知財高等裁判所 平成25年(行ケ)10209号 判決 2014年9月10日
原告
カルピス株式会社
訴訟代理人弁護士
熊倉禎男
富岡英次
相良由里子
小和田敦子
弁理士
箱田篤
滝澤敏雄
補佐人弁理士
小林真知
被告
特許庁長官
指定代理人
川口裕美子
内藤伸一
板谷一弘
堀内仁子
主文
1 特許庁が不服2011-151号事件について平成25年6月10日にした審決を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第1原告が求めた判決
主文同旨
第2事案の概要
本件は,特許出願拒絶査定不服審判請求に対する不成立審決の取消訴訟である。争点は,補正についての独立特許要件(進歩性)の有無である。
1 特許庁における手続の経緯
原告は,平成19年2月14日(優先権主張平成18年2月14日・日本)を国際出願日とし,発明の名称を「動脈硬化予防剤,血管内膜の肥厚抑制剤及び血管内皮機能改善剤」とする発明につき,特許出願をしたが(特願2008-500515号,甲13),平成22年5月12日付けで拒絶理由の通知を受け(甲14),同年7月26日付け手続補正書(甲16)により,特許請求の範囲の変更を含む手続補正をした。
原告は,同年9月30日付けで拒絶査定を受けたので(甲17),平成23年1月5日,これに対する不服の審判を請求するとともに(不服2011-151号,甲18),同日付け手続補正書(甲19。以下「本件補正書」という。)により,発明の名称を「動脈硬化予防剤,血管内膜の肥厚抑制剤及び血管内皮の収縮・拡張機能改善剤」(下線部は補正箇所)に変更するとともに,特許請求の範囲及び発明の詳細な説明を変更する旨の手続補正(以下「本件補正」という。)をした。
特許庁は,平成25年6月10日,本件補正を却下した上で,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決(以下「本件審決」という。)をし,その謄本は,同月25日,原告に送達された。
2 本願発明の要旨
⑴ 本件補正前の請求項10(補正前発明)
平成22年7月26日付け手続補正書(甲16)による。
「【請求項10】
Ile Pro Pro 及び/又は Val Pro Pro を有効成分として含有し,血管内皮機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤。」
⑵ 本件補正後の請求項10(補正発明)
本件補正書による。
「【請求項10】
Ile Pro Pro及び/又はVal Pro Proを有効成分として含有し,血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤。」(下線部は補正箇所。甲19)
3 本件審決の理由の要点
⑴ 本件補正の適否
本件補正は,請求項10については,平成18年法律第55号改正附則3条1項によりなお従前の例によるとされる同法による改正前の特許法(以下「平成18年改正前の特許法」という。)17条の2第4項2号の特許請求の範囲の減縮を目的とするものに該当する。
⑵ 補正発明の独立特許要件の有無
ア 引用発明について
引用例1(特表2003-513636号公報,甲1)には,以下の引用発明が記載されている。
「Ile Pro Pro 及び/又は Val Pro Pro を抗高血圧性ペプチドとして含有し,ACE阻害活性を示す,抗高血圧剤。」
イ 補正発明と引用発明との一致点と相違点
【一致点】
「Ile Pro Pro 及び/又は Val Pro Pro を有効成分として含有する薬剤。」
【相違点】
薬剤の用途が,補正発明においては「血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤」であるのに対し,引用発明においては「ACE阻害活性を示す,抗高血圧剤」である点。
ウ 相違点についての検討
(ア) 引用例2(檜垣實男「レニン・アンジオテンシン系抑制薬」臨床医薬18巻12号(12月)2002 1281頁から1286頁,甲2)には,アンジオテンシン変換酵素阻害薬(以下「ACE阻害剤」という。)であるシラザプリルが内皮依存性の血管拡張能を向上させることが,引用例3(Jay D.Schlaifer,MD etal.“Effects of Quinapril on Coronary Blood Flow in Coronary Artery DiseasePatients With Endothelial Dysfunction”「内皮機能障害をもつ冠動脈疾患患者における冠動脈血流に対するキナプリルの効果」 THE AMERICAN JOURNAL OFCARDIOLOGY VOL80 DECEMBER15, 1997 p1594-p1597,甲3)には,ACE阻害剤であるキナプリルが血管拡張作用に関連する内皮依存性の冠動脈血流応答を改善することが,それぞれ記載されている。したがって,引用例2及び引用例3に接した当業者は,複数のACE阻害剤による,①内皮依存性の血管拡張能の向上又は②血管拡張作用に関連する内皮依存性の冠動脈血流応答の改善が確認されていたことを知ることができる。
また,引用例4(Jerry S. Powell et al.(1989)“Inhibitors ofAngiotensin-Converting Enzyme Prevent Myointimal Proliferation After VascularInjury”「アンジオテンシン変換酵素の阻害剤は血管損傷後の筋内膜増殖を防止する」SCIENCE Vol.245 p186-p188,甲4)には,シラザプリルでの連続処理を受けた動物においては,血管内皮の損傷後の新生内膜形成が減少し,内腔の肥厚をもたらさずに健全が保たれていたことが記載されていることから,引用例4に接した当業者は,実際にACE阻害剤であるシラザプリルが新生内膜形成抑制作用,すなわち,血管内膜の肥厚抑制作用を有することを知ることができる。
さらに,引用例5(楽木宏実ほか「レニン-アンジオテンシン系」TherapeuticResearch vol.20 no.9 1999 19頁から27頁,甲5)には,①動脈硬化におけるAⅡ(アンジオテンシンⅡ)の作用については,ACE阻害剤を中心として臨床的にかなり研究が進められていること,②実際にヒトで証明されているACE阻害剤の効果は,血管壁肥厚の抑制と改善,内皮細胞機能の改善及び再梗塞の予防であることが記載されており,これに接した当業者は,血管壁肥厚の抑制と改善,内皮細胞機能の改善というACE阻害剤の効果は臨床研究により証明されていることを知ることができる。
(イ) 以上によれば,引用例1から引用例5を併せ見た当業者が,引用発明においてACE阻害活性を有することが確認されている Ile Pro Pro(以下「IPP」という。)及び/又は Val Pro Pro(以下「VPP」という。)を,血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤として用いることに,格別の創意を要したものとはいえない。
また,本願に係る特許協力条約に基づく国際出願願書(甲13,以下「本願国際出願願書」という。)の記載を検討しても,補正発明が,当業者が前記5つの引用例の記載から予測し得ない優れた効果を奏し得たものともいえない。
エ 原告(審判請求人)の主張について
(ア) 原告は,シラザプリル,キナプリル,エナラプリル等のACE阻害剤がIPP及びVPPに比して極端に高いACE阻害活性及びバイオアベイラビリティを有していることを理由に,ACE阻害活性やバイオアベイラビリティを指標として血管内皮機能改善や血管内膜の肥厚抑制作用に関連する抗動脈硬化剤を選択するに当たり,IPP及びVPPの選択動機は低いとして,本願発明は,引用発明等に基づいて当業者が容易に発明できたものではない旨主張する。
しかしながら,引用例1には,引用発明の抗高血圧剤がラット及びヒトにおいて血圧上昇を十分に防ぎ得る旨が記載されており,同記載によれば,引用発明の抗高血圧剤は体内において薬理活性を示すことが知られていたといえる。このことから,IPP及びVPPのACE阻害活性及びバイオアベイラビリティが上記ACE阻害剤よりも低いことが知られていても,それは,血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を期待して,IPP及び/又はVPPを薬剤とすることを妨げるものとはいえない。したがって,原告の前記主張は採用できない。
(イ) また,原告は,本願国際出願願書の実施例1-2及び比較例1において,IPP及びVPPと,IPP又はVPPと同程度のACE阻害活性を示す濃度にしたエナラプリルとを試験動物であるラットに摂取させたところ,IPP,VPPを摂取させたラットには有意な血管内皮機能改善作用が見られたのに対し,エナラプリルを摂取させたラットにはそのような作用は見られなかったという結果が記載されており,この結果によれば,IPP及びVPPが示した効果は,当業者が引用発明等から予測し得ないACE阻害活性以外の効果が作用しているものであるとして,本願発明は,引用発明等に基づいて当業者が容易に発明できたものではないと主張する。
しかしながら,引用例2,3及び5によれば,ACE阻害剤が血管拡張機能や内皮細胞機能の改善効果を有することは,本願の優先権主張日(以下「本願優先日」という。)前において既に複数の研究に基づいて明らかにされており,相当程度確立された知見であったものと認められる。そうすると,ACE阻害剤であるエナラプリルに,IPP又はVPPほどの血管内皮機能改善作用が見られなかったという結果のみによって,ACE阻害活性を有することが知られているIPP又はVPPの血管内皮機能改善作用が,上記引用例の記載から予測し得ないものであったとはいえず,ACE阻害活性以外の作用によるものであるとまでいうこともできない。
また,実施例1-2及び比較例1の試験についても,前記「同程度のACE阻害活性を示す濃度」につき,原告はIC50(判決注:in vitroACE阻害活性測定系でACEを50パーセント阻害する濃度。値が小さければ,それは,低い濃度でACEを50パーセント阻害できることを意味し,ACE阻害活性が強いということになる〔乙13参照〕。)の値を根拠とするところ,試験系が異なれば,用量-作用の関係は必ずしも一致するとは限らないのであるから,比較例1のただ1つの用量の試験結果のみから,ACE阻害剤であるエナラプリルに血管内皮機能改善作用がないとまではいえず,IPP又はVPPの血管内皮機能改善作用がACE阻害活性以外の作用による予測し得ないものであるとはいえない。
以上によれば,原告の前記主張は採用できない。
オ 小括
したがって,補正発明は,本願優先日当時,引用例1から引用例5に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるから,特許法29条2項の規定により,特許出願の際独立して特許を受けることができない。
⑶ 本件補正の却下
以上によれば,本件補正は,平成18年改正前の特許法17条の2第5項において準用する同法126条5項の規定に違反するものであるから,同法159条1項において読み替えて準用する特許法53条1項の規定により却下すべきものである。
⑷ 補正前発明
補正前発明は,補正発明の「血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤」につき,血管内皮機能の特定がない,「血管内皮機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤」としたものである。
したがって,補正前発明も,補正発明と同様に,本願優先日当時,引用例1から引用例5に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものといえるから,特許法29条2項により,特許を受けることができない。
第3原告主張の審決取消事由-進歩性に関する判断の誤り
原告は,①審決取消事由1-本願発明の技術的意義の認定の誤り,②審決取消事由2-進歩性に関する判断の誤り及び③審決取消事由3-用途発明としての進歩性についての法の適用の誤りを主張するが,これらはいずれも,補正発明の進歩性を否定した本件審決の判断に誤りがある旨を主張するものと解されるから,まとめて「進歩性に関する判断の誤り」という審決取消事由を構成するものとして整理した。
すなわち,原告は,以下のとおり,本件審決には,①補正発明の技術的意義に関する認定の誤り,②本願優先日当時における技術常識についての認定の誤り,③引用発明と引用例2から引用例5との組合せの容易想到性についての認定の誤り,④補正発明の顕著な作用,効果を看過した誤りがあり,したがって,補正発明の進歩性を否定した判断は誤りといえるから,本件審決は取り消されるべきであると主張する。
1 補正発明の技術的意義に関する認定の誤り
⑴ 補正発明の技術的意義
ア 本願国際出願願書記載の実施例1-1
(ア) 本願国際出願願書には,実施例1-1について,①製造例1で牛乳由来カゼインから調製されたIPP及びVPPを含むカゼイン加水分解物は,その摂取により,血管内皮機能評価において顕著な改善作用を示すことが明らかとなったこと,②同改善作用は,血圧降下作用に付随したものではないこと,③同改善作用は,NO(一酸化窒素)に応答する血管中膜の機能改善に関連したものではなく,血管内皮機能の改善を直接反映したものであることが記載されている。
したがって,製造例1及び実施例1-1は,IPP及びVPPを含む牛乳カゼイン分解物が,血圧降下作用やNOに応答する血管中膜の機能改善とは無関係に,血管内皮機能改善作用を示すことを,明らかにするものといえる。
(イ) 実施例1-1において,上記カゼイン分解物が7日間の投与で血管内皮機能改善作用(統計的有意確率p<0.001)を示したのに対し,後記のとおり,引用例2,3において,ACE阻害剤であるシラザプリル,キナプリルは,6か月間の投与で血管内皮機能改善作用を示し,しかも,その統計的有意確率はシラザプリルがp<0.05,キナプリルがp=0.13であり,いずれも結果の信頼性において上記カゼイン分解物よりも劣り,特にキナプリルについては統計学的には効果が認められない数値である。IPP及びVPPのACE阻害活性は,シラザプリル及びキナプリルのACE阻害活性の約1/1000程度の弱いものであることを併せ考慮すると,IPP及びVPPの血管内皮機能改善作用がACE阻害活性によるものではないことは明らかである。
イ 本願国際出願願書記載の実施例1-2
本願国際出願願書には,実施例1-2について,Wistar系ラットを試験動物として用いた実験の結果,①一酸化窒素合成阻害剤であるL-NAME単独摂取の群よりもIPP又はVPPを同時に摂取した群の血管拡張の割合が有意に増加し,IPP及びVPPに血管内皮機能改善作用があることがわかった,②一方,比較例1において,IPP又はVPPに代えて,エナラプリルを,IC50値を基準にIPPやVPPと同程度のACE阻害活性を示すように投与量を調整して用いたところ,L-NAME(判決注:一酸化窒素合成阻害剤。この投与による一酸化窒素合成の慢性阻害は,アテローム性動脈硬化症を誘発する〔甲33〕。)単独摂取の群と比較して血管拡張の有意差は認められなかった,③したがって,ACE阻害活性を有する物質であれば血管内皮機能改善作用を有するとはいえないという趣旨の記載がある。
以上によれば,実施例1-2の結果は,IPP及びVPPの示す血管内皮機能改善作用がACE阻害活性とは連動しないことを示したものといえる。
ウ 以上によれば,補正発明は,①IPP及びVPPが血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の作用を有し,その効果はACE阻害活性とは関連しないこと,②抗高血圧剤として使用されているACE阻害剤は,上記作用を有しないことを見出しており,これらは補正発明の技術的意義といえる。
⑵ 本件審決の誤り
本件審決は,上記の補正発明の技術的意義を無視又は看過して,IPP及びVPPが独自に有する,血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の作用を,ACE阻害活性以外の作用によるものとはいえないと認定しており,これは誤りである。
2 本願優先日当時における技術常識についての認定の誤り
本件審決が,「引用例2,3及び5によれば,ACE阻害剤が血管拡張機能や内皮細胞機能の改善効果を有することは,本願優先日前に,複数の研究に基づいて明らかにされており,相当程度確立された知見であった」旨を説示し,本願優先日当時において,ACE阻害剤が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用や血管内膜の肥厚抑制作用を有することは,引用例2から引用例5によって知られていた旨を認定した点は,以下のとおり,誤りである。
⑴ 引用例の開示内容
ア 引用例2について
引用例2からは,シラザプリルを6か月間投与した結果,治療前後の内皮依存性血管拡張が,統計的有意確率 p<0.05 で改善していることを読み取ることができる。
しかしながら,前記のとおり,本願国際出願願書の実施例1-1において,IPP及びVPPは,シラザプリルの約1/1000程度の弱いACE阻害活性を備えているにすぎないにもかかわらず,7日間の投与で血管内皮機能改善作用を示し,その統計的有意確率p<0.001 は,前記のシラザプリルに係る統計的有意確率 p<0.05に対し,50倍の結果の信頼性を示すものである。
以上によれば,引用例2においては,IPP,VPPの血管内皮機能改善作用がACE阻害活性によるものではないという知見が示されているといえる。
イ 引用例3から引用例5について
本件審決が,引用例3から引用例5の各開示内容につき,前述したとおり,ACE阻害剤が血管内膜の肥厚抑制作用等を有する旨認定したことは誤りである。
(ア) 引用例3は,キナプリルを6か月間にわたり投与して治療した結果をプラセボの場合と比較したものであるところ,キナプリル処置患者には,プラセボ患者よりも,内皮依存性の血流応答が増加する傾向が見られたものの,両者の統計的有意確率はp=0.13であり,これは統計学的には効果が認められないことを意味する。したがって,引用例3の記載事項をもって,ACE阻害剤は血管内皮機能改善作用を有することが科学的に証明されたとはいえない。また,本願国際出願願書の実施例1-1と比較すると,引用例3においても,引用例2と同様に,IPP,VPPの血管内皮機能改善作用がACE阻害活性によるものではないという知見が示されているといえる。
(イ) 引用例4は,補正発明とは異質の技術を開示したものである。
すなわち,一般的に,「内膜」とは,「内皮細胞層」を不可欠の要素とする組織を指すものと解されることから,補正発明のいう「血管内膜の肥厚」とは,「内皮細胞の層を有する内膜の肥厚」という現象を指すものといえる。
他方,引用例4は,バルーンカテーテル処理によって左頸動脈全体にわたり内皮の完全な剥離を施した正常血圧ラットという特殊な実験モデルにシラザプリルを投与した結果を検証したものであるところ,上記ラットの血管は,バルーンカテーテルにより内皮細胞の層が完全にはぎ取られていることから,上記「内膜」は存在せず,補正発明のいう「血管内膜の肥厚」はそもそも生じ得ない。
したがって,引用例4には,シラザプリルを投与すると著しい「内膜肥厚」が抑制された旨記載されているが,この「内膜」は,前述した一般的な意義の「内膜」(tunica intima)とは異なり,上記のとおり内皮細胞の層がはぎ取られて中膜が露出した動脈において,中膜を構成する平滑筋細胞及び弾性組織が代償的に増殖して蓄積した新生内膜(neointima)である。
以上によれば,引用例4が示唆するシラザプリルの「新生内膜形成抑制作用,すなわち,血管内膜の肥厚抑制作用」は,補正発明のいう「血管内膜の肥厚抑制」とは異なる現象であるといえるから,引用例4は,ACE阻害活性を有する物質が血管内膜の肥厚抑制作用を有することを示唆するものではない。
(ウ) 引用例5に記載されているのは,複数の実験データに基づく個別の結論であり,ACE阻害剤全般について「血管壁肥厚の抑制と改善,内皮細胞機能の改善,および再梗塞の予防」が期待されることを述べたものでないことは明らかである。しかも,引用例5にはACE阻害により内膜肥厚が抑制できることを示したデータは存在しない。特に,引用例5の図1には「キナプリル投与によるラット傷害血管壁での内膜増殖の抑制」という説明が付されているものの,単に傷害を受けた血管のACE産生速度と内膜/中膜比との相関性を示したにすぎず,キナプリルによる既存のACE自体の活性阻害と内膜/中膜比との相関性を示したデータではない。
また,引用例5は,引用例4を参考文献として引用していることから,前述した引用例4と同様に,補正発明のいう「血管内膜の肥厚抑制」とは異なる,新生内膜形成の抑制を示唆したにすぎないともいえる。
⑵ 引用例2から引用例5以外の研究,薬理試験の結果等
さらに,本願優先日の前後いずれにおいても,ACE阻害剤が血管拡張機能や内皮細胞機能を改善する作用を有することを否定又は疑問視する研究や薬理試験の結果(甲7,甲26,甲30から甲32,甲36,甲38)が複数公表されていた。
例えば,平成8年3月に発行された甲31号証(別紙参照)では,引用例2及び引用例4において一定の血管内皮機能改善作用を有する旨記載されているシラザプリルにつき,高血圧患者に処方しても,アセチルコリンによる内皮依存性血管拡張を変化させないことが報告されている。また,甲38号証(別紙参照)には,「興味深いことに,キナプリルは,内皮依存性または非依存性のいずれの血管拡張でも有意な変化を示さなかった。」,「著者らの研究では,内皮依存性の血管拡張において改善に向かう傾向が,キナプリル群で観察されたが,この増大は,統計学的有意差には達しなかった。」と記載されている。
⑶ 以上によれば,本願優先日当時,ACE阻害剤が血管拡張機能や内皮細胞機能を改善する作用の有無については,確立した知見が存在しなかったといえる。
3 引用発明と引用例2から引用例5との組合せの容易想到性についての認定の誤り
⑴ 引用発明について
ア(ア) 引用例1には,IPP,VPP,リシノプリルの各阻害剤定数は,それぞれ,4.4×10-6,1.8×10-5,7.5×10-9であり,この数値が小さいほどACE阻害剤が有効であることが記載されている。同記載によれば,IPP及びVPPのACE阻害活性は,既知のACE阻害剤であるリシノプリル等に比べてかなり弱いことが理解できる。
(イ) 引用例1においては,引用発明の産物を毎日1.5dlヒトに投与しているところ,同産物の組成中,IPPは18㎎/L,VPPは19㎎/Lである。体重60㎏のヒトの血液量を約4.8Lとすると,投与されたIPP,VPPが消化管内において全く分解されないまま一瞬で血液中に移行したと仮定しても,IPP,VPPの各血中濃度は,それぞれ,最大で0.56㎎/L,0.59㎎/Lとなる。そして,IPPの分子量は約325,VPPの分子量は約311であるから,上記血中濃度をモル濃度に換算すると,IPPは1.72×10-6M,VPPは0.89×10-6Mと算出される。もっとも,実際にはIPP及びVPPが消化管内において分解され,消化管からの吸収も一瞬のうちに起きるものではないこと,IPP及びVPPのバイオアベイラビリティはかなり低いことを考慮すると,IPP及びVPPが現実に血液中に移行する量は,上記計算値よりもかなり低くなる。
一般に,生体内における薬剤の薬理効果は,血中においてIC50値を超える濃度が一定期間維持されることによって発揮されると考えられているところ,IPP,VPPのIC50値は,それぞれ,5×10-6M,9×10-6Mであることに鑑みると,引用例1において投与されているIPP,VPPの量では,血中で十分なACE阻害活性を発揮するとは考えにくい。
(ウ) 以上によれば,当業者は,引用例1から,IPP及びVPPの抗高血圧効果につき,ACE阻害活性とは関係なく,別の作用機序によるものであることを予想するといえる。
加えて,IPP及びVPPの血圧上昇抑制作用がACE阻害活性に依存しないことを示唆する報告(甲28等)も,本願優先日以前に知られている。
イ 既知のACE阻害剤であるシラザプリル及びキナプリルのIC50値は,それぞれ,シラザプリルが1~3×10-9M,キナプリルが2.8×10-9Mであるのに対し,前述したとおり,IPP及びVPPのIC50値は,それぞれ,5×10-6M,9×10-6Mである。
このように,シラザプリル及びキナプリルとIPP及びVPPとの間において,IC50値に大差があることから,前者は「強いACE阻害活性」を有するもの,後者は「極めて微弱なACE阻害活性」を有するにすぎないものに分類できる。
ウ 以上によれば,当業者は,前述した引用例1の内容並びにシラザプリル及びキナプリルと,IPP及びVPPとの間におけるIC50値の差から,①シラザプリル及びキナプリルの作用については,強いACE阻害活性に基づくものと理解し,他方,②IPP及びVPPの作用については,ACE阻害活性とは別個の機序を想定するものと思われる。
(2) 引用例2から引用例5について
引用例2から引用例5は,以下のとおり,いずれもACE阻害剤が示した効果を専らACE阻害活性と関連させて考察している。
ア 引用例2においては,シラザプリルが示した血管内皮機能と関連した動脈硬化の抑制作用を,シラザプリルがACE阻害活性作用を有するという観点から評価していることが明らかである。他方,シラザプリルがACE阻害以外の作用を介して動脈硬化を抑制する可能性を示す記載は一切存在しない。
イ 引用例3においては,強いACE阻害活性を有するキナプリルにつき,前記のとおり内皮依存性の血流応答を改善したことが記載されているが,①ACE阻害が内皮機能に対して有益な効果を示す作用機序には,AⅡ生成の阻害が含まれること,②キナプリルの血管ACEに対する高い結合親和性及び効力に着目し,試験物質として選択したことが記載されていることから,キナプリルの前記改善効果を専らACE阻害活性の強さと関連付けて解析したものといえる。他方,ACE阻害活性の非常に弱い物質が(おそらくはACE阻害活性とは別の活性により)「内皮依存性及び非依存性の血管拡張剤に対する微小血管血流応答」を改善する可能性を示す記載は一切存在しない。
ウ 引用例4は,前述のとおり,補正発明とは異質の技術を開示したものであるが,シラザプリルがAⅡ生成阻害以外の作用によって「新生内膜形成」を減少させる可能性を示す記載は一切存在しない。
エ 引用例5も,引用例4と同様に,補正発明とは異質の技術を開示したものといえるが,キナプリルにつき,「キナプリル投与によるラット傷害血管壁での内膜増殖の抑制」などの説明はあるものの,キナプリルがACE阻害活性以外の作用によって上記効果を奏する可能性を示す記載は一切存在しない。
⑶ 引用発明と引用例2から引用例5との組合せの阻害要因
ア ACE阻害活性の程度
前記のとおり,当業者は,①「強いACE阻害活性」を有するシラザプリル及びキナプリルの作用については,強いACE阻害活性に基づくものと理解し,②「極めて微弱なACE阻害活性」を有するにすぎないIPP及びVPPの作用については,ACE阻害活性とは別個の機序を想定するものといえ,したがって,③IPP及びVPPの抗高血圧効果につき,ACE阻害活性とは関係なく,別の作用機序によるものであることを予想すると考えられる。
他方,引用例2から引用例5に接した当業者は,これらに記載された血管内皮機能改善等の作用は,専らシラザプリルやキナプリルの「強いACE阻害活性」によるものであると理解するはずである。
イ その他の阻害要因
加えて,IPP及びVPPと,キナプリル,シラザプリル等のACE阻害剤との間には,①化合物の構造の相違のほか,②前者が発酵食品中に含まれる天然物由来の物質であるのに対し,後者は化学的に合成された物質である,③バイオアベイラビリティは,前者が後者よりもかなり低いという相違がある。
⑷ 組合せの容易想到性の有無
以上によれば,当業者において,IPP及びVPPが抗高血圧効果を有することを示した引用発明と,シラザプリルやキナプリルが血管内皮機能改善作用等を示したなどの記載がある引用例2から引用例5を組み合わせて,IPP及びVPPが血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を示すことを予測することは,極めて困難である。
本件審決は,IPP及びVPPと,シラザプリル,キナプリル等のACE阻害剤とを,ACE阻害活性の強弱,構造の相違等の差異を考慮することなく,ACE阻害活性を有することのみをもって結び付けることによって,引用発明と引用例2から引用例5を組み合わせ,シラザプリル,キナプリルが特定の条件下において示した血管内皮機能改善作用等がACE阻害活性によるものであることを前提として,IPP,VPPを血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤として用いることに格別の創意を要しないと認定した点に誤りがあるといえる。
4 補正発明の顕著な作用,効果を看過した誤り
本件審決が,補正発明につき,以下に述べる顕著な作用,効果を看過して,当業者が引用例の記載から予測し得ない優れた効果を奏し得たものといえない旨認定した点は,誤りである。
⑴ 血管内皮機能の改善効果
ア 前述のとおり,本願国際出願願書の製造例1及び実施例1-1は,IPP及びVPPを含む牛乳カゼイン分解物が,血圧降下作用やNOに応答する血管中膜の機能改善とは無関係に,血管内皮機能の改善効果を示すことを,明らかにしている。
さらに,本願国際出願願書の実施例1-2及び比較例1は,IC50値を基準としてIPPやVPPと同等以上のACE阻害活性を示すように投与量を調整したエナラプリルが血管内皮機能改善作用を示すことのできない条件下においても,(実際の血中濃度はエナラプリルよりもかなり低いと考えられる。)IPP,VPPに血管内皮機能改善作用が認められたこと,同作用はACE阻害活性とは連動しないことを明示している。
これらの結果は,IPP及びVPPがACE阻害とは異なる機序によって血管内皮機能改善作用を示すこと,しかも,エナラプリルが同作用を示すことができない条件下においても,IPP及びVPPは同作用を示すことを示唆するもので,これは,当業者が予測できない顕著な作用,効果といえる。
イ 本件審決は,実施例1-2及び比較例1につき,前記のとおり,「試験系が異なれば,用量-作用の関係は必ずしも一致するとは限らないのであるから,比較例1のただ1つの用量の試験結果のみから,ACE阻害剤であるエナラプリルに血管内皮機能改善作用がないとまではいえず,IPP又はVPPの血管内皮機能改善作用がACE阻害活性以外の作用による予測し得ないものであるとはいえない。」と認定している。
しかしながら,実施例1-2及び比較例1に記載された実験系は,①一般に血管障害モデル動物として認識されているL-NAMEによって血管障害を生じさせた動物,すなわち,L-NAMEを摂取させたラットを試験動物として用いた点,②そのラットの内皮依存的な血管拡張反応を評価する方法として,胸部大動脈リングを作製し,アセチルコリン添加による張力変化を測定する方法を採用した点において,種々の被検物質の血管内皮機能改善に関する作用を評価する実験系として妥当なものであり,結果は尊重されるべきである。また,追加試験(甲39,以下「本件追加試験」という。)においても,IPP及びVPPが共に,キナプリル,シラザプリル及びエナラプリルに比して有意に良好な血管拡張度を示すことが確認され,比較例1の試験結果と一致している。以上によれば,本件審決の前記認定は誤りである。
⑵ 安全性
強力なACE阻害活性を有するACE阻害剤であるエナラプリル,キナプリル,シラザプリルには,めまい,咳嗽等の副作用や更に重大な副作用も起こり得る。
他方,IPP及びVPPは,獣乳カゼインに由来するトリペプチドであって,種々の発酵食品,特に乳酸発酵食品に含まれ,古くから食用に供されてきたものであるから,副作用が少なく,長期間にわたり摂取できる物質であると考えられる。実際に,血圧正常者及び高血圧者を対象として,1日3本のIPP及びVPP含有飲料(IPPとVPPの合計として1日あたり9mg,通常用量の3倍量に相当する。)を28日間継続摂取させたところ,摂取期間を通じて当該飲料に起因すると思われる有害事象は見られなかったことが報告されている。
以上によれば,IPP及びVPPは,日常的に連用しても,ACE阻害剤に共通して見られる副作用が発生しないという安全性を備えているといえる。
⑶ 必要摂取量
引用例3においては,40㎎/日のキナプリルがヒトに投与されている。他方,本願国際出願願書の実施例1-2及び本件追加試験においては,0.3g/L(300mg/L)のIPP又はVPPが使用されており,摂取した水溶液の量は本件追加試験の実験データによれば,IPP,VPPのいずれも約17g/日(約17ml/日)であるから,1日の摂取量は約5.1㎎/日(300 mg/L×0.017L/日)となる。
前述したとおり,キナプリルのIC50値とIPP及びVPPの各IC50値との間には大きな差があることを考慮すると,補正発明によれば,ACE阻害活性という観点からみて非常に低い用量のIPP及びVPPの摂取により,血管内皮の収縮・拡張機能改善や血管内膜の肥厚抑制の作用を生じさせることができ,また,前記⑵のとおり副作用のおそれもないことから,必要に応じて安全に用量を増加させることも可能である。これは,従来のACE阻害剤にない,補正発明の優れた利点である。
第4被告の反論
本件審決が,補正発明の進歩性を否定した認定,判断に誤りはない。
1 補正発明の技術的意義に関する認定の誤りについて
本件審決が,IPP及びVPPの有する血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の作用につき,原告の主張,立証によっては,ACE阻害活性以外の作用によるものであるとまではいえない旨認定した点に誤りはない。
⑴ 実施例1-1について
実施例1-1からは,ACE阻害作用が血圧降下作用を介して血管内皮機能改善作用を生じさせたものではないといえるにとどまり,ACE阻害作用が血圧降下作用を介することなく,直接的に血管内皮機能改善作用を生じさせることまでが否定されるとはいえない。
ア ACE阻害剤が,血圧降下作用を介することなく,直接的に血管内皮機能改善作用を生じさせることは,乙4号証,乙5号証及び乙20号証に記載されている。他方,実施例1-1においては,ACE阻害作用の上記血管内皮機能改善作用を否定する根拠となるデータは示されていない。
乙2号証は,補正発明の発明者らを含む執筆者によって著された文献であるところ,同文献は,実施例1-1に相当する試験の結果に基づき,IPP及びVPPが,そのACE阻害作用により,血圧降下作用を介することなく直接的に血管内皮機能改善作用を生じさせることを肯定しており,さらに,より長期の試験においては,IPP及びVPPによる血管内皮機能の改善によって血圧降下作用がもたらされる可能性も示唆している。
イ 以上によれば,IPP及びVPPが血管内皮機能改善作用を示す一方,血圧降下作用を示さないことをもって,上記血管内皮機能改善作用にACE阻害活性が関与しないと結論付けることはできない。
⑵ 実施例1-2について
実施例1-2及び比較例1から,IPP及びVPPの血管内皮の収縮・拡張機能改善の作用,血管内膜の肥厚抑制作用がACE阻害活性と関連しないものであり,抗高血圧剤として使用されているACE阻害剤が上記作用を有しないと結論付けることはできない。
ア 原告の従業員が公表した乙9号証及び乙13号証には,IPP及びVPPが大動脈においてACE阻害作用により奏功することが示唆されている。そして,引用例4等によれば,ACE阻害剤の血管内皮機能改善作用又は血管内膜の肥厚抑制作用において,局所のACE阻害作用が重要であることが知られていた。
したがって,原告は,補正発明に対応する実験において,乙9号証記載の方法と同様の方法によって,局所におけるACE活性に変化がなく,また,IPP及びVPPの不存在を示せば,IPP及びVPPの血管内皮機能改善作用や血管内膜の肥厚抑制作用が局所のACE阻害作用によるものでないことを直接的に確認し,IPP及びVPPが大動脈でACEを阻害することによって内皮への作用が発揮される,という仮説を直接否定できたはずである。
しかしながら,本願国際出願願書においては,IC50値から算出される推定値に基づく議論がされているのみで上記確認はされておらず,したがって,IPP及びVPPの血管内皮の収縮・拡張機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用はACE阻害作用と連動しないことが,直接的に確認されているとはいえない。
イ 実施例1-2及び比較例1においては,多数あるACE阻害剤のうちの1つであるエナラプリルの単一の投与量による比較例があるにすぎず,この結果のみから,エナラプリルや他のACE阻害剤が血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の作用を示さないと結論付けることはできない。
ウ(ア) 原告は,比較例1の条件設定につき,血管内皮又は血管内膜と直接関係のない,ウサギ肺又はブタ血漿のACE阻害活性を示すIC50値に基づき,IPP,VPP及びエナラプリルのACE阻害活性が同程度となる濃度を設定したことを前提としている。
(イ)a しかしながら,ACE阻害活性は,測定対象とするACEの由来の組織,動物種によって値が異なってくることから,上記のとおり異なる動物種の異なる部位に由来するACEの阻害活性IC50値に基づいて投与量を設定した実施例1-2並びに比較例1のIPP,VPP及びエナラプリルが,同程度のACE阻害活性を有するとはいえない。
b また,乙13号証には,酸乳を経口投与したSHRラット(自然発症高血圧ラット)の腹部大動脈からのみIPP及びVPPが検出された旨記載されており,IPP及びVPPが体内において一様に分布していないことは明らかといえる。さらに,大動脈におけるACE阻害活性に着目すると,乙9号証及び乙17号証によれば,SHRラットの大動脈においては,IPP及びVPPがエナラプリルよりも少ない量で同等のACE阻害活性を達成したということができる。このように,生体内に薬物を投与して行うin vivo 試験においては,薬物の吸収,代謝や組織への局在,蓄積等を考慮する必要があり,生体外での in vitro 試験結果をそのまま適用できるとは限らず,これは,本願優先日当時の技術常識である。
以上の点に鑑みると,比較例1において,大動脈における薬物のACE阻害活性を考慮せず,主としてIC50値に基づいて設定したというIPP,VPP及びエナラプリルの濃度が適切なものといえるかは疑わしい。
エ 前述のとおり,SHRラットの大動脈において同程度のACE阻害を生じさせるための必要量は,エナラプリルの方がIPP及びVPPよりも多く,したがって,IPP及びVPPよりも少ない投与量のエナラプリルが所望の効果を示さなかったのは,当然のことである。
2 本願優先日当時における技術常識についての認定の誤りについて
⑴ 引用例の開示内容について
本件審決が認定した引用例の開示内容に誤りはなく,引用例2から引用例5においては,以下のとおり,特定のACE阻害剤に限らず,ACE阻害剤一般が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用又は血管内膜の肥厚抑制作用を示す旨が記載又は示唆されている。
ア 引用例2について
引用例2のタイトルは「レニン・アンジオテンシン系抑制薬」であり,特定の薬のみに着目した文献ではない。また,本文中,1281頁右欄下から3行目に「シラザプリル」,1282頁の図5から図7に「Cilazapril」という記載があるほかは,「アンジオテンシン変換酵素阻害薬」又は「ACEinhibitor」と表記されていることから,引用例2に接した当業者であれば,シラザプリルのみならずほかのACE阻害剤も内皮機能改善作用を示すものと理解するはずである。
イ 引用例3について
引用例3には,「筆者らがキナプリルを選んだ理由は,その血管ACEに対する高い結合親和性および効力にある。筆者らの仮説は,持続性のACE阻害が微小血管内皮機能を改善することであった。」と記載されており,この記載に接した当業者であれば,引用例3の筆者は,ACE阻害剤全般に血管内皮機能改善作用があることを期待し,キナプリルは1つのモデルとして使ったにすぎないと理解するはずである。
ウ 引用例4について
(ア) 引用例4のタイトルは「アンジオテンシン変換酵素の阻害剤は血管損傷後の筋内膜増殖を防止する」であり,特定の薬のみに着目した文献ではない。また,引用例4においては,シラザプリルのみならず,カプトプリルについても,バルーンカテーテル処理による動脈損傷後のラットに投与したところ,血管狭窄抑制作用,すなわち,血管内膜の肥厚抑制作用が確認されており,「本知見は,(中略)損傷に対する血管壁の筋内膜増殖応答において役割をもつ局所アンジオテンシン系があるという仮説を支持する。」などの記載も併せ見れば,引用例4に接した当業者は,アンジオテンシン変換酵素の阻害剤であれば,血管内膜の肥厚抑制作用を示すものと理解するはずである。
(イ) 引用例4に記載されている,シラザプリルでの連続処理を受けた動物に見られた現象は,一般に「内膜肥厚(又は新生内膜)」として知られていたものであり,補正発明のいう「血管内膜の肥厚」と同義である。
すなわち,乙21号証から乙23号証によれば,内皮損傷,特に,バルーンカテーテルで内皮を物理的に剥離するdenudation injuryにより,中膜の平滑筋細胞は,内膜の外境界を成して中膜と接する内弾性板の窓を通って,内膜に遊走し,そこで増殖し,「内膜肥厚」が起こり,その際には,平滑筋細胞は,アテローム硬化の形成等をもたらす合成型に変化する,と一般に認識されていたといえる。また,引用例4の図1(B)及び(C)を見ると,「新生内膜(NI)」が内弾性板(IEL)で仕切られた領域の管腔側(内膜側)に形成されているのは明らかである。
エ 引用例5について
(ア) 引用例5のタイトルは「レニン-アンジオテンシン系」であり,特定の薬のみに着目した文献ではない。また,「実際にヒトで証明されているACE阻害薬の効果は,血管壁肥厚の抑制と改善,内皮細胞機能の改善,および再梗塞の予防である。」などの記載から,引用例5に接した当業者は,ACE阻害剤一般が,血管壁肥厚の抑制と改善,内皮細胞機能の改善及び再梗塞の予防という作用を有することを理解するはずである。
(イ) 前述のとおり,引用例4は,シラザプリル及びカプトプリルが,バルーンカテーテルによる損傷処理後の「内膜肥厚(又は新生内膜)」に作用することを開示している。そして,引用例5は,引用例4を引用していることから,同様の内容を開示しているといえる。
⑵ 引用例2から引用例5以外の研究,薬理試験の結果等について
ア 乙1号証から乙8号証の文献のイントロダクションに記載された内容から,本願優先日当時,ACE阻害活性を有する化合物が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用を有することが,相当程度確立された知見であったことは明らかである。
例えば,乙1号証中「アンジオテンシン変換酵素(ACE)阻害薬」の項目には,抗動脈硬化作用があることが記載されている。また,乙2号証は,本願優先日後の2007年6月に原告の従業員によって公表された文献であるところ,そのイントロダクションにおいて,従来から多くのACE阻害剤について血管内皮機能を改善する旨報告されていることが,本願優先日以前に刊行された文献を引用して記載されている。
イ 原告が引用例2から引用例5と異なる内容の研究や薬理試験の結果として挙げた書証のいずれにも,例えば複数のACE阻害剤が動物モデルにおいて抗アテローム性動脈硬化作用を有すること(甲7,甲30等)など,引用例2から引用例5と矛盾しない内容の記載が見られる。
⑶ 相当程度確立した知見の存在
引用例2から引用例5,乙1号証から乙8号証,甲7号証,甲30号証から甲32号証,甲36号証,甲38号証によれば,①ACE阻害剤が抗動脈硬化作用や血管内皮依存性拡張機能改善作用を有すること,②実際に,動物実験及びヒトの試験系のいずれにおいても,複数のACE阻害剤が上記各作用を示したことが知られていた。また,ヒト大規模臨床試験において,キナプリルが血管内皮依存性拡張改善作用を,ラミプリルが血管内膜の肥厚抑制作用を,それぞれ示したことが確認されている。
したがって,いまだすべての化合物についてヒトの大規模臨床試験により効果が確認されるには至っていないものの,少なくとも,動物実験又は比較的少人数を対象としたヒトの試験系において,ACE阻害活性を有する化合物が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用を示すことは,本願優先日当時,当業者において相当程度確立された知見であったといえる。
以上によれば,ACE阻害剤が血管拡張機能や内皮細胞機能の改善効果を有することは,本願優先日前において既に相当程度確立された知見であったという本件審決の認定に誤りはない。
3 引用発明と引用例2から引用例5との組合せの容易想到性の認定の誤りについて
⑴ 引用発明について
ア 引用例1の「参考例1 本発明の産物の抗高血圧効果」において,「IPPおよびVPPは明らかなACE阻害活性を示した。」と記載されており(【0041】),これを見た当業者であれば,引用例1の発明者がACE阻害活性と抗高血圧効果とを関連付けて認識していたものと理解するはずである。
他方,抗高血圧効果がACE阻害活性以外の作用機序によることを示唆する具体的な記載はない。
イ ①阻害剤定数は,生体外試験(in vitro)において決定され,体内における活性の強弱とは必ずしも一致しないこと,②乙9号証及び乙13号証によれば,IPP及びVPPの作用は,必ずしも血中濃度と相関があるとはいえないことから,阻害剤定数の弱さは,体内における薬理作用の弱さを直ちに意味するものとはいえない。
ウ 原告が指摘する甲28号証においては,IPP及びVPPの血圧上昇抑制作用につき,ACE阻害活性の関与は否定されておらず,ACE阻害活性に加えてそのほかの作用機序も関与している可能性が示唆されているにすぎない。
さらに,乙9号証から乙13号証の記載によれば,本願優先日当時,IPP及びVPPの抗高血圧作用はACE阻害作用によるものと一般に認識されていた。
⑵ 引用例2から引用例5について
引用例2から引用例5の開示内容は前記2⑴のとおりであり,この点についての本件審決の認定に誤りはない。
⑶ 引用発明と引用例2から引用例5との組合せの阻害要因について
ア(ア) ACE阻害活性の強度の相違
a ACE阻害活性値は測定に使用するACEによって異なるところ,原告の主張するIC50値は,測定方法が統一されていないことから,比較に用いることは適切ではない。このことから,IPP及びVPPが,IC50値において,キナプリルやシラザプリルに比べて低い傾向がみられるとしても,ACE阻害活性が著しく弱いとまでいうのは相当ではない。
b IPP及びVPPのACE阻害活性がACE阻害剤に比して弱いことは,引用発明を引用例2から引用例5と組み合わせることの妨げになるものではない。
すなわち,IPP及びVPP並びにACE阻害剤は,いずれもアンジオテンシン変換酵素という同一の酵素を阻害する化合物であるから,阻害活性の強弱によって程度の差はあっても,同様の薬理作用を奏するであろうことは,当業者が当然に予想し得ることといえるし,作用の程度に応じて適切な投与量を設定する必要はあるものの,これも,当業者が通常の技術的創作において行うことである。さらに,乙13号証の記載によれば,ACE阻害活性が弱い方が,血圧への作用は穏やかであり,また副作用の危険性も小さいと考えられる。
(イ) 構造の相違
化合物の構造中,特にACE阻害活性と関係するのは,アンジオテンシン変換酵素と相互作用する部位であるところ,IPP及びVPPもその部位を備えている以上,ACE阻害活性を有することは否定されず,また,同ACE阻害活性が,キナプリルやシラザプリルのACE阻害活性とは異質なものということもできない。
以上によれば,原告が指摘する構造の相違は,阻害要因とはいえない。
(ウ) 物の性質の相違
IPP及びVPP並びにACE阻害剤のいずれも,ペプチド,すなわち,「ペプチド結合によってアミノ酸二個以上が結合した化合物」であり,化合物としてみたとき,天然物由来の物質であるか,化学合成された物質であるかによって区別すべき理由はない。現に,本願国際出願願書の【0045】,【0046】において,IPP及びVPPが化学合成により製造されていることなどからも,天然物由来のペプチドと化学合成されたペプチドは,区別のつくものではないことは明らかといえる。
以上によれば,上記物の性質の相違は,阻害要因とはいえない。
(エ) バイオアベイラビリティの相違
乙13号証には,活性部位における薬物濃度が重要であることが示唆されているところ,IPP及びVPPがキナプリルやシラザプリルよりもバイオアベイラビリティの点で劣るとしても,それは,活性部位における薬物濃度において劣ることを意味するものではないから,バイオアベイラビリティの差が阻害要因になるとはいえない。
イ 以上のとおり,原告主張の阻害要因はいずれも,引用発明と引用例2から引用例5との組合せを妨げるものとはいえない。
(4) 組合せの容易想到性の有無について
ア 補正発明が属する技術分野には医薬品が含まれるところ,医薬品の分野においては,所望の薬理活性を有する新規の医薬品を探索するために数多くの試行錯誤を要し,成功率がかなり低く見込まれる場合であっても試してみることが通常である。そのような状況下で「当業者において相当程度確立された知見」が存在すれば,当業者としては,同知見を頼りにすれば何の手掛かりもなく探索するよりも効率的に所望の薬理活性を有する新規の医薬品を得ることができる旨期待し,試してみるものと考えられる。その結果,期待したとおりの新規の医薬品を得られたとしても,その一事のみをもって,当業者の容易想到の域を出るものとはいえない。
イ 補正発明に関しては,前記2⑶のとおり,本願優先日当時,ACE阻害活性を有する化合物が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用を示すという「当業者において相当程度確立された知見」が存在していた。同知見から,当業者は,ACE阻害活性を有する物質であれば,同活性の強弱にかかわらず,血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用の少なくとも一方の作用を有することを期待するものと考えられる。
さらに,後記のとおり,本願優先日当時,IPP及びVPPは,食品として使用可能なほど安全性が高いものとして一般に認識されており,これは,上記組合せを積極的に動機付ける要因といえる。
ウ 以上によれば,当業者は,引用発明においてIPP及び/又はVPPがACE阻害活性を示すとされていることから,引用例2から引用例5に接して,IPP及び/又はVPPは血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用の少なくとも一方の作用を有することを期待して探索するものと考えられ,補正発明は,そのような探索の結果,引用発明と引用例2から引用例5を組み合わせることによって期待したとおりの作用を有する剤を得られたものにすぎず,したがって,当業者の容易想到の域内にあるというべきである。
4 補正発明の顕著な作用,効果を看過した誤りについて
⑴ 血管内皮機能の改善効果について
ア IPP及びVPPは公知の物質であり,前述のとおり,①これらの物質はACE阻害活性を有することが知られていたこと,②ACE阻害活性を有する化合物が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用を有するという知見は,本願優先日当時において既に相当程度確立されていたことから,IPP及びVPPが,上記両作用の少なくともいずれか一方を有することは,当業者が当然に期待することといえる。
イ 本願国際出願願書には,IPP,VPPの作用がACE阻害活性によらないということについて具体的に示されていない。
実施例1-2及び比較例1は,前記のとおり薬物濃度の設定が適切とはいえず,そのような特定の試験系において,エナラプリルが,原告において同程度と考えた投与量で血管内皮依存性の拡張を示さないとしても,補正発明の効果が当業者の予想を超えるものとはいえない。
ウ 本件追加試験の結果が記載された甲39号証は,本願優先日後に提出された報告書であり,本願国際出願願書に記載された事項の範囲内とはいえないものであるから,参酌することはできず,たとえ本件追加試験の結果を考慮したとしても,前述した当業者の期待を大きく減じさせるものではない。
⑵ 安全性について
引用例1において得られるIPP及びVPPを含む産物は,食品における成分又は添加物として使用されるものであり,乙10号証及び乙13号証において,IPPやVPPを含む安全性の高い機能性食品,特定保健用食品に言及されていることも併せ考えれば,IPP及びVPPを含む組成物が食品として利用可能なほど副作用が低いことは,本願優先日当時における技術常識であったといえる。
そして,IPP及びVPPを,引用発明のいう抗高血圧作用を期待して経口投与する場合と,補正発明のいう血管内皮の収縮・拡張機能改善作用や血管内膜の肥厚抑制作用を期待して経口投与する場合とでは,具体的に着目する効果が異なるという点以外に相違はないのであるから,当業者は,IPP及びVPPを「血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤」として使用することにつき,高い安全性が認められるものと当然に予測する。
⑶ 必要摂取量について
ア 補正発明においてIPP及びVPPの用量は特定されておらず,したがって,必要摂取量をもって補正発明の作用,効果ということはできないから,原告の主張は失当である。
イ なお,引用例2,引用例3,乙5号証,乙6号証には,シラザプリル,キナプリル,カプトプリル及びエナラプリルといったACE阻害剤につき,抗高血圧薬として臨床で用いられている投与量を摂取した際に,内皮機能改善作用が見られた旨が記載されている。したがって,これらのACE阻害剤と同じく抗高血圧作用及びACE阻害作用を有するIPP及びVPPについても,引用例1で抗高血圧作用が確認されている用量と同程度の摂取によって血管内皮機能改善作用を奏することは,当業者が当然予想することといえる。
⑷ 小括
以上によれば,補正発明は,当業者が引用例の記載から予測し得ない効果を奏し得たものとはいえないという本件審決の認定に誤りはない。
第5当裁判所の判断
当裁判所は,本件審決には,本願優先日当時における技術常識についての認定を誤り,結果として,引用発明と引用例2から引用例5との組合せにより補正発明の進歩性を否定した点について誤りがあるから,本件審決は取消しを免れないと判断する。
その理由は,以下のとおりである。
1 前提事実
⑴ 補正発明について
ア 本願国際出願願書及び本件補正書には,以下の記載がある(以下,本願国際出願願書と本件補正書を併せて「本願国際出願願書等」ともいう。)。
【発明の名称】
動脈硬化予防剤,血管内膜の肥厚抑制剤及び血管内皮の収縮・拡張機能改善剤
【技術分野】
【0001】
本発明は,血管内膜の肥厚抑制作用や血管内皮の収縮・拡張機能改善作用を示し,抗動脈硬化作用が期待できる動脈硬化予防剤,血管内膜の肥厚抑制剤,血管内皮の収縮・拡張機能改善剤及びこのような作用を示す機能性食品に関する。
【背景技術】
【0002】
心筋梗塞や脳梗塞等の動脈硬化性疾患は,ガンと並んで我が国における死因の最も大きな割合を示している。動脈硬化の危険因子としては,高脂血症,高血圧,糖尿病,喫煙,肥満,高尿酸血症,加齢,ストレス等が挙げられ,それらが相互に絡み合って血管障害を引き起こす。このため,個々の危険因子の程度が軽度であっても,それらの重複により危険度が相加的,相乗的に増加する。
従来,発酵乳,乳酸菌又は乳の酵素分解物における生理機能が多く見出されている。例えば,(中略)特許文献3及び非特許文献1には,血圧低下作用があること,(中略)が記載され,更に特許文献5には,獣乳カゼインを平均鎖長がアミノ酸残基数として2.1以下に加水分解して得た,遊離アミノ酸及びペプチドを含むカゼイン加水分解物が,アンジオテンシンI変換酵素阻害活性又は血圧降下作用を有することが記載されている。即ち,これらの文献には,動脈硬化に対する個々の危険因子を軽減する知見が記載されている。
一方,上述の1つの危険因子作用を低下させることだけでは,動脈硬化の発症予防には至らないと考えられている。例えば,(中略)非特許文献4には,高血圧状態を抑制しても動脈硬化の程度に変化が見られないことが,また,非特許文献5には,アンジオテンシンI変換酵素阻害剤(エナラプリル)を投与しても動脈硬化抑制作用は見られないことが記載されている。
従って,上記特許文献5に記載された特定のカゼイン加水分解物に,動脈硬化に対する個々の危険因子を軽減する知見が得られていても,このことにより,該特定の加水分解物が抗動脈硬化作用を有するとは言えない。
【0003】
ところで,動脈は,外膜と,血管の拡張・収縮を行う平滑筋層を有する中膜と,血液と直接接し,且つ前記中膜の平滑筋層に指令を出す内皮細胞層を有する内膜とから主に構成される。該内膜における内皮細胞は,血液の線溶・凝固,血管の拡張・収縮,炎症の抑制・進展,血管の増殖・退縮等の血管機能に係る様々な指令を司ることが近年明らかにされつつあり,該内皮機能は,動脈硬化をはじめとする種々の疾病に関係するものと考えられている。従って,血管内皮機能を改善することで,動脈硬化の予防等が期待できる。
また,動脈硬化は,動脈壁が肥厚して弾力性がなくなる病態であり,中でもアテローム性動脈硬化は,動脈の内膜下における斑点状の肥厚(アテローム)を特徴とする血流を減少又は途絶させる症状を示す動脈硬化である。近年,このような症状の要因として,血管内皮細胞の損傷や機能低下が挙げられている。
従って,血管内膜の肥厚を抑制することで,アテローム性動脈硬化発症の緩和,予防作用が期待できる。
・・・
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0004】
本発明の課題は,血管内皮に係る収縮・拡張機能を改善でき,血管内皮の収縮・拡張機能に係る各種疾病,例えば,動脈硬化予防等の作用が期待でき,また血管内膜の肥厚を緩和,予防作用を示し,アテローム性動脈硬化予防が期待できる,安全性に優れた血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤及び動脈硬化予防剤を提供することにある。
本発明の別の課題は,日常的に連用可能で,安全性に優れ,血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する機能性食品を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0005】
・・・
また本発明によれば,Ile Pro Pro及び/又はVal Pro Proを有効成分として含有し,血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤が提供される。
・・・
【発明の効果】
【0008】
本発明の血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤又は機能性食品は,特定のカゼイン加水分解物又はその濃縮物,Xaa Pro Proとして,Ile Pro Pro及び/又はVal Pro Proを含む特定の発酵物若しくは該Xaa Pro Proを有効成分として含むので,安全性に優れ,特に,機能性食品の場合は,日常的に連用可能である。従って,血管内皮の収縮・拡張機能に関わる,慢性的な高血圧症の改善や,動脈硬化症,血管内膜の肥厚を抑制し,特に加齢,生活習慣等により血管内皮細胞の機能低下や損傷によるアテローム形成を抑制し,アテローム性動脈硬化の発症を緩和,予防することが期待できる。
本発明の動脈硬化予防剤は,本発明の上記剤を有効成分として含むので,動脈硬化の予防作用が期待できる。
・・・
【発明を実施するための最良の形態】
【0010】
以下,本発明を更に詳細に説明する。
本発明の血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜抑制の少なくとも1つの作用を有する剤及び機能性食品は,(a)Xaa Pro Proとして,Ile Pro Pro及び/又はValPro Proを必須に含む成分(以下,(a)成分という)又は,(b)Xaa Pro Proとして,IlePro Pro及び/又はVal Pro Proを必須に含む,獣乳カゼインの加水分解物又はその濃縮物(以下,(b)成分という),(c)ラクトバチルス・ヘルベティカス種に属する菌株により乳蛋白質を含む原料を発酵させて得られる,Ile Pro Pro及び/又はVal ProProを含む発酵物(以下,(c)成分という)を有効成分として含有する。即ち,(b)及び(c)成分は,(a)成分を含み,(a)成分,特に,Ile Pro Pro及び/又はVal Pro Proが有効成分として有用であることは,後述する実施例等により理解できる。
・・・
イ 以上によれば,補正発明は,①血管内皮機能の改善により,動脈硬化等の予防が期待できる,②血管内膜の肥厚抑制により,アテローム性動脈硬化発症の予防等が期待できるという背景技術を前提に,主に動脈硬化の予防の目的で,血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する安全性に優れた剤の提供を技術課題として,実施例等により,IPP及びVPPがこれらの作用を有する事実が確認されたことから,IPP及び/又はVPPを有効成分として含有し,上記作用のうち少なくとも一方の作用を有する剤を,上記課題を解決するための手段としたものである。
⑵ 引用発明について
ア 引用例1には,以下の記載がある。
【特許請求の範囲】(ただし,平成13年11月26日付け手続補正後のもの。)
・・・
【請求項10】
抗高血圧性ペプチドを含有する産物であって,高含量の抗高血圧性ペプチドを有すること,およびカゼイン含有の出発物質を乳酸菌で発酵させ,得られたペプチド含有の発酵産物をナノ濾過し,停留物を回収する方法でつくることを含むことを特徴とする産物。
【請求項11】
ペプチドが短鎖のペプチドの混合物を含むことを特徴とする,請求項10の産物。
【請求項12】
ペプチドがジまたはトリペプチドであることを特徴とする,請求項10または11の産物。
【請求項13】
高含量のトリペプチド,特にIle-Pro-Proおよび/またはVal-Pro-Proを有することを特徴とする,請求項10-12の産物。
・・・
【発明の詳細な説明】
【0001】
(発明の分野)
本発明は,抗高血圧性トリペプチドを含有する産物を製造する方法に関する。本発明はまた,得られた産物,および機能的産物自体としてまたは食品における成分または添加物としての使用に関する。
・・・
【0003】
血圧の調節において,アンギオテンシンI転換酵素,ACEが細胞レベルで根本的な役割を演じる。ACEは2つの方法で機能する。すなわち,アンギオテンシンIを強力な血管収縮剤であるアンギオテンシンIIに転換し,一方,血管拡張作用を有するブラジキニンを不活化する。このように,両機能が血圧の上昇をもたらす。ACE阻害剤がこの作用を阻害し,もって抗高血圧剤として働き得る。高血圧の治療に使用されている多くの医薬はACE阻害剤である。
・・・
【0012】
(発明の簡単な記述)
本発明の目的は,高含量の抗高血圧性ペプチドを有し,もって抗高血圧作用を有する産物を提供することである。
・・・
【0041】
参考例1
本発明の産物の抗高血圧効果 ACE阻害効果を,ペプチドIPPおよびVPPについて,および既知のACE阻害剤,リシノプリルについて,いわゆる阻害剤定数(中略)を基にして測定した。数字が小さければ小さいほど,ACE阻害剤が有効である。結果は以下である:IPP4.4×10-6,VPP1.8×10-5およびリシノピル7.5×10-9。このように,IPPおよびVPPは明らかなACE阻害活性を示した。
【0042】
本発明の産物の抗高血圧効果
実施例5に記載の本発明の乳清産物を自発性高血圧SHRラットに出生以来投与することによって,本発明の産物の抗高血圧効果を研究した。(中略)その結果から,本発明の産物は,対照群と参照群とを比較すると,血圧上昇を十分防ぎ得ることが明らかとなった。
【0043】
参考例2
本発明の産物の抗高血圧効果
ヒトに対する本発明の産物の抗高血圧効果を研究した。(中略)このように,この予備試験の結果は本発明の産物がヒトにおける充分血圧上昇を防ぎ得ることを明確に示した。
・・・
【0056】
実施例5
発酵乳製品の調製
抗高血圧ペプチドを含有する酸乳を,実施例3のようにして得られた3.5%のペプチド濃縮物を市販の酸乳に添加して調製した。得られた産物の組成を表4に示した。比較のために市販の酸乳産物であるAB酸乳(Valio OY)の組成も示した。
【表4】
file_2.jpgR 4. AKRVOLZMOMRKSELVUPRARROAR AB BL ARAD INA pep = mM (%) 9.0 9.8 Na (mg/kg) 390 380 K (mg/kg) 1700 1700 Ca (mg/kg) 1200 1510 Mg (mg/kg) 114 170 Cl (mg/kg) 1000 980 VPP (ma/l) 0 19 IPP (mail) 0 18イ 以上によれば,引用例1には,①ACE阻害剤が抗高血圧作用を有すること,②引用例1記載の発明は,高含量の抗高血圧性ペプチドを有し,もって抗高血圧作用を有する産物の提供を目的とすること,③IPP及びVPPは,いずれもACE阻害活性を有すること,④同発明の実施例に基づいて調製された発酵乳製品にはVPP及びIPPがそれぞれ19㎎/L,18㎎/L含まれているところ,SHRラット及びヒトに投与した結果,いずれにおいても血圧上昇を防ぎ得ることが明らかになったこと,がそれぞれ記載されており,また,特許請求の範囲には,IPP及び/又はVPPを含有する生産物が記載されている。
これらの事実によれば,引用発明は,前記第2の3(2)アのとおりであると認められる。
⑶ 補正発明と引用発明の対比
以上を前提として補正発明と引用発明を対比すると,両者の一致点及び相違点は,本件審決が認定した前記第2の3⑵イのとおりとなる。この点は,当事者間においても争いがない。
2 取消事由について
⑴ 補正発明の技術的意義に関する認定の誤りについて
ア 原告は,前記のとおり,補正発明には,①IPP及びVPPが血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の作用を有し,その作用はACE阻害活性とは関連しないこと,②抗高血圧剤として使用されているACE阻害剤は,上記作用を有しないことを見出したという技術的意義があるとして,本件審決には,同技術的意義を無視又は看過して,IPP及びVPPが独自に有する上記作用をACE阻害活性以外の作用によるものとはいえないと認定した点に誤りがある旨主張する。
イ(ア) 本願国際出願願書等には,IPP及びVPPが有する血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用の機序や,これらの作用とACE阻害活性との関連性については何ら言及されていない。この点は,平成22年7月26日付け手続補正書(甲16)においても同様である。
(イ)a 本願国際出願願書において,実施例等につき以下のとおり記載されている。
⒜ 実施例1-1
収縮期血圧140~159mmHg又は拡張期血圧90~99mmHgを示す成人男性に,製造例1で調整したカゼイン加水分解物の粉末(10㎎/ml中のIPP及びVPPの存在濃度は,それぞれ,28.1μg/ml,29.5μg/ml)1.25gを1日1回7日間摂取させた後,血管内皮機能を測定するプレティスモグラフィー法(動脈の血流を一時的に止めたとき,内皮細胞が産生・放出する血管拡張物質の量が増大し,一過性に血流量が増加することを利用して,血管拡張性から内皮細胞の機能を測定する方法。内皮細胞の機能が傷害されていると,血管拡張物質の放出量が低下するため,血流量も低下することに基づくもの。【0003】参照)を用いて測定したところ,生理的な血管内皮機能評価が統計学的に有意(p<0.001)に改善された。他方,試験期間における血圧の有意な改善は認められなかった。このことから,IPP及びVPPを含む上記カゼイン加水分解物は血管内皮機能改善剤として有効であり,この改善作用は血圧降下作用に付随したものではないことも確認できた。
⒝ 実施例1-2
L-NAME,L-NAMEと合成したIPP(以下「合成IPP」という。),L-NAMEと合成したVPP(以下「合成VPP」という。),IPP又はVPPと同程度のACE阻害活性を示す濃度としたエナラプリルをL-NAMEと合成したもの(以下「合成エナラプリル」という。比較例1)をそれぞれ飲水中に溶解させ,一週間にわたり,Wistar系ラットに各溶液を自由摂取させた。なお,L-NAME,合成IPP,合成VPP,合成エナラプリルの濃度は,それぞれ,1g/L,0.3g/L,0.3g/L,0.5㎎/Lである。
その後,ラットの胸部大動脈血管を摘出して大動脈リングを作製し,これをフェニレフリンによって収縮させ,安定した収縮が得られた標本についてアセチルコリンによる血管内皮依存性の拡張反応を観察した。
上記観察の結果によれば,合成IPP又は合成VPPを同時に摂取した群は,L-NAME単独摂取の群と比較して,血管拡張の割合が統計学的に有意(p<0.05)に増加しており,IPP及びVPPに血管内皮機能改善作用があることがわかった。一方,合成エナラプリルを用いた比較例1では,L-NAME単独摂取の群と比較して血管拡張の統計学的な有意差は認められなかったことから,ACE阻害活性を有する物質であれば血管内皮機能改善作用を有するとはいえないことがわかった。
⒞ 実施例2-1
CM4発酵乳に由来するIPP17.1㎎/㎏,VPP34.1㎎/㎏を含むCM4発酵乳飼料を,31週間にわたり,アポE欠損マウスに自由摂取させた。その結果,CM4発酵乳には,高脂血症改善作用はないものの,血管内膜の肥厚を有意に抑制していることがわかった。
⒟ 実施例2-2
合成IPP,合成VPP,前記CM4発酵乳,前記カゼイン加水分解物の粉末をそれぞれ市販の飼料に混合したものを,31週間にわたり,アポE欠損マウスに自由摂取させた。その結果,IPP及びVPPは濃度依存的に血管内膜の肥厚を抑制することがわかった。
⒠ 実施例3-1,3-2
IPP及びVPPを含有する飼料(IPP及びVPPの含量は,実施例3-1につき,それぞれ,14.1㎎/㎏,33.1㎎/㎏,実施例3-2につき,それぞれ,3.5㎎/㎏,16.2㎎/㎏)を用いて,実施例2-2と同様に血管内膜の肥厚抑制効果の確認試験を行ったところ,血管内膜の肥厚抑制効果を有することが明らかになった。
b⒜ 本願国際出願願書に記載された上記のすべての実施例,すなわち,実施例1-1から実施例3-2によっても,IPP及びVPPが血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用を有することは認められるものの,これらの作用の機序やACE阻害活性との関連性の有無は,不明であるといわざるを得ない。
⒝ この点に関し,実施例1-1については,IPP及びVPPを含むカゼイン加水分解物につき,血管内皮機能改善作用が認められ,同作用は血圧降下作用に付随したものではないことも確認されたところ,前記のとおり引用例1にはACE阻害剤が抗高血圧剤として働き得ること,高血圧の治療に使用されている多くの医薬はACE阻害剤であることが記載されている。
しかしながら,血圧降下が生じない場合は,ACE阻害活性が微弱又は不存在であると一義的にいうことはできず,実施例1-1の上記結果をもって,IPP及びVPPの血管内皮機能改善作用とACE阻害活性の関連性の不存在を断定はできないというべきである。
⒞ また,実施例1-2については,IPP及びVPPに血管内皮機能改善作用があることが判明し,他方,エナラプリルを摂取させたラットには血管拡張の統計学的な有意差は認められず,ACE阻害活性を有する物質であれば血管内皮機能改善作用を有するとはいえないことが判明した旨記載されている。
しかしながら,実施例1-2においては,同程度のACE阻害活性を有する量の合成IPP,合成VPP,合成エナラプリルを使用しているが,上記「同程度のACE阻害活性を有する」はin vitro(試験管内)におけるものであり,in vivo(生体内)においてIPP,VPP,エナラプリルが,それぞれどの程度のACE阻害活性を発揮するかは不明である。
加えて,実施例1-2は,ACE阻害剤の1つであるエナラプリルのみに関するものであり,上記のACE阻害活性に係る条件設定の問題にも鑑みると,実施例1-2の結果が,他のACE阻害剤についてもそのまま該当するとは考え難い。
以上によれば,実施例1-2の上記結果によっても,IPP及びVPPの血管内皮機能改善作用とACE阻害活性の関連性の不存在を認めることまではできない。
ウ 以上によれば,原告の主張する補正発明の技術的意義のうち,IPP及びVPPが血管内皮の収縮・拡張機能改善作用及び血管内膜の肥厚抑制作用を有することは認められるが,本件証拠上,これらの作用とACE阻害活性との関連性の有無は不明であり,また,ACE阻害剤一般が上記作用を有しないとまでは認められない。
したがって,本件審決が,IPP又はVPPの血管内皮機能改善作用がACE阻害活性以外の作用によるものであるとまではいえない旨認定した点に誤りはない。
エ(ア) 原告は,実施例1-1,引用例2,3によれば,IPP及びVPPを含むガゼイン分解物が7日間の投与で血管内皮機能改善作用を示したのに対し,ACE阻害剤であるシラザプリル及びキナプリルは6か月間の投与で血管内皮機能改善作用を示し,しかも,その統計的有意確率は結果の信頼性において上記カゼイン分解物よりも劣るものであったことなどを指摘して,IPP及びVPPのACE阻害活性は,シラザプリル及びキナプリルのACE阻害活性に比べて非常に弱いものであることを考慮すると,IPP及びVPPの血管内皮機能改善作用は,ACE阻害活性によるものではない旨主張する。
しかしながら,生体内における薬物の作用機序は非常に複雑であり,種々の要因が絡み合って生じるものであるから,IPP及びVPPがシラザプリル等のACE阻害剤に対して,短期間で血管内皮機能改善作用が見られたにもかかわらず,invitroにおけるACE阻害活性では前者が後者に劣っているからといって,そのことのみを理由としてIPP及びVPPの血管内皮機能改善作用とACE阻害活性との関連性が不存在であると断定はできず,原告の上記主張は採用できない。
(イ) 原告は,実施例1-2の結果は,IPP及びVPPの示す血管内皮機能改善作用がACE阻害活性とは連動しないことを示したものといえる旨主張し,現に,原告が実施した本件追加試験において,キナプリル及びシラザプリルについてはIPP及びVPPと同程度のACE阻害活性を示す濃度に調製したもの,エナラプリルについては比較例1で用いた濃度の2倍,10倍に調製したものを使って実施例1-2と同様の試験を行ったところ,これらのACE阻害剤のいずれについても血管拡張度の有意な上昇は見られず,他方,IPP及びVPPについては血管拡張度が有意に上昇した(甲39)と述べる。
しかしながら,実施例1-2については,前述のとおり,in vivo(生体内)においてIPP,VPP,エナラプリルが,それぞれどの程度のACE阻害活性を発揮するかは不明であり,本件追加試験についても同様の問題を指摘できる。
以上によれば,実施例1-2の結果及び本件追加試験の結果は,前記結論を左右するものとまではいえない。
⑵ 本願優先日当時における技術常識についての認定の誤りについて原告は,前記のとおり,本件審決が「引用例2,3及び5によれば,ACE阻害剤が血管拡張機能や内皮細胞機能の改善効果を有することは,本願優先日前に,複数の研究に基づいて明らかにされており,相当程度確立された知見であった」旨を説示し,本願優先日当時において,ACE阻害剤が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用や血管内膜の肥厚抑制作用を有することは,引用例2から引用例5によって知られていた旨を認定した点に関し,誤りである旨主張する。
この点につき,当裁判所は,本願優先日当時に公刊されていた①引用例2から引用例5,平成22年7月26日付け意見書(甲15)に添付された参考文献2(甲7),本願国際出願願書に添付された非特許文献5(甲30)及び②甲31号証,甲32号証,甲36号証から甲38号証,乙1号証,乙3号証から乙8号証,乙20号証,乙22号証の記載内容を検討した結果,本願優先日当時においては,ACE阻害剤であれば原則として血管内皮の収縮・拡張機能改善作用又は血管内膜の肥厚抑制作用のうち少なくともいずれか一方を有するとまではいえず,個々のACE阻害剤が実際にこれらの作用を有するか否かは,実験によって確認しなければ分からないというのが,当業者の一般的な認識であったと認め,したがって,本件審決の前記説示等に係る認定には誤りがあると判断する。
その理由は,以下のとおりである(なお,上記検討をした文献のうち,引用例2から引用例5以外のものについては,本判決別紙に出典を記載した。)。
ア 上記文献中には,以下のとおり,ACE阻害剤につき,血管内皮の収縮・拡張機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用を有すること,又は,これらの作用を有する可能性があることを肯定する内容のものが複数存在する。
(ア) 引用例2(甲2)
本態性高血圧症患者に対してシラザプリルを6か月間にわたり処方したところ,plethysmography(前腕の血流量の変化を内皮依存性の血管拡張で除したもの)で測定した結果,血管内皮の拡張能が非常によくなっている。
(イ) 引用例3(甲3)
内皮機能障害を有する患者に対してキナプリルを6か月間にわたり処方したところ,内皮依存性の血流応答の増加傾向が見られた。微小血管の内皮依存性の血管運動機能は,プラセボに比較してキナプリルによって改善されたように見える(80%)。本実験の被験者数では,有意性を達成するための統計的な支援にはならなかったが,より大規模な試験が実現可能であることを示している。
(ウ) 引用例4(甲4)
a バルーンカテーテル処理によって左頸動脈に内皮剥離及び損傷を受けた正常血圧ラットに対し,上記処理の6日前から14日後まで,シラザプリル(1日当たり10㎎/㎏)又はカプトプリル(1日当たり100㎎/㎏)を投与したところ,いずれにおいてもプラセボ群に比して新生内膜の量の有意な減少が見られ,血管内膜の肥厚が抑制された。
b⒜ 原告は,前記のとおり,補正発明のいう「血管内膜」は「内皮細胞の層を有する内膜」を指すのに対し,引用例4の「内膜」は,内皮細胞の層がはぎ取られた後に中膜を構成する細胞等が増殖して蓄積した「新生内膜」であるから,引用例4の「血管内膜の肥厚」は,補正発明の「血管内膜の肥厚」とは技術的に異質のものである旨主張する。
⒝ しかしながら,本願優先日前に公刊された文献である乙21号証から乙23号証によれば,当業者は,バルーンカテーテルなどで内皮細胞を剥離した後に生ずる新生内膜の肥厚についても,自然発症的な内膜肥厚と同じく,「内膜肥厚」という用語を使用していることが認められる。
すなわち,乙21号証には,正常の実験動物における「内膜肥厚」の記載がある一方で(57頁),内皮剥離後の図の説明においても「内膜の肥厚した」と記載されている(59頁図4右の説明)。乙22号証には,バルーンカテーテルで内皮を物理的に剥離した後,「内膜が肥厚する。」と記載されている(279頁)。乙23号証には,自然発症性,食餌性アテローム硬化に先行する「内膜肥厚」という記載があるのに対し(14頁),「バルーンカテーテルなどで内皮細胞を剥離すると内膜肥厚が生ずる。」とも記載されている(17頁)。
なお,原告は,乙21号証から乙23号証はいずれも古い文献であり,平成18年の本願優先日当時,当業者は上記文献が示す知見とは異なる知見を有していた旨を主張するが,本件証拠上,本願優先日当時,自然発症的な内膜肥厚と新生内膜の肥厚を明確に区別し,後者については「内膜肥厚」という用語を使用しないという取扱いが当業者間において一般化していたとまでは認められない。
⒞ そして,補正発明においては,「血管内膜の肥厚」とのみ記載されており,特に限定は付されていない。
以上を併せ考えると,補正発明は,「血管内膜の肥厚」につき,バルーンカテーテル等によって内皮細胞を剥離した後に生ずる新生内膜の肥厚を除外する趣旨ではないと解すべきである。
したがって,前記⒜の原告の主張は採用できない。
(エ) 引用例5(甲5)
動脈硬化におけるAⅡの作用については,ACE阻害薬を中心として臨床的にかなり研究が進められている。実際にヒトで証明されているACE阻害薬の効果は,血管壁肥厚の抑制と改善,内皮細胞機能の改善及び再梗塞の予防である。
(オ) 甲30号証
アポE欠損マウスに対し,ゾフェノプリル(0.05mg/kg/日,1mg/kg/日)及びカプトプリル(5mg/kg/日)を29週間にわたり処置したところ,大動脈の累積病変面積が,ゾフェノプリルについては0.05mg/kg/日の用量で78パーセント及び1mg/kg/日の用量で89パーセント,カプトプリルについては52パーセント低減した。
(カ) 甲36号証
冠動脈疾患及び内皮機能障害を有する非高血圧患者に対し,キナプリル(40mg/日)を6か月間にわたり投与したところ,内皮機能障害における有意な改善があった。
(キ) 乙3号証
ACE阻害活性を有するペプチドは,ACEに関連する疾患の予防及び/又は治療に用いることができ,上記疾患としては,動脈硬化,血管肥厚等が挙げられる。ただし,上記ペプチドが実際に動脈硬化や血管肥厚に対して効果を示した旨の記載はない。
(ク) そのほか,甲38号証,乙1号証,乙4号証から乙8号証,乙20号証において,シラザプリル,キナプリル等のACE阻害剤につき,実験において血管内皮拡張作用等を示したことが記載されている。
(ケ)a なお,被告は,本願優先日前に刊行されたTiina Jauhiainen et al.“Effect of long-term intake of milk peptides and minerals on bloodpressure and arterial function in spontaneously hypertensive rats.”(「自然発症高血圧ラットにおける血圧及び動脈機能についての乳ペプチド及びミネラルの長期摂取の影響」) Milchwissenschaft. the Polish PhysiologicalSociety 2005, 60(4),p 358-p363(乙11)につき,IPP及びVPPのACE阻害活性に関連して,IPP,VPP及びミネラルを含む発酵乳が血管内皮依存性の血管拡張を示すこと,IPP及びVPPがわずかながら血管機能に有効に働くことが記載されている旨指摘する。
b この点に関し,同文献には,「この結果は,IPPおよびVPPの背後にある抗高血圧効果は,少なくとも部分的には,ACE阻害に起因するという論理(1,31)を支持するものである。」という文章に続き,「本研究において,腸間膜動脈及び大動脈におけるAChに対する最大弛緩は,ミネラル+ペプチド(判決注:IPP及びVPP)摂取群において最大であった。前研究において,ミネラル(カルシウム,カリウムおよびマグネシウム)が内皮機能を著しく亢進することを報告した(32,33)。血管機能に対する,弱いけれどもポジティブなペプチドの効果は,我々の前研究の結果(34)と合致するものであった。」と記載されている。
しかしながら,上記文献には,「ポジティブなペプチドの効果」の具体的内容は明らかにされておらず,また,ミネラルを加えない状態のIPP及びVPPが内皮機能亢進,改善に関してどのような効果を示すかについても,記載されていない。
c したがって,上記文献に,被告が指摘する前記の事実が記載されているとはいえない。
イ 他方,ACE阻害剤を用いた実験の結果,血管内皮の収縮・拡張機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用を示さなかったことを報告する文献も,以下のとおり,複数存在する。
(ア) 甲7号証
冠動脈,脳血管又は末梢血管疾患を持つ患者に対し,4年間にわたり,ラミプリルを5㎎/日又は10㎎/日の用量で投与したが,総頸動脈遠位壁厚の変化又は頸動脈プラークスコアの変化について,プラセボ群との有意な差異は見られず,頸動脈アテローム性動脈硬化症に対する証明できる効果はなかった。
(イ) 甲30号証
アポE欠損マウスに対し,エナラプリル(0.5mg/kg/日)を29週間にわたり処置したが,大動脈の病変形成を低減せず,抗アテローム性動脈硬化に対し,何ら防御効果を与えなかった。
(ウ) 甲31号証
軽度から中程度の本態性高血圧症を有する被験者に対し,20週間にわたりシラザプリルを5mg,1日2回投与したところ,最小前腕血管抵抗は低下させたものの,内皮依存性の血管弛緩は変化しなかった。
(エ) 甲32号証
経皮経管冠動脈形成術(PTCA)後の被験者に対し,6か月間にわたり,シラザプリル5㎎を1日2回投与したが,再狭窄を防げなかった。
(オ) 甲36号証,甲37号証
高血圧及び内皮機能障害を持つ患者に対し,約2か月間にわたり,カプトプリル又はエナラプリルを投与したが,いずれも内皮依存性前腕血管拡張を改善しなかった。
ウ(ア) 以上のとおり,本願優先日当時に公刊されていた文献には,ACE阻害剤につき,血管内皮の収縮・拡張機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用を有すること,又は,これらの作用を有する可能性があることを肯定する内容のものが複数存在する反面,そのような作用は確認されなかったという実験結果を報告するものも複数存在し,当業者に対する影響力,すなわち,当業者の認識形成に寄与する程度においていずれが優勢であったともいい難い。
特に,甲30号証には,アポE欠損マウスを被験動物として行った実験において,前記のとおり,ゾフェノプリル及びカプトプリルについては大動脈の累積病変面積が大幅に低減したのに対し,エナラプリルでは低減しなかったという結果が出ており,ここからは,ACE阻害剤の種類によっても血管に及ぼす作用はかなり異なるものになり得ることが読み取れる。なお,そのような差異の理由に関し,甲30号証によれば,大動脈の累積病変面積を低減させたゾフェノプリル及びカプトプリルがいずれもスルフヒドリルACE阻害剤であるのに対し,エナラプリルが非スルフヒドリルACE阻害剤であることから,スルフヒドリル基の有無が前記の差をもたらすように考察される一方,甲37号証においては,「ACE阻害剤による抗高血圧療法が,高血圧のヒトにおいて,スルフヒドリル基が存在するか否かにかかわらず,内皮依存性の血管拡張を改善しないこと」が「最も重要な新たな知見」として記載されている(なお,スルフヒドリル化合物は,放射線によって生成された酸素ラジカルに対する主要な部類の防御剤であり,水素原子供与又は電子移動反応のいずれかにより,酸素ラジカルを中和し得る〔甲30〕。)。したがって,これらの文献からは,ACE阻害剤の種類によって血管に及ぼす作用に差がある原因についても,本願優先日当時においては定説が存在しなかったことが認められる。
加えて,上記の状況に鑑みれば,本願優先日当時,血管内皮の収縮・拡張機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用の機序やACE阻害活性との関係は解明されておらず,確立された見解はなかったものと推認できる。
(イ) 以上によれば,本願優先日当時においては,ACE阻害剤が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用を示した実例はあるものの,ACE阻害剤であれば原則として上記作用のうち少なくともいずれか一方を有するとまではいえず,個々のACE阻害剤が実際にこれらの作用を有するか否かは,各別の実験によって確認しなければ分からないというのが,当業者の一般的な認識であったものと認められる。
⑶ 引用発明と引用例2から引用例5との組合せの容易想到性についての認定の誤りについて
ア 前述したとおり,補正発明と引用発明の相違点は,薬剤の用途が,補正発明においては,「血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤」であるのに対して,引用発明においては,「ACE阻害活性を示す,抗高血圧剤」である点である。
イ(ア) 引用例2から引用例4には,前記のとおり,ACE阻害剤であるシラザプリル,キナプリル,カプトプリルを,本態性高血圧症や内皮機能障害の疾患を有するヒト,バルーンカテーテル処理によって頸動脈の内皮剥離,損傷を受けたラットに投与した実験の結果,血管内皮の拡張能の向上,血管内膜の肥厚抑制等が見られた旨が記載されており,引用例5には,血管壁肥厚の抑制と改善,内皮細胞機能の改善等がACE阻害薬の効果としてヒトで証明されている旨が記載されている。これらの記載によれば,シラザプリル等のACE阻害剤を人体や動物に投与した実験において,血管内皮の機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用が確認されたことを読み取ることができる。
(イ) しかしながら,前述のとおり,本願優先日当時においては,上記と異なる実験結果を示す複数の技術文献が存することから,ACE阻害剤であれば原則として血管内皮の収縮・拡張機能改善作用又は血管内膜の肥厚抑制作用のうち少なくともいずれか一方を有するとまではいえず,個々のACE阻害剤が実際にこれらの作用を有するか否かは,各別の実験によって確認しなければ分からないというのが,当業者の一般的な認識であった。
(ウ) しかも,IPP及びVPPと,引用例2から引用例5に記載されたシラザプリル等のACE阻害剤との間には,以下のとおり,性質,構造において大きな差異が存在する。他方,IPP及びVPPと上記ACE阻害剤との間に,ACE阻害活性を有すること以外に特徴的な共通点は見当たらない。
a すなわち,シラザプリル等はいずれも典型的なACE阻害剤であるのに対し,IPP及びVPPは確かにACE阻害活性を有しているものの,下記の比較によれば,その強度は上記ACE阻害剤よりもかなり弱いものにとどまるといえる。現に,本件に証拠として提出されている公刊物中には,IPP及びVPPをACE阻害剤として紹介する記載は見当たらない。
記
〔IC50値〕 IPP:5×10-6M,VPP:9×10-6M(甲9,乙13)
ACE阻害剤 エナラプリル 1.2×10-9M(甲22の2)
キナプリル 8.3×10-9M(甲23)
シラザプリル 1~3×10-9M(甲25の2)
〔ACE阻害剤定数〕 IPP:4.4×10-6,VPP:1.8×10-5
リシノプリル(既知のACE阻害剤):7.5×10-9
(引用例1の【0041】による。数字が小さいほど阻害剤として有効である。)
b IPP及びVPPは,いずれもトリペプチド,すなわち,ペプチド結合によってアミノ酸3個が結合した化合物(乙16)である。IPP及びVPPのアミノ酸配列は,乳タンパク質であるβ-カゼイン及びκ-カゼインのアミノ酸配列に存在する。IPP及びVPPは,乳酸菌のプロテイナーゼ及び数種のペプチターゼによりカゼインから生成すると推定されており,酸乳,発酵乳等から得られる,天然由来の化合物である(本願国際出願願書,引用例1,甲9,乙13)。
他方,シラザプリル等のACE阻害剤は,いずれも人工的に作出された化合物である。
c IPP及びVPPとシラザプリル等のACE阻害剤とは,化合物の構造においても,前者には,後者が有する下図Aの構造がないなど大きな差異がある。
file_3.jpgウ 前述した本願優先日当時の当業者の一般的な認識に鑑みれば,当業者が,ACE阻害活性の有無に焦点を絞り,引用発明においてIPP及びVPPがACE阻害活性を示したことのみをもって,引用例2から引用例5に記載されたACE阻害剤との間には,前述したとおりACE阻害活性の強度及び構造上の差異など種々の相違があることを捨象し,IPP及びVPPも上記ACE阻害剤と同様に,血管内皮の機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用を示すことを期待して,IPP及び/又はVPPを用いることを容易に想到したとは考え難い。
また,仮に,当業者において,引用例2から引用例5に接し,前記一般的な認識によれば必ずしも奏功するとは限らないとはいえ,ACE阻害活性を備えた物質が上記作用を示すか否か試行することを想起したとしても,前述したとおり,IPP及びVPPは,性質,構造において上記ACE阻害剤と大きく異なり,特にIPP及びVPPのACE阻害活性は上記ACE阻害剤よりもかなり低いものといえるから,試行の対象としてIPP及び/又はVPPを選択することは,容易に想到するものではないというべきである。
以上によれば,引用発明と引用例2から引用例5とを組み合わせて補正発明を想到することは容易とはいえず,本件審決が,「相当程度の確立した知見」を前提として,引用発明と引用例2から引用例5とを組み合わせ,これらを併せ見た当業者であれば,引用発明においてACE阻害活性を有することが確認されたIPP及び/又はVPPを,血管内皮の収縮・拡張機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤として用いることに,格別の創意を要したものとはいえないと判断した点は誤りである。
第6結論
以上のとおり,本件審決には,補正発明が進歩性を欠く旨認定した点に誤りがあり,これは本件審決の結論に影響するものであるから,本件審決は取消しを免れない。
よって,原告の請求は理由があるから認容することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 清水節 裁判官 新谷貴昭 裁判官 鈴木わかな)
file_4.jpg別紙