知財高等裁判所 平成24年(行ケ)10292号 判決 2013年6月27日
原告
DIC株式会社
同訴訟代理人弁護士
三縄隆
同弁理士
棚井澄雄
寺本光生
大槻真紀子
河野通洋
大野孝幸
被告
特許庁長官
同指定代理人
新居田知生
小石真弓
中島庸子
守屋友宏
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
特許庁が不服2009-14917号事件について平成24年7月4日にした審決を取り消す。
第2事案の概要
本件は,原告が,後記1のとおりの手続において,特許請求の範囲の記載を後記2とする本件出願に対する拒絶査定不服審判の請求について,特許庁が同請求は成り立たないとした別紙審決書(写し)の本件審決(その理由の要旨は後記3のとおり)には,後記4の取消事由があると主張して,その取消しを求める事案である。
1 特許庁における手続の経緯
(1) 原告は,発明の名称を「強接着再剥離型粘着剤及び粘着テープ」とする発明につき,平成11年2月17日に特許出願(特願平11-38529。請求項の数7)を行った(甲1)。
(2) 原告は,平成21年5月18日付けで拒絶査定を受けたので(甲7),同年8月18日,これに対する不服の審判を請求した(甲8)。
(3) 特許庁は,上記請求を不服2009-14917号事件として審理し,平成24年7月4日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との本件審決をし,その謄本は同月17日,原告に送達された。
2 本件審決が対象とした特許請求の範囲の記載
特許請求の範囲請求項1の記載(ただし,平成24年3月2日付けの手続補正による補正後のもの)は,以下のとおりである。以下,請求項1に係る発明を「本願発明」といい,その明細書(甲1)を,図面も含め,「本願明細書」という。
(a) n-ブチルアクリレートを50重量部以上,カルボキシル基を持つビニルモノマー及び/又は窒素含有ビニルモノマーの一種以上を1~5重量部,水酸基含有ビニルモノマー0.01~5重量部を必須成分として調製されるアクリル共重合体100重量部と,(b)粘着付与樹脂10~40重量部からなる粘着剤組成物を架橋した粘着剤を基材の少なくとも片面に設けてなる粘着テープであり,
前記粘着剤の周波数1Hzにて測定されるtanδのピークが5℃以下にあり,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa),130℃でのtanδが0.6~0.8であることを特徴とする粘着テープ。
3 本件審決の理由の要旨
本件審決の理由は,要するに,本願発明に係る特許請求の範囲の記載は,平成14年法律第24号による改正前の特許法(以下「法」という。)36条6項1号に規定する要件(以下「サポート要件」という。)を満たしていないから,拒絶されるべきものである,というものである。
4 取消事由
(1) サポート要件に係る判断の誤り(取消事由1)
(2) 理由不備の違法(取消事由2)
第3当事者の主張
1 取消事由1(サポート要件に係る判断の誤り)について
〔原告の主張〕
(1) 本件審決は,本願発明が発明の詳細な説明に記載されているというためには,本願発明で使用する粘着剤について,技術的な裏付けをするのに十分な記載がされることが必要であり,具体的には,それを製造ないし入手できるように記載されていることが必要とした上で,本願明細書の発明の詳細な説明の記載からは,tanδのピーク,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃におけるtanδの値を本願発明の範囲内に調整することは,当業者にとって過度の試行錯誤を要し,また,本願発明の粘着剤全般について製造方法や入手方法について開示されているとは,技術常識に照らしても認められないから,本願発明は,発明の詳細な説明に記載されたものとはいえないと判断した。
ア しかし,本願発明が発明の詳細な説明に記載されているというためには,本願発明で使用する粘着剤について,技術的な裏付けをするのに十分な記載がされることが必要であり,具体的には,それを製造ないし入手できるように記載されていることが必要とする本件審決の判断は誤りである。すなわち,サポート要件は,特許請求の範囲の記載について,発明の詳細な説明の記載と対比して,広すぎる独占権の付与を排除する趣旨で設けられたものであるから,特許請求の範囲の記載と,発明の詳細な説明の記載とを対比して,前者の範囲が後者の範囲を超えているか否かを必要かつ合目的的な解釈手法によって判断すれば足りるというべきであり,特段の事情のない限り,発明の詳細な説明において,実施例等で記載・開示された技術的事項を形式的に理解すべきである。
そして,本願明細書の発明の詳細な説明には,n-ブチルアクリレートを50重量部以上,カルボキシル基を持つビニルモノマー及び/又は窒素含有ビニルモノマーの一種以上を1~5重量部,水酸基含有ビニルモノマー0.01~5重量部を必須成分として調製されるアクリル共重合体100重量部と,粘着付与樹脂10~40重量部からなる粘着剤組成物を架橋した粘着剤(以下「粘着剤A」という。)について,次のような記載がある。
(ア) 50℃の貯蔵弾性率G’について
周波数1Hzにて測定されるtanδのピークが5℃以下,かつ,130℃でのtanδが0.6~0.8との要件を充たすのは,実施例1ないし4及び比較例2であるところ,本願明細書(【0039】【表4】)には,実施例1ないし4は定荷重剥離性が良く,比較例2は定荷重剥離性が悪いことが記載され,本願明細書(【0038】【表3】)には,実施例1ないし4及び比較例2の全てについて,再剥離性が良いことが記載されている。すなわち,本願明細書には,50℃での貯蔵弾性率が,7.0×104(Pa)(実施例1),7.5×104(Pa)(実施例4),8.0×104(Pa)(実施例3),9.0×104(Pa)(実施例2)では定荷重剥離性が良く,15.0×104(Pa)(比較例2)では定荷重剥離性が悪いこと,さらに,これら全ての貯蔵弾性率において,再剥離性が良いことが記載されている。
以上の記載を形式的に理解すると,周波数1Hzにて測定されるtanδのピークが5℃以下,かつ,130℃でのtanδが0.6~0.8を充たす場合,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa)の範囲にあると,定荷重剥離性が良く,かつ,再剥離性が良いことが理解できる。
(イ) 130℃でのtanδについて
周波数1Hzにて測定されるtanδのピークが5℃以下,かつ,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa)との要件を充たすものは,実施例1ないし4のみであるところ,前記のとおり,本願明細書(【0038】【0039】【表3】【表4】)には,実施例1ないし4について,定荷重剥離性及び再剥離性が良いことが記載されている。すなわち,130℃でのtanδが0.6(実施例2),0.7(実施例3及び4),0.8(実施例1)では,定荷重剥離性及び再剥離性が良いことが記載されている。
この記載を形式的に理解すると,周波数1Hzにて測定されるtanδのピークが5℃以下,かつ,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa)との要件を充たす場合,130℃でのtanδが0.6~0.8であれば,定荷重剥離性が良く,かつ,再剥離性が良いことが理解できる。
(ウ) tanδのピーク温度について
50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa),かつ,130℃でのtanδが0.6~0.8との要件を充たすものは,実施例1ないし4のみであるところ,前記のとおり,本願明細書(【0038】【0039】【表3】【表4】)には,実施例1ないし4について,定荷重剥離性及び再剥離性が良いことが記載されている。すなわち,tanδのピーク温度が-10℃(実施例3),-9℃(実施例2及び4),-7℃(実施例1)では,再剥離性及び定荷重剥離性が良いことが記載されている。
なお,本願明細書の実施例の記載からは,tanδのピーク温度が,-10℃~-7℃の範囲の場合についてしか開示していないようにみえるが,この実施例の記載,本願明細書(【0021】)の記載及び技術常識からすると,実施例の開示よりも広げて,tanδのピークが5℃以下であれば本願発明の効果が得られることは,形式的に理解できる。
(エ) 以上のとおり,本願明細書に記載された発明を形式的に理解すると,粘着剤の周波数1Hzにて測定されるtanδのピークが5℃以下にあり,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa),130℃でのtanδが0.6~0.8であるとの要件を充たす粘着剤Aは,強固な接着性を発揮し,また,部品から剥離する際には,加熱等の特別な処理なしに糊残りなく剥離が可能であるという本願発明の効果を奏するものであることが理解できる。
イ 本願発明の粘弾特性の調整について
また,次のとおり,粘着剤Aの要件を充たしつつ,当業者が通常行う程度のトライアンドエラーを経ることで,本願発明の粘弾特性を充たす粘着テープを製造することは可能である。
(ア) tanδのピーク温度について
tanδのピーク温度とは,粘着剤のガラス転移温度(Tg)のことを指しており,アクリル系粘着剤のTgに影響を与える要因は,アクリルモノマーのTgとアクリルモノマーの量といえる。アクリルモノマーのTgは,それぞれの物質ごとに特定の値が知られており,アクリル系粘着剤に用いるアクリルモノマーの種類と量が決定されれば,計算によりアクリルポリマーのTgは推定できる。
本件出願時の技術常識によれば,アクリル系粘着剤に一般的に使用されている各種モノマーの中から適宜選択し,Tgが所望の値となるように調整することは,当業者が通常行う設計的事項にすぎず,過度な試行錯誤を要するものではない。
(イ) 50℃での貯蔵弾性率G’について
前記のとおり,アクリルモノマーのTgは,それぞれの物質ごとに特定の値が知られているから,アクリル系粘着剤においては,Tgを変更することにより,貯蔵弾性率曲線を平行移動させ得ることは,本件出願時の技術常識であった。したがって,アクリルモノマーの種類及び量は,50℃での貯蔵弾性率G’に影響を与える要因ともなる。また,粘着付与樹脂の配合量も,50℃での貯蔵弾性率G’に影響を与える要因である。したがって,アクリル系粘着剤のTgやアクリル系粘着剤と粘着付与樹脂の配合量を適宜調整することによって,50℃の貯蔵弾性率G’が所定の値である粘着剤Aを製造することは,本件出願時の技術常識に基づき,当業者が容易にすることができたものである。
(ウ) 130℃でのtanδについて
アクリル系粘着剤においては,架橋剤の量や架橋製モノマーの配合量を調整して,架橋密度を変化させることにより,130℃でのtanδを調整することができる。
(エ) 以上のとおり,当業者であれば,tanδのピーク温度Tg,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδの値を所望の範囲内にするには,使用するモノマーの選択,モノマーの含有比率,架橋剤の量,アクリル系粘着剤と粘着付与樹脂の配合比等が影響することを容易に理解することができるから,これらの手掛かりに基づいて,闇雲な試行錯誤を行うことなく,本願発明に係る粘着剤を製造することができるものというべきである。
ウ 以上によれば,本件審決の上記判断は誤りである。
(2) 本件審決は,本件発明は発明の詳細な説明の記載によって,当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるとも,また,その記載や示唆がなくても,当業者が本件出願時の技術常識に照らし,当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるともいうことはできないと判断した。
しかるに,以下のとおり,本件審決の判断は誤りである。
ア 発明の詳細な説明の記載
(ア) 課題について
本願明細書(【0004】)には,本願発明が解決する課題は,接着性と再剥離性(被着体から糊残りなく剥離可能であること)に優れた粘着剤を提供することである旨記載されている。
(イ) 粘着剤の組成について
本願明細書(【0012】【0014】~【0017】【0019】)には,粘着剤Aは,初期接着性,低温接着性,エーテル系ウレタンフォームに対する接着性及びポリオレフィンに対する接着性が良好であり,かつ糊残りが生じ難いことが記載されている。
(ウ) 粘着剤の物性について
本願明細書(【0021】)には,粘着剤Aを基材の少なくとも片面に設けてなる粘着テープにおいて,粘着剤Aのtanδのピークが5℃以下の場合には低温性が良好であること,50℃の貯蔵弾性率G’が6×104(Pa)超の場合には再剥離性が良好であること,50℃の貯蔵弾性率G’が2×105(Pa)以下の場合には耐反撥性,定荷重剥離性が良好であること,130℃でのtanδが1以下の場合には再剥離性が良好であることが記載されている。
また,実施例(【0024】~【0039】)には,実施例1ないし4の粘着剤が,幅広い被着体に対して接着性と再剥離性に優れていること,比較例1の粘着剤は再剥離性に劣っており,比較例2の粘着剤は接着性(特に,ポリプロピレンとエーテル系ウレタンフォームに対する定荷重剥離性)に劣っていることを示す具体的な結果が記載されている。
(エ) 技術常識に照らした本願明細書の記載内容
本件出願当時,アクリル共重合体を主成分とする粘着剤(アクリル系粘着剤)における高分子のレオロジー特性や粘着剤としての性能と粘弾性挙動については,接着性と再剥離性の両方が共に優れた粘着剤とするためには,凝集力と接着力のバランスのよい適度な粘弾性を備えることが必要であること,粘着剤の架橋密度等の架橋構造は,凝集力と接着力に大きな影響を及ぼす物性であること,粘着剤の架橋密度の増大により,高温域の貯蔵弾性率G’は増加してtanδは減少することは,アクリル系粘着剤の分野において技術常識であった。これらの技術常識に照らすと,次のとおり,本願明細書の発明の詳細な説明の記載は,当業者が本願発明の課題を解決できると認識できる範囲のものである。
a tanδのピークについて
tanδのピークが5℃以下であるとは,ガラス域から転移域への移行領域が5℃以下に存在すること,つまり,貯蔵弾性率G’が大きく粘着力に劣るガラス域が5℃超には存在していないことを意味する。よって,tanδのピークが5℃以下の場合に,5℃超の場合よりも低温性が良好であることは,当業者であれば,本願明細書(【0021】)の記載及び本件出願時における技術常識から認識できる。
b 130℃のtanδについて
130℃のtanδは,架橋密度の影響を強く受け,架橋密度が大きくなるほど減少する傾向にある。一方,架橋密度が大きくなるほど,粘着剤の凝集力が大きくなり,再剥離性が向上することは,本件出願時の技術常識であるから,本願明細書(【0021】)には,粘着剤の周波数1Hzにて測定されるtanδが1以下であれば,架橋密度を充分に大きくすることができ,再剥離性を良好にすることが記載されている。
さらに,本願明細書の実施例には,粘着剤Aの130℃のtanδが0.6,0.7,又は0.8の場合に,接着性と再剥離性を共に良好にできたこと,130℃のtanδが1以上の場合には,再剥離性が悪化したことが開示されている。
したがって,当業者であれば,本願明細書の記載及び本件出願時の技術常識から,粘着剤Aの130℃のtanδが少なくとも0.6~0.8であれば,当該粘着剤の架橋密度は,接着性と再剥離性を共に良好にし得る範囲内にあることが認識できる。
c 50℃の貯蔵弾性率G’について
本願明細書の実施例には,粘着剤Aの50℃の貯蔵弾性率G’が7.0×104(Pa),7.5×104(Pa),8.0×104(Pa)又は9.0×104(Pa)の場合に,接着性と再剥離性を共に良好にできたこと,50℃の貯蔵弾性率G’が5.0×104(Pa)の場合に再剥離性が悪く,15.0×104(Pa)の場合に接着性が悪かったことが開示されている。
したがって,当業者であれば,本願明細書の記載及び本件出願時の技術常識から,粘着剤Aの50℃のG’が少なくとも7.0~9.0×104(Pa)であれば,使用温度域において,充分な凝集力を有しており,かつ充分な接着力を有し得るため,接着性と再剥離性の両方が共に優れた粘着剤が得られることが認識できる。
(オ) 本願明細書の実施例等についての本件審決の判断について
a 本件審決は,①50℃と130℃以外の温度での貯蔵弾性率G’やtanδの値によっても粘着剤の粘着特性は変化し得ること,②粘着剤の接着特性に影響を及ぼす要因は粘弾特性以外にも,組成物の表面張力などがあることを根拠として,実施例1ないし4及び比較例1及び2の結果からは,本願発明のうち実施例1ないし4以外の粘着テープにおいても,実施例1ないし4の粘着テープと同様にその課題を解決できるものとは認められないと判断した。
しかし,本件審決が示した上記①の見解は,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδの技術的意味を把握しないものであり,かつ,粘着剤Aが50℃と130℃でゴム域にあり,温度変化による貯蔵弾性率G’やtanδの変化が非常に小さいことを看過した指摘であって,失当である。
また,上記②の見解についてみると,組成物の表面張力が,接着剤の接着性について,粘弾特性が接着性に対して与える影響を覆すほど大きな影響を与えることが,技術常識であるとはいえない。
仮に,組成物の表面張力が接着性に対して影響を与えるとしても,表面張力が同等の接着剤同士を比較した場合に,本願発明の粘着テープのほうが,その他の接着剤よりも接着性と再剥離性に優れていれば,本願発明の課題は解決されたといえる。
b 本件審決は,粘着剤の周波数1Hzにて測定されるtanδのピークが5℃以下にあり,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa),130℃でのtanδが0.6~0.8であることによって,常温での強固な接着性を発揮し,部品より剥離する際は,加熱等の特別な処理なしに糊残りなく剥離が可能となるという本願発明の課題の解決ができるというその技術的根拠は不明であり,そのような技術常識があるものとは認められないと判断した。
しかし,技術的根拠を要求している趣旨が不明であり,本願明細書に記載されている内容を批判的に検討し,解釈している点で,明らかに不当である。
イ 以上のとおり,本願発明に係る特許請求の範囲の記載は,本願明細書の記載及び本件出願時の技術常識から当業者が本願発明の課題を解決できると認識できる範囲内のものである。
(3) したがって,本願発明に係る特許請求の範囲の記載は,サポート要件を充足するものである。
〔被告の主張〕
(1) 原告は,サポート要件適合性の判断における発明の詳細な説明の記載内容の解釈の手法は,特段の事情のない限り,発明の詳細な説明において実施例等で記載・開示された技術的事項を形式的に理解すべきであるなどと主張する。
しかし,本願発明は,tanδピーク値が5℃以下,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa),130℃でのtanδが0.6~0.8であるという点に特徴を有する発明であり,これらの複数のパラメータの組合せは,実際に測定を行わなければ,具体的にどのような物が包含されるのかを当業者が容易に理解できない特殊なものである。つまり,当業者は,実施例以外のものについては,いかなるものがそのようなパラメータの条件を満足するのか具体的に理解することができない。
そのため,発明の詳細な説明に記載された技術的事項を単に形式的に理解したのでは,特許請求の範囲の記載が発明の詳細な説明の記載を超えているか否かを適切に判断することができない。したがって,発明の詳細な説明の開示に比して不当に広い特許権が設定されることによって当業者の産業上の活動を不当に制約するおそれがないようにサポート要件の判断を実質的に行う必要があるという点で,特段の事情を有するものである。
そして,複数のパラメータで特定される本願発明のサポート要件は,知財高裁平成17年(行ケ)第10042号同年11月11日特別部判決(以下「知財高裁大合議部判決」ともいう。)の判示する観点,すなわち,「特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比し,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否かを検討して判断」するという判断手法を用いて検討されるべきである。
以上の観点からすると,以下のとおり,本願発明に係る特許請求の範囲の記載は,サポート要件に適合しないものである。
(2) 本願明細書の発明の詳細な説明の記載について
ア 課題について
原告は,本願発明が解決する課題は,接着性と再剥離性に優れた粘着剤を提供することであると主張する。
しかし,本願発明が解決する課題は,本願明細書(【0004】)に記載されているとおり,「再利用が可能な部品に対して強固な接着性を発揮し,部品より剥離する際は,加熱等の特別な処理なしに糊残りなく剥離が可能で,接着しづらいエーテル系ウレタンフォームから各種プラスチック,金属までの幅広い被着体に対しても有用な粘着剤を提供する」ことと理解すべきであり,単に,接着性と再剥離性が優れていればよいというものではない。
イ 粘着剤の組成について
原告は,本願明細書(【0012】【0014】~【0017】【0019】)には,粘着剤Aであれば,初期接着性,低温接着性,エーテル系ウレタンフォームに対する接着性及びポリオレフィンに対する接着性が良好であり,かつ糊残りが生じ難いことが記載されていると主張する。
しかし,本願明細書には,粘着剤Aの構成に,「tanδのピークが5℃以下にあり,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa),130℃でのtanδが0.6~0.8」という複数のパラメータからなる構成を組み合わせた本願発明によって,本願発明の前記課題の解決を図ることは記載されているが,複数のパラメータからなる構成のない粘着剤Aのみによってその課題の解決を図ろうとすることは何ら記載されていない。
したがって,原告の主張は失当である。
ウ 粘着剤の物性について
原告は,本願明細書(【0021】)には,粘着剤Aを基材の少なくとも片面に設けてなる粘着テープにおいて,粘着剤Aのtanδピークが5℃以下の場合には低温性が良好であることなどが記載され,また,実施例(【0024】~【0039】)には,実施例1ないし4の粘着剤が,幅広い被着体に対して接着性と再剥離性に優れていることなどを示す具体的な結果が記載されていると主張する。
しかし,本願明細書(【0021】)には,tanδピーク,50℃での貯蔵弾性率G’,130℃でのtanδの数値限定の上限値,下限値の意味について記載されているものの,「再剥離性が悪化する」,「耐反撥性,定荷重性が悪化する」等の一般的な傾向が記載されているだけであり,その他の記載をみても,本願明細書の発明の詳細な説明には,本願発明の特徴であるtanδピーク,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδというパラメータと課題との関係について具体的に説明した記載はない。したがって,本願明細書の発明の詳細な説明の記載は,複数のパラメータの組合せを採用し,それらの値を特定の数値範囲内とすることによって,本願発明の上記課題を達成されることを当業者が認識できるものではない。
また,実施例1ないし4は,本願発明の粘着剤組成物について,アクリル共重合体,粘着付与樹脂のいずれについても,非常に狭い範囲に限定された組成の例が記載されているにすぎない。たとえ,tanδピーク ,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδの値が特定されたとしても,アクリル共重合体や粘着付与樹脂等の種類,配合量等によって,粘着剤組成物の例えば常温等における粘着特性が大きく相違することは技術常識であるから,実施例1ないし4に記載された非常に狭い範囲に限定された粘着剤組成物の組成の例示から,当業者は,本願発明の発明全体にまで拡張・一般化して課題解決が図られると認識できるものでないことは明らかである。
エ 技術常識について
原告は,本件出願当時,接着性と再剥離性の両方が共に優れた粘着剤とするためには,凝集力と接着力のバランスのよい適度な粘弾性を備えることが必要であること,粘着剤の架橋密度等の架橋構造は,凝集力と接着力に大きな影響を及ぼす物性であることなどが技術常識であった旨主張する。
しかし,原告の主張する技術常識から,当業者は,貯蔵弾性率G’やtanδについての一般的な事項は理解できたとしても,貯蔵弾性率G’については50℃でのもの,tanδについては130℃でのものを採用し,それらとtanδピークという複数のパラメータの数値条件を組み合わせて規定することによって,本願発明の「再利用が可能な部品に対して強固な接着性を発揮し,部品より剥離する際は,加熱等の特別な処理なしに糊残りなく剥離が可能で,接着しづらいエーテル系ウレタンフォームから各種プラスチック,金属までの幅広い被着体に対しても有用な粘着剤を提供する」という厳しい条件の課題を解決することができることまでが技術常識であったとはいえない。
そうすると,本願明細書の発明の詳細な説明の記載や原告の主張する技術常識から,当業者において,tanδピーク,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδを規定することによって,本願発明の全体について,上記のような厳しい条件の課題が解決できるものと認識することができたといえないことは明らかである。
オ 粘着剤の調整について
原告は,本件出願時の技術常識からすると,当業者であれば,tanδのピーク温度Tg,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδの値を所望の範囲内にするためには,使用するモノマーの選択やモノマーの含有比率等が影響することを容易に理解することができるから,これらの手掛かりに基づいて,闇雲な試行錯誤を行うことなく,本願発明に係る粘着剤を製造することができると主張する。
しかし,本願発明のいずれのパラメータについても複数の変動要因がある上に,いずれかを調整すると他のパラメータの値も変化しないとはいえないから,それらを考慮して調整を行うことは,当業者に過度の試行錯誤を要求するものである。
したがって,原告の主張は失当である。
カ 本願明細書の実施例等についての本件審決の判断について
原告は,実施例1ないし4及び比較例1及び2の結果からは,本願発明のうち実施例1ないし4以外の粘着テープにおいても,実施例1ないし4の粘着テープと同様に本願発明の課題を解決できるとは認められないとした本件審決の判断は誤りであると主張する。
しかし,原告のいう見解①は,サポート要件適合性を実質的に判断する上で,技術常識からみて,貯蔵弾性率G’やtanδの値は,温度により変動し,その変動の仕方はアクリル樹脂の種類,粘着付与樹脂の種類,架橋剤の種類等によって多様であり,そのため,50℃での貯蔵弾性率G’や130℃でのtanδの値のみによって,例えば常温等でのアクリル系粘着剤組成物の接着性,再剥離性が決まるものとはいえないことを踏まえると,当業者は,これらのパラメータの値を規定することによって本願発明の課題の解決が図られると認識できたものではないことを記載したものである。
また,原告のいう見解②は,技術常識からみて,粘着剤の接着性能が粘弾特性のみによって決まるものではないことを「粘着剤の接着特性に影響を及ぼす要因としては粘弾特性以外にも,組成物の表面張力など他にもあり」と,表面張力を例示として挙げて記載したのであって,表面張力についての実証が必要であることを記載したものではない。
したがって,原告の主張は失当である。
2 取消事由2(理由不備の違法)について
〔原告の主張〕
(1) 本件審決は,その11頁21行目において,「よって,本願発明は,発明の詳細な説明に記載されたものとはいえない」と結論付けているのにもかかわらず,その後もまた,サポート要件について検討し,13頁14行目において,「したがって,本願発明は,発明の詳細な説明に記載したものではない」と結論付けている。
以上の各結論を導いた理由はそれぞれ異なるものであるところ,本件審決が2つの異なる理由を基にサポート要件違反と判断したのか,あるいは,2つの理由を併せることでサポート要件違反と判断したのか明らかでなく,本件審決には,理由不備の違法がある。
また,サポート要件適合性は,「発明の詳細な説明において開示された技術的事項と対比して広すぎる独占権の付与を排除する」という法36条6項1号の規定の趣旨に沿った手法により判断されるべきである。
しかるに,本件審決は,11頁21行目の結論に至る理由として,発明の詳細な説明に,発明を実施するための明確でかつ十分な事項が開示されていないことを挙げているが,これは,本来,実施可能要件において判断されるべきものであり,サポート要件を実施可能要件と全く同様の手法によって解釈,判断することは,同一事項を二重に判断することになり,許されないというべきである。
(2) 本件審決は,知財高裁大合議部判決の判示に基づき,本願発明に係るサポート要件の適合性について判断した。
しかし,知財高裁大合議部判決の事件は「特許請求の範囲」が複数のパラメータで特定された記載であり,その解釈が争点となっていたのに対して,本願発明の貯蔵弾性率G’及びtanδはその技術的意義や測定方法が明確な物性値であり,特許請求の範囲の記載は明確であって,技術的範囲についての解釈に疑義はない。このように前提が異なる本願発明に係るサポート要件について,上記事件で用いられた判断手法をそのまま適用することは不当である。
〔被告の主張〕
(1) 原告は,本件審決はサポート要件違反の結論を2箇所で記載しており,その関係が不明であるなどとして,本件審決には理由不備の違法があるなどと主張する。
しかし,原告が挙げる本件審決の各判断のうち,前段は,特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比して,特許請求の範囲に記載された発明が「実質的」に発明の詳細な説明に記載されているといえるか否かという観点からサポート要件の検討を行ってその判断を記載したものである。一方,後段は,発明の詳細な説明の実施例以外の記載は技術常識に照らして当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否かという観点からサポート要件の検討を行ってその判断をし,次に,発明の詳細な説明の実施例の記載は当業者が本願発明全体にわたって当該発明の課題を解決できると認識できるものであるか否かという観点からサポート要件の検討を行ってその判断をし,いずれの観点から検討を行ってもサポート要件を満たしているといえないことを記載したものである。
以上のとおり,本件審決は,サポート要件を複数の観点から検討したものであって,本件審決に理由不備の違法はない。
(2) 原告は,前提が異なる本願発明に係るサポート要件について,知財高裁大合議部判決が判示したサポート要件適合性の判断手法をそのまま適用することは不当であると主張する。
しかし,前記1〔被告の主張〕(1)記載のとおり,本件では形式的な理解によってサポート要件の判断を行うのは妥当でなく,本件審決に判断手法の誤りはない。
第4当裁判所の判断
1 本願発明について
(1) 本願発明は,前記第2の2に記載のとおりであるところ,本願明細書(甲1)には,概略,次のような記載がある。
ア 発明の課題
本願発明の課題は,再利用が可能な部品に対して強固な接着性を発揮し,部品より剥離する際は,加熱等の特別な処理なしに糊残りなく剥離が可能で,接着しづらいエーテル系ウレタンフォームから各種プラスチック,金属までの幅広い被着体に対しても有用な粘着剤及び粘着テープ類を提供することである(【0004】)。
イ 発明を解決するための手段
発明者らは鋭意研究した結果,(メタ)アクリル共重合体に粘着付与樹脂を添加した粘着剤組成物を架橋した粘着剤が,特定の動的粘弾性の範囲にあるときに,再剥離性,エーテル系ウレタンフォームへの接着性をはじめとする物性を満足できることを見いだした(【0005】)。
ウ 発明の実施の形態
本願発明に用いるアクリル共重合体は炭素数が1~12のアルキル基を有する(メタ)アクリル酸アルキルエステルモノマー,高極性ビニルモノマー,架橋剤と反応する官能基を有するビニルモノマーを必須成分としてなる。本願発明に使用される(メタ)アクリル酸アルキルエステルモノマーとしては,特に限定されないが,n-ブチル(メタ)アクリレート,…等が挙げられる(【0012】)。
高極性ビニルモノマーとしては,カルボキシル基含有ビニルモノマー,窒素含有ビニルモノマー等が挙げられる(【0014】)。
架橋剤と反応する官能基を有するビニルモノマーとしては,特に限定されないが,2-ヒドロキシエチルアクリレート,2-ヒドロキシエチルメタクリレート,4-ヒドロキシブチルアクリレート等の水酸基含有ビニルモノマーや,アミン含有ビニルモノマー等が挙げられる(【0015】)。
アクリル共重合体を100重量部とした場合,炭素数1から14の(メタ)アクリル酸アルキルエステル量が,50重量部より少ない場合は,初期接着性が著しく低下する。高極性ビニルモノマー量が1重量部未満の場合は,凝集力が低下し粘着テープをリサイクル部品より剥離する際に糊残りが生じる。また,5重量部を越えると,低温接着性,エーテル系ウレタンフォームへの接着性が損なわれる(【0016】)。
架橋剤と反応する官能基を有するビニルモノマー量が,0.01重量部未満では,例えば架橋剤としてイソシアネート化合物を用いた場合,架橋反応性が著しく低下し,5重量部を越える場合は感圧接着剤溶液のポットライフが著しく低下する。本願発明で使用する粘着付与樹脂としては特に限定されるものではないが,重合ロジンエステル系の粘着付与樹脂を少なくとも1種以上添加することが好ましい。アクリル共重合体100重量部に対する粘着付与樹脂の添加量は10~40重量部である。10重量部未満ではポリオレフィンに対する接着性が低下し,40重量部を超えると低温性が悪化する。粘着剤を架橋する架橋剤は特に限定されないが,イソシアネート系化合物やエポキシ系架橋剤,アジリジン系架橋剤,金属キレート系架橋剤が挙げられる(【0017】~【0020】)。
本願発明の粘着剤は,tanδのピークが5℃以下にあり,50℃での貯蔵弾性率G’が6×104(Pa)を超え2×105(Pa)以下,50℃でのtanδが0.3から0.7の範囲が好ましい。tanδのピークが5℃を超える場合は,低温性が悪化する。50℃での貯蔵弾性率G’が6×104(Pa)以下では,再剥離性が悪化し,2×105(Pa)を超える場合は耐反撥性,定荷重性が悪化する。
また,130℃でのtanδが1を超える場合は,再剥離性が低下する(【0021】)。
エ 実施例
(ア) アクリル共重合体の調製
攪拌機,寒流冷却器,温度計,滴下漏斗及び窒素ガス導入口を備えた反応容器に表1の組合せのモノマー配合100重量部と重合開始剤として2,2’-アゾビスイソブチルニトリル0.2部とを酢酸エチル100部に溶解し,80℃で8時間重合してアクリル共重合体溶液を得た(【0025】)。
(イ) 強接着再剥離型粘着剤の調製
上記のアクリル共重合体100重量部に対し,ロジンエステル系樹脂A-100(荒川化学社製)を10重量部,重合ロジンエステル系樹脂D-135(荒川化学社製)を20重量部添加し,トルエンで希釈混合し固形分45%の強接着再剥離型粘着剤溶液A,B,C,D,Eを得た(【0026】)。
(ウ) テープの調整
上記(イ)の粘着剤溶液100重量部に対し,イソシアネート系架橋剤(日本ポリウレタン社製コロネートL-45,固形分45%)を表2のとおり添加し15分攪拌後,剥離処理した厚さ75μmのポリエステルフィルム上に乾燥後の厚さが65μmになるよう塗工して,80℃で3分間乾燥した。得られた粘着シートを,麻100%の麻原紙にビスコースを含浸してなる坪量15g/㎡,流れ方向(MD)2.5kg/20mm及び幅方向(TD)2.3kg/20mmの引っ張り強度である不織布の両面に転写し,80℃の熱ロールで4kgf/c㎡の圧力でラミネートし,不織布に粘着剤を充分含浸させた。その後40℃で2日間熟成し,両面粘着テープを得た(【0027】)。
(エ) 実施例1ないし4(判決注:段落【0028】の「実施例1~3」との記載は,「実施例1~4」の誤記であると認める。),比較例1及び2で作成した粘着剤及び両面粘着テープについて,重量平均分子量・動的粘弾性・引っ張り強度・接着力の測定,塗工性・再剥離性の評価,定荷重剥離試験を行い,評価結果を表1ないし4に示した(【0028】~【0039】)。
オ 発明の効果
本願発明の強接着再剥離型粘着剤を用いたテープ類を用いることにより,再利用が可能な部品,ステンレスやプラスチック部品,エーテル系ウレタンフォーム等に対して強固な接着性を発揮し,部品より剥離する際は,加熱等の特別な処理なしに糊残りなく剥離することができる(【0040】)。
2 取消事由1(サポート要件に係る判断の誤り)について
(1) 法36条6項は,「第三項四号の特許請求の範囲の記載は,次の各号に適合するものでなければならない。」と規定し,その1号において,「特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載したものであること。」と規定している。
特許制度は,発明を公開させることを前提に,当該発明に特許を付与して,一定期間その発明を業として独占的,排他的に実施することを保障し,もって,発明を奨励し,産業の発達に寄与することを趣旨とするものである。そして,ある発明について特許を受けようとする者が願書に添付すべき明細書は,本来,当該発明の技術内容を一般に開示するとともに,特許権として成立した後にその効力の及ぶ範囲(特許発明の技術的範囲)を明らかにするという役割を有するものであるから,特許請求の範囲に発明として記載して特許を受けるためには,明細書の発明の詳細な説明に,当該発明の課題が解決できることを当業者において認識できるように記載しなければならないというべきである。法36条6項1号が,特許請求の範囲の記載を上記規定のように限定したのは,発明の詳細な説明に記載していない発明を特許請求の範囲に記載すると,公開されていない発明について独占的,排他的な権利が発生することになり,一般公衆からその自由利用の利益を奪い,ひいては産業の発達を阻害するおそれを生じ,上記の特許制度の趣旨に反することになるからである。
そして,特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要件に適合するか否かは,特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比し,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否かを検討して判断すべきものであり(前記知財大合議判決参照),この点に関する原告の主張は,採用することができない。
(2) そこで,上記の観点に立って,以下,本件について検討する。
ア 前記第2の2のとおり,本願発明は,「(a)n-ブチルアクリレートを50重量部以上,カルボキシル基を持つビニルモノマー及び/又は窒素含有ビニルモノマーの一種以上を1~5重量部,水酸基含有ビニルモノマー0.01~5重量部を必須成分として調製されるアクリル共重合体100重量部と,(b)粘着付与樹脂10~40重量部からなる粘着剤組成物を架橋した」という組成であり,かつ,周波数1Hzにて測定されるtanδのピークが5℃以下にあり,50℃での貯蔵弾性率G’が7.0×104~9.0×104(Pa),130℃でのtanδが0.6~0.8であるという粘弾特性を満たす粘着剤を基材の少なくとも片面に設けてなる粘着テープとして記載されている。
他方,前記1のとおり,本願明細書の発明の詳細な説明には,発明の実施の態様として,炭素数1~14の(メタ)アクリル酸アルキルエステル(請求項1のn-ブチルアクリレート),高極性ビニルモノマー(請求項1のカルボキシル基を持つビニルモノマー及び窒素含有ビニルモノマー)及び架橋剤と反応する官能基を有するビニルモノマー(請求項1の水酸基含有ビニルモノマー)の配合量が請求項1に記載された範囲外では粘着特性の点で劣ることが記載(【0016】【0017】)され,また,カルボキシル基を持つビニルモノマー,窒素含有ビニルモノマー,水酸基含有ビニルモノマー及び粘着付与樹脂や架橋剤の具体例(【0012】~【0020】)が列挙されるとともに,【表1】には,実施例1ないし4及び比較例1及び2として,請求項1に記載された粘弾特性を満たす粘着剤及び満たさない粘着剤の具体的組成が記載されている。
また,前記1のとおり,本願明細書の発明の詳細な説明(【0021】)には,発明の実施の形態として,「tanδのピークが5℃を超える場合は,低温性が悪化する。50℃での貯蔵弾性率G’が6×104(Pa)以下では,再剥離性が悪化し,2×105(Pa)を超える場合は耐反撥性,定荷重性が悪化する。また130℃でのtanδが1を超える場合は,再剥離性が低下する。」と,粘弾特性の各パラメータの値が請求項1に記載された範囲を外れる場合には,再剥離性,耐反発性,定荷重性等の粘着特性が悪化する傾向にあることが記載されている。
さらに,実施例1ないし4及び比較例1及び2には,tanδのピークが-7℃以下で,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδが請求項1に記載された範囲(実施例1ないし4)であれば,再剥離性やエーテル系ウレタンフォームあるいはステンレス等に対する接着力において,優れた粘着特性が発揮されるのに対して,tanδのピーク(-7℃)が請求項1に記載された数値の範囲内であっても,50℃での貯蔵弾性率G’(5×104(Pa))及び130℃でのtanδ(1.05)が請求項1に記載された数値範囲を外れると,再剥離性が劣り(比較例1),また,tanδのピーク(0℃)及び130℃でのtanδ(0.6)が請求項1に記載された数値の範囲内であっても,50℃での貯蔵弾性率G’(15×104(Pa))が請求項1に記載された数値の範囲を外れると,定荷重性が劣ること(比較例2)が記載されている。
そして,甲17(「粘着技術ハンドブック」196頁,平成9年3月31日,日刊工業新聞社発行)によれば,tanδのピークが5℃以下であることは,一般の粘着剤が備える粘弾特性であると認められるから,これら実施例及び比較例のデータは,発明の実施の形態として粘着特性の傾向が定性的に記載された粘弾特性の範囲の中でも,特に請求項1に記載された50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδの範囲の粘着剤は,優れた粘着特性を有すること及び請求項1に記載された粘弾特性を外れると,発明の実施の形態(【0021】)に記載されたとおり,粘着特性が劣るものとなることを示すものであるといえる。
イ しかしながら,実施例1ないし4は,いずれも,n-ブチルアクリレート(表1のBA)を90重量部程度有し,任意モノマーとして酢酸ビニル(同VAc),カルボキシル基を持つビニルモノマーとしてアクリル酸(同AA),窒素含有ビニルモノマーとしてNビニルピロリドン(同NVP),水酸基含有ビニルモノマーとしてヒドロキシエチルアクリレート(同HEA),粘着付与樹脂としてロジンエステル系樹脂A-100(荒川化学社製)及び重合ロジンエステル系樹脂D-135(荒川化学社製)を用いたものであって,請求項1に記載された組成の中のごく一部のものにすぎない。
また,請求項1に記載された粘弾特性のパラメータであるtanδのピーク,50℃での貯蔵弾性率G’及び130℃でのtanδのそれぞれの値を制御するには何を行えばよいのかについて,本願明細書の発明の詳細な説明には,何らの記載もない。
さらに,例えば,甲20(佐藤弘三「粘弾性と粘着物性」)の図6には,モノマー組成が同一のアクリル系粘着剤であっても分子量が大きいほど,50℃での貯蔵弾性率G’は小さく,130℃でのtanδが大きいことが記載され,また,図7には,架橋剤量が多いほど,50℃での貯蔵弾性率G’は大きく,130℃でのtanδは小さいことが記載されているように,粘着剤の技術常識によれば,請求項1に記載された粘弾特性の各パラメータの値は,アクリル系共重合体を構成するモノマーの種類(官能基の種類や側鎖の長さなど)や各種モノマーの配合比だけでなく,それらが重合してなるアクリル重合体の分子量,粘着付与樹脂の種類や配合量,架橋の程度など,様々な要因の影響を複合的に受けて変化するものである。
そうすると,粘着剤が請求項1に記載された組成を満たしているとしても,それ以外の多数の要因を調整しなくては,請求項1に記載された粘弾特性を満たすようにならないことは明らかであり,実施例1ないし4という限られた具体例の記載があるとしても,請求項1に記載された組成及び粘弾特性を兼ね備えた粘着剤全体についての技術的裏付けが,発明の詳細な説明に記載されているということはできない。また,そうである以上,請求項1に記載された粘着剤は,発明の詳細な説明に記載された事項及び本件出願時の技術常識に基づき,当業者が本願発明の前記課題を解決できると認識できる範囲のものであるということもできない。
ウ 以上によれば,本願発明に係る特許請求の記載の範囲の記載は,サポート要件に適合しないというべきである。
(3) 原告の主張について
原告は,tanδのピークは,アクリル系粘着剤に一般的に使用されている各種モノマーの中から適宜選択して組成に基づく計算により推定できるとか,アクリル系粘着剤のTgやアクリル系粘着剤と粘着付与樹脂の配合量を適宜調整することなどによって,貯蔵弾性率G’が所定の値である粘着剤Aを製造することは,本件出願時の技術常識から当業者にとって容易であったなどと主張する。
しかしながら,請求項1に上位概念で必須成分と記載されたモノマー(カルボキシル基を持つビニルモノマー,窒素含有ビニルモノマー,水酸基含有ビニルモノマー)には粘弾特性に与える影響(側鎖の長さ等)を異にする多種類のものが含まれる上,必須成分とされていない任意のモノマーは,請求項1の記載によれば,最大48.99重量部(100-(50+1+0.01)=48.99)まで含まれ得るものであるから,請求項1に記載されたアクリル共重合体を構成するモノマーの候補は極めて多岐にわたる。また,前記(2)のとおり,原告が挙げるモノマーの種類や粘着付与樹脂の量などのほかにも,アクリル共重合体の分子量などの要因が粘弾特性の各パラメータに複合的な影響を与えることが知られている。これらの点を考慮すると,粘弾特性の各パラメータの制御の仕方についての記載がなくとも,請求項1に記載された組成で,かつ,粘弾特性を兼ね備えた粘着剤に関する開示が十分であるとまでは認めることができない。
なお,原告は,粘着剤の分野において,粘着組成物の組成の大枠と物性が特定されていれば,当業者は過度の試行錯誤を要することなく,当該物性を備える粘着剤を製造することのできる証拠として,甲24ないし36の特許公報又は特許出願公開公報を提出する。
しかしながら,上記各書証は,いずれもtanδのピーク,特定温度での貯蔵弾性率G’及び特定温度でのtanδを調整することを示すものではなく,本件とは事案を異にする上,甲26及び28ないし36は,未だ審査を経ていない発明に係る特許出願公開公報であるから,サポート要件に係る当裁判所の判断を左右するものではない。
したがって,原告の主張は,採用することができない。
(4) 小括
よって,取消事由1は理由がない。
3 取消事由2(理由不備の違法)について
(1) 原告は,本件審決では,その11頁21行目と13頁14行目において,それぞれ異なる理由付けからサポート要件がないとの判断を示しているが,その2つの異なる理由の関係は明らかでないから,本件審決には理由不備の違法があると主張する。
しかしながら,審決書をみると,本件審決は,サポート要件の適合性の判断について,当裁判所の上記判断と同様の手法を採用した上で,その11頁21行目までは,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明であるか否かを検討して,これを否定し,さらに,その後の13頁14行目までは,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否かを検討して,これも否定したものである。そうである以上,本件審決について,原告が主張するように,その理由付けの論理的関連性が明らかでないという意味での理由不備の違法があるということはできない。
したがって,原告の主張は,採用することができない。
(2) 原告は,本件審決はサポート要件について,実施可能要件と同様の手法により判断しており,許されないと主張する。
そこで検討するに,本件審決は,本願発明が発明の詳細な説明に記載されているというためには,本願発明で使用する粘着剤について,技術的な裏付けをするのに十分な記載がされることが必要であり,具体的には,それを製造ないし入手できるように記載されていることが必要と認められるなどと述べているところ,これらの説示は,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明の記載から十分にサポートを受けているかという観点から述べられたものであると認められるから,かかる説示が許されないものということはできない。
したがって,原告の主張は,採用することができない。
(3) 原告は,貯蔵弾性率G’及びtanδはその技術的意義や測定方法が明確な物性値であり,特許請求の範囲の記載は明確であって,技術的範囲についての解釈に疑義はないから,本願発明に係るサポート要件について,知財高裁大合議判決で用いられた判断手法をそのまま適用することは不当であると主張する。
しかしながら,サポート要件の適合性については,知財高裁大合議判決で用いられた判断手法と同様に,前記2記載の観点から判断されるべきであるから,これと同様の手法により本願発明に係るサポート要件について判断した本件審決の判断手法が不当であるということはできない。
したがって,原告の主張は,採用することができない。
(4) 小括
よって,取消事由2も理由がない。
4 結論
以上の次第であるから,原告の請求は棄却されるべきものである。
(裁判長裁判官 土肥章大 裁判官 大鷹一郎 裁判官 齋藤巌)