」を光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行う構成とすることは,当業者であれば容易に着想し得ることといえる。
(6) 阻害要因について
審決は,相違点1の容易想到性判断に際し,上記(5)の当裁判所の判断と同旨の説示をしておきながら(ただし,「当業者であれば容易に着想し得ること」の部分は「当業者であれば試みたであろう」との表現となっている。37頁1~8行),続いて「阻害要因について」と題する説示中において次のとおり判断した。
「 しかしながら,本件発明1の構成とすることを妨げる要因,所謂阻害要因があるか否かは,刊行物中の全体の記載を参酌して検討されるべきであるところ,また,レンズ設計の技術分野においては,特許文献の記載に基づいて新たなレンズを設計しようとする場合,通常行われる手順は,当該特許文献に記載された数値実施例の諸元の値のデータを出発点とし,所望の光学性能が得られるように改変していくものであることも考慮すると,甲3発明において第2レンズ群G2もしくは第3レンズ群G3を光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行うことを妨げる要因があるか否かを判断する際には,甲3に記載されている実施例の諸元の値のデータにおいて検討することも必要であると認められる。
そして,被請求人が主張するように,甲3に記載されている実施例の諸元の値のデータで表されるズームレンズにおいて,第2レンズ群G2もしくは第3レンズ群G3を光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行った場合には実用的な撮影距離が確保できない(その機能を損ねてしまう)点を考慮すれば,当業者は,甲3発明において,そのような実用的でないズームレンズを得るために当該構成とすることは通常行わないものであり,当該構成とすることを妨げる要因が存在するといえる。」(38頁5~21行)
しかし,本件発明1は,各レンズ群の配置関係や移動関係を特定したものであって,具体的に設計されたズームレンズを数値データとして特定したものではないし,甲3発明も数値データに係る発明として認定されるものではないから,甲3発明に基づく容易想到性を検討する上で,甲3に記載されている実施例の諸元の値のデータは阻害要因となるものでないことは明らかである。審決の上記説示をもって阻害要因とすることはできない。
(7) 以上のことから,相違点1については,甲3発明及び甲4発明に基づいて,当業者が容易に想到することができたものであるというべきである。
よって,相違点1が容易想到でないとして,「相違点2について判断するまでもなく,本件発明1は当業者が容易に発明をすることができたものとはいえない」とした審決の判断には誤りがある。なお,相違点2は,相違点4(本件発明と甲3発明との間のもの)と同一であり,その点については後記4における判断のとおりである。
(8) 特許権者の主張について
ア 特許権者は,近距離合焦方法には,1群フォーカス方式,インナー・フォーカス方式,リア・フォーカス方式という3通りがあるが,それに応じてレンズの設計は最初から異なってくるから,インナー・フォーカス方式のレンズを設計しようとするなら,インナー・フォーカス方式のレンズの設計例を基にレンズの設計をするのが当業者の通常の設計方法であるから,1群フォーカス方式である甲3発明のレンズ構成を,インナー・フォーカス方式に変更する動機付けがない旨を主張している。
しかし,甲3において,「一般的に,望遠ズームレンズは,第1レンズ群が最も大型のレンズ群であり,フォーカシング時に繰り出されることが多い。このため,第1レンズ群を防振のため光軸に対し変位する補正光学系にすることは,保持機構及び駆動機構が大型化し好ましくない。」(段落【0007】)と記載されていることから,第1レンズ群が光軸上移動させて合焦(フォーカシング)を行う1群フォーカス方式が開示されていると解することができるが,特許請求の範囲の請求項1には,フォーカス方式を特定する記載はないから,甲3発明は,1群フォーカス方式以外のフォーカス方式を排除しているとはいえない。
また,甲4には,「本発明は内焦式フォーカス方式を用いた撮影レンズにおいて補正レンズ群を偏芯させることにより撮影画像のブレを補正するときに発生する偏芯収差が少なく,特にフォーカスにより物体距離を変化させたときに発生する偏芯収差の少ない,高い光学性能を有した,しかも防振に際しての応答性の良い防振機能を有した撮影レンズの提供を目的とする。」(「発明が解決しようとする問題点」欄)と記載されているように,第1レンズ群のような大型のレンズ群を撮影画像のブレを補正するために(すなわち,光軸に対し変位させるために)駆動しようとするとその駆動機構が大型化して問題であるとの課題を有していること,さらには,撮影レンズにおいて補正レンズ群を偏芯させることにより撮影画像のブレを補正するときに偏芯収差が発生し,特にフォーカスにより物体距離を変化させたときに偏芯収差が発生し,光学性能を低下させることが記載されているといえる。
そして,上記(5)で説示したように,甲3発明と甲4発明は,ともに本件発明の属する一部のレンズ群を光軸に垂直な方向に移動させることにより像ブレを補正するレンズの技術分野に属するものであるから,当該技術分野の当業者は,甲3と甲4とに同時に接することができるところ,そのような当業者であれば,1群フォーカス方式の態様を含む甲3発明において,1群フォーカス方式の欠点を解消するとともに,撮影画像の光学性能を著しく低下させることのない防振レンズを構成するとの課題を認識することができるから,その課題を解決するために甲4発明を適用する動機付けがあるというべきである。
また,特許権者は,甲3において,あえて1群フォーカス方式の利点を捨ててまで,インナーフォーカス方式に変更する動機付けはない旨も主張するが,1群フォーカス方式に利点があるとしても欠点もあるのであって,その利点だけを取り上げて動機付けがないと解することはできない。しかも,上記(6)で説示したように,本件発明1は,各レンズ群の配置関係や移動関係を特定したものであって,具体的に設計されたズームレンズを数値データとして特定したものではなく,甲3発明も数値データに係る発明ではないから,甲3発明に基づく容易想到性を検討する上で,特許権者の主張するような動機の有無を検討する必要がないということもできる。
イ 特許権者は,甲3のズームレンズは高倍率化を目的としているのだから,仮に甲3が挙げる従来技術よりも変倍比を大きくできるとしても,甲3の数値実施例で示された諸元データから,敢えて甲3の目的に反する方向に広角端を縮小することは考え難く,また,甲3のズームレンズにおいて,広角端の焦点距離を102mmに縮小した場合,第2レンズ群で,撮影距離2.5mまで合焦した場合,光学性能が大幅に悪化し,実用上可能ではない旨を主張している。
しかし,上記(6)で説示したように,本件発明1は,各レンズ群の配置関係や移動関係を特定したものであって,具体的に設計されたズームレンズを数値データとして特定したものではなく,甲3発明も数値データに係る発明ではないから,甲3発明に基づく容易想到性を検討する上で,特許権者の主張するような実施例の諸元の値に基づく検討をする必要がないといえる。よって,特許権者の主張は採用できない。
なお,「高変倍」の効果については,本件明細書【0011】【0012】をみても,本件発明の解決しようとする課題として記載されておらず,【0003】には,「近年,変倍比が2倍を越えるような,いわゆる高変倍ズームレンズが増えてきている。」と記載されていることに照らすと,当該効果は,本件発明の解決しようとする課題ではなく,従来技術において達成された技術的前提にすぎないと解される。
(9) 本件発明3について
本件発明1を引用する本件発明3は,本件発明1をさらに減縮したものであるところ,本件発明1は,当業者が容易に発明をすることができたものであるから,本件発明1が当業者にとって容易に発明することができないことを前提に本件発明3も当業者が容易に発明することができない,とした審決の判断には誤りがある。なお,本件発明2を引用する本件発明3について,審決は甲3発明との間の相違点5を実質的な相違点とし,この相違点に係る上記本件発明3の構成は容易想到とはいえないと判断した。この判断について,請求人は取消事由として構成していないところである。
(10) 小括
以上によれば,本件発明1及び3に係る容易想到性に関する審決の判断には誤りがあるから,請求人主張の取消事由3は理由がある。
3 特許権者の取消事由(相違点4の認定判断の誤り)について
(1) 本件発明2
本件明細書の記載によれば,本件発明2は,レンズ系を構成する一部のレンズ群を光軸にほぼ垂直な方向に移動させることにより像をシフトさせ,手ぶれに起因する像位置の変動を補正すること(防振)ができるズームレンズに関するものであって(【0001】,【0004】),従来,そのような防振ができるズームレンズとして,(1)第1レンズ群の一部のレンズ群を防振時における補正レンズ群とし,フォーカシングに際しては第2レンズ群を光軸に沿って移動させたもの,(2)第2レンズ群を光軸に対してほぼ垂直な方向に移動させて防振を行い,第1レンズ群を光軸に沿って移動させて近距離物体に対するフォーカシングを行っていたものがあったが(【0004】,【0005】,【0006】),(1)の従来技術においては,フォーカシングレンズ群である第2レンズ群は防振時の補正レンズ群である第1レンズ群よりも像側に配置されているため,同じ焦点距離状態であっても撮影距離が変化すると,第2レンズ群の結像倍率が変化し,その結果,所定量だけ像をシフトするための補正レンズ群の所要移動量も各焦点距離状態ばかりでなく各撮影距離状態によって変化してしまうので,像シフトを制御することが難しいという不都合があり(【0011】),また,(2)の従来技術においては,第1レンズ群を光軸に沿って移動させてフォーカシングを行っていたので,フォーカシングレンズ群である第1レンズ群のレンズ径が大きいという不都合があったので(【0012】),それらの課題に鑑み,フォーカシングレンズ群のレンズ径が小さく,像シフトの制御が容易で,像シフト時にも良好な結像性能を有するズームレンズを提供することを目的とし(【0012】),本件発明2の構成とすることにより,レンズ群GBより像側に配置されるレンズ群の使用倍率を撮影距離の変化によらず一定とすることができ,像を所定量だけシフトさせるためのレンズ群GBの所要移動量を撮影距離の変化によらず一定とすることができ,その結果,シフトレンズ群GBによる像シフトの制御を,ひいては像位置の変動の補正を容易に行うことができるとともに(【0029】),軸上光束と軸外光束とにおいてシフトレンズ群を通過する高さの差を小さくすることができ,フォーカシング時に発生する軸外収差の変動を抑え,良好な結像性能が得られるようにでき(【0031】,【0032】),フォーカシングレンズ群のレンズ径が小さく,像シフトの制御が容易で,像シフト時にも良好な結像性能を有する高変倍ズームレンズを達成することができる(【0054】)ものと認められる。
(2) 甲3発明
甲3発明については,前記2(2)のとおりである。
(3) 本件発明2と甲3発明の対比
本件発明2と甲3発明とを対比すると,審決が認定したとおりの一致点で一致し,審決が認定したとおりの相違点3(本件発明2では,「前記レンズ群GBより物体側に配置されたレンズ群GFを光軸に沿って移動させて近距離物体への合焦を行」うものであり,かつ,「変倍時に,前記レンズ群GFと前記レンズ群GBとの光軸上の間隔が変化」するのに対し,甲3発明では,いずれのレンズ群を移動させて近距離物体への合焦を行うものであるのか特定されておらず,それに関連して,変倍時のレンズ群GFとレンズ群GBとの光軸上の間隔が変化するのか不明な点。)及び相違点4(「開口絞りS」が,本件発明2では,「変倍時に,前記レンズ群GBと一体的に移動する」のに対し,甲3発明では,「変倍時に,移動する」ものではあるが,「第4レンズ群G4」(本件発明1の「レンズ群GB」に相当)と一体的に移動するものであるのかが不明な点。)で相違していると認められる(争いがない。)。
(4) 特許権者の取消事由について
相違点3は実質的な相違点ではないとした審決の認定判断につき,特許権者は取消事由として主張しておらず,特許権者の取消事由は,甲3の段落【0008】には,変倍の際についての記載はなく,また,段落【0008】の「第4レンズ群に開口絞りSをおくことが好ましい。」とは,図1の記載でG4に隣接して開口絞りSを配置した,ということ以上に意味を有せず,変倍時にどのように移動するのかは読み取れず,さらに,図1にも変倍時に開口絞りSがどのように移動するのかは全く記載されていないから,審決における,甲3について変倍時に開口絞りを第4レンズ群G4と一体的に移動させているとした認定判断は誤りである旨を主張し,相違点4を実質的な相違点でないとした審決の認定判断を誤りとするものである。
この取消事由について判断するに,甲3発明においては,変倍時に第4レンズ群G4及び絞り(開口絞り)が移動するのであるから,その移動形態を第4レンズ群G4との関係について考えると,「絞りが第4レンズ群G4と一体的に移動する」形態と,「絞りが第4レンズ群G4と独立した軌跡を描くように移動する」形態が想定される。そして,甲3には,開口絞りを第4レンズ群と独立の軌跡を描くように移動させる点については,何ら記載がない。通常,変倍に際し開口絞りを移動させる場合,特段の技術的意図がなければ,開口絞りをその近傍のレンズ群と独立した軌跡を描くように移動させる必要がないこと,及び,開口絞りをその近傍のレンズ群と独立した軌跡で移動させようとした場合,駆動機構や制御の簡略化等に不利であることは,当業者の技術常識であると認められる。これらの事項を考慮すれば,甲3発明においては,開口絞りが第4レンズ群G4と独立した軌跡を描くように移動するものではない,すなわち,開口絞りが第4レンズ群G4と一体的に移動する構成であると解するのが合理的である。
また,甲3には,開口絞り近くのレンズ群を補正光学系にすることが好都合である理由について,「然るに,開口絞り近くのレンズ群は,各画角の光線束が密に集まっているためレンズ径が比較的小さい。そこで,このような群を光軸に対し変位する補正光学系にすることは,保持機構及び駆動機構の小型化に好都合であり,収差的にも中心部と周辺部の画質の変化に差をつけずに像位置の補正が可能である。このような5群系ズームタイプにおいて比較的大きなズーム比を得ようとする場合,収差補正上,第4レンズ群に開口絞りをおくことが好ましい。」(段落【0008】)と記載されているように,収差的に中心部と周辺部の画質の変化に差がつかないとは,軸上光と軸外光との高さの差が小さいことを意味していると理解することができるところ,開口絞りは軸上光及び軸外光の高さを制限する機能を持つのであるから,補正光学系を構成するレンズ群に入射する軸外光と軸上光の高さの差が小さくなるように開口絞りと補正光学系を構成するレンズ群とを近接させることが必要であることが示唆されているといえる。そして,このことは変倍時でも同様であるため,甲3発明において,変倍に際しても開口絞りと補正光学系(第4レンズ群G4)との当該位置関係が変化しないように,開口絞りを第4レンズ群G4と一体的に移動させている構成であると解するのが合理的である。
さらに,甲3発明は,複数の「レンズ群」を定義して,その「レンズ群」を移動させる形で構成されていて,「レンズ群」を構成する要素を「レンズ群」と独立して移動させることは記載されていない。このような甲3発明において「前記第4レンズ群G4に絞りがおかれ,」,「前記第4レンズ群G4及び前記絞りは,変倍時に移動し,」という場合の開口絞りは,第4レンズ群G4とは独立して移動しない,すなわち第4レンズ群G4と一体として移動していると解するのが合理的である。
したがって,相違点4は実質的な相違点ではないとした審決の認定判断に誤りはない。
(5) 小括
以上によれば,本件発明2をもって甲3発明と実質的に同一とした審決の認定及び判断には誤りがないから,審決が仮定的に本件発明2を容易想到とした判断につき検討するまでもなく,特許権者主張の取消事由は理由がない。
第8結論
以上によれば,請求人主張の取消事由3は理由があるが,特許権者の取消事由には理由がない。よって,審決のうち「請求項1,3に係る発明についての審判請求は,成り立たない。」との部分を取り消し,特許権者の請求を棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 塩月秀平 裁判官 池下朗 裁判官 新谷貴昭)