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神戸地方裁判所 平成3年(ワ)2042号 判決 1996年8月12日

原告

松平募

右訴訟代理人弁護士

伊東香保

山崎満幾美

被告

神戸市

右代表者市長

笹山幸俊

右訴訟代理人弁護士

奥村孝

石丸鐵太郎

中原和之

奥村孝訴訟復代理人弁護士

堀岩夫

主文

一  被告は、原告に対し、金六〇万円及びこれに対する昭和六三年一〇月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は原告の負担とする。

四  この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金一億二五一二万円及びこれに対する昭和六三年一〇月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

被告は、神戸市中央区港島中町四丁目六で神戸市中央市民病院(以下「被告病院」という。)を開設しており、原告は、昭和六三年一〇月二四日被告病院腎臓内科に入院し、後記事故の後である同年一一月四日被告病院を退院した。

2  事故の発生

原告は、昭和六三年一〇月二七日午後五時ころ、被告病院一一階の面会コーナー(以下「面会コーナー」という。)に設置されていた椅子(以下「本件椅子」という。)に腰掛けたところ、本件椅子の座席部分を支える鉄パイプが突然外れたため、仰向けに一回転して床にひっくり返った(以下「本件事故」という。)。

3  原告の受傷及び治療経過等

(一) 受傷

原告は、本件事故により、頸椎捻挫、胸腰椎捻挫、頸椎後縦靭帯骨化症の傷害(以下「本件傷害」という。)を受けた。

(二) 治療経過

原告は、本件傷害により後記(三)の(1)ないし(5)のような多様な神経症状に悩まされ、その治療のため、

(1) 昭和六三年一一月二日及び同月四日に神戸市兵庫区新開地二丁目一番一六号所在の医療法人栄昌会吉田病院(以下「吉田病院」という。)に、

(2) 昭和六三年一一月六日及び同月七日に神戸市長田区海運町二丁目一番二号所在の高橋病院に、

(3) 昭和六三年一一月八日から同年一二月一七日までの間(通院実日数一〇日)、神戸市須磨区磯馴町四丁目一番六号所在の医療法人慈恵会新須磨病院(以下「新須磨病院」という。)に、

(4) 昭和六三年一二月一五日から現在まで被告病院整形外科に、

(5) 平成元年五月二日に神戸市須磨区西落合三丁目一番一号所在の国立神戸病院に、

それぞれ通院した。

(三) 後遺障害の存在

本件障害は、右通院治療によっても治癒せず、原告に左の(1)ないし(5)の多様な神経症状(以下「本件後遺障害」という。)を残したまま、平成三年九月一一日ころ、その症状が固定したところ、本件後遺障害の程度は、自動車損害賠償保障法施行令二条の後遺障害別等級表(以下「等級表」という。)第二級三号所定の「神経系統の機能または精神に著しい随時介護を要するもの」または第三級三号所定の「神経系統の機能または精神に著しい障害を残し、終身労務に服すことができないもの」に該当する極めて重篤なものである。

(1) 頭痛、脊椎から頭にかけての突き上げてくる悪寒、目の奥からこめかみの奥及び首から脳へ突き上げてくる耳鳴り様の症状、首のだるさ、背骨の疼き、背中の腫れ等の症状(この症状は、手に少しでも重いものを持つと悪化するため、原告は、箸と茶碗のほかには自動車でもパワースティアリングのハンドルを持つのがやっとという状態である。)。

(2) 首を上または下に向けたときに生じるひどい船酔いと同様の症状(文字を読んだり書いたりすることができない程度の症状)

(3) 歩行時に左足に荷重がかかる場合に発生する背中の疼き及び激しい頭痛

(4) 集中力、理解力、判断力、記憶力の著しい減退

(5) 就寝時に首が傾いた場合、振動のため首に力がかかった場合あるいは上半身の左背中側に軽い力が作用した場合に発生する意識障害

4  被告の責任

(一) 本件椅子は、昭和五六年三月上旬、被告が訴外モビリア株式会社から約二〇〇〇台を購入し、被告病院の面会コーナー等に設置して使用していた椅子のうちの一脚である。その構造は、別紙略図のとおりであり、四か所のネジにより二本の鉄パイプと固定された二個の「ロ」の字形の枠(脚と肘掛け部分を兼ねる。)に背もたれと腰かけとが「L」字形に一体となった座席部分が載せられているというものであり、その四か所のネジは、直径六ミリメートル、長さ七センチメートルであるが、ネジ穴がネジの直径に比して大きく、かつ、鉄パイプにネジが入る部分が九ミリメートルしかないため、長期間の使用によりネジが緩み易いものであったから、本件椅子は極めて安全性に欠けるものということができる。

本件事故は、鉄パイプと枠とを固定するネジが緩んでいた本件椅子に原告が腰掛けたため、そのネジが外れて発生したものである。

(二) 被告は、本件椅子のように鉄パイプと枠を固定するネジが緩み易い椅子を、病院内の頻繁に使用される場所に設置する場合には、常にネジの緩みがないかどうかを点検し、椅子の安全性を確保すべき注意義務を負うにもかかわらず、昭和五六年三月上旬に本件椅子を面会コーナーに設置した後、そのネジの緩みを放置していたものであって、公の営造物である被告病院の施設の設置又は管理に瑕疵があったことにより、原告に生じた後記損害を賠償する責任を負う。

5  損害

合計金一億二五一二万円

(一) 通院交通費 金四三万円

原告は、本件事故後三年間、少なくとも七二回(月二回)にわたり、前記通院のため、自宅から病院まで往復し、その交通費として一回の通院に六〇〇〇円(七二回で四三万円、ただし一万円未満の端数は切捨て)のタクシー代を要した。

(二) 休業損害 一七八九万円

原告は、松平産業の屋号で鉄工業及び不動産業を個人で営業し、本件事故当時五九六万四四九五円の年収(昭和六三年分の一〇月の所得三九六万四四九五円に、原告自らが稼働することによる二か月分の所得二〇〇万円を加えた金額)を得ていたが、本件傷害により昭和六三年一一月から平成三年一〇月末まで三年間にわたり全く就労することができなかったから、その間、一七八九万円(一万円未満の端数切捨て)の得べかりし収入を喪失した。

(三) 逸失利益 六六八〇万円

原告は、昭和一五年一一月二四日生まれの男性であり、本件事故がなければ就労可能な六七歳までの間、毎年少なくとも五九六万四四九五円の年収を得ることができたはずであったが、本件後遺障害により前記症状固定時(その当時原告は五一歳)から一六年間全く就労できない状態となってその間の収入を失ったところ、新ホフマン係数を用いて年五分の割合による中間利息を控除し(対応する係数は11.536)、その間の逸失利益の前記症状固定時における現在額を算出すれば六六八〇万円(一万円未満切捨て)。

(四) 慰謝料 三〇〇〇万円

原告は、本件傷害及び本件後遺障害により、前記のような神経症状に悩まされ、多大な肉体的・精神的苦痛を受けたし、今後とも同様の苦痛を受けることが予想されるところ、本件事故による右苦痛を慰謝するに足りる慰謝料の額としては、三〇〇〇万円が相当である。

なお、被告病院は、本件事故の後、原告が訴える症状に対して全くと言ってよいほど治療を施さず、「誠実に対応したい。」との担当者の説明とは裏腹に、常に病院側の責任を回避しようとする対応に終始したのであり、慰謝料の額を定めるにあたっては、被告病院の不誠実な対応といった事情も十分に斟酌されるべきである。

(五) 弁護士費用 一〇〇〇万円

原告は、原告訴訟代理人に本件訴訟の提起及び追行を委任し、報酬の支払いを約したところ、本件事故と相当因果関係に立つ弁護士費用の額としては、一〇〇〇万円が相当である。

6  結論

よって、原告は、被告に対し、国家賠償法二条一項に基づく損害賠償として金一億二五一二万円及びこれに対する本件事故の日である昭和六三年一〇月二七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2のうち、原告主張の日に、被告病院の面会コーナーに設置されている椅子が破損したことは認め、その余の事実は知らない。

3(一)  同3(一)の事実は否認する。なお、頸椎後縦靭帯骨化症は、明らかに原告の既往症であるうえ、本件事故後も、原告に何らの身体症状も発現させていない。すなわち、後縦靭帯骨化症は、中年以降において、加齢あるいは繰返し加わる小外力により、後縦靭帯に退行変性が生じるものであり、一瞬の外力により発症するものではない。原告は、昭和六三年二月当時既に後縦靭帯骨化症を発症しており、後縦靭帯骨化症を伴う脊椎管狭窄は本件事故前後で変化は全くみられないのである。

(二)  同3(二)のうち、被告病院への通院の事実は認めるが、その余の事実は知らない。

(三)  同3(三)の事実は否認する。

原告が後遺障害であると主張する神経症状は、原告の既往症である高血圧やメニエール病に由来するか、あるいは、原告の特異な気質に由来する心因反応にすぎないのであって、本件事故との間に因果関係が存在しない。

原告は、昭和六三年二月一五日未明、便所に行った際、目の前が真っ暗になり、めまいで倒れそうになり、こめかみに激しい頭痛が走り、吐き気・耳鳴りがしたとの症状を訴えて、救急車で被告病院に搬送され、高血圧を指摘され、同年四月七日以降、被告病院の処方した降圧剤を使って血圧を下げる治療を開始したが、容易には治療効果が得られなかった。そのため、原告は、本件事故当時、降圧剤選別のため被告病院に入院していたのであり、本件事故後も平成二年二月八日まで高血圧の治療のため被告病院に通院していたが、やはり十分な治療効果が得られないままであって、原告主張の神経症状は高血圧による諸症状と概ね一致していると考えられる。

また、原告は、昭和六三年二月一六日以降、左耳奥の痛み、左耳の不快感を訴えて、被告病院耳鼻科に通院しており、メニエール病が疑われていたのであり、原告主張の神経症状は、左耳に関する限り本件事故前から存在したものである。

なお、仮に、原告が、本件事故によって頸椎捻挫の傷害を負ったとしても、その傷害は、頸椎に何らかの器質的障害が生じているとか一定の神経症状に関連付けられる他覚的所見があるというようなものではなく、頸椎付近の筋組織に損傷・断裂が生じたという程度のものであって、このような傷害は、通常は、六ないし八週間で搬痕となって治癒するのであり(後遺障害は残存しない。)、治療期間は三か月もあれば十分である。そして、万一原告に後遺障害と考えられるような神経症状が残存したとしても、それは、心因反応による外傷性神経症であるというほかないから、等級表一四級に該当するにすぎない。

4  同4のうち、本件椅子の構造が原告主張のとおりであること及び本件椅子が約七年半にわたり面会コーナーで使用されていたことは認め、その余の事実は知らない。

また、被告が、被告病院を運営するに際し、面会コーナーの椅子の安全性を管理する注意義務があることは認めるが、本件事故の際、被告に右注意義務が欠けていたことは争う。

5(一)  同5(一)の事実は否認する。

原告の症状の程度に照らせば、タクシーによる通院が必要であったとはいえない。

(二)  同5(二)の事実は否認する。

原告の被告病院整形外科への通院は、約一五日に一回の割合であって、原告主張の三年間、原告が全く就労することができなかったとすることはできないし、原告は、平成二年二月ころから、神戸大学医学部付属病院(以下「大学病院」という。)に、血圧の調整あるいは腎臓病の治療のため六〇日間入院しているのであって、原告が就労不能であったとすれば、本件事故による傷害が原因ではなく、他の疾患が原因であると考えられる。

(三)  同5(三)の事実は否認する。

原告は、平成五年四月中ごろから平成五年六月まで、大学病院に腎不全で入院し、それ以外にも腎不全あるいは心臓病で通院治療しており、平成五年六月ころから腎臓の透析を少なくとも週二回は行っているが、腎臓透析を行っているということは、原告には慢性腎不全が発症し、かつ、その腎臓機能が一〇分の一以下に低下していることを意味するのであって、原告の労働能力は、本件後遺障害の有無とは無関係にかなりの部分が失われている。

また、原告は本件事故後も一定の収入を得ているのみならず、その主張する年収の額も根拠が乏しく(原告の昭和六一年から六三年の平均年収は、三二〇万〇八六九円である。)、いずれにせよ、逸失利益に関する原告の主張は、あまりにも過大である。

(四)  同5(四)及び(五)の各事実は否認する。

第三  証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりである。

理由

第一  本件事故の発生及び被告の責任について

一  請求原因1の事実及び同2のうち本件椅子の構造が別紙略図のとおりであることは当事者間に争いはなく、甲一五号証、乙六号証、検甲五号証の一ないし八、証人高濱哲哉の証言、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  被告病院は、昭和五六年三月上旬、面会コーナー(入院患者が休んだり見舞客と面会したりする場所)に並べる椅子として、本件椅子及び同種の椅子を購入し、以後本件事故当時までの七年半にわたり、それら椅子の使用を続けていた。

2  原告は、昭和六三年一〇月二七日午後六時ころ、面会コーナーに設置されていた本件椅子に何気なく腰掛けたところ、本件椅子の座席部分を支える鉄パイプが突然枠からはずれて座席部分が床に落ちたため、仰向けのまま後ろ向きに床にひっくり返り、頸部付近や背中を床に打ち付けた。

二 以上のとおり、本件事故が発生したことは明らかであるところ、これが地方公共団体である被告の「公の営造物の設置又は管理に瑕疵」(国家賠償法二条一項)によって生じた事故かどうかという点について判断する。

本件椅子は、被告が設置する被告病院の施設の一部を構成するものであるから、これが右にいう「公の営造物」に該当することは明らかである。

次に、右にいう「設置又は管理に瑕疵」があるとは、当該営造物が通常有すべき安全性を欠いていることを意味するものと解すべきところ、原告が特に乱暴な座り方をしたわけでもないのに、本件椅子の座席部分が支えを失って落ちたのであり、本件椅子が面会コーナーという利用頻度が高い場所に七年半置かれていたことからすれば、本件事故当時、本件椅子の座席部分を支える鉄パイプのねじが緩んで外れやすい状態になっており、本件椅子は通常有すべき安全性を欠いていたというべきである。

三 したがって、被告は、国家賠償法二条一項に基づき、本件事故によって原告が受傷し損害を被ったとすれば、その損害を賠償する責任を負うことになる。

第二  原告の受傷及び治療経過等について

一  甲一、二ないし四、一三ないし一八、二二、二三、三〇号証、乙一、二、四、五、七、九ないし一一号証、検甲一号証の一・二、二号証の一ないし一四、三号証の一ないし一二、検乙一号証、二号証の一ないし四、三号証、四号証の一・二、五号証の一ないし七、六号証、七号証の一ないし三、八号証の一ないし四、九号証の一ないし九、一〇号証の一・二、一一号証の一・二、一二号証の一ないし四、一三号証の一ないし四、一四、一五、一七号証の各一ないし六、一八号証の一ないし五、一九号証の一ないし四、二〇号証の一・二、証人中島吉彦、同松平栄子、同田村清及び同富田勝郎の各証言、原告本人尋問の結果並びに鑑定の結果によれば、以下の事実が認められる。

1  原告は、昭和六〇年一一月二一日に受けた集団検診により、高血圧、動脈硬化に由来すると思われる自覚症状(胸の苦しみ、疲労感、耳鳴り)が顕著で、尿中蛋白が陽性であったことから二次検診が必要と判定され、同月二九日、被告病院で診察を受け、ここでも胸の痛みを訴え、心電図にも異常所見がみられたため、狭心症の可能性を疑われてニトロール二〇回分を処方されたものの、負荷心電図検査で異常所見がなかったことから、以後、慢性腎炎の疑いにより腎臓内科中島吉彦医師(以下「中島医師」という。)による通院での経過の観察が行われていたが、右症状が軽快しないばかりか、昭和六二年九月一七日以降、高血圧状態が持続するようになった。

原告は、昭和六三年二月一五日午前三時ころ、自宅において、めまいを起こし、目の前が真っ暗になって倒れそうになり、こめかみが締め付けられるような頭痛、吐き気、耳鳴りに襲われ、同日午前四時二〇分救急車で被告病院に搬送された。右の症状は、高血圧症に由来すると考えられたが、点滴によって一応鎮静化したため、原告は、同日午前六時ころ帰宅した。

2  原告は、右同日、五分ないし一〇分くらい持続する回転性のめまい、耳鳴り、震えの症状に悩まされ、翌一六日、被告病院神経内科及び耳鼻科の診察を受け、検査の結果左耳についてメニエール病の疑いがあるとされた。原告は、その後も被告病院に数回通院したが、この間、左耳奥の痛み、左耳の不快感等を訴え続けていた。

なお、メニエール病は、回転性のめまい、耳鳴り、難聴、吐き気などの神経症状をあらわす疾患である。また、高血圧症も、頭重感、頭痛、肩こり、のぼせなどの症状を発症することのある疾患である。

3  ところで、原告は、昭和六三年二月一六日、被告病院耳鼻科で検査を受けた際、頸椎のレントゲン撮影をしており、それによるとその当時既に後縦靭帯骨化症が潜行しており、脊椎、管狭窄がみられる状態にあった。

後縦靭帯骨化症とは、四〇歳代から五〇歳代以降において、脊椎骨後縁の後縦靭帯が徐々に骨化するものであり、多くの場合、加齢によって発症するが、特段の症状を誘発しない無症状のものが稀ではなく、原告の場合も全く無症状のものであった。

4  原告は、耳鼻科での治療が一段落した昭和六三年四月七日より、被告病院において、中島医師により、降圧剤を使って血圧を下げる治療を受けるようになり、種々の降圧剤が試されたが、いずれも気分不良、胸部重圧感、下痢、食欲不振等の副作用がひどかったため、最も適切な降圧剤を選別するため、昭和六三年一〇月二四日、被告病院に入院した。

5  原告は、本件事故後ほどなく、頭痛、耳鳴りを自覚し、昭和六三年一〇月二七日(本件事故当日)午後一〇時ころ、看護婦に対し、本件事故によると思われる頸部痛、耳鳴りを訴えたので、看護婦が、頸部に湿布をしたが(以降、湿布は何回か施された。)、原告の訴える症状は軽快するどころか重くなり、翌二八日午前二時三五分ころには、原告が「むかついて吐きそう、だんだん痛くなってきた」旨訴えたので、看護婦は、頸部を冷やすべく氷枕を使用した。

6  本件事故を知らされた中島医師は、事故の翌朝である昭和六三年一〇月二八日午前一〇時ころ、原告の様子を診たが、特段早急な対応を必要とする症状は認められず、原告も、その日の午前中は特段の症状を訴えていなかったところ、午後〇時四〇分ころ、「横になるとむかつくし、頭が少し痛い、めまいもする」などと訴えていた。

7  原告は、頭痛、左耳鳴り、吐き気を訴え、昭和六三年一〇月三一日、被告病院整形外科及び耳鼻科での診察・検査を受けたが、レントゲン検査によっても頸椎に骨折や骨のずれといった異常は何ら認められず、既往症の後縦靭帯骨化症にも変化はなく、耳鼻科でも、特段異常は認められなかった。また、翌一一月一日、頭部CT検査を受けたが、やはり既往の後縦靭帯骨化症以外には異常は認められなかった。

8  原告は、右諸検査をふまえた被告病院の医師による頸部に異常は認められないとの説明に納得せず、昭和六三年一一月二日及び同月四日、被告病院から外出して、吉田病院で診察を受け、被告病院の本件事故に関する対応を不満に思い、同月四日、被告病院を退院した。

原告は、本件事散後の入院中、毎日のように頭痛、頸部痛、左耳の耳鳴り等を訴える一方、昭和六三年一〇月三〇日の朝食と翌三一日の昼食以外の食事は全部食べていたし、右吉田病院への通院以外にも、同月二九日午前九時三〇分から一二時三〇分までの間及び同月三〇日午後三時から四時までの間外出し、同月三一日夜には外泊をしており、睡眠についても格別妨げられた様子もなかった。しかし、原告は、右退院後も、入院中と同様の神経症状を訴え、昭和六三年一一月六日及び七日に高橋病院に、同年一一月八日、九日、二一日、一二月五日、七日、九日、一二日、一四日、一五日、一七日の一〇日にわたり新須磨病院にそれぞれ通院加療している。

9  原告は、昭和六三年一二月一五日以降、概ね月二回程度の割合により(平成八年二月二一日まで一七五日)再び被告病院に通院しており、昭和六三年一二月二〇日には、後縦靭帯骨化症、頸椎捻挫及び腰椎捻挫と診断されたが、後縦靭帯については、上下肢の麻痺あるいは失禁などのこれに伴うことがあると考えられる症状は何ら発症していなかった。また、原告は、右通院の当初から、両手や頭が重い感じ、上肢のしびれ感、うつむいたときの悪寒、耳鳴り、左上肢・肩の疼痛、頸部・腰部・背部痛などの多様な神経症状を訴えていたが、後縦靭帯骨化症を基盤とし、これに急激な外力が加わった場合は往々にしてみられる脊髄傷害や神経根障害などは認められず、腱反射も正常で、病的反射もなく、四肢運動に異常もなく、他覚的に異常が認められるのは、左肩甲骨内縁下方に瘢痕(しこり)が存在するのみであった。

10  原告は、本訴提起後においても請求原因3(三)に記載のとおりの多様な神経症状(原告主張の後遺障害)に悩まされている旨訴えており、平成七年五月二四日には鑑定人富田勝郎医師(金沢大学医学部教授、以下「鑑定人」という。)の診察を受けたが、原告の訴える症状には、医学的に以下のような多くの疑問点があった。

(一) 原告は、頸椎の左右屈では症状は出ないのに、後屈・前屈あるいは斜め後屈・斜め前屈では船酔いのような状態になって物が二重に見え、気分が悪くなって、嘔吐しようとするが、このような連鎖反応は医学的に理解不可能である。

(二) 原告は、重い物を持つと症状が悪化するので重い物を持てないというが、これが本当であれば本件事故後鑑定時までの間に必ず認められるはずの腕や手の筋肉の萎縮が全く認められない。

(三) 原告は、手のしびれや震えを訴えるが、しびれの範囲を明確に指示できないうえ、震えというのも安静にするときにはなく、その症状には神経学的な合理性がない。

(四) 原告の訴える歩行障害については、脊髄傷害や神経障害による歩行障害とは全く異なっており、片足起立検査における原告の動作は、右足の場合には正常であり、左足の場合には片足起立ができず、無理に立たせようとすると足も手も小刻みにだんだん大きく震えるというものであり、この一連の挙動は不自然で、医学的には理解できず、意識的にでもやらないとできないものである。

(五) 原告は、肩甲骨内側の膨らみを押すと吐き気を催したように嘔吐動作に入るが、このような症状は医学的に理解不可能である。

11  頸椎捻挫は、頸部の組織が部分的な断裂による出血や腫れを起こしている状態であり、これが頸部の神経を刺激している場合には、受傷直後から吐き気を伴う頸部の不安定感、頭重感といった症状を引き起こしたり、受傷数日後から上肢痛・しびれ、頸部や肩の硬直感といった症状を引き起こすことが多く、この場合には数週間の頸部硬直と運動制限を経て、症状は回復し、大部分の症例は受傷後二、三か月後で再就労するのであり、その治療も頸部の安静・固定を保ち、投薬や湿布により患部の炎症を押さえるといった保存的なもので足りる。

ところが、頸椎捻挫が、頸部にある頸部交換神経節を刺激している場合には、自律神経失調をきたして多様な神経症状(例えば、めまい、耳鳴り、視聴覚障害、吐き気、動悸、発汗など)を引き起こすことがあり、それら自律神経傷害による症状(バレリュー症候群とも呼ばれる。)は長期間継続することが多い。

12  原告が鑑定人に訴えた症状のうち、頭痛、吐き気、耳鳴り、目がぼやけたり二日酔のようになる不快感というような自律神経症状、集中力・理解力の減退というような神経症様症状については、バレリュー症候群の症状と矛盾はしないが、その症状が発現する原因はそんなに判然とはしない。

原告の訴えたその余の症状はバレリュー症候群の症状として理解することはできない。

二  以上の事実が認められるところ、原告は、その本人尋問において、被告病院以外の医師から、頸椎の骨が壊れて神経を圧迫しており、非常に危険な状態であり、無理をしてはいけないと説明されたとか、被告病院の脳外科医から、七つある首の骨の真ん中の骨が約七割以上砕けていて非常に危険な状態であり、普通一般人の行動は全て制限して生活しなければならない旨、あるいは、整形外科医から脊髄が僅かしか残っていない旨説明されたなどと供述しているが、それら供述に係る医師の説明というものは、本件で提出された診療録(甲二ないし四、一三号証、乙一、二、四、五号証)のなかにその裏付けとなる記載を全く窺うことのできない極めて唐突なものであり、右供述は、原告を診察したことのある医師である証人中島吉彦、同田村清及び同富田勝郎の証言に照らしても、到底採用できない。そして、もし原告が、その経過は別としても、真実そのような誤った認識を形成して今日に至っているとすれば、それが本件事故による受傷の予後に影響を与えないはずがないというべきである。

また、原告は、その本人尋問において、右認定と異なり、本件事故直後の食事摂取の状況や外出の点について診療録(乙二号証)中の看護記録の記載と異なる供述をしているが、その供述も採用しがたい。

三  前記認定事実に照らして、本件事故による受傷の有無について検討すると、原告が本件事故で頸部や背中を床に打ちつけたとの事故態様とその直後から頭痛や頸部痛を訴えていること、さらには、原告が昭和六三年一二月の時点で頸椎捻挫・腰椎捻挫の診断名により被告病院整形外科で治療を受けていたことからすれば、原告は、本件事故により、頸椎捻挫及び腰椎捻挫の傷害を負ったものと推認することができるが、原告の後縦靭帯骨化症(それに伴う脊椎管狭窄)は、本件事故以前から存在していたものであって本件事故による傷害とはいえない。

四  ところで、前記認定事実によれば、原告が本件事故後悩まされ続け、かつ、後遺障害として残存している旨主張する多様な重篤な症状(請求原因3(三)のとおりの神経症状)は、原告が被告病院整形外科に通院を始めた昭和六三年一二月から鑑定人の診察を受けた平成七年五月までの約七年半の間、殆ど不変のまま推移し、あるいは症状によってはむしろ昂進しているものさえ窺われる状況にある。しかし、元来、頸椎捻挫それ自体は後遺障害を残す疾患ではなく、ほぼ二、三か月の保存療法を施すことにより治癒するのであり、現に、原告が鑑定人に訴えた諸症状はレントゲン検査をはじめとする諸検査によっても器質的損傷に基づくものではないし、神経学的にも他覚的所見に乏しく、いずれも原告の自覚症状を中心とする愁訴により構成されていて、しかも、その多くが頸椎捻挫ないしバレリュー症候群による症状としては、その内容、発現態様、期間をみても、その域を超えて医学的検証に堪えないものである。

そして、原告が、本件事故前から、高血圧症の持病やメニエール病を疑われたように、すでに、頭痛、耳鳴り、吐き気、めまいなど器質的病変を確定できない種々の神経症状を訴え、これに加えて、本件事故による器質的損傷の有無についてさえ、極めて特異な認識を有していることからすれば、前記のような多様な神経症状が本件事故による頸椎捻挫という外傷体験を契機として引き起こされたものとも断じ難く、結局、右諸症状と本件事故による受傷との間に相当因果関係を認めることはできない。

そこで検討すると、本件事故の態様が極めて強い衝撃を身体に与えるようなものではないと考えられることや原告の受傷には特段の他覚的所見もみられないことに照らせば、原告の受傷は、ごく通常の軽度の頸椎捻挫であった、すなわち、数週間の頸部硬直と運動制限を伴う神経症状が発症したが、その後軽快し、その間患部の安静を図ったり湿布をするという保存的治療が必要な程度のものであって、少なくとも二、三か月内に回復したものと推認するのが相当である。

第三  損害について

一  通院交通費について

前記認定の原告の受傷の程度に照らせば、原告がタクシーを使わなければ通院できなかったとは到底言えないから、原告主張の通院交通費については、これを損害として認定するための前提事実を欠くというべきである。

二  休業損害について

甲一〇号証の一・二、一五号証及び証人松平栄子の証言、原告本人尋問の結果によれば、原告は、本件事故当時、従業員一〇名内外を雇用して鉄工業を営み、また、従業員一名を雇用して不動産業をも経営していたが、このうち、不動産業は宅地建物取引主任の免許を有する妻栄子が事実上の経営主体で、原告が実際に従事していたのは鉄工業のみであったこと、そして、昭和六三年一月から本件事故時である同年一〇月までの原告の収入は一七〇万三一八三円(月額平均一七万円、一〇〇〇円未満切捨て)であったことが認められる。

そして、原告の本件事故による受傷の程度、態様、これに一般に頸椎捻挫を受傷した場合にたどる予後を勘案するとき、原告は、少なくとも、本件事故時から二か月は就労するのが困難であったと推認でき、かかる限度で本件事故との相当因果関係を是認できるが、仮に、原告が右を超える主張の期間就労できなかったとしても、本件事故との相当因果関係を認めることはできない。

そうとすれば、原告が本件事故により被った休業損害は、当時の月額収入一七万円の二か月分である三四万円と認められる。

三  逸失利益について

原告主張の後遺障害が認められないことは前記のとおりであって、逸失利益に関する原告の主張は理由がない。

四  慰謝料について

前記のとおり、原告は本件事故により受傷したから、これによって一定の肉体的・精神的苦痛を被ったと認められるところ、その傷害の程度その他本件にあらわれた一切の事情を考慮すると、原告の苦痛を慰謝するための慰謝料の額としては金二〇万円が相当である。

五  弁護士費用について

弁論の全趣旨によれば、原告は、本件事故による損害賠償を求めるため、原告訴訟代理人に本訴の提起及び追行を委任し、報酬の支払を約したと認められるところ、本件事故と相当因果関係に立つ弁護士費用の額は六万円と認めるのが相当である。

第四  結論

以上のとおりであるから、原告の本訴請求は、主文1項の限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行宣言については同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官渡邉安一 裁判官橋詰均 裁判官山城司)

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