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神戸地方裁判所 平成11年(ワ)91号 判決 2002年11月29日

主文

1  被告は,原告に対し,金5650万円及びこれに対する平成6年9月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  この判決の第1項は,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

主文第1項と同旨

第2事案の概要

本件は,原告が被告に対し,原告が左半身麻痺及び痴呆等の後遺障害を負ったのは,被告の開設・経営するA病院の手術過誤によるものであるとして,診療契約上の債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づく損害賠償(一部請求)を求めた事案である。

1  争いのない事実等(証拠を掲記した部分以外の事実は当事者間に争いがない。)

(1)  当事者等

原告は,昭和8年11月29日生まれの男性であり,現在は肩書地において同人の妻であるBの介護・看護を受けながら,生活している。

被告は,被告病院を開設し,経営している。

C医師は,被告病院耳鼻咽喉科の勤務医として,原告に対し,蓄膿症の手術である汎副鼻腔根本術(以下「本件手術」という。)の執刀をした者である。

(2)  事実経過

ア 被告病院受診の経緯

原告は,平成6年2月下旬ころ,左目に複視が生じ,自宅付近の眼科医を受診したところ,被告病院脳神経外科において診察を受けるよう指示され,被告病院でCT検査を受けたが,異常なしと診断された。

原告は,同年7月末ころから,右目にも複視が生じたため,再び自宅近くの眼科医を受診したところ,同眼科医に被告病院耳鼻咽喉科の受診を指示され,同年8月10日ころ,被告病院耳鼻咽喉科で診察を受けた結果,慢性副鼻腔炎・鼻茸(重度の蓄膿症)と診断された。

イ 診療契約の締結

原告は,同年9月12日,被告との間で,被告病院において,原告の上記疾病につき,専門医としての的確な診断,必要な処置を行い,原告の疾病の回復を図るための診療を給付することを内容とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。

ウ 本件手術

本件手術(汎副鼻腔根本術)は,鼻内にポリープなどの占拠性病変がある場合,そのポリープを掃除し,上顎洞,篩骨洞,蝶形洞,前頭洞などの空洞との連絡をつけて換気をよくすることを目的とする手術であり,C医師は,本件手術までに,約140件の施行経験を有していた(乙6,証人C)。

原告は,本件手術を受けることにし,C医師の指示により,同年9月12日,被告病院に入院した。

原告は,同月13日に右鼻(右副鼻腔)の,その一週間後の同月20日に左鼻(左副鼻腔)の手術を受ける予定であった。

なお,原告には,狭心症,糖尿病,心筋梗塞の既往症が有り,心筋梗塞に関しては平成元年1月に手術(心臓バイパス手術)を受けていた。

エ 本件手術の実施と出血の発生等

(ア) 本件手術は,平成6年9月13日午前9時30分から,C医師を執刀医,被告病院耳鼻咽喉科のD医師をアシスタントとして(乙6)開始されたが,途中,原告の後篩骨動脈が損傷されて出血し,さらに脳硬膜が損傷され,出血した血液が原告の脳内に流入した(以下「本件出血」という。)。

上記出血量は,合計約1300ccに及び,止血作業は多量の血の中で行われた。

(イ) C医師は,被告病院の脳外科及び麻酔科の医師らと協議の結果,同日午後4時から,原告に対し,原告の前頭部に2本のチューブを挿管し,出血した血液を抜いて,脳内の圧を下げる脳室ドレナージ手術を行った。

(ウ) C医師から依頼を受けて応援に駆けつけたE大学のF医師,C医師及びD医師は,同日午後10時ころから,本件手術による出血点の確認,止血処置及び脳硬膜再建術(以下「止血手術等」という。)を行った(乙4,6,8)。

オ 本件手術以降

(ア) 原告は,本件手術後も被告病院に入院していたが,平成6年10月11日,ICUから脳外科病棟の4人部屋に,同年11月1日には脳外科病棟から内科病棟に移り,平成8年4月15日にはリハビリのため,被告病院からG病院に転医し,同年7月17日同病院を退院した。

(イ) 原告は,上記退院以降は,Bの介護・看護を受けながら,自宅で生活しているが,左半身不随のため,歩行ができず,外出の際には車椅子を使用している。

2  原告の主張

(1)  被告の責任

ア C医師の過失

(ア) 本件手術における手技手法の過失

C医師には,本件手術の状況下では,取り残しになっていた篩骨洞と蝶形洞の境界付近の隔壁残存部分を鉗除する必要がなかったのにこれを行った過失がある。

すなわち,C医師は,本件手術において,篩骨洞と蝶形洞内の鼻茸や隔壁を上向き鉗子を用いて鉗除し,最後に隔壁の取り残しに気付き,残存隔壁部分を鉗除した途端に出血したとしているが,この段階では,鼻茸の基本的な鉗除は終了しており,既に副鼻腔内の通気と排泄の路は確保されており,視神経への圧迫を除去するという本件手術目的は達成できていたこと,再発により視神経への影響が生じる可能性はあるが,これは確定的ではなかったこと,原告の場合,複視への影響はそれほど顕著ではなく,隔壁の残存部分を鉗除し,骨面を平坦化する必要性は絶対的ではなかったことに加え,篩骨洞天蓋部の一般的な形態的特徴(一般的に,篩骨洞の構造は複雑で,篩骨迷路とも呼ばれ,個人差が著しく解剖的変異に富み,そのうえ,外側では薄い骨壁を介して眼窩内容に,天蓋部では脳頭蓋内容と接している。篩骨洞天蓋部の形態的な特徴は,硬い前頭性天蓋と柔らかい篩骨性天蓋から成り,中鼻甲介の天蓋付着部より前頭骨性天蓋までの間が変異に富み,菲薄でさらに硬膜が強固に付着している。篩骨性天蓋は,薄い30ないし100マイクロンの骨壁を介して硬膜が存在し,その損傷は,抗生剤の発達した現在でも軽視できない。)や,隔壁は天蓋部分と連続的につながっていること,本件手術時の照明の問題(篩骨洞と蝶骨洞の境界付近の天蓋部は視野の確保が難しいものであるところ,本件手術において,C医師は,額帯鏡に反射する光を光源として手術していたため,視野の確保が困難であった。),原告の場合,事前のCTにより,骨の欠損はないが,篩骨洞と蝶骨洞の境界付近の頭蓋底の骨が薄いことが判っていたこと,原告には,糖尿病と心筋梗塞の既往症があり,血管がもろくなっていることが予想され,また,心臓バイパス手術以降は血液抗凝固剤ワーファリンを服用しており,C医師も,それ相当の出血量があると考えていたこと,さらには,直方向の截除鉗子(横向き截除鉗子と同じ。)が手元になかったという事情を総合考慮すれば,本件隔壁残存部分の鉗除に際して,篩骨洞天蓋部を損傷し,これに付着し,脳頭蓋内容に接する脳硬膜を損傷する危険性は高く,慎重な判断が要求されたにもかかわらず,隔壁残存部分の鉗除を行ったこと自体において,C医師には過失がある。

また,隔壁は,天蓋部分と連続的につながって一体化しており,篩骨性天蓋は菲薄で変異に富んでおり,これをちぎるように引っ張ることは厳禁とされており,C医師自身も,原告の同天蓋部分が特に薄いと認識していたのであるから,C医師には,上記隔壁残存部分を鉗除するに際し,篩骨洞天蓋部を破損しないようにすべき義務があったにもかかわらず,上向き鋭匙鼻鉗子という不適切な鉗子を使用し,これの横腹に隔壁を挟み込み,ねじ切る,パチンと折るように鉗除するという不適切な手技を行い,同所の天蓋部を破損した過失がある。

(イ) 止血処置の際に脳硬膜を損傷した過失

仮に,上記(ア)の本件骨隔壁鉗除の手技手法には過失がなかったとしても,副鼻腔手術を行う医師には,止血処置の場合であっても脳硬膜を損傷しないように処置を行うべき注意義務があるところ,C医師は,本件手術中に出血が生じたため,ガーゼタンポンを金属製鉗子で操作して止血を試みた際,鉗子の操作を誤り,鉗子の先端部で脳硬膜を破損させた過失がある。

なお,脳硬膜は,通常,ガーゼタンポンによる圧迫程度では破れないものであるが,仮に原告の脳硬膜損傷がガーゼ越しに加わった鉗子による圧迫であったとしても,C医師の止血の手技には過失があった。すなわち,本件の場合,原告の血管は,損傷した天蓋と脳硬膜との間に位置し,篩骨洞の大きさは幅1センチメートル,奥行き4ないし5メートル,高さ2センチメートルであり,天蓋の損傷もそれほど大きくなく,空間は極めて小さかったこと,解剖学的知見からしても,血管は横方向に走っているから,上方向に圧力を加えても,止血には役立たないこと,むしろ,上方向への圧力は脳硬膜損傷を生じさせる危険性があり,髄液漏が生じる事態となれば重大な結果を招くことになることは容易に予測できたことからすれば,天蓋と脳硬膜の間にガーゼを入れる際,脳硬膜のある上方向に加圧せず,ガーゼの表面が損傷した血管の部位を強く圧迫するようにすれば,それで足りたはずであるのに,簡単には破れない脳硬膜を破る程度まで圧力を加えた点において,C医師には,過失があった。

(ウ) なお,被告は,本件出血部位付近に,本件のような太く,出血の激しい血管が存在することを予見するのは不可能であったから,これを損傷した際に生じる出血量についても予見できず,したがって,注意義務違反の前提となる予見可能性がないと主張する。

しかし,篩骨洞には解剖的変異があるが,解剖学的には,篩骨洞天蓋部を介して前頭蓋底と眼窩と交通しているため,前・後篩骨動脈が損傷された場合,眼窩内への出血が問題となること,前・後篩骨動脈は天蓋部の骨の上または中を走行していることがあり,その場合には目視できず,天蓋部を破損すれば,当然,前・後篩骨動脈の損傷をきたすことになること,中高年の血管病変についての報告がなされており,また,病的な原因あるいは病変の代替作用として血管が太くなることがあり,さらには内頸動脈の血流が悪いときの代償機能として後篩骨動脈が太くなる場合があることなどからすれば,天蓋部を破損し,随伴した前・後篩骨動脈を損傷することにより,どの程度の出血量が生じるかを確定的に予測することはできないとしても,重篤な結果が生じることのあることは予見し得るところであるから,随伴する前・後篩骨動脈を損傷することとなる篩骨洞天蓋部を破損することは避けなければならず,執刀医には,篩骨洞天蓋部を破損してはならない注意義務があるものである。

イ 被告病院の過失

被告病院が,本件手術に当たり,截除鉗子(直)を準備していなかったこと自体が過失である。

被告は,C医師が上向き鋭匙鼻鉗子を使用したのは,被告病院には,截除鉗子としては上向き截除鉗子が一個しか装備されておらず,同截除鉗子では本件骨隔壁を完全に鉗除することは困難であると判断したためであると主張するが,これは,単に,被告病院には一般的に装備されるべき鉗子が存在せず,その設備が著しく不備であったと主張しているに過ぎない。

被告病院は,Hにおける中核的医療機関であり,本件に至るまでも,慢性副鼻腔炎の治療として鼻茸切除や汎副鼻腔根本術などの外科手術を行ってきたものであるが,上記のような外科手術を行う医療機関では通常準備されているべき直向きの截除鉗子を装備していなかったために,C医師は鋭匙鼻鉗子を選択したのであり,これによって篩骨洞天蓋部の破損,血管損傷が生じ,よって,原告に医原性の脳挫傷が生じたのである。

ウ 被告の責任

C医師は,被告病院に勤務する医師であり,同C医師の前記行為は,被告病院を設置・管理する被告の事業の執行又は本件診療契約に基づく被告の診療義務の履行補助者として行われたものであり,また,被告病院には,截除鉗子(直)を準備しなかった診療体勢・整備義務違反という独自の過失があるから,原告が被った後記損害について,被告は債務不履行責任ないし不法行為責任(使用者責任を含む。)を負う。

(2)  損害及び因果関係

ア 損害について

(ア) 逸失利益                3686万9567円

原告は,平成6年9月13日,本件手術により,左上肢の著しい機能障害・左下肢の機能全廃,時間・場所の見当識障害という肉体的・精神的障害を負い,労働能力の100パーセントを喪失した。本件手術により後遺障害を負うことがなければ,原告は,なお10年間(同期間に対応する新ホフマン係数は7.945)は就労可能であった。そして,平成8年度の賃金センサスの男子労働者(60歳ないし64歳)の平均年収額は金464万0600円であった。よって,その逸失利益は3686万9567円(464万0600円×1.0×7.945)である。

(イ) 付添看護費               2484万9200円

5000円×365日×13.616(平均余命までの年数約20年に対応する新ホフマン係数)

(ウ) 入院雑費                 496万9840円

1000円×365日×13.616(平均余命までの年数約20年に対応する新ホフマン係数)

(エ) 後遺障害慰謝料                 3000万円

原告は,左半身が不自由になり,自ら自由に行動できないことに加え,精神的な痴呆まで来したものであり,その精神的苦痛を評価すれば,慰謝料としては3000万円を下らない。

(オ) 弁護士費用                    650万円

原告は,被告が本件診療契約上の明らかな過誤にもかかわらず,不誠実な対応をとったため,本件訴訟を提起せざるを得なかったのであり,弁護士費用としては,1107万円が相当であるところ,原告の損害金である上記(ア)ないし(エ)の合計金9668万8607円のうち金5000万円に対応する弁護士費用としては,650万円を下らない。

イ 因果関係ないし損害賠償の範囲

被告は,仮に,本件手術における手技手法の選択に何らかの過失があったとしても,このような太さの血管が存在する可能性は,相当因果関係判断の基礎事情から除外されるべきであるから,相当因果関係も認められないと主張する。

しかし,本件のような生体に対する侵襲という加害行為にあっては,生体の多様性を考慮することが必要であるところ,天蓋部の上を走行する血管の位置や太さに関する学術上の知見は限られており,特に,天蓋部の上を走行していることの多い後篩骨動脈については,実際に血管を損傷したり,解剖したときしか確認できないものであって,前篩骨動脈・後篩骨動脈の走行位置にはばらつきが大きく,本件部位に後篩骨動脈が走行している可能性は否定できないこと,後篩骨動脈の太さについては,病的な原因で太くなることもあり,また,動脈硬化により内頸動脈が閉塞あるいは狭窄している場合に,頭の血流を代償するために,バイパスとして後篩骨動脈が太くなることもあること,さらに,篩骨洞天蓋部の構造からすれば,隔壁を引っ張って損傷を与えた場合に生じる損傷の範囲を予見することはできないが,天蓋骨の前記構造からして,柔らかい篩骨性天蓋の全体に及ぶことや,天蓋骨に脳硬膜が密着していれば,脳硬膜の破損が生じる可能性も十分にあること等を前提とすれば,C医師は,天蓋骨の上を走行する血管の位置・太さについての予見を問題とせず,天蓋骨の損傷が重篤な結果を引き起こす可能性があるという抽象的な危険から,直ちに,天蓋骨を損傷しないように手技を行う注意義務を負っていたと言える。また,本件のように,身体・生命という極めて重要な法益に対する侵襲という違法行為による損害の範囲を決めるにあたっては,個別具体的な損害事実の予見は必要ではないこと,また,C医師は,「天蓋の全ての領域にわたってひょっとしたら血管があるかもしれないという認識をもって常に対応している。」と認識していたことからすれば,C医師に,血管損傷,さらには脳硬膜損傷によって生じた損害を賠償すべき義務を負わせることは,衡平の見地からしても相当であって,相当因果関係も認められる。

(3)  まとめ

よって,原告は,被告に対し,本件診療契約上の債務不履行ないし不法行為(使用者責任を含む。)に基づく損害賠償として,上記(2)ア(ア)ないし(エ)の合計金9668万8607円のうち金5000万円と弁護士費用金650万円の合計金5650万円及びこれに対する不法行為の日である平成6年9月13日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

3  被告の主張

(1)  事実経過

ア C医師は,平成6年8月10日に原告が被告病院耳鼻咽喉科を受診した際,原告に対し,慢性副鼻腔炎・鼻茸の外に鼻性視神経炎の可能性があることを説明し,同説明の際,鼻の炎症が重度であり,すぐ近くを視神経が通っているため炎症が視神経に波及している可能性があると考えられること,手術的に炎症の逃げ道をつくり,換気のできる鼻にし,無用なポリープも摘出すると改善する可能性があるが,放置すると視力が低下するおそれがあることを説明した。

イ 原告が被告病院に入院した平成6年9月12日,原告の主治医であるD医師が,原告及びBに対し,上記C医師の説明と同内容の説明をした上,本件手術に関し,原告に心疾患(心臓バイパス手術後,ワーファリン内服)及び糖尿病等があるので,できれば手術はしたくない症例であることも説明したが,原告がBを通じて手術を希望したため,同日,原告に対し内科的諸検査を行い,手術可能との結果が出たため,本件手術を施行することとなった。

ウ 本件手術においては,上顎洞,篩骨洞,蝶形洞を順次開放したところ,すべての洞内の炎症所見が極めて重症であったことから,本件手術の目的である眼合併症(複視)の改善及び同症状の再発防止のためには,徹底した病巣の除去が必要と判断され,炎症所見の強い粘膜を剥離した。その後,炎症所見の強い粘膜(病巣)をほぼ全て剥離し,病巣の取り残しがないように,上顎洞内より病変組織が残っていないか確認し,さらに鼻内より最終確認した。そして,蝶形洞入口外側部分の病巣を鉗除したときに本件出血が発生した。なお,本件手術には内視鏡は使用しなかったが,上顎洞に開放した窓口及び鼻内より篩骨洞を通じて蝶形洞の確認は十分可能であり,蝶形洞入口外側部分には動脈瘤や血管の走行を示すような徴候は認められず,通常の病巣であると考えられたので,前記のとおり鉗除を行ったところ,本件出血が生じた。

エ 本件手術後に止血処置を担当したF医師は,本件出血部位及び出血した血管は太さ1ミリメートル程度のもの一本のみであったことを確認している。本件出血を来した箇所である蝶形洞の入口外側部分及びその付近は,通常血管の走行している場所ではない。また,通常の後篩骨動脈損傷による出血であれば,ボスミン,キシロカインを浸したガーゼで圧迫していれば容易に止血できるが,本件においては,出血量が合計約1300ccもの多量におよび,ガーゼタンポンで強く圧迫することでやっと止血できた。

以上のように,本件出血が生じた原告の後篩骨動脈は,血管の太さにおいても走行位置においても異常であった。

(2)  被告の責任の不存在

ア C医師の過失の不存在

(ア) 本件手術における手技手法の過失の不存在

原告の副鼻腔炎は,通常の副鼻腔炎と異なり,真菌性の疑いのある乾酪性副鼻腔炎であり,これが蝶形骨洞にまで及ぶという症例であった。真菌性の乾酪性副鼻腔炎の場合,篩骨蜂巣を残すと再発し,視神経の障害を合併したり,ときには真菌が頭蓋内に侵入して致命的な事態に至ることもあり,また,原告のように糖尿病を伴う場合には,再発・重篤化を招きやすかった。C医師は,このような原告の上顎洞・篩骨洞における症状からして,手術目的である複視の改善・再発の防止や,頭蓋内に真菌が侵入するという致命的な事態の発生を防止するためにも,徹底した病巣の廓清が必要であって,本件骨隔壁を鉗除する必要があると判断した。

そして,本件のような骨隔壁鉗除を行う場合の手術器具の選択については,少なくとも病院に存し,すぐに取り寄せ可能なものに限らざるを得ない。また,一般的に,截除鉗子で鉗除する場合は,その構造上骨隔壁の根元部分の取り残しが生じやすいものであり,本件骨隔壁の位置関係からすると,横向き截除鉗子であれば比較的取り残しを少なくすることが可能であったが,被告病院には上向き截除鉗子が一個あったのみで,これでは本件骨隔壁を完全に鉗除することは困難であると考えられたため,C医師は,鋭匙鼻鉗子(上向き)の横腹で本件骨隔壁を挟んでそっと折り取って鉗除する方法を選択した。

C医師は,同選択に際し,原告の篩骨洞天蓋が薄いことはCT検査結果により承知していた。しかしながら,本件のような異常な太さおよび走行位置の血管は,血管造影撮影でもしない限り,通常の汎副鼻腔根本術の術前検査では発見できないものであるところ,血管造影は危険を伴うので,汎副鼻腔根本術の術前検査として通常行うべき義務はなく,本件手術においても,異常走行の血管の有無について検査し,これを予見して手術を行う義務はなかった。さらに,本件手術において,蝶形洞入口外側部分の病巣を鉗除したときにも,同部分に血管の異常を思わせるような所見は全くなく,その走行位置はもちろん,予期せぬ大出血をきたす程に異常発達した血管であることは全く予見できなかった。また,一般的に,手術中にある程度の血管を損傷することは避けがたいことであるから,執刀医師は,合併症を引き起こすような重要な血管のみについて損傷を避けるべき注意義務を負うといえる。

以上によれば,C医師は,本件出血部位付近に太くて大出血を起こす血管が存在することは予見不可能であったことから,本件骨隔壁を折り取る際,本件骨隔壁の根元部分が一緒に取れることにより血管が損傷して出血したり,頭蓋底に小さな穴が空いたりしても,この場所の血管であれば容易に止血でき,また,頭蓋底の上には丈夫な脳硬膜があって脳を保護しているので,原告に実質的な健康被害をもたらすような結果が生じることはないとの判断の下に,本件手術目的を優先して,前記手技・手法を選択したものであり,この選択に過失はない。

また,C医師の本件骨隔壁鉗除の具体的な手技についても,何ら過失はない。すなわち,C医師は,原告の篩骨洞天蓋が薄いことを十分認識した上で,頭蓋底側への直接の損傷を避けることに注意を払い,これまでの経験から最も安全な方法として,鋭匙鼻鉗子の横腹で力の入る方向を変えつつ,本件骨隔壁のみを挟んで丁寧にはぎ取る方法をとったのである。

(イ) 止血処置,脳硬膜損傷についての過失の不存在

本件における原告の脳硬膜損傷は,本件出血直後のC医師のガーゼタンポンによる止血措置により発生したものと思われる。

手術中に多量の出血が発生した際には,救命のため止血処置が速やかに行われるべきであり,その場合でも脳硬膜損傷を避けるのが望ましいが,脳硬膜の軽度の損傷は手術によって通常合併症等を伴うことなく修復することができることから,救命のための止血こそが最優先されるべき場合がある。本件においては,短時間に多量の出血が続いたのであり,まさに救命のための止血が最優先されるべき場合であったから,脳硬膜損傷は,止血による救命のためのやむを得ない処置による結果であった。

以上によれば,本件において,止血を優先するため,ガーゼタンポンで強く圧迫したことは,緊急の止血処置として,適切かつ合理的な方法であったから,この点についても,C医師に過失はない。

この点につき,原告は,上方向(脳の方向)への圧力は止血に役立たず,止血のためには血管の損傷部位を強く圧迫すれば足りたなどと主張するが,本件のような突然の大量出血で,かつ,狭い篩骨洞の空間内で血液が充満しているため出血した血管の場所も損傷状態も分からない状況下において,血管の損傷部位のみに力がかかるようにガーゼタンポンで圧迫することは,非現実的であって,実行不可能な要求である。

イ 被告病院の過失の不存在

本件手術がなされた平成6年9月当時,被告病院が截除鉗子(直)を準備していなかったことは,何ら被告病院の装備の不備(過失)ではない。

すなわち,一般病院で截除鉗子が普及してきたのは最近であり,しかも,截除鉗子は,多数の種類を各複数揃えなければならず,高価となるため,その種類及び数が少ないのが現状である。また,截除鉗子は,製造が間に合わず,注文をしても手に入らない状況にもあったもので,本件手術がなされた平成6年9月当時,被告病院に截除鉗子(上向き)が1つしかなかったことは,何ら装備の不備とはいえない。のみならず,上記のとおり,本件手術は,準備された截除鉗子(上向き)及び鋭匙鼻鉗子(直,上向き)によって適切になされており,被告病院に装備の不備は存しない。

(3)  因果関係の不存在

本件の場合,C医師において本件出血部位付近に本件のような大量出血を引き起こす太さの血管が存在することを予見することは不可能だったから,相当因果関係の有無の判断に当たっては,本件のような太さの血管が存在する可能性を相当因果関係の基礎事情から除外すべきである。

そうすると,C医師が本件骨隔壁鉗除の際に通常の鉗子を使用し,截除鉗子を使用しなかったことに問題があった可能性があり,それが血管損傷の原因であると判断されるとしても,損傷した血管が予見可能な範囲の太さであれば容易に止血でき,また,篩骨洞の接する頭蓋底に小さな穴が空いて脳硬膜が露出することがあっても健康上特段支障が生ずることはなく,原告に実質的な被害が生ずることはなかったはずである。

したがって,C医師の本件骨隔壁鉗除の手技・手法の問題と本件の大量出血との間に事実的因果関係が存在しても,本件大量出血及びこれに伴うガーゼタンポンでの強い圧迫による止血という事態は経験則上通常起こり得ないから,相当因果関係はない。

(4)  損害の発生及び額

争う。

第3当裁判所の判断

1  事実経過等

前記争いのない事実等,証拠(甲1,2,8~11,乙1~6,7の1~6,8,12,13の1~4,15,証人C,同F,原告特別代理人B,鑑定)及び弁論の全趣旨を総合すると,以下の事実が認められる。

(1)  本件手術に至る経過及び診療契約の締結等(争いのない事実等,乙1~4,6,7の1~6,証人C)

原告は,平成6年2月下旬ころ,左目に複視が生じ,原告の自宅付近のI眼科で受診したところ,被告病院脳神経外科において診察を受けるよう指示され,被告病院でCT検査を受けたが,異常なしと診断された。原告は,同年7月末ころから,右目にも複視が生じ,再び上記I眼科で受診したところ,同医院において右視神経の圧迫を指摘され,同医院の紹介でJ医院を受診したが,同医院では診療の結果さらに精査が必要との判断により,被告病院耳鼻咽喉科において診察を受けるよう指示され,同年8月10日,被告病院耳鼻咽喉科を受診した。

原告は,同日,C医師に対して,同年8月1日ころから複視が生じたこと,既往歴としては平成5年1月にJ医院で右側鼻茸切除術を受けたこと,糖尿病であること,心筋梗塞の手術(心臓バイパス手術)を受けたことを述べた。

同日,C医師が原告を診察した際の原告の鼻内所見は,鼻茸(ポリープ)が充満し,上咽頭にも鼻茸が垂れ下がった状態であった。C医師は,視神経に炎症が及んでいるかどうかを調べる必要があると判断し,緊急CT撮影を指示した。同CT撮影の結果,両側上顎洞から蝶形洞までの低吸収領域(汚い膿が溜まっている部分)を認めたが,骨欠損は認められなかった。C医師は,上記鼻内所見及びCT撮影の結果から,原告が,重度の慢性副鼻腔炎(特に右側が重度),鼻性視神経炎の疑いと診断し,汎副鼻腔根本術(本件手術)の適応と判断した。なお,C医師は,原告が過去に鼻内手術を受けていることから,解剖学的に位置関係が変わるため,本件手術を行うにはより慎重に行う必要があるが,原告のCT所見によれば,篩骨洞から奥は触れられていなかったため,大きな変化はないものと考えた。また,原告は,過去に心臓バイパス手術を受け,その後は血液抗凝固剤ワーファリンを継続して服用していたうえ,糖尿病があるため,動脈硬化を伴い,血管がもろくなっていることが考えられたことから,本件手術を行うとすれば,相当の出血があるものと想定した。

C医師は,原告に対し,上記診察結果及び本件手術の必要性を説明したところ,原告は,その場で本件手術に応じるとの意向を示した。

C医師は,緊急に本件手術を施行する必要があるかどうかを判断するため,同日,被告病院眼科に精査を依頼した。その結果は,原告の視力は正常であり,視野への影響も認められないことから,鼻性視神経炎については否定的であるが,下方視にて複視を認めることから,副鼻腔炎の周辺組織への影響が考えられるというものであった。

C医師は,同月30日,本件手術前の麻酔検査のため来院した原告に対し,複視の原因が副鼻腔炎である可能性があること,かなり重症の副鼻腔炎であるため,本件手術をすべきであること,放置すると鼻性視神経炎となり,視力が低下することも予想されること,ただし,同手術の施行は,原告に糖尿病があり,心臓バイパス手術後にワーファリンを内服していること等の問題があるため,内科医師と相談し,手術可能であればとの条件付であることを説明した。

原告は,同説明を受けた後,本件手術を受けることに同意した。そこで,C医師は,原告と相談し,同年9月12日に被告病院に入院し,同月13日に右側副鼻腔の,同月20日に左側副鼻腔の各手術(本件手術)を行うことを予定した。

また,C医師は,被告病院内科に対し,本件手術の可否及び術前術後の指示に関する診察を依頼したところ,同内科医師から,原告の平成6年3月の負荷心電図検査では虚血性変化は認められず,心機能は十分に保たれていること,手術中に出血した場合に止血しやすくするために,同年8月31日からワーファリンを中止し,小児用バファリンに変更すること,念のため,同年9月12日の入院時にトロンボテスト及び出血時間等の血液検査を行うこと,入院日午後に心エコー検査を行うことの報告及び指示があった。

原告は,同年9月12日,被告病院に入院し,本件手術前の諸検査を受けたところ,心エコーの結果,心機能は良好であり,血液検査(トロンボテスト,出血時間)の結果も正常であった。同検査を受けて,被告病院内科医師は,同耳鼻咽喉科医師に対し,手術前処置として硫酸アトロピン(脈拍数を多少上げ,口腔内,気管内の分泌物を減らす。胃腸等のけいれんも抑える。)を使用すること,術中エピネフリン(局所の血管の収縮をするため,出血しにくくなる。)を使用することはいずれも可能であり,頻脈があれば酸素を投与すること等を指示した。

被告病院耳鼻咽喉科のD医師は,同日,原告及びBに対し,本件手術について,原告の複視の原因が副鼻腔炎の可能性があること,CT・レントゲンにより重度の炎症所見が見られ,また,過去に鼻内の手術を受けていることから,本件手術が容易ではなく,術中疼痛も予想されること,原告には心臓バイパス手術後にワーファリンを内服していることや糖尿病の既往症があるため,慎重な対応が必要であること,被告病院内科医師と相談し,ワーファリンの内服の一時中止及び変更をしているが,上記基礎疾患のため,出血も相当量予想でき,本来ならばしたくない手術であることを各説明し,原告からは同日付,Bからは翌13日付の本件手術承諾書を各受領した。

(2)  本件手術の経過等(争いのない事実等,乙4,6,8,12,13の1~4,15,証人C,同F,鑑定)

本件手術は,C医師を執刀医,D医師をアシスタントとして,平成6年9月13日午前9時30分から開始された。本件手術の経過及び本件出血の発生及び止血等の経過は以下のとおりである。

ア 4パーセントキシロカイン,1000倍希釈ボスミンを浸した綿花を,中鼻道,下鼻道及び総鼻道に挿入接着させ,表面麻酔を行った。

イ 0.5パーセントキシロカインE(エピネフリン入)約5ccを口腔前庭及び上顎洞前壁の粘膜下,骨膜下に注入して麻酔を行った。

ウ 上顎神経にも同麻酔剤約2ccを注入して伝達麻酔を行った。

エ 上記麻酔後,上口唇粘膜と歯肉との境界線を骨膜に達するまで切開し,上顎洞前壁の骨膜を,上方は眼窩下窩まで,内側は梨上口縁まで剥離した上で,梨状口縁より2センチメートル外方1センチメートル上方の犬歯窩の骨壁を,ノミ及びスタンツェにて開放し,さらに上顎洞前壁を削除していき,十分に上顎洞内が観察できる骨窓とした。

オ 上記骨窓から上顎洞内の乾酪性物質,膿汁及びポリープ様粘膜を除去した上で,剥離子で上顎洞内の炎症所見の強い粘膜を剥離して,自然口付近に集めて切除し,洞内にガーゼタンポンを挿入した。

カ その後鼻内手術に移り,鼻内からポリープを切除し,上顎洞への連絡のため,中鼻道から上向き鉗子で自然口を開放し,引き続き,前篩骨洞及び後篩骨洞の各蜂巣を開放した。次に,上顎洞内から自然口を開放し,下鼻道側壁及び下鼻甲介付着部の骨を除去し,さらに篩骨洞内の隔壁をなくし,各蜂巣を開放することにより,篩骨洞内を最後部蜂巣に至るまでひとつの洞腔とした。

キ 次に,鼻内から,最後部篩骨蜂巣を経て蝶形洞に達し,同洞内を開放した。

ク その後,上顎洞内から篩骨洞及び蝶形洞を再度確認し,さらに鼻内から最終チェックをしたところ,後部篩骨洞蝶形洞境界部に取り残した約3ミリメートルの丈の低い骨隔壁が認められた。C医師は,原告の副鼻腔炎は,乾酪性副鼻腔炎で,上顎洞,篩骨洞には膿がチーズ状に固まっていたばかりか,蝶形骨洞にもかなりの乾酪性物質が存在していたため,複視の改善及び再発防止のためには徹底的な病巣の排除が必要であると判断し,また,術前CT・レントゲンにより,原告の篩骨洞天蓋すなわち頭蓋底部分が薄いことが判明していたため,頭蓋底部分の骨壁を損傷しないように,上向き鋭匙鼻鉗子の横腹部分を用いてこれを挟み,折り曲げてねじ切るように鉗除したところ,骨隔壁の基部にあった血管(後篩骨動脈)を損傷し,本件出血が生じた。

ケ そこで,C医師は,ボスミン,キシロカインを浸した綿花やアビテンによる止血を試みたが,止血できなかったため,洞内にガーゼタンポンを挿入し,圧迫したところ,出血から約15分で止血状態となった。同血管は,通常よりも異常に太く,約1ミリメートルもの太さがあったため,その出血量は,合計約1300ccにも及び,止血作業は多量の血の中で行われ,明視下ではなかった。

コ さらに,本件骨隔壁鉗除又は上記の止血措置によって,原告の脳硬膜に損傷が生じた。その部位は,視神経管隆起より前方の頭蓋底であり,その大きさは小指頭大で,損傷部位全体が広く落ち込んでいる状態であった。

サ 原告は,本件出血当初は,医師の呼びかけに対し良好に反応していたが,徐々に左握力が低下し,意識レベルも低下した。そこで,C医師は,麻酔科の医師に連絡し,輸血の準備及び挿管の準備を依頼したが,次第に呼吸状態が不安定になってきたため,気管内挿管をした上で,緊急CT検査の依頼をし,脳神経外科医師に現状報告をして,その対応を依頼した。

シ 本件手術開始時点から気管内挿管をして緊急CT撮影のためC医師らが手術室を退出した時点までの所要時間は約2時間30分であった。

そして,C医師は,一応の止血が終わった後である同日午後3時ころ,F医師に対し,原告の状況を説明し,止血手術の施行を依頼した。

なお,本件手術に使用された鼻鉗子は,鋭匙鼻鉗子(直・上向き)及び截除鉗子(上向き)であった。また,手術中の光源としては額帯鏡が使用された。

(3)  本件手術後の経過等(争いのない事実等,乙4~6,8,13の1~4,証人C,同F)

ア 脳室ドレナージ手術

上記CT検査の結果,くも膜下出血,脳内出血が確認されたため,脳神経外科,耳鼻咽喉科,麻酔科の医師らが相談の上,同日午後4時から,原告に対し,脳室ドレナージ手術を行った。

イ 止血手術

F医師は,同日午後8時20分ころ,被告病院に来院した。C医師は,F医師に対し,本件手術の経過及び原告の現状を説明し,協議の結果,止血のためにガーゼタンポンを挿入した際に,脳硬膜を損傷した可能性もあるので,ガーゼを抜去して確認した上,止血を確実に行うとともに,損傷した脳硬膜を修復する止血手術等を行うこととした。

止血手術等は,F医師を執刀医,C医師及びD医師をアシスタントとして,同日午後10時に開始され,全身麻酔下において,出血部位の確認と止血が行われ,その後損傷した脳硬膜の修復が行われた。同手術経過は以下のとおりである。

(ア) 歯肉切開部からアプローチし,骨窓を広げた上で,ガーゼタンポンを抜去したところ,再度多量の出血が生じたので,出血した血液を吸引する等して出血部位の視野の確保を図り,出血に対しては輸血で対応した。

(イ) F医師が明視下により出血点を探したところ,本件の出血部位は後部篩骨洞天蓋の脳硬膜側であり,出血した血管(以下「本件出血血管」という。)は1本のみ,太さは直径約1ミリメートルで,上記部位に左右に走行していた。F医師は,本件出血血管をバイポーラで焼結して止血した。ガーゼタンポン抜去後,上記止血までに約3630ccの出血があった。

(ウ) 次に,脳硬膜欠損(損傷)部位の修復手術に移り,修復用に左頬の粘膜を採取して使用した。

(エ) 上記採取粘膜を鼻腔内より欠損部に当て,ベリプラストP(糊)で固定し,さらにスポンゼルで圧迫カバーした上で,鼻腔内より抗生剤(ホスミン)付きタンポンを挿入して修復処置を終えた。

ウ 上記止血手術後,原告は,被告病院脳神経外科病棟ICUに移され,1日に少なくとも2,3回,鼻内所見に基づき,再出血がないか,髄液が流れていないか等につき確認する等の経過観察が行われた。

原告は,平成6年10月11日,上記ICUから脳外科病棟の4人部屋に,同年11月1日には脳外科病棟から内科病棟に移り,平成8年4月15日にはリハビリのため,被告病院からG病院に転医した。

原告は,平成8年7月17日G病院を退院し,以降,Bの介護・看護を受けながら,自宅で生活している。

(4)  原告の現症状(争いのない事実等,甲1,2,8~11,乙4,5,原告特別代理人B)

原告は,本件手術時のくも膜下出血が原因で,左上下肢不自由の後遺障害を負ったほか,前頭葉の障害,失見当識,記憶障害,左半身の協調障害が残った。

原告は,現在,左半身不随により,自力で歩行することも,立つことも,寝返りもできない状態であり,外出の際には車椅子を使用しており,将来的にも独立歩行は不可能である。また,原告は,歯磨き,髭剃り,着替え,入浴,排便等を自力で行うことができず,Bやホームヘルパーの介助が必要である。精神状態については,障害が中等度で監視・介助が必要であり,本件手術以降,痴呆の症状が出始め,徐々に悪化こそすれ,回復の兆しはない。

2  C医師及び被告病院の過失の有無

(1)  本件手術の必要性

前記1で認定のとおり,原告の副鼻腔炎は,上顎洞から篩骨洞,さらに蝶形洞まで乾酪性物質が充満する重度の乾酪性副鼻腔炎であったところ,証拠(乙8,17,証人F)によれば,乾酪性副鼻腔炎は真菌が原因となって起こる場合が多いこと,原告には複視の合併症があり,また,糖尿病に罹患していたことから,真菌症が頭蓋内に進展すると致命的な事態となるおそれがあったこと,そしてそのような場合に篩骨洞蜂巣を残存すると,何年後かに副鼻腔嚢胞を形成したり,炎症を再燃させ,複視や視神経の障害を合併するおそれがあるために,複視の改善及び再発防止のためには,粘膜をすべて除去して副鼻腔骨面を露出させ,徹底的に病巣を廓清する必要があったことが認められる。そして,証拠(甲3,乙16の1・2,鑑定)によれば,本件手術当時の一般的な手術方針としては,副鼻腔(篩骨洞など)粘膜に高度な病変(浮腫状・感染による肉芽の発生)があれば,病的粘膜を除去すべきであるとされていたことが認められる。

以上の事実を総合すれば,C医師が,原告について本件手術の適応があると判断し,同手術を施行したこと自体については問題がない。

(2)  本件手術における手技手法の過失

そこで,次に,本件手術中の手技手法に過失が認められるか否かを検討する。

ア 本件出血等の予見可能性

(ア) 大量出血の予見可能性

被告は,原告の場合,篩骨洞蜂巣を徹底的に廓清する必要があったところ,そのために骨隔壁の根元部分が一緒に取れて血管を損傷したり,頭蓋底に穴が空いたりする事態が生じても,この場所の血管であれば容易に止血するなどの対処が可能であったこと,ところが,原告の場合,後篩骨動脈が通常人と比較して異常に太く,かつ,その走行位置も異常であったという特別事情があったため,大量の出血という予想外の事態が発生したのであって,かかる事態については予見可能性がなかったことを理由に,被告には過失がない旨主張する。

しかしながら,証拠(鑑定)によれば,後篩骨動脈は,天蓋骨の上を走行していることがしばしばあることが認められ,したがって,その走行位置はC医師において当然予見すべきものであったというべきであり,その走行位置を予見不能であったとの被告主張は採用できない。

これに対し,後篩骨動脈の太さについては,確かに,原告の場合,後篩骨動脈が通常人と比較して異常に太かったため,大量に出血したことは,前記1で認定したとおりであり,また,証拠(鑑定)によっても,後篩骨動脈の血管径は,通常は細く,損傷したとしても止血に困ることはないとされているところでもある。しかし,他方で,鼻内副鼻腔手術において血管の損傷は主要な副損傷・合併症であり,動脈の損傷は,動脈性の大出血のおそれがあるので,損傷を避けるべきものとされており,後篩骨動脈もその損傷を避けるべき動脈とされていること(甲4,5),高齢者や経手術例にあっては,ただでさえ変異に富む副鼻腔が,境界壁の脆弱化や術後の創腔変貌を示すため,術中の副損傷に十分に注意する必要があると一般的に考えられているところ(甲3),原告の場合,前記認定のとおり,平成元年1月の心筋梗塞手術(心臓バイパス手術)以降平成6年8月30日まで血液抗凝固剤ワーファリンを継続して服用しており,また,糖尿病の持病により血管がもろくなっていたため,本件手術中に相当量の出血があることが予想されていたばかりか,証拠(乙8,17,証人F)及び弁論の全趣旨によれば,原告には,糖尿病及び心筋梗塞の既往症があることから,動脈硬化が強く,内頸動脈の閉塞ないし狭小により後篩骨動脈が代償的に発達して太くなっていた可能性があったことが認められるのであって,これらの事実を総合すると,C医師としては,たとえ,原告の後篩骨動脈が通常人と比較して太かったという事実を知らなかったとしても,原告の篩骨洞天蓋骨を破損した場合,後篩骨動脈から大量に出血する危険性があるということについては,当然に認識,予見すべきであったと認めることができる。

(イ) 脳硬膜損傷の予見可能性

また,被告は,頭蓋底の上には丈夫な硬膜があって脳を保護しているので,本件手術によって,原告に実質的な健康被害をもたらすような結果が生じることはないと判断したことにつき,C医師に過失はないと主張する。

しかしながら,天蓋から中鼻甲介の付着部(篩板)への移行部にあたる頭蓋底の骨壁には,薄くなっている部分(頭蓋内壁)があり,同部分では,軽い力が加わっても骨が損傷を受けることがあること(甲7,鑑定),一般に,篩骨洞は個人差が著しく解剖的変異に富み,天蓋部において脳頭蓋内容と接しているため,慎重な対応が要求されること(甲3),篩骨洞天蓋のうち,中鼻甲介の天蓋付着部から硬い前頭骨性天蓋に到る間は篩骨蜂巣頭蓋内壁と命名され,臨床的には重要であるとされていること(甲3),同部分には,薄い30ないし100マイクロンの骨壁を介して硬膜が存在し,その損傷は,抗生剤の発達した現在といえども軽視できないとされていること(甲3),C医師は,本件手術前に,CT・レントゲンで原告の篩骨洞天蓋が薄いことを認識していたこと(前記1の(2)のク),以上の事実が認められる。

以上の事実を総合すると,C医師としては,篩骨洞天蓋骨を破損した場合,脳や硬膜等の損傷という重大な事態が発生することを認識,予見すべきであったと認めることができる。

イ 本件手術の手技の過失

以上のとおり,C医師は,篩骨洞天蓋骨を破損した場合には,多量の出血や脳硬膜等損傷という事態が発生することを認識,予見すべきであったと認められることに照らすと,後部篩骨洞蝶形洞境界部の骨隔壁を鉗除するに際し,篩骨洞天蓋骨を破損させないように手術すべき注意義務を負っていたものと認めることができる。

そして,証拠(甲7,鑑定,補充鑑定)によれば,篩骨洞の隔壁を除去する際に,鋭匙鼻鉗子で篩骨洞の隔壁をつまんで引きちぎったり,ねじったりするような操作をすると,篩骨洞の隔壁が天蓋部で天蓋骨に連続しているため,天蓋骨が引きちぎられてその一部が骨折する可能性があることが認められるから,かかる手術技法は上記注意義務に反するものということができる。篩骨洞の隔壁を除去するには,截除鉗子を用いて隔壁を切断する方法によるべきである(鑑定,補充鑑定)。

ところが,C医師は,後部篩骨洞蝶形洞境界部の骨隔壁を鉗除するに際し,上向き鋭匙鼻鉗子を用いて,隔壁を挟み,折り曲げてねじ切るように鉗除したもので,この場合,幾分引くあるいはねじる操作を伴うこととなり(鑑定),その結果,天蓋骨の一部を骨折したのであるから,かかる手術技法を用いて天蓋骨の一部を骨折した点について過失を認めることができる。

この点,被告は,原告の副鼻腔炎の病状の重大性に鑑みると病巣を徹底的に廓清する必要があったところ,被告病院内には上向き截除鉗子しか備わっておらず,これでは骨壁を完全に鉗除することができないのであるから,上向き鋭匙鼻鉗子を用いたことに問題はなかった旨主張する。

確かに,証拠(補充鑑定)によれば,上向き截除鉗子では,後部篩骨洞天蓋の部位によっては角度的・形状的に完全に鉗除するには限界があり,3ないし4ミリメートル程度鉗除できない骨壁が残ることが認められる。

しかしながら,上記認定のとおり,篩骨洞天蓋骨を破損した場合,多量の出血及び脳硬膜損傷という重大な結果を招くおそれがあるのに対して,病巣の廓清が多少遅れたとしても,これによって直ちに真菌が頭蓋内に進展し,致命傷となることは考えにくいこと(証人F)を考えると,C医師としては,上向き截除鉗子を用いて可能な限り隔壁を鉗除し,これをもって本件手術を終了すべきであったと認められる。

(3)  後遺障害の発生及び過失との因果関係

以上のとおり,C医師に過失が認められることに加えて,前記認定の本件手術の経過に関する事実を併せ考えると,C医師の過失(後部篩骨洞蝶形洞境界部の骨隔壁を鉗除するに際し,上向き鋭匙鉗子を用い,隔壁をつまんで引いたり,ねじったりする操作によって隔壁を除去したこと)により,篩骨洞天蓋骨の一部を骨折し,その結果,篩骨洞天蓋骨の上部(硬膜側)を走行していた後篩骨動脈が損傷し,前記認定の大出血が起こったこと,C医師が止血のために篩骨洞天蓋の薄い部分をガーゼで強く押しつけたこと,上記骨折又は上記ガーゼによる圧迫のいずれかが原因となって原告の脳硬膜が損傷し,それらの結果,くも膜下出血が生じ,原告が後遺障害を負ったことが認められる。

以上の一連の事実経過に照らせば,C医師の前記過失と原告の後遺障害との間には相当因果関係が認められる。

もっとも,これに対して,被告は,C医師が,本件出血部位付近に本件のような大量出血を引き起こす太さの血管が存在することを予見することは不可能だったから,相当因果関係の有無の判断に当たっては,本件のような太さの血管が存在する可能性を相当因果関係の基礎事情から除外すべきであり,そうするとC医師の過失と原告の後遺障害との間には相当因果関係を認めることはできないと主張する。

しかしながら,前記認定の,本件当時の医学的知見や,原告の病状・既往症等に関するC医師の認識内容に照らすと,C医師としては,たとえ,原告の後篩骨動脈が通常人と比較して太かったという事実を知らなかったとしても,原告の篩骨洞天蓋骨を破損した場合,後篩骨動脈から大量に出血する危険性があるということについては,当然に認識,予見すべきであったと認めることができるのであるから,原告の大出血という事態は,C医師の上記過失と相当因果関係があると認めることができる。

3  損害

(1)  逸失利益               3490万7301円

前記1(4)で認定した事実からすれば,原告は,労働能力を100パーセント喪失していると認めることができる。そして,原告は,昭和8年11月29日生まれの男性であって,本件手術当時満60歳であったから,その平均余命は20.44年(平成6年簡易生命表)であり,本件手術による後遺障害がなければ,なお10年間(これに対応するライプニッツ係数7.722)就労が可能であったと認められる。また,平成6年度賃金センサス(第1巻第1表)によれば,男子労働者(60ないし64歳)の平均年収額は452万0500円であることが認められる。

そうすると,原告の逸失利益の現価は,以下のとおり,金3490万7301円と認められる。

計算式 452万0500円×1.0×7.722(ライプニッツ係数)=3490万7301円

(2)  付添介護費              2274万3150円

前記1(4)に認定の事実によれば,原告は本件手術の後遺障害により,日常生活につき常時介護を要する状態であり,同状態の改善は見込まれないから,家人等が介護する必要があるところ,上記障害の程度等に鑑みれば,介護料は,1日当たり5000円と評価するのが相当である。そして,前記のとおり原告の平均余命は20.44年であるから,20年間,介護費用の出費を余儀なくされるものと認められる。

そうすると,その付添介護費用の現価は,以下のとおり,2274万3150円となる。

計算式 5000円×365×12.462(ライプニッツ係数)=2274万3150円

(3)  入院雑費                 67万3000円

原告は,1日につき1000円,平均余命までの年数20年間分の入院雑費として,496万9840円を請求する。

前記1(1)ないし(3)のとおり,原告は,本件手術当日である平成6年9月13日から平成8年7月17日までの673日間にわたって入院生活を余儀なくされてきたことが認められ,上記入院期間中の入院雑費としては,1日につき1000円として,合計67万3000円と認めるのが相当であるが,将来の入院雑費については,将来原告が入院する可能性は否定できないとしても,その時期及び期間についても未だ明らかでなく,本件全証拠によってもその確たる蓋然性があるとまでは認められないから,これを認めることはできない。

(4)  後遺障害慰謝料                2500万円

原告は,本件手術により前記1(4)の後遺障害を負い,生涯にわたって自力歩行が不能になり,日常生活のほぼすべてについて介護を必要とする状態となったものであり,痴呆状態まで生じたことをも総合すれば,原告の受けた精神的苦痛を慰謝するための金額としては2500万円が相当である。

(5)  以上合計               8332万3451円

上記(1)ないし(4)の合計は8332万3451円であるところ,原告は,そのうち5000万円を請求するものである。

(6)  弁護士費用                   650万円

上記のとおり,原告が本訴で請求するのは5000万円であること,その他本件事案の内容等を総合すると,弁護士費用は650万円を認めるのが相当である。

4  結論

以上のとおりであるから,本件不法行為に基づく原告の請求は,理由があるからこれを認容することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 上田昭典 裁判官 太田敬司 裁判官 島田環)

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