知財高等裁判所 平成27年(行ケ)10033号 判決 2016年4月20日
原告
メルク・シャープ・アンド・ドーム・コーポレーション
同訴訟代理人弁護士
窪田英一郎
柿内瑞絵
乾裕介
今井優仁
中岡起代子
石原一樹
同訴訟復代理人弁理士
新谷紀子
被告
マイラン製薬株式会社
同訴訟代理人弁護士
三好豊
飯塚卓也
小笠原匡隆
田中浩之
同弁理士
谷口博
谷口操
奥野彰彦
大門良仁
被告
テバ ファーマスーティカル インダストリーズ リミティド
同訴訟代理人弁護士
篠原勝美
笹本摂
向多美子
同弁理士
今村正純
室伏良信
野﨑久子
井上香織
田坂一朗
主文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 この判決に対する上告及び上告受理申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
第1請求
特許庁が無効2013-800194号事件について平成26年10月15日にした審決を取り消す。
第2事案の概要
1 特許庁における手続の経緯
⑴ メルク エンド カンパニー インコーポレーテッドは,平成6年10月11日(優先権主張:平成5年10月15日,平成6年3月17日,米国。以下,平成5年10月15日を「本件優先日」という。),発明の名称を「5α-レダクターゼ阻害剤によるアンドロゲン脱毛症の治療方法」とする特許出願(特願平7-511986号)をし,平成12年4月21日,設定の登録を受けた(特許第3058351号。請求項の数20。甲41)。以下,この特許を「本件特許」という。
原告は,平成25年4月1日,同社から,本件特許権を一般承継により譲り受けた。
⑵ 被告マイラン製薬株式会社(以下「被告マイラン」という。)は,平成25年10月4日,本件特許について特許無効審判を請求した(甲53)。
⑶ 特許庁は,これを,無効2013-800194号事件として審理し,被告テバ ファーマスーティカル インダストリーズ リミティド(以下「被告テバ」という。)が審判に参加した。
原告は,平成26年8月22日付けで,請求項3及び17を削除するなどの訂正を請求した(甲52。以下「本件訂正」といい,その明細書〔甲42〕を「本件明細書」という。)。
⑷ 特許庁は,平成26年10月15日,「請求のとおり訂正を認める。特許第3058351号の請求項1,2,4ないし16,18ないし20に係る発明についての特許を無効とする。」との別紙審決書(写し)記載の審決(以下「本件審決」という。)をし,同月23日,その謄本が原告に送達された。なお,出訴期間として90日が附加された。
⑸ 原告は,平成27年2月19日,本件審決の取消しを求める本件訴訟を提起した。
2 特許請求の範囲の記載
本件訂正後の特許請求の範囲請求項1,2,4から16,18から20の記載は,次のとおりである(甲42。以下,各請求項に係る発明を,「本件発明1」などといい,これらを併せて「本件発明」という。)。
【請求項1】単位用量として0.05~1mgの5α-レダクターゼ2阻害剤および医薬的に許容可能なキャリヤーより成る,ヒトにおけるアンドロゲン脱毛症治療用経口剤型医薬組成物。
【請求項2】5α-レダクターゼ2阻害剤が17β-(N-t-ブチルカルバモイル)-4-アザ-5α-アンドロスト-1-エン-3-オンである請求項1に記載の医薬組成物。
【請求項4】単位用量が0.2mgである請求項1または2に記載の医薬組成物。
【請求項5】単位用量が1mgである請求項1または2に記載の医薬組成物。
【請求項6】アンドロゲン脱毛症が男性型禿頭症である請求項1~5のいずれか1項に記載の医薬組成物。
【請求項7】単位用量として0.5~1mgの17β-(N-t-ブチルカルバモイル)-4-アザ-5α-アンドロスト-1-エン-3-オンおよび医薬的に許容可能な錠剤化成分より成る,アンドロゲン脱毛症治療用錠剤。
【請求項8】単位用量が1mgである請求項7に記載の錠剤。
【請求項9】錠剤化成分がリン酸カルシウム,ラクトース,トウモロコシデンプンおよびステアリン酸マグネシウムから選択される請求項7に記載の錠剤。
【請求項10】結合剤,滑沢剤,崩壊剤および着色剤の1種または2種以上をさらに含有する請求項9に記載の錠剤。
【請求項11】結合剤がデンプン,ゼラチン,天然糖,ゴム,カルボキシメチルセルロース,ポリエチレングリコールおよびろうから選択される請求項10に記載の錠剤。
【請求項12】滑沢剤がオレイン酸ナトリウム,ステアリン酸ナトリウム,ステアリン酸マグネシウム,安息香酸ナトリウム,酢酸ナトリウムおよび塩化ナトリウムから選択される請求項10記載の錠剤。
【請求項13】崩壊剤がデンプン,メチルセルロース,寒天,ベントナイトおよびキサンタンゴムから選択される請求項10に記載の錠剤。
【請求項14】アンドロゲン脱毛症が男性型禿頭症である請求項7~13のいずれか1項に記載の錠剤。
【請求項15】アンドロゲン脱毛症の治療に有用な経口投与に適した薬剤の製造のための5α-レダクターゼ2阻害剤の使用であって,用量が0.05~1mgである前記使用。
【請求項16】5α-レダクターゼ2阻害剤が17β-(N-t-ブチルカルバモイル)-4-アザ-5α-アンドロスト-1-エン-3-オンである請求項15に記載の使用。
【請求項18】用量が0.2mgである請求項15または16に記載の使用。
【請求項19】用量が1mgである請求項15または16に記載の使用。
【請求項20】アンドロゲン脱毛症が男性型禿頭症である請求項15~19のいずれか1項に記載の使用。
3 本件審決の理由の要旨
⑴ 本件審決の理由は,別紙審決書(写し)記載のとおりである。要するに,本件発明は,いずれも下記アの引用例1に記載された発明(以下「引用発明」という。)及び下記イからオの各引用例に記載された事項に基づいて当業者が容易に発明をすることができた,というものである。
ア 引用例1(甲1):Arthur R.Diani et al.“Hair Growth Effects of OralAdministration of Finasteride,a Steroid 5α-Reductase Inhibitor, Alone andin Combination with Topical Minoxidil in the Balding Stumptail Macaque”(「禿げかかった Stumptail Macaque における,ステロイド5α-レダクターゼ阻害剤であるフィナステリド単独,又は局所用ミノキシジルと組み合わせたフィナステリドの経口投与の毛髪成長効果」)Journal of Clinical Endocrinology andMetabolism,1992,Vol.74,No.2,pp.345-350(平成4年)
イ 引用例2(甲2):Glenn J.Gormley et al.“Effects of Finasteride(MK-906),a 5α-Reductase Inhibitor,on Circulating Androgens in Male Volunteers”(「5αレダクターゼ阻害薬フィナステリド(MK-906)の男性ボランティアにおける循環アンドロゲンへの効果」)Journal of Clinical Endocrinology andMetabolism,1990,Vol.70,No.4,pp.1136-1141(平成2年)
ウ 引用例3(甲3):John D.Mcconnell et al.“Finasteride,an Inhibitor of5α-Reductase,Suppresses Prostatic Dihydrotestosterone in Men with BenignProstatic Hyperplasia”(「5αレダクターゼの阻害薬フィナステリドは,良性前立腺肥大症の男性において前立腺ジヒドロテストステロンを抑制する」)Journalof Clinical Endocrinology and Metabolism,1992,Vol.74,No3,pp.505-508(平成4年)
エ 引用例4(甲4):A.Vermeulen et al.“Hormonal Effects of an Orally Active 4-Azasteroid Inhibitor of 5α-Reductase in Humans”(「ヒトにおける5αレダクターゼの経口活性4-アザステロイド阻害剤のホルモン効果」)TheProstate,1989,Vol.l4,Issue 1,pp.45-53(平成元年)
オ 引用例5(甲5):M.OHTAWA et al.“Pharmacokinetics and biochemical efficacy after single and multiple oral administration of N-(2-methyl-2-propyl)-3-oxo-4-aza-5α-androst-1-ene-17β-carboxamide,a new type ofspecific competitive inhibitor of testosterone 5α-reductase,in volunteers”(「テストステロン5α-レダクターゼの新型特異的競合的阻害剤,N-(2-メチル-2-プロピル)-3-オキソ-4-アザ-5α-アンドロスト-1-エン-17β-カルボキサミドの単回及び複数回経口投与後のボランティアにおける薬物動 態 及 び 生 化 学 的 効 果 」) European Journal Of Drug Metabolism AndPharmacokinetics,1991,Vol.16,No.l,pp.15-21(平成3年)
⑵ 本件審決が認定した引用発明
0.5mg/日にて経口投与するフィナステライドおよびリンゴのスライスより成る,禿げかかった成体雄 stumptail macaque サルにおいて5頭のうち4頭が頭皮毛髪重量の増加を示し,1頭は非応答であり,当該サルにおける毛髪成長をミノキシジル単独によって誘導されるレベルまで刺激したことを示唆する,とされたもの。
⑶ 本件発明1と引用発明との一致点及び相違点
ア 本件発明1と引用発明との一致点
5α-レダクターゼ2阻害剤及び医薬的に許容可能なキャリヤーより成るものである点
イ 本件発明1と引用発明との相違点
(ア) 相違点1
本件発明1は,「経口剤型医薬組成物」であるのに対し,引用発明は,経口投与されるものではあるものの,「経口剤型医薬組成物」について特定されていない点
(イ) 相違点2
本件発明1においては,用途について,「ヒトにおけるアンドロゲン脱毛症治療用」と特定されているのに対し,引用発明においては,そのような特定がなく,禿げかかった成体雄 stumptail macaque サルにおいて作用を確認している点
(ウ) 相違点3
本件発明1においては,用量について,「単位用量として0.05~1mg」と特定されているのに対し,引用発明においては,「0.5mg/日」と特定されている点
4 取消事由
本件発明1の容易想到性に係る判断の誤り
⑴ 引用発明の認定の誤り(取消事由1)
⑵ 本件発明1と引用発明との一致点及び相違点の認定の誤り(取消事由2)
⑶ 相違点1の判断の誤り(取消事由3)
⑷ 相違点2の判断の誤り(取消事由4)
⑸ 相違点3の判断の誤り(取消事由5)
⑹ 顕著な効果を看過した誤り(取消事由6)
第3当事者の主張
1 取消事由1(引用発明の認定の誤り)について
〔原告の主張〕
以下のとおり,引用例1の全体の記載に接した当業者は,同引用例をもって,フィナステライドがサルにおける毛髪成長をミノキシジル単独によって誘導されるレベルまで刺激したことを示唆するものであるとは理解しないから,本件審決による引用発明の認定は,誤りである。
⑴ 引用例1記載の毛髪成長実験(以下「引用発明に係る実験」という。)の結果について
引用発明に係る実験においては,禿げかかった成体雄 stumptail macaque サルに経口フィナステライドを投与して毛髪成長実験を行っているが,当業者は,5匹のサルのうち4匹において頭皮の毛髪の重量が増加したという結果のみならず,非応答であったその余の1匹のデータも含めた全体のデータは,フィナステライドの効果が対照群と比べて有意ではないことを示した点も考慮して,客観的にフィナステライドの効果を評価したものと解される。
この点に関し,甲第32号証によれば,実験データの中で他とかけ離れた値を示す「はずれ値」につき,これを含めた結果と除外した結果とが異なる場合,当該実験結果の信頼性が疑われることになる。引用発明に係る実験においては,非応答体のデータを含めた解析結果が対照群と比較して統計学的に有意な差異がないことを示しているのに対し,上記データを除外した解析結果は上記差異があることを示していることから,引用発明に係る実験結果の信頼性に疑義が生じる。
したがって,当業者は,本件優先日当時において,引用発明に係る実験の結果から,フィナステライドが禿頭症のサルに対して有意な増毛作用を及ぼすことを認識することはできなかったものと解される。
⑵ 甲第20号証について
甲第20号証の著者は,引用発明に係る実験の結果につき,サンプル数が5匹であることも考慮して,1匹の非応答体のデータを除外した4匹のデータの解析結果が示す有意性は疑わしいなどと述べており,これは,引用発明に係る実験の結果が示すフィナステライドの増毛効果は有意なものではなかったと理解していることの証左である。
⑶ 本件優先日当時の技術水準について
本件優先日当時,当業者は,①5α-レダクターゼ2阻害剤は,5α-レダクターゼの活性を阻害してDHTの生成を抑制し,頭皮のDHT濃度を低下させることによって,アンドロゲン脱毛症の治療効果を実現すること,②5α-レダクターゼには,2種類のアイソザイムが存在し,ヒトの頭皮に局在するのは5α-レダクターゼ1であること,③フィナステライドは,5α-レダクターゼ2阻害剤であり,5α-レダクターゼ1に対する阻害能力は低いことを認識していた(甲11,13~18,20,21)。他方,本件優先日前の文献に,ヒトの頭皮における5α-レダクターゼ2の存在を示すものはない。
したがって,当業者は,フィナステライドは,ヒトの頭皮に局在する5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低いので,アンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという予断を有していた。
このような予断を有する当業者は,引用発明に係る実験の結果につき,非応答体も含めた5匹全体のデータが対照群と比べて統計学的に有意な効果を示さなかったという解析結果に着目するはずである。
⑷ 被告マイランの主張について
ア 被告マイランは,甲第11号証につき,引用されている乙第2号証の内容に関連して,当業者に,5α-レダクターゼ2の抑制と禿頭症の治療との関連性を想起させる旨主張する。
しかし,乙第2号証には,男性仮性半陰陽の疾患を有するパプアニューギニア人2名の個体において5α-レダクターゼが欠損していることは記載されているものの,5α-レダクターゼ1及び2のいずれの欠損かは明示されておらず,また,甲第11号証は,そのDNAを調査したにすぎず,頭皮における分布を調べたものではない。したがって,それらのいずれにも,頭皮組織に5α-レダクターゼ2が存在することは開示されていない。加えて,当業者が,わずか2名の上記症例をもって,5α-レダクターゼ2の抑制と禿頭症との治療の関連性を想起することはなく,アンドロゲン脱毛症に関して上記症例を一般化することはできない。
イ 被告マイランは,甲第13号証には,5α-レダクターゼ2の存在を否定する趣旨の記載はなく,むしろ,その存在の可能性を示唆する記載がある旨主張する。
しかし,上記主張は,5α-レダクターゼ1につきpH5.5付近においてはほとんど活性がないことを前提としているところ,同前提は,誤っている。
すなわち,甲第13号証の図1(C)(COS細胞で発現されたクローンしたヒトのレダクターゼ1)において,pH5.5付近の5α-レダクターゼ1の活性は,pH値6.5付近の約2割であり,ゼロではない。
そして,甲第13号証の図1(B)の頭皮の5α-レダクターゼが示す活性パターンは,(C)の5α-レダクターゼ1の活性パターンに類似しており,(A)の前立腺の5α-レダクターゼ(主に5α-レダクターゼ2)の活性パターンとは,明らかに相違している。したがって,甲第13号証に接した当業者は,頭皮の5α-レダクターゼは主に5α-レダクターゼ1に占められていると認識するのが自然であり,5α-レダクターゼ2の存在を認識するということはできない。
甲第29号証の作成者は,本件特許の欧州対応特許に関する英国での訴訟において証言し,本件優先日当時,5α-レダクターゼ1が頭皮に存在することは明白であったことなどを認めており,この点からも,当業者は,本件優先日当時,頭皮に存在するのは5α-レダクターゼ1である旨を認識していたということができる。
ウ 被告マイランは,甲第15号証は,禿頭症が5α-レダクターゼ1によって誘導されるものではない可能性及び禿頭症と5α-レダクターゼ2との関係を強く示唆するものである旨主張する。
しかし,甲第15号証には,頭皮のタイプ2(5α-レダクターゼ2)の発現パルスが後年の脱毛症の発症に影響しているかもしれない旨の記載があるところ,同記載は,タイプ2がタイプ1(5α-レダクターゼ1)の発現のタイミングに影響を与えていることを意味するものであり,5α-レダクターゼ2がアンドロゲン脱毛症の原因であることや,5α-レダクターゼ2を治療の対象とすればよいことを意味するものではないから,上記示唆を読み取ることはできない。
〔被告マイランの主張〕
⑴ 引用発明に係る実験の結果について
引用発明に係る実験においては,5匹のサルのうち4匹が頭皮毛髪重量の増加を示したのであるから,引用例1に接した当業者は,フィナステライドの経口投与が頭皮毛髪重量の増加に有効である旨の判断をすることができ,ヒトのアンドロゲン脱毛症の治療における効果も期待し得る旨を認識していたということができる。
この点に関し,男性型脱毛症に有効であることが公知であったミノキシジルについても,本件優先日前に開発された当時,非応答患者の存在の事実が公知となっていたことに鑑みると,引用例1に接した当業者にとって,わずか1匹の非応答体の存在が,その余の4匹のデータによって示されたフィナステライドの有効性を疑わせる根拠にはならない(甲29)。
また,原告が主張する「はずれ値」の取扱いは,統計的な処理によって結論を得ようとする場合の考え方であるところ,引用発明に係る実験のようにサンプル数が少ないケースにおいては,必ずしも統計的な処理のみによって有効性が判断されるわけではない。
加えて,原告自身,欧州特許出願の審査過程において,引用発明に係る実験の結果に基づき,フィナステライドは,人間の男性におけるアンドロゲン脱毛症の治療にも効果的に使用できることを期待することができる旨を主張していた。
⑵ 甲第20号証について
原告が指摘する甲第20号証の記載は,引用発明に係る実験の結果について統計学的に有意な結果を得るには不十分であったかもしれないという若干の疑義を呈するものにすぎず,5匹のサルのうち4匹が頭皮毛髪重量の増加を示したという事実を否定するものではない。
甲第20号証は,原告の研究機関であるメルク・リサーチ・ラボラトリーズが作成したものであるところ,当時,原告は,既にフィナステライドを若年性脱毛症の第2フェーズの臨床試験に付しており,また,本件特許の国際出願を行って本件発明1の用量のフィナステライドがヒトに対して有効であることを認識していたのであるから,甲第20号証記載に係る研究の目的がフィナステライドのサルにおけるアンドロゲン脱毛症の治療効果の有無自体を確認する点にあったとは,考えられない。
⑶ 本件優先日当時の技術水準について
以下のとおり,当業者が,本件優先日当時,フィナステライドがアンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという予断を有していたことはない。
ア 既に,本件優先日以前において,5α-レダクターゼ2阻害剤であるフィナステライドがヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に有用であることは公知であった。
イ 原告が主張の根拠とする文献について
(ア) 甲第11号証は,ヒトの頭皮における5α-レダクターゼ2の存否を論じるものではない。
甲第11号証は,乙第2号証を引用し,男性仮性半陰陽の疾患を有するパプアニューギニア人においては禿頭症が発生しないとされているところ,実験の対象としたパプアニューギニア人2人の個体においては,5α-レダクターゼ2が欠損していたことを明らかにしている。当業者は,この記載から,5α-レダクターゼ2の欠損が禿頭症を発症させない原因になっている旨を認識し,5α-レダクターゼ2の抑制と禿頭症の治療との関連性を想起するということができる。
(イ) 甲第13号証には,頭皮調製物に5α-レダクターゼ1活性が見いだされた旨の記載があるにとどまり,5α-レダクターゼ2の存在を否定する趣旨の記載はなく,酵素活性とpH値の関係を示す図1には,ヒトの頭皮に5α-レダクターゼ2が存在する可能性が示唆されている。
(ウ) 甲第15号証は,禿頭症が5α-レダクターゼ1によって誘導されるものではない可能性及び禿頭症と5α-レダクターゼ2との関係を強く示唆するものである。
(エ) 甲第20号証のほか,甲第16号証から甲第18号証及び甲第21号証は,いずれも本件優先日後の刊行物であるから,本件優先日当時の技術的背景の根拠とすることはできない。
ウ 甲第22号証にも,5α-レダクターゼ2とアンドロゲン脱毛症の発症との関係が説明されている。
〔被告テバの主張〕
⑴ 引用発明に係る実験の結果について
ア 引用例1においては,引用発明に係る実験の結果につき,同実験のデータと共に,フィナステライドの経口投与による血清DHTレベルの低下に関するデータ及び同データから予測される禿頭症の逆行作用も併せて記載されており,「これらのデータは,DHTの抑制が確立された禿頭症を逆行させ,この動物モデルにおいて従前に観察されたアンドロゲン性脱毛症を予防することを暗示する」旨結論付けている。当業者がこの記載に接すれば,アンドロゲン脱毛症の治療のためにフィナステライドを経口投与することは,十分に動機付けられたということができる。
イ 引用発明に係る実験において,非応答体が存在したことは,応答体で示されたフィナステライドの毛髪成長の効果を否定するものではない。
したがって,1匹の非応答体の存在は,当業者が4匹のデータで示されたフィナステライドの有効性を疑う根拠になるものではない。当業者は,非応答体が存在しても,応答体で示された効果に着目し,高い成功確率を期待してフィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療に使用することを試みるところである。
ウ 原告が主張する「はずれ値」は,一般に,他の測定値から飛び離れた観測値を指すものとして理解されるところ,引用発明に係る実験における非応答体は,単に反応をしないというものであり,飛び離れた観測値ではないから,「はずれ値」に該当しない。
また,甲第32号証には,サンプル数が少ない場合において統計的処理は意味を有しないとの趣旨に理解される記載があり,同記載に照らしても,当業者は,引用発明に係る実験の1匹の非応答体を除く4匹の応答体の効果に着目して,フィナステライドの有効性を認識したことが,明らかである。
加えて,原告自身,欧州特許出願の審査過程において,引用発明に係る実験の結果に基づき,フィナステライドは,人間の男性におけるアンドロゲン脱毛症の治療にも効果的に使用できることを期待することができる旨を主張していた。
⑵ 甲第20号証について
本件優先日後の刊行物である甲第20号証に記載された知見は,本件優先日当時の当業者の技術常識,技術水準それ自体を構成するものではない。
⑶ 本件優先日当時の技術水準について
原告が主張の前提とする①5α-レダクターゼには,2種類のアイソザイムが存在し,ヒトの頭皮に局在するのは,5α-レダクターゼ1であること,②フィナステライドは,5α-レダクターゼ2の阻害剤であり,5α-レダクターゼ1に対する阻害能力は低いことは,本件優先日当時,当業者一般に知られた技術としては確立していなかった。
ア 2種類のアイソザイムの存在について
甲第11号証には,2種の5α-レダクターゼがヒトに存在する可能性が示されており,甲第13号証においても,酵素活性で区別可能な2種のアイソザイムの存在が提案されている。
しかし,甲第13号証には,使用した試験試料である組織ホモジネートの精製が不十分であったことなどの研究の限界が指摘されており,この点を考えると,2種のアイソザイムの存在が技術常識として確立していたことについては疑義がある。
イ ヒトの頭皮に5α-レダクターゼ1が局在することについて
本件優先日当時,頭皮組織において,たん白質量から1型アイソザイムが主要なアイソザイムであるという見解はあったものの,頭皮組織に1型アイソザイムのみが局在し,それが男性型脱毛症の原因であるという見解が技術常識であったということはできない(甲11,13,15)。
ウ フィナステライドは,5α-レダクターゼ2の阻害剤であり,5α-レダクターゼ1に対する阻害能力は低いことについて
本件優先日当時,フィナステライドが1型アイソザイムに比べて2型アイソザイムに強い阻害作用を有するとの見解はあったが,研究の限界も指摘されていることから,上記見解が技術常識であったとまではいうことができない(甲11,13)。また,前記イのとおり,1型アイソザイムが男性型脱毛症の原因であるという見解は技術常識ではなかったのであるから,フィナステライドが男性型脱毛症の治療に有効ではないとの技術常識も確立していなかった。
2 取消事由2(本件発明1と引用発明との一致点及び相違点の認定の誤り)について
〔原告の主張〕
⑴ 一致点の認定の誤りについて
本件審決は,本件発明1と引用発明とは,「5α-レダクターゼ2阻害剤及び医薬的に許容可能なキャリヤーにより成るもの」である点で一致する旨認定した。
フィナステライドが5α-レダクターゼ2阻害剤であること自体は争わないが,引用発明においては,フィナステライドが5α-2レダクターゼ2を阻害するものとして使用され,作用していることは,開示されていない。
したがって,本件審決の前記認定は,誤りである。
⑵ 相違点の認定の誤りについて
本件審決は,引用発明に係る実験において,禿げかかった成体雄 stumptailmacaque サルに作用(脱毛症治療)が確認されたことを前提として,相違点2を認定した。
しかし,前記1〔原告の主張〕のとおり,引用発明に係る実験において,前記作用は確認されておらず,したがって,本件審決の前記認定は,誤りである。
〔被告マイランの主張〕
フィナステライドが5α-レダクターゼ2阻害剤であることは周知事項であり,本件明細書において5α-レダクターゼ2阻害剤の具体例として記載されているのは,フィナステライドのみである。
したがって,本件審決による本件発明1と引用発明との一致点及び相違点2に係る認定に,誤りはない。
〔被告テバの主張〕
本件審決は,原告主張のように引用発明において「フィナステライドが5α-2レダクターゼ2を阻害するものとして使用され,作用していること」が開示されていることに基づいて一致点の認定をしたのではない。
また,本件審決による引用発明の認定に誤りはないから,本件審決による相違点2の認定にも,誤りはない。
3 取消事由3(相違点1の判断の誤り)について
〔原告の主張〕
本件審決は,引用発明は,経口投与されるものに係るところ,これを経口剤型の組成物とすることは,当業者にとって困難なことではないなどとして,相違点1の容易想到性を肯定したが,以下のとおり,同判断は誤りである。
⑴ アンドロゲン脱毛症治療薬の投与方法について
ア 皮膚疾患の一種である脱毛症の製剤の一般的な投与方法は,疾患部位に直接塗る局所適用である。現に,男性型脱毛症診療ガイドライン(2010年版)に列挙されている男性型脱毛症の治療に用いられる製剤のうち,内服療法のものはフィナステライドのみで,その余は全て外用療法のものであり,本件優先日当時も同様の状況であったものと解される。
したがって,当業者において,本件優先日当時,新規のアンドロゲン脱毛症の薬剤の投与方法を選択するに当たっては,局所適用の採用が一般的であったということができる。
イ 引用例1の記載によれば,その著者は,①経口フィナステライド用量設定試験においてフィナステライドを経口投与したサルで血清DHT濃度の迅速かつ持続的な低下が確認されたこと及び②臨床試験においても同様の現象が観察されたことを考慮し,フィナステライドを臨床的に使用する際は,アンドロゲンの全身性の変化を回避するために,経口投与ではなく,皮膚に塗布する方法を推奨していると解される。また,本件優先日当時,①ミノキシジルがアンドロゲン脱毛症の有効な治療薬であること,②4MAが5α-レダクターゼ1及び2の両方を阻害し,サルのアンドロゲン脱毛症の治療に有効であることが知られていたところ,いずれも頭皮に塗布されるものであり,経口投与されるものではなかった。
さらに,甲第30号証においても,フィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療のために局所製剤とする際の組成が,ジェル,ローション,シャンプー等の実施例に開示されており,当業者が同開示に基づいて局所製剤を製造・使用することは,十分に可能であった。
したがって,仮に,当業者が,本件優先日当時,引用発明に係る実験の結果からフィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に試すことを考えたとしても,皮膚を標的とする局所製剤の開発を試みたものと考えられる。
⑵ フィナステライドの経口投与に係る阻害要因について
ア フィナステライドの経口投与に伴う副作用のリスクについて
フィナステライドは,正常な組織に及ぶと,アンドロゲン作用を必要以上に抑制して副作用をもたらし得る。本件優先日当時,アンドロゲン過剰症状である前立腺肥大症の治療薬PROSCARが販売されており,これは,5mg/日のフィナステライドを経口投与するものであったが,精液を介する女性への曝露を通じて男性胎児に悪影響を与えるリスクや全身のアンドロゲンの濃度を変化させて性機能障害等の全身性の副作用を招くリスクがあり,これらのリスクについては当業者も認識していた。それでも,前立腺肥大症は,排尿障害という深刻な症状を伴うものであり,フィナステライドの処方以外の主な治療法は外科的手術であることから,ある程度の性機能障害等の副作用は許容し得るものと考えられていた。
これに対し,脱毛症は,主に審美的な問題に関わるものであるから,副作用は,許容できるものではなかった。
しかも,アンドロゲン脱毛症の患者には,20代から30代の男性患者も含まれており,そのような患者にフィナステライドを投与すると長期間にわたる継続的使用が見込まれることに加え,本件優先日当時,治療に要するフィナステライドの量さえ予測できなかったことに鑑みると,当業者は,前記の副作用のリスクをより一層深刻に捉えていたものと推認することができる。
イ 阻害要因について
前記1〔原告の主張〕のとおり,フィナステライドは5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低いことが知られており,また,フィナステライドの頭皮の5α-レダクターゼに対する阻害能が前立腺の5α-レダクターゼに対する阻害能よりも低いことが示されていた(甲13,24)。これらの知見から,当業者は,本件優先日当時,フィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療に使用する場合には,前立腺肥大症の治療に使用する場合よりも多くの用量を要するものと認識していた。
しかし,前記アのとおり,当業者は,本件優先日当時,フィナステライドの経口投与に伴う副作用のリスクを認識していたことから,多い用量のフィナステライドの経口投与については強い抵抗を感じたものと考えられる。この点に関し,本件優先日後に公表された甲第21号証にも,上記リスクの存在から経口投与が回避されたことを示す記載があり,上記リスクは本件優先日以前に知られていたことであるから,本件優先日当時の当業者も,甲第21号証の著者と同様に経口投与を回避したものと推認される。
以上によれば,仮に当業者が本件優先日当時においてアンドロゲン脱毛症の治療にフィナステライドの処方を試みたとしても,当時の技術水準から,生活改善薬としては深刻な副作用のリスクをもたらす経口投与を回避したはずである。
⑶ 被告マイランの主張に対して
被告マイランは,当業者は,副作用を回避するための方策として,経口投与を前提に用量抑制を選択するのが自然である旨主張する。
しかし,フィナステライドの低用量化によって副作用を回避できるという知見は,本件優先日当時,存在していなかった。すなわち,引用例2から5には,5mg/日よりも少量のフィナステライドを使用した場合の血中DHT濃度が示されているが,副作用については言及されていない。かえって,仮に5mg/日と1mg/日の各用量において血中DHT濃度に差異がなく,被告マイラン主張のように血中DHT濃度が治療効果を反映するということであれば,副作用についても5mg/日と1mg/日の各用量において同程度であり,それ自体,低用量化の阻害要因となる。
さらに,引用例3からは,フィナステライドの用量を5mg/日から1mg/日にしても,生殖器官におけるDHT濃度の減少率は同等であり,低用量化による副作用の抑制は期待できないことを読み取ることができる。
また,甲第23号証には,フィナステライドを5mg/日及び1mg/日各経口投与した結果,射精障害の副作用の程度は同等であり,勃起機能不全及び性欲減退については,1mg/日の方が副作用を生じた患者の割合が多かったことが示されている。
加えて,フィナステライドを有効成分とするPROSCARのリーフレットにも,5mg/日及び1mg/日の各投与量に係る副作用のプロファイルが同様であったことが記載されている。
〔被告マイランの主張〕
⑴ アンドロゲン脱毛症治療薬の投与用法について
ア 当業者は,本件優先日当時,フィナステライドの局所投与製剤に関わる知見を全く得ておらず,上記局所投与製剤を新たに開発しようとするならば,有効濃度,副作用の有無,投与方式,製剤処方等の要素を新たに解明することが不可欠であり,フィナステライドを経口投与製剤として用いるよりも,試行錯誤を要する状況であった。
他方,本件優先日当時,フィナステライドの経口投与による増毛効果は,引用発明に係る実験において実証されていた上,フィナステライドを有効成分とする前立腺肥大症の経口投与製剤としてPROSCARが原告から上市されており,経口投与に伴う副作用等の安全性に関する情報や製剤技術は,良性前立腺過形成の治療薬の開発過程において既に獲得されていた。
イ 原告が掲げる男性型脱毛症診療ガイドライン(2010年版)は,本件優先日後の文献であり,原告の主張の根拠として不適格なものである。さらに,前記アのとおりフィナステライドが経口剤として用いられてきた医薬品であることを考慮すれば,他の製剤が外用剤であることは,フィナステライドを男性型脱毛症の治療のための経口剤として開発することを阻害する要因とはなり得ない。
ウ 引用例1は,フィナステライドの局所製剤を推奨していても,経口投与を否定しているわけではない。
⑵ フィナステライドの経口投与に係る阻害要因について
原告が掲げる甲第21号証は,本件優先日後の文献であり,原告の主張の根拠として不適格なものである。さらに,前記⑴アのとおりフィナステライドの経口投与の安全性が既に確立していた本件優先日当時の状況において,当業者は,副作用を回避するための方策として,経口投与を前提に用量抑制を選択するのが自然である。
〔被告テバの主張〕
⑴ アンドロゲン脱毛症治療薬の投与方法について
ア 引用発明に係る実験においては,経口投与の方法を採用して効果も上げているから,これに接した当業者が,フィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に適用する際,経口投与の方法を選択する動機付けを得ることは,不自然なことではない。
イ 引用例1の記載に加え,引用発明に係る実験においてミノキシジルは局所投与したのに対し,フィナステライドは経口投与したことから,引用例1は,様々な用法の可能性を示唆しており,フィナステライドの経口投与を否定するものではないことが明らかである。
さらに,引用例1には,フィナステライドの経口投与のデータが開示されているのに対し,局所投与のデータは開示されていない。当業者としては,引用例1に基づき,フィナステライドについて実証のない局所投与ではなく,実証された経口投与を採用して,一層の実験を試みるところである。
⑵ フィナステライドの経口投与に係る阻害要因について
ア 前記2〔被告テバの主張〕のとおり,本件優先日当時,頭皮に5α-レダクターゼ1が局在すること及びフィナステライドは5α-レダクターゼ1に対する阻害能が低いことは,いずれも技術常識としては確立しておらず,当業者がアンドロゲン脱毛症治療にフィナステライドの高用量を要すると推認した事実はない。
イ 副作用等のリスクをもたらす経口投与の回避について
(ア) 薬物の投与量は,所望の治療効果を達成するとともに副作用をできる限り減らす方向で決定されるものである。
フィナステライドについては,本件優先日当時,①5mg/日以上の投与によってヒトのアンドロゲン脱毛症の治療が可能であること,②5mg/日及び1mg/日の各経口投与を行った場合に副作用が生じること,③アンドロゲン脱毛症は,思春期直後に発症する患者も多く,発症後ほぼ終生にわたる長期間の薬物療法が必要になることから,フィナステライドを用いた治療を行うに当たっては,有効性を確保しつつも,より安全性の高い投与量,すなわち,より少ない投与量を選択するべきことは,当業者に周知されていた。
投与量に関し,フィナステライドの経口投与により血中DHT濃度が低下するところ,低用量(特に1mg/日以下)の投与によって,高用量(10mg/日)の投与と同等の血中DHT濃度の低下に係る最大効力を得られることが,本件優先日前から当業者に周知されていた。
以上によれば,当業者において,本件優先日当時,副作用を低減するために,血中DHT濃度を指標として治療効果が得られる範囲内で可能な限りフィナステライドの投与量を低減することは,容易であった。
(イ) したがって,副作用等のリスクの認識は,直ちに経口投与の回避を導くものではない。
むしろ,当業者は,フィナステライドにつき,経口投与を行った場合の副作用についての情報を得ていた以上,何ら副作用に関する情報のない局所投与ではなく,経口投与を選択した上で,低用量の使用によって副作用を回避することは慣用の手法であるから,所望の治療効果を達成しつつ副作用を回避し得る低用量で経口投与することの強い動機付けがあったというべきである。
ウ 原告の主張について
原告は,本件優先日当時の当業者は,甲第21号証の著者と同様に,経口投与を回避したものと推認される旨主張する。
しかし,本件優先日後に頒布された甲第21号証記載の知見は,本件優先日当時の当業者の技術常識又は技術水準自体を構成するものではない。また,甲第21号証は,治療目的ではなく,局所適用して調査することを選択したというものであり,治療目的でフィナステライドを使用する当業者の動機付けを構成するものではない。
さらに,原告自身,本件優先日当時,フィナステライドの経口投与製剤である前立腺肥大症の治療薬「PROSCAR」(投与量5mg/日)を販売しており,経口投与を回避していない。これは,原告が,5mg/日をヒトに経口投与することについて副作用の観点から差し支えないと判断したことを示すものである。そして,副作用は,治療目的に関わらず,有効成分である薬剤の投与量に左右されるものであるから,「PROSCAR」の副作用情報は,フィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療に使用する場合にもそのまま応用できるものであり,当業者は,アンドロゲン脱毛症の治療においても,少なくとも副作用との関係では,5mg/日又はそれ以下の用量の経口投与を容認することができると考えたものと推認される。
加えて,甲第20号証記載の実験においても,フィナステライドが経口投与されている。
4 取消事由4(相違点2の判断の誤り)について
〔原告の主張〕
本件審決は,引用発明に係る実験がヒトの脱毛症の動物モデルによるものであり,同実験はヒトの治療薬を得ることを意図したものであることを理由として,上記実験の結果からフィナステライドについてヒトの治療薬としての適性を認識し,ヒトにおけるアンドロゲン脱毛症の治療という用途を想起することは,当業者にとって何ら困難なことではない旨判断したが,以下のとおり,同判断は,誤りである。
⑴ 引用発明に係る実験の結果について
前記1〔原告の主張〕のとおり,当業者は,本件優先日当時において,引用発明に係る実験の結果から,フィナステライドが禿頭症のサルに対して有意な増毛作用を及ぼすことを認識することはできなかった。そして,一般に,臨床前試験である動物実験において有意な薬理効果を確認することができていない段階で,ヒトの治療薬としての適性を判断することはできない。
したがって,当業者は,本件優先日当時において,引用発明に係る実験の結果から,フィナステライドにヒトの治療薬としての適性があることを認識することはできなかった。
⑵ ヒトのアンドロゲン脱毛症への適応の動機付けについて
ア 引用例1には,引用発明に係る実験の被験動物である成体雄 stumptailmacaque サルにつき,「ヒト脱毛症の十分に確立したアンドロゲン-依存性モデル」である旨が記載されているものの,引用例1が刊行された平成3年4月以前においても,ヒトのアンドロゲン脱毛症と stumptail macaque サルに見られる脱毛症との間には,①ヒトにおいては男性のみ発症するのに対し,成体雄 stumptail macaqueサルにおいては雌雄いずれも発症する,②ヒトの脱毛症の典型的なパターンがM字型になるのに対し,stumptail macaque サルの脱毛は前頭部から徐々に後頭部に広がるなど症状の相違が観察されており,生物学的及び病理学的にあらゆるレベルで共通しているわけではないものと認識されていた。
イ さらに,本件優先日当時,5α-レダクターゼのアイソザイムの組織分布やフィナステライドに対する感受性が生物種間で異なるものであることが明らかになり,当業者は,サルの頭皮に局在する5α-レダクターゼとヒトの頭皮の5α-レダクターゼとの類似性を確認することができていなかった(甲10,15,20)。また,当業者は,フィナステライドは,ヒトの頭皮に局在する5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低いので,ヒトのアンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという予断を有していた。
このような当業者の認識により,成体雄 stumptail macaque サルが「ヒト脱毛症の十分に確立したアンドロゲン-依存性モデル」であるという認識は,修正を迫られた。そして,少なくとも5α-レダクターゼに関しては,そのアイソザイムの特性及び組織分布についてヒトとサルとの類似性が確認されない限り,引用発明に係る実験において成体雄 stumptail macaque サルで観察された効果を単純にヒトに外挿することはできないと認識されるようになった。
ウ 以上によれば,当業者は,本件優先日当時,引用発明に係る実験の結果から,フィナステライドの増毛作用を認めたとしても,それは,必ずしもヒトに適用したときの結果を予測させるものではないと認識し,実際にフィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療薬として試用するまでには至らなかったものと解される。
⑶ 小括
以上によれば,当業者において,本件優先日当時,引用発明に係る実験のデータから,フィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に用いる動機付けはなく,したがって,引用発明から,フィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症治療に使用する用途を想起することは,困難であったというべきである。
〔被告マイランの主張〕
⑴ 以下のとおり,本件審決の前記判断に誤りはない。
ア 医薬発明の進歩性の審査基準においては,単にヒト以外の動物用の化合物をヒト用の医薬へ転用したにすぎないものについては,引用発明の内容に当該転用の示唆がない場合であっても,通常,進歩性は否定される。
本件発明1は,単にサルの実験において効果が確認された医薬をヒト用の医薬に転用したにすぎないものであるから,上記審査基準によれば,進歩性が否定されるのは当然である。
イ 引用発明に係る実験の結果から,フィナステライドについてヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に使用するという用途を想起することは,本件優先日当時,当業者にとって困難なことではなかった。
すなわち,サルは,ヒトに近い種であり,特に引用発明に係る実験の被験動物であったstumptail macaque サルは,本件優先日よりも前に,ヒトのアンドロゲン脱毛症のモデルとして確立していた。当業者は,本件優先日当時,このような知見を踏まえて引用例1に接すれば,引用発明に係る実験がヒトのアンドロゲン脱毛症の治療を意図して行われたものであり,その結果がヒトのアンドロゲン脱毛症の治療結果と相関し得ることを認識することができた。
⑵ 原告の主張について
ア 原告は,一般に,臨床前試験である動物実験において有意な薬理効果を確認することができていない段階で,ヒトの治療薬としての適性を判断することはできない旨主張する。
しかし,引用発明に係る実験の被験動物であった stumptail macaque サルは,本件優先日よりも前に,ヒトのアンドロゲン脱毛症のモデルとして確立していたこと,引用発明に係る実験においては,5匹のサルのうち4匹が頭皮毛髪重量の増加を示したことから,当業者においてフィナステライドがヒトの治療薬としての適性を有するものと期待することは,明らかである。
イ 原告は,甲第10号証,甲第15号証及び甲第20号証を根拠として,本件優先日当時において,5α-レダクターゼのアイソザイムの組織分布やフィナステライドに対する感受性が生物種間で異なるものであることが明らかになり,当業者は,サルの頭皮に局在する5α-レダクターゼとヒトの頭皮の5α-レダクターゼとの類似性を確認することができていなかったなどと主張する。
しかし,甲第10号証及び甲第15号証には,5α-レダクターゼの構造や分布についてヒトとラットとの間に相違がある旨が報告されているにとどまり,サルとの種差については,何ら反証されていない。
また,甲第20号証については,①引用発明に係る実験の被験動物であったstumptail macaque サルは,本件優先日よりも前に,ヒトのアンドロゲン脱毛症のモデルとして確立していたことに加え,②甲第20号証自体に,stumptailmacaque に対する経口フィナステライドの作用効果と,アンドロゲン脱毛症にり患したヒトに対する経口フィナステライドの作用効果との間に相関関係があることを表明したものと解される記載がある。
〔被告テバの主張〕
⑴ ヒトのアンドロゲン脱毛症への適応の動機付けについて
当業者の間において,本件優先日当時,stumptail macaque サルが「ヒト脱毛症の十分に確立したアンドロゲン-依存性モデル」であるという認識が確立しており(引用例1,甲20,丙8~10),引用発明に係る実験は,この stumptailmacaque サルを被験体として実験を行った結果,5匹のうち4匹のデータがフィナステライドの有効性を示したというものであるから,引用例1の記載に接した当業者にとって,フィナステライドにつき,ヒトのアンドロゲン脱毛症の治療薬としての適性を認識し,同治療のための投与を想起することは,困難ではなかった。
⑵ 原告の主張について
原告は,本件優先日当時,5α-レダクターゼのアイソザイムの組織分布やフィナステライドに対する感受性が生物種間で異なるものであることが明らかになり,当業者は,サルの頭皮に局在する5α-レダクターゼとヒトの頭皮の5α-レダクターゼとの類似性を確認することができていなかったことなどから,成体雄stumptail macaque サルが「ヒト脱毛症の十分に確立したアンドロゲン-依存性モデル」であるという認識は,修正を迫られた旨主張する。
しかし,本件優先日当時,5α-リダクターゼのアイソザイムについての議論は混とんとした状況にあり,本件優先日後の平成6年から9年にかけてもなお,5α-リダクターゼのアイソザイムの局在及びその役割についての見解は確定しておらず,5α-レダクターゼのアイソザイムの組織分布やフィナステライドに対する感受性が生物種間で異なるものであるという原告主張に係る認識は,確立していなかったのであるから,引用例1が平成4年に公表された後,本件優先日までの1年足らずの短期間で前記認識が修正を迫られるとは考え難い。
5 取消事由5(相違点3の判断の誤り)について
〔原告の主張〕
本件審決は,①医薬の技術分野において,治療効果の向上や副作用の低減等を目的として安全かつ有効な医薬の投与量を検討してみることは,当業者が適宜行うことにすぎないことから,本件発明1のように単位用量を設定することは,当業者が容易になし得るものである,②仮に,そうでないとしても,引用例2から5に示された1mg/日前後又はより少量の投与量を参考にしつつ,前記検討をして本件発明1の程度の単位用量を設定することは,当業者が容易になし得るものであるとして,相違点3に係る容易想到性を肯定したが,以下のとおり,その判断は,誤りである。
⑴ 経口投与量を検討する動機付けの欠如について
前記3〔原告の主張〕のとおり,当業者が,本件優先日当時,引用発明に係る実験の結果からフィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に試すことを考えたとしても,引用例1の記載及びフィナステライドの経口投与に伴う副作用のリスクに鑑み,皮膚を標的とする局所製剤の開発を試みたものと考えられる。
したがって,当業者は,本件優先日当時,フィナステライドの経口投与量を検討する動機付けを欠いていたというべきである。
⑵ 1mg/日以下の用量の選択に対する阻害要因について
一般に,薬剤の用量はその標的酵素に対する阻害能に依存するところ,前記1〔原告の主張〕のとおり,フィナステライドは,ヒトの頭皮に局在する5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低く,アンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという知見を前提にすると,本件優先日当時,アンドロゲン脱毛症の治療に必要なフィナステライドの用量は,良性前立腺肥大症の治療の臨床用量,すなわち,5mg/日よりも大きいことが予測された。
したがって,当業者が,本件優先日当時,アンドロゲン脱毛症の治療にフィナステライドの経口剤を試みるに当たり,治療効果の向上や副作用の低減等を目的として安全かつ有効な投与量を検討した場合,5mg/日の5分の1に当たる1mg/日を選択することは,技術常識からしてあり得ない。
⑶ 引用例1と引用例2から5とを組み合わせる動機付けの欠如について
ア 引用例2から5は,いずれも良性前立腺肥大症の治療を念頭において実施された研究に関する文献であり,アンドロゲン脱毛症の治療に関する記載はなく,フィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療に関連付ける示唆もない。
イ 引用例2から5には,健常者の男性又は良性前立腺肥大症患者の男性に対し,1mgないしそれより少ない用量のフィナステライドを,単回又は1日1回7日間若しくは14日間継続的に経口投与した後,血中DHT濃度が60%から65%低下した旨が記載されている。
しかし,アンドロゲン脱毛症の治療におけるフィナステライドの作用は,頭皮の5α-レダクターゼの活性を阻害してDHTの生成を抑制し,頭皮のDHT濃度を低下させることによって,頭皮のアンドロゲン過剰症状を緩和させるというものであるから,フィナステライドの治療効果は,頭皮のDHT濃度の低下に依存するところ,当業者は,本件優先日当時において,アンドロゲン脱毛症の治療効果の指標となる血中DHT濃度が必ずしも頭皮のDHT濃度を反映するものではないことを認識していた(引用例1,2,4,甲8,18,20,23,38)。すなわち,当業者は,本件優先日当時において,頭皮のDHT濃度を減少させるのに十分かつ必要最小限のフィナステライドの用量を,血中DHT濃度の減少割合を基準に設定することができるとは考えていなかった。そして,引用例2から5には,頭皮のDHT濃度の測定結果を記載したものはなく,また,血中DHT濃度と頭皮のDHT濃度との関係も記載されていない。
したがって,当業者は,本件優先日当時において,仮に引用例1に接してアンドロゲン脱毛症の治療に用いるフィナステライドの用量を設定することを考えたとしても,引用例2から5に示される1mg/日ないしそれより少ない用量を参照する動機付けは,存在しなかった。
むしろ,アンドロゲン脱毛症の治療と同様に,標的組織内のDHT濃度を低下させてアンドロゲン過剰作用を抑制するという原理を用いる良性前立腺肥大症の治療において,フィナステライドの適用量が5mg/日に設定されている事実は,1mg/日以下の用量で血中DHT濃度を60%から65%も減少させることができても,5mg/日でなければ良性前立腺肥大症に対して最大限の治療効果は得られないことを示すものである。この事実から,当業者は,本件優先日当時において,フィナステライドの用量につき,血中DHT濃度を大幅に減少させる用量であってもアンドロゲン脱毛症に十分な治療効果を示すとは考えていなかったことが推認される。
〔被告マイランの主張〕
⑴ 経口投与量を検討する動機付けの欠如について
前記3〔被告マイランの主張〕のとおり,引用例1は,フィナステライドの局所製剤を推奨していても,経口投与を否定しているわけではなく,本件優先日当時の技術水準に鑑みれば,当業者は,経口剤の開発を試みたはずである。
また,アンドロゲン脱毛症の治療薬は,生活の質を改善する医薬品として健康なヒトが長期間にわたり日常的に継続使用するものであり,比較的短期間に集中的な治療を要する前立腺肥大症のような病態に対応する医薬品とは異なる。当業者は,このような差異をよく承知しているのであるから,少なくとも5mg/日より低い,最小限の経口投与量を想定するのは,当然である。
⑵ 1mg/日以下の用量の選択に対する阻害要因について
前記1〔被告マイランの主張〕のとおり,本件優先日当時,ヒトの頭皮に5α-レダクターゼ1が見いだされたことは報告されていたが,5α-レダクターゼ2の不存在が証明されていたわけではない。
また,①既に,本件優先日以前において,5α-レダクターゼ2阻害剤であるフィナステライドがヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に有用であることは公知であり,しかも,②甲第11号証,甲第13号証及び甲第15号証において,5α-レダクターゼ2とアンドロゲン脱毛症との関係が示唆されていた。これらの点に鑑みれば,当業者は,本件優先日当時,ヒトの頭皮には5α-レダクターゼ1が存在するものと考え,5α-レダクターゼ2の存在については明確に認識していなかったとしても,フィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に試用するに当たり,その投与量を好適化するために少ない用量とすることを選択肢とし,頭皮に発現する5α-レダクターゼ2が前立腺に存在するものよりも微量である可能性を想起して,5mg/日よりも低用量にして効果を確認したはずである。
したがって,本件優先日当時,原告主張の阻害要因は存在していなかったというべきである。
⑶ 引用例1と引用例2から5とを組み合わせる動機付けの欠如について
ア 引用例1には,引用発明に係る実験において,①フィナステライドの経口投与量の設定に当たり,血清DHTの減少割合を指標としたこと,②結果として5匹中4匹のサルにおいて頭皮毛髪重量の増加が見られ,血清DHTの過少割合とサルの毛髪の再成長増強が密接に関連していたことが示されており,フィナステライドの経口投与によって血清DHTが減少すれば,同量のフィナステライドの経口投与によってアンドロゲン脱毛症の治療又は予防効果が得られる旨が示唆されている。
さらに,引用発明に係る実験においては,フィナステライドの経口投与量を0.5mg/日及び2mg/日とした場合のいずれにおいても,血清DHTが著しく減少し,しかも,その減少の程度が同等であったことから,フィナステライドの効力発現のための必要最小量(閾値)が,0.5mg/日よりも少量である可能性も示唆されている。
他方,引用例2から5においては,フィナステライドの投与量を1mg/日以下としたときに血中DHTの十分な低下が見られ,投与量を増してもDHT量に著しい変化はなかったことが明らかにされている。
イ 当業者は,ヒトのアンドロゲン脱毛症の治療薬に使用するフィナステライドの用量を決定する際,当然,既存のフィナステライドを使用した前立腺肥大症治療薬の開発過程において開示された多くの研究経過を参考にする。
そうすると,当業者は,引用発明に接し,血清DHTを指標として毛髪成長実験におけるフィナステライドの経口投与量を決定した上で,引用例2から5に示されたフィナステライドの投与量と血中DHTの減少との関係から,ヒトにおいては,1mg/日又はそれより少ない用量でも十分な効果が得られることを容易に想到することができた。
⑷ 原告の主張について
ア 原告は,引用例2から5には,アンドロゲン脱毛症の治療に関する記載はなく,フィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療に関連付ける示唆もない旨主張する。
しかし,引用例1において前記⑶アのとおり示唆されていることから,当業者は,引用発明に係る実験の結果をもってヒトへの適用を検討し,その際,フィナステライドを前立腺肥大症治療薬として用いた場合における血中DHTの減少効果について開示した先行文献である引用例2から5を参照することは,自然なことである。
イ 原告が,当業者において血中DHT濃度が必ずしも頭皮のDHT濃度を反映するものではないことを認識していたことの根拠とする引用例1には,引用発明に係る実験において非応答であった個体につき,非応答の原因がアンドロゲンレベル以外にあり得ることを示す記載はあるものの,フィナステライドによる血中DHT濃度の減少が必ずしもその増毛作用を反映するものではないことを示しているわけではない。
また,同じく引用例2,4,甲第8号証,第18号証,第20号証及び第38号証の記載に鑑みても,前記⑶のとおり,当業者において,引用例1に接し,血清DHTの減少割合を手掛かりに毛髪成長実験におけるフィナステライドの経口投与量が設定されて有意な結果が得られたという事実を知れば,ヒトにおいても,同様に,引用例2から5に示されたとおり血中DHTの減少割合を手掛かりとしてフィナステライドの経口投与量を決定することを容易に想到することができる。
〔被告テバの主張〕
⑴ 経口投与量を検討する動機付けの欠如について
前記3〔被告テバの主張〕のとおり,引用例1は,フィナステライドの経口投与を否定するものではない。
また,副作用等のリスクの認識は,直ちに経口投与の回避を導くものではない。
むしろ,当業者は,フィナステライドにつき,経口投与を行った場合の副作用についての情報を得ていた以上,何ら副作用に関する情報のない局所投与ではなく,経口投与を選択した上で,低用量の使用によって副作用を回避することは慣用の手法であるから,所望の治療効果を達成しつつ副作用を回避し得る低用量で経口投与することの強い動機付けがあったというべきである。
⑵ 1mg/日以下の用量の選択に対する阻害要因について
前記1〔被告テバの主張〕のとおり,①ヒトの頭皮に局在するのは,5α-レダクターゼ1であること,②フィナステライドは,5α-レダクターゼ2阻害剤であり,5α-レダクターゼ1に対する阻害能力は低いことは,本件優先日当時,当業者一般に知られた技術常識としては確立していなかった。したがって,原告の主張は,その前提において誤りがある。
⑶ 引用例1と引用例2から5とを組み合わせる動機付けの欠如について
前記3〔被告テバの主張〕のとおり,引用例1は,血清DHTの減少を指標として毛髪成長を検討するものであるから,引用例1に接した当業者は,フィナステライドによる血清DHTの減少と毛髪成長の間に密接な関連があることを認識することができる。また,本件優先日前に刊行された甲第38号証においても,「血中濃度は,おそらく,組織におけるDHT濃度のヒント」になると記載されている。
他方,前記3〔被告テバの主張〕のとおり,引用例2から5は,アンドロゲン過剰疾患である良性前立腺肥大症について,血中DHT濃度を低下させつつフィナステライドの治療効果を観察するものである。
したがって,引用例1は,アンドロゲン過剰疾患であるアンドロゲン脱毛症について,フィナステライドを投与し,血清DHTの減少を指標として毛髪成長を観察するものであり,他方,引用例2から5は,同じくアンドロゲン過剰疾患である良性前立腺肥大症について,フィナステライドを投与し,血中DHT濃度を低下させつつ,治療効果を観察するものであるから 当業者は,本件優先日当時,引用例1において引用例2から5に示された1mg/日前後又はより少量の投与量を参考にしつつ,フィナステライドの経口投与の単位用量を設定する動機付けを有していたということができる。
6 取消事由6(顕著な効果を看過した誤り)について
〔原告の主張〕
本件発明の効果は,本件優先日当時の技術水準から予測される範囲を超えた顕著なものであり,この点を看過した本件審決の認定・判断は,誤りである。
⑴ 本件発明の効果について
ア 0.05~1mg/日という少量のフィナステライドの投与によってアンドロゲン脱毛症の治療効果が得られたことについて
(ア) 本件明細書中の実施例4の記載から,当業者は,1mg/日又は0.2mg/日の5α-レダクターゼ2阻害剤(フィナステライドを含む)の投与が,アンドロゲン脱毛症患者の髪の成長を促進する旨を認識することができる。
本件明細書中の実施例5の記載は,フィナステライドの経口投与につき,0.2mg/日又は1mg/日の用量が,5mg/日の用量と同様にアンドロゲン脱毛症の治療効果を奏したことを示している。
(イ) 男性型脱毛症診療ガイドライン(2010年版)において,フィナステライドの内服は,脱毛症の男性症例に対する内服療法の第一選択薬として強く推奨されている。
また,甲第47号証及び甲第48号証の論文には,1mg/日又は1.25mg/日のフィナステライド経口剤が,アンドロゲン脱毛症に対して,従前からその治療剤に使用されていた外用ミノキシジル2%よりも優れた治療効果を奏することが示されている。
これらは,前記(ア)の効果が顕著なものであることの証左といえる。
イ 従来のアンドロゲン脱毛症の治療剤とは異なり,経口投与を選択したことによって患者の生活の質が向上したことについて
外用ミノキシジルは,直接頭皮に塗ることから,①適用後,一定の時間は洗髪等を控えなければならないという制約があり,②また,毛髪が油っぽくなり,好ましくない生理的状態又は外観上の変化を生じさせる上,③副作用としてしばしば頭皮のかゆみをもたらすという問題点があった。
これに対し,本件発明においては,上記のような問題点がないという利点がある。
ウ 低用量の採用によって経口投与による副作用を低減させたことについて
フィナステライドは男性ホルモンの血中濃度を低下させる作用を有するので,前記3〔原告の主張〕のとおり,経口投与については副作用が懸念されるところ,本件発明は,0.05~1mg/日という低用量を採用したことによって,副作用を低減することができた。
⑵ 本件発明の効果が,本件優先日当時の技術水準から予測される範囲を超えたものであることについて
ア 0.05~1mg/日という少量のフィナステライドの投与によってアンドロゲン脱毛症の治療効果が得られたことについて
(ア) 本件優先日当時,臨床上,フィナステライドがアンドロゲン脱毛症の治療に有効であることを示した文献はなかった。引用例1は,本件優先日当時に存在したフィナステライドの増毛作用に関する唯一の論文であるが,前記1及び4の各〔原告の主張〕のとおり,引用発明に係る実験の結果は,フィナステライドが禿頭症のサルに対して有意な増毛作用を及ぼすことを示すものではなく,加えて,当業者は,引用発明に係る実験において成体雄 stumptail macaque サルで観察された効果を単純にヒトに外挿することはできないと認識していた。したがって,本件優先日当時の技術水準からは,フィナステライドがアンドロゲン脱毛症の治療に有効であること自体,予測することができなかった。
(イ) 前記5〔原告の主張〕のとおり,本件優先日当時,フィナステライドはヒトの頭皮に局在する5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低く,アンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという知見を前提として,アンドロゲン脱毛症の治療に必要なフィナステライドの用量は,良性前立腺肥大症の治療の臨床用量,すなわち,5mg/日よりも多いことが予測されていた。よって,当業者において,本件優先日当時,フィナステライドにつき,1mg/日以下の用量がアンドロゲン脱毛症の治療に有効であることを予測することはできず,前記⑴のとおり従来技術の外用ミノキシジルよりも優れた効果を奏することは,予測し得なかった。
イ 従来のアンドロゲン脱毛症の治療剤とは異なり,経口投与を選択したことによって患者の生活の質が向上したことについて
前記3〔原告の主張〕のとおり,仮に当業者が本件優先日当時においてアンドロゲン脱毛症の治療にフィナステライドの処方を試みたとしても,当時の技術水準から,生活改善薬としては深刻な副作用のリスクをもたらす経口投与を回避したはずである。当業者において,本件優先日当時,フィナステライドにつき経口剤とすることを予測し得なかった以上,前記⑴イの経口投与を選択したことによる効果も,当時の当業者の予測を超えるものであったというべきである。
ウ 低用量の採用によって経口投与による副作用を低減させたことについて
上記効果が本件優先日当時の当業者の予測を超えるものであったことは,平成21年4月3日に開催された第6回先端医療特許検討委員会議事録の記載からも推認することができる。
〔被告マイランの主張〕
⑴ 本件発明の効果について
ア 0.05~1mg/日という少量のフィナステライドの投与によってアンドロゲン脱毛症の治療効果が得られたことについて
(ア) 本件明細書中の実施例4及び5には,実験の手順及び評価方法は記載されているが,評価結果については結論のみが記載されており,具体的な実験結果や薬理データは開示されていない。このような記載からは,当業者において本件発明の作用効果を認識することは困難である。
(イ) 原告が掲げる男性型脱毛診療ガイドライン(2010年版)並びに甲第47号証及び甲第48号証の論文は,いずれも本件優先日後の文献であり,本件優先日当時の技術常識を示すものではない。
イ 副作用の低減について
本件明細書には副作用の低減が本件発明の効果である旨の記載はなく,したがって,副作用の低減は,本件特許の進歩性を基礎付けるものではない。
⑵ 本件発明の効果が,本件優先日当時の技術水準から予測される範囲を超えたものであることについて
ア 前記3〔被告マイランの主張〕のとおり,本件優先日当時,フィナステライドの経口投与による増毛効果は,引用発明に係る実験において実証されていた上,フィナステライドを有効成分とする前立腺肥大症の経口投与製剤としてPROSCARが原告から上市されていたのであるから,フィナステライドを経口投与する構成は,本件発明において新たに選択されたものではない。したがって,経口投与の構成の選択による効果は,当業者の予測を超えるものではない。
イ 低用量を採用して副作用を低減するという選択は,当業者にとって,通常の創作能力の発揮にすぎない。
〔被告テバの主張〕
⑴ 本件発明の効果について
ア 0.05~1mg/日という少量のフィナステライドの投与によってアンドロゲン脱毛症の治療効果が得られたことについて
本件発明1の0.05~1mg/日の下限値は,実施例にデータの開示がなく,何ら臨界的意義を有しないものであるから,本件発明1に顕著な効果がないことは明らかである。
イ 従来のアンドロゲン脱毛症の治療剤とは異なり,経口投与を選択したことによって患者の生活の質が向上したことについて
経口投与の効果は,本件明細書に記載されていないのであるから,これを進歩性の根拠とすることはできない。
⑵ 本件発明の効果が,本件優先日当時の技術水準から予測される範囲を超えたものであることについて
ア 0.05~1mg/日という少量のフィナステライドの投与によってアンドロゲン脱毛症の治療効果が得られたことについて
(ア) 前記3〔被告テバの主張〕のとおり,本件優先日当時,フィナステライドがヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に有効であることは,既に周知されていた。
(イ) 前記1〔被告テバの主張〕のとおり,本件優先日当時,ヒトの頭皮に5α-レダクターゼ1が局在すること及びフィナステライドは5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低いことは,技術常識として確立していなかった。
他方,5mg/日以上のフィナステライドの投与によってヒトのアンドロゲン脱毛症の治療が可能であることは,本件優先日前から知られており,当業者において,安全かつ有効な医薬の投与量を検討して設定することは容易であった上,前記5〔被告テバの主張〕のとおり,1mg/日前後又はより少量のフィナステライドがアンドロゲン脱毛症の治療効果を発揮することを予測することができた。
したがって,本件明細書の実施例4及び5に記載されている効果は,当業者の予測し得る程度のもので,格別に顕著なものではない。
イ 従来のアンドロゲン脱毛症の治療剤とは異なり,経口投与を選択したことによって患者の生活の質が向上したことについて
前記⑴のとおり,本件明細書に記載されていない経口投与の効果を進歩性の根拠とすることはできない上,前記3〔被告テバの主張〕のとおり,本件優先日当時,経口投与の選択を阻害する要因は存在しなかったのであるから,原告の主張は,前提を欠く。
第4当裁判所の判断
1 本件発明1について
⑴ 本件発明1に係る特許請求の範囲は,前記第2の2【請求項1】のとおりであるところ,本件明細書(甲42)の発明の詳細な説明には,おおむね,次の記載がある。
ア 発明の分野(2頁13行目~15行目)
本発明は,男性部分禿頭症を含むアンドロゲン脱毛症の5α-レダクターゼアイソザイム2阻害剤となる化合物による治療に関するものである。
イ 発明の背景(2頁16行目~3頁下から11行目)
(ア) 男性部分禿頭症等を含むアンドロゲン脱毛症,良性前立腺過形成のようなある種の望ましくない生理学的兆候は,テストステロン(T)又は類似アンドロゲンホルモンの代謝系への過剰蓄積によって生ずるアンドロゲン過剰刺激の結果である。
ある標的器官(例えば前立腺)におけるアンドロゲン活性の主要メディエーターは,テストステロン-5α-レダクターゼの作用により標的器官内に局所的に生成される5α-ジヒドロテストステロン(DHT)である。テストステロン-5α-レダクターゼの阻害剤は,このような標的器官におけるアンドロゲン過剰刺激の症状の予防又は緩和に役立つ。
皮膚組織,特に頭皮組織と相互作用する第2の5α-レダクターゼアイソザイムの存在は,公知である。
主に皮膚組織で相互作用するアイソザイムを5α-レダクターゼ1(又は1型5α-レダクターゼ)と称し,主に前立腺組織内で相互作用するアイソザイムを5α-レダクターゼ2(又は2型5α-レダクターゼ)と称する。
(イ) PROSCARの商品名で本出願人から市販されているフィナステライド(17β-(N-t-ブチルカルバモイル)-4-アザ-5α-アンドロスト-1-エン-3-オン)は,5α-レダクターゼ2の阻害剤であり,アンドロゲン過剰症状の治療に有用であることが知られており,現在,米国や世界中で良性前立腺過形成の治療用に市販されている。
アンドロゲン脱毛症や前立腺ガンの治療におけるフィナステライドの有用性は,ヨーロッパ特許第0285382号(甲30)等の文献に例示されており,同例示に係る特定用量は,患者1人当たり5~2000mg/日の範囲である。
(ウ) 男性部分禿頭症を含むアンドロゲン脱毛症や他のアンドロゲン過剰症状の治療においては,患者にできるだけ最低量の医薬化合物を投与して治療効力を維持することが望ましい。本発明者らは,予期に反して,1日用量を少量にした5α-レダクターゼ2阻害剤がアンドロゲン脱毛症の治療に特に有用であるという知見を見いだした。
ウ 発明の詳細な説明(3頁下から10行目~8頁4行目)
(ア) 本発明は,アンドロゲン脱毛症を治療及び/又は回復させ,髪の成長を促進する方法等を包含し,その方法は,治療を必要とする患者に5mg/日未満の用量の5α-レダクターゼ2阻害剤を投与することから成る。
本発明の一態様は,0.01~3.0mg/日の用量の5α-レダクターゼ2阻害剤を投与するというものである。この実施態様のあるクラスでは,0.05~1.0mg/日の用量の5α-レダクターゼ2阻害剤を投与し,サブクラスでは,約0.05~0.2mg/日の用量の5α-レダクターゼ2阻害剤を投与する。このサブクラスの例としては約0.05,0.1,0.15及び0.2mg/日の用量が挙げられ,特に0.05及び0.2mg/日の用量が挙げられる。
(イ) 本発明の第2の態様は,アンドロゲン脱毛症の治療方法であり,構造式I
file_2.jpg(式中,R1は,水素,メチル又はエチルであり,R2は,1個から12個の炭素を有する直鎖及び分枝鎖アルキル又は1,2個の炭素原子を有する1個以上の低級アルキル置換基及び/若しくは1個以上のハロゲン(Cl,F又はBr)置換基を任意に含む単環式アリールの中から選択される炭化水素ラジカルであり,R'は,水素又はメチルであり,R''は,水素又はβ-メチルであり,R'''は,水素,α-メチル又はβ-メチルである。)で表される5α-レダクターゼ2阻害剤化合物又はその医薬的に許容可能な塩を投与することから成る。
本発明で使用できる代表的な化合物は,17β-(N-t-ブチルカルバモイル)-4-アザ-5α-アンドロスト-1-エン-3-オン(フィナステライド)である。
構造式Iの化合物は,当業界でよく知られた手順に従って合成することができる。化合物のフィナステライドは,現在,本出願人から処方薬剤として市販されている。
(ウ) 本発明は,5mg/日未満,特に約0.01~3.0mg/日,更には,0.05~1mg/日の用量の5α-レダクターゼ2阻害剤を全身,経口,非経口又は局所投与することから成る,アンドロゲン脱毛症等のアンドロゲン過剰症状の治療方法を提供することを目的とする。さらに,本発明は,約0.05~0.2mg/日,特に,約0.05,0.1,0.15及び0.2mg/日の用量で例示される。本発明の例としては,0.05mg/日及び0.2mg/日の用量が挙げられる。「アンドロゲン脱毛症の治療」という用語は,アンドロゲン脱毛症の進行を阻止し及び/又は回復させ,髪の成長を促進することを意味するものとする。
さらには,アンドロゲン脱毛症の治療のために,5mg/日未満の用量の5α-レダクターゼ2阻害剤(例えばフィナステライド)を,ミノキシジル又はその医薬的に許容可能な塩のようなカリウム通路オープナーと併用することができる。5α-レダクターゼ2阻害剤とカリウム通路オープナーを共に局所投与してもよいし,各薬剤を異なる投与経路で投与してもよい。例えば5α-レダクターゼ2阻害剤を経口投与し,カリウム通路オープナーを局所投与することができる。
(エ) 本発明は,さらに,本発明の新規治療方法に使用するのに適した全身,経口,非経口及び局所医薬処方物の提供を目的とする。経口投与の場合,例えば治療すべき患者に対する用量を症状によって調整するため,0.01,0.05,0.1,0.2,1.0,2.0及び3.0mgの活性成分を含む錠剤の形態で組成物を提供することができる。
(オ) 本発明の化合物を使用する投与計画は,患者のタイプ,種,年齢,体重,性別及び医学的症状,治療すべき症状の重症度,投与経路,患者の腎及び肝機能並びに使用する特定化合物を含む様々な要因に応じて選択される。通常の医師又は獣医であれば,症状の進行を防止,阻止,停止又は逆行させるのに必要な有効量の薬剤を容易に決定して処方することができる。薬剤濃度を,毒性を生じずに効力をもたらす範囲内で最適に決定するには,標的部位に対する薬剤利用率の動力学に基づく計画が必要である。これは,薬剤の体内分布,平衡及び除去の考察を含む。
本発明の方法によって5α-レダクターゼ2阻害剤化合物が活性成分を生成することができ,通常意図する投与形態(すなわち,経口錠剤,カプセル剤,エリキシル剤,シロップ剤等)に対して適切に選択され,従来の医薬診療に対応した適切な医薬希釈剤,賦形剤又はキャリヤー(「キャリヤー」材料)と混合して投与される。
エ 実施例(8頁5行目~12頁8行目)
(ア) 実施例4
患者1人当たり5mg/日未満,例えば1mg/日又は0.2mg/日の用量のフィナステライドを含む5α-レダクターゼ2阻害剤の投与がアンドロゲン脱毛症の治療に有用であり,このような症状を示す患者の髪の成長を促進することが分かる。
(イ) 実施例5
別の試験では,男性部分禿頭症の男性に対して6ケ月間にわたり,0.2mg/日,1.0mg/日及び5.0mg/日の用量のフィナステライドを経口投与した。この試験の結果によれば,被験者の頭皮組織中のDHT含量は大幅に低下した。
⑵ 本件発明1の特徴
前記⑴によれば,本件発明1の特徴は,以下のとおりである。
ア 本件発明1は,男性部分禿頭症を含むヒトにおけるアンドロゲン脱毛症の5α-レダクターゼアイソザイム2阻害剤となる化合物による治療に関するものである(前記⑴ア)。
イ 男性部分禿頭症等を含むアンドロゲン脱毛症や良性前立腺過形成などの望ましくない生理学的兆候は,テストステロン(T)又は類似アンドロゲンホルモンの代謝系への過剰蓄積によって生ずるアンドロゲン過剰刺激の結果である。
5α-レダクターゼは,テストステロン(T)をアンドロゲン活性の主要メディエーターであるジヒドロテストステロン(DHT)に変換する酵素であり,①主に皮膚組織,特に頭皮組織と相互作用する5α-レダクターゼ1(1型5α-レダクターゼ)及び②主に前立腺組織内で相互作用する5α-レダクターゼ2(2型5α-レダクターゼ)という2つのアイソザイムの存在が知られている。
5α-レダクターゼの阻害剤は,上記のテストステロンからDHTへの変換を阻害するものであり,DHTが前立腺等の標的器官内に局所的に生成されるのを阻害して,アンドロゲン過剰刺激の症状の予防又は緩和に役立つものである(前記⑴イ(ア))。
PROSCARの商品名で本出願人が販売しているフィナステライド(17β-(N-t-ブチルカルバモイル)-4-アザ-5α-アンドロスト-1-エン-3-オン)は,5α-レダクターゼ2の阻害剤であり,アンドロゲン過剰症状の治療に有用であることが知られており,現在,良性前立腺過形成の治療用に市販されている。
フィナステライドについては,甲第30号証等の文献において,アンドロゲン脱毛症の治療にも有用であることが記載されているところ,同例示に係る特定用量は,患者1人当たり5~2000mg/日の範囲である(前記⑴イ(イ))。
ウ アンドロゲン脱毛症等のアンドロゲン過剰症状の治療においては,患者にできるだけ最低量の医薬化合物を投与して治療効力を維持することが望ましい。本件発明1の発明者らは,1日当たりの用量を少量にした5α-レダクターゼ2阻害剤がアンドロゲン脱毛症の治療に特に有用であるという知見を見いだした(前記⑴イ(ウ))。
本件発明1は,0.05~1mg/日の用量の5α-レダクターゼ2阻害剤を経口投与することから成るアンドロゲン脱毛症の治療方法の使用に適した経口医薬処方物の提供を目的とする(前記⑴ウ(ウ),(エ))。
エ 本件発明1は,ヒトにおけるアンドロゲン脱毛症の治療,すなわち,進行を阻止及び/又は回復させ,髪の成長を促進する方法等を包含し,その方法は,治療を必要とする患者に0.05~1.0mg/日の用量の5α-レダクターゼ2阻害剤を投与することから成る。
本件発明1において使用できる代表的な化合物は,17β-(N-t-ブチルカルバモイル)-4-アザ-5α-アンドロスト-1-エン-3-オン(フィナステライド)である。
経口投与に当たり,例えば治療すべき患者に対する用量を症状によって調整するため,0.01,0.05,0.1,0.2,1.0mgの活性成分を含む錠剤の形態で組成物を提供することができる。
5α-レダクターゼ2阻害剤(例えばフィナステライド)を,ミノキシジル又はその医薬的に許容可能な塩のようなカリウム通路オープナーと併用することができる(前記⑴ウ(ア)~(エ))。
オ 本件発明1の方法によって,5α-レダクターゼ2阻害剤化合物が活性成分を生成することができ,通常意図する投与形態(すなわち,経口錠剤,カプセル剤,エリキシル剤,シロップ剤等)に対して適切に選択され,従来の医薬診療に対応した適切な医薬希釈剤,賦形剤又はキャリヤー(「キャリヤー」材料)と混合して投与される。
本件発明1の化合物を使用する投与計画は,患者のタイプ,種,年齢,体重,性別及び医学的症状,治療すべき症状の重症度,投与経路,患者の腎及び肝機能並びに使用する特定化合物を含む様々な要因に応じて選択される。通常の医師又は獣医であれば,症状の進行を防止,阻止,停止又は逆行させるのに必要な有効量の薬剤を容易に決定して処方することができる。薬剤濃度を,毒性を生じずに効力をもたらす範囲内で最適に決定するには,標的部位に対する薬剤利用率の動力学に基づく計画が必要である。これは,薬剤の体内分布,平衡及び除去の考察を含む(前記⑴ウ(オ))。
2 取消事由1(引用発明の認定の誤り)について
原告は,引用例1の全体の記載に接した当業者は,同引用例をもって,フィナステライドが stumptail macaque サルにおける毛髪成長をミノキシジル単独によって誘導されるレベルまで刺激したことを示唆するものとは理解しないとして,本件審決による引用発明の認定は誤りである旨主張する。
⑴ 引用例1の記載内容
引用例1には,以下のとおり記載されている(甲1。下記記載中に引用する図1及び表2については,別紙参照)。
ア 表題
「禿げかかった Stumptail macaque における,ステロイド5α-レダクターゼ阻害剤であるフィナステリド単独,または局所用ミノキシジルと組み合わせたフィナステリドの経口投与の毛髪成長効果」
イ 要約
(ア) 「5α-レダクターゼ阻害剤であるフィナステリドを,単独で,または局所用2%ミノキシジルと組み合わせて0.5mg/日にて20週間経口投与して,禿げかかった成体雄ベニガオサルにおける頭皮毛髪成長に対する効果を明らかにした。7日用量設定実験は,該薬物の0.5mgおよび2.0mg用量の双方が,雄stumptail macaque において血清ジヒドロテストステロン(DHT)の同様な減少を生じさせたことを示した。…フィナステリドは,5匹のサルのうち4匹において,毛髪の重量を増加させた。1匹の非応答性サルのデータを除外すると,フィナステリドは,局所用ビークル単独と比較して,毛髪重量の有意な上昇を誘導した。ミノキシジルもまた,ビークル単独と比較して,毛髪重量の有意な増加を喚起した。血清Tは変化せず,他方,血清DHTは,フィナステリド,またはフィナステリドおよびミノキシジルの組合せのいずれかを受けたサルにおいて有意に低下した。これらのデータは,この5α-レダクターゼ阻害剤によるTのDHTへの変換の阻害が,雄の禿げかかった stumptail macaque において,禿げるプロセスを逆行させ,局所用ミノキシジルによる毛髪の再成長を増強させることを示唆する。」
(イ) 「アンドロゲンは,ヒト男性型禿頭症に密接に関与する。…成人性腺機能低下性男性にテストステロン(T)を投与すると,頭髪脱毛が起こる。禿げかかった頭皮における活性なアンドロゲンは,5α-レダクターゼ酵素の活性を通じて,Tから生産されるジヒドロテストステロン(DHT)であるように見える。これは,禿げかかった男性の前頭部頭皮における上昇した5α-レダクターゼレベルおよび5α-レダクターゼ欠乏症に罹ったヒト男性における毛髪喪失の欠如によって強められる。…5α-レダクターゼ阻害剤は5α-レダクターゼ酵素の活性を減少させ,前立腺および皮膚においてDHTを低下させる。5α-レダクターゼ阻害剤はTのその受容体への結合をブロックしないので,これらの剤は,ヒト男性において性的な問題を引き起こすと報告されたことはない。5α-レダクターゼ阻害剤は,アンドロゲン性脱毛症の患者において評価されたことがない。しかしながら,5α-レダクターゼ阻害剤であるN,N-ジエチル-4-メチル-3-オキソ-4-アザ-5α-アンドロスタン-17β-カルボキサミド(4-MA)は,ヒト脱毛症の十分に確立したアンドロゲン-依存性モデルである stumptail macaque に局所投与された場合に禿頭症を妨げた。5α-レダクターゼ酵素の阻害が,禿げかかったstumptail macaque またはヒトにおいて毛髪を成長させることができるか否かは知られていない。」
(ウ) 「stumptail macaque およびヒトにおける禿頭の病因は,同様であって,毛髪成長薬物ミノキシジルの慢性局所投与によって両方の種において特に可逆的であるように見える。従って,stumptail macaque は,5α-レダクターゼ阻害剤が毛髪を成長させ,またはミノキシジル-誘導毛髪成長を増強できるか否かを評価するための適切なモデルであるようであった。フィナステリドでの前臨床経験および臨床経験(判決注:「前臨床お経験よび」は,明白な誤記と思料する。)のため,stumptail macaque の試験には,この5α-レダクターゼ阻害剤を選択した。この実験は,禿げかかっている成体雄 stumptail macaque の頭皮による毛髪生産に対する,0.5mgのフィナステリド,局所用2%ミノキシジル,およびフィナステリド-ミノキシジル混合物を経口投与により20週間治療した場合の効果を比較するために設計した。」
ウ 材料及び方法
(ア) 動物
「年齢不明の10匹の成体雄の禿げかかった stumptail macaque(マカカ スペシオーサ;Macaca speciosa)(体重,9.9-14.0kg)を,7日経口フィナステリド用量設定試験のために…選択した。…これらの10匹の動物および該群体からの11匹の他の成体雄の禿げかかった stumptail macaque(体重,9.5-15.4kg)を,20週間の毛髪成長実験に組み入れた。全ての動物の頭皮は,まばらな末端毛髪および産毛の優勢によって特徴付けられる前頭部脱毛を呈した。」
(イ) 処理群
「経口フィナステリド用量設定試験では,5匹のサルを,10kgの概算体重に基づいて,0.05mg/kg用量群または0.2mg/kg用量群のいずれかに無作為に割り当てた。これらの用量は,経口投与を用いる臨床試験から外挿した。
毛髪成長実験では,21匹のサルを,予備処理頭皮毛髪重量データに基づいて群に割り当てた。これらのデータは,以下の毛髪収集の方法の下で記載されているように,投与の開始の4週間前に毛髪収集から得られた。この割当てにより,各群についての平均予備処理毛髪重量を確実に比較することができた。サルを4つの群:局所用ビークル(n=6),局所用2%ミノキシジル(n=5),局所用ビークルと組み合わせた経口0.5mgフィナステリド(n=5),および局所用2%ミノキシジルと組み合わせた経口0.5mgフィナステリド(n=5)のうちの1つに入れた。経口用量設定試験で用いた10匹の動物を,これらの4つの処理群に割り振った。」
(ウ) 試験材料及び投与の方法
「フィナステリドを毎日秤量し,リンゴのスライスに塗布し,および経口摂取のために各サルに与えた。…
毛髪成長実験では,(重量で)2%のミノキシジルを,容量で,50%のプロピレングリコール,30%の無水エタノールおよび20%の水よりなるビークルに溶解させた。フィナステリドを前記したように投与した。…サルに,20週間の間,1週間当たり7日,1日当たり1回投与した。」
(エ) 統計学
「データは平均±SEMとして表した。…偏差の分析を,累積Δ毛髪重量測定(ベースラインからの毛髪重量の4週間変化の総和)の順位について行った。この4群にみられる差を,不対データについての非パラメータウィルコクソン順位和検定(両側)によって決定した。変化は,P<0.05にて統計学的に有意であると考えられた。」
エ 結果
(ア) 7日用量設定試験
「(フィナステリドを0.5mgまたは2.0mgのいずれかを投与してから7日後の血清TおよびDHTにおいて,)Tの有意な上昇およびDHTの顕著な低下が双方の用量によって誘導された。いずれの用量とも,DHTの減少がほぼ同じであったことから,0.5mg用量を,20週間の毛髪成長実験のために選択した。」
(イ) 20週間の毛髪成長実験
a 「20週間実験にわたるベースラインからの累積変化として表した,剃った頭皮毛髪の重量に対するフィナステリドおよびミノキシジルの効果を図1に示す。…ミノキシジルを単独で投与したところ,ビークルと比較して,全アッセイにわたって毛髪重量が有意に増加した(4.4±1.0vs.-1.3±1.5mg/平方インチ;P<0.05;図1)。…フィナステリドおよびビークルを併用投与した5匹のサルのうち4匹は,全アッセイにわたって毛髪重量の増加を示した。ビークルを単独で投与した場合と比較した該群についての平均は,実質的な負の4-週Δ毛髪重量を呈した1匹のサルのため,統計学的に有意ではなく(2.2±3.6vs.-1.3±1.5mg/平方インチ;P=0.17;図1),かくして,非応答体であるように見えた。このサルのデータを削除すれば,ビークル群より,併用投与群の方が,毛髪重量の有意な促進が明らかであった(5.7±1.2vs.-1.3±1.5mg/平方インチ;P<0.05;図1)。」
b 「表2は20週間実験の間中のTおよびDTHに対する処理の効果を表し…ベースラインと比較して,血清Tは4つの群のいずれにおいても変化しなかった。フィナステリドと,ビークルまたはミノキシジルとを併用したことにより,血清DHTが有意に減少した。負のΔ毛髪重量を生じた1匹のサルは,フィナステリドおよびビークルを併用投与した他の4匹のサルと比較してDHTの同様な低下を呈した。」
オ 考察
(ア) 「用量設定試験および毛髪成長実験双方の内分泌データから,フィナステリドの連日経口投与による5α-レダクターゼ酵素の全身阻害が,雄 stumptailmacaque において血清DHTの迅速かつ長期の低下を引き起こしたことがわかった。同様な知見が臨床試験において生じており,そこでは,血清DHTはフィナステリドでの処理の24時間後,14日後または6か月後に低下した。…この知見は,フィナステリドによるDHTの低下を強める傾向がある。用量設定試験において,血清Tは双方の用量のフィナステリドによって有意に上昇されたが,毛髪成長実験においては不変であった。14日臨床試験でも1mgフィナステリドを経口投与したところ,8日目を通じて血清Tがわずかに増加した後,14日目までにベースライン値まで回復した。しかしながら,フィナステリドでの他の長期臨床実験は血清Tに対する効果を示したことがない。…フィナステリドによって,前立腺および皮膚において5α-レダクターゼ酵素の阻害が生じる可能性がある。これは,経口フィナステリドが男性における血清および前立腺組織DHTレベルの双方の顕著な抑制を惹起するという事実によって裏付けられる。」
(イ) 「本研究の結果は,フィナステリドが,stumptail macaque における毛髪成長をミノキシジル単独によって誘導されるレベルまで刺激したことを示唆する。しかしながら,フィナステリドのこの効果は,1匹の非応答体サルの毛髪重量データを削除した場合のみ明らかであった。この動物による応答の欠如は,アンドロゲンレベルの異常によるものではないように思われる。というのは,血清DHTの減少は,該群における他の4匹の動物のそれと合致したからである。これらのデータは,DHTの抑制が確立された禿頭症を逆行させ,およびこの動物モデルにおいて従前に観察されたアンドロゲン性脱毛症を予防することを暗示する。事例報告は,去勢または化学的抗アンドロゲン物質が禿げかかった男性において中程度の毛髪成長を刺激すると推測するが,これらは,主観的データおよび対照の欠如のため説得性が無い。抗アンドロゲン物質(すなわち,アンドロゲン受容体ブロッカー)による男性型禿頭症の逆行は,女性化効果および性的機能への干渉のため追及されてこなかった。5α-レダクターゼ阻害剤フィナステリドはヒト男性に性的副作用を引き起こさなかったため,この抗アンドロゲン物質は,男性型禿頭症の治療のための有望な療法となっている。現在の研究では,確実に送達され,臨床試験で報告された血清DHTの減少が再現されるよう,フィナステリドを経口投与している。局所製剤を開発して,該薬物を皮膚に標的化し,それにより,アンドロゲンの全身改変なくして毛嚢においてDHT(判決注:「GHT」は,明白な誤記と思料する。)を降下させるのが賢明であろう。」
⑵ 引用発明の認定
ア 前記⑴のとおり,引用例1には,①禿げかかった5匹の成体雄 stumptailmacaque サルに対して,20週間にわたり,1週間当たり7日,1日1回,0.5mgのフィナステライドをリンゴのスライスに塗布して経口投与するとともに,容量で50%のプロピレングリコール,30%の無水エタノール及び20%の水から成る局所用ビークルを塗布したところ(引用発明に係る実験),うち4匹のサルは,剃った頭皮毛髪重量に係るベースラインからの累積変化において,累積デルタ毛髪重量約6mg/平方インチを示し,その余の1匹のサルは,実質的な4-週Δ毛髪重量を呈し,非応答であったことが記載されている(前記⑴ウ,エ)。したがって,引用例1に,本件審決が認定した引用発明(前記第2の3⑵)のうち,「0.5mg/日にて経口投与するフィナステライドおよびリンゴのスライスより成る,禿げかかった成体雄 stumptail macaque サルにおいて5頭のうち4頭が頭皮毛髪重量の増加を示し,1頭は非応答であったこと」が記載されているということができる。
また,引用例1には,②禿げかかった5匹の成体雄 stumptail macaque サルに対して,局所用2%ミノキシジルを,前記①と同様の条件で,すなわち,局所用ビークルと共に,20週間にわたり,1週間当たり7日,1日1回塗布したところ,上記5匹のサルは,累積デルタ毛髪重量約4mg/平方インチを示したこと(前記⑴ウ,エ)が記載されており,さらに,③上記①及び②の結果の考察として,「本研究の結果は,フィナステリドが,stumptail macaque における毛髪成長をミノキシジル単独によって誘導されるレベルまで刺激したことを示唆する。」(前記⑴オ(イ))との記載がある。このように,引用例1に,本件審決が認定した引用発明(前記第2の3⑵)のうち,「当該サル(前記の頭皮毛髪重量の増加を示した4頭のサル)における毛髪成長をミノキシジル単独によって誘導されるレベルまで刺激したことを示唆する」が記載されている。
イ 以上によれば,引用例1には,本件審決が認定したとおりの引用発明(前記第2の3⑵)が記載されていることが認められる。
⑶ 原告の主張について
ア 原告は,甲第32号証を根拠として,実験データの中で他とかけ離れた値を示す「はずれ値」を含めた結果と除外した結果とが異なる場合,当該実験結果の信頼性が疑われることになることを前提として,当業者は,本件優先日当時,引用発明に係る実験の結果からフィナステライドが禿頭症のサルに対して有意な増毛作用を及ぼすことを認識することはできなかった旨主張する。
なるほど,引用例1には,フィナステライドとビークルを投与した5匹のサルにおける毛髪重量の増加は,1匹の非応答体のために,ビークルを単独で投与した群と比較した場合の差が統計学的に有意ではなく,上記非応答体のデータを削除すれば,ビークル群に比して毛髪重量の有意な促進が明らかであった旨が記載されている(前記⑴エ(イ))。
しかし,山中伸弥ほか「分子生物学,生化学,細胞生物学における統計のポイント 医療統計学の専門家を交えた鼎談」(甲32)には,概要,「統計学の教科書は,基本的にデータ数が多くあることを前提としているが,サンプル数が3や4のように少ない場合は,平均値や標準偏差値を算出することにあまり意味はない」旨の記載があり,これによれば,サンプル数を5匹とする引用発明に係る実験の結果において,上記のとおり1匹の非応答体のデータを含めるか否かによって,毛髪重量の増加についてビークル群との統計学的な有意差の有無が変わってくるとしても,それは,直ちに上記結果の信頼性を疑わせるものとまではいえない。
また,一般に,医薬の有効性を評価する臨床試験においては,被験体の個体差等から,非応答体が存在する例はあり(丙12),現に,本件優先日当時,男性型禿頭症の治療に有効であることが知られていたミノキシジルについても,①男性型脱毛症に対する2%のミノキシジル溶液を局所投与した実験において,「毛がほとんど生えないことを示した患者」がいたこと(甲28),②男性型脱毛症における局所ミノキシジルの用量反応試験において,0.01%を投与した患者16名中6名,0.1%を投与した患者16名中8名,1%を投与した患者19名中3名,2%を投与した患者19名中1名につき,治験医師が毛髪成長なしと評価したこと(丙11)が,先行の公知文献に記載されている。
加えて,引用発明に係る実験において,被験体である5匹のサルのうち4匹が頭皮毛髪重量の増加を示したということは,被験体の80%において増毛効果が確認されたことを示すものにほかならず,当業者は,この結果を,フィナステライドの薬効を肯定する方向に働く事実として捉えるものと考えるのが自然である。
以上によれば,当業者は,本件優先日当時,引用発明に係る実験において被験体である5匹のサルのうち1匹が非応答であったことのみをもって,同実験の結果からフィナステライドが禿頭症のサルに対して増毛作用を及ぼすことを認識することができなかったとは,考え難い。
イ 原告は,甲第20号証の著者は,引用発明に係る実験の結果が示すフィナステライドの増毛効果は有意なものではなかったと理解している旨主張する。
甲第20号証には,引用発明に係る実験の結果につき,「5頭の雄の stumptailmacaque をフィナステリドで処理した後,毛髪重量において統計学的に有意な効果は存在しなかった。しかし,1頭の応答しなかった動物を除くと,フィナステリドは毛髪成長を刺激することが示された。…本研究は,成熟した雌雄の stumptailmacaque における毛髪成長に対する高用量のフィナステリドの効果を測定するようデザインされた。…可能な効果を最大化させるために,Dianiの研究(判決注:引用例1を指す。)で用いられたものより高い用量でより長い期間処理した。」との記載がある。この記載は,著者が,引用発明に係る実験結果からフィナステライドが禿げかかったサルに対して毛髪成長の効果をもたらし得る旨認識し,フィナステライドの用量を増やすなど薬効を確認する上でより有用と思われる条件を設定して実験したことを示すものというべきである。
したがって,甲第20号証の著者が引用発明に係る実験結果について原告主張のとおり認識していたということはできない。
ウ 原告は,甲第11号証,甲第13号証から甲第18号証,甲第20号証及び甲第21号証に基づき,当業者は,本件優先日当時,フィナステライドは,ヒトの頭皮に局在する5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低いので,アンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという予断を有しており,引用発明に係る実験の結果について,非応答体も含めた5匹全体のデータが対照群と比べて統計学的に有意な効果を示さなかったという解析結果に着目する旨主張する。
(ア) 原告が掲げる書証のうち,本件優先日前に刊行された文献には,概要,以下のとおり記載されている。
a 甲第11号証(平成3年刊行)は,「男性仮性半陰陽におけるステロイド5α-レダクターゼ2遺伝子の欠失」と題する論文であり,①ヒトには少なくとも2つの5α-レダクターゼのアイソザイムが存在すること,②うち5α-レダクターゼ2が,前立腺に存在する主要なアイソザイムであるのに対し,5α-レダクターゼ1は,前立腺における発現量が5α-レダクターゼ2よりもずっと小さいこと,③フィナステライドは,5α-レダクターゼ2に対しては顕著な阻害能力を示すが(50%阻害濃度IC50=30nM),5α-レダクターゼ1に対しては弱い阻害剤であること(IC50=900nM)が記載されている。
b 甲第13号証(平成4年刊行)は,「ヒトの頭皮のステロイド5α-レダクターゼのアイソザイムの特定と選択的阻害」と題する論文であり,①ヒトにおける5α-レダクターゼの2種の異なるアイソザイム,すなわち,前立腺で観察される1つのフォーム及び頭皮で観察されるもう1つのフォームの存在を提案すること,②フィナステライドによる前立腺ホモジネートの阻害活性がIC50で4.2nMであるのに対し,頭皮ホモジネートの阻害活性はIC50で500nMであり,前立腺ホモジネートの阻害活性に比べてかなり低いこと,③5α-レダクターゼ1型活性は,頭皮に存在する主要なレダクターゼ活性であるように思われること,④レダクターゼ阻害剤は,男性型脱毛症等の疾患の治療に有用であるかもしれないが,酵素の違いを前提とすると,単一の阻害剤は適切ではないかもしれないことが記載されている。
c 甲第14号証(平成5年6月刊行)は,「LY191704:ヒトステロイド5α-レダクターゼタイプ1の選択的非ステロイド阻害剤」と題する論文であり,①前立腺細胞は5α-レダクターゼのいずれのアイソザイムも発現する能力を有すること,②培養されている前立腺細胞が5α-レダクターゼタイプ1を発現するという結果は,LY191704が,おそらくフィナステリドのようなタイプ2アイソザイムと組み合わせれば,前立腺過形成の治療に有用であるかもしれないことを示唆すること,③予備的な免疫化学実験の結果は,ヒトにおいては5α-レダクターゼ1が頭皮の主たるアイソザイムであることを示しており,もし,この結果が確認され,かつ,5α-レダクターゼ阻害剤で処理された,禿げている stumptailmacaque サルの毛髪の保持がこの酵素の阻害によるものであるとすれば,LY191704のような選択的タイプ1阻害剤は,前立腺過形成と同様,男性型脱毛症の治療薬として有用であるかもしれないことが記載されている。
d 甲第15号証(平成5年8月刊行)は,「ステロイド5α-レダクターゼアイソザイムの発現の組織分布と個体発生」と題する論文であり,①ジヒドロテストステロンの合成は,タイプ1及び2と指定されるステロイド5α-レダクターゼアイソザイムにより触媒されること,②5α―レダクターゼ2に変異が生じると,男性仮性半陰陽になるが,この疾患の特徴は,思春期には外性器が男性化し,側頭部の毛髪の退行が少ないこと,③2つのアイソザイムの組織特異的な個体発生における発現を免疫ブロットによって研究したところ,タイプ1は,新生児の皮膚と頭皮に一時的に発現され,思春期以降,恒久的に皮膚で発現される,成人の禿げている頭皮と禿げていない頭皮とでタイプ1の発現に量的違いはなかった,タイプ2は,新生児の皮膚と頭皮に一時的に発現されるなどの結果が得られ,これらの結果は,タイプ1がタイプ2欠損患者の思春期における男性化を担っていることと合致し,タイプ2が男性型脱毛症の発生の開始因子であるかもしれないことを示すこと,④タイプ2欠損患者は,側頭部の毛髪の退行が少ないことから,頭皮でのタイプ2の発現のパルスが後年の脱毛症の発症に影響しているかもしれないことが記載されている。
(イ) 前記(ア)によれば,本件優先日当時,①5α-レダクターゼには,5α-レダクターゼ1と5α-レダクターゼ2という2種類のアイソザイムがあり,頭皮に存在する主要なアイソザイムは5α-レダクターゼ1であり,前立腺に存在する主要なアイソザイムは5α-レダクターゼ2であること,②フィナステライドは,5α-レダクターゼ2に対しては強い阻害能を有するが,5α-レダクターゼ1に対しては弱い阻害剤であることが,当業者に知られていたものと推認することができる。
(ウ) しかし,甲第11号証においては,脱毛症への言及自体見られない。また,甲第13号証においては,レダクターゼ阻害剤は,男性型脱毛症等の疾患の治療に有用であるかもしれないが,酵素の違いを前提とすると,単一の阻害剤は適切ではないかもしれないと記載されているにすぎない。加えて,甲第14号証においては,概要「5α-レダクターゼ1がヒトの頭皮の主たるアイソザイムであることを示す予備的な免疫学試験の結果が確認され,かつ,5α-レダクターゼ阻害剤で処理された,禿げている stumptail macaque の毛髪の保持がこの酵素の阻害によるものであるとすれば,」という仮定の下,選択的タイプ1阻害剤が男性型脱毛症の治療薬として有用であるかもしれないという仮説が記載されているにとどまる。さらに,甲第15号証においては,「成人の禿げている頭皮と禿げていない頭皮とでタイプ1の発現に量的違いはなかった」,「タイプ2が男性型脱毛症の発生の開始因子であるかもしれない」,「タイプ2欠損患者は,側頭部の毛髪の退行が少ないことから,頭皮でのタイプ2の発現のパルスが後年の脱毛症の発症に影響しているかもしれない」と,むしろ5α-レダクターゼ2が男性型脱毛症の発生に関与している可能性が明記されている。
以上のとおり,甲11号証,甲第13号証から甲第15号証のいずれにおいても,5α-レダクターゼ1がアンドロゲン脱毛症に関与していることは,明確に示されていない。
(エ) 以上に鑑みると,本件優先日当時の知見において,5α-レダクターゼ1に係るアンドロゲン脱毛症への関与の有無は明らかではなく,したがって,5α-レダクターゼ1に対しては弱い阻害剤であるフィナステライドのアンドロゲン脱毛症に対する治療効果の有無も不明であるから,当業者一般において原告が主張する予断を持つことは考え難い。よって,原告の前記主張は,その前提において誤りがある。
(オ) なお,原告が掲げる甲第16号証から甲第18号証,甲第20号証及び甲第21号証は,いずれも本件優先日後に刊行されたものであって,本件優先日当時における当業者の認識を示すものとは必ずしもいえず,また,それらの書証にも,前記(エ)の結論を揺るがす内容の記載はない。
⑷ 小括
以上によれば,本件審決の引用発明の認定に誤りはなく,原告主張の取消事由1は,理由がない。
3 取消事由2(本件発明1と引用発明との一致点及び相違点の認定の誤り)について
⑴ 前記1及び2によれば,本件発明1と引用発明との間には,本件審決が認定したとおりの一致点(前記第2の3⑶ア)及び相違点(前記第2の3⑶イ)が認められる。
⑵ 原告の主張について
ア 一致点について
原告は,引用発明においては,フィナステライドが5α-レダクターゼ2を阻害するものとして使用され,作用していることは,開示されていないとして,引用発明の「フィナステライド」が本件発明1の「5α-レダクターゼ2阻害剤」に相当することを前提とする本件審決による一致点の認定は,誤りである旨主張する。
しかし,本件特許の本件訂正後の特許請求の範囲請求項1及び本件明細書の発明の詳細な説明の記載によれば,本件発明1の「5α-レダクターゼ2阻害剤」は,医薬組成物に含まれる有効成分を特定する記載であり,5α-レダクターゼ2を阻害することができる化合物を意味するが,有効成分の治療に直接関与する作用機序が5α-レダクターゼ2の阻害であることを特定する記載ではない。
したがって,引用発明に,フィナステライドが5α-レダクターゼ2を阻害するものとして使用され,作用していることが開示されているか否かは,本件発明1との一致点の認定とは関係がない問題であり,原告の前記主張は,その前提において誤りがある。
イ 相違点について
原告は,引用発明に係る実験において,禿げかかった成体雄 stumptail macaqueサルに作用(脱毛症治療)が確認されたことを前提とする本件審決による相違点2の認定は,誤りである旨主張する。
しかし,前記2のとおり,引用例1に記載された引用発明に係る実験の結果は,フィナステライドが,被験体の5匹のサルのうち非応答体の1匹を除く4匹のサルにおける毛髪成長をミノキシジル単独によって誘導されるレベルまで刺激したことを当業者一般に示唆するものというべきであるから,原告の前記主張は,前提において誤りがあり,採用し得ない。
⑶ 小括
以上によれば,本件審決による本件発明1と引用発明との一致点及び相違点の認定に誤りはなく,原告主張の取消事由2は,理由がない。
4 取消事由4(相違点2の判断の誤り)について
事案の内容に鑑み,先に取消事由4について検討する。
⑴ フィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に用いる動機付けについて
ア 「Stumptail Macaque の禿頭症発症に対する5α-レダクターゼの阻害薬N,N-ジエチル-4-メチル-3-オキソ-4-アザ-5α-アンドロスタン-17β-カルボキサミドと抗アンドロゲンの効果」と題する論文(昭和62年刊行。丙8)には,ヒトと完全に類似した禿頭症を呈する動物モデルはなく,思春期以降に前頭部の頭髪が薄くなる stumptail macaque サルは,雌雄両性で禿頭が同程度発生するなどヒトと異なる特徴が見られるとしながらも,「本研究の結果により,DHTの生成及び作用の局所的阻害剤である4-MAが,アンドロゲン依存性脱毛症のマカクサルにおいて脱毛症の発症を抑制できることが証明された。」と記載されている。そして,同記載に係る研究について,「男性型脱毛の臨床と治療」と題する論文(平成5年1月刊行。丙27)には,「男性型脱毛のアニマルモデルとしてベニガオザルに4-MAが外用され,…有効性が確認されている。」と記載されている。
さらに,「男性型禿頭モデルとしての stumptailed macaque」と題する論文(昭和63年刊行。丙9)には,「青年期を過ぎた stumptailed macaque(Macacaarctoides)に発症する前頭部脱毛症は,ヒトの男性型禿頭症に関する研究の有用な動物モデルとして引用されることが多い」,「毛の成長に影響をもたらすアンドロゲン又は他の薬剤の作用をさらに理解するために,stumptailed macaque の前頭部脱毛症は臨床試験及び基礎研究の有用なモデルとして役に立つであろう。」との記載がある。また,「Stump-tailed macaque の一般的な脱毛症の研究(Macacaspeciosa)」と題する論文(昭和46年刊行。丙10)には,「Stump-tailedmacaque に認められる男性型脱毛症はヒトの男性型脱毛症に最も酷似している。」との記載がある。
加えて,引用例1には,前記2⑴イ(イ)のとおり,「ヒト脱毛症の十分に確立したアンドロゲン-依存性モデルである stumptail macaque」と記載されており,また,前記2⑴イ(ウ)のとおり,「stumptail macaque およびヒトにおける禿頭の病因は,同様であって,毛髪成長薬物ミノキシジルの慢性局所投与によって両方の種において特に可逆的であるように見える。従って,stumptail macaque は,5α-レダクターゼ阻害剤が毛髪を成長させ,またはミノキシジル-誘導毛髪成長を増強できるか否かを評価するための適切なモデルであるようであった。」との記載もある。
イ 以上によれば,本件優先日当時,stumptail macaque は,他の動物に比してヒトのアンドロゲン脱毛症に似た脱毛症の症状を示すことから,ヒトのアンドロゲン脱毛症の臨床研究に有用な動物であることが,技術常識として確立していたものということができる。
したがって,当業者は,本件優先日当時,禿げかかった5匹の成体雄 stumptailmacaque サルに対して0.5mg/日のフィナステライドをリンゴのスライスに塗布して経口投与したところ,うち4匹が頭皮毛髪重量の増加を示したという引用発明に係る実験の結果から,フィナステライドがヒトのアンドロゲン脱毛症患者に対しても頭皮毛髪重量の増加を促すことを期待して,フィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に試用するものと考えられるから,フィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に用いる動機付けは十分にあるというべきである。
⑵ 原告の主張について
ア 原告は,当業者は,本件優先日当時において,引用発明に係る実験の結果からフィナステライドが禿頭症のサルに対して有意な増毛作用を及ぼすことを認識することができなかったことを前提として,引用発明に係る実験の結果から,フィナステライドにヒトの治療薬としての適性があることを認識することはできなかった旨主張する。
しかし,前記2のとおり,引用例1に記載された引用発明に係る実験の結果は,フィナステライドが,被験体の5匹のサルのうち非応答体の1匹を除く4匹のサル,すなわち,被験体の80%における毛髪成長をミノキシジル単独によって誘導されるレベルまで刺激したことを当業者一般に示唆するものであり,当業者は,本件優先日当時,引用発明に係る実験の結果から,被験体である5匹のサルのうち1匹が非応答であったことのみをもって,フィナステライドが禿頭症のサルに対して増毛作用を及ぼすことを認識することができなかったとは考え難い。よって,原告の前記主張は,採用できない。
イ 原告は,成体雄 stumptail macaque サルにつき,「ヒト脱毛症の十分に確立したアンドロゲン-依存性モデル」である旨の引用例1の記載につき,本件優先日当時,アンドロゲン脱毛症と stumptail macaque サルに見られる脱毛症との間には,症状の相違が観察されており,生物学的及び病理学的にあらゆるレベルで共通しているわけではないものと認識されていたことを指摘する。
しかし,前記⑴アの丙第8号証の記載等に鑑みれば,stumptail macaque サルは,その脱毛症とヒトのアンドロゲン脱毛症との間には症状の相違があることを前提とした上で,それでも他の動物に比べればヒトのアンドロゲン脱毛症に似た脱毛症の症状を示すことから,ヒトのアンドロゲン脱毛症の臨床研究に有用な動物として評価されていたものということができる。
ウ 原告は,①5α-レダクターゼのアイソザイムの組織分布やフィナステライドに対する感受性が生物種間で異なるものであることが明らかになり,当業者は,サルの頭皮に局在する5α-レダクターゼとヒトの頭皮の5α-レダクターゼとの類似性を確認することができていなかったこと,②当業者は,フィナステライドは,ヒトの頭皮に局在する5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低いので,ヒトのアンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという予断を有していたことから,成体雄stumptail macaque サルが「ヒト脱毛症の十分に確立したアンドロゲン-依存性モデル」であるという認識は,修正を迫られていた旨主張する。
しかし,上記①の点につき,原告が根拠とする文献のうち,甲第10号証及び甲第15号証は,いずれも5α-レダクターゼに関するヒトとラットとの相違について述べるものであり,ヒトとサルとの相違について述べるものではない。また,甲第20号証は,本件優先日後の文献であるが,「5α-レダクターゼのアイソザイムの分布や阻害剤に対する感受性が種によって異なるという最近の情報のため,stumptail macaque の5α-レダクターゼについての研究から得られたデータは,必ずしもヒトの結果を予測させるものではないかもしれない。最近の,脱毛症の男性について実施された二重盲検プラセボ対照12か月試験において,経口フィナステリドが,6か月後及び12か月後の両方において毛髪数を増加させることが示された。stumptail macaque から得たこれらのデータと男性との相関関係は,ヒトのアンドロゲン脱毛症のモデルとしての stumptail macaque が有効であることを更に確認するものである。」との記載があり,同記載からは,5α-レダクターゼのアイソザイムの分布や阻害剤に対する感受性が種によって異なるということが明らかになってもなお,アンドロゲン脱毛症のモデルとしての stumptail macaque の有効性は否定されていないことを読み取ることができる。したがって,当業者が,本件優先日当時,引用発明に係る実験の結果を受けてフィナステライドのヒトへの投与を試みるに当たり,5α-レダクターゼに関するヒトとサルとの相違を問題視していたということはできない。
上記②の点については,前記2⑶ウのとおり,当業者一般が本件優先日当時において原告が主張する予断を持っていたとは考え難い。したがって,原告の前記主張は,前提において誤りがあり,採用できない。
⑶ 小括
以上によれば,相違点2を容易に想到することができるとした本件審決の判断に誤りはなく,原告主張の取消事由4は,理由がない。
5 取消事由3(相違点1の判断の誤り)について
⑴ 薬物の投与経路について
ア 相違点1の容易想到性は,当業者が,本件優先日当時において,引用発明から経口剤型医薬組成物を容易に想到し得るか否かという問題である。
製剤化に当たり,一般に,薬物の投与経路(経口投与,局所投与など)が異なれば,薬物の生体における分布や吸収率等が異なることから,目的とする薬効が発揮されるために適切な投与経路を選択することが必要である(丙28)。したがって,ある投与経路が選択されるためには,同投与経路について,目的とする薬効が発揮されるために適切なものであることを示す判断材料を要する。
そこで,以下では,本件優先日当時におけるフィナステライドの投与経路に関する状況について検討する。
イ 本件優先日当時におけるフィナステライドの投与経路について
(ア) フィナステライドの経口投与について
本件優先日当時,アンドロゲン脱毛症と同様にテストステロンが5α-レダクターゼによりDHTに変換されることによってアンドロゲンが前立腺に過剰に蓄積される前立腺肥大症の経口治療薬として,フィナステライドを有効成分とするPROSCARが市販されていた(引用例2~4,甲26,36)。
また,引用例2から5,甲第23号証,丙第2号証等においては,前立腺肥大症(前立腺過形成)の臨床研究において,ヒトの健全な男性又は前立腺肥大症の男性に対してフィナステライドを経口投与し,その後に血清DHT濃度を測定するなどしている。
このように,フィナステライドは,本件優先日当時において,アンドロゲン脱毛症と同様にアンドロゲンの過剰蓄積が原因となって発症する前立腺肥大症の治療薬として市販されている経口剤に用いられており,また,複数回にわたり,前立腺肥大症の臨床研究においてもヒトに経口投与され,その結果が分析されてきたという実績がある。
(イ) フィナステライドの局所投与について
甲第30号証には,フィナステライドの局所製剤の例として,局所適用のクレンザー,洗顔クリーム,スキンジェル,スキンローションなどのアンドロゲン過剰症のための剤が挙げられているが,それらをヒトに投与した実例は記載されていない。本件証拠上,他に,フィナステライドの局所製剤又は局所投与の具体例を示すものはない。
(ウ) 以上によれば,本件優先日当時において,フィナステライドの経口投与については,目的とする前立腺肥大症の治療という薬効が発揮されるために適切な投与経路であることを示す事実の存在が認められる一方,局所投与については,適否を判断するために十分な事実の存在は認め難い。
ウ 当業者は,前記2のとおり,引用発明に係る実験において,禿げかかった5匹のサルに対してフィナステライドを経口投与したところ,うち4匹が頭皮毛髪重量の増加を示したことから,アンドロゲン脱毛症に対するフィナステライドの薬効を認識すること,また,前記イのとおり,本件優先日当時において,フィナステライドの経口投与については,アンドロゲン脱毛症と同じくアンドロゲン過剰蓄積が原因となって発症する前立腺肥大症の治療という薬効が発揮されるために適切な投与経路であることを示す事実の存在が認められることに照らせば,当業者は,引用発明から経口剤型医薬組成物を容易に想到するものということができる。
⑵ 原告の主張について
ア 原告は,仮に,当業者が,本件優先日当時,引用発明に係る実験の結果からフィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に試すことを考えたとしても,皮膚を標的とする局所製剤の開発を試みたものと考えられる旨主張する。
しかし,前記⑴のとおり,本件優先日当時,フィナステライドの経口投与については,これを有効成分とする前立腺肥大症の経口治療薬であるPROSCARが市販されていたことなど,アンドロゲン脱毛症と同じくアンドロゲン過剰蓄積が原因となって発症する前立腺肥大症の治療という薬効が発揮されるために適切な投与経路であることを示す事実の存在が認められるのに対し,局所投与については,適否を判断するのに十分な事実の存在が認め難いことに鑑みれば,当業者は,サルに対してフィナステライドを投与した引用発明に係る実験の結果から,まず,フィナステライドを経口剤型医薬組成物とすることを試みるものと考えられる。
イ 原告は,当業者において,本件優先日当時,フィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療に使用する場合には,前立腺肥大症の治療に使用する場合よりも多くの用量を要するものと認識していたところ,同時にフィナステライドの経口投与に伴う副作用のリスクを認識していたことから,アンドロゲン脱毛症の治療にフィナステライドの処方を試みたとしても,経口投与を回避したはずである旨主張する。
しかし,前記2⑶ウのとおり,本件優先日当時,5α-レダクターゼ1に係るアンドロゲン脱毛症への関与の有無は明らかではなく,したがって,5α-レダクターゼ1に対しては弱い阻害剤であるフィナステライドのアンドロゲン脱毛症に関する治療効果の有無も不明であったことに鑑みると,当業者は,フィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療に使用する場合には,前立腺肥大症の治療に使用する場合よりも多くの用量を要すると認識していたとは必ずしもいえない。
また,本件優先日当時,前立腺肥大症の患者にフィナステライドを経口投与した場合に性機能障害等の副作用が生じ得ることは,一般に認識されていたものと認められる(甲23,26)。しかし,一般に,薬剤を局所投与した場合であっても何らかの副作用が生じる可能性があることは技術常識であり(丙28),現に,男性型脱毛症の局所療法のうち薬物療法で用いられるミノキシジルについても,循環系を始めとする副作用が知られている(丙27)。薬剤は,副作用の可能性を前提とした上で,その副作用の程度,薬効の大きさなどの諸事情を考慮して投与の可否や投与経路等が決定されるものということができる。
本件において,①脱毛症は,深刻な症状を伴う前立腺肥大症と異なり,主に審美的な問題に関わるものである,②アンドロゲン脱毛症の患者には,20代から30代の男性患者も含まれており,そのような患者にフィナステライドを投与すると長期間にわたる継続的使用が見込まれる,③本件優先日当時は,脱毛症の治療に要するフィナステライドの量さえ予測できなかったという原告が指摘する事実を考慮しても,前立腺肥大症の経口剤として市販され,複数の臨床研究においてヒトの男性に投与された実績もあるフィナステライドについて,これをアンドロゲン脱毛症の治療剤とするに当たり,経口投与とした場合に予想される副作用発生のリスクが経口投与とすることを妨げるほどのものであることは,認めるに足りない。
なお,①甲第21号証(ただし,本件優先日後に刊行された文献である。)には,良性の前立腺肥大症の患者に対してフィナステライドを経口投与したところ,治療期間中に精液からフィナステライドが検出されたので,遺伝性脱毛症を示す5人の男性にフィナステライドを局所適用して研究をすることとしたという趣旨の記載が,②丙第27号証には,「男性型脱毛の治療には…局所適用して全身的副作用を示さない抗男性ホルモン剤の開発が待たれる」との記載が,③引用例1には,「局所製剤を開発して,該薬物を皮膚に標的化し,それにより,アンドロゲンの全身改変なくして毛嚢においてDHTを降下させるのが賢明であろう。」との記載がそれぞれあるものの,本件優先日当時,一般に,アンドロゲン脱毛症の治療製剤として経口投与剤の有用性が否定されていたとまでは認めるに足りず,前記⑴の結論を左右するものとはいえない。
⑶ 小括
以上によれば,相違点1を容易に想到することができるとした本件審決の判断に誤りはなく,原告主張の取消事由3は,理由がない。
6 取消事由5(相違点3の判断の誤り)について
⑴ 引用例1の記載について
前記2⑴のとおり,引用例1には,①経口フィナステライドの用量設定試験において,stumptail macaque サルを10kgの概算体重に基づいて1日当たり0.05mg/kg,すなわち,0.5mg(0.05mg/kg×10kg)の用量を投与する群と,1日当たり0.2mg/kg,すなわち,2.0mg(0.2mg/kg×10kg)の用量を投与する群のいずれかに無作為に割り当てたこと,②上記いずれの群においても,血清DHTの減少がほぼ同じであったことから,20週間毛髪成長実験(引用発明に係る実験)において被験体の stumptail macaque サルに経口投与するフィナステライドの用量として0.5mg/日を選択したこと,③結果として,同用量を投与した5匹の stumptail macaque サル全てにおいて血清DHT濃度が低下し,1匹の非応答体を除く4匹のサルについては頭皮毛髪重量が増加したことが記載されている。
当業者は,上記記載から,stumptail macaque サルにおいて,血清DHT濃度の低下と頭皮毛髪重量の増加との間には何らかの相関関係があり得ること及び0.5mg/日のフィナステライドの経口投与によって血清DHT濃度が低下することを認識するものと認められる。そして,前記4のとおり,本件優先日当時,stumptail macaque サルは,他の動物に比してヒトのアンドロゲン脱毛症に似た脱毛症の症状を示し,ヒトのアンドロゲン脱毛症の臨床研究に有用な動物であることが技術常識として確立していたことを考慮すると,当業者は,ヒトのアンドロゲン脱毛症においても,基本的に前記認識に係る事実と同様のことが妥当すると考えるものということができる。
⑵ 引用例2から5におけるフィナステライドの経口投与量に関する記載について
ア ①引用例2には,健常な男性に対して,フィナステライドを0.04mg/日,0.12mg/日,0.2mg/日,1.0mg/日の各用量で14日間にわたり経口投与したところ,全ての用量において血清DHT濃度の著しい抑制がもたらされたことが,②引用例3には,症候性前立腺肥大症の男性に対して,フィナステライドを1mg/日,5mg/日,10mg/日,50mg/日,100mg/日の各用量で7日間にわたり経口投与したところ,全ての用量においてジヒドロテストステロン(DHT)の血漿濃度及び前立腺濃度の低下がもたらされたことが,③引用例4には,健康な若者に対して,0.5mg又は1.5mgのMK-906(フィナステライド)を単回経口投与したところ,24時間後に血漿DHT濃度が50%に低下したことが,④引用例5には,健康な男性ボランティアに対して,フィナステライドを1mg/日又は10mg/日の用量で7日間にわたり投与したところ,血清DHT濃度が低減し,最少有効投与量が1mg/日よりも少ないと予測されることは明白となったことが,それぞれ記載されている。
イ 当業者は,本件優先日当時,前記アの引用例2から5の記載に接し,健常者又は前立腺肥大症患者の男性に対する0.04mg/日など1mg/日以下の用量のフィナステライドの経口投与によって血清DHT濃度が低下することを認識するものと認められる。
⑶ 相違点3に係る容易想到性について
前記⑴のとおり,当業者は,本件優先日当時,引用例1の記載から,stumptailmacaque サルにおいて,血清DHT濃度の低下と頭皮毛髪重量の増加との間には何らかの相関関係があり得ること及び0.5mg/日のフィナステライドの経口投与によって血清DHT濃度が低下することを認識し,基本的に同様のことがヒトのアンドロゲン脱毛症においても妥当すると考える。したがって,当業者は,ヒトのアンドロゲン脱毛症の治療のために,頭皮毛髪重量の増加と相関関係があり得る血清DHT濃度の低下を目指してフィナステライドの経口投与を試み,用量の設定に当たっては,前記⑵のとおり,引用例2から5の記載に接し,ヒトの男性に対する0.04mg/日など1mg/日以下の用量のフィナステライドの投与によって血清DHT濃度が低下することを認識するものということができる。
以上によれば,当業者は,ヒトのアンドロゲン脱毛症の治療剤の開発に当たり,引用例2から5を参照しながら1mg/日以下のフィナステライドの経口投与を試み,血清DHT濃度を低下させることのできる用量として相違点3に係る0.05~1mg/日の用量の設定を容易に想到することができたものということができる。
⑷ 原告の主張について
ア 原告は,当業者は,本件優先日当時,引用発明に係る実験の結果からフィナステライドをヒトのアンドロゲン脱毛症の治療に試すことを考えたとしても,フィナステライドの経口投与に伴う副作用のリスクに鑑み,皮膚を標的とする局所製剤の開発を試みたものと考えられるとして,フィナステライドの経口投与量を検討する動機付けを欠く旨主張する。
しかし,前記5のとおり,当業者は,本件優先日当時において,フィナステライドの経口投与については,アンドロゲン脱毛症と同じくアンドロゲン過剰蓄積が原因となって発症する前立腺肥大症の治療という薬効が発揮されるために適切な投与経路であることを示す事実の存在が認められることから,フィナステライドを経口剤型医薬組成物とすることを想到するものということができる。また,前立腺肥大症の経口剤として市販され,複数の臨床研究においてヒトの男性に投与された実績もあるフィナステライドについて,これをアンドロゲン脱毛症の治療剤とするに当たり,経口投与とした場合に予想される副作用発生のリスクが経口投与とすることを妨げるほどのものであることは,認めるに足りない。
イ 原告は,フィナステライドはヒトの頭皮に局在する5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低く,アンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという知見を前提として,当業者が,本件優先日当時,アンドロゲン脱毛症の治療にフィナステライドの経口剤を試みるに当たり,良性前立腺肥大症の治療の臨床用量である5mg/日の5分の1に当たる1mg/日を選択することは,当時の技術常識からしてあり得ない旨主張する。
しかし,前記3のとおり,本件優先日当時の知見において,5α-レダクターゼ1に係るアンドロゲン脱毛症への関与の有無は明らかではなく,5α-レダクターゼ1に対しては弱い阻害剤であるフィナステライドのアンドロゲン脱毛症に対する治療効果の有無も不明であるから,当業者において,フィナステライドがアンドロゲン脱毛症の治療には有効ではない旨認識していたとは考え難く,原告の前記主張は,前提を欠く。
ウ 原告は,引用例2から5は,いずれも良性前立腺肥大症の治療を念頭において実施された研究に関する文献であり,アンドロゲン脱毛症の治療に関する記載はなく,したがって,フィナステライドをアンドロゲン脱毛症の治療に関連付ける記載も示唆もしないものというべきである旨主張する。
なるほど,引用例2から5は,いずれも前立腺肥大症の治療に関する文献であり,アンドロゲン脱毛症の治療に関する記載はない。
しかし,前立腺肥大症は,アンドロゲン脱毛症と同様にアンドロゲンの過剰蓄積が原因となって発症するものである。また,前記⑶のとおり,当業者は,ヒトのアンドロゲン脱毛症の治療のために,頭皮毛髪重量の増加と相関関係があり得る血清DHT濃度の低下を目指してフィナステライドの経口投与を試み,用量の設定に当たっては引用例2から5の記載を参照するものと考えられる。
したがって,原告主張に係る事実は,当業者が,引用発明において引用例2から5の記載を参照することを阻害する要因とはいえない。
エ 原告は,当業者は,本件優先日当時において,アンドロゲン脱毛症の治療効果の指標となる頭皮のDHT濃度を血中DHTから推定することができないことを認識しており,引用例1に接してアンドロゲン脱毛症の治療に用いるフィナステライドの用量の設定を考えたとしても,引用例2から5に示される1mg/日ないしそれより少ない用量を参照する動機付けは存在しなかった旨主張する。
しかし,原告が上記主張の根拠として掲げる引用例1,2,4,甲第8号証,甲第18号証,甲第20号証,甲第23号証及び甲第38号証によれば,当業者は,本件優先日当時において,血中DHT濃度は頭皮のDHT濃度を正確に反映するものではなく,最終的には組織のDHT濃度の測定を要すると認識していたものの,血中DHT濃度を,経口投与されたフィナステライドが5α-レダクターゼを阻害して各組織のDHT濃度を低下させる効果の指標の1つとして位置付けていたものと認められる。したがって,原告の上記主張は前提において誤りがある。
⑸ 小括
以上によれば,相違点3を容易に想到することができるとした本件審決の判断に誤りはなく,原告主張の取消事由5は,理由がない。
7 取消事由6(顕著な効果を看過した誤り)について
⑴ 原告が主張する顕著な効果について
原告が本件発明の顕著な効果として主張するもののうち,患者の生活の質の向上及び副作用の低減については,本件明細書に記載されておらず,したがって,これらの効果に係る原告の主張は,本件明細書に基づかないものであるから,採用できない。
原告は,①引用発明に係る実験結果は,フィナステライドが禿頭症の stumptailmacaque サルに対して有意な増毛作用を及ぼすことを示すものではないこと,②当業者は,本件優先日当時,引用発明に係る実験において観察された効果を単純にヒトに外挿することはできないと認識していたこと,③本件優先日当時,フィナステライドはヒトの頭皮に局在する5α-レダクターゼ1に対する阻害能力が低く,アンドロゲン脱毛症の治療には有効ではないという知見が存在していたことを前提として,0.05~1mg/日という少量のフィナステライドの投与によって得られたアンドロゲン脱毛症の治療効果は,本件優先日当時の技術水準から予測された範囲を超えたものである旨主張する。
しかし,前記2及び4のとおり上記①から③の点はいずれも誤りであり,原告の主張は,前提を欠く。
⑵ 小括
以上によれば,本件審決に顕著な効果を看過した誤りはなく,原告主張の取消事由6は,理由がない。
8 結論
以上のとおり,本件発明1に係る取消事由1ないし6は,いずれも理由がない。また,原告は,本件発明2,4ないし16,18ないし20について本件審決の取消事由を主張しない。
したがって,原告の請求はいずれも理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 髙部眞規子 裁判官 鈴木わかな)
裁判官 田中芳樹は,転補のため,署名押印することができない。 裁判長裁判官 髙部眞規子
file_3.jpg別紙