知財高等裁判所 平成25年(行ケ)10108号 判決 2013年12月10日
原告
X
訴訟代理人弁理士
廣江武典
同
西尾務
同
服部素明
同
橋本哲
同
谷口直也
同
廣江政典
被告
特許庁長官
指定代理人
藤原直欣
同
中村達之
同
窪田治彦
同
山田和彦
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
第1請求
特許庁が不服2011-18759号事件について平成24年12月3日にした審決を取り消す。
第2事案の概要
1 特許庁における手続の経緯等
(1) Aは,発明の名称を「直線運動を回転運動に変換する装置」とする発明について,平成13年(2001年)1月2日(優先権主張日平成11年(1999年)12月30日,優先権主張国スウェーデン王国)を国際出願日とする特許出願(2001-549889号。以下「本願」という。)をした。
その後,原告は,Aから,本願に係る特許を受ける権利の譲渡を受け,平成18年9月12日,その旨の出願人変更届を提出した。
原告は,平成22年4月26日付けの拒絶理由通知を受けた後,更に平成23年1月4日付けの拒絶理由通知を受けたため,同年4月8日付けで本願の願書に添付した明細書の全文(特許請求の範囲を含む。)を変更する手続補正(甲10)をしたが(以下,この手続補正後の明細書を,図面を含めて「本願明細書」という。),同年5月13日付けの拒絶査定を受けた。
原告は,同年8月30日,拒絶査定不服審判を請求するとともに,同日付けで特許請求の範囲を変更する手続補正(甲5)(以下「本件補正」という。)をした。
(2) 特許庁は,上記請求を不服2011-18759号事件として審理を行い,平成24年12月3日,本件補正を却下した上で,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決(以下「本件審決」という。)をし,同月18日,その謄本が原告に送達された。
(3) 原告は,平成25年4月16日,本件審決の取消しを求める本件訴訟を提起した。
2 特許請求の範囲の記載
(1) 本件補正前のもの
本件補正前の特許請求の範囲(平成23年4月8日付け手続補正による補正後のもの。以下同じ。)の請求項1の記載は,次のとおりである(以下,同請求項1に係る発明を「本願発明」という。)。
「【請求項1】直線運動を回転運動に変換する装置であって,1つ又はそれ以上のピストン・シリンダー機構(1)を有し,
前記ピストン・シリンダー機構(1)はそれぞれ,
1つのシリンダ(2)と,
前記シリンダー内に可動に配置された直線運動用1つのピストン(3)と,
前記ピストンと回転運動用のクランクシャフト(4)を連結する1つのコネクティングロッド(5)と,
を有する装置において,
それぞれの前記ピストンにおいて,それぞれの移動可能な線(10)から或距離(F)の変位をもって前記クランクシャフトの回転中心が配置され,
そして,前記クランクシャフトの長手方向に前記装置を見た場合,それぞれの前記ピストンの移動線に関して前記クランクシャフトの回転中心の反対側に位置する前記クランクシャフトの部分が,それぞれの前記ピストンの移動線と平行で且つそれぞれの前記シリンダー(2)から離れる方向の運動成分(13)を有するように,前記クランクシャフトが回転方向(14)を有することを特徴とする装置。」
(2) 本件補正後のもの
本件補正後の特許請求の範囲の請求項1の記載は,次のとおりである(以下,同請求項1に係る発明を「本願補正発明」という。なお,下線部は,本件補正による補正箇所である。)。
「【請求項1】直線運動を回転運動に変換する装置であって,1つ又はそれ以上のピストン・シリンダー機構(1)を有し,
前記ピストン・シリンダー機構(1)はそれぞれ,
1つのシリンダー(2)と,
前記シリンダー内に可動に配置された直線運動用1つのピストン(3)と,
前記ピストンと回転運動用のクランクシャフト(4)を連結する1つのコネクティングロッド(5)と,
を有する装置において,
それぞれの前記ピストンにおいて,それぞれの移動可能な線(10)から或距離(F)の変位をもって前記クランクシャフトの回転中心が配置され,
そして,前記クランクシャフトの長手方向に前記装置を見た場合,それぞれの前記ピストンの移動線に関して前記クランクシャフトの回転中心の反対側に位置する前記クランクシャフトの部分が,それぞれの前記ピストンの移動線と平行で且つそれぞれの前記シリンダー(2)から離れる方向の運動成分(13)を有するように,前記クランクシャフトが回転方向(14)を有し,変位距離(F)が0.01をピストン行程(SL)の長さに乗じた値以上であり,0.9をピストン行程(SL)の長さに乗じた値未満である,
ことを特徴とする装置。」
3 本件審決の理由の要旨
(1) 本件審決の理由は,別紙審決書(写し)記載のとおりである。要するに,本願補正発明は,本願の優先権主張日前に頒布された刊行物である実願昭58-21666号(実開昭59-127834号)のマイクロフィルム(甲1。以下「引用文献」という。)に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであって,特許法29条2項の規定により特許出願の際独立して特許を受けることができないから,本件補正は却下すべきものであり,また,本願発明は,引用文献に記載された発明であるから,同条1項3号の規定により特許を受けることができないというものである。
(2) 本件審決が認定した引用文献に記載された発明(以下「引用発明」という。),本願補正発明と引用発明の一致点及び相違点は,以下のとおりである。
ア 引用発明
「直線運動を回転運動に変換する装置であって,1つのピストン・シリンダー機構を有し,
ピストン・シリンダー機構は,
1つのシリンダー12と,
シリンダー12内に可動に配置された直線運動用1つのピストン10と,
ピストン10と回転運動用のクランクシャフト18を連結する1つのコネクティングロッド16と,
を有する装置において,
ピストン10において,ピストン10が沿って往復動する中心線A-Aから,距離e2の偏心をもってクランクシャフト18の回転中心が配置され,そして,クランクシャフト18の長手方向に装置を見た場合,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aに関してクランクシャフト18の回転中心の反対側に位置するクランクシャフト18の部分が,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aと平行で且つそれぞれのシリンダー12から離れる方向の運動成分を有するように,クランクシャフト18が回転方向Rを有し,
偏心距離e2が,約1~3mm程度である装置。」
イ 本願補正発明と引用発明の一致点
「直線運動を回転運動に変換する装置であって,1つ又はそれ以上のピストン・シリンダー機構を有し,
前記ピストン・シリンダー機構はそれぞれ,
1つのシリンダーと,
前記シリンダー内に可動に配置された直線運動用1つのピストンと,
前記ピストンと回転運動用のクランクシャフトを連結する1つのコネクティングロッドと,
を有する装置において,
それぞれの前記ピストンにおいて,それぞれの移動可能な線から或距離の変位をもって前記クランクシャフトの回転中心が配置され,
そして,前記クランクシャフトの長手方向に前記装置を見た場合,それぞれの前記ピストンの移動線に関して前記クランクシャフトの回転中心の反対側に位置する前記クランクシャフトの部分が,それぞれの前記ピストンの移動線と平行で且つそれぞれの前記シリンダーから離れる方向の運動成分を有するように,前記クランクシャフトが回転方向を有する装置」である点。
ウ 本願補正発明と引用発明の相違点
本願補正発明においては,変位距離(F)が0.01をピストン行程(SL)の長さに乗じた値以上であり,0.9をピストン行程(SL)の長さに乗じた値未満であるのに対し,引用発明においては,偏心距離e2が,約1~3mm程度である点。
第3当事者の主張
1 原告の主張
(1) 取消事由1(本願補正発明の容易想到性に係る判断の誤り)
ア 引用発明の認定の誤り
引用文献には,「実用新案登録請求の範囲」に「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させると共に,クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させたことを特徴とするエンジン」が記載されている。
そして,引用文献の「考案の詳細な説明」には,「そこで,従来ピストンスラッピングを低減するために,ピストンピン14の中心線B-Bを,シリンダ12の中心線A-Aから偏位させることが試みられている。これは,往復動エンジンの機構上不可避的に発生するピストンスラッピングのタイミングを,シリンダ内の燃焼ガス圧力が最高値に達するタイミングから外して,衝突力を小さくしようとしたものであり,それなりの効果は収めているが,なお十分とは謂い難い。即ち,図中点線で示したように,従来の装置では,クランクシャフト18′の中心線が,シリンダ中心線A-A上にくるように配設され,コネクティングロッド16が,図示のようにシリンダ中心線A-Aに対して略平行する側圧ゼロの位置にあるときのクランク角はβであって,続いて発生するピストンスラッピングのタイミングは,第2図に例示したシリンダ内圧力波形における最高圧力値からのずれが小さい。」(明細書4頁~5頁),「これに対し本考案によれば,ピストンピン14に上記偏心量e1を与えるだけでなく,クランクシャフト18にも偏心量e2が与えられているので,第1図の実線で示すように,ピストン10に対する側圧がゼロとなるコネクティングロッド16の位置でのクランク角αが従来より著しく大きくなり,従って,続いて起るピストンスラッピングのタイミングが第2図の圧力線図でピーク値から大巾にずれ,低いガス圧の下でピストンスラッピングが発生する。これにより,ピストンスラッピング時の衝突力を著しく小さくすることができ,それだけエンジンの振動,騒音を減少することができるのである。なお,第2図において,縦軸はシリンダ内の圧力P(kg/c㎡)を,又横軸はクランク角R(deg)を示す。」(同5頁~6頁)との記載がある。この記載によれば,引用文献記載のエンジンは,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成だけでは解決できない「ピストンスラッピングを低減することにより,エンジン騒音の発生を効果的に抑止する」ことを課題とし,その課題を解決するため必須の構成として,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成と共に,「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成を採用し,これにより「ピストンスラッピング時の衝突力を著しく小さくすることができ,それだけエンジンの振動,騒音を減少することができる」という作用効果を発揮するものといえる。
一方で,引用文献には,「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成だけで上記作用効果を発揮するとの記載や示唆はない。
そうすると,引用文献には,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成及び「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成の両構成を備えて初めて上記作用効果を発揮することが技術思想として開示されており,引用文献記載のエンジンにおける「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成は,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成を前提とするものといえるから,引用文献の記載事項から「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成のみを有するエンジンを取り出すことには阻害要因があるというべきである。
しかるところ,本件審決が認定した引用発明のうち,「ピストン10において,ピストン10が沿って往復動する中心線A-Aから,距離e2の偏心をもってクランクシャフト18の回転中心が配置され,そして,クランクシャフト18の長手方向に装置を見た場合,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aに関してクランクシャフト18の回転中心の反対側に位置するクランクシャフト18の部分が,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aと平行で且つそれぞれのシリンダー12から離れる方向の運動成分を有するように,クランクシャフト18が回転方向Rを有し」との部分は,引用文献の記載事項から「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成のみを取り出し,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成を捨象するものであるから,誤りである。
したがって,本件審決における引用発明の認定に誤りがある。
イ 一致点の認定の誤り及び相違点の看過
前記アのとおり,本件審決が認定した引用発明のうち,「ピストン10において,ピストン10が沿って往復動する中心線A-Aから,距離e2の偏心をもってクランクシャフト18の回転中心が配置され,そして,クランクシャフト18の長手方向に装置を見た場合,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aに関してクランクシャフト18の回転中心の反対側に位置するクランクシャフト18の部分が,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aと平行で且つそれぞれのシリンダー12から離れる方向の運動成分を有するように,クランクシャフト18が回転方向Rを有し」との部分は誤りであるから,本願補正発明と引用発明が「それぞれの前記ピストンにおいて,それぞれの移動可能な線から或距離の変位をもって前記クランクシャフトの回転中心が配置され,そして,前記クランクシャフトの長手方向に前記装置を見た場合,それぞれの前記ピストンの移動線に関して前記クランクシャフトの回転中心の反対側に位置する前記クランクシャフトの部分が,それぞれの前記ピストンの移動線と平行で且つそれぞれの前記シリンダーから離れる方向の運動成分を有するように,前記クランクシャフトが回転方向を有する装置」である点で一致するとした本件審決における本願補正発明と引用発明の一致点の認定にも誤りがある。
そうすると,上記部分は,本願補正発明と引用発明の一致点ではなく,相違点として認定すべきあったのに,本件審決には,この相違点を看過した誤りがある。
ウ 容易想到性の判断の誤り
前記アのとおり,引用文献記載のエンジンは,「ピストンスラッピングを低減することにより,エンジン騒音の発生を効果的に抑止する」ことを課題とし,その課題を解決するため必須の構成として,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成と共に,「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成を採用したものであるから,引用文献の記載事項から「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成のみを有するエンジンを取り出すことには阻害要因があり,前記イの相違点に係る本願補正発明の構成を当業者が容易に想到することができたものとはいえない。
さらには,本願の出願当初の明細書(甲4)には,本願補正発明の解決すべき課題として,「特にピストン燃焼機関において直線運動を回転運動に変換する装置であって,たとえば膨張している燃焼ガス等の,ピストンに作用する力が最大になるピストンの膨張行程の段階において,直線運動をしているピストンから回転運動をしているクランクシャフトにコネクティングロッドを介して力が順調に伝達される装置を提供することに有る。」(段落【0004】),本願補正発明の格別な効果として,「これにより,クランクシャフトは,ピストンが上死点にある時,既にピストンの移動線に対して傾斜している。上死点では,ピストンにおけるコネクティングロッドの連結および回転の点,クランクシャフトにおけるコネクティングロッドの連結および回転の点,およびクランクシャフトの回転中心は全て同一線に沿って位置する。しかし,ピストンが僅かに上死点から移動するとすぐに,クランクシャフトにおけるコネクティングロッドの連結点がクランクシャフトと共に回転することにより当初はピストンの移動線から離れる方向に移動するので,コネクティングロッドは上死点における位置に対して傾斜する。このように上死点における位置に関して付与されるコネクティングロッドの一定傾斜度により,クランクシャフトの回転中心が変位していない従来の対応する装置の場合と比較して,本発明による装置は,初期にこの傾斜度を得るのに上死点からのピストンの少ない移動を要する。膨張行程中に燃焼ガスがピストンに及ぼす効果に関して前記したことに従い,より短い必要ピストン運動は,上死点における位置に関して与えられたコネクティングロッドの前記一定傾斜度により,本発明による装置では従来の装置より高い圧力がシリンダ内に存在し,従って,より大きい力がピストンに作用することを意味する。本発明による装置ではピストンが移動する時,クランクシャフトの一定角度偏差が上死点からのピストンのより長い移動に対応する。総括すると,これが意味することとして,点火の直後に,ピストンからの力の順調な伝達の開始に帰着し得る傾斜度がピストンの比例して小さい移動に対して得られること,および,膨張行程中に,ピストンの一定移動量がクランクシャフトのより小さい角度偏差に帰結することで歯車減速が得られ,それにより膨張行程全体において力のより順調な伝達が得られる。」(段落【0005】)との記載ある。
本願補正発明の上記のような課題と格別の効果は,引用文献に記載がない。特に,本願補正発明の格別の効果である「ピストンが僅かに上死点から移動するとすぐに,クランクシャフトにおけるコネクティングロッドの連結点がクランクシャフトと共に回転することにより当初はピストンの移動線から離れる方向に移動する」との点は,引用文献に記載がないから,本願補正発明は,当業者が引用文献に記載された発明に基づいて容易に想到することができたものとはいえない。
したがって,本願補正発明は当業者が引用文献に記載された発明に基づいて容易に想到することができたとした本件審決の判断は誤りである。
エ 小括
以上によれば,本願補正発明が当業者が引用文献に記載された発明に基づいて容易に想到することができたことを理由に特許出願の際独立して特許を受けることができないとして本件補正を却下した本件審決の判断は,誤りである。
(2) 取消事由2(本願発明と引用発明との同一性に係る判断の誤り)
前記(1)アのとおり,本件審決が認定した引用発明のうち,「ピストン10において,ピストン10が沿って往復動する中心線A-Aから,距離e2の偏心をもってクランクシャフト18の回転中心が配置され,そして,クランクシャフト18の長手方向に装置を見た場合,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aに関してクランクシャフト18の回転中心の反対側に位置するクランクシャフト18の部分が,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aと平行で且つそれぞれのシリンダー12から離れる方向の運動成分を有するように,クランクシャフト18が回転方向Rを有し」との部分は,引用文献の記載事項から「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成のみを取り出し,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成を捨象するものであるから,誤りである。
そうすると,引用文献記載のエンジンは,上記部分の構成を備えたものとはいえないから,この点において,本願発明と同一であるとはいえない。
したがって,本願発明が引用文献に記載された発明と同一であるとの本件審決の判断は誤りである。
(3) まとめ
以上のとおり,本件審決には,本願補正発明の容易想到性に係る判断を誤って,本件補正を却下した誤りがあり,また,本願発明は引用文献に記載された発明と同一であると判断した誤りがある。
したがって,本件審決は,違法であるから,取り消されるべきである。
2 被告の主張
(1) 取消事由1に対し
ア 本件補正後の請求項1によれば,本願補正発明は,「移動線(10)」を基準として「変位距離(F)」の位置に「クランクシャフトの回転中心」があるというものであり,この変位距離(F)は,一端を移動線(10),他端をクランクシャフトの回転中心として規定される距離であること,この移動線(10)は,変位距離(F)の一端を規定するためのものであるとともにピストンの移動線(10)であって,「運動成分(13)を有する」「クランクシャフトの部分」に対して,「クランクシャフトの回転中心」の反対側に位置することが分かる。
一方で,本件補正後の請求項1を全体としてみても,本願補正発明の移動線(10)が,装置のどこに位置する線であるかについては,具体的に特定されていないが,本願明細書の段落【0011】及び【0012】の記載を参酌すると,「ピストン3」が「沿って移動」する「シリンダーの縦中心線」又は「シリンダーの長手方向中心線」であることが具体的に想定されていることを理解できる。
しかるところ,引用文献には,「そこで,従来ピストンスラッピングを低減するために,ピストンピン14の中心線B-Bを,シリンダ12の中心線A-Aから偏位させることが試みられている。…それなりの効果は収められているが,なお十分とは謂い難い。…これに対し本考案によれば,ピストンピン14に上記偏心量e1を与えるだけでなく,クランクシャフト18にも偏心量e2が与えられているので…ピストンスラッピング時の衝突力を著しく小さくすることができ,それだけエンジンの振動,騒音を減少することができるのである。」(明細書4頁13行~6頁3行)との記載がある。この記載によれば,引用文献には,シリンダ中心線を一端とし他端をピストンピンとする「従来技術」の「偏心量e1」(「距離e1」)に係る技術思想とシリンダ中心線を一端とし他端をクランクシャフトの回転中心とする「本考案」の「偏心量e2」(「距離e2」)に係る技術思想とがそれぞれを独立した技術思想として記載されていることを把握することができる。
そうすると,引用文献の記載事項から「距離e2」に係る技術思想を独立して取り出すことに阻害要因があるとはいえず,本件審決の引用発明の認定及びこれに基づく一致点の認定に誤りはないから,本件審決における引用発明の認定の誤り,一致点の認定の誤り及び相違点の看過をいう原告の主張は,理由がない。
イ(ア) 乙1(「熱機関体系第6巻 ディーゼル機関[1]」昭和35年1月31日5版発行)には,小型車両用ディーゼル機関の一般的な寸法例として,110mm及び140mmのピストン行程が記載されている。このピストン行程の寸法を基に,本願補正発明の「変位距離(F)が0.01をピストン行程(SL)の長さに乗じた値以上であり,0.9をピストン行程(SL)の長さに乗じた値未満である」という発明特定事項に照らして,変位距離を算出すると,以下のとおりとなる。
「110mm」×「0.01」=1.1mm
「140mm」×「0.01」=1.4mm
「110mm」×「0.9」=99mm
「140mm」×「0.9」=126mm
(イ) 本願補正発明の「0.01」の下限値により算出された変位距離1.1mm及び1.4mmは,引用文献の「e2は約1~3mm程度」(明細書3頁14行)に整合するものであるから,一般的なピストン行程の寸法を採用する引用発明における変位距離(e2)は,本願補正発明と何ら異なるところがない。
ところで,本願明細書の段落【0004】には,本願補正発明の課題について,「本発明の目的は,直線運動を回転運動に変換する装置であって,特にピストン燃焼機関において,直線運動をしているピストンから回転運動をしているクランクシャフトへのコネクティングロッドを介した好適な力の伝達が,力,たとえば膨張している燃焼ガス等,がピストンに対して最大限に作用する時のピストンの膨張工程の位相において,好適に伝達される装置を提供することである。」との記載がある。
しかるに,最大限に作用する時の力を含め膨張行程に作用する力を好適に伝達するように装置を構成することは,ピストンを用いたエンジンにおいて当業者が普通に採用し検討し得る技術的事項であるから,一般的な技術的事項に基づく上記課題は,引用文献において,当然の前提課題であるといえる。
そして,一般的なピストン行程の寸法を採用する引用発明における変位距離(e2)は,本願補正発明と何ら異なるものではなく,本願補正発明と同じ作用効果を奏することは技術的に明らかであるから,本願補正発明が奏する作用効果は,引用発明から当業者が予測可能な範囲のものであるといえる。
したがって,本願補正発明が格別の効果を奏するとの原告の主張は理由がない。
ウ 以上によれば,本願補正発明は引用発明に基づいて容易に発明をすることができたものであって,特許出願の際独立して特許を受けることができないとした本件審決の判断に誤りはないから,原告主張の取消事由1は理由がない。
(2) 取消事由2に対し
前記(1)アで述べたとおり,本件審決の引用発明の認定及びこれに基づく一致点の認定に原告主張の誤りはない。
したがって,本願発明は引用発明と同一であるとの本件審決の判断に誤りはないから,原告主張の取消事由2は理由がない。
第4当裁判所の判断
1 取消事由1(本願補正発明の容易想到性に係る判断の誤り)について
(1) 本願明細書の記載事項等について
ア 本願補正発明の特許請求の範囲(本件補正後の請求項1)の記載は,前記第2の2(2)のとおりである。
イ 本願明細書の「発明の詳細な説明」(甲10)には,次のような記載がある(下記記載中に引用する図1ないし3については別紙1を参照)。
(ア) 「発明の分野および先行技術
本発明は,直線運動を回転運動に変換する装置に関し,シリンダーおよびシリンダー内に可動に配置された直線運動用ピストンを有する少なくとも1個のピストン・シリンダー機構,回転運動用クランクシャフト,およびピストンとクランクシャフトを連結するコネクティングロッドを含む。本発明は,内燃ピストンエンジンにおける,かかる装置の使用にも関する。」(段落【0001】),
「従来のピストンエンジンの動作順序はエンジンのタイプおよびシリンダーの数によって異なる。例えば,4行程エンジンと2行程エンジンがあり,燃焼方式にも,例えば,オットーサイクルやディーゼルエンジンがある。しかし,全てのピストンエンジンに共通することは,膨張行程において,燃料から発生する熱エネルギーが機械仕事に変換されることである。オットーエンジンにおける(動作)過程は,上死点と呼ばれる位置までピストンを移動させることによってシリンダー内における燃料と空気の混合物のスペースを減少させて混合物を圧縮し,この位置の直前で燃料と空気の混合物を火花で点火する。そして,燃焼ガスの膨張により生じる膨張行程は,ピストンが上死点から下死点に向かって移動する過程で燃焼ガスのエネルギーをクランクシャフトの回転に使用し得ることを意味する。本発明を,先ずオットーサイクルエンジンに関連して説明するが,ディーゼルエンジンにも応用し得る。
今日の燃焼機関の欠点として,燃焼ガスがピストンに対して最大の力を生じる膨張行程中,即ち点火の僅かに後において,ピストンからクランクシャフトへの力の好ましい伝達が困難である。本発明は,燃焼が次のようなものであるという知識に基づいている。膨張燃焼ガスは,点火から僅かに後の膨張行程の初期に最大限の,即ち割合として大きい力をピストンに加える。この点火は,ほぼピストンが上死点にある時,より好適には,その僅かに前で,燃料と空気の混合物が最大限に圧縮された時に起きる。膨張行程の後の部分では燃焼ガスは,ピストンに対してより小さな力しか加えない。最高可能出力を望む場合,ピストンが燃焼ガスから最大の力を付与される膨張行程の部分を効率的に利用し,この部分でクランクシャフトに対して力の好ましい伝達が行われるようにすることが重要である。」(段落【0003】)
(イ) 「発明の目的
本発明の目的は,直線運動を回転運動に変換する装置であって,特にピストン燃焼機関において,直線運動をしているピストンから回転運動をしているクランクシャフトへのコネクティングロッドを介した好適な力の伝達が,力,たとえば膨張している燃焼ガス等,がピストンに対して最大限に作用する時のピストンの膨張工程の位相において,好適に伝達される装置を提供することである。この点に関連して,本発明は,現在の位相における力の好適な伝達を達成する原理の構造的解決策を与えることを目的とする。上記目的は,ピストンが移動できる線から或距離の変位をもってクランクシャフトの回転中心が配置され,クランクシャフトの長手方向に装置を見た場合,ピストンの移動線に関してクランクシャフトの回転中心の反対側に位置するクランクシャフトの部分が,ピストンの移動線と平行で且つシリンダーから離れる方向の運動成分を有するようにクランクシャフトの回転方向を定めるように本発明による装置を設計することによって達成される。」(段落【0004】)
(ウ) 「これにより,クランクシャフトは,ピストンが上死点にある時,既にピストンの移動線に対して傾斜している。上死点では,ピストンのコネクティングロッドとの連結および回転の点,クランクシャフトのコネクティングロッドとの連結および回転の点,およびクランクシャフトの回転中心は全て同一線上に位置する。しかし,ピストンが僅かに上死点から移動するとすぐに,クランクシャフトのコネクティングロッドとの連結点は,クランクシャフトと共に回転することにより,当初はピストンの移動線から離れる方向に移動するので,コネクティングロッドは上死点における位置より傾斜する。このように上死点の位置に対して与えられるコネクティングロッドの所与の傾斜により,クランクシャフトの回転中心が変位していない従来の対応する装置の場合と比較して,本発明による装置は,初期において上死点からのピストンの少ない移動でこの傾斜度を得ることが出来る。膨張行程中に燃焼ガスがピストンに及ぼす効果に関して前記したことに従って,より短い必要ピストン運動は,上死点における位置に対する所与のコネクティングロッドの傾斜度により,本発明による装置では,従来の装置より高い圧力がシリンダー内に存在し,従って,より大きい力がピストンに作用することを意味する。本発明による装置ではピストンが移動する時,クランクシャフトの所与の角度偏差が,ピストンの上死点からのより長い移動に対応する。総括すると,これが意味することとして,点火の直後に,ピストンからの力の好適な伝達が開始される傾斜度がピストンの割合として小さな移動によって得られること,および,膨張行程中において,ピストンの所与の移動量が,より小さいクランクシャフトの角度偏差でよいことにより,ギア比の減少が得られ,それにより膨張行程全体において力のより好適な伝達が得られる。」(段落【0005】),
「しかし,前記内容は,本発明による装置の有利性を生じる内在的な関係や機構を完全に記載する大望をもって述べられたものではないことを指摘しておく。むしろ,前記記載は,本発明による装置が上記のような従来の対応する装置より良い性能を有する理由を説明し得る理論の概要を示していると言える。しかし,前記有利性は,本発明を4気筒オットーエンジンに適用した実験を通して明瞭に立証されている。燃焼機関に適用した本発明の具体的な有利性は,エンジンがクランクシャフトに対してより高いトルクを付与し得ることであり,それは,エンジンが低回転速度で一定の出力を供給し得ることを意味し,その結果,燃費消費が減少する。さらに,本発明によるエンジンはノッキングが生じにくい。すなわち,未燃焼の燃料と空気の混合物が自己点火するリスクが軽減される。立証済みのこととして,本発明によるエンジンにより,燃料と空気の混合物を在来のオットーエンジンより高い圧力に圧縮することが可能であり,場合によっては,ノッキング(自己点火)を生じることなく15バールを超える圧力を達成できる。さらに,ラムダプローブによるエンジン排気測定によれば,より完全な燃料の燃焼が達成されることが示される。さらに留意すべきこととして,本発明によるエンジンは通常の場合よりも冷却が少なくて済む。これは,燃料のエネルギーのより大きい部分がクランクシャフトに対する有用な仕事に変換され,より小さい部分が熱に変換されることを示す。
これを達成するには,上記の定義に従ったクランクシャフトの回転中心の変位およびクランクシャフトの回転方向が,相互に関係していることが重要であることが判明している。さらに,勿論,変位の大きさはエンジンの他の実際的な条件に適応させねばならない。これは,たとえ最大変位距離が所望でも,変位距離は,多くの場合はピストン行程の長さに0.9を乗じた積未満であり,適切にはピストン行程の長さに0.01から0.8を乗じた積であり,好適には変位距離は,ピストン行程の長さに0.2から0.6を乗じた積までの間から選択される。」(段落【0006】)
(エ) 「添付図面を参照して,例示した本発明の実施形態を詳細に説明する。
発明の好適実施形態の詳細な説明
図1は,ピストン・シリンダー機構1,回転運動用クランクシャフト4およびコネクティングロッド5を概略的に示している。機構1は,シリンダー2およびシリンダー2内に直線運動可能に設けられたピストン3を有している。コネクティングロッド5は,ピストン3とクランクシャフト4を連結している。ピストン3は,ピストンリング6で適当にガスシールされ,シリンダー2内を移動する。ピストン3は,上死点ÖVおよび下死点UVと呼ばれる二つの最端位置間で前後運動を繰り返すように設けられている。したがって,上死点ÖVと下死点UVの距離は,ピストン行程SLの長さである。コネクティングロッド5は,その一端8でピストン3に回動可能に連結され,その他端8’でクランクシャフト4に回動可能に連結されている。コネクティングロッド5は,従来の方法で,クランクシャフト4の回転中心7から一定距離Rにおいてクランクシャフト4のいわゆるクランクウェブに連結されている。
図1において,コネクティングロッド5は,上下死点間のあるピストン位置で概略的に示されている。図示されたピストン位置および上下死点に対応する位置の,ピストン3とコネクティングロッド5の連結点の異なる位置はÖV,8およびUVで示され,それに対応するコネクティングロッド5とクランクシャフト4の連結点の位置は,異なるピストン位置に対して,それぞれÖV’,8’およびUV’で示されている。図1に示された実施形態は,従来の装置であり,そこではクランクシャフト4の回転中心7がピストンの移動方向と一致した位置に有る。言い換えると,ピストン3は線10に沿って移動し,線10の延長線上にクランクシャフト4の回転中心7が有る。さらに,本書でコネクティングロッド長とも称する,ピストンとコネクティングロッド5の連結点8とクランクシャフト4とコネクティングロッド5の連結点8’との距離Lとピストン行程SLの長さとの関係は,約1.81:1(コネクティングロッド長=145mm,ピストン行程長=80mm)である。」(段落【0008】)
(オ) 「図2に示された本発明による装置1では,ピストン3は線10に沿って移動し,クランクシャフト4の回転中心7が,線10から距離Fだけ変位している。クランクシャフト4は回転方向14を有し,クランクシャフト4の長手方向に装置を見た場合に,ピストン3の移動線10に関してクランクシャフト4の回転中心7の反対側に位置するクランクシャフトの部分が,移動線10と平行でシリンダー2から遠ざかる方向の運動成分13を有する。変位距離Fは,0より大きく0.9より小さい数にピストン行程の長さを乗じた値が適当であり,0.01から0.8にピストン行程の長さを乗じた値が一般的であり,0.2から0.6にピストン行程の長さを乗じた値が好ましい。したがって,強調すべきこととして,図2による実施形態は一例に過ぎない。この実施形態では,変位距離Fは,0.38にピストン行程SLの長さを乗じた値にほぼ等しい。クランクシャフト4の回転中心7の変位距離Fが,先に定義されたようなクランクシャフト回転方向14と関連していることが本発明の基本であることを強調したい。これは,図2および3に示されるように見た場合,すなわちクランクシャフトの縦方向に見た場合,シリンダー2がクランクシャフト4の上方に位置し,クランクシャフト回転中心の変位がピストン移動線10の右側に有る装置のクランクシャフト4の回転方向14は,時計回りである。」(段落【0010】)
(カ) 「変位距離Fを有する,言い換えると,シリンダー2の傾斜角αを有する本発明による装置は,上死点におけるコネクティングロッド5の位置に対するコネクティングロッドの傾斜が,図1に示されたような従来技術の装置の場合より小さいという特徴を有する。している(判決注・原文のママ)。この傾斜は,線11と線12の間の角度βとして画定される。線11は,ピストン3が上死点にある時の,ピストン3のコネクティングロッド5との連結点ÖVおよびクランクシャフト4のコネクティングロッド5との連結点ÖV’(およびクランクシャフト4の回転中心7)を通る線である。線12は,ピストン3の位置が上死点と異なり,ピストン3の移動量Aに対応する時の,コネクティングロッドの両連結点8および8’を通る線である。図2では,β=10°であり,Aは約10mmである。ピストン3が移動する時,上死点からのピストンのより大きい移動がクランクシャフト4のより小さい角度偏差に対応するので,ギア比の減少が得られる。膨張段階のこの部分で,力の極めて好ましい伝達が得られ,その結果,エンジンの割合として高いトルクが生じる。図3を参照して,移動量Aとクランクシャフト4の角度偏差γとの関係をより詳しく説明する。注目すべきこととして,図1による従来の装置では,ピストンが移動できる線,すなわちシリンダーの長手方向中心線は,ピストンが上死点に位置している時にコネクティングロッドの両連結点を結ぶ線と一致し,言い換えると,この装置では角度αは0に等しい。」(段落【0011】)
(キ) 「上記のように,クランクシャフト4の回転方向14を考慮しながらクランクシャフト4の回転中心7に関するシリンダー2の傾斜角度αとして変位を定義することもできる。図2および3では,ピストン3は線10に沿って移動し,角度αは,線10と,ピストン3が上死点ÖVにある時のピストン3のコネクティングロッド5との連結点ÖVから(クランクシャフト4のコネクティングロッド5との連結点ÖV’を通って)クランクシャフト4の回転中心7に延びる線11との間で得られる鋭角と定義される。
既述のように,本発明は,それが応用されるエンジンに関する他の状況や環境により異なる程度に応用し得る。図2では,変位距離Fは,ほぼ0.38にピストン行程の長さを乗じた値であり(αは9.5°に略等しい),コネクティングロッド5の長さLとピストン行程SLの長さとの関係は1.77:1である(コネクティングロッド長=145mm,ピストン行程長=82mm)。変位Fの結果として生じる一つの変化として,下死点UV’におけるクランクシャフト4とコネクティングロッド5の連結点の位置は上死点ÖV’におけるクランクシャフト4とコネクティングロッド5の連結点の位置に対して変位しており,その結果,全膨張行程中のクランクシャフト4の回転は180°未満となる。」(段落【0012】)
ウ 前記ア及びイの記載を総合すれば,本願明細書には,次の点が開示されていることが認められる。
(ア) 圧縮行程で圧縮されたシリンダー内の燃料と空気の混合物が点火されて発生する燃焼ガスの膨張による圧力により,ピストンが上死点から下死点まで移動する膨張行程においては,ピストンが上死点から下死点に向かって移動を開始する行程の初期に,燃焼ガスがピストンに対して最大の力を付与するが,従来の燃焼機関では,この初期の部分におけるピストンからコネクティングロッドを介してのクランクシャフトへの力の好ましい伝達が困難であるという課題があった。
(イ) 本願補正発明は,ピストンが燃焼ガスから最大の力を付与される膨張行程の初期の部分を効率的に利用し,この部分でクランクシャフトに対して力の好ましい伝達が行われる装置を提供することを目的とし,その目的を達成するための手段として,ピストンの移動可能な線から或距離の変位をもってクランクシャフトの回転中心が配置され,クランクシャフトの長手方向に装置を見た場合,ピストンの移動線に関してクランクシャフトの回転中心の反対側に位置するクランクシャフトの部分が,ピストンの移動線と平行で且つシリンダーから離れる方向の運動成分を有するようにクランクシャフトが回転方向を有する構成を採用した。
(ウ) クランクシャフトの回転中心が変位していない従来の装置では,ピストンが上死点にあるとき,ピストンが移動できる線,すなわちシリンダーの長手方向中心線,ピストンにおけるコネクティングロッドの連結点とクランクシャフトにおけるコネクティングロッドとの連結点とを結ぶ線,クランクシャフトの回転中心が全て同一線上に位置するため,コネクティングロッドがピストンの移動線に対して傾斜していないのに対し,本願補正発明では,上記構成を採用したことにより,ピストンが上死点にあるとき,ピストンにおけるコネクティングロッドの連結点とクランクシャフトにおけるコネクティングロッドとの連結点とを結ぶ線は,クランクシャフトの回転中心と同一線上に位置するが,ピストンの移動線に対してクランクシャフトの回転中心が変位している側に傾斜しているため,コネクティングロッドが既にピストンの移動線に対して一定傾斜度を有している。
本願補正発明は,ピストンが上死点にあるときに,上記のようにコネクティングロッドが既にピストンの移動線に対して一定傾斜度を有していることに基づいて,点火の直後にピストンからの力の好適な伝達が開始される傾斜度がピストンの割合として小さな移動によって得られ,しかも,膨張行程中において,ピストンの所与の移動量が,より小さいクランクシャフトの角度偏差でよいことにより,ギア比の減少が得られ,それにより膨張行程全体において力のより好適な伝達が得られるという効果を奏する。
(2) 引用文献の記載事項について
引用文献(実願昭58-21666号(実開昭59-127834号)のマイクロフィルム)(甲1)には,次のような記載がある(下記記載中に引用する第1図及び第2図については別紙2を参照)。
ア 「2.実用新案登録請求の範囲
ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させると共に,クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させたことを特徴とするエンジン。」(明細書1頁)
イ 「3.考案の詳細な説明
本考案は,振動及び騒音を顕著に低減し得るエンジンに関するものである。
一般に良く知られているように,エンジンの発生騒音の相当部分は,所謂ピストンスラッピングに基因するものである。上記ピストンスラッピングは,ピストンが上死点付近にあるとき燃焼ガス圧力の反力によって生ずる側圧が,反スラスト側からスラスト側に変化する際に,ピストンがスラスト側のシリンダ(勿論シリンダライナを有するエンジンでは同ライナを意味する)壁面に急激に衝突することによって起るものであり,燃焼圧力が高いディゼルエンジン特に小型のドライライナ形ディゼルエンジンでは,その騒音発生要因の略50%が,このピストンスラッピングに基因するものと考えられる。」(明細書1頁~2頁)
ウ 「本考案は,上記ピストンスラッピングを低減することにより,エンジン騒音の発生を効果的に抑止するものであって,ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させると共に,クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させたことを特徴とするものである。」(明細書2頁)
エ 「本考案によれば,上記構成を採用することによって,シリンダ内の燃焼ガス圧力が従来のエンジンよりも可成低くなった時点で,ピストンがシリンダのスラスト側壁面に衝突するので,それだけ起振力が小さくなり,エンジンの振動従って騒音を確実に低減することができるのである。」(明細書2頁)
オ 「以下本考案の一実施例を添付図面について詳細に説明する。先づ第1図において,一点鎖線A-Aで示した中心線はエンジンのシリンダ中心線であって,10はその一部のみを略図的に示したシリンダ12内に嵌装されたピストンであって上記中心線A-Aに沿って往復動することができる。14はピストンピン,16はコネクティングロッド,18はクランクシャフトを夫々図式的に示す。上記ピストンピン14の中心線B-Bは,上記シリンダ中心線A-Aから距離e1だけ偏心しており,一方クランクシャフト18の回転中心線C-Cは上記シリンダ中心線A-Aから距離e2だけ偏心している。説明の便宜上,上記偏心量el及びe2は誇張して大きく示されているが,実際には,例えばトラック用のディゼルエンジン(出力100PS~500PS程度)において,e1は約1~2mm,e2は約1~3mm程度のものと理解されたい。」(明細書2頁~3頁)
カ 「そこで今,エンジンのクランクシャフト18が図中矢印R方向に回転しているとき,ピストン10が上死点T.D.Cに接近するまで,同ピストンは圧縮空気圧及び燃焼ガス圧の側圧によってシリンダ12の反スラスト側T1(図では,シリンダ中心線A-Aの右側)に押しつけられ,次に上死点T.D.Cを越えると,逆にシリンダ12のスラスト側T2(図では,シリンダ中心線A-Aの左側)に押圧されるのであるが,上死点T.D.C付近でピストン10に作用する側圧が反スラスト側T1からスラスト側T2に急激に変化する際に,ピストン10が激しくスラスト側T2に衝突し,所謂ピストンスラッピンクを起し,エンジンの振動,騒音の有力な発生要因の一つとなっているのである。そして,このピストンスラッピングは,シリンダ12内の圧力レベルが高いディゼルエンジンにおいて,殊に著しい。」(明細書3頁~4頁)
キ 「そこで,従来ピストンスラッピングを低減するために,ピストンピン14の中心線B-Bを,シリンダ12の中心線A-Aから偏位させることが試みられている。これは,往復動エンジンの機構上不可避的に発生するピストンスラッピングのタイミングを,シリンダ内の燃焼ガス圧力が最高値に達するタイミングから外して,衝突力を小さくしようとしたものであり,それなりの効果は収めているが,なお十分とは謂い難い。即ち,図中点線で示したように,従来の装置では,クランクシャフト18′の中心線が,シリンダ中心線A-A上にくるように配設され,コネクティングロッド16が,図示のようにシリンダ中心線A-Aに対して略平行する側圧ゼロの位置にあるときのクランク角はβであって,続いて発生するピストンスラッピングのタイミングは,第2図に例示したシリンダ内圧力波形における最高圧力値からのずれが小さい。」(明細書4頁~5頁)
ク 「これに対し本考案によれば,ピストンピン14に上記偏心量e1を与えるだけでなく,クランクシャフト18にも偏心量e2が与えられているので,第1図の実線で示すように,ピストン10に対する側圧がゼロとなるコネクティングロッド16の位置でのクランク角αが従来より著しく大きくなり,従って,続いて起るピストンスラッピングのタイミングが第2図の圧力線図でピーク値から大巾にずれ,低いガス圧の下でピストンスラッピングが発生する。これにより,ピストンスラッピング時の衝突力を著しく小さくすることができ,それだけエンジンの振動,騒音を減少することができるのである。なお,第2図において,縦軸はシリンダ内の圧力P(kg/c㎡)を,又横軸はクランク角R(deg)を示す。」(明細書5頁~6頁)
ケ 「上述したように本考案に係るエンジンによれば,ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させると共に,クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させたことにより,ピストンスラッピングの衝突力を大巾に低減し,エンジンの振動,騒音を小さくすることができるので,極めて有益である。」(明細書6頁)
(3) 引用発明の認定の誤りの有無について
原告は,①引用文献には,「実用新案登録請求の範囲」に「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させると共に,クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させたことを特徴とするエンジン」が記載され,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成及び「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成の両構成を備えて初めて「ピストンスラッピング時の衝突力を著しく小さくすることができ,それだけエンジンの振動,騒音を減少することができる」という作用効果を発揮することが技術思想として開示されており,引用文献記載のエンジンにおける「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成は,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成を前提とするものといえるから,引用文献の記載事項から「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成のみを有するエンジンを取り出すことには阻害要因がある,②本件審決が認定した引用発明のうち,「ピストン10において,ピストン10が沿って往復動する中心線A-Aから,距離e2の偏心をもってクランクシャフト18の回転中心が配置され,そして,クランクシャフト18の長手方向に装置を見た場合,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aに関してクランクシャフト18の回転中心の反対側に位置するクランクシャフト18の部分が,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aと平行で且つそれぞれのシリンダー12から離れる方向の運動成分を有するように,クランクシャフト18が回転方向Rを有し」との部分は,引用文献の記載事項から「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成のみを取り出し,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成を捨象するものであるから,誤りである旨主張する。
ア そこで検討するに,特許法29条2項の適用の前提となる同条1項3号が「特許出願前に頒布された刊行物に記載された発明」を特許を受けることができる発明から除外した趣旨は,刊行物の頒布によって,公衆に対し,特許出願前に既に公開された刊行物記載の技術内容について新たに特許により独占権を付与することは,特許法の目的とする産業の発達に寄与することなく,かえって技術の発展を阻害することにあるものと解される。
そうすると,特許法29条1項3号の「刊行物」が特許出願に係る特許公報又は実用新案登録出願に係る実用新案公報(明細書等のマイクロフィルムを含む。)である場合,「刊行物に記載された発明」に該当し得る技術内容は,出願の直接の目的とした特許請求の範囲に記載された発明又は実用新案登録請求の範囲に記載された考案にのみ限定されるのではなく,発明の詳細な説明又は考案の詳細な説明に従来技術として示された技術内容なども含めた,明細書全体に開示された技術内容であるといえる。
したがって,本件審決の引用発明の認定に誤りがあるかどうかは,引用文献(甲1)記載の「実用新案登録請求の範囲に記載された考案」だけではなく,明細書の記載事項全体に基づいて判断すべきである。
イ 前記(2)によれば,引用文献には,次の点が開示されていることが認められる。
(ア) 「本考案」は,ピストンが上死点付近にあるとき,シリンダ内の燃焼ガス圧力の反力によって生ずるピストンに作用する側圧の向きが「反スラスト側」から「スラスト側」に変化する際に,ピストンが「スラスト側」のシリンダ壁面に急激に衝突することによって起きる「ピストンスラッピング」の衝突力を低減させることより,エンジン騒音の発生を効果的に抑止することを課題とするものである。
(イ) コネクティングロッド16(ピストンピン14の中心線(ピストン10におけるコネクティングロッド16の連結点)とクランクシャフト18におけるコネクティングロッド16の連結点とを結んだ線に位置する。)が,別紙2の第1図に示すように,シリンダ中心線A-Aに対して略平行であるときは,側圧が0であるが,クランクシャフト18におけるコネクティングロッド16の連結点が反スラスト側(T1)に移動し,コネクティングロッド16が反スラスト側(T1)に傾斜したときは,側圧がスラスト側(T2)に働き,一方,ピストン10の往復動により,クランクシャフト18が矢印R方向に回転して,クランクシャフト18におけるコネクティングロッド16の連結点がスラスト側(T2)に移動し,コネクティングロッド16がスラスト側(T2)に傾斜したときは,側圧が反スラスト側(T1)に働く。そして,ピストン10の往復動により,クランクシャフト18が矢印R方向に回転して,クランクシャフト18におけるコネクティングロッド16の連結点が移動し,コネクティングロッド16の傾斜の向きがスラスト側(T2)から反スラスト側(T1)に変化する際に,ピストンスラッピングが発生する。
従来の装置では,ピストンが上死点にあるとき,ピストンピンの中心線(ピストンにおけるコネクティングロッドの連結点)とクランクシャフトにおけるコネクティングロッドの連結点とを結んだ線がシリンダ中心線上に位置し,コネクティングロッドは,シリンダ中心線に対して略平行の位置にあるため,ピストンが上死点から下死点に向かって下降を開始する際のシリンダ内の燃焼ガス圧力が最高値に達するタイミングで,ピストンスラッピング発生し,その衝突力は大きなものとなる。
(ウ) そこで,従来,ピストンスラッピングの衝突力を低減させるため,別紙2の第1図に示すように,ピストンピン14の中心線B-Bを,シリンダ12の中心線A-Aから偏位させることが試みられていた。これにより,コネクティングロッド16が,別紙2の第1図に示すように,シリンダ中心線A-Aに対して略平行となって,側圧が0となるのは,ピストンが上死点に向かって上昇している段階にあり,引き続き発生するピストンスラッピングは,シリンダ内の燃焼ガス圧力が最高値に達するピストンが上死点にあるときからずれることになる。この場合,ピストンが上死点にあるときは,ピストンピンの中心線に対してクランクシャフトにおけるコネクティングロッドの連結点が反スラスト側(T1)に位置し,コネクティングロッドが,既に反スラスト側(T1)に傾斜し,ピストンに作用する側圧はスラスト側(T2)に働いており,ピストンが上死点から下死点に向かって下降を開始する際にもコネクティングロッドが反スラスト側(T1)に傾斜している点では変わらないため,上死点では,ピストンスラッピングは発生しない。このように,ピストンピン14の中心線B-Bを,シリンダ12の中心線A-Aから偏位させることにより,ピストンスラッピングのタイミングを,シリンダ内の燃焼ガス圧力が最高値に達するタイミングから外して,衝突力を小さくしようとしたものである。このような構成を採用した装置は,それなりの効果は収めているが,コネクティングロッドが,シリンダ中心線A-Aに対して略平行する位置にあるときのクランク角(シリンダ中心線A-A,クランクシャフトの中心線及びクランクシャフトにおけるコネクティングロッドの連結点で形成する角。以下同じ。)はβであって,続いて発生するピストンスラッピングのタイミングは,第2図に例示したシリンダ内圧力波形における最高圧力値からのずれが小さく,ピストンスラッピングの衝突力を低減させる効果が十分とはいい難かった。
(エ) 「本考案」に係るエンジンは,ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる構成と共に,クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる構成を採用したことにより,ピストンピン14に偏心量e1(ピストンピン14中心線B-Bのシリンダ中心線A-Aからの偏心距離e1)を与えるだけでなく,クランクシャフト18にも偏心量e2(クランクシャフト18の回転中心線C-Cのシリンダ中心線A-Aからの偏心距離e2)を与えるので,コネクティングロッドが,シリンダ中心線A-Aに対して略平行する位置にあるときのクランク角αが従来より著しく大きくなり,続いて発生するピストンスラッピングのタイミングは,第2図の圧力線図で示したピーク値(最高圧力値)から大巾にずれ,低いガス圧の下でピストンスラッピングが発生する。これにより,ピストンスラッピング時の衝突力を著しく小さくすることができ,エンジンの振動,騒音を減少することができる。
ウ 前記イ認定のとおり,引用文献には,ピストンスラッピングが発生するタイミングを,ピストンが上死点から下死点に向かって下降を開始する燃焼ガス圧が最大値となる時点からずらして,低いガス圧の下でピストンスラッピングを発生させることによって,ピストンスラッピングの衝突力を低減させることにより,エンジン騒音の発生を抑止する技術として,従来,ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位(偏心距離e1)させる構成を採用することにより,コネクティングロッド16が,別紙2の第1図に示すように,シリンダ中心線A-Aに対して略平行となって,側圧が0となる時点を,ピストンが上死点に向かって上昇している段階となるようにして,この段階でピストンスラッピングを発生させ,ピストンスラッピングが発生するタイミングを燃焼ガス圧が最大値となるピストンが上死点にあるときからずらした装置が知られていたが,そのずれの幅が小さく,ピストンスラッピングの衝突力の低減が十分ではないという問題があったため,引用文献記載のエンジン(装置)は,ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位(偏心距離e1)させる構成とともに,クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位(偏心距離e2)させる構成を採用したことにより,そのずれの幅をより大きくし,更に低いガス圧の下でピストンスラッピングが発生させるようにして,従来の装置よりもピストンスラッピングの衝突力を低減させ,エンジン騒音の発生を効果的に抑止する効果を奏するようにしたことが開示されている。
これによれば,引用文献記載の装置においては,ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位(偏心距離e1)させる構成のみを採用した従来の装置よりも,上記構成とクランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位(偏心距離e2)させる構成を共に採用したことにより,上記のとおりずれの幅が大きくなると同時に,ピストンが上死点にあるときのコネクティングロッドの反スラスト側(T1)への傾斜角度が大きくなることを理解できるとともに,クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位(偏心距離e2)させる構成のみを採用した場合にも,ピストンスラッピングが発生するタイミングを燃焼ガス圧が最大値となるピストンが上死点にあるときからずらすことができ,ピストンが上死点にあるとき,コネクティングロッドが反スラスト側(T1)に傾斜していることを理解できる。
そうすると,引用文献の記載事項全体から,引用文献には,ピストンスラッピングが発生するタイミングを,ピストンが上死点から下死点に向かって下降を開始する燃焼ガス圧が最大値となる時点からずらして,低いガス圧の下でピストンスラッピングを発生させることによって,ピストンスラッピングの衝突力を低減させることにより,エンジン騒音の発生を抑止する技術として,①ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位(偏心距離e1)させる構成のみを採用した従来の技術,②ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位(偏心距離1)させる構成及びクランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位(偏心距離e2)させる構成を共に採用した技術(「実用新案登録請求の範囲」記載の考案),③クランク軸の中心線をシリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位(偏心距離e2)させる構成を採用した技術が開示されていることが認められる。
以上によれば,本件審決が,引用文献記載の上記③の技術内容に基づいて,引用文献に,「ピストン10において,ピストン10が沿って往復動する中心線A-Aから,距離e2の偏心をもってクランクシャフト18の回転中心が配置され,そして,クランクシャフト18の長手方向に装置を見た場合,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aに関してクランクシャフト18の回転中心の反対側に位置するクランクシャフト18の部分が,ピストン10の沿って往復動する中心線A-Aと平行で且つそれぞれのシリンダー12から離れる方向の運動成分を有するように,クランクシャフト18が回転方向Rを有し」との構成を有する「直線運動を回転運動に変換する装置」の記載があると認定したことに誤りはないというべきである。
エ 原告は,この点に関し,引用文献の記載事項から「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成のみを取り出し,「ピストンピンの中心線をシリンダの中心線からスラスト側に偏位させる」構成を捨象することは,誤りである旨主張する。
しかしながら,前記ウ認定のとおり,引用文献の記載事項全体から,引用文献には,「クランク軸の中心線を上記シリンダ中心線に対し反スラスト側に偏位させる」構成を採用した技術が開示されているものと認められるから,原告の上記主張は採用することができない。
オ 以上のとおり,本件審決における引用発明の認定に誤りがあるとする原告の主張は,理由はない。
(4) 容易想到性の判断の誤りの有無について
ア 原告は,本件審決における引用発明の認定に誤りがあることを前提に,本件審決には,本願補正発明と引用発明との一致点の認定の誤り及び相違点の看過があるから,引用発明(引用文献に記載された発明)に基づいて本願補正発明の構成を容易に想到することができたとした本件審決の判断は誤りである旨主張する。
しかしながら,前記(3)で説示したとおり,本件審決における引用発明の認定に誤りはないから,原告の上記主張は,その前提を欠くものであって,理由がない。
イ 原告は,本願補正発明の格別の効果である「ピストンが僅かに上死点から移動するとすぐに,クランクシャフトにおけるコネクティングロッドの連結点がクランクシャフトと共に回転することにより当初はピストンの移動線から離れる方向に移動する」との点は,引用文献に記載がないから,本願補正発明は,当業者が引用発明(引用文献に記載された発明)に基づいて容易に想到することができたものではない旨主張する。
そこで検討するに,前記(1)ウ(ウ)認定のとおり,本願明細書には,本願補正発明は,ピストンが上死点にあるときに,コネクティングロッドの連結点とクランクシャフトにおけるコネクティングロッドとの連結点とを結ぶ線がクランクシャフトの回転中心が変位している側に傾斜し,コネクティングロッドが既にピストンの移動線に対して一定傾斜度を有していることに基づいて,点火の直後にピストンからの力の好適な伝達が開始される傾斜度がピストンの割合として小さな移動によって得られ,しかも,膨張行程中において,ピストンの所与の移動量が,より小さいクランクシャフトの角度偏差でよいことにより,ギア比の減少が得られ,それにより膨張行程全体において力のより好適な伝達が得られるという効果を奏する旨の記載がある。
一方で,引用文献には,本願補正発明の上記効果の記載はない。
しかしながら,引用発明は,「ピストン10において,ピストン10が沿って往復動する中心線A-Aから,距離e2の偏心をもってクランクシャフト18の回転中心が配置され」,「偏心距離e2が,約1~3mm程度である装置」であって,前記(3)ウ認定のとおり,ピストンが上死点にあるとき,コネクティングロッドが反スラスト側(T1)に傾斜している。
そうすると,引用発明の装置は,本願補正発明と同様に,「ピストンが上死点にあるときに,コネクティングロッドの連結点とクランクシャフトにおけるコネクティングロッドとの連結点とを結ぶ線がクランクシャフトの回転中心が変位している側に傾斜し,コネクティングロッドが既にピストンの移動線に対して一定傾斜度を有している」構成を有するものといえるから,これに基づいて本願明細書記載の上記効果を奏するものと認められる。
したがって,原告主張の本願補正発明の効果は格別の効果であるとはいえないから,本願補正発明の容易想到性の判断の誤りをいう原告の上記主張は,その前提を欠くものであって,理由がない。
(5) 小括
以上によれば,本願補正発明は当業者が引用発明に基づいて容易に想到することができたとした本件審決の判断に原告主張の誤りはない。
したがって,本願補正発明が当業者が引用文献に記載された発明に基づいて容易に想到することができたことを理由に特許出願の際独立して特許を受けることができないとして本件補正を却下した本件審決の判断に誤りはないから,原告主張の取消事由1は理由がない。
2 取消事由2(本願発明と引用発明との同一性に係る判断の誤り)について
前記1(4)アで述べたとおり,本件審決の引用発明の認定及びこれに基づく一致点の認定に原告主張の誤りはない。
したがって,本願発明は引用発明と同一であるとの本件審決の判断に誤りはないから,原告主張の取消事由2は理由がない。
3 結論
以上の次第であるから,原告主張の取消事由はいずれも理由がなく,本件審決にこれを取り消すべき違法は認められない。
したがって,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 富田善範 裁判官 大鷹一郎 裁判官 齋藤巌)
file_2.jpg別紙