神戸地方裁判所 平成10年(ワ)724号 判決 2002年4月22日
主文
1 被告兵庫県は,原告甲に対し,785万円及びこれに対する平成10年4月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告兵庫県は,原告乙に対し,665万円及びこれに対する平成10年4月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 被告丁は,原告甲に対し,785万円及びこれに対する平成9年6月12日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 被告丁は,原告乙に対し,665万円及びこれに対する平成9年6月12日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
5 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
6 訴訟費用はこれを5分し,その1を被告らの負担とし,その余は原告らの負担とする。
7 この判決は,第1項ないし第4項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
1 被告らは,原告甲に対し,連帯して,4033万1190円及びこれに対する平成9年6月12日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは,原告乙に対し,連帯して,3913万1190円及びこれに対する平成9年6月12日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 仮執行宣言
第2事案の概要
本件は,亡丙の相続人である原告らが,亡丙が肝臓癌の手術中に死亡したのは,被告兵庫県(以下,「被告県」という。)が経営する兵庫県立加古川病院(以下,「被告病院」という。)で亡丙の主治医として手術等を担当した被告丁の過失によるものであるとして,被告県に対して診療契約の債務不履行に基づき,また,被告丁に対して不法行為に基づき,各自逸失利益,慰謝料等の損害及び遅延損害金の支払いを求めた事案である。
1 争いのない事実等
以下の事実は,当事者に争いがないか,証拠(略)により確実に認めることができる。
(1) 当事者
原告甲は,平成9年6月12日に被告病院において死亡した亡丙(昭和18年1月1日生)の妻であり,原告乙は亡丙の子である。
被告県は兵庫県加古川市a町bc番dにおいて被告病院を開設している地方公共団体であり,被告丁は同病院外科に勤務する医師たる公務員であり,かつ,被告兵庫県の履行補助者であって,亡丙の主治医として,平成9年6月12日に同人の肝右葉切除手術(以下,「本件手術」という。)を執刀した者である。
(2) 診療経過
ア 初診時から被告病院外科転科時まで
亡丙は,昭和42年ころ肝機能不良を指摘され,平成3年ころ,A病院にて肝機能障害で約3か月間入院加療を受け,その後も点滴等の通院加療を受けていたが,A病院で腹部超音波検査・CT検査等を受けたところ,肝細胞癌の疑いがあるとして,平成9年3月11日(以下,日付は平成9年のものである。),同病院から紹介を受けた被告病院放射線科で診察を受けた。
被告病院の戌医師は,A病院でのCT写真等により,肝細胞癌の可能性が高いと判断し,確定診断のため血管造影の施行が必要であると考え,4月7日に入院予定とし,同時に血管造影の必要性を亡丙に対し説明し,その同意書の用紙を手渡した。
4月7日,亡丙は,被告病院に入院した。
被告病院己医師は,原告甲に対し,亡丙には肝臓癌が疑われること,血管造影で悪性腫瘍と確定した場合には,抗癌剤を動脈注射し,肝動脈塞栓術を施行する旨説明した。また検査と治療に伴い,ショック,穿刺部からの出血,発熱,嘔吐等の副作用が1週間から10日ほど続くことについても説明した。
同日,亡丙に対し,MRI検査を施行したところ,セグメント8に約5センチメートル大の腫瘤が見られ,T1強調像でやや低信号,T2強調像で高信号として描出された。
生化学検査の結果,α-フェトプロティン(AFP)は,21483ナノグラム/ミリリットルであった。
血液検査の結果は以下のとおりであった。
白血球数 3000個/マイクロリットル
赤血球数 428万個/マイクロリットル
血小板数 6万9000個/マイクロリットル
(以下,白血球数,赤血球数及び血小板数は1マイクロリットルあたりの個数である。)
出血時間 3分30秒
プロトロンビン時間 11.9秒
同月8日,ダイナミックCTを施行し,肝細胞癌であると考えられる像が撮影された。
同月10日,血管造影検査を施行し,諸検査の結果から,約5センチメートル大の肝細胞癌と診断し,ファルモルビシン50ミリグラム,マイトマイシンC10ミリグラム,リピオドール2ミリリットルを動脈注射し,その後,ジェルファルム細片を用いて肝動脈塞栓術を施行したが,施行後,数日間腹痛が見られた。
同月11日,腹部超音波検査により,急性胆嚢炎あるいは胆嚢穿孔でないことが確認された。
同月14日,血液検査の結果,白血球数2800個,血小板数4万6000個であった。
同月15日,腹痛は消失し,以後,肝動脈塞栓術によると考えられる腹部症状の訴えはなかった。
同月16日,己医師は,原告甲に対し,次のとおり説明した。
約5センチ大の肝細胞癌と肝内転移と思われる病巣がある。
手術適応については,肝機能の回復を待って肝機能検査(インドシアニングリーテスト・ICG)を行わないと判断が困難である。
仮に手術が可能であるとしても根治は難しいと考えられる。
また,亡丙は病状説明を希望しているが,病名告知をどうするか問うたところ,原告甲は,亡丙本人が希望すれば病名の告知を行ってもよく,被告病院での手術を希望する旨回答した。
同月17日,血液検査の結果,白血球数2600個,血小板数4万5000個であった。
同月23日,ICG検査を施行したところ,ICG R15分値13パーセントであり,血漿消失率(K値)0.14であった。
また,生化学検査の結果,α-フェトプロティン(AFP)は,2878ナノグラム/ミリリットルであった。
さらに,血液検査の結果は以下のとおりであった。
白血球数 3000個
赤血球数 421万個
血小板数 5万8000個
出血時間 2分30秒
プロトロンビン時間 11.9秒
フィブリノーゲン値 373ミリグラム/デシリットル
(以下,フィブリノーゲン値は1デシリットルあたりの値である。)
同月24日,己医師は亡丙に対し,原告甲が同席の上,病状の説明を行い病名も告知した。
すなわち,CT検査・超音波検査・MRI検査・血管造影検査等により肝臓に悪性腫瘍があり,抗癌剤の動脈注射と血流を遮断する治療(肝動脈塞栓術)を行ったことを説明し,併せて,今後の治療については,肝動脈塞栓術を続行していく方法,あるいは手術が考えられることを説明した。
手術については,肝機能検査によれば全く手術適応がないほど悪くはなく,外科受診で手術適応を見てもらうように説明した。
同月30日,亡丙は被告病院外科で被告丁の診察を受け,被告丁は,亡丙について肝臓癌の手術適応があると判断し,同年6月5日に外科入院,同月12日に手術予定とした。
なお,亡丙は手術までの入院を希望し,被告丁も,手術前の糖尿病コントロールが必要と考えたため,放射線科での入院継続とした。
5月1日,注腸検査を施行したが,異常は認められなかった。
同月2日,オイグルコンの投与を開始した。
同月8日,ヒューマリン8単位の投与を開始した。
同月20日,MRI検査を施行したところ,約4センチメートル大の腫瘤が,T1強調像でほぼ均一で高信号,T2強調像で周囲肝実質と等信号として描出された。
同月21日,ヒューマリンの投与を同日以降10単位とした。
また,血液検査の結果は以下のとおりであった。
白血球数 2500個
赤血球数 429万個
血小板数 5万5000個
出血時間 3分30秒
プロトロンビン時間 12.1秒
トロンボテスト 95パーセント
フィブリノーゲン値 233ミリグラム
同月23日,肝動脈塞栓術施行後の腹部CTを施行したところ,35ミリメートル大のリビオドールが集積した肝腫留が見られた。また,右側に1センチメートル大の低濃度域が見られた。
6月5日,手術のため,外科に転科した。
イ 被告病院外科転科後手術まで
6月5日,外科転科後,慢性肝炎の治療のため,強力ミノファーゲンCの点滴静注を開始した。
その際,被告丁は,亡丙が脾腫のため,血小板が6万前後であり,低い数値であることを認識していた。
同月6日,胃カメラを使用して上部消化管内視鏡検査を行い,食道静脈瘤,胃潰瘍及び十二指腸潰瘍の有無について検索した結果,一条の細い食道静脈瘤を認めるのみであった。また,ICG検査が行われ,亡丙のICG・R15分値が,19パーセント,また同・K値が0.10であった。
被告丁は,亡丙の推定入院期間を約1か月と計画していた。
同月9日,手術後の栄養管理ならびに薬剤投与のための血管確保を目的として,右鎖骨下静脈よりチューブ(TPNカテーテル)を挿入した。
同月11日,原告甲は,亡丙が,本件手術を受けることについて,被告丁に対し,手術同意書を提出した。
ウ 手術開始から亡丙の死亡に至る経過(以下,時間は平成9年6月12日のものである。)
本件手術は,執刀医を被告丁,亡丙の麻酔及び全身管理を被告病院麻酔科医であった庚医師,手術補助者を被告病院外科医であった辛医師及び壬医師がそれぞれ担当し,さらに2人の看護婦の立会の下行われた。
午前9時8分ころ,庚医師が,亡丙の麻酔を開始した。以後手術終了まで,人工呼吸の酸素濃度は約33パーセントであった。庚医師は,手術に先立ち,亡丙の血液型と同じA型の濃厚赤血球7単位(1単位は120ミリリットル)を準備していた。
午前9時30分ころ,被告丁は,肝切除の手術を開始した。
まず,肝右葉を脱転授動し,門脈右枝,右肝動脈をテーピングし,術中超音波にて,腫瘍の位置,右肝静脈の走行を確認し,肝切離予定線を電気メスで,肝表面にマーキングした。また,昇圧剤を毎分7単位(1単位あたりの体積は,証拠(証人庚)によれば,約120ミリリットルであると認められる。)投与した。
午前9時45分ころ,昇圧剤の投与を毎分5単位とした。
午前10時ころ,出血量20ミリリットル。
午前11時40分ころ,肝右葉前区域切離を開始した。
肝切離は,超音波メスを主として用い,切離面に表れる脈管(血管,胆管)を順次結紮切離していった。
午後0時ころ,出血量430ミリリットル。
午後0時30分ころ,出血量550ミリリットル。
午後0時45分ころ,昇圧剤の投与を毎分7単位とした。出血量680ミリリットル。
午後1時10分ころ,濃厚赤血球7単位の輸血,新鮮凍結血漿及び等張アルブミン製剤の投与を開始した。また,庚医師は,被告病院内在庫のすべてのA型濃厚赤血球8単位について,交差適合試験を依頼した。さらに,昇圧剤の投与を毎分10単位に変更した。
午後1時15分ころ,出血量1010ミリリットル。昇圧剤の投与を毎分7単位とした。
午後2時ころ,後区域側の肝切離の後,左葉側の肝切離を行い,最後に前区域を支配する動脈,静脈,胆管を切離して,前区域切除を終え,予定手術を終了した。出血量1930ミリリットル。
庚医師は,濃厚赤血球10単位を,訴外日本赤十字社(以下,「日赤」という。)に追加発注するとともに,日赤から血液が届き次第,同濃厚赤血球の交差適合試験を実施するよう,被告病院血液検査室に依頼した。さらに,同医師は,血小板輸血用の血液も日赤に発注した。
その後,肝切離面全体にわたる無数の点から滲み出るような出血がみられ,それらの出血に対し縫合止血(刺通結紮),電気凝固止血,止血剤を用いた圧迫止血などを施したが,それでも出血の増加をコントロールすることができなかった。
午後2時30分ころ,昇圧剤の投与を毎分10単位とした。
午後2時45分ころ,出血量4270ミリリットル。
午後3時ころ,庚医師は,日赤にさらに濃厚赤血球20単位を追加発注し,同時に検査室に,血液が届き次第交差適合試験を実施するよう依頼した。
血液検査の結果は以下のとおりであった。
赤血球数185万個。
ヘモグロビン5.8グラム。
血小板数1万3000個。
プロトロンビン時間13.8秒,活性55パーセント。
フィブリノーゲン値120ミリグラム。
午後3時過ぎころ,後区域追加切除を開始した。
午後3時15分ころ,濃厚赤血球5単位の輸血を開始した。昇圧剤の投与を毎分15単位とした。出血量5750ミリリットル。
午後3時20分ころ,昇圧剤の投与を毎分20単位とした。
午後3時30分ころ,出血量6500ミリリットル,血液ガス分析の結果,血液pH7.295であった。
午後3時45分ころ,7550ミリリットル。
午後4時ころ,出血量8730ミリリットル。
午後4時15分ころ,血小板15単位の輸血を開始した。昇圧剤の投与を毎分40単位とした。
午後4時30分ころ血小板数3万個,赤血球110万個,ヘモグロビン3.4グラム。
午後4時40分ころ,後区域の追加切除が終了した。
午後4時45分ころ,出血量1万0400ミリリットル。
その後,肝左葉切離面からの出血に対しては,縫合止血,電気凝固止血及び圧迫止血にて止血することができた。
午後5時10分ころ,他に出血のないことを確認して,腹腔内にドレーンを2本挿入し開腹創を縫合して,手術を終了した。その時点で,濃厚赤血球12単位,新鮮凍結血漿70単位,等張アルブミン製剤2500ミリリットル,血小板15単位が輸血ないし投与されていた。亡丙の血圧等は安定しており,庚医師は,手術終了と同時に笑気ガスを切り,純酸素(酸素濃度100パーセント)で換気することとして覚醒操作に入った。
その後,日赤から届いた濃厚赤血球24単位の輸血を開始した。
午後5時15分ころ,出血量1万0620ミリリットル。
午後5時30分ころ,脈拍100,血圧95/45であった。
午後5時35分ころ,亡丙の血圧が突然低下し,著しい除脈となり,心停止に至った。
そのため,昇圧剤であるボスミン,プロタノール,硫酸アトロビンの投与,心マッサージ,体外心臓ベーシング,カウンターショック等の救命処理を行った。
午後5時45分ころ,出血量1万0700ミリリットル。
午後5時48分ころ,血液ガス分析の結果,pH7.142であった。
午後6時10分ころ,血液ガス分析の結果,pH7.422であった。
午後7時ころ,亡丙は,急性心不全により死亡した。
エ 本件手術後
被告丁は,亡丙の肝臓の組織について病理組織検査を依頼し,その結果,被告病院癸医師は,癌細胞の直径が3センチメートル大であり,繊維性被膜を有しその内部は完全に壊死に陥っていること,被膜の外側に完全に圧排されて薄い層状に異型的肝細胞がみられること,核異性が強く腺管形成が見られ高分子型肝細胞癌と考えること,脈管層態なく,胆道への進展も見られないこと,などを内容とする病理組織検査書を提出した。
2 争点
(1) 亡丙の死因は何か。(争点1)
(2) 亡丙が手術中に大量に出血した原因は何か。(争点2)
(3) 被告丁の診療上の過失及び過失と死亡の因果関係が認められるか。
ア 亡丙に肝右葉前区域切除手術の手術適応があると判断したことにつき過失が認められるか。(争点3(1))
イ 術前に血小板輸血を準備していなかったことにつき,過失が認められるか。(争点3(2))
ウ 術中の止血手技に過失が認められるか。(争点3(3))
エ 手術中の輸血措置に過失が認められるか。(争点3(4))
(4) 原告に対して,術前に説明義務を尽くしていたと認められるか。(争点4)
(5) 亡丙の損害。(争点5)
3 争点に対する当事者の主張
(1) 争点1
(原告らの主張)
最も心停止に近い午後3時38分の血液ガスのデータでは出血性ショックとそれによる代謝性アシドーシスを示している。しかしながらその後代謝性アシドーシスは補正されておらず,また,血圧を維持するためにボスミンなど昇圧剤の追加,増量投与が行われている。したがって,末梢循環不全,代謝性アシドーシスは心停止に至るまでさらに増悪していた可能性がある。
だとすれば,極度の貧血と末梢循環不全,代謝性アシドーシスが心機能の低下や臓器不全を起こし,心停止の原因になったというべきである。
術中看護記録の「出血増量に伴い,循環血液量の著明な低下ありショック状態に陥ったと考える」との記載(乙8・3頁)も外科医か麻酔科医から聞いた内容を看護婦が書いたと考えるのが素直で,特に状況が改善したという記載がなく,蘇生術を施行したにもかかわらず死亡していることからすれば,出血性ショックを原因として死亡したことはカルテからも裏付けられている。心筋梗塞や肺梗塞,脳出血等が死因として考えられるとの被告らの主張は,推論にすぎず,一般的に心筋梗塞や肺梗塞,脳出血等が出血とは関係なく生じるものであるとしても,本件においては術中に大量の出血があり,それと時を接して死亡しているのであるから,出血が直接の死因であるというべきである。
(被告らの主張)
ア 出血性ショックについて
手術終了時である午後5時10分ころには血圧は90/40ミリメートル水銀柱,脈拍90回前後,心停止直前の午後5時30分ころにおいても,血圧は95/45ミリメートル水銀柱前後,脈拍も100回前後でいずれも安定し,中心静脈圧も25センチメートル水銀柱であったことからすれば,亡丙はショック状態にはなく,午後5時35分に突然心停止を来したことは,心筋梗塞,肺梗塞,肺出血等他の致死的要因が生じたことを強く示すものである。
看護記録の記載は看護婦の個人的な見解にすぎず,医学的な見地からは,心停止の原因を出血性ショックに求めることができない。
イ 末梢循環不全について
(ア) 酸素供給量及び酸素運搬能力について
午後4時30分ころの血中ヘモグロビン値は3.4グラムでその後も輸血は続行されており,かつ出血量は著しく減少していることから,手術終了時における血中ヘモグロビン値はさらに増加し,酸素供給量は致死的レベルにはなかった。
また,仮に,酸素運搬機能の低下によって死亡したのであれば,酸素供給量が増加した際に死亡することは考えられないが,本件では,術中,酸素33パーセント,笑気ガス(N2O)67パーセントの状態に保って全身管理を行い,手術が終了した午後5時10分ころに酸素100%に変更した後,午後5時35分ころに心停止を起こしたのであって,酸素不足が死因であるという主張とは矛盾する。また,仮に,酸素運動能の低下が死因であるとすれば,心停止に先立って心電図上,徐々にSTの低下が認められると考えられるが,本件武彦についてはそのような経過がない。
したがって,亡丙が,酸素運動能の低下によって死亡したようなことは考えられない。
(イ) 循環血液量について
循環血液量は赤血球の数だけではなく,血漿などの血液成分なども含めた体液全体の総量としてとらえるべき問題であり,血漿の投与や輸液などによって総量として不足がなければ循環血液量が不足していることにはならない。そして,本件においては,心停止した午後5時35分ころの時点において,新鮮凍結血漿70単位,等張アルブミン製剤1250ミリリットルが投与され,これによってほぼ1万6500ミリリットル以上の血液に相当する血漿成分が体内に入っており,それに加えて約6000ミリリットルの輸液もなされていることから,循環血液量に不足があったというようなことは考えられない。
ウ 代謝性アシドーシスについて
pHの正常値は7.34ないし7.46であるところ,pHが7.295であれば軽症の代謝性アシドーシスであり,これが死因であるとは到底考えられない。
(2) 争点2
(原告らの主張)
術前の血小板数の減少傾向に前区域切除による出血が加わり血小板数のさらなる減少が起こった結果,前区域切除が終了したころ,止血機構が破綻したものと考えるのが合理的である。そしてその結果肝切離面から外科的止血が困難な異常出血が生じ,5000ミリリットルを超える大量出血となった。さらにそのような出血傾向の存在下に,後区域切除を行い,さらなる出血を誘発して合計1万ミリリットルを超える大量出血となった可能性が高い。
これに対し,被告らは,亡丙に生じた大量出血は,肝硬変による凝固機能障害及び出血の増加のため凝固因子が欠乏し出血傾向を来したことによると主張している。
しかしながら,肝硬変を合併していたことは術前から判明しており,凝固機能障害も術前に検査を行って手術に耐えうると判断の上で手術を施行しているはずであることから,重篤な凝固機能障害は,本件手術開始後に発生したものであると考えられる。
そして,厚生省のDICの判断基準によれば,その得点数は3点であり,「DICの可能性は少ない」の判定となる。特に,DICの診断基準として重要なFDPの著名な増加は全く見られない。フィブリノーゲンの50パーセントの低下は厚生省の診断基準においても補助診断項目として挙げられているが,本質的な指標ではない。
したがって,亡丙に,DICに近い重度の凝固機能障害が発生していたとはいえない。
(被告らの主張)
止血機能障害が,前区域切除終了後に発生したことは認める。その原因は肝硬変による凝固機能障害及び出血の増加のため凝固因子が欠乏したためであると考えられる。本件においては,後区域の追加切除の間に,止血機能障害・出血傾向による異常出血が同時進行で加わっていったものであり,後区域切除が大量出血を誘発したなどとはいえない。
ア DICないしこれに比すべき凝固機能障害について
本件は,事後的にみれば,肝硬変による凝固機能障害及び出血の増加のため凝固因子が欠乏し,出血傾向を来したことによるものと考えられる。
(ア) 凝固機能障害は,ある瞬間に突然発生するものではなく,また,具体的にどの程度の出血量で発生するのかが明らかではない。
(イ) 通常,手術操作など新たな物理的刺激を加えない限り,それまで出血していなかったところから新たに出血が始まることはなく,経時的に出血点が増加していったことからすれば亡丙に凝固機能障害が生じたものと考えられる。
(ウ) また,午後2時ころから肝右葉切除が終了した午後4時40分ころまで,出血量及び出血点が経時的に増加しつつあったが,その間の午後3時ころの時点における凝固機能の指標となる数値は,5月21日の検査結果と比べ,以下のとおり凝固機能の低下を示していた。
a フィブリノーゲン値 233ミリグラムから120ミリグラム
b プロトロンビン時間 12.1秒から13.8秒
c プロトロンビン活性値 91パーセントから55パーセント
d 血小板数 5万5000個から1万3000個
(エ) フィブリノーゲン値の正常値は200ないし400ミリグラムであり,一般に,フィブリノーゲン値が50パーセント低下すれば,重篤な出血傾向を呈するDICの可能性を考える必要があるとされている。
また,フィブリノーゲン濃度が100ミリグラム以下であれば自然出血が生じるとされているが,本件ではフィブリノーゲン値はほぼ半減している上,20単位の新鮮凍結血漿を投与した後でも数値は120ミリグラムにとどまっている。
(オ) 血小板数の正常値は15万ないし40万個程度であり,一般的に血小板数が急激に低下すると鼻出血,口腔内出血など皮膚粘膜を中心に出血傾向が出現するとされている。そして,血小板数が5万個以下になると出血症状を認めるようになり,血小板数が2万個になると自然出血を頻繁に起こすようになるとされているところ,本件では手術中の午後3時の時点で1万3000個に低下している。
(カ) このような出血の経過及び午後3時ころに測定された血小板などの検査数値の結果などに鑑みれば,丙は遅くとも午後2時ころの時点で重篤な凝固機能障害が生じていたことは容易に推認でき,そのため,亡丙に大量出血が生じたものと考えられる。
イ 後区域切除について
前区域切除が終了した午後2時過ぎころから後区域切除を開始した午後3時過ぎころまでの間の出血量は5750ミリリットルで毎分約62.5ミリリットルであった。仮に後区域切除を行わず血小板輸血により止血し得たとしても午後3時過ぎから血小板輸血が開始された午後4時30分までの約1時間半の間には少なくとも5000ミリリットル以上の出血が生じたと考えられる(62.5×90分=5625ミリリットル)が,本件では後区域切除の開始から手術終了までの実際の出血量は4650ミリリットルであり,血小板輸血を行うまで手術を講じなかった場合の予想出血量より少ない。
亡丙に見られた出血量の増加の態様は午後2時ころ以降から肝右葉後区域追加切除が終了した午後4時40分ころまでの間,経時的に連続して増加していたものであるが,後区域追加切除の終了後に出血量は著明に減少し,最終的に止血できたものである。
(3)ア 争点3(1)
(原告らの主張)
亡丙の肝機能検査の結果は,手術より約1週間前の6月6日の時点で,ICG・R15分値が19パーセントと,4月23日に行った検査値より悪化していた。
また,手術の3日前である6月9日に,手術後の栄養管理並びに薬剤投与のための血管確保として,右鎖骨下静脈より挿入されたチューブ(TPNカテーテル)の挿入固定部より執拗な出血があり,ガーゼで圧迫固定するもなかなか止血できないという出来事があった。
さらに,一般的な止血機能の一つの指標である血小板数が2ないし3万個あれば被告丁も手術を行わなかったであろうと供述している。
そして,通常本件のような手術を行う際には,その直前に血液検査を行うものであり,本件においても被告丁は,血液検査のオーダーはしたものの結果が返ってこなかったがその理由は分からないと供述しており,自己の検査オーダーが返っているかどうか確認しておらず,そのこと自体極めて杜撰であるが,仮にこの時の血液検査結果がもし客観的に存在していれば,血小板数の減少等止血機能の低下していたことを示していた可能性が高い。
これらの事実からすれば,本件手術直前の丙の止血機能もしくは血液凝固機能は耐術レベル以下であった可能性が極めて高かったといえる。にもかかわらず,漫然本件手術を敢行したことは手術適応の判断を誤ったというほかなく,被告らに診療上の過失が存在する。
(被告らの主張)
(ア) 肝癌の進行度からみた手術適応について
肝癌の治療法には,①肝切除術,②肝動脈塞栓術,③経皮的エタノール注入療法の3方法があり,そのうち,どの治療法を選択すべきかについては,各医師の判断により若干異なるが,判断の根拠としては,主として肝機能(肝予備能あるいは臨床病期)と癌の肉眼的進行程度による。
そして,各治療法の5年生存率を比較すれば,肉眼的進行度がステージⅢの場合肝切除術が他の治療法に比べて良好であり,また,臨床病期ステージⅠで腫瘍径が3センチメートル以上の場合において肝切除術と肝動脈塞栓術との各予後を比較すると,一般に肝切除術の予後が良好であるとされている。
亡丙の肝機能上の臨床病期はステージⅠであり,癌の肉眼的進行度はステージⅢ(腫瘍径は3センチメートル以上)であるから,予後を期待する上で肝切除術を選択したことは妥当な判断であった。
(イ) 血小板数からみた手術適応について
亡丙は,平成9年4月7日から5月21日までの間に計6回血小板数が測定されているが,肝動脈塞栓施術後の4月14日及び同月17日に各4万6000個,4万5000個と若干低下している他は,いずれも5万5000個から6万8000個の間を推移している。
一般的に,血小板数の低下を来すような特別な疾患・病態でなければ,短期間で血小板数が急激に減少・低下することはなく,本件でも5月21日の検査後に血小板数の急激な減少・低下を来すような疾患,病態は特に存しない。すなわち,肝硬変は数十年の経過を経て徐々に進行・完成していくものであるため,肝硬変を有する肝細胞癌の患者においても短期間で血小板が急激に減少・低下するということはあり得ない。したがって,手術直前における亡丙の血小板数も従前の検査数値とさほど変わらないものであると推認され,少なくとも,術前の丙の凝固機能が耐術レベル以下であったということは考えられない。
(ウ) 原告らの主張への反論
術前に丙に鼻出血,口腔内出血,皮膚点状出血など,皮膚粘膜を中心に出血傾向を示すような症状が出現したり,皮膚切開から肝切離開始までの操作が,胃切除や腸切除とほぼ同様の操作を必要とするものであるにもかかわらず,手術操作を加えた無数の部位から多量の出血が生じたこともなく,手術開始から肝切離の開始までの出血量が260ミリリットル程度にとどまっている。
また,右鎖骨下静脈へのチューブ挿入口からの出血は,鎖骨下の小血管あるいは小動脈の損傷によって容易に生じうるものであって,凝固機能障害の存しない通常の患者についても一般的に見られることである上,被告丁が行ったオキセル綿を使用した圧迫止血によって止血している。
したがって,亡丙の凝固機能が耐術レベル以下であったとは,全く考えることができず,被告らに手術適応の判断上の過失は存しない。
イ 争点3(2)
(原告らの主張)
術前に血小板輸血をする必要まではなかったといえるが,本件術式による出血量は通常1400ないし4000ミリリットルであり,その出血に伴い血小板が血管外へ流出することもまた明白であるから,仮に術前に血小板数が5万5000個という数値であっても,術中あるいは術後において,同数値が5万個以下のレベルに下がり出血傾向が発現する危険性は極めて高かった。
手術,出血,血小板流出,出血傾向の発現という因果の経過は,大量の出血を伴う本件手術を施行する以上,その術前において極めて明白かつ具体的に予見可能であった。したがって,被告らは,事前に必要な血小板製剤を準備すべきであったし,そのような進行に応じて適宜血小板製剤を使用すべきであったにもかかわらず,血小板製剤を準備しておかなかったため,術中の出血に対し,速やかに血小板輸血を行うことができなかったものである。
通常行われる手術直前の血液検査すら行われておらず,外科医も麻酔医もそれに対して何らの対応を取っていない本件では,おそらく実態としては,本件手術にあたり亡丙の血小板数について何らの考慮も払われていなかったという他ない。
そして,血小板輸血による止血機能の改善により肝切離面の異常出血が避けられ,大量出血とそれによる大量輸血や後区域切除も回避できた可能性が高いというべきであり,血小板輸血を準備していなかった過失と大量出血ひいては亡丙の死亡には因果関係がある。
(被告らの主張)
(ア) 予見可能性について
手術中の出血により,血小板が減少することはあり得ることであるが,どの程度の出血量でどの程度の血小板数となった段階で出血傾向が生じるのかということは明らかでない。したがって,血小板数が5万以下に減少し,出血傾向が発現する危険性が極めて高かったとか,そのような因果の経過を術前に明白かつ具体的に予見可能であったとなどとは全くいえない。
(イ) 結果回避義務について
血小板輸血には,①患者に使用される血小板濃厚液の単位数が他の血液製剤に比べて多い②基準を設けないと使用量が急増する③輸血後に患者の血小板数が増えにくい病態が多い④血小板数がいくつになったら輸血すべきかの点についての適応が万人の認める特定の値として設定されていないなどの問題点があるほか,有効期間が採血後72時間と短いところ,血小板輸血を準備しても使用しなかった場合には廃棄されるため,臨床医においても血小板輸血について厳正に適応を判断し,安易に使用することは戒められている。
そして,本件のような待機的手術の場合,血小板輸血を要するのは,血小板数5万以下の場合であるとされており,一般に,血小板数が5万以上では血小板減少による重篤な出血を認めることはないから,血小板輸血の必要はない。血小板数が2万個ないし5万個では時に出血傾向を認めることがあるため,止血困難な場合には血小板輸血が必要となるとされており,血小板数が5万個以下の場合について,手術内容によって事前に血小板を準備すべきかどうか検討すべき場合があるとされている。
したがって,前記争点3(1)で主張した亡丙の術前の血小板数からすれば,本件において術前に血小板を準備していなければならなかったとはいえず,原告らの主張は一般の臨床医に過度の注意義務を課す不当なものである。
ウ 争点3(3)
(原告らの主張)
本件においては,手術中の出血によるさらなる出血傾向の発現という悪循環が生じることを前提に,そのような悪循環が致命的となる前に,医師が出血を一定の範囲に抑えることのできる能力があったのかどうかということを問題にすべきである。
出血の増加により凝固因子が欠乏し,出血傾向を示したという点も,早期に止血ができていればこのような事態には至らなかったはずである。
体位を頭低位にして1回の換気量を250ないし300ミリリットルに下げてもらい,静脈系の血圧を下げれば相当の止血効果が得られる旨の指摘もある。
午後3時過ぎころにおける出血量は肝右葉前区域切除術における通常の出血量の範囲内である4270ミリリットルであり,後区域切除に拡大する前に適切な止血手技を行って,この時点で出血をくい止めるべきであったにもかかわらず,被告丁が術式を変更したことから考えて,それ以前に行っていた止血手技はこれを放棄していたと見られ,被告らには,止血手技上の過失が認められるというべきである。
仮に,亡丙に,被告が主張するように術中DICに比すべき凝固機能障害が発生していたとしても,被告らは,DICの治療方法として挙げられている処置を行ったと主張しており,だとすれば同処置を行った後は,亡丙の凝固機能障害は一定程度に回復していたと見るのが相当である。現に,亡丙の血小板数は術中,1万3000個から3万個に回復している。だとすれば,なぜその後も通常の止血手技によっては止血が困難であったといえるのか,疑問である。
結局,本件では,被告丁の止血手技のどこか(術前の措置も含めて)に重大な過失があったと推定できる。
(被告らの主張)
午後2時ころに肝右葉前区域切除が終了した時点では,肝切離面からの出血は10か所程度で,出血量も1930ミリリットルであった。したがって,この時点では,出血を一定の範囲に抑えることができていたことは明らかである。
そして,その後の被告丁の止血手技についても以下の理由から何ら過失は認められず,亡丙に生じた出血は通常の止血手技では止血できないものであったというべきである。
(ア) 一般的に,肝切除を行った場合には,肝切離面から出血が見られるが,出血に対しては通常縫合止血,凝固止血,圧迫止血を施せば止血でき,止血措置を進めていくうちに切離面からの出血量が減少し,最終的に出血が消失するとされている。また,面としての出血があり止血が困難な場合最も簡便な止血方法は,出血面を圧迫して自然止血を待つことである。
本件でも被告丁らは,切離面に止血凝固剤を付着させ,圧迫止血を行う方法によって止血がコントロールできるのであれば,肝切離面に大網を充填するような圧迫手段を用いて手術を終了することも可能であると考えた。
しかし,本件の場合,一旦止血できた部位から再度出血が始まるという事態が繰り返して生じ,出血面を圧迫して自然止血を待つ間にも血は滲み出し,出血量は増加していったことから,1箇所ずつ湧出するような出血点に対しては縫合止血の方法により,滲むような出血点については電気凝固止血を行う方法によりそれぞれ止血を図ったものの,時間の経過とともに出血量が増大し,肝右葉前区域切除の終了した時点では出血が見られなかった部位からも新たに出血が始まり,最終的に肝切離面全体にわたる無数の点から,止まることなく滲み出るような状態の出血となった。
(イ) さらに,止血手技中,肝臓を心臓より高く持ち上げるとか,肝臓の持ち方をかえてみる等の方法も行った。
(ウ) その後,午後3時過ぎ頃には出血量の増大とともに血圧が下降し始め,そのまま出血が増加していけば出血死に至る可能性が考えられたため,早急に何らかの根本的な止血手段を講じる必要に迫られた。しかし,出血は主として後区域側の切離面からであり,追加的に後区域切離を行えば出血の抑制が可能であり,他に適切な止血方法は存在しないと判断されたことから被告丁は後区域追加切除を行い,同切除が終了した午後4時40分ころには出血量は著明に減少し,止血できたのであって,手術終了後の最高血圧は100ミリメートル水銀柱前後,脈拍も毎分100回前後と安定していた。
(エ) 後区域追加切除術中も,肝左葉側の切離面に対しては,局所止血剤を貼布し,可及的にガーゼで圧迫を施し,手術操作部である後区域側の切離面に対しては,局所止血剤を貼布し,出血の制御に留意するなど,可及的に止血措置を施していたのであり,それ以前に行っていた止血措置を放棄したというようなこともない。
(オ) 前記争点2において主張したとおり,亡丙には手術中凝固機能障害が生じたと考えられる。そして,肝硬変に由来する凝固機能障害に対する一般的な対処方法としては,血小板数の減少に対する血小板輸血及び凝固因子補充のための新鮮凍結血漿の投与がそれぞれ考えられる。
本件において被告丁らは,手術中にそれらをいずれも施行し,さらにFOYと同様の効果を有するフサン(蛋白分解酵素阻害薬)の投与も行うなど,凝固機能障害に対しても適切な措置を講じたものである。
エ 争点3(4)
(原告らの主張)
そもそも大量輸血は出血傾向を引き起こすことがあるとされている。
また,亡丙の本件における全出血量は1万ミリリットルを超えている。これに対し,被告病院が手術前に用意した輸血は2000ミリリットルにすぎず,これのみでは到底足りないが,足りない分に関しては日赤から取り寄せており,輸血の総量は30単位ということになり,輸血措置が遅れて出血に追いつかず,過量の昇圧剤により血圧を維持していた状態であったといえる。
輸血が出血に追いついていなければ,血液中の赤血球数も減少するところ,実際,赤血球数の午後3時ころの数値が185万個であるのに対し,午後4時30分ころには110万個と顕著に低下しており,循環血液の酸素運搬能の如実な低下を示していると考えられる。
カルテ上も,午後4時30分ころの時点で出血総量は8750ミリリットルであることが窺われるのに,それまでに輸血した量は計12単位2400ミリリットルということになる。
したがって,本件では輸血措置が不十分であり,過失が認められる。
(被告らの主張)
以下の理由から,被告らが行った輸血措置に過失は認められない。
ア 術前の輸血の準備について
本件において,術前に交差適合試験により適合性が確認されていた濃厚赤血球は7単位であるが,この準備量については以下の理由から何ら問題はなかった。
(ア) 一般に定型的な手術については,これまでの経験実績からおおむね間に合うだけの輸血を用意すべきであるとされ,また,輸血においては出血量の約半分の量の濃厚赤血球を投与するものとされている。
そして,被告丁は数多くの肝臓手術を経験している熟練した外科医で,かつ,これまで術式ごとの通常の予想出血量を超えて出血したことはなかった。また,本件で施行された前区域切除術の通常の出血量は1400ないし4000ミリリットル程度であるとされている。
(イ) 事後的結果的に見ても,前区域切除術が終了した時点での出血量は1930ミリリットルであり,術前には予想できなかった凝固機能障害が生じていなければ7単位の準備で十分であった。
(ウ) 輸血用血液が慢性的に不足し,非常に貴重な資源となっていること,輸血用血液には有効期間があり,準備はしたが実際には使用されなかった場合,そのまま処分されることになるのが通常であることから,一般に,交差適合試験をして準備する血液単位数(C)を実際に輸血して使用する単位(T)にできるだけ近づけ,C/T値を1.5以下にすべきものとされ,準備はしたが使用しなかったという血液を極力作らないようにしなければならないとされていた。
イ 輸血の開始について
麻酔医として本件手術に立ち会った庚医師は,午後1時10分ころ,出血量が約1000ミリリットルの時点で,濃厚赤血球7単位の輸血を開始したが,本件当時は,一般的に,出血量が600ミリリットル以下の場合には無輸血とし,600ないし1200ミリリットルの場合には濃厚赤血球の輸血を行うべきとされていたから,輸血の開始が遅いということはない。
ウ 輸血の開始後の処置について
庚医師は,濃厚赤血球の輸血を開始した時点で,院内にストックされていた濃厚赤血球全部(8単位)についても追加で交差適合試験を依頼して,血液の準備に努め,午後3時15分ころから,右試験の結果適合の認められた5単位の投与を行った。
この間,庚医師は更に日赤に対し,午後2時ころに10単位,午後3時ころに20単位の血液を追加注文するとともに検査部に交差適合試験を依頼し,午後5時ころから適合の認められた血液36単位の投与を行ったものである。
日赤への依頼後実際に輸血するまでにかなりの時間を要しているが,不適合な血液を輸血すると致死的な経過を辿る危険も存することなどから,試験を行う検査技師において慎重に対応し,右程度の時間を要するのはやむを得ないことであるから,被告らの対応に過失はない。
エ 輸血措置と死亡との因果関係について
そもそも輸血の目的は,末梢循環系への酸素の供給と,循環血液量の維持という点にあるところ,前記争点1主張のとおり,亡丙の死因は,末梢循環不全ではないと考えられるから,輸血措置と死亡との間に因果関係は認められない。
(4) 争点4
(原告らの主張)
被告丁から原告甲らに対して10パーセントくらいの確率で不幸な転帰をとる可能性があるとの説明はなかったし,手術のリスクの説明については全くなかった。原告甲らは,本件手術によって命を失うようなことはないと聞かされており,その点では安心して手術を受けたのである。手術時まで亡丙に対して行われていた肝動脈塞栓術が効を奏していたのであり,仮に10パーセントも死亡の確率のある手術であることを事前に聞かされていれば,本件手術を受けることはなかった。
通常,合併症や手術のリスクなどの詳細な説明を丁寧に行うような医師であれば,手術同意書にも慎重にその旨の記載を残しているものであるが本件ではそのような記載はない。
(被告らの主張)
6月11日,被告丁は,亡丙及び原告甲に対し,手術に関して以下のとおり説明し,手術の同意を得た。
ア 亡丙の疾患は肝癌である。
イ 肝癌の治療法としては,肝切除術,肝動脈塞栓術,経皮的エタノール注入療法があるが,亡丙の場合,腫瘍径から考えると,長期的予後が望めるという点において,腫瘍を含めて切り取る肝切除術が望ましく,その手術を行うこととした。
ウ 肝臓の手術で最も問題になるのは,切除後の肝臓の残存部分が十分に機能せず,術後,肝不全となって死亡することがあることである。そして,根治性と安全性の両面から検討した結果,根治性を重視すれば,肝右葉切除が望ましいが,その場合には術後肝不全の発症の確率が高くなるため,亡丙の場合は肝臓の概ね4分の1を切り取る肝右前区域切除が望ましい。
エ 現在のところ,術後肝不全を発症するかどうかについての確実な評価法はなく,亡丙の場合においても不幸な結果に終わる可能性は存すること。
オ 肝硬変に由来する出血傾向による術後出血,消化管出血,腹腔内腫瘍形成等からなる敗血症により死亡に至る可能性もあり,それらを総じて10パーセントくらいの確率で不幸な転帰をとる可能性がある。
一般にどのような手術であっても,手術を行う以上,大なり小なり危険があるのは当然であり,ましてや本件では肝臓癌の摘出手術が施行されたのであって,危険性がないかのような説明をすることはあり得ない。被告丁は肝切除手術にあたり,患者に対して,危険性がないとか,命を落とすようなことはないなどといった説明をしたことは一度もない。
原告らが受けたと主張する説明内容は,肝臓の状態から見て手術が可能であるかどうか,可能であるとしてもどの程度までなら切除することができるか,言い換えればなぜそこまで安全性を確保する必要があるのかという説明にほかならない。このような説明の流れにおいて肝臓の手術につきものである手術の危険性の話が出てくるのは当然のことであり,そのような説明もなしに危険性と表裏をなす安全性の説明のみをするということはあり得ない。
手術同意書には「手術の方法,手術の内容,及びその手術の必要性,麻酔方法,術中術後の合併症等について十分な説明を受け」と記載されており,被告丁が上記のような説明をしたことは明らかである。特記事項欄には同意書本文に記載のある手術がどのようなものであるかを明らかにするためにその術式を明記したものであって,ここにリスクや合併症等の記載がないからといって被告丁が説明をしていないとの結論にはならない。
(5) 争点5
(原告らの主張)
ア 亡丙には,被告らの不法行為によって,以下の損害について賠償請求権が生じ,原告らはこれをそれぞれ2分の1ずつ相続した。
逸失利益 3980万2380円(小数点以下切り捨て)
a 年収 578万9690円
b 生活費控除 30パーセント
c 稼働可能年数 13年
新ホフマン係数 9.821
d 計算式 578万9690円×(1-0.3)×9.821
慰謝料 3000万円
亡丙が一家の主柱であったこと,術前に生命の危険があるとの説明を受けていなかったにもかかわらず,本件手術によって死亡したこと,被告らが手術後その責任を全く認めようとしない不誠実な態度をとっていること,等本件に関する諸般の事情を考慮すれば,亡丙の慰謝料としては,3000万円が相当である。
イ 葬儀費用 120万円
原告甲は,亡丙の葬儀費として,120万円を下らない金額を支払った。
ウ 弁護士費用 846万円
原告らは,本訴訟の提起により,原告ら訴訟代理人に対し,着手金282万円,報酬金564万円を支払う義務がある。
(被告らの主張)
原告らの主張ア及びウは争い,同イは不知。
同アcについて,亡丙は肝臓癌に罹患しており,原告ら主張のような就労可能年数は認めらない。
第3争点に対する判断
1 争点1(亡丙の死因)について
(1) 以下の事実は当事者に争いがないか,証拠(略)により認めることができる(一部前記争いのない事実等に掲記した事実を改めて掲記する。)。
ア ショックとは組織や臓器の血流が正常な細胞活動を維持するのに不完全なときに発生する病態で通常は動脈圧の低下を伴うものであり,皮膚蒼白と冷汗,脈拍の頻数と微弱,血圧低下,精神症状,尿量減少などの症状を呈し,循環機能,腎機能,呼吸機能及び中枢神経の機能障害を呈すことが多いとされている。そして,ショックの治療はその原因を検索し,それに対する治療を迅速に開始するのが基本であり,遅れれば多臓器不全を惹起して不可逆性となり死に至る危険性があるとされている。
出血性ショックは,大量出血によって生じ,最高血圧が60ないし90ミリメートル水銀柱に低下した場合,出血量が1800ミリリットルないし2500ミリリットル以上になった場合には,鑑別診断上はそれぞれ中等度ないし重度の出血性ショックとなるとされている。
イ 亡丙の出血量は,午後2時の時点で1930ミリリットルであったが,そのころから肝切離面から滲出様の出血が見られて出血量が増大した。そのため,午後3時30分及び肝右葉切離が終了した午後4時45分の時点での亡丙の出血量は,それぞれ6500ミリリットル及び1万0400ミリリットルであったが,これに対し,午後4時45分までに行われた濃厚赤血球の輸血量は午後1時10分から7単位,午後3時15分から5単位の合計12単位,約1440ミリリットルであった。
また,赤血球数の正常値は,男性の場合430万ないし530万個であるとされているところ,午後3時ころ及び午後4時30分ころの赤血球数はそれぞれ,185万個,110万個であった。また,午後4時30分ころの血液検査成績書の検査番号が106であるところ,検査番号108の血液検査成績書において,赤血球数が69万個とされている。
ウ 濃厚赤血球の輸血は,通常1時間当たり1単位の血液を輸血するとされており,無理に1時間当たり10単位の輸血を行っても,赤血球が破壊されて血液の酸素運搬機能を十分回復させることができないほか,多量の溶血が起これば,腎不全を起こす可能性もある。
エ ショックの発生によって生じる代謝性アシドーシスとは,酸の過剰あるいは塩基の減少状態をいい,血漿であるHCO3の減少は体内への酸素の蓄積を意味するpHの低下をもたらすため,その濃度の低下を意味するものとされている。そして,代謝性アシドーシスが発生すれば,呼吸の数と深さが減少するとともに,腎性,アンモニア生成亢進,赤血球内への塩素移動などの代償を負うとされている。
そして,動脈血pHが7.4以下,血漿濃度が21ないし27ミリモル毎リットル以下,BEが-2以下であれば,それぞれ代謝性アシドーシスであることを示す指標となる。
オ 午後3時38分(採血午後3時30分)の亡丙の血液ガス検査結果によれば,同時点での血液pHは7.295,ヘモグロビンは測定不能,血漿濃度が18.9ミリモル毎リットル,BE(Base excess)は-7.5であった。
カ 亡丙の血圧は,午後3時ころから午後4時ころまでは,ほぼ80/40ミリメートル水銀柱で推移し,それ以後は100/50ミリメートル水銀柱前後で推移した。
キ 昇圧剤であるドパミンの投与は,毎分20単位の割合での投与が通常の使用法の範囲内の量であるところ,午後3時20分以降,ドパミンを毎分20単位の割合で投与していたが,午後4時15分以降は,毎分40単位の割合で投与していた。
(2) 上記認定事実及び証拠(鑑定)によれば,以下のとおり認定することができる。
ア 亡丙の午後2時以降の出血量は,午後2時以降午後3時30分及び午後4時45分まででそれぞれ4570ミリリットル及び8470ミリリットルに達していたにもかかわらず,輸血量は2400ミリリットルしか行われておらず,極度の貧血に陥っていたと認められる。
イ また,最高血圧も午後3時ころから午後4時ころまで80ミリメートル水銀柱であったこと及び濃厚赤血球の輸血も急速に行われたため赤血球が破壊され輸血の効果が十分に上がらなかった可能性が大きいこと,午後4時30分ころの赤血球数は,明らかに正常値を下回っているところ,同時刻における血液検査成績書の検査番号が106であることから,同番号が108の同成績書は午後4時30分より後に検査された数値を示していると認められるところ,同成績書における赤血球数はさらに減少しており,亡丙の循環機能が長時間にわたって低下していたことは明らかである。
ウ さらに,午後3時38分の時点における血液検査の結果は,いずれも亡丙に代謝性アシドーシスが生じていることを示している。
(3) したがって,かかる事実及び証拠(鑑定)を総合すれば,亡丙は,術中の大量出血により極度の貧血と末梢循環不全,代謝性アシドーシスを不可逆的に起こし,それが心機能の低下や臓器不全を惹起し,急性心不全によって死亡したものと認めるのが相当である。
(4) 被告らの主張の検討
ア 酸素供給量,酸素運搬能力及び循環血液量について
被告らは,午後4時30分ころの血中ヘモグロビン値は3.4グラムでその後も輸血は続行されており,かつ出血量は著減していることから,手術終了時における血中ヘモグロビン値はさらに増加していると考えられ,手術終了時には循環血液量に不足はなく,また,酸素供給能を示すヘモグロビン値も致死的レベルにはないと主張する。
しかし,前記のとおり,出血性ショックが生じた場合には,迅速に対応する必要があり遅れれば多臓器不全を惹起して死に至る可能性があるところ,本件では前記のとおり午後2時に出血が開始した後,被告丁が止血手技を講じても止血することができず,その原因を究明することができなかったため,午後4時40分に至るまでこれに有効な対策を講じることができなかった上,輸血も十分に行われていたとはいえず,亡丙の極度の貧血及び末梢循環不全状態が長時間継続していたものと認めることができるし,また午後4時30分ころのヘモグロビンの値も正常値である13ないし17グラムに比し極めて低い値となっていることが認められるから,被告らの主張は理由がない。
さらに,酸素運搬能の低下が死因であるとすれば,酸素が33パーセントである時に心停止を起こすはずであり,酸素不足が死因であるとの主張と,酸素が100パーセントになった後に心停止を来したとの事実は相矛盾するものであり,また心電図上徐々にSTの低下が認められると考えられるが,亡丙についてはそのような経過がなく,午後5時35分ころに突然心停止を来したもので,上記経過からも酸素運搬能の低下によって死亡したとは考えられないこと,さらに循環血液量とは赤血球の数だけでなく血漿等の血液成分なども含めた体液全体の総量としてとらえるべき問題であり,血漿の投与や輸液等によって総量として不足がなければ,循環血液量が不足していることにはならないところ,本件では心停止した午後5時35分ころの時点において新鮮凍結血漿70単位,等張アルブミン製剤1250ミリリットルが投与され,これにより1万6500ミリリットル以上の血液に相当する血漿成分が体内に入っており,それに加えて約6000ミリリットルの輸液もなされていることから,循環血液量に不足があったというようなことは考えられないとも主張し,庚医師も同旨の証言をしている。
しかしながら,出血性ショックによって生じた末梢循環不全が術中徐々に進行し,午後5時10分に酸素濃度を100パーセントにした後ももはや循環不全状態は回復せず経時的に循環機能が低下していった結果,午後5時35分に至って心停止に至ったと解すれば,必ずしも酸素運搬能低下が死因であるとの事実と矛盾するものではない。また,午後5時35分ころの記録は存在せず,証拠(略)によれば,庚医師は亡丙の心停止当時経時的に心電図を見ていたのではなく,看護婦から除脈になったと言われて心電図を見たところ脈拍が60くらいに低下していたため除脈と判断したこと,心電図を見ていた看護婦は,死因を出血性ショックと考えたことが認められるところ,かかる事実によれば,そもそも庚医師は心電図を常に注意して観察していたのではなく,看護婦から知らされて初めて除脈を知ったのであるから,午後5時35分に突然除脈が生じたとの事実を認めるに足りる証拠があるということはできない。むしろ心電図を実際に見ていた看護婦が死因を出血性ショックであると判断したことからすれば,午後5時30分に脈拍数100であった後,経時的に徐々に脈拍が低下していたところ,午後5時35分ころに除脈傾向が明らかになったことから庚医師に脈拍の低下を伝えるとともに,そのような経過からして死因を出血性ショックであると考えた可能性も大きく,酸素運搬機能の低下が死因であるとの判断を覆すには足りないというべきである。したがって,心電図を1分以上見ていなかったことはなく,1分以内に除脈が発生したことからすれば急激な除脈ということができ,亡丙に出血性ショックが生じたと判断することはできないとの証人庚の証言は採用できない。
また,循環血液量が足りていたとの主張についても,証拠(略)によれば,過度の昇圧剤の投与によっても亡丙の血圧は午後4時ころまでは低い数値で推移し,その後さらに別の昇圧剤を投与した結果,最高血圧が100ミリメートル水銀柱前後と若干改善されたことからすれば,末梢循環不全状態が続いていたことは明らかであるから,循環血液量に不足がなかったからといって,末梢循環不全とそれによる代謝性アシドーシスが死因であるとの判断を覆すには足りないというべきである。
イ 血圧について
手術終了時である午後5時10分ころには血圧は90/40ミリメートル水銀柱,脈拍90回前後,心停止直前の午後5時30分ころにおいても,血圧は95/45ミリメートル水銀柱前後,脈拍も100回前後でいずれも安定し,中心静脈圧も25cm水銀柱であってショックレベルにはないとの主張も,前記のとおり過度の昇圧剤の投与によって維持されていたにもかかわらず,血圧の上昇が低いレベルにとどまっていたと解されるから,これによって循環機能が回復していたとまで認めることはできない。
ウ 他の死因が考えられることについて
心筋梗塞,肺梗塞,肺出血等他の致死的要因が生じたとの主張はこれを認めるに足りる証拠はない。
エ 代謝性アシドーシスについて
pH7.295は通常範囲の7.34ないし7.46からいっても軽症に属するものであり,この程度の代謝性アシドーシスが死因であるとは考えられないとも主張するが,前記認定のとおり被告丁らが出血に対して有効な対策を取ることができず出血量が増加していったにもかかわらず,十分な濃厚赤血球の輸血が行われなかったこと及び証拠(鑑定)によれば,亡丙の代謝性アシドーシスもまた前記pHが測定された午後3時38分以降さらに悪化していたと認められるから,同時点のpHの値をもって,亡丙に代謝性アシドーシスが生じていなかったということもできない。
2 争点2(術中に大量出血が生じた原因は何であったか。)について
(1) 以下の事実は当事者間に争いがないか,証拠(略)及び弁論の全趣旨により認められる(一部前記争いのない事実等に掲記した事実を改めて掲記する。)。
ア 5月21日に血液検査が行われ,出血時間は3分30秒と正常値であった。また,いずれも凝固機能を示す数値であるプロトロンビン時間が12.1秒,トロンボテストが95パーセント,フィブリノーゲン値が233ミリグラムといずれも正常値の範囲内であったのに対し,血小板数は5万5000個と正常値より低かった。その後本件手術の開始に至るまで血液検査のデータはなかった。また,血小板数の正常値は13万個ないし35万個とされており,5万個以下になればときに出血傾向を認める場合があるとされている。
イ 6月6日の血液ガス検査結果によれば,ICG・R15分値は19パーセントと悪化していた。
ウ 6月12日午後2時に肝右葉前区域切除が終了したころの出血量は1930ミリリットルと通常予想される出血量の範囲内であったが,そのころ切離面から滲出様の出血が始まり,縫合止血,電気凝固止血,圧迫止血等通常の止血措置を講じても止血せず,後区域切除を開始する午後3時過ぎまでの間の出血量は5750ミリリットルへと増加した。
エ 午後1時10分ころ,濃厚赤血球7単位の輸血,新鮮凍結血漿及び等張アルブミン製剤の投与を開始し,その後午後3時30分まで投与を続けたものの出血傾向に変化は見られなかった。午後3時過ぎころから被告丁は肝右葉後区域追加切除を開始し,午後4時15分ころから15単位の血小板輸血が行われたところ,午後4時45分ころ切離面からの出血はほぼ止血したものの,追加切除開始からの出血量は4650ミリリットルに達していた。
オ 被告丁は,午後5時10分に創部を洗浄し,ドレーンを挿入して手術を終了した。
カ 血小板の障害に起因する出血傾向は点状・斑状出血が特徴的で外傷直後より出現するが,凝固因子異常に起因する出血傾向は深部出血・関節血腫が特徴的で外傷後数時間で出現するとされている。
キ 本件手術中に,門脈,肝動脈及びそれらの分枝からの出血,肝静脈からの止血困難な大量出血ないし肝静脈血流障害に起因する残存肝の血液鬱滞による異常出血などは特に認められなかった。
(2) 上記認定事実及び証拠(略)及び弁論の全趣旨を総合すれば,以下のとおり解するのが合理的である。
ア 手術中の出血の原因としては,外科的な手術を原因とする場合及び止血機能障害によるものが考えられる。そして,人の止血機構は,血管が収縮して血液の流れを抑え,出血を減らそうとすると同時に,血液中の血小板が速やかに損傷を受けた血管壁に集合し,粘着・凝集し,血小板血栓を形成し,損傷部をふさぎ,一次的に止血を行う一次止血及び血液が血管外へ出て組織液と混じり合うと血中の凝固因子が組織因子と連鎖的に反応してトロンビンを生成し,トロンビンはさらに血小板を凝集させるとともにフィブリノーゲンをフィブリンに転換してフィブリン網をつくり,血小板血栓を補強して止血が完了する二次止血の二段階に分けて考えることができるから,そのいずれかに障害が発生すれば出血傾向を生じる可能性があるとされている。
イ 外科手術に起因する止血困難な出血としては,門脈,肝動脈及びそれらの分枝からの出血,肝静脈からの出血ないし肝静脈血流障害に起因する残存肝の血液鬱滞などが考えられるが,前記のとおりこれらの事実は認められないことからすれば,本件出血が外科手術に起因して生じたとは認められない。
ウ 5月21日におけるトロンボテスト,プロトロンビン,フィブリノーゲン,HPTは正常であったことから,手術前の肝臓におけるタンパク合成能は良好であったと認められ,また手術中新鮮凍結血漿も投与されていることからすれば,術前及び術中における凝固因子量は問題なかったと認められる。
エ そして,午後2時以降の出血が滲出様の出血態様であったこと,後区域追加切除を開始した午後3時以降は,前区域切除に比べて切離面が小さくなったにもかかわらず出血量はむしろ増加する傾向にあったが,午後4時15分ころに血小板輸血を開始したところ,後区域追加切除を完了した午後4時40分ころの時点で止血していること,止血機能の改善がない限り,出血傾向のため創部を洗浄し,ドレーンを挿入することにより通常のように手術を終了することはできないことからすれば,本件大量出血は血小板数の減少による一次止血機構の破綻が原因であると解するのが相当である。そして,午後4時15分ころからの血小板輸血によって血小板数が回復し止血機能が改善したため,追加切除が終了した午後4時40分ころに止血できたと認められる。
オ そこで,亡丙にどの時点で血小板減少による止血機能障害が生じたかが問題となるが,5月21日に血小板数が5万5000個に減少しているが,止血機能を反映する出血時間は正常値である3分30秒であったこと,手術開始後特に異常出血を認めていないこと及び仮に術前から出血傾向が生じていたとすれば予定術式である前区域切除も多量の出血が予測されるが,通常予想される範囲内である1930ミリリットルの出血で施行できたことなどからすれば,亡丙に手術前から血小板減少による止血機能障害が生じていたとまでは認められない。
そして,5月21日の血小板数が出血傾向を生じる可能性のある5万個に近い5万5000個であったこと,手術の6日前である6月6日のICG・R15分値が,19パーセントと悪化していたことから,肝機能は悪化していたと認められること,手術中の出血により当然血小板も喪失すると解されるところ,午後2時の時点での出血量が1930ミリリットルであったことからすれば,相当数の血小板が喪失し,出血傾向を生じうる数値にまで低下していたと認められることからすれば,肝右葉前区域切除を終了した午後2時ころに,亡丙に血小板減少による止血機能障害が生じたと認めるのが合理的である。
(3) 被告らの主張の検討(術中播腫性血管内凝固症候群(DIC)ないしこれに比すべき凝固機能障害が発生したため,大量出血をもたらしたか否か)
ア 確かに前記争いのない事実等及び証拠(乙8,18,19,23,25)によれば,以下の事実を認めることができる。
(ア) 凝固機能の指標となるプロトロンビン時間,活性値,及びフィブリノーゲン値の正常値はそれぞれ概ね10秒から13秒,80ないし100パーセント及び200ないし400ミリグラムとされているところ,肝右葉前区域切除の終了した午後2時ころから肝右葉切除が終了した午後4時40分ころ間での間、出血量が経時的に増加し、その経過中であり出血点が増加していった時期である午後3時ころ,20単位の新鮮凍結血漿を投与したものの,術前値と比較して、凝固機能の指標となるフィブリノーゲン値は233ミリグラムから120ミリグラムに、プロトロンビン時間は12.1秒から13.8秒に、プロトロンビン活性値は91パーセントから55パーセントに、それぞれ低下している。
(イ) 一般に、フィブリノーゲンが50パーセントほど低下すれば、重篤な出血傾向を呈するDICの可能性を考える必要があるとされている。また,フィブリノーゲン濃度が100ミリグラム以下であれば自然出血が生じるとされている。
イ しかしながら,平成11年3月23日付原告準備書面添付別紙1の厚生省DIC診断基準によれば,原告主張のとおり亡丙はDICの可能性が少ないとの判断に至ること,DIC判断の重要指標となる血清FDP値の急激な増加傾向は見られないこと,また,午後3時以降も被告丁は,引き続き新鮮凍結血漿の投与を続け,手術終了までの投与量はさらに60単位に上っていること,FOYと同様の効果を有するフサン(蛋白分解酵素阻害薬)追加的に投与していること,同様に等張アルブミン製剤の投与も続けていることからすれば,血小板数に比して,凝固因子に関しては一定程度回復していたと認められるのであり,にもかかわらず午後4時40分ころまで出血傾向が収まることはなかったことからすれば,DICないしこれに比すべき凝固機能障害によって大量出血が生じたとは認めることはできない。
3 争点3(1)(亡丙に本件手術の手術適応があると判断したことにつき過失が認められるか)について
(1) 以下の事実は当事者間に争いがないか,証拠(略)及び弁論の前趣旨により認められる(一部前記争いのない事実等に掲記した事実を改めて掲記する。)。
ア 肝癌の治療法としては,肝切除術,肝動脈塞栓術,経皮的エタノール注入療法があるところ,癌の肉眼的進行度がステージⅢである場合の5年生存率は,肝切除術がほかの治療法に比べ良好である。
また,臨床病期ステージⅠで腫瘍径3センチメートル以上の場合,肝切除術と肝動脈塞栓術との各予後を比較すると,一般に肝切除術の予後が良好とされているところ,亡丙は臨床病期ステージⅠ,肉眼的進行度ステージⅢであった。
イ 肝切除範囲については,ICG・R15分値が20パーセント未満では1区域を超える切除が可能であり,また,ICG・R15分値が10パーセントないし19パーセントであれば右前区域切除が可能であるとされているところ,本件手術で当初予定されていたのは肝右葉区域1区域の切除であり,4月23日及び6月6日のICG・R15分値は,それぞれ13パーセント及び19パーセントであった。
ウ 血小板数が9ないし10万個で出血時間の延長を認め,顕性出血で止血を期待するには5ないし8万個が必要であるが,多くの血小板減少症患者では3万個以上であれば自発的止血は認められ,それ以下であれば出血時間が著明に延長するとされているところ,4月7日から5月21日までの6度の血液検査での血小板数は,肝動脈塞栓術施行後の4月14日及び同月17日に各4万6000個,4万5000個と若干低下しているほかはいずれも5万5000個から6万9000個であった。
また,肝硬変は長時間の経過を経て徐々に進行していくものであり,通常,2,3週間で肝硬変が原因で血小板数が急減したり,出血傾向が出現することはないとされている。
エ さらに,血小板数が急速に低下すると,鼻出血,口腔内出血など皮膚粘膜を中心に出血傾向が出現するとされているところ,亡丙にはそのような症状は認められなかった。
オ 被告丁は,亡丙の肝臓癌の根治性からすれば,肝右葉切除を妥当だと考えたが,ICG・R15分値が前記イのとおりであったため,肝機能の低下の可能性を考え,根治性には不安があったが,安全に手術をするために6月6日の数値を基準とした結果,肝右葉前区域切除が妥当であると最終的に判断し,本件手術を施行した。
カ 本件手術開始から,肝右葉切離開始までの出血量は260ミリリットルであった。
キ 肝右葉前区域切除術を施行した場合の出血量は通常1400ミリリットルないし4000ミリリットルとされているところ,本件において同区域切離が終了した午後2時における出血量は1930ミリリットルであった。
(2) 上記認定事実によれば,亡丙の肝癌の進行度からは,肝切除術が最も適切な手術であること,手術日における亡丙の血小板数及び出血傾向がいずれも耐術水準内にあったと認められること,肝機能が若干低下していたことから,被告丁が安全な肝右葉切除術を施行することに決定したことを認めることができる。したがって,かかる事実を総合して判断すれば,亡丙には本件手術の手術適応があったと認めるのが相当であり,被告丁がその旨判断した点に過失は認められない。
(3) これに対し,原告らは,本件手術の3日前である6月9日において,手術後の栄養管理並びに薬剤投与のための血管確保として,右鎖骨下静脈より挿入されたチューブ(TPNカテーテル)(中心静脈栄養)の挿入固定部より執拗な出血があり,ガーゼで圧迫固定したが,すぐに止血しなかった事実をもって本件手術直前の亡丙の止血機能もしくは血液凝固機能は耐術レベル以下であった可能性が極めて高いと主張する。
しかし,証拠(乙8,被告丁)によれば,TPNカテーテル挿入部からの出血は鎖骨下の小血管あるいは小動脈の損傷によって容易に生じうることから,凝固機能障害の存しない通常の患者についても一般的にみられ,また,被告丁が行ったオキセル綿を使用した圧迫止血によって現実に止血されていること,チューブ挿入よりさらに侵襲の大きい皮膚切開から肝切離開始までの手術操作によって260ミリリットル程度の出血量しか生じなかったことからすれば,亡丙に耐術不能な凝固機能障害があったと認めることはできない。また,5月21日以後血液検査の結果が得られていなかったが,手術直前の血液検査が行われていれば止血機能特に血小板数の相当数の減少があったはずとの主張についても,検査データがなかったのであるから,被告丁らは血小板不足の可能性があることも考慮すべきであったといえるが,その可能性が高かったとまで認めるに足りないから,採用することができない。
4 争点3(2)(術前に血小板輸血を準備していなかったことにつき,過失が認められるか。)について
(1) 以下の事実は当事者間に争いがないか,証拠(略)及び弁論の前趣旨により認められる(一部前記争いのない事実等に掲記した事実を改めて掲記する。)。
ア 4月7日から5月21日までの6度の血液検査が行われ,その後血液検査の結果が出ていなかったところ,実施された血液検査における血小板数は,肝動脈塞栓術施行後に行われた4月14日及び同月17日を除いた4回の検査結果において,5月21日の5万5000個が最も悪い数値であった。
イ 肝臓はその内部構造上出血すれば止血するのが容易でなく,また,肝臓のどの部分を切離しても出血しやすいとされている。また,肝硬変の場合には血小板数が低下していることが多く,また肝機能の予備能力が落ちているので肝臓で作られる血液凝固に必要な種々の成分も不足しがちであり,そういう状態で肝切離を進めるために出血すると循環血液中にある血小板などの血液凝固に必要な成分も使われたり流出したりしてさらに減少し,その結果,凝固機能が落ちて肝切離面からさらに出血しやすくなるという悪循環に陥る可能性があるとされている。
ウ 血小板数が5万個では,血小板減少による重篤な出血傾向を認めることはなく,2万ないし5万個では術中にときに出血傾向を認めることがあり,止血困難な場合には血小板輸血が必要となるとされている。
エ 術前に血小板数が5万個の場合,手術の内容により血小板製剤を準備するなど術前に血小板輸血を行うか否かの判断を行い,また,血小板数の減少を来す基礎疾患があれば,術前にその治療を行うべきとされ,また,肝臓の疾患などで出血傾向を伴う患者の場合,手術により大量の出血が生じることがあるので,術前から出血傾向の原因を十分に検討し,必要に応じて血小板輸血も考慮すべきとされている。
オ 庚医師は,本件手術時に,日赤に輸血用血液を発注してから,実際に輸血が可能になるまで2時間程度の時間が必要であることを認識していた。
カ 出血により血小板が消費されて減少し,それが原因となって凝固機能障害をもたらすこともあり,その結果止血障害が発生することもある。術中に出血傾向が生じるかは個人差があり,また術前の検査では判断することができない。
キ 原因疾患が何であれ,血小板の数的,質的異常に起因する出血に対しては血小板輸血が唯一の確実な治療法であることに変わりはなく,これに従事する医師としても血小板輸血に対する正確な知識を身につけ適正な使用を心がけるべきである。血小板数の正常値は15ないし30万個であるが,数は正常範囲内でも血小板機能が低下している場合には,一次止血が障害されて皮膚・粘膜の出血斑や血尿が出現したり,注射部位や手術創の止血が困難となるなど出血傾向が出現するとされている。
(2) 上記認定事実,前記争点に対する判断2(2)ア及び証拠(鑑定)を総合すれば,術中の出血によりショック症状が生じた場合には,その対処が遅れれば不可逆的症状を呈し死に至る危険性もあるのであり,だとすれば術前に術中出血が予想される場合にはその原因及び対処法を予め検討しておくべきであり,手術の場合の止血は患者の持つ止血機構に依存することが多く,特に血小板数は一次止血機能を営む重要な血中成分であること,また,肝切離術は出血を生じさせやすい術式であり,それによって血小板もまた相当程度流出することが当然予想されるのであるから,被告丁は,術前の血小板数を検査し,術中に大量出血を生じさせないように検討すべきであったというべきである。
特に本件では,亡丙は,前記認定のとおり,30年以上前から肝機能の低下を指摘されるなど慢性的な肝硬変であったこと,肝機能の指標となるICG・R15分値は,6月6日には悪化していたこと,5月21日における血小板数が重篤な出血傾向を生じさせるか否かの基準となる5万個に近い5万5000個であり,また,術前に行われた血液検査の中で肝動脈塞栓術施行後の検査を除けば5月21日の数値が最も低い値であったこと,更には手術直前の血小板数の検査データがなかったことからすれば,手術直前の血小板数が5万個以下に低下していた可能性も否定できず,また,手術中の出血による血小板数の流出も併せ考えれば,本件手術前に術中に重篤な出血を生じさせかねないまでに血小板数が低下する可能性があることは十分予見可能であったと解される。そして,出血性ショックによる死亡という最悪の結果を回避すべき義務が被告らに存することは当然であるところ,5月21日以降本件手術開始まで亡丙の血液検査の数値が出ておらず,また,輸血用血液を発注してから実際に輸血を行うまでに2時間以上要すること,血小板の数的,質的異常に起因する出血に対しては血小板輸血が唯一の確実な治療法であること,血小板数が正常範囲内でも血小板機能が低下している場合には,一次止血が障害されて皮膚・粘膜の出血斑や血尿が出現したり,注射部位や手術創の止血が困難となるなど出血傾向が出現することがあること及び出血性ショックが生じた場合にはその原因を究明し早期に対処する必要があることからすれば,手術直前の血小板数の正確なデータがなかった本件においては,患者の死亡という最悪の結果を避けるべく,術前に血小板輸血の準備をしておくべき義務があるというべきであり,これを怠った被告丁には過失が認められるというべきである。
被告丁が日赤に輸血用血液を発注してから実際に輸血が可能になるまでに必要とする正確な時間を知らなかったとしても,知らなかったこと自体に過失がある。
よって,同被告には不法行為責任があり,被告県には債務不履行責任がある。
(3) そして,被告丁が手術前に血小板輸血を準備していなかった結果,血小板輸血が午後4時15分ころになってようやく行われているところ,前記2(1)エで認定のとおり,血小板輸血後30分程度で止血していることからすれば,遅くとも前区域切除を終えた午後2時ころまでに血小板数の減少にも対応すべく血小板輸血が行われていれば,止血することができたと認めることができる。
だとすれば,手術前に血小板輸血を準備しておかなかった結果,手術中の出血による血小板数の減少に対し血小板輸血を行うことができず,一次止血機構が破綻して切離面から滲出様の止血困難な出血を生じさせ,午後4時15分まで血小板輸血を行わなかったために止血機構の改善がみられず大量出血をもたらした結果,前記のとおり出血性ショック症状を呈し,末梢循環不全及び代謝性アシドーシスによって不可逆的多臓器不全をもたらした結果,亡丙は死亡したと認められるから,かかる過失と亡丙の死亡との間には因果関係が認められるというべきである。
(4) 被告らの主張の検討
被告らは,血小板輸血には,患者に使用される血小板濃厚液の単位数が他の血液製剤に比べて多いこと,使用基準を設けないと使用量が急増すること,輸血後に患者の血小板数が増えにくい病態が多いこと,血小板数がいくつになったら輸血すべきかの点についての適応が万人の認める特定の値として設定されていないこと,有効期間が採血後72時間と短いため,準備しても使用しなかった場合には廃棄されること等から,臨床医においても血小板輸血について厳正に適応を判断し,安易に使用することは戒められているなどの問題点があることから,手術中のどの程度の出血量により血小板数がどの程度になった段階で出血傾向が生じるのかは明らかでない以上,血小板輸血に関する基準や肝切除術の適応・可否に関する基準,血液行政上の問題点等を踏まえた臨床現場における現実の対応等に照らせば,本件において術前に血小板を準備していなければならなかったとはいえないのであり,原告らの主張は一般の臨床医に過度の注意義務を課す不当なものであると主張し,同主張に沿う内容の文献を証拠として提出する(証拠番号略)。
しかしながら,本件において手術中に出血が生じること及びそれによって血小板が流出することは当然予想される事態であり,かつ手術前の亡丙の血小板数が低く,かつ手術直前の血小板数の正確なデータがなく,またICG・R15分値が悪化していたことからすれば,本件手術によって予想される出血に伴う血小板の流出によって止血機構が破綻する危険性は単なる可能性にとどまらず十分予測されること及び仮にそういった事態になった際にこれを放置しておけば,出血傾向が拡大し亡丙を死に至らしめるおそれもまた十分予測されるのであるから,術前の正確な血小板数のデータがあり,そのデータに基づき被告ら主張の当時の血小板輸血の基準に基づく判断を経ていれば格別,手術の3週間前の数値しか判明していないにもかかわらず,これを安易に信頼して血小板輸血を必要とする基準に達していなかったことを根拠として,血小板輸血を準備しておくべき義務はなかったということはできない。また,血小板輸血を可及的に抑制すべきという要請があることについても,本件手術による出血量はほぼ1400ミリリットルないし4000ミリリットルと予測できたのであるから,その出血した血液に含有している血小板数もまた予測できたということができ,それに基づいて通常必要とされる程度の血小板輸血は準備しておくべきであったというべきであるから,血小板輸血を全く準備していなかった被告丁らに過失がなかったということはできない。
5 争点3(3)(術中の止血手技に過失が認められるか。)について
(1) 以下の事実は当事者間に争いがないか,証拠(略)及び弁論の全趣旨により認められる(一部前記争いのない事実等に掲記した事実を改めて掲記する。)。
ア 一般的な止血措置としては,縫合止血,電気凝固止血及び圧迫止血の3方法があるとされているところ,午後2時ころの時点での肝切離面からの出血箇所は10か所程度であり,当初被告丁が,電気凝固止血ないし圧迫止血の方法で止血措置を講じていたが止血しなかったため,その後は辛医師や壬医師が,手術操作と関係のない切離面に,止血凝固剤であるアビテンを付着させ,さらにフィブリン糊をかけて,止血剤が入っているオキシセル綿を乗せ,その上にガーゼを当てて圧迫する方法で止血しようとしたところ,一時的に止血できた部位もあったが,しばらくして再度出血が始まるなど止めても止めても出血という状態が続いた。
イ 静脈からの出血に対しては肝臓を心臓の高さより高い位置に持ち上げると出血は減るとされ,また,左手による肝臓の保持,牽引により時として肝静脈の鬱血を招来することがありそれによって肝静脈からの出血が多くなることがあることから,肝静脈からの出血が減少するような角度・強さで肝を掴み直すことを試みることも有用であるとされているところ,被告丁は,肝臓を心臓より高く持ち上げたり,肝臓の持ち方を変えてみるなどしたものの効果はなかった。
ウ 凝固因子の不足に対して,新鮮凍結血漿や抗線溶薬であるFOYと同等の効果を有するフサンを投与したほか,午後4時15分からは血小板輸血を行った。
エ 午後3時ころの血小板数は1万3000個であった。そして出血は主として後区域切離面からであったことから,被告丁は,追加的に後区域切離を行えば,出血のコントロールが可能になると判断し,午後3時過ぎころ肝右葉後区域切除を開始した。
オ 後区域追加切除術中も,辛医師及び壬医師は肝左葉の切離面に対しては局所止血剤を貼付し,ガーゼで出血部を圧迫した。被告丁は,肝右葉後区域切除後,肝切離面に同様の方法で圧迫止血を施し,残存部分を電気凝固あるいは縫合止血の方法を施した結果,止血できたので再度同部分についても圧迫止血を施し出血の消失を確認した。
カ 午後2時過ぎころから午後3時過ぎころまでの間の出血量は3750ミリリットルであった。また,午後3時過ぎころから午後4時30分までの出血量は4650ミリリットルであった。
(2) 上記認定事実からすれば,被告丁らは,術中通常予定されている止血方法を施し,また凝固機能因子の流出にも対応していると認められること,術前に血小板輸血を準備しておかなかったものの既に血小板輸血用の血液を発注している状況の下で,一般的には追加された後区域切除は前区域切除に比べて切離面が小さいとされていることからすれば,滲出様の出血を減少させる方法として,出血部位の面積を狭くすることが適切だと考えたことには合理性があること,出血傾向が生じた午後2時過ぎころから後区域追加切除を開始した午後3時ころまでの間の出血量は1分間当たり約62.5ミリリットルであるところ,かりに後区域切除を行わず血小板輸血により止血し得たとしても午後3時過ぎから血小板輸血が開始された午後4時30分までに少なくとも5000ミリリットル以上の出血が生じたと考えられる(62.5×90分=5,625ミリリットル)が,実際には後区域切除の開始から手術終了までの実際の出血量は4650ミリリットルであり,前記予想出血量より少ないことからすれば,後区域追加切除事態が更なる大量出血をもたらしたとまで認めることはできない。そして,後区域追加切除を開始した午後3時の時点で仮に血小板の減少が原因であることを認識したとしても血小板輸血は不可能であったのであるから,結局そのような状況の下で追加切除を行ったこと自体にも過失があるとまでは認められない。したがって,血小板輸血を行わなかった点以外の被告丁らの止血手技に過失は認められないというべきである。
6 争点3(4)(亡丙に対する輸血措置について過失が認められるか。)について
(1) 確かに前記認定事実によれば,手術中の濃厚赤血球の投与は午後3時15分ころの時点で出血量が5750ミリリットルであったにもかかわらず,それまでの濃厚赤血球の輸血は7単位にとどまっており,同時点からさらに5単位の投与を行ったものの,それ以後午後5時ころに至るまで投与されておらず,亡丙の出血は午後4時40分ころまで続いていたのであり,同時点での出血量が1万400ミリリットルに達していたことからすれば,輸血が出血に追いついていなかったことは明らかである。
(2) しかしながら,前記のとおり,本件における大量出血は術前に血小板輸血を準備しておかなかったことによるものであると認められるところ,証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 庚医師は,午後1時10分ころ術前に準備していた濃厚赤血球7単位の輸血を開始すると同時に、院内にストックされていた濃厚赤血球全部(8単位)についても追加で交差適合試験を依頼した。
イ 庚医師は更に日本赤十字社に対し、午後2時ころに10単位、午後3時ころに20単位の血液を追加注文するとともに,検査部に対し,血液が到着次第交差適合試験を行うよう依頼した。
ウ 午後5時ころ,日赤から到着した血液のうち,交差適合試験によって適合が認められた24単位の濃厚赤血球の投与を行った。
エ 本件当時は、一般的に、出血量が600ミリリットル以下の場合には無輸血とし、600ミリリットルないし1200ミリリットルの場合には濃厚赤血球の輸血を行うべきとされていた。
オ 一般的に,輸血においては出血量の約半分の量の濃厚赤血球を投与するものとされている。
(3) 前記認定のとおり,前区域切除術の通常の出血量は2700プラスマイナス1300ミリリットル程度であるとされていること,前区域切除術が終了した時点での出血量は1930ミリリットルであること及び上記認定事実からすれば,庚医師が術前に準備していた濃厚赤血球の量が適切でなかったとまでは認められない。そして,出血量の増加に応じて庚医師が日赤に対し濃厚赤血球を追加注文し,午後5時ころから濃厚赤血球の投与を開始したこと及び前記のとおり血液の注文から輸血開始まで概ね2時間程度要することからすれば,出血後の対応に遅れ等不適切な点を認めることはできない。
7 争点4(被告丁に説明義務違反が認められるか。)について
(1) 証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 被告丁は,6月11日,亡丙,原告甲及び同人らの妹2人に対し,1時間程度かけて以下のとおり説明を行った。
(ア) 長期予後を望むという意味において間接切除が最もよく,切除するのが一番いいと考えられる。
(イ) 肝臓の図面(証拠番号略)を示しながら,血管系の状態や腫瘍の位置,術式を決定する際に,以前検査をした時点より肝臓の状態が悪化しているので,最初は肝臓を半分切除する予定であったが,検査の結果,肝臓の4分の1を切除する前区域切除に術式を変更した。
(ウ) 本件手術において近親者から採血を行うことはない。
(エ) 本件手術を行った場合に予測していた以上に肝機能が不良であれば死の転帰を取ることもないとは言えない。
イ 原告甲は,丙が本件手術を受けるにあたり,被告丁より手術の方法,内容,特に肝癌切除のため前区域を切除すること,手術の必要性及び術後の合併症等について十分な説明を受け,同手術が治療上必要であることを理解し,手術を受けること,複数の医師の判断により適切かつ必要と思われる手術の追加或いは変更にも同意するとの手術同意書(証拠番号略)に署名押印した。
(2) 前記認定事実からすれば,被告丁は,本件手術の術式,手術適応,手術の危険性などについて術前に十分な説明を行っているものと認められる。したがって,被告丁には何ら説明義務違反は認められないというべきである。
(3) これに対し,原告らは,本件手術に関しては命に別状がないこと,手術中に輸血をしないこと,手術時間は5時間から7時間程度を要することの説明があったものの,肝機能の数値が下がっている状態で手術をした際の不都合や手術の変更について一切説明がなかったことを主張し,原告甲本人もこれに沿う供述をする。
しかしながら,被告丁が1時間程度かけて原告甲らに対し説明をしたことは同人も認めているところ,それほどの時間をかけて被告丁が原告らの主張するような内容しか説明しなかったと解するのは不自然である。また原告甲は被告丁から動脈に傷を入れたら致命傷になると聞いたことが頭にこびりついていると供述しているところ,そのような可能性を示されてその後の被告丁の話を十分に記憶していない疑いがある。さらに被告丁が示したと述べる肝臓の図面(原告甲本人尋問調書末尾添付図面)が,被告丁作成の外来診療録において説明に用いたとされる図面(証拠番号略)とその位置関係が近似していることからすれば,同被告は診療録記載の図面を用いて説明したと認められ,そのような詳細な図面を用いたにもかかわらず,被告丁が手術の危険性などを何ら説明しなかったと解することはできないから,この点に関する原告甲の同供述は信用できず採用できない。
8 争点5(原告らの損害)について
(1) 亡丙の逸失利益について
ア 証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
(ア) 亡丙の手術前の腫瘍は,腫瘍径は5センチのものと及びその外側に肝内転移した1センチのものの2個であった。したがって,T因子は3,肉眼的進行度はステージⅢとされ,早期癌ではなかった。また,C型肝炎ウイルス(HCVAb)がプラス,AFP値は4月23日の時点で2878であり,活動性が高い肝硬変及び糖尿病に罹患していた。
(イ) 日本肝癌研究会追跡調査によれば,肝切除症例の生存率について,
a 進行度がステージⅢの場合,3年生存率は56.6パーセント,7年生存率は27.5パーセントであるとされている。
b C型肝炎ウイルス(HCVAb)がプラス(<証拠番号略>によれば,亡丙は該当することが認められる。)である場合,5年生存率は53パーセント,9年生存率は21.5パーセントとされている。
c AFP値は1000以上10000以下では,3年生存率が52パーセント,10年生存率は22.1パーセントとされている。
d 肝硬変のある場合,4年生存率が50.1パーセント,10年生存率は16.1パーセントであるとされている。
(ウ) 日本肝癌研究会の全国集計用調査用紙には手術を含めた治療後の生活状況を記載する項目はない。
(エ) 肝細胞癌は初回手術が切除治癒であっても,他臓器の癌に比べ術後再発率は極めて高いとされている。
イ 確かに本件手術が成功していれば亡丙は死亡することはなかったと認められることは前記認定のとおりであるが,上記認定事実によれば,亡丙が生存する確率が50パーセントを超えるのは3年ないし5年であること,亡丙にはこれらの症状が複合的に存在していたことからすれば,亡丙の生存の蓋然性が大きいと認められるのはせいぜい3年程度であり,かつ生存率はあくまで患者の生死にのみ着目しており,仮に生存していたとしても稼働能力があるということはできないことや亡丙は肝癌に加え,C型肝炎ウイルス,活動性が高い肝硬変及び糖尿病という種々の疾患を併存していたことからすれば,肝臓癌が再発する可能性もないとはいえず,かかる事実を総合的に判断すれば,仮に本件手術が成功していたとしても,その後稼働できる期間があったと認めるには足りず,上記認定を覆すに足る証拠はないから,亡丙には逸失利益は認められないというべきである。
(2) 死亡慰謝料について
前記争点3で認定説示した被告丁の過失の態様その他本件に現れた一切の事情を斟酌すれば,亡丙の死亡慰謝料は1200万円が相当であると認められる。
(3) 葬儀費用
弁論の全趣旨によれば,原告甲は亡丙の葬儀費用として少なくとも120万円を支出したことが認められる。
(4) 弁護士費用
本件医療事故と相当因果関係にある弁護士費用相当の損害としては,原告らそれぞれにつき65万円と認めるのが相当である。
9 結論
以上のとおり,原告甲の請求は,785万円及びこれに対する年5分の割合による遅延損害金を求める限度で,原告乙の請求は,665万円及びこれに対する年5分の割合による遅延損害金を求める限度で(但し,遅延損害金の起算日は,(1)被告兵庫県に対する請求については,診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償請求であり,同請求権は期限の定めのない債権であって請求により遅滞に陥るから,訴状送達日の翌日であることが記録上明らかな平成10年4月25日とし,(2)被告丁に対する請求については,不法行為に基づく損害賠償請求であり,同請求権は発生と同時に遅滞に陥るから,平成9年6月12日とする。)いずれも理由があるから一部認容し,その余の請求をいずれも棄却することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条,64条を,仮執行宣言につき同法259条1項を適用して,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 前坂光雄 裁判官 窪田俊秀)
裁判官 永田眞理は,転補のため署名押印できない。 裁判長裁判官 前坂光雄