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神戸地方裁判所 平成10年(ワ)738号 判決 2002年8月27日

主文

1  被告は,原告に対し,金2112万3159円及びこれに対する平成8年4月22日から支払済まで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は5分し,その1を原告,その余を被告の負担とする。

4  この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

1  被告は,原告に対し,金2625万3949円及びこれに対する平成8年4月22日から支払済まで年5分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

第2事案の概要

本件は,当時2歳であった原告が,自宅で左眼を強打し,同日及び翌日に母親に連れられて被告の経営する社会保険神戸中央病院(以下「被告病院」という。)で診察を受け,更に,同病院医師の指示により翌日国立神戸大学医学部附属病院(以下「神大病院」という。)で診察を受けたものの,結局左眼に高度な視力障害が残存したことについて,被告病院医師が初診当日又はその翌日に適切な治療をし,又は早期の転医指示をして転医先で適切な治療を受けさせていれば,上記の高度な視力障害が避けられたとして,被告に対し,債務不履行又は不法行為に基づき逸失利益等の損害賠償及び不法行為日からの遅延損害金の支払を求めている事案である。

1  争いのない事実等(証拠に基づく事実は後掲括弧内に証拠を摘示する。)

(1)  当事者

被告は,病院及び診療所の経営に当たっている社団法人である。

被告病院は,被告の経営する病院の1つであって,眼科を含む14の診療科を有する総合病院で,救急病院である。

原告(平成6年1月4日生)は,後記本件事故当時2歳で,その母親である原告法定代理人親権者Aと2人で生活していた。

(2)  本件事故

原告は,平成8年4月22日午後8時50分頃,自宅の居間で転び,机の角で左眼を強打した(乙1,以下「本件事故」という。)。

(3)  診療経過

ア Aは,本件事故当日,被告病院に電話した上で原告を連れて被告病院を訪れた。原告は,同日午後9時15分頃,当直のB医師(麻酔科)の診察を受けたが,同医師は,原告について左下眼瞼打撲と診断し,左眼周囲の生理食塩水による洗浄,イソジン消毒及び軟膏の塗布を行ったが,その他に検眼及び左眼の治療は行わなかった(乙1)。

イ 原告は,平成8年4月23日,Aに連れられて被告病院で診察を受けた。同病院眼科のC医師は,両眼の眼底検査及び超音波エコー検査をした後,Aに対し,眼底出血をした上,同病院では治療が難しいので,翌日神大病院で診察を受けるよう指示した。

ウ 原告は,同月24日に神大病院で診察を受け,同日から同年5月16日まで同病院に入院し,治療を受けたが,結局左眼に高度な視力障害が残存した。

2  主な争点

(1)  原告の左眼の高度な視力障害の原因

(2)  被告病院が,原告に対する医療契約上又は不法行為上の治療義務又は即時の転医指示義務に違反したか否か

(3)  被告病院が原告に対し上記義務を尽くしていれば,原告の視力は回復したか否か

3  当事者の主張

(原告の主張)

(1) 診療経過について

Aは,本件事故当日被告病院に電話した際,原告は左眼を打撲しているので,同病院で目の診察が可能か否か尋ねたところ,被告病院は,確認して折り返し電話する旨答え,数分後に被告病院から,来院するよう回答があった。

Aが同日原告を連れて被告病院に赴いた際,被告病院に眼科医はおらず,Aは,治療を行ったB医師に対し,原告が転倒して左眼を強打したので大事に至らないか心配である旨を告げたが,同医師は,目の周囲に軟膏を塗っただけで,検眼も眼科治療もしなかった。Aは,更に他の病院で眼科医師の診療を受ける必要性について尋ねたが,同医師が,明日被告病院の眼科の医師の診療を受ければよいと答えたので,原告を連れて帰宅した。

(2) 争点(1)(原告の左眼の高度な視力障害の原因)について

ア 外傷性視神経障害ないし網膜中心動静脈閉塞

(ア) 原告は,本件事故により,外傷性視神経障害ないし網膜中心動脈閉塞を発症したものである。

すなわち,原告の左眼底にはPHPV(第1次硝子体過形成遺残─発生初期に存在する第1次硝子体が生後にも残存し,これが萎縮あるいは増殖性変化をもたらすために生じると考えられる疾患)が存在したが,本件受傷時にPHPV内の硝子体動脈が損傷され,視神経乳頭上の硝子体出血が生じた。同時に外傷により視神経実質内に浮腫を生じ,外傷性視神経障害ないし網膜中心動脈閉塞をもたらしたのである。

このことは,鑑定の結果によっても裏付けられる。

(イ) 外傷性視神経障害とは,外力により介達性に視神経が障害され,急激な視神経障害を生じたものをいう。

外傷性視神経障害の診断に当たっては,視力,視野障害,直接対光反応,RAPD,画像診断等が重要である。

外傷性視神経障害の治療法としては,受傷後早急に浮腫を消退せしめ,不可逆的な視神経繊維の萎縮を予防するためのステロイド大量点滴療法が第一選択である。

(ウ) 網膜中心動脈閉塞とは,急激な網膜中心動脈の血行途絶により網膜全体の虚血を引き起こす疾患である。

網膜中心動脈閉塞の検査所見としては,視力低下,対光反射消失,網膜混濁,動脈の造影遅延等が重要である。

網膜中心動脈閉塞の治療法としては,一般に閉塞を除去するための眼球マッサージ,繊維素溶解薬,血管拡張薬等が指摘されているが,本件のように閉塞が外力による浮腫に起因する血管圧迫に基づく場合は,まず浮腫を早期に消退させるステロイド療法と硝子体出血に対する止血が重要である。

イ 視神経乳頭離断及び網膜中心動静脈断裂の可能性について

被告は,従前,原告が左眼を強打し,高度の硝子体出血があること及び神大病院において視神経乳頭離断との所見があることを理由に,原告の症状は網膜中心動静脈断裂であると主張していた。

(ア) しかし,CT写真(甲12,乙14)には,一本につながった視神経が写し出されているのであり,視神経乳頭離断が生じていなかったことは明らかである。

また,網膜中心動静脈の断裂が生じているとすれば,血流途絶により網膜血管が高度に萎縮し,白線化するはずである。しかるに,慶應義塾大学病院(以下「慶大病院」という。)が平成9年10月3日以降の診察に基づき作成した書面には,原告の左眼につき「眼底の網膜が比較的良好な色調である」と記載されており,これは網膜血管に血液が流れていることを示すものであるから,網膜中心動静脈断裂が生じていないことは明らかである。

(イ) 神大病院のカルテによれば,平成8年7月3日及び同月17日には視神経乳頭色調良好とされ,CT検査でも断裂の所見はなく,また,原告は失明しているのではなく,光覚及び物の動きがわかる程度の視機能はあるとされているから,本件事故の時点で視神経乳頭離断ないし網膜中心動静脈断裂が生じたとは考えられない。

また,慶大病院が平成9年10月3日以降の診察に基づき作成した文書には,「眼底の網膜が比較的良好な色調である」と記載されているところ,これは網膜の血管が再開し,血流が通っていることを示しているのであって,本件で網膜中心動静脈断裂が生じていないことは明らかである。

(ウ) 高度な硝子体出血が生じたことについては,本件事故後,同年4月24日の神大病院での受診まで,原告に対する安静の指示もないまま相当な時間が経過しており,時間の経過とともに出血が拡大する以上,神大病院での診察の時点である程度高度な出血を呈していても不自然ではない。むしろ,前記のとおり,高度な硝子体出血と同時に視神経実質内に浮腫が生じ,網膜中心動脈閉塞が生じたと解される。

もし,網膜中心動静脈断裂であれば,受傷直後から激しい硝子体出血のため眼底検査は全くできないはずであるが,本件の硝子体出血は本件事故後2日間経過しても出血範囲が限定されており,眼底検査も可能だったのであるから,網膜中心動静脈閉塞と判断する方が合理的である。

(エ) むしろ,CT所見や血流の保持等の客観的に明白なデータが存在するのに,鑑定の結果が出るまで,従前の被告の主張がされてきたこと自体が理解し難い。

(3) 争点(2)(治療義務又は転医指示義務の違反)について

ア 医療契約について

Aは,平成8年4月22日及び同月23日の受診の際,原告に代わって被告との間で,原告の傷病につき,被告に要求される知識及び技術を駆使して的確な診断を行い,必要な処置を遅滞なく実施し,もって原告の傷病の治癒について最善の診療を給付することを内容とする医療契約を締結した。

イ 平成8年4月22日の診察におけるB医師の注意義務違反についてAは,平成8年4月22日,被告病院に対し,電話で眼の診療が可能か否かを確認した上で原告を被告病院で受診させたのであるから,被告病院としては,同日の診察に際し,視神経が保たれているか否かを判定する必要があり,ペンライトでの瞳孔反応の観察,倒像鏡での視神経の観察をはじめとする諸検査を行うべきであった。そして,これにより眼の異常を発見すれば,更に精密眼底検査,レントゲン検査,RAPD検査,エコー検査,前眼部検査等を行うべきであり,それができないのであれば,直ちに他院を受診するよう指示すべき医療契約上の注意義務があった。

しかし,B医師は,Aに対して上記諸検査も他院への転医の指示もせず,原告の受診後に,Aが他院受診の必要性を確認した際にも,その必要はない旨の返答をし,上記注意義務を怠った。

ウ 平成8年4月23日の診察におけるC医師及びD医師の注意義務違反について

原告のような小児であっても,頭部及び全身を固定して瞳孔反応及び眼底の精密検査を行うことは可能であり,また,両眼の瞳孔の対光反応を連続的に比較するRAPD検査は,容易かつ短時間で実施可能な検査方法である。

被告病院がこれらの検査を実施していれば,原告の視機能の異常を発見でき,眼底検査での網膜色調不良及び硝子体出血と併せ,原告の疾患を,外傷性視神経障害ないし網膜中心動静脈閉塞と疑い,これらに対する治療ができたはずであるから,被告病院には,上記の検査及びステロイド大量点滴療法等の治療を行い,仮に被告病院においてそれらが困難であるとしても,直ちに高度専門医療機関への転医を指示すべき医療契約上の注意義務があった。

しかるに,C医師は,これらの検査を行わず,翌日の神大病院受診を指示したに止まり,また,D医師は,瞳孔の対光反応の検査を行う前に散瞳薬を使用するという基本的なミスを侵したため,RAPD検査が実施できず,それぞれ上記の注意義務に違反した。

被告は,D医師において,RAPD検査を実施していた旨主張するが,カルテに記載がない以上それはされていないと解される。

(4) 原告に対する診察及び治療の可能性について

ア 被告は,高度の硝子体出血のため平成8年4月22日及び翌23日のいずれの時点でも眼底の精密検査は不可能であった旨主張するが,原告が同月22日に被告病院で受診したのは本件事故の25分後の時点であり,出血の範囲はそれほど拡大していなかったはずであるから,上記検査は可能であった。

イ また,一般に治療は不可逆的変化が生じる前に開始されなければならないのであり,外傷性視神経障害,網膜中心動静脈閉塞は一刻を争う疾患であるから,網膜に不可逆的変化を生じる前にあらゆる検査を実施し,除外診断ができなければ直ちにこれに対する治療を開始すべきである。

本件では,高度の視力低下,対光反射喪失,網膜混濁及び視神経乳頭部の出血等の所見で,原告の疾患を外傷性視神経障害,網膜中心動静脈閉塞とほぼ絞り込めたのであって,診断は十分に可能であり,これを想定した治療を開始すべきであった。

(5) 争点(3)(原告の視力回復可能性)について

ア 外傷性視神経障害に対する治療としては,前記のとおり,ステロイドの大量点滴療法が第一選択である。

また,特に,網膜中心動脈閉塞に対する治療としては,眼球マッサージ,血栓溶解療法,抗血液凝固療法,高酸素療法等があり,網膜に不可逆的変化の生じる以前に行えば治療に反応する可能性は高い。網膜中心動脈閉塞においては,前記のとおり,血流の完全途絶後2時間で不可逆的変化を生じるとされているが,実際の臨床では完全な動脈の閉塞はまれであり,48時間以内に発症したものであればある程度の回復を期待できるとされている。また,網膜中心静脈閉塞は,血液溶解剤の投与又はレーザー光凝固等の治療で回復できる。

原告は,本件事故後25分間経過した時点である平成8年4月22日午後9時15分ころ被告病院で受診しており,被告病院がこのときに前記の諸検査を行い,更に,精密検査を行うか,転医指示をしていれば,早期診断,早期治療が可能だったのであり,これにより,ステロイド大量点滴療法等の上記各治療が可能であったから,高度な視力障害を避けることができた。

また,同月23日の診断の際,前記のとおりの検査,診断を行い,ステロイド大量点滴療法等の上記各治療を速やかに開始していれば,高度な視力障害を避けられた蓋然性がある。

このことは,E鑑定意見書(甲29)によっても,裏付けられる。

イ(ア) ステロイド大量点滴療法は,視神経の浮腫による視力障害が疑われた場合,ステロイドの抗炎症作用により,視神経の浮腫を早期に消退させることを目的とするもので通常行われ,一般的に承認されている治療方法である。高浸透圧製剤が併用される。このことは,我が国の多数の教科書的文献や症例報告によって裏付けられている。

(イ) 被告は,ステロイド大量点滴療法が有効とされている症例は,浮腫が主体の眼科的に軽傷の場合であって,本件と混同すべきでないと主張するが,ステロイド大量点滴療法が有効であった症例には,眼科的にも重傷例の報告もあり,被告のこの主張は理由がない。更に,本件においては,原告は他の眼傷害も併発しているが,その後の経過からすると,その左眼の高度な視力障害の原因は,外傷性視神経障害によると認められるから,ステロイドの大量点滴療法の適応がある。

(ウ) また,被告は,ステロイド大量点滴療法は,外傷性視神経障害に有効でないとの鑑定結果や論文をその主張の裏付けとするが,我が国の多数の文献,症例報告からして,採用できない。

(エ) 更に,被告は,本件では,転医先の神大病院でステロイド大量点滴療法がされたのに無効であったことをその主張の裏付けとして主張する。

しかし,それは,時期が遅く,投与量が少なく,併用されるべき高浸透圧製剤の併用がなかったものであるから,それが,有効でなかったことをもって,初期の段階の一般的なステロイド大量点滴療法が無効であったことを裏付けるものではない。

(6) 被告の責任原因について

前記の治療義務違反及び転医指示義務違反は,原告被告間の医療契約上の注意義務に違反するとともに不法行為を構成するところ,被告は,B医師,C医師及びD医師の使用者であるから,上記注意義務違反について,原告に対し債務不履行責任及び使用者責任を負う。

(7) 損害

ア 逸失利益

原告は,本件事故による左眼の高度な視力障害の結果,労働能力を45パーセント喪失したところ,原告は18歳から67歳まで就労可能で,平成8年8月の全産業女子労働者の平均給与額は年収210万8700円である。これを基礎にホフマン方式により中間利息を控除して逸失利益を計算すると1615万3949円となる。

2,108,700円×0.45×(28.5599-11.5363)=16,153,949円

イ  後遺障害慰謝料 760万円

ウ  弁護士費用 250万円

エ  合計 2625万3949円

(8) よって,原告は,被告に対し,債務不履行又は不法行為による損害賠償請求として,金2625万3949円及び不法行為の日である平成8年4月22日から支払済まで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(被告の主張)

(1) 診療経過について

ア  平成8年4月22日午後9時15分頃,当直医のB医師(麻酔科)が診察した際は,左下眼瞼の擦過傷,軽度出血及び腫張があり,左眼球運動に異常は認められなかったので,眼科医の緊急診察までは必要なしと判断し,被告病院の眼科医の応援を求めること,もしくは他院への転院処置を採ることはなく,イソジン消毒,洗浄及び抗生物質(タリビット軟膏)塗布を行い,翌日に眼科を受診するよう指示した。

Aから電話があった際,目の治療の可否の確認はされていない。また,原告の擦過傷の程度が軽かったことから,検眼は行わなかった。

イ  同月23日,被告病院眼科のD医師が診察し,両眼の対光反応のチェックをし,右眼の正常と左眼に対光反応がなく外傷性散瞳状態を確認し,かつ,外傷性散瞳状態のため,RAPDが検出されないことも確認し,そのままの状態で眼底検査をしたところ,左眼の硝子体出血を確認し,重傷と判断して,その確認事項を説明してC医師に診察・診断を依頼した。その際,C医師から両眼の薬剤による散瞳を指示されたので,D医師はミドリンP点眼薬を点眼して,両眼を散瞳させた。

ウ  同日,C医師は,D医師から上記各検査結果を聞き,更に,自ら眼底精密検査及びエコー検査を実施し,その結果,視神経乳頭部及び中心窩(黄斑部)を覆う高度の硝子体出血,網膜の色調不良を認め,網膜剥離はなさそうとの疑診はできたが,上記硝子体出血のため診断に重要となる視神経乳頭や中心窩(黄斑部)の観察ができず,原告が2歳3か月の幼児であるためそれ以上の診察・診断をするためには全身麻酔下での特殊な精密検査が必要であると判断し,被告病院では人的・物的に対応できないため治療方針も含め,詳細な診察・検査・診断・治療の全てを依頼して神大病院眼科に紹介したものである。

(2) 争点(1)(原告の左眼の高度な視力障害の原因)について

ア  現時点から後方的に考察すれば,鑑定の結果の通りであるといってよい。

イ  網膜中心動静脈断裂について

被告は,当初は,本件事故時は強度の外力が加わり,高度の硝子体出血が生じていること,神大病院では視神経乳頭離断との診断がされており,網膜中心動脈閉塞の特徴的な所見である黄斑部のチェリーレッドスポットが原告には認められていないことから,原告の左眼の高度な視力障害は,本件事故の時点で,視神経乳頭が離断するとともに左眼網膜中心動静脈が「断裂」し,網膜の血流が途絶したことによるものであると判断していた。

(3) 争点(2)(治療義務又は転医指示義務の違反)について

ア  平成8年4月22日の初診時について

(ア) 当日の当直医であるB医師は,幼児が眼を怪我をして泣いているとの通報により,取り敢えず自己のできる範囲で原告を診察してやりたいと考え,来院を応諾したものであり,その行為自体を非難することはできない。

なお,被告病院の夜間救急外来の体制としては,当日の当直科以外の救急患者については,担当科以外である旨を伝え,患者側がなおかつ,受診を希望する場合には,受け入れ,診察した後に,場合により専門医の応援等を求める体制であった。

(イ) B医師の診療は,前記(1)ア記載のとおりである。なお,原告は,受傷時に既に複雑かつ重篤な外傷性視神経障害を発症していたが,それは,高度の硝子体出血が消え,眼底の見え方がよくなった現時点において解明されたものであるし,Aは,原告の受傷状況を見ておらず,また,原告は当時2歳3か月の幼児であったため,B医師において必ずしも十分な眼外傷についての情報を得られなかったのであるから,眼科の専門医でないB医師が,軽傷と判断したことはやむを得ないことであり,同医師の判断が,過失を構成するほどの強い違法性を有するものではない。

イ  同月23日の被告病院眼科におけるD医師の診療行為について

(ア) D医師の診療行為は前記(1)イ記載のとおりである。このように,D医師は,対光反応検査,RAPD検査,眼底検査を実施しており,重傷とのみ診断し,その後のさらなる診察・検査(眼底精密検査,エコー検査等)と病態の診断はC医師に依頼したものであり,その行為には何らの過失は認められない。

(イ) なお,本件では,左眼の外傷性散瞳状態のためにRAPDの検出はされていないが,仮に,RAPDが陽性であったとしても,視神経障害が疑われるものではなく,広範な網膜障害(その原因は多数ある。)の時にもRAPDが陽性と出ることがあるのであるし,本件では,高度の硝子体出血が認められたのであるから,D医師が自分で施行した検査結果から,直ちに外傷性視神経障害と診断することはできず,この点からも,D医師に過失があるとは言えない。

(ウ) 更に,D医師が薬剤により両眼を散瞳させたのは,左眼に対光反応がなく,外傷性散瞳状態で,RAPDも検出されなかったからであり,かつ,眼底精密検査のためには両眼を散瞳させる必要があり,C医師から指示があったからである。したがって,この点も不適切な点はない。

ウ  同月23日の被告病院眼科におけるC医師の診療行為について

(ア) C医師の診療行為は,前記(1)ウ記載のとおりである。これには,何ら不適切な点はないし,鑑定書においても,その指摘もない。

(イ) C医師の診察の時点においても,外傷性視神経障害を疑うことは,D医師の場合と同様,不可能であった。

エ  更に,高度の硝子体出血のため,診断に重要な視神経乳頭等網膜中心部の観察が不能で確定診断が全くできない状況で,外傷性視神経障害や網膜中心動静脈閉塞を想定して,副作用を伴うステロイド大量点滴療法を開始することは考えられない。そのことは,神大病院においても,本件事故後1週間を経過した同月30日に至ってようやく全身麻酔下で蛍光眼底造影検査を実施していることから明白である。したがって,被告病院には,確定診断がされるまでの間に原告の主張する治療義務や即時の転医義務はない。

オ  よって,本件事故について,原告の主張する治療義務及び即時の転医指示義務はなく,被告病院に医療契約上又は不法行為上の注意義務違反はない。

(4) 争点(3)(原告の視力回復の可能性)について

原告の左眼の高度な視力障害の原因は,外傷性視神経障害であるが,ステロイド大量点滴療法によって,原告の左眼の高度な視力障害が避けられた蓋然性はない。以下,理由を述べる。

ア  鑑定の結果によると,本件の症例は,視神経が牽引されると同時に眼球が圧迫され,外傷性視神経障害と網脈絡膜循環障害が生じたものであって,硝子体出血は,網膜静脈から破綻性の出血,または網脈絡膜出血が硝子体におよんだことが推察されるものであるから,浮腫が主体の軽傷の外傷性視神経障害ではなく,複雑かつ重篤な外傷性視神経障害である。そして,ステロイド大量点滴療法が有効であるのは,浮腫が主体の,眼科的に軽傷の外傷性視神経障害であるから,本件は,それに該当しない。

イ  ステロイド大量点滴療法が,外傷性視神経障害の治療として有効とはいえないことは,鑑定の結果,鑑定書添付の文献に裏付けられている。なお,鑑定書添付の文献は,133の多数例について検討したアメリカでもトップレベルの権威ある雑誌Ophthalmologyに掲載されたものである。

ウ  本件では,転医先の神大病院でステロイド大量点滴療法がされたが無効であった。

第3当裁判所の判断

1  認定事実

前記前提事実及び証拠(甲1,甲10の1ないし3,甲12,13,乙1ないし3,原告法定代理人,後掲各証拠)並びに弁論の全趣旨によると,次の事実が認められる。

(1)  当事者

被告は,病院及び診療所の経営に当たっている社団法人である。

被告病院は,被告の経営する病院の1つであって,眼科を含む14の診療科を有する総合病院で,救急病院である。

原告(平成6年1月4日生)は,本件事故当時2歳3か月で,その母親であるAと2人で生活していた。

原告は,帝王切開で,38週に生まれた。出生時の体重は1514グラムで,新生児仮死であった。生後58日まで集中治療室に入院した。心室中隔欠損があったが,後に閉鎖した。未熟眼底で経過観察がされたが,未熟児網膜症とはなっていない。(乙2)

(2)  本件事故(乙1,原告法定代理人)

原告は,平成8年4月22日午後8時50分頃,自宅の居間で転び,机の角(正確には,角ないし縁)で左眼を強打し(本件事故),大声で泣いた。隣の部屋で洗い物をしていたAは,原告に駆け寄ったが,本件事故の現場を直接は見ていない。

(3)  同月22日の被告病院での診療経過(乙1,18,19,原告法定代理人)

Aは,本件事故当日,被告病院に電話し,原告が左下眼瞼を机の角で打撲しているので,被告病院で夜間でも目の診察が可能か否か尋ねたところ,被告病院は,確認して折り返し電話する旨答え,数分後に被告病院から,来院するよう回答があった。そこで,Aは,原告を連れて被告病院を訪れた。

その際,被告病院に,眼科医はいなかった。原告は,同日午後9時15分頃,当直のB医師(麻酔科)の診察を受けたが,その際,Aは,B医師に対し,原告が転倒して眼元を打っているので眼自体に異常がないか心配で受診した旨を告げた。同医師は,左下眼瞼の擦過傷,軽度出血及び腫張を認め,原告は左眼の開眼ができたので,左眼球運動が正常であることを確認したが,対光反応をみることもなく,原告について左下眼瞼打撲と診断し,左眼周囲の生理食塩水による洗浄,イソジン消毒及び抗生物質(タリビット軟膏)の塗布を行った。B医師は,その他の左眼の検査及び治療は行わなかった。

Aは,更に他の病院で眼科医師の診療を受ける必要性について尋ねたが,同医師は,左眼球運動が正常であったため,眼科医の緊急診察までは必要がないと判断し,被告病院の眼科医の応援を求めること,もしくは,他院への転院処置を取ることはせず,Aに,明日被告病院の眼科の医師の診療を受ければよいと答えた。そこで,Aは,原告を連れて帰宅した。

(4)  同月23日,被告病院眼科での診療経過(甲10の1ないし3,乙2,3,18,19,21)

Aは,B医師の指示に従い,本件事故の翌朝である同月23日午前8時過ぎに,被告病院眼科を訪れたが,診察を受けることができたのは昼前であった。

同日,被告病院眼科のC医師とD医師が診察したが,C医師は,被告病院眼科の長で,D医師を指導する立場にあった。カルテは,C医師が記載した。

その際,原告の左下眼瞼は腫脹していた。

D医師は,最初に,原告を診察し,直接対光反応検査を実施し,右眼が正常であるが,左眼は直接対光反応が欠損しており,散瞳状態であると判断した。RAPD検査は実施しなかった。D医師は,そのままの状態で眼底検査をしたところ,左眼の硝子体出血を確認し,重傷と判断して,その確認事項を説明してC医師に診察・診断を依頼した。その際,C医師から両眼の薬剤による散瞳を指示されたので,D医師はミドリンP点眼薬を点眼して,両眼を散瞳させた。

C医師は,D医師からの上記各検査結果を聞き,更に,自ら眼底精密検査及びエコー検査を実施したが,中心窩(黄斑部)を覆う高度の硝子体出血,網膜の色調不良を認め,網膜剥離はなさそうとの判断はできたが,上記硝子体出血のため診断に重要となる視神経乳頭や中心窩(黄斑部)の観察はできなかった。また,既に,薬剤によって散瞳されていたので,C医師において,RAPD検査は実施できなかった。

C医師は,左硝子体出血と診断し,被告病院では,子供を診断する設備がなく,医師がいないので,対応できないと判断し,Aに,原告には左眼内出血が認められること,被告病院では対応できないことを告げ,翌日神大病院を受診することを勧めたが,即日の受診が可能となるような措置はとらなかった。C医師は,その際,神大病院あての紹介状を作成した。そこには,診断名は「左硝子体出血」とだけ記載されており,他疾病の疑いについては記載されていなかった。更に,左眼の症状に関しては,左眼の状態に関する略図を記載した上,「硝子体出血,網膜剥離はなさそう,視神経乳頭と黄斑部は見えない,周辺部の網膜剥離はなく,色調は不良」とだけ記載されており,対光反応の結果やRAPDの検出が外傷性散瞳によって不能であったとの記載はなかった。更に,「治療方針含め,御高診,御加療の程よろしくお願いいたします。」との記載がされていた。

(なお,被告は,D医師において,対光反応検査を行う時に併せてRAPD検査を実施したが,外傷性散瞳のため,RAPDの検出がなかった旨主張し,C医師の陳述書である乙21には,D医師において,RAPD検査を実施した旨の記載がある。

しかし,甲8(473頁)によると,RAPDとは,左右眼に交互に対光反応を起こす交互対光反射試験の際に,健側から患側に光を振ったときに,光が入っているにもかかわらず,患側の瞳孔が縮瞳せずに散瞳を起こす現象を指すものである。そうすると,当日のカルテである乙2の「対光反応 右正常,左欠損,散瞳している」との記載からは,RAPD検査の実施の有無は明確でなく,素直に読めば,左右眼別々のみ直接対光反応を見て,交互対光反射試験の実施を検討しなかったと解される。

また,被告は,当時,原告は,外傷性散瞳であった旨を主張するが,それを裏付ける確たる記載はなく,カルテの上記記載は,左眼は,直接対光反応検査時に散瞳していたと読むのが自然であり,後記認定のとおり,翌日である同月24日に神大病院眼科において,RAPDが明らかな陽性(++)であったこと,外傷性散瞳は認められていないことからすると,同月23日においても,外傷性散瞳はなく,RAPD検査はできたと推認できる。

そして,眼外傷においては,RAPD検査は重要なものであるのに,その検出が不能であったならば,その点神大病院への紹介状に記載されてしかるべきなのに,その記載がないことも,RAPD検査の実施の可否が検討されていないことを窺わせる事実である。

更に,乙21も,被告がRAPD検査を実施したと主張するD医師本人が作成したものではなく,C医師が作成したものであること,その記載も,眼科医の一般的な行動を理由とするのみであることからすると,それ自体の信用性が乏しい。

そうすると,この点の被告の主張,乙21はいずれも採用できない。)

(5)  同月24日以降の神大病院眼科での治療経過(甲1,乙4の1,2,乙5,6)

Aは,同月24日,原告を神大病院眼科に受診させ,F医師の外来診察を受けた。その際,左眼下に皮下出血,少し擦過の痕があり,軽度の外斜視が認められた。RAPD検査は明らかな陽性(++)で光覚があった。眼球運動,前眼部,水晶体には異常がなかった。眼底写真検査やエコー検査がされ,左眼の硝子体出血,動脈狭細,静脈拡張,網膜の壊死状(色調不良)であることが認められた。そこでは,血流は途絶していると判断され,網膜中心動脈閉塞,重篤な網膜振盪症が疑われ,視神経の引き抜きかもしれず,外傷性視神経症の除外診断が必要であると判断された。なお,網膜剥離は認められなかった。また,角膜,前房,虹彩のいずれにも異常が認められなかった。

F医師は,Aに対し,原告の症状について,左眼網膜中心動脈閉塞の疑い,左視神経症の疑いで,左眼視力低下の原因検索,治療を目的として,入院加療を行う,視神経症の鑑別目的で診断的治療でステロイド剤の服用を行う,視力の回復については保証できない,全麻下に眼底造影を行うことを予定している旨説明し,Aに,原告の入院の承諾を得た。

入院時の主な症状は,左眼のRAPDが明らかな陽性(++)で,網膜は,白くて壊死状であり,チェリーレッドスポットは認められなかった。

原告は,同日,緊急で頭部及び眼科部拡大CTを受けたが,頭蓋内病変,出血,骨折は認められず,眼窩内で視神経の切断はなく,やや腫脹しているのみで,骨折はなかった。左眼球内に硝子体出血が見られた。

F医師は,同月25日,原告を小児科外来に受診させ,小児科医に,可及的速やかな診断,治療が必要であることを伝えた上,原告が体力的にステロイド治療や全麻下の眼底造影検査に耐えられるかを問い合わせ,問題ないとの回答を得た。

同日,動脈,静脈共に血流の途切れているところがあり,血柱は,どす黒く動いていないと判断された。しかし,網膜は,やや赤色調になってきていた。また,血管に副ってしみ状の出血が見られた。

F医師は,同月26日から,3日間,原告に,ステロイドであるプレドニン10ミリグラムを投与した。

同月26日,原告の左視力は光覚(-)様で,左眼の硝子体出血には変化が無かった。血管の途切れはなくなったと判断されたが,どす黒い色調の血柱が認められた。

同月27日の網膜の色調は,白,黄色,桃色であった。

同月28日,血流の途絶が確認され,左眼の対光反応も,光覚もなく,ステロイド投与の効果は認められなかった。

原告は,同月30日,全身麻酔の下,蛍光眼底造影検査を受けたが,網膜血管は造影されなかった。

原告は,同年5月15日,虹彩ルベオーシスはなかった。

原告は,同月16日,神大病院を退院した。

原告について,一旦は,左硝子体出血に対し,手術的に対応することも検討されたが,視力回復への影響はほとんどなく,眼球保持にはよくないとの判断がされ,自然吸収を待つこととし,退院後,通院,経過観察となった。

原告は,その後,神大病院に通院したが,同年6月19日,硝子体の混濁が軽減し始め,同年12月18日,初めて視神経乳頭の確認ができたところ,蒼白で視神経萎縮を示すものであった。平成9年2月5日の原告の光覚は(+)であった。

G医師は,同年9月17日,原告を,左網膜循環障害(視神経引き抜きの疑い)との傷病名で,慶大病院に紹介した。

(6)  慶大病院での診断(甲11)

原告は,平成9年10月3日,慶大病院眼科を外来受診し,F医師の診察を受けた。原告の視力は,右が0.8,左が測定不能であったが,光覚は(+)であった。また,脳波の所見からすると,左眼は完全に失明しているのではなく,光覚及び物の動きがわかる程度の視機能があると判断された。左眼底に,第一次硝子体過形成遺残が認められた。F医師は,対光反応に明らかな左右差があり,眼底の網膜が比較的良好な色調であることから,原告について,左外傷性視神経萎縮と診断した。

(7)  平成13年1月9日の鑑定人の診断した症状(鑑定の結果)

左眼の視力は,視能訓練士が,通常の明るさの光(ペンライト)で検査する限り光覚がないが,細隙灯顕微鏡下で,強い光を当てると,光覚は存在する程度であった。直接対光反応は左眼においては弱く,また,RAPDが陽性であった。網膜変性は,主として後極部で,周辺部網膜の色調は比較的良好であった。

眼底検査では,視神経乳頭は萎縮,蒼白化していた。

網膜の所見としては,乳頭を中心に網脈絡膜の変性があり,一部の静脈に白鞘化が見られたものの,網膜血管の血流はほぼ保たれていた。黄斑部には一部色素沈着が見られ,また,脈絡膜断裂に起因すると思われる萎縮も認められた。

(8)  原告の現在の症状及び生活状況

原告は,平成13年7月,原告法定代理人尋問期日の時点で,小学2年生で,公立小学校に通学しているが,左眼が見えないため,歩行する際に左側の視野が狭く,危険で,右目が疲れやすく,姿勢も悪い。

原告は,現在,定期的に神大病院に通院し,G医師の診察を受けている。

原告の左眼は,種々の眼疾患にかかりやすく,眼球の保存が課題である。

2  原告の左眼の高度な視力障害の原因(争点1)

(1)  証拠(甲2ないし4,8,9,15,30,37,乙16)によると,次の事実が認められる。

網膜動脈閉塞症とは,急激な動脈血の血行途絶により網膜全体の虚血を引き起こす疾患であって,発症直後より,急激で重篤な視力障害を生じる。片眼性の直接対光反射の消失,広範囲に混濁した網膜に狭窄した網膜動脈が観察され,黄斑部はチェリーレッドスポットを示す。内科的な疾患によって起こるが,外傷性もある。また,網膜静脈閉塞症は,静脈血の血行途絶によるもので,症状の発現は,動脈血に関するものより,緩やかなものもある。

網膜動(静)脈断裂とは,網膜中心動(静)脈が断裂することをいう。

外傷性視神経障害とは,眼球周辺,多くは,眉毛部外側の打撲により,介達性に視神経,特に,視神経管部視神経が障害され,急激な視機能障害が生じるものである。視力障害の程度は,軽度から失明状態まで,症例によって様々である。高度障害であれば,直接反応減弱もしくは消失を認めることもある。外傷性視神経障害の診断にもっとも重要なのは,RAPD検査である。診断基準としては,頭部打撲の事実,片眼の視力障害及びRAPDの検出で足りるとされている。眼底は,外傷直後より,ある程度の期間までは視神経乳頭の所見は正常,のち視神経萎縮を呈する。外傷性視神経障害の治療の第一選択としては,ステロイド大量点滴療法(この療法の有効性については,争いがあるので,その具体的内容,有効性については,後記4(1)で詳述する。)が考えられる。

視神経乳頭離断とは,介達性外力により眼球・視神経にゆがみが発生し,視神経乳頭部で,視神経が断裂したものである。幼児,若年者に多く,視力は受傷直後よりの光覚弁消失が一般的である。直接対光反応も消失しており,黒内障性瞳孔強直をみる。眼底所見は透視可能なら,視神経乳頭部の著明で急峻な陥凹,視神経乳頭縁での網膜断裂,網膜,硝子体出血,網膜中心動脈の閉塞,チェリーレッドスポット,網膜剥離等の特徴的所見を示す。

(2)  1記載の原告の左眼の症状,治療の経過(特に慶大病院F医師の判断)及び(1)記載の医学的知見並びに甲29,鑑定の結果を併せ考慮すると,次の事実が認められる。

ア 硝子体出血について

原告には,平成8年4月23日から,一貫して硝子体出血が認められることは前記のとおりであるが,これは,自然的に消滅したものであるから,原告の左眼の高度な視力障害の原因ではない。

イ 網膜動(静)脈閉塞ないし網膜動(静)脈断裂について

平成8年4月24日からの神大病院における治療経過において,網膜動脈の血流が途絶していたことが再々確認されていたことからすると,原告には,網膜動脈閉塞が一時的に見られたことが窺えるが,現在は一部の静脈に白鞘化が見られるものの,血流がほぼ保たれており,これが認められたとしても,原告の左眼の高度な視力障害の原因とはいえない。

また,現在,血流が保たれていることからすると,網膜動脈断裂はなかったと認められる。

ウ 網脈絡膜障害について

本件事故の態様,前記の網膜の所見からすると,鈍的な外傷によって,網脈絡膜障害が生じたと解されるが,網膜変性が限局していることからすると,原告の左眼の高度な視力障害の原因とはいえない。

エ 外傷性視神経障害ないし視神経乳頭断裂について

本件事故の態様,本件事故翌日である平成8年4月23日以降,直接対光反応が左眼において弱く,同月24日以降左眼のRAPDが明らかな陽性であること,同日の頭部,眼窩CT所見で,左眼視神経の断裂ではなく,やや腫脹している像が見られたことからすると,原告の左眼には,外傷性視神経障害が認められるが,視神経乳頭断裂はないと認められる。

そして,前記のとおり,他の原因は,原告の左眼の高度な視力障害の原因になりえず,外傷性視神経障害は,一般的に高度な視力障害の原因となりうるものであることからすると,原告の障害の原因は,外傷性視神経障害と認めるのが相当である。

3  治療義務違反又は転医指示義務違反(争点2)

(1)  平成8年4月22日のB医師の診断について

ア 前記のとおり,B医師が,Aから告げられた本件事故の態様は,左下眼瞼を机の角ないし縁に打ち付けたとするもので,傷害の部位が左眼に衝撃がかかるべき場所であるばかりか,本件事故の態様も,左眼に強い衝撃が生ずる可能性があるものであること,原告は2歳3か月であるから,高度の視力低下があっても,それを訴えることはできないと解されること,夜間に保護者が,あえて,眼の異常を心配し,救急の診察を望んだことを考慮すると,診断をした者が麻酔医であっても,少なくとも,本件事故の態様の詳細を聞き取り,左眼自体に何らかの傷害が生ずべき態様であることを把握し,麻酔医でも可能な直接対光反応検査を実施する義務,ないし,眼外傷の内容,程度を知るためには直接対光反応検査が有用であるとの基礎知識がない程,眼科の知識が乏しいのであれば,自らに眼科の知識が乏しいことを自覚した上,被告病院の眼科医を呼ぶ,眼科医の診断を受けることができる病院への転医の手続をとる,或いは,少なくとも,原告側に即時,眼科医への受診を指示する義務があると解すべきである(以下「B医師の適切な診察等をすべき義務」という。)。

イ 被告は,麻酔医であるB医師とすれば,その診療行為に,違法性まではない旨主張する。

しかし,Aは,受診前に,原告の受傷部位が左下眼瞼であること,受傷態様が机の角で打ったものであることを電話で伝えた上,診察が出来るかを問い合わせたのに対し,受診を認めたものであること,前記認定の被告病院の規模や性質等を考慮すると,夜間の救急外来で,他科医が診察をしたことを十分考慮しても,上記の電話の内容で,眼科医以外であっても,受傷態様からすると,眼自体の傷害の可能性があることの把握はできるから,それを知りながら診療した以上,少なくとも,ア記載の程度の義務はあると解すべきである。

ウ そうであるのに,B医師は,直接対光反応検査を実施せず,被告病院の眼科医を呼ぶこと,眼科医の診断を受けることができる病院への転医の手続をとること,又は,原告側に,即時,眼科医への受診を指示することをしなかった。

したがって,B医師の診察は,被告病院において期待される医療水準に達していない,違法な行為と解すべきである。

エ したがって,被告病院は,使用者として,B医師の適切な診察等をすべき義務違反と因果関係のある損害を賠償する責任を負う。

(2)  同月23日のD医師,C医師の診察について

ア 前記認定の治療経過及び医学的知見並びに甲29,鑑定の結果を併せ考えると,C医師ないしD医師は,RAPD検査を実施していなかったところ,この時,RAPD検査を実施していれば,硝子体出血で黄斑部と視神経乳頭が見えなかったとしても,外傷性視神経障害を強く疑うことが可能であった。

そして,後記で詳述するように,ステロイド大量点滴療法は,受傷後できるだけ早期に実施した方が予後がよいので,その疑いが強い段階でもその実施をすべき義務,ないし,その実施が被告病院で困難であれば,その実施が可能な病院へ,即時,転医すべく手配し,併せて,転医先の病院に外傷性視神経障害の疑いが強い旨伝える義務(以下「C医師らの適切な転医等をすべき義務」という。)がある。

(なお,仮に,被告が主張するように,D医師がRAPDの検出ができないと判断していたとしても,翌日にされた神大病院でのRAPD検査の結果が明らかな陽性(++)であったことからすると,その判断は,誤りであった可能性が高いばかりか,その検出ができなかったことを前提としても,原告の左眼の受傷態様が(1)のとおり眼自体の外傷の可能性があるものであること,現に高度の左眼の硝子体出血が認められていること,左眼網膜の血行不良も認められていること,左眼の直接対光反応が認められなかったこと,RAPD検査が不能であったならば,外傷性視神経障害の除外診断はできないこと,硝子体出血で左眼の黄斑部と視神経乳頭が見えなかったものであるから,そこに障害がある可能性も十分あること,原告の年齢からすると高度の視力障害を訴えることができない可能性も十分あることからすると,外傷性視神経障害の可能性を十分検討すべきといえ,この段階で,少なくとも,より詳細な検査が可能な病院へ,即時,転医すべく手配し,必要な検査情報を漏れなく伝える義務がある。)

イ そうであるのに,C医師ないしD医師は,RAPD検査を実施せず,外傷性視神経障害を強く疑うべきであったのに,それを強く疑わず,ステロイド大量点滴療法を実施せず,即時,転医の手続もとらず,Aに,眼球内出血のみを告げ,診断名としては硝子体出血のみを記載した紹介状を渡した上,翌日,神大病院へ受診することを指示したものであるから,C医師ないしD医師の診察行為は,眼科医として要求される医療水準に到底達していないと解すべきである。

ウ したがって,被告病院は,使用者として,C医師らの適切な転医等をすべき義務違反と因果関係のある損害を賠償する責任を負う。

4  原告の視力回復の可能性(争点3)

(1)  外傷性視神経障害に対するステロイド大量点滴療法の有効性

ア 証拠(甲15ないし28,30ないし34,37)によると,次の事実が認められる。

外傷性視神経障害の治療としては,多くの医学文献に,反応性浮腫や出血のために視神経に加わった圧迫性障害を軽減するステロイド大量点滴療法が第一選択である旨記載されている。

ステロイドの大量点滴療法には,漸減療法及びパルス療法がある。漸減療法がより一般的であって,その実施方法としては,大量のステロイド(プレドニン換算80ないし100ミリグラム)に高浸透圧製剤(グリセリオール,マンニトール300ないし500cc)を混入して点滴注入するのが最もよい,3ないし7日間継続し,視力が好転しはじめたら20ミリグラム単位で漸減してゆく,40ミリグラム以下になったら内服に切り換えるとされている(甲30)。パルス療法は,短期に集中的にステロイドを投与する方法で,例えば,メチルプレドニゾロン点滴1000ミリグラム3日間後,内服24ミリグラム3日間,16ミリグラム3日間,以後16ミリグラム2日間隔日をビタミンB12の内服と併用して投与する方法がある(甲21)。

ステロイドの大量点滴療法が外傷性視神経障害における視力,視野改善に有効であった例が,多数報告されている。治療機会が早いほど予後がよい傾向が見られるとされる報告が多い。2日以内のものであれば,ほぼ全例に奏功するし,5日以内では高率に好転するとする報告(甲30),受傷後3日以内であれば,視力が0のものを除き,ほぼ全例に奏功し,5日以内であれば高率に好転するとする報告(甲37)がある。

しかし他方,十分な改善を得られない例もあるとされており,例えば,外傷後視力が光覚を弁じない視神経障害については,短い時間内に光覚が回復しない限り予後は不良であるとされる(甲30)。但し,光覚が消失したと判断された後,数日後視力が回復した例もある(甲18,20,23)。

ステロイドの投与によって視力の改善が図られた例において,早いものでは外傷後3ないし4日で視力の改善を認めるが,遅いものでは,2ないし3週間を要するとされている。

また,回復例のうち,回復の程度は,報告例によって様々であるが,外傷後早期にステロイド大量点滴療法を実施した場合には,受傷時の視力が数値の形では出ない程度のものであっても,光覚があれば,多くは,0.1を超える程度に改善しているが,最終的な視力が0.6以上のものは,過半数とは言い難い(甲17,18,20,21,27,37参照)。

イ 被告は,外傷性視神経障害について,ステロイドの大量点滴療法の治療効果は認められない旨主張し,乙21,鑑定の結果もそれに副う。

しかし,鑑定が,その結果を導いた根拠は,鑑定書添付の資料のうち,特に,乙22で訳された部分あって,それが,権威のある研究報告であることは窺えるが,前記認定のとおり,他方,ステロイド大量点滴療法の治療効果を認める報告,症例も多々あり,鑑定書添付の資料のみで,それらの症例は否定されないこと,鑑定書添付の資料についても,全文訳の提出がなく,症例の詳細等が確認できない以上,その評価が困難であり,甲35,36によると,かえって,ステロイドの大量点滴療法の治療効果に肯定的な部分もあると窺えることからすると,この点の被告の主張も理由がない。

ウ また,被告は,原告の外傷性視神経障害は複雑,重篤なものであって,ステロイドの大量点滴投与による治療効果は認められない旨主張する。

しかし,前記認定のとおり,原告は一時,光覚がないと判断されたことはあるが,治療開始すべき時点に光覚が確認されており,現段階でも光覚は維持されているもので,ア記載のとおり,ステロイド大量点滴療法が無効とされる光覚が認められない症例ではないこと,原告には,外傷性視神経障害の他,合併症も認められるが,2(2)記載のとおり,他の傷害は原告の高度の視力障害の原因となっているとは窺えないことからすると,この点も,ステロイド大量点滴療法を無効とする根拠とはいえない。かえって,ア記載の症例報告(特に,甲17,18,20,21,27,37参照)からすると,眼科的な症状としても比較的重篤なものについても,ステロイド大量点滴療法が有効であった例は多々ある。そうすると,原告の外傷性視神経障害にステロイド大量点滴療法の治療効果がないとはいえない。

エ 更に,被告は,原告については,受傷後4日後である平成8年4月26日から神大病院においてステロイド療法がされたのに,それが有効でなかったので,原告の外傷性視神経障害には,ステロイド療法は有用でないことが明らかとなった旨主張し,乙17は,それに副う。

しかし,神大病院で原告に投与されたステロイドの量は,原告の体重を考慮しても,漸減療法,パルス療法のいずれの投与量と比べても少量であって,漸減療法において,併せて投与されるべき高浸透圧製剤の投与もなく,投与の期間も,いずれの療法と比べても3日間と短期であって,投与された時期も,受傷から4日後である。

これらの点を考慮すると,神大病院でのステロイド療法が,原告の視力回復に有効でなかったことは,より早期の,一般的に行われているステロイド大量点滴療法が,原告の視力回復に有効でないことを裏付ける事実とはならない。

(2)  平成8年4月22日の時点

前記のとおり,原告の左眼の高度な視力障害の原因は,外傷性視神経障害と解される。

そして,前記認定の治療経過,甲29によると,同日,B医師の適切な診断等をする義務が履行されれば,原告は,早期に眼科医の診察を受けることができた。そして,原告がB医師の診察を受けたのは受傷後25分経過後であることからすると,眼科医の到着や転医等にある程度の時間を要するとしても,同月23日に比べると硝子体出血の程度が少ない時点での診断が可能であったといえるから,原告の視神経乳頭等は視認でき,外傷性視神経障害を認める可能性があったと推認できる。したがって,その時点で,眼科医が,直接対光反応検査,RAPD検査,散瞳による精密眼底検査,エコー検査,前眼部検査等をすれば,外傷性視神経障害の確定診断は可能であったと認められる。

なお,眼科医が診断した時点で,仮に,硝子体出血がある程度進み,視神経乳頭等の視認が困難等の理由で,その萎縮が確認できなかったとしても,直接対光反応検査,RAPD検査等によって,少なくとも,外傷性視神経障害を強く疑うことは可能であったと認められる。

そうすると,B医師の適切な診察等をする義務が履行されれば,眼科医の到着,転医やステロイド投与量や可否の決定のための小児科との打ち合わせ等に要する時間を考慮するとしても,原告は,同月23日ないし24日から,適切なステロイド大量点滴療法を受けることができたと解すべきである。

そして,(1)記載のとおり,外傷性視神経障害における治療の第一選択は,ステロイド大量点滴療法とされており,治療機会が早い程予後がよいとされていることからすると,原告が早期にステロイド大量点滴療法を受ければ,外傷性視神経障害がある程度改善したことは,一般人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるとはいえる。

また,その改善後の視力としては,(1)記載の改善例からすると,視力が0.1を超え0.6以下となる程度までしか,上記確信は持ち得ないと解さざるを得ない。

そうすると,B医師の適切な診察等をする義務違反がなければ,原告は,早期にステロイド大量点滴療法を受けることができ,視力が0.1を超え0.6以下に回復した蓋然性はあるものといえるから,上記義務違反と,原告の左眼の視力障害が上記の程度高度化したこととの間には,相当因果関係がある。

(3)  平成8年4月23日の時点

前記認定の治療経過,甲29によると,同日,D医師ないしC医師が,RAPD検査を実施するなどして,外傷性視神経障害を強く疑い,ステロイド大量点滴療法を準備する,ないし,転医等の手配をしていれば,同月24日ないし25日から,適切なステロイド大量点滴療法を受けることができたと解すべきである。

そうすると,(2)と同様に,C医師らの適切な転医等をすべき義務違反がなければ,早期にステロイド大量点滴療法を受けることができ,視力が0.1を超え0.6以下程度に回復した蓋然性はあるものといえるから,上記義務違反と,原告の左眼の視力障害が上記の程度高度化したこととの間には,相当因果関係がある。

5  損害

(1)  逸失利益

原告は,被告病院の医師らによって適切な治療,転医がされれば,視力が0.1を超え0.6以下程度に回復する,即ち,自動車損害賠償保障法施行令2条別表第13級1号に該当する障害で止まるべきところを,被告病院らの義務違反により,一眼が失明し,又は一眼の視力が0.02以下となった,即ち,同表8級1号に該当する障害を負ったと認められる。したがって,原告は,被告病院の過失行為によって,労働能力が,9パーセントの喪失で止まるべきところを,45パーセント喪失することとなったと解される。

そして,原告は,本件事故当時2歳の女児であって,18歳から67歳まで就労可能で,平成8年の18歳から19歳の全産業女子労働者の平均給与額は210万8700円であるから,これら及び前記の労働能力喪失率の減少を基礎にホフマン方式により中間利息を控除して逸失利益を計算すると,次のとおり,1292万3159円となる。

2,108,700円×(0.45-0.09)×(28.5599-11.5363)=12,923,159円(円未満切り捨て)

(2)  後遺障害慰謝料

前記認定の被告病院の過失行為によって生じた後遺障害の程度,被告の過失の態様等からすると,原告を慰謝するには,620万円を要すると解される。

(3)  弁護士費用

前記の損害,本件事案の概要,本件訴訟の経緯等からすると,200万円をもって相当と認める。

6  結語

よって,原告の請求は,不法行為に基づく損害賠償として金2112万3159円及びこれに対する不法行為の日である平成8年4月22日から支払済まで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから,その限度で認容し,その余の請求は理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民訴法61条,64条,仮執行宣言につき,同法259条1項に従い,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松村雅司 裁判官 水野有子 裁判官 増田純平)

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