知財高等裁判所 平成24年(行ケ)10306号 判決 2013年7月18日
原告
日亜化学工業株式会社
同訴訟代理人弁護士
宮原正志
同訴訟復代理人弁護士
松本優子
同訴訟代理人弁理士
鮫島睦
言上惠一
田村啓
呉英燦
被告
エヴァーライト エレクトロニクス
カンパニー リミテッド
同訴訟代理人弁護士
黒田健二
吉村誠
門松慎治
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
特許庁が無効2011-800179号事件について平成24年7月23日にした審決中,特許第2735057号の請求項1,3,16ないし18に係る部分を取り消す。
第2事案の概要
本件は,原告が,後記1のとおりの手続において,原告の後記2の本件発明に係る特許に対する被告の特許無効審判の請求について,特許庁が本件特許のうち,請求項1,3,16ないし18に係る発明についての特許を無効とした別紙審決書(写し)の本件審決(その理由の要旨は後記3のとおり)には,後記4のとおりの取消事由があると主張して,その取消しを求める事案である。
1 特許庁における手続の経緯
(1) 原告は,平成7年12月12日,発明の名称を「窒化物半導体発光素子」とする特許出願(特願平7-322924号。優先権主張番号:特願平6-320100号(以下「本件基礎出願」という。また,同出願に係る発明を,「本件基礎出願発明」といい,同出願に係る明細書(甲13)を,図面を含め,「本件基礎出願明細書」という。国内優先権主張日:平成6年12月22日(以下「本件優先日」という。))をし,平成10年1月9日,設定の登録(特許第2735057号。請求項の数18)を受けた(甲31の2。以下,この特許を「本件特許」という。)。
(2) 被告は,平成23年9月21日,本件特許の請求項1ないし5,7,8,14ないし18に係る発明について,特許無効審判を請求し,無効2011-800179号事件として係属した(甲32)。
(3) 特許庁は,平成24年7月23日,「特許第2735057号の請求項1,3,16ないし18に係る発明についての特許を無効とする。特許第2735057号の請求項2,4,5,7,8,14,15に係る発明についての審判請求は,成り立たない。」旨の本件審決をし,同年8月2日,その謄本が原告に送達された。
2 特許請求の範囲の記載
本件特許の特許請求の範囲の請求項1,3,16ないし18に記載の発明(平成12年11月28日付け異議の決定(甲28)において認められた訂正後のもの。以下,この請求項1,3,16ないし18に係る発明を,請求項の番号に応じて「本件発明1」「本件発明3」「本件発明16」「本件発明17」「本件発明18」といい,これらを併せて「本件発明」という。また,本件特許に係る明細書(甲31の1・2)を,図面を含め,「本件明細書」という。)は,次のとおりである。
【請求項1】インジウムとガリウムとを含む窒化物半導体よりなり,第1の面と第2の面とを有し,さらに量子井戸構造を有する活性層と,この活性層の第1の面側に設けられたn型GaNよりなるn型コンタクト層との間に,該活性層よりもバンドギャップエネルギーが大きく,かつIna’A1b’Ga1-a’-b’N(0≦b’<0.1)で表されるインジウムとガリウムとを含むn型窒化物半導体よりなる第1のn型クラッド層を備え,該第1のn型クラッド層が活性層の第1の面に接して形成されていることを特徴とする窒化物半導体発光素子。
【請求項3】第1のn型クラッド層に接して,第1のn型クラッド層よりもバンドギャップエネルギーが大きく,かつアルミニウムとガリウムとを含むn型窒化物半導体よりなる第2のn型クラッド層が形成されていることを特徴とする請求項1に記載の窒化物半導体発光素子。
【請求項16】活性層が量子井戸構造を有することを特徴とする請求項14に記載の窒化物半導体発光素子。
【請求項17】活性層がInxGa1-xN(0<x<1)よりなる井戸層を有することを特徴とする請求項1ないし13,請求項16いずれかに記載の窒化物半導体発光素子。
【請求項18】活性層がIndGa1-dN(0<d<1)よりなる井戸層と,IneGa1-eN(0<e<1,d>e),若しくはGaNよりなる障壁層との組み合わせからなることを特徴とする請求項1~13,請求項16~17いずれかに記載の窒化物半導体発光素子。
3 本件審決の理由の要旨
本件審決の理由は,要するに,本件発明について,平成8年法律第68号による改正前の特許法41条による優先権主張の効果を認めることができず,本件発明は,下記文献に記載された発明であるから,平成11年法律第41号による改正前の特許法29条1項3号により特許を受けることができない,というものである。
記
「 High-power InGaN single-quantum-well-structure blue and violet light-emitting diodes」 Applied Physics Letters, Vol.67 No.13 (平成7年(1995年)9月25日発行。甲3)
4 取消事由
国内優先権主張に係る判断の誤り
第3当事者の主張
〔原告の主張〕
1 本件優先日当時の技術常識について
(1) 本件優先日当時の文献(甲22。「 Photoluminescence characteristics of AlGaN-GaN-AlGaN quantum wells」Appl.Phys.Lett.Vol.56,No13。平成2年(1990年)発行。以下「甲22文献」という。)は,GaN系量子井戸に関する当業者の技術常識を的確に開示している。同文献は,GaN系量子井戸活性層に関するパイオニア的論文であり,GaN系において300Åの活性層膜厚で量子井戸効果が生じたことを明確に記載している。
本件優先日当時のそのほかの文献(甲40,41。以下,それぞれ「甲40文献」「甲41文献」という。)によると,InGaNの有効質量がGaNよりも軽いこと等から,GaNで量子井戸効果が生じる膜厚であれば,InGaNでも当然に量子井戸効果が生じることは,当業者には自明である。
したがって,原告が審判手続において,本件優先日当時,活性層の膜厚が数百Å以下であれば量子効果を発現し,量子井戸構造であることが周知であることを示すために提出した文献(甲14~22)のうち,甲22文献のみをもってしても,本件優先日当時,当業者は300Åの膜厚のInGaN活性層で量子井戸効果が生じると認識していたということができる。
(2) 被告が提出する各文献(乙1~3)は,いずれも本件優先日後に刊行された文献であり,本件優先日当時の当業者の認識を示すものではない。そのほかの文献(乙4~11)も,被告の主張を裏付けるものではない。
また,特許権者である原告が,法律上許された手続を適宜選択して利用することは当然に許されているから,原告が量子井戸効果を明記すべく手続補正をしなかったからといって,本件基礎出願明細書に量子井戸効果に係る記載が存在しないということはできない。
2 300ÅのInGaN活性層膜厚に係る判断について
(1) 本件基礎出願明細書(【0011】)には,クラッド層膜厚とInGaN活性層膜厚の合計値の好ましい範囲の下限値が300Åであると明示されているから,InGaN活性層膜厚については,300Å未満という数値が開示されているということができる。すなわち,本件基礎出願発明の基本思想は,本件基礎出願明細書(【0011】【0027】)によると,従来,InGaN活性層のみが担っていたクッションバッファ機能を,InGaNクラッド層を含んだInGaN層全体に負担させることによって活性層を薄くすることを可能としたものであるところ,このクッションバッファ機能は,InGaN総膜厚が厚いほど機能が増大するから,本件基礎出願明細書(【0011】)は,「300オングストローム以上」と記載することにより,クッションバッファ機能を奏するInGaN総膜厚の好ましい下限値を規定したのである。この下限値は,理論的に限界を画する等の見地からの下限値ではなく,実施態様として「好ましい」値として明記された下限値であって,本件基礎出願明細書が好ましい実施態様の一例として300ÅというInGaN総膜厚の具体的数値を明記している以上,少なくとも論理必然となる300Åよりも僅かに薄いInGaN活性層膜厚が実施態様の1つとして明記されていることは,その文言形式上,当然である。
本件審決は,本件基礎出願明細書におけるInGaN活性層膜厚の下限値について,実施例に記載された400Åであると認定し,本件基礎出願明細書に明記された「300Åよりも僅かに小さい値」のInGaN活性層膜厚について,全く判断していないから,判断の脱漏であるというほかない。
(2) 原告は,審判手続において,本件基礎出願明細書には300Åよりも薄い膜厚のInGaN活性層,具体的には200Å未満等の膜厚のInGaN活性層が開示されている旨を主張した。
さらに,原告は,審判手続において,200Å未満等のInGaN活性層膜厚を主張する前提として,本件基礎出願明細書(【0011】)に開示された300Åという数値に言及した上で,本件基礎出願明細書には,400Åよりも薄い膜厚のInGaN活性層が開示されていることを繰り返し主張している。
3 200ÅのInGaN活性層膜厚に係る判断について
(1) 本件基礎出願明細書(【0010】)では,InGaN活性層の膜厚が薄いほど結晶性が良くなることを開示した上で,結晶欠陥防止の見地から活性層膜厚の最も好ましい上限値を500Å に画している。他方,本件基礎出願明細書(【0027】)では,従来技術におけるInGaN活性層膜厚の下限値が200Åであると明記している以上,本件基礎出願明細書には,InGaN活性層膜厚の最も好ましい上限値は500Åであり,下限値は200Åである旨が開示されているということができる。
したがって,下限値が200Åである旨の記載が従来技術に関する記載であったとしても,InGaN活性層の膜厚として200Åという数値が開示されているというべきであって,本件審決は,この点について全く判断していない。
(2) 本件審決は,本件基礎出願明細書(【0026】【0027】)と同一内容の本件訂正明細書(【0011】【0012】)の記載を引用した上で,従来技術では,InGaN活性層のみがクッション機能を果たしており,InGaN活性層をA1GaNクラッド層で挟んだ構造では,A1GaNクラッド層の結晶が硬いために,InGaN活性層の厚さを200Å未満にするとクッション機能が不十分となり,InGaN活性層とA1GaNクラッド層とにクラックないし結晶欠陥が生じて発光出力の向上が望めないという問題点があったところ,本件発明は,InGaN活性層の厚さを200Å未満とすることにより生じる当該問題点を,第1のクラッド層を採用することにより解決したものであるとする。本件審決のこのような認定からすれば,本件基礎出願明細書の上記記載は,本件基礎出願発明によって,InGaN活性層の膜厚を200Å未満にすることが可能となったこと,すなわち,本件基礎出願明細書に,200Å未満のInGaN活性層の膜厚の開示があることを意味するというべきであるが,本件審決は,この点についての実質的な理由を全く示していない。
4 以上のとおりであるから,本件基礎出願明細書には,InGaN活性層膜厚についての具体的数値が開示されており,量子井戸構造を有する発光素子に係る自明的記載があるということができる。
したがって,量子井戸構造を含む本件発明について国内優先権主張の効果を認めなかった本件審決の判断は誤りである。
〔被告の主張〕
1 本件優先日当時の技術常識について
(1) 原告の主張は,本件基礎出願明細書には一定膜厚(200Å未満から300Å程度)のInGaN活性層が記載されていることを前提として,「InGaN活性層が一定膜厚(200Å未満ないし300Å程度)であれば,量子井戸構造であること」(以下「本件事項」という。)が当業者に自明であることをもって,本件基礎出願明細書の記載から,「量子井戸構造」が当業者に自明であることを結論付けるものである。
しかしながら,原告が本件事項の根拠とする文献(甲22文献など)は,いずれもInGaN活性層に関する量子井戸構造について開示していないから,本件事項が自明であったことの根拠とはならない。いずれも本件優先日後に刊行された文献ではあるが,そのほかの文献(乙1,2)によると,上記各文献の刊行当時,GaAs系活性層においては少なくとも100Å以下でなければ量子井戸効果が生じないと当業者が認識していたということができるから,これを覆すような特段の事情がない限り,本件優先日当時にも,同様の認識であったというべきであって,GaAs系活性層においては200Å未満ないし300Å程度であれば量子井戸構造となることが当業者に自明であったということはできない。
(2) 原告の出願に係る公開特許公報(乙3。特開平9-148678号公報。以下「乙3文献」という。)において,原告自身がInGaNの量子効果は70Å以下で現れると明記しているし,本件明細書においても,量子井戸効果を有する活性層の膜厚は100Å以下であると明記されているから,本件事項が自明であるとはいえない。
仮に,本件基礎出願明細書に量子井戸効果が記載されているか,あるいは自明であるということができるのであれば,国内優先権制度を利用して量子井戸効果に関する記載を特許請求の範囲に追加するのではなく,手続補正を行えば足りたものである。原告が,新規事項の追加が許されない手続補正を行わなかったことは,原告自身が本件基礎出願明細書に量子井戸効果に係る記載が存在しないことを認識していたからにほかならない。
2 300ÅのInGaN活性層膜厚に係る判断について
(1) 原告は,無効審判において,本件基礎出願明細書に300ÅのInGaN活性層膜厚が開示されているか否かについて,明示的に判断を求めていないから,300Åの活性層について本件審決が何らの判断をしなかったことは当然である。
しかも,本件事項が自明とはいえない以上,仮に原告が300ÅのInGaN活性層が開示されていることを主張していたとしても,審判合議体が判断を示す必要性は存しない。
(2) 原告も,本件優先日当時,300Å程度のInGaN活性層で量子井戸効果が生じることを開示した文献を発見できなかったことを認めている。
3 200ÅのInGaN活性層膜厚に係る判断について
(1) 本件基礎出願明細書において,200Å以下のInGaN活性層について明示の記載がないこと自体は当事者間に争いがなく,本件基礎出願明細書の記載(【0026】【0027】)のうち,特に「200Å」という数値が明記されていること(【0027】)に基づいて,200Å以下のInGaN活性層が黙示的に開示されているかが,問題となる。
(2) 本件基礎出願明細書の【発明の効果】欄には,InGaN活性層が400Åや1000Åである実施例に基づいて,発光出力増大等の効果が得られることが記載されているのみであり,InGaN活性層を200Å未満にできることが本件基礎出願発明の効果であるとは記載されていないし,これを示唆する記載もない。
本件基礎出願明細書(【0027】)は,発明の作用ではなく,従来の構造の問題点に係る記載であって,特に従来の構造では活性層の膜厚を200Å未満にするとクラックが多数生じることに関する記載があるにとどまり,「200Åならばクラックが生じない」旨が記載されているわけではない。
4 以上のとおりであるから,本件基礎出願明細書には,InGaN活性層膜厚についての具体的数値が開示されておらず,量子井戸構造を有する発光素子に係る自明的記載があるということもできないから,本件審決の判断に誤りはない。
第4当裁判所の判断
1 本件基礎出願明細書について
本件基礎出願明細書(甲13)には,おおむね次の記載がある。
(1) 特許請求の範囲
【請求項1】第一の主面と第二の主面とを有する活性層がインジウムとガリウムとを含む窒化物半導体よりなる発光素子であって,その活性層の第一の主面側に接して活性層よりもバンドギャップが大きく,且つインジウムとガリウムとを含むn型窒化物半導体よりなる第一のn型クラッド層を備え,および/またはその活性層の第二の主面側に接して活性層よりもバンドギャップが大きく,且つインジウムとガリウムとを含むp型窒化物半導体よりなる第一のp型クラッド層を備えることを特徴とする窒化物半導体発光素子。
(2) 産業上の利用分野
本発明は,発光ダイオード(LED),レーザダイオード(LD)等に使用される窒化物半導体よりなる発光素子に関する発明である(【0001】)。
(3) 発明が解決しようとする課題
従来のLEDは,20mAで発光出力は3mW近くあり,SiCよりなるLEDと比較して200倍以上の出力を有するが,短波長LDの実現,さらに高輝度なLEDを実現するためには,さらなる発光出力の向上が望まれている。本発明は,窒化物半導体よりなる発光素子の出力向上のために新規な窒化物半導体発光素子の構造を提供するものである(【0004】)。
(4) 課題を解決するための手段
ダブルへテロ構造の活性層を挟むクラッド層について改良を加えた結果,クラッド層をInGaNとすることで発光素子の出力を飛躍的に向上することができる。すなわち,InxGa1-xN活性層の第一の主面,第二の主面のいずれかの面にInxGa1-xN層よりもバンドギャップが大きいInGaNよりなるクラッド層を形成することにより,発光素子の出力が向上するものである(【0005】)。
本発明において,活性層の厚さは0.5μm以下,さらに好ましくは0.1μm以下,最も好ましくは0.05μm(500Å)以下の厚さに調整する。インジウムを含む窒化物半導体は,厚膜とするほど結晶欠陥が生じやすく,その厚さが薄いほど結晶性が良くなる傾向にあるからである(【0010】)。
第一のn型クラッド層(n型InYGa1-YN)及び第一のp型クラッド層(p型InZGa1-ZN)は,請求項1に記載のように,活性層の第一の主面,第二の主面のいずれの面に形成してもよいが,特に好ましくは,活性層の両面に形成する。インジウムを含む第一のn型クラッド層及び第二のp型クラッド層は結晶が柔らかいので,これらのクラッド層がクッションのようなバッファ層の作用をして,これらのクラッド層の外側に,第二のn型クラッド層,第二のp型クラッド層,n型コンタクト層,p型コンタクト層を形成した際,これらの層中にクラックが入るのを防止することができる。InGaNがバッファ層として作用する膜厚の好ましい範囲は,活性層と第一のn型クラッド層,活性層と第一のp型クラッド層,活性層と第一のn型クラッド層と第一のp型クラッド層の組合せにおいて,組み合わせたInGaN層の総膜厚を300Å以上にすることが好ましい。また,発光素子とした場合,第一のn型クラッド層を省略すれば,第二のn型クラッド層が第一のn型クラッド層として作用し,また,第一のp型クラッド層を省略すれば,第二のp型クラッド層が第一のp型クラッド層として作用する(【0011】【図2】)。
(5) 作用
従来の窒化物半導体発光素子は,InGaN活性層をA1GaNクラッド層で挟んだ構造を有していたが,本発明では,InGaN活性層を,その活性層よりもバンドギャップの大きいInGaNで挟むことにより,発光出力が向上している。これは,新たなInGaNクラッド層がInGaN活性層とA1GaNクラッド層との間のバッファ層として働いているからである。InGaNは,結晶が柔らかいという性質を有しており,A1GaNクラッド層とInGaNとの格子定数不整と熱膨張係数差によって生じる結晶欠陥を吸収する働きがあると考えられる。このため,新たに形成したInGaNクラッド層が,これら結晶欠陥を吸収してInGaN活性層の結晶欠陥が大幅に減少するので,InGaN活性層の結晶性が飛躍的に良くなり,発光出力が増大する(【0026】)。
従来のInGaN活性層をA1GaNクラッド層で挟んだ構造では,例えばInGaN活性層の厚さを200Å未満にすると,A1GaNクラッド層の結晶が非常に硬いという性質を有していることなどから,A1GaNクラッド層とInGaN活性層とにクラックが多数生じる。したがって,従来では,InGaN活性層の膜厚を例えば200Å以上にしないとクラックが生じ,素子作製は困難であった(【0027】)。
(6) 実施例
ア 実施例1では,400Åの膜厚の活性層が用いられている(【0034】)。
イ 実施例2では,活性層のインジウム組成比をIn0.2Ga0.8Nとするほかは,実施例1と同様のLED素子が用いられている(【0039】)。
ウ 実施例3では,活性層にSiとZnをドープしたn型In0.05Ga0.95N層を1000Åの膜厚で形成するほかは,実施例1と同様のLED素子が用いられている(【0040】)。
エ 実施例4では,第一のp型クラッド層を形成しないほかは,実施例1と同様のLED素子が用いられている(【0041】)。
オ 実施例5では,第一のn型クラッド層を形成しないほかは,実施例1と同様のLED素子が用いられている(【0042】)。
カ 実施例6では,第二のn型クラッド層,第一のn型クラッド層,活性層,第一のp型クラッド層及び第二のp型クラッド層を実施例1と同様に成長させている(【0044】)。
(7) 発明の効果
本発明の発光素子は,従来のInGaN活性層を新たなInGaNクラッド層で挟むことにより,活性層の結晶性が良くなるので,発光出力が格段に向上する。
また,従来,活性層のインジウム組成比を大きくすると結晶性が悪くなって,バンド間発光で520nm付近の緑色発光を得ることは難しかったが,本発明によると,高輝度な緑色LEDも実現できた(【0049】)。
本発明の発光素子は,従来では実現できなかった高輝度な緑色LEDを初めて実現したことにより,高輝度なフルカラーLEDディスプレイが初めて製作可能となった。また,照明用光源,読み取り用光源等,その産業上の利用価値は多大である(【0050】)。
2 本件明細書について
本件発明の特許請求の範囲は,前記第2の2に記載のとおりであるところ,本件明細書(甲31の1・2)には,おおむね次の記載がある。
(1) 発明の属する技術分野
本発明は,発光ダイオード(LED),レーザダイオード(LD)等に使用される窒化物半導体(Ina'A1b'Ga1-a'-b'N,0≦a',0≦b',a'+b'≦1)よりなる発光素子に関する発明である(【0001】)。
(2) 従来の技術
紫外領域から赤色領域までの波長領域に発光するLED,LD等の発光素子の材料として窒化物半導体(Ina'A1b'Ga1-a'-b'N,0≦a',0≦b',a'+b'≦1)が有望視されている(【0002】)。
現在,実用化されているLED素子の発光波長は,その活性層のInGaNのIn組成比を変えるか,活性層にドープする不純物の種類を変えることにより,紫外から赤色領域まで変化させることが可能となっている(【0003】)。
(3) 発明が解決しようとする課題
従来のLEDは,20mAで発光出力は3mW近くあり,SiCよりなるLEDと比較して200倍以上の出力を有するが,短波長LDの実現,さらに高輝度なLEDを実現するためには,さらなる発光出力の向上が望まれている。本発明は,窒化物半導体よりなる発光素子の出力向上のために新規な窒化物半導体発光素子の構造を提供するものである(【0004】)。
(4) 課題を解決するための手段
窒化物半導体で形成されるダブルへテロ構造において,InとGaとを含む窒化物半導体よりなる活性層を挟む少なくとも一方の,好ましくは両方のクラッド層をInとGaとを含む窒化物半導体で形成することにより,発光素子の出力が飛躍的に向上するものである(【0005】)。
(5) 発明の実施の形態
本件発明では,活性層を量子井戸構造(単一量子井戸構造又は多重量子井戸構造)とすることにより,発光波長の半値幅がより狭くなり,発光出力も向上する(【0016】)。
活性層を多重量子井戸構造とする場合,障壁層は,InGaNばかりでなく,GaNで形成することもできる。活性層を多重量子井戸構造とすると,単一量子井戸構造の活性層よりも発光出力が向上する。
その場合,井戸層は100Å以下,さらに好ましくは70Å以下の膜厚が望ましい。この井戸層の膜厚の範囲は単一量子井戸構造の活性層(単一の井戸層により構成される)についても同様である。他方,多重量子井戸構造における障壁層は,150Å以下,さらに好ましくは100Å以下の厚さが望ましい(【0017】)。
(6) 発明の効果
本件発明は,InGaN活性層の両側又はその一方に接してInGaNクラッド層を形成することにより,活性層の結晶性が良化して発光出力が格段に向上する。
また,従来,活性層のインジウム組成比を大きくすると結晶性が悪くなって,バンド間発光で520nm付近の緑色発光を得ることは難しかったが,本件発明によると,活性層の結晶性が良くなるので,従来では困難であった高輝度な緑色LED
3 本件優先日当時の技術常識について
(1) 本件優先日当時の文献について
原告は,本件優先日当時の技術常識に係る書証として,甲22文献のほか,甲14ないし21を提出する。そこで,以下,上記各文献について検討する。
ア 甲22文献について
甲22文献(甲22)には,おおむね次の記載がある。
(ア) 量子井戸構造は,0.2μmのA1GaN層,次いでGaN井戸(100~300Å),最後に0.2μmのA1GaN層を堆積させて成長させた。
(イ) 図2のデータは,閉じ込め層にA10.14Ga0.86Nを有する,推定厚が300Å(成長時間180秒)のGaN量子井戸から得られた。
(ウ) 異なる井戸厚のサンプルのフォトルミネセンススペクトルを測定した。これらのスペクトルを量子井戸についての理論解と比較した。GaNバルク及び量子井戸からのピーク発光間の相違は,大きな定数補正(平均で35.5meV)と300ないし100Åの井戸厚について2ないし18meVまで変化する量子サイズ効果による,より小さなシフト(n=1状態でEc+Ehh)とからなることを見いだした。
イ 甲14について
新版レーザーハンドブック(甲14。平成元年発行)には,おおむね次の記載がある。
(ア) 半導体レーザーの活性領域に光を閉じ込める積層構造(光閉じ込めの機構)
実用化されているほとんどの半導体レーザーは,二重ヘテロ(DH)構造と呼ばれる異種半導体の積層構造を採用している。A1GaAs/GaAs(活性層)/A1GaAsやInP/InGaAsP(活性層)/InPのように,バンドギャップエネルギーの小さい層を大きい層で挟むことによって電子と正孔とをポテンシャル谷で閉じ込めると同時に光学的には屈折率が小/大/小となる光導波路構造を形成し,発振レーザーモードの光電磁界を活性領域に集中させている。
(イ) 量子井戸レーザー
活性領域の厚さが20nm(200Å)以下となって電子波のコヒーレンス長と膜厚とが同程度になると,厚さ方向に関する電子の運動が量子化され,離散的な量子準位が形成される。
ウ 甲15について
半導体レーザ[基礎と応用](平成元年発行。甲15)には,GaAs層を有する試料に関zしがて数,百量Å子以井下戸で効な果けがれ現ばれなるらたなめいにとはの,記井載戸が領あ域る。, すなわち狭禁制帯領域の厚さLzが数百Å以下でなければならないとの記載がある。
エ 甲16について
超格子構造の光物性と応用(昭和63年発行。甲16)には,31.6nm(316Å)の厚さのGaAs(活性層)と,25nmの厚さのA10.21Ga0.79Asからなる量子井戸構造が開示されているほか,おおむね次の記載がある。
図1.17に,GaAs-A10.2Ga0.8As量子井戸構造でGaAs層の厚さLzを400nmから21nm(210Å),14nm(140Å)と変えたときの低温(4.2K)で測定した吸収スペクトルの変化を示す。Lzが小さくなるにつれて量子効果が顕著になること,スペクトルが階段状ではなく,ピーク構造を有し,励起子効果が顕著に現われているのがよく分かる。GaAs量子井戸層の厚さLzは5nm(50Å)に保つ。
オ 甲17について
半導体工学(平成2年発行。甲17)には,GaAsの薄層(10~200Å)を2枚のA1GaAs層で挟むと,図3.14のように伝導帯及び価電子帯に井戸形ポテンシャルが形成されるとの記載がある。
カ 甲18について
半導体超格子の物理と応用(昭和59年発行。甲18)には,おおむね次の記載がある。
図18に,GaAs(活性層)-A10.2Ga0.8As超格子系でGaAsの厚さLwを4000Åから210Å,140Åと変えたときの吸収スペクトルを示す。Lwが小さくなるにつれて量子効果が顕著になること,スペクトルが階段状ではなく,ピーク構造を有し,励起子効果が顕著に現われていることがよく分かる。
キ 甲19について
半導体レーザーの基礎(昭和62年ころ発行。甲19)には,GaAs(活性層)-A1As超格子構造に関して,井戸層の厚さLzが200Å以下になると,量子サイズ効果が室温でも出現するようになるとの記載がある。
ク 甲20について
オプトエレクトロニクス一問一答(昭和59年発行。甲20)には,「量子井戸半導体レーザは,ダブルヘテロ構造半導体レーザの活性層を極めて薄く(数百Å程度,例えば200Å)して,活性層が井戸形ポテンシャルの底になるようにし,量子力学的な効果が現れるようにしたレーザであり,GaAs系単一量子井戸レーザの試作例では,Lzは200Åであり,Lzが50ないし200Åの5層多重GaAs系レーザ,InGaAsP系13層多重レーザなどが試作されているとの記載がある。
ケ 甲21について
超格子ヘテロ構造デバイス(昭和63年発行。甲21)には,GaAs量子井戸の場合,膜厚Lwが300Å以下で量子準位の離散性が顕著となるとの記載がある。
(2) 各文献に開示された技術内容について
ア 前記(1)アによると,甲22文献には,GaN活性層の膜厚が300Åの場合,量子井戸効果が生じていることが開示されているということができる。
しかしながら,上記記載はGaN活性層に関する記載であり,InGaN活性層に関する記載ではないから,当該記載をもって,InGaN活性層の膜厚が300Åの場合,量子井戸効果が生じることを直ちに導き出せるとはいえない。
イ 前記(1)イないしケによると,前記各文献のうち,甲14,17ないし20が開示する活性層は,いずれも300Åよりも薄い膜厚であるところ,甲14ないし甲21は,いずれもGaAs系活性層に関する文献であって,InGaN活性層に関する技術を開示するものではないから,前記各記載から,InGaN活性層の膜厚が300Åで量子井戸効果を得られることが自明であるということはできない。
ウ したがって,本件優先日当時,当業者は300Åの膜厚のInGaN活性層で量子井戸効果が生じると認識していたということはできない。
(3) 原告の主張について
原告は,GaN系量子井戸活性層に関するパイオニア的論文である甲22文献が,GaN系において300Åの活性層膜厚で量子井戸効果が生じたことを明確に記載しているところ,甲40文献及び甲41文献によると,InGaNの有効質量がGaNよりも軽いこと等から,GaNで量子井戸効果が生じる膜厚であれば,InGaNでも当然に量子井戸効果を生じることが当業者には自明であるなどと主張する。
しかしながら,GaN活性層が300Åの膜厚で量子井戸効果が生じることを示す文献としては,甲22文献が書証として提出されているのみであるから,GaN活性層が300Åの膜厚で量子井戸効果を生じることが,本件優先日当時,当業者にとって自明の事項であるとまでいうことはできない。また,活性層の膜厚を徐々に薄くすることに伴い,量子井戸効果も徐々に生じるものであるが(甲16,18),量子井戸効果が生じたからといって,直ちに発光素子として実用に耐え得るものであるとまでいうことはできず,原告自身も,本件明細書(【0017】)において量子井戸構造の井戸層(InGaN活性層)の膜厚は100Å以下が望ましいと記載しているとおり,当業者としては,膜厚が薄い場合,少なくとも100Å以下程度であれば発光素子として実用に耐え得るような量子井戸効果が生じているという認識は有していたと推測することができるものの,300Åでも実用に耐え得るような量子井戸効果が生じているという認識までは有していなかったと解さざるを得ない。
したがって,原告の前記主張は,採用することができない。
4 300Å のInGaN活性層膜厚に係る判断について
(1) 本件優先日当時,300Åの膜厚のInGaN活性層が量子井戸効果を生じることを明記した文献は,書証として提出されていない。
前記3のとおり,本件優先日当時,当業者は300Åの膜厚のInGaN活性層で量子井戸効果が生じると認識していたということはできない。
(2) 原告は,本件基礎出願明細書(【0011】)には,クラッド層膜厚とInGaN活性層膜厚の合計値の好ましい範囲の下限値が300Åであると明示されているから,InGaN活性層膜厚については,300Å未満という数値(300Åよりも僅かに薄いInGaN活性層膜厚)が開示されているということができる,本件審決は,本件基礎出願明細書におけるInGaN活性層膜厚の下限値について,実施例に記載された400Åであると認定し,本件基礎出願明細書に明記された「300Åよりも僅かに小さい値」のInGaN活性層膜厚について全く判断していない,原告は,審判手続において,本件基礎出願明細書には300Åよりも薄い膜厚のInGaN活性層,具体的には200Å未満等の膜厚のInGaN活性層が開示されている旨を主張しているし,200Å未満等のInGaN活性層膜厚について主張する前提として,本件基礎出願明細書(【0011】)に開示された300Åという数値に言及した上で,本件基礎出願明細書には400Åよりも薄い膜厚のInGaN活性層が開示されていることを繰り返し主張しているなどと主張する。
しかしながら,本件審決に係る審判事件答弁書(甲33)には,本件基礎出願明細書(【0011】)に関する記載はなく,本件基礎出願明細書に,少なくとも300Åよりも僅かに小さい値のInGaN活性層膜厚の記載があることに係る主張も記載されていない。被請求人口頭審理陳述要領書(甲35)には,本件基礎出願明細書(【0011】)に関する記載はあるものの,これらはいずれも,本件基礎出願明細書には,200Å未満,100Å,150Å,200Åの活性層膜厚が記載されていることを主張するものにすぎず,300Åよりも僅かに小さい値の活性層膜厚の記載があることを主張するものではない。
したがって,本件審決が,本件基礎出願明細書に300Åよりも僅かに小さい値のInGaN活性層膜厚の記載があるか否かについて判断しなかったことが,判断の脱漏に当たるということはできない。
また,本件審決は,膜厚の例として本件基礎出願明細書の実施例の400Åを例示した上で,原告が提出した文献(甲14ないし22)をもってしても,本件基礎出願明細書の記載に接した当業者が,InGaN活性層膜厚が500Å以下では量子井戸効果を生じると理解するとは認められないと判断したのであって,InGaN活性層膜厚の下限値を400Åであるとしたものではない。
したがって,原告の前記主張は,いずれも採用することができない。
5 200Å のInGaN活性層膜厚に係る判断について
(1) 前記1(5)によると,本件基礎出願明細書(【0026】【0027】)には,従来のInGaN活性層をA1GaNクラッド層で挟んだ構造では,A1GaNクラッド層が非常に硬い性質を有していたので,200Å以上にしないとA1GaNクラッド層とInGaN活性層とにクラックが多数生じたことが記載されているから,従来技術におけるInGaN活性層膜厚の下限値が200Åであることが開示されているということができる。
しかしながら,本件基礎出願明細書(【0027】)におけるInGaN活性層の膜厚の下限が200Åである旨の記載は,従来技術のA1GaNクラッド層で挟んだ構造において,InGaN活性層の膜厚の下限を200Åとすることを記載しているにすぎず,InGaN活性層をInGaNクラッド層で挟む構造を採用した本件基礎出願発明のInGaN活性層の膜厚の下限を200Åとすることを意味するものではない。また,前記1(6)のとおり,本件基礎出願明細書の実施例において,活性層の膜厚として記載されているのは,400Å(【0034】)及び1000Å(【0040】)であって,200Åの膜厚は記載されていない。しかも,前記1(7)のとおり,本件基礎出願明細書の【発明の効果】欄(【0049】【0050】)には,活性層の膜厚について何ら記載されていない。そのほか,甲13によると,本件基礎出願明細書には,本件基礎出願発明のInGaN活性層の膜厚の下限を200Åとすることについて,これを示唆する記載もない。
したがって,本件基礎出願明細書において,InGaN活性層の膜厚を200Åにすることが記載されているとまでいうことはできない。
(2) 原告は,本件基礎出願明細書(【0027】)のInGaN活性層膜厚の下限値が200Åである旨の記載が従来技術に関する記載であったとしても,InGaN活性層の膜厚として200Åという数値が開示されているというべきであって,本件審決は,この点について全く判断していない,本件発明はInGaN活性層の厚さを200Å未満とすることにより生じる問題点を,第1のクラッド層を採用することにより解決したものであるとする本件審決の認定からすれば,本件基礎出願明細書の記載(【0026】【0027】)は,本件発明によって,InGaN活性層の膜厚を200Å未満にすることが可能となったこと,すなわち,本件基礎出願明細書に,200Å未満のInGaN活性層の膜厚の開示があることを意味するというべきであるなどと主張する。
しかしながら,前記のとおり,本件基礎出願明細書には,本件基礎出願発明のInGaN活性層の膜厚の下限を200Åにすることが記載されているとまでいうことはできない以上,本件審決がInGaN活性層の200Åの膜厚について判断しなかったことは,むしろ当然である。
また,前記のとおり,InGaN活性層膜厚の下限値が200Åである旨の記載は従来技術に関する記載にすぎず,しかも,前記1(5)のとおり,本件基礎出願発明は,従来のInGaN活性層をA1GaNクラッド層で挟んだ構造ではなく,InGaN活性層をその活性層よりもバンドギャップの大きいInGaNクラッド層で挟む構造を採用したことにより,発光出力を向上させているのであるから,本件基礎出願発明の課題解決手段は,従来技術である下限値が200ÅのInGaN活性層の膜厚を200Å未満とすることを前提とするものではない。
したがって,本件基礎出願明細書において,本件基礎出願発明により,InGaN活性層の膜厚を200Å未満にすることが可能となったことが開示されているということはできない。
したがって,原告の前記主張は,いずれも採用することができない。
6 以上のとおりであるから,本件審決の国内優先権主張に係る判断に誤りはない。
第5結論
以上の次第であるから,原告の請求は棄却されるべきものである。
(裁判長裁判官 土肥章大 裁判官 田中芳樹 裁判官 荒井章光)